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世界の具象性と理性の抽象能力について
(1985年習作)

澤田 諭著




 「事実」としての世界の起源については、昨今の現代物理学の諸研究によって、ようやくその端緒が開かれつつある。「権能」としての世界は、全体的・具象的(具体的)・物質的存在である。
 事実としての生命の起源の問題は、いまだに、基本的には未解決の最大の課題として、現代生物学にその解明を迫りつつある。人類の発生およびその進化の過程において極めて顕著な発達を遂げることとなった精神機能、その属性としての理性の諸問題にしても同断である。しかしながら、事実としての生命・人間存在・人間精神・人間理性は、明らかに世界の所産であり、それ自身世界の一構成部分として歴史的に生成したものであることは疑いを入れない。
 権能としての生命・人間存在・人間精神・人間理性の問題は、事実としてのそれにもまして、未踏の処女地として、人類の行くてに横たわっているのではないだろうか?
 ところで、上述の考察は、疑いもなく理性の所産である。私の考察するところによれば、世界は人間理性の段階に至って新たな段階に到達したのである。
 事実としての人間理性は、それ自身世界の所産であり同時に世界の一部である人間存在にその物質的基礎を有する、一機能にすぎない。しかるに一度その権能を問うとき、そこに私達は「抽象能力」(抽象作用)という、世界における新しい次元を見出すのである。およそ、宇宙の全歴史を人類の立場に立って見渡すとき、真にその時代を画するものは、まさしく「理性=抽象能力」の出現に俟つといわざるを得ない。具象性に満ち満ちている世界において、ひとり理性のみは、その権能における抽象作用において、世界の全面的な具体性に対立している。というよりは、世界の全面的な具体性こそ、当の抽象の対象のすべてであり、理性は果敢に、全面的にこれに対峙しているのである。もちろんその対象の中には、事実としての当の理性自身をも含めて。
 理性は抽象するものである。理性はあらゆる具象を抽象してやむことを知らない。のみならず、理性の貪婪は全具象界の抽象にもあきたらず、当の抽象それ自身にさらに抽象を加えて肥大化し、高次の抽象界を形成するにいたる。自己増殖を開始した理性は、その相貌の一端においては、もはやなんら具象界とは接点を持たぬかの観を呈するようになり、あたかも自己の手足を食んで生き延びる怪物のごとくに、異様な世界に足を踏み入れていくのである。人類の歴史は、その実例にこと欠かない。否、人類史はその実例に満ち満ちている、あるいはその実例である!というべきかもしれない。
 ところで、人間存在はそれ自身一つの全体である。抽象する理性は、その権能において、これを「身体」と「精神」の二つの属性に抽象し去る。もちろん事実においては、精神と身体とは不可分の全体として、一つの人間存在という「具象」を為しているものであり、ただ理性のみがこれを「抽象」するのである。「身体」および「精神」なる概念は、まったく抽象的な理念なのであり、具象界において身体を欠いた精神またはその逆を単独で求めることは、きわめて「非理性的」なことであり、理性の関知しないことである。
 抽象する理性はさらに抽象を重ね、「精神」の内にさらに「意志」「感情」「理性」の三属性を見出す。これらの属性は、当然さらに高次の抽象の産物であり、ただ理性の抽象能力のみが、これをその権能において(仮に)弁別しうるのみであり、現実界から抽象された優れて抽象的な理念なのである。感情なき理性、意志なき理性等を単独で具象界に求めることは、理性の与かり知らぬことである。
 さて、ここで我々は、再び我々の理性に帰りついたわけである。もちろん、あくなき理性は、この理性自身にさらに抽象を加えてやむことはないのであるが、それは当面の我々の問題ではない。
 人間の理性の力は絶大であり、その征服欲は止むところを知らない。殊に近代に至ってその領土は加速度的に拡張され、感情・意志の、精神の他の二属性の領土を、相対的に、あるいは絶対的にも侵している感があり、今やまさに、理性の専制時代の観を呈するにさえいたっている。
 もちろん、理性が人類にもたらした福祉は偉大なものであり、人類の未来を導く理性の役割が軽減されることもないであろう。しかしながら、理性は、というよりは理性と他の二属性との極端なアンバランスは、人類史の現段階に深刻な疑問を投げかけている、と言わざるを得ない。
 そもそも、理性のこの力は何に由来しているのであろうか?
 事実としての人間理性は世界の所産であり、人間存在の限界内に於いて、自然の論理・自然の構成原理にもとずいて構成されるとともに、当然これを分有する原理となろう。人間理性は、自然の論理が人間存在を基礎として体現したもの、といいえよう。
 そうだ、理性の根源は自然にあるのだ!これこそは、理性がその権能において(事実においてではなく)、感情、意志の二属性にさきがけ、卓越し、長子としてふるまうその出生の秘密なのである。
 理性は「外来民族」である。あるいは、養嗣子である。そもそも生命にとって────人間存在にとって。我々はこのことをよく覚えておこう。
 さて、上来考察し来たったことは、これまた理性のなせる業であり、「理性的」結論である。ご覧のごとく、我々はいたるところ理性にとり囲まれ、狡智な理性はあらゆるところで待ちかまえている。我々が思考するとは理性を用いることなのであり、我々は、思考する限り理性の用達を中止することはできない。
 しかし、我々は今や、理性は人間の代名詞ではなく、理性≠人間であり、理性<人間であることを知っている。いったい、人間にとって理性とは何だろうか?そもそも、人間とは何だろうか?
 人間存在は、不可分の全体である。理性が抽象するところの身体・精神(意志・感情・理性)等の属性は、あくまでも抽象の産物であり、いずれも単独の実体として具象界に存在することはできない。人間存在は、あくまで、知・情・意・体の渾然たる全体として初めて存在しうる存在者である。おおまかにいって、理性は「学」の領野を、感情は「芸術」、意志は「生活・道徳(・宗教)」を司るといえよう。知は制御機能、情はセンサ−、意は生きんとする意志そのもの、ともいえよう。
 私の考察するところによれば、人間にとって、生命にとって最も本質的で根源的な属性は「意志」であり、次いで「感情」であり、最も生命から遠くにあり、無機的自然に近いのが「理性」であるように思える。むしろ、人間に固有の属性は、実は意志と感情なのであり、両者こそが「第二の自然」としての生命、なかんずくその精神を形成する固有の属性であり、ことばの真の意味で「人間的」というに値するものではないだろうか?人間の人間たる所以は、その感情とその意志にある、と。これに反して、理性は第一・第二の自然を貫流し、全自然を包含する原理というべきではないだろうか?人間理性は、人間存在におけるその一体現とみなすべきである。
 こういうわけで、理性の立場は「客観的」なのであり、「超越的」なのであり、むしろ「超人間的」なのである。(もちろん、非人間的ではないが)
 理性は世界の原理である。よろしい!だが、我々は生命であり、動物であり、人間であり、第二の自然的存在者である。人間存在は、人間理性をその一属性として包含するより大きな全体である。しかも人間理性は、その権能上の出自により、客観的立場つまりは超人間的立場に立つすじあいのものである。
 我々は人間である。人間であることによってしか、我々は自然であることはできない。我々は、「第二の」自然なのである。しかも、実にこの人間理性によって初めて、自然は、理性は、いわゆる自己を省察するにいたったのである。人間以前の理性は、自己を意識しない盲目の理性である。
 再び、人間は知・情・意・体の全体である。理性的結論は、人も知るごとく、人間的実践の一契機をなすに過ぎずない。しかもこの契機たるや、論ぜられること多くして、為されることはなはだ稀なりの感さえある。
 理性には理性の論理があるごとく、感情には感情の、意思には意志のいわば“論理”があってしかるべきである(理性の道具である「ことば」を使う以上、この形容矛盾はやむを得ないところである。むしろ、感情の規則、意志の基準等といった方が、より妥当かもしれない。)。このことは、我々が日常生活において常に体験していることであり、何も目新しいことではない。日常生活は、実は理性の影の最も薄い領域ではないだろうか?
 人間存在は実践的存在である。その理論的活動もまた、第一義的には、人間の実践の範疇に属する。人間理性の司る理論活動は、事実として人間の実践であり、ただその権能において「理論的」であるに過ぎない。事実においては、「理論的実践」なのであり、その権能においては、第一義的には「実践の理論」なのである。「理論の理論」とは、正確には「『実践の理論』の理論」の謂でなければならない。
 人間存在は、全体的・実践的・歴史的存在者である。人類史の今日の時点において人間活動を眺めるとき、我々は、人間の人間たる所以である情・意・および体の領分と知の分野の間にはなはだしい不均衡を発見し、その憂慮を深めざるをえない。
 情・意・および体という人間存在の属性は、その本性上ドラスチックな発展の望めない性質のものである。我々が人間であり続けるためには、超人間的独走に陥りがちな人間理性を、人間存在の全体性の内におけるその本来の位置にしっかりと座しめ、人間存在の全体性をダイナミックに発展させていかなければならない。さもなければ、我々はいつの日にか“超人”と化してしまうことになるであろう。それは、また別の話になろう。


世界の具象性と理性の抽象能力について
1985.9.29 初版発行
2010.3.15 Web版初版発行
著 者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 03-3446-1048

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