家康サンカ説・八切史学概説・信長考・真書太閤記考、その他

最近、読者からの質問が増えてきました。八切説の出典は何かと聞かれます。勿論、先生は膨大な史資料を読破して、考えて
考えて書いております。「家康は世良田徳川の出身だった」には、出典が明記されておりますが、ここでは家康関係の史料について少し紹介します。
尾張徳川家書物奉行が、代々受書を出して、名古屋城幅下三の丸の書庫で厳重保管されていた、門外不出の
『源神史巻・重代記』と、この中の『章善院目録』を見せて貰い、家康が二人いたという事が判ったと書かれております。又、村岡素一郎の『史疑徳川家康』も参考にはしたが、これは労作ではあるが『後三河風土記』よりの引用が多すぎる。ともあります。
これは贗本ですから史料ではありません。興味のある方は「家康は世良田徳川の出身だった」(日本シェル出版)を是非読んで理解を深めて頂きたいと切望します。以下に会議室の発言を紹介しますが、一部重複と、順不同をご容赦願いたい。

                                                                【共通史観・大前論の疑問】

大前研一通信、VOL28のアジア連邦の世紀にみる、日本がアジアで成功する10の法則の内、第9の法則に<アジア各国と歴史の教科書を共同で作る>とあります。会員の方は既読のこととして、ここでは重複を避けますが、私も基本的に大前説に大賛成です。

実は他の会議室でも議論になって、私は一衣帯水の距離の韓国との「両国の歴史の検証をせよ。その場合は日本側のメンバーは東大を頂点とするアカデミックな学者は外す事」を提唱しました。

何故なら「記紀」を金科玉条として、足利史観、徳川史観、皇国史観を拠り所としている現状の官学の彼らからは、正しい民族の歴史認識は生まれよう筈がないからであると。従って、大前説を実行するには「日本史の再構築」が必要で、それを持ってアジアの国々と、自国に都合の悪い部分をもさらけ出して、すり合わせる事が重要だと思う。新しい史観で、
”過去を隠さず、過去の怨念は捨て、過去を宥恕出来れば”可能であろう。

私が危惧するのは、”新史観の確立”など現状の日本ではとても無理で、教育改革、大学改革も含めた部分的改革より、平成維新成就後、「日本が良い国」になった暁に在野の識者を広く募り一気に断行した方が、近道ではなかろうか。
現状の史観をもってアジア諸国と討議しても、大前さんが言うように、一行も合意されない事になって、取るか取られるかの緊張関係に向かってしまう。これは、日本にとっては決して得策ではないと思うのだが。

さて、それでは現状の「史観」に代わる新史観を構築するための手がかりは在るのだろうか。実は以下に紹介するが「八切史観」がまさに確立されて、存在しているのである。ただ日本の歴史学会が認めないで、無視しているだけである。

四百年以上も前にデカルトは言いました。「学ぶと言うことは疑義をもってそれを解く技術である。一切の先入観を棄て全てを疑い、そこに自己の存在を不可疑として確立。我れ思考し我れ疑うゆえに我れ在り」と、形而上学の課題を提起しました。

                                                                   (八切史学概説)

八切説では、中国大陸よりの藤原氏が律令体制による日本全国統一がなされるまでの日本列島には、少なくとも八っの王朝が存在したと説きます。

1)奈良王朝===大和、河内
2)吉備王朝===中国系の(華夏)で岡山
3)白山王朝===裏日本北陸
4)東日流王朝==東北津軽
5)蘇我王朝===神奈川、曽我
6)淡海王朝===琵琶湖から中部地方にかけて
7)富士王朝===富士山の麓
8)阿蘇王朝
  隼人王朝===九州


【注】王朝といっても、大きな部落で、この部族の長が統治していて、人口は数万と思われる。そしてこれらは、さして争いもなく、日本列島に棲み分け、していたのである。

そしていわゆる大化改新の前は、この中で、蘇我王朝と白山王朝(いずれも新羅系の騎馬民族)が提携して主導権を握っていた。
だから、大化改新なるものは、百済系の奈良王朝(中大兄皇子)と中国系の吉備王朝(藤原鎌足)が連合して、蘇我(白山連合)の実権を打倒したクーデターということになる。
次に、白村江の戦いで、唐、新羅連合軍が、百済、日本連合軍(但し、ここに日本というのは誤解を招く。実質的にそれは百済系の日本内分国、植民地としての奈良王朝ということである。奈良王朝は母国百済存亡の危機にみまわれ、総力を挙げて母国救援の軍を出した)を壊滅させた後、いよいよ唐が日本占領に乗り込んで来るのであるが、唐の占領政策は、日本列島内で主導権争いを続けていた高句麗系、新羅系、百済系の対立抗争を巧く利用する。

即ち、百済系を重用し、これを主たる代理人として、日本の全国統一権力体系を作ること。それゆえ百済系をして、高句麗系、新羅系、古代海人族を駆逐させること。この辺の八切史観はきわめて示唆的である。

こうして唐の占領軍は日本原住民の大叛乱の抵抗に対して、百済系を手先として全国統一の律令体制を確立し、その支配のイデオロギーとして、彼らの仏教を利用する。七世紀末から八世紀初頭にかけての、三、四十年を準備期間として、日本はこのように一変したのだが、それから千二百年の間、現在に至るまで、天皇を頂点とする、この律令体制の大枠は維持されている。
そして文部省の学校歴史とされている。

八切説は、日本史を天武天皇以前と以後に大きく二分するのだが「日本奴隷史」を書いた阿部弘蔵氏も、八切説と根本的には一致している。この律令体制に於いて、貴族と賤民が区別される訳だが、ここにいう貴族の正体とは唐占領軍の幹部連中、百済の亡命王族、貴族のことを意味し、律令制の位階制では、五位以上が宮中に入れ、貴族としての身分と、経済的特権が保障されている。

賤民とは、江戸期の大名でも従五位下であり、彼ら貴族以外の全ての日本列島の原住民を指すのだが、その種類として

○日本列島に最も早く移住してきた西南系海人族(これが縄文時代、及びそれ
以前からの日本原住民である)
これは後に七福神信仰でまとまっていく。

○弥生時代になって、大陸、朝鮮からやって来た侵略者の為、マレーシア、雲南
方面からの水田稲作農耕の奴隷、農奴とされた人々。
これを八切説では古代海人系という。

○弥生時代に大陸の影響のもとで日本列島に始原の国家が出来てゆくが、これを
天の朝と名付ける。この天の朝は、古墳時代に朝鮮からやってきた騎馬民族
武内宿弥のために滅ぼされた。しかし、天の朝の残党は
日本各地に生き続けて、現代も多くいる。

○古墳時代の権力は朝鮮半島の三国、高句麗、百済、新羅の分国(植民地出先権力)
に他ならないが、律令体制下では百済系が唐系の権力に組み込まれ
高句麗系、新羅系は権力の座から追放され、蕃族として圧迫され、迫害
された。

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以上大別して、四つの種類の民族が賤民とされたわけである。つまり、庶子の民とされる現代我々が使う「我々庶民の生活は苦しい」等と使う庶民であり、平民とされた。その後の千二百年はこれら四種の賤民たちの下克上の時代と云いうるのであるがその中でも

イ)文治革命(西南系海人族の伊豆の北条氏と新羅、高句麗系騎馬民族で
  頼朝に代表される源氏の同盟によって、律令体制に挑戦して、鎌倉に
  幕府を立てる。しかし、北条政子は夫である頼朝を殺し、その子たちも 
  殺し、頼朝の血脈を断つ。ついで源氏の主立った者たち、三浦、梶原など
  も殺す。その為、生き残った源氏の残党は各地に分散し、隠れ住む。
  結局、源氏は政子に利用され、使い捨てにされた)

ロ)信長による革命(織田は平氏を名乗っているように、古代海人族の系統で
  信長は日本各地の同族達の解放を目指しただけで、日本全土の征服まで
  考えていなかったと思われる)

ハ)幕末維新革命(当初、これは神祇による、仏教打倒の革命として始まったが
  つまり、源氏と平氏の大同団結で革命が成就しかかったが、隼人族の末裔
  である、薩摩や長州のため失敗する。
この三つが特記される。

明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米の資本主義制度を設営し、国益尊重を第一としたものである。それゆえ、現代の日本的資本主義の変革は、欧米系制度のみを目標にする訳にはゆかない。

その下にある律令制の土台、即ち官僚制をひっくり返さなければならない。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての記紀に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、日本原住民の真実の歴史を
明らかにしてゆくことである。八切史学は、その為の口火を日本で始めて切ったわけである。
戦国時代から切り込み、そこから上代に遡り、現代にまで下がった。これが八切史観の概説なのである。

だから私の批判の矛先はアカデミイズムに胡座をかき、記紀を金科玉条としている歴史学会にどうしても向けざるを得ない。

以前、和歌森太郎、梅原猛、八切止夫の三氏で週間読売で座談会がありました。その時和歌森氏が梅原氏をつかまえて「俺はリースの直系の孫弟子にあたるぞ」と言ったら、梅原氏が畳に手を突いて最敬礼したといいます。

ルドウイッヒ・リースは日本の学校歴史を作った最高権威者で、その直系門下は虎の威をかる狐なのです。八切氏は面前なので冗談かおふざけかと思ったら、「いや、愕くなかれ二人とも真面目で本気なんです。故和歌森太郎が言いたかったのはリースの直系だと毛並みと言うか、その誇りなんですね。リースの直系の弟子というのが小川銀次郎、それから三上参次、その教え子が直系の弟子なんです。そして又その教え子の和歌森太郎はその孫弟子になる。サラブレットの血統書なみ・・・」と言っています。

医学界も白い巨塔ですが、こんな徒弟制度では、師と全く違う新説など出しようがないでしょう。
だから私学や民間の研究者の方が大胆な仮説をどんどん出していますが、反論もできずこれらは無視です。
そして重箱の隅を突っつくようなことばかりやっているのが現状である。

何しろ師は就職や昇進、儲けの大きい教科書編修員の斡旋など、強大な権力を握っているので、たいがいの人間はナエてしまいます。何と言っても”生きる”ということは大変ですから。
大学全般に言われていることですが、制度改革が急務です。余談ですが、先日、官学理系の助教授と話していたら
「○○さん、大学は解体ししなければダメです」と過激な発言です。「君たちが内部改革できないのか」と聞けば「やりたいが、やればクビが飛んで食えなくなる、それに危機意識なんか無い奴が多い」と言います。

現在、大前さんが提唱しているように、日本的システムの世界化が急務ですが、前記したように、21世紀を見据えた、大学改革も
含めたゼロベースでの大改革が必要です。中でも教育、特に世界史に合わせた日本史の見直しが大切です。
前半が神話で後半が歴史だという記紀が根本史料では日本史は霧の彼方です。

さて、あらゆる史書は政治的です。が、その内容は同質ではありません。何を以って史書となすべきかと言えば、日本側はさんざん改竄、偽造したけれど巧く偽造しきれなかった文書、即ち国家的な偽造でない<上記><宮下文書><秀真伝>等に史料価値があります。拙劣な偽造と言う意味では<旧事紀大成経>や<東日流三郡誌>もあります。

朝鮮側では形式化しすぎた嫌いはあるけれど<桓壇古記>系の一連の史書が在ります。その他<契丹文書>も在ります。
これらを総合すれば日本史の復元は可能です。しかしこれをやっても儲からないから誰もやりません。民間の鹿島昇氏、佐治芳彦氏、八切止夫氏ら極少数です以前飛鳥を発掘した時、大化改新のクーデターの舞台の板葺宮の跡が出てきました。
「古事記」「日本書紀」では火事で焼けたと在りますが、全くやけた形跡が無い。大化改新の舞台は板葺宮ではなく、浄御原宮ではなかったかという、誠にあやふやな話しがあります。

天皇陵の発掘をすれば、日本史の謎の部分が解明されるのだが、宮内庁は絶対に許可しない。
よく大和朝廷、と言いますが、この当時まさに日本に強大な独立国家が在ったような印象ですが、まだ大和だけの勢力で、色々な王朝があって群雄割拠であった。
それが遣隋使を送ったということは、大陸から攻められないため貢物を送り各王朝が臣従していたということです。

日本に対して決定的に大陸勢力が強くなるのは西暦663年以降で、唐の時代からです。遣隋使は朝鮮の王朝も送っていますし、岡山以西の各王朝も送っていたと考えられます。贈り物の多少によって、どちらの方が勢力が在るらしいとか、向こうから判定されて、金印や鉄剣を貰っていたと思われます。これが倭の五王と称する讃、珍、済、武までなのです。

【引用参考文献】
八切止夫著「天の日本古代史研究」「日本古代史」「サンカの歴史」
     「野史辞典」「庶民日本史辞典」 
九鬼文書・竹内文書・宮下文書・ウエツフミ・ホマツツタエ・ミカサキ・
物部四書・契丹日本史・桓檀古記・三国史記・三国遺事・隋書・史記・
高句麗国本記・魏書・唐書・遼史・金史・宋史・東日流外三郡誌・記紀・その他

                                                 ☆☆☆☆八切史学の入門書☆☆☆☆

「八切史観」は始めから完成されていたものではありません。氏が48年間かけ、次々と考究して完成させたものです。
従って、従来の通説歴史とは全然相異するもので、類書等は他に存在しません。おそらく日本開闢以来の史観です。

三百数十冊の著書があり、考証物から、読みやすくと配慮したエンターティメントの物も在ります。しかし、どの著書も史、資料を集め
埋もれていた史料を発掘し、全国に延べ三百人もの人間を派遣し、土地の古老などの聞き取りもしたものです。

「点と線と言うが、点を見つけ、漢字の当て字にとらわれず、常識をもって納得がいくまで感を働かせ、理詰めで、何故に、何の目的で、誰が書いて誤魔化しているのかと、裏読みしていくのが八切史観、八切史学にかけ、考えに考えることが、私の全てであった」
と、氏は言っております。

だから、膨大な数の著作の中の一冊や二冊を読んでも、理解は無理です。真実の歴史を知りたい人のため、お節介かも知れませんが、読む順番を記して置きます。

(1)天の古代史研究      (1)八切裏がえ史
(2)日本古代史入門      (2)続・八切日本列島原住民史
(3)野史辞典 廉価版     (3)忍術論考
(4)庶民史辞典          (4)八切日本外史
(5)不可思議な国ジャポネ   (5)隠匿の日本史
(6)日本人の血脈        (6)特殊部落発生史 
(7)同和地域被差別の歴史  (7)武家意外史
(8)八切史観補遺        (8)幕末の群像
(9)サンカ生活体験記     (9)女達の動乱史   

以上の物を読んでから「サンカの歴史」を読めば、文部省学校歴史や通説、俗説がいかに出鱈目か良く理解できます。

以下も読者の質問への回答形式
○○さん今日は。ご返事遅くなり済みません。
>この資料は公開されているのでしょうか?また、いわゆる歴史家との討論は
>なぜなされていないのでしょうか?不思議な気がします。

八切先生は亡くなる二年ほど前、ご自分の史資料をフアンに限定販売や無料贈呈しました。明治三十七年、名古屋市役所編纂の「名古屋史要」は古書価格で百三十万。現在残存一部といわれる、小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本の明治刊の内田弥八著「義経再興記」や、本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本、赤穂義人纂書、1、2、3、巻、幕末確定史資料大成、
徳川合戦史資料集大成、日本歴史史料集大成明治史学会雑誌などなど。これらは古書相場十万から八十万です。

先生は三十年間に約二億円位かけて、二万点余の史資料を集めています。嫌みったらしく値段を書いたのには訳が在ります。
史資料は、真実探求の飽くなき情熱があり、足を使い、金を惜しまなければある、と言うことを、いいたかったのです。
勿論、活字本になっているものも沢山在ります。現物でなくとも写本だってまだまだ在ります。

東大歴史編纂所には、豊富な史資料が在るので、研究する気が在れば出来るのです。しかし現在のような、記紀金科玉条主義、足利史観、徳川史観、皇国史観その儘の学会からでは無理でしょう。むしろ、唯物史観の連中の方がよく勉強しています。
だから八切史観にも反論出来ず無視を決め込んでいます。日本はまさに巨大な”偽史シンジケート”が牛耳っているのです。

○家康、元康入れ替わり説について、謎の徳川家康の続編として紹介します。
#1919、#1979にも記してあり、一部重複しますが。

次郎三郎は今川義元が上洛するにあたって、三河の当主松平元康の子、竹千代を誘惑した。というのは、今川の先駆けとしての元康が討ち死にでもすれば、三河の当主の跡継ぎを次郎らが押さえておけば、三河一国は握れるだろう、という深謀からである。

だから狐が崎の人質屋敷から、大久保、板倉、酒井らと共に竹千代をさらった。さて、この時の事。
次郎は大河内源三郎の妻である乳母の協力のもとに、竹千代を誘拐して、慈悲尾の増善寺へひとまず逃げ込んで、ここに暫く隠れていたいた後、その寺の等善坊の助けで小舟を借り、寺男の瀬平が葛籠に竹千代を匿し、共に石田湊に出て、鍛冶屋の娘おあい(後の西郷の局、秀忠の母)のいる、掛塚へ戻った。次郎が家康となって天下平定後、等善坊はこの時の手柄で遠州可睡斎という拝み堂を新築して貰い、土地では「恩禄を得た有徳な修験者」として評判だった。寺男瀬平も、神君より召し出されて、「味知」という姓を道案内の故事からとって安倍川の西の持舟山一帯の朱印状を貰った。「神君御難の時背負いまいらせた名誉の者の家柄」ということで、この子孫は
幕末まで連綿として続き、苗字帯刀だったと「駿府志」にある。

しかしこれは運の良い方の話しである。酷い目にあったのは、誰が松平の世継ぎを奪って逃げたか直ぐ判ったから、乳母の大河内源三郎の妻や、次郎の祖母源応尼がそれぞれ捕らえられ殺された。桶狭間合戦は永禄三年五月十九日だが、その当時のことゆえ狐が崎の刑場で殺された源応尼の屍は部落の者に分けられ、内蔵や脳味噌がそこの唐人薬屋へ渡されたのは、華陽院の墓碑名によれば「永禄三年五月六日」となっている。

つまり桶狭間合戦の十三日前に源応尼が処刑されたのだから、次郎が松平竹千代を奪取したのは四月ということになる。そして、
「松平啓運録」に「狐が崎の知恩院に尼を葬り奉りのち、慶長十四年にこれを移す」とある静岡の玉桂山華陽院府中寺の寺宝になっている徳川家康自署という掛額がこの間の事情を裏書きしている。ここに原文のまま一部引用する。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
是斯梵刹也者、祖母源応尼公之旧地也、初今川義元、略東海之諸州、居府城之時、
為厳父君遠出三州而質於府下寓居於禅尼之家、禅尼慈愛之、頗紹干所生而受恩
於尼公、従幼至志学之後、「既始発義軍於浜松、而征数州禅尼思之痛矣、
干時永禄三庚申夏五月、聞訃轅門不堪哀慕之情然如之何、使人送葬干此然是行
戎役未息墳墓唯為封而己、

(旧漢字が多く、辞書から出てこないため後略します)

龕  慶長十四年春三月
                   大將軍 翁  印
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
さて、この中で問題になるのは「自分は遠州浜松で義軍をあげ数州を征した」の箇所で、少しも三河岡崎でとは書いていないことと、直ぐそれに続いて、「禅尼(源応尼)がこのことで思い痛め心配した」という一句である。家康が武門の出身なら、岡崎でなく浜松であったとしても、旗揚げしたなら、「こりゃめでたい」と賞めるべきであって、祖母の源応尼が心配するというのは変である。つまり徳川家康の出身が、祖先は新田義貞であったにせよ、この祖母の頃はぜんぜん武門の家柄でなかった証拠であろう。
つまり「とんでもないことを次郎はしおって、おかみに逆らうようなことをして、申し訳もないことになったわい」と源応尼は案じていたことが、これでも良く判る。

さて、轅門、というのは陣中のことだから、この文面では、「永禄三年の五月に源応尼が亡くなったのを聞き、自分は悲しんだが、陣中にいたので如何することもできず、そこで秘かに人をやって葬らせた。が、後も戦が続き仮埋葬のままだったが、いまや自分は征夷大將軍となって天下の兵馬の権を握ったから、五十回忌にあたってここにまつる」となっている。
しかし、今日の俗説では、「今川の人質となって行く途中を奪われ、松平竹千代は尾張の織田家へやられたが天文十八年十一月、今川義元と織田信秀が三河の安祥で戦った際、人質にとられた信秀の長子と交換で竹千代は今川へやられた。この竹千代が成人して、やがて松平蔵人元康となって、義元の死後岡崎城を回復し、やがて徳川家康となる」となっている。
どちらが真実かは読者の判断に待つよりない。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
竹千代というのは代々世襲の幼名だったから「松平蔵人の幼名が竹千代」であっても差し支えないが、尾張へ行っていた竹千代が、その蔵人だったと思えない証拠が現存している。

天文十八年というと、信長十六歳、その時の竹千代は八歳になる勘定だが、「寛政二年戌四月加藤忠三郎書出し書」という、尾州候へ提出の文書があって、その中に、
「てまえ先祖加藤隼人佐妻よめが、竹千代をお守りした時に作って差し上げた雛人形二対及び賜った桐の御紋の盃を、今に到るも家蔵している」というのが今も「尾州藩史料」に入っている。しかし、女児ではあるまいし、八歳の腕白坊主に、お雛様を作ってやって遊ばせたというのはどうであろうか?と疑問が生じる。
俗説の家康がこれでは八歳で変てこでだが、もしこれを、松平蔵人の跡目の竹千代。つまり、後の岡崎三郎信康、と見れば、彼なら世良田次郎三郎や酒井浄賢が盗みだしてきた時は、まだ二歳だから、これならお雛様でも遊ばせられたはずである。
又、その幼児が後の徳川家康ならば、上州新田郡世良田村は別名「葵村」と呼ばれるように葵が多く茂り、徳川は「葵紋」を採用したが、松平の方は、代々ずっと桐紋しか用いていない。
だから文中の盃の紋からしても、預けられた子は俗説の家康ではなく、松平元康の子の信康であることは間違いないであろう。

この後竹千代は田原城の戸田弾正に奪われ、信長の許で育てられる。そして奇妙丸(信忠)、信雄、信孝、五徳姫、と信康の五人を信長は可愛がる。五徳と言う名の由来は、火鉢の中へ入れる鉄製の金具で、五本足でしっかり支えて上に薬缶をのせるものである。

つまり、五徳を岡崎三郎信康と一緒にさせようと信長は思っていたらしい。この「信康」という名乗りも、信長の父信秀の異母弟で、織田与二郎信康という織田家隆盛には一方ならぬ骨折りをして、討ち死にした柱石の叔父の名からとって「岡崎三郎も、その信康にあやかって織田家に尽せ」と信長が命名したものである。

だが通説では、信長は成人した信康の武辺や武功目覚ましく(これでは己が倅共より立ち優って行く末とても剣呑である)と、手なずけるため五徳を嫁にやって、隙を見て信康を亡き者にしようと謀っていたところ、我儘者の五徳がざん訴してきたのを勿怪の幸いに、事実無根を百も承知でこの好機逃すべからずと、直ちに家康に処分を命じた。家康は我が子可愛さに信長に対し嘆願したが許されず、
泣く泣く最愛の我が子の信康を殺し、その連類者の築山殿までも、信長殿の言い付けには違背出来ぬと、泪を呑んで腹心の野中三五郎らに斬殺させた。

だが、信康を入れて五人で仲良く力を合わせるために折角”五徳”と己が姫に名づけ、それを嫁にやるくらいなら、三郎信康が目ざましく成長し天晴れな武者ぶりを見せてきたらなら、これは信長には願ってもない喜ばしいことであって、それを嫉妬したり、自分の倅共の行末に邪魔になる、取り除いてしまえと、策を弄して家康に命じて処分するのは話しとして筋が通らない憾みがある。
信康が武者ぶり優れ、衆望を担ってきて、それで迷惑するのは信長ではなく、三河を横領出来なくなる家康その人なのである。

これまで徳川家康が尾張へ人質となっていた、という説の傍証として扱われているものは、「この時、尾張の者にて高野籐蔵といえる者あり。君御幼少にて知らぬ境にさすらい給い、見も馴れ給わぬ田夫野人の中におわすを劬り、朝夕様々にいとおしみ、小鳥など参らせ慰め奉りければ、神君家康公のち御成人ありて後に、この籐蔵をば三河へ招き召し出され知行を給り昵懇せしめられしとぞ」
という「参河後風土記」の中の一節に拠っている。

そして現代でも歴史家の中にはこの書物を「良質の史料」と誤認している人が多いが、これはすでに江戸中期において建部賢明がその<大系図評判遮中抄>という著書の中で「大系図三十巻というのを作ったのは、江州の百姓沢田源内を主犯とする系図屋共の贋作であって、彼らは依頼に応じて次々と贋物の系図を作りあげたばかりでなく、その他の偽本類つまり今の「中古国家治乱記」「異本難波戦記」「参河後風土記」といった、さも尤もらしいデッチあげの贋本をこの他にも十余点あまり、やはり依頼主の先祖の名を書き加えるために、これを写本として出している」とその署名の一覧表を揚げて、「これを誤って史料扱いするような愚は、慎んで絶対に避けねばならぬ」
と、既に元禄時代にこれを注意している。

つまり「参河後風土記」というのは、史料のように見せかけているが、真っ赤な偽物であると証明が三百年以上前に出されている。
だから知らずに間違えて引用するのは、これは不勉強である。信じられる史料は前記した「加藤忠三郎申上書」なのである。
                                   【織田信長像】 


信長の出自で、諸説は色々在るが故菊池山哉の研究に「アマの国は淡海の国か」とある。天の王朝のことで、この王朝の民は尾張むらじの系図の中に隠しこまれていて、判然としないが、判りやすく言えば近江八田別所に隔離されていた一族が、越前、加賀の仏教勢力である一向宗の勢力から逃れて尾張へ行き、織田家に仕え勝幡城の城番となったのである。

そして織田の姓を貰った旧姓八田信秀の子が織田信長なのである。そして信長が美濃を入手するや伊勢を占領し、やがて近江に入り琵琶湖畔の弁天崖に七層の安土城を建てて君臨したのも、彼だけの武勇知略ではない。

<天下布武>では尾張、伊勢に多い「八」の民が、天の王朝復活のために彼に協力し、世直しをして欲しさに米穀の在る者は出し、男は皆武器をとって、信長に従って進撃したものらしい。

「・・・又も負けたか三師団」といった言葉が戦時中あった。これは東北健児や九州の師団と比べ、京都と名古屋の兵は弱いのが有名で評判にされたのである。「名古屋商法」といわれる程、銭儲けにはたけているが、戦場で勇ましい話しはあまり伝わっていない。つまり接近戦の苦手な尾張兵のため、信長は鉄砲が喉から手が出る程欲しかったのである。だから、大国ロシアと戦うには奇襲戦法しかないと、明治軍部が桶狭間合戦、をおおいに宣伝したが、この時ついていったのは山口飛騨守、佐脇籐八、らの四人の近習者だけにすぎない。大勝利の筈の桶狭間合戦なのだから、その時の近習達を重用するのが普通だが、信長は棄て殺しにしようとしたため、彼らは家康の許へ身を寄せ匿って貰っている。(こうした彼らの謎の行動に歴史家は何故目を向けないのだろう)

という事は、三万五千からの大軍を率いて上洛せねばならぬ立場の今川義元がなにも近くの尾張で戦うならば、前もって掃討していた筈である。だから実際は信長は既にもう降参していて、尾張領内は無事通過の保証がされていたと見るのが常識である。なのに俄かの大雨で、信長が畏怖していた今川本陣の火縄銃が濡れ、全く唯の棒っきれになっている田楽狭間の光景を見て、信長は心変わりして、ぞろぞろついてきた野次馬や一旗組を指揮して本陣目がけ逆襲したのが真相らしい。これは戦などというものではなく”裏切り行為”である。だから家康は裏切りの生き証人として万一の際に備えて彼らを匿っていた。
だからその為、高天神城が攻められた時は信長は援軍を一兵も送っていない。だが三方が原合戦の時は、家康は彼ら生き証人を最前線に出して棄て殺しにしてから、信長に救援を乞うたのである。互いに虚々実々の駆け引きである。

さて分捕った五百挺の銃を持ち帰り、ねねの兄の木下雅楽助を鉄砲奉行にして、永禄三年から、毎年夏になると美濃へ日帰り進攻をくり返した。が、新兵器を持たせても尾張兵は弱い。毎年連戦連敗。みかねた信長の妻の奇蝶が、まむしの道三と呼ばれた斉藤道三の娘ゆえ、買収戦術に切り替え、美濃三人衆の安東伊賀、稲葉一鉄らを抱き込んでようやく永禄七年に美濃、井之口城を占領した。

岐阜城と名を改めて大増築工事中の永禄十年に、斉藤龍興が、服部右之亮らを先手として一向宗の力を借り舟をかり集めて長良川から攻めこんできたのを、本城は改築中ゆえ今の洲股大橋の処の中州に砦を作って、木下籐吉郎が防いだだけの話しである。ここは以前にも墨俣砦として記してある。

こんな事も歴史屋さん達は判らなく、講談の儘なのが現状である。明治に入って学士会を押さえる華族会会長の徳川公爵が青山堂から「松平記」を刊行して、家康は非人の出身だった、と暴露した「史疑徳川家康」を書いた村岡素一郎の刊行本に対抗させると、東大史学会は徳川家の「松平記」の方を創作と知りつつ確定史料と認定した。その中に斉藤龍興の美濃合戦が狂歌として入っているので、岐阜城陥落は永禄十年が学説とされている。

余談になるが、那古野と呼ばれていた時代から奴隷扱いされていたので、尾張兵は弱かったと想われる。それが調略とはいえ、伊勢を押さえ近江まで進出出来たのも天の王朝復活のため、八の民が進んで協力したからである。

播州赤穂の森城主が今で言えば体育のため、木刀の指南を召し抱えたというのが、今で言う治安維持法の叛乱予備罪容疑とされ、城地を没収され妻の里方へ身柄お預けになった。その後へ浅野内匠頭の祖父が上州から転封されたきた。
この時に「塩尻」と呼ばれる製塩奴隷として那古野者が、強制移住させられたことがある。関西へ行けば非人扱いで苛められるからと、連行中に脱そうを企てた連中は漁食人種なのに山国の信州の囲い地へ送り込まれてしまった。

此処が今では「塩尻峠」の地名で残っていてトラック便の中継地点になっている。つまり天の王朝の民は名古屋を中心に伊勢の荒神山から三重の桑名に近い矢田河原まて住まわされていたので、愛知県海部字市江町が、かっての邪馬台国ではなかったかとの異説をたてる者もあるくらいである。

現代でも名古屋市が市章に○に八を入れているのも、かって弱かった尾張兵がこの紙旗で進軍していたせいである。
彼ら旧平氏の祇を信仰する者には、同堂、つまり同じ宗教の者とは戦わぬとされる厳しい戒律があった。神社とか神宮はネギというのを、彼らの拝み堂で、博士、とか小太夫と呼ぶ。元締めは太夫とか長吏と呼ぶ。

一方騎馬民族では、部落の元締めは弾正とか弾左エ門という。だから信長は鉄砲隊を全面に押したてて、尾張から美濃、伊勢、近江と進軍して、三河以東の騎馬民族の末裔たちが頑張る土地は家康に委せたのも、それなりの訳があったのである。
どうも信長は、日本全土制覇といった野望は無く、同宗の圧迫されていた地域解放だけを目指していたようである。

というのは、秀吉の代になると「何処方面を討伐せよ」と、武将達に軍資金を渡していたが、信長はもともとアマの民の物を取り戻すだけだからというのか、金は出してやっていない。何しろ永禄六年に商売はハチの者に限ると布令を出している。
つまり物の売買は「八」と呼ばれる同族に限ったで、清洲を税金無しの楽市にしたり、当時は課税のため設置されていた関所の徹廃もしてのけた。「八」はヤとも発音するゆえ、これが尾張屋、近江屋、松阪屋といったヤ号となって現在も残っている。また、蜂屋頼隆らを使わし、勝手に商売をしている地区からヤ銭を徴収させ、それを軍費に充当させていたのである。まあ、やらずぶったくりの合理的戦法である。
【紹介者・補記】
永禄十一年信長は堺衆に対して「矢銭二万貫の割当て」と日本史に在る。従来この矢銭の解明が出来ず、(弓矢の矢代=軍費のこと)
(屋銭と解釈して=棟別銭)の二通りの分け方がされている。しかし尼子資料の「出雲鉢屋記録」でははっきりと「八銭(やせん)」と
なっている。だからこれは、八族である原住系が、(これまで同族を奴隷に売り払って不当利益をあげていた仏徒に対する罰金)として強制徴収したものらしい。

この年の上洛の時の信長は、弓矢より良く飛ぶ最新兵器の鉄砲で武装していた。だから、もし軍事費名目なら弾薬代とか、弾銭、というべきで、もうこのの時代の名目としては「矢銭」では可笑しい。秀吉時代になると「段銭」という文字が出てくるから、一町一段というような
田畑の面積への課税とも間違えているが、幕末までの漢字は皆当て字ゆえ、段は弾丸の弾らしい。
<<引用参考文献>>
八切止夫著「天の日本古代史研究」「利休殺しの雨がふる」「野史辞典」
言継卿記・後愚昧記・今井宗久茶湯日記その他。
                                    【真書太閤記考】

この本は十二遍で三百六十巻のものである。当時のことなので版行に先立って、縁故の在りそうな処を廻って前もって予約販売の恰好で前金を貰い歩いた。この時阿波の蜂須賀家の江戸屋敷でも応分の金子を出した。だから<真書太閤記>の中では、
「蜂須賀子六正勝というのは、犬山の信清(信康)の子の信安に仕え、しばしば戦功をあげた足利修理太夫高経の末裔にして」といった具合に、金を出しただけの事にはなっている。

ところがこの後になって<絵本太閤記>という目で見る型の出版が企画された。現代の劇画のはしりである。また三田四国町の蜂須賀の江戸中屋敷に、金貰いに出かけていった。ところが蜂須賀家にとって運の悪いことに、この先年から南八丁堀にも中屋敷ができ、お留守居役が二派に分かれ一決しなかった。しかし、阿波徳島二十五万七千九百石で、従四位侍従、大広間詰、の格式だから「些少だが、良く書いてくれ」と十両か二十両をポンと投げ出せば、それで済むのに、「如何に取扱いましょうや」と責任逃れに鍛冶屋橋御内の上屋敷の当時出府中の阿波守に伺いを立てた。

この時殿様から「よきに計らえ」と言われたのに、良きに善処して出す物を早く渡せばよかったのに、
「前の時にも応分の金を出したが、御当家御先祖の小六正勝様は、ほんの刺身のツマで、あれは日吉丸の本じゃった」といった意見が江戸勤め重役から出た。
未だ当時のこと故「紙の暴力」だの「マスコミの脅威」ということを知らなかったせいもあろう。しかし版元にしてみると「まあ百部位は予約して頂けよう」という皮算用が外れてしまい、そこで「構ったことはねえ、悪役にしちまえ」ということになって出版されてしまった

そこで、岡崎の矢矧川の橋の上で、
「やいやい大人と子供の区別はあっても、同じく人間だ。よくも足を踏んでおいて一言の詫びも言わぬとは何だ」と日吉丸にすごまれた蜂須賀小六が、ぎょぎょと驚き狼狽。
「俺様を誰だと思う・・・こう見えても賊徒の張本日本駄右衛門・・・じゃない小六様だぞ」と睨みつける大人げない場面が、見開き二面の挿絵になり小六は悪党づらにされてしまった。ところが、この岡田玉山の絵本太閤記が当時のベストセラーになってよく売れた。だから殿中で、「・・・松平阿波様の御先祖は、強盗団の首領でござったというが、まことでござるか」などと絵本の方を、歴史そのものと思いこむ者が、昔も多かったから直接に聞く者もいる。

「余は不快なるぞ。それなる絵本太閤記なる本をそっくり買い占めてしまえ」と、殿様は激怒した。そこで在府の家臣共は江戸市中を廻り、片っ端から買いあさって背負って帰る。 「・・・いくら刷ってもこりゃ売れる。驚異的ベストセラー」というので版元は次々刷りまくっては売り出す。洛陽の紙価を高めるというが、これでは鼬ごっこできりがない。そこで日本橋亀島の藍玉問屋で蜂須賀家へ出入りの者が
仲に入り、「版木一切譲渡し」ということで話をつけ、絵本太閤記は絶版にして蜂須賀家で買い取ることになった。

が、それでも、よく売れるからと秘かに出版されたので、公儀に訴え出たから、文化元年には出版禁止となり、岡田玉山は手ぐさり、版元は罰金に処せられた。「一文惜しみの百失い」という言葉があるが、この騒動で蜂須賀家が使った費用は膨大なもので、この為、幕末になっても藩庫が空っぽで、同じ四国でも土佐の山内容堂は活躍したが、蜂須賀候は阿呆踊りでもやらせて憂さをはらすしかなかった。

今日、名前だけは有名だが「絵本太閤記」の当時の現物が稀にしかなく、明治の再刻本しかないのは、蜂須賀家で買ってきて片っ端から焼き捨てて仕舞った為でもある。これも一種の焚書といえるだろう。

さて嘉永に入って、英船浦賀、露船下田、ペルリ来朝という時勢になってきて、この国難に対し「英雄待望論」が起きた。
そこで栗原柳庵が真書太閤記や絵本太閤記を種本にして又書いた。これが重修太閤記、という名のもとで又も脚光をあびた。今日いわゆる「太閤記」というのはこれなのである。そして最早、蜂須賀家でも手がつけられなく、放りっぱなしにした。柳庵も「矢矧川の橋の上」は見せ場だから、やはり小六を野党の首領にはしたが「殿ッ」と日吉丸に呼ばせ、ここで格好を付けた。

しかし一度広まってしまった火はなかなか消せない。そこで大正時代に入って、蜂須賀侯爵家は先祖の汚名をそそごうと、当時の歴史学の泰斗渡辺世祐博士に依頼した。博士は天文日記・美濃明細記・渭水聞見録・阿波徴古・の他に天文十六年九月二十六日の、
「伊勢御師福島四郎右衛慰宛文書」をもとにして、「この国の取り合いの儀につき、神前に懇ろにお祈り下され、おはらいや大麻に
御意をかけられ謹んで有難く(御護符及び長鮑)を頂かして貰います。去る十七日に合戦に及び武藤掃部助を始め数名を討ち、その後関へ敵が押し寄せて来ましたゆえ、すぐ切り崩し、大谷とか蜂須賀などと申す輩も数多く討ちました」

という斉藤道三がお賽銭につけて報告した織田信長の父信秀との合戦の文書の中に「蜂須賀」という名のあるのをとりあげ、「わが蜂須賀家の祖というのは、室町御所より任命されていた尾張管領の斯波家の大和守広昭の次子である小六正昭で、この孫が小六正勝その人である」といった記載をし、由緒正しき名門であるかの如く故渡辺博士はしている。名門でも、野盗でもいいようなものだが、違うらしい。
【紹介者・補記】
日本の歴史学の泰斗といっても、金を貰えば平気で系図をデッチあげてしまう。全く困った国柄で、現代でも「貴方の御先祖を調べて系図を作ります」等という広告が多い。そして日本人の先祖を美化したがる心理につけ込んで、金儲けをしている手合いも居る。

例え先祖が奴隷であっても卑下したり、恥じることなど全くないし、武士だったからといって、これ又嬉しがることもない。熊本の殿様の細川護煕氏を見れば、大名の末裔もあんなもので、先祖がなんであっても関係ないということが、よく解ろうものである。
先祖が武士でも、百姓でも、奴隷でも、現在の自己を拘束するものではないし、大切なのはその人の人間性であり、現在であり、未来なのだと思うのだが。



                                 <墨俣砦>

これまでの講談によると、もともと種本が絵本太閤記だから、「美濃へ攻め込もうとした信長は、その足場として洲股(墨俣)に砦を築こうとした。だが誰を差し向けても成功しない。そこで困っていると木下籐吉郎が名乗り出て、他に策のない信長が許可したところ、籐吉郎は頓知を出して成功。そこで信長は洲股に進駐して、そこから美濃一国を占領できた」という事になっていて、通俗歴史書も皆その受け売りをしている。

しかし、実際はその反対で、この洲股築城は信長が岐阜を占領してから二年後の永禄九年の出来事で、これは三省堂の歴史年表や確実なものには記述されている。永禄三年に桶狭間で今川を破り、信長は当時の最新武器であった鉄砲を入手するや、翌四年、五年と木曽川を越えて各務原へ進攻したが敗退。
同六年は小牧へ移って犬山口から、関の方へ向かい又負けたが、翌七年もやはり右回りして今度は瑞龍寺砦の方角から、美濃三人衆の裏切りでやっと美濃を占領したのである。現在の墨俣大橋の辺りは昔は中洲で、ここに洲股の砦は在ったのだが、これは大垣よりで、ぐっと左手である。つまり中央突破か右回り攻撃しかしない信長か゛、反対の左手へ進んで洲股に砦を築く筈は有り得ない。また当時の信長の美濃攻めというのは速戦即決、つまり夜明けに国境の木曽川へ兵を集めて進入。負けて午後に引き上げ。
つまり「日帰り戦争」か、長いのでも永禄六年の一晩泊まりくらいのもので、とても、のんびりかまえて、
「稲葉山眼下の長良川(当時は墨俣川)の中州へ築城して」等という余裕はなかった。これが間違えられたのは籐吉郎の出世噺として、占領後に攻められ堡塁を築いたというのより、「進む足場」とした方が人聞きがよく、勇ましい武勇談になるからだろう。

また資料的に誤られたらしい原因に、「松平記」という慶長期の本がある。「義あき公(足利義昭)は美濃のながい山城(斉藤龍興)を頼まれんとして断られ」というのが永禄九年の条に出ている。

だから永禄九年は斉藤龍興が、まだ美濃国主だったと勘違いされた為らしい。つまり、これはその位、龍興が長島の一向門徒の助けを借り、美濃入りしてくると勢力が強くなって、占領軍の信長が尾張へ追い返されたように、当時の京へは聞こえていたせいだろう。
信長としては四年がかりで、ようやく占領はしたものの、美濃人たちの祖国復帰運動が凄くて手が付けられなかったから、足軽上がりの木下籐吉郎を登用したり、かって散々に手向かいした敵の片割れの蜂須賀党等も仕方なく目見得させてもいる。蜂須賀はこの後信長の直臣になる。講談で有名な洲股築城という話は、小瀬甫庵の太閤記が底本で、これには

「ある時信長卿は老臣衆を呼び集め『美濃へ何度も攻め込んで狼藉をつくしたがてんで効果もない。かえって此方の兵の士気がゆるみ、軍勢がたるんでしまった。なんぞ良策は無いか』と相談された。すると『川向こうの適地に要害を築いたらよろしい』まるで猫の首に鈴を付けるような案が出た。勿論試みに誰を差し向けても駄目で、そこで川を越えて居住出来る者、というので人選したところ、
木下籐吉郎が自分が、と名乗り出た」とする。

渡辺世祐博士も雄山閣の昭和四年刊では、「大小の長屋十軒、軒櫓十、塀二千、柵木五万本を筏に組ませて、永禄九年九月一日にこれを流し、五日には信長みずから小牧山より洲股に到着し工事を監督する一方、木下籐吉郎を召し、稲田大炊助、青山小助、加治田隼人らと共に蜂須賀子六も招かせてこれを守備させた」と、尤もらしく説明しているが、三省堂の日本歴史年表、にも、「永禄七年八月二日、織田信長は稲葉山を攻めて斉藤龍興を走らし、ついに占領して岐阜と改称す」とはっきり出ている。

折角二年前に占領した美濃を、何故信長が小牧山へ戻って、また攻め直しをするのか、さっぱり訳が分からない。
おそらく猿も木から落ちるのたとえで、歴史学会の泰斗の渡辺世祐氏も、講談本で誤られたものだろう。

<<終わり>> 
<<引用参考文献>>
八切止夫著「信長十二人衆」「八切裏がえ史」「サンカの歴史」「野史辞典」
絵本太閤記・真書太閤記・その他
                          <<家康と煙草>>

「駿府記」の慶長十七年七月十日の条に、「南蛮よりの妙薬にて、万能にきわめてよき効能ありと申しはべりて献上の者ありしが、如何に用いるやと尋ねられそうろうところ、点火して胸深く吸えば可とお答え申し候ところ、煙の出るやと仰せあり、その煙にて悪気邪気しっかい払いますると謹んで述べしに、首をふられて、拒まれたまい、立ち給えり」とだけある。

問題は家康へ、何病にもきく悪気邪気払いをなす妙薬として、奉げられた物は、どう見ても火を付けて吸う煙草しか、この場合は考えられぬという事である。「慶長風俗絵巻」にも、最早巷には輸入された莨が万能薬として大流行していて、長刀位の大煙管を共奴に担がせた武士の絵も、絵巻屏風にはいくつも出ている。

処が。倅秀忠に江戸は委せて、静岡の駿府城に入っていた家康が「煙が出ると申すのか」と不機嫌になってしまい、席を立ってしまったのは何故かという疑問が生じる。

今でこそ「嫌煙権」とかいって、煙草嫌いな人も多くなっているが、慶長十八年には、英国人が駿府へまで来て、家康に珍奇な献上品を捧げ、よって通商交易も許可していた時代である。新興都市の江戸では長い大煙管が流行して、刻み煙草を詰め、遊里の女達まで競って吸っていた今でいう処のナウな物である。なのに家康は好奇心が全くないのか、それとも煙草嫌いだったのか。
鯛の天婦羅を賞味していたと伝えられるし、変わった料理を好んでいた物好きにしては妙である。勿論現代のように癌になるとか、心臓に悪いと言われだしていたら、不機嫌になる訳も判るが、当時は万病に効く薬とされていた。
後で判りやすく書くが<家康が煙草を嫌った訳>は、彼は歴とした日本原住民系の出身で、煙草そのものではなく”煙”を嫌ったのである。日本列島が大陸人によって侵略統一された時。

いち早く降参して奴隷となった人々が居た。捕らえられ、進駐軍のお情けで種を頂戴して、以後綿々と続いている。

しかし隷属を嫌い、頑強に抵抗し、戦って破れてもなお、流浪の民となりながら種を仕込まれる前の女性を伴って山や海へ逃げ、子孫を残した人達もいた。そして次々にそれぞれの土地に落ち着き、居付き、生活する人達がつまり、純粋な日本原住民であり、サンカと呼ばれる人々である。

しかし何時の時代も体制側からは差別され、弾圧や虐殺を幾度となく、くりかえされてきた。このサンカの人達は家族毎に人目を避け、小集団で各地を転々と旅して、この集団が(これをセブという)安全確認や危険通知に山から山へ合図し合うのを狼煙という。しかし近間どうしの合図にあげる煙は極細い微かなものである。それを待ちかねて家族で注意深く眼を光らせているゆえ、一本の細い煙でも判るらしい。このセブへ交替に入り込めると、飲み水や、洗濯の水も湧かして沐浴もできる。
魚を捕って焼石で調理もできる。そして一度に五ケ所しかセブは張れないから、他の家族は自分たちの順番が来るまでは藪蚊に刺されつつ茂みに隠れていた。

そしてその辛抱してじっと待つことを、彼らの言葉で”焔待ち(ホマチ)”という。だから焔待ちの煙ゆえ、煙草などくゆらせられたら見間違う惧れがある。だから誰も煙草などに火を付けぬのが、彼らサンカのセブの掟なのである。

三年後には大阪を落城させ、天下平定を成す家康ですら、煙を出すと聞けば顔色を変えたくらい、このサンカ出身者はセブノロシと紛らわしいゆえ、嫌煙なのである。この一事からも三河の名門出の松平元康と違い、家康は世良田出身の部落民、即ちサンカ出身だということが判る。

                               <サンカ焼石>
前記の処で焼石、と出てきたが、関連するので紹介する。先土器遺物包含層には丸石の群が見つかり、俗に芋石と呼ばれている。これはサンカの調理炊事法と呼ばれている。熊本や東北でも地面にその儘で残っているが何処でも皆山中で発見されている。

サンカは鍋釜類は携行せず、ささら衆と昔は呼ばれたごとく、青竹を縦割りにし、中節を削って谷川で捕った小魚や食せる山菜を重ねて、並べて荒塩をかけ、石を上に置いて蒸すようにする。米飯を炊く時は、麦を下に置き上に米や粟は乗せるようにして、焼石をのせる
前に良くかき廻す。サンカは海流で流されて日本列島に漂着した連中も混ざっているから、日本列島に上がらずハワイ方面まで流されて行った人々もいた。

だからハワイでも「カルア」と呼ぶ焼石料理があって、豚でもパンの実でも何でも煮炊きに鍋やフライパンは用いない。
近頃は観光客寄せの名物料理に「焼石料理」を売り物にしている所が多いが、これは歴としたサンカ料理である。
石を温めてほかほかにしたのを厚手の布袋にいれ「温石」と称して今日のカイロの元祖を考案したのは、吉良上野介の一つ年上の妻で上杉十五万石の三姫だと伝わってるが、足利時代に、南無阿弥を唱え僧体に似せて同じ人間扱いにして貰えて同胞衆(同明衆)と呼ばれる連中に転向した日本原住民系が、この焼石料理を京にも広めた。

だがその儘では野趣に富んでいても室町御所には不向きだった。そこで石を裸で焼かずに杉の皮などに包んで用いたが、いつの間にか高尚化されて今は「懐石料理」等と呼ばれ京名物にさえなって、極めて由緒ある会席料理に化けている。

しかし本当のサンカの焼石料理は、雑草や枯木に火が移って山火事にならないよう完全によく水をかけて消して、跡形無くして去っていく。だから何の痕跡も残さぬことを俗に「焼け石に水」とも言い、今でも一般に用いられている。
【紹介者・補記】
サンカを書いた有名なものに三角寛の「サンカの社会」がある。しかしこれは仏教側からの立場で
書かれていて、悪人として彼らを一括している。柳田国男も果敢に挑戦したが、折口信夫との関係をお上に握られ民俗学へ
転向を余儀なくされている。1997年1月10日付けの北海道新聞に東大のY教授が「世界の歴史刊行」に寄せての一文が載っていた。文中柳田の民俗学に触れて次のように書いてある。

「柳田の民俗学で使われる”常民”という言葉は、市民でもなければ平民でもない存在を指す。それはやはり”常民”としか呼びようのない文化の基底を担う人々なのだ。彼らに対する無私の愛、その存在への想像力こそ、柳田学から現代史学が受けた貴重な刺激ということになろう」

この先生、国際関係史とイスラム史が専門らしいが、柳田が何故民俗学へ転向しなければならなかったかの、経緯も判らず、常民もサンカの意味もまるで判っていない。また、後段で秀吉とフエリッペ二世のライバル関係から云々と的外れな考察もしている。

私は以前少し触れたが五木寛之の「風の王国」では、居付きサンカとトケコミサンカを一緒にして常民の側に置いて書かれていて惜しいが、この方が東大の先生の考察より数段ましである。


<<引用参考文献>>
八切止夫著「サンカ生活体験記」「天の日本古代史研究」
     「日本全国特殊部落発生史」その他。

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