即身仏、ヒトガタ、天狗


 はじめに


人生長生きするものだ。
 先日、日本美術批評界をリードする椹木野衣さんと一泊二日で山形の即身仏を見に行くことになった。企画・コーディネータ役の椎名勇仁さん(美術作家)に誘ってもらった縁による。他にも宮城県内の若いギャラリストや学芸員等がワンボックスカーに同乗し、晩春の美しいひとときを庄内・出羽三山一帯ですごすこととなった。


 高速に乗り寒河江で降り、村山の荒木ソバに直行するも定休日。しかたなく別な店を探していると、「名前がいいからその慈恩寺ソバにしましょう。なんたって『ジオン』ですから」と椹木さんがみんなを笑わせてくれる(*註・もちろんガンダムの「ジオン」を指す)。椹木さんはさすが語感の鋭い方で名物孟宗竹づくしの夕飯でも、「もうそう−妄想竹、妄想汁、妄想づくし、、、、、」と終始場を和ませてくれた(写真・椎名さん撮影)。夜は椹木さん、椎名さん、僕と3人で川の字に眠り怪しいトラップ音を聞く。学生時代の合宿旅行の様なこの不思議な小旅行にわざわざ東京から参加してくれた椹木さん、終始やさしくみんなをリードしてくれた椎名さんにあらためて感謝したい。
 ところでサブカルチャ−と美術の橋渡しという偉業を成しとげた椹木さん。その椹木さんがこれほど即身仏に感心をもたれているというのは非常に意味深いものを感じる。大袈裟にいえば今後の日本のアートシーンや文化状況の方向にも左右してくるのではないかとも思いあえて今回我が青亀堂も注目しているしだいである。そういえばこの小旅行で椹木さんが心霊現象とか新興宗教とかスピリチャルなものに造詣が深くまたただならぬ関心を寄せておられるのを知った。当然それはサブカルチャーの根底にもつながり、美術やあるいは様々な社会思想、運動の根底で怪し気な力を発揮し続けてきている大本でもある。
 考えてみれば出羽三山もそのようなもろもろの怪しい混合体の様相を持っている。というよりもそういう怪しい霊気の権化といったところであろうか。羽黒は現在、月山は過去、湯殿山は未来。そこに太陽とか月とか神とか仏とか彌勒菩薩とかどういうふうに絡んでくるか忘れたが、一種の三位一体のように体系化されているような説明を受けた。ちょうど月山を登山して山ずたいに湯殿山本尊にぬける体験−広大な三途の川ともいえる月山の弥陀ケ原を通り山頂で一度死に、胎内をくぐる様に再び湯殿山に降り立ち生まれ変わる感覚に具現しているように思える。そこには真言密教系、明治以来の国家神道的神道系、中世以来の本地垂迹説以来の修験道・山伏系、あるいはエミシ以来の土着的な自然信仰的エキス、また江戸期にやってきた雄藩酒井家の武家文化等が独特に融合しているようである。この地は古くから様々なものを呼び込み、まぜあわせ、かつ生み出し続けてきた。

 
即身仏見聞
 例えば即身仏はその先鋭化した一例にちがいない。今回の旅では行く先々で普段では得られない貴重な話を聞くことができた。最初に行ったのは本明寺で、この庄内地方で最初に即身仏になった本明海上人が安置されている(写真)。彼を見本としてその後次々と同じ道を歩む者が出てきていることを考えるとまさに英雄的な人物と言える(その動機もそもそも武士だった彼が酒井の殿様の病気治癒を願い全てを投げ打って自ら山ごもりしたのがきっかけ)。ずうと未公開だったらしく簡素なお堂で、参拝の間ぶら下げられた千羽鶴が狂ったように回転し神秘的な気配に満たされた。次に訪れた注連寺では有名な鉄門海上人を見る。新しく住職が癖のある人物に変わっていて面喰らう。「あんたがたどういう人達?なに系?」と聞かれ、「まあ、、美術関係が多いですか、、」と弱々しく誰かが答えると、「アート系ね!フーン、、。じゃあアート系の話をしよう!」。「そこの天井画の馬の絵、、@@@っていう画家が描いたんだけど知ってるだろう?えっ!知らないの!!、、、。だいじょうぶかおまえら?」としかられる。長い話しが続きあまりの苦痛と寒さに気が遠くなっていると、「じゃあ次ぎそこの即身仏ねー」と至極軽い調子でミイラの講釈が始まる。やはり即身仏が「もの」扱いされると奇妙な違和感がのこる。即身仏として後世に遺され、あがめられる例はほんの幸運な一例にすぎず、実際にはもっと沢山の人が土の中にまだ「はいっている」ということを聞く。むかしはめいめいかってにいろんなところに次から次へと「入った」そうで(土の中に「入る」のかその中にうめる小さな箱に「入る」のかわからないがこの「入る」という表現がとても印象深く耳に残った)、寺の住職や身分のある人以外はそのままに依然として埋まっているらしい。おそらくもうバラバラに崩れて掘ってもしかたがないのでそのままにしてあるという。こういうイメージは蛙や亀が冬ごもりで冬眠する感じとにていなくもない。うまく成功すれば来春も生きられる。失敗すればミイラ化して死んでしまう。霊長類人間は冬眠ができないのでミイラ・即身仏となることで成功とする。ミイラになった者の中には弥勒菩薩がやってくる56億7千万年後まで身体を遺しておいていっしょに悪と闘うつもりの者もいたというが、それ等はなんとなく、来るべき時を待つというニュアンスで冬眠と似ていなくもない。いずれにせよかつてのこの地域は一大霊場で、いくつもの教団、修行者がいりまじり、各々のしかたで猛烈な修行にあけくれていたらしく、さながらインドのサドウーがゴロゴロしている様を連想する。
スタンダードな即身仏へのプロセスは木の実や水ばかりの木食修行を千日(?何日だか忘れた)続け、ふらふらで死にそうになったところで(事実この段階でも多くの人が死んでしまい、その場合即身仏にはなれない)、弟子等の助けを借りながら用意した小さな箱に座る形で入れられ(自分ではもはや入る力は残っていない)地中に埋められ竹筒で空気をとる。お経と鐘の音が途絶えたところで竹に栓をして2年程埋めておくのだそうだ。死の過程であまりにも元気な場合もっとも苦しみがひどく、もがき苦しむためにミイラの指先の爪が剥がれているということで、指先を見るとその人が人として死んだのかどうかが解るという。途中で死んだらそれまでだし、余力を遺し過ぎれば苦しむし、「入る」タイミングが至極難しいのが解る。「そういえばおとといモックンが来たぞ!」と住職が生臭く話しを締めくくり圧倒されながら注連寺を後にする。翌日は2体の即身仏を安置している酒田の海向寺へ行く。純粋にスタンダードな即身仏は少ないのだという裏話を聞いた。例えば南岳寺の鉄竜海上人等の場合明治の時代になっていて即身仏が禁止されたので、2年を待たずに嵐の夜陰にまぎれて掘り出したためミイラ化が不十分で、手術等で内臓を取り出したりいろいろと加工せざるをえなかったという。夜な夜な鉄竜海上人が枕元に立ち早く掘り出すように迫ったため急いだからだと伝えられている。また、有名な注連縄寺の鉄門海上人は自分からなったのではなく弟子が遺体を海で洗ったり等して造ったのだという。超人的な人物として伝説化されているだけにこれはちょっと驚きだ。


遺るかたち・使うかたち・もって帰るかたち
 世にあるもの・かたち・身体等はいつかは無くなってしまうものとして通常仏教等でも軽んじられがちである。色即是空というように色や形のあるものに執着するのは良くないことの様にとらえられる。そいうことと比較するとこの即身仏は正反対とも言えるかのような趣がある。なぜ身体の永続化に固執して、自らミイラになろうとしたのか?ならなければならなかったのか?という問いを椹木さんをはじめみんなが行く先々でお寺の人にぶつけてきた。注連寺の住職の話では「じゃあ戦争中特攻隊がなんで特攻しようと思ったか考えてみろ!親兄弟を守ろうとしたんだろう−みんな。違う話のようだけど同じだとおれは思うよ」とまくしたてられた。自分の守ろうとするもののために死ぬというのは何となく解るのだが、それではなぜ自分が土に潜ってミイラになることで、世界や民百姓が救われるという確信を持つことができたのだろうか?そういう感覚は今の自分には限界がある。ただ無力な自分が絶望的な状況で何ができるかという時にイスラエル軍に石つぶてをなげたり、プラスチック爆弾をまいてテロしたり、という肉弾攻撃に集約して行くことは理解できる。それほどに彼らは追い詰められていたのだろうか?いずれにせよ庄内地方の土中や自身の身体が、他人や世界や仏と通じ合うという今日とはまったく別な時空間が存在していたのだということが少しづつだが類推されてくる。同様の質問に海向寺では「精神の永続化」といったニュアンスで話をしていただいたような記憶がある。実際には(この実際にはという具体的なリアリティーが重要に思うのだが)目に見えない曖昧模糊とした心や精神よりも物質のほうが永続的で強固で目に見えて分かりやすい。精神や魂を万人に見える形で物質化して永続化しようとする感覚が即身仏にはあったと言えるようだ。「かたち」にこだわらないこととこだわることの二重性の本質がここにあるように思える。身体。見えないもの。形に残し見たり触ったりできないものを永遠化するということの凄さ尊さはたとえそれが自分自身の身体であろうとも造形物と合い通じるものがある。そう考えるとこの即身仏という存在は究極の「人芸品」ということも可能かもしれない(今回コーディネイトをしてくれた椎名さんは即身仏を究極の彫刻と仮定していたのだが)。だがいわゆる仏像でもないので博物館のようなところに展示するのもはばかられ、エジプトミイラの様に横に寝ているわけでもないので棺の中の「遺体」という感覚でもない。注連寺などでは神像の一種の様に末席に並べられているがやはり生身の人間である感は残り続け決定的に異質な感じがした。当然即身仏を土産に持って帰るわけには行かず、さりとて写真撮影も容易にできない。鶴岡の南岳寺では即身仏になった鉄竜海上人などが信者にあげたという自身の手形を押した龍の絵を観たが、それが生な肉体の「身代わり」として「もの」として量産されうる一般的形態なのだろう。相撲取りの手形の様でもあり、手相や指紋がくっきり解ってそれはそれでなまなましいもので面白かった。唯一無二の存在である宗教者や霊能力者の生身・遺骸から派生して、髪の毛や尿をありがたがるのもここにつながるのだろう。精神の形象化としての肉体・即身仏。肉体の再生産・コピーとしてのなにがしかの「かたち」。それを有り難がり持って帰ろうとする「お土産」。そういうつらなりのもっとも根源的な有り様がここで展開されている。
 湯殿山本尊エリアではヒトガタの紙とロウソク等がビニールに入って300円で売っていた。神道系の由緒正しい造形だ。だが目の前でお浄めやお供えに使わなくてはならず、神主達の視線が厳しく持って帰れそうにないので買うのを諦めた。イラストの天狗面は以前羽黒方面で購入したもの。こちらは山伏などの修験道系の香りがする(はずかしながら、この旅で山伏と行者が違うものだということを知る)。同様の型でいくつかのパターンが見受けられるありふれたものである。即身仏になる行者の木食修業の壮絶さや、神道系「ヒトガタ」の非世俗的清さをおもうとはなはだ見劣りがしてしまう。自身の身体を対象とする「行」というものや、最小限の手技しかみとめない日本神道の伝統は、ものに手を施す「ものづくり」となかなか相容れないものなのかもしれない。この地域の都市部は北回り行路の影響で雛人形や土人形など様々な京風の文化が移植されてきている。それらがこの土着的山岳信仰文化とどのように共存してきたのだろうか?どうも肌合いを異にし過ぎていて良い意味での融合はなされなかったようにも感じる。もちろん宗教界において中央の密教がこの地で化学変化を起こし「即身仏」なるものを生んだということはあった。だが「人芸品」のレベルにおいてはそのような際だった存在を見ることはできにくい。その可能性は今後に託されていると言えようか。


結び
 怪し気な混合体・三つどもえの三山信仰体系。そのもっとも古層の根底にある原始自然信仰。その奥の院・本体としての湯殿山本尊。本体はハローインのカボチャの様に鉄分の作用か全身オレンジ色の熱湯と湯気を吹き出し続ける強大な岩。16年前自分は全てをやりなおし生まれ変わろうと思いつめ月山八合目から一日がかりで登山し最後にここにたどり着いた。今回は車とバスでみんなと楽しくのんびりとやってきた。まだあたりは一面雪景色で寒い。この湯殿山本尊は「写真を撮ると死ぬ」と昔から言われてきた。撮影禁止の大きな看板が2メートルおきに濫立しまるで地雷原にでも立ち入った様なものものしさ。この緊張感に自分でさえいまだにシャッターをきれない。このエリア一帯が分厚い石壁で周囲から隔離され、外から見ることができないように不気味に遮断されている。さながら猛獣か化け物をやっとのことで厳重に拘束しようかというようなピリピリした気配。お払いをしてもらったあといよいよ本尊へ向かう橋の上を渡る。気がついてみると椹木さんと自分しかいない。神域と人間界の境界に架けられたこの象徴的な橋にたった二人。ここで二人とも生真面目に神主に言われたとおり浄めとしてもらったヒトガタの紙で全身をこする。椹木さんのこすり方はとても丁寧で執拗だった(特に頭の部分を繰り返し隅々までこすっていて、いろいろと御苦労が多いのだろうなあと思った)。最後にそのヒトガタへ息を吹き掛け橋の下に捨てる。雪解けの澄んだ風が下方から吹き上がる中、椹木さんと僕のヒトガタはひらひらと谷底を舞い降りて行った。この光景一生の想い出になるだろうなあとしみじみ思う。この山に縁があるという守護霊の曾おばあさんも喜んでいてくれるにちがいない。「また来ましたよ」と心の中でつぶやいた。


フィレンツェの土偶


はじめに

 フィレンツェの駅に降り立つと香しい高原の空気を感じることができる。塩くさいベネチア、ホコリっぽいローマ、騒々しいナポリ、近代的なミラノ、、などとちがってどこかホッとさせられるのは僕だけではないだろう。この豊かで美しいトスカーナの自然を背景にしてフィレンツェの街が存在しているのをあらためて感じさせてくれる。しかし一度街の中に分け入ると事態は異なってくる。中世以来の歩きにくいゴツゴツとした石の路面。重厚感あふれる歴史的高層建築群。恐ろしいスピードで走りまくる車やバイク。すれ違う大勢の汗ばんだ観光客の群れ(特にこの街の観光客は自分も含め忙しそうで眼をギラギラと血走らせている)。近代都市とはまったく違う意味での超過密オーラに目眩を催す。
 僕がこの街に来て最初に向かった場所は有名なブルネレスキのドーム、サンタマリア・デル・フィオーレ大聖堂の天辺だった。分厚い壁の中に通された暗く狭い階段をひたすらに登り続ける。真夏の暑さでびっしょりと汗が吹き出し、ふらふらと目眩をもよおす。この大きな街、大きな建物、大きなドームの中心、最頂点に小さなスペースがつくられている。街のほとんどが眼下に見おろせる絶景だ(もちろんこの街そのものが世界遺産に登録されている。この街全部で世界遺産一つ分というナンセンスなカウントなのだが、その質、量から言って通常の世界遺産の10〜20個分の価値があるだろう)。この空中に突き出した極点スペースでは、世界中の見ず知らずの人々がみんな嬉しそうな顔をして和気あいあいとしている。みんな各々にこの場に立っていることの幸福を噛み締めているといった様子だ。人類皆兄弟。博愛精神がこの場に溢れている。まるで露天風呂にはいってビールを飲んでいるような気分だ。こういう気持ちに自ずとしてくれるこのドームは本当に素晴らしい。以前ビルマのマンダレーヒルにいた人々も同様な気分に満たされていたのだが、ここは山ではなく一から全てが人工物であるところがなにしろすごい。ブルネレスキは偉大なり!無数の1ピース1ピースの石材や瓦がこんな空中に緊密に組み合わされている壮大さと危うさ。500円出して登る「絶景かな!」で有名な京都の南禅寺山門等は、ここに比べれば他愛無いもののように感じほとんど国辱ものである。


フィレンツェの不思議
 アテネ、フィレンツェ、パリ、ニューヨーク。以上の4都市が美術においては決定的に重要である。重要というよりもこの4都市を抜いて美術史を語ることは不可能だし、逆にこの4都市以外のあとのことは統べて枝葉にすぎない。年代になおすと紀元前5世紀、15世紀、19世紀から20世紀初頭、20世紀(1940〜1960)。この限られた場所の限られた時期をのぞくと美術の歴史は壊滅的に貧困になるだろう。この限られた範囲にまさしく百花繚乱に大作家と大芸術作品が集中する。この4都市、4つの時代、4つの民族(住人?)の生み出した美術は各々その根本を異にしていて(もちろんパリとニューヨークの美術は、時代も担い手も精神も内容も連動しているので一つにまとめて考えて全部で3つとした方が妥当かもしれない)さながら3つの別種の美術があるということも可能だろう。美術はこの4都市を起点に自身の身体を大きく変化させながらその命をなんとか存続させてきているように装っている。この4つの年代を並べてすぐ気付くのはアテナの紀元前5世紀とフィレンツェの15世紀の間に約2000年近いインターバルがあるということである。人はいつでも古代ギリシャ起源で考えるが、フィレンツェまでのこの距離は甚大で、簡単な模倣とか、影響とかというニュアンスはあてはまりようもなく、ほとんど絶滅してしまい、忘れ去られ、本当にあったかどうかさえわからない「何か」の再生というよりも、新しい創造と呼んだ方が妥当だろうと感じる。事実古代ギリシャとルネッサンス芸術は似て非なるものだ。そもそも双反しあっていた古代とキリスト教がどのように和解することができたのか。2000年もの間隔をおいてフィレンツェでなにがおこったのか?またそれがなぜそのフィレンツェでなければならなかったのか?美術史上・文化史上の最大のミステリーと言えるだろう。


最強3人組
 さてはじめてヨーロッパの国・イタリアに行ってとまどうのは食事の習慣である。普通の店でちゃんと席に座って晩ごはんを食べようとすると簡単には済みようがない。定食屋やファミリーレストランの様な感覚しかない自分は当初至極不自由した。膨大な時間と、膨大な金が消費されて行き、この国の人間は凄い金持ちに違いないと感じた。夏等の観光シーズンではたいがいのトラットリアで「ツ−リストメニュー」なるものが用意されており、とりあえずはそれでお茶を濁すしかない(それでも日本の感覚からするとかなりの時間とある程度の金額がかかる)。しかし「同行の妻はそれじゃあ何のために来たか解らない!」と凄い剣幕になるのでてごろなところを探さなければならない。そうこうしながらいろいろな面でおさまりのよい店を見つけ何度も通うことになった。「カルミネ」というその店は有名なマザッチオのブランカッチ礼拝堂があるカルミネ教会の前広場に面したところにある。中心から少し歩くが、何を食べても美味しくて盛りもよい値段も手ごろな庶民的な店だった。そこでウサギの料理や有名な「ビステッカ・フィオレンティーノ」を食べた。レオナルド・ダ・ビンチはミラノでレオナルド・フィオレンティーノと呼ばれていたというから、ここフィレンツェ特産のものはなんでもフィオレンティーノとつくのかもしれない。日本のガイドブックにも載っているためか6年後に来た時は一部屋全て日本人客(それも団体旅行客ではなく各テーブルが各々別々の若い二人組個人客)で驚かされた。それでもやはり美味しく手ごろなのは変わっていなかった。こんなはずれの風さいのあがらない店に集まってくる日本人の若者達はどういう情報をキャッチしてきているのだろうか。なかなか奇妙な人種である(自分もふくめ)。そいうわけで自分にとって「カルミネ」というとマザッチオの作品ではなく、70パーセントくらいの比率で、この店で食べた様々なメニューが浮かんできてしまう。ブランカッチ礼拝堂もリゾットやパンナコッタやティラミスの味と切りはなしえない。
 その有名な壁画を最初に見に行った時、「これかー」と礼拝堂の前の手すりに手を置きながらながらぼんやり見入った。ここでフィッリポ・リッピやミケランジェロやレオナルドが同じようにたたずんだんだなあと感慨に耽る。この場所こそ美術を志すものの源泉であり、かつ共通の学び舎なのだ!と今ここに自分がいることの恍惚にひたる。すると「その手をどけろ!」と女性係員からピシャリと注意される。「ムカッ」して「手すりは手を置くためにあるんだろうが!」と思ったが、すぐに自分が場違いで野蛮な東洋人に思えてきて畏縮してしまう。
 ところでルネッサンスでも決定的に重要なのがこのマザッチオ、そしてブルネレスキ、ドナテロの3人である。この3人の偉業は他のトスカーナの街やフランドルの街の生み出してきた文化と根本的に異質なレベルを開示した。例えばフランドル地方のファンアイク兄弟のとびぬけて精緻な自然主義描写の成熟度は時代を極端に先行するものだったが、このフィレンツェ3人組の無骨とも言える理知的で構築的で強靱な基盤づくりとその革新性にはやはりおよばない。彼らの試行は普遍的なレベルで後世の文化・芸術の方向を決定付けてしまった。僕がはじめて現地に行きもっとも興味を持ったのは、この3人が一体何をしようとしたのかな?という初歩的な疑問だった。いわゆる文芸復興・人文主義ルネッサンスとしてひとくくりにされるこのクワトロチェントの革命は、当初もっと多様で怪し気なものだったに違いない、と彼らの作品に直に接してみて思った。遠近法や黄金比例の正確な運用が実作の芸術的質と無関係な様に、「古典主義」として体系化、歴史化してしまうアルベルティやヴァザーリーの理論や作品、そしてその後続のいわゆる「マニエラ化」、「アカデミー化」していく「古典主義」と、この3人の試行は全く異なっている様に思えた。いままで読んできた本(意外に子供のころから古典教養をたたきこまれる西洋知識人階級の思考パターンは、盲点がいっぱいあり過ぎるように感じる)は、でたらめだと思わないわけにはいかなかった。例えば理屈で言えば(その理屈がすばらしいのだけれども)確かにヴェルフリンが暗示するように古典の頂点はラファエロのいくつかや、あの空虚なアンドレア・サルトあたりになってしまう。下手をすると素晴らしい理論や問題設定が誤った価値体系と歴史をねつ造してしまいかねず、さらにそのようにねつ造された価値体系や歴史がひとつのモデルとなって現実となり、新たにそこで実作がつくられたりすることにより余計に事態を面倒なものにしていってしまう。そのような誤解が歴史をつくったとも言えるが多くが無用の失敗に終始してきたのではないだろうか?特に日本の場合フランス的ルーヴル的歴史観がスタンダード化している様に思える。皮肉なことにはこのブルネレスキ、ドナテロ、マザッチオの作品をルーヴルではほとんど所蔵していないのではないか。フィレンツェの歴史により密着してきたもっともコアな宝を市民達は容易に手放さなかったし、建築や壁画、レリーフ、彫刻等といった輸送できない形態のものが事実多かった。同様な理由でジョットやミケランジェロのまともな作品もルーヴルにはない。アンバランスなことにフィレンツェやイタリアから流浪していったレオナルドの作品のみがまとまってルーヴルに所蔵されている。それはレオナルドがフランスで死んだということだけではなく、作品が手ごろな大きさのタブローだったからでもある。このルーヴルコレクションの甚だしい偏りはその後の「美術史」の歪んだ形成に重大な影響をおよぼしたと推測できる。ここではつねにそれらの作品が生み出され、設置され、享受されたコンテクストが抜け落ちざるをえず、おのずから自立した、あるいは自立するべき「美術史」なる観念が導きだされて行く下地が用意されている。しかしそれは現実に即してはいないということで多くの盲点をのこし多くの可能性の芽を摘み取ってきた。
 一言で言うと前世紀までに都市のおおまかな景観や大建築物の骨格が完成し、15世紀イタリアはその内装、外装という「ディテール」整備の時代だったと言える。この時代にルネッサンスが重なったと言うか、それゆえに生じたというか、興味深い相関関係が見て取れる。特に北ヨーロッパの「鳥かご」の様な柱とステンドグラスのゴシック建築とは異なる、広い壁面と壁画のイタリア的建築的伝統が大きな影響を示している。ブルネレスキがサンタマリア・デェル・フィオーレのドームを手掛けたり、ドナテロが外壁のレリーフや彫刻を次々とこなしたり、マザッチオが教会内部の礼拝堂の壁にフレスコ壁画を描いたりという仕事はそういう特殊な時代ゆえのことでもあった。だからブルネレスキの純然な建築物は意外に少なく、もともとある中世以来の環境に後付けで「ある結論に導く」役割を多くになうことになる。そもそも彼の純然な理念では建築「物」をある意味で超越せざるをえず、静的で高貴な(ゆえに民衆にも王侯貴族にも好かれるわけのない)、今日の西洋諸国にはほとんどみられないレベルの「ハイ・アート」だったと予想される。そもそも彼の発明したあの諸刃の刃の様な「線遠近法」も実際のところどういう意義を持つべきものなのかはっきりしない。いわばその可能性はマザッチオの試行に具現されて行くはずだったのではないだろうか?しかし彼の急逝は全てを不明にしてしまう。事実「マザッチオの死とともに失われたものはあまりに大きい」とブルネレスキは嘆いている。マザッチオのサンタマリア・ノベッラのキリスト磔刑図やカルミネのブランカッチ礼拝堂壁画は、後世確立されてくる「タブロ−絵画」とは似て非なるもので、何をしようとしたのか、あるいはそれが何ものなのかすら未だに解らないと言える。そこに立つことによって始めて作動する一種の体験装置の様なものでもあり、そもそもがキリスト教的神話体系が背景になければ有り得ない(動機や意義もふくめて)。
 帰国後そういう不満と見聞をひとつのエッセイにまとめ友人達に問いかけたりしたのだが、いかんせんほとんど反応は返されなかった。一方で同時期にかの岡崎乾二郎が『現代批評』で「経験の条件」という大変優れた連載をはじめ、我が意を得たりという気持ちになった。ただ今日ブランカッチの構造を取り出してみても、それをはぐくんだキリスト教や知性に対する理念やリアリティーの欠如した極東知識人にはどうすることもできないのではないかという危惧をいだく。


石の大きさ
 フィレンツェほどごつごつとむき出しの巨岩を多用する西洋の街は少ないように見受けられる。ここでは野蛮と洗練が隣り合わせに共存している。僕にとってのこの街のイメージカラーは黄ばんだクリーム色とクールなグレーだ。剛直で無骨な男性的で質素で禁欲的なスタイルが基本であるように思える。だからこそ一部の見せ所での豪華さは爆発的に際立てられている。このめりはりと二重性がこの街の強さであったと感じられる。例えば最強のライバルだった同じトスカ−ナのシエナでは、ひとつひとつの石が小さく滑らかで大変洗練されている。その美感はシエナのほこる世界一美しいと言われる「カンポ広場」に具現され、同時にこの街の画家シモーヌマルティーニやドォッティオの品の良さと相通ずるものがある。洗練と野蛮が争えばかならず後者が勝利するに決まっている。シエナも最終的にはフィレンツェの軍門に下った。政治的にもシエナは貴族階級が牛耳る街だったのに比べ、既にフィレンツェは中世の段階で貴族階級を追い出し民衆階級の支配が確立されていた。有名なメディチ家も元来民衆の中から出てきている。そのためなのかフィレンツェの主な世俗的な大建築(市庁舎やメディチ、、、などの家)の景観は無骨な山城風である。王侯貴族のような際だった差別化は周到に避けられているようだ。財力の点では西洋のどの王族と比較しても引けをとることのなかったこの街の有力者達だが、その邸宅をことさらに誇らし気に見せるのは自身の足場を危うくすることだと感じていた様である。景観は質素であるが、その外観と裏腹に、近寄ってみるとその岩の一ピースの大きさ、威圧感が凄いのが解る(写真参考・ピッティ宮)。スタイルは街に調和し、抜きん出ることなく、その上で実質的な力を保持するという二重構造になっている。そもそもこの街には古代共和制ローマの伝統があり、独裁者を本能的に嫌う(帝政ローマでも本国イタリアでは「皇帝」と呼ばず「第一人者」と呼んでいた)土地柄が反影されている。この誇り高い「市民」の活気と富の極端な集中という相反する性質が矛盾せずに際どいバランスをつくり得ていたことが、クワトロテェント・ルネッサンスの下地となったことは確かだと思える。先述の4都市アテネ、フィレンツェ、パリ、ニューヨークの政治状況には同様の共通項があるように思える。単なる共和制でもだめ、単なる強力な力だけでもだめ。「市民」と「力」が理念で結びついていなければならない、というかそういった幻想がある程度生きていなければ人類における超絶的なクリエイションは生まれない。


 
怪しい土産物屋
 さて、グッチなどのブランドには興味もないのでフィレンツェの街にもほとんど買うものがない。もしもこの時代にルカ・デルラ・ロッピアが生きていたならば喜んで大金を投じ彼のテラコッタを購入しただろう(彼の趣味こそはもっともこの街にうさわしいと自分は思う)。ぐるぐると歩き回っているうちに一件の怪し気な土産物屋を見つけた。ごちゃごちゃといろいろなものがおいてあるのだがイタリアのものはほとんどない。店主は静かな老人で、商品は二昔前の「エスニック」なしろものだ。多くがホコリをかぶっていた。ここでイラストの土偶(おそらくペルーのもの)、インドの木彫りの馬、インドの装飾がついた円形の鏡等を買った。どれも大きなものですこぶる重い。この店に入った瞬間、長い間なれない西洋の街で抑制されてきた本能が放出されてしまったようだ。
 その数年後妻が義弟と一緒に再びフィレンツェに行き、「アグリツーリズモ」という新しい形態の宿に泊まることになった。「お土産は?」と聞かれた自分は、ワインとかチーズよりもあの変な店を思い出した。たしかその時買った土偶のとなりにもうひとつ別な土偶があったと記憶していた。それは色も形も異なり、されどホコリをかぶりよく解らない代物だった。そのことを妻に説明しあの時買いのこした土偶のかたわれを土産に頼むことにする。重くて割れやすくがさばる最低のお願いだ。
 帰国後「買ってきたよ」という思いのほか順当な妻の言葉を耳にした自分は、「おおおー、、やっぱりあれは売れ残ってたんだあ!」と喜び勇んで包みをあけていった。だがすぐに自分の目を疑った。以前買った土偶と寸分違わぬものがそこにあった。「これ、うちにあるのと同じやつだけど!」。「えーウソ−知らないよ−!」。「家にいて気付かないってことはないでしょう!」、、、事実テレビわきの棚にいつもこの大きな土偶は置かれていた。「知らない。そんなの私興味ないから」。
 そういうわけで我が家には同じ巨大土偶が兄弟のように並ぶことになった。二つ並ぶと気持ち悪く、また癪に触るので義弟の店の開店祝いにプレゼントすることにした。現在家にのこっているのが最初に買ったやつなのか後の方なのかはもはや誰にも解らない。