和紙
平成28年4月3日の「あさも会」

  担 当 者    桑山 栄子 先生(表流)
展  観    紀州三大画人
場   所    和歌山市西浜1164番地 
  名勝庭園 養翠園
「養翠亭」
   平成28年4月3日(日)
時   間    午前10時〜午後3時まで 

点前座 本席床 展観席 寄付 本席

白山吹・窓の雪椿・玉之浦椿
菓子
鶴屋製 菓銘「ひとひら」
本席 本席 亭主

展観 「 紀州三大画人  過去の展観テーマ
野呂 介石 祇園 南海 桑山 玉洲
野呂介石
 野呂介石(のろかいせき、1747〜1828)は、江戸時代後期に紀州で活躍した著名な文人画家です。祇園南海(ぎおんなんかい、1676〜1751)や、桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう、1746〜99)とならび、紀州の三大文人画家の一人に数えられています。
介石は、和歌山城下の富裕な町人の家に生まれ、若くして紀伊藩の儒学者である伊藤蘭嵎(いとうらんぐう、1694〜1778)から学問を教わりました。その後、14歳ごろからは京都へ出て絵を学び、はじめは、黄檗画僧(おうばくがそう)の鶴亭(かくてい、1722〜85)についたようですが、21歳の時には、京都のもっとも著名な画家・池大雅(いけのたいが、1723〜76)に師事し、また、同郷の桑山玉洲や大坂の文人・木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736〜1802)とも交流を深めています。寛政5年(1793)、47歳の時には紀伊藩士に取り立てられ、以後、公務のかたわら熊野をはじめとする紀州各地を訪れて、豊かな自然や風景を題材に精力的な絵画制作を続けました。さらに、当時の日本の文人画家たちがあこがれた中国絵画からも多くを学び、質の高い中国絵画を実見したことが知られています。
 一方、晩年には画家としての評価も非常に高く、介石に教えを受けようと全国から多くの文人たちが訪れたため、各地の文人画家たちにも大きな影響を与えました。とくに、紀州では多くの門人を育て、のちの紀州の文人画家たちに指導的な役割を果たしたのです。

祇園南海
 紀伊藩の儒学者、文人画家。元禄2年(1689)、江戸の儒学者である木下順庵(きのしたじゅんあん、1621〜98)に入門し、新井白石(あらいはくせき、1657〜1725)らとともに学び、詩文に才能を発揮。元禄3年(1690)、紀伊藩2代藩主の徳川光貞(とくがわみつさだ、1627〜1705)から詩の才能を褒められ時服を拝領。元禄10年(1697)、前年末に亡くなった父の跡を継いで、「儒者並」となり、地方200石をもらう。元禄13年(1700)、紀伊藩3代藩主の徳川綱教(とくがわつなのり、1665〜1705)から「不行跡」として知行を没収され、和歌山城下追放となり、那賀郡貴志荘長原村(現在の紀の川市貴志川町長原)に謫居(たっきょ)。宝永7年(1710)、紀伊藩5代藩主の徳川吉宗(とくがわよしむね1684〜1751)から赦免され、和歌山城下に戻る。正徳元年(1711)、「文才」を認められ、20人扶持となる。同年、江戸へ行き、新井白石などと会う。同年、朝鮮通信使と筆談し、応接。正徳2年(1712)、朝鮮通信使との筆談の功績を認められて、「御近習」となり、地方200石を回復。正徳3年(1713)、藩校の湊講館(みなとこうかん)が開設し、教授となる。享保2年(1717)、紀伊藩6代藩主の徳川宗直(とくがわむねなお、1682〜1757)から、川合刑部元屋敷をもらう。元文5年(1740)、年々金20両をもらう。寛延3年(1750)、池大雅の訪問を受ける。後世に日本の初期文人画家として高く評価され、池大雅などにも大きな影響を与えた。

桑山玉洲
  桑山玉洲(くわやまぎょくしゅう)(1746〜99)は、江戸時代に活躍した、紀州を代表する文人画家の一人です。和歌浦で廻船業や両替商を営む裕福な家に生まれた玉洲は、家業を継ぎ、新田開発などを手掛けるかたわら、画家を志し、ほぼ独学で絵を学びました。若いころ、江戸へ出て、一時は狩野派の画家を訪ねたりしたようですが、みずから収集した中国の絵などからも学ぶことで、絵の技術を高めていったとみられます。また、京都の著名な文人画家である池大雅(いけのたいが)(1723〜76)などとの交流を通して、独自の画風を確立していきました。

和歌山県立博物館 解説より


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