和紙
成26年7月6日の「あさも会」

  担 当 者    木の国文化財協会(表流)
展  観    本居 宣長
場   所    和歌山市西浜1164番地 
  名勝庭園 養翠園
「養翠亭」
   平成26年7月6日(日)
時   間    午前10時〜午後3時まで 

点前座 本席床 展観席 寄付 本席

竜安笹・紫白桔梗・巴草・捻花
虎の尾・河原撫子・大判草
菓子
鶴屋製「深みどり」
本席 本席 亭主

展観 「 本居 宣長  過去の展観テーマ

寄雪恋  宣長

君こ須ハ飛とりや寝奈無

風まし里沫雪ふり天

寒起こ能越
幾能の国の王可山よりかへりける時尓加らこの度よむ人々尓
よみ天のこしおき介るうた


敷島能道満毛る天ふ神垣耳まち可起里の志るし阿良ハよ里久る浪毛名耳多天る浦の友鶴聲絶にて

阿し多ゆうへ耳よいのはしなるる磯への松乃葉の可わらぬ色越多免し尓天春盤野山乃花能本秋ハ入江乃

月影耳心越うつしをりをりのう左遠那久左能やま須し天木の河水能底深くち志本やちし本曽免曽免天

とし遠徒毛らば於きつ風その名越与毛尓吹上の濱の白菊千代とほく言葉の花毛尓本者佐し免や

寛政三年十月二日                本居 宣長
と古とハ尓徒る能毛衣加遣おき天
見む人さ部や千世越重年無  宣長
本居 宣長 享保十五年(一七三〇)〜享和元年(一八〇一)

江戸後期の国学者。伊勢松阪の人。旧姓小津氏、宝暦二年(一七五二)本居と改姓。幼名富之助、通称弥四郎、のち健蔵、さらに晩年中衛、号芝蘭、春庵(舜庵)家号を鈴屋と称した。
宝暦二年京都に赴き、徂徠学の影響を受けた堀景山に入門、更に堀元厚、武川幸順について、漢学、医学、薬学を見につけた。その間、契沖の著述を読んで古典研究に目を開いた。宝暦七年松坂に帰って医業を開業、かたわら賀茂真淵の著述によって学問を深め、宝暦十三年(一七六三)真淵に師事、翌年「古事記伝」の執筆に着手し、以後三五年間心血を注いで完成させた。その間。明和八年(一七七一)復古思想の総論ともゆうべき「直毘霊」を出版、声望いよいよ上がり、荷田春満、賀茂真淵とともに本邦国文学界の三大人と称された。
寛政四年(一七九二)十二月、紀州藩主十代治宝は伊勢松阪で宣長を召見し、御勘定奉行支配を仰せ付け、同六年十一月、本業は医師であるので、針医格奥詰広敷廻を命じ、特に松阪在住を許された。
寛政十一年(一七九九)初めて和歌山に来り藩主に謁見、以後時々大祓詞、古今集及び歌道のことを進講したが、藩主の寵愛厚く藩政の諮問にもあずかった。その著「玉くしげ」「秘本玉くしげ」は宣長が藩主の諮問に応えて進講したものであるといわれている。
和歌山における国文学は実に本居家によって陸離たる光彩を放ったが、その勃興は寛政四年十代藩主治宝が伊勢松阪で宣長を召見したのに始まるというべきである。享和元年秋、病を得て歿した。享年七十一歳。松阪室山に葬られる。著書甚だ多く「古事記伝」「直毘霊」「玉くしげ」等特に有名。
郷土歴史人物事典 和歌山 坂上義和 著 より


元へ戻る

和紙写真集

和紙周辺案内図

和紙月釜茶会「あさも会」

和紙庭園実測図

和紙紀州徳川家譜概表

和紙養翠園の説明


メール アイコン
メール
トップ アイコン
トップ


和紙