神社、神社信仰の起源について
  1. 神社信仰の起源は照葉樹林複合文化にある
  2. 日本文化の基層は照葉樹林文化である
  3. 神社の起源を朝鮮とする論拠は?
  4. 日本の中の朝鮮文化を批判する
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(関連ページ) 万葉の花と日本の民俗文化 日本人、日本文化と植物 比較言語学から見た日本語と朝鮮語

【まとめおよび結論】:神社信仰は中国江南地方を発祥地とするアジア南方の亜熱帯系照葉樹林文化に付随する習俗であるが、日本列島の風土に適合して独自の発展をとげて、今日見るような日本特有の荘厳さおよび優雅さを備えて洗練され現代日本人の生活に密着した神道となった。冷涼な温帯にあって南方文化の希薄な朝鮮半島に神道および神社の起源を求めるのは誤りである。また、神道が中国の道教から派生したという説もあるが、むしろ神道、道教ともにアジア南方の古代原始信仰に起源を発すると解すべきである。また、日本の神社・神社信仰で特筆すべきことは、日本において発生したものということではなく、朝鮮、中国など近隣諸国に例を見ないほど独特の形式にまで分化した点である。

日本人の生活に根付いた神社信仰
 平成18年の正月に神社に参拝した日本人の数は9000万人を越え、近年では最多の初詣客数と報道された。その数字がどの程度信頼できるものかわからないが、各地の神社には筆者の家族4人を含め老若男女のわけ隔てなく人が溢れていたことは確かなので、正月恒例の習俗として日本人の生活に深く溶け込んでいることは疑う余地はないだろう。ところが、最近、韓国人の参拝も目にするようになった。どうして韓国人とわかるのかというと、まず参拝方式が日本人と異なり賽銭も出さないので観察していたところ、日本語以外の言葉すなわち朝鮮語らしきアクセントがその口から飛び出してきたからである。日本の習俗に理解を示したのかと思いきやそうでもないらしい。韓国人の間では神社の起源は朝鮮にあると信じられているのだという。和服で盛装して神社に参拝する若い女性も目立つ正月の初詣も日本の伝統習俗”hatsumode”として海外にしばしば紹介されるらしい。なにしろ9000万人も参加するのだから、とりわけ異文化圏にある欧米人の目には珍しい優雅な習俗に見えるようで、最近では青い目の参拝客もちらほら見るようになった。どうやら韓国人は欧米人によってブランド化されたイメージのある「優雅な初詣」が面白くないようで、神社の起源は韓国にあると主張したいのかもしれない。韓国人が何でも自国に起源があると主張するのを「ウリナラ起源」と世間ではいうそうだが、神社に限らず日本の文化、特に世界的によく知られた文化の多くは必ずといってよいほど「ウリナラ起源(オリジナルをもじってウリジナルという言葉も造られている註1)」にされるらしい。20年ほど前まで筆者はある国立大学に奉職していたが、韓国人の留学生からその類を聞かされたことはあった。ただそれはきわめて控えめであり、その理由までは語らなかった。それ以降は韓国人との付き合いはなかったから、「ウリナラ起源」に触れる機会はなくなった。韓国人がよくいうことに、「古代日本の草創期は韓国文化の影響なくして日本史は語れない。日本古来の伝統文化は古代韓国三国(高句麗、新羅、百済)からの渡来人によってもたらされた」というのがある。地政学的に考えて土地が痩せて食糧供給のままならない朝鮮半島で独自の文明が発生するとは考えられないのだが、韓国の建国は韓国人独自で造り上げたとか、韓国文化は朝鮮民族だけで創出したとか、あたかも朝鮮半島が世界の文明の発祥地であるかのような言動が目立つ。古代の三韓時代、朝鮮半島のソウル以北が400年の長きにわたって漢帝国の直轄領であったにもかかわらず、韓国の教科書には中国文明の寄与については最小限の記述に留まっているのは驚くほかはない。一方、高句麗及びその末裔である渤海が、旧満州に起源を発する、いわば中華帝国の“地方政権”にすぎないのは誰がみても明らかだが、これにもまず触れることはない。こうした韓国人の民族意識の過剰な歴史観は戦前の皇国史観も顔色なしというしかないが、不思議なことに日本人の中にはこれを許容するきわめて寛大な人たちがいる。また、始めに話を戻すが、現在の朝鮮民俗文化と日本民俗文化を比較する限り、神社が朝鮮起源であるという実感はおよそ感じられない。何故なら朝鮮半島には神道に直接結びつくような信仰・習俗は存在しないからである。単に実感だけで神社の起源は朝鮮ではないというのはあまりに非科学的なので、本当に神社の起源が韓国にあるのか、誰がそういっているのかきちんとした論拠を挙げて調べてみようと思った。筆者は、Wikipaediaを含めてネット上の情報はあまり信用していないので検索サーフィンは滅多にしないが、さすがに「神社の起源」となるとそう簡単には文献は探せないので検索したところ、「民団湘南」のホームページに堂々とそう書いてあるのがわかった。つまり、在日韓国人の公認団体がそう主張しているのであり、おそらく韓国で主張されているのと同じと思われる。最近の韓流ブームの追い風だろうか、そのものずばりと書いてあった。それによると、驚くことに今年(2006年)は神社信仰が朝鮮で発祥してから2000年になるといい二度びっくりした。日本では神社信仰がいつ発生したか明らかでないとされているので2000年祭はないだろう。金達寿氏の「日本の中の朝鮮文化」(講談社、1983年)にも日本の神社に祭られている神はほとんどが新羅の神様と書かれていたが、神社そのものが韓国・朝鮮の起源とはしていなかったように思う。それに比べると民団湘南のホームページは神社そのものも含めて神道まるごとが韓国の起源であるかのように断言している。不思議なことに、韓国の文化や習俗を紹介した本にも神社の起源らしきものはどこにも見えず、これに関しては民団湘南も全く言及していない。すなわち、低次元のウリナラ起源論と同じく都合の悪い部分は頬被りしているのである。神社の朝鮮起源説は一部の日本人の間にも真説として流布しているようであり、あれほど「民団湘南」が自信をもって断言するのだから、有力な証拠があるはずだと当初は思ったものだった。ここでは神社信仰の要である神道を日本固有の文化とする視点から離れて、広くアジアに目線を置いて民俗学的視点から、朝鮮半島に神社の残滓があるかどうか考証してみよう。
神社信仰の起源は照葉樹林複合文化にある
 神社で行われる習俗といえば、やはり注連縄(しめなわ)と幣(ぬさ)、禊(みそぎ)、お祓いを連想するであろう。筆者は、約10年ほど前、フィリピンのパラワン島のタナバグ族の集落で民族植物学調査研究を行ったことがあるが、パグディワータと称される呪術療法士の住居で天井に飾られた幣に似たものを見てびっくりしたことがある。右の写真で右側は呪術療法士の住居で天井に幣らしきものが飾られているのがわかるだろう。右側の老女がパグディワータであり、当時、83歳(自称)であり、左の若い女性がその後継者である。病気の治療も神にささげて“禊を済ませた薬草”を用い、写真左側のように手にシデのようなものを付けて神社のお祓いにそっくりの仕草で治療を行うのである。神社の神事に関わるもので似たものはアジアの南方地域に想像を超えて広く分布しているのではなかろうか。フィリピンと日本の原始信仰が同根というつもりはないが、世界の各地のシャーマニズムには共通の類似性というものがあるのかも知れない。このことから日本とか朝鮮半島とか狭い地域で起源を云々しても意味はないと確信するに至ったのである。
 全ての神社に社殿があるわけではない註2が、やはり重厚な神社造りは日本の神社の象徴でもあり、拝殿の前には賽銭箱が置かれているのは承知の通りである。神社建築にも、神明造り・大社造り・春日造りなどいくつかの様式に分類されるが、そのいずれにも千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)があり、高床式の掘建て建築(中には礎石式のもある)という共通の特徴がある。また、入り口には必ず鳥居があって、これまた神明鳥居、明神鳥居、鹿島鳥居、八幡鳥居など多くの様式に分類される。このうち、神社に特有とされる高床式建物、千木・鰹木は、広くアジアに目を向けると揚子江流域の江南地方およびタイ、ミャンマーなどの東南アジア山岳部に住む少数民族社会にその原型と考えられるものが現存するのであり、必ずしも日本固有のものではなさそうである(森田勇造、「倭人」の源流を求めて-雲南・アッサム山岳民族踏査行-、講談社、1982年)。日本の神社のシンボル的存在である鳥居は朝鮮の蘇塗(ソト)あるいはソッテ(鳥竿)に起源があるとしばしば指摘されている。蘇塗とは一対の石積みの塔からできた聖なる門であり上に木鳥を置くこともあって、『魏志東夷伝』(韓伝馬韓条)に馬韓の民俗として記述されている。一方、ソッテは一本の木の先端に木彫りの鳥をつけたもの註3であり、蘇塗の隣に昇竜を形どったもう一本の柱とともに建てられる。『後漢書』ではこれを蘇塗として記述しているというように、蘇塗とソッテはもともと起源が同じであり、石積みの塔という前者の形は北方ツングース系の影響を受けたものらしい。「鳥居」の名前は鳥竿の「鳥が居(とま)る」ことに由来すると考えられているようだが、左の写真に示す蘇塗(鳥越憲三郎、「古代朝鮮と倭族」、1992年、中公新書より引用)とソッテ(鳥竿;大和岩雄、「神々の考古学」、1998年、大和書房より引用)を見ればわかるように、いずれも日本の鳥居の形態とは程遠いことがわかる。実は、鳥居と形態の似たものは雲南省や東南アジア北部の山岳地帯の少数民族の集落などに見られ、左右二本の柱の上に木を横に渡し注連縄が飾られるという(森田勇造、「倭人」の源流を求めて-雲南・アッサム山岳民族踏査行-、講談社、1982年)。ただ、これらの地域では鳥居は「社(やしろ)の門」ではなく「共同体の門(ロコーン)」である点が日本の鳥居と異なる(鳥越憲三郎、「古代朝鮮と倭族」、1992年、中公新書)。また、木彫りの鳥をつけたトーテムポールのようなもの、つまり朝鮮の鳥竿に似たものもアジアに広くあり、江南ミャオ族は先祖の霊を招くとしてとして、そこで歌垣を行う風習を今も伝えている(“柱のダイナミズム”、『自然と文化』33号、1991年;“アジアの柱建て祭り”、『自然と文化』61号、1999年)。朝鮮半島に近い対馬の天神多久頭魂(あめのたくづたま)神社には蘇塗に似た一対の石塔が鳥居とともに並んでいるのが見られる(右写真の赤い矢印で指した石積みの塔)。しかし、日本本土にはそれが存在した痕跡すら残されていないので、日本の鳥居はやはり江南地方に起源を発するものであり、朝鮮から蘇塗やソッテが渡来して鳥居に発展したと考えるのは困難である。対馬の石塔は応永の外寇註4(1419年)など幾度の朝鮮からの侵略者が建てた名残ではないだろうか。以上をまとめると、日本の神社は、江南から伝わった複合文化を基層として、日本で独自に分化した特有要素が付加し、その規模、優雅さ、荘厳さを併せ持った固有の形式になったといえる。日本の神社信仰(神道)に似たものは江南地方とその周辺地域にあって、江南を起源としておそらく稲作などとともに複合文化として古い時代に日本列島まで伝わってきたと考えられる。
 神社信仰は明らかにシャーマニズムの一種であり、中国江南地方に起源を発するものであることは既に述べた。通例、類縁のシャーマニズムは類縁の風土を母体として生まれるといわれる。日本と江南地方あるいは東南アジア山岳部には、植生学でいう「照葉樹林帯」という亜熱帯要素の濃厚な森林帯が原植生として存在するという共通性がある。このカシ、シイなど常緑広葉樹からなる「照葉樹林」を原植生とする温暖多湿な地域は、ヒマラヤ中腹の亜熱帯地域、タイ、ミャンマーを中心とする東南アジア大陸部の北部山岳地帯、中国の雲南・貴州の高地から江南地方、台湾、南西諸島を経て日本列島の南半部まで東西にベルトのように伸びている(右図:クリックすると拡大図640dot x 844dotを見ることができる)。この地域では、土着信仰のみならず、いれずみと断髪、歌垣、アニミズム、山岳信仰、赤米と穀霊信仰、そして農具や木・竹・わらの道具、下駄、草履などの日本人になじみのあるものも共通して見られる。また、これらの地域の基盤となる農耕の形態を中尾佐助は「照葉樹林農耕文化」と称したが、熱帯アジアの根栽農耕文化を基層としてサバンナ農耕文化からヒエ・アワ・キビなどのイネ科雑穀の栽培技術を導入し、亜熱帯照葉樹林帯の風土に適応した形に変質させた複合文化であり、世界的に見てこの地域に特有のものである。その共通の特徴としては、ワラビ、クズの根、カシ、トチなどの堅果を水に晒してあく抜きする技法、養蚕から絹を加工する技法、ウルシの樹液から漆器をつくる技法、柑橘類の栽培と利用、麹を用いた酒の醸造などが挙げられる。また、納豆の製造もこの地域が起源であって、粘つく納豆は日本独特だが、京都に伝承される大徳寺納豆、愛知県豊橋市に伝承される浜納豆などの乾燥納豆は雲南地方にも見られる。日本は発酵食品の種類の多いことで世界的に知られるが、それもアジアの照葉樹林帯に共通する特徴である。そのほか、焼畑の開始期に行われる儀礼的狩猟や、その収獲期に行われる八月十五夜の祭り、そして鵜飼いの風習など文化人類学、民俗学的観点から興味深い習俗、儀礼もこの地帯に広くみられる。とりわけ、鵜飼いに関しては、山口県土井が浜遺跡(弥生時代)から鵜を抱いた人骨(通称:鵜を抱く女)が出土した例註5や、群馬県保渡田八幡塚古墳(5世紀後半)ら鵜飼いを表現したとみられる水鳥形埴輪註6が見つかった例がある。更に、記紀神話などの神話や伝説、万葉集などの詩歌や絵画にも鵜は登場しており、天の神と地上の使者で霊魂を運ぶ特別な存在であったと考えられている。鵜飼いはこの地域からインド東北部、ベトナムなどアジア一帯で広く行われてきた風習であり、典型的な南方的習俗である。
日本文化の基層は照葉樹林文化である
 さて、以上述べたことをまとめると、少なくとも神社信仰の基層は中国江南地方を中心にアジア南方に広がる照葉樹林文化の一要素であって、古い時代に稲作などとともに複合文化として日本列島に渡来したと考えるのが自然であることがわかるだろう。もう一度、上に示した植生図で照葉樹林帯を見れば、日本列島の関東地方と北陸地方を結ぶ線より南の低地・丘陵地は、ヒマラヤから中国江南に至る照葉樹林帯の延長線上の東端にあることがわかる。すなわち、この複合文化ベルトは古代日本の全域をカバーし、照葉樹林文化の中心地の一つであったといえるのである。一方、朝鮮半島は南端部海岸地帯がわずかにかかる程度であり、古代朝鮮文化の栄えた地域は全てその外側に位置し植生学的に暖温帯落葉樹林帯に属することがわかる。朝鮮半島で照葉樹林と落葉樹林とを分けるラインは、最寒月の平均気温が摂氏2度の等温線、すなわちシイノキの分布線にほぼ一致する。暖温帯落葉樹林帯は照葉樹林帯より冷涼かつ乾燥し、また朝鮮半島では河川の規模の割には沖積平野の発達が悪く、稲作などの照葉樹林農耕には向いているとはいえない。神社の起源を朝鮮とし日本に伝わったとするならば、江南から朝鮮半島に複合文化が伝えられあと南下しなければならない。実は、このルートは日本列島への稲作の伝来ルートとしても密接な関係がある。考古学的証拠に基づく従来説では、江南地方から中国大陸を北上し遼東半島か山東半島を経て朝鮮西部に伝えられ、そこから南下して対馬海峡を越えて北九州に伝えられたことになっている。亜熱帯系複合文化の伝播ルートとしては、冷涼な遼東半島経由はまず無理だが、山東半島としてもかなり無理があるといわざるを得ない。このルートでは朝鮮半島では現在のソウル付近から韓国・北朝鮮国境付近が伝播地であり、古代からこの地域は山東半島の華北とともに、優勢な騎馬民族文化や異質の農耕文化の強い影響下におかれてきたので、前述したような多様な江南の文化要素がそのままの形で日本列島まで維持、伝播されるかどうかはなはだ疑問である。また、前述したような日本の照葉樹林文化に残されている多くの南方系文化要素が朝鮮半島南部ではみられないので、民俗学的観点から朝鮮半島を経由して日本列島に渡来したという説に疑問符を付けざるを得ない。むしろ、江南(多分、揚子江の河口付近)から日本列島へ直接、あるいは南西諸島経由で渡来したと考えるのがより自然である。神社信仰は、前述したように本質的に照葉樹林文化に付随した一要素であり、東アジア極東地方では豊かな照葉樹林文化を育むだけの豊かな風土に恵まれた日本列島南半部でしか発達、多様化し得ない。とすれば、必然的に稲作伝来ルートも修正せざるを得ないことになるが、最近、稲の出土品のDNA解析結果などの科学的証拠から、これまでの稲の伝来ルートの再検討を迫るようなデータが提出されているので朝鮮半島経由以外のルートが教科書に掲載される日も近いだろう。これについては別ページで紹介したい(現在準備中)と思う。
神社の起源を朝鮮とする論拠は?
 日本の神社信仰は八百万の神を祭るのが特徴で、社殿があるものとないもの註2、神木や森そのものを神域として祭るなど多様な形態で残っており、今日でも正月に国民のほとんどが神社に参拝するなどその習俗は生活に深く根付いている。一方で、韓国には日本の神社のようなものがなく、粗末な祠の類がまれにあるくらいで、ムーダンと称する巫堂(女巫のことであり、司祭、巫医、卜占、霊媒などのことを行なうので、日本でいえば恐山のイタコに似たものだろうか)が日本の八百万の神々に相当ものを祀っているに過ぎず、それほど生活に深く根付いているようには思えない(崔吉城・日向一雅編、「神話・宗教・巫俗 日韓比較文化の試み」、風響社、2000年)。文化・習俗の起源地であれば、その民族が消滅しない限り、通例、時代とともに発達してその形態が分化していくはずだが、朝鮮では退行的に消滅しようとしているように見える。これに対しては、後に中国から仏教を導入したとき、朝鮮半島のシャーマニズム信仰は壊滅的打撃を受けて断絶したと説明されることが多い。しかし、李氏朝鮮が儒教を国教としたとき、仏教を否定し寺院の大半は失われたが、それでも仏国寺などのように辺境の地に残っているのだから、それぐらいのことで消滅するとは考えにくい。また、古代朝鮮に日本の神社の起源となるような具現化した信仰形態の証拠が残されていないというのも奇妙である。その他にも韓国・朝鮮系の人たちが神社の起源を朝鮮とする論拠があり、多くの日本人がだまされやすい俗説として再び民団湘南のホームページを引用して紹介しておこう。三国史記によると紀元6年春正月に新羅二代目の南解王(ナムヘオウ)によって祖神廟が祭られたという記述があるが、これをもって神社の起源と主張する(これによれば2006年は神社が発祥してから2000年となる)が、その以上の論拠は示されていない。その祖神廟が神社建築の特徴、すなわち高床式の掘建て建築で千木、鰹木をもっていたのか全く不明である。朝鮮半島では高床式建築は金官加耶の故地(日本でいう任那)である金海市鳳凰洞から発掘された2世紀~6世紀の集落遺跡など半島南端部にわずかしか発見されていない。神宮という名前が朝鮮由来であるというのは明治時代の皇国史観論者の金沢庄三郎らが主張した(「日鮮同祖論」、成申書房、1978年)ことであるが、「内鮮一体」というイデオロギーを背景にしたものであることは明らか(これには異論があるが、筆者はそう感じた)であり、学術的に十分な論を尽くして帰結したものかどうか、すなわち客観的事実に基づくかどうか疑問である。同様に、神社という語が『墨子』にあり、神宮は2世紀後半の『詩経』の鄭玄註の中や『三国史記』において5世紀後半から6世紀に出てくる(司馬遼太郎他編、「朝鮮と古代日本文化」、中公文庫)というのも、神社信仰という日本の神社でもっとも重要なソフトウエアに関して議論を深めたとは言い難い。すなわち、神社、神宮という用語が朝鮮、中国にあったから日本の神社は朝鮮、中国に起源があるという、内容に乏しい語源論とほとんど同じ発想なのである。
 次に、カミ(神)の語源が朝鮮語に由来するというお話をしよう。既に日本語と朝鮮語は意外に遠縁であり、日本語の祖語が朝鮮語ではありえないことは比較言語学から結論が出されており(比較言語学からみた日本語と朝鮮語を参照)、意味はないという意見もあろう。しかし、それがどれだけばかばかしいものか知っておいても無駄ではないだろう。韓国の教科書に必ず出てくる建国神話に檀君伝説というのがある。まず、その要約を下に挙げておく。

檀 君 伝 説
 桓因(ハンイン)の子、桓雄(ハンウン)が3000人の部下を連れて天符印などの宝器を持って壇の木(センダンだろうか)の下に降りてくるとそこに熊と虎がいて、二匹とも人間になりたいと桓雄に願った。そこで桓雄は熊と虎にヨモギとにんにくを与えて、百日間、日光に当たらず蟄居すれば、人間に生まれ変われると言いわたした。しかし虎のほうは我慢できず途中で逃げ出し、熊は百日間がんばって、美女として生まれ変わった。やがて桓雄はその美女と結婚、その後の二人の間に生まれたのが壇君王検で、壇君朝鮮すなわち朝鮮の国を最初に建てた王となった。

 熊註7を朝鮮語では「コム」というのだが、これが訛って日本の神様の「カム(カミ)」となったという。神の依り代の樹木を朝鮮語で「カムナム(神ノ木)」といい、これが訛って神奈備(カンナビ)と呼ばれる神社語ができたともいう。アイヌ語でカムイは神というのはよく知られているが、これも朝鮮語の転じたものだという。これは、新井白石が「東雅」の中の記述を誤って解釈しているようだ。「東雅」の一節を下に引用しよう。

東 雅
 又カミといひし語、転じてクマともいひけり。(中略) 熊の字読てクマといふ事は、もとこれ百済の方言に出し也。即今も朝鮮の俗、熊を呼びてクムといふは、なを其古言の遺りたりける也。我国におゐて漢字通はし用ひられし初は、彼国の博士等ぞ伝へたりける。されば其字を読む所のごとき、をのづから彼方言の相雑らざる事をも得べからず。其漢字を用ひて、我国の事を記しぬるに及びて、古の時にクマといひし語の、たまたま熊の字を読むに同じかりければ、其字を借りて読てクマといひしとはみえたれど、此にしていふ所のごときは神也。彼にしてよぶ所のものは獣也。其義もとより相合ふべくもあらねば、古の時にカミ亦転じて、クマといひし義は、遂に隠れて失けり。

 白石によれば、古代日本では現在でいう「神」を「クマ」と称しており、百済の博士が「熊」の字を「クマ」と読むように伝えたため、「神」は「カミ」と読むようになり、「クマ」の古名は廃れたという。この説が正しいとすれば、古代日本語の「クマ(神)」と百済語の「熊(クマ)」は偶然の一致らしい。民団のホームページはこれを都合の良い(いわゆるウリナラ起源)ように曲解しているのである。しかし、白石の説はやはり「語源俗解」にすぎないらしく、現在、これを支持する人はいないようだ。そういえば、ツバキの語源も、白石は「艶葉木」語源説を「東雅」に記しているが、これをまともに受け入れる識者はいない(→ツバキの語源は別ページを参照)。神社に行くとたいてい狛犬(こまいぬ)が置かれているが、「高麗犬」とも書くように、「コム」から転じた朝鮮由来であるという。すなわちコマの語源をコムに由来するとし、壇君説話に起源があると考えるのである。熊が聖なるものであり崇められるのは檀君説話に由来するのだという。狛犬が熊に由来するというという説は日本でも存在する(坂元義種、“狛犬の由来”、「古代の日本と渡来の文化」、学生社、1997年)。高麗は高句麗であって、古代の中国人は「貊」と蔑称したという。当時の朝鮮半島人は貊がどんな動物であるか知らず、熊と置き換え、「コム」が訛って「こま」となり、高句麗をしてそう呼ぶようになったらしい。この説の提唱者によれば、そう読んだのは高句麗を嫌った百済人としているが、これを逆の発想で考えたらどうだろうか。鬱蒼たる森林に恵まれた日本列島には熊が原産し、決して珍しい存在ではなく時々人里に出ては悪さをしていたはずである。高句麗とは朝鮮半島において何度も戦火を交えており、当時の日本人にとっては不倶戴天の敵であった。中国人が「貊」と呼んでいたのを、「狛」に変え、実在する動物である熊に置き換え、高句麗の蔑称として高麗の字も当てるようになった。そして朝鮮語の「コム」は日本語の「クマ」が訛ったものである。これを否定できるだけの論拠を集めることは難しいのではなかろうか。ついでに、狛犬について補足すると、これは古代オリエントのスフィンクスかインドの獅子像に起源があり、ユーラシア全域に広がったものであり、その起源は、日本は無論、中国、朝鮮でもない。神社社殿の内外に対になって置かれている霊獣で、正確にいうと、向かって右側の口を開けているのが獅子、左側の角のあり口を閉じているのが狛犬だが、一的には両方を併せて狛犬と呼んでいる。沖縄には獅子を意味する「シーサー」があり、民家の屋根につがいで飾られているが、起源は同じである。仏教とともに朝鮮半島から伝わったと考えることが多いが、獅子舞の獅子も起源は同じで、このことから伝来ルートは一つではなく、台湾、南西諸島の南島経由、中国からの直接渡来、朝鮮半島経由の3つのルートで伝えられたようだ。狛犬は日本では犬と誤認されてそう呼ぶようになったといわれるが、神社・寺院に魔除の守護獣として置かれるようになったのは、平安時代や鎌倉時代になってからでそれほど古い時代ではない。伊勢神宮など古い神社には狛犬は置かれていないことからわかるように、神社信仰とは直接の関係はなかったのである。以上から、民団」という在日韓国人団体のホームページがいうように、狛犬(高麗犬)は朝鮮の起源ではなく、朝鮮半島は単なる伝来の通過点であったことがわかるだろう。また、神社といえば誰もが「お祭り」を連想するだろう。そして神輿を担ぐと必ず「わっしょい」という掛け声を発するが、これが朝鮮語の「ワッソ」から転じたという話も聞いたことがあるだろう。これを始めて主張したのは金達寿氏といわれ、もう一人の語源俗解の大家として知られる李寧煕氏註8の『フシギな日本語』(文芸春秋、1992年)にも解説されている。実際、大阪には「四天王寺ワッソ」というお祭りもあって、今では多くの日本人が信じているようだ。それはごく最近始まったもので、主催者が「神輿の“ワッショイ”の掛け声が韓国語の “ワッソ”が日本語的に変化したと考えて名付けた」といっているように、それが真実であるかどうかはどうでもよかったらしい。“ワッソ”の意味は「(神が)来た」という意味だという。朝鮮語に詳しい人の話では、「ワッソ」という表現ができたのは19世紀になってのことだといい、それより古くからあるといわれる「わっしょい」の語源とはならない。また、言語学者、国語学者(韓国人も含めて)でこれを支持する人はさすがにいないようだ。結局、“ワッショイ”が“ワッソ”からきたというのは、金達寿氏の言葉の遊びを韓国・朝鮮系の人たちが信用してしまった結果なのかも知れない。「四天王寺ワッソ」は、日韓友好のため、始めた祭りのようだが、韓国人や朝鮮人が日本の風習に馴染んでくれるようにと名付けたようだ。因みに、ネパールのヒンズーの祭りで「山車」を引くときの掛け声は「うぁるしぇっ、うぁるしぇっ」という。「る」の音はほとんど聞こえないので、「わっしぇっ、わっしぇっ」といっているように聞こえ、こちらも「わっしょい」に似ていると思うが如何だろうか。神輿を担いで「わっしょい」とするのは、朝鮮半島にはないようで、やはり照葉樹林複合文化の一要素のようだ。滋賀県野洲町三上ではサトイモの葉柄から神輿をつくって氏神社に奉納する「ずいき祭」というのがある。サトイモは典型的な南方系根菜なので、朝鮮半島に起源を求めるような神社ではこんなお祭りはあり得ないのではなかろうか。
 日本の神社の多くは神域として鎮守の森があるが、朝鮮にあると聞いたことはない。しかし、韓国・朝鮮系の人たちによれば、カムのモリ(頭)が杜となったのが「鎮守の森の起源」だという。ばかばかしくてまともに相手にしておられるかと思うかもしれないが、民団湘南という公認団体のホームページに書かれているからには、ぐっとこらえて何らかの論拠を挙げて反論ではなく説得を試みよう。まず、前述したように、日本の神社は照葉樹林文化の一要素なので、鎮守の森は照葉樹林ということになる。しかし、朝鮮半島には、照葉樹林といえるほどのものはなく大半は冬に葉を落とす暖温帯落葉樹林なので神の宿る鎮守の森にはふさわしくない。少なくとも、農耕民族の間では落葉樹林を神域として祀る例はないようだ。林業関係者の間では落葉樹林を神として奉ることがあるかもしれないが、それは林業という職能に基づくものなので省かなければならない。広くアジアを見渡せば、鎮守の森信仰も日本に特有のものではなく、沖縄の御嶽(うたき)や中国の照葉樹林帯に見られる森林信仰も同類であり、江南地方に起源を発する照葉樹林文化に共通するものである。古代の神事に使われたサカキ、ツバキシキミはいずれも常緑照葉樹であることも偶然の一致ではない。古事記に「倭のこの高市に小高る市のつかさ新嘗屋(ニヒナヘヤ)に生ひ立てる葉広ゆつ真椿 そが葉の広りいましその花の照りいます 高光る日の御子に 豊御酒献らせ 事の語り言も是をば」(仁徳天皇「八田若郎女」)とあるように、ツバキは美しい花とともに青々とした艶のある葉を命溢れる証として神事に用いられてきた。冬に葉を全て落とす落葉樹では全く話にならないのである。朝鮮半島では照葉樹林の発達は悪く、シキミの自然分布はなく、サカキはわずかに済州島に自生が限られ、ツバキも南端部にしか自然分布はない。すなわち、朝鮮では最南部の辺境以外に照葉樹林は存在しないから、鎮守の森は朝鮮半島に存在しないと結論してもよいだろう。
 神社建築もいくつかの様式に分類されるが、現存する神社の多くは寺院建築と大差のない荘厳な社殿を有する。それは6世紀に伝えられた仏教の影響による神仏混合の結果であるが、それでも違いを見ることができる。その一つは屋根に千木と鰹木の飾りの存在であり、これはどこの神社でも見ることができるが、簡略化されていることも多い。神社でもっとも古いとされる伊勢神宮は20年ごとに社殿を建て替える(式年遷宮という)が、もっとも古い神社建築(神明造りという)を継承していて神社建築の起源を見ることができる。左の写真(豊受大神宮御饌殿:クリックすると拡大画像になる)にみるように、屋根に大型の千木と鰹木があるほか、現在みるような多くの神社の社殿とは違って完全な掘建て式の高床建築であり、また多くの柱が床を支え、その上に板を組み合わせて壁を造る板倉形式を特徴とする。この基本的な特徴は中国の江南地方に起源がある高床式建物と同じなのでである。神明造りの神社建築とよく似た家型埴輪(写真右はその復元図)が継体天皇陵とされる古墳(大阪府高槻市今城塚古墳)から出土している註9ので、伊勢神宮の様式が古代から大きな変化なく継承されたものであることがわかるだろう。神社の起源が韓国・朝鮮人が主張するように朝鮮半島にあったとするなら、三国史記にある祖神廟もこのような様式でなければならない。前述したように、高床式建築は熱帯から亜熱帯の湿潤気候帯に見られる様式であり、乾燥冷涼な気候帯に属する朝鮮半島でそのような建築様式が発達するとは考えられない。一方、日本では鉄器が伝わる前の縄文時代晩期から高度な組木技術のあったことが富山県の桜町遺跡からの出土品註10で明らかにされている。これは磨製石器だけでつくったものだが、法隆寺を建てるのに用いられたのと同じ組木技術が古い時代の日本にあったことを証明するものであり、日本の「木の文化」が渡来技術だけで成立したものではないことを証明するものとして注目される。一般に、伊勢神宮のような完全な掘建て式神社建築では柱は腐食しやすいので、一定期間ごとに造替(建て替え)が必要となる。基本的には伊勢神宮系神社は造替を原則としているが、伊勢神宮を除いてほとんど修理にとどめるようになり、建築様式も掘建て式から礎石式に移行している。伊勢神宮系以外の神社はかなり前から寺院式の礎石式を採用しており、科学的証拠のある日本最古の神社建築である京都の宇治上神社(平安後期の1060年頃)も礎石式である。既に述べたように、社殿は必ずしも神社信仰に必須というわけではない註2ことに留意する必要がある。仮に社殿をもたない形式がもっとも原始的な神社であるとすれば、社殿を建てること自体、仏教が伝来して各地に建てられた寺院の影響によるものと考えられる。しかしながら、神社の社殿が頑なに仏教寺院と一線を画しているのは、伊勢神宮に代表されるように神社建築の基本形が千木、鰹木を伴う高床式の萱葺き掘建て建築という点にある。神社信仰が江南に起源を発する南方文化を基層とするから当然であるが、日本のように春季から秋季にかけて高温多湿の気候の下ではこの様式が腐食しやすく耐久性に劣ることは否定できない。堀建て式は次第に礎石式の寺院様式に移行していったが、かなり後世まで掘建て式にこだわった神社もある。平安時代に高さ16丈(約48メートル)という奈良の大仏殿に匹敵する巨大社殿が出雲大社にあったという伝承を裏付ける遺構が最近発見された(福山敏男監修、古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて、2000年、学生社)。それほどの巨大建築でありながら、やはり多くの柱を並べた掘建て式建物であり、この巨大社殿は30年から50年ほどで自然倒壊したという記録がある。したがって、寺院の礎石式を踏襲せず掘建て式にこだわったことに何らかの宗教的意味があると考えるのが自然だろう。靖国神社に祀られた戦没者の数を「柱(はしら」の単位で呼ぶのは、神社信仰が地面を掘って建てた柱そのものに大きな宗教的意味があると考えねばならない。そして、真直ぐに育つスギやヒノキなどの巨木をご神木(左写真:注連縄がかけられた胸高直径2メートル、樹高約40メートルのスギの巨木、八王子市高尾山薬王院参道にて;神仏習合によるものであって純粋な神社信仰ではないが、このスギがあまりに立派なので紹介させていただく)として祀るのも同根ではないかと考えられる。長野県諏訪市諏訪大社の重要な神事に、山から樅(モミ)の巨木を切り出して御柱(おんばしら)と呼ぶ大木を曳建る豪壮な大祭があるのも古くからの風習を伝えるものだろう。神社建築は建てられた柱に意味があり、生きたご神木の代わりとしたのかもしれない。前述の伊勢神宮の神明造りも両妻に棟持柱があるが、単に棟木を支えるだけの役割ではないだろう。柱は地に根付いたものでなくてはならず、礎石式では都合が悪かったと考えられるのである。しかし、かなり後世まで掘建て式にこだわった神社建築も、時代を経るにつれて寺院とあまりかわらない様式が圧倒的に多くなり、わずかに萱葺き、千木、鰹木などが神社の特色を示すにとどまるようになってしまった。こうした中で、伊勢神宮が遷宮という形で古代の様式を現在まで厳格に継承している(室町時代後期に120年間は戦乱のため中断したと伝えられる)のは驚異的ともいえる。
 以上、神社の朝鮮起源説に対する反論を述べてみたが、それが“百済(くだら)ぬ俗説”以下のものであること、神社信仰がアジアに広くその類型が見られ、民俗学的視点から南方文化に由来するものであることが理解できるだろう。韓国・朝鮮系の諸氏で、日本の神社が祀る神々が朝鮮から来たと主張する人は多い。その理由は至って単純であり、新羅、百済、高麗あるいはそれに由来すると思われる名を冠した神社が多いことによる。これだけで納得する日本人は少なくないのだが、はなはだ飛躍した論理に基づいており、各神社の社伝を見れば、多くの場合、そうでないことがわかる。例えば、大阪市枚方市にある百済王神社の社伝には、「聖武天皇は百済の阿佐王が推古朝に釈迦牟尼像と経典を献上した功を讃え、子孫の百済王氏を寵遇した。そして天平九年(737年)に南典を従三位に叙し、その死を悼み、百済王祠廟と百済寺を建立し一族の霊を祀らせた」とある。つまり、かっての友邦「百済」の滅亡によって難民化した王族の困窮振りをみて、日本の支配者の命令で神社が建てられ人民に渡来人を神として祀るよう指導したのであって、渡来人が神社を造って一族郎党を祀っているのではないのである。「うけらの神事」で知られる東京上野の五條天神社は大己貴命(大国主命おおくにのぬしのみことの本名)と少彦名命(すくなひこなのみこと)を主神として祀っていたが、江戸時代に菅原道真を祀るようになり、天神の名を冠するようになった。全国の天神社、天満宮は学問の神様として菅原道真を、日光東照宮は徳川家康を大権現として祀られているように、神道では人間が神になることもあるのだ。このように、日本の神社は森羅万象に宿る神々を基層に、時に実在の人を神格化し「合祀する」こともあるので、異国の神を祀るようになっても不思議ではない。大相撲では琴欧州や琴黒海など欧州人が活躍し、近い将来、青い目の横綱すら生まれる状況であるから、アメリカ人やヨーロッパ人を祀った神社が出てもおかしくない。例えば、ジョン・レノンを音楽の神として祀る神社ができても、日本の歴史からすれば決して荒唐無稽ではないのである。実際、戦後の間もない時期に、占領軍司令官マッカーサー元帥を神格化した神社を造る動きがあったという。神話上の神を祀っている神社も同様で、それは朝鮮半島固有の神ではなく、広くアジアに視点を広げれば起源を同じくする農耕文化等に付随する神々であることがわかるはずだ。したがって、とても金達寿氏が主張するように日本の神社で祀られる神々が朝鮮(ほとんどは新羅という)で生まれたとはとてもいえないはずだ。新羅から来たとするなら、それらが新羅という狭く人口が少なく資源的に恵まれない地域の文化と民俗学にどのように関わってきたのか寡聞であるのも妙である。金達寿氏をはじめ韓国・朝鮮系の諸氏でこのような視点で考える人はほとんどおらず、その視野の狭さには驚かされるばかりである。それは金氏らの究極の目的がウリナラ起源論にあって、学術的意義なぞどうでもよい存在だからだろう。五條天神社の「うけらの神事」ももともとは中国の道教の風習が伝わったものである(→おけら焚きとお屠蘇についてを参照)。これに象徴されるように日本の神道は古代から現在に至るまで内外の様々な宗教、風習や習俗の影響を受け、それに伴って神社信仰の形態も多様化し、仏教の宗派間以上の差異が見られるようになったと考えられる。近年、日本の伝統文化の多くは創造誇張されたものと見る動きがあり、神社神道もそうなのだという(子安宣邦、「日本近代思想批判-「一国知」の成立」、2003年、岩波現代文庫)。この説の影響もあって、神社の多くは、明治以降の国家神道体制のもとで造られた神仏習合の権現とステレオタイプ化されることがある。多分、明治天皇を祀った明治神宮や、東郷平八郎の東郷神社、乃木希典の乃木神社を指すのであろうが、中には江戸時代に広く信仰された秋葉神社や愛宕神社、熊野神社が江戸時代にはなかったと主張する国立大学名誉教授がいるのには驚かされるばかりである(こちら参照)註11。この人物は神道の類型がアジア南方地域にあって原始シャーマニズムの一種であること、それが日本において独特な存在といえるレベルにまで信仰形態が多様化、分化したことを無視している(あるいは全く勉強していないのか?)ようだ。
 いわゆる「ウリナラ起源論者」に共通するのは日本と韓国・朝鮮というきわめて狭い範囲でしかものを見ることしないことであり、その結果として独特の発想で朝鮮を起源と考えるにすぎない。例えば、鳥居も、棒の先端に木彫りの鳥を取り付けたソッテ(鳥竿)をもって、「鳥が居(と)まる」から鳥居となったというきわめて短絡的かつ幼稚な発想(というほどのもあのではないのだが)に基づいている。本ページには写真を掲載しているのでだまされることはないと思うが、ソッテを見たことのない人は鳥居の原型があると信じてしまうだろう。これに「ワッソ」や「コム」などの語源論を絡めて議論を混乱させるばかりで、有識者も含めて韓国・朝鮮人はシャーマニズムという観点から全アジアに目線をおいたシステム思考ができないようだ。何度も述べたように、神社という入れ物自体は朝鮮伝来とするのは困難だから、神社信仰が朝鮮起源というのは正しくないのである。韓国・朝鮮人が勝手な論法で鳥居の起源と考える「ソッテ」にそっくりではるかに洗練されたものがタイや東南アジア山岳部にあることを知っている韓国・朝鮮人がどれだけいるだろうか。特にタイではバンコクという大都会でも寺院の片隅にみることがある。それを見て韓国・朝鮮人が「タイ文化は朝鮮半島から渡来した」といったらタイの人々は怒りを通り越してただあきれるばかりだろう。
日本の中の朝鮮文化を批判する
 以上の話で、神社の起源を朝鮮にあるという説は笑い話にしかならないレベルであることがわかるだろう。根拠自体が支離滅裂かつ薄弱、また神社信仰の基層が明らかに中国江南の照葉樹林文化にあることから、照葉樹林文化を育むほどの風土をもたない朝鮮半島に神社信仰の発祥を求めることが民俗学的観点から如何に荒唐無稽であるか理解できるだろう。ここで、民団湘南のホームページで紹介されていた朝鮮語の熊を意味する「コム」が日本語の「カミ」となったということに関してもう少し議論の核心を広げてみたいと思う。この論法は、金達寿氏が「日本の中の朝鮮文化」の中で日本各地の地名の語源にうんざりするほど用いているものであるが、その他、「万葉集は朝鮮語で読める」などの俗説でも多用されている。万葉集に関しては別ページで詳述しているので、ここでは省略するが、地名の語源を朝鮮語に結びつける金氏の手法に多くの日本人が誤解している現実があるので、それが言語学的に全く意味のない語呂合わせあるいはこじつけの類であることを示しておこう。金達寿氏の書を読んだことのある方で何の疑問をもたずに納得してしまう人は陳腐な詐欺師の言葉にころっとだまされやすい性格であることを自覚すべきだろう。読んだことはないがこれから読もうという方はここで説明しようとする内容を理解した上で読めば、この書には金氏一流の詭弁や巧妙な言葉の語呂合わせに満ちており、筋道を追って考えていけば多くの矛盾が噴出することがわかるはずだ。まず、第一に、その地名が本当に朝鮮語に由来するかどうかを検証する必要があることはいうまでもないが、仮にそれが朝鮮語由来であったとしても朝鮮文化の名残といえるのか疑問を持って検証する必要があることを申し上げておきたい。そもそも地名とは何であろうか、誰がつけたのか、それにどう意味があるのかという疑問から考えて行かなければならない。人名も同様で、別に名前がなくても生物学的生存には支障はないが、生活していくのに不都合があることは誰でもわかるだろう。人名は個人を識別するのに必要であるが、社会的には番号や記号でもかまわない。IT技術の進歩した現在ではその方がむしろ都合がよい。しかし、大部分の人は固有の名前にこだわるだろう。何故なら、それには家族の一員としてのアイデンティティのほか、それが家族の絆の証であり象徴だからである。さて、地名ではどうだろうか。これは個人によって関わりが大きく異なるはずである。荒野を流浪する民であれば、地名は特につける必要はなく、付けたとしても固有名詞ではなく形容詞を用いた名前になるだろう。北海道のアイヌの地名を見ればそれをよく理解できるはずだ。世界遺産の地「知床」はアイヌ語で「地の果て」、「札幌」は「乾いた広い地、すなわち石狩川の川原」を意味し、このタイプの地名は北海道のいたるところにある。これらの地名は形容詞+一般名詞からなる北海道という大地におけるアイヌ民族の生活感の溢れるものであり、北海道に進出した和人もそれを固有の地名としてそのまま踏襲したのである。但し、その地に何らかの権力が発生すれば、統治権の主張として発生する名前は、通例、固有名詞となるが、権力者の交代でしばしば改名される。例えば、「岐阜」は、織田信長が斎藤道三の孫・龍興を追放したあと、「井之口」から改名したものである。地名は古くから変わらず伝承されてきたものもあるが、多くの場合、何度かの変遷を経ていることが多い。したがって地名の古さ、新しさでもって歴史が古い新しいと論ずるべきではない。しかし、金氏は日本の地名の多くは新しく、古いものほど朝鮮語との所縁が強いと主張しているのである。改名の履歴は必ずしも残されているとは限らないので、新しければ途中で改名されて古い地名は闇の中に消え去ったことも有りうると考えるのが普通だが、金氏はそう考えないようである。古墳時代から飛鳥・奈良時代に多くの渡来人が日本列島に移住したが、日本書紀に記述があるように朝廷の命によって居住地が決められており、またその地名も渡来人ではなく朝廷が命名している。これは事実であるが、金氏はそれ以外に渡来人が入植した地が多くあり、そこには朝鮮語由来の名前が残されているといいたいようである。神奈川県の古名「相模」は、朝鮮語の「サガ(私の家、社という意味という)」に由来し、山形県寒河江市も同じだという。寒河江市には新羅神社があり、古代に新羅人が多く入植した証拠というのである。古代でも東北地方は縄文人の子孫の牙城でヤマト王権の支配の及ばない地域であったので、縄文人の子孫との軋轢は必至と思われる。日本海沿岸はしばしば北朝鮮の工作船が活動し多くの日本人が拉致されているほど外部からの侵入者にとって隙だらけの地域だから、古代に新羅人が暗躍したとしても不思議ではないが、金達寿氏はそうした事実を予め知った上でこんな仮説をたてたのであろうか。金氏は名うての朝鮮総連の論客として知られた存在であったからつい勘ぐってしまうのである。それはともかくとして、金氏はこれによって古墳時代から奈良時代にかけて途方もない数(人類学者埴原和郎氏が「日本民族の起原二重構造モデル」で提唱した列島以外から移住したという渡来人の推定数100万人)の渡来人が朝鮮半島から移住したことを主張したいようだ。しかし、冷静になって考えればわかるように、列島各地に渡来人コミュニティがあったとしても渡来人の言語は現在に全く伝わっていない(古代では日本語と朝鮮語はおなじであったというのは日本文学の起源:万葉集で説明した通り誤りである)のだから、決して朝鮮文化の名残があることにはならないだろう。また、渡来人がいなくても朝鮮語系の名前をつけること(あまり例はないだろうが)だってあり得ない話ではないのだ。それを米国の実例を挙げて説明しよう。米国アラバマ州モービル郡にサツマ市という町がある。サツマとは薩摩であり、これは純粋に日本と所縁があり、嘘でもまやかしでもない。但し、同市に日本文化の残滓は全くない。いや、トヨタ、日産、本田の販売店やソニー、パナソニックの看板があるからないことはないが、薩摩と結びつくものは何一つない。それはサツマの名の由来を知ればわかる。実はサツマの名は温州みかんの英語名のSatsuma orangeに因む。温州みかんは鹿児島県(薩摩)原産の柑橘種で、味がよく簡単に皮が剥けるので、世界的に人気のあるミカンである。温州みかんは19世紀にアメリカに導入され、各所で栽培が試みられた。アラバマ州モービル郡ではそれに因んで栽培地の地名にもなってしまったというのがその顛末である。アラバマ州という典型的なディープサウスは人種差別の激しいことで知られ、黄色人種の日本人も当然差別の対象になっていたはずだから、この町の命名に日本人は全く関与していないだろう。このように日本文化とは全く縁のない地でも日本語の名前がつくことがあるのだ。したがって、仮に朝鮮語由来の地名だからといって朝鮮文化の名残とはいえないことがわかるだろう。つまり、日本でも朝鮮にゆかりの地名を朝鮮人の関与なく倭人が命名することもあり得るのである。ただ韓国ではこんなことは起こりえないようだ。朝鮮半島は日本より大陸性の気候で、暖地性のみかんはわずかに済州島だけで栽培可能である。ここでは日本原産のみかん(伊予柑や温州みかんなど)を栽培している(多分、朝鮮総督府時代に日本から導入し栽培を奨励推進したものであろう)が、「済州みかん」と称し、如何にも同地原産であるかのようである。つまり、日本原産のみかんであるという事実は完全に伏せられ、韓国人でこれを知るのは少ないだろう。つくづく「日本のみかんは済州島起源である」というウリナラ起源論が出ないことを望む。
 次に、金氏ほか多くの韓国・朝鮮系の人たちが用いる手法、すなわち朝鮮語から音韻の変化で日本語に転じたという地名語源論について反論をしてみよう。そもそも地名は高々数音節からなるものであって、どんな外国語でも音韻の変化で結びつけることは簡単であることを知っているのだろうか。これに関連して思い出されるのは、「古代、アメリカは日本だった! ネイティブ・アメリカンが証明した」(ドン・R・スミサナ著・吉田 信啓訳・解説、徳間書店、1992年)である。ここでは次の表のように日本語との関連が付けられる地名が挙げられ、その結果、書名のようなパロディ(と筆者は解釈するが)に仕立て上げている。

米国地名 関係付けられた日本語 米国地名 関係付けられた日本語
テキサス(Texas) 敵刺す ナイアガラ(Niagara) 荷揚げ場
ミズーリ(Missouri) 水入り江 アパッチ あっぱれな者
マサチューセッツ(Massachusetts) 鱒駐節 オハイオ(Ohio) お早う
カンザス(Kansas) 関西 カナダ(Canada) 金田
ケンタッキー(Kentucky) 関東京    

 金氏は多くの地名を取り上げて朝鮮語と結び付けようとしているが、その実態たるやこれと何ら変わることがないのである。“朝鮮語に語源をもつ地名”としてもっとも有名になったのが奈良であろう。註12奈良は朝鮮語の「国(くに)あるいは都(みやこ)」を意味する「ナラ」に由来するというのは、現在では多くの日本人が信用するほどに浸透している。今では完全に過去の人となってしまった感のある作家小田実氏もベトナム反戦運動の最盛期にそう主張していたことを全共闘世代の筆者はよく覚えている。今日の奈良には多くの韓国人観光客が訪れるが、彼らに対するリップサービスというのだろうか、「奈良は韓国語起原」と喧伝さえしており、日本の修学旅行生もそれを信用し切ってしまっている。しかし、冷静に考えれば、「なら」の名をもつ地名は奈良だけではなく、奈良原、楢原、奈良岡、楢岡、奈良山、楢山など日本各地にあり、それぞれが「国」や「都」という一般名詞に結びつけるのはどう見ても無理があり、まだ、全国津々浦々どこにでもあるブナ科植物ナラ(楢)との関連性を考える方が信憑性が高い。また、しばしば言語学者からの批判があるように、日本の地名に結び付ける朝鮮語は現代朝鮮語であったりすることがほとんどといわれ、その論拠が如何に薄弱かついい加減なものであるかわかるだろう。そもそも古代朝鮮語はほとんど現在に伝えられていないとされているのである。朝鮮語の「ナラ(narah)」が国を意味するようになったのは高麗末期あるいは李氏朝鮮の初期といわれているし、また、朝鮮語に詳しい人によれば、朝鮮語が日本語に借用されるときは、終声(narahのhのこと)を落とすのではなく、むしろ後ろに母音をつけた可能性の方が大きいそうである。例えば、畑(fataと発音する)は朝鮮語からの借用語とされ、bat(畑の朝鮮語音)がbata、fataと転じたのだそうである。註13したがって、narahは、言語学的に日本語への音韻変化では「ナラハ」または「ナラカ」となるのが自然であって「ナラ」の音にはならないことになる。すなわち言語学、国語学から「奈良の朝鮮語起源説」は根拠に乏しく、韓国の言語学者も認めているそうだ。つまり金氏の説は完全な「語源俗解」の典型例といってよいのである。日本書紀に、進駐した軍隊が踏みならしたから「なら」とついたという説話があるが、奈良の地名の由来はその当時でもわからなくなっていたことを示すものだろう。日本書紀の記述は「語源俗解の古代版」といってよいかもしれない。おまけの話として、フィリピンのパラワン島にはそのものずばりのNarraという地名(写真左)があることを紹介しておこう。最初は、綴りから「ナーラ」と発音するのかと思ったが、日本語とほとんど差はなく音韻変化でこじつけるまでもない。Narraはフィリピーノ語で高級家具の原料となる「紫檀(したん)」の意味であり、フィリピンの国木として各地に植栽されている。紫檀は仏像や仏具などの原料となるので、金氏の論法では、由緒ある寺院の多い「奈良」の地名のルーツがフィリピンにあるとしても否定できないのではなかろうか。フィリピン人もこの逸話をよく知っているが、さすがに信用するものはいない。東南アジアの大国インドネシアに筆者は学術調査で何度もいったことがある。インドネシア語はフィリピーノ語と同じマレー語系であり、日本語と発音が近いので一定数の単語を覚えれば日常会話は事足りる。インドネシア人も日本語は難しいが発音は簡単といっている。そのインドネシアにそのものずばりのKyotoという地名があるそうだが、残念ながら筆者はいったことはない。インドネシアのバンドン大学薬学部教授のKurnia博士は筆者の長年の友人だが、自分の名前をインドネシア語では「クニヤ」と発音する(rの発音がほとんど聞き取れず、実際にはクニィーヤのように聞こえる。何故このようなアルファベットの綴りを用いるのか、当の本人も答えられなかった)ので、日本語名を「国谷」としている。同教授が日本滞在中、たまたまNHKのニュース番組(日本語)を聴いたとき、有名女性キャスターの名前を「クニヤ」と聞きとったからである。そのキャスターの名前が「国谷」であることを教えたあと、以降、日本人にはこの漢字名を使い続けている。これらは全く偶然の一致例であってその間に何の所縁もないことはいうまでもないが、仮に日本語の地名が音韻変化で朝鮮語から転じたと考えた場合、偶然以上の一致率があることを数量的評価でもって実証する必要がある。地名は高々数音節にすぎないのだから、偶然に一致する確率は想像以上に高いはずである。金氏は科学者ではないから、そのような手法でもって証明する術を知らなかったのかもしれないが、科学的手法でもって評価しなかったことを著作のどこかに明記すべきであった。とにかく「日本の中の朝鮮文化」での記述は、科学的視点に立って論じているのではないから、客観性とはほど遠く単なる語源俗解であり信用するに足らないのである。その意味では、金達寿説はあくまで作り話(フィクション)として読むべきものであって、ましてや学校教育で教えるのはとんでもないことである(残念ながら、列記とした教育関係の公的機関(例えば横浜こども科学館)で堂々と事実であるかのようにニュースレターで紹介している例註14がある)。古くから変わらない地名は万葉の植物名と同様にその由来がはっきりしないことが多い。平成の大合併で随分と多くの市町村が名を変えたが、心機一転のつもりでカタカナのかっこいい地名に変えるケースも少なくない。ただ、古い地名にこだわる人は想像以上に多いようで、反対運動も各地に起きている。自分の名前ではないのだから、地名が変わったぐらいで騒ぐのはいかがなものかと思うが、そういう人が金達寿氏の語源俗解に毒されやすいのではなかろうか。中には難読地名というのもあり、奈良県の平郡は「へぐり」と読み、万葉集や古事記にも出てくる古い地名である。「神話の神様が屁を繰り出した場所」とすれば語源として如何にももっともらしく聞こえないだろうか。
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  1. これまではネット上の2チャンネル参加者や嫌韓論者という世間的にはおよそ良識とはほど遠いと見られる人が使ってきたのであるが、列記とした大学教授もついに韓国人の執拗なウリナラ起源論の事実を認め、これを夢想自大主義として批判するようになった(→こちらを参照)。それだけ明らかに日本に起源のあるものを韓国起源とするウリナラ起源論が看過できない状況になってきた証左であり、大学教授として筆者も客観的事実に基づいてウリナラ起源論を論破してみたいと思うに至った次第である。ただ、ウリナラ起源論の論拠があまりにお粗末であり、学識者がこんなつまらぬことで時間をつぶしていいのかというのが本音でもある。
     話題を変えるが、NHKも韓流ドラマの放映に熱心であるが、「チャングムの誓い」の時代考証がめちゃくちゃなのに気づいているのだろうか。中国の鍼灸を韓国起源としているのに対してテロップ等で「日本やその他の国では中国を起源とする意見が主流である」とすべきであった。宮中でも李氏朝鮮時代の女子はあんな服装ではなかったはず(李朝時代の民画を見ればわかる)で、化学染料のない時代にあのような鮮やかな色彩はなかったはずである。これも史実に必ずしも即していない作り話と断るべきである。ついでながら、出演女優がそろいもそろって二重まぶたなのはなぜだろうか。20年近く前のソウルでは9割は一重まぶただったことをよく記憶している。韓国人の整形好きは噂には聞いたが、あれは事実なのだろう。どうやら韓国には人から物、歴史まで捏造がはびこっているようだ。しかしながら、わが国のマスコミ関係者は日韓友好の名のもとにこうしたことに全く触れずウリナラ起源論の存在を認めないばかりか、全く根拠のないものを無条件に受け入れる傾向にあるのは残念である。
  2. 例えば、富士山本宮浅間神社の山宮は神殿がなく、古木、磐境を通して富士山を直接祀る。その他、奈良県三輪山全体を神体山として古代信仰をそのまま今日まで伝える大神(おおみわ)神社、埼玉県御室ヶ嶽一帯をご神体とする金鑚(かなさな)神社なども同様である。また、沖縄の御嶽(うたき)も神殿のないものが多い。
  3. 鳥信仰は世界各地に見られ、朝鮮やアジアに特有のものではないことに留意する必要がある。ソッテのような鳥の柱は日本からは知られていない(但し、遺跡からは発掘されている)が、タイや江南、東南アジア山岳部にはあり、いずれも紀元以前に遡る古いものと考えられている。欧州でもハプスブルグ家ほかロシア王家の紋章が双頭の鷲であることはよく知られているが、これも古い時代の信仰の名残とも考えられる。
  4. 応永26年(1419年)に、李氏朝鮮の世宗(実権は太宗が握っていたという)が和冦の撃退を口実に、李従茂に227隻17285兵の大軍を率いて対馬を襲撃させた侵略戦争で、朝鮮では己亥東征と称し、侵略とは認めていない。朝鮮軍の対馬住民に対する仕打ちは残虐を極めたといい、対馬領主宗氏に対馬の属州化を要求したが、宗氏は拒絶した。対馬軍の抵抗で朝鮮軍は撤退を余儀なくされ、翌1420年、和解した。朝鮮が対馬侵略の口実とした和冦は応永の外冦以前にはなかったとする説があり、とすれば朝鮮は対馬の占領を目的とした侵略であることになる。室町幕府もこの事件を聞いたとき、元寇の再来と憶測したほどの衝撃があったようだ。
  5. 鵜は、古来、特別な存在であったようで、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえず)のように神の名にも登場する。岐阜市の長良川の鵜飼は有名であるが、鵜を操る鵜匠は宮内庁の管轄であり、大和朝廷時も鵜飼部があったように、鵜は天の神と地上のと使者で霊魂を運ぶ特別な存在であったと考えられている。鵜の特別な地位は弥生時代からあり、さらに遡れば中国江南地方の古代に行き着く。
  6. 水鳥形埴輪は高さ約63cm、長さ47cmで首に鈴付きのひもがまかれ、くちばしの間に小型の魚をくわえている。これによって5世紀以前に鵜飼の風習があったと推察される。朝鮮半島には鵜飼のあったという痕跡はないので、複合文化が江南から直接渡来したという有力な論拠の一つとされる。
  7. 日本にはクマは二種類、すなわち本州、九州、四国にツキノワグマ、北海道にヒグマが生息している。朝鮮半島にはツキノワグマだけが生息する。九州、四国、朝鮮半島のツキノワグマは絶滅に瀕している。
  8. 日本文化は韓国起源であるとする筋金入りのウリジナリスト(ウリナラ起源論者の総称として今後こう呼びたい)の一人。“万葉集の解読”では韓国の学者だけではなく、少なからぬ日本の読者もファンとして獲得し、後援会まで設立されている。多くの並み居る専門学者が確固たる根拠を挙げて論破したが、学術的真理より「意外性、おもしろおかしさ」を優先する現代日本人に受けているようだ。当然ながら、ノーベル受賞者である田中耕一氏や小柴昌俊氏をお笑いタレント並みに扱い茶化した日本の低俗なマスメディアには高く評価されているようだ。NHKスペシャルでも“万葉集は朝鮮語で解読できる”は紹介されたことがある。「もう一人の写楽」(河出書房新社、1998年)において、東洲斎写楽が李朝絵師金弘道であるという説を提唱した。元帝国の始祖チンギスハンが源義経であるとする説が日本にもあるぐらいだから、笑い話としては面白く創作作家としては一流だろう。しかし、浮世絵が木版による多色刷りの版画である事を知れば、いわゆる絵しか描いていない金弘道(少なくとも多色刷りの朝鮮版画は見たことはない!)が写楽でありえないことがわかるはずだ。金弘道の典型的な李朝風の画風が写楽の独特の画風(李氏朝鮮にはない役者絵)に到達するには、相当な年月が必要だろう。また、浮世絵を制作するには絵師のほか、版元や版画職人無しには成立せず、版画に最適化した画風を構築するには更に年数を要するはずだ。驚くことに韓国ではこれをもとして映画化されたといい、李寧煕氏は本気で信じているようである。ウリジナリストの標的はこれまではもっぱら日本文化が対象であったが、現在は中国文化や欧米文化まで向けられている。無論、この根底には偏狭な国粋的民族主義があり、戦前の軍国日本ですらなかった自然科学分野(既に学術的に決着のついているソメイヨシノの起源や、日本列島の生態系の起源が朝鮮半島にあるという珍説微生物の名前に東海(日本海の韓国名)や独島(竹島の韓国名)の名を冠することなど)まで及んでいるのは異常というほかないだろう。
  9. 出土した家型埴輪を復元すると幅110センチ、奥行きが80センチあり、高さは170センチとなり、国内の家型埴輪の中では最大である。円柱を持つ高床式で、屋根に神社建築特有の千木や鰹木がはっきりと残されている。
  10. 桜町遺跡では、高床式建物を復元できるだけの加工法の種類が出土したとして注目された。その中には、最古の木造建築で知られている法隆寺の建築に用いられていた多くの木材加工技術と同じ手法も含まれるという。例えば、「継ぎ手」や「仕口」の部材の加工方法のうち、「渡腮(わたりあご)仕口」と呼ばれる加工方法は、607年に創建された法隆寺で最古の使用例とされていた。
  11. このページはインドネシアの大学で行った講演をまとめたものというが、随所にお粗末な誤りがあり、この教授(静岡大学名誉教授という)が如何に不勉強である(専門外のサブジェクトにかかわらず如何にも正論であるかのように述べている)かを示すものである。まず、「創造された伝統」としてサクラを挙げている。サクラは確かに万葉集ではウメより多くの歌に詠われているが、古代日本人がサクラよりウメを好んでいた訳ではない。万葉集に詠われた植物の第1位はウメではなくハギである(!)ことからわかるように、万葉集における植物の出現頻度は詠み人の周囲での身近さによるものであり、必ずしも好みによるものではない(→万葉の花とその名前についてを参照)。この教授はソメイヨシノがお嫌いのようだが、これが明治以降多くの日本人に支持されたのは、成長が早く花付きがよいこと、比較的短命(長くて100年ぐらい)なので伐採するのに躊躇する必要がないことなどであり、散り際がよい、武士道に相応しいからというのは戦時中に喧伝されたものにすぎない。他のサクラに比べて、ソメイヨシノは誰が見ても美しいものであり、西行法師が生きていたなら何というだろうかと思うのは筆者だけだろうか。武士道についても同様であり、江戸時代の武士階級に一定の規範があったことを新渡戸稲造が見いだしてそれを「武士道」と名付けて理論化集大成したのであって、決して創造されたものではない。「日本の文化はたまねぎのようなもの」というのも実にお粗末な比喩である。これは別に日本文化だけに限らず、高度に発達した文化についても共通することである。文化は発祥地にとどまることなく必ず伝搬し、移動先で異文化と接触し新しい遺伝子を取り込んで進化する。多くの異質の文化を取り込んで熟成すれば一見ユニークな文化に見える。それがまさに日本文化の特徴であり、それを特有、独特という語彙で形容してもかまわない。何故なら日本文化ほど異文化を消化吸収した文化は世界に類例がないからである。日本語自体が中国の漢字を導入し、それからカタカナ・ひらがなという二系統の表音文字を発明するに至り、格段の表現力を身につけたのである。中国語が動詞・名詞など品詞が未分化であり、表意文字の漢字だけで表音文字を持たないため、細やかな表現力に乏しいことは中国文学をみれば一目瞭然である。ひらがなが発明された平安時代に「源氏物語」を始めとする繚乱たる心理小説(世界初といわれる)が続々と誕生したのも日本語のもつ柔軟性と無関係ではないだろう。中国の古典を訓読という手法であたかも自分の古典であるかのように取り込むのに成功したが、一方、中国や朝鮮はそれができなかった。欧州ではいずれも旧ラテン語に由来するから日本と同じように域内の文化の相互導入には全く障害はない。かくして欧州文明は世界を支配するに至ったのである。いずれの文化も芯となる部分は大きくないはずで、もしそうなら文明の進歩から取り残された文化であって世界の注目するところとならないだろう。神道が縄文時代、弥生時代に存在した痕跡がないというが、異様な装飾の縄文土器(火焔土器)や土偶、弥生遺跡からの出土品から原始シャーマニズム(神道もその一種である)の痕跡がないと考える方が無理だろう。神社、神宮、鳥居、狛犬、ご神体が道教の所産というのもあまりに安易な結論というべきであろう。アジア全域を見据えた民俗学的視点を欠いた意見といえるだろう(→神社、神社信仰の起源についてを参照)。納豆が縄文時代からの食べ物というのも初耳である。ネバネバした納豆は稲わらに付随する枯草菌の介在する発酵によるものだということをご存知でないのだろうか。東日本に納豆の消費の中心があるというのは確かだが、それは比較的近年のことであり、やはり照葉樹林複合文化で発生した発酵食品であって中国江南地方から稲作とともに西日本から東日本まで伝わったものであり、インドネシアのテンペイも同じ起源である。まっとうな日本人なら食べないというのはおよそ学者の弁舌とは思えず聞いてあきれるほかはなくこれ以上のコメントは必要はないだろう。「米を作らなかった日本人」について雑穀や海産物などを過大評価し過ぎではなかろうか。古代から現在に至るまで、米の生産量が増大するとともに日本の人口は増えてきたことは多くの学者が指摘している(本間俊朗、「日本人はお米をどのくらい食べていたか-土木の視点からみた水田開発の歴史」、2002年、山海堂)。それだけ米の経済的価値は大きいのであり、雑穀の消費量が米より多かったというデータがあったにしても、経済ベースでは米を中心に動いてきたことは否定しようがない。消費文化が発達した江戸時代の米市場では現在のオプション取引に相当するものがあったことが欧米の経済学の教科書に紹介されているほどだ。台風などの天災の多い日本ならではのシステムであり、米が如何に重要であるか如実に示すものだろう。最後に、小堀遠州が典型的な日本庭園といわれる桂離宮を作庭するのに西洋庭園の技法を駆使し、日本的な簡素の美といわれてきた通説はふっとんだというが、あの庭園のどこに“西洋庭園の技法を駆使した”といえるのであろうか。桂離宮といえば日本文化の象徴ともいえるものだけに、そう言い切るには確信のあるデータを示さなければならない。仮に西洋庭園と桂離宮庭園に共通する類似要素があるにしてもそれが偶然の一致であるかどうか科学的根拠をもって証明しなければならない。文系の学者にしばしば見られる重箱の隅をつつくだけの詭弁を弄するこじつけ議論では到底多くの人を納得させることはできないだろう。全体としてみると、この教授は自分と異なる意見については全く引用せず、比較評価を避けているようだが、学者にあるまじきことである。とにかく、このように底の浅い議論しか展開できないで教授になれるとはうらやましい限りである。筆者のような理系は常にグローバルスケールで業績が格付けされるから、文系学者とは比較にならないほどプレッシャーに堪えなければ勤まらない。
  12. 「奈良の朝鮮語語源説」は金達寿氏が最初に提唱したのではなく、松岡静雄氏が『日本古語大辞典』で記述したのが最初のようで、この書が出版されたのが1929年であるから昭和初期以前ということになる。与謝野鉄幹がツバキの語源を「冬柏」の朝鮮語読みである“ツンバック”とした(→神木ツバキとその語源についてを参照)のも同根であり、文系分野においてはこの類いは掃いて捨てるほど見受けられる。おそらく、当時は日韓併合を正当化するイデオロギーとして「日鮮同祖論」が一世を風靡した時勢であったから、このような説に対して学術的に深く検証することはなかったのであろう。この影響は理系分野にも及び、京都帝国大学小泉源一教授の「ソメイヨシノの済州島起源説」(ソメイヨシノについてを参照)はその一つであり、旧ソ連時代のルイセンコ学説に比肩されるといえるかもしれない(但し、旧ソ連とは違って反論者は処罰されることはなかった)。理系分野では新たな科学的証拠の出現によってあっさり否定されてしまったが、文系分野ではそうはいかなかった。今日、まともな学者で「奈良の朝鮮語語源説」を信ずるものはいないと思われるが、一般に根付いた俗説は払拭されていない。
  13. ある人から以下のような指摘を受けた。朝鮮語にあるfa-takまたはba-dakは広い場所を意味する語であり、食料を生産するような重要な場所を、単純かつ汎用的な名称で呼ぶはずがない。したがって、日本語の畑は朝鮮語からの借用語ではないという。筆者はこれこそ朝鮮語からの借用語と信じていたが、その中身をひもとけばこんな無理な解釈をしているのかと痛感した次第であり、またこの類いが如何に低次元の議論に基づくのか驚きを禁じ得なかった。
  14. 金達寿氏の「古代朝鮮と日本文化」を参考文献に挙げて、地名の語源を朝鮮語で調べるとしている。朝鮮語だけでなく、アイヌ語やポリネシア語、そして「日本語の地名伝承をそのまま信用する」というのもある。予め学術的根拠に乏しいこと(これらは定説となっていない!)を前提とした上で遊びとして行うのは構わないが、そのようには断っていない。公的教育関係機関にあるまじきことである。