出雲の国譲りとは

出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へ

出雲大社

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出雲の神々は敵役


 出雲神話は『古事記』の神代記の3分の1を占めています。
 『古事記』に描かれる日本神話は、大きく高天原系と出雲系、それに海神系の話に分けられますが、それぞれが系譜でつながって一つのパンテオン(神界)を形成しています。なかでも、天孫族と出雲族はアマテラスの弟がスサノオであるように、高天原出身の同じ一族とされているものの、両者を比べると、その性格はかなり違っています。
 出雲の神々というは、始祖のスサノオと国土開発の英雄オオクニヌシを主人公にしていますが、最後には天孫族に屈伏し、国の支配権を譲るのです。しかも、出雲の神々はどちらかというと、天孫族の敵役といった印象です。
 『日本書紀』では、その性格はもっと強調されており、スサノオにいたっては、高天原をかき乱すただの乱暴物といったところ。また、オオクニヌシの説話なども『日本書紀』ではほとんどカットされています。国譲りの場面などもわりとスムーズで、いかにも朝廷側の思惑を反映したものになっています。
 これは記紀に特徴的な「天つ神対国つ神」、「天的な概念対土着的な概念」という対立構造からいえば、当然のことです。「天」というイメージを打ち出して、自分たちの優位性を主張したい記紀の編者たちにとっては、出雲や海神系の神々は無視することはできないけれども、どこか厄介者という扱いです。
 しかし、何といっても忘れていけないのは、出雲族の祖とされるスサノオが出雲に天降ったのは、天孫族の祖ニニギが九州に天降るよりも前であったこと、そして、出雲族が国を造ったあと、天孫族はその国を譲り受けていることです。


八俣の大蛇伝説


 そもそもこうした神話の記述をどこまで信用するかという根本的な問題があるのですが、出雲神話には、象徴的な面白い説話が幾つもあります。
 そのひとつが八俣(やまた)の大蛇(おろち)伝説です。
 記紀では、スサノオが乱暴狼藉を働いたために高天原を追放され、出雲に天降るところから物語が始まります。出雲の斐伊川のほとりに天降ったスサノオは、川を箸が流れてきたのを見て、櫛名田比売(くしなだひめ・奇稲田姫)を知り、彼女を助けるために八俣の大蛇を退治します。稲田姫を櫛に変えて自分の髪にさし、八俣の大蛇を濃い酒で酔わせ、剣でずたずたに斬り殺します。オロチの腹はいつも血がにじんで爛(ただ)れていたというのですが、殺されたときには大量の血が噴き出し、斐伊川は真っ赤な血となって流れたということです。そのときオロチの体から取り出されたのが草薙剣(くさなぎのつるぎ)です。

スサノオ・出雲大社彰古館  この説話のなかに、すでに箸と櫛という百襲姫(ヤマトトトヒモモソヒメ)の三輪山伝説のモチーフが登場しているのが面白いですね。魏志倭人伝によると、当時の倭国ではまだ箸を使わず、人々は手で食べていたということです。箸は文化的で珍しい一種の文化的シンボルで、神話の物語のなかにも、それらが象徴的に使われているようです。
 また、稲田姫という名がしめすように、出雲では稲作が早くから行われていたことも暗示しています。
 オロチの体からすばらしい剣が発見された話は、斐伊川の上流一帯が古くから砂鉄の産地として知られ、この地域で鉄剣が造られていたことを示唆するといわれています。オロチの腹がいつも赤く爛れており、その血によって斐伊川が真っ赤に染まって流れたというのも、鉄分を多く含んだ赤い水が流れていたことを思わせるというのです。

 考古学的には、まだ出雲から弥生時代にさかのぼる鉄の鍛造所は発見されていませんが、早くから鉄の生産が行われていた可能性はあると思います。
 でも、興味深いのは、巨大なオロチをスサノオが斬り殺しているというストーリーそのものです。蛇は呪術のシンボルです。八俣の大蛇はその代表ともいえる呪術の権化です。それを殺したスサノオは、偉大な呪術王として新たにこの国に君臨することを認められた存在ということができるでしょう。
 出雲族の始祖スサノオは、まず葦原中つ国(日本)にやってきて、呪術をコントロールできる存在として自分をアピールしたわけです。


大きな土地の貴人


 スサノオは八俣の大蛇を殺したあと、稲田姫と幸福な結婚生活を送りますが、やがて根の国(冥界)にくだってしまう。その後、出雲神話の中心人物となるのは、オオクニヌシです。
 オオクニヌシは、スサノオの息子とも、数代あとの子孫ともされていますが、最初はオオナムチ(大己貴神)という名をもっています。
 このオオナムチという名は、本来、「オホナムチ」であったといわれ、「オホ」は大、「ナ」は土地、「ムチ」は貴人、すなわち「大きな土地の貴人」だといわれています。表記の上では、「大穴牟遅神(おほなむぢのかみ)」、「大穴持神(おおなもちのかみ)」と記されることもあります。
大国主命像・出雲大社  オオナムチ(オオクニヌシ)には、ほかにもじつに多くの名前があって、ざっとあげてみると、「葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)」、「八千矛神(やちほこのかみ)」、「宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)」などがあります。神話のなかで物語が展開するたびに、呼び名が変わっていくのです。
 また、『出雲国風土記』によると、オオナムチは広く国造りを行ったので、「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」とも呼ばれています。また『日本書紀』によると、「大物主神(おおものぬしのかみ)とも、国作大己貴命(くにつくりおおあなむちのみこと)ともいう」とあります。

 さて、英雄オオクニヌシは最初、兄弟の神々からひどい試練を受けています。赤い猪に似せた真っ赤に焼けた大きな岩が、山の上から転がり落ちるのを受けとめさせられたり、切った大木の間に挟まれて打たれたりする。実際、そこで2度ともオオクニヌシは死んでしまうのですが、母神の力によって再生しています。また、根の国にスサノオを訪ねていくと、そこでも蛇やムカデのいる部屋に入れられるなど、さんざんな目に遇っています。野原で火に取り囲まれたりもします。
 しかし、スサノオのもとを脱出するとき、スサノウの宝である太刀、大弓、琴を盗みだし、「大国主神」という名前を授かります。この名は国土を開き、国造りをする許可を得たことを意味しています。そして、少名彦神(すくなひこなのかみ)とともに国造りを始めるわけです。


古代出雲文化圏の範囲


 オオクニヌシは因幡の白ウサギの説話からわかるように医療の神としての性格があります。また、蛇や虫を避ける「まじない」を定めるなど、呪術の神でもあり、根の国からスサノオの神宝をもち帰ったことによって、祭祀王としての資格をそなえ「大国主神」となります。
 葦原中つ国の開発は、こうしてスサノオの後継者であるこのオオクニヌシによって行われた、となっています。オオクニヌシとともに国造りを行った少名彦神には、農耕神としての性格があるようです。
 ところで、オオクニヌシが行った国造りとは、列島のどのくらいのエリアに及んだのでしょうか。
 出雲だけのことなのか、それとも他の地域も含まれるのか。そのあたりが重要になってきます。それはオオクニヌシの活動範囲を知ることで推測できます。
 オオクニヌシはまず出雲を出て、兄弟の神々の迫害を受けたときは、紀伊の国(和歌山)まで行っています。また、越の国つまり北陸あたりから一人の女性を妻にしている。同様に、北九州の筑紫にも出向いている。
 また、『日本書紀』の第4の一書では、オオナムチは最初、朝鮮半島の新羅に天降ったのち、出雲に来たと伝えています。オオクニヌシやオオムナチという名は、ひとりの実在の人物を意味するというよりも、出雲族と総称できるような初期の渡来人の動きをシンボル化したものと、私は考えています。

 『出雲国風土記』には有名な国引きの説話があります。出雲は細い布のように狭い土地なので、新羅、高志の国(北陸)、隠岐など四つの地方のあまった土地を引いてきたというのです。大山と三瓶山を杭にして縄で引っぱったという。これはおそらく山陰から北陸にいたる地域、そして、朝鮮半島の新羅にもつながる出雲族の活動範囲を示していると考えられます。  また、天孫族が出雲族に国譲りを迫ったとき、それに反対したオオクニヌシの息子のひとりは、長野の諏訪まで逃げている。これは出雲族がすでに東日本にも深く及んでいたことを示しています。

出雲大社神楽殿の巨大な注連縄
出雲大社神楽殿の巨大な注連縄


 一方、出雲系の神社の分布についてみると、『延喜式』(927年)の神名帖に記されたものだけでも、出雲の名を冠する神社は丹波、山城、大和、信濃、武蔵、周防、伊予に及んでいます。大国主命を祀る神社も、能登、大和、播磨、筑前、大隅にあるということです(「出雲神社祭の成立」『古代出雲文化展』図録)。
 これはもちろん、中世に多くの神社が勧請を行い全国展開をみせる前のことで、このように広い分布はまったく異例だということです。つまり、出雲の神々は、ほぼ日本海沿岸を中心に、西日本から東日本、四国や九州にも及んでいる。大和に多いのも大変重要です。
   こうした活動の範囲をみると、オオクニヌシ、すなわち出雲文化が波及した地域は、山陰から北陸にいたる日本海沿岸だけでなく、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本、さらに朝鮮半島ともつながりがあったということになります。
 これを古代の日本列島の状況に照らして考えてみると、おそらく縄文時代の末期ごろ、中国大陸や朝鮮半島から農耕文化が伝わってくる最初の動きだったのではないか、ということができます。それが日本の縄文社会に次第に浸透し、新たな文化圏が形成されていったようなイメージが見えてくる。おそらく、縄文文化ともつながる呪術を基盤にした共通の宗教文化圏のようなものが列島には出来あがっていったのではないでしょうか。いわば、出雲文化圏とでもいうべきものです。


武力で奪った国土


 出雲の有名な国譲りは、高天原の神々が、オオクニヌシに葦原中つ国の支配権を譲るように迫り、ついに承諾させるというものです。国譲りは、もちろんあっさりとスムーズに行われたのではありません。
 高天原から、最初は天穂日命(あまのほひのみこと)が、次には天稚彦(あまのわかひこ))が国譲りの交渉役に遣わされますが、どちらもオオクニヌシに従ってしまって、高天原に帰ってこない。そこで武甕槌神(たけみかつちのかみ)と天鳥船神(あまのとりふねのかみ)(『日本書紀』では武甕槌神と経津主神(ふつぬしのかみ))が遣わされ、稲佐の浜に剣を突き立てて国譲りを迫るというものです。
稲佐の浜  オオクニヌシは、ふたりの息子に意見を求めようとします。すると、釣りに出ていた事代主神(ことしろぬしのかみ)は国譲りに承諾しますが、もうひとりの息子、健御名方神(たけみなかたのかみ)は反対します。
 そこで、健御名方神と武甕槌神の間で力競べが行われ、オオクニヌシの息子が敗れてしまいます。そのために、とうとう国譲りが実行されるのです。敗れた健御名方神は諏訪まで逃げ、その地に引き籠もって諏訪神社の祭神になったとされています。
 いずれにしても、これは国譲りという説話になってはいますが、実際は、剣を突き刺して迫り、そのあげく力競べをするというように、武力で奪い取った色彩が強い。いわば、オオクニヌシが造りあげた国土を天孫族が武力で奪っているわけです。

 ところが、『日本書紀』の第二の一書は、国譲りに関して独特の話を載せています。
 オオナムチ(オオクニヌシ)のもとに高天原のふたりの神がきて、「あなたの国を天神に差し上げる気があるか」と尋ねると、「お前たちは私に従うために来たと思っていたのに、何を言い出すのか」と、きっぱりはねつけます。すると、高天原の高皇産霊尊(たかみむすひのみこと)は、オオナムチのことばをもっともに思い、国を譲ってもらうための条件を示すのです。
   その一番の条件は、オオナムチは以後冥界を治めるというものです。さらに、オオナムチの宮を造ること、海を行き来して遊ぶ高橋、浮き橋、天の鳥船を造ることなどを条件に加えます。オオナムチはその条件に満足し、根の国に下ってしまうのです。


出雲国か、葦原中つ国か


 こうした出雲の国譲りは、ふつう、出雲国だけの話と考えられていました。朝廷に従わなかった出雲国がやっと大和朝廷に引き渡されたというわけです。これによって、大和朝廷の葦原中国の平定は完了することになります。
 これまでは、このような図式で理解されることが多かったようです。
 ところが、『出雲国風土記』はまったく別のニュアンスを伝えています。
 国譲りにさいして、オオクニヌシ(『出雲国風土記』では大穴持命(おおなもちのみこと))は、次のようにいうのです。
「私が支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。しかし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する神領として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて国を守ろう」
 つまり、出雲以外の地は天孫族に譲り渡すが、出雲だけは自分で治める、とオオクニヌシは宣言しているのです。譲るのは、出雲の国ではなく、葦原中つ国そのもの、すはわち倭国の支配権というわけです。

 このように『出雲国風土記』では、出雲族は葦原中つ国そのものを天孫族に譲り渡しています。逆にいうと、天孫族は出雲族からそれを奪っている。列島の支配者としては最初に出雲族がおり、そのあとを天孫族が奪った構図が見えます。
 これを上でみた出雲文化圏という視点でみると、出雲族の支配域を天孫族が奪い取った。つまり大和朝廷は、列島を広く覆っていた出雲文化圏を、自分たちの色に塗り替えようとしたのではないか、と考えられます。すでに普及していた出雲の神々への信仰を、天照大神という新しい信仰へと、置き換えようとしたのではないでしょうか。
 しかも、この構図はそのまま、邪馬台国から大和朝廷への王権の移行を示している、と考えることもできます。出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へと、倭国の支配権が移動した事実を伝えているのではないか。大和朝廷はおそらく、邪馬台国の王権を武力で簒奪している。そう考えられるのです。
 神武東征伝説や、出雲の国譲り神話が語っているのは、このような古代日本の隠された構造ではないかと私は思います。(2005年6月)




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