画期的な年輪年代法

考古学の定説を覆し、
年表に動かない定点を定める。
箸墓

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    年輪年代法 モノサシは年輪

 年輸年代法(正しくは年輪年代測定法)は、1920年代にアメリカの天文学者、A・E・ダグラスによって創始され、欧米ではすでに建築史や美術史など、さまさまな分野で実用化されています。
 その原理は、いたって簡単。樹木の年輪が毎年一層ずつ形成されることを利用しています。
 樹木の年輪というのは気象条件に左右され、生育のよい年と悪い年、つまり年輪の幅が広い年と、狭い年があります。
 その変化を何十年という期間で追っていくと、年輪幅の変化がパターンとなって現れてきます。木材の種類によって、共通するパターンが見えてくるのです。  そのパターンを過去へ過去へと延ばしていくと、古代までひとつながりの年輪のパターンができあがります。いってみれば、樹木の年輪によって、過去何百年、何干年というモノサシができるわけです。
 このようにして作成された長期の年輪パターンと、遺跡などから出土した木材の年輪パターンを照合することで、古代の木材が切り出された年が1年単位で判明する。そういう画期的な年代測定法です。
 しかし、年輪年代法で測定するためには、出土した古代の木材の一番外側の年輪(最外年輪)まで残っていることが基本的に必要です。


    年輪年代法は日本にも適用できる

 年輪年代法はしかし、日本では長い間使いものにならないといわれてきました。
 ヨーロッパやアメリカの乾燥地帯のように気象条件の厳しいところでは有効でも、日本のように気候が温暖なうえに、地形も複雑、おまけに地域ごとに微妙に気候が変化するようなところでは、ほとんど役に立たないと考えられたからです。

池上曽根遺跡出土「柱根12」

 日本でもこれまで、大正時代以来何度か実用化が模索されてきましたが、十分な成果を得るまでに至りませんでした。
 よく知られたところでは、戦後間もないころ、奈良の法隆寺の五重塔が解体修理されたとき、年輪年代法によって法隆寺の建設年代を知ろうという試みがありましたが、このときは残念ながら、失敗しています。
 ところが、1980年代から新たな動きが始まります。奈良国立文化財研究所(以下、奈文研)の光谷拓実さん(当時32歳)が、年輪年代法の本格的な研究を開始します。
 光谷さん自身は、もともと植物の専門家で、考古学者でも歴史家でもありません。そういう部外者ともいえる人が、日本の古代史にとってきわめて重要な役割をはたすのです。


    年輪のデータを徹底的に取る

 光谷さんがまず最初にしなければいけなかったのは、徹底的に樹木の年輪のデータを取りつづけることでした。各地の営林署や営林局へ行って、木材の試料を集めてきます。
 まず、現生木のデータを徹底的に調べます。ひとつの種類の木だけでも複数の試料が必要です。それを何種類もの木に広げていきます。
年輪を読み取る光谷拓実さん  日本では本当にダメなのか、それを知るためにもデータを取りつづける以外にありません。年輪の測定には10ミクロン、つまり100分の1ミリというような単位が必要です。
 そのくらい細かなデータでなければ、年輪幅の変化を追っていけないからです。それをグラフにしていきます。くる日もくる日も、そんな作業の繰り返しでした。
 そして3年が過ぎたころ、ようやく最初の成果があらわれてきました。日本のような複雑な気象条件では、年輪年代法は不可能と長年いわれてきましたが、日本の樹木でも共通するパターンが見えてきたのです。
 古くから建築材として使われてきたヒノキやスギを調べると、たしかに年輪の幅は個々の木で違っていますが、何年分という期間で照合すると、地域に関係なくパターンが共通することがわかってきました。
 しかも、アメリカでは15年分くらい、ヨーロッパでは30年分ほどでパターンの照合ができますが、気候の違う日本では100年から200年分でやっと正確な照合ができることがわかりました。
 これは大きな前進です。日本でも年輪年代法が使える可能性が出てきたわけです。
 日本でこれまで年輪年代法が成功しなかったのは、これほど徹底したデータの収集が行われなかったからでした。


    弥生時代までモノサシが届いた !

 研究の次の段階は、年輪のパターンを過去へ過去へと、どんどん延ばしていく作業です。これには古い寺院の修理部材や、中世、近世の遺跡から出土する試料が役にたちました。
 驚いたことに、それらの年輪を調べても、パターンはピタッ、ピタツと一致します。
 同時に、奈文研には平城宮の発掘で出土した大量の古代の木材が保管されており、そこからもデータを集めました。
 こうして研究を始めて6年が過ぎたころ、ようやくはっきりとした成果が出てきました。過去2000年分、つまり現代から弥生時代まで届く年輪のモノサシが、やっとできあがったのです。
 日本では不可能といわれていた年輪年代法に、ついに実用化のメドがたったのです。

標準パターン(下)に試料のパターン(上)が一致する


 年輪年代法は、1985年11月、紫香楽宮(しがらきのみや〕跡を特定するという画期的なデビューをします。
 滋賀県の宮町遺跡から出土した柱根の年代を測定すると、『続日本紀』の紫香楽宮の記述とドンピシャリ、しかも建設された季節まで一致したのです。
 これによって、紫香楽宮跡は宮町遺跡であることが科学的に明らかになりました。その後、さまざまな分野に活用されはじめ、東大寺の仁王像や、法隆寺の五重塔の心柱の年代測定、さらに円空仏の真贋論争にまで活用されました。

 ところで、最も期待されていた弥生時代の年代を決めるというテーマは、長い間、足踏み状態が続いていました。年輪のパターンはすでにスギやヒノキで紀元前1000年ごろまで延びていましたが、試料となる弥生時代の木材が出土しなかったからです。


    画期的な弥生時代像に色を失う考古学者

 いよいよ弥生時代の遺跡から木材が出土するのは、研究を始めて十数年が過ぎた1995年の秋です。
 滋賀県の二の畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡というところから弥生中期の井戸が発見され、そこに残っていた井戸材の年代を測定しました。
 結果は思いがけないものでした。年輪年代法で得られた年代は、考古学者が考えていた年代よりもなんと、100年以上古かったのです。
 紀元後1世紀ごろの遺跡と見られていたのが、年輪年代法では紀元前1世紀の前半と出ました。
 当時、定説とされていた年代観とは、大きく違います。
 しかし、不幸なことに、考古学者の間には、年輪年代法は日本では無理という考えが、まだまだ根強く残っていました。そのため、当時は年輪年代法で得られた結果に不信感を抱く研究者も少なくなかった、といわれています。
池上曽根遺跡の大型建物と井戸跡  けれど、翌年の池上曽根遺跡のケースでは、考古学者は色を失いました。池上曽根遺跡は、近畿を代表する弥生時代の遺跡で、過去に多くの有力な学者が発掘に参加してきました。
 ちょうど前年には、この遺跡から大型建物跡が発見され、多数の柱根が残っていたことで注目を集めていました。


   弥生の定点を定める

 この大型建物は、有名な吉野ケ里遺跡の建物よりも200年ほど古い時代のもので、中国の影響を思わせるように、建物の向きは東西南北にきっちりと合わせて建てられています。
 しかも、出土した柱根のなかには最外年輪まで残っているものがありました。
 さっそく光谷さんが柱根の年代を測定したところ、やはり思わぬ結果が出ました。
 紀元後1世紀後半と予想されていた建物の年代が、年輪年代法では紀元前52年と出ました。定説よりもやはり100年も古いのです。前年の二の畦・横枕遺跡のケースとまったく同じです。

 考古学関係者はここで、年代論にまで踏み込んだ徹底的な検証を開始しました。じつは、年輪年代法の結果は、かねて少数の若手研究者が主張していた年代観にかなり近いものでした。「近畿の年代はもっと古いはずだ」という主張です。権威ある「定説」の前では「異分子」の扱いでしたが、もはや、彼らの主張を無視することも、年輪年代法の結果を無視することもできませんでした。定説を根本から再検討する必要があったのです。そして、出された結論は、まさに衝撃的でした。
 これまでの定説を覆し、近畿の年代観を従来よりも100年も古くとり、先進の北部九州と並行する時間軸で捉えたのです。弥生時代の近畿と九州が、同じ年表に並んだ瞬間でした。

都出比呂志さんの案によるふたつの編年表。
1983年(左)のものと、1998年(右)のもの。
―拙著『卑弥呼の謎 年輪の証言』より―


 年輪年代法によって、従来の年代観がガラリと変わったのです。
 日本では使いものにならないとまでいわれた年輪年代法は、ここにおいて名実ともに認められることになりました。
 年輪年代法が、これまで不確定だった弥生の年代決定にたいして、動かない定点を与えるという重要な役割を果たしたのです。
                                  (2004年3月)



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