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InterBook紙背人の書斎
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1962年1月(15歳・中3)

 1962. 1.1 月曜日 曇り
 三十七年・六十二年という年を占うに。この年〔、〕私の将来を決定する第一の枝道のようである。今年の三月には〔、〕卒業。そして〔、〕二月には東北電子工業高校の入試を受験しなければならない。そして、三月には一高を受験しなければならないのだ。もし落第すれば、そこで私の将来の想像図は大きく書き変えられるのである。新しい年、新しい春、新年、新春、そして私の人生の初春、私の青春の始まりの三十七年なのである。
 「一年の計は元旦にあり」。去年の元旦には、日記帳をつける事を思いたった。さりとて、今年は………。しかし、このさわやかな新春の朝を迎えて〔、〕何かを決意し、一念をたてなければならない事は確かである。とに角、私は、この様に新年に対する何の意欲も希望も持たずして、ただボウ然と時間の過ぎるままに新年を迎えてしまったのだ。しかし、一年の計は元旦にあり、である。今から、新年に対する意欲を奮いたたせ、何かを志さねばなるまい。で、私は、この三十七年の元旦に際して次の事を志す。私の私生活の規則全般に渡〔亘〕って、私の行動の一切を指導する事柄である。
 今、私の頭の中にその草案ができてはいるのであるが、決して完全なものではない。かんじん金目〔要〕の所の決心がつかないのである。それで私は、この正月の内にいつかは新年に対する心構えができるであろうから、それは、次の機会に書く事にする。元旦の朝から寝坊してしまった。ついに、初日の出は拝めなかった。


 1962. 1.2 火曜日 曇り
 朝、床の中で誰かの呼ぶ声に、眼がさめた。太陽は、もう、かなり高く、部屋の中には、日光がいっぱいに指〔射〕していた。声の主は、先輩であり、友人である音羽光雄君だった。廊下のガラス戸を開けて、笑いかけている。私もすぐ起き出した。彼はすぐ家に帰った。朝飯を済ませてから、退屈なので先輩兼親友の家に、遊びに行った。正月は、ゆっくり遊ぼうという考えである。
 彼や彼の家族と談笑している内に、家に居てもつまらないので、吉岡に遊びに行く事になった。私は、家に引き返して、父から、軍資金を三百円もらった。まず終点でバスを下〔降〕りて、吉岡郵便局から、年賀状を出した。昨日の返事状である。それから、一寸、丸金マーケットに顔を出して、映画館に足を運んだ。中央劇場で、「我恋の旅路」という古い奴である。その後、そば屋を二軒まわって昼食、これは二杯とも、音羽君に金を出してもらった。肉そばを初めて食った。それからバスを待って家に着いた時は真暗で、もう、夕食もすんでいた。


 1962. 1.3 水曜日 晴れ
 正月の元日・二日と、何もかもおっぽりだして遊んでしまった。しかし正月も今日で三日。そろそろ正常に帰〔返〕らなければならない時期である。午前中、私は勉強した。昼時の昼食前、堀と風呂場で、ゴム長を洗った。午後は又勉強。
 夜、テレビでライフルマンを観償〔賞〕した。


 1962. 1.4 木曜日 晴れ
 私が起床したのは、八時近く。そのころは、彼・音羽光雄君は、東京の働き先に仙台駅をたったはずである。彼を一目も見ないで〔、〕見送りもしなかった。彼は、今思うに、予想以上にいゝ奴だと思う、りっぱな奴だと思う。私等よりはるかに、りっぱな心がけの様である。彼は成長した。十ヵ月も見ぬ間に随分社会人的になったものだ。それに〔、〕彼は気取らなかった。それで私は、非常につき会〔合〕い易かった。私は彼の手を見た。彼の手が、毎日の彼の生活の厳しさを物語っていた。彼の手は、むしろ百姓の手よりもひどく、油で荒れていた。しかし、彼はかくそうともしなかった。自分の職業に自信を持っているのである。要するに、彼は善人であったのである。彼は全く、いゝ人である。ズウズウ弁を丸出しにして私と話してくれたし。


 1962. 1.5 金曜日 晴れ
 夕刻、夕食後の家族団らんの一時、私は誰かの私を呼ぶ口笛を聞いた。級友の津田晃哉だった。今晩の宿直は、担任の小林教諭だから泊りに行かないかとの事だった。遠路をわざわざ来てくれた事もあったし、宿直が小林教諭だと言うので私も進んで賛成し、間もなく彼と共に、家を出た。晴天の日の夜の空気は、耳をつんざく様に冷たかった。その中を〔、〕今度は北目の沖を通って砂金沢まで行ったのである。遠藤信喜の家を訪れて彼を誘い出し、それから遠藤章を誘うため県道を上り始めたら、折り良く彼に出会った。その彼の恰好が〔、〕又特筆すべきものであった。古い麦ワラ帽子を頭に横ギッチョに乗っけて〔、〕というよりは押し込んで、この寒い冬の夜に高足ダをはいて、まあこんな調子である。無燈火の自転車で、これっきりという程、追風にのってスピードをつけてきたからたまらない。私達の車とぶっつかりそうになった。その時〔、〕遠藤信喜が彼を章だと言ったのである。それで〔、〕僕達は大声で彼を呼びとめた。後を振り向いても〔、〕もう彼の姿はなかった。小野君の家の通路にかけ込んだらしい。彼の後からの話では、ぼく達を不良高校生と思ったのらしい。とに角、彼を引っ張り出して、一緒に県道を下った。その時〔、〕彼が麦ワラ帽子を風にとばされ拾っていたので、私達は先に来た。すぐ後から、彼が又例の極く猛スピードでやって来た。が、何を思ったか引き返してしまった。私はすぐターンして、彼の後を追った。調〔丁〕度〔、〕彼が又麦ワラ帽子をとばされたのでそれを拾ってやって、彼に追いつく事ができた。しかし彼は〔に〕先に行っていてくれといわれたので、彼の考えをジャマしないために、素直に三人で先に学校の門まで来た。とすぐ彼が例のスピードで追いついて来た。でも〔、〕それでも彼は一緒に行こうとはしなかった。仕方がないので〔、〕私達三人だけで又坂を上った。一足先に〔、〕津田君が入っていった。二・三分〔、〕自転車を置くために〔、〕私達が遅れて入っていった。五・六分後、彼も来た。が〔、〕今度は仲々職員室に入ろうとはしなかった。何か〔、〕心にとがめる事があったらしい。私と数十分程話した後〔、〕やっと彼は職員室に入った。最初は勉強するつもりでいったのだが、正直いって勉強は出来なかった。言わば、四名の身上相談といったところである。午後十一時から一時間、テレビでプロレスリングを観償〔賞〕した。その後ストーブを片付けて、職員室を閉じて、保健室に引きこもったのは十一時過ぎ。それから一時間程勉強したので就寝は、三時近くに成っていたかもしれない。
 遠藤章は確かに変わっている。がその変わっているところが好きな〔、〕私なのである。変わり者同士〔、〕仲々気が合うのである。


 1962. 1.6 土曜日 晴れ
 今日は正月の六日。この日に遅ればせながらも、三十七年・一九六二年の決意を表明するものである。私は一個の人間になるべく、この新春に際して、次の事柄を決意する。
 (渡世諸法度)
 前章 一、恥を知る事。(一条)
    一、正義感の基〔下〕に行動する事。(二条)
    一、理性を保つ事。(三条)
    一、愛を忘れぬ事。(四条)
    一、我を見失わぬ事。(五条)
    一、義理と人情を忘れぬ事。(六条)
    一、社会の常識を守る事。(七条)
    一、意地を持つ事。(八条)
 後章 一、誰とも親しく、争わぬ事。(九条)
    一、確実に、ごまかさぬ事。(十条)
    一、勤勉に、なまけぬ事。(十一条)
    一、合理的に、無だはせぬ事。(十二条)
    一、忍耐強く、あきらめぬ事。(十三条)
    一、見栄を張らぬ事。(十四条)
    一、他人を非難せぬ事。(十五条)
    一、常に努力する事。(十六条)
 前章八条、後章八条、計十六条からなる渡世諸法度。こ中に〔、〕私の理想をいろいろにとりあげて試〔み〕た。私がこの十六条を全て守る事ができたとき、私は私の理想に九分通り達したといえよう。九分通りというのは、この中に含まれていない〔、〕何か大切なものがあるからである。すなわち、この諸法度がまだまだ完全でないという事である。しかし、この諸法度も、私が学問や人生経験を積んで行く事〔毎〕にりっぱになっていくだろう。全ての規則の意義は、それを施行し、更に実行するところにある。寄〔因〕って、この諸法度も実行に移さねば、なんらその意義を成さないものである。ゆえに私は、この十六条を実行しなければ、もし諸法度を破ったならば〔、〕その及ぼす影響の全責任を負わねばならない。では一日の時間に従って〔、〕その具体策を考案してみよう。
 起床は午前七時、連続して先ず何より先に用便、次に洗顔、次いで磨歯。朝食は七時半までに終える事。食事前は必ず洗手。それに、始めと終りのあいさつはきちんと。あいさつっていうと、朝起きた時、夜寝た時、それに、家庭外でのあいさつは、ちゃんとする事。食事後七時五十分まで登校準備、七時五十分登校。後は学校の時間割に基いて、行動。校内では、HR委員長たるものの責任を全面的に果〔た〕す事。で〔、〕先ず登校したならば、日直週番の当番に当っているものを指名し、各々の任務を果〔た〕させる事。八時二十分朝掃除、自から模はんを示して、その任務を果すと共に他人にも果〔た〕させる義務のある事。続くラジオ体操は〔、〕第十条に基づき、確実にやる事。元はといえば〔、〕私達のためにするのである。授業中は〔、〕十一条によって、何の授業であっても真面目に受ける事。休み時間は、一寸のひまを見つけても、常に勉学に励む事。全授業終了後直ちに清掃。それが終ったら、すぐ帰宅、勉学にいそしむ。日曜日・際〔祭〕日で休日の場合は、次の様に定める。休日は一日中自由時間である。いつ何をやってもよろしい。しかし次の事は必ずやらねばならない。朝の洗面一切、昼の作業(馬屋)、夕方の作業。そして、就寝時を最高十時とする事。一日五間以上の勉学を積む事。
 日常のけいたい品であるが、次の物は常時備えて置く事。生徒手帳、筆記具、ハンカチ(手ぬぐい)、チリ紙、以上。金については、第十二条により、無だ使〔遣〕いは、一切禁止、小額の金のけい帯は認める。散髪デーは、毎月末とする。

 構内に於ては、常時、指導者である事を自覚する事。
 家庭内に於ては、良き息子、良き弟、良き兄と成る様努力する事。

 冬季休業も明日で終り、明後日からは、いよいよ、学校である。それで〔、〕卒業式までに考えてみれば〔、〕後六十七・八日しかない。この日々の間何か一つ良い事をしていってくれといった、先生の言葉が残っている。それとなく〔、〕皆に切り出してみようと思う。この諸法度の実行は、明後・月曜日からとする。

 今朝〔夜?〕私が学校から帰って来た時には、もう元兄の姿はなかった。兄は神奈川県まで働きに行ったのだ。兄は、私のために、こんなにまでしてくれているのだ。私もがん張らなくては。


 1962. 1.7 日曜日 曇り
 結局〔、〕私はどうしても奴をあきらめねばならぬらしいのだ。それは〔、〕奴の私への愛情が皆無であるからである。私がこんな判断を下したのには〔、〕ちゃんとした理由がある。それは、友達・その本人から聞いたのである。〓〓〓〓君、彼である。彼の所に奴から年賀状が屈〔届〕いたのである。彼と奴の家は、目と鼻の先である。そんな近い所に年賀状なんて。
 私には、奴が彼に好意を持っているという事が〔、〕はっきり解っている。私から見れば、彼はりっぱな人間ではない。しかし〔、〕惣〔惚〕れた物〔者〕は〔、〕相手がどんな悪い事をしても〔、〕今の私の様に忘れられないのである。ところが〔、〕彼には、二年生にちゃんとした仲の人がいるのである。それで私は、そこに希望をもって〔、〕今まで。しかし〔、〕そんな事はなににもならないのである。とに角、私はあきらめねばならない。しかしあきらめるとなると〔、〕つい奴をうらみに思ってしまう。うらんではいけない。何の理由もない事である。最後まで美しく………。
 午後、習字を書いた。


 1962. 1.8 月曜日 曇り
 冬季休業も終って今日から普通授業が再会〔開〕された。久し振りに登校する学校の道程は、何となく心がはずみ、楽しかった。それは何かに対する期待であったかもしれない、何かに対する。しかし、登校してみて、私の夢は全く押しつぶされてしまった。私が空想していた夢物語とは〔、〕まるで違った光景ばかりだったからである。私と津田君が今日、日直にあたっていたので朝礼兼始業式には出席せず、二人でストーブの番をしていた。その間に〔、〕私は教室内の展〔掲〕示物のはがれているものを壁に張った。それから一時間目のホームルームの時間までは、しばらく振りで会ったのでその話題をそれぞれに話しあったりして〔、〕教室内の空気は、ものやわらかであった。しかし、三・四校時の授業(職業)となると、もう大変である。男ばかりが集まったので、みんな授業はそっちのけである。おかげで笹川先生に大眼玉をくらった。先生も、もうどうにもしようがない、かわいそうだという様な顔つきだった。私もそう思った。


 1962. 1.9 火曜日 晴れ
 一日の授業を終えて、みんな肩の荷がおりた様な解放感にひたっていた。授業終了後の一時、みんなは思い思いにさえずりわめいていた。が〔、〕その空気が不意に急変した。異常な程に厳粛な面持ちをした小林教諭が〔、〕教室に現れたのである。先生の半分怒った様な表情はもうなじみであるが、今日のは違っていた。みなは、とっさにそれに気づいたらしい、教室は水を打った様に静まり返った。それが〔、〕却っていけなかったかもしれない。淡々と先の口から次々とつきる事無く、非難の声が発せられた。直接の説教の原因は、書き初めを出さない生徒がある事であるが、先生はそれを通して、最大きな、はるかに比重の大きいものを言おうとしていた。
 私もその中の一人であった。とに角〔、〕義務を果さなかったのである。仲間は十五・六人も居た。それに〔、〕男子よりも女子の方が多かったのである。私は〔、〕今まで何度か先生の教訓を聞いて来た。みな〔、〕誰よりも真面目に〔、〕真剣に聞いたつもりである。そして〔、〕誰よりも深く感動し、誰よりも反省して来たと思っている。されど、今日の説法・教訓程、深く心にひびいた事はなかった。聞いている内に、興奮の度が高まり、眼は血走っていた。手足はわなわなふるえ、私の心の中では激しい格闘が始まっていた。しかし私は彼の詞に対抗する何物もなく、彼の鋭い矢は容しゃなく私の心につきささっていった。私は〔、〕只彼の瞳を気の抜けた様に見つめているばかりでだった。突然私は、委員長の名で質問された。しかし私は何を考える事もできなかった。考えが全然まとまらないのである。先生が、こんな時に黙っているのは〔、〕卑強〔怯〕者の証拠だといった。卑強〔怯〕者という一語を聞いて、私の神経はますます高まり、とうとう、何が何だか解らない事をしゃべってしまった。先生はこういった。「正直者が馬鹿を見る様な世を作ってはならない」と。私はこの言葉に、きりきりとしばられてしまった。そして〔、〕私は要領の良い奴といわれた。正直に義務を果した人達は、大部分、あまり成績の良くない人達であった。勿論、彼達は、皆、字も人に見られて恥ずかしい様な字である。それを、しいて、一生懸命に書いて来たのである。私は〔、〕彼達になんといっておわびしたらいゝか解らなかった。それに比べて、私は、私達は、なんて汚(た)なかったのだろう。その面々は〔、〕ほとんど成績優良といわれている人達であった。私達は〔、〕確かに要領の良い〔、〕卑強〔怯〕な人間である。本当に面目ない。要領のいゝ奴達ということばが〔、〕今も私の胸につきささって離れようとはしない。
 あの後私はすぐ、私家に帰った。実は私は、休み中に習字を書いていたのである。只一心にペダルを踏んだ。家に着くなり、そこに居合わせた小秋に書き物をとってもらって、大急ぎで再び学校に呼ばれた〔戻った〕。私はすぐ、まだ荒い息使〔遣〕いのまま職員室に入っていった。そして、先生にそれを手渡した。先生は苦笑いしながら、「あんまり先生をこまらせるな」といった。


 1962. 1.10 水曜日 晴れ
 下校の時遠藤章と約束したので、夕食後、自転車で学校に出かけた。約束の七時に十五分ばっかり遅れて、斉藤屋の前に着いた。店の中に彼・遠藤章と遠藤信喜がいた。私は店の中に入らず〔、〕わざと店の前に自転車を止〔停〕めて〔、〕店の中をうかがっていた。彼達は〔、〕仲々私の存在に気がつかなかった。やっと遠藤章が気が付いて、外に出て来た。彼達の話しに寄〔因〕ると〔、〕千坂公夫君も来る事になっているらしいのである。それで〔、〕八時近くまで彼を待っていた。しかし〔、〕彼はとうとう現れなかった。仕方無しに、三人で坂を上っていった。すぐ〔、〕職員室に入っていった。ストーブを囲んで、三田村教諭、文屋政次、津田晃哉の三人が並んでいた。しばらく、ストーブに暖った後、勉強を始めた。三田村教諭から〔、〕数学の問題を出された、全然解らなかった。が答を見てみると、案外簡単な問題である事が解る。最後に宿題を一つ出された。それから、私立高校の受験希望調書をもらった。外の生徒は〔、〕補習の時間に渡されたのだそうだ。勉強の途中に〔、〕一寸したきも試しをやった。大した事ではないが、私は、こんな事は始〔初〕めてである。学校を通って、屋体の山の八幡神社の側の水曽〔槽〕に、自分の名前を書いて来るのである。五人とも間違いなく書いた。私も書いて来た,ゆっくりと〔、〕いってきた。町の明かりが見えるし、やみ夜だったので大して恐いとは思わなかった。夜寝る時、みんなで怪談を語らい合った。その時は〔、〕もう何といっていゝか解らない程〔、〕みんなこわい事を白状した。私も最高に恐かった。あの時、あの部屋からは一歩も出られなかったろう。


 1962. 1.11 木曜日 晴れ
 遠藤章・信喜の二人が今晩私の家に泊った。目的は、三人で最も能率的に勉強するためであったが、果して結果はそうであったかどうか。彼達の現れたのは、午後の八時頃、その時私は、不覚にも床のうえに着の身着のままで横になって、うつらうつらしていた。彼達の声に驚いて、外に出た。母、妹達は〔、〕すぐ床に入ってしまった。私達三人は〔、〕やがて勉強を始めた。しばらくして、父が帰って来た。十時ころ、ボクスィングを見た。それから一寸勉強した丈で〔、〕風呂に入って寝てしまった。


 1962. 1.12 金曜日 晴れ
 私は〔、〕国立仙台電波高校を受験する事にした。全国有数の電波高校である。そして、又全国有数・県内随一のせまき門である。東北各地又は全国各地の秀才が集まるのであるから無理もない事であろう。しかし、どれ程のせまき門ではあっても〔、〕押し開いてみるのが意地である。四百五・六十の点数で国立仙台電波とは、笑われるかもしれない。電波高の限点は大体四百八十内し〔乃至〕五百である。私はまだ五十点も及ばない。無理は充分に承知の上での事である。それを〔、〕強いて受験するのである。私とて、千に一つの望みもないところを受験する程〔、〕常識知らずではない。私は、何かやれそうな気がするのである。今から、残された一ヵ月の間に自信をつけようというのである。電波高校なんのその、きっと私のものにしてみせる。私も男である。私の面目のために、私は最大の努力を偶〔傾〕けて努力するつもりである。


 1962. 1.13 土曜日 晴れ
 四校時の終了後、昼食、清掃。それから模擬試験、最後の模擬試験があった。今日は国語、数学、理科の三科目。ベストを尽くして健闘したが、成績の方は余りかんばしくない様である。大体国語70、数学は40、理科も60位、計一七〇。見ての通り目立って数学の点が悪い。どうも数学は、私の不得意の科目である。どうしても〔、〕四十から五十の線をうろちょろしている。数学が悪いという事はこれは、頭の回転が悪いという事である。私は〔、〕どうしてもだめなのだろうか、一時は七十点を越した事もあったが。しかし〔、〕そんな事をいっても仕方がないのである。勿論数学は、少しでも点が取れる様に努力し、且つ、外の科目でその穴を埋めあわせねばならないのである。模擬試の当日分を終えて帰宅したら、台所のコタツを囲んで父、母、妹〔達〕、それに義姉の実母が来ていた。そう〔、〕今日は裕子の退院の日だったのである。裕子と義姉は、室に寝ていた。間もなく〔、〕義姉は起き出して来た。それから、皆で私の進学の事を話題に談笑した。夕方〔、〕風呂をたいた。それから〔、〕夕食。今の私の気持は、全くみじめなものである。恋に破れた若物〔者〕のせつない心と、将来に対する不安とで。改めて、心に、川島節子殿にさようならを言おう。本当にすまなかったです。しかし、おかげで私も〔、〕約一年間というもの〔、〕楽しく過ごさせていただきました。感謝致します。この様な男に思いをよせられて、さぞかし御迷惑だった事でしょう。深く、深くおわび致します。以後絶対にこの様な事のない様、お約束致します。なごりはつきませんが、目をつぶ〔む〕り歯をくいしばって、お別れ致します。本当にお世話様でした。
 思えば、私の心にあいつという灯が灯り始めたのは、昨年の二月か三月の事。あれからおゝよそ一年、私は、ひたすらに、あいつを思い続けて来た。とうていつり合いのとれぬ恋と解っていながら。好きになってしまったそのつらさに、幾度あきらめようとした事か。しかし、だめだった、どうしようもないまゝに今日までたってしまったのだ。
 私は好きだ、誰よりも好きである。しかし私は、好きになってはならないらしいのだ。いや、ならないのである。私が彼女を好きになっていたのでは、彼女は幸福になれないのだ。世の中には、私よりも最〔もっと〕々りっぱな男が山程いる。彼女は〔、〕その人達の一人を選んで幸福になればいゝんだ。私は、彼女が幸福になったらそれで満足ではないだろうか。最〔もっと〕々言いたい事がある。そうだ、彼女に関する全ての事をいゝ尽くして、勇ぎ良〔潔〕く、あきらめよう。勇ぎ良〔潔〕く………。

 私は彼女を愛していた。誰よりも私は、こんな事はあくまで清く、美しくありたいと思っている、清く美しく。そして実際に、私の心の中でのそれは、一つのジャ気も入らない、清純な思いであった。その中に唯一の汚点でも見い出すことができない程、それは清純な片思いであった。いや、少なくとも私は、そう思っている。この片思は、あくまでも美しく始まり〔、〕美しく終ったのである。その中には、唯一つのけがれもない。私は、この様な事柄に対する、今の世の中の考えには反対である。みんなは、私の様な考え方を古いというが、確かにそうだろうか。私は、愛情の本当の姿は、あくまでも美しく、そして清らかなものであると確信している。いかにも、もの静かな風体、気品のある美しさ、まるでその人の心を表す様な、澄んだ大きな瞳、そして清純な性質の彼女に〔、〕私はひかれた。しかし今の彼女は違う。あの静かな清純な性質はどこへやら、その美ぼうをいゝ事に、クラスではまるで女王の様に振る舞い………。あの澄んだ瞳も、男好きのする、いやらしい瞳に変わり、昔の姿は見る影もない。しかし私の愛情、そんなうすいものではない。そんな彼女をも私は一心に思いつづけた、かげながら。
 私と彼女との間の口数は、このところ全く、途絶えている。一言も、おたがいにしゃべらないのである。しかし、こんな私の気持を彼女が知らないはずはない。いや、明らかに知っているのである。時々彼女は、昔の姿にもどる時がある。そんな時は〔、〕きまって私を見つめている、じっと。その時、私は、本当に美しいなあと思う。しかし〔、〕それもその時丈である。すぐ〔、〕又ふだんの彼女に返ってしまう。
 今や、彼女は、美しい皮をかぶった動物に過ぎない。クラスでは、誰はばかる事なく、我者顔に振る舞っている。する事なす事〔、〕きまま放題である。私は〔、〕そんな彼女をあわれみと失望を込めた瞳でながめている………。さようなら、全てよさようなら。美しい思い出よ、川島節子よ、さようなら。さようなら、美しい、美しい思い出よ。
 (元兄から手紙がついた。)


 1962. 1.14 日曜日 晴れ
 試験場すなわち教室に到着した直後〔、〕模擬試験の第二部が開始された。善戦苦闘の末〔、〕やっと試験が終ったのは昼過ぎ。試験が終ってから、一時間程友達と、有益な話しあいをした。その後帰宅、義姉の実母が来ていた。孫の顔を見たくなって〔、〕又やってきたのだそうである。こたつに暖りながら〔、〕点数をつけてみた。四五五点にしかならなかった。大きな特長は理科が飛び抜けて良かった事と、平均して、百点科目と英語の主要五教科の方が他よりも良かった事である。
  455点。しかしこの点数で何ができようか。これは、今の私の実力であって、本来の私の実力ではない。私は、もし、東北電子と国立電波のどちらかに及第したならば、思い切って、初〔めから〕の念願である一高を受験しようと思う。


 1962. 1.15 月曜日 曇り
 今日は成人の日、満二十才の人達を全国民が祝福する日である。満二十才といえば、修兄も満二十〔実は二十一〕才である。兄さん〔、〕成人の日御芽出度う御座居益。今ごろ、兄は東京のどこかで、無事成人式を済ませて、熱い希望の血に染まっているだろう。本当に、兄が生れてから、もう二十年たってしまったのだ。二十年、早いものである。この日にあたって、彼はおそらく、人生の再出発を決意した事であろう。
 午前十一時三十分より、御年玉つき年賀はがきの抽選会があった。家中で、五等・切手シートが三組当っただけである。


1962. 1.16 火曜日 曇り
 松島経由塩釜線下り北目大崎発時刻九時二十六分の普通バスで、吉岡に向〔か〕った。終点上町で下車、そこから徒歩で公立黒川病院に向った。東北電子工業高の健康診断書を作製〔成〕してもらうためである。受付で診察券を買〔貰〕って〔、〕先ず内科に。内科では何も診察せず、そこの係員に指示されるままに、先ず眼科に向った。そこで視力、色神の検査。視力は左右とも一.五、色神正常。次いで眼科の係員に指示されて、耳鼻科に行った。そこでも検査を受けて、又内科に返〔帰〕って、係員にそれを見せた。今度はレントゲン写真を取〔撮〕って来る様に指示されたので。レントゲン室に入っていった。それからしばらく待って、やっと内科の検診をしてもらった。書類は〔、〕明日出来るそうである。病院を出て、今度は北島写真館に入って写真をとった。十九日にできるそうである。


 1962. 1.17 水曜日 曇り
 今日も昨日と同じ要領で、公立黒川病院に行った。書類は、すでにでき上っており、用事はすぐ済んだ。十時三十八分の上町発のバスで、帰路についた。家に着いたのは、十一時。昼飯を食って、調〔丁〕度昼休み時をねらって登校した。それから職員室にいって三田村教諭に証明書を渡して、それから小林教諭に昨日の欠席理由と今日の遅刻理由を報告した。二時間の授業は、全く、あっ気ないものであった。それから掃除して帰宅。


 1962. 1.18 木曜日 晴れ
 朝に規定通りに、登校の道を踏んだのは全く久しぶりである。先週の土曜日以来、実に四日振りである。全く〔、〕授業中には遅れたノートを写しているだけである。授業といっても〔、〕全然身が入らない。あと約二ヵ月で卒業である。もう………。クラス内はもう嫌になる程出多良〔鱈〕目である。いわゆる不良連盟、である。キツ煙グループ、飲酒グループ、好色グループ、桃色グループなど、全く中学校とは思えぬ程である。


 1962. 1.19 金曜日 吹雪
 今日は国立仙台電波高の身体検査証(健康診断証)を作製〔成〕してもらうために、公立黒川病院に行った。学友の小島清夫と同行である。彼も電波高を受験するのである。それに〔、〕同じく同輩の早川亀一君も受験するのである。三人となると気が楽である、という様な気がするのである。おそらく、三人首を揃えて叩きおとされる事であろう?いや、決してこれは弱音ではないのである。やる気は十二分にあるのである。私の検診は前回の記録があったので簡単に〔、〕といっても耳鼻科だけは担当の医師がいないので残して、今日の分は終った。それからしばらく、彼のすむのを待って、二人で病院を出た。正午を過ぎたころであった。そば屋を2軒回って、肉そばと中華そば。それから畑谷書店で「和英小辞典」 140円也を買って帰って来た。
 北島写真館に行ったが停電で写真はでていなかった。


 1962. 1.20 土曜日 雪
 昨日来の雪で、北陸東北各地の列車ダイヤは大部乱れている様である。その影響がとうとう鶴巣にまでも及んで〔、〕利府線は不通となった。松島線は〔、〕それでも運転を続行している。外はまだまだ吹雪、ましてや〔、〕北目大崎の停留所は大変な寒さである。岡中に作曲コンクールに行く高橋重幸君と〔、〕二人で乗った、といってもわざわざ、砂金沢から乗ったのである。訳はこうである。私と彼は、仲々バスが来そうもないので砂金沢の停留所まで歩く事にした。が途中、中程まで来た時にバスが見えたのである。二人は懸命に走った、やっと間にあった次第である。耳鼻科は〔、〕成程人でいっぱいだった。十五・六名程先客があった。一時間余も待たされた。しばらくしたら〔、〕小島君が来た。私が終って、又彼の終るのをまった。上町停留場で重と会い〔、〕三人整〔揃〕ったので、奮発して、にぎり寿し 100円也を食った。初めてである、寿子〔司〕を食ったのは(寿子〔司〕屋で)。写真はできていた。


 1962. 1.21 日曜日 晴れ
 例によって例のごとく、夕食後の解〔開〕放時間、テレビジョン鑑賞の最中、級友の遠藤信喜と、津田晃哉、両名が訪ねて来た。今晩の宿直は担任の小林教諭だそうであるから、私も勧〔進〕んで家を出た。初めての試みとして、朝食用の米を用意していった。それから、真直に学校に行ったのではなく、鳥屋を廻って、清水谷に廻り、級友文屋政次を誘いに行った。その帰りの道は、月がこうこうと照り、真昼の様な明るさであった。辺り一面の銀世界のおかげで、増〔益〕々、それはさえるばかりで、キャッチボールでも読書でもできそうな、月の夜だった。斉藤屋に着いたら、遠藤章が待っていた。私と彼との間〔、〕このごろうまくいっていないので、私は気にも留めず、あいさつもしなかった。店で、みんな明朝の食事のオカズに、カンヅメを買った。そこで〔、〕私は津田君に三十五円貸した。学校にのぼって、すぐ職員室に入った。それから、翌日までの数時間、実に重大な話が、私達と彼との間にとりかわされた。至って重大な事というのは、次の様な事である。問題は、この学校内にはびこる、喫煙・飲酒・暴力・万引き等を働く、不良生グループの事である。この組織とは、誠に大がかりなものなのである。三学年の男子五十余名の内、三十余名、その七割近くまでが、このグループに関係しているのである。その幹部は、〓〓である。彼は、その持ち前の金で、仲間を集め、そして、彼達をダ落させ、自分の都合の良い方に利用していったのである。煙草を吸う位は、まだまだ序の口。飲酒、暴力、万引き、そして桃色遊ギと、その活動は全ての不良行いを含んでいる。そして、毎日寄り集まっては、たき火をして煙草を吸い〔、〕酒を飲んで、そして、色話につきる事はない。悪質な週刊紙〔誌を〕こぞって買い込み、それに読みふけっていたのである。そしてとうとう、彼達の幹部である、〓〓〓〓が同じ三年の〓〓〓〓〓を二度も犯してしまう結果となったのである。これは事実である。そして彼達は、卒業までに、大がかりな暴力行いを行おうとしている。彼達のためで、クラスはどんなにまとまらないか、それは、私が一番知っている。先生も考え込んでしまっていた。しかしぼく達は〔、〕その時少しづつ彼達の一人々を切り離していき、卒業までに解体させる事を決意し、約束した。


 1962. 1.22 月曜日 雪
 早朝も早朝、午前四時三十分、辺りはどこもかしこもまだ寝静まっている真夜中である。昨夜来〔、〕私はほとんど不眠の状態であった。三十分程〔、〕眠ったと言えば眠ったのかもしれない。とに角、四名整〔揃〕って朝飯の支度をした。炊事係長は私である。先ず、七輪を外に出して、杉の葉にマッチで点下〔火〕した。七輪を外に出したのは、煙で室内が満たされないためである。やがて、その火が炭に燃え移り青白い炎を出し始めたころ、私は七輪
を室内に入れた。そして〔、〕一方には水を一方には米を入れた釜をそれぞれ置いた。ものの、二・三十分もたったころ〔、〕釜は沸湯〔騰〕して飯がたき上った。先ず、別の釜でたいた湯で面を洗って、それから保健室のベッドの上にテーブルをのっけて〔、〕朝飯である。私は、バスケットシューズをはいてしまったので、ベッドの外で食べた。しかしその飯は、いや、それは、まだ飯ではなかった、米、まるで米である。それでも仕方がないので、アゴの痛いのを我マンしながら、どんぶりで一ぱい食べた。しかし〔、〕もう固い飯はこりごりなので、又釜に水をいっぱいに満たして、たいたところ、今度はまるでかゆである。全く、大変な食事だった。


 1962. 1.23 火曜日 晴れ
 放課後、国立電波の願書を郵送した。私と小島君の分である。私はてっきり、自分の分だけと思って、中金額は五百円ですといったが、二人分では千円以上な訳である。がどうしようもない。元兄から、二回目の便りが来た。修兄とも何度か会って、元気に働いているそうである。夜、又、例によって遠藤章と信喜が誘いに来た。今晩の宿直は、瀬戸教諭なそうだというので、了承してでかけた。斉藤屋で生菓子を百円程、みなで出しあって持っていった。


 1962. 1.24 水曜日 晴れ
 授業を終って、愛用の自転車を踏んで帰宅の途中、水谷魚店の前で祖母と出会った。母の実母であるが、私達兄弟には、頭に祖という字のつく人は、この〔つめ〕祖母一人だけになってしまった。辰五郎祖父、今朝吉祖父、ゆゑ祖母、みんな死んでしまった。辰五郎祖父の顔は、まだ見た事もないし、写真も残っていないのである。それだけに、私達にたった一人残された、この祖母を、大事に扱ってやらねばならんのである。祖母の荷を自転車にのっけて、来る途中、父と静枝、小秋、小春に出会った。床屋にいって来たのだそうだ


 1962. 1.25 木曜日 晴れ
 七夜の集いというのは、生後七日になる子供の生誕を祝う日である。それだから、今日の集いは七夜という訳にはいくまい。まあ〔、〕いうなれば、三十四夜とでもなろうが、それでは全く意味を成さない。とに角家では、一央〔応〕七夜という事にしているらしい。いわゆる誕生祝賀会である。祖母も、昨日から増〔曾〕孫の面を見にやって来て、大部盛んな会の様であった。私は、勿論学校に居たので解らなかった。学校では今日から、向こう三日間模擬試験である。今日は二科目だけすまして来た。学校から帰って来てみたら、台所には贈り物が山と積まれてあった。裕子は幸福である。ワラの上にボロゴザをしき、電燈もない暗い部屋で、汚れたヴォロ布団にくるまって、小さく生きて来た私達とは違うのだ。しかし、それだけに、私達は彼女を〔、〕私達の分まで幸福にしてやらねばならないのだ。幸〔い〕、今の処、家の中の事情は極めて明かるい。それに、私は義姉を見直す事ができた。彼女程明かるい嫁は、農村には全く珍しい。それが彼女のたまらなくいゝ点なのである。彼女はりっぱな嫁だったのである。現代農村の………。


 1962. 1.26 金曜日 晴れ
 帰宅してみると、国立仙台電波高の受験票が倒〔到〕着していた。ハガキ大の大きさの〔、〕大して厚くはない紙である。郵便屋さんが、土に落したとかで汚れてしまっていた。私の番号は、一〇四六番である。募集人員は〔、〕わずか九十余名である。私の後にもおそらく、沢山の受験者のいる事だろう。大変な競争率である。それも、全国各地の優秀な頭脳だけである。私は、再び、この門のせまさを〔、〕身を持っ〔以〕て感じさせられた思いがした。


 1962. 1.27 土曜日 晴れ
 「絶交とは全く交際を絶つ事である。」今日一月二十七日を以って絶交した人間が〔、〕二人居る。まあ、いうなれば、今各国で流行の外交断絶である。その二人の内の一人、それは、遠藤章である。このところ、彼は、私の最も親しい友達の一人であった。そして風変わりな人物として、大部気持も合っていた。はたして、一番親しかったかもしれない。しかし〔、〕彼ももう終〔わり〕である。彼は、親友の忠告をきいてはくれなかった。私はすっかり見損なってしまった。彼は〔、〕今もあのナイフでところ構わずつきまわっているだろう。もう一人の人物、それは、川島節子である。彼女の事は前に確かに、あきらめた。しかし今度は、非難して絶交するのである。彼女も私の期待を見事に裏切った。しかし〔、〕それだけなら私には、彼女と絶交する何の理由も権利もない。しかし彼女は、最も憎むべき女である。私は、こゝに激しく彼女を非難して、絶交を宣する。絶交を………。
 そして、おれは、もう一人非難しなければならない。それは、沢田諭である。私は、今度の東北大の模擬試験、やっと四百点を越しただけであった。これだけの点数で。おまえみたいなのは、黒高でもどこでも行っちまえ。


 1962. 1.28 日曜日 晴れ
 頭の中は、いろんな事がこんがらかってしまって、もう何も考える事ができなくなっていた。私は、下たばきのまま、ふらっと外に出た。外は、雪〔溶〕解けで、道は、どろどろに溶けていた。それでも、できるだけ、砂利のしかれた、道の良さそうなところを選択しながら、神社に向って進んだ。神社の境内(の中)は、木陰のために、まだ雪がかなりぶ厚く残っていた。勿論、雪の溶けているのは、車の通る、村道だけである。神社の中の道には、たった一人の子供の足跡と、その子のものか、小さなそりの跡だけがついていた。私は雪の中に足が埋〔も〕れるのを構わず、どんどん登っていった。神社の、正面向って、左側のとびらが開いていた。私は、その小さな部屋に入った。一束の御守があった。私は、それをつかみ、おしいただいて、胸にしまい込んだ。次いで眼を棚に向けた。妙な恰好の一対の木板があった。それをも私はポケットにおしこんだ。そして〔、〕又深い雪に埋もれながら帰って来た。その板と守は、今私の引き出しの中に入っている。しかし今私は、それを返しに行こうとする気はない。それは、私が、苦痛にたえかねて、何かを求めた末、つかんだものなのだ。私はこれを盗んだとは思えない。これは、私だけの知っている事である。


 1962. 1.29 月曜日 曇り
 「絶交とは全く交際を断絶する事である。私は厳しく貴君を非難し、こゝに貴君との絶交を宣する。」こんな名句を書いた、手紙を私は遠藤章に手渡した。全くあいつは成っていないと思う。私は無論、最後まで彼と絶交する気はないのである。彼が反省をするまでである。そしてもう一人の奴とも絶交である。どちらも公平に絶交するのである。電子高の入学願書を郵送した。


 1962. 1.30 火曜日 晴れ
 彼のあの態度は、なんだろう。私は今日彼がどんな態度をとるだろうかと、楽しみではないだろうが、とに角大そうな興味と期待を持っていたのである。ところが、私の希望は期待は見事に裏切られた。彼は絶交という事態に関しては、かなり、後悔したらしい。しかしその原因である、自分の欠点を反省しようとはしなかった。彼は私に話しかけた。そして、笑って、何か言おうとしていた。しかし私は、そんな笑いも何か下品なものの様に感じた。しかし反面、私から離れると、もう周囲に同化されて相変わらず、馬鹿さわぎをしている。私は重ねて彼を見損なった。私は〔、〕増〔益〕々彼との絶交の意を固くした。もう一人の絶交の人、その人も私の期待には答〔応〕えてくれなかった。もう何も言ゝたくない。みんな、みんな、見損なった。


 1962. 1.31 水曜日 晴れ
 昼休みの時間、私と彼は玄関兼家庭科室で相対した。私はそこで初めて、ほんの少しではあるが口を切った。彼は私を誤解しないでくれといった。私は誤解はしていない、そのまま受け取っているのだ。間違っているのは彼の方である。私はなんの曲った事もしていない。それに彼の言葉には責任がない。
 今日の彼女は、なんだかいつもの彼女と違った様だった。なんか、昔にもどった様な気もする。私は、彼女なしでは何を便〔頼〕りにしていけばいゝのだろうか。
 私は、数月前、補講会を脱退した。が、不思議な事にその後も補講会費をとられているというのである。そんな話ってあるだろうか。


1962年2月(15歳・中3)

 1962. 2.1 木曜日 晴れ
 千葉東が〔、〕育英高の入学試験に合格した。僕達の中では最初の受験者であって、最初の合格者である。滑り出しは〔、〕先ず上々である。しかし二組では、二人受験して二人とも落ちてしまった、千葉法夫と門間英男である。全く悲しい事である、彼達は最初の儀制〔犠牲〕者である。しかし〔、〕仕方のない事である、これだけは。これから〔、〕私は何度もこんな気の毒な人達を見ねばならないだろう。そして、私も、その人達の類に成ってしまうかもしれないのだ。直〔尚〕いっそう〔、〕がんばらなくては。今日から〔、〕もう二月である。がんばろう、試験日は近いぞ。卒業式まであと四十日である。わずか四十日丈である。
 やっぱり〔、〕私は彼女がわすれられないのである。例え私がこんてブ男だと解っていても〔、〕忘れられないのである。あいつの心が〔、〕私の胸に焼きついてしまったのである。どうしても忘れられないのである。


 1962. 2.2 金曜日 晴れ
 二校時目が終って〔、〕高橋広志と高橋春男が〔東北高校受験に〕出かけていった。瀬戸教諭が一緒である。二組では小島清夫君、千坂雄悦君、門間英男君が受験する。出る時はみんな笑顔ででていくが、この中からも必ず悲劇が生れるのである。そう思うと〔、〕なんともいえない気持になる。
 やっぱりだめだ。おれはブ男なんだ。みにくい男なんだ。おれの様な奴が〔を、〕誰が思っていてくれるだろうか。あいつだって、おれの事なんか〔、〕へとも思っていねえんだ。どうせおれは、みにくい小男さ。女などというものは〔、〕とうてい望めない身分だよ。本当にだめなんだ、おれは。だめなんだ、あきらめねばならんのだ。


 1962. 2.3 土曜日 晴れ
 四時間の授業終了後、昼食〔後〕。その後屋体で集会があった。正式には明後日からであるが、実質には、明日日曜日より第二期の冬季休業である。それで〔、〕休業中の注意その他であった。会終了後大掃除、私は窓の掃除という事になった。下の店から歯磨粉を買って来て〔、〕使った。やがて補習が始まったので〔、〕当番はやめた。帰る事にした。校門の階段の泥まみれの氷の上で〔、〕千葉隆がボールを蹴ろうとして転んだ。私はすぐ手ぬぐいをぬらしに〔、〕校舎の水道に走った。私は手ぬぐいに水をひたして来た。先ず〔、〕雪を丸めて服にこすりつけて落そうとした。と、遠藤章と周りの他の奴達がい〔言〕った。斉藤屋に運んで洗った方がいゝと。私は〔、〕途端にかっとなった。私が、手拭いに水をぬらして、雪で彼の土をとってやろうとしている間、彼達は何をしていたというのだ。ただ〔、〕彼の珍妙さを笑ってだけ居たじゃないか。誰も〔、〕彼の泥を落してやろうとはしなかったじゃないか。そのくせ、口先だけは〔、〕いかにも同情した様な事をいって。私は〔、〕本当に腹が立った。全く責任の無い奴達だ。そんなら君達の好きな様にやれ、そういって私は、自転車をひき出して、一足先に帰ってしまった。しかしこの時、私は遠藤章だけでなく、千葉隆までも失ってしまったのではないだろうか。そう思うと〔、〕どうにもいたたまれなくなって、床屋を口実に又出かけていった。案の定、彼達は皆、斉藤屋にいた。千葉隆は私を忘れてはいなかった。捨てないでいてくれた。私は安心して、二人は連れ立って理容店に入った。かなり混んでいた。しばらく待っていると〔、〕千葉文義が来た。小林教諭が千葉隆を呼んでいる〔、〕というのである。あれから〔、〕彼達は職員室に〔、〕千葉文義当〔宛〕てに電話をかけたのだそうだ。彼は〔、〕観念して職員室に入ってい〔っ〕た。間もなく、職員室の外にさえはっきり聞こえる程大きな張手の音がした。予〔余〕程強い平手打ちであろう。間もなく〔、〕かれは出て来た。その事態はそれ程悪い事ではないのである。しかし、彼にとって、いゝ薬になったかもしれない。
 校門の所で彼女と出会った。しかし彼女は表情一つ動かさなかった。後を振り向く事もしなかった。もう終りである。どうせ私はブ男である。
 再び瀬戸理容店に入って、散髪を済ませた。それから山田商店に入った。千葉隆に三十円の写真入れをプレゼントされた。それから、斉藤屋でそばを二杯おも〔ご〕られた。千葉和夫と会って、三人で返〔帰〕った。思い切って家には帰らず〔、〕千葉隆の家に泊る事にした。幕柳に入って、それを抜けて太田の千葉文義の家に行った。間もなく〔、〕彼は出て来た。次に高橋重幸の家に行った。どちらも訪ねたのは初め〔て〕である。五人で千葉隆の部屋に入った。彼の部屋は〔、〕母家とは離れている倉の二階の屋根部屋である。仲々きちんと整とんされている。コタツを運んで来て〔、〕それをかけた。彼達が〔、〕私丈のためにパンと牛乳を買って来てくれた。それに〔、〕御菓子も買って来た。それを食いながら、いろんな話をした。十一時過ぎ〔、〕重幸君と文義君は帰っていった。千葉和夫はグウグウ寝ている。それから私と千葉隆は、いろんな話をした。二人の共通の悩みをただ、語り合った。私は、千葉良子という生徒を未だ知らない。しかし、彼の気持は解り過ぎる程良く解る。彼のこういう事に対する考え方は〔、〕私と全く、同じである。彼は〔、〕決して悪人ではない。彼は善人である、そして私の親友である。彼にライター、新しい奴をプレされた。親父にやろうと思う。


 1962. 2.4 日曜日 快晴
 真夜中の午前二時、私は大失敗をしてしまった。しかも他人の家でである。私は尿意を感じて、例の室の階段を降りて用便をした。と、反対の方からも排出してしまったのである。全くどうしようもなかったのである。腹が溶けていたのである。おかげで〔、〕ズボンまですっかり汚れてしまった。私は仕方無く、ズボンを脱いで、パンツを脱ぎ、持ち合わせの紙でもも等を申し分け〔訳〕程度にふいた。汚れたパンツは近くの小川に投げ捨て〔、〕ズボンは雪にこすりつけて、又はいた。そして、彼には用事を思い出したといって、家に帰って来た。真夜中の道である。こんな事で見損なわれたくないのである。外は寒かった。しかし、すぐ家についた。まず母達を起こして一切を語って、風呂をたいた。間もなく〔、〕義姉も何事ぞと驚いて起きて〔、〕手伝ってくれた。風呂のわくのを待って、まず汚れた体を清めて〔、〕風呂にとび込んだ。全くいゝ風呂だった。しばらく風呂に入っていた。それから、寝る事にした。とに角一生一大〔代〕の大失敗であった。
 元兄が帰って来たという皆の声に眼をさまして〔、〕跳び起きていった。元兄にこんな姿を見せてはすまないのである。兄は〔、〕真赤に日焼けして帰って来た。私達のためにこんなに働いて下さって〔、〕本当に有難う御座居ます。それから昼食、皆は昼食であるが、私と元兄だけは朝食である。今日は調〔丁〕度四百日目の日記である。調〔丁〕度四百日目にとんだ失敗をしてしまった。


 1962. 2.5 月曜日 快晴
 今日〔、〕部落に正月がやって来た。今日は旧暦、すなわち太陰暦の元旦である。私の起きた時分には、もう家族はみんな起きていて、妹達はもちを焼いていた。皆で朝食をとった。空は晴れ渡り、いゝ元日である。暖かい太陽の光が〔、〕家の奥まで入り込んでくる。母と小秋、小春は落合の御姫神〔姫宮〕神社に元朝参りに〔、〕部落の人達と出かけた。私と義姉、静枝は、裕子を連れて黒川神社にお参りに行った。それから、勉強した。早く夕食をとってテレビ等見て、入浴。床に入って勉強するところである。電子工高の入試まで後調〔丁〕度二週間。がんばらなくては。その次にはすぐ国立電波の試験がひかえているのだから。今のままでは確実〔に〕落ちる事、間違い無しである。落ちると解っていて受けるのは、全く馬鹿のする事である。私は馬鹿になってはいけない。
 東北高の合格者が発表された。小島君が普通科に高橋広志が商業科に合格した。しかし高橋春男、門間英男、千坂雄悦の名は見えなかった。


 1962. 2.6 火曜日 晴れ
 朝、皆が朝食を取り終えた頃〔、〕起き出した。それから〔、〕一人でもちを食った。テレビ等見て〔、〕一日過ごしてしまった。兄と義姉は、北目に年始に行った。裕子も〔、〕初めて背中におぶさっていった。


 1962. 2.7 水曜日 快晴
 全くいゝ天気である。空は底抜けに明かるく青く、雲は真白である。いゝ正月である。小学生や中学生が〔、〕空気銃をいたずらしていた。私は〔、〕それを取りかえしておいてくれる様に頼まれていたのである。銃は〔、〕力さんのものである。彼達は〔、〕黙ってそれを持ち出したのである。彼達から、弾丸をもらって、的当てした。夜〔、〕食事が終って、テレビを観ていると〔、〕遠藤章が来た。どうやら〔、〕これで私達の間は本〔元〕通りになったらしい。小林先生である。


 1962. 2.8 木曜日 晴れ
 学校の保健室に〔、〕眼をさました。もう〔、〕大部遅かった。急いで床をたたんで〔、〕引きあげて来た。朝飯を食って、勉強していたら〔、〕千代子さんと子供の春男〔晴夫〕、富起〔貴〕の兄弟〔妹〕が来た。それから〔、〕本家にいった。富谷のひとしさんとだんなさん、直子、圧〔厚〕子も来ていた。本家でテレビを入れた。


 1962. 2.9 金曜日 快晴
 私が、まだ床の中でのん気にしていたころ、といっても、それはあくまで私だけであるが、すでに来客があった。母の妹の光〔満〕子叔母が〔、〕祖母と哲郎・増雄〔益郎〕の兄弟、それに従妹のツエ〔つえ〕子を伴って来たのである。どうも格好が悪かった。顔を洗って、朝飯を済ませてから〔、〕あいさつをすませた。二人の兄弟というのは、兄は哲郎、弟は増雄〔益郎〕というのである。二人ともまだ通学前で〔、〕弟の方はまだ生後一年足らずである。二人とも仲々、ひねくれない、素直な〔、〕性質のいゝ子と取った。二人ともいわゆる、私達兄弟とは、従弟にあたる訳である。弟の方はプクプクと太っていて、私によくなついた。彼達は〔、〕夕方帰っていった。祖母より〔、〕御年玉を百円程。これで、家からもらったのと合わせて三百円になった。元兄は、午後から北目から帰って来て、井戸ポンプの部品を買いに吉岡に行った。御影〔陰〕で〔、〕ポンプは断然調子が良くなった。又、その時、ビアンを買って来てくれる様、二百円を渡して頼んだ。これで三ヶ月目である。二百円もするのだから〔、〕真面目に使わなくては。


 1962. 2.10 土曜日 曇り
 第二期冬季休業も昨日で終って、今日から授業が再開された。一時間目は自習、二時間目も自習、三校時目も、ほとんど自習。四校時目だけが、まともな授業であった。何のために学校に行ったのか皆目解らない。登校して〔、〕却って失望したかもしれない。それから〔、〕高橋春男も千坂雄悦も東北高校、補欠で合格したそうである。門間英男は東北高と育英高二つとも、千葉法夫は育英高、それぞれ補欠で合格したそうである。これで〔、〕全員合格である。それに〔、〕今日は遠藤章が、塩釜無線学校を受験に行っている。彼も見事に合格すれば、現在の状態から立ち直れるのではないだろうか。


 1962. 2.11 日曜日 晴れ
 昨年の日記の弐月十一日を開いて見たら、藤倉靖君の事が書いてあった、というよりも、彼への批判である。内容は、読んで試〔み〕れば解るであろう。彼は〔、〕今もあの時とさほど変わっていない。しかし私は、その時程、彼を責める事はできない。それはその間に私が変わっていたからである。思えば〔、〕一年前の私はりっぱだったと思う。しかし、一年たったらこんなにも変わるものであろうか。


 1962. 2.12 月曜日 曇り
 全国的に〔、〕流感・インフルエンザが流行している。東京都に発生して、今その周囲に広がりつつある様だ。しかし、これは日本だけではないのである。東南アジアに大流行したのである。死亡率が早〔相〕当に高いといううわさである。そして〔、〕先生が感染して、今日は欠勤された。私も気を付けなくては。
 三・四校時目・職業の時間は、久し振りに製図をした。


 1962. 2.13 火曜日曇り
 帰宅して、玄関の戸を開けたら〔、〕秋葉金蔵伯父がコタツに暖っていた。本家のきぬゑ〔ゐ〕義伯母も居た。何か〔、〕本家で騒動が持ち上がった様である。騒動というのは、きぬゑ〔ゐ義〕伯母の事の様である。つまり、身を退くか〔、〕それとも残るかという事らしい。〔義〕伯母は夕方、立ち退り、伯父は、家で夕食を取っていた。夕食後、父と伯父はそろって本家にでかけた。帰って来たのは〔、〕一時過ぎであった。私は〔、〕それまで勉強していた。元兄も〔、〕母も起きていた。元兄は、明日再び神奈川に向う。今夜〔、〕色々ケースにつめていた。
 小林教諭は〔、〕今日も欠勤した。重症なのかもしれない。今日もう、二月の十三日、卒業までの日が、どんどん短くなっていく。早く〔、〕なんとかしなくては。皆と卒業に当っての相談をして、行動を新たにする事である。明日の一校時目は理科である。多分教諭は欠勤であろう。その時間を利用して相談するのだ。


 1962. 2.14 水曜日 晴れ
 私の決意は、見事に打ち破られてしまった、見事に。二度ある事は三度ある、今日も欠勤するだろうと思いきや、彼は出勤して来たのである。それで、一校時目はつまらない授業で終ってしまった。私に勇気が無かったのかもしれない。
 元兄が今朝早朝、又東京方面に働きに出た。全く、私は心から感謝せねばならない。私もできるだけ、金のかからない方法を取らなくては。後の圧〔充〕男さん、音羽正〔昭〕一さんも一緒らしい。母が〔、〕砂金沢の実家に手伝いに行った。


 1962. 2.15 木曜日 晴れ
 学年末考査といってもピンと来ない。先ず恐らく、こんなのん気な試験も近ごろ珍しい。全然闘志が湧かないばかりでない、全く試験の気がしないのである。それも〔、〕中学生活、又義務教育九年間の最後の試験なのだ。でも〔、〕どうしてもやる気になれないのである。その理由は、一つには、電子高の入試を直後に控えているという事である。そんな試験の勉強する気があったら、入試の勉強をしろ〔、〕という声が聞こえて来るのである。


 1962. 2.16 金曜日 晴れ
 例え、どんな寄跡〔奇蹟〕が起ころうとも、私は生涯あの店〔斉藤商店〕の敷居をまたがないであろう。一度ならまだしも、二度までも、恥ずかしいめを受けたのである。それに、今度の場合、あくまでも私は正しいと言いきる事ができる。私は確かに不正な事を一つもしていなかった。私は確かにあの時、五円硬貨をウィンドーの上に置いたのである、確かに。その証拠に、私は、その直前まで持っていた、五円玉をその時はもって居なかった。私は〔、〕確かに渡したのである。私は、私が正しかったと、天に、神にかけてちかう事ができる。私は潔白である。店員は〔、〕宮澤政治氏の娘、同級宮沢文枝の姉であった。彼女だって、私から倍の額を取ろうとは決して思っていなかっただろう。それに私だって、ごまかす気など毛頭無かったのだ。一体どちらが悪いのだろうか。しかし〔、〕どちらにしても二度まで男の顔をつぶされて以上、もうあの店に入るのは、気が退けるのである。
 母が〔、〕砂金沢から夕方帰って来た。夕食はカレーライスであった。


 1962. 2.17 土曜日 晴れ
 全く、これ程楽な試験はなかった。しかし、何か妙な気分である。試験が終った後の後悔も〔、〕安心感も全然無いのである。只〔、〕昨日の次に今日が続いている丈である。何とも〔、〕張合いの無い気分である。恐らく〔、〕今度の試験は神武以来の点数になるであろう。五〔百〕五十がせいぜいの相場である。三校時の試験が終った後、職員室で〔、〕明後日の試験についての打ち合わせをした。明後拾九日は、東北電子工業高校の入試である。受験生は私と千葉隆、それに早川亀一の三人である。明日の二時、出発する事になった。


 1962. 2.18 日曜日 晴れ
 東北電子工業高等学校受験のため〔、〕千葉隆、沢田諭、早川亀一の三名は小林教諭に伴われて、今日午後若時、北目大崎駅を発った。とに角私に取〔と〕っては、生涯に於て初の高校受験なのである。自重してかからねばなるまい。先ず私と千葉隆は、大崎で合流した。それから学校に行った。それで、バスで早川と小林教諭と合流するはずであったが、バスには早川とその母しか乗っていなかった。それでも致し方なく、三人は吉岡まで行った。数十分の後、彼はやっと顔を出した。自家用のカブ号で乗りつけてくれた。
 普通〔、〕受験に出かける時の玄関の様子は〔、〕実に和やかであるべきなのである。しかし、私のそれは全く正反対であった。私は、口論の末、タンカを切って家を出て来たのである。全く、面白く無い。しかし、考えて見れば、私も親不幸〔孝〕者である。親にわざわざ受験料や、旅費を出させ、大悪口をたたいて玄関を出て来たのである。あきれた親不幸〔孝〕息子である。


 1962. 2.19 月曜日 快晴
 朝、仙台第一ホテル一号室で目をさました。三人で用便に行き、洗顔をして、朝食を取り始めた。朝食後、八時調〔丁〕度コロ、テクスィーで越路の電子高まで、行った。まだ早い方であった。しばらくしていると、恩師の加藤教諭が、落合中の生徒を一人連れて現われた。全く驚いた。それに、今大衡にいる永井という先生も付きそって来ていた。だから試験といっても、比較的、気楽なものだった。定員百五十名に対して、電子工学科の志願者は五〔百〕五十人というから〔、〕競争率約三.七倍である。今日の試験は〔、〕英語、社会、理科、の三科。英語と社会は比較的簡単だったが〔、〕理科がこの上もなくむずかしかった。一応覚えているんだが、うまくポイントを外されているのだ。


 1962. 2.20 火曜日 晴れ
 試験開始時刻は〔、〕十時である、朝はゆっくり起きた。朝食を済ませて、タクシーで電子高まで、たどりついた。先生はそれきり帰った。私達は〔、〕試験終了後電車通りまで出て、電車で駅前まで行き、五十円ハウスで昼食を取り、中新田行きのバスに乗って帰って来た。
 今から調〔丁〕度一年前の今日、三十六年二月二十二日の日記をひもどいてみよう。あれからもう一年の月日が流れた、私が彼女を感じた時から。でも〔、〕今はもう何もいゝたくはない。


 1962. 2.21 水曜日 晴れ
 久し振りに登校した。十七日以来三日振りである。しかし〔、〕それにもかかわらず却って、私の胸はふさぎ込んでしまった。まるで〔、〕動物の集まりである。こうなってしまっては、もうなんの成すすべも知らない。全く〔、〕絶望のどん底につき落された気分である。(小林教諭が欠勤した)


 1962. 2.22 木曜日 晴れ
 小林教諭が教室に現われさえすれば〔、〕我クラスは異常な位に静まり返る。このごろでは、私までが彼達に同化されようとしている。このまま卒業してしまうのかと思うと残念でならない。
 卒業、もうすぐ卒業である。後二週間余で我達は嫌でも、この母校を追い出されるのである。全く、感無量の感がする。全く、何にも増して驚くものは、振り返ってみる過去の意外な程の短さである。


 1962. 2.23 金曜日 晴れ
 全く、息をつくヒマも無いとはこの事である。やっと試験が終ったかと思えば、反省の間もなく、次の試験がやって来てしまった。国立仙台電波高校の試験が〔、〕明日仙台で催されるのである。我校からの受験者は、三名、私と薛義興、小島清夫である。九〇人の本科定員に対して、何と六百余名の志願者があるのである。その競争率が実に七倍余という、県下最高の競争率である。しかも〔、〕全国の秀才が集まるのである。及第の望みが非常に薄であるという事は〔、〕元より解り切っている。それを〔、〕あえて受験しようというのである。私は、私の全精神力を使い果しても〔、〕やり通す気構えでいる。


 1962. 2.24 土曜日 晴れ
 この前の事もあるので朝は、出来る丈和やかに出て来たつもりである。それでも〔、〕受験票を見失って一騒動起してしまったが。でも〔、〕とに角、いゝ気分で家を出る事ができた。八巻自転車店の前に自転車を頼んで、シビキに向った。蜂谷文雄君の兄貴がオートバイで来たので、乗せてもらった。蜂谷も電波高を受験するそうである、彼は〔、〕今二中に居る。吉岡まで行って、瀬戸教諭と合流した。それから、すぐ急行で仙台駅まで。大部時間があったので、先生の親類(姉)の家に行った。不動産業をやっているらしかった。そこで昼食にそばを取ったりして、しばらくやすんでから、タクシーで電波高校に横付け。午後一時から試験が開始された。国語と保体、理科の三教科。案に反して、思ったより簡単な様だった。少なくとも電子高よりは、はるかにありきたりの問題だと思った。しかし〔、〕問題は豊富である。それから駅までバスで、駅からタクシーで第一ホテルまで。


 1962. 2.25 日曜日 晴れ
 昨日の三校時の試験に続いて〔、〕今日は午前九時十五分から、六校時の試験があった。今の私の実力としては〔、〕やれるだけやったと思う。後は〔、〕運を天にまかせるより仕方がない。試験終了後、駅で先生と落ち合い、丸光の食堂街に入って、食事をした(カツ丼)。先生は先にバスで〔先に〕帰り、私達は吉岡からのバスの都合がつかないので、北目大崎まで直通のバスを待って乗車した。北目大崎で下車、自転車を踏んで帰宅した。この上もなくいゝニュースが〔、〕私を待っていた。電子工高の第一次の学力考査に合格したのである。後は三月三日の面接試験丈である。
 義姉と裕子が実家から帰って来た。


 1962. 2.26 月曜日 晴れ
 試験の疲れか〔、〕遅刻してしまった。教室では〔、〕小林教諭が理科の授業を始めようとしていた。私は、先生に合格通知書を見せた。しかし、彼はさ程顔色を変えなかった。早川亀一にも千葉隆にも来たそうである。ただ、千葉隆が私に打ち明けた所によると、彼は予備かもしれぬとの事であった。
 四校時目、教室に医者が入って来て、皆を診断していった。このごろ、悪質なジフテリア的流感が流行っているのである。その結果、我校の状態は極めて、不良と出たため、明・明後日の二日間臨時学校閉鎖と相成った。これは〔、〕私にとっては全くの好都合である。二日間というものは全くこの上もなく貴重な時間である。二高目指して進もう、一歩でも。我二高よ。
 途中、薛に中華そばを一杯おごられた。


 1962. 2.27 火曜日 快晴
 現在流行しているカゼは何か、異常乾燥に関係があるそうであるが、全く、このごろの乾燥状態はお皿に来る。とに角、我地区もそのカゼの儀制〔犠牲〕区と相成った訳である。とに角今日から二日間、臨時休校である。
 朝、十時ころまで睡眠をとって〔、〕起床。もちを焼いて〔、〕朝飯。そして〔、〕すぐ昼飯。よくまあ、腹に入るものである。午後はじっくりと勉強した。夕方父が神経痛を再発させて立ち上れなくなったので〔、〕それに停電もあったので、久しぶりに湯をたてた。


 1962. 2.28 水曜日 快晴
 不思議な事に、そして面白い事に、昨年の今日・二月二十八日、私は流感にひっかかって、早退している。そして、今年も又今日あたりから、例のA2型の儀制〔犠牲〕者の一人になったらしい。まるで申し合わせた様に〔、〕調〔丁〕度一年で又、流行するのであるから、全く奇抜である。
 さて、今日で二月も終りである。今年ももう二月を過ごしてしまった事になる。最早、一年三百六拾五日の内の約六分の一に当る、五十九日を過ごしてしまったのである。時間は矢の様に過ぎるというが、全く、余りにも早過ぎる様に思う。


1962年3月(15歳・中3)

 1962. 3.1 木曜日 晴れ
 今日から、三月、春が来たのである。やがて校庭の桜も咲き出そうというものである。そして、梅も、桃も、全ての春の草花が花を咲かす日も近い。あの可愛らしいタンポポの咲き乱れる日も………。
 しかし、今や追放の身となっている三年生、こと卒業生にとっては、何とも言えない寂しさの春ででもあるのである。後十日すれば〔、〕私達は住み慣れた鶴の巣を追われる運命にあるのである。


 1962. 3.2 金曜日 晴れ
 早川亀一と千葉隆が二人とも欠席したので、明日の連絡が全然つかなかった。明日は東北電子工業高等学校の第二次入学考査で〔、〕面接試験があるのである。仕方がないので、校門を降りたら、バスから下りる千葉隆に会った。ところ〔、〕が良く良く話を聞いて試〔み〕ると、彼とは受験番号が離れているせいか。面接日が違うのである。彼は三月五日の試験である。明日の朝、早く、バスでたつ事にする。


 1962. 3.3 土曜日 晴れ
 朝、学校前から父と共に乗車、吉岡ですぐ乗りかえて、仙台駅まで。駅前から市営バスで向山行きに乗ったまでは良かったが、二駅ばっかり乗り過してしまった。八木山入口まで来ると、調〔丁〕度八木山行きのバスが来たのでそれに乗車して、電子工高前まで。すでに時間は過ぎていた。食堂に全員集まって、関係者が、何か話していた。面接なんてどんな事を聞かれるのかと思っていたが、大した事はなかった。質問なんか全然されないし、たゞうなづ〔ず〕いていればいゝのである。まあいわば、あなたは大変優秀なのですから、ぜひ家の学校に入って下さいというのである。試験が終ったのは午後一時ころで、それから父と二人で山影伯父宅に寄った。叔〔義伯〕母が一人居た。父は今晩やっかいになる事にして、私だけ帰って来た。(伯母より 200円)


 1962. 3.4 日曜日 晴れ
 朝から、全然気分が優れない。世の中が全くつまらないものの様に思われるのである。それに、………寂しいのである、本当に。午前中、小学生が、私家で六年生との送別会を催した。十五円の会費と米だけを持ち寄って、来ただけで〔、〕後の労力と材料は我家でフタンした格好になった。でも楽しそうであった。午後は本家に行って智、豊彦、友子と全く子供臭い事を夢中になってやった。夕食後皆寝静まった後も、大して面白くないテレビを深夜まで鑑賞していた。いわゆる〔、〕ヤケになっていたのである。大人ならば〔、〕こんな時ヤケ酒でも飲むところであろう。大人の気持も解る様な気がする。全てはあせりと寂しさに耐えるための事である。


 1962. 3.5 月曜日 晴れ
 彼達とて〔、〕やっぱり筋の通った骨を持っていたのである。私は先ずクラスの有力者と思われる者を放送室に集めた。泉田八男、津田晃哉、千坂公夫、遠藤信喜、千葉隆、信太亀一郎、千葉文義、こんな顔ぶれである。そこであらかじめ私の考えを話し〔、〕同意と協力を求めた。それから一校時目の理科の授業をもらって、学級で話し合った結果、卒業記念として、また、これまでのおわびとして、次の事を決定した。男子は全員で〔、〕卒業式までに八幡神社付近に公園を完成する事。女子は全員で〔、〕卒業式までに花壇と教室、便所の清掃をする事。卒業までの五日間を真面目に過ごし、皆で気持良く別れる事。放課後、早速、行動を起〔こ〕した。聞く所によると、二組でも私達にならって〔、〕何かを決議し行動を起し始めたそうである。先ずその辺に貯〔溜〕めてあるゴミをリヤカーに積んで一ヶ所に重ね〔、〕穴を掘って埋めたり、奥の方に運び込んだりした。又、北半分の土地をけずって表面をきれいにした。女子の方には、なかなか問題がある様である。とに角、この行事は皆が気持良く別れられる様にするのであって、まずそれが第一なのである。しかし女の方は二つに別れていがみ合っているのである。片や石川八重子の派と片や、門間アヤ〔綾〕子、富田テイ子、川島セツ〔節〕子の派である。言うなれば前者は主流派で、後者は反主流派であって、それらは感情的に激しく対立しているのである。今度の事も〔、〕実は便所の案は反派から出た案で、主流派は花壇の案に賛成し、結局、多数決で花壇の整理をまずやる事にしたのである。民主主義の社会では〔、〕多数決は絶対である。だが〔、〕両者の感情は、こじれ合いからまり合い、今度は主流派が便所を反主流派が花壇に力を入れている結果となった。全く皮肉である。これでは〔、〕しない方がいゝと思う。卒業する時だけでも〔、〕両者相溶け合って仲良くやってもらいたいものである


 1962. 3.6 火曜日 晴れ
 予銭〔餞〕会もだんだんすたれて行く様である。皆いゝ加減である。卒業生よ、早く出ていけ、といった風な具合である。でも〔、〕唯一つだけ心を打たれた劇があった。二年三組の無言劇である。笹川教諭の真心が感じられた。昼食の後、八幡様に行って二日目の奉仕作業をした。寒いせいか〔、〕振わなかった。
 夜、公民館で、中学校の〔部落〕送別会があった。カレーライスを御ちそうになった。私達は御礼として、キャラメル一箱(二十円)、鉛筆、消しゴムを下級生、後輩、在校生に送った。それから〔、〕すぐ解散した。又部落の賞状類を二年生にひきついだ。去年の分散会の時は〔、〕全く嫌な事があった。それに比べれば〔、〕今年の二年生はりっぱである。何事もなく終って。


 1962. 3.7 水曜日 晴れ
 午前十時三十分ころまで〔、〕八幡神社付近の奉仕作業を続けた。南半分も終って、大体、後片づけはすみ、今度は設備を新装する番である。しかし〔、〕その仕事は明日に残して〔、〕謝恩会の準備にかかった。席順を抽選する事に仕〔し〕たのであるが〔、〕誰も従う者がない。二回もやり直しをしたが、とうとう、好きもの同士並んでしまった。それでも〔、〕先生方はうまく席に入った。会の司会は〔、〕私が努〔務〕めさせてもらった。どうしてどうして、仲々見捨てたものじゃない、名司会ぶりだった。その時の私は〔、〕劣等感もなにも持ってはいなかった。私のために少しでも会が楽しくなったとすれば〔、〕幸福というものである。四時三十分〔、〕謝恩会を終〔わ〕って、後始末。それから〔、〕すぐ一度下におりたが、屋体に皿を忘れた事を思い出して〔、〕再び学校にもどった。それから〔、〕今度は六時ころまで、千葉隆、遠藤章と小づかい室で暖まっていた。それから瀬戸理容店に行って、千葉隆と一緒に散髪。学校長もいた。


 1962. 3.8 木曜日 晴れ
 朝、余りの朝寝の気持良さに酔いしれて、ついうとうとと、もう一眠りしてしまった。御影〔陰〕で遅刻である。でもあわてない、雄〔悠〕々としたものだった。まず飯を食って、それから家を出た、九時十五分である。学校についたが〔、〕どうも決まりが悪いので、もう一度下におりて授業の終るのを待つ事にした。それで下に行って、斉藤屋で下敷きを買った。ツメ〔つめ〕祖母が居合わせたので、少し話をして、又上〔が〕っていった。が〔、〕授業はまだ終っていなかった。小林先生だった。きまりが悪いので〔、〕二組が自習なのをいゝ事にズズしくも二組の教室に入り込み〔、〕授業を〔が〕終えるのを待った。私に一番最初電子工高合格〔の報を〕もたらしたのは〔、〕祖母ツメ〔つめ〕であった。私は〔、〕それでも信太亀一郎と一緒に新聞を見に行った。やっぱりのっていた。早川亀一ものっていた。しかし、千葉隆の名は見られなかった。七校時目、屋体で卒業式歌の練習をした。夕食前〔、〕義姉が喬を伴って帰って来た。クラスでは〔、〕サインの交かんが流行っている。私も何人かの一に書いてやった。


 1962. 3.9 金曜日 晴れ
 卒業式の前日。今ごろになって、何か無性に別離をつらく感ずる様になった。それも不思議に異性としての愛情を感じた人よりも、同性としての友情を感じた人との別れの方がつらい様な気がしてならないのである。無二の親友である相沢力を筆頭に、高橋重幸、千葉隆、遠藤章、佐藤龍美、薛義興、小島清夫、信太亀一郎、郷右近初雄、遠藤信喜、皆いゝ奴ばかりである。私はこんなに良い友達にめぐまれているのだから〔、〕幸福と思わなければならない。でももう、この人達とも別れねばならないのである。全く不幸な事である。全く悲しく〔、〕寂しく〔、〕無情な事である。私は今〔、〕何よりもそのせつなさに絶〔耐〕えかねて〔、〕身もだえ苦しんでいる。昨日までとは全く逆の気持である。
 私は〔、〕彼女には何もしないで黙って別れを告げようと思う。私は今日、彼女にサインした。何の変わった事でもない〔、〕普通の事である。私はそのサインの中に〔、〕私の気持を彼女にさえ解らない様に込めたつもりである。サヨナラ、おしあわせに〔、〕という一語の中に。
 放課後、再〔又〕、公園の創造にせいを出した。最後まで残ったのは〔、〕たった四名であった。帰る途中、上野屋で母と一緒に学制服を見立て、それから山田屋でズックを買った。


 1962. 3.10 土曜日 快晴
 「本日、晴れて風無し。」絶好の卒業日和である。どこまでも青く澄み渡った空、所々>に綿の様に浮ぶ浮き雲、まるで天までが我達の卒業を祝福していてくれる様である。全くの春日和である。
 こんな日に〔、〕我達の昭和三十六年度第十五回卒業式は挙行された。全く〔、〕どこまでも気持の良い空であった。まるで天が、こんなすがすがしい心の持主になれと教えてくれている様>だった。式開始は午前九時三十分〔、〕我達卒業生の入場から始まった。そして〔、〕その後遠々二時間余に渡〔亘〕って式は催された。しかし〔、〕私はさ程疲労を感じなかった。私は〔、〕卒業式というものは最〔もっと〕、厳粛で宣〔且〕つそうれいなものであると思っていた。しかし、私の予想は裏切られたと言えよう。それこそ〔、〕半分おかしな程だった、方々で含み笑いが聞かれるのである。そこには何の感激も無かった。それでも卒業生だけは、最初の内は皆真面目そのものだった。しかし、時間を経るにつれて笑い出すものも出る始末であった。在校生の送辞を聞いても〔、〕何の感動もしなかった。その内に式は終って〔、〕退場してしまった。校長の式辞も来ヒンの祝辞も〔、〕なんの頭に残っている事はない。全く〔、〕私にとっては〔、〕何の味気もない卒業式であった。式の終った後も〔、〕すぐ解散してしまった。それから各自、個人々々で記念撮影をするもの、寄り集まって別れを惜しむもの、いろいろであった。私も写真をとったり、サインを交かんしあったりして、二時間程過したが、その後町に降りて、佐藤龍美に中華そばを一杯オモ〔ゴ〕られた。そこで一時間程過ごしてから〔、〕又学校に上った。職員室で〔、〕親父が飲んでいた。が〔、〕その親父を引っぱり出して〔、〕玄関前で記念撮影とシャれ込んだ。それから、小林教諭からサインをもらった。校長が酔いどれて、教室にはいって来た、かなり酔っていた。しかし〔、〕さすがは校長である。たとえ酔ってはいても〔、〕仲々良い事を語る。私は今日のどの御偉方の話よりも〔、〕この時の校長の話が一番耳に残っている。「人と相対する時は〔、〕必ず相手の目をみつめろ。先に動かした方は負けである。」と、本当だと思う。私は〔、〕誰をも恐れる事はないのだ。強く社会の中に生きよう。卒業式の式辞の中で〔、〕校長は私達の最後の善行をほめてくれた。異例な事のそうである。私達もその〔こと〕一つでかなり、名誉を万〔挽〕回する事ができた様である。校長も相当うれしそうである。良い事をしたと思う。

 さて、私達は卒業したのである。卒業式とは祝うべき式なのであるが実は、誠に悲しい式である。別離である。九年間も一緒に生活した仲間と〔、〕別れるのである。全く天の定めとはいえ、耐えられない事実である。別れはつらいものである。もう〔、〕一生会えないかもしれないのだ。千葉文義、門間正治、佐藤次男、千葉養二、佐藤喜巳雄、丸山芙沙子達、彼達は東京就職組である。信太亀一郎、大平孝〔たか〕子、出井富子、相沢京子、曽根芳春、彼達は神>奈川県である。県内では、桜井富子、荒木慶記、中居善弘達は仙台市内。千葉和夫、佐野えみ子は宮城郡。遠藤ハルエ、熊谷みや子は刈〔苅〕田郡。佐藤初夫は富谷村。安藤忠男、高橋重幸、遠藤一夫、門間哲夫、泉田一男、横田清、佐藤秀一、高橋勇喜、千葉福子、文屋えな子、宮沢文枝、門間多美子、佐藤重信達は自家農業である。この三十四名が〔、〕就職組である。千葉文義のサインに〔、〕「おれに取っては最後の学校生活だったよ」というのがあった。何か〔、〕じんとくるものがあると思う。とも角も〔、〕彼達の心の内はどんなであろう。進学組では、黒川高〔受験〕は、熊谷信一、遠藤信喜、沼田てい子、佐々木ノブ子、文屋みよ子〔常磐木〕、郷右近初雄、千坂公夫、文屋政次、千葉隆、八島克子、横田和子、阿部キヨエ、石川八重子、佐々木工、高橋広志、高橋勇喜、泉田八男、川島節子、門間アヤ〔綾〕子、音羽美恵〔枝〕子、高橋千賀子、遠藤照美、八巻信子、富田テイ子、安藤章悦、藤倉靖、桜井ふみ子、佐藤今朝治、山田勝一、千葉哲司、佐藤龍美、高橋洋一、大友つめ子、相沢一郎、辺見宏、佐藤>敏子、瀬戸かほる、相沢力、高橋定夫、中米徳治、菅原よし子、千葉芙美子、高橋一子、佐藤正行、遠藤伶子、千坂志津子、鴇田保子の四十七名。その他、千葉裕子が常磐木学園。甚野フキ子が理容学校。早川亀一が塩釜高と東北電子工高。千坂雄悦、高橋春男が東北高。門間英男、千葉法男、千葉東が育英高。薛義興が仙台高。小島清夫が仙台二高〔受験〕。浜尾利彦が宮農高。遠藤章が古川工高か塩釜無線高。高橋みね子が朴沢女学園。以下、残りは洋裁その他各種校。百二名の卒業生には、それぞれ百二の将来がある。みんなそれぞれその将来を目指して〔、〕遠い旅路に〔、〕人生航路につくのだ。人生航路、それは長い旅である。そしてその行路が終った時、私達百二名は再び一同に会するのである。とに角〔、〕それは遅かれ早かれやって来る事は間違いないのだ。その時、私達はしみじみと〔、〕つきる事無く昔の話をする事ができるのだ。それが人間の運命である。目をつむれば、百余名の面が次々と浮かんで来る。みんな〔、〕良い奴ばかりである。今は皆澄まし込んでいるが、元は皆同じ鼻たれ坊主に過ぎないのだ。皆、同じ鶴の巣に育ったヒナである。毎朝、毎夕、私達は船形山を見つめながら、通学した。船形山は我達の母であり、我達の永遠の愛の印である。我学友よ、生きろ!強く生きてくれ。この世に何の恐れるものがあろうぞ。生きるんだ、強く生きるんだ。故国日本のために、母校の鶴中のために、世界に全世界に向〔か〕って高名乗りを上げてくれ。例えいかなる障害が訪れようとも、百二名の力でやればどうにか生きる事ができよう。考えて見てくれ、九年間のつき合いなのである、そして、その友情なのである。友情>等というものは、ことばだけなのだろうか。美しい友情は在しないのであろうか。そんな事は嫌だ。我同輩よ〔、〕私は叫ぶ、どうか、永遠の友、そして永遠の友情であってもらいたい。永遠の………。佐様奈良、佐様奈良、みんな佐様奈良。どうか幸福になって下さい。しあわせになってください。そして、九年間の同輩との美しい友情を忘れないで下さい。正しく〔、〕強く生きて下さい、おしあわせに。卒業後も〔、〕いつか又会う時がくるでしょう。その時>を楽しみに待っています。諸君がそれぞれの御偉業を成しとげられる日を〔、〕心待ちにして聞いております。母国・日本のために〔、〕郷土のために〔、〕そして母校のためにがんばって下さい。

 私は今日九年間の義務教育の全課程を無事終了し、めでたく卒業する事ができた。一体〔、〕これは誰のおかげであろう。それに〔、〕どうにか人間のクズの様な根性を持たないで済む事ができた。これは〔、〕一体誰のおかげであろう。九年の間に、私はこんなにたくましく成長してしまった。私は先ず、私の生活を保障してくれた肉親に感謝せねばならないだろう。元兄は〔、〕今日も又遠く南の空の下で只一人故郷を離れて、汗まみれになって働いているだろう。酒も飲まず煙草も飲〔喫〕まず、少しでも生活を豊かに楽しくしようとして、黙々と働いているだろう。私のために〔、〕そして我家のために………。
 私をこの世に与えてくれた父と母、全く親とは神よりも有難いものではないだろうか。もうすでに老体の身の父は、今でも直〔尚〕、黙々と働いている。母も、本家でのあの苦しみに耐え抜いて、今もなお、我子のために働いている。義姉、義姉が元兄にとつぐまでは、私は姉というものを持った事がなかった。義姉はまるで本当に血のつながった姉のごとく又、母の実娘のごとく、私達と心の底から接している。私はそんな義姉を〔、〕最初は冷たい眼で眺めていた。が〔、〕今は違う、義姉は我家にとって無くてはならない存在である。義姉>と私達の間には〔、〕それこそ真の暖かい姉弟愛が流れている。元兄は〔、〕全く果報者と思う。
 修兄も〔、〕ずい分苦労したろう。幼い時に、私をどんなにかかばってくれたろう。私が新聞配達で遅れたり、供〔洪〕水になったりすると〔、〕代わって私のために働いてくれた。そのくせ〔、〕兄は毎朝どんなに寒くても牛乳配達である。よくビンをこわしては〔、〕叔〔義伯〕母達にしかられていた。妹達も〔、〕みんないゝ奴ばかりである。こんなに良い親兄弟にめぐまれながら〔、〕私の態度はどうだったろう。いつも家庭を混乱させてばかりいた。全く、不幸〔孝〕者である、深く反省している。私は〔、〕これ達の人達の中で最低の人間であった。いつも母を泣かし〔せ〕てばかりいた、全く悪い息子である。私のために〔、〕家庭がいく度混乱したことだろうか。でも〔、〕どうかお許し下さい。父さん、兄さん、どうか、この不幸〔孝〕者をお許し下さい。いつかはきっと、りっぱな人間になって、父さんや兄さんに恩を返せる日が来るかもしれません。私はできる限り努力します。父さんや兄さんの暖かい愛情は〔、〕けっして忘れません。そして、必ず天下に沢田の名をとどろかしてみせます。

 佐藤都子〔みやこ〕先生、千坂一郎先生、長谷川先生、加藤先生、千葉八郎先生、瀬戸先生、そして小林先生、見ていて下さい、私の将来を。私は〔、〕私をこんなにりっぱに育てて下さった先生方に、心の真〔心〕底から敬意を表します。御恩は決して忘れません。まし>て諸先生方の名誉を汚す様な事は〔、〕絶対に死んでも致しません。どうか〔、〕一人の教え子の将来をジッと見守っていて下さい。いつか、必ず、この世に名を上げて、御恩を御返ししたいと思っています。
 早坂先生、そして佐藤剛先生、良く見ていて下さい。といってもあなた方は、私の事、とうに忘れているでしょうがねえ。まあ見ていて下さい、あなた方のいじめたてた子がどの様な人間になるか、そしてあなか方のかわいがった生徒がどんな人間になるかも。私が>いつか名声をあげた時、それは恩を返しているのではありません、フクシュウです。私はきっとフクシュウします。早坂先生、幼い時の苦しみ、貴女にはお解りにならないでしょう。私はきっと仇を返します。ウラミは決して忘れません、決して。私は強く生きます。何者をも恐れません。強く生き抜いて見せます。母校のためにも。
 節子さん、どうか見ていて下さい、私の将来を。思えば調〔丁〕度一年前から今まで〔、〕私は貴女に途方もない夢を抱いておりました、そう〔、〕途方もない夢を。とても楽しい夢でした。私の様な身で誠にあつかましい事ですが〔、〕どうかお聞き下さい。私は〔、〕貴女に初めて恋をしました。けがらわしいと、いやらしいと御思いになるのは御最〔尤〕もですが〔、〕どうかお聞き下さい。貴女様は私に取って初恋の人、しかし貴女にとって私は何だったでありましょうか。「みにくい小男?」そうです、その通りです。時には出過ぎた事をして、不快な感じを与えた事もあったかもしれません。でも〔、〕私はこらえにこらえました、そして〔、〕誰にも気付かれない様にして来たつもりです。あるいは〔、〕あなたも感づいていないかもしれません。責めて私がもう少しマトモな顔つきをしていたら〔、〕とつくづく思います。いや〔、〕もうぐちはこぼしません。千坂公夫君も、小島君もりっぱな人です。貴女が誰を愛しているか〔、〕私には解りません。でも〔、〕一番愛している人と生活を供〔共〕にする事が〔、〕人間にとって最高の幸福だと思います。貴女が幸福な一生をおくられる事を〔、〕この小男は望んでやみません。私の事等>は〔、〕サッパリ忘れて下さい。
 最後に一つだけ言わせて下さい。節子さん、貴女は美しい。私は〔、〕世界一美しいと思っている。しかし〔、〕あなたの心は世界一美しいと言えるだろうか。どうか良く考えて下さい。これが私の最後の願いです。御幸福に〔、〕一生をお送り下さい。さようなら、永久に………
 相沢力、佐藤龍美、高橋重幸、千葉隆、遠藤章、薛義興、小島清夫、郷右近初雄、私は良い友達をもってしあわせです。いつか又一緒に会える時が来るかもしれません。そして〔、〕いつかは御恩返しができると思います。どうかそれぞれ、幸福な一生をお過し下さい。
 我血を創造して下さった我澤田の祖先よ、見ていて下さい。必ず澤田の家の名を揚げて>御らんに入れます。どうか〔、〕私を御守り下さい。
 そして郷土の人々よ、先輩よ、後輩よ、必ず私は、母校の名を〔、〕郷土の名をあげてみせます。雄大なる自然よ、どうか私をお守り下さいませ。
 最後に〔、〕私の妻とならしめん人よ、見ていてくれ。今はどこにいるのか解らないが〔、〕どうか見ていてくれ、私の青年時代の姿を。あなたはどんなひとだろうか。しかし〔、〕何を欠いても心だけは美しい人であってもらいたい。いつか私と会う事ができるだろうが、それまで待っていてくれ。私は美少年でも美男子でもない、こんな私の妻に〔、〕はたしてあなたはなってくれるのだろうか。どこにいるんだ、教えてくれ。どこにいるんだ。ぼくは生きるよ、強く、正しく、清く。君のために、君の面影を想像しながら。


 1962. 3.11 日曜日 晴れ
 私の勉強が足りなかったのである、勉強が。私は国立仙台電波の試験に見事落第した、
いゝきみである。大体〔、〕虫が良過ぎるのである。全然勉強もせず、その上、試験を簡単だったと鼻であしらい、さらに余り周囲の者が浮きたてるので、もう半分は合格する様な気持でいた。全く〔、〕言語道断な事である、良く思い知るが良い。
 不合格は覚悟はしていたけれども、やっぱり嫌な気持である。我校の受験者は三人とも枕を並べて討ち死にである。全く情けない限りである。しかし〔、〕実力の無いものはし方が無い。田舎の学校のレベルの低さというものを〔、〕今さらながら感じさせる。電子工高の合格後の落第であるので〔、〕さ程精神的な打撃は多くない。しかしこゝにむずかしい問題がある。電子高の入学願いのしめ切りの期日が〔、〕二高の発表の期日より二日程早いという事である。電子工高の要項には、「期日まで手続きを終えなければ入学を取り消す事もある」と書いてある。その「もある」が曲者である。二高の入試が十六・十七なので、一央〔応〕受験してみて〔、〕大体の判断で決めようと思う。二万五千九百円という金を唯投げるのは〔、〕全くとんでもない話であるので、うかつに金は出せない。かといって〔、〕二高を完全に及第するという自信もない。どうしたものだろうか、その辺のやりくりが難かしい所である。昨夜は千葉隆、津田晃哉、遠藤章、佐藤重信、遠藤信喜と六人で〔、〕学校に泊りに行った。二人用の寝台に六人であるから、たまったものではない。それでもなんとか眠る事はできたが。


 1962. 3.12 月曜日 晴れ
 本日は卒業生全員登校というので、やゝ遅れてではあるが〔、〕とに角登校した。ところが、これは補講生全員登校の事で、誤聞だという事が解った。私は補講生ではないので〔、〕他の非補講生と〔、〕屋体付近やその他の個所を散歩して歩いた。やがて補講生も補講をサボり、大多分の補講生が外に出て来た。私は相沢力、佐藤龍美、高橋重幸、高橋広志達と記念撮影したり、散歩したりした。その後〔、〕重と二人で彼の家に遊びに行く事にした。途中それぞれの部落の商店で、アイスクリームを計五つ食べながら行った。幕柳に行ったころ、私の愛用の古物車がパンクしてしまった。途中で郷右近に追いつかれた。郷右近も一緒に、重の家に行った。草もちを御ちそうになった後、トランプをしたりして遊んだ。それから〔、〕自転車のパンクを修理した。重はよくよく、あゝいうことが好きな様である。まるで彼が一人でした様なものである。その後、郷右近の家に行った。それから山田分校まで行き、夕方まで郷右近の家で春場所を観戦した。それから郷右近とも別れ、重と別れて、幕柳に入り、千葉隆の家に寄った。千葉和夫と三人で学校に泊る事にした。


 1962. 3.13 火曜日 快晴
 朝方から〔、〕一日中強い風が吹いている。土が乾いているので、床の上が大変である。特に私の家は風当たりが強いので〔、〕板の間はザラザラ、まるで外と変わらない様子である。何度はいても〔、〕同じである。それで〔、〕午前中はおとなしく、こたつに入って参考書をひろげていた。元兄から葉書が来た。
 今日学校に写真屋が来る事を思い出して〔、〕昼食後学校に向った。が〔、〕もう写真屋は居なかった。教室に、千葉隆と遠藤章がいた、私を待っていてくれたのだ。三人で新校舎や屋体に行った後、用務員室で火に暖って語らった。それから〔、〕小島君も加えて下に降りた。彼女と出会った。彼女については〔、〕千葉隆と遠藤章に話した後なので〔、〕さっぱりしていた。私は訳も無く笑いこけ〔、〕流行〔囃〕したてた。愉快であった、そして〔、〕寂しかった。小島君も〔、〕本気で彼女を好きらしい、なんとなく〔、〕解るのである。私が彼女を忘れるのには〔、〕この方法しかないのである。見損なわれても〔、〕仕方のない事である。いやかえって、見損なわれた方がいゝのである。私は彼女と〔、〕とぼけて顔を合わせよう。
 元兄に手紙を書かねばならない。元兄は今日も働いている。それなのに〔、〕私は無だな金ばっかり使〔遣〕っている。も少し反省しなくては。


 1962. 3.14 水曜日 晴れ
 卒業式の日の写真が出来て、今日私の手に入った。三百余円である。撮らない様で〔、〕ずい分撮ったものである。でも〔、〕時〔自〕分で取〔撮〕ったのが4枚一組で 100円、父と二人のが四枚一組で百円、これだけでもう二百円で、後は極小額である。相沢力、佐藤龍美、高橋重幸と斉藤屋でそばを食べた。借金を少々〔、〕相沢力に百円、高橋重幸に百円。時〔自〕分一人で撮った奴を〔、〕十枚焼き増ししてもらう事にした。友達にやらなければならない。そばを食った仲間と校庭の前のガケに登って、その最後の眺望を楽しんだ。


 1962. 3.15 木曜日 快晴
 朝〔、〕ユックリ寝た。午前十時近く〔、〕起床。床を離れ、着服、朝食。それから申し分け〔訳〕に参考書等を開いて〔、〕勉強。昼近く〔、〕服を着変〔替〕えて昼食。用類全て準備して、勇んで家を出て来た。皆より一足早く〔、〕吉岡まで行っている事にした。吉岡で薛義興、小島清夫、それに三田村・笹川両教諭達に合流した。仙台駅からタクスィーで〔、〕旅篭町の第一Hotel まで。私はもうこゝの常連で、これで三度目。
 今晩は不思議な程に冷静に、真剣になれた。ドッシリと落ちついて、参考書に見入っていた。頭脳は至って明快で、良く理解でき〔、〕記憶できた。昨年四月転任した元我校の教頭・現在塩釜市立月見丘小学校の佐藤剛教頭が〔、〕訪ねて来た。恩師とはいえ、私の好む人間ではない。私達はさして歓迎の色も見せずに〔、〕学問を続行した。私のフクシュウの対象となる唯二の人間の内の一人である。私は〔、〕この名問〔門〕二高の試験に全力をつくす。私の全精神力を〔、〕全頭脳を使い果すつもりである。


 1962. 3.16 金曜日 雪
 朝、八時十分前、タクシーでホテルを出発。午前九時試験開始。試験終了後、散歩がてらに駅まで歩いた。笹川先生に〔、〕丸光デパートで昼食を御ちそうになった。その後〔、〕笹川先生は家に帰った。今日〔、〕小林先生と交代する事になっていたのである。宿に帰っても誰も居ないので、前の映画館「ギンエイ」に入った。三本立ての一本丈見て出たら〔、〕宿には薛と小林教諭が帰っていた。三田村先生は〔、〕食事が終ってから帰って来た。大部飲んで来た様である


 1962. 3.17 土曜日 晴れ
 試験は失敗である。完全に失敗である。何もいう事はない。早く電子工高に入学手続きを取ろう。二高には〔、〕どうしても入れない。勉強不足でもあるし、虫の良過ぎる話でもあるのである。途中、小学校時代の旧友で〔、〕二中の蜂谷文雄にあった。そして彼の下宿まで行き、そこから、又駅まで歩き、別れてバスに乗った。大和町、すなわ吉岡では〔、〕黒川高の受験組が数人居た。そば屋を二軒かけて、食事をした。利府回りのバスで〔、〕大崎についた。すぐ〔、〕中学校へ上〔が〕った。写真屋さんが、焼き増して持って来てくれていた。二百円也である。あいにくにして〔、〕金は足りなかった。小島君に〔、〕二百円借りた。重と力さんからも二百円借りているので、計四百円に成った。早く返さねばならない。夜遅く〔、〕帰宅した、といっても、六時半ころである。その時は〔、〕外は真暗である。
 私が東北電子工業高等学校の生となる事は、ほゞ九分通り確実であろう。父達にも、試験の失敗を告げた。彼達は〔、〕表面は無感〔関〕心であった。


 1962. 3.18 日曜日 晴れ
 父と母は砂金沢の母実家に〔、〕新築のための地固めの手伝いに行った。重信君の家は、四月ごろ新築がなる予定である。
 例えどんな理由があろうとも〔、〕高い経費をかけた試験に失敗した事は、全く面目無い事でもあるし亦、志の沈む事である。この金は〔、〕一体誰の作った金なのか。年老いた父と母、兄夫婦の汗と努力の結唱〔晶〕なのである。只沸〔湧〕いて出て来たものではない。そんな貴重な金を〔、〕私はいくら浪費してしまった事であろう。そんなこんなで、気分は全然秀〔優〕れない。朝食を抜きにし、昼食時にも食欲が出ず、夕食も取らなかった。全く何の気力もない。あるのは只、肉親に対するすまなさだけである。


 1962. 3.19 月曜日 晴れ
 父は帰って来そうにない。私も心配になって来た。一体どうするつもりだろう。私は〔、〕祖母の家まで出かけていった。父と母は、コタツに座っていた、納屋の仮りの住居の中である。もう昼時であった。昼飯を御ちそうになりながら、父母と話し合った。電子工高の入学手続きの〆切日は今日、三月十九日なのである。しかし父は、二高の結果を期待して待て〔、〕と言った。条件はそろっていた。入学要項には「取り消す場合もある」と書かれていたし、それに電子高は二次募集しているのである。そんなこんなで私までが、二高合格のサッカクを受ける様になってしまった。万が一と言う事業〔諺〕も〔、〕あるのである。不合格と言い切る事は〔、〕誰も出来ないであろう。とに角、二十一日まで待つ事にした。
 今晩は〔、〕重信君の家に御世話になる事にした。午後〔、〕龍美君の家や助雄君の家に行った。夕食後、巌叔父の家にも行った。母は早く、父は夕方帰った。


 1962. 3.20 火曜日 曇り
 「No. 444」〔、〕陰気なナンバーである。シ・シ・シ、死・死・死、死が三つ。嫌われる番号である。無〔不〕気味な数字のその通り、一大波乱〔瀾〕があった。それが〔、〕今日の陰日の主たる出来事である。
 朝、砂金沢の家に居ると、妹静枝の使いで〔、〕呼出しをくらった。何事と思い〔、〕腰を上げて自転車を走らせた。そのまま、まっすぐに学校に行った。職員室に入る気分が、卒業前とは全然違った。職員室内の机やものの配置も〔、〕先生方も〔、〕そしてそこに流れている気分も〔、〕まるで変わったものの様に思え、まるで別の場へ来た様な気分である。
 話とは、高校の事である。電話で電子高に問い合わせたところ、入学金は明日でも良いという返事であった。それで〔、〕私の用件は終りである。佐々木工君が電子高の二次募集に応募するそうで〔、〕彼の家に行って彼を連れて来てくれる様に頼まれたので、大平上まで自転車を走らせた。彼を職員室に連れていったら、今度は千葉隆を連れて来てくれとの事であった。それで〔、〕今度は幕柳まで跳〔飛〕ばした。彼は〔、〕町内一せいの野ねずみ駆除に出ていた。その彼を連れ出して、又学校まで。斉藤屋でそばを食って腹ごしらえをしてから〔、〕学校に行った。そこで私達は〔、〕供〔共〕に電子高に入学して、その寄宿舎で生活を供〔共〕にスル事を約束した。私達はそれから家に来て、テレビで相もうを見ながら、母に私の気持を話した。農協の門限は四時である。至急に三万の金を要するので母に、貯金の払いもどしを願った。母は父の許しを得てからというので〔、〕私は一応、父に一切の事情を報告しに行った。父は〔、〕無条件で私の意見に同意してくれた。ところが、その夜の事である。形勢はまるで逆転してしまった。父は反対こそしなかったけれども、こういったのである、「授業料なんか、毎月きちんと送ってやれないからな。」父はごく軽い気持で言ったのであろうが、この一言が私の胸にグサリとつきさゝった。途端に私は反論してしまった。それが、双方の感情のこじれの最初であった。とうとう言い争いに成り、私は奥に引っこんで来た
 私はこう思ったのである。親なればいかに、その前途の経済状態が不安であっても、「金の事は心配ないから、とに角一生懸命勉強してくれ。」というべきであろうと。しかし、父の言う事も決して悪い意味ではないという事が〔、〕今に成って解って来た。つまり父は、思っている事をズバリ言っただけである。しかし〔、〕その言葉の奥には〔、〕息子への限りない愛情が秘められていたのだ。私は〔、〕それを読み取る事ができなかったのである。とんだ親不幸〔孝〕をしたものである。こういう時の気持の表し方は〔、〕父の言葉と私の期待していた言葉と、どちらが良いか私には解らない。考えてみると、今までの我家の経済〔的〕主義は父の言動の方であったし、それに気がつかなかった私が一番の馬鹿者である。とに角、一歩誤れば私達の様な結果になるのである。こんな時は、聞く側話す側、双方とも良く注意してかからねばならない。こんな親不幸〔孝〕をしてしまって、もう私の進学は御破算である。どうせ〔、〕最初から無理な希望だったのである。
 それに〔、〕私が電子高校に入学して卒業するまでには、五十万の経費がかかる。これでは、我家は、オマンマの食い上げである。私のために、兄や妹達に余計な苦労をかけては、すまない。我家の経済には無理な相談だったのである。口惜しいけれども〔、〕高校進学はあきらめなければならない。あこがれの高校生活も〔、〕全ては全く夢であった。
 明日、職安に行って職業を紹介してもらおう。どこか遠い所へ行きたい。なあに〔、〕中学校出だって、誰にも負けやしないぞ。夜学だって通えるんだ。がんばろう………
 全ては 444の番号がいけなかったのかもしれない。


 1962. 3.21 水曜日 吹雪
 三月も下旬だというのに、雪が降っていた。父は我が未だ眼のさめない内に本家に行って、セイヤクショに連体〔帯〕保障〔証〕人を力さんにお願いして〔、〕サインしてもらって来てくれた、という事である。昨晩私が、あんな決意をしたとは夢にも知らずに。又昨夜のケンカの事も忘れて、ただひたすらに息子に対する愛情から、あの雪道を五十の冷えた体を運んでくれたのである。ところが、私はそんな事はまるで知らなかったのである。昨晩の決意を忠実に守って、父の勧める金を受け取らず、吹雪の中を自転車で出かけたのである。最初に私は千葉隆のところに行く事にした。約束をどうしても破らねばならない理由をいゝに行ったのである。しかし、この吹雪では自転車は利かない。かと行〔言〕って〔、〕金は一銭も持ち併〔合わ〕せていなかった。幸そこに居あわせた、千坂志津子に百円借りると〔、〕おり良く通りかかったバスに乗って幕柳まで行った。それから例の二階の部屋で二人で話し合い、私も考えてみた。今から就職してしまっては〔、〕全く灰色の人生の様にしか思われない。私は最学問をしたい、そして高校生になりたい。今の私にはやっぱり、無理をしてでも高校に入れてもらう事が一番良い様に思えて来た。一切をあやまってもう一度、父に頼んでみよう、こう思った。父は快く許してくれた。私は胸をはずませて、電子高に出かける事になった。思えば、あの時、利府行きのバスに乗ったのが運命の変わりめであった。あの時、吉岡行きで職安に行ったとしたら今ごろは、どうなっていたろう。
 とに角〔、〕私は入学手続きをすませて来た。これで一安心である。〔二高不合格〕


 1962. 3.22 木曜日 快晴
 昨日、千葉隆は事情があって、納金して来なかった。でも今日は納金するはずである。朝方、薛、佐藤、相沢の三人が訪ねて来た。しばらく彼達と話してから、自転車で大崎に出た。落第直後なので、どうも学校には、きまりが悪くて入れなかった。斉藤屋でそばを皆で食って〔、〕解散した格好となった。数十分の後〔、〕私と薛、龍美の三人は〔、〕相沢力の家を訪ねるべく下草に向った。彼はコタツに暖っていた。高橋定夫君も出て来た。そう〔、〕遠藤章も私達と一緒だったっけ。定夫君の家で〔、〕下草の高校合格者の父兄の人達が瀬戸・小林・三田村の三教諭と教頭を招いて、謝恩の会を催していた。私達は相沢力の家でしばらく御ちそうになってから、彼の家を出て、遠藤信喜の家に向〔か〕う事にした。私はそれまで知らなかったが、彼は黒川高を落第したのである。世間一般の常識では考えられない事であった。誰もが彼の実力を信用していた様に〔、〕私も彼の合格を信頼仕〔し〕切っていた。遠藤章の話に寄〔依〕れば〔、〕彼はすっかり気を落してしまっているとの事で〔、〕私達は彼を励ましに出かける事にした。途中からアルバイト帰りの早川亀一も合流して〔、〕一行は私と遠藤章、佐藤龍美、薛義興、早川亀一の五人にふくれ上った。すでに〔、〕日はとっぷりくれていた。我達は一寸した気持で彼の家に出かけたのであるが、彼の家の人達は誠に大感激だった様である。特に祖母は〔、〕涙を流しての感激の有様であった。彼も〔、〕次第に元気をつけた様である。彼の兄も母も祖母もそして姉も皆、感激の涙にぬれていた。私はその時〔、〕大変美しい家族だなと思った。そんな訳で私達五人は大歓迎を受け、夕食に美味しいカレーライスを御ち走になって、帰って来た。今日は本当にうれしい。


 1962. 3.23 金曜日 晴れ
 毎日、毎日、ブラ・ブラ遊んでばかり居て申し分け〔訳〕が無い。遊んでいるのは私丈である。元兄は今日も又、東京の空の下で働いている。この熱〔暑〕い中を真黒になって、尊い汗を流して。老体の父もそして、母も〔、〕みんなが働いている。私のために、家のために。そんな訳で〔、〕私は居たたまれなくなって、ゴルフ場建設のためのアルバイト人夫をやっている、早川亀一と薛義興に頼んで試〔み〕ようと思った。彼達の帰る時刻を見計らって家を出て、記念碑の所で待ち伏せした。しかし〔、〕彼達は仲々来ない。あきらめて斉藤屋まで来たら、バッタリ薛に出会った。彼の話しに寄〔依〕れば〔、〕ゴルフ場の工事も終りに近づき早速、彼は「クビ」になってしまったそうである。それでその話はオジャンで、ある。その場で〔、〕彼に中華そばを一丁食わせられた。それで〔、〕明日アルバイト探しに職安に行く事を約束した。


 1962. 3.24 土曜日 快晴
 午前九時ごろであろうか、昨日の約束を守って薛義興が、小島清夫を伴ってやって来た。ところが〔、〕不覚にもその時、私は、未だ睡眠中であった。彼達に叩き起こされて朝飯を食い、少しコタツに暖って〔、〕再び外にでかけた。中米徳治君の家に行ってみたら、千葉文義と、小学校時代の友人で学院中の千葉政治が来ていた。彼達とトランプ等してから、大崎に出かけた。その内に別れてしまい、私、千葉政治、小島清夫それに薛義興の四人は、思い出の鶴巣小学校に足を運んだ。結局、職安は行かなかった。


 1962. 3.25 日曜日 晴れ
 佐藤龍美、佐藤重信、遠藤信喜と職業安定所に行く事は行ったのであるが、とうとう中へは入れなかった。何となく皆、気が退けたのである。遠藤信喜が塩釜電波高を二次受験するので〔、〕その写真を取〔撮〕りに行った。
 調〔丁〕度三百六拾五日・一年前の日記をみてみよう。世にも悲しい事が書いてある。誰でもやっぱり〔、〕女は女である。「女。」おんな、オンナ、おんな………
 それは全く恐ろしいものであり、かつみにくいものである。女はサタンである〔、〕とは良く言ったものである。誠に〔、〕女は悪魔であった。悪魔にとりつかれた、男は全くかわいそうである。只きつねに馬鹿〔化か〕された様に〔、〕ボーッとしているだけである。私も〔、〕その一人であったに過ぎないのである。女は全く恐ろしい。要は、その魔物に近づかぬ事である、女に、悪女に。


 1962. 3.26 月曜日 快晴
 朝、私に取っては早朝〔、〕薛義興が訪ねて来た。彼に誘われるまゝに〔、〕太田の方に行った。目的は〔、〕千葉政治の家に行くためである。が〔、〕彼は山に出かけていて留守であった。帰途、千葉隆の直の兄に出会った。彼の話しに寄〔依〕れば、家では、とても経済的に続かないし、それに五十万の基〔元〕手を取るのは大変である、というのである。そういう訳で〔、〕電子高に入学させる訳には行かない、というのである。結局〔、〕彼は黒川高校に入る事になるらしい。黒高の普通科を出て〔、〕何になれるというのだろう。話の解らない人達である。


 1962. 3.27 火曜日 晴れ
 午前、中米徳治君に誘われて、学校に行って卓球等した。やがて昼近くなったので、私丈帰る事にした。ところが〔、〕斉藤屋の所に「奴」が立っていた。何日振りかで見る奴の顔に〔、〕私の全神経は氷った様に成ってしまった。全く〔、〕ふいうちであった。私の自転車を取りに行くには〔、〕どうしても最〔もっと〕進まなければならなかった。私は夢中で側に会った徳治君の自転車に跳び乗り、曲る術も知らず真直に行った。勿論、側〔脇〕等振り向こうはずがない。帽子を深くかぶり、さらに側〔脇〕を向いて運転したのである。それでも〔、〕私の心臓は破れつしそうであった。なぜか解らない、とに角〔、〕夢中であった。行先は小島の家。小島を誘って、そこから歩いて薛の家へ行った。途中、千葉東の家に寄った。薛は不在であった。仙台に〔、〕親父と行ったとかである。それから〔、〕一年先輩の岡部君の家に行った。彼一人であった。途中〔、〕早川亀一を誘っていった。岡部君の家に居た佐藤助雄達と話した後〔、〕退き上げた。


 1962. 3.28 水曜日 晴れ
 卒業式を終えて、未だ拾八日しか経っていないのであるが、私にはなにか途方も無い長い時間を経過してしまった様に思われてならないのである。まるで、あれから三年も経ってしまった様な気持である。なんて長い十八日間であったろう。
 朝、下草に相沢力を訪ねて行ったが、彼は留守であった。借りた金を返しに行ったのである。その足で〔、〕砂金沢に行った。佐藤龍美が出て来て〔、〕やがて佐藤重信も顔を出した。昼は〔、〕佐藤重信の家で御ちそうになった。午後は〔、〕重夫叔父と一緒に働く事になった。毎日遊んでばかりいて〔、〕久しぶりに働いた。叔父の家では〔、〕明後日建て前なのである。夕食を御ちそうになって、重信君をひっぱって来て家に泊めた。曽根芳春と千葉文義が〔、〕東京に出発した。


 1962. 3.29 木曜日 晴れ
 朝飯を食って、重信君と一緒に母の実家、つまりは、彼の家に行った。今日は〔、〕明日の建て前に備えての土台敷きである。重い土台を運んだり、材木にクレオソート液を塗ったりである。午前中でそれは終って、午後佐藤龍美も一緒に〔、〕三人で太田の高橋重幸の家に向った、私は借りた金を返すために〔、〕重信君は写真を屈〔届〕けに。が〔、〕彼は吉岡に出ていて不在であった。私達は〔、〕山田分校に行ってみる事にした。それから、天満宮という神社にも初めて行った。風が強かった。帰りにもう一度寄ったら、彼が帰っていた。私達は〔、〕おのおのそこで彼への用を済ませ、再び砂金沢に帰った。それから〔、〕大崎に用事を頼まれて〔、〕又大崎に来た。夜食後、重則を引っぱって、帰って来た。


 1962. 3.30 金曜日 晴れ
 今日は〔、〕砂金沢の重信君の家では建て前である。朝食も終って午前十時ころ〔、〕重則を自転車に乗っけて〔、〕重夫叔父の家に向〔か〕った。父は〔、〕昨日から泊り込んで手伝っている。建て前には大して私達の用はない様なので〔、〕私は佐藤龍美を連れて我家へ帰って来た。誰も居なかった。二人でしばらく話していると妹達も来たので〔、〕皆でトランプをした。昼飯を早めに食って〔、〕私と彼は大平上の小島清夫宅を訪ねるべく出発した。彼を連れて今度は、それに早川を加えて薛の家に行ったが〔、〕薛は不在だった。仙高に身体検査にでかけたそうである。その足で〔、〕又岡部武君の家の方まで行った。ところが〔、〕そこでとんだ御難に出会った。岡部武君の店の前に〔、〕カブ号が一台止〔停〕まっていた。岡部君が合鍵を持っていたのでそれを借りて〔、〕小島君が車を引っ張って来たのである。佐藤龍美がそれを引きついでエンジンをおこそうとしていた時、おりよ〔悪し〕く白バイが通りかかった。皆無免許だったので、バラバラッと二・三歩しりぞいた。私までが、かかわり合いになりたくないため〔、〕卑〔強〕怯にもその場からのがれ出ようとした。巡査は佐藤龍美に〔、〕「免許証は?」といった。無論〔、〕彼がそんなものを持って居ようはずはないのである。只でさえ上〔が〕り気味の彼は、顔面をそう白にさせて直立不動の姿勢で〔、〕口を動かすどころではなかった。さらに巡査は〔、〕「黙っていると窃盗罪でタイ補するぞ」といった。私もいたたまれなくなって〔、〕彼の側に行ってやった。彼はふるえていた。やがて巡査は、私と龍美、それに岡部君の住所を聞き、鍵を取り上げて去った。私はオートバイにさわりだにしなかった、でも堂々と住所と名前を言った。が小島君は卑強〔怯〕だと思う。運んで来たのは誰だと言われても黙っていたし、それに自分丈良い子になろうとして、その場から離れていた。私はそういう根性は大嫌いである、彼を見損なった。義弟・八島喬が泊った。


 1962. 3.31 土曜日 晴れ
 東北電子工業高等学校より〔、〕入学式並に寄宿舎入りの通知が来た。入学式は十四日との事である。寄宿舎には十三日の夜から入る事にした。そんな訳で、あと十三日でイヨイヨ出発である、新しい人生に。それで午前中は〔、〕長年御世話に成った即席の机とオサラバをし、荷物をまとめた。義弟八島喬に〔、〕多少手伝ってもらった。作業は午後までかかったが〔、〕何か全然訳が解らなくなったので〔、〕半分でやめにした。そこへ〔、〕津田晃哉と千葉隆が顔を出してくれた。しばらく西日に照らされながら、千葉隆と話した。彼と会うのは〔、〕二十一日以来十日振りなのである。彼は〔、〕やっぱり黒川高の普通科に入るらしい。彼としては電子高入学を大いに運動したらしい、が、兄弟が母がそして叔父母が厳しく反対したのだそうである。父親だけが賛成してくれたそうである、が、すでに家を動かす権利は〔、〕経済は長兄がにぎってしまっていたのである。その長兄から猛反対を食らったのである。それで〔、〕全てが決定してしまったのである。結局彼は〔、〕あれ程嫌っていた黒川高に入る事になってしまったのである。それに〔、〕彼は電子高に二万六千を収〔納〕めていたのである。二万六千は空にとんでしまった事になった。津田晃哉は先に帰り、私と千葉は夕食後、遠藤章の家に出かけた。彼の家に入ったのは初めての事である。彼は古川工業に入学が決定して〔、〕浮き足だっていた。それで〔、〕その礼状を書いている所であった。これで〔、〕私達グループは三人とも〔、〕それぞれ仙台・古川・黒川と完全にバラバラになってしまったのである。三人は〔、〕中学時代最後の夜を思い出の中学校で過ごすために、母校に向った。それで〔、〕今晩一晩こゝでやっかいになる事になったのである。宿直は竹沢教諭だった。さて〔、〕今日三月三十一日を以って〔、〕正式には中学生活に終〔わ〕りを告げる事になる。明日からは〔、〕希望あふるる高校生である。私達三人は〔、〕結局中学生活の最後の最後まで〔、〕この母校に厄介になった事になる。


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