InterBook"紙背人"の書斎(最終更新日時:10.10.9,10:46 AM

澤田氏の歴た道
奥州黒川澤田家譜

(八)
第五部 奥州黒川澤田家譜(本家)

澤田 諭編著


InterBook絶版の森


第五部 奥州黒川澤田家譜(本家)


 「〔1797年〕寛政の転法によつて仙台領農村は比較的安定した状態となつたが、これに対して伊達家や〔猪狩氏等〕家中の財政難は一向に改善されなかつた。十九世紀はじめの文化文政時代になると、江戸米価下落や蝦夷地警備をはじめとする数度の幕府からの課役、さらに当時の一般的な華美の風潮等によつて、伊達家財政はいよいよ悪化し(中略)た。〔猪狩家等〕家中の窮乏は一層甚だしく、士風の頽廃は藩当局にとり重大な社会問題とさえなつた。しかもこの重大な時期に、藩政の頂点に立つ藩主が代々いずれも若死にしたことは、藩政の衰退に拍車をかけた。」(『宮城縣史』)


第一章 初代源太源清重(1798-1873)

第一節 黒川澤田宗家の中絶

両親の急逝と遺児源太
 澤田源太源清重さわだげんたみなもとのきよしげは、1798(寛政10)年、黒川澤田宗家末代源太郎宗〓〔重〕=同妻名不詳の嫡男として、北目大崎村猪狩家在郷屋敷の家中屋敷に生まれた。私の五代の祖である。
 おりから、主家仙台猪狩家八代「富之カ子弥惣兵衛将之〔、翌〕寛政十一[1799]年四月父ニ代リ奉職ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
 ところが、同1799(寛政11)年、不幸にして父源太郎夫妻があいついで急逝した。わずか2歳の遺児源太は、父の又家中・現「沢田別家(上うえの家)」の祖先に預けられ、その手で養育されることになった。成人までの間はくだんの又家中がその後見人となり、「猪狩家御用人」の職務を代行することになった。

黒川澤田宗家の中絶
 7年後、先年父の名代となったばかりの猪狩弥惣兵衛将之が、「文化三[1806]年九月未タ家ヲ承ケスシテ死ス
 将之カ子木工右衛門隆之是ノ時幼ニシテ且ツ虚弱〔、〕是ニ於テ将之カ弟ヲ以テ嗣ト為シ〔、〕之ヲ〔九代〕助五郎康之ト稱ス。」(『伊達世臣家譜』続編)
 なんという運命のめぐりあわせであろうか?主君仙台猪狩家の弥惣兵衛将之とその家中
澤田源太郎主従は、相次いでまったく同じような不幸に見舞われたのである。特に遺児となった源太にとっては、それは二重に不運な凶事であった。源太の将来を左右する主家猪狩家の悲劇は、源太自身の運命にも大きな影を落としかねなかったからである。
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 不幸にして、それは杞憂ではなかった。主人の遺児源太の後見人となり澤
田氏の職分を代行していたくだんの又家中は、おそらくはこの間の猪狩家の混乱にも乗じて、源太の成人前にその姓を侵して「沢田家(上うえの家)」を名乗り、社禝を簒奪して「黒川澤田宗家」の衣鉢を継いでしまった、と伝えられている。ここに、17世紀初頭以来の「黒川澤田氏(宗家)」正系は、いったん中絶のやむなきにいたったのである。
 封建時代は、現代の我々の想像を絶する世界である。男子がなければ、直臣はおろか藩主大名家といえども断絶を免れなかった。まして、一陪臣においてをや!

第二節 黒川澤田本家の再興

仙台猪狩家十代木工右衛門隆之
 過ぐる「文化三[1806]年九月未タ家ヲ承ケスシテ死」した猪狩弥惣兵衛「将之カ弟」・九代助五郎康之が、「〔翌〕文化四[1807]年五月父〔八代富之〕ニ代リ奉職ス〔、文化〕八[1811]年(月ヲ闕ク)家ヲ承ク。」
 「幼ニシテ且ツ虚弱」だった「将之カ子」「木工右衛門隆之長スルニ及ヒ而強健ナルヲ以テ、文化十[1813]年二月請ヒテ康之ノ嗣ト為ス」(『伊達世臣家譜』続編)。
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 猪狩弥惣兵衛将之は父源太郎源宗〓〔重〕と、その子木工右衛門隆之は源太とほゞ同年
齢だったはずである。「幼ニシテ且ツ虚弱」の間にその父を亡くす悲運に見舞われた隆之は、「長スルニ及ヒ而強健」となった。そして1813年には、父に代わって「家ヲ承」けていた叔父「康之ノ嗣ト為」となり、その娘智恵を娶って無事父将之の正系を継ぎ、猪狩家十代の家督を相続した。
 それゆえ隆之は、幼くして自分と同じ不幸に遭遇した家中澤田氏の同年輩の遺児・源太の境遇に深く同情し、陰に陽に協力を惜しまなかったのではないかと想像される。

黒川澤田本家の再興
 さて、源太にとっては、「沢田別家(上の家)」は育った我が家であると同時に、父祖以来の「源姓石川氏澤田宗家」の「僣称者」でもあった。長ずるにしたがい、その胸中にはさぞかし複雑な思いが去来したことであろう。
 上記の猪狩隆之が叔父「康之ノ嗣ト為」った「文化十[1813]年」には源太も15歳となっていた。そこで、源太はいよいよ元服し、清和源氏の格式を踏んで「澤田源太源清重さわだげんたみなもとのきよしげ 」と名乗り、形式上逆に「沢田別家(上うえの家)」から分家独立して、現在地に「澤田家(下したの家)」すなわち今日の「黒川澤田本家」を興し、実質上「黒川澤田宗家」を再興した。
 それゆえ、「澤田家(下の家)」は形式上「沢田別家(上の家)」の分家とはなっているが、血縁はない。今日に至るも、上下澤田両家は互いに「本家」と呼び合っている始末であるが、澤田家(下の家)は本来「黒川澤田宗家」嫡流の家柄であり、「沢田別家(上の家)」はその家来の又家中である。
 この間のいきさつは、既述のごとく、私の父・澤田分家初代亥兵衛の祖母まつゑが、「孫子の代までもたしかに伝えるように………」と語り遺したものである。澤田本家三代金五郎=まつゑ夫妻にとって源太は祖父であり、金五郎は19歳まで祖父と生涯をともにした。たしかな事実だろう。

第三節 黒川澤田本家繁衍の礎石

嫡男一馬の誕生
 かくして、源太は亡父初代源太郎の跡を襲って再び猪狩家在郷屋敷御用人となり、父の職分をひき継いで猪狩家五百石の領地経営にあたることになった。源太が仕えた仙台猪狩家の当主は、前期は九代助五郎康之、後期は同世代の十代木工右衛門隆之であったろう。
 だが、このころ「伊達家の財政は、文化年代〔1804〜17〕に入つてから江戸米価の下落、さらに文化五[1808]年の蝦夷地警備などによつて、一層窮乏を増した。この時代にも例によつてしばしば倹約令を出し、あるいは〔猪狩氏等〕家中に貸上金を命じた」(『宮城縣史』)。
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 源太の妻(名不詳)の出自は明かでないが、同部落の中米家(東の家)から出たと
いう言い伝えもある。
 1832 (天保3) 年、源太34歳にしてようやく嫡男一馬
はしめが授かった。源太夫婦は、父源太郎夫婦についで、他に子宝に恵まれなかったようだ。またしても、澤田家は再断絶の危機をかろううじて免れたのである。
 翌「天保四[1833]年以降は連年凶作・飢饉に悩まされ、伊達家の財政は今や決定的な大打撃を受け、農村も荒廃し、仙台藩の解体を早めた。(中略)
 伊達家財政難と同様に〔猪狩家等〕藩士たちの窮乏もいよいよひどいものになつた。かれらは『御手伝』の名のもとに、知行の何割かを藩に召し上げられたり、金石きんこくを借り上げられて窮乏の度を増し、奉公にも差支えるものが急増した。藩ではそのためにしばしば『家中扶助』として貸上金を免除したり、困窮者には金石を分与するなどの対策を講じた。(中略)
 にもかかわらず、これによつて伊達家中の窮乏が救済される筈もなく、〔猪狩家等〕諸士の窮乏はもはや如何ともすることができないほど深刻なものになつていた。」(『宮城縣史』)

磐石の礎
 1851 (嘉永4) 年、源太の妻は、長男一馬19歳のとき、嫡孫の顔を見ることなく52歳で若死にした。法名「春巌妙容信女」。
 1854 (安政1) 年、源太56歳にして嫡孫金五郎が誕生した。おそらくこの前後には、源太は隠居して嗣子一馬に家督を譲ったものと思われる。
 1863(文久3)年二孫佐賀治が生まれ、その後しん・きみの両孫娘も生まれた。
 源太は、不慮の早世にみまわれた父源太郎の無念をみごとに晴らして澤田家を再興し、磐石の礎を築きあげて、明治維新の後まで生き延びる長命を享受した。1873 (明治6) 年6月29日、澤田本家初代源太源清重は、嫡男一馬41歳・嫡孫金五郎19歳に後事を託し、おそらくは澤田本家の未来に大きな期待とゆるぎない確信を抱いて、76歳の天寿をまっとうして大往生を遂げた。法名「現應得性信士」。
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 源太およびその妻は、両親の眠る宮田旧墓地に葬られた。源太夫妻の墓の保存状態はき
わめて良好で、墓碑銘も鮮明に残っていた。源太の墓とならんだ妻の墓には、その俗名は刻まれていない。
 源太夫妻の墓は、宮田旧墓地の墓はそのままに、公式には澤田家の初代として鳥屋とや・玉泉寺の澤田本家先祖代々之墓に合葬され、その後既述のとおり改葬された。


第二章 二代一馬(1832-1896)

第一節 一馬ダンポと幕末の騒擾

一馬の誕生
 黒川澤田本家二代一馬はしめは、1832 (天保3) 年6月6日、初代源太34歳=同妻名不詳32歳の長男に生まれた。祖父源太郎・父源太と三代続く一人子であった。私の高祖父である(同年11月4日には、やがて嫡子金五郎の岳父となる旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎が生まれている。一馬と文五郎は、奇しくも同年の生まれであった。)。
 この年は「平年作以下の作柄で、しかも年貢の減免がなかつたので、百姓は困窮していた。」(『宮城縣史』)
 「徳川後期の財政難にあえぐ仙台藩および窮乏のどん底に追いつめられた農村にさらに決定的な打撃を与え、その崩壊を早めたのは、〔翌〕天保四年(一八三三)以来幕末までの連続的な凶作・飢饉であった。(中略)
 天保四[1833]年以降凶作でなかつた年は(中略)六箇年だけで、ほかはいずれもかなりの被害高を出し、とくに天保四[1833]年、七[1836]年、九[1838]年、慶応二[1866]年の被害が大きかつた。」(『宮城縣史』)

結婚と嫡男金五郎の誕生
 1851 (嘉永4) 年、おそらく結婚前の一馬は、19歳で母を亡くした。
 まもなく、一馬は宮床村山田・八巻深吉二女まちと結婚した。まちは1835(天保6)年10月29日の生まれで、三歳年下であった。私の高祖母である。八巻家は宮床伊達氏の家臣で、やはり宮床伊達氏家臣でのちに澤田家と深い関係を結ぶことになる同村の湯村家と縁戚関係にあった。
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 おりから、「一八世紀末以来欧米の外国船がしばしば来航して日本の開港を迫つた(中
略)が、その後いよいよ多く来航するようになつた。(中略)
 外国船の来航は仙台藩にとつても他所事ではなかつた。今や仙台藩は、外国船来航を契機として好むと好まざるとにかかわらず、領内だけの問題でなく、国家的な問題に目を注がねばならなくなつてきた。封建的な固い殻に閉じこもつておられなくなつてきたのである。(中略)
 〔1853年〕黒船来航を契機とする危機意識の増大によつて、安政〔1854〜59〕以後の幕府や諸藩ではいろいろな改革が相次いで行われるようになつた。(中略)仙台藩でも(中略)諸種の改革が行われた。(中略)改革の中心となつたのは〔、〕奉行芝多周防(のち民部)常則である。(中略) 安政元[1854]年五月奉行職に登用され、才気煥発、軍備に、財政に、民生に、積極的な改革を断行した。」(『宮城縣史』)
 同1854 (安政1) 年8月10日、一馬22歳・妻まち19歳にして、嫡男金五郎が誕生した。一馬夫婦はよく三男二女をもうけて、澤田家繁栄の基を拓いた。

“一馬ダンポ”
 一馬は父源太源清重の跡を襲い、父祖以来の猪狩家在郷屋敷御用人の職に就いた。彼を待ちかまえていたのは、「天保四年(一八三三)以来幕末までの連続的な凶作・飢饉」(『宮城縣史』)と、幕末・維新の物情騒然たる政情であった。当時猪狩家の当主は、十代木工右衛門孝之およびその嫡男で一馬とはほぼ同世代と思われる十一代長作隆福であった。
 当時近郷随一の大身猪狩家五百石の威力を背景にした御用人一馬の権勢は、まさに天にも達せんばかりの勢いで、近在の人々からは「一馬ダンポ(旦方)」と呼ばれて、四辺にその勇名をとどろかせていたという。おあつらえむきに、まったく手のつけられない大酒豪で、家人も容易に近づきえなかったという。
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 「だんぽう〔旦方〕(中略)(3)ダンポといって刀をさしている人をいうこともある。(中略)ダンポ契約は武士達の契約講である。配下のものより役頭のことを旦方といい、又家々にても家来の長を旦方といい、又いときなきものは自分の腰のもの刀を旦方という。一つの言葉にて三つの名となる(やくたい草)」(「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会)
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 「芝多民部に代つて、安政五[1858]年九月奉行になつたのは但木土佐成行である。但木
家は代々宿老の家柄で、黒川郡吉岡千五百石を領した。(中略)人となりは重厚堅実で、芝多民部の才気煥発とは対照をなしていた。かれは深く大槻磐渓〔平次〕に傾倒し、その影響を受けて佐幕・開国主義をとり、藩内の尊皇攘夷論者と対立した。」(『宮城縣史』

次男佐賀治の誕生
 「文久三[1863]年正月十三日、〔出入司〕三好監物〔清房〕は京都より帰藩し、(中略)
仙台藩における尊攘派と佐幕派の対決は最高潮に達した。(中略)この時、キーポイントを握つていた使節三好監物が但木を助けたので、攘夷派の形勢はにわかに悪化した。(中略)こうして正月二十三日、(中略)藩内における上層部の攘夷派は全く一掃された。(中略)
 仙台藩ではいわゆる下級武士の発言力がきわめて弱く、藩内の尊攘論は、(中略)門閥層が主力で観念的なものであり、西南諸藩のように豪農層や下級武士と結びついていたのではなかつた。したがつて革新勢力の発展する基盤は、(中略)仙台藩にはみられなかつたのである。すなわち、下からのブルジョア的発展による封建的危機は、ここではまだ醸成されていなかつた。(中略)
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 文久三[1863]年正月十八日の政変後、仙台藩政は佐幕派の奉行但木土佐によつて指導さ
れたが、一方、京都では尊攘派の勢力がいよいよ盛んになり、仙台藩は朝廷と幕府との間にはさまれて、きわめて微妙な立場におかれた。(中略)
 〔藩主伊達〕慶邦は(中略)〔江戸〕出府を延期し、また京都に対しては、八月十二日名代として一門の〔宮床〕伊達六郎(宗賢むねやす)を上洛させることを届け出てお茶をにごした。六郎は八千石の黒川郡宮床領主で、大番組六十余人を率いて上洛した。(中略)
 この頃仙台藩の財政難はいよいよ深刻なものとなり、九月一日、慶邦は親書をもつて藩内に節倹命を布告し、例によつて『向こう五ヶ年、衣食住をはじめ十万石の分限に取縮め』ることとした。そして衣服は一門をはじめ紬木綿に限り、〔猪狩氏等〕士分・〔澤田氏等〕陪臣は一切綿服とし(中略)た。(中略)
 〔同〕文久三[1863]年九月四日、朝廷の召により、仙台藩は藩主慶邦の名代として再び〔宮床〕伊達六郎を上洛させた。」(『宮城縣史』)
 この1863 (文久3) 年、長男金五郎に九年遅れて、次男佐賀治 (1863〜1888) が誕生した。一馬は31歳、まちは28歳であった。

第二節 澤田家の明治維新

幕末動乱・出羽三山碑
 伊達「慶邦は(中略)、翌元治元年(一八六四)二月九日〔将軍上洛期間中の〕江戸護衛のため出府した。(中略)
 ついで八月、幕府は長州征伐を令し、将軍家茂の親征につき、仙台藩に再び江戸護衛を命じた。この頃から仙台藩の時局に対する方針は、はつきりと中立主義の立場をとるようになつた。(中略)
 幕府は(中略)〔翌〕慶応元年(一八六五)五月十六日長州再征の軍を起し、慶邦に再び江戸警備を命じた。(中略)
 〔翌〕慶応二年(一八六六)正月薩長の倒幕同盟がついに成立し、幕府の征長軍は到る所に敗戦をつづけ、諸侯の向背も測り難い緊迫した情勢になつた。」(『宮城縣史』)
 このころ、大越文五郎は「洋式兵法を学び出色の誉あり、七職を兼ねて裁断宜しきを得、慶邦公名を文五郎と賜ふ。」(『仙台人名大辞書』)。
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 翌「慶應三[1867]丁卯」年「二月拾八日」、一馬は、もと下草・北目境にあり、1976(
昭和51)年東北自動車道開通に際して日光山旧道に移された「出羽三山碑」の建立者の一人となった。これによれば、当該石碑の建立者は、「甚太郎、善〓、石川周助、澤田一馬〔下の家〕、沢田恒三郎〔上の家〕、徳治、忠左衛門、豊治、浦山久〓、周吉」の十名であり、そのうち当時苗字を有していたのは、石川、澤田(下の家)、沢田(上の家)、浦山」の四家のみであったことが知られる(なおここでは、「澤田本家(下の家)」は「澤」旧字、「沢田別家(上の家)」は「沢」略字と使い分けられている)。

奥羽戊辰戦争/明治維新
 同「慶応三[1867]年十月十四日、討幕の密勅が薩長二藩に下された。この日将軍〔徳川〕慶喜は大政を奉還し、情勢は急変した。(中略)仙台藩ではとりあえず但木土佐に至急上洛を命じ(中略)た。」(『宮城縣史』)
 同年11月8日、大越文五郎は「御上京御供登り仰せ付けられ、大番組の組頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。同年同月廿一日(中略)、御上京非常之節は大隊教頭相勤む可き旨(中略)仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 「十二月九日王政復古の大号令が発せられ(中略)た。上洛中の但木土佐は、(中略)慶邦に対して再三にわたり、至急上洛して公武の間に周旋することを願い出たが、慶邦は保守派の一門重臣に抑えられてついに出なかつた。」(『宮城縣史』)
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 「翌明治元〔慶応4[1868]〕年正月〔三日〕勃発した戊辰戦争は、因循姑息な仙台藩をついに悲劇的破局に追い込んだ」(『宮城縣史』)。
 同年正月十四日、「大番組頭大越文五郎〔、〕三好〔監物〕に従ひ京に上る」(『仙台戊辰史』)。
 「二月十四日(中略)、〔文五郎は〕此の度奥羽鎮撫使江相附けらる惣人数之隊長〔奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長〕仰せ付けらる旨三好監物を以て仰せ渡さる。」(「大越家系勤功巻」)
 「三月十日、大越文五郎兵を纏めて大阪を発す」(『仙台戊辰史』)。
 「同十一日天保山洋より蒸気船へ御乗船し、直々出帆す。(中略)同十七日、残らず仙台潜ヶ浦に御着船。」(「大越家系勤功巻」)
 四月二日、文五郎は「奥羽鎮撫総督府仙台藩軍事参謀」に任ぜられ、「出入司
しゅつにゅうづかさを以て軍事参謀を兼ね」た。(『仙台戊辰史』
 翌「四月三日、御目附一同から但木〔土佐〕、三好〔監物〕、坂本〔大炊〕らに対する弾劾状の出た結果、〔三好〕監物と〔坂本〕大炊とは退職、大越文五郎(総督府軍事参謀)、伊藤十郎兵衛(同上目附使番)は病気と称し出勤しなかった。
 三好については御目附の弾劾ばかりでなく、沼沢与三郎の一件があった。(中略)与三郎は(中略)北一番丁の三好の屋敷に行き面会して(中略)『京で〔但木〕土佐殿は何して御座った』と問うと『猪狩後家〔十代木工右衛門隆之室智恵〕がどこにいた』(中略)という」。(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房)
 やがて文五郎は、「七月二十五日〔ついに〕若年寄〔参政〕とな」(『仙台戊辰史』)った。
 この1868(慶応四・明治元)年・明治維新の年、澤田家では、隠居の父二代源太は70歳、三代当主一馬36歳、嫡男金五郎は14歳であった。

土着帰農願
 明治元[1868]年9月15日「仙藩帰降に及び〔、文五郎は〕名を仲なかと賜ひ、帰順係とな」(『仙台戊辰史』)った。
 同「明治元[1868]年十二月六日、伊達家は戊辰戦争の処分をうけて、二十八万石に減封された。(中略)
 二十八万石の領域は、名取・宮城・黒川・加美・玉造の五郡に志田半郡で、(中略)この新領以外の旧領の大半は諸藩の取締地に分割された。(中略)
 ところで、伊達家の新領二十八万石は実高であつた。これを表高にすれば十八万石足らずであり、狭小な領内で、従来の〔猪狩氏等〕藩士一万二千、〔澤田氏等〕陪臣二万、一家五人として約十六万人の家中を養わねばならぬのであるから、その困難は想像にあまりある。(中略)
 藩は当面の窮境を打開すべく、とりあえず(中略)弁事局に対して事情を訴え〔、〕明治二[1869]年正月二十八日、郡村居住の〔猪狩氏等〕藩士・〔澤田氏等〕陪臣の土着帰農願を申請し、同日許可された。同時に弁事局より旧領取締りの諸藩に次の如く通達があつた。
 伊達亀三郎〔宗基〕旧領地ノ内、〔猪狩氏等〕旧藩士〔澤田氏等〕陪隷〔陪臣〕、従前土着自ラ耕耘致シ居リ候者、帰農願出候ヘバ、聞届ケ遣ハシ、相当ノ租税相収メサセ、戸口共追テ相届クベシ、住居屋敷山野等、凡テ高外ノ分ハ当分ノ処、活計ノ為メ持主ヘ与ヘ置キ申スベシ、(中略)精々御撫育行届キ候様、取計ラヒ申スベキ事」(『宮城縣史』)

永暇
 「この頃藩内には、(中略)勤王派と佐幕派との紛擾ふんじょうが再燃し、ついに久我こが撫使一行の来仙となつて、四月十四日(中略)戊辰戦争関係者の大量処分が行われ、仙台藩は急速にその解体を早めた。こうして藩は翌十五日、〔猪狩氏等〕在郷の諸預給主・組抜・足軽等一同に永暇を与えて勝手次第に帰農せしめ、同時に一門は百三十俵ずつ、一家・準一家・一族・着座・太刀上までは五十五俵ずつ、〔猪狩氏等〕大番組百石以上は二十五俵ずつ、組士は十二俵ずつ、以下は八俵ずつという大減俸を断行して、当面の財政難を緩和することにした。」(『宮城縣史』)
 同「〔明治〕二[1869]年四月、〔大越文五郎は〕斬首の員中にあり。捕吏の至らんとする時脱藩せし為、家跡を没収され」(『仙台戊辰史』)た。当時いまだ13歳の長女まつゑは、北目(大崎)村の旧大越家在郷屋敷他に難を避けた。
 「一方仙台藩家中の解体は急速に進められ、五月十五日までに、伊達家直属の一門より軽卒まで〔猪狩氏等〕一万六百五十家のうち約三割に相当する三千百九十七家が暇をとり、ほかに〔澤田家等〕陪臣二万家はすべて永暇を与えられた。仙台藩は事実上ここに解体したとみられる。」(『宮城縣史』)

封建主従関係の終焉
 「〔六月十八日〕版籍奉還の許可と同時に、伊達亀三郎は改めて仙台藩知事を仰せつけられた。また一門以下〔猪狩氏等〕平士に至るまですべて士族と称すべき旨が通達され、(中略)従来の封建的主従関係は、長官と下僚の関係に改められ、仙台藩は新国家の地方行政区画の一単位となつた。(中略)
 十月十二日、従来の仙台藩庁が廃され、あらたに仙台城二ノ丸に勤政庁が開かれた。藩政時代の仙台藩支配機構はここに終りを告げ、勤政庁は新国家の政治機構の出先機関という意味をもつた。
  翌〔明治〕三[1870]年になると、維新の改革は各方面にいよいよ進展し、四月、〔猪狩氏等〕城下の士卒について編舎制度が布かれ、(中略)九月には庶民がすべて氏を称することを許された。」(『宮城縣史』)
 同「明治三[1870]年〔、大越文五郎は〕東京藩邸へ自首」(『仙台戊辰史』)し、翌「四[1871]年(中略)先非ヲ悔悟自首候ニ付、御寛典ヲ以テ罪差シ免セラレ」(『仙台戊辰史』)た。
 同「四[1871]年七月十四日、新政府によつて廃藩置県が令せられ、仙台藩は仙台県とな」(『宮城縣史』)った。
 こうして澤田氏は、15〜16世紀の楢葉澤田氏以来仙台澤田氏・黒川澤田氏と四百年にわたって臣従してきた猪狩氏に暇をとるとともに、伊達氏陪臣の身分をも解かれ、今や明治の「平民」となった。

旧猪狩家知行地の三家中分割
 澤田氏は、磐城以来 400年にわたる猪狩氏との主従関係に終止符を打った。北目大崎村の猪狩家在郷屋敷は閉鎖され、その「御用人」の役目を終えた澤田氏は、いよいよ自活の道を探ることになった。
 猪狩家の旧知行地の一部は、在郷の家中「澤田本家(下したの家)」とその又家中「沢田別家(上うえの家)」および「音羽家(下しもの家)」の三家に分与された。
 くだって「明治十五[1882]年旧十月九日」嫡男金五郎によって記された、既述の「猪狩長作様御地禄田反別」によれば、当該猪狩家知行地が「澤田(下したの家)金吾〔金五郎〕」・「音羽(下しもの家)三代治」・「澤田(上うえの家)恒三郎」に三分されている。これは、年代不詳の「猪狩長作様入地分」の文書とともに、この間の事情の一端を物語るものであろう。
 まつゑの伝えるところによれば、磐城以来の猪狩家在郷屋敷御用人澤田家(下の家)は他の家中を圧して強大で、その気になりさえすれば、猪狩家旧知行地をひとりじめすることさえ可能であった。しかし、当主一馬は、ここでもまたその親分肌をいかんなく発揮してもちまえの「ダンポ風」を吹かせ、まず他家に良い土地を選ばせて、自らはもっとも条件の悪いわずかばかりの土地を手にしただけだったという。

第節 澤田家興隆の基

大越家との縁組
 1873 (明治6) 年6月29日、父・澤田本家初代源太源清重が76歳で大往生を遂げた。当主一馬は41歳、嫡男金五郎は19歳であった。
 翌1874 (明治7) 年、一馬は、はからずも、嗣子金五郎に旧伊達家参政(若年寄)大越文五郎長女まつゑをめあわせることになり、ここにようやく、長来流々説き来った大越氏が、澤田家の系譜に結びつくことになった。
 翌1875 (明治8) 年、長兄金五郎から21年、次兄佐賀治からも12年遅れて、三男松吉 (1875〜1960) が誕生した。一馬はすでに43歳、妻まちも40歳に達していた。また、この間に長女しん、次女きみも誕生していた。
 翌1876 (明治9) 年44歳の時には、嫡孫ゆゑが誕生した。

“ダンポ”の若隠居と澤田家の二重経営
 既述のごとく、郷士・家中・陪臣から平民となった一馬は、全面的な帰農に足るだけの土地を手にすることもできなかった。どうも一馬は、痩せても枯れても「旧郷士」・武士のはしくれという意識から、生涯抜け出ることができなかったようだ。つまりは、時代の急激な流れについていけなかったのであろう。それがまた、近隣に鳴り響いた「一馬ダンポー」の面目でもあったろう。
 前述の「明治十五[1882]年旧十月九日」付け「猪狩長作様御地禄田反別」の文書は、当時28歳の嫡男金五郎によって記されていた。案ずるに、帰農して当時50歳になっていた一馬は、そうとう早い時期から、嫡男金五郎に澤田家三代の家督を譲り、隠居を決めこんでいたものと思われる。
 若隠居一馬は、おそらくは主家猪狩氏、さらには嫁まつゑの実家大越氏等の縁故を活かして、若き澤田家三代当主金五郎を仙台に上らせ、当時仙台最古最大の味噌屋「佐々重」に奉公させた。上仙した金吾郎は、おそらくは夫婦で仙台に常住して事実上仙台を本拠とし、自然隠居一馬は北目大崎なる留守本宅を守る役回りとなり、こうして澤田家の仙台常宅・黒川留守本宅の二重経営が始まることになったのである。

四世同堂の春
 このころ、東京に移転していたまつゑの父大越文五郎はロシア正教信者となっていたが、1884(明治17)年「ニコライ堂」の建設にあたりその会計を督し、以後ロシア正教会の会計監督となった。1887(明治20)年、初めて家跡を再興することを許されて、大越氏は「東京大越氏」となった。
 翌1888 (明治21) 年、次男佐賀治が25歳で「戦死」した。
                                   *
 くだって1893 (明治26) 年九月養孫辰五郎と華燭の典を挙げた嫡孫ゆゑに、翌1895 (明治28) 年7月嫡曾孫金太郎が生まれ、二代一馬・三代金五郎/まつゑ・四代
ゆゑ/辰五郎・五代金太郎の澤田家四代が、めでたく四世同堂の春を迎えた。
 しかし、翌1896(明治29)年1月5日、澤田本家二代一馬は64歳で没した。法名「恭哲小居士」。ときに嫡男金五郎は42歳、嫡孫ゆゑ20歳、嫡曾孫金太郎6ヵ月であった。遺骸は当代から鳥屋井戸田の臨済宗妙心寺派「法寳山玉泉寺ぎょくせんじ」に葬られた。「玉泉寺は〔、観応元[1350]年〕仏統大円国師を開山とする。」(『宮城県の地名』)
 12年後の1908 (明治41) 年5月31日午前4時、妻まちが74歳で没した。法名「壽鏡妙運大姉」。


第三章 三代金五郎(金吾)(1854-1921)・まつゑ(1856-1926)

第一節 澤田家の戊辰戦争

奥羽戊辰戦争
 澤田本家三代金五郎(通称金吾)は、1854 (安政1) 年8月10日、二代一馬22歳=まち19
歳の長男として生まれた。私の曾祖父である。
 1863(文久3)年、9歳年少の弟佐賀治が生まれた。
 1868 (慶応4/明治1) 年、金五郎14歳、父・二代当主一馬36歳、祖父・隠居初代源太70歳の時、澤田家は明治維新に遭遇し、維新の大波は、澤田家の運命および金五郎の生涯に大きな変転をもたらすことになった。
 「明治元[1868]年十二月六日、伊達家は〔奥羽〕戊辰戦争の処分をうけて、二十八万石に減封された。(中略)
 藩は当面の窮境を打開すべく、とりあえず(中略)弁事局に対して事情を訴え〔、〕明治二[1869]年正月二十八日、郡村居住の〔主家猪狩氏等〕藩士・〔澤田氏等〕陪臣の土着帰農願を申請し、同日許可された。」(『宮城縣史』)
 「一方仙台藩家中の解体は急速に進められ、五月十五日までに、伊達家直属の一門より軽卒まで〔猪狩氏等〕一万六百五十家のうち約三割に相当する三千百九十七家が暇をとり、ほかに〔澤田氏等〕陪臣二万家はすべて永暇を与えられた。仙台藩は事実上ここに解体したとみられる。」(『宮城縣史』)
                                   *
 磐城以来四百年間臣従してきた主家猪狩氏の北目大崎村在郷屋敷は閉鎖され、その旧知
行地の大方は澤田本家(下したの家)・沢田別家(上うえの家)・音羽家(下しもの家)の旧三家中に分与された。
 陪臣澤田氏は、いよいよ明治「平民」澤田氏となった。しかし、父・二代当主一馬“ダンポ”は、どうやら時代の急激な流れについていけなかったようで、既述の事情で帰農に足るだけの土地も確保できず、早々と引退を決めこんでいたものと思われる。金五郎は若くして澤田家三代当主となり、その双肩に明治澤田家の運命を担うことになった。
 1873 (明治6) 年、金五郎19歳の時、祖父・初代源太が76歳で大往生した。源太は、「
猪狩氏家中澤田氏」四百年の歴史とともに、宮田旧墓地の幽冥に葬り去られた。
 翌1874 (明治7) 年12月24日、当年20歳の金五郎は、はしなくも旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎の長女まつゑ (1856〜1926) 18歳を娶ることになった。

仙台藩参政大越文五郎長女まつゑ
 まつゑは、1856 (安政3)年12月8日、仙台大越家十代文五郎佑之24歳=母村田氏(名
不詳)の長女として、仙台外記町大越家侍屋敷に生まれた。私の曾祖母である。
 1860(万延元)年、4歳年少の弟文平(1860〜1922)が生まれた。
 まつゑは幼いころ、型通り行儀見習いを兼ねて、伊達家の奥向きに奉公していたと伝えられている。
 1865(慶応元)年、9歳のまつゑ一家は「川内中之坂通」の大越家侍屋敷に移転した。
 1868 (慶応4) 年、明治維新の荒波が仙台藩に押し寄せた時、まつゑはわずかに12歳であった。
 同年1月大番組頭の父文五郎は三好監物に従い上洛し、3月奥羽鎮撫総督軍仙台藩隊長として帰国し、4月奥羽鎮撫総督府仙台藩軍事参謀に任ぜられた。以後文五郎は、「余伊達氏の恩を受くる三百年、朝議に背くも寧ろ伊達氏と存亡を共にすべし」とて、既述のごとく奥羽戊辰戦争のただなかに獅子奮迅の活躍をし、7月ついに「仙台藩参政(若年寄)」に任ぜられ、まつゑは、「参政のお姫様」となった。

縁の下に隠れて
 しかし、けっきょく同年9月仙台藩は降伏し、父文五郎は一夜にして「朝敵天地入るべからざる罪人」と変わり果てた。
 翌1869 (明治2)年4月文五郎は「脱走の罪により家跡没収」となり、13歳のまつゑは、おそらく9歳の弟文平らとともに、北目大崎村の旧大越家在郷家中早坂氏等の許に身を隠した。司直の目を逃れるため、桧和田の「大六天だいろくでん」あるいは大崎の川島家(角かど家)等々を転々とし、父文五郎同様の、文字通り「縁の下に隠れて」辛うじて一命を保った悲惨な逃避行の毎日であった。
                                   *
 翌1870(明治3)年、ロシア正教信者となっていた父文五郎は東京藩邸に自首した。
 翌1871(明治4)年、文五郎は罪を許され、居を東京に移した。おそらくこのころには父との連絡もつくようになり、「朝敵の子」の烙印も免れたまつゑは、ようやく3年にわたった悲惨な逃亡生活に終止符を打つことができたろう。
 翌1872(明治5)年、おそらくそれまでは姉まつゑ等と苦難の逃避行をともにしていた弟文平は父の許に上京し、現東京外国語大学でロシア語を学んだ。この際、まつゑを筆頭とする大越子女は、事実上見捨てられざるを得なかったということであろう。

まつゑ金五郎に嫁ぐ/仙台藩参政大越文五郎女婿
 おりから、まつゑは適齢期に達した。旧主君大越文五郎の「お姫様」を預かった旧家中早坂與惣治は、その身の振り方に苦慮することになった。ところで、早坂氏と澤田氏とは、谷津と照節沢の峠の腹背に位置する旧鶴巣村内の最有力在郷屋敷を預る、大越・猪狩両氏の旧家中・旧郷士同士の仲であった。そこで早坂は、ダンポ仲間澤田一馬に話をもちこみ鳩首協議の末、ちょうど似合いの一馬の一子金五郎にまつゑをめあわすことに決した。
 なんといっても旧仙台藩参政(若年寄)の「お姫様」と一介の旧陪臣の小悴の縁組である。世が世であればまことに恐れ多く、あり得ないことではあったろうが、すべては時の流れのなせる業、いたし方のない仕儀であった。
                                   *
 1874 (明治7) 年12月24日、大越まつゑ18歳は澤田金五郎20歳に嫁ぎ、華燭の典を挙げた。ここに初めて
、戦国時代以来猪狩・澤田氏とは浅からぬ因縁にあり、長来流々説き来った大越氏の血脈が、まつゑによって澤田家に流れ込んだのである。
 維新当時大越家十代当主文五郎の食禄は五百八十石に加増され、再び猪狩家をも凌ぐ旧鶴巣村内随一の大給人となっていた。澤田家は、旧藩政時代の村内領主の双璧大越・猪狩両家と、血縁・旧主従関係を通じて固く結ばれたのである。
 ところで、大越家の「家跡没収」によって、つまりはまつゑの戸籍は失われてしまっていた。それゆえまつゑは、戸籍上は大越氏の旧在郷家中(陪臣)であったろう「北目大崎村47番地早坂與惣治・りき次女」となっている。早坂家は、もはや当地に現存しない。

第二節 佐々重


 明治維新の大波をかぶった父・二代一馬は禄を失い、既述のごとく新時代の波に
も乗ることができず、早々に若隠居を決めこんでいたものと思われる。若くして明治の澤田家三代を継ぐことになった金五郎は、おそらくは旧主猪狩家、妻の実家大越家のつてをたよって、かつての澤田家の本拠地仙台に上り、当地の代表的味噌醤油醸造店「佐々重」に奉公し、のちにその大番頭となった。
 佐々重は仙台味噌の最古の老舗で、のちに述べるように、米騒動に際して群衆がその第一の攻撃目標にしたほどの、当時の仙台を代表する大店であった。

仙台味噌
 ところで「手前味噌という言葉があるほど、味噌の味はやかましいものだが、仙台味噌は長い伝統と優れた風味によって、斯界しかいの横綱格といって過言ではない。たっぷり使った米麹、色はやや濃い目の冴えた赤味をおびている。品質は四季を通じて変わらない。」(『宮城県の歴史』)
 「仙台みその醸造業者は 100軒近く、年産は約1万t。赤みそで、大豆2に米こうじ1の割合で作られる。この原料成分から分解した各種アミノ酸や、有機塩基の含窒素化合物、それに極微量の各種有機酸やアルコールが混〔渾〕然一体となり、独特の風味を作り上げている。二夏の間の醸造醗酵過程での温度湿度操作が、その味に大きく影響している。
 1592年(文禄元)豊臣英秀吉の朝鮮出兵の際、仙台藩のみそは変質することがなく、仙台
みその名が広く知られるようになった。1601年(慶長6)伊達政宗が仙台築城の際、塩味蔵を設け、真壁市兵衛を 100石で召し抱え、藩のみそ御用を務めさせた。市兵衛は1626年(寛永 3)国分町に「せんだいみそ」の看板を掲げて仙台みその元祖となった。また江戸にも塩味蔵を設け、勤番の武士に給していたものを、2代藩主忠宗の時代に一般に払い下げ、その名を広めた。現在、仙台市内で最も古い醸造業者は佐々重で、当主は8代目。」(『宮城県百科事典』河北新報社)

佐々木重兵衛
 金五郎が奉公し始めた当時の佐々重の主人は、その創業者・四代目佐々木重兵衛であったろう。
 「1823(文政6)−1895年(明治28) 。富商。仙台八幡町天江勘兵衛の三男にま生れる。幼名清十郎。大町の桶工佐々木重兵衛の養子(4代目)となり、襲名」(『宮城県百科事典』)。
 「養母死に臨みて曰く、吾家味噌醤油を醸造して業となすを得ば吾願足ると」(『仙台人名大辞書』)。
 「〔1854(安政元)年〕養母の遺言に従って、みそ・しょうゆ醸造を開業し、精励した結果巨富を築き、県下の多額納税者15人のなかに入るまでになった。」(『宮城県百科事典』)
 「人となり慈仁善を為すを好み、公共事業の為に数万金を投じて惜まず、仙台市会議員、仙台商業会議所議員に選ばれ、実業界の重鎮を以て稱せらるる、明治二十八[1895]年一月廿六日没す、享年七十三」(『仙台人名大辞書』)
                                   *
 「6代佐々木重兵衛(1897年・明治7−1921年・大正10)は5代重兵衛の長子で、幼名
重之助。東華中学校に学び、1901年(明治34)家業を継ぎ襲名した。早くから仙台商業会議所の常議員に選ばれ、また大町派実業家の組織である有恒会の評議員であった。1910年(明治43)東北実業銀行頭取に就任するととにも、同年県会議員に当選、地元政財界で活躍した。この年、多額納税者として税額4000円以上、藤崎三郎助と並んで県下5位になっている。」(『宮城県百科事典』)
 「大正十[1921]年十二月十五日没す(奇しくも金五郎と同年である)、享年四十八、共に仙台荒町皎林寺に葬る」(『仙台人名大辞書』)。
                                   *
 おそらく七代目であろう若年の佐々木重兵衛一族と金五郎一行の出羽三山巡礼の際の記
念写真などが、澤田本家に残っている。
  なお、この写真の裏面の名前書きも「澤田金吾」となっている。孫の亥兵衛らも「金吾ズンツァン」と記憶し、どうも通称は「金吾」で通していたようだ。しかし、戸籍上はすべて「澤田金五郎」となっており、これが正式である。

(株)佐々重
 「本場仙台みその本舗。資本金 600万円。本社は仙台市一番町3−6−1。従業員は25人。1854年(安政元)4代佐々木重兵衛が母の遺命を受けてみそ醸造業を始める。1937年(昭和12)法人に組織変更し塩・酒類・食料品などを併売する。1945年(昭和20)戦災により店舗を焼失。1973年(昭和48)店舗、駐車場、貸事務所を含む多目的ビル〔佐々重ビル〕を建築し事業の多角化をはかり、現在に至る。年商5億円。社長は8代佐々木重兵衛。」(『宮城県百科事典』)
 「(株)佐々重 SASAJYU CO., LTD. 〒980 仙台市青葉区一番町3-6-1 Tel022-222-6506 【
目的】食料品販売、貸ビル、駐車場 【設立】昭和12[1937]年10月 【資本金】 600万円 (50円) 【役員】 (代長) 佐々木重兵衛 (代専) 佐々木令子 (常) 佐々木淳一郎 (締) 佐々木重夫 (監) 佐々木重一 【株主】9名 佐々木重兵衛 【従業員】27名 【仕入先】明治屋、仙台味噌醤油、仙台酒類販売 【得意先】油又、店頭顧客、通信販売 (決算)63.9.860百万円」(『帝国銀行会社年鑑』)
                                   *
 佐々重の系列会社に「仙台味噌醤油(株)」がある。
 「みそ、しょうゆ製造販売業。本社は仙台市古城1-5-1 。従業員 137人。資本金8000万円。東京に営業所がある。1919年(大正8)創〔操〕業開始。品質第一を掲げ、明朗、愛和、喜働を社是として全国各地に進出、1969年(昭和44)には、宮城県知事と仙台市長から「仙台みそ」の県外販路拡張の功績によって感謝状を受けた。昭和55年度の生産額、みそ4500t 、しょうゆ4300Kl。社長は、8代目佐々木重兵衛。」(『宮城県百科事典』)
 「仙台味噌醤油? SENDAI MISO SHOYU CO., LTD. 〒982 仙台市若林区古城1-5-1 Tel02
2-286-3151 【目的】味噌、醤油製造 【設立】大正8[1919]年11月 【資本金】 8,000万円 (50円) 【役員】 (代長) 佐々木重兵衛 (専) 佐々木米次郎 (締) 佐々木淳一郎 【株主】 405名佐々木重兵衛 【従業員】 119名 【仕入先】宮城県味噌醤油工業協会 【得意先】佐々重、大場商店 【系列】佐々重 (決算)1.3. 2,100百万円」(『帝国銀行会社年鑑』)

第三節 仙台常宅・黒川留守本宅/澤田家の二重経営

大越文五郎の四人の外孫たち
 金五郎・まつゑの結婚の翌1875(明治8)年、21歳年少の末弟松吉が生まれた。また、この間に2人の妹しん・きみが生まれていた。
 翌1876 (明治9) 年5月7日、金五郎22歳=まつゑ20歳の長女ゆゑが誕生した。私の祖母である。
 金五郎は、まつゑとの間に、ゆゑを筆頭に二男二女、すなわち「大越文五郎の4人の外孫たち」をもうけた。
 1879 (明治12) 年2月7日、次女むめのが誕生した。
 同明治「十二[1879]年〔、さきに父文五郎の許に上京していた次男文平は、〕東京外國語學校〔現東京外国語大学〕露語科を卒業す、同年七月東京駐箚さつ露國公使館の通譯とな」(『大正人名辞典』)った。

「狩長作様御知禄田反別」「猪狩長作様入地分」
 この間に、金五郎は北目大崎村に、佐々重で得た俸給等を元手として、旧猪狩家知行地をはじめとする土地を着々と買い増していた。
 「        記  澤田金吾〔金五郎〕分
一田反別壱反九ト〔歩〕
   此地價金廿壱圓六拾四戔〔銭〕四り〔厘〕
   此百分ノ三六拾四戔八り
   此二と〔分〕五り五拾四戔壱り
   此地税割税八戔六り
   此共繰費七戔
 一三口合七拾九戔七り
 明治十五[1882]年旧十月九日改メ(中略)
一猪狩長作様御知禄田反別
 右の通り御座候や〔也〕 澤田金吾     」(澤田本家七代当主力所蔵)
                                   *
 「字勝負沢澤田二十八番 猪狩長作様入地分
一田壱世〔畝〕拾八ト〔歩〕 澤田金吾〔金五郎〕植字
   此代價参円卅六戔〔銭〕壱り〔厘〕
   此百分ノ三金拾戔一り
 同囲二十七番
一田廿八歩      澤田金吾
   (中略)
 同囲三拾八番
一田廿七歩      澤田金吾
   (中略)
 同囲三拾九番
一田三畝七歩     澤田金吾(後略)」(澤田本家七代当主力所蔵)

仙台常宅/澤田家の二重経営
 1884(明治17)年3月5日、まつゑは長男養太郎を生んだ。
 同年、熱烈なロシア正教信者となっていたアレクセイ大越文五郎は、「東京駿河台に聖堂〔ニコライ堂〕を建築するに当たり、推されて其の会計を督し、爾後引き続き同〔ロシア正〕教会の会計監督」(『仙台人名大辞書』)を務めた。
 「越ヘテ〔明治〕二十[1887]年〔、文五郎は〕赦シヲ受ケテ家ヲ興」(墓碑銘)し、大越氏は「東京大越おおこし氏」となった。
 1888(明治21) 年には、金五郎の弟・佐賀治が、25歳で「戦死?」した。
 1891(明治24)年、ニコライ堂が起工以来七年の歳月をかけて竣工した。
                                   *
 この間、金五郎が仙台に常住したのはもちろんのこと、もとより生っ粋の仙台城下人であるまつゑもまた仙台を本拠として、隠居父一馬の守る北目大崎村の留守本宅にはたまにしか
帰ることがなかったのだろう。事実上澤田氏の本拠となった仙台常宅なる金五郎・まつゑ夫婦は、もはや「仙台の人」であり、ここに仙台常宅/黒川留守本宅二つに分かれての、澤田家の二重経営が始まることになった

養嗣子辰五郎/黒川留守本宅
 1893 (明治26) 年2月28日、金五郎39歳・まつゑ37歳で、末子・次男俊郎が生まれた。ときに長女ゆゑはすでに17歳で結婚適齢期に達していたが、長男養太郎はいまだ9歳であった。加えて、当時は「姉家督」といって、性別不問の長子相続の慣行があった。
 同年9月、金五郎夫婦は、金五郎よりわずかに14歳年少の落合村松坂・早坂辰五郎を養子として長女ゆゑにめあわせ、のちには嗣子として北目大崎村の澤田家留守本宅を委ねた。こうして澤田家は、佐々重に奉職する当主金五郎夫婦及び養太郎・俊郎の息子達の「仙台常宅」と、帰農して留守を守る父隠居一馬夫婦、末弟松吉、ゆゑ=辰五郎一家および次女むめの「黒川留守本宅」との二重経営に入っていった。
 しかしながら、仙台常宅なる当主金五郎の留守宅への手当ては必ずしも十分とはいえず、新郎新婦は仙台組をたのむことなく、わずかばかりの耕地で細々自活せざるをえなかったようだ。養嗣子辰五郎は、あいかわらず松坂なる実家早坂家に連日「出稼ぎ」し、その血と汗を代償に、すこしずつ自家の所有地をあがなうという実態だった。
                                   *
 やがて、黒川組の松吉が長じて自立し、上仙して仙台組に加わった。後年私が松吉の四男勝雄に面会した際、祝事にはしばしば伯父金五郎の佐々重に招待され大いにご馳走になったものだと、楽しそうに話してくれた。
 さらには、長男養太郎・次男俊郎もまた、長ずるに従い、父に倣って佐々重に奉公し、修行を積んだ。こうして、澤田家の重心は、ますます仙台へと傾いていったのである。

 1895 (明治28) 年7月、金五郎41歳にして嫡孫金太郎が生まれた。
 同年12月、父・二代一馬が64歳で死亡した。
 翌々1897(明治30)年、次女むめのが相川・文屋家に嫁いだ。

第四節 大越家との絆

大越一家の肖像
 「〔明治〕三十五[1902]年十月〔、大越文平は〕旅順に航し同軍港御用達を營む、三十六[1903]年二月(中略)旅順居留日本人會長となる、三十七[1904]年二月日露開戰せらるゝや、(中略)三十八[1905]年三月遼東守備軍司令部附として旅順の軍政事務に參加」(『大正人名辞典』)した。
 「明治四拾二[1909]年四月上旬 柴田阿沙 御姉上様」とその裏面に墨書されている、おそらくまつゑの妹のものと思われる肖像写真(神戸市山下通り七丁目〔税務署半丁西〕織田写真館)が、澤田本家に残されている。
                                   *
 翌1910(明治43)年2月に撮影された、文五郎・文平・茂文ら大越家三代の記念写真(東京
神田・江〓)が、澤田本家に残っている。その裏面には、たぶん文平のものと思われる筆跡で、
 「大越文五郎 七拾九才  同 菊 代 六拾三才
  同 文 平       同 すゝ子
  同 茂 文       同 文 二      明治四拾参[1910]年二月撮影」
と記されている。
 これから逆算すれば、菊代はまつゑのわずかに8歳年長に過ぎず、もちろんまつゑや文平の生母ではない。文五郎夫妻の墓碑銘にもあるように、まつゑおよび文平の生母は村田氏出自・名不詳の先妻であり、菊代は佐藤氏出自の後妻であることがわかる。

鶴巣村お姉ゆゑより切り餅及生栗
 翌「〔明治〕四十四[1911]年四月〔、文平は旅順市役所の前身旅順協會の〕會長に推擧せら」(『大正人名辞典』)れた。
 同年9月、長男養太郎が、佐々重での修行を終えて、仙台肴町笹川旅館に婿養子に入った。
 同年10月30日には、六孫亥兵衛が生まれた。私の父である。
 このころ次男俊郎にもまた、富谷村の酒造業内ヶ崎家さらには澤田家の旧主家猪狩家等から養子縁組の話があった。しかし、俊郎はこれらをすべて断り、佐々重の修行を卒業して、東京なる祖父大越文五郎一家を頼み、母まつゑとともに上京した。
 おそらく「大正二(1913)年、十二月一日」(1914〔大正3〕年5月13日付澤田金太郎書翰)、次男俊郎18歳は近衛連隊に入隊した。
                                   *
 翌1914(大正3)年「二月三日午後四時」、「〔東京府〕小石川区原町〔現東京都文京
区白山三〜五丁目〕十三番地 大越文五郎」は、「〔東京〕府下竹橋内 近衛歩兵第一聯隊第一中隊第三班 澤田俊郎殿」宛てつぎの書翰をしたため、同「二月三日午後投函」した(「〔東京府〕九段 323〔大正3[1914]年2月3日〕 后8−9」の消印がある)。しかしそのあまりの達筆に、我々はいかんせんその内容の大半を解せない。
 「郵便ニ而す もて〓ん〔二月〕一日ニハ〔俊郎が文五郎宅に〕来り呉田くれた ナルモ〓子〓ころ面会を〓得様急〓〓〓本日養太郎兄より金二円小〓てして来り候而 本便ニ〓呉〓〓出し而来ん 〔二月〕八日ハ日曜日ニ〓〓〓〓来んニ〓〓〓〓〓来り〓〓〓次ニ鶴巣お姉ゆゑより切り餅及生栗〓〓来り候ニ付 本便〓〓〓〓〓〓〓〓出し而 右品〓〓〓〓〓〓ニ付都合〓〓〓来り〓〓〓叶追〓通〓〓 余ハ面会の上とす 謹曰
  二月三日午後四時
                                  文五郎
    俊郎殿                  」(澤田本家七代当主力所蔵)
 祖父から外孫に宛てた、心あたたまる書面のようではある。
                                   *
 同「大正三[1914]年五月十三日」付けの、甥金太郎から叔父俊郎に宛てられた書翰も現
存している。金太郎はいまだ19歳であったが、46歳の父辰五郎に代わり、澤田家留守宅を代表してこの書翰をしたためており、当時すでに金太郎が、父に代わって澤田家留守宅を采配し始めていた事情が読みとれる。
 これらの書翰は、のちに俊郎が満州に渡る時にでも、澤田本家に残したものであろう。

文五郎・まつゑ父娘の肖像
 ところで、まつゑ本人の写真は、今日澤田本家にはただ一枚しか残っていない。それも、金五郎・長男養太郎・次男俊郎の澤田一家の、これもおそらく俊郎の渡満の時の記念写真の上部に楕円枠で焼きこまれたもので、元の写真はすでに失われている。
 ところが、幸いなことに、1990(平成2)年4月29日私と亡妻信子が大越家嫡流十三代茂隆氏宅を初めて訪れた際、我々は同家のアルバムのなかに、その元の(まつゑと養太郎との)写真を発見することができ、我々は、あたかもまつゑ本人と再会したかのような感慨にうたれた。
 しかも、それだけではなかった。思いがけず、文五郎夫妻と文平・まつゑそれに養太郎の5人の記念写真が同家に保存されていた。その肖像から推して、前記の1910(明治43)年の大越一家の写真よりはかなり後のものであり、おそらく文五郎の最晩年のものであろう。まつゑ本人がしばしば東京大越家を訪れていたのはもとよりのこと、俊郎のみならず、養太郎もまた大越家と交渉のあったことが明らかになった。
 当主茂隆氏はじめ大越家の人々には、まつゑおよび澤田家のことは全く伝わっていなかった。まつゑらの写真も、我々の訪問の前までは、大越家所蔵の他の多くの写真と同様正体不明のまま保存されていたのである。

大越文五郎の大往生
 翌「大正四[1915]年十月一日〔、文平は旅順〕市會議員に選ばれ、尋ついで〔旅順〕市長に推選せらる〔、〕實に第一次市長として創始の業に服し〔、〕名聲隆然たるものあり」(『大正人名辞典』)。
 翌1916(大正5)年 1月、文五郎の長男弘毅が、故あって父に先立ち獄死した。
 9ヶ月後の同年10月12日、まつゑの父・仙台大越家最後の十代当主・旧仙台藩参政(若年寄)大越文五郎佑之は、「壽八十五」で大往生を遂げた。ときにまつゑは60歳、長女ゆゑ40歳、次男俊郎23歳、嫡孫金太郎21歳、私の父・六孫亥兵衛は5歳であった。文五郎のなきがらは「東京〔巣鴨〕染井共同墓地」に葬られた。
                                   *
 文五郎は、先後両妻との間にじつに「男女子十六人」をもうけた。
 まつゑはその長女であり、既述の運命をたどっていた。
 長男弘毅は、上述のごとく、故あって父に9ヶ月先立ち獄死した。
 次男が、旅順市長文平である。
 文平の弟文蔵は現在の東京大学を卒業したが、南方某地で死去した。
 文五郎の「男女子十六人」のうち現在判明しているのは、まつゑを含めて以上の四人のみである。前述の「柴田阿沙はまつゑたちの妹と思われるが、その消息は不明である。

第五節 仙台米騒動

最初の攻撃目標佐々重
 1918 (大正7) 年8月15日、仙台にも米騒動が波及した。
 「西公園にかけつた警官隊が、なんにもできないでおろおろしているのを、横目に見ながら、三百を越す市民たちは、いよいよがっちりかたまって、あるきだします。公園を出るとすぐ〔長男養太郎の養子先笹川旅館のあった〕肴町です。国分町を横切って東一番丁は右に折れ、勧工場〔(藤崎)デパート〕がある大町四丁目の角を左にすすむと、東二番丁の手前に佐々重商店。ここがこの夜の最初の攻撃目標でした。
 仙台でも代表的な味噌醤油醸造店です。米を値下げさせるだけが目的ではなかったのです。味噌一貫メ五八銭、醤油一升四〇銭と、米と一緒に高くなるばかりだったのを値下げさせなければ、なにしろ米とならんでの重要食糧ですから、毎日のくらしがらくにはなりません。」(浜田隼雄『物語宮城県民のたたかい』ひかり書房)

番頭も小僧もびっくり仰天
 「佐々重商店では、店の戸をまだ閉めていませんでした。かたまった人声と足音が一番丁の方からひびいてくるのを、なんだろうと思う間もなく、店の前いっぱいにあふれた群衆がまるで敵陣におしよせる武者のように、目をぎらぎらさせていっせいに店の中をにらんでいるのです。番頭も小僧もびっくり仰天です。」(『物語宮城県民のたたかい』)
 この番頭とは、けだし、金五郎その人に違いなかろう。
 「仙台でも米騒動が始まったんだ、と番頭がやっと気づいた時です。群衆の前にいた五人ばかりが、ずかずかと店に入ってきて、『旦那を出せ』と、大声ではありませんでしたが、底力のある声で番頭をにらみつけました。『は、は、はい』とあわてた番頭が奥にひっこんで、間もなく旦那の〔六代目〕佐々木重兵衛が観念してしまったのか、わりとおちついてあらわれました。」(『物語宮城県民のたたかい』)

佐々重が値下げすれば
 「と、店の前の群衆のざわめきにつづいて、
『あんまり儲けんなこの野郎』
『味噌蔵ぶっこわすぞう』
などと怒りの声が上がります。
それでもおちついて帳場格子の前に座る旦那に、五人の中の一人が、
『味噌と醤油をなんぼに下げてくれるのか、この場で返事してくれ』というと、旦那はうなづきました。市民たちの圧力にはかなわない、と自分に言ってきかせてもいるような顔です。そして『味噌は四〇銭に、醤油は三〇銭に、でよござんすか』と、五人の顔を見回します。五人はそろって合点しあい、

『その値段を店の前に張り出してもらうべ』というのに、旦那は大きくうなづきました。そして帳場の机の上に紙をひろげるのを、店の外からのぞいていた市民たちは、わぁっと歓声をあげ、それがいつか、バンザイ、バンザイの叫びになります。佐々重が値下げすれば、市内の味噌醤油はみな下げざるをえないのですから、バンザイもむりありません。同時にそれは、次の攻撃に向かう雄叫びでもあります。」(『物語宮城県民のたたかい』)

第六節 澤田家中興の祖

次男俊郎の渡満と末弟松吉の分家
 おそらく同1918(大正8)年末、5年の兵役を終えて近衛連隊を除隊した次男俊郎は、旅順市長なる叔父文平をたよって単身渡満し、叔父の斡旋で満鉄に入社した。
 翌1919(大正8)年、金五郎の嫡孫金太郎が結婚した。
 翌1920(大正9)年8月、俊郎はいったん満州から帰国し、叔父松吉の媒酌で仙台で結婚式を挙げた。新郎新婦は再び満州に渡り、翌年には長男を生んだ。
 その余白に、同「大正九[1920]年十二月十五日撮影 澤田姉さま 大越文平」と記され
た肖像写真(長崎・為政)が、澤田本家に残っている。このほかに、生前の文平からは、姉まつゑのもとに欠かさず時節の便りが送られてきたという。維新の苦難を共に育ったまつゑ・文平の姉弟は、特に親密だったようである。
 同1920 (大正9) 年、金五郎は45歳の末弟松吉を、澤田一族としては初めて、仙台半子町に分家独立させた。当時松吉は逓信省の郵便脚夫になっていて、仙台・黒川間を頻繁に往来していた。こうして松吉は「仙台澤田分家」の始祖となり、仙台に澤田家の一大分流を形成すると共に、一族の郵便事業就業への道を開いた。

中興宗篤居士
 このころ、金五郎は佐々重でかまどに倒れて片足を大火傷し、北目大崎なる黒川澤田家留守本宅に戸板でかつぎこまれた。孫金太郎が馬で宮床村の渡辺医師を送迎して加療したが重傷で、命取りの重態であった。しばらくは沢乙さわうとの湯につかり、孫金蔵等がその連絡にあたって養生に努めたが、容態はいっこうに好転しなかった。
 伊達陪臣から帰農して隠居事実上した父一馬の跡を襲い、明治維新後の澤田家をその一身に担った金五郎には、金五郎なりの澤田家の経営方針があったのだろうが、不慮の事故で頓挫して所期の目的を貫徹できないこととなり、不本意な、失意の帰郷であったろう。こうして「仙台組」の大黒柱はもろくも崩れ去り、ここに澤田家の二重経営・生活は、ついにその終止符を打ち、社禝は四代ゆゑ・辰五郎夫婦の手に委ねられることになったのである。
 1921 (大正10) 年2月15日午後6時50分、澤田家四代金五郎(金吾)は、北目大崎4番
地の自宅で亡くなった。行年68歳。ときに嫡女ゆゑは45歳、嫡孫金太郎26歳、私の父六孫亥兵衛は10歳であった。
 法名は『中興宗篤居士』。まさしく、澤田家中興の祖であった。
                                   *
 翌1922(大正11)年、大越文平が満州旅順の任地で61歳で亡くなり、遺骸は「旅順市共
同墓地」に葬られた。
 4年後の1926 (大正15) 年6月16日午前10時、まつゑは71歳でみまかった。法名「寛室妙安大姉」。ときにゆゑは52歳、金太郎31歳、私の父亥兵衛は15歳になっていた。
 まつゑはさすがに「武士の娘」、鄙には稀な上品・優雅な人で、声を荒げたり身だしなみの乱れるようなことは決してなかったという。孫たちへの愛情もこまやかで、幼いうちはもちろんのこと、かなり成長した後までも添い寝をしていたという。自らは親の肌身の愛を受けることが少なかったろうまつゑの思いやりが偲ばれる。なかでも私の父亥兵衛は特にかわいがられて、昔風に肌と着物の間にすっぽり入れられて風呂に入れられたり、おりふし昔語りを聞かされたということである。

第七節 庶流

佐賀治 (1863〜1888)
 一馬の次男佐賀治は、1863(文久3)年に生まれた。私の曾祖叔父である。
 佐賀治は、いまに「兵隊叔父さん」と言い伝えられている。しかし、除籍謄本に佐賀治の記載はなく、一馬の次男は欠番となっている。
 1888 (明治21) 年6月7日、佐賀治は25歳で死亡した。私の父亥兵衛によれば、どこかで「戦死」したとのことであるが、当時大きな戦争があったわけでもなく、詳しいことはわからない。現在本家に残っている戦友といっしょに撮影した写真に、わずかにその面影を留めるのみである。

しん (18〓〜19〓) /桜井家・小澤家
 一馬の長女しんは、砂金沢・桜井家に嫁いだ。私の曾祖叔母である。
 しんの長男周蔵の妻わくりは、1894(明治27)年12月5日生まれで、大和町鶴巣地区の最高齢者であったが、惜しくも100歳を目前にしてなくなった。
 なお、周蔵の曾孫和彦は、1990(平成2)年、奇しくも私の妹しづゑ担当の大和町保健婦〓〓と結婚した。
 しんの娘すゑのは山崎村小澤常雄に嫁ぎ、さらに常雄の妹つねよは、廻り廻ってしんの姪孫・澤田本家五代金太郎に嫁いだ。

きみ (18〓〜19〓) /佐々木家・大平氏
 一馬の次女きみは大平村の佐々木家に嫁いだ。私の曾祖叔母である。
 きみの長男で私の従祖叔父にあたる長六が同家を継いだが、その後同家は大平村を去り、現在同地には所在しない。
 なお、しん・きみの両名は除籍謄本に記載がない。

大平氏
 きみの次男敬長
けいちょうは大平村・大平おおだいら家の養子となり、同家を継いだ。
 大平氏は、戦後まで「大平様」と呼ばれていた中世以来の名族・大平領主の末裔である。
 「大平孫左衛門 黒川郡大和町大平の『越路城』城主。『古書書上』『風土記』ともに、大平孫左衛門天正まで住む、と伝える。黒川家臣。」(山本大・小和田哲男『戦国大名家臣団辞典』新人物往来社)
 大平「郷ノ目には天正年中に黒川家臣の大平孫右〔左〕衛門の居城という(安永風土記)越路こしじ館とも泉館ともよぶ館跡がある。」(『宮城県の地名』)
 1588(天正16)年大崎合戦において、「黒川氏家臣団の去就も又注目に値する点であったろう。おそらく黒川氏親族の大衡、細川、二ノ関、相川、八谷氏らは無条件でこれに従ったものであろうし、吉田村の入生田、鶴巣の大平氏らもこれに従った気配がある。何故なればこれらは共にのちに伊達家の報復にあい一族ともども全滅をとげているからである。」(紫桃正隆『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂)

 敬長の長孫たか子は私の同期生で、小学校低学年時に、おそらくその祖母とともに澤田本家を訪ねてきたので、当時奇異に感じたものである。


第四章 仙台澤田分家

第一節 初代松吉(1875〜1960)


仙台澤田分家初代松吉は、1875(明治8)年2月7日、澤田家三代一馬43歳=まち40歳

の三男に生まれた。私の曾祖叔父である。

 前年12月まつゑと結婚していた長兄金五郎はすでに21歳で、次兄佐賀治も12歳に達して

いた。金五郎は一馬22歳の子であるから、松吉とはほゞ親子ほども年が離れていた。

 翌1876(明治9)年5月、早くも姪ゆゑ (1876〜1956) が生まれ、松吉はわずか1歳年

長の叔父となった。

 1879(明治12)年には姪むめの、つづいて1884(明治17)年には甥養太郎が生まれた。

 1888(明治21)年13歳の時、次兄佐賀治が25歳で「戦死」した。

 1893(明治26)年2月、甥俊郎が生まれた。松吉は、年の離れた兄たちよりは、むしろ

ゆゑ以下の甥姪達と近しく、事実上の兄弟姉妹同様に育ったものと想像される。

 同年9月、長兄・澤田家四代金五郎は、姪ゆゑに養子辰五郎を配して嗣子とした。


七男五女


松吉は長兄金五郎同様仙台に上り、当初は半子町在某家の山番をしていた由であるが、

やがて仙台郵便局に勤務して仙台〜黒川間の逓送に従事した。のちに嫡子榮松さらには姪

孫てっそん金蔵・金之助等の澤田一族が、逓信省に勤務する先鞭をつけたといえよう。

 1894 (明治27) 年12月24日、松吉は鳥屋とやの郷古家(宮下)から妻せん (1877〜1938)

を迎えた。せんは1877(明治10)年の生まれで、当時17歳であった。

翌1895 (明治28) 年2月15日、長女ゆきが生まれたが、四日後の同月19日夭折した。松

吉夫妻は多産で、じつに十二子・七男五女をもうけたが、うちゆきを含む五子・三男二女

は早世した。

 同年7月には、早くも嫡姪孫金太郎が生まれた。

 翌1896 (明治29) 年1月5日、父・澤田家三代一馬が64歳で没した。

同年7月22日、嫡男榮松が誕生した。松吉21歳=せん19歳の子であった。

 つづいて誕生した次男榮次郎(1898〜99)・次女たけよ(1900)・三男榮七(1901〜02

)は、不幸にも相ついで夭折した。

 1904(明治37)年3月1日、三女まつよが生まれ、ようやくにして無事成長を遂げた。

 1906(明治39)年4月3日、四女かつよが誕生した。

 1908(明治41)年5月31日、母まちが74歳で没した。

翌1909(明治42)年2月7日、四男勝男が誕生した。

 1911(明治44)年2月15日、五男勝三郎が生まれた。私の父・姪孫亥兵衛と同年である

。 1914(大正3)年2月10日に生まれた五女きよは、不幸またしても、翌年2月夭折し

た。

 1916(大正5)年3月25日、六男千代治が誕生した。

 1920 (大正9) 年2月1日、末子・七男末治が生まれた。時に松吉45歳・妻せんは43歳

で、長男榮松よりはじつに24歳の年少であった。


               仙台澤田分家の創始


同1920 (大正9) 年、45歳の松吉は、澤田一族としては初めて、仙台市半子町44番地に

分家独立し、「仙台澤田分家」を創建してその始祖となった。かつての仙台澤田氏の故地

仙台に、再び黒川澤田氏の一分流が形成されたのである。

 同年松吉は、自宅門前に所在する寿徳寺の僧徳温・伊藤林大夫の次女ときを、これより

先満州に渡っていた甥俊郎に媒酌した。同年8月俊郎はいったん帰国して結婚式を挙げ、

新郎新婦はそろって再び満州に渡った。

翌1921(大正10)年、長兄・澤田本家四代金五郎が68歳で亡くなった。

 19□(□□□)年□月□日嫡孫が誕生し、父・澤田本家三代の名を襲って「一馬はしめ 」

と命名した。

                   *

 1938(昭和13)年3月29日、妻せんが62歳で先立った。

 19□(昭和□)年□月□日嫡曾孫隆が誕生し、仙台澤田分家は四世同堂の春を迎えた。

 この間松吉は、長年の労苦で得た資本をもとでに、北目沖に約2反歩の水田を購入して

長兄金五郎の澤田本家留守宅に小作に出していた。これらの土地は、第二次大戦中の人手

不足から他家に小作に出され、戦後の農地解放によってすべて失われてしまった。

                   *

 1955(昭和30)年姪孫亥兵衛の分家に際して、松吉は一族の長老として、紛争の源とも

なりかねない「代々家督」に反対し、甥俊郎・姪孫金蔵らとともに、亥兵衛の澤田本家か

らの分家独立に力を尽くした。

 翌1956(昭和31)年4月3日、嫡子榮松の妻きよしが55歳で早世した。

 18日後の同月21日、こんどは五男勝三郎が46歳で父に先立った。

 1960 (昭和35) 年4月4日、松吉は85歳の長寿をまっとうして大往生を遂げた。



            第I二I節I 二I代I榮I松I

                      (1896〜1979)


                  二代榮松


仙台澤田分家二代榮松は、1896(明治29)年7月22日、初代松吉21歳=せん19歳の長男

に生まれた。私の従祖叔父である。

 1908(明治41)年、祖母まちが74歳で没した。

 榮松は仙台鉄道船舶郵便局に勤務して、のちにはその人事の任にもあたった。従姪金蔵

・金之助の同局就職の機縁にもなったと思われ、三人は一時仙台鉄道船舶郵便局の同輩と

なった。

 榮松は、従姪・澤田本家六代金太郎の媒酌で大衡村・高橋きよしと結婚し、六男二女を

もうけた。

 19□(□□□)年□月□日嫡男が誕生し、曾祖父・澤田本家三代の名を襲って「一馬はし

め 」と名づけられた。

 19□(昭和□)年□月□日、長女栄子が生まれた。

 1928(昭和3)年3月16日、次男栄が誕生した。

 19□(昭和□)年□月□日、三男栄三郎が生まれた。

 19□(昭和□)年□月□日、四男栄四郎が生まれた。

 19□(昭和□)年□月□日、次女静子が誕生した。

 19□(昭和□)年□月□日、五男静男が誕生した。

 19□(昭和□)年□月□日、末子・六男勝が誕生した。

1938(昭和13)年3月29日、母せんが62歳で亡くなった。

 1956(昭和31)年4月3日、妻きよしが55歳で先立った。

 同年同月21日、こんどは弟勝三郎が、46歳で父・長兄に先立って亡くなった。

 1960 (昭和35) 年4月4日、父・初代松吉が85歳で大往生を遂げた。

 1979(昭和54)年9月16日、仙台澤田分家二代榮松は84歳の高齢で亡くなった。


                   庶流


 松吉の三女まつよは、宮崎家に嫁いだ。

 松吉の四女かつよは加藤賢作と結婚したが子がなく、末弟末治を養嗣子とした。

                   *

 末治(1920〜)

 松吉の七男末治は松吉45歳=せん43歳の末子で、私の従祖叔父である。長兄榮松よりじ

つに24歳の年少で、榮松は父松吉21歳の子であったから、兄弟は親子以上に年が離れてい

たわけである。

 末治は、上述のごとく、四姉加藤かつよの養嗣子となり、加藤家を継いだ。



            第I三I節I 三I代I一I馬I

                        (19□〜)


              仙台澤田分家三代当主一馬


 仙台澤田分家三代一馬はしめ は、19□(昭和□)年□月□日、二代榮松□歳=きよし□歳

の長男に生まれた。仙台澤田分家の当主である。

1938(昭和13)年3月29日、祖母せんが62歳で亡くなった。

 一馬は□□弘子と結婚し、二男をもうけた。

 19□(昭和□)年□月□日、嫡男隆が誕生した。

 19□(昭和□)年□月□日、次男修誕生。修は□□□□と結婚し、別に一家をなした。

 1956(昭和31)年4月3日、母きよしが55歳で亡くなった。

 1960 (昭和35) 年4月4日、祖父・初代松吉が85歳で大往生した。

 1979(昭和54)年9月16日、父・二代榮松が84歳の高齢で亡くなった。

                   *

 庶流

 榮松の長女栄子は、古積家に嫁いだ。

 榮松の次女静子は、菅野家に嫁いだ。


                   庶家


 澤田栄家

 栄は、1928(昭和3)年3月16日、仙台澤田分家二代榮松33歳=きよし□歳の次男に生

まれた。

栄は祖母せんの従兄弟にあたる鶴巣村鳥屋・大友久雄の次女とも子と結婚し、仙台半子

町の仙台澤田分家敷地内に別に一家をなした。とも子の長姉ひさゑは私の学童時代の鶴巣

小学校教師で、末妹豊子は私の一年年長の才女であった。

 1955(昭和30)年10月13日、長女敏子が誕生。敏子は加藤家に嫁いだ。

 1958(昭和33)年6月4日、長男忠が誕生した。

                   *

澤田栄三郎家

 栄三郎は、19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の三男

に生まれた。

 栄三郎は□□とよ子と結婚して一男一女をもうけ、別に一家をなした。

 19□(昭和□)年□月□、長女玲子が誕生。

 19□(昭和□)年□月□、長男淳じゅん 誕生した。

                  *

澤田栄四郎家

 栄四郎は、19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の四男

に生まれた。

 栄四郎は□□しづのと結婚して二男をもうけ、別に一家をなした。

 19□(昭和□)年□月□、長男貢子誕生。

 19□(昭和□)年□月□、次男渉わたる が誕生した。

                  *

澤田静男家

 静雄は19□(昭和□)年□月□日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の五男に生

まれた。

 静男は□□範子と結婚して□男□女をもうけ、別に一家をなした。

 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生。

 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生した。

                  *

 澤田勝家

 勝は19□(昭和□)年□月□生日、仙台澤田分家二代榮松□歳=きよし□歳の六男に生

まれた。

 勝は□□房子と結婚して□男□女をもうけ、別に一家をなした。

 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生。

 19□(昭和□)年□月□、□□□□が誕生した。



        第I四I節I 仙I台I澤I田I分I家I庶I家I


                 澤田勝雄家


 勝雄は、1909(明治42)年2月7日、仙台澤田分家初代松吉34歳=せん32歳の四男に生

まれた。私の従祖叔父である。長兄榮松より13歳の年少であった。

 勝雄は少年時代、その兄弟姉妹とともにしばしば佐々重なる伯父・澤田本家四代金五郎

を訪れ、盆正月の時節にはお膳の接待にもあずかったという。また、従兄養太郎もしばし

ば仙台澤田分家を訪れていたという。

 勝雄は父同様鳥屋の郷古家(宮下)から妻つる子を迎え、二男二女をもうけた。

 1933(昭和8)年3月25日、長男弘が誕生した。

 1938(昭和13)年6月15日、長女陽子誕生。

 1941(昭和16)年6月10日、次男仁ひとし 誕生。

 1946(昭和21)年2月11日、末子・次女紀美子が誕生した(私と同年である)。

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 二代弘

 勝雄の嫡男弘は、妻夏生なつみ との間に一男一女をもうけ、澤田勝男家二代を継いだ。

 1961(昭和36)年12月14日、嫡男雅弘が誕生した。

 1967(昭和42)年7月10日、長女紀子が誕生。紀子は斉藤家に嫁いだ。

 勝男の長女陽子は、安田家に嫁いだ。

 勝男の二女紀美子は、糸永家に嫁いだ。

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 澤田仁家

 勝雄の次男仁は□□知子と結婚して一子をもうけ、別に一家をなした。

 1974(昭和49)年12月29日、長男圭史けいじ が誕生。


                 澤田勝三郎家


 勝三郎は、1911(明治44)年2月15日、松吉36歳=せん34歳の五男に生まれた(私の父

亥兵衛と同年である)。私の従祖叔父である。

 勝三郎は妻しづ子との間に一子をもうけ、別に一家をなした。

 19□(昭和□)年□月□、長男勝弘が誕生した。

 勝三郎は建具師となり、その最初の仕事に四兄勝雄宅の新築をてがけた。

 1955(昭和30)年、同年の従姪亥兵衛の分家独立に際し、同家の新築をもてがけた。

 翌1956(昭和31)年4月21日、勝三郎は46歳で父に先立ち亡くなった。

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 二代勝弘

 勝三郎の長男勝弘は、勝三郎家二代を継いだ。


                 澤田千代治家


 千代治は、1916(大正5)年3月25日、松吉41歳=せん39歳の六男に生まれた。私の従

祖叔父である。長兄榮松より20歳の年少で、既述のごとく、榮松は父松吉21歳の子であっ

たから、兄弟は親子ほどに年が離れていた。

 千代治はいったん結婚して別に一家をなしたが、後に子を残さずに離婚した。

 19□(昭和□)年□月□、千代治は□歳でなくなり、同家は絶えた。


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