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InterBook紙背人の書斎
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別巻日本姓氏家系譜総索引へ進む



第三章 十二代辰五郎=ゆゑ(1868~1931/1876~1956)


第一節 姉家督ゆゑ=養嗣子辰五郎
三代金五郎嫡女ゆゑ/姉家督
 ゆゑは、1876 (明治9) 年5月7日、三代金五郎22歳=まつゑ20歳の長女に生まれた。私の祖母である。
 1879(明治12)年、妹むめのが誕生した。
 1884(明治17)年、8歳年少の長弟養太郎が生まれた。
 1893(明治26)年2月、末弟俊郎が誕生した。
 ときにゆゑはすでに17歳になっていたが、長弟養太郎はまだ9歳の少年だった。当時父金五郎夫妻は佐々重に奉公して仙台常宅にあり、北目大崎村留守本宅は男手を欠いていた。
 当時は性別不問の長子相続、いわゆる「姉家督」が一般的な時代であり、ゆゑは「家付き娘」として澤田家四代を相続し、留守宅の農業を守る定めだった。

養嗣子辰五郎
 同1893 (明治26) 年9月、金五郎=まつゑは落合村松坂・早坂辰五郎25歳を養子にしてゆゑ17歳にめあわせ、北目大崎村の澤田家留守本宅を守らせることにした。辰五郎は養父金五郎よりわずか14歳の年少であった。
 早坂家は代々当地の豪農で、辰五郎は1868(慶応4)年2月6日、養右衛門=みつゑの四男に生まれた。私の祖父である。辰五郎の縁組当時父母はすでに故人だったようで、戸籍上は戸主・長兄「早坂清三郎弟」となっている。


五男四女
 当時、澤田家の経済的本拠は金五郎の居た仙台にあり、北目大崎村の留守本宅はほとんど独立採算で、どうやら生活に十分というにはほど遠かったようだ。新郎新婦はいわば貧乏くじを引かされた形で、いやおうなく農業による半独立の生計を強いられたのである。
 明治維新以来父金五郎はしだいに自家の所有地を買い増してはいたが、まだまだ農業で自活するには不十分であった。とどのつまりは、養嗣子辰五郎はあいもかわらず松坂の実家に通いつめる仕儀となった。ただし、こんどは一一転して「手間取り(雇い人)」としてであり、その代価で少しづつ田畑を買い増していく算段となったのである。
 1895 (明治28)年7月7日、ゆゑ19歳=辰五郎27歳の嫡男金太郎が誕生し、澤田家は四世同堂となった。辰五郎夫婦は五男四女をもうけた。
 ところが、翌1896(明治29)年1月、祖父・三代一馬が64歳で死没した。
 同年3月23日辰五郎は正式に金五郎夫妻の嗣子となり、同年9月15日初めてゆゑとの婚姻を届け出た。
 翌1897(明治30)年、妹むめのが落合村相川・文屋家に嫁いだ。
 1900(明治33)年3月3日、次男金蔵が誕生した。
 1902(明治35)年9月25日、長女ちよとが誕生した。
 1905(明治38)年10月24日、次女もりよが誕生した。
 1908 (明治41) 年5月、祖母まちが74歳で没した。
 同年10月31日、三男金之助が誕生した。
 1911 (明治44) 年9月、父金五郎同様仙台にあった長弟養太郎が、仙台肴町「笹川旅館」の養子に入り、庄三郎と改名した。以後、母まつゑはしばしば同旅館を手伝うことになった。当時は叔父松吉も仙台郵便局に奉職していたし、また佐々重の繁忙期ともなると、次弟俊郎や長男金太郎・次男金蔵まで仙台に駆り出されたという。澤田家の重心は、仙台にあったのである。
 同年10月30日、四男亥兵衛が生まれた。私の父である。


辰五郎の無力と嫡男金太郎の奮起
 1913(大正2)年、末弟俊郎が母まつゑとともに上京し、近衛連隊に入隊した。
 翌1914(大正3)年2月3日付け、東京小石川なる外祖父大越文五郎の俊郎宛ての既述の書翰によると、「鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及生栗」、「養太郎兄より金二円」が俊郎に送られた。
 同年5月11日、弟俊郎「の受持中隊長島瀧五郎殿より在隊間の状況通知」が、当主・父金五郎宛て着信した。これに対して翌5月12日、当時19歳の嫡男金太郎が、父辰五郎をさしおいて、「家庭よりの通信へは仙臺の〔金五郎〕祖父上〔、〕肴町の〔養太郎〕叔父上とのお談の上早速中隊長宛に返却の筈にて御座候」との書翰をしたためた。ここには、辰五郎の片鱗すら見えない。当時すでに金太郎が、46歳の父にかわって澤田家留守本宅の采配を揮っていた事情が明白である。1868(慶応4)年生まれの農民の庶子辰五郎は、おそらくまともな教育を受けてはおらず、文筆も思うにまかせなかったのではなかろうか?
 同1914(大正3)年11月6日、三女てる子が生まれた。
 1916 (大正5) 年10月12日、外祖父大越文五郎が85歳で大往生を遂げた。ときに母まつゑは60歳、ゆゑ40歳、嫡男金太郎21歳、私の父・四男亥兵衛は5歳であった。
 翌1917(大正6)年11月17日四女すゑこが生まれたが、1ヶ月後の同年12月15日午後3時夭折した。
 翌1918(大正7)年末、弟俊郎が近衛連隊を除隊し、叔父文平をたよって満州にわたり、満鉄に勤めた。
 翌1919(大正8)年2月15日、長女ちよと17歳が宮床村・湯村家に嫁いだ。
 同月27日、長男金太郎24歳が大谷村山崎・小沢つねよと結婚した。
 翌1920 (大正9) 年1月31日、末子・五男辰夫が生まれた。ゆゑは46歳、辰五郎は実に52歳で、長男金太郎もすでに25歳になっていた。ゆゑは妊娠中意図的に流産を試みて失敗し、この結果辰夫は脳膜炎を患うことになった。
 同年8月、弟俊郎が叔父松吉の媒酌で結婚した。
 同年11月長孫一郎が生まれ、澤田家はまたしても四世同堂となった。
 同年、叔父松吉が仙台半子町に分家し、仙台澤田分家を興した。


第二節澤田氏の帰農
父金五郎の死と澤田氏の帰農
  翌1921 (大正10) 年2月15日、父・三代金五郎が68歳で亡くなった。
 金五郎の死により、澤田家は本格的に帰農することになった。53歳の養嗣子辰五郎が澤田本家四代の家督を相続したが、既述のごとく、それは名目のみであった。
 入嗣以来辰五郎は毎朝歩いて松坂の実家に通い、いわば奉公人も同様にただただ黙々と働き、それをもとでにわずかづつ田畑を買い増してきた。しかし、もと「一村持ち」だったという理由で部落の人々に「売場」の所有地を奪われて黒川神社の社有地にされてしまうなど、近隣の人々にもとかくないがしろにされがちで、家政の不手際も目にあまった。
 そこで嫡子金太郎が奮起して、既述のごとく、早くも過ぐる1914(大正3)年・18歳のころから父に代わって家政をとり仕切り、辰五郎は事実上すでに隠居となっていた。
 同年3月、長孫一郎が夭折した。
 翌1922(大正11)年、まつゑの弟大越文平が61歳で死去した。
 1924(大正13)年、次男金蔵が秋葉家の養嗣子となった。これより前、富谷村内ヶ崎家(砂糖屋)から養子の話があったが、金蔵はこれを断っている。
 1926(大正15)年1月、嗣子金太郎は、実質上の家長として、叔父笹川庄三郎(養太郎)を代理人としてつぎの土地を旧主猪狩家から購入した。
 「大正拾五[1926]年壱月六日
           仙台市新小路十七番地
          賣主   猪狩菊野(印)
           黒川郡鶴巣北目大崎字別所四番地
               澤田金太郎
           仙台市肴町百拾七番地
        右代理人   笹川庄三郎(印)」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同1926(大正14)年3月、次女もりよが七北田村野村・志賀家に嫁いだ。
 同年6月、母まつゑが71歳でみまかった。ときにゆゑは50歳、長男金太郎31歳、四男亥兵衛は15歳であった。


辰五郎の早世
 1931 (昭和6)年11月3日午前6時、辰五郎は64歳で永眠した。法名「寳徳壽昌居士」。形式的な家督相続からわずかに10年後、嗣子金太郎36歳、私の父・四男亥兵衛は20歳の結婚前であった。そのひととなりは頑固一徹。来る日も来る日も、ただひたすらひたいに汗して営々と働くことしか知らなかった。あげくのはてには、ついにその遺影すらも残さずに、あたかも影のように消えていったのである。
 翌1932 (昭和7) 年、ゆゑ56歳の時、嫡孫力が誕生した。力以下の我々孫たちは、誰も祖父辰五郎の顔を知らずに生まれたのである。
 1934(昭和9)年8月、三男金之助が仙台市北町通・山影家の養嗣子となった。
 同年10月、三女てる子が東京・鈴木家に嫁いだ。このときてる子は妊娠しており、ゆゑはその世話のために上京した。まもなく長女登喜子が生まれたが、てる子の夫勝雄は病死した。
 同年旧12月、ゆゑの上京中に、代代家督の約束で家業をてつだうことになった四男亥兵衛23歳が、鶴巣村北目大崎砂金沢 ・佐藤しづかと結婚して澤田本家に同居した。
 1936(昭和11)年、亥兵衛の長男・孫元が生まれた。
 1940(昭和15)年、弟笹川庄三郎(養太郎)が56歳で死去した。
 1943(昭和18)年、当時仙台で洋裁学校を主催していた三女てる子が、目黒家に再嫁した。


草履づくり
 1946(昭和21)年、四男亥兵衛の三男・孫筆者が生まれた。
 1951(昭和26)年、嫡男金太郎が鶴巣農協組合長に就任した。
 1953 (昭和28) 年、ゆゑ77歳で嫡曾孫智
さかしが生まれ、澤田家はまたも四世同堂の春を迎えた。
 1955 (昭和30) 年2月27日午後11時20分、長男金太郎の妻つねよが亡くなった。
 同年12月30日、四男亥兵衛が分家独立し、黒川澤田分家を興した。
 翌1956 (昭和31) 年2月27日、嫡孫力の次男豊彦が生まれた。
 同日午後11時50分、奇しくも嫁つねよの一周忌、孫豊彦の誕生の日、ゆゑ「オバンツァン(お祖母さん)」は81歳の高齢で大往生を遂げた。法名「大嶺院徳峰壽光大姉」。ときに嫡子金太郎は61歳、四男亥兵衛45歳、嫡孫力24歳、亥兵衛の長男元20歳、三男筆者10歳、嫡曾孫智は3歳であった。
 当時私はすでに10歳に達していたので、「オバンツァン(お祖母さん)」の面影ははっきりと記憶している。もちろん、おそらくはまともな教育も受けられなかったのであろうが、「侍の孫娘」としてその面だちとふるまいにはおのずから気品が感じられ、今となっては、「侍の娘」曾祖母まつゑ・「最後の侍」外高祖父大越文五郎の面影を偲ぶ思いがする。
 澤田家三代金五郎=旧仙台藩参政大越文五郎佑之の長女まつゑの嫡女に生まれ、夫辰五郎に配されて澤田家四代を相続したとはいえ、ゆゑのめぐりあわせはかならずしも恵まれたものとは言えなかった。父金五郎や母まつゑさらには弟養太郎らのそれなりに華やいだ暮らしは、その留守本宅で多くの子供たちを抱えて地を這う様な生活を強いられていたゆゑ=辰五郎夫婦とは無縁な世界であった。ある意味では、「貧乏くじ」を引かされたとも言いえよう。
 祖母は草履づくりが巧みで、ひねもす竹の皮、わら、ボロ切れなどですばらしいできばえの草履を作っては、近所の商店などにも卸していた。かくいう私もまた、小学校の廊下でそのすてきな滑りぐあいを楽しんだり、なけなしの小遣にあずかったりした一人ではある。今にしてあらば、すばらしい民芸品であったろう………


第三節 庶流
むめの(1879 ~19□)/文屋家
 金五郎の次女むめのは、1879(明治12)年2月7日、姉ゆゑに3年遅れて生まれた。私の叔祖母である。
 1897(明治30)年12月29日、落合村相川文屋庄三郎の次男鶴治と結婚、嫡男庄次郎ほか三男二女をもうけた。私の叔従父母にあたる。文屋家は、「鶴屋」と称して酒類等の小売業を営んでいた。
 むめのの次男庄蔵は、叔父澤田俊郎同様おそらくは叔祖父大越文平をたより、満州に渡った。
 澤田・文屋両家は、むめのを結びの糸として、笹川・早坂・湯村各家を通じて何重にも婚姻を重ね、きわめて濃密な関係を結んだ。
 まずむめのは、弟笹川庄三郎 (養太郎) の先妻が亡くなると、次女ももよと叔父・姪の縁を組ませてその後妻とした。
 また三男庄八を、姉ゆゑの夫辰五郎の甥・早坂清五郎の養子とした。清五郎は、仙台で米穀商を営んでいた。
 清五郎の弟三五郎は宮床村湯村家の養子となり、その嫡子湯村利雄に、叔父澤田辰五郎の長女ちよとをめあわせた。
 さらに、むめのの孫で私の再従兄にあたる文屋昭郎は、その再従妹澤田千代子と結婚した。

養太郎(庄三郎)(1884~1940)/笹川家(笹川旅館)
 養太郎は、1884(明治17)年3月5日、澤田家三代金五郎=まつゑの長男に生まれた。私の叔祖父である。
 養太郎は、現今の長男家督相続制であれば、本来澤田家嫡流の生まれであったが、当時は性別不問の長子相続、いわゆる「姉家督」が一般的であった。
 1893 (明治26) 年、養太郎がいまだ9歳の時、義兄辰五郎が澤田家に養子に入り、嫡姉・姉家督ゆゑにめあわされて嗣子となり、澤田家五代を継いだ。
 養太郎は成年に達すると上仙し、父の佐々重を手伝っていた。
 1911 (明治44) 年9月9日、養太郎はその血筋を見込まれて、仙台肴町の旅館笹川屋・笹川家に養子に入り、義父庄三郎の養女せんと結婚して「庄三郎」を襲名し、同家を継いだ。笹川屋は代々「笹川屋庄三郎」を名乗る老舗の旅館で、当時は、学童をはじめ鶴巣村の人々が大挙して泊り込んだものだという。以来、母まつゑはしばしばその手助けに駆けつけることになった。
 1914(大正3)年2月、既述のごとく、「養太郎兄より金二円」「鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及び生栗」が、東京近衛連隊なる弟俊郎に送られた。
 同1914(大正3)年5月12日、甥金太郎が叔父俊郎宛てに、「家庭よりの通信へは仙臺の〔金五郎〕祖父上〔、〕肴町の〔養太郎〕叔父上とのお談の上早速中隊長宛に返却の筈にて御座候」との書翰をしたためた。
 この前後、養太郎はおそらくはその義母とともに上京し、外祖父母大越文五郎・叔父文平との記念写真を残している。
 1923(大正12)年ごろ、私の父亥兵衛の小学校の修学旅行の宿泊先は当の笹川旅館であった。当日祖母まつゑは例によって助っ人に行っていたが、かんじんの「おばあちゃんっ子」亥兵衛は、御多聞に漏れぬ経済的理由から参加を許されなかった。祖母はさぞかし、「おらいの孫は来ねがったんだなや………」と、奇妙な落胆を味わっていたことであろう、と亥兵衛は述懐している。
 「大正拾五[1926]年」、既述のごとく、養太郎は北目大崎村なる甥金太郎の代理人として、猪狩家との土地売買契約書に署名・捺印した。
 「大正拾五[1926]年壱月六日
           仙台市新小路十七番地
          賣主   猪狩菊野(印)
           黒川郡鶴巣北目大崎字別所四番地
               澤田金太郎
           仙台市肴町百拾七番地
        右代理人   笹川庄三郎(印)」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 養太郎の妻せんは二男一女を生んだが、男子二人は早世し、せんもまた長女きつ子を遺して亡くなったので、上述のごとく姪文屋ももよを後妻に迎え、嫡男清敏 (1930~) をはじめ四男一女をもうけた。
 養太郎は、澤田家所有の山林を伐採して新館を建設する等、時代の進展に即応すべく経営の改善に意を用いたが、万策功を奏せず、ついに笹川旅館の経営を断念した。現在その跡地は、岩松旅館となっている。
 なお、皮肉にも、岩松旅館の主人の姪が、弟俊郎の妻ときの実家伊藤家に嫁いでいるということである。
 1940 (昭和15) 年5月6日、清敏10歳の時、養太郎は56歳で若死にした。
 なお、養太郎は戸籍上祖父一馬の(三男松吉に次いで)四男に、その弟俊郎は同五男に、つまり父金五郎の弟になっている。これはおそらく、養嗣子辰五郎の家督相続を事実上確実にするための、金五郎の配慮であったろう。

笹川清敏 (1930.2.26~)
 養太郎の嫡男清敏は、笹川家当主とはいいながら笹川氏の血を汲んではいない。澤田家三代金五郎=まつゑの長男養太郎と同次女むめのの娘文屋ももよの嫡子で澤田氏の血を二重に汲み、もっとも澤田氏の血の濃い人である。私の叔従父である。
 清敏は教員となって鶴巣中学校等に奉職し、私をはじめ澤田家の子女の多くがその教えを受けた。
 清敏は大松沢・丹野淑子と結婚し、一子淳一をもうけた。私の再従弟である。





第四章 仙台(八幡町)澤田家俊郎


第一節 初代俊郎(1893~1958)
三代金五郎次男
 仙台(八幡町)澤田家初代俊郎としろうは、1893 (明治26) 年2月28日、澤田本家三代金五郎39歳=まつゑ37歳の次男に生まれた。このとき長姉ゆゑはすでに17歳、長兄養太郎も9歳になっていた。私の叔祖父である。
 同年9月には早くも義兄辰五郎が養子に入り、長姉ゆゑと結婚して嗣子となった。
  1895(明治28)年、辰五郎=ゆゑの間に甥金太郎が生まれた。俊郎は金太郎よりわずか2歳の年長で、叔父松吉の場合と同様、叔父とはいいながら、金太郎以下の甥姪のいわば兄貴分のような間柄であったろう。
 翌1896(明治29)年、祖父一馬が64歳でなくなった。
 翌1897(明治30)年、次姉むめのが落合村相川の文屋家に嫁いだ。
 1905(明治38)年ごろ、俊郎は小学校を首席で卒業して総代となったが、貧困のためはくべき袴がなく、卒業式の当日は家に隠れて式に出席しなかったという。子だくさんの澤田家留守本宅の貧困は、当時隠れもない事実であった。
 1908(明治41)年、祖母まちが74歳で死亡した。
 1911(明治44)年9月、兄養太郎が仙台笹川旅館に養子に入った。翌10月には、甥・私の父亥兵衛が生まれた。


近衛歩兵第一連隊
 このころ成人に達した俊郎は、父金五郎の佐々重を手伝ったりしていたが、兄養太郎同様にその血筋を見込まれて、富谷村の銘酒「鳳陽」醸造元・内ヶ崎家(現合資会社内ヶ崎酒造店)の婿養子に請われた。内ヶ崎家は中世黒川郡の領主黒川氏「三家老」の一で、郡内きっての名家である。また、澤田氏の旧主・仙台猪狩家からも(菊野の?)婿養子に請われたという。しかし、おそらく義兄辰五郎のうだつの上がらぬさまを見てのことであろう、進取の気性に優れたと死闘はいずれをも断り、近衛連隊に入隊することになった。
 俊郎は、母まつゑに伴われて、当時東京府下「小石川区原町十三番地」なる外祖父大越文五郎一家をたよって上京した。遠く戊辰維新の仙台藩に幼いまま置き去りにした愛娘とその息子の成長した姿を目のあたりにして、文五郎の感慨はいかばかりであったろうか?
 おそらく「大正二(1913)年十二月一日」(1914〔大正3〕年5月12日付澤田金太郎書翰)、俊郎は「府下竹橋内 近衛歩兵第一聯隊第一中隊第三班」(1914〔大正3〕年2月3日付け大越文五郎書翰)に入隊した。

鶴巣お姉ゆゑより切り餅及生栗
 翌1914(大正3)年「二月三日午後四時」、「〔東京府〕小石川区原町十三番地 大越文五郎」は、「〔東京〕府下竹橋内 近衛歩兵第一聯隊第一中隊第三班 澤田俊郎殿」宛て既述の手紙をしたため、同午「后8-9」時、「九段」局に「投函」した。
 「郵便ニ而す もて□ん〔二月〕一日ニハ〔俊郎が文五郎宅に〕来り呉田
くれたナルモ□子□ころ面会を□得様急□□□本日養太郎兄より金二円小□てして来り候而 本便ニ□呉□□出し而来ん 〔二月〕八日ハ日曜日ニ□□□□来んニ□□□□□来り□□□次ニ鶴巣お姉ゆゑより切り餅及生栗□□来り候ニ付 本便□□□□□□□□出し而 右品□□□□□□ニ付都合□□□来り□□□叶追□通□□ 余ハ面会の上とす 謹曰
  二月三日午後四時
                                  文五郎
    俊郎殿                              」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 当時近衛兵は、家柄・血筋が重視される狭き門で、 「全国の壮丁中から優秀な者を選んで近衛に入営させることになっ〔てい〕た。(中略)星の周囲を桜の枝で囲んだ近衛師団独特の帽章は天皇親衛軍の誇りを示しつづけ〔てい〕た。」『世界大百科事典』)
 それゆえ軍律もきびしく、金品の類はいったん「小石川区原町13番地」なる祖父文五郎の許へと送り、文五郎がそれを持参して、竹橋の近衛歩兵連隊に「面会」に赴いたものであろう。

全科共も成績甲にて優等の故
 同年「五月十二日」、2歳年少の甥金太郎は、叔父俊郎宛て次の書翰をしたためた。
 「昨日御書面下成被
なしくだされ有難拝見仕り候 我家叔父上様には益々御勇健にて大いに軍務に御熱心御勉強の事 私も今般に及び大いに嬉れしく 如何と申せば 昨日有難くも叔父上様等受持中隊長殿島瀧五郎殿より 在隊間ノ状況通知之有り 委細承知致し 其の標を次ぎに掲げん
  区分       自大正二[1913]年十二月一日
一般ノ成績   学科 甲。 教練 甲。 射撃 甲。 銃剣術 甲。 内務諸事熱心勉
        勵成績優等ナリ。 品行 正。
疾病      右足関節捻樫 練兵休二日
賞罰      ナシ
金銭使用高   消費平均月額四拾八銭  貯金ナシ  三月末日 調
外出先ノ状況  群衆并
ならびに悪しき所へ出入を見ず
中隊長ノ家族に 金銭ノ消費少ナキ方ナルモ尚一層ノ市□り□ル可き事油断無き□勵働き
対する希望   上ぐ注意
此上ノ成績ニ有之これあり候□ご承知被下成度就而
なしくだされたくついては事項の各欄に夫々ご記入ノ上
        御返却成され度候也
  大正参[1914]年
     近衛歩兵第一聯隊第一中隊長 島瀧五郎
    澤田金五郎殿
      家庭よりの通信
一、本人ヨリノ通信状況        家庭よりの通信へは 仙臺の〔金五郎〕祖父上
二、送金ノ請求状況           肴町の〔養太郎〕叔父上とのお談の上早速中
三、其ノ後に於ける一家の状況     隊長宛に返却の筈にて御座候
四、家族ヨリ中隊長に対する希望
  年 月 日            発信者
   近衛歩兵第一聯隊第一中隊長殿
右之通りの通知に之有り 全科共も成績甲にて優等の故誠に芽出度き事 家内一同の万悦に之有り 層一層の御勉強あらん事を 家の人も大いに安心 〔まつゑ〕祖母上始め力がつき一生懸命働き居り候
 次ぎ御紹介〔照会〕の装〔壮〕丁検査は去る十一日の身体検査に之有り 詳しく安藤勝右衛門君に依り大概問申し候 装丁者二十七名中合格者実に苦しきも僅かに二名 高橋運太郎君と津田信二君とのみ 何れも歩兵科との事にて之有り候 其他廿五名と申しるは 短尺五六名トラホーム患者等の故 実に装〔壮〕丁成績悪しき為郡醫殿より大いに良し可らずとの御話を頂戴致しとの事に候
 前の青毛馬も最早十一ヵ月にとお渡り候へ共 乳少しはりたるのみ成れば来月中旬迄には分娩致し可と思ひ居り 母馬去る四月下旬宮床に行き父馬懸け一回にて子着き候へば 父馬は本年縣廳より下りし四才にて体尺五寸以上もある馬にて 実に格の良き栗毛流星二本白に之有り候 一回にてつき候へば安心下さい 馬子も月毎身長延び四尺参寸相成り申し候 余は後便にて□々 敬具
                                   金太郎、
 五月十二日
 叔父上様                                  」(澤田本家六代当主力所蔵)
 後年の俊郎は、佐々重での経験から味噌にはうるさかったようであるが、この書翰によれば、金太郎らとともに畜産にも力をいれて、馬にもかなり通じていたようである。


満州雄飛
 1915(大正4)年、叔父文平が満州・旅順市長に就任した。
 翌1916 (大正5) 年、外祖父大越文五郎が亡くなった。
 おそらく1918(大正7)年末、俊郎は5年の兵役を終えて近衛連隊を除隊して、旅順市長・叔父大越文平を頼って単身勇躍渡満し、文平の斡旋で満鉄(南満州鉄道)に入社した。金五郎=まつゑ夫妻、養太郎、俊郎の澤田一家の記念写真は、おそらくこのとき撮影したものであろう。
 1920 (大正9) 年8月一時帰国し、叔父松吉の世話で、仙台亀岡寿徳寺の高僧徳温伊藤林太夫=みどり次女とき (1896~1981)と結婚し、新婦をともなって再び渡満した。この時ときは、一面識もない俊郎との縁談に、ただ「元近衛兵」という一事だけを信じて決心したという。
 これも澤田本家に残る既述の文平のポートレートは、同じ1920 (大正9) 年に長崎で撮影されている。この写真もあるいはそんな因縁のたまものかもしれず、旅順市長文平という有力な後援者を得て、俊郎の前途は洋々たるものであった。
 翌1921 (大正10) 年2月、父・澤田本家三代金五郎が68歳で亡くなった。
 同1921 (大正10) 年6月、「支那奉天省復懸田家驛附属地南満州鉄道社宅第四号に於いて」長男俊一が生まれた。俊郎夫妻は、三男一女をなした。
 翌1922(大正2)年1月、不幸にも叔父文平が急死した。
 同年5月13日、こんどは長男俊一が満1歳を待たずに夭折した。
 翌1923(大正12)年10月24日、長女とし子が生まれた。
 1925(大正14)年9月4日、次男・嗣子實が誕生した。
 翌1926(大正15)年、母まつゑが71歳でなくなった。


帰国/仙台(八幡町)澤田家の分籍自立
 やがて、こんどは俊郎自身が、勤務中に身の危険を省みず乗客を救助し、かえって自らの片足を失うという悲劇的な事故に見舞われた。
 事故後、俊郎は潔く満鉄を勇退して帰国し、仙台市八幡町 164番地に自立した。
 1931 (昭和6) 年11月1日、三男研
みがくをもうけた。
 1940(昭和15)年、兄笹川庄三郎(養太郎)が56歳で死去した。
 1945(昭和20)年、長女とし子が 金野家(瀬戸屋)に嫁いだ。
 1948(昭和23)年、嗣子實が八木百合子と結婚した。
 翌1949(昭和24)年、嫡孫多恵子が誕生した。
 1952(昭和27)年12月13日、甥・実家五代当主金太郎の嫡男力20歳の結婚式の翌日、澤田本家の前庭で撮影した記念写真に、幼い筆者6歳等と共に収まった。この時目にした、義足をつけた叔祖父俊郎のおもかげは、もの珍しさも手伝っていまだに忘れえない。
 1954(昭和29)年6月29日、俊郎は妻ときとともに、仙台市八幡町 164番地に澤田本家から正式に分籍・自立し、「仙台(八幡町)澤田家」を興してその祖となった。
 1956(昭和31)年、長姉ゆゑが81歳で没した。
 1958 (昭和33) 年12月8日、俊郎は65歳で亡くなった。
 俊郎の履歴は、彼の果敢・進取の気性を雄弁に物語っている。俊郎の甥にあたる私の父亥兵衛の談では、俊郎はスラリとした長身で、その風貌・性格はもっともよく大越家の特徴を受け継いでいた。
 俊郎の妻ときは長命で、1981(昭和56)年12月22日、86歳で亡くなった。


第二節 二代實(1925~)
仙台(八幡町)澤田家二代当主實
 仙台(八幡町)澤田家二代實
みのるは、1925(大正14)年9月4日、初代俊郎32歳=とき29歳の次男として、「南満州鉄道田家駅社宅第二号」で生まれた。仙台澤田家の当主であり、私の叔従父である。
 翌1926(大正15)年、祖母まつゑが71歳で亡くなった。
 實は父俊郎の跡を襲って近衛兵となり、戦後は (株)マツダオート宮城の役員を務めた。
 1945(昭和20)年、姉とし子が今野家(瀬戸屋)に嫁いだ。
 1948(昭和23)年、實は八木百合子と結婚した。
 翌1949(昭和24)年1月3日、長女多恵子が誕生した。多恵子はのちに吉岡家に嫁いだので、仙台澤田家正系は二代で絶える見通しとなった。
 1954(昭和29)年6月29日、父俊郎が澤田本家から正式に分籍・自立し、仙台澤田家を興した。
 1958 (昭和33) 年12月8日、父・初代俊郎が65歳で亡くなった。
 1963(昭和38)年7月18日~8月10日、当時高校生の私は、父にたのんで「瀬戸屋」でアルバイトをさせてもらい、7月21日~8月11日、当時広瀬川畔片平丁にあった實宅でお世話になった。
 1981(昭和56)年5月7日、別に一家をなしていた弟研が、母に先立って50歳で早世した。
 同年12月22日、母ときが86歳で亡くなった。
 1990(平成2)
年陽春、 黒川澤田分家初代亥兵衛三男諭・筆者が、父 の手になる覚書および談話を基に、数年前より亡妻信子と共に澤田一族及び関係者並びに諸文献を渉猟した末に、 本『澤田氏の来た道 黒川澤田氏家譜』初版(稿本)4部をを創り、それぞれ黒川澤田本家、同分家、澤田修家、同諭家に各1部ずつ寄贈し、”澤田氏の語り部”として我が澤田氏の歴史を子々孫々に伝えんとする事業の手始めとした。
 
2010(平成22)年3月26日、改題『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web初版を発行、掲上した。
 2013(平成25)年12月26日、『澤田氏の歴た道 黒川澤田家譜』Web改訂初版を発行、掲上した。


庶流
とし子 (1923~) /今野家(瀬戸屋)
 俊郎の長女とし子は、1923(大正12)年10月24日生まれた。私の叔従母である。
 1945(昭和20)年9月12日、仙台東一番丁瀬戸屋・今野家に嫁ぎ、二男をなした。私の再従兄弟にあたる。
 1963(昭和38)年7月18日~8月10日、既述のとおり、当時高校生の私は、父にたのんで瀬戸屋でアルバイトをさせてもらった。
 「金野善五郎 
こんの ぜんごろう  〈職〉(株)瀬戸屋 東洋商事(株) 各代表取締役社長 〈歴〉旧三菱重工業(株)名古屋製作所事務職 〈出〉石巻市 〈生〉大11[1922]. 2.20 〈学〉(旧)福島高商 〈住〉宮城県仙台市若林区卸町2-15-7 ?232-0135」(『河北年鑑』河北新報社)
 「(株)瀬戸屋/〒983 仙台市若林区卸町2-15-7 TEL022-232-0135 【目的】陶磁器硝子器、厨房機器卸、小売 【設立】昭和42[1967]年11月 【資本金】 1,000万円(100円)  【役員】 (代長) 金野善五郎 (専) 金野伸介 (締) 金野とし子 【株主】3名 金野善五郎 【従業員】63名 【得意先】藤崎、ダックシティ丸光、ダイエー、三越、中合、ジャスコ、イトーヨーカ堂、ニチイ  (決算) 63.6. 収入 2,035百万円 利益 1,001万円 配当率-」(『帝国銀行会社年鑑』帝国データバンク)


第三節 仙台(八幡町)澤田家庶家
澤田研家
初代研(1931~81)
 研は、1931 (昭和6) 年11月1日、仙台澤田家初代俊郎38歳=とき35歳の三男に生まれた。私の叔従父である。
 研は□□幸子
ゆきこと結婚して一男一女をもうけ、別に一家をなした。
 19□(昭和□)年□月□日、長女美紀誕生。私の再従妹である。
 19□(昭和□)年□月□日、長男豊が誕生した。同じく私の再従弟である。
 1981(昭和56)年5月7日、研は母ときに約半年先立って49歳で亡くなった。
 俊郎を祖とする仙台澤田家は、研家の系統が嫡流として存続することになる。




第五章 十三代金太郎(1895~1961)


第一節 若き澤田家家長
四代ゆゑ嫡男/第七學級々長ヲ命ズ
 澤田本家五代金太郎は、1895 (明治28) 年7月7日、四代辰五郎27歳=ゆゑ19歳の長男に生まれた。私の伯父である。
 半年後の同年12月、曾祖父・二代一馬が64歳で亡くなった。私の母しづかが言うには、後年金太郎の母ゆゑはこの大酒飲みの祖父と嫡男金太郎の行状を比較して、「金太郎はいづもニコニコすてで、とってもいいなあ………」と、つねづねその温厚ぶりをほめそやしていたという。
 1900(明治33)年、長弟金蔵が生まれた。
 翌1901(明治34)年いまだ学齢前の金太郎は、終生の良きライバルだった東の家(シガスヌイ)の中米長蔵ら1年年長の新入生にくっついて、当時珍しくなかった「お客様」として勝手に通学し始めた。おおらかなもので、今日でいういわゆる「飛び級」だが、その成績があまりに優秀だったので、翌1902(明治35)年そのまま小学2年生に進級、以降正式な同級生として公認され、順次進級・進学していった。
 同1902(明治35)年、長妹ちよとが誕生した。
 1905(明治38)年、次妹もりよが誕生した。
 「   高等第二學年
       澤田金太郎
  第七學級々長ヲ命ズ
  明治四十一[1908]年四月一日
    鶴巣尋常高等小學校   」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同1908 (明治41) 年5月、曾祖母まちが74歳で永眠した。
 同年10月、次弟金之助が誕生した。
 1911 (明治44) 年9月、祖父金五郎同様仙台に暮らしていた叔父養太郎が、笹川旅館の婿養子となった。
 同年10月、私の父・三弟亥兵衛が生まれた。ときに、金太郎はすでに16歳であった。


若き澤田家留守本宅家長
 当時澤田家は仙台に在った祖父・三代金五郎の代で、佐々重の繁忙期には叔父俊郎や金太郎さらには弟金蔵まで駆り出された。叔父養太郎は仙台・笹川旅館の養嗣子になっており、叔祖父松吉もまた仙台郵便局に職を得ていた。澤田氏の重心は仙台にあったのである。
 北目大崎の留守宅は父・養嗣子辰五郎=ゆゑ夫婦が守っていたが、辰五郎はひたすら松坂なる実家に通い、働きづめの毎日であった。
 1913(大正2)年、叔父俊郎が祖母まつゑとともに上京し、近衛連隊に入隊した。
 翌1914(大正3)年「五月十二日」、18歳の金太郎は、東京近衛連隊なる2歳年長の叔父俊郎宛てに、父辰五郎をさしおいてつぎの書翰をしたためた。
 「昨日御書面下成被
なしくだされ有難拝見仕り候 我家叔父上様には益々御勇健にて大いに軍務に御熱心御勉強の事 私も今般に及び大いに嬉れしく 如何と申せば 昨日有難くも叔父上様等受持中隊長殿島瀧五郎殿より 在隊間ノ状況通知之有り 委細承知致し 其の標を次ぎに掲げん
(中略)
 家庭よりの通信へは 仙臺の〔金五郎〕祖父上 肴町の〔養太郎〕叔父上とのお談の上 早速中隊長宛に返却の筈にて御座候
(中略)
右之通りの通知に之有り 全科共も成績甲にて優等の故誠に芽出度き事 家内一同の万悦に之有り 層一層の御勉強あらん事を 家の人も大いに安心 〔まつゑ〕祖母上始め力がつき一生懸命働き居り候
(中略)
 前の青毛馬も最早十一ヵ月にとお渡り候へ共 乳少しはりたるのみ成れば来月中旬迄には分娩致し可と思ひ居り 母馬去る四月下旬宮床に行き父馬懸け一回にて子着き候へば 父馬は本年縣廳より下りし四才にて体尺五寸以上もある馬にて 実に格の良き栗毛流星二本白に之有り候 一回にてつき候へば安心下さい 馬子も月毎身長延び四尺参寸相成り申し候 余は後便にて□々 敬具
                                   金太郎、
 五月十二日
 叔父上様                                  」(澤田本家六代当主力所蔵)
 「在隊間の状況通知」は当時健在の三代当主金五郎に宛てられており、その「家庭よりの通信」は、46歳の父辰五郎をさしおいて18歳の金太郎が、「仙臺の〔金五郎〕祖父上肴町の〔養太郎〕叔父上とのお談の上 早速中隊長宛に返却」した。すなわち、いまだ祖父・三代当主金五郎の在世当時から、すでに金太郎が、養嗣子の父四代辰五郎に代わって澤田家留守本宅の家政を采配し初めていたのである。

三男四女
 同1914(大正3)年11月、三妹てる子が生まれた。
 1916 (大正5) 年21歳の時、外曾祖父大越文五郎が死去した。
 翌1917(大正6)年11月17日、四妹すゑこが生まれたが、翌12月15日午後夭折した。
 翌1918(大正7)年末、叔父俊郎が近衛連隊を除隊し、満州に渡った。
 翌1919(大正8)年2月15日、長妹ちよとが宮床村・湯村家に嫁いだ。
 同月27日、金太郎24歳は大谷村山崎小沢慶之助=すいの三女つねよ20歳 (1899~1955) を娶った。つねよは、母ゆゑの従姉妹櫻井すゑのの夫小沢常雄の妹である。
 翌1920 (大正9) 年1月、末弟・四弟辰夫が生まれた。
 同年5月3日、25歳で長男一郎が誕生した。金太郎夫婦は三男四女をもうけた。
 翌1921 (大正10) 年2月、金太郎26歳の時、祖父金五郎が68歳で永眠して父辰五郎が形式的に澤田本家四代の家督を相続し、澤田家はいよいよ全面的に帰農することになった。
 同年3月、長男一郎が夭折した。
 翌1922(大正11)年1月、外叔祖父大越文平が死去した。
 同年2月21日、長女トシエが生まれた。
 1924(大正13)年、長弟金蔵が秋葉家の養嗣子となった。
 翌1925(大正14)年9月12日、次女ひとしが生まれた。

猪狩きくの所有ノ土地澤田金太郎ヘ賣渡ノ件ヲ許可ス
  父辰五郎に代わって早くから家政の采配を振るっていた金太郎は、着々と自家の所有地の拡大に努めていた。
 「(前略)右契約確実也仍而ヨッテ之ヲ相務契約ト為シ各自壱通ヲ所持スルモノ也
 大正拾五[1926]年壱月六日
           仙台市新小路十七番地
          賣主   猪狩菊野(印)
           黒川郡鶴巣北目大崎字別所四番地
               澤田金太郎
           仙台市肴町百拾七番地
        右代理人   笹川庄三郎〔養太郎〕(印)
             許可書
右猪狩きくのニ於テ其所有ノ本契約ノ土地澤田金太郎ヘ賣渡ノ件ヲ許可ス
              猪狩きくの夫
 大正拾五[1926]年壱月六日  猪狩又十郎(印)          」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同1926(大正15)年3月、次妹もりよが、七北田村野村・志賀家に嫁いだ。
 同年6月、祖母まつゑが70歳で大往生した。ときに、金太郎は30歳になっていた。


第二節 軍馬とともに
農林大臣表彰
 翌1927(昭和2)年12月24日、三女きよとが生まれた。
 翌1928(昭和3)年7月7日・金太郎の33歳の誕生日に、きよとが夭折した。法名「慈音善童女」。
 翌1929(昭和4)年9月17日、四女千代子が誕生した。
 この間金太郎は、時代の趨勢を読んで馬産に進出し、良馬の生産に勢力を注いでいた。その結果、1931(昭和6)年2月、農林大臣の表彰を受けた。
 「 奨勵金授與證
    宮城縣
     澤田金太郎
  右者所有ノ種馬
   牝 石花號
  優良ニシテ畜産改良ニ功績アリト認ム仍ヨッテ畜産奨勵規則第十一條ニ依リ奨勵金五拾圓ヲ授與ス
 昭和六[1931]年二月二十七日
    農林大臣從三位勲二等町田忠治(印)                         」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 同1931 (昭和6) 年11月3日父五代辰五郎が64歳で早世し、金太郎は36歳で正式に澤田家六代の家督を相続した。


北目大崎字三角田北四拾参番地「原っこ」
 翌1932 (昭和7) 年10月10日、37歳で次男・嗣子力が生まれた。
 1934(昭和9)年8月、金太郎は、のちに三弟亥兵衛の澤田分家の敷地となることになる「原っこ」の土地を購入した。
 「                賣渡證書
一金拾壱円五拾戔也
左記不動産前記之代金ヲ以テ貴殿ヘ賣渡シ該満金正ニ受領仕リ候儀確實也 然ル上ハ後日聊カ故障無之コレナク候 満壱該物件ニ對シ他ヨリ苦情等相生ジ候節ハ拙者ニ於テ全責任帯ヒ
 貴殿ヘ毫末ノ御迷惑御損害等相懸ケ申間敷マジク依テ爲後日ゴジツノタメ賣渡證書壱切如件クダンノゴトシ
昭和九[1934]年四月弐拾八日
  黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢五拾参番地
     賣主    中米猶三郎(印)
黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢参拾四番地
  澤田金太郎殿
     物件
黒川郡鶴巣村北目大崎字三角田北四拾参番地
一 畑弐畆九歩                                      」(黒川澤田本家六代力所蔵)
 中米猶三郎は東の家の長男・栄吾の息子で、栗原郡に婿養子に入った人のようである。因みに、栄吾は若くして家を出て大工になり(後に負傷して実家に戻ったが)、弟長蔵が家督を継いだ。その弟が十石原の徳三郎家であり、栄吾の長男で猶三郎の兄・美恵寿もまた独立して一家を興した事情である。
 同年8月、三弟金之助が仙台市北町通・山影家の養嗣子となった。
 同年10月、三妹てる子が東京・鈴木家に嫁いだ。

代代家督亥兵衛一家の同居
 ところで、金太郎の妻つねよは結婚後リュウマチが進行し、農作業の不可能な体となっていた。一時は母ゆゑから離縁の話も出たが、金太郎は「他人様の娘を、病気になったからといっていまさら戻すことなどできる道理でない。妻の分は自分が二人前働くから、このまま置くように」と母を説得し、文字通り「旦那殿」自ら先頭に立って二人前働いた。おかげで、弟妹や雇い人「手間取り」たちは、主に負けじと懸命に働かざるを得なかったという。
 そのうえさきには長男一郎を亡くし、嗣子となっていた次男力も当年わずか2歳であった。そこで金太郎は、16歳年少の三弟亥兵衛を「代代家督」とする方針に決した。
 翌1935(昭和10) 年1月16日、亥兵衛は鶴巣村北目大崎砂金沢・佐藤しづかと結婚し、そのまま澤田本家に同居した。
 翌1936(昭和11)年9月1日、亥兵衛の長男元が生まれた。
 1939 (昭和14) 年1月、亥兵衛の長女こゆきが誕生したが、生後8日で夭折した。
 同年4月13日、末子・三男勝彦が誕生した。長姉トシエより17歳、嫡兄力よりも7歳の年少であった。
 同年、金太郎は現在澤田本家の作業場になっている場所にあった母家を取り壊し、宮床村出身の閨秀歌人原阿佐緒(1888~1969、俳優・原保美の母)実家の蚕屋を買い取って台所などを付け足し、現在地の新たな母家とした。
 軍国主義の台頭とともに軍馬の需要はますます高まり、翌1940(昭和15)年4月、宮城県産馬組合大松沢区鶴巣世話役となり、1947(昭和22)年まで同職にあった。
 翌1941(昭和16)年3月亥兵衛の二男修が生まれ、12月8日太平洋戦争が始まった。
 1943(昭和18)年、三妹てる子が目黒家に再嫁した。
 1945(昭和20)年7月10日の仙台大空襲で、当時台原の自宅を消失した次弟金之助一家が、澤田本家に疎開した。その他にも疎開者があり、金太郎・亥兵衛一家同居の澤田本家は、大家族であふれんばかりであった。
 祖父・三代金五郎、父・四代辰五郎の代から営々として買い増してきた澤田本家の所有地は、五代金太郎の戦前に、水田約4町5反歩(内小作約1町5反歩)、畑約1町歩、山林数町歩の極大に達した。


第三節 鶴巣農協組合長
鶴巣農業協同組合組合長
 1946(昭和21)年、亥兵衛の三男・筆者諭が生まれた。
 翌1947(昭和22)年4月、金太郎は農業会専務理事に就任したが、まもなく同会は解散した。
 翌1948(昭和23)年、亥兵衛の次女しづゑが生まれた。
 同年、黒川郡東部畜産農協が発足し、理事に選ばれた。
 翌1949(昭和24)年、民生児童委員を兼職した。
 翌1950(昭和25)年、亥兵衛の三女こあきが生まれた。
 翌1951(昭和26)年、鶴巣農業協同組合理事を経て、同年組合長に就任し、1960(昭和35)年5月まで三期九年間その任にあった。その間、青年部・婦人部の育成、興農実行組合の組織強化をはかり、当時経営危機に陥っていた組合を再建するとともに、黒川郡農業協同組合長会会長も務めて、広く郡下に活躍した。
 翌1952(昭和27)年12月12日、金太郎の嫡男力20歳が下草の同期生高橋きよしと結婚式を挙行、翌13日澤田本家の前庭で記念写真を撮影し、幼い筆者6歳等澤田一族が一堂に収まった。
 翌1953 (昭和28) 年4月亥兵衛の四女こはるが生まれ、同年10月には嫡孫智
さかしが誕生した。

亥兵衛の分家/黒川澤田分家
 1955 (昭和30) 年2月27日、病弱の妻つねよが57歳で夫金太郎に先立った。法名「恒徳院密巌妙意大姉」。
 同年12月30日、金太郎は、大叔父松吉、叔父俊郎・長弟金蔵ら一族の間に反対の声の強かった、三弟亥兵衛の「代代家督」の約束を反故にし、嫡男力が23歳、亥兵衛の長男元が19歳になっていたのを機に、当時所有していた約3町歩の水田のうち約1町歩を割いて、既述の「原っこ」の地に家屋を新築して三弟亥兵衛を分家した。亥兵衛は家族8人で新居に移り住み、黒川澤田分家・「原っこの家」を興してその祖となった。
 翌1956 (昭和31) 年の奇しくも2月27日、二孫豊彦が生まれ、同日母ゆゑが81歳で大往生した。

宮城県知事表彰
 翌1957(昭和32)年、多年の功績により宮城県知事の表彰を受けた。
 「 表彰状
  黒川郡大和町
   澤田金太郎殿
 多年畜産振興に寄与した功績顕著であるここに記念品を贈り表彰する
 昭和三十二[1957]年十一月三日
  宮城県知事大沼康」(黒川澤田本家六代力所蔵)

第四節 澤田家中興の第二祖
鶴巣酪農協同組合組合長
 1960(昭和35)年5月鶴巣農協組合長を辞したのち、同年金太郎は鶴巣酪農協同組合を結成して組合長に就任した。この間大和町農業委員も兼務していた。
 なお、既述のごとく、某年澤田家の旧主家・猪狩家当主 (杢左衛門?) が幼小の嗣子(隆明?)を残して早世した際にも、旧家中の当主金太郎がその葬儀一切を取り仕切ったということである。
 私たち兄妹は、伯父金太郎を「オズンツァン(お祖父さん)」と呼び、父亥兵衛を「トッチャン(父ちゃん)」と呼んでいた。金太郎は、16歳年少の亥兵衛にとってはまさしく「親方(兄貴)」であり、その子である我々にとっても、早世した辰五郎に代わる「祖父」にふさわしい存在であった。
 同様に、我々は金太郎の妻・義伯母つねよを「ガッチャン(母ちゃん)」と呼び、母しづかを「カッチャン(母ちゃん)」と呼んでいた。金太郎夫妻の子どもたち、つまり我々の従姉弟たちが、その母親を「ガッチャン」と呼んでいたのに倣ったのだという。

澤田家中興の第二祖
 翌1961 (昭和35) 年6月28日午後7時25分、澤田本家五代金太郎は、うちつづく激務がたたり大和町吉岡・黒川病院で亡くなった。行年67歳、父辰五郎64歳に次ぐ早世だった。法名「明徳院光岩自全居士」。ときに嫡子力は29歳、嫡孫智8歳であった。
1961. 6.28 水曜日 晴れ
 ときに昭和三十六年、西暦壱千九百六拾壱年六月弐拾八日水曜日午後7時21分、偉大なる我伯父・澤田金太郎は死んだ。時に六十七才であった。
 思えば本当に偉大な伯父だった。長年、鶴巣農協の理事長をつとめてい、その実績は、永遠に残るであろう。しかし、彼も又永遠に返〔帰〕らぬ人となったのだ。(中略)
 思えば、伯父は偉人であった。前代の辰五郎のひどい貧乏を脱出したのも、伯父であった。ぼくの家を建てて下さったのも、伯父。本家の家を改良したのも、酪農を始めたのもみんな伯父のした事である。
 改めて、ここに、偉大なる澤田金太郎伯父に最高の敬意を表する。
 どうか、安らかにお眠り下さい。
 金太郎伯父永眠の報をを我家にもたらしたのは、力さんであった。その時は、もう飯も食い終り、新聞等を見ていた。父は勿論病院に泊っている。〔元〕兄も又、伯父死すの知らせを受けない内に、8:00ころ吉岡に向〔か〕っていった。ぼくは、報せを受けるとすぐ、本家にかけこんだ。一番最初だった。それから澤田正さんも来た。九時ころ、ハイヤーにのせられて、伯父のなきがらが倒〔到〕着した。〔遺体を抱いた〕父と、金蔵伯父、きぬい〔ゐ義〕伯母、千代子(従姉)も乗っていた。
 やがて、遺体は車から下〔ろ〕され、奥座敷・伯父の居間へ運ばれた。
 フトンをしいて、線番〔香〕をあげ、目折〔黙祷〕をささげた。
 義姉が北目で静養していたが、今晩帰った。母、父、〔元〕兄、私は本家に行き、義姉、しづゑ、こあき、こはるは家に残った。
(中略)
1961. 6.30 金曜日 小雨
 今日は、金太郎伯父の埋葬式があった。ぼくも式に参加すればそれに越した事はなかったのだろうが、ぼくは、学校で授業、補習を受けてクラブ活動もして来た。返〔却〕ってその方が、一生懸命勉強した方が、伯父は喜んで来〔く〕れると思う。
 クラブ活動を早めに切り上げて、帰宅。修兄が、伯父の葬儀に参加しに来ていた。午前中来たのだそうだ。こはるとこあきは、午前中に式に参列して、法事をごちそうになったので、ぼくとしづゑ、修兄が本家によばれて行った。(中略)
 やがて、父と母、兄と共に帰った。ぼくら兄弟が親についで並んで帰ろうとしたら、みんなが、「好ましい事。静香〔しづか〕さんや、亥兵衛さんは、幸福ですねえ」といった。外の人からみれば、ぼくらは頼もしく見えるらしい。」(筆者「日記」より)
 金太郎は、その67年の生涯のなかで曾祖父母一馬・まちから嫡孫智に至る六代の一族と生を共にし、澤田家の歴史に大きな足跡を残した。そのひととなりは、謹厳実直、郷土では「澤金
さわきん」の略称で通用した。私は小・中学校時代に「澤金」とあだ名され、伯父「澤金」の二世と目されていた。このことを、私はいまでも名誉なことだと思っている。
 金太郎は、その一字を譲り渡した祖父四代金五郎に次いで、まさしく「澤田家中興の第二祖」と呼ぶにふさわしい存在であった。

第五節 庶流
金蔵(1900~1990)/秋葉家
 辰五郎の次男金蔵は、1900(明治33)年3月3日生まれた。私の伯父である。
 祖父・三代金五郎の在世当時は、金蔵もまた兄金太郎とともに、佐々重の助っ人に駆り出されたという。
 金蔵は、叔父俊郎同様にその血筋を見込まれて、富谷村の醸造業・内ヶ崎家 (砂糖屋)の婿養子に請われたがこれを断り、叔祖父松吉・叔従父榮松の縁で仙台鉄道船舶郵便局(現仙台鉄道郵便局)に勤務し、榮松の同僚となった。
 1924(大正13)年2月15日、仙台市半子町3番地秋葉つる四女みよしと婚姻・養子縁組届出し、同家を継いだ。金蔵夫妻は、長男茂を頭に五男三女をもうけた。私の従兄弟姉妹たちである。
 1990(平成2)年10月19日、金蔵は90才で死亡した。


ちよと(1902~1972)/湯村家
 辰五郎の長女ちよとは、1902(明治35)年9月25日に生まれた。私の伯母である。ちよとは、祖母まつゑを彷彿とさせる、ものごしの穏やかな女性であった。
 1919(大正8)年2月15日、16歳で宮床村兎野1番54番地湯村利雄と婚姻届出。湯村氏はもと伊達氏一門片倉氏の家中であったが、三代小十郎景長の娘まつが宮床伊達氏初代宗房の継室に入嫁した際その守り役として宮床に来たり、以来当地に定住して宮床伊達氏家中となった。
 湯村家は、澤田家三代一馬の妻まちの実家・八巻家とも姻戚関係にあった。
 幕末・明治のころの当主湯村与左衛門は男子がなく、その女子はるに落合村松坂・早坂三五郎を配して嗣子とした。三五郎はちよとの父方の従兄で、私の伯従父にあたる。その長男が利雄で、利夫は妻ちよとの従姪
じゅうてつ(従兄の子)にあたる。
 ちよと夫妻は四男二女をもうけた。私の従兄姉である。
 長男房雄は、若くして宮床農協組合長を務めた。
 1972(昭和47)年9月27日、ちよとは70歳で亡くなった。

もりよ(1905~)/志賀家
 辰五郎の次女もりよは、1905(明治38)年10月24日生まれた。私の伯母である。姉ちよととは対照的に、澤田家の女性としては珍しく豪放磊落な性格だった。
 1925(大正14)年3月27日、宮城郡七北田村野村字新平山3志賀寅太と婚姻届出。
 もりよは二男二女をなしたが、夫寅太に戦病死され、女手一つで四人の子供たちを育てゝ奮闘した。私の従兄姉にあたる。

金之助(1908~)/山影家
 辰五郎の三男金之助は、1908(明治41)年10月31日生まれた。私の伯父である。才気煥発・頭脳明晰で、弟亥兵衛と異なって自然奇行等も多かったので、しばしば祖父金五郎の折檻にあい、あるいは相川の叔母むめの宅等に預けられたりしたという。
 金之助は、仙台新小路の猪狩家に「ご年貢」を持参したことがあるという。
 やがて黒川農学校に進んだが、たまたま同校の郡立~県立移管に際し、長兄金太郎の指示で学業を断念し、家業をてつだった。当時は、いわゆる「兵隊検査(徴兵検査)」までは実家で働いて「恩を返し」、以後家を離れて自立する習慣であり、ひとり金之助のみならず、他の兄弟姉妹もまたみなその例に従ったのである。
 1929(昭和4)年、無事実家に「恩を返し」て家を出、兄金蔵の居た仙台鉄道船舶郵便局に勤務して、叔従父榮松ならびに三人同僚となった。
 1934(昭和9)年8月4日、仙台市北町通19番地秋山影かつみと入夫婚姻届出、同家を継ぎ、四男をもうけた。私の従兄たちである。
 1945(昭和20)年7月10日の仙台大空襲で、当時台原の自宅を消失し、姑□□□・妻かつみ・長男恭久・次男二郎・三男孝三を澤田本家に、四男友明は姉ちよと宅に疎開させたが、姑と妻は当地で病死し、宮田旧墓地で荼毘に付された。
 19□(昭和□)年□月□日、□□□・□□ふさよと再婚した。
 1959(昭和34)年山形県村山郵便局に転勤、以後福島県白河郵便局、宮城県古川郵便局、仙台鉄道郵便局を経て、1967(昭和42)年定年退官した。

てる子(1914~1966)/目黒家/仙台高等技芸学校長
 辰五郎の三女てる子は、1914(大正3)年11月6日に生まれた。私の叔母である。
 6歳年少の弟辰夫は、幼くして脳膜炎を患い知能が遅れていた。てる子はこの薄幸の弟をたいへん不憫がり、毎日辰夫を連れて通学し献身的に世話したので、卒業に際してその善行を表彰されたという。
 1934(昭和9)年10月25日、粕川村石原常在家3番地出身の、東京なる傷痍軍人鈴木勝雄と婚姻届出、上京して夫婦で軍人会関係の事務所で働いた。このときてる子は妊娠していたので、母ゆゑがその世話のため上京した。無事長女登喜子(私の従姉)を出産したが、不幸にも夫勝雄が亡くなり、ゆゑはしばらく在京することになった。この間の同年旧12月、故郷では私の父・四兄亥兵衛が結婚した。
 てる子は再び上京して、東京・恵比寿の東京高等技芸学校(現東京アナウンス声優アカデミー、私の現住所の至近)に学び、やがて仙台で洋裁学校を主宰した。
 1942(昭和17)年7月27日、仙台市南鍛冶町 130番地より澤田本家に復籍し、翌1943(昭和18)年1月24日、伊具郡西根村大字毛萱野字南戸内 110番地・陸軍下士官目黒喜一と婚姻を届け出、さらに紘一・寿美子の一男一女をなした。私の従兄妹である。
 のち、てる子は学校法人目黒学園「仙台高等技芸学校」を創立し、その校長となった。郡下大郷分校をはじめ県内各郡にも分校を開設するなどめざましい業績をあげ、澤田一族や郷党の婦女子の多くもそこに学ぶとともに、教壇に立った。しかし、不運にも詐欺事件に遭遇して一切を失い、以後不遇の一生をおくった。
 1966 (昭和41) 年6月18日、てる子は、癌で51歳の短い生涯を閉じた。

辰夫(1920~1974)
 辰五郎の五男辰夫は、1920(大正9)年1月31日生まれた。私の叔父である。既述のごとく、母ゆゑは妊娠中人為的に流産を試みて失敗し、その結果幼くして脳膜炎を患うことになり、知能にも障害を生じた。
 辰夫は実家に寄偶し、しばしば親族一同の居所を遍歴して浪々の日々をおくった。
 1974 (昭和49) 年2月13日、辰夫はその薄幸の生涯を閉じた。行年54才。法名「法相明宗居士」。



(続く)


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