箸墓は卑弥呼の墓か

「昼は人が造り、夜は神が造った」
卑弥呼の墓は、最初の前方後円墳?


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      卑弥呼の墓が古墳 ?

 弥生の年代修正の影響は、邪馬台国論争で畿内説が極めて有力になったというだけに止まりませんでした。
 弥生時代に対する近畿地方の年代変更が行われた結果、思いがけない事態が発生しました。古墳時代の始まりと、卑弥呼の死亡時期が接近し、卑弥呼の墓が古墳である可能性が強まってきたのです。
 卑弥呼の墓が古墳!
 まったく、びっくりするような話になってきました。
 卑弥呼が死亡したのは、『魏志倭人伝』などの文献によって、3世紀中ごろの247年か、248年とわかっています。それに対して、古墳時代の始まりは、 これまで3世紀末(大体280年ごろ)とするのが、考古学者の一般的な見方でし た。つまり、邪馬台国も卑弥呼も、これまでは古墳時代とはあまり関係ない、と 思われていたのです。
箸墓  ところが、池上曽根遺跡で年輪年代法の結果が出て以来、これまでの近畿の弥生中期、後期を年代的に見直す動きが進み、今では、古墳時代の開始を3世紀中ごろとするのがむしろ大勢となっています。卑弥呼の死亡時期とピタリと重なってきます。邪馬台国の時代と、古墳時代が時間的につながってきたのです。
 卑弥呼が死んで葬られた墓は、じつは日本で最初に造られた巨大な前方後円墳ではないか、という見方が現実となってきます。

 もっと具体的にいえば、考古学者の間では、奈良県纏向(まきむく)遺跡にある全長約280メートルの日本で最初の巨大な前方後円墳、箸墓(箸中山古墳)(写真左上)をもって、卑弥呼の墓とする見方が、にわかに注目され始めました。すでに箸墓を卑弥呼の墓の最有力候補とする暗黙の合意が、研究者の間に成立しつつあるといっても、過言ではないと私には思えます。
 邪馬台国論争はここにきて、九州か畿内かという次元を越え、思わぬ展開を見せ始めたのです。


   纏向遺跡の古墳群

 日本で最初に巨大な前方後円墳群が出現するのは、大和盆地東南部の三輪山山麓です。それらは日本で最初の統一政権、大和朝廷の有力者の墓として築かれたものですが、山の辺の道に沿って行燈山古墳(崇神天皇陵)、渋谷向山古墳(景行天皇陵)、箸墓などが1〜2キロの間隔で並んでいます。
 これらの古墳群のなかでも最古の前方後円墳とされる箸墓のある纏向遺跡には、さらに古い古墳群があります。石塚や矢塚など弥生の墳丘墓と呼ばれるものですが、これらの墳墓群もすでに前方後円形をしています。「ホタテ貝型」と呼ばれる墳墓です。
 また、箸墓のすぐそばには、箸墓と同時期に作られたとされるホケノ山古墳もあります。これはすでに前方後円墳の形をしています。つまり、纏向遺跡では、いくつかの大きな弥生の墳丘墓が築造されたあと、箸墓という最初の巨大な墓が出現します。
 この纏向遺跡の数キロ西には、弥生時代の「近畿の首都」ともいうべき唐古・鍵(からこ・かぎ)遺跡があります。おもしろいことに、纏向遺跡は、ちょうど唐古・鍵遺跡と入れ代わるように出現します。紀元180年ごろに突如として姿を現し、大いに栄えたあと、紀元340年ごろ、急速に衰退するとされています。
 卑弥呼が女王になったのが紀元180年ごろですから、まさに、邪馬台国から初期大和朝廷の時代に重なります。しかも、邪馬台国から大和朝廷へのちょうど境目に箸墓は位置するわけです。


   不思議な箸墓伝説

崇神陵  卑弥呼の墓と目される箸墓は、初期大和朝廷の創始者、崇神天皇の古墳(写真右)よりも前に造られています。
 『日本書紀』によると、箸墓は倭迹迹日百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされています。また「昼は人が造り、夜は神が造った」という不思議な伝説を伝えています。
 伝説のとおり、箸墓のそばに近づいてみると、見上げるような高さと、巨大さを実感します。平地から直接、土を盛り上げて急勾配に造られているためです。崇神天皇陵や、景行天皇陵など、大和朝廷の初期の天皇陵も大きさでは箸墓と変わりませんが、これらは自然の地形を利用して造られているため、箸墓ほどの巨大さは感じません。築造の手間という点では、箸墓の方がずっと人手がかかっているように思えます。
 ヤマトトトヒモモソヒメ・・・・以下、百襲姫(モモソヒメ)は、大和朝廷の初代崇神天皇のそばに仕える巫女のような存在、と『日本書紀』には描かれています。何か予言の能力のようなものを持っていたようですが、三輪山の蛇神と結婚して、最後には、箸で女陰(ほと)を突いて死んでしまいます。そこから箸墓という名がついたようです。
 この女性が、『魏志倭人伝』が伝える卑弥呼のシャーマン的な姿と重なるのは事実です。「昼は人が造り、夜は神が造った」と伝説がいうとおり、箸墓も、百襲姫も、十分な存在感と神秘性をもっています。


   径百歩の塚

 ところで、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、じつはもっと以前からありました。百襲姫と卑弥呼のシャーマン的な性格が共通するということのほかに、箸墓の後円部の大きさが、『魏志倭人伝』にある卑弥呼の墓の大きさとよく符合するという指摘です。
 『魏志倭人伝』には、卑弥呼が死んだとき造られた墓の大きさについて、「径百余歩」と記されています。百余歩とは、当時の中国の魏の尺度である1歩=145センチを基準にすると、150メートル前後になります。箸墓の後円部の大きさ約160mとよく合うわけです。
 日本中の弥生の墳丘墓を探してみても、これほど大きな墓はありません。しかし、これまでは箸墓の築造時期と、卑弥呼の死亡時期が合わないということで、この考え方はあまり取り上げられてきませんでした。
 箸墓=卑弥呼の墓説が、本当に多くの研究者に現実のものとなってきたのは、やはり、年輪年代法によって近畿地方の弥生の年代観が決定的に変わった数年前からです。


   大市は大巫女か

 箸墓の名称は、宮内庁によると「倭迹迹日百襲姫命の大市墓」となっています。
 この箸墓のある纏向遺跡こそ、今では邪馬台国の候補地としてきわめて有力になっているわけですが、このあたりの発掘で、ちょっと気になる出土品が出ています。
大市墓と記された石標  纏向遺跡の河跡から出土した7世紀の土器には、「大市」と推定できる墨の文字(墨書)が書かれていました。
 『日本書紀』には、百襲姫が葬られた場所を「大市」とする記述があり、これとも符合し、まさにこの土地の名を記しているようです。古代には、このあたりは「纏向」と呼ばれ、磯城郡大市郷でした。「大市」にしろ、「纏向」にしろ、相当古い地名に違いありません。

 この「大市」という名については、「大きな市」という意味がすぐに浮かびます。交易の盛んな町というイメージで、纏向遺跡の都市的な性格を反映しているとされています。
 倭人伝には、「国々市あり、有無を交易し」とあり、邪馬台国ではいろいろな物品の交易が盛んに行われていたことを記しています。
 地名の由来としては、もちろんそれで十分筋が通っているわけですが、この「市」という呼び名について、民俗学の大家、柳田国男がじつに興味深い考えを示しています。
 「山の人生」の中で、彼は次のように述べています。

「イチは現代に至るまで神に仕える女性を意味している。語の起こりはイツキメ(斎女)であったろうが、また一の巫女(みこ)などとも書いて最も主神に近接する者の意味に解し、母の子とともにあるときは、その子の名を小市(こいち)または市太郎とも伝えていた」

 柳田国男はもちろん百襲姫の「大市墓」について書いているのではありませんが、彼の考えによれば、大市は「大巫女」または「母巫女」であるということです。さらに、母子ともに巫女だった場合は、子供の方を「小市」と呼んだという。すると、「大市」と「小市」とは、「大市」の卑弥呼にたいして、卑弥呼の養女で、後継者の台与が「小市」だったのではないか、とも推測できるわけです。シャーマン的な卑弥呼の姿と、百襲姫は、やはりここでも重なってくるわけです。


   箸墓が発掘されれば・・・・

 日本書紀が編纂されたのは、8世紀のことで、卑弥呼あるいは百襲姫の死からは、何百年も後のことです。大市に葬るとある「大市」とは、いったいいつ頃できた地名なのか明らかでありませんが、もともと百襲姫の存在、そして箸墓の存在をもって、大市という地名が生まれたではないか、とも考えられます。この地名はひょっとしたら、邪馬台国時代までさかのぼるものなのかもしれません。


(C)Syogakukan 1998

 では、卑弥呼の墓としてこれほど有力になった箸墓を発掘すれば、本当に卑弥呼の遺骸が現れるのでしょうか。
 もし発掘が可能であれば、卑弥呼が現れてくるのかもしれませんが、現在のところ、箸墓は宮内庁の陵墓参考地となっているため、残念ながら発掘はおろか、自由な立ち入りも許されていない状況です。
 そして、仮に箸墓が発掘されても、これまでの例からいって、遺骸が残されている可能性は少ないかもしれません。これは日本の気候が関係していると思いますが、これまでの古墳などの発掘では、遺骸が残されているケースは、あまりないからです。
 しかし、卑弥呼が魏の皇帝からもらったとされる「親魏倭王」の金印や中国魏代の絹織物、そして3世紀前半に位置づけられる大量の魏鏡などの文物が出土すれば、卑弥呼の墓は箸墓で決まりということになる、と思います。

 ところで、卑弥呼に百襲姫を重ねたとき、どうしても気になることがひとつあります。邪馬台国と大和朝廷は、いったいどういう関係になるのでしょうか・・・・。どうも初代崇神天皇と、百襲姫の間には何か不穏な空気が感じられるのです。(2004年3月)


  

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