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| 信子挽歌 |
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| 澤田信子(1948.11.7〜1994.3.13,法名妙純教信大姉)年譜 | ||||
氏 名 澤田信子(旧姓工藤) 出 生 一九四八(昭和二三)年十一月七日 新潟県新潟市で出生 死 亡 一九九四(平成 六)年三月十三日 東京都新宿区で永眠 行年四十七歳 一九四八(昭和二三)年十一月 七日 工藤國男=米子の第二子・次女として新潟県新潟市川端町に出生 一九五五(昭和三〇)年三月 雙葉幼稚園卒園 一九六一(昭和三六)年三月 新潟大学教育学部附属新潟小学校卒業 一九六四(昭和三九)年三月 新潟大学教育学部附属新潟中学校卒業 一九六四(昭和三九)年四月 新潟県立新潟高等学校入学 一九六七(昭和四二)年三月 同校卒業 一九六七(昭和四二)年四月 明治学院大学文学部フランス文学科入学 一九七三(昭和四八)年三月 同学同学部卒業 一九七三(昭和四八)年四月 株式会社ビクトリー出版に入社し後の夫と邂逅 一九七四(昭和四九)年十月 同社退社 一九七四(昭和四九)年十一月二日 宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎澤田亥兵衛=しづか第四子・三男諭と結婚 一九九一(平成 三)年十一月 夫とともにワープロ入力業「サワダデザインマネジメント」開業 一九九四(平成 六)年三月十三日午後四時二十八分 東京信濃町慶応病院にて急逝 十五日午前十時半 同病院霊安室にて密葬 同日正午 東京幡ヶ谷・代々幡葬儀場にて荼毘に付す 四月十日午後一時半 夫の実家宮城県黒川郡大和町にて本葬 同日午後二時半 澤田家菩提寺臨済宗玉泉寺にて告別式 同日午後三時 同寺域「澤田家之墓」に葬る 法名 妙純教信大姉 行年四十七歳(満四十五歳) 一九九五(平成 七)年五月十四日午前十一時 新潟実家に分骨 故人は、団塊の世代の頂点期に工藤家三人姉弟の第二子・次女として、信濃川河口・新潟市川端町に生を享けた。一家の深い愛情と大きな期待に育まれてなに不自由ない幼・少女時代をおくり、天賦の才にまかせて地元の名門コースを高校までストレートに進学、東京の大学に遊学してフランス文学を専攻し、フランス文学・語学の研究に専心した。 大学卒業後東京銀座の出版社に勤務し、二十六歳で同僚澤田 諭と結婚、以後夫の無双の理解者・最良の伴侶として、ともに支え合いいたわり合って、貧しいながらも、故人の『ゆいごん』どおり「さとしさんのおかげでしあわせ」な、四十五年の短い人生を享受した。 性格は文字どおり天真爛漫にして天衣無縫というべく、満四十五歳の今日にいたるまで自身を「ノブ」「ノンチャン」と呼称していたほどで、早くも地上にあるうちからすでに半ばは天上界にあったかのごとき、まったく純真この上ない、真に天使のごとき女性であった。しぜん生活感覚はやゝ希薄に流れるきらいともなり、諸事に緩慢・不器用ではあったが、その挙措は独特のやさしさと繊細・優雅さが満ちあふれ、たぐい稀な個性を具現した。 不断に何事にも本人なりに真剣にとり組み、真摯な日常の足跡を遺したが、特に澤田一族の福祉には心を致し、その献身的な尽力と偉大な功績は深い感銘と大きな印象を遺した。 日ごろ、かたときもフランス語・文学の勉学・研究を欠かさず、たわむれに「センタマ(先生の卵)」と自称して、いつの日か「フランス語教師」になることを生涯の夢としていた。早過ぎた死はその悲願の現世での実現を阻んだが、来世ではかならずや積年の夢を成就し、至福に満ち満ちた至高の時を過ごしていることであろう。 「信濃川」のほとりに生まれて「信子」と名付けられ、生前「雨の信州」の風光をこよなく愛した希有な一現象は、奇しくも東京は「信濃町」で、その可憐な短い生涯を閉じた。 佳人薄命。衷心より、故人の安らかな眠りと永遠の平安を祈る。 合掌 夫 澤田 諭 記す。 |
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