一時期の御代田駅 
 いちじきのみよたえき 

日本に鉄道が敷かれて百年目の一昨年、十月十四日の鉄道記念日を中心に、全国各地で多彩な行事が開催されたが、御代田駅は一年前に、スイッチバックで親しまれていた旧駅から、鉄道近代化の上からも、町の歴史から見ても重要なページをめくって、現在地に移転された。
 さて、信越線の上田、軽井沢間が開通したのは、明治二十一年十二月一日であった。新橋、横浜間に最初の汽笛一声が聞こえたのが、明治五年であったから、十六年遅れてではあったが、しかし全国的にはかなり早いほうだった。そして、その時に軽井沢、小諸とともに佐久地方で開業した三つの駅のうちのひとつだったので、両駅に較べての立地条件からしても、佐久の門扉的性格を備えていたことは容易にうなずけよう。
 佐久のみならず、明治二十七年、二十八年の日清戦争の際には、諏訪方面からの出征兵士達もこの駅から乗車したとか、中山道を輸送されてきた生糸が荷積みされたとか、老人たちの話し伝えるところであるが、そうした当時の状況を物語る資料として、明治三十八年発行の「汽船汽車旅行案内」の「案内路記」、御代田駅の項には「諏訪の湖水の勝景あり、此湖水の沿岸遊覧所多し」と紹介されているという。
 しかし、実はその前々年の二十九年年の大屋駅が開業していて、三十三年に作られた、「鉄道唱歌第四集北陸編」(大和田建樹作詞)には、

  諏訪の湖水を見る人は
  大屋をおりて和田峠
  こゆれば五里の道ぞかし
  山には馬も駕籠もあり

と、大屋からの便が歌われている。結局、御代田駅が諏訪地方への唯一の玄関口であったのは、十年ばかりの間だったようだ。
 なお、「鉄道唱歌」の御代田付近の歌詞を紹介するならば、

  夏のあつさもわすれゆく
  旅のたもとの軽井沢
  はや信濃路のしるしとて
  見ゆる浅間の夕煙

  くだる道には追分の
  原と呼ばれる広野あり
  桔梗かるかや女郎花
  秋の旅路はおもしろや

  御代田、小諸とすぎゆけば
  左に来る千曲川
  立科山を流れ出て
  末は越後の海に入る

 明治三十三年頃から十年間ほどに、篠ノ井線や中央東線、中央西線次々に開通して、信州の交通網は整備されていった。しかし、大正十四年に小諸、中込間に佐久鉄道が開通するまでは、御代田駅から発着する鉄道馬車は、佐久平の唯一の交通機関だったが、この線の開通によって御代田駅の繁栄は、完全に小諸駅に吸い取られていった。
 佐久鉄道は前身を東信軽便鉄道会社といい、明治四十五年一月に東京の佐藤秀松ほか十四人の発起で始め、小諸・小海間のほか岩村田を分岐点に御代田駅及び中津村に至る区間の計画もあったが、大正二年にこの計画が変更になったという、もし初期のとおりにことが運んだら、御代田駅ばかりか、地域の歴史はすっかり変わったものになっていたに違いない。

「ふるさと御代田」1974年


 1997(平成9)年の北陸(長野)新幹線開業に伴い、平行する信越線の軽井沢〜篠ノ井間については第三セクターの「しなの鉄道」が設立され、東日本旅客鉄道(JR東日本)から経営移管されました。信越線御代田駅も「しなの鉄道」の御代田駅となりました。


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