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大越氏は田村氏の一族であり、「初メ田村ヲ称」(『伊達世臣家譜』)していた「田村二番の大家」(「大越家系勤功巻」)であった。
田村氏の系譜をさらに遡ること、それはとりもなおさず、大越氏ひいては澤田氏の淵源の一つをも尋ねることに他ならない。
中世以降の田村氏については、すでに大越氏の諸章でたくまずしてその大要を述べてしまったので、ここでは、それ以前の古代田村氏に重点を置くことにしよう。
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田村「氏の先祖については、その系図に、
田村麻呂─浄野─内野─顕麻呂─古哲
となっていて、田村麻呂の子の浄野きよのから出て、古哲こてつの時から田村の姓を称したといわれている。」(大塚徳郎『坂上田村麻呂伝説』宝文堂)
田村麻呂の先をさらに尋ねると、じつに中国前漢朝の高祖劉邦にまで到達することになる。
漢の高祖劉邦の末裔阿知使主劉照
「諸蕃氏族は海外から渡来した氏族で、大陸文明のわが国への伝播に大きな役割を果してきており、その殆どが王侯支配階層の出自と称している。大別して中国系と朝鮮系に分けられるが、姓氏録では中国系を一括して『漢』と表示し、朝鮮系を『百済』、『高麗』、『新羅』、『任邦』の四分類で表示する。(中略)
中国系渡来氏族では秦系と漢系が二大分流として存し、前者は山城国葛野郡、後者は大和国高市郡桧前ひのくまを中心に繁衍したが、魏系がこれに次いでおり、(中略)以上の中国系氏族は淵源が遙遠であるため、数世代の欠落が想定されるものもあるが、これをもって中国を淵源とする伝承を後世の造作と決めつけることもなかろう。」(『古代氏族系譜集成』)
「前後四百年にわたり二度前漢(西漢)〔 202B.C.~8A.D.〕、後漢(東漢)〔5~ 220〕という大王朝を築いた劉氏の一族は、本朝にも渡来し大陸文化の伝播等に大きな役割を果たした。この漢系氏族の中でも、応神天皇廿年〔4世紀末〕に党類十七県人民、七姓漢人等を率いて来朝した阿知使主あちのおみ劉照とその一族の後裔が大きな勢力をもった。この一族は〔朝鮮半島〕帯方郡漢人の支配者階級より出自し、大和国高市郡桧前村に居住し、継体朝〔五世紀後半〕頃から三腹に分かれて多くの氏族を出したが、これらは東漢直やまとのあやのあたいないしは桧前忌寸ひのくまのいみきと総称される。」(『古代氏族系譜集成』)
東漢直
「東漢直は蘇我本宗家滅亡までは軍事をもって蘇我氏に臣従したが、〔 645年〕大化改新以後もかなりの勢力を保持し、その中から正三位大納言まで昇叙した坂上大宿祢さかのうえのおおすくね 田村麻呂が出て、 坂上氏が本宗家的な地位をしめた。」(『古代氏族系譜集成』)
「東漢直の一族は大和の桧前を中心に多くの姓氏を分岐した。その族は居住地を中心にしたものが多く、姓かばねははじめ直あたい、天武十[ 682]年に連むらじとなり、同十四[686]年には忌寸いみき(一時期、伊美吉とも表記する。)と変わっていく。更に延暦四[785]年には十姓十六人が宿祢すくね姓となるが、一方でこうした姓の変更がなされない氏もある。苅田麻呂かつたまろ、田村麻呂の二代の業績により東漢一族の宗族的地位にいた坂上氏は大宿祢の姓を賜ったにとどまるが、一族の中には山口、大蔵など朝臣あそん姓を賜った氏もある。」(『古代氏族系譜集成』)
また、「漢系氏族には別の流れがある。阿知使主の来朝の直前である応神十六年〔4世紀末〕に百済を経て来朝した博士の王仁わに(又名鰐)吉師の後裔である。この氏族は前漢の高祖の裔、北蠻ばん王鸞らんの後裔と称し、河内に居住した。前者に対して西文首かわちのあやのおびとと呼ばれるが、主として文事に従事し、あまり大きな勢力とはならなかった。」(『古代氏族系譜集成』)
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「阿智使主の子孫が倭漢氏やまとのあやうじで、坂上氏はこの氏の枝族だった(中略)。」(『坂上田村麻呂伝説』)
坂上氏の分岐
「坂上氏が史料にあらわれる最初は、『日本書紀』欽明天皇三十一(五七〇)年七月の条と、敏達天皇元(五七二)年十月の条にみえる『東漢坂上直子麻呂』というのである。また、推古天皇二十八(六二〇)年十月の条にも『倭漢坂上直』とある。このことから、>六世紀の半ばごろに、坂上氏は倭漢氏から分かれたのではないかとみられる。
歴史上に活躍する最初の人物は坂上老おゆであるが、彼については、『続日本紀』文武天皇(六九九)年六月八日の条に、
『汝は壬辰の[672]年の軍役に身命の危険をかえりみず、大海人皇子〔天武天皇〕方について大いに働いた。いま死の旅路を慰めるべく、直広壱じきこういちの位を贈る。』とある。(中略)このことが、壬辰の乱後天武天皇が政治の中心となるのであるから、この氏の以後の勢力確立に大きく関係していると思われる。
しかし、(中略)坂上氏のような渡来人系で、しかもその傍系の家が、たとえ天武天皇側にあったということだけで、すぐ一族が昇進することにはならない。老の子の大国の如きは、まだ外従五位下 (外姓は卑姓の者の位)という低い位で、(中略)この氏の躍進には次の犬養の功に負うことが大であったといわざるをえない。」(『坂上田村麻呂伝説』)
犬養
「犬養いぬかいは聖武天皇に重く用いられて、天平二十(七四八)年には同族の人が今までなったことのない従四位下の位をえて、左衛士督さえじのかみに任用された。彼の昇進はまったく聖武天皇の力添えで、犬養が亡くなった天平宝字八(七六四)年の十二月二十三日の『続日本紀』の記事では、『わかくして武力をもって称せられる。聖武天皇これを寵すること厚し。』といっていることからもうかがわれる。
それでも、犬養が正四位上の位になったのは、彼が五十七歳の高齢になってである。ついで〔756年〕聖武天皇が亡くなると、彼は泣いてその陵に奉仕することをねがう。(中略)彼は翌年造東大寺長官を兼ねて、食封じきふ百戸を賜っている。そののち、播磨守となり、ついで大和守となったのは天平宝字八(七六四)年で、彼が八十三歳になってであった。」(『坂上田村麻呂伝説』)
苅田麻呂
「犬養の子が苅田麻呂であるが、彼が歴史に姿をあらわしてくるのは天平宝字元(七五七)のことである。この年の五月に、藤原仲麻呂が権勢をふるったため不遇になった橘奈良麻呂が反乱を起こすが、その直前に、奈良麻呂の一味であった賀茂角足かものつのたりが、(中略)坂上苅田麻呂・(中略)牡鹿嶋足おじかのしまたりらを額田部ぬかたべ宅において酒を飲ませている。奈良麻呂が兵をあげたときに、この人たちが鎮定にむかわないようにと、前もっておさえておこうとしたのである。(中略)
同八(七六四)年藤原仲麻呂の反乱にあたって、仲麻呂が中宮院(淳仁天皇の居所であった)の鈴印すずのしるし(駅鈴)と内印(天皇の印)とを奪うために、その子訓儒麻呂くずまろを遣わして、孝謙上皇の使者山村王をおそわせた。上皇はこれに対して、授刀たちはき少尉坂上苅田麻呂・同将曹牡鹿嶋足らを派遣してこれに対抗させた。そのため訓儒麻呂はあえなく射殺されてしまった。(中略)
宝亀元(七七〇)年皇位を奪わんとした僧道鏡が追放されるが、(中略)苅田麻呂はこの追放に一役かったらしく、その功で正四位下の位を与えられている。この年九月には陸奥国の鎮守府将軍に任命された。(中略)
〔七八二〕年、天智天皇の子孫の系統である恒武天皇の即位に反対していた氷上川継ひかみのかわつぐの反乱事件に関係して現職をとかれたが、すぐその罪は解除されて、もとの職に復帰している。
恒武天皇は平城京の都を移そうという計画があったので、延暦三(七八四)年彼〔苅田麻呂〕は山背国乙訓おとくに郡長岡村(京都府向日市)に都すべき土地視察のため派遣されているが、翌四[785]年二月従三位じゅさんみの位に進んで、六月には改姓を願い出て、大忌寸おおいみきから大宿祢おおすくねの姓となった。
翌五[786]年正月に苅田麻呂は五十九歳で亡くなるが、その際の『続日本紀』の記事には、
『家は世々弓馬を事とし、馳射ちしゃをよくす。 宮掖きゅうえき〔朝廷〕に宿衛して、数朝に歴事す。天皇の寵遇優厚にして、別に封五十戸を賜う。』とある。(中略)
苅田麻呂の子(中略)又子(全子)は恒武天皇の後宮夫人で、高津内親王の母で、延暦九[790]年に亡くなっている。
登子とうこは藤原北家の出身の権力者藤原内麻呂の側室となっている。」(『坂上田村麻呂伝説』)
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眼は蒼隼のごとく鬚ひげは金線のごとく
「田村麻呂は天平宝字二(七九八〔七五八〕)年に父苅田麻呂の子〔次男〕として生まれたが、その母については明らかではない。(中略)その出生の地は大和国添上郡田村里であったとみられる。父苅田麻呂の亡くなった[786]年には、彼は二十九歳になっていた。」(『坂上田村麻呂伝説』)
「身のたけ五尺八寸〔1m78cm〕、胸のあつさ一尺二寸〔36cm〕、身をおもくなすときは二百一斤〔約 120Kg〕、軽くなすときは六十四斤〔約38Kg〕、こころにまかせおりにしたがふ。眼は蒼隼そうしゅんのごとく、鬚ひげは金線のごとくにして膂力りょりょくあり。」(『寛政重修諸家譜』「田村家譜」)
「怒れば猛獣もたちまち倒れ、笑えば赤子もなつくという、誠に将師としての器であったということである。」(『坂上田村麻呂伝説』)」
「この時期は前の〔789年〕紀古左美きのこさみのおこなった蝦夷征討が失敗して、次の大征討への準備の時期にあたっていたのである。」(『坂上田村麻呂伝説』)
征夷副使田村麻呂の第一回征討
〔延暦〕十[ 791]年(中略)七月には大伴弟麻呂おとまろを征夷大使に、田村麻呂と百済俊哲・多治比浜成・巨勢野足こせののたりらを征夷副使に任命した。(中略)
『日本紀略』の延暦十一[792]年壬十一月二十八日の条に『征夷大使大伴乙麻呂辞見す。』とあるが、大使がこのとき陸奥に下向したかどうかは明らかではない。副使の田村麻呂は翌十二[793]年二月に下向している。十三[794]年正月に大使が節刀を賜っているので、このときから実際の征討の軍事行動は始まったといえる。(中略)今度の征討は大伴弟麻呂の征討であるが、(中略)副将軍ではあったけれども、田村麻呂が実際の征討の指揮にあたっていたものとみられる。
同[794]年十月二十八日には(中略)最終的な報告とみられるものが都についているが、それによると、『斬首四五七級、捕虜一五〇人、獲馬八五疋、焼却した村落七五か処』という戦果があったことがわかる。十万の大軍を動かした成果がこれだけであるが、失敗した前の紀古佐美らの征討に比較してみれば大勝利であったとみてよいだろう。」(『坂上田村麻呂伝説』)
征夷大将軍田村麻呂の第二回征討
「田村麻呂は(中略)〔延暦〕十五[796]年正月に陸奥出羽按察使あぜちと陸奥守を兼務し、やがて十月には鎮守府将軍にも任命された。まだ近衛少将はそのままであったが、ここにおいて、陸奥国における主要な官職はすべて田村麻呂が兼任することになったのである。そして、翌十六[797]年には征夷大将軍に任命され、蝦夷征討の実質・形式ともに中心人物ということになるが、このとき田村麻呂は四十歳になっていた。
翌十七[798]年壬正月には田村麻呂は従四位上の位に昇ったが、この年に京都に清水寺を建立して観音を安置したと伝えているのは、征討の大任をはたすための祈願を行おうとしたものであったとみられる。
さらに征討の準備が二年間なされて、いよいよ二十[801]年二月に天皇から節刀を賜って東下した。今回動員の兵力は四万であったようで、九月には『夷賊を討伐す』という報告が中央政府にもたらされ、十月には帰還して、節刀を返上している。
かくて征討は終わり、『陸奥国の蝦夷等代を歴へ 、時を渉わたりて辺境を侵乱し、百姓を殺略す。是を以って従四位上坂上田村麻呂大宿祢等を遣はして伐うち平げ掃き治めしむる。(後略)』という詔が出て、この功によって田村麻呂は従三位を授けられた。(中略)弘仁元[810]年の詔によると、遠く閉伊村(現在の岩手県北部)まで征伐したとあり、胆沢地方(岩手県水沢市)は完全に中央の支配下にはいったものとみられる。」(『坂上田村麻呂伝説』)
胆沢城・志波城の築城と阿弖利為・母礼の処刑
「翌〔延暦〕二十一[ 802]年一月には、新しく平定した地方に胆沢城を築城することになって、田村麻呂は現地に下った。(中略)胆沢城の完成の時期は明らかでないが、二十〔一〕年の年内に完成したものとみられる。
同年四月には蝦夷の有力者で、蝦夷を率いて征討軍を悩ましていた中心人物とみられる大墓公阿弖利為たものきみあてるいと盤具公母礼いわぐのきみもれとが同族五百人を率いて降ったので、田村麻呂はこの二人を連れて七月には帰京している。(中略)この二人の蝦夷は八月に河内国の杜山で処刑された。田村麻呂はこの処刑に反対して、 『此の度は願いに任せて返し入れ、其の賊類を招かん。』と主張したが、大部分の官人が、
『野性獣心、反覆定まりなし。偶々たまたま朝威に縁よりこの梟師きょうしを獲たり。縦たとへ申請に依るとも、奥地に放環せば、いうところの虎を養い患を遺す。』と主張し、田村麻呂の意に反して、彼らの処刑が行われてしまったのである。
「翌〔延暦〕二十二[803]年三月に田村麻呂は胆沢城の北にさらに志波しば城(盛岡市南部)を築城するために現地に下ることになった。」(『坂上田村麻呂伝説』)
第三回征討の中止
「田村麻呂は翌二十三[ 804]年正月に再び征夷大将軍に任命された。(中略)次の征討の目標は、胆沢地方よりさらに北方の爾散体にさたい・閉伊の土地の平定にあったのであろう。(中略)
『公卿補任ぶにん』によると、田村麻呂は(中略)〔延暦〕二十四[ 05]年六月には正式に参議に任命されている。
この度の征討は、〔延暦〕二十四[805]年十二月宮中で行われた造営と征夷とを中止するか続行するかについての当時の朝廷の実力者藤原緒嗣おつぐと菅野真道まみちとの大論争の結果、緒嗣の主張する都の造営と征夷の中止という論が勝利をしめたため、発動するにはいたらずして終わったのである。だから、晩年の田村麻呂は征夷との関係はなくなったことになる。」(『坂上田村麻呂伝説』)
藤原薬子の乱
「田村麻呂が五十歳になった大同二[ 807]年には、四月に右近衛大将、八月には侍従、十一月には兵部卿を兼任しているが、征夷大将軍はそのままであった。大同四[809]年には正三位の位に昇進した。
同〔大同〕五[810]年(中略)平城へいぜい上皇が〔藤原〕薬子くすしとともに乱を起こすと、田村麻呂は嵯峨天皇側にあったようである。(中略)この時点で田村麻呂が大納言となったことは事実であろう。
(中略)〔九月〕十一日の早朝に平城上皇は東国にむかって出発するが、田村麻呂は〔嵯峨〕天皇の命によって討伐にむかうことになり、文屋ふんやの綿麻呂を武勇にすぐれた人物であるからと天皇にすすめ、罪を受けていた綿麻呂の許しを願い、ともに討伐にむかった。田村麻呂は宇治と山崎との二つの橋を兵で固め、上皇の一行をさえぎったので、上皇はやむなく京都にかえり、薬子は自殺して、この乱は終わる。」(『坂上田村麻呂伝説』)
田村麻呂の死
「弘仁二[811]年正月に、嵯峨天皇が豊楽ぶらく院で射芸をこころみたとき、親王や群臣に命じて弓を射させた。十二歳であった天皇の弟葛井ふじい親王もこれに出席していたが、天皇がたわむれに親王にもこころみ
田村麻呂はこの[811]年に平安京郊外の粟田の別宅で病み、五月二十三日に五十四歳で亡くなっている。(中略)同日葬儀が営まれ、山城国栗栖くりす村(京都市)に葬られ、勅命によって、立ちながら甲冑兵杖を帯びて葬られた。田村麻呂が死しても、平安京を守護せしめようとする天皇の意図がうかがわれるとされている。同十七日には、同所に二町の土地を墓地として賜っている。
この墓については、(中略)『田村麻呂伝記』に、国家に非常のことが起こった時は、鼓を打つが如く、あるいは雷鳴の如く、この墓が動揺したと伝えている。また、後世に将軍となって凶徒を討つために出発する者が、この墓に祈願すれば、必ず勝つと伝えられている。(中略)
天皇は田村麻呂の死をいたんで、一日の喪に服し、二十七日には田村麻呂に従二位の位がおくられている。」(『坂上田村麻呂伝説』)」
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陸奥国田村郡人田村氏
田村麻呂以後「東漢一族は宮廷では下級官人として存続したが、地方では鎮西で原田、秋月、高橋など大蔵朝臣姓が繁衍し、紀伊、摂津、陸奥でも坂上大宿祢姓の氏族が武家として残った。
漢系氏族及びそれから発生した主な苗字をあげると次の通り。
(1)後漢霊帝裔阿知使主後裔
●兄腹(山木後裔)(中略)
●中腹(志怒しぬ後裔)坂上大宿祢、坂上直、坂上連、坂上忌寸、坂上大忌寸、(中略)坂上大宿祢については京官人、紀伊、陸奥、摂津等でその後裔が存続した。(中略)田村──陸奥国田村郡人、武家華族。〔大越、〕田母神、常磐、船引、小沼、大倉──田村同族。」
●弟腹(爾波岐後裔)」(『古代氏族系譜集成』)
坂上広野/広野系田村氏
「奥州の田村氏は、〔既述のごとく、田村麻呂の子〕浄野から出ているという伝承もあるが、〔浄野の兄〕広野系とするのが妥当である。(中略)
極めて大胆な推測をすると、『浄野』は奥州坂上党の祖とされる『滋野しげの』の誤伝である可能性もあり、この坂上党(?)の系図に系図伝承を失った田村氏が、「顕」の字を多用して輝定〔輝定〕まで作成したのかもしれない。」(『古代氏族系譜集成』)
「広野(中略)は弘仁元(八一〇)年に従五位下になり、近江使に任命されている。これは、前述の平城上皇が平城遷都を企て、人心が動揺したので、伊勢・近江・美濃三国の国府とそれぞれの国にある関とをかためることになって、彼が近江国に派遣されたのである。そののち左兵衛左・右衛門左・右近衛少将などの軍職を経て、一時陸奥介に任ぜられ、再び中央に帰って右兵衛督となり、天長五(八二八)年に亡くなっている。彼の陸奥在任は、弘仁〔 810~23〕の末年ごろと思われる。
彼は『少わかくして武勇を以って聞え、他の才能なし、節操よみすべし、酒を飲みて度を過ごし』という性格で、酒の飲み過ぎで病気になり、四十二歳の若さで亡くなったと『類聚国史』に記されている。」(『坂上田村麻呂伝説』)
荘司田村氏
時代はくだって、「健長6年(1254)に著された『古今著文集』巻20の『馬充某陸奥国赤沼の鴛鴦おしどりを射て後出家の事』によれば〔、〕『みちのく田村の郷』は『刑部大輔仲能朝臣が領』であったという。刑部大輔仲能とは藤原秀郷7代の孫(尊卑分脈)で、関東評定衆田村伊賀守仲能のことである。(中略)
田村荘の支配は荘司田村氏があたっていたが、その本拠や出自はわからず、元弘3年(1333)の『相馬文書』には、田村荘司宗猷の女子が七草木の地頭職を保持し、また藤原姓であったことが記されている。荘司田村氏が藤原姓であることは、〔前述の〕藤原秀郷流の田村伊賀守仲能とのつながりを示唆する。また、七草木村は大字七草木で、当〔三春〕町域の地名の初見である。
延元3年(1338)南朝方の北畠親房の発給文書には『御春みはる輩』が見え(結城文書)、これは三春を指しており、三春の初見と考えられる。『御春輩』は三春を拠点とした豪族であろうが、荘司田村氏との関係は明かでない。
観応3年(1352)守永〔護良〕親王を奉じ荘司田村氏の援護を受けた国司〔北畠〕顕信は宇津峰城により北朝方と死闘を繰り返したが〔、〕翌[1353]年五月に落城した。観応3[1352]年北朝方の将国魂くにたま新兵衛尉は斎藤村の地頭職を安堵された(国魂文書)。
〔1353年〕宇津峰落城後の荘司田村氏は没落の途をたどり、応永年間 (1394~1428) 以後になると、田村荘の支配は平姓田村氏(三春田村氏)の手に移る。」(『角川日本地名大辞典』)
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坂上姓田村氏と平姓田村氏
「一般の田村氏の系図は輝定〔輝顕〕以降はほぼ信頼できるようになっており、広野系、浄野系とも輝定〔輝顕〕のところで合致する。ただし、嫡宗家の則義、清包については記さないため、〔つぎのように、〕田村氏が平姓であるとする説など『姓氏大辞典』に記されるような異説がでてきている。」(『古代氏族系譜集成』)
すなわち、「ここに三春田村氏とよぶのは、南北朝時代まで田村地方を支配していた田村庄司家に対して、戦国時代の田村地方に君臨し、永正年間(一五〇四~二一)以後三春を本拠とした田村氏をさしている。『寛政重修諸家譜』によれば、田村氏の祖は坂上田村麻呂となっているが、これが誤りでありかつ田村氏が平姓であったことは、永禄二年(一五五九)の守山(郡山市田村町)大元明王だいげんみょうおうの般若経奥書に田村義顕が『平義顕』と記し(『会津旧事雑考』)、その子隆顕が天文十[1541]年四月の起請文に『平隆顕』と署名し、隆顕の子清顕もまた欠年正月四日の書状(伊達家文書)に『平清顕』と記していることから明らかである。」(『福島県史』)
このように、三春田村氏の出自については、「坂上姓田村氏」説と「平姓田村氏」説に分かれて主張されており、今日ではやゝ後者の方が優勢のようである。しかし、なによりも、当の田村一族自身が自らを坂上田村麻呂の後裔と固く信じて疑わないという状況もあり、真偽のほどはわからないというのが実情である。
大越氏の分岐
大越氏の章で述べたように、田村輝定(輝顕)の孫満顕は、嫡男重顕〔持顕〕に家督を譲り隠居後、庶子右近太夫常光と共に大越城に移り住んだ。常光はそのまま父の隠居領遺跡を相続して「大越氏」を称し、その祖となった。
「田村庄司重顯〔持顕〕舎弟右近太夫常光(大越氏祖)父刑部太夫滿顯〔輝顕の孫〕田村家ヲ嫡子重顯〔持顕〕于ニ譲而テ大越ノ塁ニ於テ移居ス、乗真齋ト号ス、常光父隠居領遺跡ヲ相継ス、故ニ大越氏ヲ称ス、
常光六世之孫
大越右京 山城守
○常光」(『衆臣家譜 巻十』)
直顕
「根本史料によって確認できる田村氏の世代の上限は、〔輝定(輝顕)の玄孫〕直顕であり、享徳三年(一四五四)八月の田村直顕証状が、その最初である。それは田村地方の熊野参詣先達職を兵部御卿房に安堵したものである。兵部卿がどのような人物であるかは明らかではない。田村庄司の系譜をひく人物であることは否定できない。(中略)この熊野参詣先達職を田村直顕が認定したことは、平姓田村氏が田村地方の領主権を獲得していることを示すものである。三春田村氏(平姓)はその確実な初見史料において、田村の領主として現れているのである。(中略)
長禄四年(一四六〇)将軍足利義政は奥州の国人たちに〔古河公方〕足利成氏誅罰の御教書みぎょうしょを下したが、田村氏に対しては、田村次郎、田村一族中あてにそれぞれ御教書が出されている。田村次郎は直顕であろう。」(『福島県史』)
「直顕は白河の結城直朝・政朝らの旗下となっていたようで、おそらくは直朝の一字を拝領したものと思われる。」(誉田宏・鈴木敬『郷土史事典福島県』昌平社
「これよりさき宝徳三年(一四五一)結城白川直朝は岩城・岩崎の紛争に介入したが、田村直顕は直朝の指示を受けて、いわき地方の警固にあたっている。諸郡検断職の系譜をひく白川氏の権能が、このころにもなお田村氏に対して効力をもったのであろう。『仙台白河系図』によれば、直顕の娘は、直朝の孫顕頼に嫁している。年代的にやや無理の感もあるが、両氏の深い関係をうかがうにたりよう。(中略)直顕は文明六[1474]年六月死去した」(『福島県史』)。
盛顕
「直顕の跡をついだ盛顕は、父の死後十数年の長享元年(一四八七)に死去したとされ、治世は長くない。『奈須記』が、岩城〔下総守〕常隆は田村方に勢力をのばし、小野城主小野左衛門、栗出城主栗出久太郎を降伏させ鹿股かんまた・大越両城を攻め落としたと述べているのは、この盛顕の世であろう。」(『福島県史』)
大越氏が田村氏から分岐し、「田村之領大越村を領し上大越の城に居り、因って大越を以て氏と」して、田村宗家の「籏下に属」(「大越家系勤功巻」)することになったのである。
義顕
「盛顕の跡をうけた義顕は、よく長寿を保ち、田村氏発展の基礎をきずいた。かれは永正子ね年に三春に居城を移したと伝えられる。したがって永正元年(一五〇四)または同十三年(一五一六)がこれにあたる。三春築城以前の田村氏の居城は、かつての田村庄司家の本拠守山であるとの説もあるが、確証はない(『仙道田村荘史』)。また義顕は二男憲顕〔右衛門清康の父〕を舟引、三男顕基〔梅雪斎〕を小野に、それぞれ封じて領内をかためた。」(『福島県史』)。
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文武兼備謀略大将
「天文〔1532~54〕初年のころに義顕は隠居して卜西と号し、嫡子隆顕に家督をゆずったらしい。(中略)『奥相茶話記』は、『隆顕、文武兼備謀略大将にて、威勢近隣に振ひ、白河領四十二郷の半分をば田村へ取り、残廿一郷領分にて、白河も田村の旗下なり。石川六十六郷も同旗下なり。』と述べている。
天文二[1533]年二月、隆顕は白川晴綱と和睦し血盟を行った(『仙台白河系図』)。かつての田村・白河の関係は逆転したのである。」(『福島県史』)
「隆顕は、遠交近攻策により援を伊達稙宗にもとめ、〔1541年〕稙宗の女を正室にむかえ、伊達氏に従属するかたちをとった。田村氏が、つねに攻略地としてねらっていたのは安積伊東領・〔岩瀬(須賀川)〕二階堂領であり、とくに〔安積〕伊東氏は弱小大名のため、会津の蘆名盛氏などからもねらわれていた。隆顕・〔蘆名〕盛氏・二階堂照行などは、その正室がみな伊達稙宗の女で義兄弟であった。」(『郷土史事典福島県』)
工藤氏・安積伊東氏のこと
ところで、ここに登場した「安積伊東氏は、伊豆国(静岡県)伊豆半島東海岸の伊東荘を本貫としていた工藤一族の庶流である。伊東氏の遠祖は藤原鎌足の孫武智麻呂(南家)の四男乙麻呂で、八代の孫為憲を祖とするという。為憲は、伊東〔伊藤〕、二階堂、工藤、狩野氏などの祖となった。」(『郷土史事典福島県』)
「工藤は為憲の木工助の工と藤原氏の一字を合わせて為憲を工藤大夫とよび、また伊藤は伊豆国の藤原氏であることより、それぞれ生じた苗字である。」(『福島県史』)
くだって、「工藤佑経は文治五年(一一八九)源頼朝の平泉藤原氏攻めに戦功をあげ、安積郡を所領として恩給されたと考えられている。これにより、子息佑長が父の死後遺領の安積郡をうけつぎ、安積伊東氏の祖となった。
佑経は、(中略)建久四年(一一九三)五月、同族の曽我兄弟に富士の裾野で討たれるまで、伊東荘のほか二五ヵ国に所領を有した。
佑長が支配した地は交通路を支配できる郡山地域で〔あったが〕、(中略)しかし伊東氏は、伊達氏や蘆名氏などのように郡内の一族を統制支配する中心者を得ず、ついに戦国大名とはなれなかった。」(『郷土史事典福島県』)
工藤氏の祖藤原工藤大夫為憲は、「木瓜」を家紋としている。私の妻信子は新潟市工藤家の出身で、同家もまた「五つ木瓜」を家紋としている。越後と今日の福島県地方との古来の関係から推して、工藤氏および安積伊東氏との関係がしのばれるが、詳細は不明である。
天文の乱と「常葉光貞・大越顕光連署起請文」
さて、隆顕と伊達稙宗の女の婚姻の「翌天文十一[1542]年、天文の乱がおきると、隆顕は岳父稙宗に荷担し(中略)た。この年四月、隆顕は安積郡を攻めて伊東・蘆名の衆を討(中略)った。」(『福島県史』)
既述のとおり、大越顕光の祖父山城守常光が、翌「天文十二(1543)年癸卯四月田村安藝守隆顯与伊東但馬守佑継接戦之時於安積郡戦死」(『衆臣家譜 巻十』)した。
翌「天文十三年(一五四四)七月、〔既述のごとく、〕田村家中の常葉光貞と大越顕光は、石川稙光〔・晴光〕父子と隆顕父子との和解に努力することを誓約した。常葉光貞は、(中略)大越とともに、(中略)石川稙光父子と通じ、隆顕を攻めたが、またこれに敗れて、この誓約に至ったものであろう。しかし、翌十四[1545]年一月の岩城重隆書状は、常葉・大越両氏が、ひそかに晴宗・重隆に気脈を通じていることを述べている。(中略)
〔天文〕十六[1547]年二月には、〔二本松〕畠山義氏・〔四本松(塩松)〕石橋尚義とともに安積郡を攻め(中略)た。これに対して、すでに晴宗方に転じた蘆名盛氏は、田村・二階堂を牽制すべく、六月岩城重隆とともに安積郡に出馬している、十二月には岩城の兵が田村領の小野新町を攻めた。(『世次考』)
晴宗党の優勢は、たちまち田村家中にも影響を与えた。天文十七[1548]年正月には、常葉・鹿股・御代田みよたなど、麾下の有力な士が隆顕にそむいて晴宗方に転じた。」(『福島県史』)
蘆名・佐竹氏の脅威
「天文十七[1548]年(中略)九月、伊達稙宗・晴宗父子の和解によって、伊達天文の乱は終幕したが、諸国人・大名間の抗争は直ちにはおさまらず、(中略)県中・県南地方においては、天文二十[1551]年に至って、ようやくおさまった。それはまた、蘆名氏がこの地域に支配的な地位を確定する画期であり、弘治元年(一五五一[1555])一族小峯義親に〔蘆名〕盛氏の息女を入嫁させた白川氏をはじめ、岩瀬〔須賀川〕二階堂・安積伊東など仙道(中通り)の諸氏は、いずれも蘆名盛氏の威勢に服するという状態が現出した。そのなかで、ひとり田村隆顕は天文二十[1551]年の講和では大きく盛氏にゆずりながらも、その後よく蘆名氏に対抗し、伊達輝宗との友好を背後にして、盛氏を牽制するのである。(中略)
すでにそのころ、常陸の佐竹義昭は、石川氏を従え仙道に進出の形勢にあった。これに対して隆顕は、まず永禄八[1565]年二月石川晴光と戦った(中略)が、田村軍は敗退した。盛氏との和解後、伊達輝宗は岩瀬から手を引いたため、隆顕は盛氏と連合して佐竹・石川にあたろうとし、永禄十一[1568]年盛氏と共に石川領を攻めた。このような状況のなかで、同[1568]年大内備前〔定綱〕は石橋尚義にそむいて隆顕に内通した。この塩松の大乱によって田村氏の塩松支配が実現したのである。(中略)
隆顕の死去はくだって天正二年(一五七四)のことであるが、おそらく元亀[1570~03]のころにはすでに家督を子息清顕にゆずったものとみられる。」(『福島県史』)。
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四面楚歌
既述のごとく、「元亀二年(一五七一)七月、佐竹義重(義昭の子)は石川一族の中畠氏(西白河郡矢吹町)を攻めたが、田村清顕は蘆名盛氏・盛興父子とともにこれを迎撃し、八月には佐竹氏の仙道攻めの拠点寺山城(東白川郡棚倉町)を攻めて、佐竹勢二〇〇〇のうち五〇〇人を討ち取った。(中略)清顕が福原大蔵大輔にあてて、義重の大寺曲木まがき(石川郡石川町)方面への来襲を予告して備えを指示した欠年三月十五日の書状も、またこのころのものとみられる。(中略)
天正元年(一五七三)八月、白川氏は佐竹義重と和解した。これに伴って、二階堂・石川両氏は当然蘆名・佐竹の連盟に参加した。(中略)この月、伊達輝宗(当時晴宗と対立し、清顕とも対立)は蘆名盛氏の要請によって、佐竹・蘆名・田村の和解を計るべく、三家に使者を出したが、成功しなかった。
天正二年(一五七四)九月六日、清顕の父隆顕は死去した。その前日、蘆名盛氏とその女婿白川義親は、対面して佐竹義重を撃つことを盟約し、七日赤館(棚倉町)に来襲した義重を迎撃したが、閏十一月初めには再び盛氏・義親・義重の和解連盟が成立した。こうして、隆顕死去匆々そうそうにして、清顕は四面楚歌のなかに立たされたのである。」(『福島県史』)
伊達・田村同盟
「蘆名盛隆(盛氏の養子)は実父二階堂盛義と提携して、天正五[1577]年夏安積郡に兵を出し、また岩城常隆は南から田村領小野を攻めたが、ともに清顕のために敗退した。しかも、八月清顕は(中略)石川昭光と対陣したが、蘆名軍の来襲の風聞によって陣を引いている。
この年九月、蘆名氏と講和した清顕は、伊具郡をめぐる伊達・相馬両家の調停を企図している。蘆名氏と和解したにせよ、所詮それは永続する可能性はない。外交関係の孤立から脱却するためには、母の実家である伊達、妻の実家である相馬、この両家と友好を締結することである。(中略)清顕の政略はそののちも変わることがなかったのである。
天正六年(一五七八)五月の二階堂盛義と石川昭光との合戦に、清顕は盛義と結んで昭光を討った。昭光は調停を白川小峯義親に依頼し、義親はこれを蘆名盛隆に要請した。盛隆の斡旋によって清顕は不満ながら和議をのんだ。
天正七[1579]年冬、清顕は息女愛姫めごひめを米沢城主伊達輝宗の嫡子政宗のもとに入嫁させた。伊達氏との盟約関係はここに安定したのである。(中略)
天正十一[1583]年二月、清顕は相馬に出張して伊達・相馬両家の抗争を調停した。その春、二本松城主畠山義継は〔四本松(塩松)〕大内定綱と共に、清顕麾下の石川弾正(安達郡百目木どうめぎ城主)を攻め、岩城常隆はこれを後援した。翌十二[1584]年、清顕は塩松に再度出張して定綱を攻めいったんは勝利したが(秋田藩採集大越文書)、のち定綱の軍は田村勢を圧倒し、清顕の弟氏顕は小浜の町人喜万きまん新右衛門に討ちとられた。常隆は五月のころ小野に進入し、麾下の小河越前守に田原谷(田村郡)の地を約束して戦功を励まし、また九月にも赤沼に来襲した。」(『福島県史』)
塩松大内氏の敗走
「このような状況のなかで、清顕の最大の頼みである伊達家では、〔天正〕十二[1584]年十月、清顕の女婿政宗が父輝宗にかわって伊達の家督を相続した。」(『福島県史』)
「当時相馬義胤との間は、この年五月に長いこと続いた抗争をやめて、ようやく講和が成立していた。この調停にあたったのは、田村清顕・白川義親・佐竹義重・岩城常隆であった。(中略)
天正十三年(一五八五)五月、伊達と蘆名の戦端は耶麻郡檜原に開かれた。天正の初年以来両家は友好関係を続けてきた。いまその友好を破るきっかけとなったのは、塩松城主大内定綱の去就であった。定綱は(中略)田村清顕を敗退させ、塩松は蘆名・佐竹の勢力範囲となっていた。この塩松が伊達の勢力範囲に入れば、伊達領と田村領はこれによって完全に接続し、蘆名・佐竹など連合勢力にくさびを打ちこむ形が整えられることになる。(中略)いったんは伊達氏に従いはしたが、田村氏との緊張と蘆名氏の牽制によって、定綱は再び連合勢力に復帰したのである。
政宗が伊達家の主となった天正十二[1584]年十月、蘆名盛隆は黒川城の書院で寵臣大場三左衛門のために殺された。南奥州に対峙する両家の将来は、天正十二年十月に、あざやかな明暗をもって予告されたのである。政宗の檜原攻めの動機は、貞綱の去就もさることながら、なによりもこのような蘆名家の危機をのがさずにとらえようとするところにあったといえよう。盛隆の跡をついだのは、盛隆死去の前月に生まれたばかりの亀若丸(亀王丸)であった。(中略)
策戦は、大内定綱の塩松を攻略することに決まった。(中略)田村清顕もまた出馬して政宗をたすけ、岩城・蘆名・二本松・畠山の諸氏は定綱に援兵を送った。(中略)九月末、定綱は塩松城(小浜城)をすて、二本松を経由して会津蘆名氏のもとに走った。塩松〔四本松〕(東安達)地方はこうして、政宗の手に入った。」(『福島県史』)
仙道高倉・人取橋の戦い
「攻撃の鉾先は、二本松〔畠山氏〕にむけられる。」(『福島県史』)
1585年10月8日、「畠山義継は(中略)伊達への服属を覚悟し、政宗との間を取りもった輝宗への礼として宮森城(岩代町)に参上したが、礼を終わったのち輝宗を拉致して二本松に向かい、阿武隈川東岸に近い粟巣(二本松市高田)で、政宗方の銃撃によって輝宗とともに殺害された。」(『三春町史』)
「輝宗の初七日がすんだ十月十五日、政宗は義継の子国王丸〔義綱〕のこもる二本松城を攻めたが、城は容易にぬけなかった。(中略)
十一月には安達郡人取橋(本宮町)付近で、蘆名・佐竹・岩城・白川・石川の連合軍と伊達軍との合戦が展開される。(中略)政宗は二七~八〇〇〇の軍勢で(中略)、十七日本宮城外の観音堂山に陣をとり、北上する連合軍を迎えた。合戦は双方おのおの約五〇〇〇人の軍勢で行われ、高倉城(郡山市日和田町)と人取橋が激戦の場となった。高倉城では伊達成実が連合軍を迎撃した(中略)。優勢であった連合軍はついに本宮城を抜くことなしに撤退した。(中略)
小浜城(塩松城)に越年して天正十四[1586]年(中略)四月の二本松城攻撃ののち、七月初め、相馬義胤の調停によって、政宗は攻撃をやめた。降伏の条件に従って、十六日畠山国王丸は本城に火を放って会津に走った。かつて、管領として奥州に君臨した畠山氏は、ここに滅亡したのである。」(『福島県史』)
清顕の死
「天正十四年(一五八六)十一月、会津蘆名氏は再び悲運と混乱にみまわれた。当主亀王丸が痘(ほうそう)をわずらって、わずか三歳で急死したのである。蘆名家の男系はまたしても絶えた。(中略)一族重臣の談合では、(中略)伊達家から政宗の弟(小次郎)を入れること、(中略)佐竹義重の二男白川義弘を迎えることをそれぞれ主張し、結局は後者の道がえらばれた。天正十五[1587]年三月三日上巳じょうし〔桃の節句〕の日に、白川義弘は白河から会津黒川城に入った。義弘は盛隆の息女(『蘆名家記』は盛興の娘とする)と結婚し、蘆名家督となり、蘆名・白川・佐竹の連合は破固不抜のものとなるのである。
他方、おなじころ三春の田村家では、当主清顕が急逝した。天正十四[1586]年十月九日のことである。清顕の母伊達氏(晴宗の娘)は、この死を、清顕の妻相馬氏(義胤の叔母)が相馬氏と計って殺したものである、と政宗に報告している。真偽は確かではないが、いずれにせよ疑問の余地を残す死にかたであったとみられる。」(『福島県史』)
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「清顕死去の直前までは、伊達と相馬は友好関係を保っていた。相馬の敵は南境の岩城氏であり、伊達の敵対勢力は佐竹・蘆名・二階堂・白川・岩城の連合勢力であった。そして、その媒介をなしたのは両家と姻戚関係にある田村清顕であった。しかし、清顕の死によって、田村家が伊達・相馬両家と結ぶ姻戚関係は逆に、田村支配をめぐる伊達と相馬の緊張関係へと逆転したのである。」(『三春町史』)
伊達派・相馬派の内紛
「天正14[1586]年清顕は嗣子のないまゝ急死し、家臣たちは後継問題をめぐり、清顕の娘婿伊達政宗に頼ろうとする伊達派と、清顕の室の実家相馬氏を頼ろうとする相馬派とに分裂した。
天正16[1588]年〔4月8日〕相馬派の石川弾正が挙兵し、〔翌閏5月12日〕相馬義胤は三春城の乗っ取りを策したが、伊達派の橋本刑部〔顕徳〕の機転により失敗し、これを機に伊達政宗は弾正を攻め、さらに相馬派の大越顕光を攻め」(『角川日本地名大辞典』)た。「大越顕光は小野城の田村梅雪斎親子〔顕基・清通〕とともに相馬方にくみした。天正16[1588]年〔6月上旬〕顕光は相馬勢を大越城に入れ、早稲川館を衝いて常葉城を攻めようとする相馬義胤を援護した(奥相茶話記)。これに対し、伊達政宗は6月伊達成実を派して大越を討ち(政宗記)、8月〔3日〕には〔清顕の甥〕田村宗顕を清顕の後継者と定め」(『角川日本地名大辞典』)「、清顕の室〔相馬氏〕を船引城に隠退させた(伊達治家記録・奥陽仙道表鑑)。こうして伊達政宗は、田村全域の事実上の支配者となった。」(『角川日本地名大辞典』)
相馬派岩城に走る
八月十五日、「大越紀伊在所を引き退くと云々。」(『伊達治家記録』)
同「八月末のころ」(『いわき市史』)、「梅雪斎〔顕基・清通〕父子・右衛門大夫〔清康〕・大越紀伊守〔顕光〕等は、始めは相馬を頼みけるが、如何思案しけん、相馬をば捨てゝ岩城へおもむき常隆を頼みければ、常隆別して入魂あり、抱え置きける。」(『奥陽仙道表鑑』)
「10月には徳川家康の仲立ちで伊達・最上・佐竹・蘆名・岩城・相馬諸氏の和議が成立した(伊達家文書)が、天正17[1589]年〔4月15日〕岩城常隆は和議を破り小野へ出兵した。大越紀伊守はこの事態に対して常隆とも手を組んだが、伊達政宗が田村守備の援軍を派遣すると再び政宗に通じようとした。しかし、〔同4月末〕常隆の家臣北郷刑部に捕らえられて岩城に送られ処刑された(仙道表鑑・奥相茶話記)。
その後、〔6月5日〕蘆名氏を滅ぼした政宗は伊達成実・白石宗実を三春に遣わし、岩城・佐竹勢を討ち田村庄および小野郷を完全に掌握した。同年11月大越氏の領地は田村〔宮内少輔〕顕康に宛行れた(伊達文書)。」(『角川日本地名大辞典』)
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田村氏の改易と一関田村氏三万石
「同〔天正〕十八[1590]年豊臣秀吉小田原征伐の後、遅参の故を以て三春城を没収す、」(『仙台人名大辞書』)
同「天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置にも、田村郡は伊達領と認められたが、翌[1591]年田村郡は、会津蒲生氏に宛行われた。」(『角川日本地名大辞典』)
「〔田村〕宗顕以て政宗公に扶持されしが、十七歳にて夭死せしかば、不幸田村氏の血統は絶えたり、」(『仙台人名大辞書』)
「承應二[1653]年〔伊達〕忠宗公、〔三男〕宗良公を以て其家を繼がしむ、〔母〕陽徳夫人〔愛姫〕の請によりしなり、栗原郡三迫岩ヶ崎館を賜ひ、七千三〔百〕石を領す、
萬治三[1660]年八月二十五日将軍の命により、〔政宗十三子伊達兵部〕宗勝君と共に國事を摂す、名取郡岩沼三萬石を賜ふ、十二月二十五日従五位下右京亮に任ぜられ、(中略)延寳六[1678]年三月二十六日卒す、年四十二、」(『仙台人名大辞書』)(中略)
「〔宗良の〕子建顯」(『仙台人名大辞書』)「延寳五[1677]年六月家を継ぎて一關城主となり、三萬石を領す、(中略)
元禄十四[1701]年三月十四日赤穂城主浅野内匠守長秬罪ありて建顕の邸に預けられ、即日死を賜ふ。」(『仙台人名大辞典』)
田村家臣団の分散
「その他、『伊達世臣家譜』には、今泉(召出、六百石)・鹿股(平士、六百六十石)・田村(平士、五百石)・橋本(平士、三百三十石)・大槻(平士、三百五十石)・蘆沢(平士、三百三十石)・斎藤(平士、三百八石)・小沢(平士、三百石)・田母神(平士、三百石)・大越(平士、二百五十石)・新田(平士、二百石)・河田(平士、二百二十石・御代田(平士、二百石)のほか約二十余りの百石以上の田村旧臣が掲載されているが、(中略)それらは戦国期田村家中の一部にすぎないとみられる。いずれにせよ、戦国期田村家臣団は、田村氏の改易と伊達氏の三春城接収によって、田村領を退去させられ、他家に仕えあるいは農民となるという途をたどったのである。」(『三春町史』)
それからの三春
「蒲生氏郷・秀行が天正19年(1591)から慶長3年(1588)まで、上杉景勝が慶長3年から同6年(1601)まで、蒲生秀行・忠郷が慶長6年から寛永4年(1627)までそれぞれ支配し、寛永4[1627]年蒲生氏が断絶するとその跡に、加藤嘉明が40万石で会津に入封した。 同[1627]年嘉明の次男加藤明利が三春三万石を宛行われ、ここに初めて三春藩が成立した。翌5年(1628)明利は二本松に転封され、代わって二本松から加藤嘉明の女婿松下長綱が入封した。
寛永20年(1643)松下は改易になり、三春藩は幕府領となったが、正保2年(1645)8月には秋田俊季が5万 5,000石で常陸宍戸より入封し、再びここに三春藩が成立した。慶安2年(1649)俊季のあとを継いだ盛季は弟季久に 5,000石を与え、ここに秋田本家支配の五万石領と分家支配の五千石領が成立した。(中略)こうして秋田家の支配は幕末まで続いた。」(『角川日本地名大辞典』)
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大越氏の宗家田村氏は、1586年の清顕の死後伊達氏の属臣となったが、1590年豊臣秀吉によって小田原不参のかどで改易となり、さらに清顕の甥・養嗣子宗顕の死によって断絶した。のち1653年伊達忠宗の三男宗良によって岩沼に三万石で再興され、その子建顕の代に伊達分家「一関田村氏三万石」となった。
澤田氏の宗家石川氏もまた、田村氏同様小田原不参の結果、1590年秀吉の奥州仕置によって改易となった。石川昭光は1591年伊達氏に臣属して志田郡松山六千石に封ぜられ、さらに1598年伊具郡角田に一万石で移封された。その子孫は一門首席「角田石川氏二万一千三百石余」となった。
澤田氏の主家猪狩氏は、1596年の「佐竹竿」の結果岩城氏を去って伊達氏に臣従した。1603年猪狩下野守親之は仙台藩領に入り、黒川郡北目大崎・胆沢郡新里両村にて四百石を給され、その子孫は「仙台猪狩氏五百石」となった。
この結果、澤田氏もまた主家猪狩氏に従って仙台領に来り、伊達氏陪臣「原黒川澤田氏」となった。
猪狩氏の主君岩城氏は、1600年関ヶ原の戦いに佐竹氏とともに徳川家康に敵対し、1602年改易となった。岩城常隆の遺児政隆は1607年一千石で伊達氏に臣従し、1610年一門伊達氏となった。その子国隆には嗣子がなかったが、1654年伊達忠宗の子宗規を娘に配して、1659年岩谷堂に四千二百余石で封ぜられた。その子孫は一門六席「岩谷堂伊達(岩城)氏五千石」となった。
岩城氏の麾下に属していた大越氏もまた、1602年岩城氏の改易とともに流浪の身となった。甲斐守の弟大越源兵衛は伊達〔信夫〕郡鞠子村〔福島市丸子〕に住んでいたが、1606年その次男茂世が伊達氏に仕えて、1606~15年の間に黒川郡北目(大崎)村に領地を与えられ、その子孫は着座「仙台大越氏五百石」となった。
こうして、1586年の田村氏をかわきりに、1591年石川氏、1596年猪狩・澤田氏、1606年大越氏、1607年(岩谷堂)岩城(伊達)氏と、中世澤田氏の運命を左右した南奥の諸氏は、1586~1607年の間にすべて伊達氏の軍門に下ったのである。
しかし、戦国の過酷な運命に翻弄されたのは上記の諸氏だけではなかった。これらの諸氏を従えた当の伊達氏をもまた、歴史の荒波はひとしく襲ったのである。
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「大織冠藤原鎌足公三世ノ孫左大臣魚名公、魚名公十二世ノ孫従五位下光隆公、光隆公第二子朝宗公。是ヲ以テ伊達家ノ始祖ト為ス。母ハ六條判官源為義ノ女。」(「伊達家系譜」)
奥州武士第一の座
「伊達氏の祖は常陸介を称して、常陸国真壁郡伊佐荘中村に住んで、伊佐氏または中村氏を名のったというが、信じてよいだろう。朝宗のとき、〔1189年〕源頼朝の奥州征伐に従軍して、伊達郡阿津賀志山の戦いに大功があり、論功行賞で伊達郡を与えられた。(中略)伊達の呼称はこの伊達郡に由来する。」(『宮城県の歴史』)
「長男為宗は常陸の伊佐の本領を継いでその子孫は伊佐氏を称し、次男宗村は伊達郡の所領を継ぎ、伊達郡桑折郷高子岡に住んだ。宗村はのち但馬国殖野(兵庫県)に移住して雲但伊達氏の祖となり、宗村の子次郎義広が伊達郡に留まって伊達氏三世を継いだ。(『宮城縣史』)
「〔1334年〕建武中興にあたり、七世行朝(行宗)は、結城氏とともに奥州武将を代表して式評定衆に連なった。国府〔多賀〕城落城後、国司北畠顕家を領内霊山りょうぜんにむかえ、東北南党の拠点とした。伊達氏の歴史は、この行朝からその歴史時代にはいるといってよい。
第八世は宗遠である。大崎〔氏〕の前の大名序列において、第一座にあった留守氏を追いぬいて、奥州武士第一の座を実力で勝ちとったのがかれであった。亘理・伊具・刈田・柴田など仙南諸郡も、宗遠のもとに従ったといわれる。」(『宮城県の歴史』)
九世大膳大夫政宗
「九世が初代政宗で、大膳大夫。稲村〔満貞〕・篠河ささがわ〔満直〕管領の下向にあたり、白河結城満朝とともに、両管領の“親”と頼まれた。東北武将の随一に数えられていたのである。大崎詮持が畠山国詮の賀美〔加美〕・黒川の所領を押領したのを、葛西満良とともに停止している。大崎も畠山も探題職である。だからかれは探題にかわるもう一つの探題職を当の探題に行使していることがわかる。いわゆる政宗の乱をおこして、探題大崎〔氏〕や会津の蘆名満盛らも味方に引き入れ、応永三[1396]から九年にわたる抗戦となったが、二八万騎をひきいて出動した鎌倉の上杉氏憲〔禅秀〕さえも、これを降伏させえなかったと『余目あまるめ記録』はいっている。(中略)その馬打ち領は名取・宮城・黒川・深谷・松山まで拡大した。宮城衆はこの段階で大崎を見限って伊達に鞍がえしたのである。」(『宮城県の歴史』)
持宗・成宗
「十世氏宗もまた鎌倉の威におそれず、父政宗が攻略した出羽国長井庄を関東管領が没収して長井氏に与えると、再びこれを奪回するという有様であった。」(『宮城縣史』)
「一一世持宗にいたり、伊達の“武将中の武将”の地位が定まる。『奥州に三千騎を領する武将は七人、持宗にいたって伊達ひとり七千騎』と称されるにいたったのである。かれのときから、将軍の諱いみなを拝領する慣例も生じた。こうして『鹿苑院殿(足利義満)御時より他に異なり仰せ通』ずる政治関係を、京都との間に樹立するのに成功している。関東〔管領〕府も稲村・篠河両御所も、もうどうすることもできない。留守氏もここで最終的に伊達系留守氏に転換する。(中略)“伊達の宮城”への体制がえはこうして一五世紀後半でかたまるのである。
一二世成宗の富強は、父持宗にもまさった。(中略)むかしの平泉藤原氏の都を驚かした富強が、伊達氏のもとで大きく息を吹きかえしてきた感がある。長享二年(一四八八)には大崎氏に、また明応八年(一四九九)には葛西氏に、それぞれ内乱があった。成宗はその鎮定の主動者になっている。葛西・大崎領の“伊達の馬打ち化”が、こうして日程にのぼりはじめる。
一三世尚宗の知行宛行状によれば、その所領は、刈田・伊具・名取・宮城諸郡におよんでいる。」(『宮城県の歴史』)
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「これらすべてをふまえて、伊達による一国支配の公権体制は、一四世稙宗および一五世晴宗時代に確立するのである。」(『宮城県の歴史』)
十四世稙宗
「奥州では鎌倉時代以来、守護が置かれることがなかったが、伊達氏はその先例を破って、はじめてその奥州守護職に任命されているから、大崎氏はもとより、それ以前のどのような東北武将にも許されていなかった武門の栄誉を開いたことになる。それは“〔藤原〕秀衡已来いらい ”のできごとといわれた。(中略)稙宗は永正一四年(一五一七)三月九日、左京大夫になり、大永二年(一五二二)一二月、奥州守護職になった。晴宗は弘治〔1555~57〕末-永禄〔1558~69〕初期、奥州探題になった。これによって奥州の武家公権は伊達氏に統合されたのであった。
(中略)東北中世において、分国法〔“政治式目”『塵芥集』〕というような公の原理にもとづいて権力の組織化をおこなった大名は、ほかにない。全東北に臨むものとしての伊達の権威ある立場がうかがわれるのである。
伊達のすぐ北に隣し、ながく東北中原の覇者としての伝統を保持してきた宮城の武門、留守・〔黒川・〕大崎・葛西以下の諸氏も、この段階で伊達体制下のそれぞれの環としてこれにむすばれるのである。(中略)『伊達正当世次考』が、『黒川・大崎皆能く公の指麾に従う』と評した通りなのである。」(『宮城県の歴史』)
十五世晴宗
「天文一一年(一五四二)には、稙宗の三男実元〔成実の父〕を越後の上杉定実の養子に入れようとして、稙宗・晴宗父子が衝突して、七年間にわたる“天文の大乱”となるが、その原因も、越後の新君主のために、伊達から精鋭武士団を割こうとしたのを、伊達固有の支配体制を弱体化するものとして、嗣晴宗が実力で阻止したのに由来すると『正当世次考』は解釈している。(中略)
左京大夫・奥州守護職・奥州探題ともなれば、それは“奥州一の人”である。永禄六年(一五六三)の室町幕府の番付によると、伊達晴宗は蘆名盛氏とならんで全国五十余人の大名のなかで東北を代表する二人の大名の一に数えられている。蘆名氏は会津の領主で、室町初期から“会津守護職”と称せられていた。(中略)東北の大型大名ということになれば、さしずめ、一に伊達、二に蘆名というところだったのである。事実、この両雄の決戦が、東北の覇権を決定するのである。」(『宮城県の歴史』)
十六世輝宗
一六世輝宗は「永禄八年(一五六五)家を継ぎ、米沢城に居た。(中略)天正四[1576]年以降隣接の大名相馬氏と戦を交え、あるいは越後の上杉氏とも戦って四隣に勢力を拡大した。(中略)当時中央においては足利将軍の権威は全く衰え、織田信長の天下統一の大業がようやく進もうとしていた時で、時勢をみるに敏な輝宗は、早くも天正三[1575]年以降しばしば信長によしみを通じ、その地位の強化をはかっている。」(『宮城縣史』)
「稙宗と晴宗のあいだの“天文の乱”のあとも、晴宗と輝宗父子のあいだに、争いが続いた。そのために、伊達の覇権は、一六世輝宗時代には足踏みし、むしろ南奥諸将の連合した反伊達攻勢の前に、守勢の位置に立たされる。そして一七世政宗の登場を待って、事態はいっきょに終幕へと展開するのである。」(『宮城県の歴史』)
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奥州の覇者
「政宗の名はいうまでもなく九世政宗にあやかったものである。将軍の偏諱を受けることは、もうしなくなっている。伊達じしんの蓄積された力で覇をなすという決意が、そこにうかがわれる。政宗は十八歳で天正一二年(一五八四)十月、父輝宗の譲りを受けて伊達一七世の当主となった。そして、翌天正一三[1585]年、父輝宗が畠山義継の奇計にあって横死すると、その弔合戦に、畠山の本城二本松城を攻め、これを支援する佐竹・蘆名・白河・石川・岩城諸氏の連合軍と安達本宮の人取橋に激戦をまじえた。優勢だった南奥連合軍が、老練の指導者輝宗を失った若輩の政宗に勝利することができなかった。伊達独力で南奥の平定が可能だという自信を、政宗はこの戦いでえる。翌一四[1586]年、二本松攻略」(『宮城県の歴史』)を果たし、宿敵畠山氏を滅ぼした。
「この年政宗は父の冥福を祈るために米沢付近の遠山に覚範寺を建て、資福寺の虎哉こさい をここに移して開山とした。この寺は仙台藩開府後仙台に移され、現在、北山にあ」(『宮城縣史』)り、仙台大越氏の菩提寺ともなっている。
またこの1586年には、大越紀伊守顕光が伊達=田村氏に反して相馬義胤に走った。同年6月政宗が伊達成実を名代として大越城を攻めさせると、8月15日こんどは相馬を去って岩城常隆に与した。翌1589年4月、顕光は再び伊達=田村氏に復帰せんと画策したが、義弟大越甲斐守の密告にあって、同月末ついに岩城常隆の命によって切腹させられた。
同「天正一七年(一五八九)には、ついに蘆名義広を会津摺上原に破り、その六月〔会津〕黒川城に入城、蘆名氏を滅ぼした。蘆名氏は義広の前には二階堂氏を嗣としていた。義広ははじめ白河氏を継ぎ、のち蘆名をうけたが、出は佐竹であった。だから、蘆名への勝利は、会津・須賀川〔二階堂〕・白河への勝利であり、佐竹の常陸追い落としに成功したことを意味するものでもあった。
こうして南奥から中奥にかけての大領土が二三歳の青年武将政宗の手ににぎられたのである。それは海道(浜通り)をのぞく福島県全域・山形県置賜地方・宮城県南部・それに一部栃木県・新潟県にもおよび〔、〕”馬打ち”としての葛西・大崎領も計算にいれると、宮城県全域から岩手県南部までその威令はおよんだことになる。東北の大勢を定めた覇者の支配である。」(『宮城県の歴史』)
小田原参陣と奥州仕置
「古くから京都と連絡のあった伊達氏は、中央の動きに敏感であった。輝宗は信長や家康ともよしみを通じていた。(中略)政宗はこの父を受けている。京都との接触においては欠けるところがなかったが、天下人に対する認識があまかった。東北でやるだけのことをやっておいて、これを既成事実として呑ませることは大丈夫できる、いやそうしてみせる──政宗はそんな現状分析のもとに、蘆名を滅ぼし、さらに相馬・佐竹とも戦う作戦を立てながら、時間切れギリギリのところで小田原に参陣した。天正一八年(一五九〇)六月五日のことである。しかし秀吉と政宗では格がちがう。(中略)
秀吉は、この見どころのある武将は、とりつぶして窮地に追い込むよりも、とりたてて奥州仕置の先兵とするのが得策だ、と判断したのである。
政宗に本領を安堵して米沢に帰した秀吉は、小田原を攻め落とすとすぐに、すなわち天正一八年(一五九〇)七月一七日にはもう奥州仕置のために小田原を出発、二十六日宇都宮着、八月九日会津黒川城着。またたくまに、奥州諸将の処分を決定した。」(『宮城県の歴史』)
「秀吉の処断はまことにきびしいものであった。芦名討滅の罪によって、新しい占領地のほとんどを没収された。改めて、福島県では本領の伊達・信夫および安達郡の一部、宮城県では刈田・伊具・柴田・亘理・名取・宮城・黒川の諸郡と長世保・深谷保および山形県の米沢方面の領有を認められる結果になった。政宗時代に入ってからの急速な発展の成果はすべて取り上げられてしまった」(『大和町史』)。
「小田原に参候もしくは使節派遣をしなかった大崎義隆・葛西晴信は、所領を没収され、その所領あわせて十二郡は、秀吉の側近木村吉清・清久父子にあたえられ、政宗に滅ぼされて没収された蘆名の旧領と、政宗にしたがって小田原に遣使できずに没収された白河・石川氏の旧領、つまり会津四郡・岩瀬・安積・白河・石川諸郡は、蒲生氏郷にあたえられた。宮城県に鎌倉以来の家柄を誇った葛西氏、室町以来探題家としての栄誉を伝えた大崎氏も、一瞬にして断絶した。」(『宮城県の歴史』)
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葛西・大崎一揆と岩出山転封
「所領の没収が進行し、検地が強行され、刀狩りがすすむそのさなかに、葛西・大崎領の旧臣たちが、いっせいに蜂起した。天正十八[1590]年十月十六日のことである。(中略)葛西氏の所領は戦国期には、牡鹿・桃生・登米・本吉・磐井・胆沢・江刺・気仙の八郡におよんでいた。大崎領は賀美〔加美〕・志田・遠田・玉造・栗原の五郡にわたった。ここには“伊達馬打ち同然の事”という確約をとりつけていた。そんなふうにして勢力を扶植してきた仙北の地が、今動揺して無政府状態になっている、しかも伊達の南進の道はまったく絶たれている、ということになると、政宗たるもの、命令がなくてもじっとしていられるはずがなかった。
木村父子に事ある場合は、政宗が蒲生氏郷とともにこれを助ける申し合わせになっていた。政宗は、氏郷には雪が深いのを理由に出兵をみあわせるようにすすめ、この一揆平定の功をひとり占めしようとした。そのことが氏郷に警戒心をおこさせ、政宗が一揆と通じて氏郷を謀殺しようとしていると、秀吉に報告された。政宗は秀吉のもとに召還された。結局氏郷との和解が成立し、救出された木村吉清からは『貴殿様より外、頼み申す方もこれなく候』と感謝された働きぶりが、問題をふたたび高度に解決した。」(『宮城県の歴史』)
「天正十九[1591]年七月三日、一揆は鎮定した。同時に、恩賞でもあり懲罰でもある転封命令が九月にはでた。長井・伊達・信夫・田村・安達の本領がすべて没収され、葛西・大崎の一二郡が新給された。それに宮城県南部諸郡と福島県から宇田郡をあわせて二〇郡の新領土が決定し、九月二三日、政宗は米沢から旧大崎領内玉造郡岩出沢城に移った。岩出沢は岩出山と改められた。数多くの中世大名にかわり、伊達氏が単独でになう宮城の近世はここにはじまる。」(『宮城県の歴史』)
関ヶ原の戦いと仙台築城
「文禄〔1592~93〕・慶長〔1597~08〕の朝鮮の役にも“大崎侍従”および“大崎少将”として従軍した。」(『宮城県の歴史』)
「慶長五[1600]年の関ヶ原の役は、政宗にもう一度、〔幸田〕露伴〔著『蒲生氏郷』〕のいわゆる“火の玉だましい”をよみがえらせた。家康からは、八月二二日、刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の七所およそ五〇万石を、本領のゆえをもって政宗に加増する旨の保証があった。ただしこれは不発に終わった。
政宗は刈田郡を攻め、信夫・伊達で上杉勢と戦いながら、南を向く中原の覇府をもとめ、仙台築城を決定したのである。(中略)慶長五[1600]年一二月二五日縄張りをはじめ、翌六[1601]年普請はじめ。(中略)四月一四日、関ヶ原の役以来滞在していた名取郡北目城から、工事もまだ完成していない仙台城に政宗は移った。(中略)仙台城のおよその竣工は慶長七[1602]年五月である。完成した仙台城に政宗が入城したのは、翌八[1603]年八月であった。」(『宮城県の歴史』)
こうして伊達氏は、「仙台伊達氏」となったのである。
田村・石川・猪狩・澤田・大越・岩城諸氏の伊達氏臣従
この間、本章冒頭で述べたごとく、1586年大越氏の宗家田村氏が伊達氏に臣属して、「一関田村氏」となった。
続いて1591年には、澤田氏の宗家石川氏も伊達氏に臣従し、「角田石川氏」となった。
1596年の「佐竹竿」の結果、澤田氏の主君「浅見川村高倉山城主、猪狩下野守〔親之が〕、伊達家に随仕」(『大日本地名辞書』)した。
「〔1602年〕岩城国替之時分、貞山〔政宗〕様(中略)兼て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台領〕へ罷り越す可き旨仰せ下され(中略)、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候処」(『仙台藩家臣録』)、「是ヲ以テ姑シバラク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里(膽沢郡)ニ於テ給サル」。(『伊達世臣家譜』)
ここにおいて、澤田氏もまた猪狩氏に従って「仙台澤田氏」となり、伊達氏の陪臣となった。
また、「〔1602年〕岩城滅亡するに及ひて」「伊達〔信夫〕郡鞠子村〔福島市丸子〕に住」していた大越源兵衛も、「数年の後〔1606年〕、二男十左衛門〔茂世〕政宗公于に仕え、以て〔1606~15年の間に〕黒川郡北目〔大崎〕村に領地を有し、而来住」(「大越家系勤功巻」)むこととなった。
さらに1607年には、猪狩氏の主家岩城氏の遺児政隆が伊達氏に仕え、「岩谷堂伊達(岩城)氏」となった。
こうして1586~1607年にかけて、田村・石川・猪狩・澤田・大越・(岩谷堂)岩城(伊達)の諸氏は、みな相次いで伊達家臣となり終わったのである。
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「わたし」が存在するためには父母が要る
父母が存在するためには4人の祖父母が要る
4人の祖父母が存在するためには8人の曾祖父母が要る
こうして例えば澤田本家第六代当主力には64人の直系祖親が存在した
これは自然の摂理である
これらの直系祖親の内のただ一人が欠けてさえも澤田家は存続しえなかった
さらに力の嫡孫でやがて澤田本家八代を継ぐであろう充博には
まことに 256人の直系祖親が現実に存在した
この間に黒川澤田氏は二百数十年の歴史を経過している
それ以前の仙台・楢葉・石川各澤田氏の長い歴史は今日では埋もれてしまっているが
だからといってそれは消滅してしまったわけではない
その存在は絶対的必然である
楢葉澤田氏が仙台澤田氏となった17世紀初頭まで
約 400年・13代さかのぼると
じつに 4,096人の直祖系親が数えられる
13世紀の石川澤田氏まで約 800年・27代さかのぼれば
驚くなかれ約67,108,864人の直系祖親が存在し
1代で現在の日本の人口に匹敵する規模に達する!
さらにその先をたずねれば石川氏ついには清和源氏へと至る
まことに気の遠くなるような話であるが
これは厳然たる数学的・歴史的事実である
我々の「いのち」とはこのようなものである
我々はこのような連鎖の中に生を受けている存在なのである
これまでも
いまも
これからも
……………
……………
……………
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奥州黒川澤田家譜第一巻 澤田氏の歴た道
1991陽春 稿本『澤田氏の歴た道 澤田家譜』初版発行
2010.3.26 改題『澤田氏の歴た道 清和源氏奥州黒川澤田家譜』Web版初版発行
2013.12.26 Web版改訂初版発行
2020.3.19分巻改題『奥州黒川澤田家譜第一巻 澤田氏の歴た道』発行
編著者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook紙背人の書斎
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 080-5465-1048
e-mail sirworder@world.odn.ne.jp
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黒川澤田分家初代亥兵衛 (1911-2004) の手になる覚書および談話を基に
1991年陽春、 亥兵衛三男諭 (1946-) これをつくり
子々孫々に伝う
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