第6回 国際鉱山ヒストリー会議 赤平大会
 2003.9.26-29

ポスターセッション・エントリー顛末記

2003年9月26日から29日まで、北海道・赤平市において
国際鉱山ヒストリー会議が開催されます。
国際会議についてはこちらを御覧ください。

私はこの会議のポスターセッションに参加し、写真の展示などの研究発表をいたします。
発表の日時は9月27日(土)「みらい・2階テラス」で、10時から写真、資料などの展示で始まります。
その後、19時から20時までビデオ2本の上映(三池炭鉱・端島炭礦)を含めて
足尾・三池・端島を中心に、見て来た鉱山・炭鉱への「思い」を話す予定です。

このページは国際会議に参加することで得られた様々な研究、情報や、他に作業過程などで
感じたこと等、日誌・出来事を書き記したものです(情報ページ
1.にも関連項目があります)。

 最近の赤平の写真
2003年の夏休み、娘の友だちが50ccのバイクで北海道にツーリングに出掛けたそうだ。
その友だちから、赤平の最近のスナップ写真を頂いたので、その写真を載せます。
和宏君ありがとうございました。

    国際会議のメイン会場・みらい・歓迎の垂れ幕が掛かっている。 住友赤平立坑の外観・会期中は夜間にネオンが灯る。
                                    右下に案内と思われる新たな看板が出来ている。

    写真の無断転載・コピー等は固くお断り致します

写真・和宏 2003

主な日誌・出来事(毎日ではありません)

2002.12.28. 国際会議事務局にエントリーをする。同時に「発表要旨」(和文)を提出。

2003.03.01. 足尾日帰り。閉山30周年を前日迎えた。

2003.03.14.-16. 三池行き。万田坑が荒尾市民まつりとして公開される。
荒尾市と中川雅子さんに赤平の国際会議のポスターを進呈。参加を呼び掛ける。

2003.04.02. 国際会議事務局から査読結果「演題を採択」と連絡。

2003.06.03. 足尾研究会のサイトを開設。

2003.06.11. 国際会議事務局から「英訳論文提出」のお知らせが来る。締め切りは8月31日。

2003.06.18. 参加登録、宿舎予約をする。

2003.07.05. 足尾日帰り。小滝は緑深く、写真にならないが涼しくて快適だ。
全国足並み会(足がつく全国の5市町村が組織)の最後のイベントが町民センターで行われていた。

2003.07.16. 国際会議事務局から「アブストラクト」を英訳して提出するように連絡が来る。
締め切りは8月15日。急いで英訳を依頼する人を探しはじめる。

2003.07.21. アブストラクト英訳を依頼。

2003.07.24. アブストラクト英訳が上がり、校正作業。特に専門用語に神経を使う。 

2003.07.26. 金属鉱山研究会・111回例会。
国際会議で発表予定の三池・端島のビデオの上映。他に発表の概要を報告。

2003.08.07. 国際会議事務局にアブストラクト英訳を送信(提出)。

2003.08.07. 論文の英訳を再び依頼する。同時に各鉱山会社の英語表記等を調べる。
本論文に入れる写真の選択作業。

2003.08.11. パソコンがクラッシュ。11日中に修復したが、予定が大幅に変更される。

2003.08.23.-24. 金属鉱山研究会・足尾合宿。県立博物館にて「小野崎一徳展」を見る。
足尾のかめむら別館に泊まる。24日は町内の主な資料館や銅山遺跡を廻る。

2003.08.25. 論文英訳上がる。直ちに指定テンプレートに編集・校正作業。

2003.08.26. 送信時の指定であるワードのソフトを持っていないため、妻の勤務先から送信する
予定だったが、その勤務先のパソコンが突然クラッシュ。修復に丸1日かかるという。
急いで「ワード2001」のソフトを購入。徹夜で編集作業。その他の作業が完全に止まる。

2003.08.27. 丸1日、ワードに論文・写真を挿入、編集、校正のくり返し。

2003.08.28. ワードで事務局などにテスト送信。夜にやっとOKが出る。

2003.08.29.-30. 英訳論文の最終編集・校正作業。
英訳をして頂いた人とメール・FAXの相互通信が頻繁。

2003.08.31.午前中にもう一度最終校正。確認後、英訳論文・和文論文を添付して送信。
これでもう「赤平の国際会議」が終わったような気持ちになる(苦笑)。

2003.09.05. またまたパソコンがクラッシュ。深夜までに一応の修復。

2003.09.07. 事務局より申請していた「物販(各鉱山の写真集・絵葉書・資料等)」の販売許可が下りる。

2003.09.08. 写真を展示する方法の検討。台紙、パネル、額縁など新宿の関係店を廻る。

2003.09.10. やっと発表のための具体的作業に入る。まずビデオのダイジェスト版の編集に入る。

2003.09.11. ビデオ編集の1日。

2003.09.12. ビデオ編集。HPを新規アップ・更新。事務局とタイトル変更の件、
備品借用の件を確認。午後からは図書館で新聞の切り抜き作業。

2003.09.13. ビデオ編集。新たに編集したビデオに音楽を入れたが満足しない。

2003.09.14. 1日中、暗室作業。展示写真の補充を焼きつける。

2003.09.15. サイト更新後に取りあえず、娘が英訳してくれた字幕を端島のビデオに入れてみる。
字幕のレイアウトを変更したり、セーブに時間がかかりイラつく。
一応、検討とイメージを見るためVHSにダヴィングする。
16時にアブストラクトと本論文の英訳を依頼した人にお礼に伺う。
忙しい方なのにまたまたビデオ上映の英訳字幕の検討・訂正・追加依頼までしてしまった。
とても有り難い。この英訳は今回の赤平だけに収めてしまうのはもったいないので、
何らかの形で残したいと思う。改めて前向き姿勢になって来た。
事務局よりプログラム確認のメールが来る。
夜はレジメの確認と印刷依頼の準備をする。検討と依頼するビデオの字幕をワードに打ち直す。

2003.09.16. レジメの印刷を依頼する。ビデオの英訳検討・追加依頼の原稿をメールに添付して送信。
まだ手を付けていなかったお土産用で販売する絵葉書写真の選択をする。
題名を2002から2003へ変更したので変更可能かどうか事務局にメールで問い合わせる。

2003.09.17. 中野サンプラザ図書館に新聞の切り抜きへ。また、新宿で写真のパネルを15枚注文する。
その他画鋲やセロテープなど文具用品を購入。
掲示物などの和文と英文の原稿を作成。その他販売用の三池のビデオをパソコンからダヴィングする。
事務局よりアブストラクト以降の変更は確認したと返事があった。

2003.09.18. レジメの印刷が上がり、娘たちに綴じてもらう。
上映予定のビデオ編集の検討と確認。何とか2本で目標の30分に仕上がりそうだ。
絵葉書の印刷が終わった。袋詰めは娘に託す。ヨドバシよりパネルが入庫したと連絡あり。

2003.09.19. 中央図書館に新聞の切り抜き作業に行く。帰りに本日から始まる「軍艦島(端島)」
写真・DVD展に行く。端島の話題で20分くらい話す。炭鉱の関係ではなく、廃墟
の方から端島を
訪ねたそうだ。炭鉱の映像が少なかったが、応援の意味でDVDを1本購入する。パネルを購入する。

2003.09.20. パネル写真の最終選択をし、パネルに展示する写真15枚を入れる。
絵葉書も見本をパネルに貼ることにした(売店用)。
いよいよ発表まであと1週間だ。何も準備が終わっていないなー。困ったモンだ。
依頼していたビデオの英訳の一部がメールで届く。有り難い。
徹夜して字幕をビデオに入れる。事務局より千歳のバス案内のメールが届く。

2003.09.21. 上映予定ビデオの第2弾の英訳が届く。作業を終えるのに2-3日かかるだろうがやり遂げる
しかない。多忙な人たちなのに英訳して頂き厚く感謝!今日は忙しいぞ!
昨日の徹夜のつづきをやり、やっと16時30分に三池のビデオは一応の作業は終える。だが校正や細かいところはこれからだ。途中で誤って消してしまった音楽も入れなくてはならない。
 その後、荷造りを始める。何しろ私と妻と娘3人で赤平に行くので荷物がたいへん。
3人分の着替えに、売店用の品物に、発表の展示物・資料、写真、その他の文具など雑貨等々。
もちろん、撮影用のフィルム・レンズ、カメラもある。
海外旅行用トランクと段ボール2個を宅急便でホテルに送るための荷造り作業をする予定。

2003.09.22. 午前中に荷造りしてお昼に宅急便で送り終わる。
午後から三池の音楽を入れ直し、端島のビデオの英訳を入れる作業を続ける。
深夜1時に終わりダヴィングして寝ながら校正する。まだまだ人に見せられる状態ではない。

2003.09.23. 朝からビデオの校正。15時に一段落つき、ダヴィングして今夜に校正する予定。
女房が不明だった専門用語を辞書で探してくれる。それで2箇所の不明な文字が訂正でき、大感謝!
夕方から会場・売店用の掲示物などの和文と英文の案内などを作成。夜は上映ビデオの校正。
まだ発表の順番などまったく考えていない。こりゃー「通訳泣かせ」になるかも。

2003.09.24. 朝からサイトのアップを終え、最終校正した上映ビデオを予備も含めて2本ダヴィング。
その他掲示物やパネルなどの印刷物を点検。訂正箇所が2,3出て来た。また不足と思われる英訳案内
がいくつか出て来て急いで調べる。18時に印刷が終わり、やっと手荷物を作りはじめる。
明日は順調に行けば、赤平に13時30分頃に到着予定だ。忘れ物がないようにしたい。
明日から同行予定の仲間が22時30分に私宅に到着。今夜は私宅に泊まる。いろいろと話し、寝たのは
3時30分になってしまった。

2003.09.25.
 5時に目覚まし時計で起床。5時30分に他の人を起こし6時に出発。新宿まで荷物が多いためタクシーで行く。予定通りに品川から羽田に着き、X線検査。いつも私はフィルムなどで時間がかかるが、今回は宅急便にフィルムの多くを入れて、手荷物は必要分だけにしたので珍しく時間が掛からなかった。
  予定通りに千歳に着くと国際会議のフラッグを持った案内人がいた。バスなどの確認後食事して
11時のバスで赤平に向かう。私たち4人と研究会の事務局長、計5人とスタッフだけだ。みんないつもの仲間なので、気楽に世間話、冗談を言いながら赤平に向かった。
 会場に着き、スタッフの案内で会場の下見をする。資料販売の場所、ポスターセッション、メイン会場を案内して頂く。展示会場のイメージが事前の私のイメージとは違っていたが、枚数や展示方法などに柔軟に対応して頂き、ひとまず、明日の午前中に販売と展示の準備をすることでお互いに了承した。下見後、さらにバスで宿舎まで送って頂き、スタッフに感謝。おかげで時間も余り、資料館「ゆめつむぎ」に見学に出かけられた。前回は時間の制約があったが、今回は地下の道具類などゆっくりと見学できた。

メイン会場にて

 18時に宿舎に戻ると宅急便が届いていて明日の準備をする。夜はここにしかない「なんこ」という馬肉の名物料理で乾杯!食事中に足尾に住んでいた友だちから「激励メール」が携帯に入る。
嬉しいじゃないか!酒が旨い!

2003.09.26.
 朝早くから2度の地震(十勝沖地震)で歓迎される。釧路や苫小牧の方で被害が出ている。千歳も点検中だそうだ。皆の到着に影響がなければ良いがー。
 宿舎からのバスは開会式に間に合うようにお昼に設定されていたので、仕方なく、8時台の路線バスで会場に向かう。「みらい」まで410円だった。到着後すぐに販売と展示の準備にかかる。10時30分にどちらも終え、他の方々の到着を待ちながらビデオなどを最終点検。すべてOKだ。今や開幕を待つばかりだ。気持ちも冷静で落ち着いている。
 13時ころから続々と参加者が到着。千歳から来る人は影響がなかったようだが、釧路方面から来る知人がまだ来ていない。脱線してしまったというのでその復旧に時間がかかるだろう。
 開会式までの間、展示会場に行くと、海外のテレビ局と思われるスタッフが私の展示写真をアップで撮影していたところに出くわす。「いい写真だ」と言ってくれたのが英会話から遠ざかっている私でも分かり、お互いに名刺を交換する。頂いた名刺を見ると英国の国営放送のBBCの人たちだった。

 遅れると思われた開会式だったが、予定通り進み、基調講演、そして歓迎パーティー会場へ移動。パーティーまで時間があるので、体育館のサブ・アリーナで展示を見る。古い写真、カラーやモノクロなど貴重な写真が多くあった。その熱意も理解でき、写真の見ごたえもあった。だが、展示全体からは各鉱山の展示方針が多種・多様すぎて鉱山への「思い」が今一つ曖昧にも感じた。
 その中で三池炭鉱の「宮ノ原立坑」の写真と「サンデン」の隣り合わせの写真が勘違いからか、展示が逆なことに気付く。すぐ係りの人に写真を入れ替えるように言う。やはり、いくら慎重に展示を確認しても知らない人が展示すると、勘違いをして恐いものだと改めて思った。「立坑」と同じ「レンガ作り」であっても見る人が見れば間違いであることに気付くはずだ。現に近くにいたある発表者が間違いに気付いていた。確認作業がおろそかとまでは言わないが、確認は何度しても、決してし過ぎではないことを、その大切さを再認識した。
  パーティーが始まった。研究会の仲間が海外の鉱山会議に定期的に出席しているために、顔見知りが多くいるようだ。パーティーの帰り際に陽気で明るく楽しくさせてくれる人、パフェットさんと「TOMODACHI」になる。

  この後、彼は私たちを見かけると必ず「Oh!Tomodachi Ichiban! パパサーン、ママサーン、グランド・パパサーン!オー、プリティ・ドゥター!」と大きな身体からジェスチャー混じりで全員に握手を求めて来る。その度に周りが明るくなり、笑い声が響き渡り、何時の間にか私たちも有名人になってしまったようだ(笑)。
 宿舎に帰り、集まった仲間たちと二次会をする。
明日はいよいよ私の発表だ。いい緊張感が身体中に走る。

2003.09.27.
 期間中は 宿舎からのバスの時間だと、食事時間が15分しかない。それではとても食事もできないので、今朝からの朝食を7時に変更してもらった。会期中は私のペースだと、毎日6時に起床しないと間に合わない。7時45分発のバスで「みらい」へ。到着後、すぐにいくつかの仲間の発表に駆けつける。終わると、すでにポスター・セッションの人たちが展示準備に入っていた。そこで私が展示を先にしたこと、スペースを既に確保してしまったことを詫び、展示の変更も前提にして展示した経緯を話す。
 しかし、有り難いことに全員が「このままでも自分のスペースは確保出来ているし、折角展示したものを変更しなくてもいいじゃないか」と理解を示してくれる。これがとても嬉しかった。ここでも感謝!おかげさまで写真の枚数を減らし、午前と午後で写真などを入れかえようと考えていたことがなくなり、当初からの展示イメージのまま展示することができた。
 東京にいる二人の子供たちから「いよいよ今日だね。緊張するな!噛むな!」のそれぞれ激励メールが届く。すぐに大丈夫だと返事を送る。

ポスター・セッションの橋本 康夫の展示会場

足尾・三池・端島を中心にして
他に小坂・松尾・神岡・別子・花輪の鉱山、赤平・志免の炭鉱のモノクロ写真計15枚、
橋本 康夫写真集・藍の時代ー足尾と私の十三年ー・1册、同写真集・閉山三日前の三井三池炭鉱・1册
足尾商業案内便覽圖(表・裏面)、足尾・三池・端島のスナップ各写真アルバム計3册、
足尾の明治30年を中心とする写真アルバム(小野崎一徳撮影・コピー版)1册、
三池の明治36年から同後半を中心とする写真アルバム(町田定明撮影・コピー版)1册、
三池・端島のビデオ2本、計30分・赤平版(英訳入り)を随時上映・展示した。

 午後からは別の場所で「産業遺産フォーラム」が開かれたため、一時展示を見る人たちが極端に減った。メイン会場の発表も聞く人が少なくなった。夕方になってもポスター・セッションの発表が19時から20時まで予定されていたが、人は増えそうもない。これでは発表にもならないと、展示を片付けることを検討する人たちも出て来た。
 皆とスタッフで話し合い、各自の判断で展示の撤去を行うことにした。私は閉会式後の赤平ヘリテージ・ツアー終了後に販売共々撤去することにした。
 しかし、18時を過ぎると急に展示会場に訪れる人たちが増えはじめた。産業フォーラムから帰って来たのだそうだ。再び会場に活気が戻って来た。

 多くの人たちは足尾、三池や端島の現況についての質問や、自分もそれらの地を訪ねた話だったが、中には資料写真について、私の写真に対する考え方を聞いてくる人もいた。それらの一つ一つに応えているとすぐに20時になってしまった。宿舎までのバスがすでに出てしまい困ったが、スタッフが車で宿舎まで送ってくれた。車中、娘から三池の写真集が売り切れたと聞き、驚く。それも海外の人たちの方が多いという。
 夕方に買い込んでいたおにぎりで夜食を済ます。発表の責任から解放されて安心したのか、ついつい仲間と深夜まで呑んでしまった。

2003.09.28.
 今日は午前中で会議の発表も終わる予定。昨夜の深酒で完全に二日酔いだ。
でも「足尾」「三池」「崎戸」などの発表があるため、急いで公民館に向かう。                                                                   パフェットさんの奥さんがここのフリー・マーケットで着物を着せてもらい、皆から拍手をもらっていた。顔も小柄で日本人的な感じの女性なので着物もよく似合っていた。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                その後、仲間数人と住友立坑やその資料、山田御殿を見学、撮影しながら記念の石炭も探した。その途中に北海道新聞(以下道新)の取材申し込みが携帯にあり、承諾する。 

 「みらい」に戻り、昼食後道新の取材。赤平大会は果たして赤平に何をもたらしたか、その意味について連載すると言う。私の考えはどうかと尋ねて来た。
 私は足尾など過去の閉山では、多くの鉱山会社や自治体は「坑内観光」をメインに、まず観光地化を目指した。だが、その土地・鉱山にしか出来得ない、言わば個性ある観光は少なかった。現在はバブルも弾け、経済状態も悪化している。それらの一部はまだつづいているが、どこも客数が減っており、今後に苦悩している。そして観光地化から次に出て来たのが「産業遺産」のテーマだ。産業遺産そのものに異存はないし、まず現状の保存を目指すことが最初だとは分るが、保存とばかり称して具体的な次の像が見えて来ない。すべてではないが、どこも現状の保存が主になっていて、また同質なものも多い。その意味では「坑内観光」と同じ道を歩んでいるように見える。一方で、石炭を知らない若い人たちや後世に、どうやって鉱山や石炭に関した歴史やその事実を伝えるか。その肝心の石炭や鉱山の歴史、関わった人々の歴史の保存や、研究自体を進めようとする動きがおろそかになっているように感じている。地道で目立たない、苦しい活動だが、これらの研究や保存がきちんとされ、なおかつ施設などが保存されて初めて「産業遺産」への道となるのではないか。提出した「本論文」にも書いたが、現状を見ていると逆が多く、このままだと観光地化と同じような現象が先々に起こるだろう。そこが気になると私は言った。これは多分記事にはならないだろうが大切なことと思うので強く言った。 

 道新の取材後、展示会場を見渡せる階段を下りて行くと、海外の人が二人椅子に座ってビデオを見ている。しかし、早まわしで見ているのが分り、急いで会場に行く。すると、英国の国際産業考古学会事務局長・スチュアート.スミス博士とドイツの世界遺産委員会代表・バジッタ.リングベック博士だった。急いでテープを正常に戻すが、閉会式までわずかな時間しかなかった。リングベック博士は別の展示の人と話し始めてしまって、話ができなかったが、スミス氏は席を立ちながら写真を見て「ビューティフル・フォトグラフィー」と私に握手を求めて来た。今までの関連新聞記事の切り抜きでスミス氏が昨年10月に端島を訪ねていることを知っていたので、「オプションツアーは端島か?」と尋ねると「ノー、ノー、ベッシ」と応え、それらのサイトと思われる資料のコピーやパンフを見せてくれた。私の別子の写真を指すと「イエス・そこだ」と語り、別子も産業遺産が残っていていいところだと言いたかったが、とっさの英語が出て来ない(苦笑)。私は「いい旅を」と握手するのが精一杯だった。 

 販売に戻ると三池のビデオも売り切れたと言う。まったく事前の予想に反した出来事で驚く。それもBBCのスタッフや海外の人たちが多いと娘から聞き改めてビックリする。今回の国際会議開催にあたって、記念に日本の鉱山・炭鉱の写真をと思い、急きょ私のモノクロ写真の中から8枚を選びポストカードを作った。それが一番先に売り切れるだろうと予想していたが、実際は違っていた。
 閉会式後、赤平のツアーに出かける。もうこのころには海外の人たちも含めて大体顔見知りになり、各自の発表も終えてなごやかな雰囲気になり、あちこちで英語や日本語が飛び交っていた。スミス博士が私とは違うバスに乗るようで、ドアーの外でたばこを吸っていたので、販売していた「絵葉書」を1セットプレゼントした。博士は絵葉書が販売されていたのを知らなかったようで、すぐに袋から8枚を取り出してざっと見て、「オー、ありがとう」とていねいにお礼を言ってくれた。リングベック博士にもと思い、探したが、残念ながら見つけられなかった。今思うと誰かに預ければ良かったと後悔している。BBCのスタッフも三池のビデオを買ってくれたようだが、そこには上映した端島もないし、英訳も入っていない。せっかく買ってくれたのだし、端島も入っている、上映した英語の赤平バージョン(非売品)を差し上げたかったが、違う取材先に行ったのか、最後まで出会うことができず本当に残念だった。
 16時40分に「みらい」に戻り、展示や販売を片付け、サヨナラパーティの時間まで休息。17時50分にパーティー会場に着いた。やがて、パーティーも始まり、アルコールも入り、オリジナル炭鉱節やよさこいソーラン節に乗り、皆が踊り出すと私も乗って来た。

 20時40分別れも辛いがバスに乗り込み宿舎へ。同じ宿舎で、一人で来ていた人がバスに乗って来ないので一部で騒動になるが、予備車があるというので宿舎に戻って、自宅に送る宅急便の荷造りをする。23時30分にフロントへ荷物を持参するとその人が帰って来たところに出くわした。地元の人たちと二次会をしていたそうだ。まずは安心する。その人も含めて部屋で呑み直した。

2003.09.29.
 今日はツアーのみ。だが、とにかく眠い。疲れた。予定がギッシリすぎだ。せめて午前中だけでもゆっくりできる日が欲しかった。バスで「みらい」に着き、ツアーのコースが違う人たちやスタッフに別れの挨拶をしてバスに 乗り込む。
 朝から雨が降り、三笠の幌内炭鉱跡に着くころには本降りとなり、山道でスニーカーから雨が浸水して来た。それでも初めて見る屋根付きズリ捨てコンベヤー跡や廃墟化した選炭所跡など夢中で写真を撮る。途中でパフェットさんが「撮っているかい?」と盛んに声を掛けてくれる。その度に「もちろーんさ」と答える。

幌内炭鉱・屋根付きズリ捨てベルト・コンベアー跡

 そして奔別の立坑を見学しているとお昼近くになった。昼食は和食中心で、箸しか置かれていなかった。きっと海外の人たちは困るだろうなと心配したが、皆、箸の使い方がとても上手で感心させられた。最近の日本食ブームが影響しているのだろうが、誰一人としてフォーク、スプーンを頼む人はいなかった。これは「郷に行ったら郷に従え」という諺の通りで、日本人としてこちらも見習うべきことだと改めて思った。
 
さすがに、昼食後は疲れてホテルの休憩室で出発時間まで少し横になってしまった。そして夕張に向かった。奔別の立坑は見学できたが、もう一つの目的である「錦坑」の櫓跡は残念ながらカットされてしまった。雨の中膝まである草むらに入って行くのは大変だが、見るだけの価値は十分にあっただけに本当に残念だ。
 
三笠からは「解良(けら)守」さんという案内人が乗り込んで下さり、いろいろと歴史や現地の案内をしてくれて助かったが、三笠の博物館(休館日)でお別れしてしまった。夕張が近くなり、誰か案内人が乗り込むのかなと思っていたが、今や無人となってしまった「大夕張」も沈黙したまま通り過ぎた。ただ、シューパロ湖の森林鉄道の鉄橋だけは通訳の女性が単独で調べたことを説明したが、後は何も説明がないままで、夕張の石炭博物館まで着いてしまいそうだった。
 そう言えばホテルの昼食時にバスの運転手さんと席が隣合わせだった。夕張までの大体の時間やコースを話しながら「大夕張を通って夕張へ向かうの?」と聞いた時に「あなたは大夕張を知っているのか? 北海道の人か?」と尋ねられてしまった。いやいや違うと言いながら、それだけもう「大夕張」の歴史が遠ざかってしまったのかと実感したことをここで改めて思い出した。しかし、大夕張の説明が一言もないことは残念に思えてならなかった。このバスの目的は炭鉱遺産を訪ねるツアーだ。単なる観光ツアーとは違うのだ。細かい説明はなくともここに大きな炭鉱があった事実だけでも伝えればいいのに。とても残念に思ったのは私だけだったのだろうか。
 
そこで私は大夕張でも何も説明がなく、三菱南大夕張炭礦もそのまま行き過ぎてしまいそうだったので、思わず「ほら、三菱の大夕張鉄道の列車が南大夕張駅跡に保存されているよ」「ここの炭礦が夕張では最後の炭礦だった」「ほら、炭住跡だ」「この下の夕張川のほとりに大きな炭住街があった」「この辺が選炭場跡」「あれは鉄道の跡」等々、近くの人たちだけでもと思いナマの声で説明してしまった。説明は北炭の清水沢発電所までつづいた。女房が「あなた、前に行って説明したら?」と言うが、そこまでやることはないだろう。聞こえる人だけで仕方ない。それでも声は段々と大きくなってしまったのが自分でも分かった。その後も主なところは説明したが、「ズリ」を説明した後、あれ? ズリは英語で何と言ったっけ?と考えていると「ダンプ」だけを思い出した。そして次にズリ山が見えた時「ダンプ…」と言うと前の席の海外の男性が「ウンウン」とうなずいてくれたのが分かった。
通じてホッとした(苦笑)。

 どうして夕張を案内する人が乗らなかったのだろう。人材は多くいるのに…。ま、いろいろと事情もあるのだろう、とひとまず勝手な説明を終わらせると博物館に着いた。
そして博物館の見学。帰るころには大雨で土砂降りになり、傘が役立たない。おまけに雷まで鳴り響く。別れの挨拶はバスの中しかできなかった。パフェットさんと奥さんに握手して「いい旅を」と別れを告げて違うバスに乗り込む。
 行き先(千歳・札幌・赤平)によってはバスの移動もあり、大きな荷物、トランクを雨の中移動させていたスタッフは見ているだけでもたいへんだった。御苦労様でした。私たちは千歳に向かい、途中苫小牧方面を見ると雲ではない真っ黒な巨大な煙りのただよっている風景に出くわす。きっと出光のタンク火災の煙りかも知れないと思いつつ空港に着く。
 20時50分の飛行機で羽田へ。帰宅したのはちょうど深夜12時を廻った所だった。

   写真・第6回国際鉱山ヒストリー会議・赤平大会にて 撮影・橋本 邦子 2003
赤色文字は北海道滞在日                            

第6回 国際鉱山ヒストリー会議・赤平大会を終えて

 多くの国内外の鉱山に関する専門家や研究者、それに加えて関心のある方々に私の写真を会期中に見て頂き、私の鉱山・炭鉱に対する「思い」を伝えたい。また、私自身の今までの鉱山・炭鉱に対する写真や研究活動に一区切り付けて、新たな方向に進みたいという大きな目標はほぼ達成でき、多種多様な、様々な感想、激励を頂き心から参加・発表して良かったと考えています。
 今まで、私の写真発表は印刷媒体がほとんどで、展示会はあまり積極的ではありませんでした。それは今後も大きな変化はないと思いますが、本当に久しぶりにオリジナル・プリントによる展示をして、今までとは違った印象、反響を受けたことも事実です。今後の私の仕事を見て頂くしか今は言えませんが、その意味では私にとってこの国際会議への参加・発表は意義がありました。スタッフのみなさんや関係各位に感謝し、厚くお礼を申し上げます。

 この国際会議が今後、赤平市や市民、関係地域の人たちはもちろん、
他の方々にとっても、
少しでも価値・意義があった、
あって欲しいと願ってやみません。

ひとまず閉会したので、今後は
国際会議に関係ある情報や写真などがあれば更新する予定です。
 ありがとうございました。
2003年10月10日 橋本 康夫

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