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奥州黒川澤田家譜 第二巻
清和源氏奥州黒川澤田家譜











澤田 諭編著




目 次

目 次


第一部 黒川郡北目大崎村
第一章 奥州黒川澤田氏
第一節 澤田氏の黒川郡北目大崎村入部
         猪狩・澤田・大越氏の”国替” 黒川澤田氏(宗家) 黒川郡の給人たち 北目大崎村・旧鶴巣村の給人たち
     第二節 北目大崎村猪狩家在郷屋敷/家中屋敷
         北目大崎村猪狩家在郷屋敷/家中屋敷 伊達陪臣澤田氏 猪狩家旦方(ダンポ)澤田氏 地方知行権・家中・又家中 在郷屋敷/家中屋敷 猪狩家在郷屋敷/家中屋敷 奉公人前(家中前・下中前) 百姓前
     第三節 黒川郡北目大崎村
         蝦夷と大和の境・松島丘陵 北目大崎 北目大崎村 鶴巣村北目大崎
第二章 黒川澤田宗家歴代
     第一節 遠祖 澤田九十九源亮長

         主家仙台猪狩氏歴代 猪狩家旦方(ダンポ)澤田九十九源亮長 猪狩家「先祖書并諸事写留帳」 後期仙台藩政の衰退

    第二節 末代 澤田源太郎源宗〓〔重〕
         寛政の転法 末代澤田源太郎源宗〓〔重〕 嫡男源太の誕生と源太郎夫妻の急逝 黒川澤田宗家の中断 宮田旧墓地

第三章 九代澤田源太源清重
     第一節 黒川澤田宗家の中断
         黒川澤田宗家末代源太郎遺児 黒川澤田宗家の中断
     第二節 黒川澤田本家の再興
         仙台猪狩家十代木工右衛門隆之 澤田本家の再興
     第三節 澤田家繁衍の礎石
         嫡男一馬の誕生 磐石の礎 宮田旧墓地(続)
第四章 十代一馬
     第一節 “ダンポ”と幕末の騒擾
         初代源太嫡男 結婚と嫡男金五郎の誕生 “一馬ダンポ” 次男佐賀治の誕生
     第二節 澤田家の戊辰戦争
         幕末動乱・出羽三山碑 奥羽戊辰戦争/明治維新 土着帰農願 永暇 封建主従関係の終焉 旧猪狩家知行地の三家中分割
     第三節 澤田家興隆の基
         大越家との縁組 “ダンポ”の若隠居と澤田家の二重経営 四世同堂の春

第五章 仙台猪狩氏
    第一節 楢葉猪狩氏から仙台猪狩氏へ
         仙台猪狩氏鼻祖紀伊守守之 初代下野守親之
     第二節 在郷屋敷/家中屋敷・侍屋敷

         伊達家臣団の構成 門閥 平士三十一席猪狩氏 黒川郡北目大崎村在郷屋敷/家中屋敷 仙台城下侍屋敷 「仙台惣屋敷定」「御屋敷方御定」 地方知行制 蔵入地と給所 四公六民 軍役/主従十四人
     第三節 猪狩家五百石
         二代下野盛満 三代彌惣兵衛持満 四代木工右衛門信満 五代長作定満
     第四節 藩政後期の仙台猪狩家と澤田家
         六代長作時之 「先祖書并諸事写留帳」 七代長作富之 彌惣兵衛将之と澤田家の「中絶」 八代助五郎康之と澤田家の「再興」 」九代木工右衛門隆之
     第五節 戊辰戦争後の仙台猪狩家
        十代長作隆福 「猪狩後家がどこにいた」 土着帰農願と永暇/猪狩・澤田氏主従関係の終焉 「猪狩長作様御知禄田反別」/旧猪狩家知行地の三分与 十一代杢右衛門規之 猪狩章家幸之助甲子・利子幸四郎享六 十二代杢右衛門規 十三代隆明 十四代隆 「仙台猪狩家文書」
     第六節 仙台猪狩分家三百石
         初代十三郎有満 仙台猪狩分家歴代
     第七節 深谷猪狩氏二百石
         兵左衛門岩城之浪士也 仙台猪狩兵左衛門先鋒となり
     第八節 岩谷堂猪狩氏二十五石

第六章 仙台大越氏
     第一節 初代源兵衛
         仙台大越氏祖
     第二節 二代十左衛門茂世
         仙台大越家の創始 大越家本領北目大崎村の知行 大阪冬の陣の功名と「茂世被甲像」 十左衛門「武勇伝」 武頭職・三百六十三石四升 仙台藩の職制 仙台藩の職制組織概要
     第三節 三代茂十左衛門茂貞
         養嗣子茂貞と血脈の途絶 三百六十石五斗一升・御目付 着座五百石 大越氏中興の祖 勘五郎/大越別家 奥山常辰(大学)正室大越氏
     第四節 四代十左衛門茂辰
         御小姓頭/大越氏の頂点 知行宛行書/黒川軍北目大崎村五百石 閉門仰せ付けられ禄の半ばを減す 幾之允茂樹/仙台大越分家百五十石
     第五節 五代源太夫茂邦
         脇番頭仰せ付けらる 元鍛冶町大越家侍屋敷 病気・類焼/大越家の暗雲
     第六節 六代十左衛門茂慶
         六代十左衛門茂慶
     第七節 七代兵彌茂門
         七代兵彌茂門
     第八節 八代十左衛門茂善
         病気に付き御役御免 拾壱貫七百壱拾二文黒川郡北目大崎村之内 病気に付き願ひの如く隠居
     第九節 九代金太夫茂庸
         穰三郎〔慶邦〕様江御相手 四十二歳にして父に先立ち病死 貞女大越とみえ女
     第十節 仙台大越分家
         初代五左衛門茂樹 大越分家歴代
     第十一節 仙台大越別家
         初代大越勘五郎 大越別家歴代 大越内記家
第七章 仙台大越家十代文五郎佑之(仲)
     第一節 七職を兼ね出色の誉れあり
         十七歳の大越家十代当主 外記丁大越家侍屋敷とまつゑの誕生 先祖茂世の二百回忌と文平の誕生 蝦夷地御警衛 川内中之坂通に屋敷を下し置かる 七職を兼ね裁断宜しきを得名を文五郎と賜ふ 大番組之組頭相勤む可き旨仰せ渡さる
     第二節 奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長
         大番組頭大越文五郎三好監物に従ひ京に上る 兵を大越文五郎の指揮下に置き 奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長大越文五郎 大越文五郎兵を纏めて大阪を発す
     第三節 奥羽鎮撫総督府仙台藩軍事参謀
         其ノ藩軍事参謀役ヲ以テ総督府ヘ相詰メ精々盡力致ス様 大越文五郎同腹シメシ合ハセ 「猪狩後家がどこにいた」 文五郎の総督府に至るや転陣の準備を撤したり 大越文五郎はこれを聞きそは一大事と 大越へ厳重に仰せ聞かせられ 大越文五郎は斬り殺すまでには及ぶまじとて衆を説き
     第四節 世良修蔵誅戮の議
         大越文五郎所持の上紅下白の旗 朝敵天地入る可からざるの罪人に付き 大越文五郎も同意し 文五郎等の派と相容れざる者なれば 大越を白石へ差し向け
     第五節 世羅誅戮の顛末
         誅することは異議なし但し予の帰る迄は事を発する勿れ 大越文五郎の帰着を待たずに世良誅殺 「戊辰閏四月廿日見届大越文五郎」 文五郎より但木土佐への書翰指添 大越文五郎が召捕らせた
     第六節 仙台藩参政(若年寄)
         伊達氏の恩を受くる三百年存亡を共にすべし 出入司を以て軍事参謀を兼ね尋て若年寄に進む 飛行隊登米隊聚義隊を率ヰて仙台を発す 仙藩大越文五郎之を統べ
     第七節 脱藩逃亡・家跡没収
         帰順係大越仲 悉く切腹家跡没収を免かるべからず 大越文五郎は斬罪・獄門/大越は早く逃走して免れた 脱走の罪により家跡没収/仙台大越家の最期 先非後悔自首候に付罪差免ぜられ候事/『大越家系勤功巻』
     第八節 ニコライ堂
         まつゑの澤田家輿入れと文平の上京/東京大越家 ニコライ堂建設/ロシア正教会会計監督 ロシア正教會公私文書に其手迹ヲ留ム 性温厚ニシテ衆ヲ容レ老ヒテ健ヤカニシテ克ク勉メ死ニ至ルモ倦マス
     第九節 染井霊園
         神僕阿列克些乙大越文五郎/墓碑銘 まつゑの父
第八章 東京大越家
     第一節 十一代文平
         東京外国語学校初期卒業生 東京駐箚露國公使館・長崎露國領事館通譯 旅順居留日本人會長 日露戦争 初代旅順市長 旅順市共同墓地 東京大越氏諸流
     第二節 十二代茂文
         文平嫡男茂文
     第三節 十三代茂隆
         十三代当主
     第四節 大越弘毅家
         初代弘毅 二代十郎 三代幸夫
第九章 角田石川・岩谷堂伊達・亀田岩城・一関田村・宮床伊達・仙台伊達各氏

第二部 近代黒川澤田家
第一章 十一代金五郎(金吾)=まつゑ
    第一節 澤田家の戊辰戦争
         二代一馬嫡男/奥羽戊辰戦争 仙台藩参政大越文五郎長女まつゑ 縁の下に隠れて まつゑ金五郎に嫁ぐ/仙台藩参政大越文五郎女婿
     第二節 佐々重
         仙台味噌 佐々木重兵衛 佐々重、仙台味噌醸造所
     第三節 仙台常宅・黒川留守本宅/澤田家の二重経営
         大越文五郎の四人の外孫たち 「猪狩長作様御知禄田反別」「猪狩長作様入地分」 仙台常宅/澤田家の二重経営 養嗣子辰五郎/黒川留守本宅
     第四節 大越家との絆
         大越一家の肖像 「鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及び生栗」 文五郎まつゑ父娘の肖像 大越文五郎の大往生
     第五節 仙台米騒動
         最初の攻撃目標佐々重 番頭も小僧もびっくり 佐々重が値下げすれば
     第六節 澤田家中興の祖
         次男俊郎の渡満と末弟松吉の分家 中興宗篤居士
     第七節 庶流
         佐賀治 しん/桜井家・小澤家 きみ/佐々木家・大平氏

第二章 仙台(半子町)澤田分家松吉
     第一節 初代松吉
         二代一馬三男 七男五女 仙台澤(半子町)田分家の創始
     第二節 二代榮松
         二代榮松 庶流
     第三節 仙台澤田(半子町)分家庶家
         澤田勝男家 澤田勝三郎家 澤田千代治家
     第四節 三代一馬
         仙台澤田分家三代当主一馬 庶家

第三章 十二代辰五郎ゆゑ
     第一節 姉家督ゆゑ=養嗣子辰五郎
         三代金五郎嫡女ゆゑ/姉家督 養嗣子辰五郎 五男四女 辰五郎の無力と嫡男金太郎の奮起
     第二節 澤田氏の帰農
         父金五郎の死と澤田氏の帰農 辰五郎の早世 草履づくり
     第二節 庶流
         むめの/文屋家 養太郎(庄三郎)/笹川家

第四章 仙台(八幡町)澤田家俊郎
    第一節 初代俊郎
         三代金五郎次男 近衛歩兵第一連隊  「鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及生栗」 全科共成績甲にて優等  満州雄飛 帰国/仙台(八幡町)澤田家の分籍自立
     第二節 二代實
         仙台(八幡町)澤田家二代当主實 庶流
     第三節 仙台(八幡町)澤田家庶家
         澤田研家

第五章 十三代金太郎
    第一節 若き澤田家長
         四代ゆゑ嫡男/「第七學級々長ヲ命ズ」 若き澤田家留守本宅家長 三男四女 猪狩きくの所有ノ土地澤田金太郎ヘ賣渡ノ件ヲ許可ス

     第二節 軍馬とともに
         農林大臣表彰 北目大崎字三角田四拾参番地 「原っこ」 代代家督亥兵衛一家の同居
     第三節 鶴巣農協組合長
         鶴巣農業協同組合組合長 亥兵衛の分家/黒川澤田分家 宮城県知事表彰
     第四節 澤田家中興の第二祖
         鶴巣酪農協同組合組合長 澤田家中興の第二祖
     第五節 庶流
         金蔵/秋葉家 ちよと/湯村家 もりよ/志賀家 金之助/山影家 てる子/仙台高等技芸学校長/目黒家 辰夫

第六章 黒川澤田分家亥兵衛
    第一節 初代亥兵衛
         四代ゆゑ四男亥兵衛 代代家督 しづかとの結婚 戦争と長女こゆきの夭折 分家独立 子供たちの自立と隠居
     第二節 佐藤家
         佐藤家 四代今朝吉=つめ 五代重夫 佐藤分家巌 六代重信
     第三節 二代元
         初代亥兵衛嫡男元 黒川澤田分家二代当主
     第四節 庶流
         こゆき しづゑ こあき/村田家 こはる/文屋家

第七章 澤田修家
    第一節 初代修
         黒川澤田分家初代亥兵衛次男修 澤田修家分藉自立
     第二節 有限会社沢田製作所
         有限会社沢田製作所の創業 会社経歴書

第八章 澤田諭家
    第一節 初代諭
         黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭 上京・大学中退・放浪 信子との結婚/分藉自立 労働者卒業/大学再入学 本『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』の執筆開始
     第二節 愛妻信子の死と余生
         信子の急死 『信子残照』 長兄・両親の死と病気療養/「InterBook絶版文庫七つ森」開業 「InterBook七つ森紙背人の書斎」サイト開設
     第三節 工藤家
         工藤本家 十代太久 工藤家初代軍平 二代軍治 三代國男 四代泰三 庶流
     第四節 大谷家
         初代鍾三/大谷商会 二代正雄 庶流 庶家

第九章 十四代力
    第一節 黒川澤田本家六代力
         五代金太郎嫡男力 猪狩杢左衛門所有の二反三畆
     第二節 庶流
         トシエ/須藤家 ひとし/気仙家 千代子/文屋家

第十章 澤田勝彦家
    第一節 初代勝彦
         五代金太郎三男勝彦

第十一章 十五代智
    第一節 黒川澤田本家七代智
         六代力嫡男智
     第二節 庶流
         友子/大沼家(大沼製菓)

第十二章 澤田豊彦家
    第一節 初代豊彦
         六代力次男豊彦


<奥州黒川澤田家譜第一巻 澤田氏の歴た道 目 次>
<奥州黒川澤田家譜第三巻 日本姓氏家系譜 目 次>

第三部 資料編
黒川澤田家系統図
黒川澤田家歴代一覧
澤田氏族譜:黒川澤田本家・仙台澤田分家・仙台澤田家・黒川澤田分家

住所録


奥 付
裏表紙








第一部 黒川郡北目大崎村





 遠く13世紀石川郡澤田郷の大和源氏奥州石川一族「石川澤田氏」にその源を発し、15・16世紀の交楢葉郡浅見川村に東遷して楢葉猪狩氏家中・岩城氏陪臣「楢葉澤田氏」となっていた澤田氏は、17世紀初頭の”国替”によりいよいよ現在地黒川郡北目大崎村に到達し、仙台猪狩氏家中・仙台伊達氏陪臣「黒川澤田氏(宗家)」となって、400年連綿と汲んできた「澤田氏」の流れを、800年後の今日につないだ。



第一章 奥州黒川澤田氏



「天正18年(1590)豊臣秀吉は奥州仕置令を発し、黒川郡は伊達領に入ることになった。伊達政宗は〔黒川郡領主〕黒川〔安芸守〕晴氏の処罰を行うとともに、領内では天正の太閤検地が舞野・鳥屋などに実施されている。」(『角川日本地名大辞典』)
「慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城主猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕(中略)、信夫郡〔福島市〕へ去」(『大日本地名辞書』)り、「慶長八[1603]年(中略)是ヲ以テ姑ク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)(中略)邑ニ於テ給ス、(中略)其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台城下〕ヲ去ル六里許ハカリ」(『伊達世臣家譜』)。


第一節 澤田氏の黒川郡北目大崎村入部
猪狩・澤田・大越氏の”国替”
 さて、猪狩氏は「慶長元[1596]年、(中略)伊達家へ随仕(中略)、信夫郡へ去」(『大日本地名辞書』)っていたが、「然る所〔1603年〕岩城国替の時分、貞山〔政宗〕様に従ひ(中略)猪狩下野〔守親之〕処へ仰せ下され候は、岩城落着之段聞こし召され候。兼て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台領〕へ罷り越す可き旨仰せ下され(中略)、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候処」(佐々久『仙台藩家臣録』歴史図書社)、「是ヲ以テ姑シハラ ク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里ニイサト(膽澤郡)〔岩手県胆沢郡胆沢町若柳新里〕兩邑ニ於テ給ス、(中略)其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台〕ヲ去ル六里許ハカリ、」(『伊達世臣家譜』)
 猪狩氏家中澤田氏もまた、主家猪狩氏の「磐城大明神他二神の氏神三神」を背負って主君猪狩下野守親之につき従い、15~16世紀の交以来1世紀余にわたりその根拠地としてきた楢葉郡浅見川村の地をあとにして信夫郡〔福島市〕を経て仙台領に入り、いよいよ今日までの澤田氏の根拠地「黒川郡北目大崎村」に入部して、伊達氏の陪臣となった。
 また、「〔1602年〕岩城滅亡するに及ひて」「伊達郡鞠子村〔福島市丸子〕に住」していた仙台大越家初代源兵衛も、「数年の後〔1606年〕二男十左衛門〔茂世〕政宗公于
仕え、以て〔1606~15年の間に〕黒川郡北目村に領地を有し、而来住」(「大越家系勤功巻」)んだ。

黒川澤田氏(宗家)
 これよりさき、「仙台城の構築とともに城下町の建設もすすめられた。当時の仙台城下は、いわゆる国分庄の(中略)入会地で、森林と湿地の連なる原野であつた。ここに(中略)慶長六[1601]年建設が始められた。まず仙台城大手門から東方に、広瀬川に仙台橋(大橋)をかけ、大町の路線が割り出され、次に芭蕉の辻でこれと直交する国分町・南町の線が作られ、この二路線を基準として碁盤の目のように町と屋敷が割り出された。翌七[1602]年一月までにこの屋敷割は一段落したらしく、政宗は、岩手山城下の士民に対して、二月一日から五月五日までの間に残らず仙台城下に移住するように命じたという。」(『宮城縣史』)
 こうして「仙台城下に家臣団は集められ、彼等は身分・石高に応じて藩からそれぞれ〔侍〕屋敷を拝領した。」(『宮城縣史』)
 1602年に仙台領に入った猪狩下野守親之もまた、やがて仙台城下に侍屋敷をあてがわれ、そこに移り住んだはずである。
 澤田氏もまた磐城以来の股肱の家中としてそれに従い、しばらくは猪狩家侍屋敷(本邸)の一隅に起居して、「慶長八[1603]年(中略)是ヲ以テ姑 ク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)(中略)邑ニ於テ給」(『伊達世臣家譜』)された領地との間を往復していたろう。
 が、ほどなく「其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台〕ヲ去ル六里許リ」(『伊達世臣家譜』)の「猪狩家在郷屋敷」の留守を預かり領地を管理する「猪狩家旦方(ダンポ)」として、いよいよ現在までの澤田氏の本拠地「黒川郡北目大崎村照節沢」に腰を据えたものと思われる。
 当時仙台藩では、「配下のものより〔澤田氏のような〕役頭のことを旦方〔ダンポ〕といい、家々にても家来の長を旦方〔ダンポ〕とい」(「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会)った。
 こうして猪狩氏が「仙台猪狩氏」となるとともに澤田氏もまた「猪狩家旦方(ダンポ)」となり、「黒川澤田氏(宗家)」となったのである。


黒川郡の給人たち
 慶長9[1604]年「政宗の息で飯坂氏を継いだ河内守宗清に黒川郡が与えられ、下草に入ったが、のち元和2年(1616)には今村(吉岡)に移り〔吉岡伊達氏〕、以後この地が黒川郡の中心として繁栄することになった。しかし宗清が寛永11年(1634)に死去した後は、黒川郡は伊達氏の蔵入地と〔猪狩・大越氏等〕家臣所領とに分割されることになった。
 寛文2年(1662)には着座の奥山常辰が、次いで宝暦6年(1756)宿老の但木顕行〔1500石〕が吉岡に所領を与えられて入部した。また宮床には一門の〔宮床〕伊達(田手)村興が享保7年(1722)に 8,000石余の所領を与えられた。この他、北目大崎の上郡山氏〔、猪狩氏、大越氏等〕、檜和田の佐々布氏、松坂の松坂氏、三ヶ内の西方氏など多数の家臣が〔現大和〕町内各所に所領を与えられている。前代から続いて当〔大和〕町域に所領を持ったのは、松坂氏と宮床の鴇田氏(初期のみ)である。」(『角川日本地名大辞典』)

北目大崎村・旧鶴巣村の給人たち
 「北目大崎村」は「宮床伊達氏・上郡山・斑目・八谷・大越・猪狩・良覚院などの知行地とな」(大塚徳郎・竹内利美監修『日本歴史地名体系4宮城県の地名』平凡社)った。
 「東北歴史資料館の斉藤悦雄氏の作成になる(中略)『仙台藩給人の一覧表』によれば、当地〔大和町〕に在郷屋敷をもった仙台藩給人」のうち、のちの鶴巣村相当分は、
「鳥屋村   後藤(一六〇石)〔白石〕
 北目大崎村 斑目 (一〇八石) 八谷(一〇〇石) 大越(二五〇石〔幕末時五八〇石〕) 猪狩(五〇〇石) 良覚院(二六〇石 着座)(伊達) 〔上郡山(五〇〇石 太刀上) 宮床伊達(八〇〇〇石 一門)〕
 下草村   平渡(一二〇石)
 大平村   黒田(三一八石) 江馬(一〇〇石) 本田(一四〇石) 日野(三〇〇石)
 幕柳村   ?
 太田村   桜井(一五〇石) 小沢(三〇一石)
〔山田村   片寄〕
 小鶴沢村  ?
 当然このほかに当〔大和〕町地域に知行地のみを有し、在郷屋敷が他地域にある者もあったと思われるし、また伊達氏の蔵入地の存在も考えられるのであるが、その全貌は明らかでない。なお、表の( )内の知行高はその給人の全知行高であるが、当該村のみに所有している知行高ではない。すなわちその知行高の一部ないし大部分を他郡村に所有していたのである。一部の給人を除けばその知行を与えられた時期も不明である。」(高橋富雄監修『大和町史』下巻)

第二節 北目大崎村猪狩家在郷屋敷/家中屋敷
北目大崎村猪狩家在郷屋敷/家中屋敷
「其ノ家甞て(第二世親之ノ時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台〕ヲ去ル六里許リ、」(『伊達世臣家譜』)
 現在澤田氏の本拠となっている北目大崎照節沢の地であることは、言うまでもない。こうして澤田氏は、「猪狩家旦方(ダンポ)」として、いよいよ「北目大崎村猪狩家在郷屋敷」に家中屋敷を構えて、伊達陪臣「黒川澤田氏(宗家)」となったのである。
 猪狩・澤田氏入部以前の照節沢には、古くから今日の(上
うえの家)沢田別家・(下しもの家)音羽家・(東の家)中米家の祖先が、その西の日光山には(上かみの家)音羽家・屋号はない(西の家?)が中米勇一家の、計5家の祖先(ただし、いずれも当時公には姓を名乗れなかった)が住みついていたものと推測される。「猪狩家旦方(ダンポ)」黒川澤田氏(宗家)は、このうちの現「沢田別家(ウエの家)」及び「音羽家(シモの家)」の祖先を「又家中(百姓家中)」として、主家の領地経営にあたったものと思われる。
「親之カ子〔猪狩家三代〕下野盛滿、義山〔忠宗〕公ノ時經界〔田地の境〕之餘田ヲ受ケ、」(『伊達世臣家譜』)「知行地尻にて〔澤田氏等〕下中〔家中〕之者切起し申し候切添新田八拾壱文〔8斗1升〕万治四[1661]年四月廿二日柴田外記を以て下し置かれ、」(『仙台藩家臣録』)「併セテ四百四十石餘ト爲ス、」(『伊達世臣家譜』)
 この新田もまた、澤田氏その他の家中の手によって、北目大崎村内外に開かれたものであろう。
「貞山〔政宗〕公ノ末、小姓ニ舉ケ、義山公ノ時、武頭ヲ歴ヘ 、肯山〔綱村〕公ノ初メ、町奉行ニ遷リ、〔政宗・忠宗・綱宗・綱村〕四朝ニ歴事シ、在職凡オヨソ 五十四年、」(『伊達世臣家譜』)

伊達陪臣澤田氏
「家臣たちの家中すなわち陪臣の数はさらに多く、『仙台府諸士版籍』(『仙台叢書』)によると、一門十一人で六、六二八人、一家十七人で三、〇六四人、準一家八人で六七〇人、一族二十三人で二、一八一人、宿老三人で六一四人、着座三十三人で一、八一八人、合計一六、九六四人の陪臣があつた。これに〔猪狩氏等〕平士の〔澤田氏等〕家中を加えると、陪臣の総計は二万四千人に及んだという。しかもこれらの陪臣もまた禄高に応じておのおの〔沢田別家(上
うえの家)等〕家中を養つていた。(中略)
 一門・一家などの門閥は、地方においては数多くの家中を居館の周囲に集め、彼等の在所の白石〔(片倉氏)〕・岩手山・登米・涌谷・亘理・角田〔(石川氏)・宮床〕などは小城下町を形成し、藩内に藩をなす観があつた。これを『支藩』とよぶ人もある。勿論農村にも彼らの家中は居住し、平生は農耕に従事するなど、農民同様の生活をする者も多かつた。『旧仙台藩治概要』にこのような陪臣家中の存在形態を表して次のように記している。
 主従三分ノ二ハ自ラ持地ニ土着シ其ノ地ヲ耕耘シ、余力アレハ新田ヲ開拓スル等、純然タル農家ノ如シト雖、文学武芸等ヲ修行シ、公事アレハ鋤犂ヲ捨テ雙刀ヲ帯フ、所謂屯田兵ニ異ナラス、是レ藩祖カ臣下ヲ配置シタル元素ナリ、維新ノ変遷ニ際シ、直ニ土着帰農セシヲ以テ、流離飢餓ヲ免ルヲ得タリ」(『宮城縣史』)
 
猪狩家旦方(ダンポ)澤田氏
 上述のとおり、「配下のものより役頭のことを旦方〔ダンポ〕といい、又家々にても家来の長〔澤田家もそうだが〕を旦方〔ダンポ〕とい」(『仙台藩歴史用語辞典』った。
仙台藩の地方(ぢかた)知行制下、所拝領の給人(地頭、直臣)は大身の者ほど城下侍屋敷に常住した。中級以下の藩士においては、大身の家の「家老」職に相当する旦方(ダンポ)が、主君に代わり知行地の在郷屋敷に陣取って君臨し、領地経営の実務を差配し郡方(こうりかた)の日常行政万端を取り仕切る、村落の実質的支配者・階級(サムライの端くれ、士分の末端)だった。
 たとえば、幕末に酒豪で鳴らした我が高祖父一馬(はしめ)は、巷間”一馬ダンポ”として勇名を馳せた、いわゆる”最後のダンポ”だった(我々の中学時代までは、あだ名”◯◯(個人名)ダンポ”として使われて、まだその片鱗が残っていた)。
「だんぽう〔旦方〕 (中略)(3)ダンポといって刀をさしている人をいうこともある。(中略)ダンポ契約は武士達の契約講である。配下のものより役頭のことを旦方といい、又家々にても家来の長を旦方といい、又いとき〔け〕なきものは自分の腰のもの刀を旦方という。一つの言葉にて三つの名となる(やくたい草)」(『仙台藩歴史用語辞典』)。
 
地方知行権・家中・又家中
「いわゆる四十八館の領主以下給人侍は地方知行を行つていたが、その知行権の内容は、大身から小身にいたるまで一様ではなく、知行権にはもとより強弱の差があつた。四十八館の領主層は、領内各地に割拠しておおむね一円的な所領(知行地)をもち、それを自己の家中にさらに給地として分与し、封建的受給関係が末端まで及んだ。(中略)
 下層給人の場合は、在地で農民を直接支配することはほとんどなく、その知行権は単なる法定年貢徴収権にすぎなかつた。(中略)
 延宝〔1673~80〕以降(中略)大身領主層の地方知行権が次第に変質して、少身給人なみに単なる徴税権だけのものになる傾向があつた。」(『宮城縣史』)
「大身の家臣の給所はさらにその家中に知行として分与された。給所がさらに二次的所に細分化されていくのである。(中略)
 大身の士でなくとも、伊達家の軍役制度では〔猪狩氏等〕三貫文〔30石〕以上の給人たちは、いずれもその知行高に応じて多かれ少なかれ自己の〔澤田氏等〕家中をもち(最低一人)、それぞれ土地を分与していた。これらの家中の中には、さられこれに従う又家中を有する者もあつた。(中略)いわゆる又家中は家中といつても身分は勿論士分ではなく、譜代の従者であつた。」(『宮城縣史』)


在郷屋敷/家中屋敷
「諸侍の在郷屋敷については寛文四年(一六六四)次の通り定められた。
諸侍衆在郷屋敷高下御定(中略)
 一百貫文〔1000石〕より五拾貫文〔 500石〕迄
 上納ニ而ハ五拾間六拾間、野原ニ而ハ七拾間八拾間
 下中〔家中〕屋敷五軒、右同断〔一軒ニ付二十間廿五間野積リ、本地野原共ニ〕
一五拾貫文〔 500石〕より弐拾貫文〔 200石〕迄
 上納ニ而ハ四拾間五拾間、野原ニ而ハ五拾間六拾間
 下中〔家中〕屋敷吟味之上申シ付ケラル可ク候事(中略)
 すなわち、侍の在郷屋敷は知行高に応じて大小の差を設け(中略)た。
 中期以降、都市居住武士階級の財政難がようやく深刻になると、農村に居住することを望む者が多くなつてきた(中略)。仙台藩において所・在所・在郷の数が幕末になるにつれて多くなつてきたことは、主として経済上の理由にもとづくものと考えられ、現象的にはいわゆる侍の地方知行がいよいよ普遍化する結果をもたらした。」(『宮城縣史』)

猪狩家在郷屋敷/家中屋敷
 「澤田家の殿様」猪狩家の在郷屋敷は、「治〔仙台城下〕ヲ去ル六里許リ」に、「甞て(二世親之ノ時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置」(『伊達世臣家譜』)いたものであった。
 今日上下両澤田家の境界をなしている古道を入口として、北と西の山腹の三ヵ所に、澤田氏が遠く磐城国楢葉郡から営々として背負い来った「主神磐城大明神他二神の氏神三神」を祀った広壮な台地に、南面して造作されていた。
 今や、その跡地は上下両澤田家の畑地および山林と化しているが、門の左右に両澤田家および音羽家(シモの家)を従えた地形は当時の屋敷構えの跡をよく遺しており、「猪狩家五百石在郷屋敷」の風格をいまに伝えている。
 なお、猪狩家旦方(ダンポ)澤田家(宗家)は、在郷屋敷敷地内に家中屋敷を営んで領地経営にあたっていたものと思われる(のちに述べる事情により、今日の「澤田本家(シタの家)」は当時まだ存在していなかった)。

奉公人前(家中前・下中前)
「給所の耕地は一般に『奉公人前』(家中前・下中前ともいう)と『百姓前』とから成り立つていた。奉公人前というのは〔猪狩氏等〕給人の〔澤田氏等〕家中が検地帳において竿答え(耕地の名請人として検地帳に登録されること)した耕地をいい、百姓前は給人の百姓が竿答した耕地である。(中略)
 奉公人前は、〔澤田氏等〕給人家中の手作地さらに名請地をさし、家中の軍事的経済的基礎となつたもので、原則的には年貢・課役を負担するものではなく、この点において百姓前と厳然たる区別があつた。(中略)
 奉公人前の存在は仙台藩の土地制度においてきわめて特徴的であるが、その成因については、戦国以来の給人手作地がそのまま徳川時代まで持ち越したものもあつたであろうが、そのほかに、すでに述べたような初期の給所宛行形式の一たる野谷地支給がその主要な契機となつたものと考えられる。すなわち、慶長・元和以来、家臣団の野谷地拝領-開墾が盛行し、その際〔猪狩氏等〕給人の〔澤田氏等〕家中がそれぞれ土地を割り当てられて開墾し、それを自己の知行高として給された。その後彼等はそこに土着して農耕に従事し、主人より知行の形式でもらつた土地を検地の際に竿答したのである。(中略)
 奉公人前は、原則としては、〔猪狩氏等〕千石以下の給所では七%、千石以上の給所では十五%だけを許されたが、実例についてみると、(中略)これより多いのが一般である。(中略)
 奉公人前は、このように手作にせよ請作にせよ、いずれにしても〔猪狩氏等〕給人の〔澤田氏等〕奉公人(家中〔陪臣〕)が検地帳で竿答した耕地をいうが、この場合、奉公人あるいは家中は必ずしも士分とは限らない。(中略)
 すなわち、百姓の二、三男あるいは傍系家族が給人の奉公人および足軽になることが多く、同時に彼等の新屋敷がいわゆる除屋敷となつて、年貢・課役を免除されたことを示している。また百姓身分のまま給人の家中になるものがあつた。(中略)氏をもたず単に名のみを称する家中には、このような『百姓家中』が多かつたであろう。かかる家中百姓の耕地も奉公人前とよばれたであろうが、純粋の奉公人前と異なつて低率な年貢および諸役を課されたようである。このような家中百姓成立の契機としては、初期の給人による野谷地開墾の際の労働力として設定されたものであろう。
 ところで奉公人前は、現実的には必ずしも〔澤田氏等〕家中みずからが耕作するとはかぎらなかつた。」(『宮城縣史』)

百姓前
「奉公人前が給人家族の手作地で軍事的経済的基盤をなしたのに対して、百姓前は領主(伊達家あるいは〔猪狩氏等〕地頭・給人)の最も基本的な経済的基礎となつたもので、(中略)いろいろな諸制限が加えられた。
 一本百姓のもつ百姓前は、初期にはおおむね蔵入地に属するか、あるいは一給人に属するかのいずれかであつて、いずれにしても領主の支配力が強く及んだが、中期以降になると、一百姓の持高は蔵入地および数人の給人に分割知行されるようになつたことはきわめて顕著である。(中略)
 このように、一百姓の本地あるいは新田が一給人の支配から数人の給人の支配にかわれば、それだけ各給人の土地支配力が薄弱となるわけであり、逆にいえば、百姓の土地に対する権利が次第に強くなつたことを示す。こうして給人は単なる徴税権者にすぎなくなり、百姓の事実上の土地所有が進行することになつた。このことは同時に、給人と百姓との封建関係の変質としてきわめて注目すべき現象である。」(『宮城縣史』)
「仙台藩では幕末まで〔猪狩氏等〕給人の地方知行が実施されたために、百姓の年貢・小役・夫役は蔵入地と給地と別個に徴収され、他藩のように藩が村を単位として一括徴収するということはなかつた。
 まず蔵入地の年貢・小役は代官からの割付によつて村肝煎が百姓より徴収する。(中略)
 給地の収納規定もすべて蔵入地に準じ、〔猪狩氏等〕給人が規定に従つて年貢・小役の割付を行い、その徴収事務は、藩政初期は給人の〔澤田氏等〕下代が給地に出張してこれに当つたが、中期以降は知行地の百姓の中から有力な者を『地肝煎』に任じてこれに代らせた。」(『宮城縣史』)


第三節 黒川郡北目大崎村

蝦夷と大和の境・松島丘陵
「古代多賀城以北の地は『奥郡』と呼ばれた。ここには多くの城柵が築かれ、蝦夷経営の最前線と考えられた。その入口が黒川郡で、多賀城以南と奥郡を分ける関門であり、『黒川以北一十郡』とか『黒川以北の奥郡』という書き方をされる。」(『角川日本地名大辞典』)
 東日本の衛星地図をひろげると、関東平野から仙台・七北田平野に至るまでは、仙道(東山道)および海道(浜通り)を通じて平地が連続している。そのつきあたりに、船形・泉連峰から松島湾の諸島まで東西一直線に、「松島丘陵」が自然の関門をなして走っている。その南麓に「遠の朝廷
とおのみかど」多賀城があり、「北目大崎村」は、松島丘陵をはさんでちょうど多賀城の対極に位置している。北目大崎村の北には、吉田川を中にして、大松沢丘陵との間に黒川耕土がひろがっている。
 この形勢を観ずるに、古来松島丘陵は「大和=文明」/「蝦夷=自然」の自然の障壁をなしており、黒川郡はちょうどそこから「蝦夷=自然」が始まる地点に位置している。
 
北目大崎
「七北田〔松島〕丘陵の北縁に位置し、その北方を吉田川が流れて広い水田地帯を展開、地域の北端の砂金沢で竹林川・善川が吉田川に合流している。古墳の多い鳥屋地区に接し、当地にも北目大崎古墳や別所横穴古墳群などがあり、さらに縄文中期の勝負沢遺跡や同晩期の別所遺跡などがある。
 特に別所横穴古墳群は平安初期にまで及ぶ古墳時代末期の葬制を示すもので、遺品が簡素な実用品に限られていることから、在地下級官人の家族墓と考えられている(大和町史)。中世には館も築かれ、その遺構も残っているが、詳細不明。
 地名の由来について、北目は北方への監視所の意で、大崎は室町期の奥州探題だった大崎氏がこの地に拠ったためとされている(宮城県地名考)が、これは逆に『大崎北目』で大崎に備える北目の意味であろう。」(『角川日本地名大辞典』)このように、村落の名称としてははなはだ異色な「北目大崎村」の由来については、上来さまざまな説がまことしやかに唱えられてきた。
 拙編著『別所<鶴巣<黒川望郷讃歌=奥州黒川郡賦 「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)』に詳述したように、そもそも「役行者の後を慕い、(中略)修験道の発展に寄与」(wikipedia「円珍」)した天台寺門宗宗祖・智証大師円珍の薬師如来像を本尊とする北目山別所寺”オヤグッサマ”は、その創建当初から神仏習合の色濃い天台修験寺であった。
 下って江戸時代には、仙台藩修験の元締「総触頭」として藩内全領に睨みをきかせていた本山派(天台系、山王神道)「良覚院(二六〇石 着座)(伊達)」(『大和町史』)が、北目大崎村に領地を知行されて在郷屋敷を置き、そのお膝元となっていた。さらに、吉岡の水晶山不動寺龍善院は「仙台良覚院の末寺にして本山派なり(中略)元下草村にありしを〔伊達〕宗清当地移転に際し随従せり」(『黒川郡誌』)。なお、隣村の鳥屋にも、羽黒派の長円坊があった。(中略)
 かくては”オヤグッサマ”は俄然修験道の牙城と化し、藩政時代初期には既に「北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来」(第二号古文書写)と称し、つまりは明快に「鎮守寺」を標榜していた。当然ながら付属の「鎮守社」を従えて一大伽藍を形成し、当時一世を風靡し隆盛をきわめていた修験山伏が、別当となって跋扈した。
 このように、当地では山岳修験道が急速に勢力を伸ばして神仏両部修験寺の巣窟と化し、近世藩政の始まる頃には既に「鎮守寺」”オヤグッサマ”として北 目・大崎両村の住民を強力に支配し、あまつさえ勢いに任せて両村を「合併」させてしまい、今日に敷衍する「北目大崎村」を立村させてしまった、のではなか ろうか、と愚考する。
 1976(昭和51)年の東北自動車道開通に際し、「勝負沢遺跡」が発掘された。いまはその「鶴巣パーキング・エリア」敷地になっている勝負沢遺跡は、もとは澤田本・分家等の水田および畑であった。その出土品の一部は、多賀城の「東北歴史資料館」に展示されている。
  
北目大崎村
「江戸期~明治22[1889]年の村名。黒川郡のうち。『安永〔1772~80〕風土記』によれば田畑合計 189貫〔1890石〕余、この内蔵入地15貫〔 150石〕余(2貫〔20石〕余は茶畑)・〔猪狩氏等の〕給地 173貫〔1730石〕余。村内には一門の宮床伊達氏や家格太刀上の上郡山氏のほか、斑目・八谷・大越・猪狩諸氏の知行地があり、このほか、仙台の修験良覚院の給所もあった。人頭43・家数49・男女合計 352・馬95。藩有林の樅沢新松御林は寛文6[1666]年の取立て。堤が多く、具足沢・金堀沢・宮田沢・宮野沢・勝負沢・具足沢新堤など6か所があり、ほかに岩堰があった。神社は熊野宮・稲荷宮・神明宮・新山権現・天神宮の5社、仏閣には村鎮守の薬師堂〔現黒川神社〕があった。寺は曹洞宗金剛山玉昌寺(加美郡洞雲寺の末寺)と同宗大崎山知〔智〕光院(仙台輪王寺の末寺)の2か寺で、ほかに修験寺として大宝院(当山派)・明喰坊(羽黒派)の2院がある。『天保〔1830~43〕郷帳』の村高 1,904石余。明治元[1868]年新仙台藩、同4[1871]年仙台県を経て、同5[1872]年宮城県に所属。同22[1889]年黒川郡鶴巣村の大字となる。」(『角川日本地名大辞典』)

鶴巣村北目大崎
「明治22[1889]年~昭和30[1955]年の鶴巣村の大字名。昭和30[1955]年からは現行の大和町鶴巣の通称地名となる。鶴巣村の中心地として、村役場や学校・農業会・農協などが置かれた。明治22[1889]年合併時の戸数は87戸(黒川郡誌)、『安永〔1772~80〕風土記』の段階〔43戸〕から倍増に近い。」(『角川日本地名大辞典』)





第二章 近世黒川澤田家歴代




 さて、上来述べ来ったここまでの論述は、すべて状況証拠となり得る若干の文献・資料、口碑・口伝の類に、一ディレッタントによる史学的考証・推論を重ねた、あたかも雲をつかむが如き苦肉の作品に過ぎない、と言わざるを得ない。
 かてて加えて、残念ながら今日黒川澤田宗家歴代の具体的消息は、ほとんどないというのが偽りのない実情である。
 現在記録と記憶にその名を留めている澤田氏最古の祖先は、「而時明和九[1772]年三月吉日 臣 澤田九十九〔つくも〕源亮長 承之写者也」署名古文書「〔猪狩家〕先祖書并諸事写留帳」(「仙台猪狩家文書」(猪狩隆氏所蔵))を遺した、澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ?)である。
 遠祖九十九亮長は江戸時代中期・18世紀初頭の生まれと推測され、時の猪狩家六代当主長作時之に仕え、黒川澤田宗家先祖代々の衣鉢を継いで仙台猪狩家旦方(ダンポ)職を踏襲し、猪狩家本領黒川郡北目大崎村の在郷屋敷に陣取ってその領地経営にあたっていた。
 18世紀掉尾、猪狩家六代長作時之の子・七代当主長作富之に仕え始めのが、九十九亮長の孫・黒川澤田宗末代源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799)である。


第一節 遠祖 澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ?)
主家仙台猪狩氏歴代
初代下野守親之 元祖大和守に源を発し、紀伊守源十郎を経て、鼻祖紀伊守守之で統領となった岩城家臣楢葉猪狩氏は、高座山城主下野守親之が”国替”となり、北上して伊達家臣仙台猪狩氏となった。
 以来400有余年、仙台猪狩氏の歴代は次のように代を襲い、現当主・14代隆氏に至っている。
 〔仙台猪狩氏元祖〕  〔仙台猪狩氏鼻祖〕
  大和守─紀伊守源十郎─紀伊守守之─┐
┌──────────────────┘
│〔仙台猪狩氏〕                                  ┌彌惣兵衛将之─木工右衛門隆之
└─下野守親之─下野盛満┬彌惣兵衛持滿=木工右衛門信滿─長作定滿=長作時之─長作富之┴助五郎康之┬=木工右衛門隆之
            │      (橋本伊勢高信次男)   (遠藤對馬守之三男)      │ ├長作隆福─杢右衛門規之─杢右衛門規─隆明─隆─
            〔仙台猪狩分家〕                            └─智恵
            └十三郎有滿┬=理兵衛良滿(武田因幡貞信次男)
                  │  ├─────岡之助武滿─喜膳盛之─牧太雅之─善右衛門孝之─嘉守儀之
                  └─女子
二代下野盛満 「然らば(中略)下野〔守親之〕年罷り寄り候に付き隠居仕り、右知行高之通り(中略)下野〔盛滿〕に下し置かれ(中略)取り合せ四拾四貫六百八拾壱文〔 446石8斗1升〕之高に成し下され候。」(『仙台藩家臣録』)
「貞山〔政宗〕公ノ末、小姓ニ舉ケ、義山公ノ時、武頭ヲ歴ヘ、肯山〔綱村〕公ノ初メ、町奉行ニ遷リ、〔政宗・忠宗・綱宗・綱村〕四朝ニ歴事シ、在職凡オヨソ五十四年」(『伊達世臣家譜』)
三代彌惣兵衛持滿 「右下野〔盛滿〕儀年罷り寄り候に付て隠居仰せ付けられ、家督知行高四拾四貫六百八拾壱文〔 446石8斗1升〕之内四拾貫文〔 400石〕は拙者〔彌惣兵衛持滿〕に下し置かれ、残る四貫六百八拾壱文〔46石8斗1升〕之所は私弟猪狩十三郎〔有滿〕に分け下され(中略)、家督仰せ付けられ候。」(『仙台藩家臣録』)
四代木工右衛門信滿 「持滿子無ク、橋本伊勢高信次男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ木工右衛門信滿ノフミツト稱ス、(中略)在職凡オヨソ四十八年、江戸及ヒ他邦ヲ四十度往來ス、
 正徳三[1713]年十月公義使ト爲リシ時、百石増賜シ、前ト併セテ今之祿〔五百石〕ト爲ル、」(『伊達世臣家譜』)
 この四代木工右衛門信滿の晩年、たぶん1710年ごろ家中澤田家に生まれたのが、現在判明している黒川澤田氏最古の遠祖「澤田九十九源亮長」その人である。
五代長作定滿 「信滿ガ子長作定滿サタミツ、(中略)元文元[1736]年十二月少老〔若年寄〕石母田但馬愛頼命ヲ奉シテ曰ク、武頭事務甚ダ煩ハシト、金須正右衛門直貞與ト之ニ預カリ、煩ヲ芟カ〔刈〕リ華ヲ去リ、之ヲ簡易ニ歸ス、是ニ於テ數十巻ニ就而テ之ヲ揀エラヒ、僅カニ四冊ト爲ス、之ヲ嘉ヨミシ永官所ニ蔵スト云フ」(『伊達世臣家譜』)。
 澤田九十九源亮長は、1730年ごろに、この五代長作定滿に仕え始めたと推測される。
六代長作時之 「定滿子無ク、遠藤對馬守之〔信〕第三男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ長作(初稱丹宮)時之トキユキト稱ス、(中略)時之カ子文彌富之トミユキ」(『伊達世臣家譜』)。
 養父先五代長作定滿の養子に入り家を継いで20有年、「病ニテ免」ぜられて以来長らく床についていたと思われる長作時之は、明和9[1772]年3月吉日いよいよ嫡子文弥富之に家を譲る決意を固めて、おそらくは先代から仕えていた股肱の老「臣澤田九十九源亮長」を枕元に呼び寄せ、「先祖書并諸事写留帳」をものさせた。


猪狩家旦方(ダンポ)澤田九十九源亮長
 17世紀初頭、仙台猪狩氏家中・仙台伊達氏陪臣となった黒川澤田氏(宗家)は、代々「猪狩家旦方(ダンポ)」として黒川郡北目大崎村なる猪狩家在郷屋敷を預り、現「沢田別家(ウエの家)」及び「音羽家(シモの家)」2家の祖先を「又家中(百姓家中)」として、営々として猪狩家本領の経営にあたってきた。
 爾来有余年連綿代を重ね、上述のとおり1710年ごろ、主家仙台猪狩氏四代木工右衛門信滿の晩年に、現在具体的に判明している澤田氏最古の遠祖「澤田九十九源亮長」は生まれたと推測される。
 1730年ごろ、五代長作定滿に仕え始めたと思われる。
 1750年ごろには、六代長作時之に仕え始めた。この頃の長作時之は、「寶暦二[1752]年十二月、江戸番馬上ニ擧ケ、病ニテ免」(『伊達世臣家譜』)ぜられて以来長らく床についていたと思われる。
 伝来の社禝を受け継ぎ、岩城以来累代の主家「猪狩家旦方(ダンポ)」職を襲った九十九亮長の本務は、格式「五拾間六拾間、野原ニ而ハ七拾間八拾間」と近郷随一の猪狩家在郷屋敷の留守を預り、又家中、百姓衆を駆使して猪狩家本領の経営に専念することある。
 他方、格式「一軒ニ付二十間廿五間野積リ、本地野原共ニ」の下中〔家中〕屋敷を、おそらくは在郷屋敷の敷地内に拝領し、自らの「手作地さらに名請地」すなわち「検地帳において竿答え(耕地の名請人として検地帳に登録されること)した耕地」で、「家中の軍事的経済的基礎となつたもので、原則的には年貢・課役を負担するものではなく、この点において百姓前と厳然たる区別があつた」『奉公人前』(家中前・下中前)を自作する毎日だった。「奉公人前は、現実的には必ずしも〔澤田氏等〕家中みずからが耕作するとはかぎらなかつた」が、「平生は農耕に従事するなど、農民同様の生活をする者も多かつた。『旧仙台藩治概要』にこのような陪臣家中の存在形態を表して次のように記している。
 主従三分ノ二ハ自ラ持地ニ土着シ其ノ地ヲ耕耘シ、余力アレハ新田ヲ開拓スル等、純然タル農家ノ如シト雖、文学武芸等ヲ修行シ、公事アレハ鋤犂ヲ捨テ雙刀ヲ帯フ、所謂屯田兵ニ異ナラス、是レ藩祖カ臣下ヲ配置シタル元素ナリ、維新ノ変遷ニ際シ、直ニ土着帰農セシヲ以テ、流離飢餓ヲ免ルヲ得タリ」(以上『宮城縣史』)。


猪狩家「先祖書并諸事写留帳」
 1770年ごろ、九十九亮長に待望の嫡孫・源太郎宗〓〔重〕が生まれた。
 同じころ、明和9[1772]年3月吉日、養父先五代長作定滿の養子に入って家を継いでから20有年、いよいよ嫡子文弥富之に家を譲る決意を固めた長作時之は、先代から仕えていた岩城以来の股肱の老「臣澤田九十九源亮長」を病床の枕元に呼び寄せ、「先祖書并諸事写留帳」をものさせた。
「               明和九[1772]年
          先祖書并諸事写留帳
              三月         紙数盡共ニ七枚


岩城ニ罷在候

猪狩紀伊守橘守之

嫡子

猪狩下野橘親之

  同人事慶長八[1603]年ニ御家に被出候御知行四拾四貫六百八拾壱文
嫡子

猪狩下野橘盛滿

嫡子

猪狩弥惣兵衛橘持滿

養子

猪狩木工右衛門橘信滿

  同人事橋本伊勢高信二男
嫡子

猪狩長作橘定滿

養子

猪狩長作橘時之

  同人事遠藤對馬守信三男
嫡子

猪狩文彌橘富之


一 分地同姓猪狩牧太 右同人義猪狩先祖二代目之下野次男十三郎と申者本地四貫六百八拾壱文新田貳貫八百四文ノ都合七貫四百八拾弐文分境仕候寛文七[1667]年ノ右御墨印共ニ之有 其以後新田并武田因幡次男利〔理〕兵衛儀右十三郎養子ニ仕候節御知行十三貫文分地相更三拾貫貳百三拾貳文ニ相成候委細系図書ニ申上候事
一 拙者御知行高四拾貫文ニ而祖父同氏木工右衛門代迄罷有候處 同人数年相務候ニ付 御加増十貫文被下置候以御知行五拾貫文ニ相成候委細勤功書ニ申上候
一 御番所虎之間
一 藝古相窮候品無御座候
一 重キ拝領物并品有之候重代之物御座候ハゞ可申上由是又右之品無御座候
一 仙臺屋鋪東三番丁柳町通北西角
一 在郷屋敷黒川郡北目大崎村ニ先祖代より所持仕候何之品ニ而拝領仕候訳古留等先年類焼之節焼失仕就而相知不申候 右同村之内三十苅と申候 御林〔樅の木沢〕御座候處先祖代より領山ニ相成只今迄拙者方ニ而始末仕候
一 先祖勤功之義ハ別紙ニ申上候 下野御役之義者相知不申候 二代目之下野義者御小姓より御町奉行迄相勤候由申伝候事 以弥惣兵衛代より之勤功之義ハ別紙ニ申上候

  外


一 屹度御触ニ付先祖書并勤功書ノ都合三通明和七[1770]年十月十日御触請合濱田四郎太夫並同道良助方へ書出候事
一 持字滿之字ニ有之候處明和七[1770]年(九月)滿姫君様御多ん生ニ付願之上之(ゆき)之字ニ相改候事
明和七[1770]年九月之内左之通書出可申仕之御触ニ付如斯ニ御座候
先祖より其身并嫡子迄代々名元實名書出可申事
 但名元實名共ニ相改アラタメ候処有之候ハゞ右之品共ニ書出シ可申事
一 本家末家之品有之候ハゞ誰義代より分候訳當時者誰と申名元實名書出可申候 分地田有之候ハゞ他姓ニ候共書出可申候事
 但右二乃條系図仕立其内書出品并實名等不相知候者ハ其訳共ニ改書出可申候事
一 養子相續之品有之候ハゞ實父實名名元共ニ書出可申候事
一 氏書出可申事
一 先祖より代々役目并ニ勤功御知行増減之品書出可申候事
一 先祖より品有之候重代ノ武具并重キ拝領物等有之候ハゞ書出可申候事
一 先祖より代々其身迄の内一藝相極候ハゞ其流儀并師家之名元實名共書出可申候事
一 間所書出可申候事
一 在郷屋鋪有之候者ハ拝領自分之品并誰代より致所持候訳又 御城より里数書出可申事
右之通系図別紙ニ書出其外前文のケ條ニ而趣意無落来月廿日迄私方處冨賀内江指シ出候様右名前之者江可被相通候 以上
       四番大番頭 佐々久馬
  九月十三日
  四番方附番頭 高橋久左衛門様

右之通申来条〔くだり〕ケ條之趣意無落来月廿日迄ニ日限無延引書出候様可有之候 以上
    高橋久左衛門
  九月十五日
  猪狩長作殿

右之通申来候間写成申候 以上
        濱田四郎太夫
   九月十五日
  猪狩長作様


明和七[1770]年同姓牧太方より左之通申来候写

 加美郡小野田村ニ而寛文七(1667)年
一 田畑四貫五百拾四文初而新田起目
 上伊沢新里村ニ而同年
一 同貳貫九百七拾壱文新田起目
 右貳口〆七貫四百八拾五文之所 寛文八(1668)年ニ初而御墨印被下置候
 加美郡小野田村ニ而寛文十貳年(1670)年新田
一 同七百三拾六文 起目
 黒川郡北目大崎村ニ而延宝貳(1674)年新田
一 同四貫三百三拾文 起目
 右之通拾貳貫五百五拾壱文ニ而有之候處ニ 上伊沢郡新里村ニ而延宝四(1676)年ニ弥惣兵衛様より
一 四貫六百八拾壱文
 右ハ十三郎様ニ被進候所
 桃生郡深谷大窪村〔東松島市大塩〕ニ而延宝七(1679)年ニ武田因幡方より次男理兵衛養子ニ来り候節右因幡方より
一 同拾三貫文并ニ同所ニ而無軒数之除屋鋪相譲申候
 右六口〆御知行三拾貫貳百三拾貳文ニ御座候
一 同四百拾九文
 右ハ大窪村新堤例地相出候ニ付替地上胆沢郡新里村ニ而被下置候所
右之通ニ御座候 以上
      猪狩牧太
明和七[1770]年 十月
  猪 長作様

右之通明和九[1772]年三月相改写者也
      猪狩長作橘時之

而時明和九[1772]年三月吉日
         臣 澤田九十九源亮長 承之写者也
                                                    (「仙台猪狩家文書」仙台猪狩家14代当主隆氏所蔵)

 おそらく1780年ごろ、九十九亮長はめでたく初孫の誕生と無事の成長を見届けて、その生涯を閉じたものと思われる。


後期仙台藩政の衰退
 宮床伊達氏から出た仙台藩中興の祖「五代〔伊達〕吉村の享保〔1716~35〕改革によつて仙台藩財政は立て直され、その余沢は六代宗村の代まで及んだが、宝暦五年(一七五七)の領内大凶荒以後、仙台藩は再び財政難に苦しむようになつた。これより明和〔1764~72〕・安永〔1772~81〕・天明〔1781~89〕・寛政〔1789~1801〕までの約四十年、十八世紀後半の藩政は、このような財政難の打開をめざして、藩当局と商業資本家の結託が強化されたことが顕著な特色となつている。
 とくに安永・天明期は、幕政でいえば田沼時代に当たり、仙台藩でも田沼の経済政策の影響をつよくうけたのであつた。さらにこの時期には、全国的な商品流通の展開と商業高利貸付資本の発展、封建農村の窮乏と農民騒擾の激化によつて、これまでの仙台藩支配体制がようやく動揺してきたこと、その反映として上層支配階級の内部にしばしば粛清ないし権力争いを生じたことが第二の特色となつている。しかもこの難局に際して、後期の藩主が代々、若年かつ無力だつたことも、藩政を混乱させた一要因だつた。(中略)
 農村窮乏の要因である重税は、とりもなおさず領主財政の窮乏の皺よせにほかならない。仙台藩領の貢租率は、すでに述べた如く、藩政前期は大体四公六民であつたが、中期以降領主財政の窮乏により、幕政にならつて大体五公五民にひきあげられた。」(『宮城縣史』)


第二節 末代 澤田源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799)
寛政の転法
「宝暦五[1757]年の大飢饉以後も仙台藩領内は毎年のように水害・冷害あるいは旱害で悩まされたが、ついに天明三年(一七八三)冷害による五十六万五千石の大減収を見、九日〔月〕仙台城下にこれまでにない『打ちこわし』が勃発するに至つた。(中略)
 天明の大飢饉(中略)は藩財政を決定的に破綻させ、貧窮のどん底から立ち上がれなくなつた家中は今や絶望的になつた。この頃から藩士の腐敗堕落が激増してくる。(中略)封建制の崩壊過程における支配階級の世紀末的な現象であつた。(中略)
 寛政九年(一七九七)におこつた仙北諸郡農民の大一揆は、領主階級の権力の衰退、郡方役人の不正と腐敗堕落、藩当局の不当な課税や借上げおよび不当な買米に対して、窮迫した農民が積極的な救済と郡村支配の改革を要求したもので、まさに起こるべくして起こつたものであつた。(中略)
 こののち、仙台藩の郡村仕法(郡村の支配方法)が大いに反省され改革され(中略)たことは、この一揆の目的がほぼ達成されたことを意味するものであろう。この(中略)〔1797年の〕寛政の転法によつて仙台領農村は比較的安定した状態となつたが、これに対して伊達家や家中の財政難は一向に改善されなかつた。」(『宮城縣史』)


末代澤田源太郎源宗〓〔重〕
 明和年間(1764-72)の1770年ごろ、澤田源太郎源宗〓〔重〕
さわだげんたろうみなもとのむね(しげ) (1770ごろ~1799)が、黒川澤田宗家の嫡男に生まれた。父母の名は、遺憾ながら不明である。
 このころ、主家仙台猪狩家においては、
「〔六代〕定滿子無ク、遠藤對馬守之第三男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ〔七代〕長作(初メ丹宮ト稱ス)時之トキユキト稱ス、寶暦二[1752]年十二月、江戸番馬上ニ擧ケ、病ニテ免ス、時之カ子文彌富之トミユキ、(『伊達世臣家譜』)
 既述のとおり、明和9[1772]年3月吉日、長作時之は、源太郎の祖父である股肱の老「臣澤田九十九源亮長」に、「先祖書并諸事写留帳」をものさせた。
「猪狩長作時之(中略)カ子〔八代〕長作(初稱文彌)富之トミユキ〔、翌〕安永二[1773]年家ヲ承く」(『伊達世臣家譜』続編、宝文堂)。
 1780年ごろ、めでたく初孫源太郎の誕生と無事の成長を見届けた祖父九十九亮長は、安堵のうちにその生涯を閉じたろうと推測する。
 やがて源太郎は、清和源氏の格式を踏んで誇り高らかに「源宗〓〔重〕」と諱を名乗って元服し、ほどなく結婚したろうが、妻の俗名、出自は伝わっていない。


嫡男源太の誕生と源太郎夫妻の急逝
 さて、猪狩家在郷屋敷に陣取る「旦方(ダンポ)」源太郎は、鋭意、当時近郷随一の大身猪狩家五百石の領地経営の立て直しに努めていた。
 先住の5家祖先との融和も進み、近在の郷士仲間との交際も深まっていたことであろう。そのなかには、もちろん北目村〔今日の北目部落〕に本領を有していた大越氏の在郷屋敷旦方(ダンポ)」早坂氏等の在郷家中もまじっていたことであろう。
 1798(寛政10)年、源太郎夫妻に念願の嫡子源太がさずかった。黒川澤田氏(宗家)の前途は、まさに洋々と開けんとしていたのである。
 おりから、主家猪狩家においては、八代「富之カ子弥惣兵衛将之〔、翌〕寛政十一[1799]年四月父ニ代リ奉職ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 ところが、同年大きな不幸が澤田家を襲った。源太郎夫妻が、わずか2歳の遺児源太を残して、おそらくは感染症でもあったろうか、ともども急逝してしまったのである。
 夫妻のなきがらは、又家中「沢田別氏(ウエの家)」等の手によって、宮田旧墓地に埋葬された。法名「速道全心〔信士〕」
 源太郎の妻の俗名、出自は不明である。法名「眞〓〓〓信女」。


黒川澤田宗家の中断
 おそらく、当時源太郎の両親もまた、すでに故人だったのだろう。いまだものごころさえつかない、黒川澤田宗家の忘れ形見・源太はただ一人とり残され、孤児となってしまった。
 源太の処遇をめぐる詳しい事情は伝わっていないが、けっきょくのところ、澤田氏の又家中・現「沢田別氏(ウエの家)」の祖先に預けられ、その手で養育されることになった。源太の成人までは、又家中「沢田別氏(ウエの家)」がその後見人となり、併せて「猪狩家旦方(ダンポ)」の職務も代行することとなった。
 こうして、楢葉以来の黒川澤田宗家は、実質的に一事中断する仕儀となったのである。


宮田旧墓地
 私の幼少の頃には、春秋の彼岸には、母に連れられて、妹たちと先ずはもってここ宮田沢の旧墓地に詣で、レジャーも兼ねて先祖の前でお相伴し、それからやおら山を越えて鳥屋の新墓地へと向かったものである。
 当時も既に荒れ果ててしまっていた宮田旧墓地には、東の奥に源太郎夫妻の墓一基が西面してあり、その北側に源太とその妻の墓が、二基並んで南面していた。
 当時の墓石ははなはだ粗悪なものが多く、中にも源太郎夫妻の墓は、大きさこそ他に抜きん出てはいたが、きわめて石質が悪く傷みが激しかった。かろうじて、法名の一部が「速道全心〓〓〔信士〕」と読みとれたが、俗名その他は完全に風化して、いっさい失われてしまっていた。しかし私の父・澤田分家初代亥兵衛が、少年時代にその三兄金之助と検分した時分には、まだ「澤田源太郎源宗〓〔重〕」とたしかに読みとれたという。
 源太郎の妻の名は今日失われているが、その法名は、かすかに「眞〓〓〓信女」と読みとれた。
 宮田旧墓地にあった今日の「澤田本家(シタの家)」の墓は以上であり、以後の諸代は鳥屋の玉泉寺に葬られた。






第三章 九代澤田源太源清重(1798-1873)



 「〔1797年〕寛政の転法によつて仙台領農村は比較的安定した状態となつたが、これに対して伊達家や〔猪狩氏等〕家中の財政難は一向に改善されなかつた。十九世紀はじめの文化文政時代になると、江戸米価下落や蝦夷地警備をはじめとする数度の幕府からの課役、さらに当時の一般的な華美の風潮等によつて、伊達家財政はいよいよ悪化し(中略)た。〔猪狩家等〕家中の窮乏は一層甚だしく、士風の頽廃は藩当局にとり重大な社会問題とさえなつた。しかもこの重大な時期に、藩政の頂点に立つ藩主が代々いずれも若死にしたことは、藩政の衰退に拍車をかけた。」(『宮城縣史』)

第一節 黒川澤田宗家の中断

黒川澤田宗家末代源太郎遺児
 澤田源太源清重さわだげんたみなもとのきよしげは、1798(寛政10)年、黒川澤田宗家末代源太郎宗〓〔重〕=同妻名不詳の嫡男として、北目大崎村猪狩家在郷屋敷の家中屋敷に生まれた。私の五代の祖である。
 おりから、主家仙台猪狩家八代「富之カ子弥惣兵衛将之〔、翌〕寛政十一[1799]年四月父ニ代リ奉職ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 ところが、同1799(寛政11)年、不幸にして父源太郎夫妻があいついで急逝した。わずか2歳の遺児源太は、父の又家中・現「沢田別家(ウエの家)」の祖先に預けられ、その手で養育されることになった。成人までの間はくだんの又家中がその後見人となり、「猪狩家御用人(旦方)」の職務を代行することとなった。
黒川澤田宗家の中断
 7年後、先年父の名代となったばかりの猪狩弥惣兵衛将之が、「文化三[1806]年九月未タ家ヲ承ケスシテ死ス
 将之カ子木工右衛門隆之是ノ時幼ニシテ且ツ虚弱〔、〕是ニ於テ将之カ弟ヲ以テ嗣ト為シ〔、〕之ヲ〔九代〕助五郎康之ト稱ス。」(『伊達世臣家譜』続編)
 なんという運命のめぐりあわせであろうか?主君仙台猪狩家の弥惣兵衛将之とその家中
澤田源太郎主従は、相次いでまったく同じような不幸に見舞われたのである。特に遺児となった源太にとっては、それは二重に不運な凶事であった。源太の将来を左右する主家猪狩家の悲劇は、源太自身の運命にも大きな影を落としかねなかったからである。
 案の定、やはり事態は物の道理に沿っては運ばれなかった。
 源太の嫡孫・黒川澤田本家三代金五郎(金吾)の妻となった、仙台大越家十代・仙台藩参政大越文五郎の長女まつゑは、その孫で私の父・黒川澤田分家初代亥兵衛の口を通して、「孫子の代までたしかに伝えるように!」と、次のように言い遺している。

 「曾祖父源太郎夫妻が急死した時、又家中『沢田別家(ウエの家)』(当時は苗字を持たなかった)の祖先が、孤児となった祖父源太を養育し、しばらく「猪狩家御用人(旦方)」も代行していた。
 がやがて、あにはからんや、くだんの又家中は自ら『沢田氏』を僭称して衣鉢を継いだばかりか、あげくは黒川澤田宗家累代の社禝も纂奪してしまった。(以後、これを「沢田別家(ウエの家)」と呼ぶことにする)
 やがて源太の長ずるに及んで、今度は逆に『澤田家(シタの家)』として、形式上源太を分家に出す始末となった。
 本来『沢田別家(ウエの家)』は従者の分際であり、血縁はまったくないのである。」

 こうして、石川以来の奥州黒川澤田氏(宗家)は、形式上中断するに至った。
 澤田源太郎源宗〓〔重〕は、「黒川澤田宗家」の末代である。遠く13世紀の「清和源氏石川澤田氏」にその源を発し、15・16世紀交の「楢葉澤田氏」、さらには17世紀初頭以来の「黒川澤田氏(宗家)」と 600年にわたり連綿その流れを汲んできた「澤田氏」の社禝は、やむなく一旦中断の艱難に際したのである。
 のちに述べるように、源太郎・源太父子に続き、源太の子一馬
はしめもまた一人子であった。当時の澤田氏はすこぶる少産で、少なくとも三代は単子が続いたことになる。
 封建時代は、現代の我々の想像を絶する世界である。男子がなければ、直臣はおろか藩主大名家といえども断絶を免れなかった。まして、一陪臣においてをや!

第二節 黒川澤田本家の再興

仙台猪狩家十代木工右衛門隆之
 過ぐる「文化三[1806]年九月未タ家ヲ承ケスシテ死」した猪狩弥惣兵衛「将之カ弟」・九代助五郎康之が、「〔翌〕文化四[1807]年五月父〔八代富之〕ニ代リ奉職ス〔、文化〕八[1811]年(月ヲ闕ク)家ヲ承ク。」
 「幼ニシテ且ツ虚弱」だった「将之カ子」「木工右衛門隆之長スルニ及ヒ而強健ナルヲ以テ、文化十[1813]年二月請ヒテ康之ノ嗣ト為ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 猪狩弥惣兵衛将之は父源太郎源宗〓〔重〕と、その子木工右衛門隆之は源太とほゞ同年齢だったはずである。「幼ニシテ且ツ虚弱」の間にその父を亡くす悲運に見舞われた隆之は、「長スルニ及ヒ而強健」となった。そして1813年には、父に代わって「家ヲ承」けていた叔父「康之ノ嗣ト為」となり、その娘智恵を娶って無事父将之の正系を継ぎ、猪狩家十代の家督を相続した。
 それゆえ隆之は、幼くして自分と同じ不幸に遭遇した家中澤田氏の同年輩の遺児・源太の境遇に深く同情し、陰に陽に協力を惜しまなかったのではないかと想像される。

黒川澤田本家の再興
 さて、源太にとっては、「沢田別家(ウエの家)」は育った我が家であると同時に、父祖以来の「源姓石川氏澤田宗家」の「僣称者」でもあった。長ずるにしたがい、その胸中にはさぞかし複雑な思いが去来したことであろう。
 上記の猪狩隆之が叔父「康之ノ嗣ト為」った「文化十[1813]年」には源太も15歳となっていた。そこで、源太はいよいよ元服し、清和源氏の格式を踏んで「澤田源太源清重
さわだげんたみなもとのきよしげ 」と誇らかに名乗り、形式上は「沢田別家(ウエの家)」から分家独立して、現在地に「澤田家(シタの家)」すなわち今日の「黒川澤田本家」を興して、実質的に「黒川澤田宗家」を再興した。
 それゆえ、「澤田家(シタの家)」は形式上「沢田別家(ウエの家)」の分家となってはいるが、血縁はまったくなく、親戚ではない。今日に至るも、上下澤田両家は互いに「本家」と呼び合っている始末であるが、澤田家(シタの家)は本来「黒川澤田宗家」嫡流の家柄であり、「沢田別家(ウエの家)」はその従者の又家中なのである。
 この間のいきさつは、既述のごとく、私の父・澤田分家初代亥兵衛の祖母まつゑが、「孫子の代までもたしかに伝えるように………」と語り遺したものである。澤田本家三代金五
郎=まつゑ夫妻にとって源太は祖父であり、金五郎は19歳まで祖父源太と生涯をともにしたのだから、たしかな事実である。

第三節 黒川澤田本家繁衍の礎石

嫡男一馬の誕生
 かくして源太は、その能力と、おそらくは主家猪狩家の庇護によって、亡父初代源太郎の跡を襲って猪狩家在郷屋敷御用人(旦方)の職を回復し、父の職分をひき継いで猪狩家五百石の領地経営にあたることになった。源太が仕えた仙台猪狩家の当主は、前期は九代助五郎康之、後期は同世代の十代木工右衛門隆之であったろう。
 だが、このころ「伊達家の財政は、文化年代〔1804~17〕に入つてから江戸米価の下落、さらに文化五[1808]年の蝦夷地警備などによつて、一層窮乏を増した。この時代にも例によつてしばしば倹約令を出し、あるいは〔猪狩氏等〕家中に貸上金を命じた」(『宮城縣史』)。
 源太の妻(名不詳)の出自は明かでないが、同部落の中米家(東の家)から出たと
いう言い伝えもある。
 1832 (天保3) 年、源太34歳にしてようやく嫡男一馬
はしめが授かった。源太夫婦は、父源太郎夫婦についで、他に子宝に恵まれなかったようだ。またしても、澤田家は再断絶の危機をかろううじて免れたのである。
 翌「天保四[1833]年以降は連年凶作・飢饉に悩まされ、伊達家の財政は今や決定的な大打撃を受け、農村も荒廃し、仙台藩の解体を早めた。(中略)
 伊達家財政難と同様に〔猪狩家等〕藩士たちの窮乏もいよいよひどいものになつた。かれらは『御手伝』の名のもとに、知行の何割かを藩に召し上げられたり、金石きんこくを借り上げられて窮乏の度を増し、奉公にも差支えるものが急増した。藩ではそのためにしばしば『家中扶助』として貸上金を免除したり、困窮者には金石を分与するなどの対策を講じた。(中略)
 にもかかわらず、これによつて伊達家中の窮乏が救済される筈もなく、〔猪狩家等〕諸士の窮乏はもはや如何ともすることができないほど深刻なものになつていた。」(『宮城縣史』)

磐石の礎
 1851 (嘉永4) 年、源太の妻は、長男一馬19歳のとき、嫡孫の顔を見ることなく52歳で若死にした。法名「春巌妙容信女」。
 1854 (安政1) 年、源太56歳にして嫡孫金五郎が誕生した。おそらくこの前後には、源太は隠居して嗣子一馬に家督を譲ったものと思われる。
 1863(文久3)年二孫佐賀治が生まれ、その後しん・きみの両孫娘も生まれた。
 源太は、不慮の早逝にみまわれた父源太郎の無念をみごとに晴らして澤田家を再興し、磐石の礎を築きあげて、明治維新の後まで生き延びる長命を享受した。
 1873 (明治6) 年6月29日、澤田本家初代源太源清重は、嫡男一馬41歳・嫡孫金五郎19歳
に後事を託し、おそらくは澤田本家の未来に大きな期待とゆるぎない確信を抱いて、76歳の天寿を全うして大往生を遂げた。法名「現應得性信士」。

宮田旧墓地(続)
 源太およびその妻は、宮田旧墓地の両親の墓の北側に並んで葬られた。
 源太夫妻の墓の保存状態はき
わめて良好で、墓碑銘も鮮明に残っていた。源太の妻の墓には、その俗名は刻まれていない。
 宮田旧墓地の「澤田本家(シタの家)」の三基の墓の西には、今日の音羽家(シモの家)の墓が数基並んでいた。さらに源太郎夫妻の墓の南側には、当墓地の大部分を占めて、今日「沢田別家(ウエの家)」のものとされているおびただしい数の墓群が、雑草に埋もれるままになっていた。
 しかしながら、実はこれらの墓のほとんどは、実は黒川澤田宗家累代の墓に他ならないのである。形式上源太に始まる「黒川澤田本家(シタの家)」こそが、本来血統上唯一正統の黒川澤田宗家継承者なのであり、まったく血縁のない今日の「沢田別家(ウエの家)」のものでは、決してないのである。
 その後、先年澤田本家六代当主力が先祖代々墓を再建立するにあたり、私の父・澤田分家初代亥兵衛の助言により、正式に源太を黒川澤田本家初代として代々墓に合葬したので、源太郎夫妻はひとりとり宮田旧墓地に残されてしまう形となり、公式には子孫に祀られないことになってしまった。
 源太郎及び源太夫妻に至る澤田宗家累代が永遠に眠るはずの宮田沢の旧墓地は、1996年・60歳で他界した私の長兄・黒川澤田分家二代元の一周忌の頃、すべて廃用・改葬されてしまった。まことに、残念至極なことである。せめて、記録・映像に残しておくべきであった。





第四章 十代一馬(1832-1896)


第一節 一馬ダンポと幕末の騒擾
初代源太嫡男
 黒川澤田本家二代一馬はしめは、1832 (天保3) 年6月6日、初代源太34歳=同妻名不詳32歳の長男に生まれた。祖父源太郎・父源太と三代続く一人子であった。私の高祖父である(同年11月4日には、やがて嫡子金五郎の岳父となる旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎が生まれている。一馬と文五郎は、奇しくも同年の生まれであった。)。
 この年は「平年作以下の作柄で、しかも年貢の減免がなかつたので、百姓は困窮していた。」(『宮城縣史』)
 「徳川後期の財政難にあえぐ仙台藩および窮乏のどん底に追いつめられた農村にさらに決定的な打撃を与え、その崩壊を早めたのは、〔翌〕天保四年(一八三三)以来幕末までの連続的な凶作・飢饉であった。(中略)
 天保四[1833]年以降凶作でなかつた年は(中略)六箇年だけで、ほかはいずれもかなりの被害高を出し、とくに天保四[1833]年、七[1836]年、九[1838]年、慶応二[1866]年の被害が大きかつた。」(『宮城縣史』)

結婚と嫡男金五郎の誕生
 1851 (嘉永4) 年、おそらく結婚前の一馬は、19歳で母を亡くした。
 まもなく、一馬は宮床村山田・八巻深吉二女まちと結婚した。まちは1835(天保6)年10月29日の生まれで、三歳年下であった。私の高祖母である。八巻家は宮床伊達氏の家臣で、やはり宮床伊達氏家臣でのちに澤田家と深い関係を結ぶことになる同村の湯村家と縁戚関係にあった。
 おりから、「一八世紀末以来欧米の外国船がしばしば来航して日本の開港を迫つた(中
略)が、その後いよいよ多く来航するようになつた。(中略)
 外国船の来航は仙台藩にとつても他所事ではなかつた。今や仙台藩は、外国船来航を契機として好むと好まざるとにかかわらず、領内だけの問題でなく、国家的な問題に目を注がねばならなくなつてきた。封建的な固い殻に閉じこもつておられなくなつてきたのである。(中略)
 〔1853年〕黒船来航を契機とする危機意識の増大によつて、安政〔1854~59〕以後の幕府や諸藩ではいろいろな改革が相次いで行われるようになつた。(中略)仙台藩でも(中略)諸種の改革が行われた。(中略)改革の中心となつたのは〔、〕奉行芝多周防(のち民部)常則である。(中略) 安政元[1854]年五月奉行職に登用され、才気煥発、軍備に、財政に、民生に、積極的な改革を断行した。」(『宮城縣史』)
 同1854 (安政1) 年8月10日、一馬22歳・妻まち19歳にして、嫡男金五郎が誕生した。一馬夫婦はよく三男二女をもうけて、澤田家繁栄の基を拓いた。

“一馬ダンポ”
 一馬は父源太源清重の跡を襲い、父祖以来の猪狩家在郷屋敷御用人の職に就いた。彼を待ちかまえていたのは、「天保四年(一八三三)以来幕末までの連続的な凶作・飢饉」(『宮城縣史』)と、幕末・維新の物情騒然たる政情であった。当時猪狩家の当主は、十代木工右衛門孝之およびその嫡男で一馬とはほぼ同世代と思われる十一代長作隆福であった。
 当時近郷随一の大身猪狩家五百石の威力を背景にした御用人一馬の権勢は、まさに天にも達せんばかりの勢いで、近在の人々からは「一馬ダンポ(旦方)」と呼ばれて、四辺にその勇名をとどろかせていたという。おあつらえむきに、まったく手のつけられない大酒豪で、家人も容易に近づきえなかったという。
 「だんぽう〔旦方〕(中略)(3)ダンポといって刀をさしている人をいうこともある。(中略)ダンポ契約は武士達の契約講である。配下のものより役頭のことを旦方といい、又家々にても家来の長を旦方といい、又いときなきものは自分の腰のもの刀を旦方という。一つの言葉にて三つの名となる(やくたい草)」(「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会)
 「芝多民部に代つて、安政五[1858]年九月奉行になつたのは但木土佐成行である。但木
家は代々宿老の家柄で、黒川郡吉岡千五百石を領した。(中略)人となりは重厚堅実で、芝多民部の才気煥発とは対照をなしていた。かれは深く大槻磐渓〔平次〕に傾倒し、その影響を受けて佐幕・開国主義をとり、藩内の尊皇攘夷論者と対立した。」(『宮城縣史』

次男佐賀治の誕生
 「文久三[1863]年正月十三日、〔出入司〕三好監物〔清房〕は京都より帰藩し、(中略)
仙台藩における尊攘派と佐幕派の対決は最高潮に達した。(中略)この時、キーポイントを握つていた使節三好監物が但木を助けたので、攘夷派の形勢はにわかに悪化した。(中略)こうして正月二十三日、(中略)藩内における上層部の攘夷派は全く一掃された。(中略)
 仙台藩ではいわゆる下級武士の発言力がきわめて弱く、藩内の尊攘論は、(中略)門閥層が主力で観念的なものであり、西南諸藩のように豪農層や下級武士と結びついていたのではなかつた。したがつて革新勢力の発展する基盤は、(中略)仙台藩にはみられなかつたのである。すなわち、下からのブルジョア的発展による封建的危機は、ここではまだ醸成されていなかつた。(中略)
 文久三[1863]年正月十八日の政変後、仙台藩政は佐幕派の奉行但木土佐によつて指導さ
れたが、一方、京都では尊攘派の勢力がいよいよ盛んになり、仙台藩は朝廷と幕府との間にはさまれて、きわめて微妙な立場におかれた。(中略)
 〔藩主伊達〕慶邦は(中略)〔江戸〕出府を延期し、また京都に対しては、八月十二日名代として一門の〔宮床〕伊達六郎(宗賢むねやす)を上洛させることを届け出てお茶をにごした。六郎は八千石の黒川郡宮床領主で、大番組六十余人を率いて上洛した。(中略)
 この頃仙台藩の財政難はいよいよ深刻なものとなり、九月一日、慶邦は親書をもつて藩内に節倹命を布告し、例によつて『向こう五ヶ年、衣食住をはじめ十万石の分限に取縮め』ることとした。そして衣服は一門をはじめ紬木綿に限り、〔猪狩氏等〕士分・〔澤田氏等〕陪臣は一切綿服とし(中略)た。(中略)
 〔同〕文久三[1863]年九月四日、朝廷の召により、仙台藩は藩主慶邦の名代として再び〔宮床〕伊達六郎を上洛させた。」(『宮城縣史』)
 この1863 (文久3) 年、長男金五郎に九年遅れて、次男佐賀治 (1863~1888) が誕生した。一馬は31歳、まちは28歳であった。

第二節 澤田家の戊辰戦争
幕末動乱・出羽三山碑
 伊達「慶邦は(中略)、翌元治元年(一八六四)二月九日〔将軍上洛期間中の〕江戸護衛のため出府した。(中略)
 ついで八月、幕府は長州征伐を令し、将軍家茂の親征につき、仙台藩に再び江戸護衛を命じた。この頃から仙台藩の時局に対する方針は、はつきりと中立主義の立場をとるようになつた。(中略)
 幕府は(中略)〔翌〕慶応元年(一八六五)五月十六日長州再征の軍を起し、慶邦に再び江戸警備を命じた。(中略)
 〔翌〕慶応二年(一八六六)正月薩長の倒幕同盟がついに成立し、幕府の征長軍は到る所に敗戦をつづけ、諸侯の向背も測り難い緊迫した情勢になつた。」(『宮城縣史』)
 このころ、大越文五郎は「洋式兵法を学び出色の誉あり、七職を兼ねて裁断宜しきを得、慶邦公名を文五郎と賜ふ。」(『仙台人名大辞書』)。
 翌「慶應三[1867]丁卯」年「二月拾八日」、一馬は、もと下草・北目境にあり、1976(
昭和51)年東北自動車道開通に際して日光山旧道に移された「出羽三山碑」の建立者の一人となった。これによれば、当該石碑の建立者は、「甚太郎、善〓、石川周助、澤田一馬〔下の家〕、沢田恒三郎〔上の家〕、徳治、忠左衛門、豊治、浦山久〓、周吉」の十名であり、そのうち当時苗字を有(公称)していたのは、石川、澤田(下の家)、沢田(上の家)、浦山」の四家のみであったことが知られる(ここでは、「澤田本家(下の家)」は「澤」旧字、「沢田別家(上の家)」は「沢」略字と使い分けられている)。石川は北目、浦山は大崎に現存しており、徳治は東の家中米家の祖先のようであり、忠左衛門・豊治は上下両音羽家と推察され、甚太郎、善〓は北目、周吉は大崎の住人と思われる。

奥羽戊辰戦争/明治維新
 同「慶応三[1867]年十月十四日、討幕の密勅が薩長二藩に下された。この日将軍〔徳川〕慶喜は大政を奉還し、情勢は急変した。(中略)仙台藩ではとりあえず但木土佐に至急上洛を命じ(中略)た。」(『宮城縣史』)
 同年11月8日、大越文五郎は「御上京御供登り仰せ付けられ、大番組の組頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。同年同月廿一日(中略)、御上京非常之節は大隊教頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 「十二月九日王政復古の大号令が発せられ(中略)た。上洛中の但木土佐は、(中略)慶邦に対して再三にわたり、至急上洛して公武の間に周旋することを願い出たが、慶邦は保守派の一門重臣に抑えられてついに出なかつた。」(『宮城縣史』)
  「翌明治元〔慶応4[1868]〕年正月〔三日〕勃発した戊辰戦争は、因循姑息な仙台藩をついに悲劇的破局に追い込んだ」(『宮城縣史』)。
 同年正月十四日、「大番組頭大越文五郎〔、〕三好〔監物〕に従ひ京に上る」(『仙台戊辰史』)。
 「二月十四日(中略)、〔文五郎は〕此の度奥羽鎮撫使江相附けらる惣人数之隊長〔奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長〕仰せ付けらる旨三好監物を以て仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 「三月十日、大越文五郎兵を纏めて大阪を発す」(『仙台戊辰史』)。
 「同十一日天保山洋より蒸気船へ御乗船し、直々出帆す。(中略)同十七日、残らず仙台潜ヶ浦に御着船。」(「大越家系勤功巻」)
 四月二日、文五郎は「奥羽鎮撫総督府仙台藩軍事参謀」に任ぜられ、「出入司
しゅつにゅうづかさを以て軍事参謀を兼ね」た。(『仙台戊辰史』
 翌「四月三日、御目附一同から但木〔土佐〕、三好〔監物〕、坂本〔大炊〕らに対する弾劾状の出た結果、〔三好〕監物と〔坂本〕大炊とは退職、大越文五郎(総督府軍事参謀)、伊藤十郎兵衛(同上目附使番)は病気と称し出勤しなかった。
 三好については御目附の弾劾ばかりでなく、沼沢与三郎の一件があった。(中略)与三郎は(中略)北一番丁の三好の屋敷に行き面会して(中略)『京で〔但木〕土佐殿は何して御座った』と問うと『猪狩後家〔十代木工右衛門隆之室智恵〕がどこにいた』(中略)という」。(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房)
 やがて文五郎は、「七月二十五日〔ついに〕若年寄〔参政〕とな」(『仙台戊辰史』)った。
 この1868(慶応四・明治元)年・明治維新の年、澤田家では、隠居の父初代源太は70歳、二代当主一馬36歳、嫡男金五郎は14歳であった。

土着帰農願
 明治元[1868]年9月15日「仙藩帰降に及び〔、文五郎は〕名を仲なかと賜ひ、帰順係とな」(『仙台戊辰史』)った。
 同「明治元[1868]年十二月六日、伊達家は戊辰戦争の処分をうけて、二十八万石に減封された。(中略)
 二十八万石の領域は、名取・宮城・黒川・加美・玉造の五郡に志田半郡で、(中略)この新領以外の旧領の大半は諸藩の取締地に分割された。(中略)
 ところで、伊達家の新領二十八万石は実高であつた。これを表高にすれば十八万石足らずであり、狭小な領内で、従来の〔猪狩氏等〕藩士一万二千、〔澤田氏等〕陪臣二万、一家五人として約十六万人の家中を養わねばならぬのであるから、その困難は想像にあまりある。(中略)
 藩は当面の窮境を打開すべく、とりあえず(中略)弁事局に対して事情を訴え〔、〕明治二[1869]年正月二十八日、郡村居住の〔猪狩氏等〕藩士・〔澤田氏等〕陪臣の土着帰農願を申請し、同日許可された。同時に弁事局より旧領取締りの諸藩に次の如く通達があつた。
 伊達亀三郎〔宗基〕旧領地ノ内、〔猪狩氏等〕旧藩士〔澤田氏等〕陪隷〔陪臣〕、従前土着自ラ耕耘致シ居リ候者、帰農願出候ヘバ、聞届ケ遣ハシ、相当ノ租税相収メサセ、戸口共追テ相届クベシ、住居屋敷山野等、凡テ高外ノ分ハ当分ノ処、活計ノ為メ持主ヘ与ヘ置キ申スベシ、(中略)精々御撫育行届キ候様、取計ラヒ申スベキ事」(『宮城縣史』)

永暇
 「この頃藩内には、(中略)勤王派と佐幕派との紛擾ふんじょうが再燃し、ついに久我こが撫使一行の来仙となつて、四月十四日(中略)戊辰戦争関係者の大量処分が行われ、仙台藩は急速にその解体を早めた。こうして藩は翌十五日、〔猪狩氏等〕在郷の諸預給主・組抜・足軽等一同に永暇を与えて勝手次第に帰農せしめ、同時に一門は百三十俵ずつ、一家・準一家・一族・着座・太刀上までは五十五俵ずつ、〔猪狩氏等〕大番組百石以上は二十五俵ずつ、組士は十二俵ずつ、以下は八俵ずつという大減俸を断行して、当面の財政難を緩和することにした。」(『宮城縣史』)
 同「〔明治〕二[1869]年四月、〔大越文五郎は〕斬首の員中にあり。捕吏の至らんとする時脱藩せし為、家跡を没収され」(『仙台戊辰史』)た。当時いまだ13歳の長女まつゑは、北目(大崎)村の旧大越家在郷屋敷他に難を避けた。
 「一方仙台藩家中の解体は急速に進められ、五月十五日までに、伊達家直属の一門より軽卒まで〔猪狩氏等〕一万六百五十家のうち約三割に相当する三千百九十七家が暇をとり、ほかに〔澤田家等〕陪臣二万家はすべて永暇を与えられた。仙台藩は事実上ここに解体したとみられる。」(『宮城縣史』)

封建主従関係の終焉
 「〔六月十八日〕版籍奉還の許可と同時に、伊達亀三郎は改めて仙台藩知事を仰せつけられた。また一門以下〔猪狩氏等〕平士に至るまですべて士族と称すべき旨が通達され、(中略)従来の封建的主従関係は、長官と下僚の関係に改められ、仙台藩は新国家の地方行政区画の一単位となつた。(中略)
 十月十二日、従来の仙台藩庁が廃され、あらたに仙台城二ノ丸に勤政庁が開かれた。藩政時代の仙台藩支配機構はここに終りを告げ、勤政庁は新国家の政治機構の出先機関という意味をもつた。
  翌〔明治〕三[1870]年になると、維新の改革は各方面にいよいよ進展し、四月、〔猪狩氏等〕城下の士卒について編舎制度が布かれ、(中略)九月には庶民がすべて氏を称することを許された。」(『宮城縣史』)
 同「明治三[1870]年〔、大越文五郎は〕東京藩邸へ自首」(『仙台戊辰史』)し、翌「四[1871]年(中略)先非ヲ悔悟自首候ニ付、御寛典ヲ以テ罪差シ免セラレ」(『仙台戊辰史』)た。
 同「四[1871]年七月十四日、新政府によつて廃藩置県が令せられ、仙台藩は仙台県とな」(『宮城縣史』)った。
 こうして澤田氏は、15~16世紀の楢葉澤田氏以来仙台澤田氏・黒川澤田氏と四百年にわたって臣従してきた猪狩氏に暇をとるとともに、伊達氏陪臣の身分をも解かれ、今や明治の「平民」となった。

旧猪狩家知行地の三家中分割
 澤田氏は、磐城以来 400年にわたる猪狩氏との主従関係に終止符を打った。北目大崎村の猪狩家在郷屋敷は閉鎖され、その「御用人」の役目を終えた澤田氏は、いよいよ自活の道を探ることになった。
 猪狩家の旧知行地の一部は、在郷の家中「澤田本家(下したの家)」とその又家中「沢田別家(上うえの家)」および「音羽家(下しもの家)」の三家に分与された。
 くだって「明治十五[1882]年旧十月九日」嫡男金五郎によって記された、既述の「猪狩長作様御地禄田反別」によれば、当該猪狩家知行地が「澤田(下したの家)金吾〔金五郎〕」・「音羽(下しもの家)三代治」・「澤田(上うえの家)恒三郎」に三分されている。これは、年代不詳の「猪狩長作様入地分」の文書とともに、この間の事情の一端を物語るものであろう。
 まつゑの伝えるところによれば、磐城以来の猪狩家在郷屋敷御用人澤田家(下の家)は他の家中を圧して強大で、その気になりさえすれば、猪狩家旧知行地をひとりじめすることさえ可能であった。しかし、当主一馬は、ここでもまたその親分肌をいかんなく発揮してもちまえの「ダンポ風」を吹かせ、まず他家に良い土地を選ばせて、自らは残った条件の悪いわずかばかりの土地を手にしただけだったという。

第三節 澤田家興隆の基
大越家との縁組
 1873 (明治6) 年6月29日、父・澤田本家初代源太源清重が76歳で大往生を遂げた。当主一馬は41歳、嫡男金五郎は19歳であった。
 翌1874 (明治7) 年、一馬は、はからずも、嗣子金五郎に旧伊達家参政(若年寄)大越文五郎長女まつゑをめあわせることになり、ここにようやく、長来流々説き来った大越氏が、澤田家の系譜に結びつくことになった。
 翌1875 (明治8) 年、長兄金五郎から21年、次兄佐賀治からも12年遅れて、三男松吉 (1875~1960) が誕生した。一馬はすでに43歳、妻まちも40歳に達していた。また、この間に長女しん、次女きみも誕生していた。
 翌1876 (明治9) 年44歳の時には、嫡孫ゆゑが誕生した。

“ダンポ”の若隠居と澤田家の二重経営
 既述のごとく、猪狩家在郷屋敷御用人(旦方)・家中・伊達家陪臣から平民となった一馬は、全面的な帰農に足るだけの土地を手にすることもできなかった。どうも一馬は、痩せても枯れても武士のはしくれという意識から、生涯抜け出ることができなかったようだ。つまりは、時代の急激な流れについていけなかったのであろう。それがまた、近隣に鳴り響いた「一馬ダンポ」の面目でもあったろう。
 前述の「明治十五[1882]年旧十月九日」付け「猪狩長作様御地禄田反別」の文書は、当時28歳の嫡男金五郎によって記されていた。案ずるに、帰農して当時50歳になっていた一馬は、そうとう早い時期から、嫡男金五郎に澤田家三代の家督を譲り、隠居を決めこんでいたものと思われる。
 若隠居一馬は、おそらくは主家猪狩氏、さらには嫁まつゑの実家大越氏等の縁故を活かして、若き澤田家三代当主金五郎を仙台に上らせ、当時仙台最古最大の味噌屋「佐々重」に奉公させた。上仙した金吾郎は、おそらくは夫婦で仙台に常住して事実上仙台を本拠とし、自然隠居一馬は北目大崎なる留守本宅を守る役回りとなり、こうして澤田家の仙台常宅・黒川留守本宅の二重経営が始まることになったのである。

四世同堂の春
 このころ、東京に移転していたまつゑの父大越文五郎はロシア正教信者となっていたが、1884(明治17)年「ニコライ堂」の建設にあたりその会計を督し、以後ロシア正教会の会計監督となった。1887(明治20)年、初めて家跡を再興することを許されて、大越氏は「東京大越氏」となった。
 翌1888 (明治21) 年、次男佐賀治が25歳で「戦死」した。
 くだって1893 (明治26) 年九月養孫辰五郎と華燭の典を挙げた嫡孫ゆゑに、翌1895 (明治28) 年7月嫡曾孫金太郎が生まれ、二代一馬・三代金五郎/まつゑ・四代
ゆゑ/辰五郎・五代金太郎の澤田家四代が、めでたく四世同堂の春を迎えた。
 しかし、翌1896(明治29)年1月5日、澤田本家二代一馬は64歳で没した。法名「恭哲小居士」。ときに嫡男金五郎は42歳、嫡孫ゆゑ20歳、嫡曾孫金太郎6ヵ月であった。遺骸は当代から鳥屋井戸田の臨済宗妙心寺派「法寳山玉泉寺ぎょくせんじ」に葬られた。
法宝山玉泉寺(トヤノオデラ) 「鶴巣村鳥屋字井戸田にあり
    臨済宗 妙心寺派
 本尊 観世音  本山 山城国西京妙心寺
 由緒 創立年代不詳開山は特賜夢窓心宗普済猷仏統大円国師なり境内〔の池泉〕に弁天堂あり又曰く何時の頃にか吉岡香積山天王〔皇〕寺の末寺たりしを妙心寺の直末となれりと」(『黒川郡誌』)。
黒川三十三観音二十六番
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十六番鳥屋村玉泉寺 おのつからきよきこゝろにすむ月は たまはいつみのかけうつるなり♪
 12年後の1908 (明治41) 年5月31日午前4時、妻まちが74歳で没した。法名「壽鏡妙運
大姉」。




第五章 仙台猪狩氏



「慶長元[1596]年春、佐竹氏、岩城五郡の諸士を移転し〔佐竹竿〕、〔常陸国〕多賀郡松岡城主、大塚掃部助隆通を、楢葉郡折木城に移す、(中略)慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城主、猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕(中略)、信夫郡へ去」(『大日本地名辞書』)る。
「猪狩姓橘、其ノ先詳ツマヒ ラカナラス、猪狩紀伊守守之モリユキヲ以テ祖ト爲ス、岩城家累世之臣也、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今五百石ノ禄を保ツ、守之カ子親之、(中略)
 其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡〔北目〕大崎邑ニ於テ置ク、治ヲ去ル六里許ハカリ、」(『伊達世臣家譜』巻之十一平士之部三十一)


第一節 楢葉猪狩氏から仙台猪狩氏へ
仙台猪狩氏鼻祖紀伊守守之
「猪狩姓橘、其ノ先詳ラカナラス、猪狩〔大和守、〕紀伊守守之モリユキヲ以テ祖ト爲ス、岩城家累世之臣也、」(『伊達世臣家譜』)
仙台猪狩氏(楢葉猪狩氏)の鼻祖紀伊守守之については、第二部第三章楢葉猪狩氏の嫡流交代と澤田氏の猪狩氏臣従ですでに触れたので、ここではくりかえさない。
 守之の消息は、『伊達治家記録』の1588年7月「八日、〔伊達〕政宗は岩城家臣猪狩紀伊あてに“五日も〔郡山〕合戦の予定であったところが、〔岩城〕常隆使者からの要請があり、取り止めることになったのは不本意である。”と述べている」(『三春町史』)という記事が最後である。
 翌1589年4月の「田原谷の戦い」に際し、「木戸〔楢葉町山田岡〕、楢葉の軍勢も約を違えずして小河〔いわき市小川町〕の辺より河内〔双葉郡川内村〕桶木売〔いわき市川前桶売〕両村にはせ参じ」(『東北中世史』)たのは、すでに嫡男猪狩(中略)下野守〔親之〕であった。おそらくこの間に守之は隠退し、嗣子親之に家督を譲っていたものと思われる。
 先年、私が澤田本家六代当主・従兄力と仙台猪狩家を訪ねた時の情報によると、守之の墓は胆沢郡新里に現存するということである。


初代下野守親之
 岩城時代の親之についても、既に第二部第三章楢葉猪狩氏の嫡流交代と澤田氏の猪狩氏臣従で述べたので、繰り返さない。
「慶長元[1596]年春、佐竹氏、岩城五郡の諸士を移転し〔佐竹竿〕、多賀郡松岡城主、大塚掃部助隆通を、楢葉郡折木城〔楢葉城〕に移す、(中略)慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城〔小楢葉城〕主、猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕(中略)、信夫郡へ去」(『大日本地名辞書』)る。
「守之カ子下野守親之チカユキ、〔1602年〕岩城封ヲ移ス之日、貞山〔政宗〕公片倉(備中〔小十郎〕景綱)鈴木(和泉元信)兩家ヲ以テ、命シテ當〔伊達〕家ニ來キタル、」(『伊達世臣家譜』)
「貞山〔政宗〕様(中略)猪狩下野〔親之〕処へ仰せ下され候は、岩城落着之段聞こし召され候。兼て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台領〕へ罷り越す可き旨仰せ下され有難く存じ奉り、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候処、貞山様伏見に御座成られ御留守之儀に候間、」(佐々久監修『仙台藩家臣録』歴史図書社)「是ヲ以テ姑シハラ ク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里ニイサト(膽澤郡)〔岩手県胆沢郡胆沢町若柳新里〕兩邑ニ於テ給」(『伊達世臣家譜』)「さる由〔、〕同[1603]年八月茂庭石見申し渡され、同極〔十二〕月亘理より伊沢〔胆沢〕迄御伝馬拾五疋借し下さる之旨、右石見申し渡し候。
 元和五[1619]年大御検地之時分御竿之上にて高相減らし三拾七貫百六拾一文〔 371石6斗1升〕に罷り成り候。」(『仙台藩家臣録』)
 こうして、高倉山城〔小楢葉城〕主・楢葉猪狩氏は、伊達家臣・仙台猪狩氏となったのである。


第二節 在郷屋敷/家中屋敷・侍屋敷

伊達家臣団の構成
「伊達氏は、前述の如く鎌倉時代以来の豪族であり、また日本屈指の大名でもあるので、家臣の数はきわめて多い。(中略)伊達氏の膨大な家臣団は大別して門閥・平士・組士・卒の四等級に区分され、組士以上は士分であるが、卒は一般に士分とみなされず『凡下ぼんげ』とよばれた。

門閥
 門閥は、(中略)さらに一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出の八等級に分ち、各等級のうちにおいてまたその序列が定められた。」(『宮城縣史』)
内分分知 大越氏の宗家で猪狩/澤田氏とも縁の深い一関田村氏は、「幕府から特別に大名格〔内分分知大名〕に列せられ」(『宮城縣史』)て、一門の上に君臨していた。
 一関田村氏(大名)  廃絶/一関伊達家、岩沼田村家(→一関田村氏)、中津山伊達家(→川崎伊達家)
一門 澤田氏の宗家角田石川氏は一門の筆頭を占め、大越甲斐守ゆかりで猪狩氏にも近い岩谷堂伊達(岩城)氏が六席を占め、七席を地元宮床伊達氏が占めている。
 筆頭/角田石川氏 二席/亘理伊達氏 三席/水沢伊達氏 四席/涌谷伊達氏 五席/白石氏 六席/岩谷堂伊達氏 七席/宮床伊達氏 八席/岩出山伊達家 九席/川崎伊達氏 十席/真坂白河氏 十一席/前沢三沢氏(1675年昇格)  その他/当別伊達家
 廃絶/村田伊達家、岩ヶ崎伊達家、吉岡伊達家、伊達右京家(吉村の三男伊達村風)
一家 一家には、片倉小十郎景綱の片倉氏ほか十七氏が列せられた。
 鮎貝家、秋保家、柴田家、小梁川家、塩森家、坂元大條家、三春家、泉田家、村田家、黒木家、高清水石母田家、瀬上家、中村家、長尾石川家、中目家、亘理家、鶯沢梁川家、片倉家
 廃絶/黒川家、米岡白石家、飯坂家、藤田家、桑折家
準一家 準一家には、かつて伊達氏と対抗した葦名氏・葛西氏等の名が見える。
 猪苗代家、天童家、松前家、葦名家、高泉氏、上遠野家、保土原家、福原家
 廃絶/猪苗代縫殿家、八幡家、大塚家、北郷家、葛西家、本宮家
一族 大立目家、金ヶ崎大町家、大塚家、大内家、西大條家、小原家、西大立目家、上口内中島家、宮内家、金山中島家、松山茂庭家、下衣川遠藤家、小斎佐藤家、畠中家、片平家、下郡山家、沼辺家、中野大町家、高城家、大松沢家、桜目石母田家、坂家
 廃絶/白岩家、大窪家、下飯坂家、田手家、成田家、石田家
宿老 「他の諸藩でいえば家老に相当する」(『宮城縣史』)宿老三氏の一は、吉岡但木氏千五百石である。
 川口遠藤家、但木家、後藤家
 廃絶/屋代家、牧野家、原田家、富塚家、津田家
着座 着座の一は吉岡→小野田奥山氏六千→千六百六十六石である。
 只野家、尾山大條家、藤沢奥山家、善岡/小野田奥山家、岩沼古内家、宮崎古内家、高野家、伊東家、佐々家、小野富田家、長沼家、布施家、黒沢家、芝多家、松岡家、大松沢石田家、古田家、松本家、和田家、氏家家、戸田家、和久家、笠原家、新田大町家、真山家、高屋家(医師)、猪苗代謙道家(連歌師)、錦織家(医師)、良覚院(修験)
 廃絶/ 山岡家、鈴木家、古田家、古内造酒祐家、文字茂庭家、遠山家、小野三分一所家、大松沢川島家
太刀上 藤沢家、坪沼梁川家、平渡茂庭家、下真山白河家
 一族より降格/国分家、増田家、上郡山家、飯田家、鳥屋ケ崎砂金家
召出 一番座/岡村(極楽院)、鮎貝、秋保、秋保、塩森、大條、村田、石母田、石母田、亘理、上郡山、西大條、宮内、遠藤、佐藤、畠中、下郡山、沼辺、〔砂金沢?〕砂金、大町、高城、高城、大松沢、石母田、但木、桑島、田村、中村、日野、遠藤、湯目、後藤、横尾、小野、堀越、茂庭、秋保
 二番座/猪苗代、葛西、上遠野、保土原、金上、清水、大波、塩、白津、真田、桑島、大浪、長沼、橋本、青木、青木、南、加藤、田中、大和田、五十嵐、松林、大波、今泉、大島、北、上野、沼辺、本多、佐藤、中山、木幡、山家、中地、大河内、太田、武田、古内、浅井、田辺、早川、熊谷、鈴木、椙原、布施、木村、山岸、安田、石田、小島、荒井(Wikipedia「仙台藩家臣」より)


平士三十一席猪狩氏
 『伊達世臣家譜』によれば、仙台猪狩氏は平士の三十一席に列せられており、平士中の大身であった。
 平士は「大番士ともいい大番組の侍で、大番組というのは伊達家軍事力の主力をなす騎兵軍団である。平時は仙台城の警衛や領内の治安維持に当り、また藩政を執行する諸役人に任ぜられた。(中略)大番士は十番の組に編成され、(中略)大番組の頭を大番頭といい、各番は三百六十人の番士によつて編成され、合計三千六百人になるが、実数は幕末において三千四百四十一人である。
 彼等はその家格により城内において詰所を区別され、召出・虎之間番士・中之間番士・次之間番士・広間番士と称され、また総称して『詰所以上』ともよばれた。
 以上、伊達家臣を総計すれば、幕末において九、八七八人となる。(中略)
 伊達家の直臣・陪臣(中略)両者を総計すれば、幕末において約三万三千八百余人となり、諸藩随一の兵力を有したわけである。ちなみに幕府の総兵力は、徳川中期において約七万人である。仙台藩ではかくの如く侍の数が多く、しかも全領域にわたつて侍が配置されいるという事実は、およそ他の諸藩にみられない特色であつて、仙台藩のきわめて濃厚な軍事的性格を示している。」(『宮城縣史』)


黒川郡北目大崎村在郷屋敷/家中屋敷
「其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡〔北目〕大崎邑ニ於テ置ク、治〔仙台〕ヲ去ル六里許ハカリ」(『伊達世臣家譜』)。
 猪狩家の黒川郡北目大崎村在郷屋敷は、今日上下両澤田家の境界をなしている古道を入口とし、左右に上下両澤田家および音羽家(下
しもの家)を従えた台地上に、南面して構えられていた。
 その跡地は、いまは上下両澤田家の畑地及び山地となっているが、前章で詳述したごとく、当時の屋敷構えの跡をよく遺しており、広壮な「猪狩家在郷屋敷」の面影をいまに偲ぶことができる。
 敷地の北と西の山腹の三ヵ所には、家中澤田氏が遠く楢葉郡浅見川村から黒川郡北目大崎村へと営々として背負い来った「主神磐城大明神他二神の氏神三神」が祀られていた。私の幼年時代、澤田家の「元朝詣り(初詣)」といえばまずこの氏神で、父に連れられて巡礼したことを、よく覚えている。特に西端の社は、鳥居、階段、社殿を備えた堂々たる構えで、近在の神社などはるかに凌駕する規模であった。澤田家では、お祭りといえば、黒川神社より先にこの岩城大明神に詣るのがしきたりであった。


仙台城下侍屋敷
「大身の侍屋敷は、城下町の定法通り城近くの広瀬川の両岸に、すなわち西岸の川内と東岸の片平丁・中島丁に置かれ、二千坪前後(六、六一二平方メートル)の広さで割り出された。平士の侍屋敷は一番丁から始まる東番丁と北番丁に割り出され、下級武士の組士や足軽の屋敷は城下のはずれに置かれた。平士以下の屋敷の広さについては、寛文五年(一六六五)の規定によると次の如くである。
   諸侍江新屋敷下され候に付、先年より相定められ候間数(中略)
 一同〔知行高〕七拾九貫文〔 790石〕より五拾貫文〔 500石〕迄 表四拾間 裏三拾間
 一同四拾九貫文〔 490石〕より三拾貫文〔 300石〕迄 表弐拾五間 裏三拾間
 一同弐拾九貫文〔 290石〕より拾五貫文〔 150石〕迄 表拾七間 裏三拾間
 右の規定は、『先年より相定められ候間数』とあるところからみれば、おそらく開府当時も大体同様ではなかつたかと考えられる。」(『宮城縣史』)
 猪狩氏の当初の知行高は五百石で平士であるから、「表四拾間 裏三拾間」の侍屋敷を与えられていたはずである。澤田氏も、一時はその一隅に居所を与えられて、主君のそば近く仕えたかもしれない。
 最初に猪狩氏に侍屋敷が与えられた時期と、その場所は不明であるが、その後「寛文八[1668]・九[1669]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(阿刀田令造『仙台城下絵図の研究』)には、親之の子「〔三代〕猪狩下野〔盛滿〕」の名が見えている。
 つづいて、「延宝六[1678]-八[1680]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)には、盛滿の庶子「猪狩十三郎〔有満〕」の名が見えている。


「仙台惣屋敷定」「御屋敷方御定」
「〔侍〕屋敷についての規定は、寛文五年(一六六五)『仙台惣屋敷定』およびその後これを増補した『御屋敷方御定』にくわしくみられる。これを要約すれば次の通りである。
 侍屋敷の作事や囲などは分限(禄高)相応でなければならない。見苦しい屋敷はこれを没収する。屋敷前の掃除は油断なく行い、また屋敷前に商売物を出してはいけない。以前から所持する屋敷でも、分限に過ぎて広いか、または修理できない場合は、その屋敷を差し上げ、分相応の屋敷を申請すること、貸屋敷にすることを禁ずる。(中略)屋敷を下されたならば、古屋敷は二年以内、新屋敷は三年以内に作事をすませ、延期した場合は没収する。屋敷を御用地に召し上げられた時は替屋敷を与える。自分の都合で屋敷を差し上げた時は五年間は屋敷を下されない。屋敷を望む場合、有役の物は無役の者に優先する。譲り屋敷の願は親類縁者に限り許可される。(中略)
 仙台城下では、侍屋敷以下寺屋敷や卒・扶持人屋敷に至るまで、すべて五戸をもつて屋敷並五人組が組織された。(中略)城下に居住する家臣団は、奉公関係の上では藩の職制を通じて統制されたが、居住する屋敷に関する限りすべて屋敷奉行の支配下にあつた。」(『宮城縣史』)


地方知行制
「家臣たちにはそれぞれ封建的給与が支給された。これには知行地・切米・扶持方の三形態があり、のちに蔵米もあつたが、仙台藩では徳川時代を通じて知行地の支給が基本的なものであつた。
 知行地を支給された家臣は主として〔猪狩氏等〕平士以上の上級武士で『給人』あるいは『地頭』とよばれ、知行地は『給所』あるいは『給地』とよばれた。給人が知行地を有し、農民から直接年貢・夫役を徴収することを近世では『地方
ぢかた知行』とよんでいる。地方知行は本来中世的な領主の存在形態で、徳川時代初期には幕府をはじめどこの藩でもなお行われたが、他では慶安年代〔1648~51〕から次第に廃止されて切米・扶持方・蔵米による奉禄制に転換した。(中略)
 仙台藩の場合は、明治維新に至るまで家臣たちの地方知行制が変質しながらなお行われ、むしろ後期には武士階級の財政難から武士の農村居住がますます多くなつて、現象的には地方知行制が一層普遍化したことが大きな特色で、仙台藩の後進性を示しているといわなければならない。しかも仙台藩の地方知行制では、他の諸藩と異なり、近世的な石高制をとらず、中世に行われた貫高の名称を最後まで踏襲し、知行高はすべて貫文高によつて表示された。そして外部に対しては、一貫文は十石の高に換算して発表された。(中略)
 『古来の家柄』の者が『自分下中〔家中〕』を沢山もち、『皆もつて手作』して生活しているから、田地をはなれては生活できなくなり、『国中の騒動』になる、よつて知行召上は不可能であるというのでる。(中略)
 思うに、秀吉によつて政宗の領土が大きく削減されたにもかかわらず、伊達氏が依然として多数の家臣団を抱え、しかも新領土の葛西・大崎地方には荒蕪地が多かつたところから、彼等に知行地の不足分を『野谷地』として与え、これを開墾させなければならなかつた歴史的事情によるものである。
 こうして仙台藩には地方知行制が最後までみられたが、これは、勿論中世の地頭領主制とは質的に全く異なるものであつた。(中略)
 地方知行領主権はかなりに制限されたものであつたが、さらに門閥地頭と下層給与人との知行権の内容には大きな差があつた。」(『宮城縣史』)


蔵入地と給所
「仙台藩の広大な耕地は、領有形態から区分すると、蔵入地と給所(給地・給人前ともいう)の二つに大別される。蔵入地は藩主伊達氏の直轄地で、その年貢はすべて藩庫に収納され、伊達家財政の基礎になつている。給所は伊達家臣団に宛行われた知行地で、その年貢は直接給人(地頭ともいう)に収納され、その軍事的経済的基盤となつたものである。
 仙台藩領における蔵入地と給地の比率については、初期は明らかではないが、中期の享保三年(一七一八)には総高十万七百六十八貫〔 100万 768石〕のうち、蔵入地は三万六千四百十八貫〔36万4180石〕余で三六%、残りは給所で六四%を占め、幕末に至つて蔵入地の比率が三八%と、やや高くなつている。(中略)
 一村内における蔵入地・給所の存在形態をみると、大身の士の一円拝領の村を除いて、一般的には村内では蔵入地と給地が入り組んで存在し、また給所は数人の給人によつて分割知行されることが多い。(中略)
 初期においては一人の百姓の本地は、通例蔵入地になるか、さもなければ一人の給人の知行に属したようである。この場合、百姓は蔵入百姓になるか、給人百姓になるかであつた。(中略)
 次にどんな百姓の本地が蔵入地になつたかというと、初期においては由緒ある百姓、あるいは伊達家に特別な功労のある百姓の本地は一般に蔵入地に編入された。蔵入地百姓になることは一つの恩恵だつたようである。(中略)
 給所は、大身の知行取の場合は、おおむね一円的に存在するが、〔猪狩氏等〕中小知行取の場合は領内各地に分散している。分散的に給所を与えた理由は、おそらく受給した給所による利・不利益を平均して知行割の公平を期するためであつたろうと考えられる。(中略)
 次に注目すべきことは、仙台藩では、藩政初期伊達氏が家臣たちに知行地(給所)を給与する場合、家臣数が多かつたために従来の耕地だけでは間に合わなかつたので、新田開発に便宜な『谷地』(低湿地)をそのまま分与し、そこを開発させて知行高にするという方策をとつた。こうして開発された新田は、五年間は『荒野』とされ、それを過ぎると検地を受けて目録通りの知行高を給与され、残部はすべて蔵入地に編入された。(中略)
 このような野谷地給与による知行宛行形式は初期に一般的であるが、中期以降はほとんどみられなくなつた。徳川時代を通じて仙台藩に特長的な地方知行制の淵源は、一つはここに存するのである。」(『宮城縣史』)


四公六民
「仙台藩初期の段階では、領主の土地の農民およびその生産物はおしなべて領主のものであるという理念が支配的であり、この意味において生産高も年貢高も一本のもので、これを表示するのが貫文制なのである。このような理念は明治維新まで存続したが、慶安二年(一六五三)税制改革があつて、(中略)貫文制は一貫文=十石の制とみなされ、石高制と同様に、生産高の意味に主として考えられるようになつた。(中略)
 享保八年(一七二三)四月二十九日、仙台藩貫文制につき幕府よりの問合わせに答えて、仙台藩では『仙台領ノ田地百文ハ他国地高一石ナリ、(中略)仙台領田地一貫文ノ中税ハ四石三斗ナリ』と述べている。
 すなわち田地一貫文は十石の生産高であり、その年貢は『中税』にして四石三斗(貢租率約四公六民)だつたことを示している。(中略)
 同じ一貫文でも上々田の場合は五段八畆二十五歩、下々畑の場合は十町歩となる。したがつて、貫文高の少ないことが必ずしも耕地面積の少ないことを意味しない。高一貫文の田は五等平均して八段三畆二十歩、畑は四町八畆十歩となる。このように田に比して畑の位付けがきわめて低いことは、領主の関心が専ら田租にあり、農民は米よりも畑から生産される麦・大豆等におもな生活資料を得て、米は原則として年貢として上納し、余剰米は販売するものだつたことを示している。」(『宮城縣史』)


軍役/主従計十四人
「家臣団にはそれぞれ知行高に応じて軍役が課された。(中略)
 一般に外様大名の軍役は、幕府の場合よりも過大であつたことが指摘されている。外様大名の中でも伊達氏の場合はとくに多かつたようで、『仙台叢書』所収『秘蔵録』によると、享保十二年(一七二七)の軍役体系は(中略)知行高二万三千石から三十石に至るまで三十四段階に区分され、その負担はほぼ均等化されている。百石未満の侍は馬を持たず、槍一本持参、百石以上が馬上役を勤める。百石の侍の軍役負担は若党一人・鎗一本・鎗持一人・馬一疋・口取一人で、内者(家中)計三人、主従計四人である。このように戦時には百石以上が馬上役であるが、平常、国もとでは百五十石以上が馬上役とされた。」(『宮城縣史』)
 二百五十石以上になると、若党二人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計七人、主従計八人になる。
 三百石以上では、鉄砲一挺一人・得道具持一人・若党三人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計九人、主従計十人
 四百石以上になると、鉄砲一挺一人・得道具持一人・若党四人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計十一人、主従計十二人となり、
 さらに、猪狩氏等五百石以上になると、鉄砲二挺二人・得道具持一人・若党五人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計十三人、主従計十四人となる。
「三十石以下および徒小姓以下の小身者は、内者を率いることができなかつた。」(『宮城縣史』)
「このような重い軍役を果すために、〔猪狩氏等〕平士以上の家臣団および〔澤田氏等〕その家中は、平生その知行地内において多くの家中を養わねばならなかつた。しかもこれらの伊達氏の家臣団およびその家中は総計三万四千名の多数に及んだから、どうしても藩士の地方知行が避け得られず、〔澤田氏等〕陪臣の多くは百姓同様の農耕生活を営まねばならなかつたのである。」(『宮城縣史』)


第三節 猪狩家五百石
二代下野盛満
「親之カ子下野盛滿モリミツ、」(『伊達世臣家譜』)
「然らば(中略)下野〔守親之〕年罷り寄り候に付き隠居仕り、右知行高之通り(中略)下野〔盛滿〕に下し置かれ度き段貞山〔政宗〕様御代石母田大膳を以て申し上げ候処に、願ひの如く右知行三拾七貫百六拾壱文〔 371石6斗1升〕之所(中略)下野〔盛滿〕に下し置かる之旨、元和七[1621]年右大膳を以て仰せ付けられ候。
 且つ又義山〔忠宗〕様御代惣御検地以後、寛永弐拾壱[1644]年弐割出目七貫四百三拾九文〔74石3斗9升〕下し置かれ候。右之外」(『仙台藩家臣録』)「義山〔忠宗〕公ノ時經界ケイカイ〔田地の境〕之餘田ヲ受ケ、」(『伊達世臣家譜』)「知行地尻にて〔澤田氏等〕下中〔家中〕之者切り起こし申し候切添新田八拾壱文〔8斗1升〕、万治四[1661]年四月廿二日柴田外記を以て下し置かれ、取り合せ四拾四貫六百八拾壱文〔 446石8斗1升〕之高に成し下され候。」(『仙台藩家臣録』)
「貞山〔政宗〕公ノ末、小姓ニ舉ケ、義山公ノ時、武頭ヲ歴ヘ、肯山〔綱村〕公ノ初メ、町奉行ニ遷リ、〔政宗・忠宗・綱宗・綱村〕四朝ニ歴事シ、在職凡オヨソ五十四年」(『伊達世臣家譜』)
 「町奉行」は「仙台城下の市政・司法を司る。(中略)
 町奉行はおおむね大番士の中から登用され、初期には(中略)三人あつたが、(中略)慶安〔1648~51〕頃から二人に固定し、のちに三人あるいは四人になつた。町奉行は月番すなわち一箇月交代に役宅において職務を執行した。幕末の嘉永年間〔1848~53〕以後、役宅を改めて奉行所とし(中略)た。町奉行の下には事務に当る数人の物書と町警察の任に当る町同心があつた。」(『宮城縣史』)
 なお、「寛文八[1668]・九[1669]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)には、以下の5人の猪狩諸氏の名が見える。
「猪狩下野〔盛滿〕 猪狩太右衛門 猪狩八兵衛 猪狩兵左衛門 猪狩與五右衛門」
 このうち、兵左衛門はのちに述べる「平姓猪狩家二百石」の二代(ないし三代)、八兵衛は胆沢・江刺猪狩諸氏の一である。


三代彌惣兵衛持滿
「盛滿カ子彌惣兵衛持滿モチミツ、寛文十一[1671]年江戸番ニ舉ケ、後武頭〔、〕納戸奉行ヲ歴遷ス、」(『伊達世臣家譜』)
「右下野〔盛滿〕儀年罷り寄り候に付て隠居仰せ付けられ、家督知行高四拾四貫六百八拾壱文〔 446石8斗1升〕之内四拾貫文〔 400石〕は拙者〔彌惣兵衛持滿〕に下し置かれ、残る四貫六百八拾壱文〔46石8斗1升〕之所は私弟猪狩十三郎〔有滿〕に分け下され度き旨願ひ申し上げ候処願ひの如く仰せ付けらる之由、延宝四[1676]年三月四日に小梁川修理を以て仰せ付けられ、下野〔盛滿〕願ひ之通り知行四拾貫文〔 400石〕拙者〔彌惣兵衛持滿〕に下し置かれ、家督仰せ付けられ候。」(『仙台藩家臣録』)
「延寶四[1676]年三月四十石餘ヲ其ノ弟十三郎有滿ニ於テ分地シ、以テ其ノ家ヲ立ツ、其ノ裔中間番士ト爲リ、三百石餘之祿ヲ保ツ、今ニ猪狩牧太雅之マサユキト稱スル是也」(『伊達世臣家譜』)。


四代木工右衛門信滿
「持滿子無ク、橋本伊勢高信次男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ木工右衛門信滿ノフミツト稱ス、延寶七[1679]年八月、肯山〔綱村〕公ノ時、小姓組ニ舉ケ、病ニテ免ス、
 又江戸番(元祿十[1697]年正月京都ニ奉使シ、肯山〔綱村〕公中將ニ進ム之口宣ヲ受ク、)由ヨリ目附使番〔・〕世子(獅山〔吉村〕公ト謂フ)近習〔・〕公義使〔・〕小姓頭ヲ歴遷シ、(是ノ時槍奉行又江戸番組ヲ兼ヌ、)又病ニテ免シ、(是ノ時列ヲ富田帯刀益實之上ニ賜リ、而シテ朔望サクホウ〔朔日ツイタチと十五日〕禮ヲ焼火間ニ於テ執ル、享保七[1722]年十一月、官病之癒ヘルヲ聞キ、乃スナハ チ江戸ニ從事ス、是ノ時番頭格ト爲ル、)後又江戸番頭ト爲ル、在職凡オヨソ四十八年、江戸及ヒ他邦ヲ四十度往來ス、
 正徳三[1713]年十月公義使ト爲リシ時、百石増賜シ、前ト併セテ今之祿〔五百石〕ト爲ル、」(『伊達世臣家譜』)
 「小姓頭」は、「若年寄支配に属し、藩主身辺の用向一切を司り、贈答方の事を兼帯した。その支配下に、小姓組・右筆・納戸進物方・茶道組頭・同朋頭等があつた。」(『宮城縣史』)
 この木工右衛門信滿については、『仙台人名大辞書』に以下の記載がある。
「イガリ・ノブミツ【猪狩信満】藩士。杢右衛門と稱す、延宝四[1674]年九歳にして綱村公の側近に奉仕し、勤労を以て秩禄を増賜せられ、科挙を経て番頭の列に進み、勤仕すること五十一年なり、常に観音大士を信仰し、念々不退の士気を以て終始す、行年五十九。(碑文)」
 「延宝六[1678]-八[1680]年間製作『仙台城下大絵図』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)所載の猪狩諸氏は、以下の9人である。
「猪狩市左衛門 猪狩市之助 猪狩牛松 猪狩幸之助 猪狩十三郎〔有満〕 猪狩八兵衛 猪狩平蔵 猪狩兵左衛門 猪狩與五右衛門
 木工右衛門信滿の名が見あたらないが、単なる脱漏か、あるいは養嗣子縁組ゆえの記述の遺漏であろうか?
 この四代木工右衛門信滿の晩年、1710年ごろに、家中澤田氏に、下述する九十九源亮長が生まれたものと思料される。


五代長作定滿
「信滿ガ子長作定滿サタミツ、父ニ随ヒ而テ 江戸ニ在ル日、遊倅ニ小姓組又江戸番馬上ヲ加フ、享保十二[1727]年十二月獅山〔吉村〕公ノ時、父之家ヲ承ウク、
 〔父〕信滿奉職之間、官金巨千ヲ借ル、是ニ於テ田祿ヲ上納シ、僅カニ三十口十五兩ヲ給ス、
 十七[1732]年武頭ニ舉ケ、(是ノ時屡シハシハ目附使番ニ試ツケラル、享保二十[1735]年四月、江戸ニ在ル日、將軍家下雲松夫人〔宗村室・徳川吉宗養女温子(利根姫)、実は紀伊大納言宗直女〕來嫁之命ニ會シ、仙臺ニ奉使シ、四日ニ而テ至ル、元文元[1736]年十二月少老〔若年寄〕石母田但馬愛頼命ヲ奉シテ曰ク、武頭事務甚ダ煩ハシト、金須正右衛門直貞與ト之ニ預カリ、煩ヲ芟カ〔刈〕リ華ヲ去リ、之ヲ簡易ニ歸ス、是ニ於テ數十巻ニ就而テ之ヲ揀エラヒ、僅カニ四冊ト爲ス、之ヲ嘉ヨミシ永官所ニ蔵スト云フ、忠山〔宗村〕公ノ時、城番〔・〕脇番頭ヲ歴遷ス」(『伊達世臣家譜』)。
澤田九十九源亮長 この五代長作定滿の代、1730年ごろに仕え始めた家中澤田氏当主が「澤田九十九源亮長」と称していたことが、2016年6月次に述べる猪狩家14代当主隆氏所蔵史料の解読により、奇しくも判明した。


     
第四節 藩政後期の仙台猪狩家と澤田家
六代長作時之
「定滿子無ク、遠藤對馬守之〔信〕第三男ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ長作(初稱丹宮)時之トキユキト稱ス、寶暦二[1752]年十二月、江戸番馬上ニ擧ケ、病ニテ免ス、時之カ子文彌富之トミユキ、
 其ノ家甞テ(第二世親之時)田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡大崎邑ニ於テ置ク、治ヲ去ル六里許ハカリ」(『伊達世臣家譜』)。
 1770年ごろ、家中澤田家に、九十九亮長の嫡孫・源太郎宗〓〔重〕が生まれている。
 「安永元[1772]-七[1778]年間製作『仙台地図』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)中の猪狩諸氏は、つぎの9人である。
「猪狩市之助(東七) 猪狩加右衛門(土樋) 猪狩喜膳(東四〔中央2~4丁目・本町2丁目〕) 猪狩治左衛門(裏五番丁) 猪狩清之亟(東三) 猪狩長作〔時之〕(東三) 猪狩二左衛門(中杉山通) 猪狩兵左衛門(北四) 猪狩六左衛門(東六)」
 当時長作時之の侍屋敷のあった「東三」番丁は、
「江戸期~昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。東二番丁の東裏に並行して割り出された丁。定禅寺通と五橋通を南北に結ぶ。北の方は定禅寺のある上町段丘にぶつかって、西北方に折れている。大番組を構成する平士の屋敷町。東一番丁・同二番丁とともに百騎町とも呼ばれた。(中略)
 昭和45年現行の五橋1丁目・中央2~4丁目・本町2~3丁目となる。」(『角川日本地名大辞典』)今日の河北新報社付近であろう。


「先祖書并諸事写留帳」
 養父先五代長作定滿の養子に入って家を継ぎ20有年、「病ニテ免」ぜられて以来長らく床についていたと思われる長作時之は、明和9[1772]年3月吉日いよいよ嫡子文弥富之に家を譲る決意を固めて、おそらくは先代から仕えていた股肱の老「臣澤田九十九源亮長」を枕元に呼び寄せ、「先祖書并諸事写留帳」をものさせた。
「   明和九[1772]年
先祖書并諸事写留帳
     三月  紙数盡共ニ七枚

岩城ニ罷在候 猪狩紀伊守橘守之
嫡子 猪狩下野橘親之 同人事慶長八[1603]年ニ御家に被出候御知行四拾四貫六百八拾壱文
嫡子 猪狩下野橘盛滿
嫡子 猪狩弥惣兵衛橘持滿
養子 猪狩木工右衛門橘信滿 同人事橋本伊勢高信二男
嫡子 猪狩長作橘定滿
養子 猪狩長作橘時之 同人事遠藤對馬守信三男
嫡子 猪狩文彌橘富之

一 分地同姓猪狩牧太 右同人義猪狩先祖二代目之下野次男十三郎と申者本地四貫六百八拾壱文新田貳貫八百四文ノ都合七貫四百八拾弐文分境仕候寛文七[1667]年ノ右御墨印共ニ之有 其以後新田并武田因幡次男利〔理〕兵衛儀右十三郎養子ニ仕候節御知行十三貫文分地相更三拾貫貳百三拾貳文ニ相成候委細系図書ニ申上候事
一 拙者御知行高四拾貫文ニ而祖父同氏木工右衛門代迄罷有候處 同人数年相務候ニ付 御加増十貫文被下置候以御知行五拾貫文ニ相成候委細勤功書ニ申上候
一 御番所虎之間
一 藝古相窮候品無御座候
一 重キ拝領物并品有之候重代之物御座候ハゞ可申上由是又右之品無御座候
一 仙臺屋鋪東三番丁柳町通北西角
一 在郷屋敷黒川郡北目大崎村ニ先祖代より所持仕候何之品ニ而拝領仕候訳古留等先年類焼之節焼失仕就而相知不申候 右同村之内三十苅と申候 御林〔樅の木沢〕御座候處先祖代より領山ニ相成只今迄拙者方ニ而始末仕候
一 先祖勤功之義ハ別紙ニ申上候 下野御役之義者相知不申候 二代目之下野義者御小姓より御町奉行迄相勤候由申伝候事 以弥惣兵衛代より之勤功之義ハ別紙ニ申上候

  外

一 屹度御触ニ付先祖書并勤功書ノ都合三通明和七[1770]年十月十日御触請合濱田四郎太夫並同道良助方へ書出候事
一 持字滿之字ニ有之候處明和七[1770]年(九月)滿姫君様御多ん生ニ付願之上之(ゆき)之字ニ相改候事
明和七[1770]年九月之内左之通書出可申仕之御触ニ付如斯ニ御座候
先祖より其身并嫡子迄代々名元實名書出可申事
 但名元實名共ニ相改アラタメ候処有之候ハゞ右之品共ニ書出シ可申事
一 本家末家之品有之候ハゞ誰義代より分候訳當時者誰と申名元實名書出可申候 分地田有之候ハゞ他姓ニ候共書出可申候事
 但右二乃條系図仕立其内書出品并實名等不相知候者ハ其訳共ニ改書出可申候事
一 養子相續之品有之候ハゞ實父實名名元共ニ書出可申候事
一 氏書出可申事
一 先祖より代々役目并ニ勤功御知行増減之品書出可申候事
一 先祖より品有之候重代ノ武具并重キ拝領物等有之候ハゞ書出可申候事
一 先祖より代々其身迄の内一藝相極候ハゞ其流儀并師家之名元實名共書出可申候事
一 間所書出可申候事
一 在郷屋鋪有之候者ハ拝領自分之品并誰代より致所持候訳又 御城より里数書出可申事
右之通系図別紙ニ書出其外前文のケ條ニ而趣意無落来月廿日迄私方處冨賀内江指シ出候様右名前之者江可被相通候 以上
       四番大番頭 佐々久馬
  九月十三日
  四番方附番頭 高橋久左衛門様

右之通申来条〔くだり〕ケ條之趣意無落来月廿日迄ニ日限無延引書出候様可有之候 以上
    高橋久左衛門
  九月十五日
  猪狩長作殿

右之通申来候間写成申候 以上
        濱田四郎太夫
   九月十五日
  猪狩長作様

明和七[1770]年同姓牧太方より左之通申来候写
 加美郡小野田村ニ而寛文七(1667)年
一 田畑四貫五百拾四文初而新田起目
 上伊沢新里村ニ而同年
一 同貳貫九百七拾壱文新田起目
 右貳口〆七貫四百八拾五文之所 寛文八(1668)年ニ初而御墨印被下置候
 加美郡小野田村ニ而寛文十貳年(1670)年新田
一 同七百三拾六文 起目
 黒川郡北目大崎村ニ而延宝貳(1674)年新田
一 同四貫三百三拾文 起目
 右之通拾貳貫五百五拾壱文ニ而有之候處ニ 上伊沢郡新里村ニ而延宝四(1676)年ニ弥惣兵衛様より
一 四貫六百八拾壱文
 右ハ十三郎様ニ被進候所
 桃生郡深谷大窪村〔東松島市大塩〕ニ而延宝七(1679)年ニ武田因幡方より次男理兵衛養子ニ来り候節右因幡方より
一 同拾三貫文并ニ同所ニ而無軒数之除屋鋪相譲申候
 右六口〆御知行三拾貫貳百三拾貳文ニ御座候
一 同四百拾九文
 右ハ大窪村新堤例地相出候ニ付替地上胆沢郡新里村ニ而被下置候所
右之通ニ御座候 以上
      猪狩牧太
明和七[1770]年 十月
  猪 長作様

右之通明和九[1772]年三月相改写者也
      猪狩長作橘時之

而時明和九[1772]年三月吉日
         臣 澤田九十九源亮長 承之写者也」(猪狩隆氏所蔵「仙台猪狩家文書」)


七代長作富之
「猪狩長作時之(中略)カ子〔七代〕長作(初稱文彌)富之〔、すべからく老臣澤田九十九源亮長の手になる「先祖書并諸事写留帳」の翌〕安永二[1773]年〔首尾よく〕家ヲ承く」(『伊達世臣家譜』続編、宝文堂)。
 この長作富之の代に、本領黒川郡北目大崎村なる猪狩家在郷屋敷「御用人」として仕え始め、藩政後期の財政難の立て直しにあたったのが、九十九源亮長の孫と思われる、黒川澤田氏(宗家)末代当主源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ~1799ごろ)である。

彌惣兵衛将之と澤田家の「中絶」
「猪狩長作(中略)富之カ子彌惣兵衛将之寛政十一[1799]年四月父ニ代リ奉職ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 同1799年ごろ、北目大崎の在郷屋敷を預る「旦方(ダンポ)」澤田源太郎が(その妻ともども)、遺児源太2歳を残して急逝した。孤児となった源太は澤田氏の又家中にひきとられ、その手で養育されることになった。
 さて、主人澤田氏の遺児の後見人となった件の又家中は、澤田氏の家中屋敷に移って源太を養育し、かつその成人までの間澤田氏の猪狩家「御用人」の職分を代行することになった。以上のようなゆきがかりから、この又家中の家はそれまで無姓であったが、やがて自ら「沢田氏(上
うえの家)」を名乗り始めた。
 そうこうするうち、こんどは猪狩家において、「父ニ代リ奉職」していた弥惣兵衛将之が、「文化三[1806]年九月未タ家ヲ承ケスシテ死ス〔、〕
 将之ガ子木工右衛門隆之是ノ時幼ニシテ且ツ虚弱」(『伊達世臣家譜』続編)で、家中澤田氏の遺児源太とほぼ同世代であったろう。期せずして猪狩弥惣兵衛将之・澤田源太郎宗〓〔重〕主従の上に、たて続けに同じ悲劇が襲いかかったのである。


八代助五郎康之と澤田家の「再興」
「是ニ於テ将之カ弟ヲ以テ嗣ト為シ之ヲ〔八代〕助五郎康之ト稱ス
 文化四[1807]年五月父〔富之〕ニ代リ奉職ス〔、〕八[1810]年(月闕)家ヲ承ケ〔、〕十一[1814]年十一月江戸番馬上ニ挙ケ〔、〕十二月江戸于ニ奉使ス(甞テ〔斎邦〕公日光廟ヲ修シ是ニ於テ幕下賜物有リ之ヲ拝謝スルノ使)兼道五日ニ而到ル」(『伊達世臣家譜』続編)。
 (以下の叙述において家中澤田氏に関する内容は、構成上先取りとなってしまうが、)1815年ごろ、又家中「沢田氏(別家)」に養育されていた黒川澤田氏(宗家)の遺児源太は成人に達し、元服して「澤田源太源清重」と名乗り、父源太郎の衣鉢を継いで猪狩家在郷屋敷「旦方(ダンポ)」職に復した。
 形式上は、後見人である又家中「沢田別家」から”分家独立”し、新たに現澤田本家(作業場)所在地に家中屋敷(下
シタの家)を構えて「黒川澤田本家」を創始し、父の死以来中絶していた「黒川澤田氏」を事実上再興した。
 その後助五郎康之は「文政二[1819]年正月武頭ニ転シ〔、〕六[1823]年五月江戸番組頭ニ転ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 「『仙台城下絵図(文化九[1812]-十四[1817]年間製作)』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)の猪狩諸氏は、以下の8人である。
「猪狩勇(東五) 猪狩市蔵(米ヶ袋中之坂通) 猪狩市郎左衛門(南町通) 猪狩源左衛門(裏五) 猪狩左仲(北七) 猪狩助五郎〔康之〕(柳町通) 猪狩清作(東三) 猪狩藤内(北一)」
 助五郎康之の侍屋敷のあった「柳町通」は、
 「江戸期~昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。(中略)
 北目町通の一丁北側の街路で、これと並行に割り出され、柳町東末から東九番丁の孝勝寺門前まで通じていた。孝勝寺通とも別称した(封内風土記)。正保絵図にすでに記されているが、まだ東七番丁で止まっており、寛文絵図で孝勝寺まで貫通。大番士の侍屋敷を配置。ただしこの通りは東番丁を東西に横切って、町並みが東番丁を基準に割られているため、この通りに面した屋敷はほとんどなかった。(中略)
 また仙台駅の開業で通りの東半は分断され、駅東の柳町通は昭和初年まで地名として使われていたが、現在では東七番丁・東八番丁・東九番丁の地番に編入されている。
 第2次大戦後、仙台駅の改築で駅正面に直通する通りとなった(中略)。昭和45年現行の一番丁1丁目、中央1・4丁目となる。(『角川日本地名大辞典』)


九代木工右衛門隆之
「是ヨリ先木工右衛門隆之長スルニ及ビ而強健ナルヲ以テ〔、〕文化十[1813]年二月請ヒテ康之カ嗣ト為ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 康之には男子がなく、娘智恵をその従兄隆之にめあわせて正嫡将之と康之の系統を統合し、猪狩家九代を継がせた。澤田氏の事案に比し、実に見事な封建道徳の貫徹である。
 幼くして父弥惣兵衛将之を亡くした木工右衛門隆之は、自分とほゞ同年齢で、同じ不運に見舞われた家中澤田氏の遺児源太の境遇に深い同情を禁じ得ず、1815年ごろ源太が澤田家を再興した時には、陰に陽に協力を惜しまなかったろうと推測される。


     
第五節 戊辰戦争後の仙台猪狩家
十代長作隆福
 「『安政補正改革仙府絵図(安政三[1856]-六[1859]年間製作)』所収人名録」(『仙台城下絵図の研究』)には、つぎの8人の猪狩諸氏の名が見られる。
「猪狩寛三郎(米ヶ袋広丁) 猪狩三右衛門(下土樋) 猪狩三右衛門(下土樋) 猪狩善治(東三) 猪狩長作(東二) 猪狩松之允(北三) 猪狩雄之助(東六) 猪狩進(南町通)
 この「猪狩長作」は、十代木工右衛門隆之の嗣子で、仙台猪狩家の十代長作隆福である。
 十代長作隆福の侍屋敷の所在地「東二〔番丁〕は、
「江戸期~昭和45年の町名。江戸期は仙台城下町の1つ。(中略)
 東一番丁の東裏にあり、定禅通と五橋通を結ぶ南北に長い丁。東一番丁に沿って割り出されたもの。大番組を構成した大番士たちの屋敷が配置されていた。『仙台鹿の子』によると『百騎丁東一二三番丁をいう。昔三丁にて馬上百騎これありし故にかくはいうなり。今は東二番丁ばかりを百騎丁という』『ぬかわら丁とは東四番丁をいう。ぬかわら出る故にいうなり。万治年中〔1658~60〕の頃は二番丁へぬかわら出るなり。其後四番丁にいつる』と記し、百騎丁・ぬかわら丁とも別称された。百騎丁は馬上侍が百騎いたことからの命名で(中略)ある。(中略)
 戦災復興を機に街路は拡張され、国道4号がここを通ることになり、一挙に近代的な町並みに変わるとともに、市内中枢部を通る国道沿いの町として交通過密の町となった。昭和45年現行の一番町1~4丁目・五橋1~2丁目・北目町・中央2~4丁目・本町2丁目となる。」(『角川日本地名大辞典』)


「猪狩後家がどこにいた」
 奥羽戊辰戦争中の1868(慶応4)年「四月三日、御目附一同から但木〔土佐〕、三好〔監物〕、坂本〔大炊〕らに対する弾劾状の出た結果、〔三好〕監物と〔坂本〕大炊とは退職、大越文五郎(総督府軍事参謀)、伊藤十郎兵衛(同上目附使番)は病気と称し出勤しなかった。
 三好については御目附の弾劾ばかりでなく、沼沢与三郎の一件があった。(中略)与三郎は(中略)北一番丁の三好の屋敷に行き面会して(中略)『京で〔但木〕土佐殿は何して御座った』と問うと『猪狩後家がどこ〔所〕にいた』(中略)という」。(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房)
 「猪狩後家」は、猪狩家十代当主長作隆福の母、つまり八代康之の女にして九代木工右衛門隆之の未亡人智恵のことであろう。近郷随一の大身猪狩五百石の勢力の一端が偲ばれる。


土着帰農願と永暇/猪狩・澤田氏主従関係の終焉
「明治元[1868]年十二月六日、伊達家は戊辰戦争の処分をうけて、二十八万石に減封された。(中略)
 藩は当面の窮境を打開すべく、とりあえず(中略)弁事局に対して事情を訴え〔、〕明治二[1869]年正月二十八日、〔猪狩家等〕郡村居住の藩士・〔澤田家等〕陪臣の土着帰農願を申請し、同日許可された。」(『宮城縣史』)
「四月十四日(中略)戊辰戦争関係者の大量処分が行われ、仙台藩は急速にその解体を早めた。こうして藩は翌十五日、〔猪狩家等〕在郷の諸預給主・組抜・足軽等一同に永暇を与えて勝手次第に帰農せしめ、同時に一門は百三十俵ずつ、一家・準一家・一族・着座・太刀上までは五十五俵ずつ、〔猪狩家等〕大番組百石以上は二十五俵ずつ、組士は十二俵ずつ、以下は八俵ずつという大減俸を断行して、当面の財政難を緩和することにした。」(『宮城縣史』)
「一方仙台藩家中の解体は急速に進められ、五月十五日までに、伊達家直属の一門より軽卒まで〔猪狩家等〕一万六百五十家のうち約三割に相当する三千百九十七家が暇をとり、ほかに〔澤田家等〕陪臣二万家はすべて永暇を与えられた。仙台藩は事実上ここに解体したとみられる。」(『宮城縣史』)
「〔明治二[1869]年六月十八日〕版籍奉還の許可と同時に、伊達亀三郎は改めて仙台藩知事を仰せつけられた。また一門以下〔猪狩家等〕平士に至るまですべて士族と称すべき旨が通達され、(中略)た。(中略) 翌〔明治〕三[1870]年になると、維新の改革は各方面にいよいよ進展し、四月、〔猪狩家等〕城下の士卒について編舎制度が布かれ(中略)た。」(『宮城縣史』)
 こうして澤田氏は、15~16世紀の楢葉澤田氏以来黒川澤田氏(宗家)・黒川澤田氏(本家)と四百年にわたって臣従してきた猪狩氏に暇をとるとともに、伊達氏陪臣の身分をも離れたのである。


「猪狩長作様御知禄田反別」/旧猪狩家知行地の三分与
 北目大崎村の猪狩家在郷屋敷は閉鎖され、旧知行地の一部は、在郷家中澤田家(下
したの家)とその又家中沢田別家(上うえの家)および音羽家(下しもの家)の三家によって分割された。つぎの文書は、その一端を示すものであろう。
「        記  澤田〔下
したの家〕金吾〔金五郎〕分
一 田反別壱反九ト〔歩〕
   此地價金廿壱圓六拾四戔〔銭〕四り〔厘〕
   此百分ノ三六拾四戔八り
   此二と〔分〕五り五拾四戔壱り
   此地税割税八戔六り
   此共繰費七戔
 一三口合七拾九戔七り
一 田反別八世〔畝〕三ト 音羽〔下
しもの家〕三代吉分
   此地價金拾七圓廿五戔五り
   (中略)
            澤田〔上
うえの家〕恒三郎分
一 田反別壱反壱世ト
   此地價金廿貮圓廿壱戔四り
   (中略)
  明治十五[1882]年旧十月九日改メ
一 合田反別二反九世拾貮ト
   此地價金六拾壱圓拾戔三り
   (中略)
一 猪狩長作様御知禄田反別
 右の通り御座候や〔也〕 澤田金吾〔金五郎〕」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同じく澤田本家三代金五郎(金吾)の手になる、つぎの文書がある。
「字勝負沢澤田二十八番 猪狩長作様入地分
一 田壱世〔畝〕拾八ト〔歩〕 澤田金吾〔金五郎〕植字
   此代價参円卅六戔〔銭〕壱り〔厘〕
   此百分ノ三金拾戔一り
 同囲二十七番
一 田廿八歩      澤田金吾〔金五郎〕
   (中略)
 同囲三拾八番
一 田廿七歩      澤田金吾〔金五郎〕
   (中略)
 同囲三拾九番
一 田三畝七歩     澤田金吾〔金五郎〕(後略)」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 磐城以来四百年間続いた猪狩家と澤田家の関係は、急には断ち切り難く、物心両面にわたる主従関係のなごりは第二次大戦後までも継続された。
 旧猪狩家知行地の幾分かはなお当地に残され、澤田家は「御年貢」「御産穀」として豆などを納め続けていた。主従関係が切れてしまわないように、お互いに配慮されていたものであろう。


十一代杢右衛門規之
 長作隆福の子が十一代杢右衛門規之、その子が十二代杢右衛門規、その子が十三代隆明、その子が現十四代当主隆氏である。

猪狩章家
 十代長作隆福の長男で、十一代杢右衛門規之の兄が、猪狩章である。

 イガリ・アキラ【猪狩章】 官吏。諱は之知。漢學を藩學養賢堂に、武術を山崎駿河に學び戊辰の役目付役として出征し功あり、維新後權大屬第一大區戸長、伊具、亘理郡區長、仙台區書記を歴任し、明治二十二[1889]年宮城郡七ヶ濱村長に選ばれ、率先して同村に〔菖蒲田浜〕海水浴場を設け、大東館と稱す、東北海水浴場の嚆矢なり、明治三十九[1906]年二月四日歿す、享年六十九、仙台新寺小路成覺寺に葬る。」(『仙台人名大辭書』)
幸之助 イガリ・コーノスケ【猪狩幸之助】 文學士。仙台東二番丁猪狩章の長男、東京帝國大學文科出身、仙台第一中學校の教頭となり、従七位に叙せらる、大正四[1915]年七月三十一日歿す享年四十五、仙台新寺小路成覺寺に葬る。」(『仙台人名大辭書』)
甲子・利子 イガリ・コー【猪狩甲子】 琴曲家。仙台東二番丁猪狩章の女、幼より琴曲を好み山下検校に學びて生田流の十曲皆傳を受け、門人數百人あり、明治四十三[1910]年三月五日歿す享年三十七、其の妹利子また琴曲を善くし、姉と共に子女に教授す、明治四十[1907]年九月十三日歿す、享年二十六、仙台新寺小路成覺寺に葬る。」『仙台人名大辭書』)
幸四郎 イガリ・コーシロー【猪狩幸四郎】 文學士。仙台東二番丁猪狩章の二男、東京帝國大學文科出身、大正四[1915]年八月二十八日歿す、享年三十七、仙台新寺小路成覺寺に葬る。」(『仙台人名大辭書』)
享六 イガリ・キョーロク【猪狩享六】 将校。仙台東二番丁猪狩章の三男、陸軍士官學校出身、陸軍歩兵中尉、大正二[1913]年六月二十七日歿す、享年二十七、仙台新寺小路成覺寺に葬る。」(『仙台人名大辭書』)

十二代杢右衛門規
 猪狩家十二代当主杢右衛門規が、幼い嗣子十三代隆明を残して熊本で客死したとき、伯父金太郎は、旧家中当主としてその葬儀一切を取り仕切ったということである。
 金太郎の弟・金之助伯父もまた、猪狩家に「御産穀」を持参したことがあるという。


十三代隆明
 「拝啓 酷暑厳しき折柄御〓〔尊〕家〔澤田家〕御一同益々御祥運の事とお慶び申上げます 当〔猪狩〕家もおかげで無事消〓いたして居りますから 御安心下さいます様 尚ほ先日は大豆の事で色々有難う御座いました
 扨て去る昭和二十二〔・〕三[1947-8]年の頃と思いますが〔、〕不在地主の理由で猪狩杢左〔右〕衛門所有の二反三畆と思いますが 千百円と思いますが 確かにあなた〔力〕の御父さん〔金太郎〕から送られましたが 此の度田地代償かん〔還〕云々となった由てすが それには黒川の方の農協から証明書が必要で 八月十日迄に提出せよとの事ですから 御多忙の処誠に御迷惑てすけれども 農協から証明書を取って大至急御送り下さるやう 伏して御願申上けます
 勝手乍ら速達便にて御願申上けます
 先づは取り急ぎ要〓〔件〕のみ申あけます
   八月二日       仙台市定禅寺通五八
  沢田 力様       戸主  猪狩隆明(印)」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 この手紙の年代は、1961(昭和36)年の金太郎没後である。文面にもあるとおり、この手紙の直前に、力は弟勝彦をともなって、「御産穀」の大豆を猪狩家に持参した。  今日もなお猪狩家所有の土地がわずかながら当地に残っており、山林となっている由である。
 「定禅寺通五八」は「現行の一番町4丁目・国分町3丁目」(『角川日本地名大辞典』)である。

十四代隆
 1991年陽春、筆者は稿本『澤田氏の来た道 澤田家譜』4部を創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈した。
 1994年の亡妻信子の死からたしか数年後、筆者と従兄黒川澤田本家六代当主力は、上記稿本と「御産穀」を手土産がわりに仙台猪狩家を訪れ、十四代当主隆氏とご母堂に面会して親しく積もる話を聞かせていただいた。
 2010年3月26日、筆者は改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013年12月26日、筆者は『澤田氏の歴た道 奥州黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。

「仙台猪狩家文書」

第六節 仙台猪狩分家三百石

「延寶四[1676]年三月四十石餘ヲ其〔四代彌惣兵衛持滿〕ノ弟十三郎有滿ニ於テ分地シ、以テ其ノ家ヲ立ツ、其ノ裔中間番士ト爲リ、三百石餘之祿ヲ保ツ、今ニ猪狩牧太雅之ト稱スル是也」(『伊達世臣家譜』)。

初代十三郎有満
「猪狩姓橘、其ノ先猪狩下野盛滿自リ出ス、(出自詳ラカナラス、猪狩紀伊守〔守之〕ヲ以テ祖ト爲ス、岩城累世之臣也、其ノ裔虎間番士ト爲リ、五百石之祿ヲ保ツ、今ニ猪狩長作時之ト稱スル是也、)盛滿カ次男猪狩十三郎有滿ヲ以テ祖ト爲ス、其ノ裔中間番士ト爲リ、今ニ三百二十〔三百二〕石餘(三斗二升)之祿ヲ保ツ、」(『伊達世臣家譜』巻之十二平士之部八十)
「私〔有満〕儀猪狩弥惣兵衛〔持満〕実弟に御座候処、無足にて御番為し仕り度き由、御当代〔綱村〕寛文弐[1662]年に茂庭古周防を以、拙者親猪狩下野〔盛滿〕願ひ申し上げ候得ば、願ひの如く仰せ付けらる之旨、同三[1663]年春奥山大学を以て仰せ渡され候。則ち茂庭下総御番組に罷り成り、御国御番勤仕致し候。」(『仙台藩家臣録』)
「〔寛文〕七[1667]年野谷地ヲ加美郡小野田本郷ニ於テ受ケ、新田四十五石一斗四升ヲ開墾ス、」(『伊達世臣家譜』)
「又經界ヲ膽澤郡新里邑ニ於テ置ク所之家中舎ヲ請ヒ、」(『伊達世臣家譜』)「然ば下野〔盛滿〕家中屋敷へ御竿を入れ、高弐貫九百七拾壱文〔29石7斗1升〕の所拙者〔有満〕に下し置かれ度き旨下野〔盛滿〕申し上げ、右新田之内開発御竿入を併せ、四貫五拾四文〔40石5斗4升〕の所下し置かれ度き旨申し上げ候処〔、〕弐口合せ七貫四百八十五文〔74石8斗5升〕拙者〔有満〕に下し置かる之由、寛文八[1668]年四月廿五日古内志摩を以て仰せ渡され候。同年同月廿八日御日付御黒印頂戴し所持仕り候。
 右新田野谷地之内御用地に召し上げられ、」(『仙台藩家臣録』)「小野田本郷内ニ於テ」(『伊達世臣家譜』)「代り之谷地下し置かれ、起目七百参拾六文〔7石3斗6升〕之所下し置かる之旨、延宝元[1673]年十月廿九日大条監物を以て仰せ渡され、高八貫弐百弐拾壱文〔82石2斗1升〕に成し下され候。
 其れ以後」(『仙台藩家臣録』)「黒川郡北目大崎邑ニ於テ」(『伊達世臣家譜』)、「自分取高新田起目四貫参百参拾文〔43石3斗〕下し置かれ、本高合せ拾弐貫五百五拾壱文〔 125石5斗1升〕之高に成し下さる之旨、延宝三[1675]年八月廿八日小梁川修理を以て仰せ渡され候。
 将ハた又右下野〔盛滿〕隠居願ひ申し上げ候節、知行高四拾四貫六百八拾壱文〔 446六石8斗1升〕之内四貫六百八拾壱文〔46石8斗1升〕は拙者〔有満〕に分け下され度き由申し上げ候処、下野願ひの如く四貫六百八拾壱文〔46石8斗1升〕之所拙者に下し置かれ、都合拾七貫弐百三拾弐文〔 172石3斗2升〕之高に成し下さる之旨、延宝四[1676]年二月四日修理を以て仰せ渡され候。」(『仙台藩家臣録』)
「〔延宝〕六[1678]年姪〔甥(理兵衛良滿)〕ヲ養フ之舉有ルヲ以テ、百三十石(桃生郡深谷大窪邑)ヲ武田伊右衛門充信ニ於テ受ケ、前ト併セ今之祿〔三百二石餘(三斗二升)〕ト爲ル、充信之裔、世召出ノ家、千石餘之祿ヲ保ツ、今ニ武田安之助信義ト稱スル者是也、」(『伊達世臣家譜』)
「元祖有滿之世、貞山〔政宗〕公猪狩紀伊守守之〔・〕猪狩下野盛滿ニ賜ル所之書、之ヲ父盛滿ニ受ク、又盛滿先祖軍用之功ヲ稱シ、以テ槍一柄ヲ有滿ニ於テ贈ル、皆家于ニ蔵ス、
 甞テ田宅ヲ桃生郡大窪邑ニ於テ置ク、治ヲ去ル十二里許リト云フ」(『伊達世臣家譜』)。


仙台猪狩分家歴代
「有滿肯山〔綱村〕公ノ時、納戸ノ事ニ與アスカル、〔男?〕子無シ、武田因幡貞信カ次男ヲ養ヒ、女ニ配シテ嗣ト爲ス、之ヲ理兵衛良滿ト稱ス、
 良滿カ子岡之助武滿、寶永七[1710]年七月獅山〔吉村〕公ノ初メ、江戸留守番ニ舉ク、
 武滿カ子喜膳盛之、
 盛之カ子牧太雅之、大征流軍馬術ヲ新山左仲當廣ニ於テ學ヒ、以テ免状ヲ得、又影山流居合及ヒ眞極流柔術ヲ當廣ニ於テ學ヒ、皆目録ヲ受ク、」(『伊達世臣家譜』)
「雅之カ子善右衛門孝之天明八[1788]年十一月父ニ代リ而奉職ス」(『伊達世臣家譜』続編)
「茂流筆法一文字傳ヲ佐藤七郎兵衛信郷ニ於テ得、」(『伊達世臣家譜』)
「孝之カ子嘉守儀之」(『伊達世臣家譜』続編)

 澤田本家五代金太郎は、つぎの文書を残している。
「(前略)右契約確実也仍而之ヲ相務契約ト為シ各自壱通ヲ所持スルモノ也
 大正拾五[1926]年壱月六日
     仙台市新小路十七番地
    賣主   猪狩菊野(印)
     黒川郡鶴巣北目大崎字別所四番地
         澤田金太郎
     仙台市肴町百拾七番地
  右代理人   笹川庄三郎〔養太郎〕(印)
       許可書
右猪狩きくのニ於テ其所有ノ本契約ノ土地澤田金太郎ヘ賣渡ノ件ヲ許可ス
              猪狩きくの夫
 大正拾五[1926]年壱月六日  猪狩又十郎(印)」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 菊野・又十郎の名は仙台猪狩家嫡流には見当たらないので、あるいは仙台猪狩分家に属する者かもしれない。


第七節 深谷猪狩氏二百石
「猪狩姓平、其ノ先ヲ知ラス、猪狩兵左衛門元清ヲ以テ祖ト爲ス、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今ニ二百石之祿ヲ保ツ、」
「其ノ家甞テ田宅ヲ桃生郡深谷庄上下堤邑ニ於テ置ク、治ヲ去ル三里許リ、」(『伊達世臣家譜』巻之十三平士之部八十九)


兵左衛門元清岩城之浪士也
「元清岩城之浪士也、義山〔忠宗〕公ノ時、六兩四口ヲ給シ、始〔初〕メテ當〔伊達〕家ニ仕フ、慶安中手水チョウズ番ト爲リ、〔慶安〕三[1650]年二月新タニ今之祿〔二百石〕ヲ賜ヒ、以テ前資ヲ納ム、
 元清カ子兵左衛門(初メ長吉ト稱ス)安清、延寶八[1680]年四月、肯山〔綱村〕公ノ時、扶持方奉行ト爲ル、
 安清カ子兵左衛門玄清、
 其ノ子兵左衛門親清子無ク、菱沼安右衛門重勝カ第三男太利之丞ヲ養ヒ以テ嗣ト爲シ、之ヲ兵左衛門長清ト稱ス、
 其ノ子清左衛門毘清、」(『伊達世臣家譜』)
「毘清カ子清之進庸清天明元[1781]年七月病死ス〔、〕是ニ於テ弟ヲ養ヒテ嗣ト為シ之ヲ長兵衛下清ト称ス」(『伊達世臣家譜』続編)
「猪狩清左衛門毘清之子兵左衛門(初メ長兵衛ト稱ス)下清寛政四[1792]年八月小姓ニ試ツ ケラレ部局之資ニ判金一枚ヲ賜フ〔、〕五[1793]年八月毘清病ニ而歿シ下清家ヲ承ク〔、〕六[1794]年十二月節倹之制ニ値シ職ヲ免ス
 下清カ子深五郎定清〔、〕文政七[1824]年十月父隠退シ定清家ヲ承ク〔、〕曽テ鈴鹿流薙刀ヲ熊耳平吉于ニ 學ヒ其ノ目録ヲ受ク」(『伊達世臣家譜』続編)


仙台猪狩兵左衛門先鋒となり
 くだって1868(慶応4)年の奥羽戊辰戦争に際して、平姓猪狩家の当主兵左衛門は「越後口」に出陣した。
「此時新潟開港の期迫れるが故に開港に関する事務は列藩に於て之を扱ふことゝなり仙台よりも全権を派したる顛末は既記の如し、之より先会米より同盟の証として仙藩兵の越後に出張せんことを請ふ、依て仙藩にては猪狩兵左衛門、白幡嘉膳の二小隊を派す、而も両人軍事に精しからざるを以て葦名全権は附属護衛隊長牧野権十郎をこれが指揮役となし兵左衛門の兵を合して中隊を編成し兵左衛門を監軍として出発せしめ、嘉膳の兵を大石源之進の隊と合して全権の護衛となせり、権十郎は越後加茂に到りて半沢長岡の軍と合せり(中略)
 〔六月〕十四日列藩軍大に西軍を破り、二十一日河合継之助(中略)等西軍を駆逐し長岡城下の入口に至り退いて四谷に陣す。越後口の仙台軍振はざるを以て葦名靱負〔ゆげい〕は藩に対し増兵を請ひ〔、〕藩にては黒沢壱岐(二小隊)を将とし我妻与三郎を監軍として発遣す、壱岐は六月十三日出発、七月一日を以て新潟へ着し各隊と合併す(中略)
 此日〔七月二十四日〕長州隊長山懸狂介〔有朋〕等は下条村より長岡に向て猛烈に攻撃す、河合継之助身重症を負ひつ、大呼して兵を指揮す、又本道口を進みし米沢、会津、新発田の兵は西軍を挾撃すべく堅壘に向て突貫数回多大の死傷を意とせずして強襲し遂に之を破り、全く長岡の攻囲を解きたり、廿六日拂暁各藩本道口柴崎峠より進む、仙台猪狩兵左衛門先鋒となり白幡嘉膳、黒沢壱岐の手勢を以て応援進軍す、夜三更一声の狼煙〔のろし〕 を合図に西軍の壘へ切込み突進して西軍の二十三壘を陥る」(『仙台戊辰史』)



第八節 岩谷堂猪狩氏二十五石
 「                                46 猪狩作助
一 拙者儀江刺に被差置〔さしおかれ〕候御給主猪狩九左衛門二男に御座候、付て寛文二[1662]年只野杢右衛門取次を以〔伊達〕兵部殿へ罷出、切米三両・扶持方四人分被下奉公仕候。然〔しかる〕処寛文十一[1671]年兵部殿御預に就被仰付〔おおせつけられ〕候、同十弐[1672]年六月廿八日古内志摩を以御知行弐貫五百文〔25石〕被下置之旨於一関大松沢彦左衛門御申次を以拝領致し、于今御番外にて罷在候。以上
  延宝七[1679]年三月十七日」(『仙台藩家臣録』第五巻)




(続く)


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