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第六章 仙台大越氏


第一節 初代源兵衛
「大越(初メ 田村ト稱ス)姓坂上、其ノ先ヲ不知シラス 、
 (天正ノ初メ貞山〔伊達政宗〕公ノ時、大越紀伊守顯光トイフ者有リ、田村家臣族臣也、世大越〔鳴神〕城于ニ 住ミ、因ヨッテ焉コレヲ氏トス、〔1586年10月9日〕田村大膳太夫清顯歿後、反シテ相馬〔義胤〕于ニ 屬シ、〔1588年8月15日〕又岩城家ニ仕フ、〔天正〕十七[1589]年夏〔4月〕田村宮内少輔〔顕康・同父月斎〕顯頼ニ因リ、将マサニ当〔伊達〕家ニ仕ヘントス、伊達安房成實〔・〕白石若狭宗實、相與トモニ之ヲ謀ル、事未イマタ成ラス、外親田村〔大越〕甲斐守某ナニカシ、之ヲ岩城ニ密告ス、是ニ於テ顯光誅ニ伏ス、密ヒソカニ顯光之城邑ヲ擧ケ、之ヲ甲斐守ニ賜フ、
 〔1602年〕岩城家亡ビ、甲斐守入道シ、乃スナハ チ未了ミリョウト稱シ、武州〔武蔵国〕淺草于ニ 隠ル、舊主岩城貞隆亦來タリ而テ焉コレニ同居ス、甲斐守與ト 岩城家同姓之親有ル也、二子有リ、長曰ク因幡、次曰ク甚左〔右〕衛門、〔同〕慶長七[1602]年東照〔徳川家康〕公、羽州〔出羽国〕龜田〔増田?〕ヲ以テ貞隆ヲ封シシ時、二子ヲ焉コレニ仕ヘ使シム、貞隆後ニ之ヲ〔実兄・秋田〕佐竹右京大夫義宣ニ托ス、因幡禄千石ヲ受ケ、甚左〔右〕衛門五百石ヲ給ヒ、倶トモニ家臣ト爲ル、二子之裔、今秋田ニ在リ、」(『伊達世臣家譜』巻之十三平士之部二十六)
「(甲斐守ハ即スナハ チ源兵衛カ兄也、父之名字不詳ツマヒラカナラス、)
 大越源兵衛某ナニカシヲ以テ祖ト爲ス、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今二百五十石之祿ヲ保ツ、(中略)
 〔1602年〕岩城家亡ホロヒ、源兵衛大越城ヲ去リ、伊達〔信夫しのぶ 〕郡鞠子邑〔福島市丸子〕ニ於テ浪散ス、(中略)
 其ノ家甞カツテ田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡北目大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台城下〕ヲ去ル六里許ハカリ、」(『伊達世臣家譜』)


仙台大越氏祖源兵衛
「同[1588]年四月末つ方にや、曳地伊賀と申す侍を御使にて、〔田村〕清顕の後室より〔その実兄相馬〕盛胤へ仰せ遣はされけるは、私への見舞と有て、御供二~三騎にて三春の城へ御出有る可し、万の苦労も御前へ聞せ参らせて、心をも慰め侍んと也。(中略)扨
さて伊賀をば翌日田村へ帰し給へり。即日盛胤、御供二騎にて小高へ御出馬、義胤御密談有けれども、知る人なしと云へり。事過て後、二人私語しは、盛胤御供二~三騎にて後室へ御見舞い迚とて三春城へ入り給ひ、左も有んに於ては、梅雪〔顕頼〕父子三人、紀伊守〔顕光〕兄弟三人〔甲斐守、源兵衛〕、石川弾正父子、大倉〔蔵〕の田村彦七〔郎顕俊〕御目見迚、 此の相馬へ志侍り、登城致す可し。」(『奥相茶話記』)
 大越一族の族長大越紀伊守顕光(橋本信貫)は、1589年4月非業の死を遂げた。
「紀伊守謀叛之旨を申すに因って、紀伊守所領・居城共に直に之を得」た義弟甲斐守もまた、「〔1602年〕岩城滅亡するに及ひて」「武州浅草辺に住」し、「終に浅艸〔浅草〕に於いて卒」(「大越家系勤功巻」)した。「甲斐守ハ即チ源兵衛カ兄也、父之名字不詳ツマヒラカナラス」(『伊達世臣家譜』)。
 兄甲斐守と同様、父大越氏と「〔岩城〕常隆の乳母」岩城氏の子であろう源兵衛は、「初め〔1589年11月27日〕兄甲斐守一同に大越を除き、」岩城氏に仕えた。
 〔1602年〕岩城滅亡するに及ひて」、「伊達〔信夫〕郡鞠子村〔福島市丸子まりこ 〕に住す。」(「大越家系勤功巻」)
「丸子〈福島市〉
 鞠子とも書いた。〔福島県〕中通り北部、阿武隈川の西岸、松川の沿岸に位置する。(中略)
〔近世〕丸子村、江戸期~明治22年の村名。信夫郡のうち。はじめ会津〔上杉氏〕領、慶長6[1601]年出羽米沢領、慶長8[1603]年米沢藩領」(「角川日本地名大辞典」)。
 この「大越源兵衛某ナニカシヲ以テ祖ト爲ス」(『伊達世臣家譜』)のが「仙台大越氏」、すなわち、澤田氏ゆかりの大越氏である。
「数年の後二男十左衛門〔茂世〕政宗公于
仕え、以て黒川郡北目村に領地を有し、而来住みて卒す。法諱ほうきは大越」(「大越家系勤功巻」)。
「其ノ裔虎間番士ト爲リ、今二百五十石之祿ヲ保ツ、(中略)
 其ノ家甞カツテ田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡北目大崎邑〔北目邑〕ニ於テ置ク、治〔府〕ヲ去ル六里許ハカリ」。(『伊達世臣家譜』)


第二節 二代十左衛門茂世(1588-1661)

 「初め茂作と稱す。母後藤氏之女。天正十六[1588]年戊子ぼし生る。当代より姓を改め、藤原と為す。年月伝はらす。」(「大越家系勤功巻」)


仙台大越家の創始
 1588年6月には政宗の名代伊達成実が大越城を攻撃し、8月15日には茂世の義伯父紀伊守顕光が、従兄相馬義胤に反して「故有りて磐城常隆に属」した。まさに大越氏の運命が風雲急を告げていたこの1588年に、茂世は生まれた。
 「〔1602年〕父源兵衛一所に鞠子村〔福島市丸子〕に住す。父猶名勢有るを以て、〔同1602年〕茂作行年十四にして会津〔上杉〕景勝へ人質に往く。」(「大越家系勤功巻」)
 源兵衛は、当時の当地の領主・会津上杉氏の庇護下にあったのであるが、「猶名勢有るを以て、」茂世は「父之故ヲ以テ會津(上杉中納言景勝卿)于ニ質トナ」(『伊達世臣家譜』)ったのでる。
 「時于
伊達領の人質と同小屋に入置れ、梁川やながわの人質両人(二人の姓名伝はらす)欠落する者あり。〔同1602年〕茂作十四歳にして彼等与伴に走て武州江戸に行き、〔1604年〕十六歳まて右二人の者に伴ひ居る。
 〔同1604年〕浪人中江戸神明〔祠〕前に於て外舅
がいきゅう後藤加賀之を見附け、柳之水御屋敷へ倡となひ帰り、奥州仙台へ下し置き、〔1606年〕十八歳政宗公へ御大所〔台所〕衆に相出し段々御奉公之中、七度迄御勘当を蒙り進退〔身代〕を失ふと雖いへとも、氏其の度々召返され、御褒美御感ぎょかんも亦度々也」(「大越家系勤功巻」)。

大越家本領北目大崎村の知行
 「〔1606年~〕後ニ〔黒川郡北目村に〕百石ヲ賜ヒ、」(『伊達世臣家譜』)「外舅後藤加賀と同役に命し玉ひ、借馬一匹人足六人定借に之を賜ひ、御大所番頭を勤む。」(「大越家系勤功巻」)
 既述のごとく、茂世の父源兵衛は、「数年の後二男十左衛門〔茂世〕政宗公于に 仕え、以て黒川郡北目村に領地を有し、而来住みて卒」(「大越家系勤功巻」)した。
 すなわち、「其ノ家甞テ田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡北目大崎邑〔北目邑〕ニ於テ置ク、治〔府〕ヲ去ル六里許ハカリ、」(『伊達世臣家譜』)
 大越氏は、1602年の猪狩氏ひいては澤田氏に次いで、いよいよ北目村に知行地を与えられ、おそらく隠居していたであろう初代源兵衛もそこに住んだのである。

大阪冬の陣の功名と「茂世披甲像」
 「〔1615年〕時ニ年二十七、大阪〔夏〕之役ニ会シ、茂世又厳譴ヲ蒙リ、之ニ従フヲ得ス、進ミテ大阪ニ至リ、元和元[1615]年五月六日朝、〔白石〕片倉家之陣ニ就キ、乃スナハチ敵兵ヲ追ヒ、以テ騎士ヲ獲、冑与ト首与ヲ持チ以テ之ヲ献ス、是ニ於テ厳譴ヲ赦シ、〔政宗〕公之左右ニ居ラ令メ、以テ法ヲ犯シ而テ先登スルヲ禁ス、此ノ考ヲ以テ屡々厳譴ヲ蒙
ル所以ユエンニシテ、蓋ケタシ勇悍法ヲ犯〔侵〕ス人ト為リナレハ也」(『伊達世臣家譜』)。「此れ御旗本六番目の首と云へり。時に茂作と稱せり。」(「大越家系勤功巻」)
 茂世は絵ごころがあったようだ。晩年の1653年、この時の自らを描いた「茂世披甲像」(大越家十三代当主茂隆氏所蔵)が大越家に所蔵されており、その雄姿を今に偲ぶことができる。
その外函の蓋裏には、
「茂世披甲像
 茂世披甲像者ハ 元和元[1615]年五月難波之役ニ赴ク時ヲ自ラ畫ク所也。賛語者ハ 遠山寺覚範寺徹宗和尚繋カケル所也。」とある。
 画像の保存状態はきわめて良好で、甲冑に身を固めて白刃をかざし、旗印を掲げ、黒毛の駿馬に跨がって従者二人を従え雄姿が、鮮やかな色彩で描かれている。その槍持ちが捧
げ持つ、「活人劍・殺人刀」銘の槍は、いまも大越家に伝えられている。
 大越家の菩提寺・遠山寺覚範寺徹宗和尚の手になる賛語は、「承應貳[1653]癸巳キシ年冬十月吉日」にものされている。
 「殺活臨時  抑揚転地  平生之ヲ業ナリハヒ  戟ホコヲ盡ツクシ旗ヲ旌アラハス」
 「大越氏茂世ノ自ラ其ノ甲冑武具ヲ體シ而テ矛ホコニ就クヲ繪エガク云々」。

十左衛門「武勇伝」
 「寛永十一[1634]年将軍〔徳川家光〕御上洛、政宗公、忠宗公扈従
こしょうし玉ひ、(中略)目出度き折柄之間御盃を出す可き由御意之処、(中略)十左衛門御供にて参合せ、則すなはち三方之有るに伊勢海老の□放丁を拭ひ血灑したたりたる、紙鰹節のけつり残り、耳缺たる土器を載せ、古錫徳利に酒を入れ之を上げ候処、(中略)此の如き之節何様にも早速取合せ指上げ候事専もっぱら也、随分之働、(中略)忠宗公へ御向ひ御意には、此者随分之奉公致すと雖、氏品之有り御取立も之無く候。」(「大越家系勤功巻」)
 「初メヨリ大越事ハ相馬ニ申通シ、田村ノ者共ヲ引付タルモ、彼ノ者一人ノ所為ナリ、至テ口惜ク思召サル」(『伊達治家記録』)という、政宗の大越一族に対す怨念は、なお深かったのである。
 「〔忠宗〕御代に成り候はば御取立て召使はる可き由之を仰せらる。忠宗公御請うけには、此者大坂之働其の外御用に立ち候事共御覚へ之有り、末に御取立賜はる可き御契約之為とて、御行装に服し為され候羅紗之御羽織を脱き玉ひて之を賜ふ。」(「大越家系勤功巻」)
 「又江府〔江戸〕浅草に於て、金剛太夫勧進能を営み候節、(中略)能畢おはり而
舎利の能一番政宗公御所望さる、(中略)其の間時刻移り候に因よって十左衛門を召し為され、芝居中徒然に見へ候条御酒下され度き由に依り、(中略)其節芝居近辺に小屋を掛置き商買せし所之酒肴を残らす取寄せ、御大所〔台所〕に有合はす所の皿鉢、重箱、桶属迄一つも残さす肴に成る可き程の物を入れ、芝居へ運出し、(中略)〔酒〕樽の鏡を一々突抜かしかは、芝居の者共(中略)殊之外悦ひ賑ひ候。政宗公御サン敷より御声を揚玉ひて、十左衛門日本一の才覚、大坂一戦の働よりも勝り思召さる由呼ひ為され、(中略)此者大坂に於て随分之働を仕つる後、又度々手柄之有りと雖、氏只今の働きは十倍に覚へ候。(中略)
 金剛も舎利の能出来、御機嫌にて御帰り也。彼の御大所より相出せし所の器物、皆以て芝居の者取除け次第に下し置かれ、今猶江戸市中の者、其の時拝領之由を以て持ち伝ふと云々。」(「大越家系勤功巻」)
 「或る時三股川へ御船遊ひ之節、(中略)大なる生鯉三頭献上せる町人有り。(中略)十左衛門板、放丁、箸取揃へ伺公して、鯉の頭へ箸を突立て、川水へ浸し鱗を引くと、 齊
いつく生鯉故則すなはち之を迯にかし候。(中略)又次の鯉を初めの如く仕り復々之を迯し、残て一頭改めす前の如くすへしと頭へ箸を立る所に、政宗公御腋指に御手を添玉ひ、其を迯すこと莫く候者と御膝を直され候。夫をも事ともせす、又々水中へ浸し鱗を引き危く見える所に、運佑強かりけん能く鱗を引収め、振雪すすきて御料理をなす。御諚ごじょうには、何なんとも御覧之通り日本一の不覚悟者に候ら得共、此者大坂已来いらい度々功有る之故秘蔵して召仕ひ候、ケ様の者を召仕ひ候と各思召も有る可くと雖、必す又々用に立へきと思ひ身を離さす召仕ふ由の玉へは、皆比類無き仕形之由御褒美也。」(「大越家系勤功巻」)
 「寛永十三[1636]年五月、将軍〔家光〕朝鮮人の曲馬を観る、〔政宗〕公亦之に陪す。茂世〔政宗〕公の行厨〔弁当〕を齎
もたらし数寄屋橋に至りしに、番士誰何すいかし、将軍の儀衛近きを以て過ぐるを許さず、茂世曰く寡君未だ朝食せず、恐らくは飢ゑん、願くは許せと。番士聴かず、是に於て茂世関門前に座し屠腹せんとす。番士驚きて之を止む、茂世曰く、主人を飢ゑしむ、何の面目ありてか世に立たんと。已むを得ずして之を許す」(『>仙台人名大辞書』)。
「此の外、度々此の如き之仕形を以て、御感に入る事多しと云々。(「大越家系勤功巻」)


武頭職・三百六十三石四升
 「忠宗公御代寛永十四[1637]年十二月、御加増之地二十貫文〔 200石〕之を下され〔都合 300石となり〕、武頭職之を仰せ附けらる」(「大越家系勤功巻」)。
 「寛永年中〔1624~43〕惣御検地弐割出目六貫文〔60石〕之所御下中〔家中〕並を以て下し置かれ候。且つ又知行所切添起目高三百四文〔3石4升〕下し置かれ、都合三十六貫三百四文〔 363石4升〕に成し下され候。」(『仙台藩家臣録』)
 「十七年之〔武頭職〕を勤め、歳老ひ、病加り、〔1654年〕上表して役義を許さる。(中略)寛文元[1661]年九月四日卒、享年七十四。法諱
ほうきに曰く、勇林道驍居士。仙台北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)
 さきにも登場した覚範寺は、一門格十七ヶ寺の一に列せられる臨済宗の名刹で、「政宗の父輝宗〔覚範寺殿〕が殺された時、その冥福を弔うために〔政宗の師〕虎哉禅師を開山として建立した寺である。(中略) 250石の寺領を有した。」(『宮城県百科事典』)
 この覚範寺には、茂世をはじめとする大越家歴代の霊が、いまも静かに眠っている。
なお、「大越家系勤功巻」によると、茂世には弟と思われる惣兵衛があり、その子久内は「故有りて切腹」している。どうもやはり、父祖以来「勇悍法ヲ犯ス人ト為リ」の血筋のようではある。


仙台藩の職制
 ところで、以下の記述においては各種の役名が頻出するので、ここであらかじめ、仙台藩の職制についてひととおりふれておくことにしよう。
             「仙台藩の職制(行政機関)
                     ┌小姓組番頭─小姓頭─小姓組頭─奥表小姓組
                     │番頭格待遇ノ輩
                     │鷹匠頭、不断、給主、名懸組頭─同上組士
                     │旗元足軽頭─旗本足軽
               ┌若年寄七人┤目付─徒目付─小人
               │〔参政〕 │着座医師─惣医師其他稼業人
               │     │武頭─足軽頭─足軽
               │     │徒士頭─徒士組
               │     │兵具奉行─横目─役人─諸職人
               │     └養賢堂学頭添役─養賢堂目付
  ┌文武一般行政担任奉行六人┤評定役(町奉行の半面司法部)評定所役人(記録役凡四人、留付凡十人)
  │            │大番頭十人、脇番頭十人、帳役
  │            │大番頭格待遇ノ輩(養賢堂学頭等)
  │            │町奉行二人(町奉行の半面民政部)物書(三人)検断─肝煎
  │            │祭祀奉行一人又は二人(社寺方小姓組)
奉行┤            │屋敷奉行一人
〔執政(家老)〕       └御証文預主立五人
  │                  ┌郡奉行南方、北方、中奥、奥ノ四人─横目、穀改、代官、村定役人
  │                  │勘定奉行─吟味役─横目─頭取
  │                  │知行割奉行(勘定奉行兼務)
  └財用取切奉行一人─出入司五人────┤金奉行(金山方、鉄山方共郡奉行兼務)
           (内一人金穀取切) │山林奉行(郡奉行兼務)、横目─役人─塩役人
                     │塗師、鍛冶、荒物、紙等役人
                     │作事奉行─元締─横目─役人
                     └納戸元締─横目─役人」(『仙台市史』明治四十一[1908]年刊)


仙台藩の職制組織概要
 「藩の政治組織は所謂「御役列」なるものによりて見るべし其の順序は左の如し
▲御奉行〔執政(家老)〕▲御宿老(家老)▲若年寄〔参政〕▲御旗本奉行▲大番頭(以上大番頭格乗輿)
▲江戸番頭▲出入司▲御小姓組番頭▲御小姓頭▲御申次▲法眼▲法橋▲御鎗奉行(以上番頭格)
▲御徒小姓頭▲脇番頭▲御鷹匠頭▲御奥年寄▲御城番▲御町奉行▲御祭祀奉行▲御近習目附▲御不断組頭▲御給主組頭▲御名懸組頭▲御旗元足軽頭▲公儀使▲御郡奉行▲御近習▲御目付使番▲御番医師▲江戸番組頭▲御物置〆役▲御小姓組与頭▲並御武頭▲御繰合方吟味役▲御勘定奉行▲御兵具奉行▲京都御留守居▲龍ヶ崎奉行▲御姫様方御附人▲御二丸御留守居▲相去御足軽頭▲評定所御役人▲袖ヶ崎御屋敷役▲養賢堂学頭添役▲養賢堂御目付▲御証文預主立(以上詰所以上)
▲御刀番▲御納戸判形役▲御小納戸▲御手水番▲奥御小姓▲児御小姓▲御年男▲御子供▲御座敷番▲御小姓▲同見習▲奥御右筆▲御記録御右筆主立▲御記録御右筆▲並御右筆▲江戸番馬上▲御薬込▲定御供▲御刀奉行▲御勘定所吟味役▲御広敷番頭▲奥方目附▲袖ヶ崎御作事本〆▲御二ノ丸御留守居添役▲御中奥目付▲御奉行手前頭立物出▲堂形指南役▲御乱舞太夫▲諸吟味役▲郡村〆役(御刀奉行より御目見え所あり)▲御徒目付▲大番組▲御徒小姓組▲御同朋頭▲御茶道組頭▲御同朋▲御茶道(此外組士凡下列あり略す)
 而して軍事に於ては御奉行以下夫れ夫れ人数等の定めあり、大番組なるもの一番より十番迄ありて大番組頭各大番組を引率す(藩の平士は皆番組に入る、其の相対の定限は三千六百人、一組は凡そ三百六十人なりき、(以下略)。」(『仙台戊辰史』)
 茂世のなった武頭職は詰所以上の格で、中級武士の役職であろう。


第三節 三代十左衛門茂貞(1636-1702)

 「小字多門金左衛門。母不詳。
 寛永十三[1636]年丙子へいし八月十八日、奥州二本松于生る〔本姓天野氏〕。〔1650年〕十五歳に而仙台に来り、明暦二[1656]年茂世之養子と為る。」(「大越家系勤功巻」)

養嗣子茂貞と血脈の途絶
 茂世「男子無きに因て、外舅後藤加賀二男勘五郎(中略)を申上け、」(「大越家系勤功巻」)「女ヲ配シテ嗣ト爲ス、」(『伊達世臣家譜』) 「然るに父子の情和せず、終に去りて之を返せり。」(「大越家系勤功巻」)
 かくて、「十左衛門〔茂世〕儀男子持ち申さす候に付き、拙者〔茂貞〕儀聟苗跡に仕つり度き由願ひ申上け候所、願ひ之通り万治元[1658]年に(中略)仰せ付けられ候。」(『仙台藩家臣録』)
 茂貞の嫡子茂辰の母は、「米倉七兵衛女」(「大越家系勤功巻」)である。ここに、田村一家大越氏の後裔・仙台大越氏の血脈は、その正系において、初代源兵衛・二代茂世の二代で絶えたのである。
 「寛文二[1662]年正月十八日二十七歳にして、養父〔茂世〕之苗迹知行高都合三百六十
三石四斗之内、三百三石四斗を以て家督仰せ付けらる。六十石は、遺言に因て〔茂世の前養子〕大越勘五郎に分地之を仰せ付けらる。同日江戸御番組仰せ付けられ、〔1672年まで〕十ヶ年之を勤む。
 同九[1669]年夷蜂起に付て、松前兵庫頭殿江御使者と為り、(中略)因て間一日を隔て自分の軍用相調へ発足仕る処、夷平均仕る間御使者遣す可からさる由(中略)仰せ越され候。因て慈ここ黒川郡吉岡より罷り皈かへり候。」(「大越家系勤功巻」)
「寛文八[1668]・九[1669]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(阿刀田令造『仙
台城下絵図の研究』)によると、当時仙台城下には以下の大越諸氏八家の侍屋敷があった
 「大越久介〔久内〕 大越吉之丞 大越金左衛門〔茂貞〕 大越三七 大越十三郎 大越藤右衛門 大越兵太夫」
 久介は、惣兵衛の子久内の誤記であろう。

三百六十石五斗一升・御目付
 「同〔寛文〕十一[1671]年十一月(中略)公儀御役仰せ付けられ〔1676年まで〕六年之を勤む。延宝三[1675]年十一月、新田興目五十六石四斗八舛〔升〕の所知行高に結ゆはひ、すへて三百六十石五斗一舛〔升〕に成し下され候。同四[1676]年十二月(中略)御目附役あはせて御使番〔、〕御小人支配之を仰せ付けらる。」(「大越家系勤功巻」)
 「目付」には「奉行直属の近習目付と若年寄直属の目付とがある。『司属部分録』に『御近習目付は諫争の役也、且つ御政事の得失を論じ、諸役人の曲直を察す、且つ火災を防ぐの指揮を掌る』とあり、目付は『御奉行を始め、諸役人の公私曲直を察し、且つ火災を防ぐの指揮、御行列方の事務を掌る』とある。要するに仙台藩の監察機関で、諸藩と共通するところである。(中略)
 目付はその員数八人、三人は江戸供奉ぐぶ、二人は仙台、三人は在郷休息で、月番制であった。その支配下に徒目付・小人等があった。」(『宮城縣史』)
 「同七[1679]年進退〔身代〕困窮するを以て訴詔申上け、御役御赦免成し下さる。」(
「大越家系勤功巻」)
 その後の八年間は無役のまま過ごし、ひたすら家政再建に努めたものであろう。

着座五百石
 1679年の「御役御赦免」から八年後の「貞享四[1687]年十二月御前に於て、〔養父茂世同様〕御武頭之を仰せ付けらる。翌[1688]年六月、御名懸頭仰せ付けらる。 元禄元[1688]年十一月、日光御宮〔東照宮〕御造営御普請奉行仰せ付けらる。御造畢るに付き、同三[1690]年七月十三日公儀御城江召し出され、檜之間に於て、伊達安芸殿以下十八人与倶に、(中略)御褒美成し下さる由御老中戸田山城守殿仰せ渡され、(中略)之を頂戴す。 同〔元禄元[1688]年〕七月廿一日御前に於て、御験主頭之を仰せ付けらる。同四[1691]年十月、御城番之を仰せ付けらる。同五[1692]年六月御前に於て、御近習并て御不断頭之を仰せ付けらる。同八月廿二日御前に於て、列御徒小姓頭之上に仰せ付けらる。同九月御前に於て、御鑓奉行之を仰せ付けられ、御近習本依りの如く御相伴等常に之を勤む。同十二月廿八日、着座日野玄蕃次之を仰せ付けらる。同八[1695]年五月九日御前に於て、御加増の地下し置かれ、都合五百石に成し下され候。」(「大越家系勤功巻」)
 「ところで仙台藩には、(中略)中世から申し送られた家士の身分制度があった。(中
略)それは、一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出の八等級からなる序列であり、その下に平士・組士・卒の階級があった。一門はもと六氏、のち一一氏。(中略)一家は一七氏、準一家は一〇氏・一族は二二氏ある。宿老は家老の家格で三氏、着座は二八ないし三四氏、太刀上は八氏、召出は五一氏あった。
 (中略)そのなかの大身武士が地方知行主となり、四十八館の館主はそのうちの着座以上のものが、ほとんど世襲的に小大名権を行使することになるのである。」(高橋富雄『宮城県の歴史』山川出版社)
 1679年「御役御赦免」され、8年後の1687年父茂世同様武頭に任ぜられたのちの茂貞の経歴はきわめて順調で、1692年鑓奉行(番頭格以上)に任ぜられるとともについに「着座」に列し、1695年には五百石に加増された。茂貞は、名実ともに上級武士の仲間入りをしたのである。

大越氏中興の祖
 「同〔元禄〕九[1696]年六月廿五日御前に於て、嫡子五左衛門〔茂辰、義伯父奥山大学常辰の偏諱ではなかろうか?〕部屋住より御武頭仰せ付けらる。十左衛門儀困る可く申し候間、御鑓奉行御免成し下され五左衛門召し遣はさる可き由之を仰せ付けらる。同七月廿三日(中略)隠居仰せ付けられ、嫡子五左衛門を家督に下し置かれ、隠居分二十人扶持方下し置かれ、法体仰せ付けらる。則ち法体仕つり御前へ召し出され候処、大道坦然と名を改め仕つる可き由仰せ付けられ、御真筆之を拝領す〔これは、いまも大越家に保存されている〕。
元禄十五[1702]年八月十八日卒、享年六十七。法諱に曰く、順行齋大道坦然居士。仙台
北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)
 この三代茂貞および次の四代茂辰の代の前半が、幕末維新期の最後の仙台大越家十代当主文五郎佑之以前の、大越氏の絶頂期である。養嗣子とはいえ、茂貞こそ真に仙台大越家中興の祖と称されてしかるべきであろう。

勘五郎/大越別家
 既述のごとく、茂世「男子無きに因て、外舅後藤加賀二男勘五郎、其の比〔頃〕忠宗公児御小姓組たりしを申上げ、」(「大越家系勤功巻」)「女ヲ配シテ嗣ト爲ス、」(『伊達世臣家譜』)
 「然るに父子の情和せず、終に去りて之を返せり。然ると雖、外舅従弟を養子するの因ちなみに依て分地六貫文〔六十石〕をなし、大越氏を稱し為す可き由親戚之を料はからひて、生涯対面無かりしと雖、後竟ついに約の如くすと云へり。」(「大越家系勤功巻」)
 茂世の血統は、その「女ヲ配シテ嗣ト爲」したこの大越別家に伝えられたのであるが、勘五郎夫婦には「子無く〔、〕又養」(「大越家系勤功巻」)子として左七郎宣重を迎えた。こうして茂世の血脈は、ついに大越別家においても絶えたのである。
 「延宝六[1678]-八[1680]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(『仙台城下絵図
の研究』)には、以下の大越諸氏9人の記載がある。
 「大越勘五郎 大越喜右衛門 大越権之助 大越次郎七 大越十左衛門〔茂貞〕 大越仲兵衛 大越長次郎 大越半之進 大越平左衛門」
 前回の絵図からわずか七年の間に、「仙台大越家」茂貞を除いてほとんどの当主が代わり、新たに「仙台大越別家」勘五郎の名が見える。

奥山常辰(大学)正室大越氏
 たまたま『「幻の勿来関」と古代黒川郡東山道(奥大道)』「奥山常辰」の項執筆・推敲中の本日2015.12.15、偶然次の記事を発見した。
 「父:奥山常良 母:飯田重親の娘 正室:大越茂世の娘 〔子 〕奥山常定 - 長男 芳賀頼久 - 二男。芳賀伊兵衛養子 三分一所景益 - 三男。はじめ横尾氏を再興、のち〔桃生郡深谷領主長江氏一族〕三分一所辰景養子。」(Wikipedia「奥山常辰」)
 なんと、茂世の娘が、吉岡の領主で寛文事件の大立者・宿老奥山大学の正室に入っており、大越氏の血脈が奥山氏にも流れていたというのである。
 「奥山大学の通称で知られる。
 元和2年(1616年)、仙台藩重臣・奥山常良の二男として生まれる。
 慶安2年(1649年)8月に父・常良が死去すると、長兄の定親は母方の飯田(はんだ)氏を継いでいたため、常辰が家督を相続した。承応3年(1654年)に奉行職(他藩の家老に相当)に就任。万治3年(1660年)の一門・重臣14名の連署による伊達綱宗の隠居願に署名している。
 綱宗の隠居をうけてわずか2歳で嫡男の亀千代(のちの綱村)が第4代藩主になると、常辰は柳河藩主立花忠茂(綱宗の義兄)の後押しを受けて仙台藩政を主導して集権的政策を推し進め、同じく奉行職にあった茂庭定元と激しく対立した。またこの当時、幼少の亀千代の後見役として一門から伊達宗勝(亀千代の大叔父)と田村宗良(亀千代の伯父)が大名に取り立てられていたが、常辰は宗勝の一関藩も宗良の岩沼藩も共に仙台藩62万石からの内分による知行であるから、あくまでも仙台本藩の統制に服すべきであるという姿勢を崩さなかった。
 しかし、自身の所領である柴田郡村田を岩沼藩領として提供するための代替地として、政宗の三男・宗清が寛永11年(1634年)に死去して以来蔵入地であった黒川郡吉岡を選び、さらに知行高を6,000石へ加増したことが契機となって常辰排斥運動が起こる。新田開発が頭打ちとなりつつあった中、常辰が肥沃な吉岡を蔵入地から私領に組み込んだことで、藩内に渦巻いていた常辰への不満が一気に爆発し、小姓頭の里見重勝が常辰弾劾の火蓋を切ると、一門の伊達宗重や後見役の宗勝・宗良もこの運動に同調したため、立花も常辰を庇いきれなくなり、寛文3年(1663年)7月に常辰は辞職に追い込まれた。以後常辰が藩政の中枢に関与することは無くなり、8年後の酒井邸での刃傷沙汰(寛文事件〔伊達騒動〕)に至るまで仙台藩政は宗勝主導の体制が続くことになる。
 延宝2年(1674年)3月、嫡男・常定に家督を譲って隠居する。この時所領6,000石の内から二男・芳賀頼久に400石、三男・横尾景益に300石を分知し、さらに自身の隠居料として1,800石を割いた。ただし隠居料は延宝4年(1676年)7月に廃止し、常定に1,500石を戻して残り300石を頼久に分知している。
 綱村による修史事業が始まると、藩祖・政宗に直に仕えた古老である常辰は、各種史料の検分作業への参加を命じられた。晩年の政宗に近侍した木村可親が遺した『木村宇右衛門覚書』には、常辰が内容を検分した際に附帯意見を記した付箋がつけられている。また貞享2年(1685年)の末には古内重直に宛てて万治年間以来の様々な出来事について記した覚書を送っており、これによって伊達騒動の当事者の一人であった常辰の言い分を知ることができる。
 元禄2年(1689年)1月23日死去。享年74。」(Wikipedia「奥山常辰」
)

第四節 四代十左衛門茂辰(1664-1731)

 「初め五左衛門と稱す。母米倉七兵衛女。
 寛文四[1664]年甲辰正月十六日、奥州仙台黒川郡吉岡村于に 生る。」(「大越家系勤功巻」)

御小姓頭/大越氏の頂点
 「元禄九[1696]年六月廿九日御前に於て、御武頭之を仰せ付けらる、父茂貞御奉公勤め仕つる中也。同七月廿三日父茂貞隠居仰せ付けられ家督下し置かる(中略)。同八月九日御城御番の砌みぎり御門へ罷り出で居り候処、御直じかに十左衛門と名改め稱す可き由御意を以て、名改め之を仰せ付けらる。同十[1697]年閏二月十八日御前に於て、御目附役并て御使番之を仰せ付けらる。同十一[1698]年、水沢江御目付と為り、之へ仰せ遣はさる。同十二[1699]年二月十五日、公儀御使役仰せ付けれ(中略)同〔三〕月廿六日御国元発足、四月三日江戸江参着、右御役目相勤め候。同年十月廿六日御前に於て、御小姓頭之を仰せ付けらる。同年同月廿九日、内膳と名改め之を仰せ付けらる。宝永元[1704]年、右御役目相勤め候。」(「大越家系勤功巻」)
 小姓頭は、番頭格以上のなかでも鑓奉行よりもさらに高い地位であり、茂辰は、父茂貞を凌ぐ栄達を果たしたのである。

知行宛行書/黒川郡北目大崎村五百石
 ところで、この1704年付けの「知行宛行あてがい書」が、現在大越家に残っている。これは、歴史的にたいへん貴重なものである。
 「黒川郡北目大崎村之内所々并セ都合五拾貫文〔 500石〕(目録別紙ニ立ツ)全テ領納ス可キ者也 仍如件ヨッテクタンノコトシ
     寳永元[1704]年六月日 (伊達氏朱印)
                      大越内膳との〔殿〕」(大越家十三代当主茂隆氏所蔵)
 「同六[1709]年、禁裏様御移従に付き京都江添御使者、江戸に於て仰せ付けらる。十一
月廿八日江戸発足、同七[1710]年正月二日首尾能く相勤め江戸江下着。同月十五日江戸発足、御国元江罷り下り候。
 正徳元[1711]年十一月日光御普請方仰せ付けられ、同年十二月御国元発足、江戸江上着。(中略)同二[1712]年六月日光江指し遣はされ、(中略)日光江罷り越し相勤む。同年十月日光御普請御仕へ迫るに付き、同月朔日日光発足、御国元江下着。又々同三[1713]年二月日光江罷り越し相勤む。同年九月日光御普請御成就に相成り、同月十九日日光発足、江戸江罷り登り候。同月二十七日江戸御城江召し出され、(中略)同年十月三日御暇下し置かれ、御国元江下着。」(「大越家系勤功巻」)

閉門仰せ付けられ禄の半ばを減す
 「同〔正徳〕四[1714]年正月十一日、御名懸頭仰せ付けらる。同年三月七日、御兵具奉行兼役仰せ付けらる。同年四月廿日、茂重郎様御附人仰せ付けられ、江戸江相登らる由仰せ付けられ相勤む。同年十二月廿八日、浅布〔麻生〕御小姓頭仰せ付けられ、相勤め候。享保元[1716]年七月十五日、浅布に於て不届の儀に付き江戸に於て御役目召し放たれ、閉門仰せ付けられ、同月御国元江罷り下り候。同年八月十五日、日光御勘定御目録出来、何なんとも御役人判形仰せ付けられ候に付き、先つ以て閉門御免成し下さる(中略)。同二[1717]年八月二日隠居仰せ付けられ進退〔身代〕半はするを以て、嫡子源太夫〔茂邦〕江家督仰せ付けられ御城番支配仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 またぞろ、大越氏一流の「勇悍法ヲ犯ス人ト為リ」のしからしむるところでもあろうか?この項、『伊達世臣家譜』にも「且ツ禄ノ半ハヲ減シ」とあり、以後仙台大越家の石高は 250石となった。着座の地位も失い平士に格下げとなって、大越氏は再び中・下級武士にもどったものであろう。
 「同六[1721]年八月十二日、有章院様御三回忌御法事御赦に、御城番支配御免成し下され御番入仰せ付けらる(中略)。
 一父茂貞より茂辰代に至る迄、居宅江君公成り為され候事五度、其の時々拝受物亦之有
りと雖、品数及ひ年月伝はらすと云ふ。
 享保十六[1731]年十一月五日卒、享年六十八。法諱に曰く、省私軒一閑了休信士。仙台北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)

幾之允茂樹/仙台大越分家百五十石
 茂辰の末弟幾之允茂樹は、
 「元〔天〕和元[1681]年辛丙〔酉〕しんゆう十月七日、奥州仙台に於て生る。〔1691年〕十一歳にして御児〔小〕姓組に召し出さる。元禄八[1695]年二月七日、御切米判金一枚御扶持十人分之を下さる。同十[1697]年三月廿八日御前に於て、御知行新地百五十石之を下され、勤め仕つる。別家に成し下され、茂辰家者家元、茂樹家者家末に成し下され候。同姓を稱し為す可く仰せ付けらる。後五左衛門と改む。後系茂樹家に有り、之を略す。」(「大越家系勤功巻」)
 大越氏としては、半減した知行の幾分かを回復したことにもなろうか?
 なお、茂辰の弟(で茂樹の兄)八郎は、
 「延宝三[1675]年丁〔乙〕卯いつぼう二月五日、武州江戸芝場官舎于生まれ、外舅米倉清太夫家跡を嗣く。右清太夫死後家督下し置かる之砌みきり、御加増の為と拾貫文〔一〇〇石〕之を下され、都合四拾貫文〔四〇〇石〕に成し下さる由。米倉氏之家系別に有り。」(「大越家系勤功巻」)

第五節 五代源太夫茂邦(1???-1777)

 「初め五左衛門と稱す、十郎太夫と改め、又十左衛門と改め、又三郎兵衛と改め、又忠右衛門と改め、又十左衛門と改め、又源太夫と改む。」(「大越家系勤功巻」)

脇番頭仰せ付けらる
 「享保二[1717]年八月二日、父内膳隠居仰せ付けられ、進退〔身代〕半はするを以て家督仰せ付けられ、御城番支配仰せ付けらる(中略)。同六[1721]年八月十二日、(中略)御城番支配御免成し下され、御番入仰せ付けらる(中略)。享保十五[1730]年十月朔日御城に於て、表御小姓見習仰せ付けらる(中略)。同十七[1732]年閏五月、表御小姓見習御免成し下さる(中略)。元文三[1738]年正月廿三日、(中略)江戸番馬上仰せ付けられ(中略)、延享二[1745]年迄七ヶ年江戸御国相勤む。延享二[1745]年十一月二日御前に於て、御小姓組与頭仰せ付けらる。同年同月廿五日御前に於て、袖ヶ崎御近習、大屋形様江御相談之上附け進せらる(中略)。寛延元[1748]年正月十一日、袖ヶ崎御近習不得手に付き御武頭仰せ付けられ、五十嵐太郎兵衛元組へ相預けらる(中略)。寛延三[1750]年五月、仙洞〔桜町天皇〕様崩御に付き京都へ之御使者仰せ付けらる。同月廿六日江戸発足、滞り無く相勤め、同年七月五日江戸へ下着。
 宝暦四[1754]年三月、唐土へ御領内之者並に南部領之〔者〕漂流致し候に付き、長崎表へ御受取之為御人数遣はされ候に付き、長崎表詰御奉行衆江之御使者仰せ付けらる。同月廿九日江戸表御人数引纏め出立、同年七月五日右漂流の者共召連れ江戸へ下着仕つり、南部領之者共御引渡し相済み、同月十一日江戸出立、同十九日御国元江御領内漂流之者共召連れ参着致す。右『長崎御使者御用留』別に有り。
 同七[1757]年正月十一日御前に於て、江戸番組頭仰せ付けらる。明和八[1771]年迄拾五ヶ年右御役相勤め候。安永元[1772]年正月御城に於て、脇番頭仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 脇番頭は、詰所以上の格の上位である。

元鍛冶町大越家侍屋敷
 「安永元[1772]-七[1778]間製作『仙台地図』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究には、以下の7人の大越氏の記述がある。
 「大越伊右衛門(北六) 大越圓之助〔茂慶〕(元柳町) 大越勘〔右〕衛門〔利堯〕(東四) 大越源大夫〔茂邦〕(元鍛冶町) 大越善左衛門(茶畑) 大越豊之助(外記丁通) 大越彦太夫(東七)」
 当時茂邦の侍屋敷のあった元鍛冶町は、
 「江戸期から昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。(中略)国分町と本材木町を東西に結ぶ町。本鍛冶町ともいった(仙台市史)。城下開設の際に鍛冶町が置かれ、のち南・北鍛冶町が成立したのに伴い、元鍛冶町と称されるようになった。もと町人町であったが、正保絵図〔1644-48〕以後のものすべて中・小身の侍屋敷を記している。南方を本櫓町、北方を北櫓町(定禅寺通櫓町)とも称したので中櫓町ともいわれた。『仙台鹿の子』には『中屋倉丁火の見屋倉ある故にやくら町といふ。昔は太鼓なりしを寛文延宝中〔1661~1680〕の頃鐘となる』とある。(中略)昭和45年現行の国分町2丁目・立町となる。」(『角川日本地名大辞典』)
 圓之助茂慶はのちに述べる茂邦の弟で、勘〔右〕衛門〔利堯〕は大越別家左七郎宣重の子である。

病気・類焼/大越家の暗雲
 「同〔安永〕五[1776]年四月廿三日、類焼に付き御材木拝領仰せ付けらる。」(「大越家系勤功巻」)
 「同年同月同日、病気に付き願ひの如く御役御免隠居成し下され、跡式御相違無く嫡子同氏十左衛門〔茂慶〕に下し置かれ候。
 安永六[1777]年九月十五日卒。法諱に曰く、湛堂了然信士。仙台北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)
 父茂辰の「不届」・「閉門」・「減禄」の跡を受けた五代茂邦の代から、仙台大越家にはしだいに暗雲が漂いはじめた。茂邦は、じつに六回も名を改めている。1776年の罹災は茂邦の命運にとどめをさした。以前から病床にあったと思われる茂邦は、罹災の「同年同月同日」隠居し、翌1777年9月には亡くなってしまった。
 「大越家系勤功巻」の記載も、このころから急速にその内容が乏しくなっている。茂邦については、すでにその生母、生年したがってまた享年も不明である。六代茂慶から八代茂善にかけては、のちに見るように、さらにいっそうはなはだしい。大越家の困窮は、「家伝」の記述に如実に表れているのである。
 なお、前述の茂邦の弟圓之助茂慶は、叔父「同姓五左衛門〔幾之允〕茂樹之養子と為」
(「大越家系勤功巻」)って、既述の仙台大越分家を継いだ。

第六節 六代十左衛門茂慶(17??-1812)
六代十左衛門茂慶
 「安永五[1776]年四月廿三日、父茂邦願ひ之上隠居仰せ付けられ、跡式御相違無く下し置かれ候。天明七[1787]年三月廿八日、病気に付嫡子兵彌茂門へ、願ひの如く名代御奉公仰せ付けらる。寛政九[1797]年八月、病気に付き隠居願ひ申し上け、願ひの如く隠居仰せ付けられ、嫡子兵彌茂門へ跡式下し置かれ候。
 文化九[1812]年九月廿二日卒。法諱に曰く、仙翁法壽信士。仙台北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)
 1776年の家督相続後わずか11年の1787年、茂慶はまたしても病気となって嫡子を名代とし、10年後の1797年には隠居してしまった。それから4年後の1801年には、あろうことか次代茂門に先立たれて、翌1802年嫡孫茂善が家督を相続した。11年後の1812年、茂慶は亡くなった。この間、彼もまた三回改名しており、その生年・享年ともに不明である。「家伝」の記載も上記がその本文のすべてである。
 茂善は、すなわち十代文五郎の高祖父である。
 「仙台城下絵図(文化九[1812]-十四[1817]間製作)所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)には、つぎの二家の記載があるだけである。
 「大越幾之丞〔茂最〕(北四丁) 大越十右〔左〕衛門〔茂善〕(元鍛冶町〔現国分町二丁目・立町〕)」
 これによれば、茂慶の侍屋敷は、父茂邦同様元鍛冶町にあった。


第七節 七代兵彌茂門(17??-1801)
七代兵彌茂門
 「天明七[1787]年三月廿八日、父茂慶病気に付き名代御奉公仰せ付けらる。寛政九[1797]年八月父茂慶病気に付き隠居願ひ申し上け、願ひの如く隠居仰せ付けられ、跡式御相違無く下し置かれ候。
 享和元[1801]年十一月廿六日卒。法諱曰、雪峯玄秀信士。仙台北山覚範寺に於て葬る(享年不詳)」(「大越家系勤功巻」)。
 父に先立つこと11年の早世であった。茂門は、すなわち十代文五郎の曾祖父である。
 以上が「家伝」本文のすべてであり、先代の記述とほとんど同文で、新たな内容はまったくない。
 『伊達世臣家譜』続編には、「亨和元[1801]年十一月病死」とある。生年・享年ともに不明であり、茂慶・茂門父子二代の記憶は、わずかに墓碑銘の類をを除いては、まったく失われてしまったも同然である。当時の大越家の困窮や、推して知るべしである。


第八節 八代十左衛門茂善(1786-1853)
病気に付御役御免
 「天明六[1786]年五月、奥州仙台于に 生る。享和二[1802]年三月父兵彌茂門病死し、跡式嫡子多門〔茂善〕江御相違無く下し置かる。
 文化三[1806]年九月、御牒役仰せ付けらる。同五[1808]年三月、願ひの如く十左衛門と名改め仰せ付けらる。文政五[1822]年九月、奥筋御出馬に付き御供仰せ付けらる。同七[1824]年十一月、江戸番馬上仰せ付けらる。(「大越家系勤功巻」)
 江戸番馬上は下級武士の職である。
 「同九[1826]年病気に付御役御免成し下され度く願ひ奉り候処、同年六月十五日御城に於て、願ひの如く御役御免成し下され、嫡子源太夫〔茂庸〕江名代御奉公仰せ付けられ候。」(「大越家系勤功巻」)

拾壱貫七百拾二文黒川郡北目大崎村之内
 二年後の1828年付けの「知行宛行書」が、大越家に保管されている。
 「黒川郡北目大崎村之内所々并アハセ都合貮拾五貫文〔 250石〕(目録別紙ニ立ツ)全テ収納ス可キ者也
 文政十一[1828]年六月日 〔朱印〕伊達家〓〔第〕二十八世藤原朝臣齊邦之印
                      大越十左衛門〔茂善〕との〔殿〕
   細約御割目録〔別紙〕
一 拾壱貫七百拾二文〔 117石1斗2升〕黒川郡北目大崎村之内
一 貮貫八百七拾四文〔28石7斗4升〕本吉郡十三濱之内
一 三貫六百貮拾文〔36石2斗〕桃生郡源〓細村之内
一 壱貫貮百拾四文〔12石1斗4升〕膽澤郡下衣川村之内
一 三貫二百六拾四文〔32石6斗4升〕栗原郡三迫有賀村之内
一 貮貫百七拾六文〔21石7斗6升〕江刺郡伊□村之内
   都合貮拾五貫文〔 250石〕
願ヒ之通リ行下〓之〓 仍如件ヨッテクタンノコトシ 」(大越家十三代当主茂隆氏所蔵)
 当時、仙台大越家の本領北目大崎村の石高は約 120石で、大越家の全知行高のほゞ半ばを占めていたことがわかる。
 なお、「仙台藩の知行宛行状には目録を伴うのが定石であるけれど、両者現存している例は極めて少ない」(『岩手県史』)。大越家には、この他にも多数の完全な形の知行宛行書が門外不出で秘蔵されており、これらはきわめて貴重な史料である。

病気に付き願ひの如く隠居
 1832年、いよいよ嫡孫文五郎が生まれた。茂善は文五郎の祖父なのである。
 「弘化四[1847]年四月朔日御城に於て、病気に付き願ひの如く隠居仰せ付けられ、跡式御相違無く伜金太夫〔茂庸しけつね〕江下し置かる旨(中略)仰せ渡さる。
 嘉永六[1853]年八月廿二日卒、享年六十八。法諱に曰く、桂岩宗永信士。仙台北山覚範寺に於て葬る。」(「大越家系勤功巻」)
 『伊達世臣家譜』続編には、「嘗テ小笠原流礼法ヲ内海亘成ニ於テ学ヒ美其ノ伝ヲ極ム」とある。
 茂善は、父の早世により弱冠18歳で家督相続、1826年40歳でまたしても「病気に付御役御免」となり、嫡子茂庸を名代とした。1847年隠居したが、2年後の1849年こんどは次代茂庸に先立たれ、嫡孫文五郎が17歳で家督を相続した。4年後の1853年、茂善は68歳で没した。 茂善は文五郎佑之の祖父である。「家伝」の記述が少しく詳細になっているのは、むしろ孫文五郎の記憶と見た方が妥当であろう。大越家の窮迫はなお続いていたのである。

第九節 九代金太夫茂(1808-1849)

穰三郎〔慶邦〕様御相手
 「文化五[1808]年戊辰三月十七日、奥州仙台于生る。文政九[1826]年六月十五日、父十左衛門茂善病気に付き、願ひの如く御役御免仰せ付けられ名代御奉公仰せ付けらる(中略)。
 同十三[1830]年五月十九日、御牒役仰せ付けらる。同年十一月十五日御城に於て、御小姓見習仰せ付けらる(中略)。同年同月廿八日、願ひの如く金太夫と名改め仰せ付けらる。」(「大越家系勤功巻」)
 1832年11月、嫡子文五郎が誕生した。
 「天保五[1834]年二月廿二日御城に於て、当分穰三郎〔慶邦〕様江御相手に貸し進せら
る。(中略)同年三月七日御城に於て、御小姓組仰せ付けらる(中略)。同八[1837]年六月十四日、奥へ相通さる(中略)。同九[1838]年七月朔日御城に於て、御小納戸仰せ付けられ、直々じきじき御部屋へ附け進せらる。」(「大越家系勤功巻」)
 「穰三郎〔伊達慶邦〕様江御相手に貸し進せら」て以降の小姓としての経歴は、のちに慶邦の代になってからの嫡子文五郎の出世にあずかって、おおいに力があったことであろう。
 「同十[1839]年九月江戸に於て御曹司〔慶邦〕様御大病に付き、屋形〔斎邦〕様御旅中迄早御使仰せ付けらる。九月十五日即出立、屋形様御登り御道中白川駅御寓迄罷り下り、御曹司様御容子柄委曲屋形様御寝所江罷り出で直々申し上け奉るや否や、引返し江戸江帰着、但し御国迄日数三日之振合を以て仰せ付けらる。九月十五日午九ツ時〔正午〕江戸芝上邸を出発、翌十六日夜五ツ時〔午後八時〕白川迄参着す。」(「大越家系勤功巻」)

四十二歳にして父に先立ち病死
 「同十三[1842]年八月三日御城に於て、御小納戸判形役仰せ付けらる(中略)。弘化四[1847]年四月朔日、父茂善病気に付き願ひの如く隠居仰せ付けられ、跡式御相違無く下し置かる(中略)。
 嘉永二[1849]年七月廿六日卒、享年四十二。法諱に曰く、桂窓受香信士。仙台北山覚範寺に於て葬る」(「大越家系勤功巻」)。
 祖父茂門同様、父に先立つこと4年の短い命であった。
 茂庸はすなわち、文五郎佑之の父である。代々続いた当主の病気により、1826年18歳で名代奉公したが、その職責はいずれも下級武士のものであった。1847年正式に家督を相続したが、わずか2年後の1849年、当「家伝」の文五郎の項によれば、父に先立つこと四年の四十二歳で、またしても「病死」した。高祖父茂邦以来五代続いての「病死」である。
 仙台大越家の上にたれこめた暗雲は、いっこうに晴れそうになかった。おりから、時代は風雲急を告げつつあった。
 茂庸の弟房治の項には、「文久四[1864]年四月、故無く出奔候事。」とある。またして
も、大越氏一流の「勇悍法ヲ犯ス人ト為リ」のなせる業であろうか?

貞女大越とみえ女
 ところで、『仙台人名大辞書』にはつぎのような記述がある。
 「オーゴエ・トミエ【大越とみえ女】貞女。
 とみえは馭士青野十郎の姉なり、年十七、大番士大越金太夫〔茂庸〕に嫁す、金太夫の父〔茂善〕悪疾を患ふ、金太夫謂ひて曰く、父の病は世の深く厭ふ所なり、汝の意如何、とみえ曰く、妾わらわ聞く、女子は二夫に見まみえずと、君奚なんぞ斯く言を出すやと、舅姑に事つかふること益々篤し、
 居ること数年、舅姑終に死す、未だ幾いくばくならずして金太夫また悪疾に罹る、医薬累歳家産殆ど傾き、遂に居を城外〔北目(大崎)村?〕に移す、十郎及び親戚とみえの艱苦かんくを愍あわれ み、将に改め嫁せしめんとし、事に託して之を召し、直ただちに人を遣わして離婚を乞ふ、金太夫輙すなはち休書を裁して奩れん具を返す、とみえ之を知るも口に出さず、時に弟十郎の妻人の児を乳養し、乳の足らざる時はとみえをして乳せしむ、とみえ窃ひそかに夫の休書を竊〔窃〕ぬすみ、乳家を訪ふと偽り、走りて夫の家に往き涕泣して情を陳ぶ、金太夫深く其志を感じ、人をして十郎に告げしむ、十郎大いに愧ぢて其罪を謝す、
 後ち金太夫満身腐壊し、百事共に廃するに至る、とみえ曰く、僻地〔北目(大崎)村?〕は医薬に乏し、且つ妾も剪裁の賃を得るに難し、府下に処るに若かずと、遂に旧宅に環り、倍々力を竭して夫及び姑を奉養し、且つ人の子を育養して眥まなじりを仰ぎ、更に人の為めに紡績し、夜以て日に継ぎ、僅に凍餓を支ふ、見るもの感動せざるなし、弘化二[1845]年六月朔、慶邦公金五両を賜ひて其孝順貞操を賞す、公夫人また金帛の内賜あり。(東藩野乗)」
 文五郎の生母は「齋藤孫三郎娘」であり、また前述のごとく茂庸は父茂善に先立ってい
るなど、上記の記事は「大越家伝」の記述とはくいちがっているところがある。しかし、なんといっても「大越金太夫」と明記されており(、また「金太夫の父悪疾を患ふ」、「金太夫また悪疾に罹る、医薬累歳家産殆ど傾き」等々の記述は、上述の事情に鑑みて真に迫るものがある。それゆえ、私はこの「貞女とみえ」を、文五郎の義母と考察したい。 はたしてそうであるとすれば、「城外に移」した「居」および「走りて」「往」った「夫の家」ならびに「医薬に」「乏し」い「僻地」とは、大越家の北目(大崎)村在郷屋敷ということになろう。大越家在郷屋敷は、のちの大越まつゑの戸籍上の父で、おそらく大越家の陪臣だったろう早坂與惣治宅の所在地・「北目大崎村47番地」〔今日の北目部落〕にあったものであろう。

   

第十節 仙台大越分家


 「大越姓坂上、其ノ先大越十左衛門茂貞自リ出ス、(大越源兵衛某ヲ以テ祖ト爲ス、其ノ裔虎間番士ト爲リ、二百五十石之祿ヲ保ツ、今大越十左衛門茂慶ト稱ス、)茂貞カ次男大越五左衛門〔幾之允〕茂樹シケキ(兒小姓ニ擧ク時、未タ名諱ヲ撰ハス、肯山〔綱村〕公親書シ茂樹二字ヲ以テ賜フ、)ヲ以テ、祖ト爲ス、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今百五十石之祿ヲ保ツ、」(『伊達世臣家譜』巻之十四平士之部百二十一)

初代五左衛門茂樹
 「茂樹元祿六[1693]年正月肯山〔綱村〕公之末、兒小姓ニ擧ケ、八[1695]年二月判金一枚廩クラ米十口ヲ給ス、後小姓組ト爲リ、江戸留守番組頭〔、〕淺布〔麻布〕小姓組頭ヲ歴遷ス、是ヨリ先元祿十[1697]年三月、新タニ百五十石ヲ賜ヒ、前ノ俸一枚十口ヲ収メ、是ニ於テ今之祿〔 150石〕ト爲ル、」(『伊達世臣家譜』)

大越分家歴代
 「茂樹子無シ、大越内膳茂辰カ次男ヲ養ヒテ嗣ト爲シ、之ヲ圓之助茂慶ト稱ス、」(『伊達世臣家譜』)「大越圓之助茂慶甞テ鏡知流槍術ヲ諏訪万助親安于ニ學ヒ其ノ伝ヲ極ム、寛政五[1793]年十二月致仕チシス
 茂慶カ子定五郎茂格家ヲ承ケ〔、〕文化六[1809]年十二月病ニ而死ス〔。〕
 茂格カ子五左衛門茂知〔茂廣〕是ヨリ前寛政八[1796]年十二月有故リテ嗣ヲ廃シ而〓陀
国追放之刑ヲウク
 是ニ於テ白川小左衛門親継カ第三男ヲ養ヒ〔、〕文化元[1804]年三月女ヲ配シ嗣ト爲ス〔、〕之ヲ幾之亟茂最ト称ス〔。〕
 茂最カ子定八茂清甞テ陰山流居合ヲ菊地左膳武恒于學ヒ〔、〕其ノ目録ヲ受ク」(『伊
達世臣家譜』続編)。

   

第十一節 仙台大越別家


 「大越姓藤原、其ノ先五島加賀自リ出ス、加賀カ次男大越勘五郎某ヲ以テ祖ト爲ス、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今ニ百一石二斗之祿ヲ保ツ、」(『伊達世臣家譜』巻之十三平士之部六十八)

初代大越勘五郎
 「拙者〔勘五郎〕儀後藤加賀次男に御座候処、寛永十一[1634]年御上洛之刻京都にて、古内主膳を以て義山〔忠宗〕様へ御小姓組に召し出され、無足にて御奉公五ヶ年相勤め申し候処に、同拾五[1638]年三月(中略)御切米三両四人御扶持方下し置かれ、」(『仙台藩家臣録』)「後大越十左衛門茂世、女ヲ配シ嗣ト爲ス、有故リテ其ノ家ヲ續カスト雖イヘトモ、遂ニ大越氏ヲ稱ス、」(『伊達世臣家譜』)
 「且つ又親〔後藤〕加賀知行高之内十三貫六百文〔 136石〕拙者に下され度き旨、加賀存命中之内願ひ差し上け申し候処に、右加賀病死仕つり候以後、(中略)加賀願ひ之通り拙者に分け下さる旨、慶安四[1651]年十一月十四日に仰せ渡され拝領仕つり候。
 然る所右十左衛門〔茂世〕知行高の内にて六貫文〔60石〕拙者に分け下され度き旨、右十左衛門存命之内願ひ差し上け申し候処病死仕つり、以後十左衛門願ひ之通り寛文元[1661]年十一月十六日拙者に分け下さる之旨、御当代〔綱村〕奥山大学を以て仰せ渡され候。其れ以後寛文弐[1662]年惣御下中持添へ之御切米御扶持方御知行に直し下し候並みを以て、拙者に下し置かる御切米御扶持方三貫五百十四文〔35石1斗4升〕に直し下され、都合弐十三貫百十四文〔 231石1斗4升〕に結ひ下され、御黒印頂戴仕つり候。且つ又野谷地拝領仕つり自分開発、起目新田弐貫六文〔20石6升〕之処寛文十二[1672]年正月廿五日柴田外記を以て拝領仕り候。当時拙者知行高弐十五貫百弐十文〔 251石2斗〕に御座候。勿論御黒印頂戴仕つり候。以上
 延宝五[1677]年三月二日」(『仙台藩家臣録』)

大越別家歴代
 「勘五郎子無く又左七郎〔宣重〕を養ふ。」(「大越家系勤功巻」)
 「元祿十五[1702]年肯山〔綱村〕公之末、淺布〔麻布〕屋敷役ト爲ル、
 宣重カ子九大夫宣堯、寶永元[1704]年獅山〔吉村〕公ノ初メ、小姓組ニ擧ク、
 〔宣堯〕子無ク弟ヲ立テ嗣ト爲ス、之ヲ勘右衛門利堯ト稱ス、寶暦二[1752]年忠山〔宗村〕公之末、相去アイサリ足軽頭ト爲ル、
 〔利堯〕亦子無シ、富田覺之丞良光カ次男ヲ養ヒ嗣ト爲ス、之ヲ勘五郎堯泰ト稱ス、明
和五[1768]年正月今〔重村〕公ノ時、五十石ヲ黒澤嘉八廣明ニ於テ分地ス、廣明ハ中間番士、而テ今ニ百石之祿ヲ保ツ、」(『伊達世臣家譜』)
 「大越勘五郎堯泰安永七[1778]年十二月罪有リテ閉門之刑ヲウケ禄ノ半ハヲ減ス〔、〕是ニ於テ今ノ禄(百六斗〔百一石二斗?〕)ト爲ル〔、〕閉門免セラル後城番ニ屬ス
 堯泰子無ク早川斎惟義カ二男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲ス〔、〕之ヲ勘右衛門堯行ト稱ス」(『
伊達世臣家譜』続編)、
 「大越勘右衛門道泰(初名堯行)寛政六[1794]年十二月家ヲ承ク〔、〕甞テ三上流釼術ヲ水戸浪士三上久左衛門〓實ニ於テ忠臣流釼術ヲ早川良作義預ニ於テ學ヒ皆其ノ傳ヲ極ム〔、〕
 道泰カ子萬〔大夫?〕寛泰文化六[1809]年五月一関〔田村〕候于ニ使属シ以テ鷹術ヲ〔一関〕候于ニ教フ〔、〕十三[1816]年十一月家ヲ承ク〔、〕甞テ三上流釼術ヲ早川大炊之介典誼ニ於テ鷹術ヲ早川齋惟義ニ於テ學ヒ皆其ノ傳ヲ極ム〔、〕
 寛泰子無ク橋本市郎兵衛俊道カ三男雄三郎行泰ヲ養ヒ女ヲ配シテ嗣ト爲ス」(『伊達世
臣家譜』続編)

大越内記家
 「大越内記儀、田村浪人にて〔吉岡〕伊達河内〔宗清〕殿へ御奉公仕つり候。」(『仙台藩家臣録』)
 「内記死去仕つり実子大越平左衛門引続き御奉公仕つる、〔1634年〕河内殿御遠行已後義山〔忠宗〕様へ召し出され、寛永廿一[1644]年に佐々若狭を以、御知行高三貫五十八文〔30石5斗8升〕下し置かれ候。」(『仙台藩家臣録』)
 既述のとおり、政宗の庶子伊達河内守宗清は、仙台大越家初代源兵衛の北目(大崎)村入りとほとんど同時期の1613年に、隣村下草しもくさ村に封ぜられた(のち吉岡に移る)。これに従った内記は、わずか三十石の微禄ながら、奇しくも同族源兵衛の隣村におちついたのである。
 内記と源兵衛の関係は不明だが、少なくとも1634年の宗清の死までの20年間は両大越家が黒川郡内に併存していたわけであり、とうぜん交流があったことだろう。
 「然る所に平左衛門隠居仰せ付られ、実子拙者〔平左衛門〕に寛文五[1665]年七月廿八日に、原田甲斐を以て家督に下し置かれ候。先祖の儀は承伝を以て申し上げ候。以上
 延宝五[1677]年正月廿九日」(『仙台藩家臣録』)


(続く)



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