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下草の沿革編の三【契約の変遷とその沿革】

下草契約講の変遷とその沿革

 下草契約講の本質及歴史的性格に就てと、変遷に依る在り方を記述する。下草の契約は其の記録によれば元禄八[1695]年大神宮講物覚帳に記してある通り古い歴史的存在として宮城県下においても屈指のものであることは、民俗学の泰斗東北大学助教授田村薫先生の研究発表に依りて明かにされている。

契約の類型 大別すると次の四類型に分類することが出来る。
第一型 村組織講集団として村生活の全般を主宰するもので、その集会における村自治の協議および飲食の際神事を伴うもの。
第二型 同じく村生活を主宰するもので、集会の協議および飲食の際に神事を欠くもの。
第三型 穴掘り契約。屋根ふき契約と称して、葬式あるいは屋根ふき等の互助を端的に内容とするもので、集会には右の互助方式についてのみ協議吟味ををなし神事を欠くもの。
第四型 特に明瞭な機能なく、単に相互の親睦のために定期的に集合飲食するだけのもの。
葬式等の互助を主とする第三型が、村自治を主宰する第二型の分解したものなることは古老の記憶にも残るところであり、相互親睦だけの第四型は分解の一段進んだ、いわば崩壊寸前のタイプと考えられる。しかるに下草の契約に至っては第一型より第四型に至るものを終始一貫する契約でまれにみるところである。

集合とその機能について
 契約寄合は、ケイヤク座、ケイヤク精進、或いは単にケイヤクと呼ばれ、通例春秋二回定期的に行われる。ヤド番の当相手はあらかじめ講員に寄合の日時を知らせ、白米二合五勺のカケモノを集めて置く。当日は早朝より当相手が宿前宅につめて料理その他準備一切にあたる。定刻にはダナドノ(戸主)が羽織袴で集まるが、遅刻あるいは無断欠席は厳しく罰せられることになっているので、契約のみは昔から時間を非常に重んじたものである。
集まれば講頭以下役前は上座につき、他はほぼ年齢順に座を占める。講頭が先ず契約箱を開きお条目をよみ、ついで吟味に入る。終われば食事となって宿の主人公、相伴役を努める。本膳がすめばオタチとなって当相手が給仕をする。すめばお湯お茶が出てはじめて膝をくずせる。ここで当相手は台所で食事を取り休みとなる。夕方軽い食事か酒を飲み、次回の当相手、宿前の引継ぎをして、更に葬儀の役割を定めて解散とする。(明治の末期までは葬儀の役割は春から秋までと、秋から春までの二回の場合定めたものだったが大正年代より現在は死亡した者の葬儀のとき次の役割を定めることに改められた。
契約講の機能は前の寄合の吟味事項に集中的に現れる。吟味は、規約の改正、氏神の祭り、一村持ちの管理、基本金の積立、積金の貸付および部落的入費の予算決算、風紀の取り締まり、夜警、かんがい用水の統制から道ぶしん、掘り払いにいたるおおよそ部落の仕事また、葬式、屋根替えの互助、盗みその他に対する村送り、赤ずきんなどと呼ばれる村の制裁から更に日常の身辺のこまごまとした規定に及ぶのが常である。契約講の存在は部落の扇のかなめのごとき位置にあって生活の維持運営に必要な一切の機能を果たすのである。

組  織
1、契約講は典型的には一部落一ケイヤクだ。部落で終わらぬ内は田植え苗の他出を許さぬほどに対外的にはかなり封鎖性の強い反面、対外的には「兄弟」契約と呼ばれて緊密に結合している部落が構成契約する。したがって契約講は自然村的部落協同体の上に立つ。
2、契約講はダナドノ(或いは家督をもって構成される戸主組合、よって男子組合だ。)しかし家に戸主を欠く場合にガサマ(主婦)の出席が許されるので、その真の構成基準がむしろ部落の家そのものにあることが知られる。ゆえに契約講はムラの家連合であり、このことは家の存続が絶対的価値を置く我が社会構造の特有な現われに外ならない。
3、村落では年齢が自然の階級構成の原理として働くことは周知のことだが、契約もまた年寄り契約、若者契約の二本建てを取るものが多い。後者は多く家督をもって構成され主として村の労働祭祀集団として働く一人前の年齢で加入し、三十五歳前後に親の譲りをうけて年寄り契約に進むのが一般的である。ダナドノの組織する年寄り契約は若者契約の上に立って村生活の一般を主宰運営に任ずる。契約講の講頭以下役マエ選任の基準の一つも又年齢におかれた。寄合の席順も年齢が基準とされたことは前述の通りであり、以上は契約講の年齢階級的構成を物語る。
4、最後に契約講は水平的組結合組織をとる。講頭以下の役マエは、家柄、人物、年齢等によって選ばれる輪番制であり、寄合の宿を努める宿前も一軒トウといって一回に一戸の輪番制を取るもの多く通例順だてをもって送られるか、契約加入順にする向きもある。寄合に出て宿前を助ける当相手もさらに葬儀の役割もツナギも屋根替えのカケモノ等もまた各戸平均である。このことはケイヤク講が実力のほぼ対等の家々によって構成されていることを物語る、契約講が同じ程度の家々が友人の意識で結合したそれは同じ百姓のみをもって構成している地方農村だからであって、隣村の富谷新町という部落は半農、半商あるいは有産階級といろいろな職業とをもって構成したところでは、各々の同業者をもって契約講を結成しているのを見ても判然とする。ゆえにデモクラチックな集団であることを物語る。要するに契約講は部落協同体における家連合であり同族的結合のムラにおける生活組織と言いうる。

歴史的類型
 右の組的ムラは一般的には同族結合の崩壊に伴って現れた形と考えられる。いま、契約講の葬式の互助を見るにイトコ或いはマケと呼ばれる身内の者が死人を恐れずもっぱら忌の範囲内にあって湯灌入棺の内働きに任ずるに反し契約講は穴掘り、かつぎ、町使い等、主として下働きに当たり、可及的に死人を避けんとする形がある。正月に別座カマドを設けアトブルマエの契約屋敷を親類座敷から厳しく区別するのもその現われである。かかる形の葬送集団の発生が門統組織の崩壊後また部落内部に浸透した念仏信仰に媒介されて起こったものであることは柳内先生の早く指摘されたところである。歴史的には契約講は近世的なタイプを示すものと考えられる。契約講関係の下草の文書の示す時代的上限が元禄年間に さかのぼることもこのことを支持する。なお契約講その寄合を仙南方面では「一揆」と呼ぶ村が多く、又契約諸文書に「惣」或いは惣連中吟味の上うんぬんの文言をみるが一揆も惣もともに中世の末に畿内周辺に成立した組的結合ムラの呼称であった。このことも契約講の近世的類型を支持しつつ、さらにそれが成立した時代を暗示するものと思う。要するに中世の末には族長支配のもとに労働集団として置かれた子方連が分離独立して組的ムラが荒汎に族生するとき当時すでに特殊な意味に使われていた契約なる言葉がこの新しいムラ組織の名称として選びとられたのではないかと思われる。

原初形とその分解
 さて、神事を伴うと、これを伴わざると、いかなる関連に立つのであろうか。今日村組みとしての契約講は、他の一般的、宗教的集団すなわち「お精進講」とまったく異なったものとして意識されている。しかし現今のケイヤクの慣行を子細にみていくと、古い契約講が何らかの形において神事を行ったのではないかとおもわせる多くの伝承を見出す。たとえば(1)、宗教的講の集会がお精進と呼ばれるに対し契約講のそれもまた契約精進と呼ばれる。(2)、また契約精進と総称される寄合の一々は別にお日待講、山の神講、おこもり講、拝み講など神事神名物忌にかけてよばれるものが多い。(3)、集合の行事について見るに、宿前宅に神のお掛図をかけオブクオミキをそなえて、一周礼拝し吟味が終わればこれをおろしていただくといった伝承も各地にあるそうだ。下草には現在それを行っている。(4)、日についてはいづれも休日であり或いは氏神のご縁日をもってするものが多い。
 なお、日については八月十五日をあてるもの多く、月については二月、十月あるいは三月、十一月の月が多い。これによって復源すると、契約講の原初型は、神を迎え神事を修し、神前に協議する、いわば祭政一致に合致していると思うのでありその意味でそれは著しく宗教的講に近づくと思われる。最古の契約関係の文書である下草の元禄年間のそれに「大神宮講物覚帳」とあって氏神の名を冠してよんでるのも右の推定を助ける。中世末期の文書は神前に契約して古い形も神を結合の規範として相互に一味同心を神かけて誓うことにあったのではないか。したがって契約とは本来一味同心の関係、すなわち人の全人的結合を意味したのであり、神罰へのおそれがこの関係の決裂をはばんだのであった。しかるにその後信仰の衰退がおこり契約講もその神事性を失うに至り世俗的な型に移り、契約講の意味も一味同心の人間関係から人がとり結んだ物事の遵守実行の契約と言った、いわば生活的な意味に傾いたのではないか、したがって村生活のよって立つ契約すなわち村の法にそむく者は契約講自体の手によって裁かれることともなった。ここに神のさばきから人の手による裁きへ、神の法から人の法へ、いわば意味的には「講から契約へ」といった動きが流れたのではないかと思うのである。歴史的には近世を通じてこの形が支配的であり近世以後、急激に分解が進み派生するに至ったと考えるものである。

下草の契約講
 以上の過程を経て現在に至っている下草の契約は、第一型から第四型まで明治中期迄に殆ど時代毎に取捨をなして中期以後昭和二十一年迄に総ての機構は部落の総元締めであつたことは事実である。昭和二十一年以降は、終戦と共に急激な変化に遭遇して、契約講は創立年代にさかのぼり、葬儀其の他屋根替えなどの仕事となり、行政部落の生産に関する一切のことは農業共同組合に移行したのである。創立以来二百六十年有余の道程であった。

葬儀に関し講員の役割
一、肝いり(二人)  一、町使い(二人)  一、仮門(二人)  一、擔(かつぎ)人(二人)
一、提燈 (四人)  一、穴掘り(二人)  一、龍 (二人)   一、 旗   (一人)
一、日笠(一人)  一、花籠(一人)
以上一九名、残余は無役にして順繰りに勤めることとなっている。

下草契約講の始まり
 元禄八[1695]年大神宮講物覚帳に依ればこの記録が下草契約講の始まりであることが立證される。当時の原文を記すと次の通りである。
 一、人頭 貮拾五人=当時の人名記載を略す
 誓約仕り候事
 一、寄合之事、二月 八月 十月 壱ヶ年に三度の事
 一、寄合座にて喧嘩仕る甚数人人数に仕らざる事
 一、病死のせつ若者老人によらず代二十分づゝ相出し申可事
 一、病死の節 穴掘二人 かつぎ人二人 町使二人 小走花籠二人
 一、葬礼のせつ一人も不参なく相出懸け申可候事、もし出合仕らざるものは人数に仕らざる事
 一、料理之事
 一、大汁に味噌汁二合 一、あい物 一、なます 一、二汁は有合せ 一、丸肴三種 
 一、椀膳の事 振舞之上「たんか」仕り損し申候へば当人にて辨済申可候事、若し品もなく損ずるか、あるひは行衛なくうせたなら座本あひて者は寄合の吟味にかけて辨済申可く事。
  皿類も右同断、右亡失は掟の通り何も連判之上挨拶申候若し違背仕者あらば講の重立の衆へ一札を入れお詫を仕るべきこと、右帳面に記す 掟ての如件〔くだんの如し〕。
 一、椀 三十五人前  一、膳も同断  一、皿 三十五人前
 享保十四[1729]年九月二十七日 元禄年中[1688-1704]よりの古帳を相改む。
 以上が創立当代の掟であり又講員の数であった。その後明治の初期迄に幾度か加除訂正を加えられて居るが原文の記載は右の帳面に記載されているので略す。尚明治中期より昭和初代迄のことに就ては前に記述してある。

契約講参加人員表
天保初年  二十四名  天保晩年  二十四名  弘化年中  二十四名
嘉永年中  二十四名  安政二年  二十七名  安政六年  二十六名
安政七年  三十名   万延年中  二十九名  文久年中  二十九名
元治年中  二十九名  慶応年中  二十九名  明治二年  二十九名
明治二二年 三十二名  明治二三年 三十四名  明治二五年 三十六名
明治四十年 三十六名  大正二年  三十四名  大正十四年 三十六名
昭和二年  三十六名  昭和十年  三十八名  昭和二十年 四十四名
昭和二五年 四十四名

旧記に徴する米穀価格一覧表
年    代  豊  凶   米一升の価格   米一石の価格
明和元年           五厘五毛     五五銭五厘 
天保四年    大不作大洪水 四厘七毛     四七銭  (大豆一升四厘八毛)   
天保五年    豊作     一厘五毛     一五銭  (大豆一升二厘八毛)
天保六年    大洪水    二厘八毛     二八銭
天保七年    青立ち不作  一銭三厘     百三〇銭 (大豆一升二厘八毛)
天保八年    不作     九厘       九〇銭  (大豆一升四厘八毛)
天保九年    大不作大洪水 四厘二毛     四一銭七厘 
天保十年    平年作    四厘一毛七    四一銭七厘 
弘化元年    洪水不作   八厘九毛二    八九銭二厘(大豆一石八十七銭)
弘化二年    洪水不作   七厘三毛五    七三銭五厘(大豆一石九十銭)
嘉永二年    平年作    二厘一毛五    二一銭五厘(大豆一石十三銭)
安政五年           一厘八毛     一八銭
年    代  豊  凶   米一升の価格    米一石の価格
文久元年           六厘二毛五     六十二銭五厘
文久二年           四厘〇毛一     四十銭
文久三年           三厘七毛五     三七銭五厘
元治元年           三厘七毛五     三七銭五厘
慶応元年           六厘        六〇銭
慶応二年           六厘二毛五     六十二銭五厘
慶応三年           九厘        九〇銭
慶応四年           六厘九毛      六九銭 
明治二年    大不作    一銭七厘八毛五   一円七八銭五厘
明治三年    大洪水    一銭三厘八毛八   一円三八銭八厘
明治五年    豊作     七厘三毛五     七三銭五厘
明治六年    大洪水    六厘九毛三     六九銭三厘
明治七年    大洪水    七厘四毛七     七四銭七厘
明治八年    大洪水    一銭一厘三毛六   一円一三銭六厘
明治一一年   大洪水    一銭四厘八毛八   一円四八銭八厘
明治一二年   大洪水    一銭二厘五毛    一円二五銭
明治一三年   豊作     九銭五厘      九円五〇銭
明治一五年   豊作     四銭五厘      四円五〇銭
年    代  豊  凶   米一升の価格    米一石の価格
明治一六年   春夏旱魃   二銭八厘      二円八〇銭  
明治一九年          五銭一厘      五円一〇銭
明治二〇年          三銭八厘      三円八〇銭 
明治二五年          六銭        六円
明治二六年          六銭五厘      六円五〇銭
明治二七年          七銭五厘      七円五〇銭
明治二八年          八銭        八円 
明治二九年          一二銭七厘     一二円七〇銭
明治三〇年          一三銭       一三円 
明治三二年          一二銭       一二円 
明治三三年          一二銭五厘     一二円五〇銭
明治三四年          八銭八厘      八円八〇銭
明治三五年          一二銭       一二円 
明治三六年          一一銭       一一円  
明治三七年          一〇銭八厘     一〇円八〇銭 
明治三八年          一三銭       一三円  
明治三九年          一三銭五厘     一三円五〇銭
明治四〇年          一四銭六厘     一四円六〇銭
年    代  豊  凶   米一升の価格    米一石の価格
明治四一年          一二銭       一二円 
明治四二年          一〇銭四厘     一〇円四〇銭 
明治四三年          一四銭四厘     一四円四〇銭 
明治四四年          一六銭       一六円 
大正元年           二一銭       二一円 
大正二年           一七銭       一七円 
大正三年           一〇銭五厘     一〇円五〇銭 
大正四年           一一銭五厘     一一円五〇銭 
大正五年           一三銭七厘     一三円七〇銭
大正六年           二〇銭       二〇円
大正七年           三七銭       三七円
大正八年           五〇銭       五〇円
大正九年           二三銭       二三円
大正一〇年          三五銭       三五円
大正一一年          二一銭       二一円
大正一二年          二二銭       二二円
大正一三年          二一銭五厘     二一円五〇銭
大正一四年          二三銭       二三円
年    代  豊  凶   米一升の価格    米一石の価格
大正一五年          二四銭       二四円
昭和二年           二六銭       二六円
昭和三年           一四銭五厘     一四円五〇銭
昭和四年           一四銭三厘     一四円三〇銭
昭和五年           一四銭五厘     一四円五〇銭
昭和六年           一四銭五厘     一四円五〇銭
昭和七年           二〇銭       二〇円
昭和八年           一九銭       一九円
昭和九年           二三銭       二三円
昭和一〇年          二七銭       二七円
昭和一一年          二七銭四厘     二七円四〇銭
昭和一二年          三〇銭       三〇円
昭和一三年          三一銭       三一円
昭和一四年          三六銭       三六円
昭和一五年          三四銭五厘     三四円五〇銭
昭和一六年   洪水     三五銭五厘     三五円五〇銭
昭和一七年   平年作    四二銭       四二円
昭和一八年   平年作    四二銭五厘     四二円五〇銭
年    代  豊  凶   米一升の価格    米一石の価格
昭和一九年   豊作     四五銭       四五円
昭和二〇年   平年作    四五銭五厘     四五円五〇銭
昭和二一年   平年作    一三円五〇銭    一,三五〇円
昭和二二年   平年作    一七円五八銭五厘  一,七五八円五〇銭
昭和二三年   洪水     二一円五〇銭    二,一五〇円
昭和二四年   洪水     三七円       三,七〇〇円
昭和二五年   平年作    五五円       五,五〇〇円
昭和二六年   平年作    七〇円三〇銭    七,〇三〇円
注、昭和一六年大東亜戦争勃発と同時に一七年度米、麦、大豆、ジャガイモ等主要食糧は国家管理となり政府において価格を定めた、そうして主要農産物は統制に入った。またして管理に属するものは供出の制度となったのである。したがって戦争が激烈の度を加えるごとに全ての生産品に統制が施行された。この統制は昭和二一年まで続行された、終戦と同時に安定するに従って解除となり昭和二六年にはほとんど統制が解除されたが米のみは依然として解除にならず現在にいたっている。イモ類は二五年度に、麦類は二六年度に解除された。ちなみに昭和一七年度からの米価は政府で定めた公定価格であるので付記しておく。なお、表中大・小麦の価格を明記しなかったことは米価本意に調査したからである。

旧記に徴する各事変および戦争参加者名簿

◎西南の役参加者(明治一〇年)
陸軍歩兵一等卒   高橋 万蔵    高橋正俊氏の古い叔父、吉岡に居住

◎日清戦争参加者
陸軍砲兵一等卒   遠藤 卯吉    下草出身で故人となり、一族もいなくなった

◎北清事変参加者
陸軍歩兵一等卒   若生 広助    若生毅氏の叔父、北海道北見に居住

◎日露戦争参加者
陸軍砲兵曹長    高橋 義衛    高橋武氏の叔父
陸軍工兵上等兵   高橋久左エ門   高橋武氏の岳父
陸軍騎兵一等卒   佐藤 要助    佐藤和輔氏の養父
陸軍歩兵一等卒   若生 広助    若生毅氏の叔父、北海道北見に居住
陸軍歩兵一等卒   齊藤 養吉    齊藤平八氏の叔父、吉岡児玉家の婿となり吉岡志田町に居住
陸軍歩兵一等卒   橋本喜代志    横田清雄氏の兄、戦死
陸軍補充兵     横田 正吉    横田昌助氏の叔父、桃生郡小野に居住
陸軍補充兵     伊藤 政吉    菅原留吉氏の別家、子孫の居住不明
陸軍補充兵     相澤久之助    相澤力蔵氏の叔父

◎第一次欧州大戦参加者
陸軍補充兵     佐藤源十郎    現存

◎満州事変参加者
陸軍一等兵     佐藤松十郎    佐藤源十郎氏の弟、年若くして北海道に渡り鉄道員となる、十勝線大樹駅に勤務

◎支那事変及び大東亜戦争参加者
陸軍軍属      須藤久四郎    須藤利四郎氏の養婿
海軍一等水兵    山田 誠治    須藤利四郎氏の義弟
陸軍補充兵     横田 保治    本人
海軍一等水兵    横田 萬     横田保治氏の弟
陸軍一等兵     熊谷 四蔵    熊谷国造氏弟
陸軍兵長      平渡 高勝    平渡高博氏長男、戦死
陸軍曹長      佐藤 衛     佐藤五郎兵衛氏長男、戦死
陸軍兵長      佐藤 稔     佐藤五郎兵衛氏次男、戦死
陸軍上等兵     佐藤 七郎    佐藤五郎兵衛氏三男
陸軍上等兵     佐藤 源八    佐藤源十郎氏長男、宮城県県警仙台北署
陸軍一等兵     佐藤 源作    佐藤源十郎氏次男
陸軍一等兵     佐藤 源七    佐藤源十郎氏三男
陸軍上等兵     早坂 伝記    早坂幸助氏弟
陸軍上等兵     早坂 伝助    早坂幸助氏弟、戦死
陸軍兵長      早坂 伝策    早坂幸助氏弟、戦死
陸軍上等兵     小松 民蔵    若生毅氏従弟、宮城県警官(警視)
陸軍上等兵     小松 敏男    小松民蔵氏弟、宮城県警官(巡査部長)
海軍兵曹      横田 平蔵    横田保吉氏長男、戦死
          横田 昌助    本人
          横田 栄助    横田昌助氏弟
陸軍補充兵     相澤平次郎    相澤平吉氏長男、小学校教官
陸軍補充兵     相澤平五郎    相澤平吉氏次男
陸軍補充兵     高橋林兵エ    高橋寿氏長男、戦死
          高橋 広志    高橋寿氏次男
          高橋 林治    高橋寿氏四男
陸軍山砲軍曹    吉田大三郎    本人
陸軍歩兵曹長    吉田 胞吉    吉田大三郎氏の弟、富谷にて商業営む
          高橋 寿助    高橋寿氏三男
          佐々木好雄    本人
          佐々木政雄    佐々木好雄氏弟
          菅原喜四郎    菅原留吉氏長男
          菅原喜代治    菅原留吉氏次男、吉岡阿部氏の養子となる
          菅原喜代志    菅原留吉氏三男
          齊藤 勝治    齊藤勝三郎氏長男
          高橋 胞治    高橋長次郎氏弟、色麻に養子
          熊谷寅之助    原籍落合傷痍者となり下草に一家を構える
          高橋幸太郎    高橋幸衛氏長男
陸軍曹長      高橋 好治    高橋栄吉氏長男
陸軍上等兵     高橋 正俊    高橋正喜氏長男
陸軍一等兵     相澤 利七    相澤利三郎氏四男
          菊地助右エ門   菊地新作氏長男
陸軍上等兵     若生 公一    若生毅氏長男
陸軍兵長      佐藤 政助    佐藤和輔氏義弟、戦死
陸軍曹長      佐藤 俊助    佐藤和輔氏義弟
陸軍一等軍医    高橋久太郎    高橋多利治氏長男、医学博士仙台市において開業
海軍三等軍医    高橋 久弥    高橋多利治氏五男、塩釜市千葉家に養子に入る
陸軍        若生新三郎    若生新治氏弟、県庁勤務
          若生 良治    若生新治氏弟
陸軍軍曹      齊藤 平八    齊藤養八氏長男
          齊藤 養作    齊藤平八氏弟
          齊藤 養一    齊藤平八氏弟、戦死
          高橋久兵衛    高橋多利治氏四男
海軍        高橋 久吉    高橋多利治氏六男、戦死
海軍軍医      高橋 武     高橋久左エ門氏長男
          高橋勇三郎    高橋森治氏養子
          岡  謙一    岡重兵衛氏長男
          佐藤 多吉    佐藤多利蔵氏長男、戦死
          高橋栄三郎    高橋運三郎氏長男
          高橋 栄吉    高橋栄三郎氏弟、戦死
          高橋運太郎    高橋栄三郎氏弟
          高橋梅次郎    高橋栄三郎氏弟、門間家へ養子
          相澤 養作    相澤力蔵氏養子
          相澤 正     相澤力蔵氏弟
          橋本 盛雄    横田清雄氏従弟
          高橋 利一    高橋久左エ門氏弟
          齊藤 養蔵    齊藤惣三郎氏三男
          齊藤 永男    齊藤永三郎氏長男
          齊藤 好信    齊藤永三郎氏次男
          高橋 鶴治    高橋胞吉氏長男
          佐藤伝之助    佐藤伝左エ門氏次男、大田高橋家へ養子
陸軍歩兵大佐    赤間 良弼    原籍仙台市同心町の人、昭和二十年二月下草に移住した人
          赤間 良勝    赤間良弼氏長男にして東北大学教育学部卒業後、黒川郡大谷小学校勤務。


下草の沿革編の四【郷土の勝れた人々】

 

下草の傑出せる人々

記録による表彰を受けた人

横田りつ女=註現横田吉三郎氏宅の人
原文=下草村(農)萬吉妻リツ
舅、姑につかえる孝養つぶさに至る姑の病にかかるや、看病に勤めかつ隣に交わるや厚く、つとに夜農事に勉めて怠らず、明治二年十一月藩ここに金一円を与えてこれを賞す。

高橋久作翁=高橋多利治氏の父
原文=功績状    黒川郡鶴巣村   高橋久作(弘化四年十一月生)
資性篤実つとに郡村公共事業に率先してつくし最も力を農業の改良、養蚕の普及に致すその功績すこぶる顕著なりもって金拾円を授与しその功績を表彰す。
                             黒川郡長  石崎 寅吉

須藤利四郎
 表彰状    黒川郡鶴巣村青年団員   須藤利四郎
志操善良にして体格強健平素祖父を助けて家業に勉励しその余暇に読書修養に努め隣人公衆に対し真実をつくす等まことにもって青年の模範たりよって書籍一部を贈与しこれを表彰しなお一層の奮励を望む
大正十五年二月十一日    黒川郡長従七位勲六等 須田丙午郎  印
 表彰状を受けた須藤利四郎氏は助右エ門氏の長男で、祖父利右エ門氏伯楽にして地方牛馬治療に貢献すること実に多く、利四郎氏も祖父の血を受け継いだので牛馬には見識があり、青年時代模範青年として表彰され長じて農家組合・実行組合長等部落の中堅層であった。現在は村会議員として二期目、地方自治のため寧(でい)日無く東奔西走である。特筆すべきは種牛を飼育し役畜牛改良発達に努めつつあるは他のくわだて及ばざるところである。

明治以前下草に功績のあった人

若生養気橘正俊(明和四年生)
閲歴及び功績 下草村の郷士若生養之助橘正俊を父に母利恵の長男として下草に生まれる。(姉一人、弟三人、兄弟三人とも医学を専攻)、幼児より神童の誉れ高く長じて吉岡に分家となる、吉岡で医者を開業しつつかたわら油の製造販売を業とした。氏は任侠の志厚く済世救民に尽力したことは墓誌及び古文書によって明かである。郷土下草のために籾百表と倉庫一棟を建設して後日寄贈した。その記録の原文は次の通りである(本家若生家の箱底にあり)
      覚
一、籾百俵也。但し一表五斗入り
右はこの度吉岡町御住居若生養気殿おぼしめしをもって追年下草村お百姓中為泪助之当お手作米之内より御備被下候。右養気様御事は 当村の御産にて医術御執行京学に御登り既にご立身御下りの後自然御心懸下被置下草村一村追々飢饉等為凌之御備被下候。御籾之義に而誠以重々御恵御事に候間一村御百姓中右御志を奉じ勘弁いささかたりとも粗略の儀之無き様年々信合致し置き右借受等に及び肝いり組の面々は心にかけて始末も見届け追年ともに不椹成義無之様児比度信合相備置可申候。以上
     嘉永元年十二月              肝 入   庄  蔵  印
 以上の記録に示す如く貸付を目的としたのでなく郷土の一般に貯蓄向上の培養と郷土を愛する念願より他意がなかったことが考察される、筆者の祖先は本家にあたるため箱底より前述のごとき古文書を発見したので稿を起したのである、本来なれば筆者の祖先にかかわる事は慎まねばならないが郷土史として編集する以上郷土のために功績のあった人々を永世に伝えねばならぬゆえに徒に誇大妄想を避けて墓誌と古文書を基調としたのである。
故老の伝承によれば故人下草の郷里に来訪の折は乗馬できたそうだ、仲小路の上で下馬して歩いてくると養気様のお出でだと言って土下座をして迎えたる由正に藩主の御国入りの観があったと、因みに吉岡若生家は当代良穂氏をもって四代となす、代々医業を以てせり、当代は元海軍軍医中将で医学博士である、現加美郡宮崎村において病院を経営せり。
  家系次の如し 
初代  養 気(橘姓)下草より吉岡に別家となる 
    右 近 室(藤原姓) 京都梅小路家より 一子あり香女と言う、十七歳で死去
二代  孝 治 初代養気嗣なし、幸治は即ち弟なり
     琴  室(星野氏吉岡志津麻氏二女)  一子孝太郎、後改めて孝治と言う
三代  孝 治 東京帝大医学部一回卒業生 吉岡にて開業 芳隍と号す
    ふ じ 室遠田郡涌谷、菊地姓      一子あり静枝
四代  良 穂 佐藤家より養婿となる元海軍軍医中将正三位勲二等本邦内臓外科の権威
    静 枝 室三代孝治長女、仙台東華高女卒宮城女師範卒業 一子あり千代子
五代  匡 次 元海軍軍医大佐、早川姓愛知県 加美郡宮崎居住
    千 代 室良穂長女
四代良穂氏軍医官なるため吉岡町より居を東京都世田谷町二丁目一一八五に移す、終戦後現在地にて開業せり。

故 平渡高良 嘉永五年生
閲歴  翁は由緒深き平渡家に何代目かに白土家より養子として下草に居住さる。
明治  四年 三月  舎方士族伍長拝命
    八年 四月  第三大区小二区村扱拝命
    九年十一月  第二大区小十五区村扱拝命
   十一年十二月  黒川、加美郡役所雇拝命
   十二年 一月  戸長役場筆生拝命
   十三年 五月  鶴巣村村会議員に挙げられ議長たり
   十三年 七月  黒川郡三の関村、下草村勧業委員拝命
   十五年 一月  黒川郡一之関村外四ケ村戸長兼学委員
   十六年 四月  黒川郡一之関村外四ケ村連合戸長準十七等拝命
   十七年 七月  富谷村外六ケ村戸長役場筆生拝命
   十七年 八月  黒川、加美郡勧業委員に選任さる
   二十年 七月  黒川郡一之関外四ケ村小学校資産管理員
  二十二年 四月  鶴巣村村会議員に当選
  二十二年 五月  黒川、加美郡徴兵参事員に当選
  二十七年 四月  黒川郡会議員に当選
  三十二年十二月  郡会議員再選郡参事に当選
  三十八年十一月  鶴巣村長に当選
  四十二年 十月  鶴巣村長に再選
 外下草区耕地整理組合、備荒籾貯蔵役等、翁の力によるもの枚挙にいとまなし。大正十年十一月三日病のため死去した。
功績 翁の偉容筆者若くして記憶にあるが、伝え聞く数々の功績郷土下草をして泰山の安きに置かしめた基盤をなした。翁幼時より?敏仁愛の情に富み一生を公共事業に尽くした功績は永遠に不滅である。翁黄泉に旅立たれて三十有余年、嗣子高博氏父君の遺鉢をつぎ幾多公職に携わる、一家益々繁栄部落の中堅なり「積善の家に必ず余慶あり」とはけだし千古の名言なり。

故 高橋久作 弘化四年十一月生 大正五年二月十日死去
閲歴 翁は故高橋久左エ門氏の長男として下草に生る。部落及び村、郡に尽くし即ち記録によると、明治十二年先ず村内組長はじめ村会議員に選ばれる事五度、その間村会議長、村常設委員長、備荒籾組合総代、富谷鶴巣両村地押総代、黒川郡尚武会世話役、郡会議員二期、郡参事員、下草契約講講頭、下草耕地整理組合委員長数え来れば枚挙にいとまなし。
功績 翁は性温良勤儉力行、ことに理財に長じ富一郷に冠たり。下草をして斯く自他ともに許す理想郷になさしめたるは実に翁の礎石に負うところ実に多いのである。下草においては故平渡翁と翁は双璧であった。志済世救民に厚く幾多の困窮者は翁の恵みに浴して繁栄せるもの少しとせず。翁死去されて四十有年寝食を忘れての尽力ぶり多数の感謝を集めて、その大をなせる部落民今なお景仰してやまぬ。長男多利治氏明治二十一年五月五日生まる。性醇厚謙恭徳を治めること深く情に富かつ至公至平の高潔な人格者である。尊父翁の衣鉢を継いで村会議員三期、学務委員四期、日本赤十字社特別社員、名区長として謳われ、終戦後本村村長等翁に劣らぬ功労者である。斯く父子二代相継いで公共に盡瘁せられたる一家は他にあまり例を見ざるところであって、翁および当主多利治氏の積善と徳のしからしむところである。今や令孫久太郎氏および久弥彌氏は国手として一身に信望を集め又家業は久兵衛氏踏襲一家の繁栄益々盛んなり。翁以てめいすべきである。

故 高橋久左エ門 明治十年 月 日 生 昭和十八年二月十七日死去
閲歴 故高橋広右エ門翁の長男として下草に生る。翁の令弟令妹九人いずれも健在である。第二師団工兵隊第二大隊に入隊さる。明治三十七・八年戦役の功により勲八等青色桐葉章を授かる。
大正 六年  鶴巣村役場書記
大正 九年  収入役
大正十五年  鶴巣村助役
昭和 七年  鶴巣村長に選ばれる
昭和十一年  村長一期退職
下草八幡社氏子総代。下草区長備荒籾世話係。鶴巣消防組頭。村農会長。小学校移転新築(昭和三年),下草、大崎線道路の改修(昭和六年)等自治功労者として遑(いとま・ひま)なし。
功績 翁天資温良、仁愛に富み、清濁併せのむ大度量の人であった。かって翁収入役時代、代理書記は不法にも収入役保管に係る公金を費消したとか。その折代理書記に何事も言わず「頬っぺた」二つ殴って、何事もなかったごとく光風斉月、大腹中の人であったことは当時の語り草となっておった。本村消防組史上には特筆すべき大功労者である。何事によらず翁は誠実を傾けて処理されたので部落民は申すに及ばず、一般から慈父の如く慕われたのであった。長氏武氏父君に似て、大雅量人として現下草共同組合長として活躍され、二男傳氏公務に、一家は益々円満である。

故 佐藤要助 明治十一年九月生 大正十三年三月死去
閲歴 故佐藤要作翁の長男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後吉岡高等小学校に学ぶ。長ずる及び第二師団騎兵第二連隊に入隊、転じて第七師団騎兵第七連隊に入る。日露戦争参加の功により勲八等白色桐葉章を授かる。
明治三十九年 八月  鶴巣村役場書記
大正  三年 八月  下草区区長代理
大正  三年 八月  下草区衛生組合長選任
大正  五年十一月  鶴巣村収入役
大正  十年 四月  村会議員に当選、不幸現任中死去した。
功績 氏は資性鋭敏聡明高潔の人で下草の生める俊傑であった。よく青年を愛し後輩指導には寝食を忘れるほどで、ことに騎兵に入隊せられた関係か馬を愛すること非常なもので、いかに夜遅く帰宅するも先ず厩舎を見回って寝につかれた様子であった。平常氏は青年に向かって、牛馬と言うものは人間から飼料をあてがわれなければ食うことの出来ぬものだからよく気をつけて飼育管理をせねばならぬものだ、と口ぐせのように言っておられた逸話が残っている。村のため郷土下草のため数々の功績を残され氏の人格正に円熟せんとするとき、又氏の手腕に待つべき幾多の用務山積している折、不幸四十何歳の若さで長逝せらるとは、村の損失、部落の落膽(らくたん)言語に絶するものがあった。しかれども養嗣子和輔氏岳父の衣鉢を継ぎ青年会長、農事実行組合長、産業組合専務理事等、幾多の要職を経て村会議員現二期目の村議会の議長たり。父子二代斯く公私ともに盡力(じんりょく)され名誉ある家柄にして郷土の誇りなり。氏よ安んじて永久の眠りに就かれ天界より郷土に多幸あれかしとお護り下さい。
故 佐藤要助氏 現家庭
   妻  ふみ 女  背入島家より
当主   和 輔    故要助氏の令甥・ 長女故とくゑ氏結婚、不幸とくゑ氏三男三女を残して死去。
室    きくよ    吉岡町尾形家より
長 女    恵 子  吉岡八巻家へ、次女千恵子、吉岡町村田家へ
長 男    和 志  二男  次男、  三男  三男、  三女  たけ子
長男・次男家業に従事、その他、小・中学校在学中

故 高橋久米治 安政元年生 昭和二年十月二十三日死去
閲歴 故高橋久左エ門翁三男として下草に生る 。長ずるに及び現在の住所に高橋家より分家す。明治三十六年より大正七年まで、十有余年の長きにわたる名区長なり。大正七年選ばれて村会議員三期議長となる。部落にあっては、耕地整理組合理事、現場監督員、備荒倉関係世話役、氏子寺総代、ネズミや堤防第一期(砂子沢より西へ下草大柳まで)第二期(大柳から十文字まで、大正十二年起工翌十三年竣工)の発案者であり現場監督員であった。翁天資剛毅、果断所信を貫く気概を有する士であった。特筆すべきは下草における養蚕の草分けとして在世中は養蚕のために寝食を忘れ、自家飼育はもちろん部落の指導等、翁の在世中、下草養蚕の最も盛んにして、部落内外に名声を博し、養蚕黄金時代を築き上げたるは実に翁の努力あづかって大なるものがあった。翁逝って二十有五年竹林川の氾濫、築堤によって微動だもせぬ。近時水害の連続的襲来にもかかわらず郷土はすくわれている。正に偉大なる功績とたたえねばならぬ。翁には、長女きの女ただ一人あり。養嗣子栄吉氏(富谷村細川姓)養父の遺志を体し、あらゆる公職を勤め第二世翁出現の観あり。栄吉氏志操きわめて堅固、神仏実に厚く、至公至平の人であった。室きの女逝って二十有余年、只管子弟の幸福を願って後妻をめとらず、道心の堅固なる当代まれにみる人である。氏は近時健康を害して他出せぬが好く家事万般を担当し、家運益々隆隆たるものあり。翁又以てめいすべきなり。
現在の家庭
      栄吉  (明治二十年三月十二日生)
長 女   きよ  利府村加藤家に。 次女 よしの 家庭にあり
長 男   好治  家業に従事。 長男妻  てる子 落合村舞野浅野家より。
三 女   さだ子 粕川村酒井家に。   四女  かつ子 家庭にあり。

故 近藤軍吉
 氏は栄吉氏の令弟にして幼時より下草において育つ。氏はまれにみる秀才にして、小学校を首席で卒業、大正四年海兵団に入団爾来(じらい)軍人たらんとして、海軍幹部諸学校卒業後、海軍少尉に任官、さらに中尉に進級、将来を嘱望された有為の士なりしが、不幸病魔のおそうところとなり死去した。氏は横須賀江藤家に養子となる。筆者友好あり、氏の人となりを知るために附記する。



下草から他町村に行った人々の閲歴


國分丸治 正三位勲二等 弁護士 明治十六年四月十日生
  本 籍 仙台市北四番丁一二四
  現 住 同じ
  閲 歴 氏の母堂きね刀自は下草区斎藤家にして、岩出山佐々木家に嫁す。氏は長男として生る。後仙台國分家を継ぎ明治三十六年四月十五日茨城県にて普通文官試験に合格。仝年七月私立東北法律学校卒業。明治三十八年七月十五日、私立日本法律学校卒業。
明治三十八年十二月二十八日  司法試験補を命じられる
明治三十九年六月十二日    福島区裁判所検事代理を命じられる
明治四十年八月十二日     検事に任ず 高等官七等
仝  年十月十八日      補若松区裁判所検事 叙從七位
明治四十二年八月六日     補福島区裁判所検事兼福島地方裁判所検事
明治四十五年七月十日     福米沢区裁判所検事
大正元年八月二十八日     叙高等官六等
仝  年十一月二十一日    叙正七位
大正四年十一月十日      大禮記記念章を授与さる
大正六年九月一日       補横浜地方裁判所検事兼横浜区裁判所扣(ひかえ)検事
大正六年六年十月二十五日   陞叙高等官五等
仝  年十一月十日      叙從六位
大正八年六月二十日      補横須賀区裁判所検事
仝  年八月二十五日     叙勲六等瑞宝章を授かる
大正九年十月十五日      補東京区裁判扣検事兼東京地方裁判所扣検事
仝  年 〃  〃      叙高等官四等
仝  年十二月十日      叙正六位
大正十月七月十八日      補札幌区裁判所扣検事仝地方裁判所扣検事
大正十一年一月十九日     裁判扣書記登用試験委員を命じられる
大正十二年一月二十二日    叙高等官三等 叙從五位
仝  年四月二十四日     補札幌地方裁判所首席検事
仝  年八月七日       補大阪地方裁判所扣検事
仝  年八月二十七日     叙勲五等瑞宝章を授けられる
大正十三年一月十六日     補大阪控訴院検事
大正一五年十月六日      公証人懲戒予備委員を命じられる
昭和三年四月二日       叙正五位
仝  年七月二十四日     補姫路区裁判所扣検事兼神戸地方裁判所姫路支部上席検事
昭和三年十月十二日      勅任官を以て待遇される
仝  年十二月二十八日    叙勲四等瑞宝章を授けられる
昭和五年八月一日       補札幌控訴院上席検事
仝  年九月二十六日     普通文官懲戒委員反公証人懲戒委員を命じられる
仝  年十二月二十四日    陞叙高等官二等
昭和六年十月八日       補樺太地方裁判所扣検事正
昭和八年四月十五日      補佐賀地方裁判所扣検事正
 〃  〃  〃       叙從四位勲三等瑞宝章を授かる
昭和十一年二月二十九日    陞叙高等官一等
仝  年八月三十一日     補大津地方裁判所扣検事正
昭和十三年五月二日      叙正四位
昭和十四年七月十七日     補福島地方裁判所扣検事正
昭和十五年九月十一日     叙勲二等瑞宝章を授かる
昭和十六年七月二日      補和歌山地方裁判所扣検事正
昭和十八年五月十五日     叙從三位
昭和十九年三月二十五日    文官文限令に依り退職
昭和十九年四月十日      叙正三位 弁護士を開業する
昭和二十年五月二十五日    仙台地方裁判所扣各調停委員
仝  年十一月二十四日    宮城県司法保護委員会参与
仝  年十二月二十五日    仙台地裁扣昭和二十六年度各種調停委員
昭和二十六年一月四日     仙台地裁扣仝年度参与
昭和二十六年三月二十二日   仙台地裁扣仝年度調停委員を命じられる
 其の他検事正在職中は司法委員会の会長であり、本邦法曹界稀に見る名検事正であつた。
功績  先生は青年時代東北法律学校に学び之を卒業、普通文官試験に合格、更に笈を負ふて上京苦学行日本大学卒業後司法界に入り、私学校出身にしてよく勅任官を克ち得たるは本邦稀に見る偉才にして本県の誇りとする勿論郷土下草の最も栄誉とするところである。司法官として功労多く全国各地に其の令名を轟かせ、今や先生は現職を退き弁護士を開業せらるゝや、人情に富み任侠ありて最も好評あり。
先生の得意とする刑事々件に至っては東北斯界の大権威なり、自重自愛一曽の御活躍と偉大なる面目を発揚されんことを祈り筆をおく。
趣味 読書
家庭   ゑなゑ  (明治十九年九月十九日生)仙台第一高女五回卒業
 養嗣子 則 夫  (大正五年生)目黒家より國分家に入る。東北帝大卒現山形地方検察庁検事
 長 女 ミチ子  (大正十二年六月生)福島高女卒
 長 孫 和 子  (昭和二十一年生)
 次 孫 由起子  (昭和二十五年生)

櫻井貞助 元松島町助役 明治十一年六月生
 現住 宮城郡松島町手樽字三浦
 閲歴 故若生養四郎翁の三男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後、吉岡高等小学校を明治二十六年卒業後家業に従事、明治三十二年十月現櫻井卯吉氏長女まん女と結婚、大正十三年選ばれ松島島町助役就任、じらい第二期勤続、期間中の担当事務、兵事及び会計用度、家屋調査委員、第一回国勢調査員、土地価格調査委員等の要職をやり昭和七年二期目満期退職
功績 氏の生家若生家は地方稀に見る旧家にして、幾多知名の者輩出。氏の祖母り代刀自はすこぶる厳格な人で其のしつけたるや実に竣烈たるものがあった。かくの如き祖母より教育を受けたる氏は清廉潔白、素志を貫く古武士の面影あり加えるに理財に精通し、もって在郷中は若生家は極度に経済に行き詰り近隣の裕福なるを見て、氏は切歯やく腕あのレベルに自分の家も引きあげねばならぬと持前の気性を発揮し遊び盛りの青春時代家兄も及ばぬ程家業に精励し、只菅(ひたすtっら)家運の挽回のみを念頭に浮べて居った由、筆者が後日母よりきかされて居たのであった。
 斯く辛酸を嘗めて成長し、櫻井家に養子となるや好く家政を整へ同町屈指の産を築き、内にあっては家を整へ外部にありては本邦稀に見る著名な大松島の助役に選ばれたるは偶然にあらずして実に氏のたゆまざる努力と研鑽の結晶であると思う。筆者は叔甥の関係にあって氏に接見する機会多い、会う度毎に実家の状態、部落の状態、開口一番暮しはどうだと言うのである。郷土を去ったもので郷土を偲ばざるものは何人といえども思いは皆同じだが、とりわけ氏は愛郷の熱情が盛んである。今や悠々自適の生涯を送るべき年輩だが、氏の持論として、生けるものは須(すべから)く仂かざるべからずの持論を提げて、老を老ともせず気力一点張り、田に畑にあるいは山に海に壮者を凌ぐ元気で只一筋に仂き続けて居る。部落では元助役さんは、何んぼになっても婿の気持ちがぬけないと、言ってるそうだ。氏は又常に青年を愛し、青年に呼びかけることは「青年よ大望あれ。而を橈まず屈せず孜々として努力せよ、最后の栄冠は必ず汝に授けられるべし」と言って居られる氏自身も実践躬行をして来たのである。郷土の生める偉人なる功績を残した熱血の士よ、乞う自重自愛百才の長寿を全うされんことを遥か氏の郷土より熱祷して筆をおく。
趣味 読書、釣魚、自然薯堀り
家庭   妻まん (明治十九年十月十六日生)故櫻井卯吉氏長女
長 男 貞太郎  (明治三十四年八月二十日生)農業に従事
 長男妻 くしを (明治三十五年五月十八日生)農業に従事 孫男二人、女四人計六人あり
次 男 忠 夫  (明治四十二年二月十日生)地方警視、原国警柳津地区署長
次男妻 千 代  (大正二年二月十日生)利府村桜井家より
長 女 若 子  (明治四十五年三月二十五日生)宮城県女子師範学校卒業後登米郡石森町千葉家に嫁す。
二 女 研 子  (大正四年四月二十八日生)吉田高女卒 家事
三 女 宣 子  (大正六年五月生)仙柳絮学校卒 遠田郡中埣村佐藤家に嫁す
四 女 泰 子  (大正九年十一月生)塩釜高女卒 仙台岡崎家へ
五 女 寿 子  (大正十二年三月二十七日生)仙台第一高女卒 補習科活花卒寿風園と号す
六 女 英 子  (大正十四年十月十五日生)仙台第一高女卒 宮城県ドレスメーカー女学院卒 手樽区桜井家に嫁す

高橋義衛 元陸軍砲兵上等工長 從七位勲六等功七級 明治十二年七月五日生
 現住 熊本県飽託郡川口村字平丁
 閲歴 故高橋廣右エ門翁の二男として下草に生る。幼名を卯右エ門と通称し、長ずるに及んで義衛と改名。鶴巣小学校卒業後吉岡高等小学校に学ぶ。同校卒業後家事に從事。第二師団野戦砲兵第二?隊に入隊、在隊中下士候補となり軍人にて身を立てんとして除隊せず、明治三十七・八年日露戦争に参加、功に依り勲七等に叙し功七級金鵄勲章を授けられる。大正五年現役退職後民間常磐商会火薬製造会社に勤務するも意にそわざる点ある為退職再び陸軍関係砲兵工廠に勤務昭和十年依願退職
功績 氏は青年時代より軍人として奉公の誠を捧ぐべき念願止み難く、郷土下草に遠ざかりし為現在氏のおもかげを知るものないが桜井貞助翁(下草出身にて筆者の叔父、現在松島町存命)の語る氏の青少年時代の事共に摘録することを得た。
氏は廉潔、至公至平所信を貫徹する気概を有し、古武士のおもかげあったと伝へきく。小学時代は勉学是れ努め一心不乱、文字通り勉学振りは到底他青年の追随を許さぬものがあった由、時たま郵便物を配達されると田舎の老人夫婦連が「卯右エやどっから手紙来たのや」と言へば氏は「見たらわかんべエ」婦人共「見えるくらいならきかネエ」と、すると氏は「口惜しくネエか。そんだから勉強するもんだ」と言って女共をたしなめたと言う。又氏は母堂のはなどりで代掻をしてると母堂は何回もコースを水の為めに間違うと、いゝ年をしてはなどりも満足に出来ネエ、判るまで考へて見ろと言って、氏は畦畔の上にあがってあぐらをかいて居たと言うエピソードもある。
 とにも角にもかくの如き気骨隆々たる前途有為の青年だったらしい。日露戦争の析、令兄故久左エ門翁も工兵として出征し、令兄の加橋されたのを氏は砲兵として渡橋し奇しくも兄弟陣中対面もあったことをも伝へ聴いて居った。かくの如くスパルタ式天りんを有する。氏の居常公私の別を判然とされたことは推するに難くない。今や功なりを名遂げて九州の果てに悠々自適の生涯を送られる。
 郷土下草は氏の如き快男児の誕生を誇りとする。乞う自重自愛、百才の長寿を全うせんことを熱願して筆をおく。
趣味 読書、園芸
家庭 妻マサ  (明治十四年三月五日生)仙台市向小田原
養 婿 義 光  明治三十八年四月十日生)元陸軍歩兵少佐熊本県飽託郡川口村高橋家に入る
養 女 サ ダ (明治四十三四年七月二十五日生)福島県安績郡小原田村字小原田高橋氏に養女となる。共立高等女学校家庭科卒業
長 孫 孝 一 (昭和十年七月一日生)高校在学中
次 孫 玲 子 (昭和十三年二月二十二日生)中学校在学中
三 孫 義 人  昭和十八年一月三十日生)小学校在学中
四 孫 和 夫 (昭和二十二年二月八日生)

高橋久太郎 高橋内科小兒科病院長 医学博士 大正 年 月 日生
 本籍 黒川郡鶴巣村下草字迫一八
 現住 仙台市五つ谷二五
 閲歴 高橋多利治氏長男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後本県第二中学校、第二高等学校、東北大学医学部を卒業
昭和十年三月     東北帝大付属病院熊谷内科で研究
昭和十二年      秋田県五城ノ目組合病院
昭和十六年      医学博士の学位を取得
昭和十六年四月    応召
昭和十六年七月    朝鮮会寧陸軍病院勤務
昭和二十年八月    終戦と同時にソ連によく留
昭和二十二年十一月  帰還
昭和二十三年七月   現地に開業し現在に至る
功績 氏は温厚篤実なる人格者にして稀に見る逸材なり。実に下草区開創以来学位を得たる最初の人にして、父君は済世救民の志篤く、富一郷に冠たり。氏の弟妹は何れも秀才一家の栄誉は申すに及ばず、郷里下草の最も誇りとする処である。しかも刀圭界の権威にして、豊富なる学識と洗練されたる技術は絶対に他の追随を許さず施療者のことごとく快復又は著しく結果良好にして、急速なる処置に皆歓喜し且つ感激する状況なり。從って業状殷賑(いんしん)を極め、目下病棟の増築をしつゝあり。居常よく人と交りてその天禀の馥郁(ふくいく)たる人格・気品とを以て自ら畏敬の念を生せしむるもの他に多く其の類を見ず。筆者私氏の人となりを知り常に信頼と其の自愛を祈り筆をおく。
趣味 読書
家庭 妻としへ    山合右兵衛市長女。第一女学卒業校。女子専問学校卒業
 長 女 康 子  ( 年 月 日生)十五才 在学中
 次 女 久 子  ( 年 月 日生)十四才
 三 女 淑 子  ( 年 月 日生)十二才
 三 女 厚 子  ( 年 月 日生)十一才
 長 男 健 一  (昭和二十年九月 日生)
 五 女 知 子  (昭和二十三年 月 日生)

庄子久彌 塩釜市病院勤務 昭和 年 月 日生
 現住 塩釜市
 閲歴 高橋多利治氏□男として下草に生る。医学博士高橋久太郎氏は氏の令兄なり。鶴巣小学校卒業後仙台第二中学、仙台医専、海軍々医学学校を経て海軍々医官として宮城県多賀城海軍病院勤務、終戦後、塩釜市庄子氏の養子となり、塩釜病院勤務現在に至る。
功績 氏は幼年より秀才の誉れ高く、明朗で快活な人格者である。患者に接するに懇切丁寧にして患者は氏を「したう」こと赤子が母親の乳房を欲する如く、しかも志操極めて確固して動かず、もっぱら研究に臨床に寧日なく、斯界のために努力せられ、若き国手として将来を期待されつゝある。乞う益々精進せられ、一層の自愛を祈り筆をおく。
趣味
家庭 養父
   養母
   妻

若生廣助 元官吏 明治八年七月二十三日生
 現住 北見公営呂郡留辺蘂町川北第二区
 閲歴 故若生養四郎翁の次男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家事に從事、明治二十八年歩兵四連隊に入隊、明治三十一年征台に参加、明治三十七・八年日露の役に從軍功に依り白色桐葉章勲八等に叙し一時金弐百円を賜う。後北海道に渡り看守拝命二年六ヶ月勤務。明治四十五年現住地において農業に從事。公職として、
昭和十一年五月     上武萃農事実行組合長
昭和十二年十月     上武萃軍需品供給督励員
昭和十一年五月     留辺蘂町経済更正計画協力委員
昭和十六年五月     川北区第二区会長選任
仝   年十二月    資源調査委員
昭和十八年七月     留辺蘂町民政委員
昭和一九年二月     川北第二納税部長
昭和二十二年四月    留辺蘂町々会議員当選、現第二期在任中
功績 氏は筆者の叔父にして資性温良高潔の人なり。渡北するや官吏たるも二年六ヶ月にして職を去り、本来の農業人に還り北の果てにおいて開拓に從事。四十有五年営々として開拓し今や十数町歩に及ぶ。七十七才の高齢なるも壮者を凌ぐ元気にて、今尚圃場に立って働き居るときく。功成り名遂げ、悠々自適の生涯に入るべきに、老を老ともせず、働くことは転職なりと氏の常に言うことなり。氏は家庭的には余り恵まれず、妻には三度死別するも、老後の唯一の楽しみは宗教あるのみと言って大の天理教信者である。下草の生める老農よ神の加護に依り百才の長壽を全うされんことを遥か郷土より祈り筆をおく。
家庭  養子 達  (宮城県黒川郡大衡村大森、高橋幸治弟として氏の養婿となる)
    長女 静枝 (大正五年一二月十日生)達と結婚
    長男 東市 (大正十五年六月一七日生)道庁巡査
    次男 恭市 (昭和九年十一月三十日生)家庭にあり
    孫 ミヱ子 (昭和十四年五月二日生)小学校在学
    〃 五百子 (昭和十六年八月二十日生)小学校在学中
    〃  祝男 (昭和十八年三月三日生)小学校在学
    〃   貢 (昭和二十一年十二月六日生)
    〃 トミヱ (昭和二十四年四月二十二日生)

高橋 傳 建設省関東地方建設局横浜地方出張所長 明治四十二年十月二十二日生
 本籍 宮城県黒川郡鶴巣村下草字迫
 現住 神奈川県鎌倉し岩瀬五五七
 閲歴 故高橋久左エ門翁の二男として本籍地に生る。鶴巣小学校卒業、東北中学、仙台高等工業卒業後
昭和 七 年三 月    日本大学専門工科建築科卒業
仝    年七 月    東京市土木局王寺区出張所勤務
昭和 九 年八 月    右仝局下水課日暮里出張所勤務
昭和十一 年七 月    依願退職
仝    年十一 月   野村工務店勤務
昭和十六 年一 月    国民徴用に依り横須賀海軍建築部入部
仝    年仝 月    徴用中月額八五円給し部内限判任官とす
仝    年仝 月    第二課勤務
仝    年八 月    勅令第六七三号に依り海軍建築部令を改正海軍施設部令を制定公布
昭和十九 年十一月    任海軍技手給四級俸海軍施設部勤務横須賀
昭和二十 年十一月    拾二級俸
仝    年仝 月    依願免本官
仝    年八 月    運輸建設本部事務を嘱託す
仝    年十 月    東京地方建設部勤務を命ず
昭和二十一年二 月    任運輸技手給三級俸、東京地方建設部勤務を命ず 辻営製材工場勤務を命ず
仝    年四 月    勅令第一九二号及第一九三号に依り運輸技官三級
仝    年六 月    給二十二号俸
仝    年七 月    俸級令改正、十一号俸給す、資材課調度係勤務を命ず
昭和二十二年九 月    大船(湘南工事区)支部勤務を命ずる、十二号俸を給す
昭和二十二年九 月    十三号俸を給する(特別増俸)
昭和二十三年七 月    二級に陞叙する、東京地方勤務を命ず、大船支部勤務を命ず
仝    年十二月    十四級俸を給する
仝    年一 月    八級六号を給する
仝    年七 月    建設省設置法附則第九条及建設省設置法施行令第十九条に依り同一性を以て建設技官に任ぜられ東京地方建設事務部勤務となる、大船支部勤務を命ずる
仝    年十一月    九級二号俸を給する
昭和二十四年一 月    特別建設局兼営繕建設工事本部勤務を命ずる、大船支部勤務を命ずる
仝    年四 月    建設省関東地方建設局勤務を命ずる、横浜駐在を命ずる
昭和二十三年十二月    政府職員の新給与実施に関する法律第十条の規定に基き左の内計算に依り、九級二号俸を給する
二三、一 、一日、 八級六号俸を給する
二三、十一、三日、 九級号俸を給する
昭和二十四年七 月    横浜営繕工事々務所從務を命ずる、営繕監督官を命ずる
仝    年十二月    九級三号俸を給する
昭和二十五年十 月    建設省関東地方建設局横浜営繕出張所長を命ずる
昭和二十五年十二月    九級四号俸を給する
昭和二十六年一 月    昭和二十五年法律第二九九号に依り九級四号となる
功績 氏は幼時より、勤勉刀行の人なり。父君故久左エ門翁の血を享けられたので大度量の持主で土木建築学を専攻され建設省入りをなさる。中央に国土建設のために縦横の怪腕を振われている、郷土の誇りも去ることながら、氏の一門此の栄誉を讃えざるはなし。氏年歯四十才の働き盛り、自重自愛一層の御奮励を望んで筆をおく
趣味 読書
家庭  妻 婦美  (大正四年三月二日生)家庭に子供なし

佐藤松十郎 鉄道員 明治三十三年九月二十八日生
 本籍 宮城県黒川郡鶴巣村下草字十文字
 現住 十勝国広尾郡大樹町大樹駅鉄道公舎
 閲歴 佐藤源十郎氏弟として下草に生れる。鶴巣小学校中退、兄をたすけ家業に從事するも、大望を胸中に抱き大正五年春北海道に渡る。
大正 五 年十二月    池田駅々夫(日給四十銭)
大正 六 年十二月    門静駅転任
大正 八 年八 月    厚岸駅転任
大正 九 年十二月    歩兵四連隊入隊
大正十一 年六 月    薩吟嗹出征
大正十二 年五 月    凱旋除隊(陸軍機関銃上等兵)
仝    年八 月    厚岸駅々夫最勤、糸魚駅転勤
大正十四 年十二月    十勝音更駅転勤
昭和 六 年十二月    大樹駅転勤(爾来二十年仝駅勤務現在に至る)
昭和十三 年九 月    雇を命ずる
昭和十七 年十 月    多年勤続表彰
昭和十八 年三 月    任官
昭和二十二年十 月    鉄道省最高功績章授与
 以上勤続通算三十三ヶ年、軍隊生活四ヶ年、計三十七ヶ年
功績 氏は幼にして父を失い、赤貧洗うが如くにして尋常科三年終了家計をたすける為に、頑是なき年頃なるに、子守奉公などして悶々と毎日を過ごし居たるに氏の胸中には常に大志あり、石にかじりついても人間らしき人間にならなくてはと少年時代に述懐して居た。筆者は、少年期の遊び友達の関係から氏の幼時をよくわきまえていた。氏は意を決して北海道に渡ったのは大正五年一七歳の春であった。氏の前半生は実に茨の道であり苦難の時代でもあった。幾爾来多くの辛酸をなめ、あらゆる障害を乗り越え実に堂々とした成功圏内に突入したのである。正に立志伝中の人である。学歴なくして鉄道最高の功積章を授与されたことは官界稀に見るところである。かく真面目なる、氏も令閨(けい)に死別し痛恨やるせない心境察するに余りある。氏が筆者に充てた近況を記し氏の胸中を伝えんとす。
 鉄道最高の表彰を受けたし心残りはありませんから条件さえ好けりゃ来年あたり退職して、北海道は三十有七年住居している関係から第二の故郷になりました、併し妻に先き立たれて見ればここに留まる意志もくだけて参ります。いずれ貴兄とも相談の上故郷に帰り余生を送りたいと思って居ります(後略)原文
 帰心矢の如しと、氏は熱血の士であり、更に郷土愛に燃えること人後に落ちない。
 部落の人達は氏の存在を余り知らない。氏こそ種々のバックなくして成功したものこそ真に偉人と言わねばならぬ。まず氏の健康を祈り、益々自重自愛、斯界のために貢献されんことを望んで筆をおく。
趣味  読書
家庭
 故妻 十三子 (大正十三年四月三輪祐吉氏長女と結婚、昭和二十二年八月死別す)
 長女 純子  (二十才旧制女学校卒業。現母代りとして家庭にあり)
 次女 房子  (十七才、大樹病院勤務看護婦)
 三男 宏三  (中学在学中)
 四男 外征夫 (小学校在学)
 長男、次男、早逝

相澤平次郎 小学校教官 大正三年三月二日生 
 本籍 宮城県黒川郡鶴巣村下草字十文字七四ノ一
 現住 黒川郡落合村舞野字上舞野東五
 閲歴 相沢平吉長男として下草に生る
昭和三年三月 鶴巣小学校卒業
仝 五年四月 宮城県師範学校本科第一部入学
昭和八年三月 仝校卒業後玉造郡川渡小学校在勤三ヶ年郷里鶴巣小学校転勤、三ヶ年にして落合小学校に転任、爾来十三ヶ年在勤、現在教頭職にあり。
功績 氏の其の性温厚眞撃学究的の人格者なり。私に恩を人に施して身を窮乏もいとわず、深く其の最奥を蔵して表さず、常に他人の長所を称揚して如何なるものも是を捨てず、自ら其の功を誇って人を傷つけず、其の居常淡々として水の流れるが如し。聡明独創的見解を以て教育会に精進せられて居る。筆者は常に氏の人となりを畏敬している。氏は未だ年歯三十幾才而して一枚の教頭たるはけだし氏のたゆまざる努力の然らしむる処なり。乞う益々自重自愛再建日本を背負う第二国民の育英のために精進を祈って筆をおく
趣味 読書
家庭
 妻  英子  (大正九年四月二日生)宮床村宮床字袖地子出身にて相沢家に嫁す。現落合小学校に教鞭をとる。
 長男 秋憲  (昭和二十二年十月二十日生)

横田清志 夕張市役所総務課勤務 明治三十一年二月十日生
 現住 夕張市本町五丁目市民会館
 閲歴 氏は吉岡町西小路高橋相沢平吉長男久志氏三男として同地に生る。吉岡小学校卒業直後下草の親類に農作業見習いに来ていた。後下草佐々木家の養子となる。筆者は青年時代より氏と行を共にした関係上氏の人となりをよく知る。
 大正九年、北海道に渡り国有鉄道保線工夫として札鉄帯廣保線工区に勤務、爾来十二ヶ年勤務。
 昭和八年、南満州鉄道建設局へ転職錦県建設事務所勤務、保線工手長拝命。錦承線、赤峯工事中日支事変起こるや、昭和十二年八月北支派遣を命ぜられ北京輸送事務所勤務。昭和十四年幸北交鉄道結成と同時北京接道局北京工務部分団長拝命、勤務中、昭和二十年終戦と共に二十一年内地引揚げ昭和二十三年再び北海道に渡り現在に至る。
功績 氏は信念の人なり。不言実行只黙々として職務を全うする責任感の最も強き人であった。雄志を抱き渡北するや氏本来の特質を発揮してよく職責を果し、工夫長になる。
 後転じて満州に支那に氏の快腕を奮い、縦横に奮闘数々の功績を残したが、国家最大の不幸に遭遇して涙を呑んで帰還する。氏は下草に留ること三年、初老の域に達すれど人生これからだと、再び北海道に行かれた、其の意気実に壮と言はねばならぬ。自重益々奮励を望んで筆をおく。
趣味  謡曲、浪花節
家庭
 妻  志津代  (明治三十三年八月二十九日生)故佐々木銀吉氏長女
 長女 文子   (大正十五年一月二十七日生)盛岡市、晴山滿氏に嫁す
 次女 政子   (昭和三年一月十五日生)岩手県子葉忠氏へ嫁す
 三女 孝子   (昭和八年一月十九年生)夕張市役所教育課勤務
 長男 久男   (昭和十一年生)中学在学中

佐藤 信 会社員 明治四十三年六月五日生
 現住 宮城郡多賀城町下馬坊土山在宅五四
 閲歴 氏は佐藤五郎兵衛氏の弟として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家業をたすけ家郷にありしが、単身笈を負うて横須賀に行かる。昭和九年横須賀海軍工廠に入り昭和二十年迄勝れたる技術者となられる。終戦と共に一旦帰郷、二十年十月塩釜市東北船渠株式会社に入社現在に及んでいる。
功績 氏は真摯努力の人である。そして最も責任を重んずる優秀な技術者なり。尚一層の自重自愛斯道に精進せられんことを望む
家庭
 妻  しん   (大正八年十一月月七日生)粕川村上杉家より
 長男 昌明   (昭和十二年十二月十三日生)中学校在学
 次男 光彦   (昭和十六年一月十日生)小学校在学中
 長女 祥子   (昭和二十年二月一日生)
 次女 節子   (昭和二十三年五月十三日生)
 三男 武信   (昭和二十六年一月二十五日生)

熊谷勘右エ門 明治二十一年三月生
 現住 黒川郡粕川村中粕川
 閲歴 氏は故高橋広右エ門翁の三男として下草に生る。鶴巣小学校を卒業後黒川農学校に学び、同校卒業後家業に從事、明治四十三年粕川村熊谷文三郎氏の養子となる。氏は温厚篤実の人にして極めて農業に熱心なり。婚家粕川村にあって、農業経営の合理化を早くより叫び実践躬行、精農家の誉れ最も高く今や功成り名遂げて悠々自適の生涯を送られる。年老いたるも粕川村選挙管理委員長の要職にあり専ら選挙の粛正に精進されている。乞う益々自重自愛を祈り筆をおく。
家庭

長男 昌明   (        )粕川村農協専務理事
三男 芳造   (        )農業の從事
四男 昭三   (        )警察予備隊

兒玉養吉 吉岡町志田町区長 明治十六年一月十五日生
 現住 黒川郡吉岡町字志田町
 閲歴 氏は斎藤徳治氏四男として下草に生る。明治四十二年一月吉岡町児玉家に養婿となる。日露戦争に参加功に依り勲八等白色桐葉章を賜う。
 昭和十一年吉岡町会議員に選れば、爾来二期間町政に参与し、其の後志田町区長に就任現在に至る。
 功績 氏は明朗なる人格にして、町民より慈父の如くしたわれ児玉の養吉おんつぁんとして有名である。公僕としては、極めて忠実に老を老ともせず町民のために今尚努力しておられていることは敬服に堪えない。只氏は不幸愛妻二人に死別し、精神的に淋さのあることは察せられるが心の奥深く秘めて面にあらわさず、明朗玉の如く、いつも笑顔をつくって居られることは到底常人の及ぶところでない。嗣子市郎氏も父君の躾けよろしきを得て商賣に熱心、萎縮する吉岡町商人に覚醒をあたえ、門前市をなす盛況を呈している。氏よ益々自重自愛吉岡町のために一層の奮励を望んで筆をおく。
趣味 旅行
家庭
 長男 市郎   (明治四十五年一月六日生)元陸軍大尉
 妻  しん   (大正八年五月二十八日生)鶴巣村幕柳旧家沼田氏より嫁す
 孫  隆雄   (昭和十三年十二月廿日生)中学校在学
 〃  養二郎  (昭和十五年七月十二日生)小学校在学
 〃  洋子   (昭和二十二年五月二十日生)
 〃  とみゑ  (昭和二十三年八月十四日生)

横田 登 菓子製造卸商 明治三十六年一月一日生
 現住 黒川郡吉岡町字志田町
 閲歴 故若生養太郎氏三男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家兄をたすけ農業に從事、大正十三年陸軍看護兵として歩兵四連隊に入隊、後仙台陸軍病院に転じ除隊後、横田金治氏妹ふじへ氏と結婚、吉岡町にて菓子屋を開業るす。昭和十四年応召、仙台陸軍病院勤務。翌十五年召集解除、日支事変参加の功により勲八等瑞宝章を受章。
功績 氏の勤勉力行の人にして好く独立して産を収め、健康そのもの権化の如く寒暑と雖(いえど)も年中無休、晴の日は山の如き菓子箱を背負って卸に、雨の日は菓子の製造に寧日なし。筆者の弟なれどもそのたゆまざる努力は常に敬服しているところなり。自重一層の奮励を望む。
家庭
妻  ふじゑ   (明治三十六年十二月二日生)
養女 美保子   (昭和八年七月三日生)当区須藤利節氏四女、黒高在学
 長女 敏子    (昭和九年十二月十五日生)黒高在学中
 長男 諭     (昭和十二年八月二十三日)中学校在学中

小松敏男 塩釜警察署勤務 巡査部長 大正九年四月一日生
 本籍 黒川郡鶴巣村下草字迫
 現住 塩釜市中ノ島二ノ一
 閲歴 故小松清太郎氏次男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後、昭和十三年十一月食糧検査技官補。昭和十五年九月本県巡査拝命、教習所第一四七回生卒業後、古川警察署勤務。十六年二月仙台警察署転勤。十七年五月召集東部一九〇二部隊。二十九年九月解除。同年同月若柳警察署転勤。二十二年二月塩釜警察署勤務。同年十二月巡査部長試験合格、二十三年二月巡査部長拝命、塩釜警察署庶務係長。二十四年四月同署警備係長現在に至る。
功績 氏は警視小松民蔵の令弟なり。令兄と同様にあらゆる苦難と闘い、正に立志伝中の人なり。前途洋々たる有為の青年警官として令名あり。職務には常に精励、かって塩釜市にてやみ商人をしてふるえ上らしむる程だった由、又一方非常に人情に篤く法は法として取締り、困窮者には温き手を差しのべて生活の相談にも応じる人情警官として讃仰せられている数々の美談も伝えきいているが紙数の都合上列挙をひかえる。自重自愛将来の名警視を期待して筆をおく。
趣味 釣魚、小鳥
家庭
妻  さかへ  (大正十一年十一月十一日生)若柳町森山氏三女
養女 玲子   (昭和二十一年十一月二十一日生)
 長男 龍壽   (昭和二十四年十二月八日生)

小松民蔵 宮城県佐沼地区署長 地方警視 明治四十四年二月二十一日生
 本籍 黒川郡鶴巣村下草字迫
 現住 登米郡佐沼長国警佐沼地区署長官舎
 閲歴 故小松清太郎氏長男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家業に従事するも警察官たらんとする志望あり
昭和 七 年八 月    宮城県巡査拝命、同月巡査教習所入所、同年十二月同所卒業仙台警察署勤務(外勤)
昭和 九 年七 月    涌谷警察署勤務(外勤)
昭和十一 年三 月    巡査部長試験合格、同年八月気仙沼警察署勤務
昭和十二 年六 月    巡査部長に命ぜられ、石巻警察署勤務水上係
昭和十三 年七 月    警部警部補特別任用試験合格、仝年十一月警部補に任ぜられ登米警察署司法主任
昭和十六 年一 月    若柳警察署司法主任
昭和十六 年七 月    東部二十二部隊応召朝鮮羅南方面
昭和十七 年十一月    召集解除
昭和十七 年十二月    塩釜警察署勤務、司法主任
昭和十八 年九 月    警察部警務課勤務、同年十月同部勤労課
昭和十九 年二 月    警部に任ぜられ刑事課勤務
昭和二十 年十二月    登米警察署長
昭和二十二年十二月    若柳地区署長
昭和二十三年四 月    地方警視に任ぜられる
昭和二十三年七 月    佐沼地区署長現在に至る
功績 氏は幼にして母を失い、加えて赤貧洗うが如く、夢多き青年時代如何にして旧家を誇る小松家を再興するべきかを最も真剣に考慮を重ねつゝあったのである。氏の若かりし頃筆者はその悶悶々たる悩み見るに忍びず、氏の熱意にほだされ、希望する方向に指針を与えたり。氏曰く「警察官たらん」と、ズバリ言い切ったのであった。本県巡査採用試験に見事パスして宿望が達せられた此のとき氏の親類の頑迷なる人々から筆者に向かって攻撃が開始された、百姓の子は百姓をやらせるべきが至当なるに若い本人をそゝのかして巡査になどさせるとは不都合も甚だしいとのゝしられた、若い者はそうでなくとも百姓を嫌らってるのに親類であり年の上のものが「騙せる馬にむちを向ける」様なものだと散々な悪口を受けたものであった。然し筆者は期するところがあったので何事もいわず、只私が悪いのですと言った。氏の入所が決定した折餞(はなむ)けに私は親類の人達から種々と悪口されて迄氏の念願を叶えたのだから必ず成功して欲しいと言った。氏はきっと頑張って期待にそうとかたく誓って入所したのである。
 氏の努力たるや実に目ざましきものであった。そして涌谷警察勤務時代、河北の記者が氏の勉学振りを讃えて、本を喰う虫の様な模範巡査であると報道したほどであった。力強き誓言通り大成をなしたのである。氏は確かに立志伝中の人で謙譲温厚の人格者である。県下各警察署に勤務する下情に通じ人に接するに溝を設けず警察界には珍しき存在なり。單に小学校卒業後、一巡査より身を起こし警察官最高の地方警視に昇進した、氏の半生は奮闘史を以て色どられ正に後昆の亀鑑なりと共に郷土の誇りとするところなり。一層の活躍錦上更に華を飾られんことを望む。
趣味 釣魚
家庭
妻  とよ美  (大正三年十月二十四日生)桃生郡大谷地村、黒沢藤三郎翁の孫
長男 民郎   (昭和十二年三月二日生)中学校在学
次男 茂    (昭和十五年十二月五日生)小学校在学
三男 光政   (昭和十八年十月十日生)小学校在学
四男 薫    (昭和二十年九月十一日生)

佐藤源八 仙台警察勤 巡査 大正五年四月十日生
 本籍 黒川郡鶴巣村下草字十文字
 現住 仙台市覚性院町二八〇
 閲歴 佐藤源太十郎氏長男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後、家業に従事、昭和十五年満州国に渡り同年十一月仝国警察官拝命、爾来五年有余治安維持に尽力、昭和二十一年八月終戦と共に内地引揚げ、昭和二十二年六月宮城県巡査を拝命、仙台北警察署勤務現在に至る。
功績 氏は頭脳明敏幼時より信念の人である。正しき信念は所信を貫く気概が氏をして満州国の警察官たらしめた、在満中の偉大なる足跡は知る由もないが在郷中氏の青年時代の気概から察知すれば、必ずや印象を潔からしめたことは推測するに難くない。今や東北一の誇り又復興全国第一と称される大仙台市の治安維持の大任を負われ縦横の快腕を振われる青年警察官よ、自重自愛一層の奮励を望む。筆者は氏の人となりを熟知せり、郷土後昆のため、又部落の栄誉にかけて一段の奮励を願って筆をおく。
趣味 読書
家庭
妻  トシ子  (大正十五年生)仙台市最上氏三女なり、最上氏は曽て鶴巣小学校に教鞭をと  られ名教育者として令名あり。今や功成り名遂げて悠々自適の生涯を営まる。
長女 あつ子  (昭和二十五年五月生れ)

残間 正 明治三十三年八月二日生
 本籍 黒川郡大谷村東成田
 閲歴 佐藤五郎兵衛氏の令弟にして下草に生る。鶴巣小学校卒業后黒川農学校に学ぶ。後家兄を扶けて農業に從事、長ずるに及んで残間家の養婿となる。
昭和 十 年四 月    東成田青年協力会顧問
昭和十二 年三 月    青年貯金会長
昭和十七 年四 月    翼賛壮年団社会部委員
昭和十八 年三 月    東成田農事実行組合社会部部長
昭和十九 年四 月    東成田第二農事実行組合副会長、配給部長、会計部長兼任
昭和二十一年三 月    東成田親友会幹事
昭和二十二年四 月    大谷村食糧調整委員
昭和二十三年九 月    大谷村農業協同組合設立委員、大谷村共済組合設立委員、大谷村小中学校父母教師会教化部委員
昭和二十四年四 月    大谷農業協同組合東成田班長
同    年九 月    大谷小学校父母教師会東成田班長、東成田中部牧野協同組合理事
昭和二十五年四 月    土地改良工事仕立人、優良なるを以て村長賞を受け更に昭和二十五年四月、協米完遂者として表彰さる
昭和二十六年三 月    大谷村主催堆肥品評会第二位入賞
功績 氏は幼少より頭脳明晰、温厚篤実の士であった。青年時代好く地方青年指導に妙を得て、団体の幹部となり、大谷村に養子に行かるゝや只管家業に精励従って大谷村の中堅層なり。数々の公職に殆んど寧日なく、又幾多の表彰を受けた。筆者かって大谷村駐在技官として勤務中氏と同様のよしみを以て格段の交際をなしたり、従って氏の大谷に於ける人望の如何に厚かりしかをよく知っている。今や益々人格が円熟す、自重自愛村の為国土再建のため一層の奮励を望んで筆をおく。
趣味 読書
家庭
妻  まさよ  (明治四十三年一月一日生)故残間卯三郎氏長女
母  ゑなよ  (明治十一年四月十日生)
二男 正二   (昭和六年十月五日生)農業に從事
三男 正三   (昭和九年一月一日生)〃 〃 〃
四男 正四   (昭和十三年七月三日生)明星中学在学
四男 正四   (昭和十三年七月三日生)明星中学在学
五男 正吾   (昭和十七年三月十五日生)小学校在学

吉田胞吉 荒物雑貨食料品商 明治四十二年三月二十日生
 現住 黒川郡富谷村富谷字町西沢十六
 閲歴 氏は故吉田太吉氏二男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家祖の業に令兄と共に精励された。
昭和 五 年 六月    歩兵第七四連隊入営(朝鮮)
昭和 六 年十一月    帰休除隊
昭和十二 年 十月    中支応召
昭和十五 年 六月    召集解除
昭和十七 年 七月    朝鮮応召
同    年一二月    召集解除
昭和十九 年 四月    仙連応召
昭和二十 年十二月    解除
自昭和 七年 四月    鶴巣村青年学校指導員
至昭和十一年 三月
自昭和十五年 七月    富谷村青年学校指導員
至昭和十六年 六月
自昭和十五年 七月    富谷産業組合書記
至昭和十六年 五月
自昭和十八年 一月    富谷村役場書記
至昭和十九年 三月
昭和二十五年 四月    富谷小学校父母教師の会々長
功績 氏は幼少より俊敏なり、小学校卒業後当時青年学校指導員として数々の青年を指導し青年よりは慈父の如くしたわれ、青年指導者の花形であった。富谷村に居を移すや、名玉は何処にあっても光を放つ如く、富谷村においてもあらゆる公職を歴任せり。氏の本来の職業は商業にして氏の独自の経営に依り富谷村屈指の繁盛を極め店舗を有せり。氏の人に交るや、誠意を旨とし、老若男女の別なく博愛を衆に及ぼす、故に何人といえども氏の陰口を言うものなし。今や益々人格は円熟し、名玉爍(しゃく)と輝き、放光をさえぎるものなし。自重自愛一層の奮励を望む。
家庭
妻  みつ   (三十七才)粕川村より吉田家に嫁す
長男 克資   (十六才)中学校在学中
二男 尚司   (十四才)〃 〃 〃
三男 純    (十一才)小学校在学中
四男 詳    (九歳)〃 〃 〃
長女 きよ   (六才)
二女 京子   (一才)

若生新三郎 宮城県庁労政課古川出張所勤務 明治四十四年生
 閲歴 故若生大治氏三男として下草に生る。鶴巣小学校卒業後黒川農学校に学び同校を卒えるや令兄をたすけ家業に従事
昭和 五 年       朝鮮歩兵第七四?隊入営
昭和 九 年       除隊後、朝鮮警察官拝命鐘路警察勤務
昭和十七 年       応召
昭和十九 年       召集除隊
昭和二十二年十 月    本土引揚
昭和二十二年十 月    宮城県庁労政課古川出張所勤務現在に至る
功績 氏は温厚篤実の人にして、幼時父君に死別母堂の明るい躾けを受け、明朗な半面。進取の気概を有して居た。朝鮮に入営されるや、現地にて除隊、直ちに該地警察官として採用され、治安維持に従横の快腕を発揮され若い警官乍ら、鮮人より慈父の如くしたわれた由もれきいていた。不幸終戦と共に内地に引揚げ、令兄のもとにあって、好く農業に親しまれそして、あらゆる苦難を突破。今や国家公務員として活躍している。乞う自重自愛。一層の奮励を望む。
家庭
妻  みつ   (大正九年生)鶴巣村砂金沢、佐藤良治氏長女
長男 和男   (昭和二十年生)小学校在学
次男 隆司   (昭和二十二年)
三男 東英   (昭和二十四年)

若生良治 仙台市役所産業部勤務 大正六年生
 本籍 黒川郡鶴巣下草
 現住 仙台市北田町一九
 閲歴 故若生大治氏四男として下草に生る。黒川農学校卒業後、笈を負うて横須賀に行かる海軍工廠に入り勤務応召、大東亜戦争参加、昭和二十年解除と共に郷里に帰還する。昭和二十三年食糧検査官、昭和二十六年一月仙台市市役所産業配給課勤務現在に至る。
功績 氏は幼にして父君に死別し、精神的に苦労の多い少年時代を過された。令兄新治氏、及新三郎氏に似て温厚な人格者である。令兄等と共に揃って逸材である。かっては若き食糧技官として令名「うたわれ」今や。又大仙台市の公吏として前途を嘱望されて居る。一層の奮励を望む。
家庭
妻  ゆき子  (岩出山町高橋氏より嫁す)
長女 和子   (明治二十四年生)

佐藤喜代治 明治三十七年七月十日生
 現住 黒川郡鶴巣村砂金沢区
 閲歴 佐藤久左エ門翁の末弟にして下草に生る。鶴巣小学校を卒業するや、家兄を扶けて農業に從事、長ずるに及んで残間家の養婿となる。氏は資性温厚にして極めて真面目な模範青年なり。婚家にあってもその真面目さを認められ、今や同区にありても中堅層に属し其将来を期待されている。一層の奮励を望み、自重自愛を祈る。
家族
養母 き代   (明治十一年生)
妻  とし   (明治四十四年六月十日生)
長女 いつ子  (昭和四年八月生)家事手伝
長男 次郎   (昭和八年三月七日生)農業に從事
次男 三郎   (昭和十年十一月二十一日生)農業に從事
次女 恵子   (昭和十三年七月十日生)中学校在学
三女 あき子  (昭和十五年十月十七日生)小学校在学
四女 と代子  (昭和十八年十二月十七日生)小学校在学
三男 治男   (昭和二十四年三月五日生)
四男 俊治   (昭和二十五年三月三十日生)

内海運作 明治二十七年三月二十七日生
 現住 黒川郡鶴巣村砂金沢
 閲歴 下草横田家の宗家故横田運吉氏次男として生る。同家は地方稀に見る旧家にして、祖先は肝入等を代々務める由緒深き家なり。氏の幼少なりし頃極度に経済に行きつまり、氏は幾多の辛酸をなめ、長ずるに及び仙台歩兵四連隊に入隊(大正三年十二月)除隊後(大正五年)本村砂子沢区内海家の養子となる。氏は温厚篤実に人格者にして、農業に極めて熱心、精農家として専ら評判高く、今や長男忠夫一氏に経営を委せ、自適の生涯に入りつゝあり。令閏と八年前に死別し、氏の落胆も察するに余りあれど、自愛令閏の分まで長寿を保たれんことを念じて筆をおく。
家庭
養母 もよの  (明治十六年二月三日生)
長男 忠一   (昭和五年三月一五日生)
妻  みさを  (明治五年一月二十日生)吉田村相沢家より
次男 忠也   (昭和七年三月二十五日生)農業に從事
三男 孝也   (昭和十二年十二月十二日生)
四男 四郎   (昭和十五年十月十七日生)
孫  紀美子  (昭和十六年二月十五日)氏の長女、嫁したが死亡のため氏が養育。

横田良治 明治四十五年七月廿日生
 現住 仙台市北材木町七十九
 閲歴 故横田栄三郎家次男として生る。鶴巣小学校卒業後家兄をたすけ農業に従事、長ずるに及び笈を負うで東京に行かる。更に支那方面にて活躍中応召となり、解除後現住所において八百屋を開業。氏は幼時より商才に勝れ、商業を以て身を立てんとの志あり。支那大陸に於いて従横に敏腕をふるい、基礎の調へたる秋不幸終戦の止む無きに至り裸一貫となりて内地に引揚げたり。今や氏の経営宜しきを得て門前市をなる盛況ぶりを呈す。けだし氏の才能の勝れたことゝ、誠実のあらわれである。氏は年歯四十才前後、今や益々円熟の境に入り、将来の大成を予約されている氏は結婚十年に及ぶが不幸にも子宝に恵まれざることを遺憾とする。益々奮励を望む。
家庭
 妻  としみ  (大正十年一月十五日生)吉岡町大宮氏より嫁がる。

高橋 蔀 日本通運株式会社仙台市店勤務 明治二十八年一月四日生
 現住 仙台市連坊小路八四
 閲歴 高橋壽氏弟として下草に生る。鶴巣小学校卒業後家兄をたすけ農業に従事せり。大正四年当時の徴兵令に依り甲種合格となり、横須賀海兵団に入団、満期除隊後現住所にて食糧品店を開業。大正十六年企業整備に依り営業を中止して現在の会社に入社。終戦となるや、幾多の辛酸をなめつゝ営業を復活し専ら店舗は令閏が担当、門前市をなす盛況を呈せり。氏は剛毅果敢、時勢の推移を明察する人にして、成すこと総べて功を奏する人なり。今や社内に於いて従横に敏腕を振い将来を嘱目され、且つ家庭に於ける営業も盛況を極める、けだし幸運児と言わねばなるまい。
自重自愛健闘を望む
家庭
妻  みよし  (明治三十六年五月十四日生)
長男 誠    (大正十五年十月二十六日生)総理府技官、東北電波監視局勤務
次女 とく子  (昭和五年二月十七日生)日本通運仙台支店勤務
三女 秀子   (昭和七年九月十三日生)東洋裁学院在学中
三男 佑吉   (昭和十年一月九日生)宮城県立工業学校在学中
四男 成輔   (昭和十三年二月二十一日生)中学校在学中
四女 昌子   (昭和十八年十一月二十四日生)小学校




         下草郷土誌(原著)
           
昭和二十六(1951)年十一月二十五日印刷
         昭和二十六(1951)年十一月 三十日発行 非賣品
                        編纂者 若生 毅(印)
                        黒川郡鶴巣村下草字迫一八五
            不許          発行者 高橋多利治
            複製              黒川郡鶴巣村下草字迫
                        印刷者 文献社
                             鹿野 馨
                          仙台市錦町一九番地(電話三九七七番)
                          黒川郡鶴巣村下草
                        発行所 下草契約講

新訂版発行の主旨


 昭和二十六年に「下草郷土誌」初版が発行されてから六十一年が経ち、新たに集落の祖先の行動と歴史を現在と未来の子孫に伝えるため、講員総意のもとに再版を決意いたしました。

【昭和二十六年以降の国・県・町・集落の出来ごと】
昭和 三十年 大和町の誕生(吉岡町・鶴巣村・宮床村・吉田村・落合村の合併)
昭和三十九年 東京オリンピック開催(十月十日開会式)
昭和五十三年 宮城沖地震発生(県内で死者多数・当地区はゼロ)震度五・M七.四
昭和六十四年 年号が平成に改め(昭和天皇昭和六十四年一月七日崩御・宝算八十七)
平成 五 年 大凶作(十a当たり収量九十~百二十キログラム)
平成 十六年 平渡高志氏大和町議会議員に当選
平成 二十年 平渡高志氏大和町議会議員に二期目の当選
平成二十三年 東日本大震災(三月十一日午後二時四十六分震度六、M九の大地震と宮城・岩手・福島の三陸沿岸に大津波死者多数、当地区でも家屋に被害)
平成二十四年 平渡高志氏大和町議会議員に三期目の当選
平成二十四年 平渡高志氏黒川行政組合議長に就任
平成二十四年 平渡高志氏大和町消防団第十一代団長に就任
平成二十五年 東京オリンピック・パラリンッピック七年後の開催決まる
平成二十五年 高橋好雄氏 氏は昭和六十一年から地区の行政区長並びに平成二十二年から鶴巣の区長会長及び大和町区長会副会長として二十八年間の長きにわたり地域発展のために貢献され現在に至る

あとがき


 郷土が歩んできた歴史を知り、郷土の事情を明らかにし郷土の沿革を正しく認識することは、今後の郷土の発展につながるものと考えております。初版本の内容に若干の加筆と資料を加え編集を致しました。
出来るだけ原文を残しつつの編集作業でしたので旧漢字の解読に四苦八苦しながらも役員一同一致協力し、何とか仕上げることが出来ました。これも偏に講員皆様のお力添えの賜物と心から感謝と御礼を申し上げます。(請許誤字、脱字)
【契約講頭】横田金兵衛 【副講頭】若生篤志  【会 計】高橋勇治
【役  員】佐藤賢治・高橋寿朗・高橋洋一・相澤 力

参考資料





下草郷土誌(原著)
初 版 1951年11月30日発行
新訂版 2013年11月23日発行
下草郷土誌 Web版
初版 2014年2月6日発行
改訂版 2020年10月10日発行
編纂者 若生 毅
新訂者 相澤 力
Web編集者 澤田 諭
発行者 横田金兵衛
発行所 下草契約講

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