足尾など全国の鉱山・鉱山町に関する情報やその報告です。
投稿も歓迎します。メールでお願いします。
但し必ず掲載されるとは限りません。
【足尾・一丸旅館・おかみさんの近況】
三栄書房 ・月刊ツーリングGO!GO! 2004年7月号より
「三栄書房・月刊ツーリングGO!GO! 7月号・93ページより」
私が「バイク雑誌?」と思われる人もいると思うが、現在も「原チャリ」で都内を中心にして図書館やギャラリーなどと走り回っている。かつてはあの「ラッタッタ」で5時間かけて足尾に行った事もある。しかし、それ以上の大型バイクの免許は取りそびれてしまい、運転はできないし、またツーリングも最近はしていない。その私がバイク雑誌を取り上げたのには訳がある。7年ほど前のことだった。
私たちが復刻した「足尾商業案内便覽圖」(このサイトの出版物を参照して下さい)が縁だった。
ある日バイク雑誌の編集長と名乗る人から「バイク雑誌の創刊号で一回目に足尾を取り上げたい。その折に便覽圖を紹介し掲載したいが」と電話で了解を求めて来た。もちろん私たちはすぐに了承したが、その創刊号から毎月・毎号、その後、ツーリングGO!GO!に変わった今月号まで欠かさず携わった雑誌を送りつづけて頂いているのだ。
その間、何度となく足尾関連やおかみさんの記事も掲載されたのを拝見させて頂いた。それらの文章や記事から、今どき何と義理堅い人と思うと同時に、きっと足尾の独特の風景やおかみさんの人生観、生きざまに感動したのだなと思いつづけて来た。
この7月号もこの19日に届いた。見てみると93ページから4ページにわたり「ふるさと物語」と題しておかみさんのことや一丸旅館を主に、足尾についての「思い」が写真と共に綴られている。とてもいい文章である。私は永年お世話になったおかみさんのファンが全国にいることを知っている。それらの方々、そして一人でも多くの方々におかみさんの近況も伝わるし、何よりも知らない人たちにも足尾が、おかみさんが伝わると思い、編集長の了解を得てこのサイトに急いでアップした。
一箇所だけ本文から引用させて頂く。
「ぼく自身、足尾の持つ光と影、ドラマチックな歴史に魅力を感じているとずっと思っていた。だけど、今回の旅で、ぼくは初めて気がついた。ぼく自身が本当に惹きつけられていたのは、歴史のうねりの中で強烈に光と影の役割を演じた足尾という町を生き続けてきた女将さん自身だったということを。」
この中の文章はそのまま私にも通じるところが多い。 実は私もその一人だ。すでにおかみさんには何度も話したことだが、私は足尾に閉山前から通いつづけている。その切っ掛けは多々あるが「おかみさんとの出会い」がその中でも一番大きい。おかみさんと出会わなければ、もうとっくの昔に足尾に通う事をやめていただろうと言っても決して過言ではない。今でも足尾に行き、おかみさんと話をしていると、いつの間にか自分を見つめ直すもう一人の自分の存在に気づかされる。こんなことは東京や日常生活の中では意識してもなかなかできないことだ。しかし、足尾でおかみさんと会っていると、ごく自然に導かれるから不思議だ。そのように考えているのは自分の廻りのごく一部の人だけだろう、と今までは思っていた。だが今回の特集を読み、私たちばかりではなかったことを改めて知り嬉しい。
しかし編集長とは残念ながらまだお会いした事はなく、いつしか足尾でお会いするのを楽しみにしている。
本屋さんやコンビニでも見れるのでぜひ見て下さい。もちろん買って頂ければ私も嬉しいです。
ちなみに定価は350円です。
※ 「ツーリングGO!GO!」は既に最新号が書店に出ています。
この7月号は書店で御注文下さるか、最新号のバックナンバーのお知らせを御覧下さい。
貴重な情報なので、しばらくこのままの表示が続きますがお許し下さい。
■日 時: 2009年7月4日(土曜日)14時00分〜17時
■会 場:法政大学市ヶ谷キャンパス・80年館7階 会議室・
報告者と報告題:
研究報告 課題 「選鉱について」 報告者 遠田 義則氏
研究会誌86号の合評会
1. 竹村論文について 村田弘一氏
2. 寺島論文について 金丸哲也氏
3. 本田論文について 川俣修壽氏 その他
ギター演奏会 遠田義則作曲・演奏 「足尾の四季」
【鉱山研究会・第24回 鉱山の映像を観る会のご案内】
この度、鉱山研究会では、鉱山関連のビデオ等から、鉱山の現状と歴史を学び同時に映像記
録のあり方を考えたいと随時上映会を開催する事になりました。上映するテーマは炭鉱も含めて技術、
社会、文化と広い領域にわたり、会社や技術の宣伝、ドキュメンタリー、劇映画、テレビ報道なども
扱います。
第24回は下記の日時、東京「渋谷区立・勤労福祉会館」で行ないます。
下記の地図を参考にして下さい。オレンジ・ベタの所が勤労福祉会館です。
(渋谷区神南1-19-8・渋谷駅下車徒歩7分・公園通り・パルコ前・電話03-3462-2511)
地図・オープロジェクト提供
第24回は「幌内・鴻之舞・喜和田鉱山」3本の予定です
2009年9月26日(土)・13時00分(開場)・
13時20分(上映開始)から17時00分まで
場所・2F・第3洋室にて・参加無料
案内看板は「鉱山研究会」と表示
お気軽にご参加下さい。
第24回の上映項目はバラバラの感がありますが、それぞれに見応えのある映像作品と思います。
また再上映の機会もなかなか設けられないのでこの機会にぜひご参加下さい。なお会員外の参加については後述します。
また、今回の上映会にて長らく幹事を務めて参りました橋本が「健康上の理由」で
退くことになりました(今後の協力は続けます)。従いまして今後の上映会について新
たな幹事を選び続けるのか、それとも休止するのか等を当日の残り時間で参加者で
話し合いたいと思います。幹事に立候補なさりたい方は当日ぜひご参加をお願いし
ます。
■日・時 2009年9月26日(土)・13時00分(開場)・
13時20分(上映開始)から17時00分まで
参加無料・案内看板は「鉱山研究会」と表示しています。
なお、上映終了後に研究会の事務局会議を行います。
■会場:渋谷勤労福祉会館・2F・第3洋室・
渋谷区神南1-19-8・渋谷駅下車徒歩7分・公園通り・パルコ前・
電話03-3462-2511 http://www.city.shibuya.tokyo.jp/est/kinro.html
(リンクしていませんのでコピーして下さい)
■上映項目
●「1989年北幌内炭鉱」・ 製作・著者 幌内歩こう会・撮影 斉藤靖則
上映時間約35分・ 製作2002年
幌内炭鉱閉山前後を撮影した貴重な記録。立坑・繰込など坑内はもちろん、選炭機・斜坑・
そして山神社祭りなど炭鉱にまつわる環境、施設等を音も含めて記録している。
●「旧鴻之舞金山酸性水湧水は止まず」・製作/著作 NHK釧路・ 1991年製作 ・45分
道内ローカル「北海道スペシャル」竹村さんのビデオ提供
旧坑内廃水処理に従事する退職間近の鉱山職員と処理事業の詳細と問題点をビックアップ。
坑内の映像はもちろん、鹿児島県の菱刈鉱山の坑内映像もある貴重な作品。
●地球おどろきシリーズ第2巻「喜和田鉱山」未知の世界・青く光る灰重石鉱脈と鉱山採掘のしくみ
・製作/著作 地球おどろき大自然 山本むつのり 2008年製作 46分
山口県の喜和田鉱山は1669年に発見されたと伝えられる。当時は「二鹿鉱山」と呼ばれ、1671年以降主に銅や鉛の小規模な採掘が行われていた。
1909年にそれまで捨てられていた石(ズリ)の中から大量の灰重石が発見されタングステンなどの一大産地として脚光を浴びた。しかし、喜和田には選鉱設備が無く、京都府の大谷鉱山に処理を委託していたが、この鉱山が1982年に閉山。近隣の玖珂鉱山に依頼したが、その後観光坑道化して選鉱を停止したため鉱山としての操業が困難となり、1992年に操業を休止した。
このたび喜和田鉱山での坑内見学会を中心にして新たに喜和田鉱山をまとめた映像が発売された。
採掘のしくみやローダーのしくみ、運搬等について映像やCGでわかりやすく解説している。
当日の上映時間割り(時間的には厳守の予定です)
13時00分 開場
13時20分~14時05分 「1989年北幌内炭鉱」
14時05分~14時50分 「旧鴻之舞金山酸性水湧水は止まず」
14時50分~15時05分 休憩
15時05分~15時50分 「喜和田鉱山」
15時50分~ 16時00分 休憩
16時00分~ 17時00分 「今後の上映会について」「上映項目の感想・次回上映項目」「研究会・事務局 から
17時00分~ 解散・懇親会へ
※ 時間は突然の変更もありますので一応ご了承下さい。
※鉱山研究会会員以外の参加について・参加への手順
参加は当研究会の会員・会員以外でも無料ですが、会場の定員に制限がありますので
(会員以外の定員枠は7名です)、会員外の方は予約制とさせて頂きました。
会員以外の方の参加は必ず下記のメールからお申し込み下さい。その際下記の項目を必ず書いて下さい。
1. 24回上映会参加希望と書き・
2. 住所・氏名・年齢・職業・返信先のアドレス・
3. そして簡単でいいので鉱山と自分の関わりについて(必ずしも鉱山でなくとも鉱山の何に・どこに興味あるか等でも可です)を書き添えて送信して下さい。
(複数でのお申し込みの場合は2名までは同時に受け付けます。2名分の住所・氏名等をお願いします)。
上記鉱山・炭鉱関連ビデオ等をお持ちの方で上映してもいいと思う方、また、ビデ
オのリスト等がある方、借用できるところを御存知の方、各種問い合わせは下記のメー
ルにてご連絡をお願いします。なお、上映したビデオの貸し出し、ダヴィング等は固
くお断り致します。
※ 各種問い合わせ等は下記のメールにてお願いします。
-- 鉱山研究会・足尾研究会
橋本 康夫(Yasuo Hashimoto)
y-hasshii@hkg.odn.ne.jp
http://www.jmrs.sakura.ne.jp/
http://www2.odn.ne.jp/ashio-kenkyukai/
写真提供・オープロジェクトさん 08.5.17.
第19回 鉱山の映像を観る会は予定通り5月17日(土)多くの参加者のもとで開催され盛況の内に無事終了致しました。多くの参加者のみなさん、本当に有り難うございました。当日の上映会の反響として多くの感想が寄せられましたのでここに掲載し、報告させて頂きたいと思います。
※京都から参加・大学院生・男性
今回は端島の上映会ということで、初めて参加させていただきましたが、
初見の映像も含め、貴重な資料を興味深くみせていただきました。
とくに閉山直前の西村氏の作品は、当時の生活の様子が伝わってきて印象深いものでした。
また、会員の方々をはじめ参加者の方たちの解説やコメントがとても勉強になりました。
懇親会にも参加させていただきましたが、端島にとどまらず鉱山に様々な切り口からアプローチ
されている方たちとお話しでき、とても刺激的で楽しい時間を過ごすことができました。
終電のため途中で失礼させていただいた関係で、一部の方としかお話しできなかったことだけが残念でしたが、この機会に参加させていただけたこと、感謝いたします。
※神奈川・会社員・女性
5月17日の上映会の節は貴重な端島のお話を聞かせて頂きありがとうございました。とても
興味深く、新たな端島の顔を見れました。
当時の端島のカラー映像は初めて見たので、操業当時の活気や雰囲気がよく感じとれました。
小さな島の中で生きていくにはやはり人づきあいがとても重要であり、人情、連係意識といった
当時の世相が、(というと大袈裟かもしれませんが)今では憧れに見えてしまうのが、悲しい部分
でもあります。こういったものは失って初めてその有難みがわかるのかもしれません。
また、今の私たちの生活基盤は、こういった歴史があって成り立っているのだなと痛感しました。
わずか、周囲1.2Kmの小さな島は日本経済を支え、そして資源が枯渇し退いていくまでの歴史を、
もっと今の世の中の人達に知って欲しいと思います。そうすれば、普段の生活が少し違って見えて
くるのではないでょうか。
「昭和の一番いいとこが凝縮している」と映像の中で語っていましたが、まさにその通りだなと感じました。
今回、上映会に参加させて頂き、本当にありがとうございました。炭鉱は興味を持てば持つほど、奥が深いですね。また、こういった機会がございましたら、宜しくお願い致します。
※都内・写真家・男性
イベント主催、誠にお疲れ様でした
楽しませて頂きました有難う御座います
今迄の端島関連のイベントではどうしても住居部分が主になっていましたので鉱山施設についての解説付で興味深かったです
また機会がありましたら宜しくお願い致します
※都内・公務員・女性
素敵な上映会をありがとうございました。
私はこれまで軍艦島で子供たちが遊んでいる姿を見るのは初めてだったので、感動しました。
自分が子供のとき軍艦島が遊び場だったらどんなだったろうと想像しました。
お別れがどんなにか切なかったろうと思います。
貴重な映像をたくさん見せていただきありがとうございました!
※都内・自営業・男性
ありがとうございました。
大変有意義な時間をすごさせていただきました。
私は軍艦島については全くの初心者のため、はじめて知ることも多くありました。
酒屋の娘さんだった方のお話は、事実であるがゆえに大変貴重な証言であると思います。
強い興味をもっていた14号棟(木造5階建て)について、鐘ケ江さんにお尋ねしてみたのですが、ものごころついたころにはすでに存在していなかったとのことのようで、残念でした。
地形に寄りかかった構造の木造5階建てではないかと思われるのですが、外観は見るからに下見板の木造ですね。同じような構造の建物が、明治初期ぐらいまで、温泉宿等に存在したとの説もきくのですが、どんな構造だったのかのどから手が出るほど知りたいです。
ご存知でしたらぜひご教示下さい。お願い申し上げます。
すでに斜陽期に入った日本は、過去の研究により未来をつなぎとめるような状況にすでに入っているのではないかと思われます。
軍艦島もまたその重大な過去であり、そこから学ぶべきものは多いのではないかと思います。
※都内・雑誌編集・女性
とても熱心な会で、リアルなお話が伺えたこと貴重でした。
ありがとうございました。
※都内・会社員・男性
ありがとうございました。たいへん有意義な時間でした。
拙い記事ですが、自身のブログにアップしましたので、
よろしかったらご覧ください。
http://ei8at12so.seesaa.net/article/97232135.html
それでは失礼します。
※千葉・会社員・男性
私としては前半の映像はとても良かったですね。
Oプロジェクトの軍艦島オデッセイは廃墟に関心のある人には良かったと思います。
ただ映像の中でのナレ−タ−が「端島は突然の閉山」と言っていたのが少し気になりました。
事実は三ツ瀬(昭和39年の深部自然発火事故の代替区域)の浅部区域が終掘した時点で閉山という計画閉山でした。
端島の閉山は世にも珍しい「黒字閉山」と言われたことです。
つまらないことですいません。
これは放送局のチェックに問題のある話で上映側の不備でも何でもありません。
次回、9月の上映会も楽しみにしております。
※多摩市・会社員・男性
今日は楽しい上映会有難うございます。
軍艦島のことを知っていても、その情報を共有する機会はなかなか無かったので、今日は大変勉強になりました。
今後も宜しくお願いします。
今回の記念に貰った石炭を手のひらに・懇親会にて・Kさんより提供
※都内・男性
今回の上映会で重要な事は、軍艦島「廃墟」紹介では無く、端島炭鉱操業時との比較に立脚して、
為された点に存在すると考えます。
参加者の少なからずには、「廃墟」指向の方も居られたでしょう。しかし、「鉱山」の検証・調査は、
その成立の歴史、そして操業時の状況抜きでは語り得ない事実を理解して居る、橋本様ならではの構成です
(O−Proの皆様も同じと思います)。
映像の会は、今回を機会に、研究会以外の方の存在にも成った、と私は考えます。
今後、「マニア」指向の方にも、映像を通して、鉱山の本来の機能を正確に伝えて行く役割が備わったのではないでしょうか?。
※都内・雑誌編集・男性
初参加でしたが、盛りだくさんの内容で上映会の3時間はあっという間でした。
はじめは、多少固い感じの会のお名前から(勝手な思い込みで申し訳ありません)、
私のような素人には取っつきにくいのでは…と不安だったのですが、
皆さん、とても和気藹々とした雰囲気で、楽しく勉強させて頂きました!
私事ですが現在、
Oprojectの皆さんと、端島の本を作りろうと考えております。
島内に現存する全ての建物と鉱業所施設跡などを、カラー写真で紹介し、
昨年流行った「工場萌え」のようなテイストを折り込むことで、
多くの人に手にとってもらえるような体裁の本を作れればと企画しております。
鉱山研究会の皆様から見れば、
軟派な企画とお叱りを受けそうですが…。
端島の歴史や鉱山施設の情報などもしっかりと盛り込みたいと考え、
只今、鋭意勉強中です。
そういった点からも、
今回の上映会で拝見させていただきました貴重な映像の数々は、
私にとって大きな財産になると思います。
特に、
「思い出の端島」に映し出されていた、活動中の端島の姿、
「親の目 子の目・ともだちのうた 軍艦島閉山」の端島の人々の人生をクローズアッ
プした映像は、今までの私が持っていたイメージを大きく覆すものでした。
そして、
鐘ヶ江さんをはじめ、鉱山研究会、Oprojectの皆さんの
詳細かつ楽しいエピソードを盛り込んだ解説付きで観賞できたことが
何よりも貴重な体験でした。
こういった場に参加させて頂いたこと、心より感謝します。
本当にありがとうございました!
PS.
橋本様の「石炭と人間の匂いを求めて」は、
臨場感ある映像はもちろんですが、
楽曲のチョイスから、編集・構成力まで、全てが最高でした!
一級のエンターテインメント作品といっても過言ではないと思います。
心の底から楽しませて頂きました!
長々と、とりとめもない文章になってしまい、誠に申し訳ありません。
最後になってしまいましたが、
今後とも鉱山研究会の皆様のご活躍を心より期待しております。
また、機会がありましたら、ぜひ勉強させて頂きたいと考えておりますので、
何卒よろしくお願いいたします!
※釧路・公務員・男性
上映会の資料をありがとうございました。
盛況だったようで...行きたかったです。
※都内・女性
お返事が遅れてしまい大変失礼致しました。
上映会では、残存する建造物のみが注目されがちな端島の、
労働の場・生活の場としての面も見ることができたように思います。
私は学生時代に博物館の研究をしており、修士論文で筑豊地域の
博物館における炭鉱の展示を取り上げました。その時点では
日本国内で炭鉱がほとんど姿を消した現在において、博物館の展示は
それを見る人の炭鉱に対するイメージ形成に大きな責任を負う、と考えて
いたのですが、後になって映像がより大きな影響力をもつことに気付き、
機会を見つけては炭鉱の映像を見てきました。
今回上映された中では3本目の「親の目子の目・ともだちのうた 軍艦島閉山」が
特に印象に残りました。炭鉱の閉山に伴って働き方・暮らし方を変えざるを
得なくなり苦労をした人達がたくさんいた、ということはかつては常識であったと
思うのですが、炭鉱施設を「近代化遺産」として評価しようという近年の流れの中で
は、そのことは無視されているように思います。同時代においてはこのような番組が
作られていた、ということは炭鉱に対する見方、論じ方の変化を考えるヒントになる
ように思います。
またこのような機会がありましたら、ぜひ参加させていただきたく存じます。
この度は本当にありがとうございました。
多くの反響を有り難うございました。端島特集は初めてでしたが、まだまだ上映したい素材は多くあります。また機会がありましたら第2回、第3回と続けられればと考えております。もちろん他の鉱山の映像も上映して行きますのでまたご参加頂ければ有難いと思っております。最後にご参加頂いた方々、共催して頂いたオープロジェクトのみなさんのご協力に深く感謝してお礼の言葉とさせて頂きます。
有り難うございました。
写真・村田Jr.
橋本康夫ミニ写真展・【日本の鉱山・炭鉱を追って 1970-2003】と
【石炭の販売(釧路コールマイン産)】のご案内
-2004年9月11日(土)と12日(日)の2日間限り-
ひょんなことから、昨年9月に北海道赤平市で開催された第6回国際鉱山ヒストリー会議・赤平大会・
ポスターセッション発表とほぼ同じ内容で、そのミニ写真展を息子の高校の記念祭(文化祭)で展示・
写真集や関連資料他も販売することになりました。様々な事情から展示等を縮小せざるを得ませんが、
赤平の展示を御覧になっていない方はぜひいらして下さい。
また、当日は折角の機会と思い、石炭を知らない、触った事もない若い世代に、そして親や先生を
はじめ、石炭を懐かしむ方々の世代にも会場で石炭を直に触れて頂きたいと思います。
(場所や季節柄燃やせないのが残念です)。
さらに、現在国内で唯一坑内堀り石炭の生産をしている釧路コールマインの「石炭」を数に限りがあり
ますが、石炭3個入り(3個を大人のこぶしで握れる程度)を1袋として、他に釧路コールマインに関連す
るパンフ等を添えて100円で希望者にお分けする事になりました(売り上げ金は全額ネパール会に寄付・
1人1袋限定(合計100袋限定)・売り切れの場合はご容赦願います)。
幸い、今回の私の主旨を御理解下さり、釧路コールマイン(株)、釧路産炭地域総合発展機構から全面
的な御協力・御支援を頂き、貴重な多くの石炭やパンフ等ご提供頂きました。快く場所等をご提供下さ
った学校と共にここに記して深く感謝し、厚くお礼を申し上げます。
現在石炭は火力発電・産業向けが主で一般にはなかなか手に入りません。この際、石炭を触って
「これがあの石炭か!」と実感して頂きたいのです。そして「石炭そのもの」から「石炭・炭鉱の歴
史」「空知・池島・筑豊や三池など他の旧産炭地」「国内でたった1つの坑内堀り炭鉱となった釧路
コールマイン」「それらの地元・地域」「日本のエネルギー問題」等々の現実や諸問題、そして広く
は私たち「人間」に思いを馳せて頂きたいのです。
会期・2004年9月11日(土)・12日(日)の両日 10時00分から16時00分まで(12日は15時00分で終了)
石炭の販売時間・1日につき午前、午後と計2回・各々先着25名様限り(合計100名まで)・
場所・都立・都立大附属高等学校 東京都目黒区八雲1-1-2
東急東横線・都立大学駅下車・徒歩約5分 下記の地図を参考にして下さい。
その他、変更や新たに決定したことなどがあれば、このページで随時更新して行きます。
詳しい問い合わせはメール、或いは期日が近くなりましたら、ここの足尾研究会のサイトにて御確認をお願いします。
※当サイトの出版・新刊情報にある「足尾銅山全圖」を復刻した森田 淳さんから
一緒に展示・販売して、同じくネパール会に売り上げを全額寄付したいとの申し出がありました。
感謝して一緒に展示・販売したいと思います。
全圖についてはこちらをご覧下さい。
両日共に写真集・便覽圖・全圖・絵葉書・ビデオ等は今回限りの「特別割引き価格」にて販売します。
詳しくはお問い合わせ下さい。
橋本康夫ミニ写真展・【日本の鉱山・炭鉱を追って 1970-2003】と
【石炭の販売(釧路コールマイン産)】 の報告
度重なるスキャナーの修理などでミニ写真展の報告がたいへん遅れて申し訳ありませんでした。
今回の展示では特に若い人たちが「石炭」にどのような関心を持っているか、せっかくのチャンス
ですので、その反応を第一の目的として、且つ直接、ナマで実感したいと思っていました。ですから
独断と偏見ですが、あえてアンケート等をお願いすることはしませんでした。
橋本 康夫ミニ展の会場にて・2004.9.11.
「思い切り石炭を触って下さい」と赤い文字で書いたのも、単に石炭を見るだけでは決して伝わら
ないという私の信念から出たものです。まず自分の手で石炭を触って、握って「何」かを感じ取って
欲しいという私の「思い・願い」なのです。
多くの若い人たちの反応は「わぁー石炭だ!」と声をあげた人がほとんどで、石炭の存在は知ってい
たようです。また、そのほとんどが「SLの燃料」としての石炭で、現在火力発電として使用している
ことまでは知らない様でした。「海外からの輸入がほとんどだけど、現在も火力発電の燃料として
使用している」と説明するとほとんどの若者は「へぇー」と驚いていました。また、若い男性よりも
多くの若い女性の方が積極的に「石炭」に触っていたことは全くの予想外で驚きでした。また、年代
に関係なく、ほとんどの人たちは(日本人の奥ゆかしさからか)一つだけの石炭を手に取り触っていた
ので「5,6個まとめて握ってごらん、真ん中の大きな石炭も持ち上げてごらん」と言うと片手で持ち
上げ「重ーいよー」と嬉しそうに持ち上げていた。
また次のような質問も多く受けた。「石炭ってこんなにツヤツヤしていた? もっと鈍い感じのものだ
ったと記憶しているけどー」と。確かにナマの石炭は鈍い光沢のものだけど、そのままで置いておく
と何時しか風化してボロボロに砕けてしまう。その防止の為にニスを塗っていると説明すると納得し
てくれた。そして「おじいチャンにお土産に買って行こう」「子供へのお土産」「記念に」と100円
でお分けした石炭を買って頂いた。
だが、国内で現在も唯一、坑内堀の石炭が釧路で生産されていることを知っていた人は「皆無」。
その現実にはショックだったが、今後のさらなる世論への石炭・炭鉱の浸透、広報活動の必要性を
痛感した。
この展示の準備中に私も次のような経験をした。今年8月の上旬のある日、夏休みを取り、家族で
千葉の白浜の海岸でキャンプをしていた時だった。
あるラジオ番組で永六輔さんが「日本から炭鉱がすべて無くなってしまった」と放送の中で言った。
それを偶然に聞いた私はラジオに向かって「違う!嘘だ!」と周りも気にせず大声で叫んでしまい
ました。スタジオまで聞こえる筈はないことは分かっていながらも…。
私の性格からしても「聞いてしまった以上」このままにしておく訳には行かなかった。展示の準備で
遅れたが、9月上旬に私は永さん宛に手紙を出すことにした。もちろん人間だから間違いは起こる。
勘違いも生まれる。それを批判するつもりは毛頭なく、ただただ「事実」を知って欲しいと願った
からだ。
手紙は池島や太平洋炭礦の閉山からの流れを簡単に説明し、現在、坑内堀りでは日本の中では唯一
釧路に「釧路コールマイン(株)」という石炭を生産している炭鉱会社があること。その釧路の炭鉱の
前身は2002年1月30日に閉山した「太平洋炭礦」であること。その前年2001年11月29日に九州最後
のヤマ「池島炭鉱」が閉山しているので太平洋は日本最後の炭鉱(正確には坑内堀炭鉱の最後)として
ニュースで流れた。一般的にこのニュースで炭鉱は国内から無くなってしまったと思い込んでしまっ
た人々が多かったのだろう。その一方で池島と太平洋は今後5年間という期限付きで「炭鉱技術で国
際協力」をするということで生産はしないが、主要な炭鉱施設等は残ることになり、両炭鉱とも中国
や東南アジアの人たちが来日して技術面等で現在も技術移転ということで国際協力をしている。
しかし(大きなニュースとして全国に流れなかったが)、釧路では閉山前後から違う動きが動き出し
ていた。閉山に伴い、地元自治体や経済界の働きかけで「釧路コールマイン(株)・炭鉱名・釧路炭鉱
」を設立。太平洋炭礦の鉱区の一部を引き継ぎ、炭鉱技術を持っている従業員の希望者を採用して、
閉山から約2ヶ月余り後の2002年4月9日より操業して現在に至っている。もちろん、その生産高や
操業期限も設けられており、坑内も以前と比べると浅い炭層で現在も生産をつづけているが、国内で
の坑内堀りの炭鉱はここだけだ。この事実・流れが完全に伝わってはいないのが非常に残念だ。
従って「現在、日本からは炭鉱がすべてなくなってしまった」或いは「ない」と言うのは明らかに
間違い。そして現在も唯一の炭鉱を存続するために多くの方々が歴史を研究したり、今年は修学旅行
のコースに入れてみたり、試行錯誤し、関係各所に働きかけたりして何とか少しでも長く存続をと運
動・努力している。この現実をぜひ永さんにはご理解頂いて放送でぜひとも訂正して頂きたい。と
「今回販売予定の釧路の石炭1袋」も同封して手紙を出した。
その返信がこの葉書です。
※番地等は消去させて頂きました。
「ありがとう」の意味は国内に唯一釧路に炭鉱があることを知ったこと、その炭鉱の石炭をもら
ったことへのお礼と受け止めている。また時間が出来た時に今回添付したパンフなどを永さんに送
りたいと思っている。他の人も含めて次回釧路に行かれたら、ぜひ炭鉱を訪ねて欲しい。
橋本 康夫ミニ展の会場にて・2004.9.11.
志免炭鉱の扇風機の写真を見ていたギターを背負った茶髪の若者が「これは何?
」と尋ねて来た。
「坑内へ新鮮な空気を強制的に送り込む扇風機。この羽は木製だよ。現在ここは壊されてしまいない
が、扇風機の本体だけは地元の資料館で保存・展示している。しかし、本体だけがポツンと置かれて
いて 臨場感がなく、とても扇風機とは思えない展示になっていて残念だ」と説明する。「えぇっ!木
製ですか、すごーい!」と感激していた。さらに「ここの炭鉱は元海軍が経営していて、その後国鉄
(現在のJR)が経営していた」ことを加えて説明すると驚いていた。この若者は端島、三池、足尾等の
写真にも関心を示し、ついにはビデオまで時間外だったが上映して説明した。彼は感激して買った石
炭を大切にポケットに入れていた。今日の炭鉱や鉱山との出会いはきっと忘れないことだろう。
また、新たな出会いもあった。同じ父兄の中にご主人が熊本県・荒尾市出身で、そのお父さんがか
つて三池炭鉱で働いていたということは以前に聞いて驚いたが、カメラマンであるそのご主人も会場
に来て下さり、三池のこともいろいろと尋ねた。お父さんは「四ツ山にいて採炭の仕事」を為さって
いたそうだ。子供の頃の思い出としては「争議のことが一番忘れられない」と話していた。時間がな
くてより詳しく話せなかったのが残念。
また、会場の手伝いに来ていたご主人が「私のふるさともこのような鉱山がありました」と私に話
し掛けて来ました。「どちらですか? 」と尋ねると「岡山の山の中ですよ」と応えるので、ずばり
「吹屋ですか? 」と重ねて尋ねると「そうです」と応えて下さり、今年行ったばかりの吉岡鉱山跡の
話や、西江邸、ベンガラなどの話で盛り上がった。奥さんも筑豊の飯塚出身で筑豊の話も懐かしく会
話が出来た。世間は狭いなと実感した出会いでもあった。
写真の展示についても「手焼き写真の美しさ」に感激していた写真関係者や現役の写真部の人も多
くいた。この他にも出会いや面白い話もあったが長くなるのでまた別の機会に廻したいと思います。
なお、ネパール会への売り上げ金寄付は足尾全圖も含めて「2,100円」でした。当日に全額寄付し
たことをご報告致します。皆さんの御協力、心からお礼申し上げます。有り難うございました。
勝手ながら余りました「石炭・パンフ等」は今後の私の活動の中で活用させて頂こうと思っています。
今回の展示では様々な人たちにたいへんお世話になりました。多くの貴重な石炭、資料、パンフ等
を寄贈して下さった釧路コールマイン(株)、そして釧路産炭地域総合発展機構の皆さん。皆さんの御
協力・ご支援がなければ今回の企画は実現できませんでした。心から感謝しております。さらに、暖
かい応援メッセージも嬉しく、有り難く読ませて頂きました。また、早くから釧路の関係者などをご
紹介下さり、応援してくれた釧路を追っている石川孝織さん。そして事前の学校との打ち合わせか
ら準備・片づけまで、完全にフォローし、且つ手伝って下さった父兄有志の皆さん、会場で一緒に足
尾全圖を展示・販売してくれ、その売り上げも寄付してくれた森田淳さん…。その他にも会場に来て
頂いた皆さん、またここに記せない程大勢の友人・知人・仲間の皆さんのお陰で有意義な展示ができ
ました。
ここに深く感謝し、厚くお礼を申し上げます。
この展示で得た多くのものは今後の私の仕事にぜひ活かして行きたいと思っています。
有り難うございました。 2004 年10月5日 橋本 康夫
【端島(軍艦島)】 ー研究に、出版に、安易さを求めるな!ー
最近、長崎県の高島町の端島(軍艦島)を題材にしていろいろと調べています。炭鉱の歴史がメ
インですが、高層アパート群のことにも興味があります。但し建築は専門外なので建築的意義や
材質等ではなく、歴史として興味がある程度のことです。
最近、撮影した端島のビデオをまとめ上映する機会があり、参考文献をいくつか読み直してい
ました。すると、下記の本では日給社宅(16号棟から20号棟)の建築年月が、多くの文献・資料・
年表などと違う記述をしていることに気付きました。
つまり、16-20号棟まで一括して大正7年に建築したとしている文献・資料が多い中、この1册
は別の記述をしています。その内容を要約すると『大正7年に16.17号棟が9階.18号棟が6階で完成。
19.20号棟は大正11年6階建てで完成。昭和7年18.19号棟が3層かさ上げ。20号棟以外が9階となり、
さらに20号棟屋上に木造長屋が建てられ最終規模となる』とあります(軍艦島・海上産業都市に住
む・阿久井喜孝著・写真・伊藤千行・岩波書店刊・45ページ下段)。この本に依ると16ー18号棟が
完成した大正7年にはまだ19-20号棟は完成していない事になります。
私も恥ずかしながら読みなおす直前まで、多くの資料通り、すべての日給社宅が同じ年に完成し
たものとばかり(増築は別)思い込んでいました。
急いで手元にあるすべての文献・資料にある参考文献・資料リストを見直してみると、すべての
本ではありませんが、「高島炭礦史」「三菱鉱業社史」「軍艦島実測調査資料集」「端島ー閉山記
念特集号」「軍艦島・海上産業都市に住む」など主な基本的原典や文献を参考文献として載せてい
ます。私自身はすべての原典に未だに当たっていませんので現在の時点では断定することはできま
せん。あくまでも憶測の域は出ていません。
しかし、各文献とも、本文ほどには巻末の年表には詳しい記述はしておらず、断定的に建築年が
事実として年表に記されているだけです。中には本文からするとどうしてこのような年表になるの
か頭をひねってしまうものもありました。私は現在の段階では多くの文献は参考文献としての本文
を読まず、或いは年表作成段階で独自の年表を作成せず、校正せず、一括して巻末の年表を安易に
コピーして掲載してしまったと推測している。他の文献は再び、その年表を検証せず、これまた安
易に年表を引用したのではないか。それがどの文献から始まったか断定するところまでは行ってい
ないが、日給社宅が何時の間にか一括した建築年になった理由として考えられるものはこの安易さ
以外他にないのではないか。
しかし、それにしても不思議です。なぜ、どこで何が原因でこのような違う年月になったのかと。
何も端島に限りません。一つ一つ原典に当たらず安易に資料を写し取るだけで記述してしまう傾
向が、最近はとみに目に付くと感じるているのは私だけではないでしょう。例え、間違いを指摘さ
れたのにも関わらず、そのまま無視して平然としたままの人や、さらに他のメディアに転載したり
とモラルのかけらもない。他にも社史や歴史として載せている本、聞き書きも、話す人の記憶や内
容の年代検証もせず、文字に起こしてしまっている本も多いと聞く。また、すべてではありません
が、ホームページの関連年表さえ「その気軽さ」ゆえか、同じような現象が起こっています。あま
りにも「歴史や事実」を軽く見ていないだろうか。
間違いは人間だから誰しも起こりうるし、あり得る。しかし、せめて間違いを指摘され、それが
明らかに間違いと判明したら研究者・書き手として訂正文なりを作成し、正しい事実を残して欲し
い。それが本当の歴史として残る。それが最低限のルールであり、モラルである。
研究者・書き手などの発表する側の立場に携わる人達の基本姿勢を今一度ここで各自検証し、基
本に戻らないと、この先、取り返しがつかなくなるほど「荒れた」状況です。本や出版物になり、
記録として残って行くと著者の意識と離れ、独り歩きするとよく言われます。やがて間違った歴史
がいつの間にか「正しい歴史」として認識されてしまうこともままあります。しかし、それらに気
が付いて正しい歴史に戻すことには膨大な時間やエネルギーを要します。だからこそ、出版、発表
する時には歴史の検証に責任はもちろんのこと、安易さを捨てる勇気と、より慎重さが求められる
のです。
私はただ正しい歴史を後世に残し、伝えたいだけです。自分も含めてより自戒していく意味を込
めてここに記しておきます。
※ 以下は準備中です。
※The following is being prepared.
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