6. 虞美人草


 漱石はこの作品で道徳的な精神に内在する本質的な矛盾に到達している。漱石はこの矛盾を細部にわたって研究した後、『こころ』でそれまでの作品の総括としてこの矛盾を総体的に展開した
 『野分』は個別的批判意識から社会全体に対する批判意識へと発展し、それによる孤立を自覚していた。『虞美人草』から孤立が社会的に高いという幻想に疑問が生じ、孤立が社会な無力であるとする自己否定的精神がはっきりしてくる。
 道也の道徳的精神は自己内に沈潜する甲野の精神と、現実に対して積極的に働きかける宗近の精神に分割されている。宗近の実践的な精神は批判対象を改革する道也の意志を継承しており、必然性を問題にする甲野は批判対象との道義的な対立の本質を認識する精神に移行しつつある。
 甲野は「人間の浮気」に対する正義の厳正な判決が人格的個人によってではなく死によって下されるとしている。自然的判決に対する信頼は「人間の浮気」の強固さとそれに対するインテリ的批判の無力の認識である。甲野は批判的インテリではなく死という客観的事実を善の推進力と考え始めた。死は社会的範疇である善悪や真理とは独立した生物学的必然性である。しかし道義の担い手であるインテリの主観からの分離という意味で客観的必然性への接近である。
 甲野の課題は藤尾の世界とどのように関わるかである。藤尾との対立で勝利することはありえない。藤尾に関わりを持つことは不毛な戦いに引きずり込まれ、不毛な精神世界に生きることである。赤シャツとの対立の不毛性はすでに『坊つちやん』に描かれていた。富貴や栄誉や盛名を求める精神を批判することの無意義は『野分』で明らにかされた。金や地位を批判対象にせず自己内の思想世界に沈潜することは金や地位からの分離、独立の発展である。金や地位からの独立はこのように厳密な順序を経て獲得しなければならない非常に困難な課題である。
 思想世界に沈潜した甲野にとって実践との関係が重要な問題になる。道也の段階では窮乏生活に耐えること自体が思想の実践であり正しさの証明であった。しかし、甲野は財産をめぐって現実的で深刻な対立をの抱えている。
 甲野が自分の役割を認識だけに限定することは彼の認識の限界内に積極的な実践の可能性がない現実を反映している。漱石の作品の批判意識の発展は常に孤立化の徹底として描写されている。道也の場合崇高な使命による孤立は啓蒙による社会一般との一致を予期している。崇高な使命を持たない甲野の寂しさは人間関係からの孤立だけを意味している。批判対象は社会全体ではなく、母や藤尾に具体化されており、人間関係からの孤立は母や藤尾からの分離を意味している。批判対象の限定によって孤立の合理的な側面が同時に現象し始めている。
 甲野は現象世界に対する批判を徹底した結果、自分が求めるものがどこにもなく、さらに何を求めているかも明らかでないという深い懐疑を獲得している。甲野は彼の世界において現象形態を問題にすべきでなく、まだ正体の何かわからない本質を問題にすべきであると考え始めた。自分の世界に本質がないという認識が甲野の獲得物である。甲野の世界には信頼すべき人間関係はない。したがって自己を含めた完全な否定だけが現実的な精神である。宗近に対する信頼は自己に対する信頼であり、自己否定の不徹底であり自分の属する世界に対する妥協である。
 甲野と宗近の対立は藤尾と小夜子の対立に対する対応によって描き分けられている。小野と小夜子の分裂は資本主義的な階級の再構成の過程である。この過程を現実として受け入れてその必然性を肯定的に認識するか、それともその必然性に対して保守的な観点から道徳的に批判するかが現実認識の岐路になる。宗近は坊ちゃんのマドンナに対する批判意識を受け継いでおり、甲野は静観の立場を取っている。
 資本主義の発展に伴って地方と都市は分離される。地方の古い人間関係は引き裂かれ、近代的生産を担うべく都会の新しい人間関係が形成される。道義とはこの分解過程から身を守ろうとする小市民の保守的な価値観である。甲野や宗近の小市民的な立場が矛盾のない道義的な状態と想定され、この分解過程に対してその観点から批判が行われる。客観的には小夜子と小野の分離は甲野や宗近の階級を分解して積極的な人間関係を形成する過程であり、不毛で不生産的な甲野や宗近の世界に内在する矛盾を解決する過程である。小夜子には宗近や甲野の理解し得ない、より高度な現実的精神が形成されている。
 小野と小夜子の世界にあるとされる矛盾は甲野の世界にある現象的矛盾を対象化したものであり、小野と小夜子の分離には漱石が想定しているような道義的な矛盾は生じない。小野には古い恩義に対する道徳的な反省が想定され、小夜子には出世した小野に気後れし小野を羨む卑屈な感情が想定されている。出世した小野と分離して貧しい生活での幸福を追求することはこの段階の漱石の視野にない。貧しい生活は道也のようなインテリの人格性の証明として肯定されるだけで、社会的一般的状況としては肯定されず救うべき不幸と考えている。小夜子が無欲であり不憫であるから小市民の世界に引き上げてやるというのが道義である。我の強い藤尾とかよわい小夜子の対立を中間的地位よって解決するというのは道也が主張した分配の平等化という価値観の具体化である。
 出世する者が貧しい者との古い関係にどう対処すべきかという問題は、本質的には資本主義の必然である小市民の没落にどのように対処すべきかというインテリ自身の本質的な課題である。文学史上では四迷、漱石、鴎外の三人の小説家がこの歴史的課題にその才能に応じて典型的な解答を与えた。『虞美人草』の甲野の煮え切らない態度は四迷と鴎外の中間に位置している。
 四迷の『浮雲』や『其面影』には出世コースを選択すべきかどうかという道義的葛藤は現実認識ができない者の主観的な想定として描写され、現実にはそうした葛藤が存在しないことがはっきり描かれている。出世主義者の欲望とその可能性を失った者の欲望は明確に区別されている。出世コースを選択すべきかどうかは一般に選択可能な問題ではない。四迷の主人公は出世を望んでも得られない、貧しい生活を運命づけられた人間として貧しさの中で苦悩している。四迷の作品に描写された葛藤は『虞美人草』に描かれた葛藤とは比較にならないほど高度である。四迷は一般に小市民の道徳的な葛藤を越えた精神を持っていた。
 『其面影』に引き続いて朝日新聞に連載された『虞美人草』は小野と小夜子の名前を『其面影』から引き継いでいる。漱石は『其面影』で提起された問題に文学的に解答を与えようとしている。四迷は小野と小夜子の分離を肯定し、その必然性において問題を提起し、解決している。しかし漱石にはそれがすでに解決であることが理解できない。漱石は小野と小夜子の分離を阻止し、小夜子の生活を引き上げることを道義的解決と考えている。『虞美人草』の描写によってこの試みに失敗した漱石は四迷の偉大さを再認識し現実理解を深めたと思われる。漱石がこの分離に満足の行く回答を与えたのは『明暗』である。
 出世か貧しい生活かを道徳的価値観によって選択できると考えるのは漱石もまだ克服できない小市民的幻想である。この前提の上で小夜子を冷酷に捨てるべきか哀れな状況を助けるべきという選択肢が想定される。現実には選択肢は客観的、主体的条件によって規定されており、それを認識できない場合にこのような形態の悩みが生じる。道徳的な精神はどの選択肢にも対応できる形態をもっているから自ら道徳的な理由で選択したような幻想が生まれる。その幻想と客観的な状況の関係を理解して描写した場合にのみ芸術的な高度の作品になる。客観的な状況と主体の全体的な連関によってでなく、道徳的な葛藤によって人生を決定しているという想定の基に展開されるあらゆる心理は小市民の俗物根性である。小野や小夜子に想定された葛藤は平凡な作家が好んで展開する内容である。このような葛藤を描写すると同時に道徳的な説教の無力と、それをどのように克服すべきかの深刻な苦悩を描写しているところに漱石の特徴がある。
 鴎外は同じ選択肢と葛藤を設定した上で出世主義を肯定した作家である。鴎外は道義的に、良心的にエリスを切り捨てる方法を描写したことで俗物インテリに高く評価されている。『舞姫』は小市民の最悪の精神を肯定的に描写した作品として大きな意義を持っている。
 道徳的な葛藤を設定した場合どのような選択も小市民的俗物根性を免れることはない。資本主義社会で小市民的な立場を肯定することは不可能である。鴎外は道徳的非難を免れるために、自分の行動の意味を意識しないという善意=純粋意識に逃げ込む方法をとった。鴎外には豊太郎の主観的な善意や昏睡状態がエリスの破滅に対する責任を解消すると思われる。さらに責任を持ちえないことが無能や無力や孤立であることが理解できない。エリスが人間として破滅し、死ぬか気が狂うかすれば後は坊主か医者の仕事であって恋人の出る幕ではない。豊太郎はエリスを捨てたという道徳的非難を逃れるためにエリスが肉体的にか精神的に破滅することを必要とし、鴎外はそれを描写することを厭わない。豊太郎が道徳的で良心的であるほど小さな汚点を消すために大きな犠牲が必要になる。エリスの決定的な破滅によって、友を恨み、エリスのために悲しみ、友人のおせっかいとエリスの発狂のために自分の愛情や良心を証明するチャンスを失った犠牲者として甘い感傷に浸ることができる。
 豊太郎は洋行しながら日本のブルジョア的発展を担うインテリの義務を果たしもせずにベルリンをうろついて貧乏人に金を恵んで得た愛情を楽しみ、なおたなぼた式出世を望んでいる。金と良心を持った気色の悪い俗物インテリに下層の愛情深い純な娘が惚れ込んだ上に都合よく気が狂うなどという想定は俗物官僚のロマン主義的空想である。自分の小さな小市民的評判に汲々としている小心で保身的な豊太郎はブルジョア階級にとっても役立たずのろくでなしである。ブルジョアは貧乏人を破滅させず有効に合理的に搾取しようとする。あるいは『其面影』の葉村のように小夜子を出世のために妾として利用しようとする。自分の道徳的評判のために破滅させることは利害の観点から不合理になる。貧乏人として生かすように、厳しい労働によって生きるように条件を整える必要があるからその条件に合った合理性を持っている。自分の体面のためにエリスを破滅させるような恥知らずな俗物根性が無能なインテリの良心の正体である。豊太郎の腐った良心は同類のインテリを引き寄せる汚物溜めであると同時に、豊太郎を弁護するための無意味で恥さらしな労力を強いることで腐った学者に対する罰をも与えている。
 豊太郎は官僚的な出世を肯定することでより現実的であり、非現実的な当為を掲げる漱石と対立しているように見える。しかし現実的という概念は漱石にとっては現象世界と対立する本質という意義を持っている。現実の本質に到達するためには道徳的精神を克服しなければならない。それは出世に対する道徳的な非難の無力を理解し、小市民的な地位の客観的な矛盾を認識することである。小市民的な立場に対してまったく無批判的である鴎外には現実認識の可能性はない。小市民階級の自己認識は出世に対する批判意識の徹底としての自己否定の発展によってのみ形成される。自分の道徳性を証明しようとして道徳性の矛盾に翻弄されて無能と俗物根性を証明されるのが出世主義を肯定する鴎外の運命である。出世主義と非妥協的に闘おうとした漱石は道徳性の矛盾の中に勇敢に乗り込んで、道徳性の矛盾の必然性を明らかにするという歴史的な課題を成し遂げた。
 宗近は道義的精神によって不安を解消し泰然とすることができると小野に説教している。不安と動揺はこの階級の本質であり彼らは常に安定と泰然たる精神を求めている。客観的には不安で泰然とできない階級的特徴が道義という形式の精神を形成する。彼らの道徳的意識は不安と動揺の反映である。学問もない、勉強もしない、落第もする、ごろごろしている宗近が自信を持つのは、彼がまだ社会と接触しておらず、小市民的な安定状態で形成された無能を試される危機をまだ経験していないからである。宗近の自信と気楽さを保証しているのは財産であり、その財産が宗近の社会的な無能を規定している。
 宗近の言う文明の改革とは藤尾に面当てをし、財産に対する執着が露骨でない小夜子に財産を与えることである。宗近は小市民内部の財産の分配に関わる下らない争いを社会正義だと考えている。こうした馬鹿げた思想を実践するには勇気が必要である。自分の立場の優位をもとにして小野に説教し藤尾を苛めるという真面目は実践しない方がよい。人の性格を直すなどというのは財産を持った無知なお坊ちゃんの余計なおせっかいである。財産を梃にして藤尾の我を攻撃することが宗近の目的であり、これが『坊ちゃん』に描かれた正義感の実体である。『坊ちゃん』の段階では正義感と財産の関係は意識されていなかった。
 漱石は宗近の道義が藤尾の尊敬を勝ち取れず、藤尾との関係を形成する力にならないことを理解している。道義を認めない点で悪しき我の女である藤尾を懲らしめるには道義ではなく彼女の求めている高い地位や財産が必要である。漱石は藤尾と対立する条件が外交官試験に及第することであることを描いている。藤尾の我を批判する場合問題になるのは彼女の主観の二重性ではなく社会的な利害である。漱石は道義の単純な勝利を構成をするほど無能ではない。
 道徳的であることしか取り柄のない宗近は藤尾に拒否されている。この分離は漱石の一貫した特徴である。宗近が藤尾を拒否するという想定は、藤尾が宗近を拒否するという現実の逆転した反映である。自分の利益を追求することも、藤尾との関係を形成することもできないことが無私の道義の本質である。初期作品に見られたインテリの逃避的な精神は非常に複雑になり、現実のインテリが持つ現象形態に近づいている。
 漱石は藤尾の死を装飾的な文章で描写している。困難は藤尾の敗北の必然性を描くことである。道義が勝利し、奢る者が没落するという非現実的な教訓を具体的に描写することはできない。藤尾が宗近を求め、宗近に拒否されて藤尾が死ぬのではない。楽しみを諦めた甲野が安泰で楽しみのある藤尾が自殺するのではない。現実社会での人間関係の法則は逆である。漱石が無理な決着をつけているのは明らかである。この結末が教える教訓は、道義の勝利を無理に描くと通俗小説になることである。
 宗近が中心になって展開する通俗小説の背後で甲野の深刻な思想的葛藤が描写されている。甲野の課題は現象的には母や藤尾にどう対処するかである。小夜子や小野は甲野の主な関心ではない。この分離の意味を明らかにする『彼岸過迄』の萌芽がここに見られる。
 漱石は藤尾や母が甲野の期待通りに反省しないことを理解する現実感覚を持っている。彼女に反省を促す努力は、彼女と反省を促す者の双方を下らない対立に引きずり込んで堕落させるばかりである。だから彼女らの堕落を放置しておけば自然に罰が下ると考えている。しかし悪が道義的な罰によって滅ぶというのは希望的観測である。現実には彼女らは悪であることにおいてではなく、階級的な人間関係の独自の法則において没落する。その法則は悪でない甲野や宗近をも規定しているのであって没落と悪や善の規定は直接的で単純な関係にはないし、まして善悪が運命を決める本質ではない。
 藤尾の生活の不毛性に対する批判意識の徹底は、その不毛性に対する道徳的批判意識の不毛性の認識である。没落は藤尾と甲野共通の運命である。その没落において悲劇を担うのは俗物である藤尾ではなく、道徳的で真摯な甲野である。この階級の人間関係や精神の不毛性を認識することによる不毛性の克服は、この階級の本質である没落の道を早めることである。甲野は藤尾や母の未来である没落の道を先取りしている。この作品では甲野の精神と藤尾や母の精神の同一性は意識されず、甲野の精神は藤尾や母の没落の必然を回避する力であると考えられている。破滅性の肯定的意義が理解されるのは『彼岸過迄』からである。
 漱石の作品に一貫していた主観の二重性(表面と真意の違い)に対する批判意識の発展におけるこの作品の決定的な意義は、二重性の背後に隠された本質が財産であることが発見されたことである。この作品では財産と心理は執着するかしないかという直接的な関係にある。財産に執着する藤尾や母と、財産を放棄する覚悟をしている甲野が単純に対立している。小市民の世界では財産に規定された精神が無数の媒介項を形成して小市民的精神の体系を発展させる。漱石は小市民世界の現象的精神がすべて財産に規定されているという方法上の原理を発見した後、財産に規定されていながら財産による規定から遠く離れることを精神上の洗練とする小市民的精神の体系を具体的に描写していく。
 母の二重性は財産に対する執着に基礎をおいた心理の一形態であるから、二重性の本質的な批判は同時に財産の批判でなければならない。したがって財産に関わる精神を批判する甲野が自分の批判精神を徹底する場合財産を放棄しなければならない。財産に規定された二重性を自己内から払拭するには財産の規定から逃れなければならない。財産や地位の放棄の覚悟は社会的な変革や文明の改革を意味するのではなく、小市民世界内部の二重性に対する批判意識であることがこの作品で明らかにされている。
 しかし財産や地位の放棄は財産に規定された矛盾からの脱出ではない。財産を放棄すべきだという当為は財産に規定された、財産の運動内部の精神であり、小市民内部でのもっとも発展した対立形態である。財産や地位を持たない者にとって財産や地位に対する執着も、その執着を捨てるべきだという道徳的な規範も意味を持たない。財産に対する欲望を非道義とする批判意識は財産に対する執着である。母や藤尾を批判する道義は一般的規範として社会に適用されれば他人の財産を侵害すべきではないという意義を持ち、財産を守るための規範となる。
 財産や地位の放棄は財産一般をなくすわけではない。地位や財産の放棄はそれを積極的に求める者にそれを引き渡し、彼らの欲望を満たすことになる。それは小夜子に対する同情と対立して、地位や財産を求めるものとそれを失うものの分離を促進することである。甲野はその一般的な意義を理解できないために、自分には財産の放棄が必要だとしながら、小夜子にはそれを認めていない。
 矛盾一般の法則として矛盾の発展が矛盾の解決である。甲野は矛盾を形成しながらそれを徹底できず、危機が生じた段階で妥協している。財産の矛盾の発展とは、財産が集積される一方で小市民が財産を失う過程である。甲野にとってはその発展はいずれも悲惨に見える。財産を得ることは堕落であるし失うことは悲惨である。甲野は財産を放棄する自分の必要性の意味がまだ理解できず、その決意を徹底することができない。この不徹底こそ論理を飛躍することなく発展させる漱石の天才性である。財産が規定する不毛な人間関係は彼らにとって本質的なもっとも悲惨な事件である財産の喪失によって克服される。しかしその過程を必然性として認識することまったく別の過程である。
 財産から切り離された労働者の歴史的に新しい精神は資本主義の誕生と同時に形成され発展する。財産の収奪に伴う苦悩と新しい精神の形成はすでに明治維新以来全国的に展開され、今も展開されている。漱石の道義の解消は明治維新以来発展していた原始蓄積を思想化する過程である。甲野の苦悩はその歴史過程に追いつこうとする努力である。エリートである漱石が歴史的に形成された現実的精神に追いつくためには、労働者階級の巨大な犠牲に相当するエリートに特有の思想的労苦が必要である。それは財産を放棄するという道徳的な決意と違った精神の歴史的な発展を担うことである。
 現実社会から孤立している批判的インテリが問題にしているのは客観的には常に自分の階級内部の矛盾である。批判意識の対象がブルジョアであっても内容は小市民内部の精神である。自分の問題意識が小市民世界に限定されていることを認識することが現実的精神を獲得するための第一条件である。小市民が対象批判から自己認識へと復帰するのは、小市民的な立場を肯定する道義的な批判意識を越えてブルジョアと自分の関係を現実的に理解することである。ブルジョアに対する道義的な批判を解消するとはブルジョアの小市民に対する優位を認めることである。労働者との関係はより高度の歴史的な課題であり、この段階では問題にならない。それは道義的な課題ではなく、道義的な課題は自己のみを課題にしていることを理解しなければならない。
 孤立と窮乏を覚悟した道也はインテリの階級的孤立とその反映である道義的批判意識を徹底することで甲野の必然性の認識への道を開いた。道也の覚悟を哲世界への沈潜として受け継いだ甲野の功績はブルジョアに対する批判と小夜子を助ける義務という、孤立を肯定する観念から自己を解き放ち、インテリ自身の自己認識を促したことである。インテリ内部の矛盾を社会全体の矛盾として対象化する道義はこの作品を最後に放棄され、インテリ世界は他の階級と分離し社会的に孤立した階級として独自に認識対象となる。自分の精神が客観的には何を対象としているのかを理解することが現実的な精神であり、限界を超えることである。『虞美人草』は漱石がインテリの社会的な孤立の肯定的自己認識から否定的自己認識へと移行する転換点である。

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