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ある雨の日、〔雨を〕ついて彼は配達に出た。Mデパートの処には、“ナッチャン”が、着飾って勝気想〔そう〕に待っていた。デパートの様な大口の配達は、自動車に寄〔拠〕る。不意の雨で車道の両脇は泥水が渦巻いていた。軽装の鳳は、ズック〔靴〕の白さを想い浮かべて、困惑した。〔と、やおら、〕白い、やゝかがとの高いサンダルをはいた、形のいゝ足が、黒い水を漕いだ。鳳は、しばし唖然とした。奇跡が起こったのだ。彼は、唯慌てゝ制〔抑〕えようとした。しかし、声には成らず、手丈が動いた。ナッチャンは、にっこり笑っていた。
仕事を終わって、涼しい広瀬河野辺りを散歩していた時も、鳳はナッチャンの白い足ばかりを思い浮かべた。然し彼は、あの時から一ぺんにナッチャンが好きになったのだ、という事は解〔判〕っていた。
鳳家は、この広瀬川の川端に、木々の緑に包まれてある。窓下は断崖絶壁、開け放たれた窓からは、木々を伝う川風が涼しく迷い来る。青葉山、八木山を望む景色は実に素晴らしく、ひっ切りなしにセミの声さえする。表の騒音を除けば、こゝが仙台とは思えない程である。〔初めてここに〕来た時、鳳が「旅館でもやったらどうですか」といったら、香澄が「そうよ、“清風荘”ヨ」とといって笑った。それ程素晴らしい。
川風の涼しさに比して、この家の中は、暖かさでいっぱいだった。一人娘への親の愛は限りが無かった。家族の者全てが仲睦まじく、家の中には常に花が咲いていた。両親のただれる様な愛の中で、然し娘は天使の様に美しく育っていた。この家の中では、どんな悪人も微笑まずにはいられないのではないか、と思われた。それは、幸福そのものだった。
家の者は、鳳を家族の一として遇した。鳳は、彼達の間にとろけてしまいそうであった。〔が、〕然し、彼は遂に溶け切らなかった。彼は次第に、心にある圧迫を感じた。家族の者と顔を合わせるのが何故か辛くなった。鳳は、我が家に帰れる日を、指折り数えて待つ人に成った。仕事を終えても、気軽にその家の門をくゞれなかった。何度も門を前後した末、肝を決めて、敵陣に乗り込む思いで扉を開くのだった。
「只今」と言えば、家族の者は皆出て迎え〔てくれ〕た。〔しかし、〕それさえも、鳳は苦に思う様になった。この家の中で、唯一人鳳のみ〔が〕、暗い想いをしていた。鳳は、〔まさに〕泥沼へ落ち込む思いであった。生活の調子が乱れた。余計疲れて、それで、夜は眠れなかった。彼は自らを攻〔責〕めた、恥じた。その自問は、却って彼を沈ませた。彼は、唯意思の無い人の様に生きた。
鳳は、面喰らったのである。彼の無茶は、通す可きものも見当たらなかった。彼の「なた」は、振るう可き大樹が見つからなかった。彼の批判の目を、浴びせる可き〔何〕物も無かった。“不屈の生命力”は、それを発揮する物〔場〕が無かった。彼は完全に面喰らった、成(為〕す可き事が無かったのである。
彼は、無力に等しかった。鳳健二郎は、既に存在す可き意義を失っていたのである。
ナッチャンの姿は、あれ以後見る事が出来なかった。
〔そのうえ、〕村上という中年の部長と富士の、嫌な事を見た。富士は、とりとめ〔しまり〕がなかった。だらだらと何処迄も続いて、とどまる処を知らないらしい。鳳は、改めてナッチャン〔のこと〕を思った。蓮葉想〔そう〕に見えた彼女の生活には、想えば、けじめがついていた事を思った。仕事は仕事、ツキアイはツキアイ。彼女は自分を主役に、自分の世界に、自分の思う〔が〕ままに生きていた、………強く。
〔いよいよ〕清風荘を辞する時、祖母と両親は外に出て〔いて〕、娘一人が残っていた。娘は言った、「亦いらっしてね」〔と〕………
「俺が今度この家を訪ねるのは、何時〔のこと〕だろう」、鳳は思った。「〔はたして、〕その日は来るだろうか?」
鳳は、今も〔ときどき、〕フッと清風荘の事を思い出し〔て〕、非常になつかしくも思い、亦訪ね堅〔難〕くも想うのである。
雑草は、処〔所〕詮雑草。雑草は、余りに濃い肥料の中では、却って根が浮いて、育たないものであるという。肥料が濃過ぎたのだ!
やがて、彼の壁には、〔例の〕“〔ミミズ流〕芸術”が一つ増えた。その詞は、「愛」。
(終わり)
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