第一節 仙台猪狩氏の擡頭と楢葉猪狩氏の嫡流交代/初代紀伊守守之
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仙台猪狩氏の擡頭と楢葉猪狩氏の嫡流交代
系図によれば、楢葉猪狩氏の正系は筑後守隆清─蔵人満清─右京進満生─将監忠満─筑後守盛満と継がれて筑後守重満の代に至り、重満の嫡男が中務少輔親満であった。
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「岩城重隆証状」は、「猪狩一族の労をねぎらい、さらに戦功に対して恩賞を与えることを猪狩紀伊守〔守之〕・同将監に約束した証状である。」(『楢葉町史』)
「親類之者共、昼夜之身労忝かたじけなく候、就中なかんづくむそく〔無足〕の者共かせ〔稼〕き悦入候、然は其由本意之上、何にも走廻にしたかい申候而、いさみをも相付く可く候、両人に委まかせ申付け候儀共、悃ねんごろに届け被らる可く候、後日の為、一筆件くだんの如し、
拾月二日 〔岩城〕重隆(花押)
猪狩紀伊守〔守之〕殿
同将監殿」
* また、別の「岩城重隆書状」は、「猪狩紀伊守〔守之〕・同筑後守〔重満〕に与えた書状。神事(祭礼)のため猪狩氏の帰陣を許すことを伝えている。猪狩一族が神事を理由に帰陣したい旨を願い出ていたわけである。」(『楢葉町史』)
「神事之時分刷はらいも可有之これあるべく候歟、然者しからば大野衆に、少々人数打加、明日可指遣さしつかはすべく候、小楢葉之者共も、十二三日比ころより其地にしかと候て、動をも相待候様に然る可く候、町なとへ罷り越し候はん事、口惜しかる可く候、能々よくよく申付被らる可く候、右衛門大夫方事も、別て指義無く候者そふらはば、神事には返し申被され候て然る可く候、但やう〔様〕躰によるへく候、祝言之時分、人数とも手あつ〔厚〕にさしおくへく候、謹厳、
八月十日 重隆(花押)
猪狩紀伊守〔守之〕殿
同 筑後守〔重満〕殿」
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さらに別の「岩城重隆(明徹)書状」は、「当乱(いかなる合戦かは不明)に打〔討〕死した猪狩一族の名代を女子につがせることを、猪狩紀伊守〔守之〕・同筑後守〔重満〕に報じた書状。万が一女房をなおざりにしたときは、両人から重隆に披露すべきこと、名代は重隆が仰付けることを告げている。」(『楢葉町史』)
「当乱に打死致し候者共、名代と為し、女子そうそく〔相続〕に立置候キ、万一女房を如在申し候者そふらはば 、両人所従より披露致す可く候、其時に於者は名代之儀余自より申し付く可く候、心得の為申し遣し候、謹厳、
極〔十二〕月廿八日 明徹(花押)
猪狩紀伊守〔守之〕殿
同 筑後守〔重満〕殿」
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これらの文書では、「猪狩紀伊守〔守之〕」が常に正系筑後守重満の上位に挙げらて、猪狩一族の棟梁と目されている。
「楢葉の山田岡(木戸城)は領主猪狩紀伊守〔守之〕の城館である。」(『ふくしまの古戦場物語』)
「猪狩姓橘、其ノ先不詳ツマヒラカナラス、猪狩紀伊守守之モリユキヲ以テ祖ト爲ス、岩城家累世之臣也、其ノ裔虎間番士ト爲リ、今五百石ノ禄を保ツ、守之カ子〔下野守〕親之」(『伊達世臣家譜』巻之十一平士之部三十一)。
さらに後年、「慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城主、〔守之の嫡子〕猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕。」(『大日本地名辞書』)
案ずるに、この頃には、自身同族で、重満の女婿であった、楢葉山田岡木戸城主猪狩紀伊守守之─下野守親之の系統が擡頭し、楢葉猪狩氏の嫡流が交代したものと思われる。そして、実にこの紀伊守守之こそは、遠からず「岩城国替」で仙台伊達氏に仕えることになる、澤田氏の主君「仙台猪狩氏」の祖に他ならないのである。
仙台猪狩氏初代紀伊守守之/外ニ異ニ相通セラルヘシ
「伊達晴宗(道祐)書状」は、「伊達晴宗(道祐)が、〔晴宗の実子で重隆の養嗣子〕岩城〔左京太夫〕親隆の臣〔守之の義弟〕猪狩中務小輔〔親満〕に書をおくり、親隆が伊達・相馬両氏の間の和議をとりはからったことへの謝意をつたえた書状。晴宗晩年のものとおもわれる」。(『楢葉町史』)
また、これは猪狩文書ではないが、鎌倉市立図書館蔵「相州文書」中の「岩城〔左京太夫〕親隆書状」は、「岩城親隆が、その一族岩城(富岡)隆時か、その子隆宗にあてた書状。河内〔川内〕において逆意ありとの情報をしらせ、大須賀隠岐守・猪狩左衛門尉・同土佐守を河内に入番せしめることを報じている。」(『楢葉町史』)
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再び猪狩文書にもどり、「岩城〔左京太夫〕親隆覚書」は、「岩城親隆が猪狩一族にあてた書状であろう。子ども・同輩の者と談合して河内(川内)を守備することを命じ、合戦に勝利したなら恩賞を与えることを約している。」(『楢葉町史』)
「天正十二[1584]年、(中略)磐城左京太夫常隆(時年十八)(中略)兵を小野郷に出す。(中略)同十月、常隆三千余騎、進でヤツサク〔谷津作〕村〔小野町〕に陣し、小野仁井町〔新町〕の城を攻む。(中略)〔守之の義弟〕猪狩中務大輔〔少輔親満〕、急使を馳せ警報を伝ふ、曰く、相馬長門守義胤、兵を出し岩城の虚を擣かんとすと。常隆即ち仁井町の圍を解き、岩城に帰る。」(大須賀次郎〔均いん軒〕『磐城史料』歴史図書社)
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1585(天正13)年6月の安積高倉合戦に際し、岩城常隆は「留守をする猪狩紀伊〔守守之〕あてに、大越・鹿股など背後から田村勢の牽制攪乱を計るように命じていた(『伊達治家記録』)。」(『三春町史』)
郡山合戦のさなかの1588(天正16)年6月22日、伊達政宗が「磐城殿家臣猪狩紀伊〔守〕(諱不詳〔実は守之〕)所ヘ御返書ヲ賜フ、其後音問打絶ヘ内々御心許ナキノ所ニ、来札具ツブサニ披見、一人御祝着シュウチャクニ思サル、尤モ以後ニ於テ前々ノ如ク外ニ異ニ相通セラルヘシ、埣啄本望タルヘシ、兼又相馬手刷ハラヒノ義、委細紙面ニ顕シ、御喜悦斜ナラス思シ召サル、其趣小野ヨリモ条々断リ有リ、弥イヨイヨ大越口の義方々相談ニ及ハルヘシ、爰許ココモト佐竹・会津〔蘆名〕と御対陣ニ付テ、大越ノ義手延ヒノ様ニ有ル歟、併シカシナカラ此表落居程有ル可カラス、御備ニ於テハ心安カルヘシ、此節大越通路ノ義、小野・常葉ヘ内意アリテ慥タシカニ止ムヘキ事、畢竟相任セラル、如何様御手遣ヒヲ以テ相馬口ノ義諸事逼塞ニ及ハルヘキノ旨著サル、小野ハ城主田村右馬清通、常葉ハ城主常葉伊賀ナリ」(『伊達治家記録』)
「大越の義」の大越は、もちろん、明治になって澤田氏に嫁いだまつゑの祖先「相馬党大越氏」である。すでにこのころから、大越氏と猪狩氏ひいては澤田氏の交渉が、記録されていたのである。
同年「七月四日には、この〔郡山〕合戦一番の激闘が交えられた。(中略)
八日、政宗は岩城家臣猪狩紀伊〔守守之〕あてに“五日も合戦の予定であったところが、〔岩城〕常隆使者からの要請があり、取り止めることになったのは不本意である。”と述べている(『伊達治家記録』)。」( 『三春町史』)
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仙台猪狩氏二代猪狩下野守親之/神城主
「守之カ子〔下野守〕親之」(『伊達世臣家譜』巻之十一平士之部三十一)。
既述のとおり、「神城趾/川内村大字下川内字館の下にあり、一名を東館と云ふ。屹立小山をなす。天明〔正〕年間〔1573-92〕岩城家の臣猪狩下野守〔親之〕の居趾なりといふ。草木叢生して僅かに其跡を存するのみ。」(『双葉郡誌』児童新聞社)
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1576〔天正4〕年、左京太夫親隆の嫡男「岩城左京大夫常隆兵を起し、竹貫三河守・同但馬守・猪狩中務小輔〔親満〕・同下野守〔親之〕・三坂〔越〕前守等先陣にて、上移〔船引町〕の城を攻め落とさんと小野郷へ押し寄せる。」(『奥陽仙道表鑑』)
下野守先陣に
「政宗(伊達)会津と和睦せられて後は、岩城相馬の人々睦じ振りに見ゆれども、終には隣領を蚕食せんと常に謀を運らされける。 或時〔1589年〕岩城左京太夫常隆(二代目常隆)の郎党、竹貫三河守(竹貫は地名なり平を去ること八里余)許もとへ政宗より密に使を立てられけるは、近日常隆と雌雄の一軍すべければ、哀れいかにもして野心を含み、我等が味方に一味候えかし。左有らば恩賞は所望に任せ候べしと、餘議も無げに頼まれけるに、三河守は元来忠心至誠の者なりければ此の始終包む事もなく、有りの儘に主の常隆公に告げ知らせたりしかば、常隆公は事の由を聞し召し、さては容易なりがたし。先ず汝、子細なげに野心を企て、彼が味方に詣りたる由にて返答し、使者早速に返すべし。其のうち事の便宜ならんずるように謀略を廻すべし。偖さてそれより常隆公は急ぎ使を木戸、楢葉の方へ立てられ、事の様を知らされて軍勢の着到は、河内〔川内〕、桶木売おきうり(桶売)の辺と約諾し不日に平の兵をたたし、好間よしまより山中へ赴かる。また木戸、楢葉の軍勢も約を違えずして小河(小川)の辺より河内(平より九里半北の方なり)桶木売(平より五里北なり)両村にはせ参じければ、かしこにて勢を揃えられける。木戸(平より七里半東)楢葉(平より五里半東)猪狩中務小輔〔親満〕(遺族今にあり)同下野守〔親之〕先陣にかしこに参り常隆を今や今やと待つ所に、常隆も急ぎ彼の地へ着き給うて主従の言終り既に軍勢手分けを遊ばされける。」(『桾拾集』)
政宗が城へ押寄せ申さん
「 両人(猪狩中務〔親満〕同下野〔守親之〕)を近づけ仰せける事は、汝等両人は先ず平の城に帰りて跡を警固せよ。両人存じよりの外なれば申し上げけるは、事の様子は存じ候らはねども、我等も武士の数と思し召し、これまで出陣仰せつけられ候て、いまだ敵の顔も見ず、矢の一本も放たず、先に平へ御戻し候事、如何なる儀に候や。常隆仰せけるは、尤もなる不審なり。さりながら政宗、容易なる敵に非ず。定めて彼等討つべし。今岩城常隆勢を索たずねて発向せんと伝え聞く。しからば岩城に警固なし。是れ幸い渡りに船なり。依って先ず岩城平の城を攻むべしとて彼等裏より廻らんも計られず。また古人も云えることあり。『遠き謀ごと無くんば必ず近き憂あり』不意の備は名将の尊ぶ処なり。此の故に今度汝等両人を平に留め置き不具の備え堅め置き平を守護し、後の禍をまぬがれんとの計略なり。別に子細のあるにあらず、早速平に帰るべしと宣のたまいけるに、二人詞を揃え申し上げけるは、御大将の仰の上言を返すは不法の至りには候へ共、とりわけ此の度大事の合戦、われら御傍にも侍ず候て、いかに仰の理なればとて平の城へ引き籠り、敵の来るや来らざるや安閑と日を送り、御合戦の様子さえ言の便りに勝負の由を承らん事、吾等所存の外に候えば是非此の度は御供仕り候て政宗が城へ押寄せ申さん。いざ御立ちと申し上ぐるに、常隆公此の由を聞し召され、誠に切なる汝等かな。」(『桾拾集』)
下野急ぎて平へ守護に帰られける
「然し軍は勢にはよらず。楠〔正成〕が金剛山に小勢なれとも六波羅の大軍を破る。況んや地の理は天の命にしかず。天の命は人の和にしかずと云えり。然れば平へ戻りて城を守護するもまた戦に馳せ向かうも、何れを何れと言い難し。また今度の戦は、最初には田原谷〔小野町田原井〕の城を攻落し、其の後、小野六郷を残らず焼きはらってのちは、政宗が伊達より討って出るを待ちうけ、雌雄を決するわが心底。就中なかんずく汝等は、小野篁の末孫なれば、篁の霊廟、小野大神鎮座の地を焼き払うべき軍のたばかり。然れば其の氏族なる汝等を召し連るるは、神への無礼。ことに先陣を望むは祖神のとがめも計られず。非礼第一の振舞なり。非礼の軍は武士の望む所に非ず。多くの訳ある故に平の城の守護を申し渡す。是又容易の事に非ず。漢粛伊は軍に望〔臨〕まざれども其の功莫大なり。所詮是より返りて宜よろしかるべしと下知ありければ、伺候したる猪狩平治、同苗四郎五郎〔満〓〕言えるは、御傍に推参申し上げ、仰は理に当たり古実を踏んでさる事ながら、武士の先陣を望み、主君に忠を立つるは義一なり。然れば現在の親とも弓引き、血を闘すは武士の常なれば、小野大神の社〔矢大神社〕へ馳せ参り候とも、など御とがめ候うべき。また今度の御企て政宗退治にて小野大神の社には非らず。土地をかると言えども事の表裏各〔格〕別なれば、其の氏族のわれら御召連れ候とも何の凶禍候らわん。またわれら引く弓は、大敵政宗にこそ放して、小野の神社を射る矢にて候わず。神は非礼を受け給わずと承る。是非我等は御召連れと恐れ憚る気色もなく言上申しければ、常隆公此の由を聞し召し、若者共の優しき心底を御感ありてや然らば汝等両人は所望に任すべし、余人は平へ戻るべし。万事油断は大敵なるぞと下知あれば、是の時中務小輔〔親満〕、下野〔守親之〕等はそれより急ぎて平へ守護に帰られける。」(『桾拾集』)
同じ枕に討死す
「さる程に常隆公は軍勢を引き具し、不日に桶木売(現在の桶売)の里を立ち給いて同〔天正十七[1589]〕年三月〔四月?〕初の九日、小野の郷、田原谷の城へ押寄せ給いて兼て計略故悉ことごとく在家を焼払い、火も沈まれば其の夜は城近く陣を張りて通夜し給い、明くれば十日の未明より同音に鬨をつくり鉄砲を打ちたて城中を驚かし、揉みにもんで攻めしかば、城内の者共も、ここを最期の軍と防ぎ戦うといえども、寄せ手は強兵なり。殊に新手を入れ替え、いれかえ四方八方すき間もなく攻め給えば終に田原谷城を攻め破りて同時に城中へぞ込み入りける。ときに件くだんの猪狩平次と云う者、真先に飛び入りて大勢の敵に渡り合い、如何にやしけん、大勢の敵に取りかこまれ半時ばかり戦いけれども運の末かわ、後より続く味方も無く傍に助ける人もなければ、痛ましや主従都合七人、同じ枕に討死す。また〔猪狩〕四郎五郎〔満〓〕も散々に戦いてすでに城中より外へ打ち出でけるが、一族なる猪狩平治未だ城内に残り有る事を聞きて心許なく思いけん。また城中へ引返しけるに是もまた大勢に取巻かれ一時ばかり戦いしかども、終には敵と討死す。然あるに、彼れが若党一人また跡より尋ね入りて主なる〔猪狩〕四郎五郎〔満〓〕が討死せし死骸を見つけ涙出て茫然としてありけるを敵なる騎馬武者来たりて遁がさじと名乗りかけて討ちかけ向かい暫の間は戦いしが後は無手むんず と引組んで刺違いてぞ死にける。」(『桾拾集』)
「常隆御勢は矢一筋もおう者無く勝に乗じて攻めければ、田原谷の城を即時に攻落し、侍の首百余騎、その雑兵数を知らず討取り給う。
田原谷のこと落去せしかば猪狩主従の者共を墓となし都合九人の死骸を以て一堆とし築かせ給うとなり。誠に御仁愛深き事やと諸士みな感じ入りにける。其れより直ちに〔田村〕清顕がなりし田村右馬守〔頭清通〕が屯所たる新町にいまちの城へぞ押寄せんとし給いける。
政宗かくと伝え聞き、さては先ず仙道へ討立ち常隆防ぎ一戦すべしとて、四月朔〔二十二〕日、米沢を発足して大森まで急がれけれども、過し頃落馬の余痛にて僅の間の工程にも暇取り漸く五月三日に本宮と言へる処まで打ち出でられしとなり。」(『桾拾集』)
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猪狩等の郎等を召具し関東へ馳せ参られける
「岩城左京太夫常隆は幼少より武略の聞え高く、或時は相馬氏と一戦して武備を奪はれず、又田村氏と対陣して数城を抜きたるなど、其勇敢知謀東鄙無双なりしに、〔1590年〕豊〔臣秀吉〕公、小田原追討の砌みぎり、常隆後栄を察し猪狩、竹貫、三坂、上遠野、植田等の宗徒の郎等〔党〕を召具し関東へ馳せ参られけるが、天正十八[1590]年七月二十二日、鎌倉星ヶ谷〔現座間市〕にて病卒せられ、其家断絶せむとしけるを、(中略)一族なれば佐竹常陸介義重が三男能化丸のうげまる 、今年八歳になりけるを常隆の世嗣として之を迎立す。」(『岩城郡史』)
「天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置後も、当〔広野〕町域は岩城領に編入され、文禄4年(1595)の検地高目録には夕筋( 913石)・折木( 666石)・浅見川( 845石)・北迫( 595石)の村々が見える。」(『角川日本地名大辞典』)
浅見川村高倉山城主猪狩下野守親之伊達家へ随仕
「高倉山の城址あり、岩城氏の族党、猪狩筑後守隆清、文明中〔1469〜86〕此に居り、慶長中〔1596〜1614〕に至り、子孫離散す。」(『大日本地名辞書』) 「新編常陸国誌補に云ふ、慶長元[1596]年春、佐竹氏、岩城五郡の諸士を移転し〔佐竹竿〕、多賀郡松岡城主、大塚掃部助隆通を、楢葉郡折木城に移す〔東禅寺旧記〕、七[1602]年に至り、佐竹岩城の諸士、皆羽州へ転ず。(中略)
○折木談所とは、即成徳寺じょうとくじなり。(中略)慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城主、猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕の時、成徳寺僧之に従ひ、信夫郡へ去り、折木談所廃絶す、新邑主大塚氏は、成徳寺址に東禅寺を建立す、数歳の後、良薫上人(十五世)寺名を再興して、今地に卜営する所ありと雖、旧観にあらず、知機山と称す。」(『大日本地名辞書』)
「〔高倉山〕城の南方にある折木の成徳寺は、猪狩氏の菩提寺で、県重要文化財の本尊阿弥陀如来像を安置している。元徳二[1330]年からのこの寺は、中世には、高倉山城の東方丘陵地(現在の東禅寺の地)にあり、浄土宗名越派の談所であった。」(『ふくしまの古戦場物語』)
「然る所〔1602年〕岩城国替之時分、貞山〔政宗〕様に従ひ下野〔守親之〕処へ仰せ下され候は、岩城落着之段聞こし召され候。兼て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台藩〕へ罷り越す可き旨仰せ下され有難く存じ奉り、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候処」(『仙台藩家臣録』)、「是ヲ以テ姑シバラク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里(膽沢郡)両邑ニ於テ給サル、」(『伊達世臣家譜』)
かくて、澤田氏も、「主神磐城大明神他二神の氏神三神」を背負い、主君猪狩下野守親之の後に従って一路奥州街道を北上し、いよいよ仙台領内に入ったのである。
これより以前の1591年、伊達氏はすでに米沢から岩手沢〔岩手山〕へ転封となり、1601年に仙台築城を開始し、1603年には青葉城に入城していた。
猪狩諸氏の離散とそれからの楢葉郷
「慶長5年(1600)関が原の戦いの結果、〔1602年〕岩城氏は佐竹氏とともに所領を没収され、元和8年(1622)出羽亀田藩2万石に再興された。」(『角川日本地名大辞典』)
「約五百十余年続いた旧家も磐城の土地を離れてしまったのである。この時、藩では五百石以下の家士は同行を許されず、村々に住みつき或は農を営んだり町人になったりして、ほんの僅かの幸運の者だけが後任の鳥居や内藤家に仕官できたのである。」(須藤春峰『東北中世史−岩城氏とその一族の研究』白銀書房) 「猪狩氏一族は、この頃離散してしまったといわれる。」(『角川日本地名大辞典』)わずかに数家族のみが、猪狩下野守親之と同様に、伊達氏に臣属して仙台藩に仕官することができたのである。
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「関ヶ原の戦後の慶長6〔7〕年(1601[1602])、岩城氏に代わって鳥居忠正、次いで元和げんな8年(1622)内藤長政が磐城平城に入り、当〔広野〕町域もその支配下に入ったが、延享4年(1747)内藤氏が日向延岡に移ったのち、幕府領となり、小名浜代官・川俣代官あるいは浅川代官の支配するところとなった。」(『角川日本地名大辞典』)
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猪狩諸氏の鳥居家退散
「さて慶長三[1598]年の頃、岩城の旧領は里〔黒〕木又七郎が本領し、同五[1600]年鳥居左京亮すけ忠政が岩城平を拝領した。鳥居家では従前の士分も百姓とし年貢を上納させようとし、慶長七[1602]年忠政入部から厳命更に耐え難かったので、政宗を頼み岩城を退散することになった。当時譜代十人の家士一同は富岡〔福島県双葉郡富岡町〕に集まり、慶長八[1603]年四月一日未の刻〔午後2時〕富岡を出発相馬領に向かったが、途中鳥居家の追手が再三迫ったので矢を射かけ、中村・新地・坂本から岩手山城下の指示を仰いだところ、根の白石に住居すべしとあり、茂庭石見の計らいで扶持願も差出した。
* その秋半ば岩城よりの使者来り、政宗の案内人と共に〔根〕白石を襲い猪狩甚之亟外二名を捕えたが、猪狩蔵人に追払われた。のち三人は斬られたので政宗は大いに憤っている。(中略)〔根の〕白石から岩手山市中に移った後も岩城から使者が再度来たので、伊沢郡〔岩手県胆沢郡〕南下巾村へ移住して新田開発(相続)せよとの命により、慶長九[1604]年浅野に移住したがそれでも岩城からの使者が奉行に訴えた。」(『岩手県史』
大越甲斐守と岩谷堂伊達氏
のちに岩城氏の章で詳述するように、大越紀伊守顕光の義弟大越甲斐守は、岩城常隆の遺児政隆を伴って、1607年伊達政宗をたより仙台へ下った。政隆は「慶長十二[1607]年政宗公に仕え、采地一千石を賜ふ、十五年[1610]年三月三日伊達の称号を賜へて一門に列」(『仙台人名大辞書』)した。
政隆の子国隆は、「元和九[1623]年岩谷堂〔岩手県江刺市〕に移転し、〔猪狩諸氏をはじめ〕仲間の者も移って来た。(中略)寛永廿一[1644]年〔伊達〕忠宗から栗原郡、磐井郡、東山に於て千二百石を賜った。」(『岩手県史』)
「国隆子なきを以て忠宗公第七子宗規君を女に配して嗣とな」(『仙台人名大辞書』)し、「加美・黒川・胆沢・〔江刺郡〕片岡村三千二百石を賜り、岩谷堂岩城〔伊達〕家の始祖となった。」(『岩手県史』)
江刺・胆沢猪狩諸氏
『寛永〔1624〜43〕検地帳』には、管内の地頭名として、つぎの猪狩諸氏がある。
「伊沢郡/猪狩主計
江刺郡/猪狩九左工門 猪狩清左工門 猪狩伝吉 猪狩勘三郎
江刺給主猪狩仲左工門 猪狩蔵人 猪狩忠左工門 猪狩九左工門」(『岩手県史』)
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なお、『仙台藩家臣録』第五巻につぎの記録が見える。
「 27 猪狩八兵衛
一 拙者養父猪狩二左衛門儀岩城常隆御卒去以後浪人に罷成候処、貞山〔政宗〕様御代御鷹師に被召出めしだされ、御切米御扶持方被下置くだしおかる由義山〔忠宗〕様御部屋へ被相付あいつけらる、以後組被成御免ごめんなされ御切米五両・御扶持方五人分に被成下なしくだされ、江刺相去あいさり〔岩手県北上市〕御境目御足軽百人之差引被仰付おおせつけらる 、御免以後御番所御次之間被仰付由、二左衛門義右之通被成下なしくだされ候。年号・御申次・御切米・御扶持方始に何程被下くだされ被召出めしだされ候哉不承伝うけつたえず候。(中略)実子八兵衛(中略)長沼市左衛門次男拙者婿名跡(中略)於柴田郡河内村(中略)拙者進退〔身代〕知行壱貫四拾六文〔10石4斗6升〕・御切米五両・御扶持方五人分に罷成候。以上
延宝七[1679]年七月廿一日」(『仙台藩家臣録』第五巻)
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「 46 猪狩作助
一 拙者儀江刺〔岩手県江刺郡〕に被差置さしおかれ候御給主猪狩九左衛門二男に御座候付て、寛文二[1662]年只野杢右衛門取次を以〔伊達〕兵部殿へ罷出、切米三両・扶持方四人分被下くだされ奉公仕候。然しかる処寛文十一[1671]年兵部殿御預に就被仰付おおせつけられ候、同十弐[1672]年六月廿八日古内志摩を以御知行弐貫五百文〔25石〕被下置くだしおかる之旨於一関いちのせきにおいて大松沢彦左衛門御申次を以拝領致し、于今いまに御番外にて罷在候。以上
延宝七[1679]年三月十七日」(『仙台藩家臣録』第五巻)
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「岩城氏は、『尊卑文脈脱漏平氏系図』(『続郡書類従』5上)によれば、恒武平氏常陸大掾平国香の後裔安忠を始祖としている。」(『福島県史』)
岩城則道(成衡)/白水阿弥陀堂
「安忠については同系図は『菊多・石城・海道等の祖』としているが、岩城氏を名乗るようになったのは、その子孫〔子〕則道、または成衡(衡を衝とあやまれば成衝のりみちと訓読が相通ずる)といわれている(『磐城系図』『岩城系図』『藩幹譜』『会津四家合考』『亀田岩城系図』)。(中略)
成衡(または則道)の妻については、『会津四家合考』『藩幹譜』などは、藤原秀衡の妹とくあま子(徳尼子)としているが、このとくあま子は『康富記』『奥州後三年記』『大日本史』『続郡書類従』などを合わせ考えると、多気たが(多賀)権守宗基(致幹)の女と源頼義との間に生まれ、藤原清衡に養女として育てられ、さらに清衡の異父兄である真衡がこれを養女として迎え、のち岩城成衡に妻合わしたことになる(『清原系図』『常陸大掾系図』『武家評林』)。しかし、時代的にいえば、清衡の養女説をとるのが妥当であろう。そして清衡は、成衡とその妻(徳尼子)とを、岩城に下し、その地を支配させたといわれている(『鎌倉実記』など)。
この岩城氏と奥州藤原氏との関係を物がたる具体的な事例としては、則道(あるいは成衡)の妻徳尼が夫の菩提を弔うために建立したと伝えられる国宝白水阿弥陀堂の苑池様式が、平泉の観自在王院の遺構に酷似していること(『白水阿弥陀堂苑池発掘調査書』)や、中尊寺中央檀家(清衡をまつる)の仏像と白水のそれとの間に相通ずるもののあることなどを挙げることができる。」(『福島県史』)
「岩城隆行(海東小太郎成衡)は、5人の子供を楢葉・岩城(石城)・岩崎いわがさき ・標葉しねは・行方なめかたの5郡に分封したと伝えられる(東奥標葉記)。」(『角川日本地名大辞典』)
好嶋荘地頭
「文治五[1189]年、頼朝の奥州征伐の際には、岩城氏も岩崎氏もこれに参戦している(中略)。この征伐において、岩城・岩崎両氏は先頭に立ち、『奥州の住人といへども弐心を存せず』といわれ、めざましい働きをしている(『吾妻鏡』文治六[1190]年正月条)。このような態度は、奥州藤原氏と関係の深い岩城・岩崎両氏にとっても、時代の趨勢に対処しようとするための当然の動向であったといえよう。
このような情勢下において、岩城氏は好嶋よしま庄を石清水八幡宮に寄進し、所領の安泰を計ったものと考えられる。」(『福島県史』)
「戦後その功によって岩城清隆は好嶋荘の地頭職に任ぜられた。また千葉常胤は好嶋荘の預所職に任ぜられたが、実務は四男の大須賀胤信が執行したものとみられ、正治2年(1200)には胤信が正式に預所職に補任ぶにんされている。(中略) 好嶋荘は(中略)古代の条里制からはずれて、旧平市の東部から四倉にかけて夏井川北岸の地を占めており、その耕地は小規模な谷田として散在的に切り開かれている。承元2年(1208) には、三浦義村が大須賀氏に代わって預所職に任じたが、その後、宝治元年(1247)三浦氏の滅亡以後は伊賀式部入道光西(光宗)が預所職となった。好嶋荘は『八幡宮御領』という名目をとりながらも幕府御家人に掌握されていたことから、実質的には『関東御領』であったとみられる。また、岩崎氏も平泉討滅の功によって岩崎郡の地頭職を獲得したものとみられる。」(『角川日本地名大辞典』)
南北朝の動乱
「建武二年(一三三五)南北朝の動乱が開始されると、伊賀氏は早くも足利の与党となった。(中略)これに対して、岩城忠隆は〔北畠〕顕家に従軍し、相馬胤平と共に先鋒となり、常陸甕みかの原(多賀郡)で佐竹貞義・義篤父子と戦っている(『常陸国史』『日立市史』)。(中略)
〔1336年〕四月六日には、石川入道光念(光貞)と一族同光春らが〔菊田庄〕湯本城に来攻した(『桜雲記』)。(中略)
一三三七年(建武四延元二)正月十五日には菊田庄で合戦が行われた。伊賀盛光代麻続おみ盛清は石川松河四郎太郎の軍に属して南党小山駿河権守の拠る滝尻城を攻め、さらに湯本城に馳せ向かって、(中略)石河大嶋源太に属して城を攻め陥した。(中略)
一三四六年(貞和二正平元)畠山〔高国〕・吉良〔貞家〕両氏が奥州管領〔探題〕として下向し、奥州の情勢は新しい局面を迎える。この年八月のころにも楢葉郡で合戦があった。(中略)
〔1353年〕宇津峯落城を期として、本〔福島〕県地方における南北朝動乱は事実上ほぼ終熄したといえる。」(『福島県史』)
「情勢が北朝方に有利になると、磐城・国魂氏らは北朝方に乗りかえ」(豊田武編『東北の歴史』上巻、吉川弘文館)た。
「いわきの主」と猪狩氏の臣従
「岩城氏による好嶋庄預所支配の排除は、(中略)鎌倉時代よりも遙かに強力に進められていたものとみられる。
これに照応して伊賀氏は、かつて保持していた好嶋庄西方預所としての職権を少しずつ弱化させていった。(中略)観応三年(一三五二)ころからは『飯野八幡宮神主』とよばれるようになり、みずからもまた飯野氏を称するばあいがあらわれる。(中略)
奥州管領〔探題〕の強権によって、伊賀氏の預所としての職権が、〔岩城一族である村々の〕地頭らに対する限りにおいて保護されている以上、岩城一族は、伊賀氏を媒介として足利将軍家および石清水八幡宮に年貢を納め、また神主伊賀氏に好嶋八幡宮の社役を勤仕しなければならなかった。また好嶋庄領家職が、鎌倉将軍家からそのまま足利将軍家の手に移り、(中略)石清水八幡宮よりも将軍家が遙かに重い年貢をこれから収取している限り、岩城氏の勢力発展はまだ用意には実現できなかった。
しかしその後、奥州管領の分裂抗争があいつぐ南北朝後期に入ると、岩城惣領はその力を着々とのばし始める。(中略)〔岩城〕隆泰は好嶋・白土などの惣領であると同時に、好嶋庄をふくめて岩城郡の守護=検断職をすでに文和三[1354]年のころに伊賀盛光に代ってつとめているとみられる。しかも応安〔1368〜74〕のころになれば、伊賀氏の惣領光政に対してもこのような権限を行使するまでに至っているのである。伊賀氏と岩城氏の関係は、すでに完全に逆転し、『いわきの主』としての岩城惣領の地位はほぼ定まったといえよう。」(『福島県史』)
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この間にあって、既述のごとく、猪狩新五郎良道は、「元弘 [1331〜40] 年来、新田家之幕下ト為ル、延文〔1356〜61〕貞治〔1362〜68〕年中鎌倉〔関東管領足利〕基氏、新田之家族所糺明之頃、一家共ニ岩城家之家臣ト為」(「猪狩幸雄家系図」)った。
以後二百有余年、猪狩氏は岩城氏譜代の重臣として活躍することになったのである。
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南奥の雄岩城氏
「岩城氏において、連続的に系譜関係が、古文書によって確かめられる上限は、〔嘉吉二年(一四四二)にその文書が初見する〕隆忠の代である。」(『福島県史』)(中略)
「伊賀氏は岩城氏に圧倒され、わずかに〔飯野〕八幡宮の神官としてその命脈を保った(飯野文書)。強大となった岩城氏は各地に散在する一族を従え、本〔いわき〕市域を統一した。15世紀中期の岩城隆忠の時のことである」(『角川日本地名大辞典』)。
「この隆忠のいわき地方支配の実現は、単なる岩城氏の発展ではなく岩城一族の内紛とその克服とによって結果したものとみられる。(中略)いずれにせよ隆忠─〔下野守〕親隆─〔下野守〕常隆の系統が、元来飯野大館の地にいたのではなく、おそらく白土にいたものであったことは、信じてさしつかえあるまい。(中略)
白土常朝(隆弘)が好島氏にかわって岩城惣領の地位についたことは、ほぼ確かめられた、と思われる。」(『福島県史』)
下総守親隆・下総守常隆/猪狩氏の楢葉郡領知と澤田氏の臣従
「戦国期、岩城氏は磐城地方の大名として、伊達・相馬・田村・石川・常陸の佐竹氏ら周囲の諸勢力と虚々実々の勢力争いを続けていた」(『東北の歴史』)。
既述のごとく、「文明六[1474]年十月ころに楢葉をめぐる合戦があって岩城氏〔下総守親隆〕が勝利し、楢葉地方は岩城氏の手に帰した。この合戦に活躍した岩城氏麾下の、猪狩氏が楢葉の領主となったわけである。そしてこの後は、岩城氏は南から標葉しねは一族を脅かすことになる。が標葉氏は、岩城氏が攻略する前に、相馬氏の南下のために倒れてしまう」(『いわき市史』)。
「すでに応永年間〔1394〜1427〕以来、佐竹氏では内訌が連続し、延徳二[1490]年には(中略)太田城を略取されるという危機に陥ったが、(中略)明応二[1493]年冬岩城氏の調停によって和議が成立した。(中略)この時点における、岩城〔下総守〕親隆・〔下総守〕常隆父子の佐竹一族に対する優位は、歴然たるものがあろう。『重修譜』によれば、常隆の妹は佐竹義舜きよの妻であり、常隆の子由ゆき隆は義舜の娘を妻とし(中略)ている。(中略)
すでに父〔下総守〕親隆と共に、岩城氏の勢力を大いにのばした〔下総守〕常隆は、明応(一四九二〜五〇一)から永正(一五〇四〜二一)前期のころにかけて、さらにこれを進展させた。」(『福島県史』) そして、既述のごとく、おそらくこの下総守常隆の代に、澤田氏が石川宗家を去って楢葉郡領主猪狩氏に臣従し、岩城氏の陪臣となったのである。
由隆・重隆/岩城氏の最盛期
「永正十一[1514]年七〜八月の交、岩城由ゆき隆は佐竹義舜とともに、宇都宮忠綱らを那須口に攻め、さらに宇都宮附近でこれと戦った(茂木文書『会津旧事雑考』)。古河公方こがくぼう足利政氏とその子高基との対立抗争にさいし、政氏からの依頼によって出動し、高基方の宇都宮氏を討ったのである。(中略)
政氏・高基父子の双方が、最も大きな期待をよせた奥州武士が、岩城氏に他ならなかったことは、『岡本文書』に収める両者の書状がこれを物語っている。岩城氏はいま、南奥随一の勢力にまでのしあがったのである。」(『福島県史』)
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「由隆は大永三年(一五二三)のころには家督を子息政隆(のち成隆)に譲ったとみられるが(『岩城史料』)、岩城氏の系図には、政隆の名は記載されていない。(中略)
天文三[1534]年、伊達・蘆名・岩瀬二階堂・石川の諸氏は、連合して岩城・白川両氏を攻め、岩城氏は木戸・金剛川に敗走した。これは息女久保姫と伊達晴宗との縁約を重隆が拒否し、白川に嫁させようとしたためである。(中略)
天文十年(一五四一)重隆は、佐竹・白川両氏の東館(東白川郡矢祭町)をめぐる紛争を調停した。このとき、岩城方の老臣として白川氏との折衝に当たったのは、竹貫広光・同隆光であった。かつて石川一族であった竹貫氏は、すでに岩城氏の麾下となり、したがって竹貫(東白川郡古殿町)の地も岩城領となっていたのである。(中略)
〔下野守〕常隆・由隆・政隆・重隆の代に、岩城氏はその最盛期を現出したといえよう。
天文十一年(一五四二)、伊達稙宗・晴宗父子の抗争という形でおきた伊達家中の内訌は、北奥州を除く奥州全土を戦乱にまきこんだ。岩城重隆はこの乱に、終始晴宗方として行動した。さきにふれたように、晴宗は重隆の女婿である。(中略)
この乱にさいして、重隆が上遠野一族をあわせて田村月斎(顕頼)にも出陣命令を出していることは、重隆勢力の田村家中への浸透を示すものである。」(『福島県史』)
左京大夫親隆
「外祖父重隆の嗣子となった〔左京大夫〕親隆(伊達晴宗の子)は、(中略)天文の乱中の天文十六[1547]年九〜十月の交に、伊達家から岩城家に入ったものとみられる。(中略)
永禄三年(一五六〇)、南郷(東白川郡)は佐竹義昭の手中に落ちた。このころ(中略)佐竹氏の手はすでに岩城にものび、(中略)岩城氏は重要な一族を佐竹氏によって切りくずされた(中略)。この傾向は、永禄八[1565]年ころとみられる親隆と義昭息女との結婚によってさらに強められたであろう。永禄十二[1569]年のころには、佐竹義重は白川・二本松両氏と戦い、これを助ける蘆名・田村・二階堂の諸氏とも緊張抗争関係にあったが、岩城氏はすでに佐竹への友好従属の形をほぼ決めているのである。(中略)
南の佐竹との関係を安定させた親隆は、元亀元年(一五七〇)相馬氏から富岡・木戸両城を奪回して楢葉郡の支配を確保した。翌元亀二[1571]年には、佐竹義重はみずから平に出張し、岩城家中の舟尾・窪田両氏の紛争を裁断するなど、いわき地方に対する事実上の支配権を示威した。(中略)
天正六年(一五七八)(中略)二月に『岩城当郡主源氏女』が、白水大師堂に禁制を与えている。源氏女は佐竹義昭息女、岩城親隆室である。『当郡主』という称は、親隆がすでに死去し、彼女が岩城氏の当主となっていることを推測させる。この直後、十二月までの間に、〔左京大夫〕常隆が当主(郡主)の地位についたものであろうか。」(『福島県史』)
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「左京大夫常隆は、磐城の生んだ英雄であるが、早逝したのは惜しまれる。彼の活躍は或る時は伊達政宗を抑え、秀吉に迫るほどであつた」(『平市史』)。
小野攻めと猪狩・大越両氏の対陣
1576〔天正4〕年、「岩城左京大夫常隆兵を起し、竹貫三河守・同但馬守・猪狩中務小輔〔親満〕・同下野守〔親之〕・三坂〔越〕前守等先陣にて、上移〔船引町〕の城を攻め落とさんと小野郷へ押し寄せる。此の城には田村宮内大夫顕貞〔顕康〕五百余人にて籠もりけるが、小勢なれば覚束なしとて、小野新町の城主田村右衛門清忠〔清康〕、小野六郷の兵七百余人を催して顕貞〔顕康〕へ加勢す。又大越の城には橋本紀伊守信貫〔大越顕光〕七百余人にて籠城し、鹿股彦四郎を大将として三百余騎、其の外(中略)の城持共、皆田村方として東西南北に入り乱れて、合戦相止む事ぞなき」(『奥陽仙道表鑑』)。
この1576年は、猪狩氏と大越氏との対峙が記録に見える最初の年である。このころから始まった岩城常隆の田村領攻めは、このあとも十有余年にわたって続けられ、その度に、猪狩・大越両氏は、時の情勢により敵となりあるいはまた味方となって、勇躍戦陣に赴いたのである。
しかし、そればかりではない。この大越・猪狩両氏ひいては澤田氏は、以後四百年間の歴史の歩みの中で、あたかも見えざる運命の糸に操られるかのごとくに、互いに引き寄せられていくのである。
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「天正八[1580]年常隆は、蘆名盛隆および佐竹義重とともに田村清顕を攻めている。盛隆は須賀川二階堂氏から入って蘆名氏をついだものであり、また白川地方はすでに天正三[1575]年、完全に佐竹義重の征服することろとなっていた。田村氏をめぐる佐竹・蘆名・二階堂・白川・岩城の連合体制は、こうして成立したのである。けれども、岩城常隆は天正十一[1583]年には三月のころ伊達・相馬の調停を行い、また七月のころには伊達輝宗の相馬攻めの後詰めを承知するなど(『治家記録』)、なお伊達氏との友好関係を保持していた。」(『福島県史』)
再度小野郷に出馬し猪狩・大越両氏再びまみえる
「天正十二[1584]年、〔塩松〕大内備前守斉義〔定綱〕、田村清昭〔清顕〕に叛き、〔会津〕蘆名氏に属し、屡々田村の軍を破る。磐城左京太夫常隆(時年十八)是を機とし、兵を小野郷に出す。田村の族将、田村右馬頭清忠〔清通〕、仁井町〔新町〕にあり、小野六郷を支配す。父を梅雪〔斎〕といふ、三春にあり、老職たり。小野郷は、岩城と堺を接するを以て、屡々岩城の兵を破る。右馬頭〔清通〕郷中の兵を募り之を防ぐ、未だ甞て清昭〔清顕〕の援兵を乞はざるなり。
九月十三日、常隆の大軍、進んで仁井町の枝郷赤沼を攻め、吉鳥屋の山上に陣す、先陣は三坂越前守、二陣は竹貫三河守、嫡子中務大輔父子なり。清忠〔清通〕、小野右衛門大夫〔清康〕、大越紀伊守信貫〔顕光〕等と諸兵を指麾し、出でゝ之を防ぐ。常隆皷譟して進む、田村の先鋒、赤沼加賀守、小野彦七郎等を破り、首を斬る五六十、敗兵城に拠り拒守す。
同十月、常隆三千余騎、進でヤツサク〔谷津作〕村に陣し、小野仁井町の城を攻む。三坂越前守、竹貫三河守、善く射る者に令し、城に逼せまり斉く射る。右馬頭〔清通〕の兵善く防ぐ、一挙抜べからず、兵を纏め、ヤツサク村に退く。猪狩中務大輔〔親満〕、急使を馳せ警報を伝ふ、曰く、相馬長門守義胤、兵を出し岩城の虚を擣つかんとすと。常隆即ち仁井町の圍かこみ を解き、岩城に帰る。右馬頭〔清通〕等相慶して曰く、大内我を西に破る、岩城我を東に攻む、田村の存亡未だ知るべからず、今や常隆兵を引て去る、蘇息の思ありと。『仙道表鑑、仙道館主由来記、同離散記、九家世記、那須記』」(大須賀次郎『磐城史料』歴史図書社)
高倉合戦と猪狩氏の後方攪乱
「天正十三[1585]年十一月、安積高倉合戦は、佐竹、葦名、白河、石川、岩城の諸氏が連合して〔た〕伊達氏攻撃によって開始された。総兵三万五千人、奥州の大戦であった」(『平市史』)。
常隆は、「留守をする猪狩紀伊〔守守之〕あてに、大越・鹿股など背後から田村勢の牽制攪乱を計るように命じていた(『伊達治家記録』)」(『三春町史』)。
「十一月十六日、会津、磐城の兵は前田沢兵部小輔を先導として進み、前田沢の南に陣した。伊達政宗は本宮に陣して観音堂を守り、伊藤、高倉、桑折、富塚の諸氏をして高倉城を守らしめた。石川、白河の兵は本宮を攻めたが、高倉の城兵出て防いだ。岩城氏の武将、竹貫三河守重光は、弓隊の射手六百人に命じて総攻撃に入った。一方会津の隊将富田尾張、中目式部などは観音堂を攻めてこれを破った。伊達氏の軍勢は大敗した。」(『平市史』)
田村氏の内紛と岩城党大越氏
翌1586年10月、「田村清顕急死して嗣子がなかつた。田村月斎〔顕頼〕、田村梅雪〔斎顕基〕、小野隆信〔右衛門清康〕、橋本貞綱〔刑部顕徳〕などは清顕の後室を輔佐した。後室は相馬義胤の叔母、伊達政宗は清顕の女婿であつたので、何れと盟約を結ぶかについて意見が一致しなかつた。上大越紀伊守〔顕光〕、下大越備前、小手森〔四本松〕石川弾正などは相馬に通じた。
天正十六[1588]年〔閏〕五月、相馬義胤は兵を率いて三春に入つた。橋本貞綱〔刑部顕徳〕は相馬氏の田村入りを拒否したので義胤は相馬に帰つた。」(『平市史』)
同「天正十六[1588]年六月、葦名義広は兵を仙道に出したが佐竹義重、義宣父子は大軍をもつてこれを援けた。白河、須賀川二階堂、石川、磐城の諸氏も伊達氏を攻めて前[1585]年の高倉の役の志を達せんとした。あわや大決戦となろうとしたが、常隆は葦名、伊達両氏の姻族なるを以て和を進めた。六月十六日、葦名、伊達両氏の和睦成り、諸氏は兵を率いて帰郷した。」(『平市史』)
同年8月、「政宗は田村に入り、田村宗顕を三春城代として相馬に通ずる者は滅ぼして、田村を鎮圧した。これに反対した田村梅雪、小野右衛門、大越紀伊守は〔同8月末ごろ〕相馬氏との盟約を解いて岩城常隆に通じた。」(『平市史』)
かくて、大越氏はついに岩城党となり、猪狩氏ひいては澤田氏の同陣となった。以後三氏は、長くその命運をともにすることになったのである。
猪狩主従田原谷の戦い
「〔翌天正〕十七[1589]年〔四月〕、伊達政宗密かに竹貫たかぬき三河守を招く、三河守応せす、之を常隆に告訴す、常隆、三河守及び白土摂津守、三坂越前守等と議して曰く、政宗の志知るべし、我豈あに座〔し〕て彼か攻略を待たんや、政宗、清顕の女婿を以て応援に詑ん〔託し?〕、田村の地を奪ふ、田村の臣族心服せす、去年田村梅雪〔斎顕基・清通〕父子小野右衛門〔清康〕、大越紀伊〔顕光〕等来つて我に寄る、我之を容んとす、彼之を拒む、勢兵を以てせさるを得ず、小野六郷我の隣地なり、款を送り降を約する者〔多〕し、先つ小野郷を異〔略〕する〔に〕苫〔若し 〕かすと令を下し兵を募る、三月〔四月十五日〕自ら六百余騎に将として発す、路を好間山中に取る、猪狩中務少輔親満、同下野守〔親之〕等楢葉の兵を率ゐ常隆に桶木売おきうりに会す、常隆中務の子弟を軍に従はしめ、中務、下野〔守親之〕の二人は留て磐城を守らしむ。二人従はんを乞ふ、許さす、九日進んて小野郷に入り火を村舎に縦はなち、田原谷の城を攻む、是より先き城主中津川兵部太夫中津川の城に移る、家老宗像右近をして此〔田原谷〕城を守らしむ、兵部太夫田村に叛き款を常隆に送る、右近諌めて聴かす、怒て去る、城に主将なし、然も田村氏の磐城氏を防ぐ、此城要地にあり、因て修築を加え精兵を置く。 常隆急に攻むる、一昼夜之を抜く、士卒の首を斬る、五百余級我の良士猪狩平次、同四郎五郎兄弟等之に死す、廿四日鹿股城を攻む、城兵防守、尤も力む、常隆環撃之を蹙ふむ、矢丸雨の如し、城兵死する者、半に過ぐ終に城を棄て走る、小野仁井〔新〕町、中津川、大越の諸城は城主皆我に属す、攻めすして降る」(大須賀均軒『磐城史料』)。
この鹿股城の攻略によって、1576(天正4)年ごろ「以来の常隆の田村領攻めは、ひとまず成功したのである。」(『いわき市史』)
大越の異変
同じく1589(天正17)年4月、「爰ここに大越紀伊守〔顕光〕つげづくと思案しけるに、常隆も小野・大越の抱へ末々迄はなり難し、我身大事迫れり、此の上は〔伊達〕政宗へ降参して日頃の非を改めんと忽たちまちに心を変じ、郎等〔党〕の本田孫市と云ふ者は田村の本田孫兵衛の子にて有ければ其節目を以て是を遣し、白石若狭守〔宗実〕・伊達藤五郎〔成実しげざね〕を以てひたすらに政宗へ歎き申し、御味方に参るべく候、其忠節には其若それもし此の度不心意や有ると常隆疑心せられて、其が警固の為に侍二人勢を付けて竜子山にさし置かれ、町屋に在陣あり候、さあらば門沢の城より大山つゞきに候間、田村宮内小輔〔顕康〕と申し合せ御人数を直に本丸へ引き込み、未明に町屋へ押掛け二頭の衆を打果し、是をしほに御奉公申すべしとて様々詫事申しければ、政宗聞届けられ、相違有るまじき由、田村にて芸州隆顕時分より久しく奉公申したる青木不休斎と云ふ者を以て、政宗直判の書を大越に賜る。
是の事如何してもれたりけん、磐城常隆聞き給ひ大いと立腹し、北郷刑部小輔と云ふ大剛の侍を大越が許へ遣し、彼を引き立て来たれと怒らるれば、刑部小輔畏かしこみ奉ると容易たやすく領〔了〕承して御前を罷り立ち、宿所へも帰らず直に大越の城に至りて紀伊守〔顕光〕を呼び出し、御尋ねの事是れ有る由参られ候へとて引立て、小野へ走り行き、常隆へ斯と申せば、常隆喜悦限りなく、紀伊守をば岩城平へ差遣し切腹させらる。偖さて北郷に
は、今度の働神妙なりとて数々の褒美を賜りぬ。」(『奥陽仙道表鑑』)
岩城家臣大越氏
「偖さても大越紀伊守〔顕光〕が陰謀露見せし事は、田村宮内小輔顕貞〔顕康〕が許より内々示し合せし謀書を、紀伊守懐中して有りけるが誤って途中へ落せしを、其の妾つま是を見付けてひろい取り、舎弟〔兄?〕橋本〔大越〕甲斐守と云ふ者に見する。甲斐守是を取りて、暫時預かるべき由云ふて受け取りけるが、此の甲斐守元来紀伊守と其の仲よからず、今主君に対して逆心を企る、是に与すべき様なしとて、忽ち此の状を常隆に見せ奉る故、事露見して紀伊守囚れける。此の忠節によりて、大越の城を、常隆より甲斐守にぞ賜りける。」(『奥陽仙道表鑑』)
かくして、1589(天正17)年4月、大越氏は、名実ともに「岩城家臣大越氏」となったのである。
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同「天正十七[1589]年六月、政宗は遂に葦名氏を滅ぼし会津を平定した。更に二階堂氏を攻めたが、二階堂氏は岩城、佐竹の両氏に援を乞うた。常隆の武将竹貫中務少輔、植田但馬守などは二階堂氏を援けた。然しながら戦いは不利、但馬守は戦死し、竹貫中務少輔は従兵と共に竹貫に帰つた。」(『平市史』)
英傑常隆小田原参陣の途次客死す
かくて、「豊〔臣秀吉〕公、小田原追討の砌みぎり、常隆後栄を察し猪狩、竹貫、三坂、上遠野、植田等の宗徒の郎等を召具し関東へ馳せ参られけるが、天正十八[1590]年七月二十二日、鎌倉星ヶ谷〔相州高座郡座間郷星ノ谷・現座間市〕にて病卒せられ」(『磐城文化史』)た。「年二十四、英傑常隆は若くしてこの世を去つたが惜しむべきことであつた。常隆こそ、正に一代の風雲児であつた。嗣子がなかつたので、重臣白土摂津守などが相談して佐竹義宣の四男能化丸のうげまるを養子とした。これを岩城忠二郎貞隆と称した。」(『平市史』)
同「天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって岩城氏は大名としての存続を許された。」(『角川日本地名大辞典』)
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猪狩・澤田氏伊達氏に随仕す
「慶長元[1596]年春、佐竹氏、岩城五郡の諸士を移転し〔佐竹竿〕、〔常陸国〕多賀郡松岡城主、大塚掃部助隆通を、楢葉郡折木城に移」(『大日本地名辞書』)したので、同「慶長元[1596]年、浅見川村高倉山城主、猪狩下野守〔親之〕」は「伊達家へ随仕」して「信夫郡〔福島市〕へ去」(『大日本地名辞書』)った。
「〔1602年〕岩城国替の時分、貞山〔伊達政宗〕様(中略)猪狩下野〔守親之〕処へ仰せ下され候は、岩城落着之段聞こし召され候。兼て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台藩〕へ罷り越す可き旨仰せ下され(中略)、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候処」(『仙台藩家臣録』)、「是ヲ以テ姑シバラク糊口ノ資ト爲シ、四百石之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里(膽沢郡)両邑ニ於テ給サル、」(『伊達世臣家譜』)
澤田氏もまた猪狩氏に従って、楢葉八幡神社ゆかりの「主神磐城大明神他二神の氏神三神」を背負い、一路奥州街道を北へと道をとったのである。
貞隆の改易と猪狩諸氏の離散
1600年の関が原の戦いに際して、「〔石田〕三成・〔上杉〕景勝と気脈を通じて、〔徳川〕家康の催促にもかかわらず、ついに東軍のために大きく兵を動かすことのなかった佐竹義宣は、常陸国(茨城県)の旧領五十四万石を没収されて僻遠の地秋田に移され」(『東北の歴史』)た。
一方、「〔岩城貞隆〕公は家康のため兵を出して〔上杉〕景勝を討せんとの用意あり。然るに兄、佐竹義宣より使を以て景勝を討するの不可を申し送りければ、公は之を拒むに堪えずして遂に出兵を止む。その乱平らぐの後は家康の怒に触れ」(『新編秋田県史談』)、「慶長六辛丑〔七[1602]壬寅みずのえとら〕年、京都ニ於テ岩城領残リ無ク召上ラレ、武州江戸エ下リ、浅草ニ住居仕候、(中略)
一、同七[1602]壬寅年(中略)九月廿日、三百人、御扶持下置カレ、本多佐渡守正信組ニ仰付ラレ候旨、京都ニ於テ、仰渡サレ領地之義追テ御沙汰有ル可ク之越〔趣〕仰付ラレ候」(「亀田岩城家譜」)て、「貞隆は兄義宣のもと秋田に移り増田1万石を与えられた。」(『角川日本地名大辞典』)
「岩城則道から約五百十余年続いた旧家も磐城の土地を離れてしまったのである。この時、藩では五百石以下の家士は同行を許されず、村々に住みつき或は農を営んだり町人になったりして、ほんの僅かの幸運の者だけが後任の鳥居や内藤家に仕官できたのである。」(『東北中世史』)
猪狩諸氏もまた離散の運命となったのである。
岩城家臣大越氏の終焉と秋田・仙台大越氏
一方、「岩城家臣大越氏」の当主甲斐守もまた、岩城氏とその運命をともにした。甲斐守は、1602年「岩城滅亡するに及ひて」「入道して未了と号し、武州浅草辺に住す。〔同1602年〕岩城〔貞隆〕殿亦御流落之後、浅草に来たり、甲斐一所に居玉ふ。大越は旧岩城親戚之好み有るを以て也。」(「大越家系勤功巻」) 「岩城〔貞隆〕殿浅草に居玉ふ中、〔1602年徳川〕家康公召出し玉ひて、羽州庄内地〔増田〕に於て一万石を賜ふ。此に於て、入道未了〔甲斐守〕二人の男子を以て庄内〔増田〕へ遣す。岩城殿より〔秋田〕佐竹義宣公へ御頼みを以て、兄大越因幡に千石を賜ひ、弟甚右衛門に五百石を与へ、共に大越を稱す。子孫今猶〔秋田〕佐竹の家臣にて、代々之に仕ふ。」(「大越家系勤功巻」)
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「甲斐守ハ即チ源兵衛ノ兄也」。仙台大越氏は、この「大越源兵衛某ヲ以テ祖ト為ス」(『伊達世臣家譜』)。源兵衛は、「初め〔1589年11月〕兄甲斐守一同に大越を除き、」1602年「岩城滅亡するに及ひて」「伊達〔信夫しのぶ〕郡鞠子村〔福島市丸子〕に住す。数年の後〔1606年〕、二男十左衛門〔茂世〕政宗公于に仕えるを以て〔1606〜15年の間に〕黒川郡北目〔大崎〕村に領地を有し、而来住みて卒す。」(「大越家系勤功巻」)
1588年8月15日紀伊守が相馬氏に反して「岩城党大越氏」となって以来13年、翌1589年4月甲斐守が公式に「岩城家臣大越氏」となってからは12年にわたった「大越氏の岩城時代」は、ここにその幕を閉じたのである。
それからの岩城
「岩城氏の跡には、関ガ原戦に伏見城の守将として壮烈な討ち死にをとげた鳥居元忠の子忠政が、〔1602年〕下総国矢作四万石から加増されて入部した。(中略)
一六二二年(元和八)最上義俊の改易の跡に鳥居忠政が磐城平から山形二〇万石の主となって入部し、」(『東北の歴史』)「そのあとには内藤長政が磐城平7万石の藩主になった。(中略)寛永11年(1634)家督を相続した〔内藤〕忠興は、弟政晴に自らの2万石を譲って泉藩をおこし、さらに寛文10年(1670)三男遠山政亮に菊田・磐崎の新墾田1万石を分知して、湯長谷藩を立藩させ、磐城三藩が成立した。この3藩は領主には変動があった
が、幕末まで続いた。」(『角川日本地名大辞典』)
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大越甲斐守主従仙台さして下りける
ところで、既述のごとく、1589年4月「紀伊守謀叛之旨を申に因て、紀伊守所領居城共に直に之を」(「大越家系勤功巻」)岩城常隆から与えられ、「甲斐守大いに悦びて此の恩義をや思ひけん。
後[1590]年、常隆相州小田原へ参陣して鎌倉の星ヶ谷〔座間市〕にて卒去有り(中略)。然るに前の〔左〕京兆けいちょう〔京大夫〕常隆死去の[1590]年、其の妾一人懐妊し、男子出生しけるを、橋本〔大越〕甲斐守兎角して有てけれども、此の人俗躰にて有らんは始終のため悪かるべしとて、幼年の頃より相州藤沢道場へ遣し、剃髪させて名を隆洞と号しける。
隆洞程なく十一歳になられけるを、橋本甲斐守ひそかに是を取り立て、先ず〔岩城〕貞隆に暇を乞ふて岩城を立ち出でけるに、〔1600年〕はからずも庚子の大乱〔関が原の戦い〕出て来り、石田治部小輔三成滅亡し、〔1602年〕佐竹・岩城の人々も供に出羽国へ移されければ、甲斐今は世に憚る所なしとて隆洞に環俗させ、形計りも家の名を相続させんと種々企てけれども、
時や至らざりけん、殊更に便り宜よからず、与力の者もなかりければ、甲斐守力及ばずして居たりけるが、伊達陸奥守政宗は岩城親隆の甥〔政宗の父輝宗は親隆の実弟〕にて隆洞とは従弟〔従姪じゅうてつ〕なれば、是を頼んには疎略にはおはさしと心付きて、〔1607年〕隆洞を伴ひ仙台さして下りけるとかや」(『奥陽仙道表鑑』)。
一門岩谷堂伊達氏祖政隆
隆洞は、1607年「政宗公に仕へて、子孫江刺郡岩谷堂〔岩手県江刺市〕の邑主」(『仙台人名大辞書』)となった、岩城政隆改め伊達一門岩谷堂伊達氏の祖政隆その人である。
「始〔初〕め岩城長次郎と称す、慶長十二[1607]年政宗公に仕え、采地一千石を賜ふ、十五年[1610]年三月三日(一に十三[1608]年) 伊達の称号を賜へて一門に列す、元和三〔元[1615]〕年八月八日没す、享年二十六」(『仙台人名大辞書』)。
「政隆
長次郎、母妾、常隆遺腹子
一、慶長十二[1607]年仙台エ下リ、伊達政宗臣トナル、其後、家苗伊達ニ改ム、元和元[1615]年八月八日廿六歳ニ而卒、法名秀山宗菊」(「亀田岩城家譜」)
忠臣大越甲斐守
既述のごとく、1602年「二人の男子を以て庄内〔増田〕へ遣」し、「岩城殿より〔秋田〕佐竹義宣公へ御頼みを以て、兄大越因幡に千石を賜ひ、弟甚右衛門に五百石を与へ、共に大越を稱」(「大越家系勤功巻」)せしめていた甲斐守は、大恩ある常隆の遺腹子政隆の家名再興のためにも、単身腐心していたのである。
大越甲斐守は、じつは岩城「常隆の乳母子」(『桾拾集』)であった。大越氏と岩城氏ひいては佐竹氏との因縁は、まことに浅からぬものがあったのである。
艱難辛苦の末、1607年ついに主従連れ立って伊達政宗を頼んで仙台に下り、同年1000石で家名の再興に成功した。さらに1610年には、岩谷堂伊達氏として伊達氏の一門にも列せしめた。だがこの政隆は、1615年弱冠26歳で、おそらく甲斐守に先立って、不幸にも若死
にしてしまった。
以上のような事情であったとすれば、甲斐守は、とうぜん岩谷堂伊達氏の重臣ともなってしかるべきなのであるが、そのような形跡は残されていない。
「大越家系勤功巻」は、ただ
「而して未了〔甲斐守〕終に浅艸〔草〕に於て卒す、行年不詳」と記すのみである。
猪狩諸氏の岩城退散
「さて慶長三[1598]年の頃、岩城の旧領は里〔黒〕木又七郎が本領し、同五〔七[1602]〕年鳥居左京亮すけ忠政が岩城平を拝領した。鳥居家では従前の士分も百姓とし年貢を上納させようとし、慶長七[1602]年忠政入部から厳命更に耐え難かったので、政宗を頼み岩城を退散することになった。当時譜代十人の家士一同は富岡〔福島県双葉郡富岡町〕に集まり、慶長八[1603]年四月一日未の刻〔午後2時〕富岡を出発相馬領に向かったが、途中鳥居家の追手が再三迫ったので矢を射かけ、中村・新地・坂本から岩手山城下の指示を仰いだところ、根の白石に住居すべしとあり、茂庭石見の計らいで扶持願も差出した。
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その〔1603年〕秋半ば岩城よりの使者来り、政宗の案内人と共に〔根の〕白石を襲い猪狩甚之亟外二名を捕えたが、猪狩蔵人に追払われた。のち三人は斬られたので政宗は大いに憤っている。また岩城出立の時、同遁の内半数は出羽秋田に落行き、首尾よく落付いた方から迎えに来る約束であったが、〔根の〕白石から岩手山市中に移った後も岩城から使者が再度来たので、伊沢郡〔岩手県胆沢郡〕南下巾村へ移住して新田開発(相続)せよとの命により、慶長九[1604]年浅野に移住したがそれでも岩城からの使者が奉行に訴えた。然し以後は男は水沢・前沢の市に出ず、七年ばかり女のみ市場に通った。」(『岩手県史』)
岩谷堂伊達氏
既述のごとく、岩城政隆は大越甲斐守に伴われて、「慶長十二[1607]年政宗公に仕え、采地一千石を賜ふ、十五年[1610]年三月三日(一に十三[1608]年) 伊達の称号を賜へて一門に列」(『仙台人名大辞書』)して、「元和元[1615]年八月八日廿六歳ニ而卒」(「亀田岩城家譜」)した。
跡目は、「子国隆幼名子々松、長じて清次郎また薩摩」(『仙台人名大辞書』)が継いだ。
「長年のうちに新田開発したが悪地なので三分の一だけ竿答をなし、知行三分の一の高で相続した。開墾新田は多かったが悪地なので、善地を手作のため江刺郡次丸村の散田を申し受け、浅野から二十里余の所に通って手作した。(中略)
浅野に居るうち(元和四[1618]年)政宗の巡視があり、浅野から二十町許り西方の三分森で十人衆が拝謁した(この時、開墾の耕地十町歩を献じたともいう)。
〔1614・15年〕大阪〔冬夏〕両陣にも茂庭石見に属し働いたが常の勤務(役職)はなかった。然し元和八[1622]年に岩谷堂の館は〔伊達〕忠宗の『御部屋』になったので、『御部屋奉公』を願い出て許され、城代藤田但馬の指示で成就し、元和九[1623]年岩谷堂に移転し、〔猪狩氏等の〕仲間の者も移って来た。以上が『武備盛衰記』抜萃にのべる岩城家が岩谷堂に落付くまでの経過である。」(『岩手県史』)
国隆は、「寛永廿一[1644]年忠宗から栗原郡、磐井郡、東山に於て千二百石を賜った。
」(『岩手県史』)
「慶安元[1648]年九月十一日没す」(『仙台人名大辞書』)。
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「国隆子なきを以て〔1655年〕忠宗公第七子宗規君を女に配して嗣となし、」(『仙台人名大辞書』)「萬治二[1659]年八月、綱宗公江刺郡岩谷堂を賜ひ、禄三千石を増して四千二百石餘とな」(『仙台人名大辞書』)り、「岩谷堂岩城〔伊達〕家の始祖となった。『武備盛衰記』の原本は最近発見された。」(『岩手県史』)
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御遺領川中島一万石
さて、その後岩城貞隆は、
慶長「十九[1614]年、同廿[1615]年、冬夏両度大阪御陣、本多佐渡守正信手ニ属シ出陣仕候、
一、元和二[1616]丙辰ひのえたつ年八月、信州河中島ニ於テ、一万石下置カレ候、旨仰付ラレ候、
一、同三[1617]丁巳ひのとみ年(月日不詳)御暇下サレ、初而ハジメテ信州河中島エ罷下候、(中略)
一、同[1620]年十月十九日、三十八歳ニ而、武州浅草江戸ニ於テ卒、同所浅草、総泉寺ニ葬ル、法名徹宵院雲山宗龍」(「亀田岩城家譜」)。
吉隆の佐竹宗家襲封と亀田藩二万石
貞隆の嫡子「岩城修理太夫吉隆は慶長十四己酉つちのととり年(一六〇九)正月十四日江戸で誕生した。御母公は相馬長門守義胤の娘である。
元和六年(一六二〇)〔父貞隆が死去すると、〕十二歳で御遺領(信州河中島)一万石を継ぎ、同八[1622]年十月亀田〔現秋田県由利郡岩城町〕で一万石加増、翌九[1623]年亀田に国替を命ぜられ〔、〕寛永元年(一六二四)封土に就かれた。この年十二月二十九日従五位下・修理太夫に叙任された。亀田に所替の節河中島の一万石の代りに由利郡にて一万石を拝領したので都合二万石となった。
寛永二[1625]年九月二十八日諸士へ夫々知行の黒印を下し置かれた。これは貞隆浅草浪人中の随身に対しその忠勤を賞されたのである。」(『東北中世史』)
翌「寛永3[1626]年吉隆は義宣の嗣となって佐竹氏の2代藩主義隆となったため、亀田には檜山ひやま城代であった義宣の弟多賀谷宣家が幼児重隆とともに入り藩主となって宣隆と改名した。」(『角川日本地名大辞典』)
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