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InterBook紙背人の書斎
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第七章 仙台大越家十代文五郎佑之(仲)(1832-1916)



 「母斎藤孫三郎娘
 実名初め茂高と稱す。安政五[1858]年〔徳川家茂の将軍就任により〕茂之字御禁字に相成り、願ひ之上実名を佑之すけゆきと改む。
 俗名初め佑之進と稱す。慶応三[1867]年正月十一日御城に於て、文五郎と名改め仰せ付けらる。同四[1868]年十月五日御城に於て、仲なかと名改め仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)

第一節 七職を兼ね出色の誉れあり
17歳の大越家十代当主
 仙台大越家十代文五郎佑之は、「天保三[1832]壬辰年十一月四日、奥州仙台于生る。」(「大越家系勤功巻」)すなわち、私の外高祖父である。
 「天保五[1834]年二月廿二日〔26歳の父茂庸が、〕御城に於て、当分穰三郎〔伊達慶邦〕様江御相手に貸し進せらる。」(「大越家系勤功巻」)おそらくこのことが、1841年に最後の藩主となった慶邦が文五郎を取り立てることになった遠因であろう。
 青年時代の茂高(文五郎)は「洋式兵法を学び、出色の誉れあり。」(『仙台戊辰史』)
 「弘化四[1847]年四月朔日、〔祖〕父茂善病気に付き、(中略)〔父茂庸に〕跡式御相違無く下し置かる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 ところが、「嘉永二[1849]年十二月四日父茂庸〔祖父茂善に先立って〕病死し、〔17歳の茂高(文五郎)に〕跡式御相違無く下し置かる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 「同三〔1850] 年九月十五日御城に於て、御小姓見習仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 「嘉永六[1853]年八月廿二日」、祖父茂善が「享年六十八」(「大越家系勤功巻」)で病死した。
 「安政二[1855]年九月九日、御参府御供登り。同〔安政〕三[1856]年三月四日江戸芝上邸に於て、奥江相通さる旨(中略)仰せ渡さる。同三[1856]年五月十四日御城に於て、御小姓組仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)

外記丁大越家侍家屋敷とまつゑの誕生
 同1856年12月8日、長女まつゑが生まれた。すなわち、私の曾祖母である。時に茂高は24歳。生母は「村田氏」(大越文五郎夫妻墓碑銘)、その名は不詳である。
 「安政補正改革仙府絵図(安政三[1856]-六[1859]年間製作)所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)には、以下の大越6氏の名がある。
 「大越温治(新坂通) 大越定八(川内) 大越忠之進(上杉山通) 大越満大夫(光禅寺通) 大越保之進(成田町) 大越佑之進〔(文五郎)茂高〕(外記丁)」。おそらく、まつゑはこの「外記丁」の大越家侍屋敷で生まれたのであろう。「江戸期から昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。(中略)現在の県庁の東側の通りで、第2次大戦による戦災前までは北一番丁から東南方向に延びて花京院通とつながっていた。町名は、かつて藤外記が住んでいたことに由来する。江戸期には中身侍屋敷が置かれていた。明治以後県庁の設置(中略)によって、次第にオフィス・学校街と化した。昭和45年現行の錦町1丁目・本町1丁目・同3丁目となる。」(『角川日本地名大辞典』)
 1810年代の祖父茂善の侍屋敷は、「中・小身の侍屋敷」のあった元鍛冶町にあった。以後40年の間に、大越家侍屋敷は、「中身侍屋敷が置かれていた」外記丁に移っていた。ちょうど、現在の宮城県庁構内東南隅辺にあたる。
 なお、現在文五郎(佑之進茂高)の兄弟は不明であるが、ここに見える「忠之進」と「保之進」の二人は、その名前から推して、文五郎(佑之進茂高)の兄弟ではなかろうか?定八は大越分家の当主、満大夫は大越別家の当主であろう。

先祖茂世二百回忌と文平の誕生
 「同〔安政〕四[1857]年七月九日御城に於て、奥御小姓組仰せ付けらる(中略)。同年八月、御参府御供登り。同五[1858]年三月、御下向御供下り。」(「大越家系勤功巻」)
 「安政五[1858]年〔徳川家茂の将軍就任により〕茂之字御禁字に相成り、願ひ之上実名〔茂高〕を佑之
すけゆきと改む。」(「大越家系勤功巻」)
 「同六[1859]年八月、御参府御共登り。同七年四月、御下向御共下り。」(「大越家系勤功巻」)
 「万延元[1860]年一月二十日」(五十嵐栄吉『大正人名辞典』東洋新報社・日本図書センター)、長姉まつゑに4年遅れて、次男・嗣子文平が生まれた。母は、姉まつゑ同様村田氏である。
 同「万延元[1860]年九月四日、先祖茂世二百回忌之段御聴に達し、〔かつて父茂庸が「御相手」を務めた藩主伊達〕慶邦公御自筆を以て御詠歌下し置かれ、同日居宅へ(中略)御使を以て仏前江相備ふ可き由御意を以て、御檜重ね之御菓子之を拝領す。御詠者
背装し而以て〔現在もなお〕家に蔵す。」(「大越家系勤功巻」)
 すなわち嗣子文平は、奇しくも「先祖茂世二百回忌之」年に生まれたのである。

蝦夷地御警衛
 「同二[1861]年正月廿日御前に於て、御証文預主立仰せ付けらる。文久元[1861]十月十六日御前に於て、御目附御使番仰せ付けらる。」(「大越家系勤功巻」)
 「御証文預主立」は詰所以上格の最後尾、「御目附御使番」はその中位である。
 「同〔文久〕二[1862]年十月九日御城に於て、来春蝦夷地御領分白老
しらおい元御陣屋一ヶ年番高平喜三郎へ交代仰せ付けらる(中略)。同三[1863]年六月十二日御国元発足、蝦夷地白老江罷り下り、御警衛相勤む。同四[1864]年三月朔日、御用之有りて白老を出立し、御領分東蝦夷地之内戸勝〔十勝〕、悪消〔厚岸〕、根室、クナシリ〔国後〕迄回浦し、日数四十五日振にて四月十五日白老江帰陣致す。同五月二十八日、御改草に付き交代無く御番明成し下さる(中略)。同日白老を出立し、六月廿三日首尾能く仙台江帰着す。」(「大越家系勤功巻」)

川内中之坂通に屋敷を下し置かる
 「元治二[1865]正月十一日、御前に於て御近習仰せ付けらる。
 慶応二[1866]年九月九日御城に於て、川内中之坂通翔上り北側国分平蔵屋敷を下し置かる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)当時9歳のまつゑおよび5歳の文平等の兄弟姉妹もまた、父佑之(文五郎)とともに、この大越家最後の侍屋敷に移転したことであろう。
 「川内中の坂通〈仙台市〉
〔近世~近代〕江戸期から昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。(中略)仙台城二の丸の北方で、川内亀岡通と同筋違橋通の間の通りである。川内川前町から亀岡御殿に通じる坂道。寛文〔1661~72〕以後の絵図に侍屋敷が見える。仙台城二の丸に近接する場所のため中・上級家臣の屋敷を多く配置。」(『角川日本地名大辞典』)
 大越家の侍屋敷は、「中身侍屋敷が置かれていた」外記丁から、「仙台城二の丸に近接する場所のため中・上級家臣の屋敷を多く配置」していた「川内中之坂通」へと移されたのである。

七職を兼ね裁断宜しきを得名を文五郎と賜ふ
 「同〔1866年9〕月十五日御城に於て、御用御取次兼役仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 「御用御取次」はすなわち「御申次」であろう。佑之(文五郎)は、大越家三代茂貞の「鑓奉行」および四代茂辰の「小姓頭」に匹敵する、「番頭格」以上の上級武士の役職に就いたのである。
 「同月十九日御城に於て、御祭祀奉行兼役仰せ付けらる(中略)。同〔慶応〕三[1867]年正月十一日御前に於て、御不断頭、御近習兼役仰せ付けらる。同日焼火之間に於て、文五郎と名拝領仰せ付けらる旨葦名靭負を以て仰せ渡さる。同年四月朔日御城焼火之間に於て、御膳番兼役仰せ付けらる旨泉田志摩を以て仰せ渡さる。同年五月十五日御城に於て、御旗本足軽頭兼役仰せ付けらる(中略)。同年十一月朔日御城御奉行詰所に於て、御不断頭御免成し下され列是迄之通り仰せ付けられ、御近習一篇相勤可き外、兼役者
是迄通り仰せ付けらる(中略)。」(「大越家系勤功巻」)
 これを要するに、「洋式兵法を学び出色の誉あり、七職を兼ねて、裁断宜しきを得、慶邦公名を文五郎と賜ふ」(『仙台人名大辞書』)。こうして、「大越文五郎」が誕生した。

大番組之組頭相勤む可き旨仰せ渡さる
 「同[1867]年同[11]月八日御城に於て、御上京御供登り仰せ付けられ、大番組之組頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 「大番組之組頭」すなわち「大番頭
おおばんがしら」は、「仙台城の番役を司り、平士の大番十組(一組三百六十人)および矢ノ目・成田・小舟越の足軽を支配した。(中略)大番頭の副を脇番頭という。」(『宮城縣史』)「大番頭格乗輿」以上の最上級武士である。文五郎佑之は、ついに藩の高級武士団の仲間入りをしたのである。
 「同年同月廿一日御城に於て、御上京中非常之節は大隊教頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 かくて、文五郎佑之はいよいよ風雲渦巻く幕末の京都へ上洛することになった。

第二節 奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長

 「東北の戊辰史に一つの定説をつくった大著(中略)明治四十四〔1911〕年刊行の藤原相之助(非想庵)『仙台戊辰史』」(『宮城県の歴史』)は、文五郎に多くのページを割いている。以下、同じく藤原相之助の手になる『奥羽戊辰戦争と仙台藩』(柏書房)を中心に、我が外高父祖大越文五郎佑之の足跡をつぶさに辿ってみることにしよう。

大番組頭大越文五郎三好監物に従ひ京に上る
 1867 (慶応3) 年12月、「〔伊達〕一門連署の趣意に基つき、兵を京師に出すことになり、隊長たるべきものを人選の末、三好監物けんもつを西上せしむるに決した」(藤原相之助『復刻仙台戊辰史』柏書房)。
 「御先手人数を率い出発すべくして船の都合により延引中の三好監物は〔、手頭〕富田小五郎、〔大番頭〕大越文五郎、〔目付〕金須内蔵之丞、〔徒目付〕伊藤十郎兵衛らとともに、〔1868 (慶応4) 年〕正月十四日」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)「御国元出立、寒風沢洋より蒸気船にて御人数相登られ候。同日乗船、翌十五日潜ヶ浦〔かつぎがうら〕を出帆致し、同月廿日昼四ツ時志摩之国鳥羽城下江着岸す。同日夕刻同所江上陸、二日滞留す。同廿三日出立、陸通し、同日伊勢〔内外〕両宮江拝礼す。此の日山田三日市太夫次郎の邸に惣御人数泊す。翌日勢州〔伊勢〕之津に泊す。同廿五日、東海道土山に泊す。夫より江州御領羽根田御陣屋江着し、御用之有りて暫く滞陣す。二月七日出立し、中山道守山駅に出、夫より草津大津へ入京し、同日粟田御殿江上着す(但し京御屋敷御手狭に付き、右御殿御借り受けに相成り候)。」(「大越家系勤功巻」)

兵を大越文五郎の指揮下に置き
 おりから京都では、「長州藩は薩州との提携に成功して、ともに密勅を戴き徳川討伐会津征討ということになり、戊辰正月征討大総督が進発するとともに、奥羽鎮撫使が任命せられて薩長代表の下参謀も定まった時、仙台藩の家老〔吉岡千五百石〕但木土佐、若年寄の三好監物などが京都におり、坂本大炊おおい、大越文五郎、伊藤十郎兵衛なども周旋していたので、入説に抜目のない世良や大山〔格之助〕は、但木や三好に対して働きかけることを怠らなかった。但木や三好が当時の京都の空気に同化して主戦論者となって帰藩した(中略)が、世良や大山は、これで大抵、仙台藩を駕馭する見込みもついていたつもりであったと見える」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 三好は、「此時既に討会の命を奉じ錦旗を授けらるべきこととなり居りしを以て但木とも会談の上、同〔2月〕十七日御所に出頭し錦旗及び日月旗を奉戴し坂本大炊及び富田小五郎をして之を奉じて帰国せしめ、討会の軍務に関して薩長諸藩と打合せ、尚参与其他の人々の意見をも聞き周旋する所ありたり」(『仙台戊辰史』)。
 他方、かねて「建白の使者を命ぜられた仙台藩の大條おおえだ孫三郎は、(中略)但木と坂本とが仙台に帰り、京師の事情を委細申上げたなら、それにより国論が別に決定されるでもあろう、先ず建白の奉呈は差扣ひかえて置こうと考えた。 しかるに仙台からは何の沙汰もなく、三月朔日には鎮撫使がいよいよ仙台に向うというのである。三好は、これはこうしてはおられぬと」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)、「同年二月十四日粟田御殿に於て、此の度奥羽鎮撫使江相附けらる惣人数之隊長〔を文五郎に〕仰せ付け」(「大越家系勤功巻」)、「自分の率いて来た兵を大越文五郎の指揮下に置き、その身は二月十九日急ぎ帰国の途についた。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長大越文五郎
 「奥羽鎮撫総督一行は三月一日進発することになった。事実は一日遅れた。大阪から四隻の船が仙台領松島に向かうことになる。総督以下三卿は紀州船、薩摩・長州は芸州船、筑前と仙台はそれぞれの藩の蒸気船に搭乗した。仙台藩は購入したばかりの『宮城丸』である。
  総 督 〔従一位・左大臣〕 九条道孝(中略)
      その付属は諸大夫塩沢刑部権小輔、(中略)戸田主水(中略)
  副総督 〔従三位〕沢 為量ためかず(中略)
  参 謀 〔従四位・少将〕醍醐忠敬ただよし(中略)
      その付属は野村十郎、中村小次郎(中略)
  下参謀 世良修蔵(中略)
      その付属は勝見善太郎、松野儀助、馬丁繁蔵。
  下参謀 大山格之助(中略)
  薩摩藩 隊長和田五左衛門・大野五左衛門(中略)〔三百名〕
  長州藩 隊長桂太郎(中略)〔三百名〕
 〔筑前藩 二百名〕
  仙台藩 隊長大越文七〔五〕郎 これに小監察伊藤十郎兵衛、遊撃隊百人、銃士七十九人〔三百名〕
  秋田藩 土屋源吾、泉恕助
 仙台藩、秋田藩は先導役である。他に羽州の先導役に天童織田家の家老吉田大八に沙汰されている。」(山田野理夫『宮城歴史散歩』創元社)
 仙台藩の詳しい陣容は、「仙台藩隊長大越文五郎、小監察伊藤十郎兵衛銃士七十九人〔内三十九人は但木土佐の兵、他は江戸邸卒〕、遊撃隊湯目長太郎、〔黒沢亮之輔〕等一〇〇人」(山田野理夫『東北戦争』教育社)であった。(ちなみに、私の母方の従弟重則は仙台・湯目家を継いでおり、上記の湯目氏の一系統であろう。湯目宗家は、「永代召出一番座」(26家) の一に列せられている。)
 「御附属の諸藩」は、「仙台藩三百名、筑前藩二百名、長州藩三百名、薩州藩三百名。御家〔伊達〕御人数先鋒、次長藩、次筑藩、次薩藩。」(「大越家系勤功巻」)
 「同日九條殿下に於て、御出陣前右四藩の隊長江、天長に従ひ菊之御紋附、御旗壱本宛つ九條左大臣道孝卿直々相渡さる。右順序者御家隊長大越文五郎、次薩隊長大野五左衛門、次筑隊長大野忠右衛門、次長隊長桂太郎壱人宛つ相出で受取り奉り、右御旗直々隊中江立つる。

大越文五郎兵を纏めて大阪を発す
 「東征大総督は、奥羽・東海・東山・北陸諸鎮撫使を従えて東下した。(中略)奥羽鎮
撫使一行は三月二日、京都を発して東下した。仙台藩士大越文五郎らがこれを護衛し」(『宮城県の歴史』)た。
 「同日伏見御寓陣。翌三日大阪表江御着陣し、同所に於て暫く御滞陣す。同十一日天保山洋より蒸気船へ御乗船し、直々出帆す。船数五艘、所々に滞泊す。」(「大越家系勤功巻」)
 「まだ西日本の諸藩の如く朝廷の支配に服したとは言えず、抵抗の機運さえある東日本の鎮撫に向かうものとして、雑役の人数を除き実戦兵力が仙台兵を加算しても五百名に足りなかったのは、仙台藩に異心があったら、一度に揉み潰されてしまう程度の兵力で、これが強引に錦旗を掲げて三月十一日に大阪を出発した。無計画の冒険だとも見られる。」(大佛おさらぎ次郎『天皇の世紀』朝日新聞社)
 「同十七日、残らず仙台潜ヶ浦江御着船。同日東名浜御一泊」(「大越家系勤功巻」)。「三好監物出むかえ」(『宮城県の歴史』)。「翌十八日松島江御上陸す」(「大越家系勤功巻」)。「二十日には藩主慶邦が松島に出むき会津出兵の命を受けた。」(『宮城県の歴史』)
 「同廿二日塩釜御一泊。同廿三日午刻仙台養賢堂江御着陣し、暫く御滞陣し、御軍議等之有り。〔以下空白〕」(「大越家系勤功巻」)
 「大越家系勤功巻」は、ここで筆が折られている。
 のちに、「大越文五郎三好の人物を評して曰く、彼は多少の方略あるも怯懦きょうだとるに足らぬ人物なり。其鎮撫の御三卿(九條卿等)を擁して仙台に下るの一時さへ能く為し得ず、己れ〔文五郎〕にすべて任せて彼まず帰国、潜ヶ浦着船の夜ひそかに訪ひ来りて、京師の事情厳しき、藩庁にいてしたり顔為〓〓〓〔し居り〕しによりても知らるゝあり。」(『仙台戊辰史』)
 ところで、「錦旗を擁して西軍が江戸城に入ったのは、この年四月十一日である。これより早く三月末に、奥羽鎮撫総督のひきいる西軍の部隊が、江戸より遙か遠く後方の仙台領に上陸していた。江戸の占領もまだ確保されていないのに、奇妙に手回しのよいことだが、これは実は無知と間違いから起こった派兵なのである。」(『天皇の世紀』)

第三節 奥羽鎮撫総督府軍事参謀
其ノ藩軍事参謀役ヲ以テ総督府ヘ相誥メ精々盡力致ス様
 「但木でさえもひどく興奮して帰国した程だったから、錦旗を持参して帰った坂本大炊のごときは流涕して出兵論を唱えた。最後に最も激昂して帰藩した三好監物のごときは、恰も薩長の代弁者のような口吻だったといわれている」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 いよいよ「奥羽鎮撫使が東下したという報が伝わると、仙台藩では、主戦論と非戦論との対立がめだってきた。前者は遠藤文七郎、後者は玉虫左太夫・若生文十郎らに代表されるが、大勢は“示威出兵”という線に固まっていた。但木・坂〔英力〕・三好ら執政首脳はその線で、京都から大越文五郎が寒風沢に帰着した三月十七日、会津征討軍の部署を定めた」(『宮城県の歴史』)。
 「總督府では(中略)討會強壓方針から頻りに督促し、殊に一部少壮派に反薩長熱の燃焼してゐるのを氣遣ひ、迫り來る焦燥感に堪え切れず、同〔三〕月二十六日には但木、坂兩人を召出し嚴責した。折柄討會即行派の但木は、軍事局に軍制係を設け、三好監物、坂本大炊、眞田喜平太、大越文五郎等の支援により、征討軍編成に當ってゐたが、此の督励に接し直ちに出陣と決し、人心尚動揺の中に、翌二十七日一門伊達筑前〔登米伊達氏十三世邦教〕の手兵が先づ仙臺を出發した。」(橋本虎之助『仙台戊辰物語』歴史図書社)
 「〔四月〕二日総督府より左の如く達せらる
                              仙 台 中 将
其藩大越文五郎儀京師出陣の刻ヨリ諸事心配リ遂ケ御用相勤メ候ニ付キ、今般奥羽征討中其ノ藩軍事参謀役ヲ以テ総督府ヘ相誥〔詰〕メ指揮ヲ受ケ精々盡力致ス様申シ付ク可キ事」(『仙台戊辰史』)

大越文五郎同腹シメシ合ワセ
「仙台藩内は、大きく揺れ続けていた。四月三日、目付熊谷斉・上郡山守人・砂金忠兵衛・氏家惣内十三人連署の弾劾書が伊達慶邦の許に呈出された。
 コノ度鎮撫使下向ニ付、世上風唱ノ趣左ニ申シ上ゲ奉候と冒頭にしるし、
 但木土佐、三好監物、坂本大炊(外真田喜平太、大越文五郎)右三人の輩、同腹シメシ合ワセ、鎮撫使下参謀ヘ内通、御国家ノ機密ヲ通ジ、三卿ヨリ仰セ出サレ候儀ハ諸事右ノ輩ノ注文ニテ事調イ候ハバ、銘々ノ功業ニヨリテ、御奉行トカ、禄トカ、相応ノ賞ヲ受ケ候コトニ申シ合セ候
 また真田喜平太の軍略は、雄壮の兵を先手として繰り出し、城中には鉄砲は勿論不練の兵ばかり残そうとしている。これでは火急の折りには何を以て防禦ができるのか、同人も甚だ怪しき評がある。大越文五郎は近々御小姓頭に取り立てられる噂があるという。風評を口実の弾劾書である」(『東北戦争』)。
 「家老、若年寄、近習組頭などが、こうした嫌疑を受けるなど、仙台の空気は反薩長的になっていた」。「世良や大山が、早く戦端を開かせようと、仙台藩要路に対し火のつくように督責すると、藩の反薩長派の気勢は、ますます昂たかま るばかり、(中略)弾劾状の出た結果、監物と大炊とは退職、大越文五郎(総督府軍事参謀)、伊藤十郎兵衛(同上目附使番)は病気と称し出勤しなかった。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

「猪狩後家がどこにいた」
 「三好については御目附の弾劾ばかりでなく、沼沢与三郎の一件があった。(中略)与三郎は(中略)北一番丁の三好の屋敷に行き面会して(中略)『不勤なら各々方御重役様は、先前から不勤にならないようにして上げべきで(中略)』と申すと、『何もかも屋形〔藩主慶邦〕様馬鹿だからや、あんな馬鹿は腹でも切って死ぐ外ないサ』と三好は放言する。『京で〔但木〕土佐殿は何して御座った』と問うと『猪狩後家がどこ〔所〕にいた』『〔大條〕孫三郎殿は』『宿で活け花さ』という」。(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 この「猪狩後家」は、澤田家の主家・仙台猪狩家猪狩家十代当主長作隆福の母、つまり九代木工右衛門隆之の未亡人智恵であろう。戊辰の騒乱のさ中に猪狩未亡人は悠々京都に滞在し、仙台藩執政但木土佐を接遇していた。但木土佐は吉岡1500石の領主であるから、同郷の北目大崎猪狩家 500石とは昵懇の間柄であっても別に不思議はない。

文五郎の総督府に到るや転陣の準備を撤したり
 さて、「京都から帰った後の但木土佐は、坂英力とともに、会津へ出兵の準備御用に当たってはいるが、主戦論者ではない。三好は退職、坂本、大越、伊藤なども、嫌疑を受けて失意の境遇にあるのだから、藩の有司中には、薩長人と調子を合わせようというものは一人もいない」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 かくて、「総督府接近者には深い溝ができた。三好監物もその例だが、大越文五郎、伊藤十郎兵衛の場合もそうだ。監物の去ったあと総督府は仙台藩の大越、伊藤に召し出るように命じたが、両人は仙台藩内の反発を恐れ病いを理由に己の屋敷に籠った。仮病であることを察している世良修蔵は、このような非協力では仙台藩は頼りにならず、南部盛岡に総督府を転陣すると触れた。仙台藩中は驚愕し」(『東北戦争』)、四月「六日坂英力、公の手書を携へ文五郎宅に至り懇諭せしに〔、〕文五郎曰く討会奉命の藩論を確定せずんば転陣を止むべからずと、依て更に討議の上藩論の決定を誓ひ文五郎を起さしめたるは四月九日の夜にして〔、〕文五郎の総督府に到るや参謀等相議して転陣の準備を撤したり(十郎兵衛をば同役より慰諭して起さしめたり)」(『仙台戊辰史』)。
 「慶邦が藩論を討会と決したのはこの理由にも依」(『東北戦争』)った。かくて四月十一日には、いよいよ仙台藩主伊達慶邦の出陣となった。

大越文五郎はこれを聞きそは一大事と
 ところで、「世良は〔探候人の〕萩野を耳口として仙台、米沢の様子を探らせ、江戸その他へも密行させたらしいが、四月上旬に萩野は本宮に現れて、『京都では九條、沢、醍醐の諸卿が奥羽に下っても、今もって戦争を開かせることも出来ず、因循姑息はなはだしいから、官職を奪われるだろう、また仙台藩も因循だから、これは刪封されるだろうと、たしかな筋での評判だ』と言い触らした。
 その時本宮にいた仙台藩の大越文五郎は、萩野に会って面詰した上、それが確かな説なら、白石の仙台本陣へ行き言上せられよというと、萩野は、何処へでも参って、誰へでも話そうという。そこで大越は萩野に松崎宗七郎を添えて白石へ遣わしたが、萩野は途中で行方不明になってしまった」という。

大越へ厳重に仰せ聞かせられ
 おりから、世良修蔵から総督府奥田左衛門に宛てた手紙は、「急速出兵致す可く候様存ぜられ候へ共武事相心得ざる仙台なれば、遅々も計り難き間大越へ厳重に仰せ聞かせられ家老一人応援差し出す可く無くんば御殿御出陣も有ら為らる可く候段御申し附けに成られ度く候」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)と、仙台藩を強烈に痛罵していた。
 越えて「閏四月一日(中略)この日下参謀世良修蔵は石筵、中山、御霊櫃の三方面に斥候を出させしめ、明二日払暁総攻撃と触れた。二日五ツ半〔午前九時〕、大内屋を醍醐忠敬・世良修蔵が督戦名目で中山口に出立した。供するのは用人奥田左衛門尉、近侍三浦才助、近侍頭田中縫殿等の側近、仙台藩大越文五郎・栗村五郎七郎等である。世良修蔵は発熱、馬を避けて駕籠である」(『東北戦争』)。
 ところが、「遊蕩の癖ある世良修蔵は(中略)遊女お駒(十九歳)といふに深く惑溺し朝夕に酒を呼びては脂粉の香に酔ふのみ〔、〕醍醐少将が閏四月二日中山口の戦ひを督する為出張せる時の如きは病大に起れりとてお駒の部屋より出ず〔、〕仙藩の坂英力、大越文五郎等が九條総督の急命により早〔駕〕籠にて本宮に至り醍醐少将の速かに岩沼本営まで帰らるべき旨伝へし時も〔、〕世良は種々の口実を作りて終に其の命に応ぜしめず、少将は翌〔同〕月六日に至り漸く本宮を出発せしが、世良は尚軍務と稱して大内屋にありき、斯かる有様なるを以て各藩共に其の荒怠に呆れたりといふ」(『仙台戊辰史』)。

大越文五郎は斬り殺すまでには及ぶまじとて衆を説き
 また、「〔閏四月〕四日石母田備後の宿所へ〔川村〕恒五郎、〔林〕嘉膳の両名到着、備後へ本営の命令を伝へし際〔、〕備後及び大越文五郎、久世平八郎、桜田敬助、佐藤直之助、今村鷲之助等も座にあり、相議して曰く縦令たとひ本営よりの指揮なしとも追討の為に繰込み居るもの故、討入るは当然なり、且つ醍醐少将自ら指揮して戦地へ進発し口々へ進撃を布令せしこと故、討入諸軍は本営より咎めを受くべきにあらず、然るに斯くの如き命あるは本営の執政輩、濫みだりに公の命を矯めしに相違なし、依ては此の命令を世良参謀へも申し出ずべしとて、恒五郎へ談ぜしに〔、〕恒五郎等曰く命令は石母田備後へ伝ふべしと命ぜられしもの故、世良へ届け出ずる理由なしとて、直ちに出発せる故、〔増田〕暦治等大に怒りて曰く〔、〕若しこの件に付醍醐世良等より不審を発せられなば、如何に申し開くべきか〔、〕速かに彼恒五郎を斬り殺し白石本営に至り戦争の事情を開陳すべしと、議直ちに決して佐藤直之助をして恒五郎を追蒐けさせ、斬り殺さんとしたるに、大越文五郎は〔、〕斬り殺すまでには及ぶまじ、篤と説得しても事情は分明すべしとて衆を説き、恒五郎に対し事情を詳細に告げ、白石本営に立戻りし上は、進撃の事情を審かに開陳せられよと諭してこと済めりき」(『仙台戊辰史』)。

第四節 世良修蔵誅戮の議
大越文五郎所持の上紅下白の旗
 閏四月十二日、伊達「慶邦(中略)、〔上杉〕斉憲は、(中略)八ツ時〔午後2時〕岩沼の総督府に着し、九條総督に謁して会津の降伏願および仙米両藩の添願、奥羽各藩家老連署の嘆願書を呈して、事情をつぶさに演述懇請したが、九條卿は軍事参謀の意見も聞き、追って何分の沙汰をしよう、それまで四、五日延引あるべしと願書を受納された。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「嘆願書を九條総督は受理したが、実権を握っている世良が、これを拒むだろうということは列藩の見るところいずれも同じであった。さてその場合にどうするかということも、予め協議していたが、結局世良が何と出ようとも、仙台始め列藩は解兵して本藩に引込むこと、ただし世良は総督府を岩沼から白河へ移すつもりで、白河城に薩長人とともに駐さつしているから、これは会津軍で処理すべきであるということに決した。
 この列藩決議を会津藩に(中略)告げさせたのは閏四月十五日であった。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「この時白河には仙台、二本松、棚倉、三春、泉、湯長谷六藩の兵が駐屯しており、世良の命で会津国境へ討ち入るべきはずになってはいたが、それは表面のことで、内々は解兵退去とともに会津軍が乗込むべく、その手はずのために仙台藩から会津へ元九條総督の近侍監だった戸田主水と松崎宗七郎とを遣わしていた。そして会津藩の白河襲撃は閏四月二十日を期すべく、白河城中、世良の居所を知らすべき目印(大越文五郎所持の上紅下白の旗)をも打合せ、薩長人を一人も討洩さぬためには、仙台から十八扈従こしょう組、小人組、町兵〔集義隊長〕小竹今助の隊などを福島から白河までの要所に配置したのである。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

朝敵天地入る可からざるの罪人に付き
 「かくて〔醍醐〕少将は桑折こおりで、九條総督の手紙と三通の嘆願書とを受取り、総督の手紙と嘆願書とに自分の手紙を添えて、白河の世良へ急送し、その返事を桑折で待っていた。一方世良修蔵は閏四月九日に白河から本宮に進み、白河の本城内にあって、会津襲撃を督促するとともに、総督府の白河移転に関する準備を整えているところへ、醍醐少将の十四日桑折発、大至急の御用状が十五日に到着した。(中略)
 〔世良は、伊達・上杉〕両中将直々岩沼の総督府に押かけて、強願同様の仕方、はなはだもって怪しからぬと一時に赫となった(二本松藩士の手翰中に見える)。そして直ちに左の御沙汰案を付し、桑折なる醍醐少将宛に返送した。
                                 仙台中将
                                 米沢中将
 今般会津謝罪降伏嘆願書並に奥羽各藩添願書差し出され熟覧之処朝敵天地入る可からざるの罪人に付き御沙汰為され難し早々討入り成功奏す可き者也
     閏四月                      鎮撫総督府
 この案と却下さるべき三通の嘆願書が、桑折陣屋なる醍醐少将の手許に達したのは十六日の夕刻であって、少将はそれに手翰を添え、さらに急使を馳せて岩沼なる総督府に転送した。そしてそれが岩沼の総督府に達したのは十七日のことで、塩小路〔刑部権少輔〕が白石から桑折へと南進している頃であった。総督府ではこの世良案を式のごとく浄書捺印して、却下の嘆願書とともに白石なる仙台藩の本営へと送達したのだから、仙米および奥羽列藩と総督府との間における降伏問題は、これで事実上全く最後の決裂に達したのである。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

大越文五郎も同意し
 「これより先、白河三ノ丸にあった仙台の大隊長佐藤宮内くないは世良の命により会津に聖至堂〔岩瀬郡長沼町勢至堂〕付近にあったが、軍目附の林嘉膳から、白石本陣の命あるまでは、聖至堂口から討入りは見合せよと命ぜられたので、単に地理を探索するのみであったが、偶然会津の隊長木村熊之進に会見して、肝胆相照すに至」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)った。
 「熊之進は、朝意に背くこと全く無いが、世良修蔵独りいるため奥州はこのように騒乱している。世良を討ち取ることこそ先決なり、といった。宮内も肯がえんじて別れた。白石本陣に帰った佐藤宮内は総督府仙台参謀大越文五郎に会い、木村熊之進の話を伝え、『世良を誅するは奥羽の平和を計るに於いて最も必要なる故、会津の希望を達せしめては如何、但しこの事執政の命令を請いて後決せざるべからずと』(『仙台戊辰史』)。大越文五郎も同意し、共に執政但木土佐に会い木村の話を語った。土佐も『これを計れ』と答えた。」(『東北戦争』)
「そこで宮内は今生の名残り、屋形様に拝謁したいと御本陣へ出たが、折しも〔伊達〕慶邦は城中の馬場において閲兵中だったので、余所よそながら拝礼して去り、大越と福島に会見すべきことを約して急行出張したのだという。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「仙台・福島の藩士の中から世良修蔵を斬れとの声は早くから騰まっていた。但木土佐
は世良一人を斬っても会津征討は変わるまい、しかも仙台藩は朝敵となる、との思案をしている。その土佐が世良暗殺に同意するようになったのは閏四月十二日前後からであろう。岩沼の総督府に嘆願書を提出した日である。」(『東北戦争』)
 「しかし世良は根が人の好い男であったらしく、一度何かの機会に、ビシリと機鋒を摧くじかれると、案外素直に屈伏した。彼が仙台藩の三好監物を敬重するようになったのは、初対面の時、三好が例の辛辣な舌峰で世良の出鼻を摧くじいてからだという。彼が案外素直なところもあり、稚気ちぎもあることを知っている大越文五郎や坂本大炊はらは、何も殺すまでのことはないと思っていたらしい。しかし藩内における世良の憎悪者がいよいよ多くなり、但木も、後に累を残さない方法でやれるならやってもいいというようになった。坂本も大越も、それを世良に打明けて告げることも出来ず、さりとて世良の態度を改めさせる術もないので気を揉んでいたという。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

文五郎等の派と相容れざる者なれば
 さて、「嘆願に対する世良の裁決が、まず醍醐少将の手許に来るだろうと見込んだのは、白石の仙台本陣にあった参謀増田歴治(後に繁幸)および八丁目にいた総督府付仙台参謀大越文五郎で、両名とも十七日早朝銀山に急行した。
 行って見ると塩小路刑部権少輔も来ているので、増田、大越の両人は、少将付の久世平八郎を介して塩小路と面会し、何とか爆発なしに済ます工夫はないだろうかと徹宵てっすい談したが、すでに世良の案に成る御沙汰書が通達され、嘆願書が突返されたうえは、別に妙案はない。塩小路も長大息して『醍醐さまは、我等も亦朝廷から、どのような御不審を受けるかも知れないと繰返すのみで何らの御考えもない』といって萎れていたという。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「一方坂本大炊、遠藤久三郎の両人は、但木、坂に面会して、世良説得方を命ぜられたいと申し出た。(中略)
 坂本と遠藤の申し出には但木も乗り気になった。(中略)坂本と遠藤は直ちに早追いで白石を出発したが、この時、既に嘆願書が却下されているということは夢にも知らなかったのである。
 かくて両人は、十七日白河に着くや否や、先ず窃かに佐藤宮内と大越文五郎とに面会して、世良を斬ることは一先ず差扣ひかえよ、これは奉行並に軍事参政真田の命だと告げ、直ちに世良を訪うた」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 これを聞いて、「宮内愕然たり、以為おもへらく機密已に洩る、復た為すべからずと」(『仙台戊辰史』)。というのも、「仙台藩の坂本大炊は総督府の理解者である。」「だが坂本は三好監物と並ぶ藩中の勤皇主義者である。非討会論者の大越とは相容れぬ仲である。大越は答えず白石に向かった」(『東北戦争』)。
「大越文五郎は、坂本と正反対の立場である。白石に帰ってみると、会津へ行った戸田主水、松崎宗七郎等が白河城襲撃の事を相談中であった。しかし、坂本等が世良へ説諭の為、白河へ出張したと聞いて、その結果の判明するまで、襲撃も見合わすようにと沙汰が下った。猫の瞳のように方針が変化して落着かない。これが古い大藩の性格の一端でもあったが、秘密がいつまでも外に漏れずにはいない危険を伴った。」(『天皇の世紀』)

大越を白石へ差向け
 「仙米および列藩の方では降伏嘆願一件は、十八日通達の御沙汰により、事全く手切れになったものとして、第二段の行動に移ったが、世良の方では、アーした御沙汰は下したものの、こちらで幾分譲歩する気なら、なお操縦の余地がある位に見ていたらしい。それ故、世良は十五日に爆弾的の御沙汰を発送して置きながら、十八日に坂本大炊、遠藤久三郎らに向い、白石へ帰って御沙汰を待つがよいといい、坂本らが辞去するに際して『われこれから本宮へ行って醍醐さんにも相談する』といったそうである(坂本ら白石に帰って報告)。
 醍醐少将は十八日には本宮の本陣に帰着している日取りになっていたからであろう。世良は坂本らが去った後、早追いで白河を出発した。随従は勝見善太郎唯一人。総督府付仙台参謀大越文五郎は後から続いた。世良は本宮へ行って見たが、醍醐少将はまだ来ておらず、先触れもないという」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 「世良は本陣を出る時、仙台藩の大越文五郎に向かい、先日総督府から却下した会津の降伏嘆願書、仙米両藩の添願書などは、白石の仙台本営にあるであろう、あれを大至急に持って来てくれ、我らこれから福島へ参って同所に泊り、明日福島発で京師けいしへ参るつもり故、それに間に合うよう大急ぎで右の嘆願書を持って来てもらいたい。全体の趣意柄は総督府から仙台・米沢へ別に御沙汰があるはずだ、といってそのまま駕籠(〔二本松藩家老〕丹羽一学の木札を打った駕籠だったという)に乗った。
 嘆願書取寄せのことは総督府へも手紙でいってやったから、もし嘆願書が総督府にあれば斉藤安右衛門が持って来ることになっているが、或いはハヤ総督府の手を放れて、白石の仙台本営に戻されているかも知れないと考えて、世良は特に大越を白石へ差向ける気になったものと見える。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

第五節 世良誅戮の顛末
誅することは異議なし但し予の帰る迄は事を発する勿れ
 「果して〔閏四月〕十九日八ツ半刻(午後三時)、世良が白河城常駐の総督府付仙台藩参謀・大越文五郎と世良付の書記・勝見善太郎を伴って福島へやってきた。そして常宿の金沢屋に入った。」(綱淵謙錠『戊辰落日』文春文庫)
 「この日仙台藩士土湯〔福島市土湯温泉町〕口隊長瀬上主膳は荒井鳥渡しの陣を引払い姉歯武之進、岩崎秀三郎を伴い福島へ出て来たのは正午頃であったが、軍事局の泉田志摩が不在なので、かねて贔屓
ひいきにしている北裏通りの鰻屋各自軒浅草宇一郎方に休息した。そこへ姉歯武之進が来て『世良参謀が白河から出て来て金沢屋に泊っていることが知れました。好い機会です、軍事局では泉田殿は不在だが、松川豊之進、末永縫殿之允ぬいどのすけらが来ております。相謀って討取っては如何』という。未の半刻(今の午後四時)だった。
 主膳は首肯して『福島藩と申し合せ、抜目なく周旋せよ』といっているところへ、大越文五郎が来た。文五郎は世良より少し遅れて福島に入り、金沢屋から四件目の新布袋屋に入り、直ぐ長楽寺の軍事局へ行って見た。泉田はいないが、姉歯武之進が世良を謀るべく周旋していると聞き込み、転じて瀬上の宿所へ来た。大越は瀬上に向かい『拙者、始終世良に付添っておりながら、いざという時、人手に渡して知らぬ顔ではおれない。しかし世良は、会津の降伏を容れる気になっている。それは一旦却下した嘆願書を取戻し、それを携えて、自分で京都へ行って、御指図を受けて来る由を今日拙者へ言明した。考えの変わっていることが判る。それ故、拙者はこれから直ぐ早追いで白石本陣へ参り、その次第を執政方へ話して、それでもやはり世良を討取るか、それとも降伏を容れる気なら討取るには及ばぬから、特別の取計らいとするか、その点を篤と承って直ぐ罷り帰りお知らせ致そう。拙者の帰るまでは、世良へ手を下すことを見合せられたい』という。
 瀬上は首を掉って、見掛次第討取れと再三申し参っている、猶予には及ばないと思う、機会を失ってはならないからというと、大越は、イヤ機会を失う心配はない。拙者が当地へ戻らぬうちは、世良は出発せぬからと言い張る(京師へ持って行く嘆願書の届くのを世良は待つはずだと大越は思っていたのである)。
 その座に来合わせた投機隊長桜田啓助(勤皇家桜田良左の子息)も大越と同意見なので、瀬上も結局それに同意し、」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)「大越(中略)〔は〕桜田啓助と一緒に早駕籠を仕立てて福島を出発して行った。」(『戊辰落日』)「大越と桜田との帰るのを待って世良を図ることにはしたが、手配は厳重にしておかねばならぬというので、姉歯を軍事局に遣
り、福島藩の人々とも連絡して警戒すべき旨を命じた。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

大越文五郎の帰着を待たずに世良誅殺
 「それから間もなくして、福島藩の用人鈴木六太郎が軍事局に来て、実は世良から仙台藩に極秘を以て書簡を差立てるよう託された、と瀬上主膳、姉歯武之進に申出た。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「世良が会津の降を容れるように見せて解兵の御沙汰を発表したのは一時の権略であった。実は奥羽皆敵と見て大挙討伐を策する考えであったことが、(中略)密書により露見した」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 「書翰の内容は予想以上に重大かつ刺戟的であった。それが大越文五郎たちの帰着を待たずに世良誅殺へと踏み切らせた。」(『戊辰落日』)
 「この上は、白石本営の指図を待つまでもなく、直ちに世良を討たねばならぬと評議したところへ、世良は翌二十日払暁六時に出立するから、人夫を指出すべしとの命令が下ったと知らせが入った」(『天皇の世紀』)。
 「大越桜田の両士白河よりの帰りを待居候ては出立に相成る可く」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)、「決行するならば今夜中を見のがせず、時間も差迫っていたので、直ちに行動に出る準備をした」(『天皇の世紀』)。
 「遠藤條之助、赤坂幸太夫は世良参謀寝室へ忍入、戸を明け候処、参謀目覚起き直り、ピストルを向け討たんとせしも不発故、無言にて臥所へ踏込候処、参謀不意の厄難に立ち上がらんとすれども立ち上り兼ね、漸にして立ち上り襖へ立懸り候処、襖倒れ、其節幸太夫、條之助近寄打倒し武之進等も立懸り捕縛致候」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 「金沢屋の裏口から重傷の世良と勝見は引出されて鰻屋各自軒へ連れ込まれた(各自軒の二階には瀬上がいた)。そして店口から続く下座敷の、縁先近き小庭に引据えられた。
 座敷の縁側には姉歯武之進と小島勇記とがいて世良らを訊問した。(中略)世良はウーン、ウーンと呻っており、勝見はグッタリとなっていたという。(中略)密書についての訊問に対し、露現の上は是非に及ばぬといっただけで、もう声も切れ切れだったという」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 「右事件始末、悉皆しっかい姉歯武之進へ申付、主膳は白石本陣へ報知せんと早追にて出発、越河こすごう関にて大越文五郎、白石の令を持早追にて福島に引返すに逢う。関門番所に上がり、世良参謀等を、報知を待たずして捕縛致候仔細を談す、文五郎申候に『捕縛致候様との儀、執政方より指図相成、何分急候得共、短夜なれば自然期に後れ候』とて残念の面色故、密書を出して一見為致候、酒酌かはして文五郎は福島、主膳は白石へと相別〔瀬上主膳の手記〕」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)れた。

「戊辰閏四月廿日 見届 大越文五郎」
 「翌二十日未明、宇一郎宅裏なる寿川すがわの河原に引出し、姉歯武之進は、世良の罪状を読み上げて、斬首の刑に処する旨申し渡し武之進の家来菊田松治刀を執りて世良の背後に廻るや、世良は已に失神の体なりしが一刀の下に首は落ちたり」(『仙台戊辰史』)。
 「大越文五郎が福島に着いたときには世良の首は刎は ねられていた」(『東北戦争』)
 「両士の首級は樽に納め、一先つ自分〔浅草宇一郎〕仮宅へ携え来たり午後仙台の参謀役大森〔大越〕文五郎殿の陣所(新布袋屋といふ)に運び然る後仙台侯白石の本陣に転送したる趣なり〔浅草宇一郎『世良修蔵殿遭難及弔祭理由書』〕」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 「大越自らの語るところによれば彼〓〓〓〔は白石〕よりの帰途越河に於て世良殺戮の〓〓〓〔始末聞〕きたるにて福島に入り〓〓〔てこ〕との跡〓〓〓〔を検分〕なしたるのみなり。世良斬首の時〓〓〓〓〔同席し居〕たりといふは誤れり云々」(『仙台戊辰史』著者「原本書き込みメモ」)
 「白石から急行して二十日朝早く福島に戻り、北町の新布袋屋に着いた大越文五郎は、
姉歯武之進を呼び取り、世良および勝見を斬った顛末を聞いた。首は桶に入れて浅草宇一郎方に置いてあるというので、ともに宇一郎宅へ出張、実見の上、相違なきを確かめ、筵包みとして送状を書いた。
           覚
   首級一つ   世良修蔵 三十四歳 実名不詳
   首級一つ   勝見善太郎     実名不詳
       右今朝福島に於て斬首候事
          戊辰閏四月廿日   見届  大越文五郎
           福島町浅草宇一郎屋敷裏川原に於て斬首す刀は阿武隈川へ投す」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「『罪名は書かんでもわかっている』
 文五郎は、こう言って封をした。
『いよいよ、官軍相手の戦争だぞ』
 と姉歯が急に言い出した。
 文五郎も、にこりとして、
『望むところです』
 と答えた。
 外はもう、白々と明けて来ていた。」(大佛次郎『細谷十太夫《からす組》』徳間書店
 「この送状に但木土佐宛の手紙を添え、菱沼中太郎、田手喜右衛門の両人に命じ、白石へ持たせた。これで福島における局面は一先ず終結した。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)」

文五郎より但木土佐への書翰指添
 「世良と勝見の首級を白石へ持って行った菱沼中太郎と田手喜右衛門の記述したのを見ると、
 (中略)打取策略は福島出張大越文五郎の指揮を受く可しと申渡され出立、福島にて文五郎へ示談に及び候処世良参謀白河城へ進軍の由聞き申す、于然両人とも未た世良参謀へ一面会も致さず見覚之無く其期に至り取計に困却なりと申し候得ば〔、〕栗村五郎七郎(仙藩、参謀附)其手附にて白河へ出張故同人へ手寄たより面会致す可しとて鎮撫使御用係文五郎より申渡され〔、〕同人より世良殿への書翰相渡され十七日福島出立十八日白河着、五郎七郎へ話し世良殿へ出会を依頼し候処、此度参謀御用之有り福島迄引返候由聞き申す、然らば途中行違に相成依て直に福島へ引返し、右の次第文五郎へ申出候処、此度坂本大炊計ひを以て会津嘆願書御受取に相成模様に付打取ざる方然る可しと談判之有り〔、〕猶又本陣へ相届指図の上取計ふ可しとて〔、〕文五郎早馬にて白石へ相駈候に付報知を待居候処昨十九日夜、田辺覧吉、赤坂幸太夫、世良修蔵旅館へ忍入捕縛に及候、今廿日文五郎福島へ帰着し〔、〕首級白石へ送る可しとて姉歯武之進一同宇一郎宅へ参り、世良参謀並勝見善太郎の首級、桶の中より取出し文五郎相改め夫より桶を筵包み致し〔、〕文五郎より但木土佐への書翰指添相渡され候由にて〔、〕夜四ツ半過白石本陣へ着
 とある。菱沼、田手の両人、白石本陣に着して、首を持って来た旨を届けると、軍勢係の今村鷲之助が出て来て、その首は何処にあるかと問う。当白石御城外岡本豊後〔豊治〕宅に置きましたと答えると、鷲之助はその趣を但木と真田とに話した。
 但木は舌を鳴らして、なぜそんなものを持って来たのか、無名の首ではないかという。鷲之助は、文五郎の申付なそうで手紙も添えてある、戻し返すことも出来ないというと、但木は忌々しげに、子捨川にでも捨てろと吐き出すようにいう。無名の首にもせよ、まさか取捨てにも出来まいと鷲之助がいうと、但木は、そんならいいようにといい捨てて席を立った。一体但木の考えでは、世良を討取るにしても、それは会津藩の仕事たるべく、仙台藩は、ただそれに便宜を与えただけのこと、ただし討洩らしてはならぬから、こちらでも十分手配はするけれども、その手配の分はいずれも脱藩の者どもということにして、それを前もって届けているので、どちらにしても藩の責任ではないことに仕組んである。
 しかるに瀬上主膳が、福島藩にも手伝わせて、世良を公然捕縛、訊問の上、斬殺したというのだから、会津のすべき仕事をこちらで全部背負い込んで、名実ともその責に任ぜねばならぬことになった。但木のはなはだ不機嫌だったのは、そのためであった(この事は本営でも意見が完全に一致していなかったかも知れない。十九日の夜大越文五郎が白石に急行して指図を仰いだ時には捕縛せよということだったが、その大越が白石から福島に向け出発した後、議一変して暗殺ということになり、お小人目附の早追いで大越を追いかけさせた事実に照らしてもその間の消息が窺える)。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

大越文五郎が召捕らせた
 一方、「十九日の午刻、世良と松川八丁目で別れ、白河さして進んだ醍醐少将は、(中略)世良が殺されたなどとは夢にも知らず(中略)やがて新設の須川関門に差かかったが、」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)「通行を拒否され、不審尋問をうけた(中略)。
 軍事局で泉田志摩と大越文五郎に面会した〔醍醐少将の近臣〕三浦才助は、『須川関門で醍醐少将を入れないというのはどうしたことか』
 となじった。泉田と大越はなにごとかを打ち合せていたが、大越が、
『少将は天朝の使いである。薩長軍ではないのであるから、これを拒むわけには行かないだろう』
 と言うと、泉田もそれを認め、みずから関門まで出向いて少将に謁し、ようやく福島城下への通行を許した。」(『戊辰落日』)
 「なお薩長人以外で召捕られたものに、総督府会計方平坂信八郎がある。平坂は宇都宮のものだが、世良の意を受けて二本松、本宮、白河周辺を策動しおり、二十日白河城下の異変があった時、二本松から福島に来たところを、大越文五郎が召捕らせた。これは会計方として不審のことが多いからで、直ちに白石へ檻送した」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』

第六節 仙台藩参政(若年寄)
伊達氏の恩を受くる三百年存亡を共にすべし
 文五郎、「世良殺さるゝや長嘆して曰く。命なり、余伊達氏の恩を受くる三百年、
朝議に背くも寧ろ伊達氏と存亡を共にすべしと。」(『仙台戊辰史』)
 「かくて奥羽列藩軍と西軍との戦いは白河口から始まった。列藩の申合せでは、薩長人は打払うけれど、総督府は朝廷からの御差遣であるから、これは列藩において奉戴し、ここの方から真実の王政復古を翼賛し上げるというのであったが、出羽における副総督府付属の薩長人(薩の大山や長の桂太郎など)は秋田藩に入り副総督を擁したまま動か」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)なかった。
 「一方佐賀藩の前山精一郎らは(中略)五月十八日九條醍醐両卿を仙台領外へ引出すことに成功し、(中略)副総督府と合体させた。そして秋田藩は同盟を脱し西軍の応援兵を海路より迎えて、列藩軍と戦った。
 かくて列藩軍は、その中心とした総督府を失ったけれども、輪王寺宮法親王ほっしんのうを奉戴することになった。(中略)法親王の御着は七月一日で、令旨りょうじおよび布告文も発せられ、奥羽公議府を統べて軍事総督にならせられたのではあったが、秋田藩の渝盟から同盟内部の戦闘に力を殺がれ、白石口、岩城口、越後口も不利となり、渝盟続出のすがたとなったため、秋田領の外は列藩軍の敗戦が続いた。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 その「越後口」へは、既述のごとく、平姓猪狩家の当主兵左衛門が出陣していた。

出入司を以て軍事参謀を兼ね尋て若年寄(参政)に進む
 この間に、文五郎佑之は「出入司を以て軍事参謀を兼ね、七月二十五日若年寄〔参政〕
とな」(『仙台戊辰史』)った。
 「出入司」は「仙台藩の財政を司る。『シュツニュウヅカサ』とよむ。(中略)出入司
の数は最初三人だったが、のちに財政・民生の業務が多端となり五人に増し、四代綱村の代からは一人は常陸の竜ヶ崎奉行を兼任した。」(『宮城縣史』)
 「若年寄〔参政〕」は、「若老あるいは少老ともいい、奉行〔執政、家老〕を補佐して伊達家の庶政を司り、また奉行出入司支配以外の『詰所以上之輩』すなわち大番士以上の伊達家中の進退を司った。兵具・馬・年譜・幕小旗・大筒稽古(砲術)・堂形・討芸(武術)・乱舞方の事務を掌つかさどり、人によっては評定役・鷹方の事務をも兼帯した。(中略
 若老は、藩の支配機構が複雑になり、職掌が細分化するにつれて、奉行執行部分の中から庶政部分を担当したもので、寛文〔1661~72〕頃職制の上に定められたものである。」(『宮城縣史』)
 かつての仙台藩にあっては、「中士階級は假りに活眼あり力量あるも、當時の藩政には儼然たる階級的差別があり、言路洞開の途なく上下は全く隔絶してゐた。藩の施政方針も先例古格を重んじ、人物材幹よりも地位門閥が幅を利かせ、従って上士(一門一族を初め高役重臣)の政治的意見のみが採用され、到底中下士階級は藩政に參畫の機會はなかったものである。然るに彼等のなかの逸才が多少でも自己の所信を開陳することが出来、且つ實際的に用ひられるに至つたのは、實に崩壊直前の元治慶應年代〔1864~68〕である。換言すれば、封建制の基礎漸く動揺し上下革新の機運が濃厚となるに從ひ、かうした異例さへも往々認められるに至つた」(橋本虎之介『仙台戊辰物語』歴史図書社)のである。
 若年寄(参政)は、仙台藩では「奉行(執政、家老)」に次ぐ重職である。仙台藩の危急存亡の時に臨み、文五郎はついに藩の最高首脳部入りした。おそらくはこのころに、知行高も「五百八十石」(墓碑名)に加増されたものと思われる。

飛行隊登米隊聚義隊を率ヰて仙台を発す
 かくして、仙台藩若年寄〔参政〕大越文五郎は、「八月一日、飛行隊、登米隊、聚義隊を率ヰて仙台を発す。伊達筑前〔登米伊達家十三代邦教〕之を門前に擁し、三小隊を附して曰く。藩の存亡繋つながれり、務めよ。〔額兵隊長〕星恂太郎踝跣かせんにして芭蕉辻に追ひ来り、涙を揮ふるふて曰く。請ふ、努力せよ、僕亦不日ひならず往かん。」(『仙台戊辰史』)
 「進みて福島に至れば、竹に雀の徽章ある旗、幕の類散乱し、仙兵の隻影だもなし。文五郎、これを収めて住民を慰撫す。時に、米沢人来たりて須川口に積ある仙藩の糧米を運びつゝあり。文五郎之を誥〔詰なじ〕りしに、彼答えて曰く。貴藩已に棄て去る、敵の有とならんを恐るゝのみ。悉く之を返す。文五郎之を福島市民に賑給して、大に人心を得たり。依て台場を八丁目〔松川〕に築き、軍務局を大安寺に開き、桑名、板倉、小笠原の三侯と会す。」(『仙台戊辰史』)文五郎は、仙台藩若年寄〔参政〕の格式で、諸公に接遇している。
 一方、「七月二十九日福島開城の上、桑折に退きたる仙台軍は、更に防備の為八月三日
布施備前、大越文五郎の兵を福島に繰込ませ同六日信達両郡の村々へ札を立つ
     乱暴、盗賊、押借、火付、野荒
 右等の者之有るは押して申出る可し若し手に余り候はヾ討ち果し其段届出る可き者也
  慶応四[1868]年八月                 桑 折 軍 務 局 」(『仙台戊辰史』)
 「斯く本道の兵は寡小なれども、警戒は最も厳重なりき、八月(中略)是に於て布施備前は猛虎隊を先鋒とし国安彦兵衛、平田小四郎、須田堅吉を之に属せしめ福島駅を去る十丁余の所に屯す、平田、須田、宮代等先つ駅内に入り鎮撫せんとす。新布袋屋前に至れば暴民鯨波ときを作りて来り乱撃して須田を殺す。宮代辛うじて免かれ、桑折に帰りて之を報ぜし為、大越文五郎の隊を繰出せしが、農兵更に瀬上〔福島市瀬上町〕迄進み来りしを、討って之を退けたり」(『仙台戊辰史』)。
 これは、世上「福島騒動と呼ばれるものである。」(『東北戦争』)

仙藩大越文五郎之を統べ
「我が軍諸道に破るゝや、米沢藩は、藩内の徳川脱兵及び諸藩残兵を仙台に送り累を免れんとす。文五郎其の黠
かつ策を誥〔詰なじ〕り、早く米藩の異志を看破せしと云。」(『仙台戊辰史』)
「是に於て梁川方面の列藩勢は大に勢力を恢復して、進みて二本松を突かんとしたるに、増田歴治等は先つ越河及び丸山を堅め国境の安全を計りて而して後に進まざるに於ては危うしと主張し、容易に応ぜざりしも、諸隊長は機を逸するの不可なるを見て翌〔八月〕十七日二本松浦鳥渡より米沢兵百人余、同じく大森より米沢兵百人、二本松兵百人、二本松道より仙台兵二百人、山形上の山百五十人、二本松百人余、三春方面飯野より米沢二十五人、仙台四十人、川俣方面渡利より棚倉三百人の手配にて仙藩大越文五郎之を統べ、二本松に向って進撃す、本道の先鋒は山形上の山にて、仙藩の飛行隊、聚義隊之に続けり、進みて二本松に至るや、西軍胸壁に據りて突然一斉に射撃せし為、先鋒は脆くも頽
くずれ立ち、直ちに退却を開始せし為、飛行隊は敵の囲む所となりて苦戦し、隊長梅村信太夫以下死傷頗る多く、遂に利あらずして退却、根子町を固めたり」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
「因みに飛行隊は封内の修験者を以て組織せしものにて、良覚院菅野諦真の配下たり」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
「陸奥国の大先達は三家があり、仙台の東光院と良覚院、それと会津の南岳院である。(中略)良覚院は、古く伊達郡にあって伊達氏代々の祈祷師として重用され、伊達政宗が仙台へ移るに及んでこれに従い、東光院と並んで奥州にその威を張った。良覚院は伊達家の祖朝宗が常陸国から伊達郡へ下向の時から従った家柄で、後世極楽院といったのが良覚院の後身であろう。(中略)良覚院は後に仰台〔仙台〕に移り奥州大先達となった。」(『福島県史』)
 良覚院は、二百六十石・着座の伊達家の流れを汲む家柄で、北目大崎村に領地を有していた。文五郎とも浅からぬ因縁があったものと思われる。

第七節 脱藩逃亡・家跡没収

「仙台藩では、奥州の山道〔仙道〕、海道、出羽の諸口、越後方面等へ大兵を分派してあるのを収結して敵を領境に邀
むかえ撃ち、一挙に頽勢を挽回すべく準備したが、九月六日宇和島藩(伊達〔分〕家)の使者が勅書を奉じて来たために、直ちに降伏の手続きを執るに至った。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

帰順係大越仲
「〔九月十五日〕仙台藩が最初に降伏を請うたのは、四條〔隆謌〕総督の相馬口の先鋒細川藩の陣であった。(中略)
 〔藩主〕慶邦父子を東京に護送させ、但木土佐、坂英力(叛逆首謀として)、瀬上主膳、田辺覧吉、赤坂幸太夫(世良修蔵を殺した犯人として)を東京へ囚禁した(なお福島藩の鈴木六太郎、遠藤條之助も後には世良殺しの連累として東京へ送られた)。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 さて、文五郎は「仙藩帰降に及び名を仲
なかと賜ひ、帰順係となり、総督府会計平坂信八郎を湧谷の獄より出して之を自家に扶養し、又沢卿を古河に迎へ之を国分町米川重治の家に延き、木梨精一郎、桂太郎、粟屋市太郎、安村桜太郎と応接す。
 偶
たまたま徳川脱兵の塩釜にあるもの、胸壁を市川に築き西軍を邀よう撃せんとす。盛に篝火かがりびを焚き、藩の解諭に応ぜず。仲〔文五郎〕星列之助と単騎馳せ至り、隊将渋沢栄一郎を説き、退去せしむ。
 又武田杢介、細谷武一郎等、石巻にて官軍に無礼せる廉
かどにて斬られんとす。古内可守之を救はんとして却って捕はる、との報あり。文五郎斎藤安右衛門を従え、先ず榴つつじヶ岡なる参謀営に至り救解せんとしたるに、参謀鈴木薫太郎(忍藩)曰く。会津主悪その罪憎むべしと雖、孤城に拠り天下の兵を引受け、之を支ふる月余、真個男児也。然るに貴藩は三大藩の一にありて一旦盟主となり、西兵纔わずかに境に臨むや手を束つかねて降る。今又、一二の臣隷捕らえらたりとて惶惑為す所を知らず。余、貴藩の為に盡すを恥ず。且つ参謀各主掌あり、余の知る所にあらずと。文五郎百方説解、漸く出張参謀宛の書を得て、深夜石巻に急行して、辛うじて杢介等を救へり。
 十一月、沢卿の帰京の途白石に滞陣するや、其の燈を切り落したるものあり。責、又藩主に及ばんとす。文五郎急行出張、参謀石田英吉を説き、是れ亦事なきを得たるが、十二月に至り職を免ぜらる(或はいふ、醍醐少将の諷する所ありしに由ると)。」(『仙台戊辰史』)

悉く切腹家跡没収を免かるべからず
「かくて戊辰〔1868年〕十二月七日、伊達慶邦は地域を召し上げられ、東京に謹慎を仰せつけられたが、出格至仁の思召で家名をお立て下され、更に二十八万石下賜、仙台城御預けの命があった。(中略)
 ただし坂、但木その他についてはまだ何の御沙汰もなかったが、そのうちに藩内から報復の企てが起こった。それは明治二年〔1869〕正月のことで、仙台藩一門伊達邦成〔亘理城主、岩手山城主邦直の弟〕の家来氏家道以、鷲尾宇源太の両人は、東京の仙台藩邸に行き、左のごとく建言に及んだのである。
 伊達家に於いて勤皇の実効を立てる為に、朝廷へ金を納め、且つ世良参謀殺害に関係のある者どもを悉く探り出して朝廷へ引渡すべきで御座るというのである。(中略)
 藩邸詰合いの重役たちは、ただ顔を曇らすのみで、それに挨拶もしなかった。すると氏家、鷲尾の両人は、軍務局判事大村益次郎および薩長の官人に面会を求め、仙台藩においてはまた奸党勢いを得て再叛の暴動が企てられ、そのために贋金の製造、フランス人の雇入れなど、種々の陰謀があると密告したので、政府では大いに驚き、取敢えず久我
こが〔通久〕大納言を総督とし兵六〔六〇〇〕名を率いて鎮圧に向わせることとした」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 しかるに、「藩にては或る一部に斯かる内面的運動あるを知らず、和田〔織部、宮床伊達氏六郎宗規の次男、蒲生城主和田氏養子〕、武田〔杢介〕、富田〔小五郎〕、(中略)若生〔文十郎〕、(中略)粟村〔五郎七郎〕(中略)等は謹慎、遠藤〔吉郎左衛門〕(中略)等は他人預り、大越〔仲(文五郎)〕、新井〔儀右衛門〕、大槻〔平治〕、大童〔信太夫〕は囚獄といふ如き調べにて〔、〕前日大体に於て総督府の内聞済みともなり居る故、処分執行をなさんとせしに、十三日(四月)にいたり、突然重臣の召還あり名前書の者共厳重に処分すべし、就中
なかんずく重罪の徒は悉ことごとく切腹、家跡没収を免かるべからずとの申渡しあり、前日とは打て変りたる意見故一驚を喫したり、(中略)
 種々評議せしも、救解の術なく、遂に〔大隊司令士〕高橋〔熊太郎〕、〔小隊司令士〕
渡辺〔清左衛門〕等の内意通り酷刑を行ふの外なしと決したり」(『仙台戊辰史』)。

大越文五郎は斬罪・獄門/大越は早く逃走して免れた
「弾正台の趣意だと称して硬論を主張した裏面には、仙台藩勤皇党の領袖と称する桜田良佐一派から、藩内有役非役の人物を爬羅剔抉
はらてっけつした材料がドシドシ提供されていたのである。その結果、藩の執政和田織部、同遠藤吉郎左衛門(旧名主税)、養賢堂副頭取玉虫左太夫、近習若生文十郎、近習目附安田竹之輔、粟村五郎七郎、斉藤安右衛門の七人が牢前切腹に処せられた(玉虫、安田、若生および大越文五郎は斬罪、首を獄門にかけてしかるべしというのであったが、百方請うて牢前切腹となった。大越は早く逃走して免れた。これらの罪科の配りは、桜田らが書き出して、渡辺、高橋らの手に入り、それが藩庁への厳命となったものであるが、しかし渡辺、高橋らは、罪状および罪科の申渡し並にその執行を一切仙台藩庁の名で行わせ、総督府はただこれを允いん許しただけの形式で、厳重に監視した。そしてこれには増田繁幸も参加謀議したという評判であった)。
 この外、武田杢介を逼塞
ひっそくに処したが、久我総督一行の帰京まで牢舎入りのまま処分未決のもの、およびまだ召捕られないものは葦名靱負、富田小五郎、(中略)大槻平治(磐渓)、(中略)松本要人、松倉恒(良輔)、黒川剛(大童信太夫)、〔からす組・衝撃隊長〕細谷十太夫、(中略)大越仲(文五郎)、(中略)末永縫殿之允、(中略)古内可守、鮎貝太郎平、大松沢掃部之輔、(中略)熊谷齋(中略)その外であり、既往現在の当路有司や学者を網羅した疑獄であった。
 召捕られたものは禁錮され、脱走したものは姓名を変じ姿を変えて潜伏するなど惨憺たる状態であり、東京に謹慎中の慶邦(楽山と称す)はこのことを聞き『時々御落涙、御食事も咽喉を通らぬ御模様に拝せられ、仰ぎ視るに忍びざる御痛わしさに御座候』と近侍の日記に見える。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)

脱走の罪により家跡没収/仙台大越家の最期
 さて、「久我総督在仙中の処分は切腹七人、逼塞一人に止まりしが出発後の処刑は左の如く行なはれたり(中略)
 町奉行黒沢亀之進、軍事参謀朽木五左衛門、参政〔若年寄〕大越仲(文五郎)、氏家晉、江馬亀之進、後藤正左衛門、沼部愛之助、末永縫殿之允、郡司男沢精一郎、影田孫一郎、上野玄亀斎、奥住源左衛門、二ノ関源治、浜尾最一郎、米谷雄助、秋保林兵衛
 右脱走の罪により家跡没収」(『仙台戊辰史』)
 初代大越源兵衛から数えて十代・二百七十年、大越氏はまたしても歴史の歯車に噛み砕かれ、「仙台大越家」はついに滅び去った。
「なお、戊辰戦争の責任者として東京に送られていた但木土佐および坂英力も、この[1869]年五月十九日に処刑された。時に但木は五十二歳、坂は三十七歳であつた。」(『宮城縣史』)

先非悔悟自首候に付罪差免ぜられ候事/『大越家系勤功巻』
「大越仲、初の名は佑之進。洋式兵法を学び、出色の誉あり。七職を兼ねて裁断宜しき〔を〕得たり、名を文五郎と賜ふ。戊辰〔1868年〕正月、三好監物に従ひ京師に至り、鎮撫使と共に帰藩し大に討会に盡力し、醍醐世良等の信任を得たり。藩論世良を除かんとするに及び、世良を説きて会津の降伏を容れしむることに盡力せしが、世良殺さるゝや長嘆して曰く。命なり、余伊達氏の恩を受くる三百年、朝議に背くも寧ろ伊達氏と存亡を共にすべしと。(中略)
 〔明治〕二年〔1869〕四月、斬首の員中にあり。捕吏の至らんとする時脱藩せし為、家跡を没収されしが、明治三年〔1870〕東京藩邸へ自首」(『仙台戊辰史』)した。
 同「明治三[1870]庚午年」仲(文五郎)は、「大越家伝 大越家系勤功巻 全」(大越家十三代当主茂隆氏所蔵)「を復し、四月之を清書」(「大越家系勤功巻」)し
て後世に伝えんとした。しかし、既述のごとく、1868年2月自ら仙台藩隊長として先導してきた奥羽鎮撫総督軍の養賢堂着陣の段で、その筆を折った。
「同〔明治〕四〔1871〕年左の申渡を受く。
                     仙台旧藩士  大越 仲
 其方儀戊辰之年伊達家軍事参謀ニテ、醍醐少将並ニ世良修蔵ニ附属シ白河ヘ出陣候後、議論ヲ変ジ修蔵ヲ暗殺シ候非常ノ手段之有ル義ヲ心得居乍ラ、曾テ正義ヲ以諫止カンシ候義モ之無ク、遂ニ反覆ノ国論ニ従事候ノミナラス、久我大納言殿東下之節ニ至リ脱走候儀ハ甚敷ハナハタシク心得違ノ致方ニ付不届トイヘトモ、順逆ヲ謬アヤマリ候始末先非ヲ悔悟自首候ニ付、御寛典ヲ以テ罪差免セラレ候事(明治四年)         仙 台 県 庁  」(『仙台戊辰史』)

第八節 ニコライ堂
まつゑの澤田家輿入れと文平の上京/東京大越家
 かくて、文五郎は「居ヲ東京ニ移シ」(墓碑銘)た。
 「明治五[1872]年」には、12歳の次男文平が「東京に來りて露語を學」(『大正人名辞典』)んだ。それまでは、あるいは姉まつゑと共に、下記の家中早坂家に身を寄せていたものであろうか?
 1874(明治7)年12月24日、明治維新の難を避けて事実上棄て置かれ、以来北目大崎村の旧大越家在郷屋敷旧家中早坂與惣治の許に身を寄せてていた長女まつゑ18歳は、谷津の峠の裏側に位置した猪狩氏の旧在郷屋敷にあった旧家中・澤田家二代一馬の嫡男金五郎20歳に嫁いだ。磐城における戦国時代以来浅からぬ因縁にあった大越・澤田両氏は、ここに初めて直接の親族となった。
 1876(明治9)年5月7日、まつゑが初孫ゆゑを生んだ。

 明治「十二[1879]年」、19歳の文平が「東京外國語學校露語科を卒業(『大正人名辞典』)」した。
  「越ヘテ〔明治〕二十[1887]年〔、文五郎は〕赦シヲ受ケテ家ヲ興」(墓碑銘)した。ここに大越氏は「東京大越家」として再興され、再出発することになった。

ニコライ堂建設/ロシア正教会会計監督
 これよりさき文五郎は、当時の多くの旧仙台藩家臣と同様に、「魯人ニコライに従ひて深く西教〔ロシア正教〕に帰依し、」(『仙台人名大辞書』)「教號ヲ阿列克些乙アレクセイト曰フ。」(墓碑銘)
 1884年「ニコライが東京駿河台に聖堂を建築するに当り、推されて其の会計を督し、爾後引続き同教会の会計監督たり」(『仙台人名大辞書』)。
 「ニコライ堂と一般によばれて、親しまれている東京復活大聖堂は、明治十七[1884]年
に起工され、七年後の二十四[1891]年二月に完成しました。
 (中略)聖堂の頂上までの高さは、三十五メートル、建坪一〇五〇平方メートル(三一八坪)、壁の厚さは一メートル以上あり、その壮大さは東洋一と称されました。
 ニコライ堂の建築洋式は、ビザンチン様式で、西欧のゴジック様式の教会建築と異なり、中央にドームがあり、堂内平面は十字架の形をしています。中には一八世紀からのイコンなどや、聖障とよばれる大きなイコンの仕切りがあり、独特の雰囲気をかもし出しています。鐘楼には、大・小六つの鐘があり、ニコライ堂が建てられた当時から詩や歌などに歌われて親しまれています。この聖堂はハリストス(キリスト)の復活を記念して建てられたので東京復活大聖堂と呼ばれています。
 また、東京復活大聖堂は、亜使徒ニコライ大主教が建てたところからニコライ堂という名で親しまれるようになりました。」(東京復活大聖堂パンフレット「ニコライ堂・東京復活大聖堂」)
 文五郎の長男弘毅の孫にあたる大越幸夫家は、いまなおロシア正教をその宗旨としてい
る(染井霊園の文五郎の墓近くにある同家の墓は弘毅の長男十郎の設計になり、ロシア正教式を踏んでいる)。
 「大日本正教本會主教館 復活聖堂及邸内全図
  Cathedral of the Russisan Orthodox Church in Tokio, Japan.
  東京神田柳原河岸廿号地精行舎銅版部製
  明治廿四[1891]年三月 日印刷 同年同月出版御届
  画作兼発行者印刷人 神田区駿河臺東江梅町五番地大越文五郎(以下二名略)
 ○位置 大日本東京市神田区駿河臺東江梅町六番地
 ○起工 明治一七[1884]年三月
 ○竣工 明治廿四[1891]年二月
 ○聖堂建坪 参百拾八坪二分一厘
 ○惣高サ 本堂百拾四尺九寸五分 鐘楼百貮拾五尺五寸五分 但地盤より十字架迄」(大越幸夫氏所蔵)

ロシア正教會公私文書ニ其手迹ヲ留ム
 「ニコライ堂は、正教会の日本における本山です。正教会は、キリスト教の発生の地エルサレムを中心に大きくなった教会で、中近東、バルカン半島、東ヨーロッパ、ロシアに分布しています。(中略)
 正教会は九世紀にコンスタンチノーブルからロシアに入り、聖ニコライ大主教によって日本に伝えられました。現在では西ヨーロッパやアメリカにも広く分布し、全世界に約三億に近い信徒があります。
   正教会の祈祷儀式では、ろうそくや香炉、イコンや聖歌などが荘厳な雰囲気をかもし出し、東洋的であるところから、キリスト教は西洋のものと考えている人の目には奇異にうつるかもしれません。
 初代キリスト教からの祈りの形と心をそのまま継承しているのが正教会です。正教会の聖書と、奉神礼とよばれる諸祈祷式の本は、亜使徒ニコライ大主教によって日本語に訳され、そのまま継承されています。」(「ニコライ堂・東京復活大聖堂」)
 文五郎は「尼闊頼ニコライ師譯スル所ノ經典草藁ヲ命ヲ受ケ繕寫シ、 凡ソ教會公私文書ニ均シク其手迹ヲ留ム。」(墓碑銘)。
 次男文平もまた、「〔明治〕十二[1879]年東京外國語學校露語科を卒業(中略)〔し、明治〕十八[1885]年(中略)、獨力商業を營むの傍ら露語の翻譯に從」(『大正人名辞典』)っていたので、あるいはこれにあずかって力があったかもしれない。
また、「正教会の暦には、多くの斎(ものいみ)や祭りがあり、特に復活大祭は有名で、多く
の人が主イイススの復活をお祝いするために教会に参祷します。」(「ニコライ堂・東京復活大聖堂」)

性温厚ニシテ衆ヲ容レ老ヒテ健ヤカニシテ克ク勉メ死ニ至ルモ倦マス
 文五郎は「性温厚ニシテ衆ヲ容レ、老ヒテ健ヤカニシテ克ヨク勉メ、死ニ至ルモ倦マス。」(「墓碑銘」)
 はじめ「村田氏ヲ配スルモ先ニ卒シ、継ヒデ佐藤氏ヲ娶ル。男女子十六人。」(「墓碑銘」)彼は大変な多産であった。まつゑはおそらくその長女であり、その実母は先妻「村田氏」であろう。
 1895(明治27)年7月7日、初曾孫金太郎が生まれている。

  「次男文平は〔1904~05年〕日露役に通訳として従軍し、後ち旅順市長たり」(『仙台人名大辞書』)。
 1911(明治44)年10月30日、曾孫で私の父亥兵衛が生まれている。
 1916〔大正5〕年1月、故あって「其の長子弘毅は獄に死し」(『仙台人名大辞書』)た。
 奇しくも同「大正五〔1916〕年十月十二日〔文五郎〕没す、享年八十五、東京染井共同墓地に葬る」(『仙台人名大辞書』)。波瀾万丈の生涯をおくった文五郎は、当時としてはことのほかに長命であった。それは、せめてものなぐさめであったろうか?


第九節 染井霊園

 1990年3月6日、私と亡妻信子は上記の記述をたよりに東京駒込の染井戸霊園を訪ね、ついに、長らく捜し求めていた高祖父文五郎の墓所を捜し当てた。まことに、万感胸に迫る思いであった。

神僕阿列克些乙大越文五郎/墓碑銘
 その墓碑銘にいわく、
 「       ┃ 神僕阿列克些乙アレクセイ 大越文五郎
        ━╋━                墓
         ┃ 神婢伊 利 邦イリーナ 大越菊 代

 君文五郎ト稱ス。初名ハ佑之進。姓大越氏、伊達政宗臣十左衛門茂世裔世ナリ。仙臺侯ニ仕ヘテ大番士ト爲リ、五百八十石ヲ食ハム。
 君少ワカクシテ小姓ト為リ、御前御目附御使番自ヨリ若年寄ニ累進ス。明治元[1868]年會
津侯松平容保逆命シ、朝廷伊達慶邦ニ之ヲ討タ令シメ、九條道孝ヲ以テ奥羽鎮撫使ト為セシ時、君藩兵ヲ率ヒ京ニ成リ、扈シタカヒ而テ東下シ、仙臺藩參謀に任ス。參謀世良修蔵與ト少将醍醐忠敬タダヨシニ随ヒ、前軍ノ戦状ヲ監ス。
 當マサニ此ノ時藩論漸ヨフヤク動キ、奥羽諸藩與ト相率ヒテ王師ニ抗スルニ及フ。二本松城陥ルヤ、君藩命ヲ奉シ之ヲ復スルヲ謀ル。進ミテ福島ニ次ク、士気沮喪シテ戦意已ニ復スル無シ。而テ若松城破レ、仙台與ト諸藩皆降ル。明[1869]年君藩ヲ脱シ、籍ヲ除キ、名ヲ仲ナカト改ム。
 越ヘテ〔明治〕二十[1887]年赦シヲ受ケテ家〔東京大越家〕ヲ興ス。是ヨリ先居ヲ東京
ニ移シ、基督キリスト正教ヲ信奉シテ教號ヲ阿列克些乙アレクセイト曰フ。大主教尼闊頼ニコライ師之駿河臺聖堂ヲ建ツル也ヤ、君ニ工事ヲ督セ令シメ、君筆札ヲ工ス。
 尼闊頼師譯スル所ノ經典草藁ヲ命ヲ受ケ繕寫シ、凡オヨソ教會公私文書ニ均ヒトシク其手迹ヲ留ム。
 性温厚ニシテ衆ヲ容イレ、老ヒテ健ヤカニシテ克ヨク勉メ、死ニ至ルモ倦ウマス。
 大正五年十月十二日卒ス、壽八十五。染井塋エイ域ニ葬ル。
 村田氏ヲ配スルモ先ニ卒シ、継ヒデ佐藤氏ヲ娶ル。男女子十六人。次子文平、後ニ旅順市長ヲ承ル
      大正六年九月   中井天生撰   雲堂武田自謙書   田鶴年鐫セン」

まつゑの父
 1968(昭和43) 年柏書房から発行された『復刻仙台戊辰史』の巻末には、著者藤原相之助の「原本書き込みメモ」が収録されている。じつは、そのほとんどは文五郎からの聞き書きである。藤原相之助は、1911 (明治44) 年の『仙台戊辰史』刊行後も取材に余念がなく、文五郎に面会したものであろう。文五郎は、奥羽戊辰戦争史の、最大級に貴重な生き証人だったのである。
 この大越文五郎こそは、まぎれもなく黒川澤田家三代金五郎の妻まつゑ(つまり私の曾祖母
)の実父であり、すなわち私の外高祖父である。
 今日文五郎の事蹟は、我々子孫の間からさえまったく忘れ去られようとしている。しかし私は、己の五体の内にたぎる「ただならぬ血の騒ぎ」の源を、まさしくこの外高祖父の裡に見出す。いやしくも文五郎の血を受け継いでいる我々は、己の血の中に脈々と波うつ文五郎の意気を、子々孫々にいたるまで語り伝える義務を負っている。




第八章 東京大越家



 仙台大越家最後の当主十代文五郎佑之は、1871(明治4)年「先非ヲ悔悟自首候ニ付御寛典ヲ以テ罪指シ免セラレ」(『仙台戊辰史』)、「居ヲ東京ニ移シ」(墓碑銘)た。
 ようやくにして、「明治廿[1887]年赦シヲ受ケテ家ヲ興」(墓碑銘)シ、ここに大越家は「東京大越家」となった。
 文五郎の長子弘毅は故あって廃嫡になり、大越氏の正系「東京大越家」嫡流は次男文平が継いだ。
 なお、現在大越家では、「大越」の氏号を、本来の「おおごえ」ではなく「おおこし」と発音している。その間の経緯ははっきりしないが、あるいは東京大越家として再出発した際、いったん「賊軍」となって「家跡没収」され断絶した「おおごえ」の旧称をきらって、「おおこし」と改称したものかもしれない。


第一節 十一代文平 (1860~1922)

 「大越文平君 △出生地 宮城縣
        △現住所 満州、旅順、鯖江、一
   旅順市長 △生年月 萬延元[1860]年一月二十日」(五十嵐榮吉『大正人名辞典』東洋新報社・日本図書センター)

東京外国語専門学校初期卒業生
 「旅順第一次の市長として大多數の市民によりて選出せられたる大越文平君は、宮城縣人にして萬延元[1860]年一月二十日を以て仙臺市に生る」(『大正人名辞典』)。姉まつゑより四歳の年少である。
 1870(明治3)年、父文五郎は「先非ヲ悔悟シ自首候ニ付〔、翌1871(明治4)年〕御寛典ヲ以テ罪指シ免セラレ」(『仙台戊辰史』)、「居ヲ東京ニ移シ〔、〕基督正教ヲ信奉」(墓碑銘)した。
 文平は「夙つとに海外發展の志あり、先づ明治五[1872]年東京に來」(『大正人名辞典』)った。
 翌1873(明治6)年、幼いころから維新の混乱期をともに生きてきた姉まつゑが、大越家旧本領北目大崎村の山向こうの同輩・猪狩家の旧家中澤田金五郎に嫁ぎ、1876(明治9)年5月7日、長女ゆゑを生んだ。
 父文五郎の感化の下に幼いころからロシア正教に親しみ、おそらくは父と共に信者であったろう文平は、「露語を學ぶ、〔明治〕十二[1879]年東京外國語學校〔現東京外国語大学〕露語科を卒業す」(『大正人名辞典』)。

東京駐箚露國公使館・長崎露國領事館通譯
 「同[1879]年七月東京駐箚さつ露國公使館の通譯となり、同年九月長崎露國領事館附に轉ず」(『大正人名辞典』)。
 1884(明治17)年ニコライ堂の建設にあたり、父文五郎は「推されてその会計を督し、爾後引き続き同教会の会計監督たり」(『仙台人名大辞書』)。
 翌「〔明治〕十八[1885]年〔、文平は長崎露國領事館附を〕辭して東京に歸り、獨力商業を營むの傍ら露語の翻譯に從ふ」(『大正人名辞典』)。時に、父文五郎は「尼闊頼ニコライ師譯スル所ノ經典草藁ヲ命ヲ受ケ繕寫シ」(墓碑銘)ていたから、文平もまた、これにあずかって力があったかもしれない。
 「明治廿[1887]年〔、父文五郎が〕赦シヲ受ケテ家ヲ興」(墓碑銘)し、ここに大越家はようやく「東京大越家」として再興された。
 1891(明治24)年、父文平が精根をかたむけたニコライ堂が、七年の工期を要してようやく完成した。

旅順居留日本人會長
 「〔明治〕三十五[1902]年十月旅順に航し同軍港御用達を營む、三十六[1903]年二月露國關東總督の許可を受けて旅順居留日本人會長となる、」(『大正人名辞典』)
 旅順Lushunは、「遼東半島の先端に位置し、形勢険要な軍港であって、旅大より鉄道・
道路が通じている。古く山東から旅順の順路にあたっていたところから、この地名が起こったという。1878年要塞が設けられ、北洋艦隊の根拠地となり、日清戦争では〔1894年11月〕日本軍に占領された。戦後、〔1895年〕下関条約によって日本の租借するところとなったが、いわゆる三国干渉によって清国に返還され、〔1898年〕改めてロシアがこれを租借して堅固・大規模な要塞と軍港を構築し、南下政策の大策源地とした。」(『アジア歴史辞典』平凡社)

日露戦争
 「〔明治〕三十七[1904]年二月日露開戰せらるゝや、君は一度歸国したるが同年六月芝しふ〔煙台〕に航して回漕業を營む、」(『大正人名辞典』)
 「外務省外交資料館所蔵文書」中に「日野文平」の文字が見える由である(1991年4月22日22:00~22:45、NHK総合テレビ放映「現代史スクープ『日露戦争秘録 旅順を売った男』/発見された密約文書/初公開旅順要さい」)。大越家にも「日野文平」と署名した多数の書翰が残っており、文平は一時なんらかの理由で「日野」を称していたようである。
 「日露戦争において日本軍は大いに苦戦し、〔1905年 (明治38)1月〕旅順の占領に多大の犠牲をはらった。」(『アジア歴史辞典』)
 「三十八[1905]年三月〔、文平は〕遼東守備軍司令部附として旅順の軍政事務に參加するの傍かたわ ら獨力商業に從事す、」(『大正人名辞典』)
 同年9月のポーツマス条約で、日本は南満州の鉄道と旅順・大連の租借権をロシアから奪い返した。かくて旅順は、「ロシアの権益を引き継いだ日本の租借地の政治的・軍事的中心となり、関東州庁(のち大連に移転)、関東軍司令部(のち新京へ移転)、海軍基地、要塞がおかれて、日本の大陸政策の要地となった。」(『アジア歴史辞典』)
 翌1906(明治39) 年11月には、南満州鉄道会社 (満鉄) が設立された。 「南満州鉄道会社は鉄道以外の産業も経営し、日本資本主義の満州進出に大きな役割をはたした。日本の主権下の付属地には、日本軍が常時駐在した。」 (家永三郎『新日本史』)

初代旅順市長
 「後軍政の撤廃せらるゝや、君亦囑託を解かれて更に旅順衞生組合を組織し其委員となる、是れ旅順市役所の前身たり、〔明治〕四十[1907]年九月旅順協會は創立せられて役員に擧げられ、四十四[1911]年四月會長に推擧せらるる」(『大正人名辞典』)
 1913(大正2)年、文平の甥澤田俊郎が母まつゑとともに上京して、竹橋の近衛連隊に入隊した。
 また、おそらくこの前後、父文五郎・義母・文平・姉まつゑ・甥澤田養太郎が東京に会しており、(澤田家では失われている)記念写真を残している。
 「大正四[1915]年十月一日市會議員に選ばれ尋いで市長に推選せらる〔、〕實に第一次市長として創始の業に服し〔、〕名聲隆然たるものあり」(『大正人名辞典』)。
 翌1916(大正5)年1月、故あって獄に下り廃嫡となっていた長兄弘毅が獄死した。
 同年10月12日、父文五郎が85歳で大往生を遂げた。ときに文平は56歳、姉まつゑは60歳であった。

旅順市共同墓地
 この間、文平は東京の広荘な「大越屋敷」に妻子を残して単身赴任し、日満間を頻繁に往来していた。旅順の現地には長崎の芸妓を伴い、その間に三女をなしている。
 文平の甥にあたる、長兄弘毅の長男十郎夫妻は、新婚旅行に旅順を訪れた。また文平の長男茂文等も、学校の休暇の際はしばしば旅順の父の許を訪れていたという。
 1918(大正7)年近衛連隊を除隊した甥澤田俊郎が、叔父をたよって単身渡満、文平の
斡旋で満鉄に入社した。
 1920(大正9)年8月、俊郎はいったん帰国して仙台で結婚し、新婦をともない再び渡満した。
 文平が姉まつゑに送った肖像写真は、「長崎・為政」で、同「大正九年(1920)十二月二十五日撮影」されている。
 翌1921(大正10)年6月、甥俊郎は満州で長男をもうけた。
 翌「大正十一〔1922〕年一月二日〔文平〕没す、享年六十一、旅順市共同墓地に葬る。
」(『仙台人名大辞書』)
その後、旅順は「第2次世界大戦後、ソ連軍の管理下にあったが、1955〔昭和30〕年施
設を残して撤退し、中国海軍の基地となっている。」(『アジア歴史辞典』)

東京大越氏庶流
 文平の弟文蔵は現在の東京大学を卒業したが、東南アジアの某地で死亡した。現在彼の墓地の写真が残っているが、その所在地は不明である。
 また、文平の妹と思われる阿沙は、既述のごとく柴田家に嫁しているが、現在その子孫の消息は不明である。
 文五郎の「男女子十六人」のうち現在判明しているのは、まつゑ・弘毅・文平・文蔵・阿沙のわずか五人のみである。


第二節 十二代茂文
文平嫡男茂文
 大越家十二代は、十一代文平の嫡男茂文が継いだ。
 茂文は、現在の一橋大学を卒業して高田商会(日綿実業)に入り、□□行ゆきと結婚、嫡男茂隆氏を頭に二男一女をなした。その後如水会館を経て、日本駐車場ビル常務等を務めた。
 戦争中染井墓地の祖父文五郎の墓は空襲で倒壊したが被害は軽微だったので、補修して現在に至っている。幸い大越家は戦災を免れたので、父文五郎が仙台から持参した祖先伝来の遺物は、よく保存されて今日に伝えられている。しかし、生前の茂文は仙台藩時代の旧事は黙して語ることなく、生涯仙台の地を訪れることもなかったという。
 従兄弟にあたる澤田俊郎は、その生前に茂文の名をしばしば口にし、「大越屋敷も徐々に切り刻まれて、だんだん小さくなってしまう………」と嘆くこともあったという。
 文平の次男文二は病弱で、結婚したが子を残さずになくなった。彼は、先祖茂世同様画
をよくし、いまも大越家に残る巧みなスケッチブックに、そのいぶきをとどめている。

第三節 十三代茂隆(1933~)
十三代当主
 大越家の当主は十三代茂隆氏
(1933~)である。
 1990年3月6日、私と亡妻信子は東京駒込の染井戸霊園を訪ね、ついに、長らく捜し求めていた外高祖父文五郎の墓所と子孫の現在地をを捜し当てた。まことに、万感胸に迫る思いであった。
 1990年4月29日私と亡妻が大越氏嫡流十三代茂隆氏宅を初めて訪れ、茂隆氏夫人比佐子氏・長女麻里子氏・茂隆氏弟茂和氏共々お揃いで暖かくご歓待いただいた。
 我々は同家のアルバムのなかに曾祖母まつゑとその長男養太郎との写真、文五郎夫妻と文平・養太郎・それにおそらくその義母笹川氏の5人の記念写真等を発見することができ、あたかもまつゑ本人と再会したかのような感慨にうたれた。
 当主茂隆氏はじめ大越家の人々には、まつゑおよび澤田家のことは全く伝わっていなかった。まつゑらの写真も、我々の訪問の前までは、大越家所蔵の他の多くの写真と同様正体不明のまま保存されていたのである。
 翌1991年陽春、大越家の訪問・取材を経た筆者は『澤田氏の来た道 澤田家譜』稿本4部を創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈した。
 2010年3月26日、筆者は改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。

 2013年12月26日、筆者は『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。

第四節 大越弘毅家
初代弘毅
 文五郎の長子弘毅は故あって廃嫡され、既述のごとく、1916(大正5)年1月15日、父文五郎にわずかに11ヶ月先立って「獄に死し」(『仙台人名大辞書』)た
 例によって例のごとく、またしても、先祖茂世ゆずりの「勇悍法ヲ犯ス人ト為リ」のなせる業でもあろうか?

二代十郎
 弘毅の嗣子十郎は、現在の芝浦工大を卒業して1級建築士となり、東京都建築局住宅部長を経て、住宅供給公社等に奉職した。
 十郎はその相貌が父文五郎に酷似していた。また、十郎夫妻は、文五郎の宗旨を継いでロシア正教信者であった。

三代幸夫
 大越弘毅家の当主は三代幸夫氏
(1928~)である。
 「大越幸夫(1928年 - )はTBS顧問、同局初代北京特派員である。東京都出身。
 1951年早稲田大学卒業後同年TBS入社。1964年TBS北京特派員、1975年同局編成局長、1977年報道局長、1981年取締役、1983年常務取締役、1986年同局映画社社長、1991年同局緑山スタジオ社長、1993年同局ビジョン社長、1997年同局顧問となり現在も日中交流に活躍している。」(Whikipedia「大越幸夫」



(続く)



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