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平成16年10月3日の「あさも会」

  担 当 者    豊田 泰史 先生 (表流) 点前、運びとも男子にて  
展   観    紀の国の画人たち そのU
場   所 和歌山市西浜1164 国指定名勝 養翠園
平成16年10月3日(日)
時   間 午前10時〜午後3時まで

寄り付き 受 付 本席 床
久田 宗也宗匠「時雨洗紅葉」
本 席 本 席

秋明菊・ホトトギス・藤袴・河原撫子・紅色秋桐
菓子
鶴屋製 菓名「光琳菊」 
展観席 本 席 本 席

紀の国の画人たち そのU
前回(平成16年6月6日)展観分、写真有りませんでしたので今回併せて掲示いたします。
過去の展観テーマ

薗村 雪嶺 生年月日不詳

名は不明であるが通称を宗太郎という。和歌山市中ノ店の表具師の家に生まれ、明治十一、二年頃東京に出て某学校で高等教育を受け図画、数学を専攻した。明治三十年頃湊通り丁および広道あたりに住まいし、和歌山師範学校に奉職、数学および図書科を担任した。そのかたわら「小学毛筆画帖」などを著述してその道に貢献した。明治三十二、三年頃から和歌山墨林会画家の一員として長く在籍し毎回出品をおこたらなかった。歿年不詳。
小山 雲泉 生年月日不詳

名は袁栄、字は秀水、通称を要助といい、芝石道人の別号を持つ。紀州田辺の人である。明治十一年同地の画家中田熊峰に学び、南宋画を修め、のちに大阪に出て堀江に住まいし、煙草業のかたわら絵筆に親しんだ。その間、琴石、玉江、竹外などの先輩と交わり大いに画業を研鑽した。又、余技に篆刻を学び「千字文百顆印譜」をあらわした。明治三十年頃古蒹会を起こし自画の宣伝に努め、自ら奔走し単独予約会員の募集に没頭、成績が良かったの以後毎年行い、終身継続した。門下に赤松雪嶺を輩出した。歿年不詳。
森 養斎 安政年間に生

和歌山市出口端ノ丁に住まいす。狩野派の絵を描き堀端晴野に師事し、岡本 緑邨にも教えを受けた。かつては市役所の戸籍係に勤めたこともある。晩年は岡山軍人会館に住み絵筆に親しんだ。昭和三年頃七十幾歳にて歿。
杉山 藹如 弘化二年(一八四四年)生

出生地は不明であるが、永く和歌山市新堀北の丁に住まいしていた。名は守義、通称は守吉と呼ばれた。又古谷とも号していたことがある。藹如は初め須藤周圃に師事し絵を学んだが、後に東京に出て瀧和亭の門下に入った。同時に山本 篁所・奥村 葛陽について漢学を学んだ。その後帰省して田辺中学校で図画の教授をし、後、和歌山市に帰って徳義中学校で絵の教師を務めた。藹如の絵は性格をそのまま写したように穏やかな筆法で野呂 介石等を手本にして、花鳥、山水を良く描いた。老後は絵筆を楽しむ悠々自適の生活をおくった。昭和五年(一九三〇年)二月、新堀の自宅にて没す。
中尾 松栄 天保十四年(一八四三年)生

和歌山市駿河町に生まれる。本名は祥重と言う。印判彫刻を家業としそのかたわら狩野派の絵をよく描いた。松栄は紀州藩の絵師堀端晴野に師事し北宗系統のあらい筆法を用い、着色は非常に艶麗であった。その人柄は?気があり、かつて彦坂虎山らの主唱にかかる和歌山墨林会の幹事として十年一日のごとく終生この会の為につくした。その作品は古図によるものが多く自己の創意よるものが少ないと言われている。大正六年(一九一七年)三月、享年七十四歳にて没す。
田中 五峰
明治四年(一八七一年)生

名は又一郎、紀州藩士田中芳助の子である。若くして画を筑紫翠雲に師事し、一時那賀郡の溝口(現在の野上町)に移住したがのち和歌山市に帰り、新堀東徒町に住まいし、制作に励んだ。昭和四年(一九二九年)十二月歿、享年五十八歳。
彦坂 犢庵 安政三年(一八五六年)生

彦坂 虎山の第二子。名は小七郎といい、犢庵の他、鉄牛、石寿翁の号がある。代々紀州藩に勤めた。幼少より文学を好み長じて紀州藩の医学館に学び医師となる。壮年より彩管をふるい、蝦蟇を描いてその名が高かった。晩年は京都北白川の銀閣寺のそばに住まいした。昭和六年(一九三一年)歿、享年七十五歳。
榎本 遊谷 嘉永元年(一八四八年)〜大正十二年(一九二三年)

名は信敬といい、字は士行、通称貫一、若い頃醐石の別号があった。遊谷は資性温厚、恭謙で、よく人と交わり少年のころ紀州藩絵師の笹川 遊原について狩野派の画を学び、後にこれによって身を立てるに至った。彼が世に出た時は画界が沈滞し、同窓の筑紫 翠雲が亡くなり、和歌山の画界は寂涼を加えていた。その後、時世の推移で画界が盛んになるにつれ、遊谷のもとに集まる愛好家が多くなり、晩年はかえって壮者をしのぐ細密図に濃厚艶麗な色彩ををほどこす作品を作ったが、自己の創意によるものが少ないのは惜しい短所である。享年七十五歳

前回(平成16年6月6日)展観
岡本 緑邨 文化八年(一八一一年)〜明治十四年(一八八一年)

名は邦直、字は子温といって南宋画家である。花弁を描くに優れ、その配色が鮮麗であった。その筆法は山本 梅逸の画法を持っていた。明治十四年(一八八一年)十二月没、享年七十一歳

前回(平成16年6月6日)展観
笹川 遊原 文政十二年(一八二九年)〜明治十四年(一八八一年)

名は昌信、別号粛々斎、瑟巖。その先祖は丹波笹山からでて、父遊泉は紀州藩の絵師であった。遊原は父のあとを受けて十人扶持を賜った。若い頃は純然たる狩野派であったが、中年になり大いに感ずるところがあり、光琳派に着目、俵屋 宗達の画風をしたい、没骨の用墨法を研究した。また元治・慶応のころから南宋派の筆法を学び、意のおもむくまま縦横に描いた、特に人物・花弁は筆致軽妙、簡素にして要を得た独特の画風を案出した。門下筑紫 翠雲・榎本 遊谷・田中 遊所・岡本 遊汀などをだした。享年五十二才。

前回(平成16年6月6日)展観
水島 春水 明治二年(一八六九年)〜明治二十七年(一八九四年)

名は秀穂、初め春汀と号し後春水と改める。紀州藩御番医師水島秀敬の長子として和歌山に生まれ、五歳にして筑紫 翠雲の門に入る。明治二十一年京に上って四条派の幸野 楳嶺の画塾に入り、研磨を積んだ。勉学に励むあまり体質病弱で、わずか二十六歳で世を去った。故に、現存作品は極めて希である。

前回(平成16年6月6日)展観
筑紫 翠雲 天保八年(一八三七年)〜明治三十八年(一九〇五年)

名は広寧、通称熊次郎。その先祖は筑前の出で、代々筑紫姓を名乗った。父筑紫広輔は先手者頭四百石として紀州藩に仕え、傍ら狩野派の画をよくしたが、翠雲もその影響を受け、堀端養恒のちに笹川 遊原について狩野派の絵を学んだ。又、岩瀬 広隆、諏訪 蕉雨とも交流して諸派の長所を吸収し、南宋画をもって業とした。翠雲は山水花弁に長じていたといわれるが現存作品の多くは山水画であり、花鳥画や人物画は希である。作風は狩野派的なものから南画的なものまで幅広く、奇抜さを避けたおとなしさに特徴がある。翠雲は武門に生まれたので壮年より槍法に長じ、維新の役に従軍したりして、しばらく絵筆を忘れたが、廃藩置県後は画をもって一家をなした。晩年日高郡に寄寓したが、再び和歌山市に帰り、彩管をふるった。門下二百数十名にのぼるといわれ、和歌山市内秋葉山麓に門人が建てた碑がある。享年六十八歳

前回(平成16年6月6日)展観
堀端 養恒 寛政十二年(一八〇〇年)〜明治十三年(一八八〇年)

堀端 南岡、通称を晴野という、南岡その号なり、紀州藩の絵師にして、江戸木挽町狩野派第七世、晴川院法印養信の画法を伝えて、よくその家風を守り、筑紫 翠雲・中尾 祥重等は始めはこの門人と言われている。享年八十歳

前回(平成16年6月6日)展観
堀田 象雲 生年月日等不詳

本名は信雄、若くして筑紫翠雲の門下に入り、南宋画を学び、翠濤と号したが後に象雲と改めて、京都に出て竹内 栖鳳の画塾に入門し、数年の内に技おおいにに上達した。菊池契月とは同窓であり、橋本 関雪・土田 麦僊らの先輩である。その後東京に出て寺崎 広業について学び、号を牧水と改め、益々研究の範囲を広め、大正五年七月、文部省展覧会出品の為その題材を求め北海道に渡り頑張ったが、ついに病気となりその地で没した。

前回(平成16年6月6日)展観


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