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「石川氏は人皇五十六代清和天皇第六皇子、貞純親王の御子、経基王の長子、源満仲を以って遠祖となす。」(『修訂版石川氏一千年史』)
清和天皇(858〜879)
「文徳天皇の第六皇子、母は藤原良房の女皇太后明子。名は惟仁これひと。世に水尾みのお天皇とも称す。嘉祥三[858]年三月誕生、十一月」(『日本歴史大辞典』)「生後わずか9ヵ月で父文徳天皇の皇太子となったが、」(『世界大百科事典』平凡社)「これは文徳天皇が、寵愛する惟喬これたか親王(紀名虎の女所生)の立太子を、藤原氏をはばかって断念したためであった。八五八(天安二)年十一月」(『日本歴史大辞典』)「文徳天皇の急死によって、未成年の9歳で即位する異例を開いた。この異例の背後には外祖父〔藤原〕良房の巨大な存在があり、良房は太政大臣として幼帝の大政を摂行した。いわゆる人臣摂政のはじめである。しかし、文徳朝には長兄惟喬親王を擁立しようとする紀氏らの動きがあり、清和朝の866年(貞観8)には〈応天門の変〉が起こるなど、政争がくり返された。清和天皇は病弱で政治をいとい、」(『世界大百科事典』)「八七六(貞観一八)年十一月、在位十九年」(『日本歴史大辞典』)「27歳で9歳の皇子陽成天皇に譲位して仏門に入り、畿内の諸寺院を巡拝するなど信仰は熱列をきわめた。ついに丹波国の水尾山寺に入ろうとしたが、果たさず」(『世界大百科事典』)、「八七九(元慶三)年五月落飾、法諱を素真という。翌[880]年十二月、粟田山荘円覚寺で没した。遺詔により山陵を造らず、遺骨を水尾山上に収めた。」(『日本歴史大辞典』)「その皇后は《伊勢物語》に〈二条の后〉と呼ばれる藤原高子。」(『世界大百科事典』)
貞純親王( 8??〜 916)
「清和天皇の第六皇子貞純親王は、中務大輔兼神祇伯の棟貞王の娘を母として生まれた。(中略)臣籍に降下せずに親王にあげられたのは、母が王氏の末だったということによるものだろう。(中略)貞純親王は、生涯に上総大守、常陸大守などの国司を歴任しているが。現地には赴任しなかった。いわゆる遙任国司である。上総・下総はともに“親王任国”で、ここの国司に任命された親王には実務はなく、俸禄だけが支給されるのである。また、中務卿・兵部卿などの京官にも補任されたが、これも“無品”の親王に年給のみを得させるために設定された“親王任官”だったから、これにも実務はなかった。中務卿に任じられたとき、官位相当に従って正四位下に叙せられている。晩年には“無品”から“四品”に昇格している。親王の位階は一品から四品までしかなかったから、昇叙されても最低の位階だったわけである。官位、位階などのほか、格別な逸話や所伝も残っていないことからみると、きわめて平凡な生涯を送った平凡な人物だったと考えられる。延喜十六年(九一六)五月七日、四十四歳で薨じたのは、父清和院と同じ円覚寺においてだったという。(『清和源氏の全家系』)
清和源氏経基王( 893〜 961)
清和源氏は、「九六一(応和元)年、清和天皇の皇子貞純親王の子で、六孫王といわれた経基が源姓を与えられたのに始まる。これについては、かつて星野恒が、源頼信の告文からこの家が実は陽成天皇からでたものであると論じたが、一般には承認されなかったようである。」(『日本歴史大辞典』)「経基王の妃は源能有卿の女にして、能有卿弓馬の術に長じ王就て学ぶ所多し。王又和歌を良くし、文質彬々ひんぴん博覧多才、幼にして君子の徳あり。(中略)延喜七[ 907]年十月五日歳十五にして常寧殿に加冠し、正六位上、右馬之介に任ぜられ(中略)る。後武州の刺史〔国司〕となり」(『修訂版石川氏一千年史』)「平将門と争ったが、このとき彼は『未だ兵道に練れず』といわれた。経基はその後小野好古に従って」(『日本歴史大辞典』)「天慶四[941]年藤原純友の乱を平げて功あり。従五位下に叙し、七か国を領す。」(『修訂版石川氏一千年史』)「九六一(応和元)年、(中略)源姓を与えられ」(『日本歴史大辞典』)、「やがて太宰府権少弐・鎮守府将軍となったが、彼はなお武士としてよりは皇族出身の一貴族にすぎなかった。武士の棟梁として清和源氏の名をあげたのは彼の子満仲・満政・満季以後である。」(『日本歴史大辞典』)同 961年「薨ず。西八條池の側に葬る。六宮権現と称す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
源満仲( 912〜 997)
「経基王の長子にして、延喜十二[ 912]年四月十日西八條殿に生る。小字鶴丸王と称す。加冠して従五位下に叙せらる。父の器を承け、博学聡敏、威徳具つぶさに備はる。〔941年〕純友の乱に父を輔たすけて之を平げ、功を以て従四位下に叙し、摂津守に任ぜられる。封を受けて摂津国多田荘〔兵庫県川西市〕に移り、陸奥守・鎮守府将軍に任ぜられ、後、致仕して釈門に帰し、新発意しんぼちと号す。 多田院を建て之に居る。〔多田源氏〕」(『修訂版石川氏一千年史』)「満仲は摂津守として、同国多田荘〔兵庫県川西市〕に拠り、強力な武士団の棟梁とな
った。満仲はその武力を背景に、巧妙な政治的陰謀によって摂関家との結合に成功し、清和源氏興隆の基礎を開いた。満仲は摂津守の任後も多田に土着し、」(『日本歴史大辞典』)「多田荘を経営して多田院を創立した。(中略)満仲は当時の有力な〈武勇の士〉とされていたが、彼には頼光・頼親・頼信以下数名の子があり、また弟に満政がいたが、いずれも武勇の名が高かった。満仲の嫡流をついだのが頼光であり、この系統を摂津源氏といい、やがてその一流の多田源氏がこの武的系統を代表するに至」(『世界大百科事典』)り、「源頼政はこの系統から出」(『日本歴史大辞典』)た。しかし、「頼光の嫡系はむしろ京都に定着して中流貴族(受領ずりょう階層)の道をすすんだ。なお摂津源氏の系統(頼光流および満政流)から美濃源氏が生まれ、またとくに満政流からは尾張源氏、さらに三河源氏がでている。満仲の第2子頼親は大和国に本拠を置き大和源氏の祖となり,第3子頼信は河内国石川・古市地方を本拠地として、河内源氏の祖となる。こうして各地に清和源氏の一族が繁衍はんえんして、恒武平氏とならび称される有力武家の一族となったが、後世とくに〈武人の家〉として名を成し、また初めて武家の政権を樹立するに至るのは、河内源氏の系統の一族である。なお源満仲は969年(安和2)の安和の変において藤原氏のために暗躍して左大臣源高明たかあきらを失脚させたことがあり、以後頼光・頼信らも藤原摂関家に臣従してその爪牙そうがとなり、深い結びつきを続けたことも見逃せない。」(『世界大百科事典』)「長徳三[ 997]年八月二十七日薨ず。歳八十六。天山満慶と謚おくりなす。(中略)満仲公十子あり。長子頼光(中略)世子たり。次子頼親母は左京大夫藤原致忠朝臣の女、康保三[ 966]年九月十三日生る。小字普源丸石川氏の祖也。三子頼信」(『修訂版石川氏一千年史』)。
清和源氏嫡流
「かくして源氏は、たとえば頼光が藤原兼家・道長らに盛んに贈物して世人を驚かしたように、最初摂関家と結んでもっぱら家門の繁栄を図った。しかも、彼らのもつ武士団の棟梁としての性格は、その後関東・奥羽の兵乱鎮定にあたり大いに発揮され、武士階級として大きく成長していった。」(『日本歴史大辞典』)「頼信は1028年(長元1)に始まった平忠常の乱に際し、甲斐守としてその追伐を命ぜられ、ほとんど戦わずに忠常を降伏させ、一躍その武名を関東に高めた。」(『世界大百科事典』)「この基礎の上に頼信の子頼義は威風は大いに行われ、『拒捍の類皆奴僕の如く』『会坂おふさか以東の弓馬の士、大半門客となる』ほどの勢いを示した。」(『日本歴史大辞典』)「やがて陸奥の安部頼時が51年(永承6)に叛乱を起こし、いわゆる前九年の役が勃発すると、頼義は陸奥守・鎮守府将軍に任じ、その嫡子義家とともに転戦し乱を鎮定した。ついで義家は83年(永保3)にはじまる後三年の役で再び奥羽の地に活躍し、その武名は〈天下第一武勇の士〉として大いに喧伝されるに至った。これらの戦役を通じて清和源氏は東国の武士との結びつきを強め、とくに関東地方には源氏と譜代の主従関係を作り上げた在地武士も多く、関東に源氏の地盤がきずかれることとなった。また義家はその武力を基盤にし、武門の棟梁としての地位をかためるとともに、緊密な摂関家との関係もあり、中央政界、貴族社会の間でも大いにその勢力を伸ばした。」(『世界大百科事典』)「地方の領主は競って義家に対する土地寄進を行い、〔1090年〕朝廷では寄進を禁止する宣旨を諸国に下したほどであった。かくして清和源氏の主流は武士の棟梁としての河内源氏の系統に移り、(中略)源氏の勢力は〔1086年〕白河院政開始とともにその政権の武力的基礎となった。」(『日本歴史大辞典』)
源平争乱
「白河院政初期における義家の名声と勢力はきわめて大きかったが、同時にそれまで武士をその下に臣従させ駆使していた貴族階級から嫌悪されることになった。院政政権はやがて源氏を異端者としてその発展を抑圧しようと策し、代って平氏を登用するにいたるのである。」(『日本歴史大辞典』)「上皇が権力を掌握するようになった義家の晩年には、彼の立場も微妙に変化して、その勢力にはかげりが見えはじめ、とくに義家の嫡子義親が叛乱を起こして追討され、また源氏一族の間に内紛が続き、京都政界における源氏の武威は失われ、武門の棟梁の地位は、平正盛以下の伊勢平氏にとってかわられた。義家の弟に義綱・義光があり、ともに武名をうたわれたが、とくに義綱は兄義家と競い合うほどの武勇の者であった。しかし義綱の系統は源氏内紛の中で消滅した。また義光の系統からは常陸源氏の佐竹氏や甲斐源氏(武田氏・安田氏・逸見氏等)が出ており、義家の子義国の系統から上野の新田氏、下野の足利氏が成立した。」(『世界大百科事典』)「一族の威勢は義家を頂点として急速に傾き、義親の子為義に至って陸奥守を望んで得られず、六三歳の歳まで受領にもならず検非違使にとどまり、わずかに為義の長子義朝が下野守として源家の体面を保っていたにすぎなかった。」(『日本歴史大辞典』)「1156年(保元1)の保元の乱で源氏一門は崇徳上皇方に立った為義(義親の嫡男)やその子為朝らと、後白河天皇方に加わった義朝(為義の長子)とが敵味方に別れて戦い、義朝は戦勝によってその政治的地位を高めたものの、一門のほとんどを失った。ついで59年(平治1)の平治の乱で義朝が敗死するに及んで、源氏一門はまったく凋落し、平氏一門の全盛をむかえた。」(『世界大百科事典』)
鎌倉開府
「源氏にかわって興った平氏は清盛によって六波羅政権を樹立するが、やがてこの政権の動揺に乗じて以仁もちひと王を奉じた源頼政が挙兵し、」(『日本歴史大辞典』)「平治の乱後に伊豆国に配流されていた義朝の嫡男頼朝は、80年(治承4)全国的に反平氏の気運の高まるのを見て、伊豆・相模をはじめ関東地方の在地武士たちを糾合して挙兵し、また木曾にあった源義仲をはじめ、甲斐源氏以下の諸国の源氏も反平氏の旗を挙げた。そして85年(文治1)に平氏を滅ぼした頼朝は相模国鎌倉に武家政権を樹立した。いわゆる鎌倉幕府の創始である。史上初の武家政権を成立させた頼朝はやがて征夷大将軍に任ぜられ、ここに武家の棟梁たる〈源家〉の地位を確立した。この頼朝の創業に功績をあげた彼の弟範頼・義経らはやがて頼朝に討滅されるが、この範頼の子孫は吉見氏となった。」(『世界大百科事典』)
武家の棟梁
「源氏の将軍は頼朝の死後頼家・実朝に至って正統が絶え、幕府の実権は出自を平氏にもつ執権北条氏に移った」(『日本歴史大辞典』)「が、鎌倉将軍が実現したことにより、それ以後は武家の棟梁としての清和源氏の名は不動のものとなった。鎌倉幕府の滅亡に際して、北条一門の打倒に功績をあげた足利尊氏(高氏)は、義国の子義康の系統から出たが、やがて建武新政府を否定して室町幕府を開き、再び武家政権を樹立した。彼はみずから清和源氏の嫡流をつぐものであり、また頼朝の後継者たることを主張して、将軍の地位につき、その地位は代々子孫が継承していった。また3代義満のときには、それまで村上源氏が世襲していた淳和じゅんな院、奨学院の別当の地位をも継承して世襲するに至るが、この時点で清和源氏の嫡流がすべての源氏の代表者たる地位にあるものと意識されたことを示している。武家の棟梁としての清和源氏の名が固定的なものとして意識されるようになった結果、武力を背景として政治権力を握ろうとする者の中には、みずから清和源氏の流れをくむと主張するものが多くなる。江戸幕府における徳川氏の場合、今日では必ずしもその信憑性が認められているとは言いがたいが、新田氏の一流である得川氏にその系譜をもつものとされているのである。」(『世界大百科事典』)
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大和守頼親朝臣(966〜1057)
ここで少しく時代をさかのぼるが、清和源氏の嫡流「頼信の次兄頼親も、なかなかの人物だったらしい。」(『清和源氏の全家系』)「公首服〔元服〕の後、従四位下に叙せられ、宮内丞に任ず。又檢非違使左衛門尉とな る。周防・淡路・信濃・大和の刺史たり。大和・摂津の諸邑を食む。〔摂津国〕豊島てしま郡十市府に住す。」(『修訂版石川氏一千年史』)「長兄頼光が死んだあと、“武将四天王”のうちの一人として世人から評価されたという。」(『清和源氏の全家系』)「時に永承元[1046]年、事を以って興福寺の僧と戦ふ。」(『修訂版石川氏一千年史』)「さきに強訴を行ったものの、頼親に阻まれて入京することができなかった興福寺の僧兵たちが、これに怨みを含んで大和守頼親とその次男前加賀守頼房の館を襲撃したのである。頼親・頼房父子は、もちろん武士である。当然、弓矢をもって応戦し、数人の僧兵を射殺したのである。僧兵は退却した。しかし、興福寺といえば藤原氏の氏寺である。その僧兵を射殺したというのだから、当然問題になった。」(『清和源氏の全家系』)「僧徒の訴ふる所となり、勅勘を蒙り、土佐の介と為し土佐に謫たくせらる。長子頼成・次子頼房与かる。頼成佐渡に、頼房淡路に配せらる。公土佐に在ること七年、勅免を得て京都に帰り、官位を復す。
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天喜五[1057]年六月二十八日豊島郡に卒す。歳八十六、雄徳院殿頼全玄翁大居士と謚す。大和国法隆寺に葬り、祠を多田院に建つ。(中略)公五男二女あり。長男頼成、(中略)永承元[1046]年父と共に興福寺の事に寄り、佐渡に謫せられて卒す。子孫あり一家を為す。次男頼房、母は盛光院。(中略)父、兄と共に興福寺の事に寄り、淡路国に謫せられて卒す。子孫別に一家を為す。」(『修訂版石川氏一千年史』)「承保三年(一〇七六)、肥前国に移されていた頼房は配所で死んだ。加賀守だったときの武勇により、荒加賀と称されたのがこの頼房である。しかし、この系統はなおも大和国に繁衍して、世に大和源氏と称されていくことになる。」(『清和源氏の全家系』)「三男頼遠、母は盛光院、石川氏の祖也。四男頼基、(中略)別に一家を為す。五男頼治、(中略)別に一家を為す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
大和源氏
「延久三[1071]年陸奥乱れる。源頼俊討て之を平ぐ。頼遠公の異母兄頼房の子也。〔頼遠と〕同じく来りて陸奥にあり。之を以て乱を平ぐ。」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼親・頼房父子が興福寺の僧兵とのあつれきで配流の憂き目を見たのだから、この系統には興福寺に対して怨みを含んでも当然の理由がある。にもかかわらず、頼房の嫡孫〔頼俊の嫡子〕頼風の系統には興福寺に入って僧となったものが圧倒的に多い。頼風自身はまだ僧ではない。それどころか、従五位下の陽明門院の判官代でありながら、『天下名誉の武勇』の猛者もさであった。頼風系で最初に僧になったのは、その嫡男頼安である。法華経の持者だったので、法華経太郎と号するまでになる。しかし、元来が武士である。あまりにも荒っぽかったせいか、『天下名誉の武勇の悪党』と呼ばれている。僧侶でありながら、頼安は三人の男子の父である。そして、その頼安の長男信実がまた物凄い。興福寺に入って法橋の上座にまで成り上がったものの、これも武士が本然の姿だったから、『日本一の悪僧武勇』と怖れられることになる。この信実の曾孫住蓮こそ、真の仏教徒だったかもしれない。浄土宗の開祖法然上人に弟子入りして、安楽とともに法然の二代弟子と称されたほどの高僧になったのである。専修念仏の弘通ぐつうに努力したので、ついに後鳥羽上皇の小御所の女官二人が出家したのがいけなかった。たちまち後鳥羽院の逆鱗に触れ、承元元年(一二〇七)二月、近江国馬淵荘(近江八幡市馬淵町)で斬首されたのである。日本仏教史でいう“承元の法難”がこれである。
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頼風の弟頼治も、興福寺の僧兵が京都に強訴に入ろうとしているのを阻止して興福寺から訴えられ、嘉保二年(一〇九五)十月、配流の憂き目を見ている。配流された国は、『尊卑文脈』では土佐国あるいは佐渡国となっているが、『中右記』や『平家物語』で見ると佐渡国が正しいらしい。その子頼弘は摂津権守に任ぜられて国衙の在庁官人になり、摂津国豊島郡(豊能町)に本拠を移して豊島権守と名乗った。豊島氏の開祖である。親弘〔頼弘〕の子の代で、この系統は二流に分かれる。次男元弘の系統は、頼弘の跡を伝承して豊島源氏と称したのに対し、長男親治の系統は大和国宇野荘(五条市宇野町)に本拠を置いて、宇野源氏を名乗ることになったのである。
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頼風の三弟頼景は、陸奥国愛子あやし (仙台市広瀬町)に所領を持って、愛子六郎あるいは陸奥六郎と称した。しかし、本領は尾張国大野荘(常滑市大野)にあったらしい。鎌倉時代に入っても最初のうちは、尾張国はまだ近畿文化圏に近かったから、この系統は当初はまだ宮廷武家であり続けたようである。だから承久三年(一二二一)に後鳥羽上皇が鎌倉当討幕の挙兵をしたとき、頼景から三代目の大野判官代頼清、その子太郎頼重父子は京方に味方している。しかし、承久の乱では、京方は惨敗した。そのため、大野頼清は鎌倉幕府に尾張大野荘など数カ所を没収されている。以降、この系統は山中である大和国吉野郡旭(十津川村旭)に屏息して、朝日姓を称することになる。一見華やかに見える朝日姓は、その実、屏息状況の苗字だったのである。
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「中世の石川荘を支配したのは、多田源氏満仲の子孫と称する石川氏である。」(『角川日本地名大辞典』)。
石川福原三郎頼遠(1007〜1062)
清和源氏満仲の次男頼親の三男頼遠は、「母堂盛光院、寛弘四[1007]丁未年三月二十八日、大和国宇田郡に於て生る。小字千勝丸・弥三郎と称す。(中略)従五位下に叙せられ、伊勢守に任ず。河内国石川郡〔大阪府南河内郡〕、並に摂津国福原〔神戸市兵庫区福原町〕・小柳津やないづ〔兵庫県川辺郡猪名川町〕の諸邑を食み、石川荘に住す。公独り興福寺の事に与らず。」(『修訂版石川氏一千年史』)「頼遠は、早くから福原三郎と号している。摂津国福原荘を本領としていたからである。福原荘は現在の神戸市兵庫区福原町。瀬戸内海に面し、現在の神戸港を風波から守る和田岬をすぐ南側に控えた交通上の要地で」(『清和源氏の全家系』)、のちに平氏が一時都した地である。「永承六[1051]年陸奥の豪族安部頼良反す。朝議、源頼義に命じて之を伐たしむ。〔頼遠〕公、〔従兄弟〕頼義を輔け、永承七[1052]年陸奥に至り、数々しばしば賊と戦ひ、具ともに労苦を尽くし、万死の中に出入して未だ平ぐる能はず。出羽の酋清原武則の援を得、康平五[1062]年厨川柵を攻め、貞任以下誅に伏す。公矢石を侵して戦ひ、遂に戦歿す。長子有光公軍にあり、父公を輔け、乃ち代て軍を統ぶ。(中略)
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頼遠公父子、頼義将軍に随従して陸奥に在ること十一年、櫛風しっぷう沐雨具さに艱難を嘗め、激戦数十、万死を冒し功なるに垂なんなんとして頼遠公厨川に戦歿す。有光公代て軍を指揮し安部一族誅に伏して、陸奥の山河亦王沢に潤ふ。乃ち乃父だいふの功を全うするを得たり。康平六[1063]年春三月、頼義将軍降虜を率ひ、京師に帰る。〔有光〕公又随て入朝す。是より先、人を遣し、貞任以下の首を齎し闕下けっかに献ず。詔して頼義将軍を正四位下に叙し、伊予守に任じ、義家出羽守に任ぜられ、(中略)清原武則鎮守府将軍に任じ、有光公従五位下安芸守に任ぜらる。将軍更に公の功を奏し、奥州山道の地を公に与へ、以て陸奥を監視せんことを請ふ。朝議之を許す。此に於て有光公、一族師弟を率ひ、白河の地に来り住す。時に康平六[1063]年冬十月也。有光公白河に至り、先年頼義将軍藤田に次やどし、八幡神を陣中に勧請して戦勝を祈り、遂に賊を平定したるを以て、其地を吉とし、此に居を卜す。先君の遺骨を葬り以て菩提を弔ひ、一宇の道場を建つ。先君を法謚ほうしして岩峯寺殿仁勇健徳と云ひ、寺を岩峯寺と称す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
岩峯寺は「石川郡玉川村大字岩法寺にあり、山号を大貫山、臨済宗建長寺派の古刹である。承保年中〔1074〜76〕開基の寺伝があるが、本格的な開山は、鎌倉末期の正和五[1316]年と見られている。付近には石造五輪塔としては古式に属する、治承五[1181]年の紀年銘を有する五輪塔があり、石川氏ゆかりのものとして、国の重要文化財に指定されている。長泉寺創建以前の石川氏の菩提寺である。」(『修訂版石川氏一千年史』注)
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「頼遠公五〔六〕男一女あり。長子仲重、(中略)先生せんじょう大夫に任ぜられ、京師に止まり別に一家を為す。次子有光公、母堂正夫人園正院の出なり。立て世子となる。三男家弘母堂有光公と同じ。(中略)上野国に邑を食む。五男有宣、(中略)紀伊国に邑を食む。六男有遠、(中略)出羽国に邑を食む。」(『修訂版石川氏一千年史』)
河内国石川郡石川荘
「石川〈河南町〉
石河とも書いた。葛城山西北麓、石川の右岸に位置する。地内を梅川が貫流する。地名は川名にちなむか。〔古代〕石川 奈良期から見える地名。河内国石川郡のうち。(中略)現在の河南町の東山・一須賀・大ヶ塚から富田林とんだばやし市・河内長野市・千早赤阪村にかけての石川流域の一体と推定される。
〔中世〕石河郷 郷名。平安期〜戦国期に見える郷名。石川郡のうち。(中略)石川郡と同じ意味で使われていると思われる。(中略)
〔中世〕石川荘 平安期〜戦国期に見える荘園名。石川郡のうち。(中略)当地は河内石川源氏の本拠地である。(中略)
〔近代〕石川村 明治22年から昭和31年の自治体名。はじめ石川郡。明治29年からは南河内郡に所属。大ヶ塚・山城・東山・一須賀の4か村が合併して成立。(中略)郡内でも平地に恵まれていた。(中略)昭和31年河南町の一部となり、村制時の4大字は同町の大字に継承。」(『角川日本地名大辞典』)
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「石川郡
古代〜近代の郡名。河内国に属す。『和名抄』の訓は『以之加波』。大阪府の東南端に位置する。(中略)郡東部の金剛山地と西部の羽曳野丘陵との間を石川が堆積平野を形成しつつ北流する。東部山地からは梅川・東条川・佐備川が北西に流れて石川に注ぐ。郡名の由来は、同川の流れによる。(中略)
〔古代〕(中略)石川に沿って東高野街道が南北に通じ、郡北部には難波と飛鳥とを結ぶ竹之内街道が横断。竹之内街道沿いの山あいの地は王陵の谷と呼ばれ、聖徳太子墓・敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・小野妹子墓など、飛鳥期から奈良期にかけての陵墓が数多く存在し、古代文化の中心地のひとつであった。(中略)
〔中世〕(中略)石川荘は石川源氏の本拠で、在地領主制を展開していた。八幡太郎義家の子義時がはじめて石川を称し、平安末期に同荘は高倉天皇の後宮七条院に寄進された。」(『角川日本地名大辞典』)
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「石川
大和川の支流。指定流路延長30.7Km、流域面積約 220?。金剛山地の西麓を北流する府南部の主流。和泉山脈東部の岩涌山・三国山・蔵王峠付近を源流域とし、ほぼ北東に流れ、河内長野市の市街地南方で天見川を合わせ、富田林市に入って佐備川・千早川を合して北流し、羽曳野市で梅川・飛鳥川を合わせたのち、藤井寺市・柏原市の境で大和川左岸に合流する。(中略)羽曳野丘陵と金剛山地に挟まれた石川の中下流域一帯は石川谷と呼ばれ、古代から開けていた。(中略)大和川との合流点付近は、応神陵をはじめ全国的に有数の大規模古墳の集中する古市古墳群があり、右岸の玉手山丘陵にも多くの古墳がみられる。石川谷は、大阪東南部の南北交通路をなし、近世には石川を利用して舟運が発達し、大和川を経て大阪と結ぶ剣先船が富田林の喜志まで通っていた。」(『角川日本地名大辞典』)
石川冠者源太有光(1037〜1086)
「母堂圓〔園〕正院、長暦元[1037]年正月十二日、摂津物津の荘に生る。小字松千代と称す。首服の後、河内右馬之允師任と改め、後、源太有光と称す。物津冠者と号す。移て柳津やないづ〔兵庫県川辺郡猪名川町〕に居る。柳津冠者と称す。永承六[1051]年大人に従て奥州に下向す。時に年十五、国府〔多賀城〕にあり。天喜四[1056]年十九歳にして安部頼時の軍と戦ひ、難戦苦闘数々、死を決して戦ひ、二十五歳乃父〔頼遠〕厨川に戦死す。公代て其軍を指揮し、〔安部〕貞任誅に伏す。功を以て従五位下安芸守に任ず。奥州仙道の地を賜り来り住す。
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公擇ぶ所の藤田に城きずく。水に乏しきを以て更に地を捜す。未だ得ず。日夜之を思ひ八幡神霊に祈る。蘆三根を生じたる地に清水の湧出するを夢む。醒めて之を奇とし、翌日出でて之を求む。高立に登て眺臨す。一鶴あり稚松わかまつを嘴くはへて天に舞ひ、松を墜して去る。訝いぶかりて行て其処に至れば、地上三蘆あり。依て試に地を穿うがてば、清水湛々として湧出す。公大に喜び此地に築く。城成る。本丸竪五十間、横百八十間二の丸之に協したがふ。高さ百二十尺、城麓、川あり。北より東に流れ、更に西して北に流る。恰あたかも城を繞めぐり、要害自然に成る。形勢雄偉、三蘆みよし城と称す。公、八幡神を尊崇すること益々篤く、頼義将軍建る所の八幡神を城中に移して氏神と為し〔川辺八幡宮〕、公の第九子有佑を以て、外祖父神祁職吉田兼親朝臣の義子と為し、吉田左衛門尉と改めて祭祀に任ぜしむ。八月十五日を以て祭日と定む。盖けだし将軍勧請の日に当るを以て也。公三蘆城に入り将士に第宅ていたくを賜ひ、市賈しこ〔町の商人〕に宅地を頒つ。鋭意治を図り、農民をして地を開拓せしむ。
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公、白河を割き旧郷石川の称を置く。自ら称して石川有光と云ふ。子孫是より石川を姓とす。飛鶴稚松を嘴へたる状を画き家紋とす。瑞夢に因する也。
延久三[1071]年陸奥乱れる。源頼俊討て之を平ぐ。〔父〕頼遠公の異母兄頼房の子也。同じく来りて陸奥にあり。之を以て乱を平ぐ。
永保二[1075]年頼義将軍卒す。詔して義家を陸奥守とし、鎮守府将軍を兼しむ。〔再従兄弟〕義家依て陸奥に来る。有光公出て之を迎え、国府に送る。
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公應徳三[1086]年十月二日、保原城に卒す。年五十一。城は藤田の館を称す。之より先、家を世子元〔基〕光公に譲り、此に老す。遂に此地に卒す。在光院殿諒山舜英大居士と謚す。岩峯寺先塋せんえい〔先祖の墓所〕に葬る。(中略)
公七男二女あり。
長男光佑〔光頼〕、母は妾(中略)。石川郡藤田の邑を与へられ一族に列す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
「藤田城は当〔石川〕町北西部の中野にあり、有光の長子光祐が居住した。その後、南須釜(現玉川村)に館を築いて移り、鴫山しぎやま藤田城または大寺城とも呼んだ」(『角川日本地名大辞典』)。
「次男光平、母は兄光佑と同じ、(中略)信州諏訪郡に於て邑を食む。」(『修訂版石川氏一千年史』)
「当〔石川〕町外槇とまきには有光の次男泉小二郎光平の子息光則が居住したという梁瀬の館跡がある。城址南麓の矢吹街道下側に巨大な五輪塔の一部分が残っている。」(『角川日本地名大辞典』)
三男元〔基〕光公、母堂正夫人蓮正院、立て世子たり。
四男光孚たね、母は元光公に同じ、(中略)矢吹に住す。一族に列す。(中略)
五男光房、(中略)奈目津の邑を与えられ、奈目津五郎と称す。一族に列す。(中略)
六男光度、(中略)赤坂の邑を与え、赤坂六郎と称す。一族に列す。
七男光助、(中略)信州依田を食む。(中略)
八男有佑、(中略)外祖父吉田兼親朝臣の義子となり、吉田左衛門尉と称し、石川氏神の神職たり。」(『修訂版石川氏一千年史』)
三芦城
三芦みよし「城の築かれた八幡山は標高320mほどの高台で、ふもとに北須川が流れている。南東部は断崖をなし、石段 249段の急斜面を登って本丸に達する。本丸跡の西側は石都々古和気いわつづこわけ神社(高田八幡神社)をまつっている。」(『角川日本地名大辞典』)
「三芦城跡
石川氏の祖、源有光が平安時代中期に築城したもので、25代昭光が豊臣秀吉に領地を没収されるまで、領主石川氏の居城であった。三方が急崖で西北を空ぼりで区切った山城である。本丸跡には石都々古和気(いわつつこわけ)神社があり、応永30年(1423)銘の銅製鍔口が納められている。これは城主の石川持光が寄進したもので、県重要文化財に指定されている。」(『白河・須賀川』歴史春秋社)
磐城国石川郡石川荘
石川「氏が入部したころの東北地方は、(中略)地方制度の激変が続いていた時代だった。奈良時代以来の郡や郷が再編されて姿を消し、それに変〔代〕わって新しい郡や荘園が、とくに福島県浜通り地方を中心に、続々と生まれはじめていたのである。陸奥の石川郡も、『和名抄』(『類聚倭名抄』)には見えておらず、白河郡の石川郷・藤田郷と呼ばれる地域だったらしい。それが石川氏の入部以後、開拓の進展とともにその名にちなんで石川郡がたてられ、さらにその地域のほぼ全域が、石川庄という荘園に塗りかえられていった。同庄は久我こが家領とされているが、立庄や寄進の経過などについては、全く知られていない。しかし、十二世紀前半の鳥羽上皇院政時代、地方制度の改変がもっとも激しくすすめられた時期に、この地域が白河郡→石川郡→石川庄という、もっとも典型的な展開をしたことは、疑いないと思われる。
石川氏がこの地に移住し、開拓を進めるに当たって、まず根拠地としたのは、石川郡玉川村の地域だったと思われる。それは前記した石川基光供養塔のある岩法寺が、この地にあることからも考えられるところである。」(『角田市史』)
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「石川〈石川町〉
石河とも書く。中通り中部、阿武隈川の支流北須川・今出川沿岸に位置する。」(『角川日本地名大辞典』)
「〔福島〕県南部、石川郡の中央よりやや南西部に位置する。(中略)福島市の南70Kmの地にある。阿武隈山地にあり、阿武隈川の支流社川が町の西部を貫流して須賀川盆地に流れ込む。中心市街地は社川の支流北須川と今出川の合流点付近の谷間に形成されている。(中略)地勢は西部の阿武隈川と社川に包まれた平坦地と社川東部の山間部に分かれる。標高は平坦地で 280m、山地で 400mくらいである。当〔石川〕町は国鉄水郡線の沿線に
あり、国道 118号・主要地方道いわき石川線(御斎所街道)・同白河石川線の集合点に当たり、当地方の中心地である。水郡線の開通により輸送が便利となり、製材・木工業も行われている。また町の北部にある母畑ダムの完成により、水田の基盤整備や畑の造成が進み、農業の近代化が図られている。一方、母畑・猫啼などの温泉地があり、石川山からは電気石・ざくろ石など珍しい鉱物が産出されている。」(『角川日本地名大辞典』)
石川澤井三郎基光〔元光〕(10??〜1099)/澤田郷・澤田館
「有光の三男基光が〔石川氏〕嫡流となり、その子孫が戦国末期まで約500年間石川の
地を領した。」(『角川日本地名大辞典』)
「小字喜代丸三郎と号す。後大炊介基光と改む。父有光保原城に老するや、公其後を承く。従四位下に叙せられ治部大夫に任ず。元光と改む。公乃父創業の後を継ぎ、民庶を憮し、領土の開発に努め、子弟を分封して家運の進展を計る。寛治元[1087]年十二月、鎮守府将軍源義家清原武衡を伐つ。公、兵衆を率ひ、義家将軍を輔け、金沢の柵を攻むること数月、遂に之を陥れ奥羽悉く平ぐ。(中略)
元〔基〕光公義家将軍を輔け清〔原〕家の賊を平ぐるや、命じて羽州田川郡を営せしむ。後嘉保二[1095]年八月、一族異母兄大寺光佑・弟矢吹光孚・奈目津光房を伴ひて上洛す。公従四位上大膳大夫に任ぜらる。光佑従五位下遠江守・光孚従五位下下野守・光房従五位下岩見守を拝す。
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公康和元[1099]年九月八日卒す。文正院殿大方継光大居士と法謚す。岩峰寺先塋に葬る。(中略)
公七男三女あり。(中略)
長男光忠、母は霊光院、小字小源太。多病にして武家の業を継ぐ能はず。(中略)
次男光義、母は霊光院、兄光忠の遁世により、立て世子となる。
三男季康、(中略)竹貫邑を与へ、一族に列す。(中略)
四男政光、母は光義に同じ、(中略)赤羽荘を与えられ一族に列す。(中略)
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七男義基、母は季康に同じ。小字徳丸、後沢井源三郎と称す。沢井邑を与へられ、一族に列す。従五位下左衛門佐に任ぜられる。」(『修訂版石川氏一千年史』)
既述のごとく、「澤田館は澤田村大字澤井に在り、古の澤田郷にて澤井三郎基光の城く所、その七男源三郎義基、一族に列せられ、上館と稱し、子孫代々當城に居る。」(『姓氏家系大辞典』)
あるいはまた、「一説によると一〇五八〜一〇六五年〔康平年間〕に源有光が石川〔の南西・沢井〕に城を築き、前に居住していた河内国(現・大阪〔府藤井寺市〕)の沢田郷
にちなみ、この地を沢田としたという。」(『福島大百科事典』)すなわち、その「城址を沢田といへり。〔石川風土記〕」(『角川大日本地名辞書』)
石川澤田太郎(源太)光義(10??〜1121)/澤田氏の鼻祖
「小字二郎、沢井弥太郎と称す。兄光忠遁世の為め、父の後を承けて立ち、従五位下左京大夫に任ぜられ、後、従四位下大和守に任ぜられる。晩年入道して道寛斎と号す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
また、この光義も「初メ冠者又源太ト稱ス」(『伊達世臣家譜』)。
「石川光義 石川冠者 澤田太郎 奥州石川ニ住ス」(『系図纂要』)。
「澤田サハタ氏(岩代)【清和源氏、石川氏族】
石川郡澤田より出る。尊卑分脈に『石川基光の子光義、號澤田』と見える。」(『新編姓氏家系大辞典』)
「澤田サハタ(中略) 清和源氏石川氏流 磐城国石川郡澤田邑より起る。尊卑分脈に
『石川三郎基光の子光義(石川太郎・號澤田)─義季(石川三郎)』と載せ、又中興系図に『澤田、清和源氏、石川三郎基光の男、太郎光義、稱之〔之を稱す〕』と云ひ、隈部系図に『光義(石川澤田太郎入道)』とあり。」(『姓氏家系大辞典』)
「【澤田氏】姓は清和源氏、源満仲の子源頼親(頼光の弟)より出ず、立家の祖を光義という。」(『姓氏明鑑』)
「磐城国(福島県)石川郡沢田村から起ったのは福島の戦国大名・清和源氏石川氏の分かれ〔頼親流〕で石川基光の子光義が沢田を称した。」(『姓氏苗字事典』)
「有光の孫光義が沢田太郎と名乗って摂津国沢田(大阪市〔東淀川区〕大桐)に所領を持った(中略)。」(『清和源氏の全家系』)
すなわち、この石川澤田太郎光義こそ、澤田氏の鼻祖に他ならないのである。
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石川「氏は鎌倉時代にいたるまで、多くの庶家を分出して、荘内各地に勢力を張る。早
い時期に出現した庶家の名乗った字あざな を見ると、基光の子光義が沢田(石川町沢井・赤羽・新屋敷などの地域カ)を称し、さらにその子光治が成田(岩瀬郡鏡石町)を号したとある。また基光の弟、光家の子息たちも、光治が大寺(石川郡玉川村南須釜、東福寺付近とされている)、光輔〔高〕が小高(同玉川村)を称している。これらの字はいずれも、現在の石川町中心部ではなく、むしろ玉川村を中心にして、その周辺に散在している地名であることがわかる。このことも、石川氏の最初の基地が、玉川村地区にあったことを物語っている。(中略)
以後、鎌倉時代、約百五十年にわたり、石川庄各地への開拓が進められた。(中略)
こうして石川一族の中には、庄内の地名を苗字とする多くの分家が出現してくる。(中略)
石川惣領家は、これらの分家(庶子ともいう)に、開拓で獲得された所領を与えて、石川庄の支配に協力させるとともに、戦争の際などの非常時には、一族をひきいて軍役を提供せしめていたのである。このような武士の生活の仕組を、惣領制と呼ぶこともある。」(『角田市史』)
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「保安二[1121]年辛丑しんちゅうの歳、夏四月朔日卒す。大昌院殿明輝寛大居士と法謚す。岩峰寺先塋に葬る。
夫人下総守佐竹義業朝臣の女、天治二[1125]年九月十九日卒す。法成院殿立生明乗大姉と法謚す。先塋の側に葬る。
公四男四女あり。(中略)
長男義季公、母は法成院、立て世子となる。(中略)
次男義全やす、母は義季公に同じ。福田弥二郎と称す。後、石河三河守兼雅と改む。
三男光治、母は兄義季公と同じ、福田五郎と称す。成田邑〔岩瀬郡鏡石町成田〕を与へられ、一族に列す。石川宗家の命により、〔1189年〕文治の役源頼朝卿に従ひ、西討の軍に属して功あり。後ち美濃国市橋の地を賜り、移りて市橋に住す。美濃地方石川ヲ称する者概ね其子孫に出ず。(中略)
四男、母は兄光治と同じ。小字千松丸。後泉右近介全重と称す。」(『修訂版石川氏一千年史』)
石川三郎義季(1???〜1177)/澤田氏の分岐
「小字徳松丸、弥三郎と称す。父〔光義〕の遺跡を継ぐ。義季すえと改む。保元二[1157]年上洛して従四位下大和守に任ぜらる。」(『修訂版石川氏一千年史』)
「『尊卑分脈』によれば、有光の孫〔光義〕の代に沢田・大寺・小高、曾孫〔義季〕の代に坂地・川尻・矢沢などの苗字があらわれる。有光から三〜四代目の世代、鎌倉前期のころに、石川氏は一族・庶流の分立をすすめ、石川庄の村々に一族を地頭として配置するにいたったものと思われる。
それは岩城氏のばあいとちがって、必ずしも耕地を開発して新しい村をつくりながらすすめられたというよりは、すでにひらけていた村に入部定住し、その開発をさらにはかってゆくという傾向をとったものとみられる。そして、阿武隈山地の谷をぬって点在する村々に割拠するという形をとった石川一族は、岩城氏などに比較すると、それぞれに独立の傾向を強くもつようになったらしい。」(『福島県の歴史』)
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「治承元[1177]年丁酉ていゆうの歳、秋七月六日卒す。息心院殿需水天広大居士と法謚す。岩峰寺に葬る。
公六男一女あり。
長男、(中略)早夭す。
次男基光公、母は量岳院、立て世子たり。(中略)
三男光堯、母は兄基光公と同じ。(中略)
四男光信(中略)
六男治曲」(『修訂版石川氏一千年史』)
「三郎義季の系統は、〔1221年の承久の乱〕以降も陸奥国石川荘を動かなかった。」(『清和源氏の全家系』)
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「石川氏について記している古文書の数は、(中略)かなりの数にのぼる。
しかし、これらの古文書は、ほとんどが室町・戦国時代のもので、それ以前の平安・鎌倉時代のことを記したものはあまりない。鎌倉時代末期のものが多少ある程度である。従って鎌倉時代の石川氏の動向については、よくわからないというのが、正直なところである。」(『角田市史』)」
奥州南方ノ奉行
「六代元光の四男光家(石川四郎)は、『奥州南方ノ奉行』であったが、治承四[1180]年会津長浜で賊のために殺されたと伝える。
七代広季は寿永二年(一一八三)、一族成田光治に命じて頼朝の軍を助けさせた。文治五年(一一八九)奥州征伐の途に就いた頼朝は、石川一族大寺光行の先導をうけて、八月三日石川の藤田に入り、父祖頼義の例にならってこの地の河辺八幡宮(玉川村)に戦勝を祈り、三日間の駐軍の後出発した。征討のことが終わっての帰途、頼朝は再び石川の八幡に参詣し(中略)たという(なお、『吾妻鏡』にはこれらのことはみえない)。(中略)
本〔福島〕県内の鎌倉時代の武士領主たちの多くが、文治五[1189]年の奥州征伐を機会として本県に所領をもつに至っているのに対して、石川氏のばあいは、古く平安中期に石川地方との関係をもったことになる。」(『福島県史』)
「石川の人々にいわせると、鎌倉幕府以前の築城は三芦城で、福島県内の武士団の定着では、最も古いと誇りにしている。」(猪狩正志他『ふくしまの古戦場』歴史春秋社)
「ただし『一千年史』の記載は、平安末期有光の子息たちの代に、石川一族は庄内の村々にほぼ根を張りおえたという印象を与えるが、それはむしろ、鎌倉時代初期有光の孫あるいは曾孫たちの代に、大きく進められたと考えるべきであろう。(中略)
一族が沢田・成田・大寺・小高・坂地・河尻・矢沢その他多くの名乗りをもつ分流にわかれて、庄内の村々にそれぞれ土着するようになるのは、『尊卑分脈』が示すように、早くとも有光の孫〔光義〕あるいは曾孫〔義季〕の代のこととみられるのである。」(『福島県史』)
北条氏御内人
「鎌倉中期から石川荘は北条氏の所領となり、石川氏一族は北条氏の被官となった。」(『角川日本地名大辞典』)
「北條氏が石川荘全体の地頭職を握り、石川一族はその下で村々の地頭代に任じられるようになっていたと考えられている。(中略)石川氏が北條氏の個人的従者になったのは、〔1221年〕承久の変のころからとも推測されている。
『石川系図』によると、同氏は、北條氏と婚姻関係を結んでおり、その結びつきも並々ならぬ深いものだったと見てよいだろう。」(『角田市史』)
「八代光貞は執権北条泰時の息女を妻としている。九代長光は、弘安四年(一二八一)の蒙古襲来に際して京都の守備の任をつとめ、さらに太宰府に至ってその守備に当たった。」(『福島県史』)
「家光・時光の父子は、ともに北条家の女を母とし、北条家で元服を加えている。」(『福島県の歴史』)
「元享三年(一三二三)北條貞時の十三年忌が、子息の高時によって営まれたが、その際に百八十二人の御家人が、砂金・銭・太刀・馬などを献上している(円覚寺文書)。その中に、多くの石川一族の名が見えている(中略)。」(『角田市史』)
「ここに石河氏の北条氏御内人としての従属性を知ると共に、(中略)〔石川氏〕諸流が、嫡流を中心としながらも独立に北条氏と関係を結んでいることに注目しておきたい。」(『福島県史』)
「石川一族の多様さとその独立的傾向とを、この例からうかがうことができる。」(『福島県の歴史』)
開拓の行詰まりと所領紛争
「このように開拓を重ねて、着実に力を伸ばした石川一族ではあったが、鎌倉後期になると、社会の変質を反映したかのように、多くの問題が噴き出してきた。とくに深刻な問題として、開拓の行詰まりという事態があった。
鎌倉時代を通じて、社川ぞいの開墾適地の開拓を進め、目覚ましい成果をあげたのであったが、当時の士〔土〕木技術をもってしては、阿武隈川氾濫原の開墾は不可能だった。だから、技術的な制約から開拓には一定の限度があり、その線に達して開墾事業が飽和状態になると、そこから先には進めないことになる。このことは深刻な事態を生み出した。第一に、この時代の武士社会の、もっとも基本的な仕組である、分割相続が不可能になったことであり、さらに限られた土地の相続をめぐって、一族の間で所領争いが続発するようになったことである。
弘長元年(一二六一)から文永二年(一二六五)にかけて、石川坂路光信と、その甥光行の間で、石川庄川尻郷・蒲田郷(東白河郡古殿町鎌田のこと)の領有をめぐって、争いが起こり、北條重時・同時宗の下知状によって、いずれも坂路光行に領知が認められている。こういう事態の出現は、惣領制という一族の団結の仕組みにもひびを入らせることになるし、また、鎌倉幕府の滅亡の遠い原因にもなったのである。(中略)
石川氏の困苦は、鎌倉幕府の滅亡という大きな政治的動揺のなかで、さらに増幅されることになった。北條氏御内人みうちびと として、幕府首脳と密着した生活を営んできた一族が、この大事件の中で前途を見失って、混乱したことは想像できる。しかし、そういう中にあって、一族の石川義光は、元弘三年(一三三三)五月、新田義貞の鎌倉攻めに参加して、軍忠状に義貞の証判を与えられている。」(『角田市史』)
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「石川氏が歴史の表面に踊り出て、華々しい動きを見せるようになるのは、南北朝期以後のことである。それは一つには、この時期以後、文書資料が沢山残されるようになり、石川一族の行動を明らかにしやすくなったことがあるが、それよりも、この時期が地方豪族にとって、絶好の勢力確立・拡大期だったことをあげなければならない。」(『角田市史』)
建武の新政
「長い年月にわたる北條氏との関係をたち切ってまで、反幕府の姿勢を示して、その後の勢力維持をはかった石川氏であったが、後醍醐天皇によって展開された新政の中では、石川氏は大変きびしい状況に追いこまれることになった。それは、北條氏の所領は多くが没収されて、いわゆる元弘没収地となり、幕府討滅の恩賞の原資とされたことであった。石川庄が元弘没収地となったかどうかは明らかではないが、北條氏所領だった可能性が強いので、かなり大きい影響をうけたものと見られる。
建武元年(一三三四)四月、北畠顕家は石川庄の鷹貫(竹貫)・坂地(坂路)・矢沢(谷沢)三郷を、結城宗広に与えている。おそらくこれは、石川庄地頭、あるいは石川庄奉行だった石川氏に発せられた命令だったと考えられる。石川一族の勢力維持のための努力も空しく、鎌倉時代以来開拓につとめてきた、庄内の一所懸命の地を奪われてしまったのである(伊勢文書/陸奥国司下文案)。(中略)鎌倉時代以来の北條氏領、あるいは北條氏被官(=御内人)という事実が、石川氏の鎌倉攻めの功績を無にするような結果になったと考えるべきであろう。おそらくこれは、奥州での建武新政の大黒柱である、結城宗広の本領白河庄に石川庄が隣接していたことから生じた悲劇だったのである。(中略)
石川一族などは、鎌倉末期の一時期とはいえ、反幕府の立場を明らかにして戦っているのだから、当然、石川庄の全面的な支配者として認められてよい人々だったのである。それが上記のような結果になったのは、石川庄内の郷村の宛行主が白河結城氏と、その家臣だったことによるといえよう。結城氏の功に報いるため、北條氏御内人だった石川氏を冷遇して、その所領をけずったのである。しかし、このことが結果的には、石川一族を北朝方に追いやることになった。」(『角田市史』)
石川一族北党に属す
「建武新政のもとで、本領の一部を奪われる悲劇に泣いた石川一族は、所領回復のための運動を展開する。そのための絶好の機会が意外に早く到来した。建武二年(一三三五)七月の中先代の乱である。北條高時の遺児時行が、信州の諏訪氏に奉ぜられて挙兵し、鎌倉を襲った事件のことである。これをきっかけに足利尊氏が、後醍醐天皇に公然と反旗をひるがえした。石川一族の蒲田五郎兼光は、早速、尊氏方に参陣し、その軍功によって石川庄内の本知行を宛行われている(遠藤白川文書)。また同じく石川義光は、その後も尊氏と行動をともにし、九州や湊川に転戦して、最後は比叡山麓西坂本の合戦で討死している(角田石川文書)。
こうして、中先代の乱以来、石川一族は、北朝方として、まさに東奔西走の活躍をしたことが知られる。その後も、大阪天王寺の戦や男山城善法寺の戦などで、一族と見られる(中略)名が見える。おそらく当時の北朝方の総大将石塔義房の指揮のもとに、北畠顕家の第二次征西軍を追って、上方を転戦したものである(秋田藩家蔵文書/岡本文書)。もちろん、地元の奥州でも(中略)戦を交えている。内乱期を通じて、一時的には、一族の中で南朝方に投ずる者もあったが、大勢としては、ほぼ北朝勢として行動している。」(『角田市史』)
白川結城氏の圧迫
「奥州南朝勢の抵抗は、文和二年(一三五二)五月に、最後の拠点宇津峯城が陥落して、ほぼ根絶された。しかし、その後も争乱は止むことなく続く。奥州管領畠山氏と吉良氏の争いが火を噴いた岩切合戦や、さらに奥州四管領の間での主導権争いなどである。その中で、石川一族も、しばしば動員されていることは、いうまでもない。岩切合戦からその後の広瀬川の合戦を経て、敗れた吉良貞家が、名取郡〜伊具館〜東海道滝尻宿へと敗走した時に、石川蒲田兼光が、貞家の護衛役として献身したことは、『遠藤白川文書』にも記されている。(中略)
石川氏はこうして、南北朝時代に、かなりの活躍を見せたが、この時期の後半になると、次第に白川結城氏に圧迫されるようになった。同氏は、宗広の代までは、南朝方の中心として活躍したが、その子親朝の時代には、北畠親房の度重なる出陣要請にも応ぜず、三迫〔宮城県栗原郡〕の合戦後の康永二年(一三四三)には、北朝方に投降してしまった。この間建武二年(一三三五)には、白川・高野・岩瀬・安積の四郡、石河・田村の二庄、依上・小野の二保など、八か所の検断に任命されている。(中略)これによって、白河結城氏は、南奥のいわゆる仙道一帯の指導者の地位を承認されたことになり、その下には石川氏をはじめ、田村・二階堂・伊東・上遠野など、鎌倉時代以来の地方武士たちが服することになった。この権限は北朝方からも追認されたので、結城氏の地位は他氏を大きく上廻るものとなった。同氏はこのほかにも、(中略)多くの所領を与えられたが、(中略)その中に石川庄の三郷も入れられていたことは前記した。
こういう背景があったから、結城氏が北朝方に投降した後も、石川氏と結城氏の間では、何回にもわたって、所領の支配をめぐる争いがくりかえされた。その戦いを通じて、石川氏は次第に圧迫されていった。一五世紀半ば、結城直朝のころになると、石川一族の中の有力者だった石川蒲田氏が敗北して、居城を破却された上に、所領と同家に伝来した古文書(石川蒲田文書)を没収されてしまった。また同じ一族の赤坂・大寺・小高の三氏も、氏を変え、家紋を改めて、結城氏に属したという。こうして石川氏は南北朝時代以降、白川結城氏の強い束縛のもとにおかれることになったのである。」(『角田市史』)
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仙道諸家一揆
「応永十一年(一四〇四)ごろと推定されている『仙道諸家一揆傘連判状』(一揆契状ともいう。秋田藩家蔵文書/白川文書)という史料は、石川一族の一揆契状で、石川庄松川の源朝光以下一七人の署判を、円形に連ねたものである。(中略)
この史料と同じ応永十一年には、安積・田村・岩瀬郡方面の武士二十名が集まって、仙道地方の武士の一揆契約を行っているし、同じころには、田村一族も同様な一揆契状を残している。まさに『一揆の時代』と呼ぶにふさわしい状況だった。(中略)
仙道一揆などと呼ばれているこれらの一揆は、応永六年(一三九九)に、第三代鎌倉公方くぼう〔関東管領〕足利満兼の弟、満直と満貞が、それぞれ篠川ささがわ(郡山市安積町笹川)と稲村いなむら(須賀川市大字稲字御所館)に派遣されて、鎌倉幕府による奥州直轄支配を、さらに強化しようとしたことに対応したものと見られている。いずれも、篠川・稲村両御所の付近の、しかも中小武士によって結成されていて、伊達・白河結城・芦名などが加わっていないことなどから、そのように考えられている。(中略)
石川氏をはじめ、田村・伊東などの諸氏は、一族の分離独立の傾向が早くから進んでいて、そういう中で一族の団結を図る必要があったので、一揆結成は渡りに船と受けとめられた(中略)。」(『角田市史』)
白川結城氏の覇権
「両公方の着任は、このように、南奥羽の国人の間に大きな影響を及ぼしたが、波紋はそれだけに止まらなかった。(中略)〔1396年〕伊達〔大膳大夫〕政宗の乱と、それに続く、芦名・斯波しば・大崎氏をもまきこんだ、南奥の政治的混乱をも、この事件はひき起こすのである。さらに両公方自身もまた、この時期の全国的な政治状況の中で、複雑な動きをはじめることになる。篠川満直は応永二十三年(一四一六)以後、反鎌倉の立場を明らかにし、稲村満貞と対立する。満直は室町将軍と結んで、鎌倉公方になろうとし、永享の乱に際しては、室町幕府から、鎌倉公方足利持氏追討の奥州総大将に任じられて、甥持氏を敗死させるのに力を貸した。この時、弟の満貞も持氏とともに鎌倉永安寺で自刃している。残った満直も、しかし長く生き残ることはできなかった。永享の乱の翌年、永享十二年(一四四〇)には、石川持光をはじめ、畠山・石橋氏などの奥州武士に攻撃されて、殺されてしまった。(中略)
この結果、両公方庇護者方という〔大義名分〕を失った石川氏は、有力国人白川氏の勢力とまともに対抗せざるを得ない状況に追いこまれることになった。その結果が、前記したように、石川蒲田氏の没落や、赤坂氏以下の服従となって、石川氏の頽勢をますます深刻なものにすることとなった。十五世紀半ばに登場した白川直朝は、卓抜した政治手腕によって、北関東の宇都宮・那須・佐竹などの諸氏に影響力を及ぼし、伊達氏を除く福島県内の武士のほとんどが、白川氏の配下に入った、といわれるほどの大勢力を築き上げた。北関東から南奥にまたがる有力国人に成長したのである。こういう状況では、その膝元の石川氏は、そのもとに全く雌伏せざるを得なかったと考えられるのである。」(『角田市史』)
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白川結城氏の衰退と蘆名氏の膨張
「北関東から南奥にまたがって、大きな勢力を樹立した白川氏であったが、その最盛期は文明年間(十五世紀七〇〜八〇年代)の直朝・政朝父子の時代で、その後は急速に衰退した。それは、一族内での分裂・抗争が深刻になったこと、とくに有力な庶家である小峯氏と白川氏の間に内紛があって、一瞬にして家運が傾いてしまった。周辺の諸氏は、これに乗じて、同氏の所領を蚕食しはじめる。
会津を本拠とする芦名氏は、会津守護を自称するほどに、この地方に勢力を張った。〔1540年〕伊達氏天文の乱に乗じて、仙道地方にも進出し、安積・岩瀬郡方面を支配するに至った。須賀川の二階堂氏、二本松の畠山氏や白川氏らがその影響下におかれることになったのである。石川氏も、その領域の西端の地区で、芦名氏と接触することになった。」(『角田市史』)
岩城氏の侵攻
「浜通り地方、東海道の岩城氏も勢力を拡げていた。室町時代初期の応永十七年(一四一〇)二月には、前記した仙道一揆とは別の、相馬・標葉しねは・楢葉などの海道の有力豪族による五郡一揆が結成された。岩城氏はその盟主ともいえる立場で参加している。石川郡にも勢力をのばしたことは確実で、天文十年(一五四一)六月には、竹貫広光・同隆光の二人が連名で、岩城重隆と白川氏が疎遠になるような時には、白川氏のために働く、という意味の起請文(遠藤白川文書)を白川氏に出している。」(『角田市史』)
既述のごとく、「竹貫隆光・広光父子」は「石川一族で、竹貫(東白河郡古殿町)を本拠とする。竹貫氏は、この天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころに石川氏を離れて岩城氏の麾下になったものと思われ、竹貫の地は岩城領となっていた」(『いわき市史』)のであった。
「『福島県史』は、この史料から、竹貫氏が岩城重隆の重臣だったのではないかと推定している。竹貫という字、広光・隆光という諱からみても、これは石川一族だった竹貫氏と考えなければならない。そうすると、岩城氏の勢力が、かつての石川領の東半分ぐらいに浸透しており、石川一族の中にもその家臣になっているものがあったことになる。」(『角田市史』)
佐竹氏の脅威
「このように、白川氏の衰退とともに、石川庄の周辺には、有力豪族の諸家が相ついで進出し、石川氏はその圧力の前にさらされる状況となった。これらのほかにも南方の常陸からは、佐竹氏が進出しはじめ、永禄三年(一五六〇)には、石川庄の南方の、高野郡南郷を占拠して石川氏の領域と境を接することになった。佐竹氏はこの後、白川氏の内紛に乗じて、白川領を完全に掌中に収め、芦名氏の勢力と対峙するようになった。石川氏は、この二大勢力にはさまれて、揺れ動くことになる。」(『角田市史』)
田村氏の侵略
「脅威はそれだけではなかった。戦国時代の段階で、石川氏にとって、もっとも警戒しなければならなかったのは、田村氏の動向であった。天文十三年(一五四四)七月には、田村家臣の常葉光貞と大越顕光が連署して、石川稙光父子と田村隆顕父子の和解に努力することを誓った起請文を書いている(角田石川文書)。『福島県史』は、常葉・大越の両者はもと、石川稙光に属しており、田村隆顕と合戦した後、敗れてこの起請をしたのだとしている。さらにその後の永禄八年(一五六五)にも、田村隆顕は、石川晴光を攻め、撃退されている。前記した大越顕光は、諱からしても、石川一族だった可能性が強い。」(『角田市史』)
大越顕光が石川一族だったという上記の所説は、のちに述べるように、明らかな間違いであるが、この顕光は、もちろん、明治時代に澤田氏に嫁いだまつゑの祖先である。大越氏と石川・澤田一族は、すでに当時から、浅からぬ因縁にあったのである。
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また、既述のごとく、「仙道〔山道〕の石川同流」である「四本松石川氏」は、石川宗家を離れて自立していたが、「去れども〔四本松〕石川は微力、(中略)田村の助力を借る為に旗下と成」(『奥相茶話記』)った。
「石川氏の側からみると、一族のものまで田村家臣に繰りこまれる状況になっていたのである。」(『角田市史』)
澤田氏の東遷と猪狩・岩城氏臣従
「このように、戦国時代になると、石川氏は、その領土の周辺を、有力大名に取り囲まれることになり、一族もそれぞれに他氏に臣従するという、分裂的状況になった。そういう中で、保身の道を模索する必要に迫られたのである。中小大名である石川氏にとって、周囲の諸勢力の政治的状況を敏感に見抜いて、その流れに逆らわないで、多方面外交を展開していく以外になかった。」(『角田市史』)
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ご多分に洩れず、澤田氏もまた、ついに石川荘澤田郷の故地を去り、東遷して楢葉郡に至って猪狩氏に仕え、かくては岩城氏の陪臣となった。
その時期を判断する史料はない。しかし、石川氏をめぐる上述の諸情勢を按ずるに、白河結城氏の最盛期すなわち「文明年間(十五世紀七十〜八十年代)の直朝・政朝父子の時代」が終わった15世紀後半から、世紀の交をはさんで、竹貫氏が「石川氏を離れて岩城氏の麾下になった」「天文十[1541]年をあまりさかのぼらぬころ」、すなわち16世紀前半にかけての動乱の時期の間に、その時期を比定することができよう。
13世紀に発生した「源姓石川澤田氏」は、宗家「清和源氏石川氏」とともに動乱の3世紀をくぐり抜けてきた。しかし、いまやまさに、その重代の宗家と袂をわかち、父祖伝来の「澤田」の故地をも後にして、新天地をめざして東方へと旅立ったのである。
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石川之儀者在城一ヶ所迄に候
「永禄十年(一五六七)十一月、〔蘆名〕盛氏は赤館左衛門に石川郡沢井(石川町)を起請文によって安堵しているが、これによると、沢井の地を佐竹氏が占領し、これを白川氏が望んでいること、また盛氏が石川地方に強い権利を行使していたことが明らかである
。」(『福島県史』)
既述のごとく、「沢井」は澤田館の所在地、澤田氏ゆかりの地である。
「元亀二年(一五七一)七〜八月の交には、佐竹義重が石川一族の中畠氏(西白川郡矢吹町)を攻め、蘆名盛氏父子・田村清顕がこれを迎撃した。同じころの三月、義重が石川領の大寺(玉川村須釜)に向って出馬したのに対して、清顕がその備えを指示した書状も現存する。石川領の実権はすでに蘆名・田村両氏に握られているとみられる。(中略)
このころになると、石川郡南部は佐竹氏に、東〔西?〕部および北部など大部分は蘆名氏の領有となってしまったらしい。天正六年(一五七八)正月、蘆名盛氏は越後の新発田長敦あての書状のなかで、『石川之儀者は 在城一ヶ所迄に候。其外、残り無く手の裏うちに入り候。』と述べている(浜崎文書『会津若松史』)。」(『福島県史』)
石川昭光/反伊達南奥連合
「こういう中で、石川晴光は、伊達晴宗の息、昭光を入嗣させた。『石川一千年史』によれば、永禄六年(一五六三)のことである。これは、伊達氏の威光を背景にして、佐竹・芦名などの強豪に対抗しようとしたものだったろう。天正年間〔1573〜91〕に入ると、石川庄の南部は佐竹氏、北部・西部は田村氏・芦名氏に占領される状況となる。こうした関係を通じて、芦名・佐竹・白川・二階堂ら諸氏の結合が強まり、南奥の連合勢力の形成が進められる。この連合に対立したのが、伊達・田村氏である。石川昭光自身は伊達氏の血を引きながら、夫人が佐竹氏の女(『一千年史』は晴光女子)であったこともあり、反伊達連合への従属を深める以外に途がない状況に追いこまれていったのである。中小大名石川氏の悲劇というほかはない。」(『角田市史』)
伊達陣営への帰属
「天正十二年(一五八四)十月、伊達政宗が十八才で伊達氏の主となると、南奥の戦機は急速に昂まり、戦国時代の大詰めへ、事態は急速に動き出した。(中略)その中で、石川氏は、ほぼ一貫して、反伊達陣営に属して戦っている。」(『角田市史』)
「石川氏が伊達陣営に接近をはじめるのは、天正十六[1588]年春のことで、『伊達治家記録』によると、閏五月のころから、合戦についての情報が、石川氏から提供されるようになった。そして郡山城攻防戦の結果、石川昭光と岩城常隆の和睦斡旋によって、講和が成立している。これ以後、しばしば石川氏よりの使者の来訪が記されているから、次第に関係が深まったのであろう。しかし、正式に石川昭光が伊達陣営への帰属を決定するのは、翌天正十七[1589]年十一月のことで、政宗と昭光の間で誓詞を交換して、石川氏の服属が決まった。この後、昭光は須賀川の地を与えられている。また、佐竹氏に服属していた浅川氏も、同年の暮、政宗に降伏し、翌十八[1590]年正月には、石川氏との和解が成って、以前のように石川氏の家臣に復帰することになった。」(『角田市史』)
石川氏の没落
「そういう中で、天正十八年(一五九〇)三月、豊臣秀吉による小田原攻めがはじまり、奥羽の諸大名に対しても、小田原への参陣が命令されるに至った、伊達政宗はここで参陣を決断し、近世大名として生き残ることができた。石川氏はそうしなかったために、領地を没収され、石川荘は蒲生氏郷に与えられた。『治家記録』には、昭光も小田原に参陣して、遅参を謝罪しようとしたが、政宗にその必要はないと慰留されたので、政宗に太刀や馬を託して謝罪の取りなしを依頼したという。その甘い目論見もくろみは失敗して、所領を失ってしまったのである。これについては、いろいろな見方ができようが、要は石川氏自身も伊達陣営に帰属して以来、独立大名としての自立性を失ってしまい、機敏に対応すべき時に、その決断をすることができない状態になっていたということにある。こうして石川氏の中世史は終りを告げた。」(『角田市史』)
仙台藩一門筆頭角田石川氏
その後、「昭光は政宗の家臣となり、その子孫は伊達一門の首席〔角田石川氏二万千三百余石〕に列した(県史・石川町史)。」(『角川日本地名大辞典』)
「〔天正〕十九[1591]年政宗公志田郡松山館及采地六百貫文〔6000石〕ヲ授ク。慶長三[1598]年伊具郡角田館ニ移ル時、采地二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。是ヨリ先文禄年中、二百貫文〔2000石〕ヲ増賜ス。通ジテ千貫文〔1万石〕ヲ領ス。
八[1603]年家ヲ嫡嗣遠江義宗ニ授ケテ隠居ス。柴田郡村田館及び采地三貫文〔30石〕ヲ賜ヒ、隠居ノ食邑ト爲ス。
十五[1610]年十一月晦、義宗歿シ、其嫡嗣宗敬家ヲ継グ。宗敬幼ナルヲ以テ昭光還リテ角田ニ住シ、再ビ家事ヲ治ム。元和元[1615]年五月六日、政宗公ニ從ヒテ、大阪〔冬の陣〕道明寺口ニ戦ヒ、首五級ヲ獲。八[1621]年七月十日卒。年七十三。法名、廣岩明額。角田長泉寺ニ葬ル。」(「伊達家系譜」『仙台人名大辞書』)
のちに、既述のごとく、「角田石川氏」七代村満は「源太郎」と号し、十二代宗光は「右源太」、十三代駿河は「左源太」と号した(『仙台人名大辞書』)。
「その後代々角田要害主として幕末には二万千三百余石を領した。」(『宮城縣史』)
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