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2009/06/07 更新
ずいぶん、更新していませんでした。執筆が忙しいので、手がまわらないのです。
3、4、5月と連続して講談社文庫よりエッセイ集〈空は青いか〉〈犬でわるいか〉〈草臥し日記〉が発売されました。また、新潮社文庫からは〈百万遍・古都恋情〉上下巻が発売されました。でも、告知し忘れていた。
ハードカバーは〈私の庭・北海無頼篇〉、〈GA・SHIN! 我・神〉、この2作品は、今年中に確実にでます。さらに〈王国記〉もでるかもしれません(当人はちゃんと把握していない……)。
もっと早く書こうと思っていたのですが、文學界新人賞。イラン人が受賞して、不満足な日本人がけっこういるみたいです。とりわけ強く不満を抱いているのは、新人賞に応募している日本人ですね。文藝春秋は話題性を狙って外国人に賞を──と、嫌らしい深読みをする人たちです。
選評を読んでもらえればわかると思いますが、私は受賞作、シリン・ネザマフィ〈白い紙〉を強く推したわけではありません。しかし、残念ながら日本人の作家志望たちの作品に実がまったくないという現実があり、しかも彼女の作品に惚れこんだ吉田修一さんが強く推したこともあって、シリン・ネザマフィさんが受賞することとなりました。
昨今の(最終選考に残るレベルの)応募者の問題点は、文章的なことよりも、スタイルの問題です。借り物のスタイルで、つまり先輩作家の作品の影響を受けたまま、平然と同様のものを提示するという頭の悪さが問題なのです。村上春樹はひとりで充分だ、ということが、なぜ、わからないのか。もう、溜息もでません。
また、傾向と対策を練った作品も絶望的です。選考委員に既視感を抱かせてしまうことが、なぜ、わからないのか。試験秀才が陥りやすい勘違いです。
はっきり告げておきますね。いいですか。そこそこに頭がいい、というのは、バカよりも始末に負えない。スタイル的に抽んでた作品を書く日本人が、イラン人の愚直に敵わない理由です。
それと、もうひとつ。意図されたものかどうかはわからないのですが、ネザマフィさんの作品には見事に主語が省かれていました。これが選考委員には新鮮に映りました。日本語が本来もっている機能なのですが、翻訳小説を読みすぎた人の作品など、主語がうるさくてじつに幼稚ですよね。このあたりも評価されました。
そこで文學界新人賞受賞作品の文体について。イランで遣われているペルシャ語に詳しい小前亮さんにレクチャーを願いました。以下のとおりです。
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ペルシア語では、「私は行った」と言うとき、「行った」の部分に私の動作であることを示す語尾がつくので、「私は」とつけなくても、誰の話であるかははっきりわかります。あえて「私は」とつけると、私が行ったことを強調する意味が出てきます。
そういう言語を母語とする人が日本語で読み書きしようとするときは、ふたつのパターンが考えられます。
・「私は」を多用する。
日本語は人称語尾がないのに、主語を省略することが多いです。文脈で意味を通じさせるのですが、その文だけを抜き出したときには主語が明確になりません。それが不安なので、省略できないのだと思います。
個人的な経験では、こちらのパターンが多いです。
・「私は」を使わない。
母語の影響もあるでしょうが、ひとつの理由として、日本語の人称表現の多様性も考えられます。私、僕、俺など一人称を示す代名詞はうんざりするほどありますし、具体例は割愛しますが、特殊な用法が多いです。もちろん、「は」と「が」の使い分けもありますし、省略の可否は微妙な判断になります。
使わないと決めてしまえば、面倒なことを考えずにすみます。……が、それで自然に読ませるのは難しいですよね。
一人称代名詞を使わない一人称の小説といえば、北村薫さんの覆面作家シリーズが思い浮かびますが、あれだけ工夫しながら読者にそれを悟らせないというのは、北村先生ならではだと思います。
今回の受賞作がどんな文体か、読むのが楽しみです。
以下余談ですが、私の知っている言語を、人称語尾のあるなしでわけると次のようになります。
あり……フランス語、ロシア語、ペルシア語、トルコ語、アラビア語
痕跡あり……英語
なし……日本語、中国語
ペルシア語と日本語は、冠詞・定冠詞がない、述語が最後に来る、などの点で似ています。
では、長々と失礼しました。以上です。
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小説家を志している者は、今回の受賞作、イラン人が書いた日本語の小説を熟読して、その技術について考えてみると、けっこう有益であると思われます。
2009/03/01 更新
講演の依頼を受けたのを逆用? して、過日、花園大学の文芸部の諸君を取材してきました。
小説としてかたちになるかどうかわからないのですが、多少の腹案があり、大学の文芸部などを覗いてみようと考えています。とても愉しい時間を過ごしましたが、文芸部諸君、まだ本音をだしていないでしょう。私は意地が悪いので、合評などにおける(自尊心や自意識から巻き起こる)闘争を肌で感じてみたいのです。
まあ、部外者である私にそういった姿を見せることは、まずないでしょうから、類推するしかありませんね。その、ちいさなきっかけのようなものはしっかりものにしてきました。もうすこし、機会をみて他大学なども含めて取材を続けたいと思います。
花園大学の浅子逸男先生にはとてもお世話になりました。また、じっくりお話を聞かせてください。
小説推理の連載エッセイ〈萬月な日々〉ですが、今回(四月号)では、新人賞に対する傾向と対策について、書いています。新人賞に応募しようとしている方は、立ち読みしてください。
半月、いや一月ほど前でしたか、文學界編集部より連絡があり、今回の新人賞応募原稿総数は1600を超えるとききました。1600もの表現慾求、空恐ろしい数です。
前回受賞作〈射手座〉など、文芸的には圧倒的に高レベルな技術をもった作品でした。積極的に推しはしなかったのですが、感心させられました。ネットの新人賞情報などを掲載しているサイトの〈射手座〉に対する批評など、その高度な技術を理解できずに、ほぼ筋書のみを書いて、その筋書に対する読む側の距離感といったあたりをまぶしてお茶を濁しているといった按排で、頬笑ましくもあり、鬱陶しくもありといったところでした。傲慢な物言いになってしまいますが、わからないものは批評しないほうがいいのでは……。と、書くと、言論の自由とか言いだしそうな強者がいそうですね。
選考をする側の本音をいえば、これだけ応募があると、最終選考に残る作品は技術的には申し分がないといいますか、目を瞠らされるものがあります。老練といっていい。新人が老練──もはや褒め言葉ではありません。このあたりのことを、応募者はきっちり考えてみてください。
ここしばらく執筆をさぼっていた文學界〈王国記〉ですが、今年より再開です。先月、担当編集者がやってきて、ちょっとプレッシャーをかけられてしまいました。来年には第九巻をだせるでしょう。ちなみに第十巻目を書きあげれば、第一部完。まだまだ王国の興亡は続きます。
花子という登場人物、いいでしょう? 太郎と花子。ありがちで、まずない名ですね。普遍だが、存在しない──という意図を秘めている、などと書くと大げさですね。寓話を排除し、現実という名の地べたを這うようにして宗教心(宗教や宗教団体ではない)についてを書き続けていきます。
同様に連載途中で抛りだしていたcobalt〈なかで、ごめんね〉ですが、今春より再開です。消えていく命、新しく生まれる命、物語は大きく展開します。お祖母様と公家ヤクザ、そして主人公の文香、そのおなかのなかの子供──。
舞台はやがて京都に移ります。北白川あたりを考えています。読んでおもしろく、しかも切ない。そんな作品を目指しています。
どういうわけか文學界とcobaltの執筆が対で動いていきます。まわりからは振れ幅が大きいなどと笑われるのですが、私にとってはどちらも小説、大切な作品です。
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最近、新人賞の応募原稿に、時代小説が目立ちます。そこで、ちょっとヒントを。
時代小説を書くときは、最低限知っておかなければならないことがあります。
たとえば南蛮という歩き方だ。
でも、それをいちいち書くと、現在の我々との齟齬が大きすぎる。無視するにかぎります。
けれど、たとえば昔は人も馬も荷車もなにもかもが厳格な左側通行であったことなどは、知っておいたほうがいいのです。その理由と共に、書く書かないはともかく、動作などの描写にあるリアルさを獲得できるので──。
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で、9月某日──
〈浄夜〉のゲラをもって、SS堂。
ああ、こんな作品を書いたんだなあ……と、どこか他人事で手入れをすすめる。
♂のほう、活字がみっしり詰まっているので、老眼にはけっこう大変だ。
文庫化なので、大きな訂正はないが、いま書いたら、ずいぶん省略するだろうな、と思う。
けれど、いまのノリで削っていくと、文章的な整合性がウゲギョイメゲリスゴニョウンゲンになるので、どうにか思いとどまる。
この作品は、担当Hと共に実際に変名で新宿のカルチャースクールの小説教室の生徒になって、しかと取材した、思い出深い作品だ。
小説教室に通ってつくづく思ったね。小説なんて、習うもんじゃない。ま、商売の邪魔をする気はないけれど。
作品は♀の小説家志望と、♂の編集者の語りで綴られる小説讃歌。
誰も讃歌とは思わないだろうが、ラストは俺の愛する虚構という名の反転した現実をあらわしている──と自作を解説する間抜け。
でも、小説家を志望している人にはぜひ読んでもらいたい。♀の小説家志望、宮島弥生が新宿の小説講座をはじめて受講するときを描いた部分、小説教室の案内文(もちろん俺のでっちあげ)を引用しておこう。
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わたしは顔を近づけて印刷インクの幽かな香りを嗅ぎわけ、すると胸が高鳴った。そっと大型封筒の中をさぐっていく。クレジットカードと同じサイズと素材の会員証、後ろに日程他がプリントされた受講券。そしてわたしが通う初心者小説講座のねらいを書いたちいさなパンフレット。
〈ようこそ小説講座へ。この講座は初心者のためのものですが、小説という表現形式を選択したあなたは、もう昨日までのあなたではありません。書くという行為においてあなたが新たな世界を獲得されることを祈っています。さて、日常生活において嘘は許されません。当然のことです。しかし小説においては巧みに嘘をつき、それを原稿用紙に定着させた者が栄冠を得るのです。それは初心者であってもなんら変わることがありません。空想は罰せられないという言葉があります。あなたがいかに苛烈な独裁者に徹底的に統治されようとも、あなたは自らの心の中の空想において自由です。自由であるべきなのです。さて、空想という言葉を虚構に置きかえてみてください。さらに虚構を単純化して嘘と言い換えてみてください。あなたには心の中で嘘を弄び、愉しむ権利と能力があるのです。これは自由の本質についての大きな問題を孕んでいるのですが、このことについてはおいおい勉強していきましょう。ひとつだけ重要なことを指摘しておけば、じつは、言葉というものは、放たれた瞬間に虚構を帯びるという独自の性質を持っているのです。それは言語の抽象性の高さに由来するものですが、論理は後からついてきます。自由の問題とともに、このことは私と共にじっくりと、そして愉しく勉強をしていこうではありませんか。学ぶのはあなただけではありません。私も一緒に勉強させていただきます。とりあえず文章が拙くともかまいません。センスは必要ですが、文章とは論理であり、技術です。あるレベルまでは習得可能なものなのです。ですからあなたは頭のなかの空想を自由自在に羽ばたかせてください。萎縮することはありません。とりあえずは自分のことを書いていいのです。思いついたことを、ありのままに、率直に。ただし原稿用紙に立ちあらわれ、描かれた自分の姿を事実であるといったふうに受けとってほしくありません。これは、じつは慢心というものなのです。ふてぶてしく構えていてかまいませんが、慢心だけはいけません。萎縮することはないといいましたが、どんな場合にも羞恥心だけは心の奥底に隠しもっていてください。いいですか。言語とは意識的に放たれようとも、あるいは無意識のうちに放たれようとも、常にある選択をともなうのです。選択とは、物事のある断面を選びとるということです。そして、それは、ある断面にすぎませんから、事実とはほど遠いということがいえます。たかが言葉で事象のすべてをあらわせるなどと考えること自体に大いなる思い上がりがひそんでいます。ところが前言をひるがえすようですが、小説という表現にはこの思い上がりが重要なファクターを担っているともいえるのですから奥深い。先ほどの慢心するなという自戒を胸の奥にそっと忍ばせているならば、私たちはとことん思い上がってみようではありませんか。とことん思い上がって原稿用紙に、あるいはワードプロセッサに向かって嘘をついてみましょう。嘘という言葉には誰だって抵抗を覚えるでしょう。その抵抗感は社会生活を営んでいく上での最低限の条件であり、当然のモラルであるのですが、そして、人は言葉によって人間になることができたのですが、それでも、ここは、ひとつ居直ってみませんか。言葉とは、じつは、嘘をあらわすものである、と。いいですか。断言してしまいます。その嘘がときに真実を顕わにするのです。繰りかえします。空想は罰せられないのです。いささか大げさな本講座についての説明でしたが、あなたは徹底的に虚構の庭で遊び戯れてください。それが小説という表現の本質であり、すべてなのです〉
この講座のねらいを読まなかったら、わたしは初心者小説講座など受講する気にはならなかっただろう。
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そうだ。嘘なんだ。
だって小説教室の先生が書いている。
──言葉というものは、放たれた瞬間に虚構を帯びるという独自の性質を持っているのです──と。
虚構というのは、嘘ということだろう。だから、構えてつく嘘が、文字通り虚構なんだ。だましてやろうと身構えて、昔のわたしみたいに偽りの微笑みをうかべて、そして口をひらく。柔らかく。
嘘。
嘘。
嘘。
そういえば、なんにもないことを、たしか空虚とかいったっけ。
でも、それでも空間には嘘がいっぱい詰まっているんだ。だから空虚っていうんだ。
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ゲラの手入れ、けっこう長いので、大変だ。100頁ほど見て、撤収。
KNで懸案だったガムテープ購入、ブビヲのおやつのゴン太の角切りチーズ、靴下、クリップなど。
すっかり暮れるのが早くなったなあ。しかも夜風が涼しい。
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2008/07/13
*字間ゼロ!
いまどきワープロで原稿を書く人もいないだろう。けれどWZであるとかで執筆したら、それをワープロソフトで整形し、印刷する。もちろんワープロソフトで執筆しても問題ない。重いし、効率が悪いとは思うが──。まあ、なんでもかまわない。あなたの執筆スタイルは、あなたのものだ。好きにしなさい。
だが、整形し、印刷するとなると、話は別だ。他人に読ませるために、そうするからだ。
新人賞応募原稿送付のときに、絶対に守らねばならぬことがある。
字間はゼロ。
こんな当たり前のことを幾度も繰り返さなければならないのだから、しんどいことだ。
あなたは自分が執筆したものを印刷するときは、自分がいつも読んでいる書籍、それもゆったり組まれて読みやすいものを見本にして印刷しなければならない。
一太郎(正確には一太郎2005。最新の一太郎は、仕様が違うかもしれないが、それは私の知ったことではない。それと、私は一太郎以外のワープロソフトを使ったことがないので、ワードとかのことは知らない。まあ、ワードのような英文ワープロをむりやり日本仕様にしたらしいものを使うのは、どうかとも思うが)であれば、〈ファイル〉から〈文書スタイル〉の〈スタイル〉を選び、〈文字設定〉は〈字数行数を優先する〉を選択、〈文字組〉は〈縦組〉、〈字数〉〈行数〉は好きでかまわないけれど、読みやすさを勘案すれば、自ずと範囲は決まってくる。
問題は次の〈字間〉だ。これは〈0〉に設定する。
どうすればいいかというと、右側に実際の文章の体裁をあらわしたものがある。そのブルーのラインの上、あるいは下をマウスでつまむ。で、中心にむけて移動させる。これ以上動かないところまでもっていく。それで〈字間〉は〈0〉になる。ちなみに次の〈行間〉は多めにあけよう。
これだけ守れば、あなたは下読みや選考委員が読みやすい原稿をプリントすることができる。字間がひらいているものは、とにかく読みづらいので、まちがいなく後回しにされる。いやいや読まれる応募原稿がよい結果をもたらすとは思われない。心してください。
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2008/05/29〈書を捨てよ町へ出よう〉
23:55〈私の庭・北海無頼篇〉31枚まで。ノルマをクリアしたから、これ以上書くのはやめておこう。
で、なにをするのかといえば、寺山修司の映画を見る。ガキのころから映画館で寺山修司の映画を見てきたが、じつはいつも途中で寝てしまっていた。最近、ケーブルテレビで寺山の映画をどんどんやってるので、録画してみたわけだ。やはり、眠いなあ。でも、録画だから半眠りになったらそこでやめればいい。で、また日を改めて、というわけだ。今夜は眦決して、絶対寝ないかんねという感じで最後まで頑張りました、三日目の〈書を捨てよ町へ出よう〉です。よくわかったよ、寺山修司。映画的である前に、文学的すぎた。文学的である前に、句的すぎた。やはり短歌や俳句の天才なんだと思う(ゆえにこの駄文を読んで興味をもった奴は、寺山の俳句や短歌に触れてくれ! 凄いよ。割れる瞬間の青褪めたガラスだよ!)。俳句って、常に映像と共にあるものだから(チープな例だけれど、芭蕉のどの句をとっても、映像が見えるわけだ。見えない奴は、頭が足りないんだからしかたがないね。近くにこないでね。五・七・五的表現はすべて脳裏の映像と共にあるんだよ。逆にいえば映像と結びつくから五・七・五の選び抜かれた語句で足りるわけだ。てなもんでこんなに長い挿入をすれば、文脈がわからなくなるだろう。ざまあみろ、読みなおせ)、寺山本人が勘違いしちゃったんだね、映像になんかタッチしなければよかったのにね。映像のせいで導入の津軽弁(でいいのかな。一概に津軽と決めつけられないところがあるからね、青森は広い)のテンション、緊張感がすぐに弱まってしまって、持続しなくなる。眠くなるわけだ。それでも科白にはハッとさせられる瞬間が幾度もあった。なぜ、今回ハッとさせられたかといえば、映画館ではなく自宅で、ヘッドホンをかぶって一語一句聞き洩らさぬ覚悟で挑んだからだ。一見派手な映像に誤魔化されてしまうけれど、じつは科白にしか神が宿っていなかったという不思議な映画だ。映像不要の映画だった。ある意味究極の映画? 寺山自身も俳優にそんなことを言わせているみたいだし(言わせてねえよ。意味が違うだろ)。天才の迷走は、おもしろいけれど、やっぱ眠いわ……。しかも映画に出てくる世界が、俺の(世代の)馴染みの日本のくせして異国みたい。昔、なんかの講演で東北にでかけたとき、地元の奴らに三沢の寺山修司記念館に連れていかれたことがあるのだが、そのとき思ったんだ。こうして消費されていくんだな、と。寺山修司は永遠に覗きで捕まった変な人であるべきなのだ。記念館。これは寺山に対する侮辱だと思った。館員が──百年たったら帰っておいで百年たてばその意味わかる──などとしたり顔で呟いたときは、怒るよりも悲しくなったもんな。『あんた、こんなとこで認められて偉い人になっちゃっていいのか』←できたら津軽弁で読んでおくれ。あ〜あ。それでも、ここしばらくは細切れなれど、寺山修司の映画と付き合おうと思っている。俺にとって睡眠薬代わりだった10代の寺山修司の映画。睡眠薬としての寺山修司の映画は、いまの俺にはだいぶ効き目が弱くなっちゃってるよ。それでもコーラの瓶のなかの蜥蜴だ、俺は、そしておまえは。なんちゃって。アジる気はねえよ。ほんとうのことをいえば、俺は〈ボクサー〉という映画を見たとき、寺山を見限った。以上!
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2008/05/31〈田園に死す〉
恐山にお詣りしたとき、あえて毛無山を迂回するかたちの県道でさえない地方道の雨に濡れそぼった、曲がりくねった大腸のような道をのぼっていったのだが、その途中にずらりと俺の背丈ほどもある地蔵が並んでいて、ところがその濡れて黒光りする地蔵の首がすべて! もがれていて、首なしであった。
苦笑いで誤魔化して、恐山に至った。
ところが賽の河原で出征兵士地蔵というのに出くわして、情けないことに、顔を背けてしまった。
陸軍兵士の恰好をし、襷(たすき)がけをした石の地蔵だが、その顔が白墨で真っ白に塗られていたのである。
暮れかけた賽の河原で、その肩に鴉をとまらせた白塗りの童顔に出逢ったときの衝撃ときたら──。
おなじく津軽半島をオートバイで走っていたとき、辻に化粧地蔵があって、思わず息を呑んだ。
幾体もの地蔵は相当に古いものだが、端布で縫った原色の衣裳を着せられていて、出征兵士地蔵とおなじく、やはり顔は白塗りで、さらに色チョークで鮮やかな唇や目が描かれていたからだ。
津軽、下北は色彩に乏しい。そこに眼球の芯が鈍く痛むほどの鮮やかさで純白や朱、そして緑や黄、空色が唐突に出現する。
寺山修司〈田園に死す〉を見ていて、そのときのことを思い出し、そうしたら映画なんてどうでもよくなってしまった。
なんだ、この映画、化粧地蔵じゃないか──。
でも、八千草薫って、ほんと、デスマスクが似合う女優だね。
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最近は、わりと積極的に映画を見ている。映画館で、ではなくて、自宅で、だが。
だから正確には映画作品を液晶で見ている、ということだ。
残念ながら我が家では映画館の闇の猥雑や沈思は得られない。
そのかわりに精読に似た解析ができる。科白も一字一句逃さず聴きとることができる。鑑賞には不似合いだが、研究にはもってこいだ。
寺山修司の映画は心象と象徴の粘液質な絡みあいを描出する方策を俺に示唆してくれる。
ハッタリが強烈なので、影響を受けないだけの強度を獲得してから対峙したほうがいいかもしれないが──。
総合芸術としての映画は、文芸にも多くのものを与えてくれる。
もっとも、ハリウッド映画を見ていても、チープな筋書き造りの参考にしかならないけれど。
エンタテインメントの看板をだせば免罪されると思うなよ。
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*このあいだ、ホームセンターに出向き、額縁その他を大量に買いこんだのですが、ついでに低反発クッションの座布団を購入し、着なくなったシャツで包みこんで、ブビヲの寝床をつくってあげました。いままでは、私の仕事場では、宅配便の段ボール箱のなかで寝ていたのです。ずいぶんグレードアップして、なかなか居心地がよさそうですよ。
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*敬愛していた小川国夫先生が4月8日に永眠されました。
2008/04/30
主知から主意へ
困った。仕事が手につかない。先生の死がこんなにこたえるなんて。
追悼文を書くときに参照した〈エリコへ下る道〉を幾度も読む。いままでも幾度も読んでいるから、もはや諳誦できるほどだ。
受難、そして救いを待つ人。
それだけの話。
だからこそ、はじめて読んだときからいままでずっと考えつづけさせられている作品。
先生はこの作品について、「平凡なことだが、観念上の宗教はありえない」と仰っている。
ところが俺のまわりには観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念観念──チープな観念ばかり。
挙句の果てに仏教はいつの間にやら無神論を平然と纏っていやがる。
自己存在の秘密を忘却しているのだから、笑える。
ともあれ、俺も観念の奴隷だ。自覚はある。なんとか超克したいものだ。
新たに小川先生の作品を繙く人がいるかもしれない。ややお節介だが、ヒントを。
スコラ哲学は必須だが──トマス・アクィナス的なアプローチではなく、ドゥンス・スコトゥスのほうからアプローチをすると、理解しやすくなると思う。
思いのほか現代的(現代の作家だから当たり前だが)な作品を先生は書いているんだ。
スコトゥスは、もっと評価されないとね。
それまでアリストテレス的なるものを引きずって『自由とは理性の判断による最良の事柄』というニュアンスだったものを、スコトゥスは理性よりも意思をより高次元なものとしてとらえ、『自由とは善を為すこともできるが、悪を為すことも当然ながらできる』──つまり無差別の自由を唱えた。 現代の人間にとっては当たり前のことかもしれないね。でも、当時としては画期的な思考だったと思う。
ともあれ──。
主知主義から主意主義へ。
その切り替えができたとき、俺は小川先生の作品をひと息に理解できた。
──以下個人的な述懐なので略します。
*文學界6月号に小川先生の追悼文を書いています。合わせて読んでみてください。
*おなじ号の文學界で新人賞の受賞者が発表されます。詳しくは選評を。次の締切は6月でしたか。よい作品が集まることを希っています。
2008/04/04
文學界新人賞最終選考作品を読みはじめました。いろいろ思うところがありますが、小説を書きはじめた人に大切なアドバイスを──。いちおう題名をつけておきましょうか。
『夜がきた』と書いてはいけない
夜がきた。
と、書くのは説明。べつに文才がなくても、誰にでも書けます。また、誰に対しても意味が通じます。
けれど『夜』という言葉を遣わずに『夜がきた』ということをあらわす──描写するのが、小説家の基本的な仕事です。
強く意識してください。説明は誰にでもできます。小説家を志すあなたが成し遂げなくてはならないのは、描写です。描写、描写と口を酸っぱくして言ってきた所以です。
以後、『夜がきた』と書くべきときに、『夜』を遣わずに、『夜』を表現してみてください。
たとえば『夜のとばりがおりた』などと書くのは説明としても鬱陶しいし、描写としても紋切臭くて陳腐すぎる。
こうなると説明としてはうざいし、描写としては三流という最悪なことになってしまうわけです。ひとことで言えば、センスがない。
このあたり、できる人はすっとできます。努力と関係ない。センスの問題です。
ぶっちゃけ、プロでもひどい人がいる。ナントカ賞をなかなか受賞できないタイプの小説家です。
ちなみにエンタテインメント系の文章にばかり接していると、残念ながら(読んでいておもしろいけれど)センスは磨かれません。
さあ、『夜がきた』ということを『夜』を遣わずに表現してみてください。
さっとはじめて、さっとできてしまうのが才能。あまり考えこまずにはじめてみなさい。四の五の言わずに挑戦してみましょう。
ところが、そこで問題になるのが、独り善がりです。伝わらない描写は、ただの失敗。能力不足。時間と資源の無駄。
自分だけがわかる描写は、描写とはいわない。
自信がない者は、難しい言葉をもちだしてきて虚仮威しにはしる。チンピラの虚勢ですね。
いいですか。能力的に劣る者のやることはわかりきっています。見透かされています。
だから、つまらない虚仮威しや居直りを棄て、正攻法で足掻いてください。
湿り気とか、いちだんと濃さを増す植物の香りとか、昼には耳につかなかった玉砂利を踏みしめるときの音とか──いくらでもあるでしょう、描写の手がかりが。
ここで大切なのは、あなただけの象徴を見つけだし、掴み取ることです。
やがてセンスのある者ならば、『夜』という言葉を用いずとも、読み手により深く的確に『夜』を感じさせることができるようになります。
そうなったら、文章をシンプルにするために『夜がきた』と、書きましょう。
つまり描写が不要な部分では煩くなることを避けるために、さらっと説明してかまわないのです。
でも、『夜』という言葉を用いないと『夜』を表現できないうちは、『夜がきた』と書いてはなりません。
抽んでた者とその他大勢の差異といってもいいのですが、『夜』を用いずに『夜』を表現する力のある者は、じつは『夜』の象徴を掴み取っているから、『夜』を用いずに『夜』を表現できるのです。あえて『夜がきた』と書いても、その深みがまったくちがうのです。
また、言わずもがなのことですが『夜がきた』は単独でそこにあるわけではありません。他の文と絡みあってあるわけです。
小説という散文表現において、単独で存在する言葉は、ありません。
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2008/日時不明
*文學界新人賞の選考の日取りがきまりました。どのような作品が最終選考に残ったのか私も愉しみですが、まだ当方にとどいていません。
なんとか印象にのこる作品を! というのが私の願いです。
裏話というか、正直なことを書いてしまえば、新人賞の最終選考に残った応募原稿ですが、早めにとどいても、選考会ぎりぎりまで読みません。効率を考えれば、前もって読んでしまえばいいのですが、はっきりいって印象の弱い作品ばかり! なので、読むのをぎりぎりまで引っぱらないと、いくらメモを取っても、内容(細部)を忘れてしまうのです。これが、現実です。
一読して、忘れることのできぬ強い、抽んでた作品に出会いたいものです。
正月以来かな。いや、正月に更新したわけじゃない。もっと、あとでした。
連載執筆の合間をぬって、懸案だった〈ワルツ〉を完成させました。大作です。詳細は、いずれ、また。
小説現代で連載していた〈少年曲馬団〉があとわずかで完結します。結局千枚を超えてしまいましたが、こんな少年小説はいまだかつてなかったと自負しております。じつは〈百万遍〉シリーズの先魁となる、痛みをともなった作品です。
忙しい。執筆オンリーの毎日です。こっちまで気がまわらなくて、ごめんなさい。新しい文庫が出ました。新刊のほうを参照してください。
以下は『ブビヲの学校』からコピーしたものです。こんなバレンタインのプレゼントはほしくないだろうけれど、小説家を志している方は、ぜひ目をとおしてみてください。
(前段、略──文章は中途からです。また、文脈を整えるために修正削除、あるいは加筆している箇所もあります)誰もが認められたいのだ。自己存在を確かめたいのだ。
だからこそ、小説家などという職業に憧れるのだ。もちろん音楽家でも芸術家でもなんでもいい。メソッドを反復しただけではモノにできぬ仕事に対する憧憬は理解できる。
けれど、それらの達成に対して努力しているにもかかわらず、うまくいかない者に共通していることがある。すごく単純なことだ。以下のことを主体的にこなせるようになれば、すぐに自立できる。
何をどれだけ知っているか、ではなく、何をどう考えるか。
なるほど、と思うのは簡単だけれど、実践できないとね。ほとんどの者が実践できない。
俺のまわりにもすばらしい知識の持ち主がいる。知らないことを尋ねると、まさに打てば響くといった塩梅だ。
でも──。百科事典を、あるいはネットで調べればすぐにわかるような知識を、なぜ、あなたは頭に詰め込んでいるのか。こういうことを無駄な努力という。脳の使い方がわかっていないのだ。そして、脳の使い方は教えられない。
はっきりいって、俺もあれこれ知っている。どうでもいいことばかりだ。それがとてもつらいし、面白くない。記憶力は、ある面で白痴の能力だ。
ただし、あれこれ知っている事柄の何かと何かがある瞬間に核融合を起こすことこそが創作の秘密でもあるので、始末におえない。
俺が自慢できることがあるとすれば、覚えたことを即座に忘れていける能力をもっていることだ。
忘れるということは、消え去っているということではない。シュルレアリスム的手法ではないが、とある空白のとき、やはり何かと何かが幸福な、あるいは切実な結婚をすることは、ある。ひらめく瞬間だ。
意地の悪い訓練法を、ひとつ。俺が十代に行ったことだ。
なにかを尋ねられたら、知っていてもとぼけよう。知らないふりをしよう。そして、それを知っている者がとくとくと語るのに耳を傾けよう。それが間違っていても、とぼけとおすこと。
俺はこれで思考の多様性というものを知り、また自身が思考のパターンを獲得するよすがとした。
知らないふりというのは、いつか、ほんとうに知らない状態にまでもっていける。
知っていても知らないという意識操作の果てに、わりと自在に忘却できるという能力を獲得できる。
棄てられない知識というものは、宿便のようなものだ。もちろん嗅ぎたくない。が、どんな臭いがするのだろうか。
哲学の原初的成立は、神話だ。
これは小説という表現にとって、とても示唆的な事柄だ。
どういうことか、と、興味をもったらなら、自身で調べること。
神話の作用だが、混沌とした現実に秩序を与える。
現実は、あなたも思い知らされているとおり、まったく自分の思い通りにならぬものだ。ときに僥倖もあるが、意外なところから伸ばされた触手があなたを打ち据えることもある。断言してしまおう。自身の想い描いた未来は裏切られていくものだ。蒔いた種子が芽をだし、生育して、いざ収穫というときに天変地異が襲う。すべてを喪う。その最たるものが、あなたの人生の最終局面である『死』だ。いつ訪れるかわからない。誰も逃れられない。現実を混沌とする所以である。
神話は、私たちを取りまく混沌たる現実を、秩序のあるものとして捉えようとして想い描いたなかから生まれた。絵空事のようでいて、じつは壮大なる秩序の体系なのだ。 死には死の神があり、生には生命の神がある。破壊の神もあれば、創造の神もある。理不尽な混沌──現実──というものを、なんとか秩序だてようと、神を配置して、理解しようとする。神話は長い年月の間に整えられ、精緻でリアルな体系を獲得する。
オタクっぽい奴が吐かす世界観(ずいぶん安っぽい言葉にまで堕落したものだ)とやらも、この範疇に入るわけで、無意識のうちにも悟っている者は悟っているのだ。
繰り返す。
神話は混沌とした現実に秩序をもたらす。
現実とは、物質的な面もそうだが、もちろん精神的な面の問題をより多く含む。精神生活がなければ、神話など不要だ。
ブビヲという獣(人には間がつくが、獣には間がつかない。人間というけれど、獣間とはいわない。精神生活に対する自負と傲慢が、間を人に附与したのだ)に必要なのは神話ではなく、主人(リーダー)だが、それでもブビヲにだって神話の萌芽を見てとることが可能だ。
哲学の原初的成立は、神話であるということは、俺が言っていること(オリジナル)ではなく、とっくに忘却してしまった書物から得た脳裏のストックからの引用と、勝手な肉付けであることを断っておく。
神話が混沌に秩序を与える目論見であるとすると、小説とは──?
これも自分で考えよう。
神話的世界観が、あるとき哲学と化す。そこに立ちあらわれるのは合目的な合理精神だ。その顕著なあらわれがギリシアで成立した物の考え方だ。
『現象の救済』──つまり、合理的なものは非合理を排除するのではなく、合理的なものは非合理を掬(すく)いあげる、あるいは救いあげる(救済する)ということだ。
こう、置き換えてみよう。
合理的なもの(文字という抽象)を用いて、非合理なもの(現実)を救いあげる──救済する。これこそが小説の姿だ。虚構の真実だ。
おまえは、わかった気になるな。それがいちばん、まずい。あれこれ意見もあろうが、コメントは不要。
わかった気になって発言してしまうことが、いちばん不細工だ。
沈黙を学ぼう。黙れば、脳裏で言葉が駆け巡り、やがて醗酵する。安直に吐きだす安直な自己顕示を克服しよう。
純だのエンタテイメントだのといった矮小な小説の括りを棄ててほしい。原理主義に堕落しないように。
神話が混沌(現実)に秩序を与えること。
合理的なものは非合理を救いあげる──『現象の救済』
この二点を常に脳裏に、虚構を構築すること。
虚構の構築、即ち神話の構築で、これはたとえばエロ小説などに顕著にみられるものだ。
神話的な小説は、意外に神話性が弱いという逆説が成り立つ。もちろん南米の作家の境地にまで至れば、話は別だが──。
さあ、書いてみよう。おまえはまだ素人だ。先を考えずに書き始めてかまわないよ。プロの俺も、なにも考えないで書いているのだから。考えるふりをして、なにもしないのがいちばん不細工。わかるよね。では──。
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