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InterBook紙背人の書斎
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1961年7月(15歳・中3)

 1961. 7.1 土曜日 晴れ
 今日から、中体連大会まで補習は休みになった。で、当番を終えるとすぐバスケットをやりたかったのだが、バレー部が試合をするというので屋体は使えなかった。で、公園の御堂の所に行って遊んだ。注意して見れば、落書きがくまなく書かれてあった。真面目な事も書いてあるし〔、〕変な事も書いてある。
 そこに「36.7.1.澤田諭、相沢力、藤倉靖」とかいてきた。野球部も、吉岡中との試合のため吉岡に行った。8対1で敗れたらしい。
 さて、バレーはあっさり2:0で鶴中が勝った。落合中はサーブが下手である。途中、観戦していると〔、〕兄が来た(修兄)。退くつだから、出て来たとの事だった。魚つりはしたらしいが、7匹しかつらないらしい。さて、バレーの試合が終わってからバスケット。佐藤助夫君が来た。今日も、又早めに帰宅。


 1961. 7.2 日曜日 曇り
 今朝はもちだった。本家の智、豊彦、それに、本家に泊りにきた若子、直子なども来て、にぎやか、大勢、十三人の大家族となって、朝の食事をした。でも、ぼくらが本家に厄介になっていた時には、十六人でこれよりも三人も多かったのだから、本当に大変だった。もちを食い終って、おし葉の手入れをした。
 朝起きるとすぐ、砂金沢のモーターバイクで、砂糖と納豆を買いにいった。やがて、どうにも退屈なので、学校に行ってバスケットボールをした。相沢力君、二年の千坂寛とした。昼食は、斉藤屋でソバを食う所だったが、相にくかけそばがなくて、中華を食う金もないので、冷菓30円で我まんした。
 昼食後すぐ服をとりかえて、野球の試合を見物した。千葉隆君が大活躍した。結果は、5:2で鶴中が勝った。試合が終わってから、屋体に行って何ヵ月ぶりかで柔道をした。まだまだ、腕はにぶっていない。それから、校庭でsoft ball をした。それから〔、〕自転車で帰宅。〔修〕兄は午前中に帰ったそうだ。ぼくは、会わなかった。
 さて、ぼくは今まじめに成ろうとして努力している。たしかに一年前、二年前のぼくに比べると〔、〕「ぼく」は変わって来ている。これは、年れいの上からいって仕方の無い事かもしれないが、一がいにそうともいゝきれない。ぼくの気持ちがゆるんでいるからだ〔、〕とも考えられる。
 青春を大いに楽しんだ方が得だというが、20歳の青春まで、あと五年もある。もう少しつつしんでもいゝはずだ。そんな考えで、ぼくは土曜日、先生にお願いして、あの席を取りかえてもらった。それは川島節子から離れるためである。でも、一つ前の席に来ただけであるが、これでぼくの心持が落ちつけばしめたものである。
 席を変えた後の気持ちとして、後悔の念と、よくやったという、自分をはげます念とがあった。例え少しでも後悔の色があったのは〔、〕考えなければならない事である。あそこの席に居ては直せなかったのか。何も彼女をそんなに軽べつすることはないじゃないか。
 いやだめだ、そんな事をいっては。あそこの席に居ては、彼女とどうしても話さねばならないし、かえって状態は悪化するばかりである。
 おれは、もう少し真面目になると共に、もう少しバンカラにならねばならない。今までのおれは余りにも低姿勢だった。でも、高姿勢も限度を越しては〔、〕返〔却〕って級友の信頼をうすくするばかりである。
 川島節子は千坂公夫君ににやろう。どうせおれには、及ばない女なのだ。明日から、今から、女等ということはきっぱり忘れよう。そして、明るく、健康に生きるんだ。仕事もしよう、勉強もしよう。そして必ず仙一に入学するのだ。何よりも、何よりも、女を愛する変〔代〕わりに兄弟を愛し、親を、級友を、部落の人々を愛し、女を生きがいとするかわりに勉強を生きがいとしよう。胸のポケットにしまった、10箇条の規律をしっかり守っていこう。これを守っていくには、いかなる苦しい事に出会うかもしれない。
 明日からの具体的な態度は、まず川島を気にしない事。川島と話さない事。川島を見ない事。その変〔代〕わり授業は、どの先生でも真剣にやる事。少し位、川島につらく当っても仕方がないだろう。でも、川島や千坂公夫をにくんではいけない。普通の人と同じに取り扱え。女を、川島節子を忘れるんだ。もし〔、〕くずれそうになったら、胸のポケットに手を当ててみろ。かんづめかんは、きっとおまえに勇気を与えるであろう。


 1961. 7.3 月曜日 曇り
 朝〔、〕遅刻した。このところ、この点は黒星続きである。今週は週番の努力目標になったから、これから、絶対遅刻をしない様にせねばならない。
 今日は朝礼があった。
 一時間目の授業は、門間見習教師の授業だった。
 四時間目・昼食終了後〔、〕屋体で篭球。今日〔、〕中体連大会の試合の組合せが発表になった。第一試合に岡中と対戦する事になった。岡中は最強敵である。これに勝てば、優勝の望みは充分にある。あとは衡中である。
 クラブ終了後帰宅途中、千坂商店で40円(アイスクリーム20円、パン20円)買った。家では風呂たき、庭はき。夜は、眠くて寝てしまった。
 今日は、昨日の決心を守り通す事ができた。これで、だんだんあいつが、ぼくから離れていけばしめたものである。明日は遅刻しない様に。又この事も必ず守る様に。何事も実行が一番大切である。


 1961. 7.4 火曜日 雨のち曇り
 今日は遅刻をしなかった。学校について数十分の後、朝掃除、体操。やがて一時間目、りん時時間割で国語。四時間目・音楽が終ったとき、ぼくはやり切れなくなって、外に出た。そして、バレーコートの小石をいじりながら、何かを考えた。いろんな事を。
 一番最後に教室に入って昼食。昼食後〔、〕職員室の掃除。それからクラブ活動。
 定夫君が足を手術したので、中体連大会には出られないかもしれない。定夫君の分までがん張らなくちゃあ。何としても、岡中に勝たねば。クラブを終わって、服を来下校。帰宅後、故金太郎伯父の初七日でおよばれして、夕食を取ってきた。
 風呂は誰もたててくれなかった。どうもこのごろ、義姉は面白くない。なんだあんな奴。ぼくが元兄だったら〔、〕あんな嫁は決してもらわなかった。
 クラブ活動の時、試合の時は絶対ふざけない様にしよう。


 1961. 7.5 水曜日 晴れ
 六時間目終了後、模擬試験の答案ならびに、成績表を配布された。 650点満点の 407点、平均62.6という〔、〕誠にお粗末な点数です。成績優良科目順に点数を書くと、英語41点、保健体育40点、社会77、国語74、数学53、音楽26、理科48、職業23、図画工作20。
  407点というのは、鶴中では最高だが………
 二番は薛で 35X点である。受験者4430名のうちで、ぼくは 310位。男子だけでは 204位。案外、上位だった。あの時は調子が悪かったので、1000番以下だと思っていた。それにしても〔、〕初めての模擬試験で、ぼくは、自分の頭に自信を持つ事ができた。
 この試験には、仙台の中学校が8、塩釜4、石巻、白石等の秀才が参加している。その中に交じって 310番であるから、まずまずだと思う。
 仙台の奴らだって大した事はない。最高の 575点からは 168点はなされはしたけれども、決して 575点必ずしも優秀だとはいえない。
 今度の模擬試験には、 100点増加して 507点は取りたい。そうすれば41番に、男子だけでは30番に入れるんだ。
 仙北地方では、六校参加してぼくはその第二番目である。10点内で負けたらしい。鹿島台中学校の人らしい。女子もまぜれば3番に落ちるらしい。 43X点の人がいる。
 おれが努力する時に〔、〕は外のものも、皆努力しているのだ。ぼくがそれ以上に勉強しようとしている時は、誰かもそう思っているのだ。だから、がん張らなくては。
 本当に〔、〕こんな事では黒川高校しか入る所がなくなってしまう。自分のために、自分の、私の〔、〕鶴中の名誉のためにも〔、〕私はがんばらねばならない。鶴中の名誉をかけて。こんな事を考えると、小さい事は考えていられなくなる。それでいゝのだ。
 いつかの夜教頭先生がいった様に、ぼくは郡内の注目人物なのだ。
 三年生というのは、なんて忙しいんだろう。もう少しで中体連大会もあるし、学期末考査も、2回目の模擬試験もある。
 勉強しなければ。そのために〔、〕今日はクラブを短時間で能率的に決めてきた。


 1961. 7.6 木曜日 晴れ
 六校時目の保健の時間から、七校時の学級活動、掃除の時間まで、屋体にて親と子の話し合いの会に出席した。親側から、各部落、本部の各役員、子側は、各HRの正副委員長。最初に話題になったのは、校外や、登・下校途中の礼儀についてである。結局、親達は知人でも未知人でも、あいさつをつくす事。そうする事によって、我〔が〕郷土の気風が、他から見た場合、非常に快く思われるからであるという。誠に最もだと思う。
 その次の話題は〔、〕起床と就寝の時間の問題である。これは結局、三年生ともなれば、将来への希望を達するために、一生懸命勉強しなくてはならないだろうが、中学時代は健康を第一として、その次に勉強を考えてもらいたいという事だった。でもぼくなどは、健康で困っている位であるからあまり、身近に感じなかった。
 三番目に、家庭内で、混乱が、けんかが発生した時の事について話し合った。親も子も、すぐけんか腰にならず、高声にならず、理性的になれば、未発生に終わるのではないだろうかと、いう事になった。これは、ぼくも大いに考えなければならない。実際もう少し、理性的にならねばならない。
 最後は、小遣いについて、話題になった。月給制にしてもらって、現金出納帳につければ〔、〕無だ使〔遣〕いも少なくなるのだと思う、という結論になった。私も〔、〕これを請求しようと思う。その他、進学、交通、大人か子供かという事は、次回への課題となった。
 親と子の話し合いの会が終ってから、クラブ活動。今日は、試験も、中体連も忘れて、ぐっすり休んで疲れを取ろう。


 1961. 7.7 金曜日 晴れ
 三時間目、日野見習教師の研究授業があった。ぼくは余り手を挙げず、活やくしなかった。どうも〔、〕挙手して答えるのは苦手である。
 放課後〔、〕先生方に試合を申し込んだ。それから、屋体でバスケットボール。最初から、調子よく、シュートは確実になって来た。


 1961. 7.8 土曜日 晴れ
 朝遅刻もせず登校。二時間目・三時間目の休み時間、熊谷みや子等に手伝ってもらって、ユニフォームとパンツを洗濯した。昼休み、昼食前に、門間・日野両実習教諭の離任式があった。
 放課後、野球部と排球部は〔、〕共に落合中に練習親善試合に行った。そして、どちらも2:0で勝ったそうだ。校内では、卓球部と軟球(ソフトボール)部が富谷中と対戦し、ソフトボールは大勝し、卓球も勝った。今日は全勝である。ソフトボールの試合を観戦してから、屋体に行きユニフォームを取りかえようとしたら、青年団の人達が屋体でダンスを始めたので、自然ぼくたちは、外におっぽり出された形となった。それで外でパス等をした。

 青年団とは、黒川郡連合青年団の幹部で、学校で今日と明日合宿するらしい。
 ダンスも終わり、屋体はぼく達に解放された。
 そこで、青年団の人達と試合をする事になった。あっさり勝った様である。
 クラブ終了後、斉藤屋で食事。


 1961. 7.9 日曜日 にわか雨
 昨日、学校に来ると約束したので、ぼくは約束を守って、登校した。途中、高橋東氏の家により〔、〕家の光の金をおいていった。それから、犬飼氏の家に婦人会の書きものを屈〔届〕けた。いずれも母に頼まれたもの。実際登校してみると、約束を守ったのは、相沢力君だけだった。二人だけでは青年団の人達がいて気兼ねするので練習はしない事にして、テレビ等みていたら、平先生にテレビを消されたので、教室で千葉哲司、佐藤龍美らと、話した。昼、家に帰って、昼飯。午後、風呂の水を取り変〔替〕えていると〔、〕遠藤信喜君が来た。学校に行って誰もいなかったので〔、〕家に来たのだそうだ。調〔丁〕度冷たい水があったので、砂糖水など出してもてなし、けんび鏡などで楽しんでもらった後、ぼくの日記をみせてしまった。ぼくは、生れて初めて、この日記を他人に見せた。それも余り仲がよいともいえない遠藤信喜に、どうして見せたのだろう。日記などというものは〔、〕他人に見せるものではないはずだ。おれは、すぐ軽はずみな事をやってしまう悪いくせがある。
 おれの秘密を知っているのは彼だけだ。これが明日からの生活にどんな風に影響するだろうか。
 やがて彼も帰り、ぼくも一緒に学校に行った。その時彼に、記念の古い絵はがきをやった。学校に着いてみると、案に反して誰もみ当たらない。居るのは青年団の人達である。家を出たのが4時過ぎであるので、調〔丁〕度時間ごろと思いテレビで、名古屋場所千秋楽の実況放送をみた。優勝はぼくの机の前に写真のはってある、北海道出身の大関大鵬。きっと、彼は柏戸を押〔抑〕えて、一歩先に横綱をはる事だろう。テレビですもう観戦後、斉藤屋でそば等食べた。
 雨の晴れるのを待って帰宅、風呂たき、夕食。食後、音羽美恵〔枝〕子に理科の問題を見せられに行ったら無くて、中米徳治君の所にも行ったがなかった。それで仕方なく家にもどって試験勉強をしようと思って〔、〕家に帰って席についたら、蚊がうるさくて勉強なんかできたものではなかった。それで、早速、斉藤屋に蚊取線香一個 120円也を買いに出かけた。今晩は映画があって、父、母、小秋、小春が見物しに〔、〕作業場に行っている。まだ帰ってこない。ぼくも一寸見たら、女の人の胸の乳房が大きく写っていた。ぼくらには余り関係の無い映画らしいので、すぐ家に帰った。そして、買って来たアイスクリームを食った。
 さっそく蚊取線香をつけて、今まで、3日分の日記をつけた。これから、試験勉強だ。が、もう眠い。風呂に入って目をさましてこよう。
 理科の宿題は、明朝早く靖君の家へよって書こう。


 1961. 7.10 月曜日 曇り
 朝、珍しく、自転車で登校する気になり、自転車に乗って登校。今週は当番は休みなので、自習した。六時間授業を終えて、屋体に行って、あっさりバスケットボールを肩習〔慣ら〕しした。
 帰宅途中〔、〕靖君の家によった。生れて初めて、靖君の家の中に入った。彼は勉強していたので、弟の哲と遊んだ。しばらくして、小学校の奉仕作業をして来た父達と一緒に帰った
 風呂をたき、馬屋をそうじして、夕食。父、母、兄、義姉共本家の手伝いをしているので〔、〕本家で飯を食った。夕飯後〔、〕明日の試験に備えて勉強。一寸して入浴して〔、〕又勉強した。風呂に蚊が多かったので、蚊彩〔取〕り線香をつけて入った。2〜3時間後、廊下にしいた床に寝た。


 1961. 7.11 火曜日 曇り
 今から調〔丁〕度15年前の今日〔、〕7月11日、私は、この世に産み落された。その時の事は〔、〕勿論何も覚えていない。そのころは、終戦直後で、母や父は、どんなに苦労して私を育ててくれたろうか。今さら両親に感謝する。
 さて、記念すべきこの15歳の誕生日の日にちなんで、今の自分の心境とこれからの心構えを書いておこう。
 裸一貫で産み落され、今日まで知らず知らずの内に15年もたってしまった。その間、父や母、兄妹達は優しくぼくを見守ってくれ、おかげでぼくは、中学の三年生にまでなる事ができた。今までの15年間は、幼稚な時代であった。これからはもう大人である。実際大人になったのである。保健の時間にならった青年期が、思春期が、そろそろぼくにも始まり出した様である。この一生の内で最も華やかな、又最も楽しい時期を、より有意義にすごすには、どの様にしたらよいだろうか。
 いつか、ぼくはこう書いた事があった。真面目な中学生になろう、日本一の中学生になろうと。それをこの日を機会として、実現しようではないか?この意味ある澤田諭生誕の日をきっかけとして、もっとも自然な中学生となる様努力しよう。
 まず、最々勉強しよう。どうもぼくは、手が口に負けている様だ。これではいけない。口ではいくらでも偉いことを言う事ができる。こんな事では〔、〕一高はだめだぞ。今日から、計画を立てて勉強しよう。
 又、友達関係について、清純な友達関係になろう。女は忘れろ。そんな事を考えていたら、それこそきまってしまう。男とも女とも、明るい関係になろう。自分はもう少し、真面目になるとはいうが、馬鹿真面目になるのではない。明るさを、朗らかさを失ってはいけない。
 そして、何事にも積極的に、正義を愛する熱血児になろう。もう少し、勇気を振い起こしてもかまわないだろう。そして、常にクラスの委員長である事を思い、又、自分の名誉をけがさぬ様に、又、鶴中の名誉をけがさぬ様に、鶴中の名誉のために、勉強に、運動に励もう。
 又家庭内での行動も極めて明るく、いつも、笑っている〔、〕なごやかな家庭にせねばならぬ。しかし、言いたい事はどんどん言おう。何もかも、話し合って解決する事が大切である。

 どうせ生活するのなら、最高に楽しく生活した方がいゝ。
 それから、校内においても家庭においても、規則正しい生活というのが大切である。明日から、起床は五時。就寝は、原則として十一時。明日は試験だからそれ以上である。眠くなった時は〔、〕裸になって外に出ろ。昔の人は〔、〕井戸に行って水をかぶったじゃあないか。
 来年の三月に備えて、補習用の教科書を計画的に学ぼう。
 本当に、真面目にならねば。今度こそは、必ず命にかけても実行するぞ!

    明かるく、 朗らかに、 正しく、強く、優しく、 真面目に、 黙々と
 今日の試験は、理科、保健体育、国語の3科目。理科は案外簡単で90点はとれたと思う。保健は、全然解らなかった、30点がせきの山。体育は40点位で、保健体育合せて70点位。国語は、85点はとれたと思う。合計してみると〔、〕245点という点数、まず250点といゝたい所だ。こんな成績では〔、〕とても 850点なんて望めそうにない。保健なんか〔、〕本を見れば簡単に50点とれる問題なのに。明日からの試験は〔、〕もう死にものぐるいでやろう。門間惣一が勝つかおれが勝つかだ。


 1961. 7.12 水曜日 晴れ
 今日は数学は大体できたようだがどうも数学だけは、落ちる事あるので、80点と予想しておく。職業はむずかしかった、70点が関の山。音楽もまず80点ぐらいだろう。で合計約230点。昨日と合わせてみると、 470点。
 放課後一人で勉強していたら、信喜君と重信君が来て一緒に勉強を始めた。そして、今夜、学校に泊って一緒に勉強する事になり、先生にいおうとしていたら、今日宿直の小林先生が入ってきた。結局その場では何も言えず、却ってて乾電池を買って来てくれる様に頼まれた。一旦斉藤屋に走って、又職員室に舞いもどり、又こんどは豆電球を買ってくれる様に頼まれた。それも職員室まで屈〔届〕け、帰りにはカブ号を上げにいく小林先生と一緒に帰ったのだが、とうとう最後まで先生に言わなかった。で、先生が職員室に入ったころを見計らって電話をかけたら、しばらくしてから出て来た。そこで無理にお願いして、とうとう先生のOKを得た。夕食を食べてから、斉藤屋に集まる事にした。
 急いで家に帰ってみると〔、〕誰も居ない。戸だなの前に飯台だけが出してあり、ラジオがかけられてあった。急いで冷飯を食って、斉藤屋に集まった。父母、兄、義姉、妹達は〔、〕きっと本家の家で御飯を御ちそうになっていたのであろう。ところが、ここで、斉藤屋で、思いもかけぬ事が起った。暑いのでアイスクリームを一つづ〔ず〕つ食べていたら、校長先生が通りがかりに入ってきた。その時は自転車に道具をゆわえていたし、まだ家にも帰らず、買い食いをしながら、よからぬ相談をしていると思ったのだろう。そんな訳で時間が手間取り、8時30分から図書室で、勉強を始めた。それから12時まで熱心に勉強し、12時30分、先生も寝てしいんとしている校舎を、約束どおりぼくらは家に帰った。津田君は、そのまま家に帰った。がぼくらは、遠藤信喜君の部屋に集まって〔、〕又勉強を始めた。それで、2時ごろ眠って、すぐ2時半ころ、一旦目がさめたが又眠った。そして、その次に眼をさましたのは、5時30分であった。それから眠い目をこすって勉強。


 1961. 7.13 木曜日 晴れ
 朝、勉強が〔を〕終えてから、重信君の家で朝食。もちをちそうになった。弁当をつめてもらって、彼と信喜君と登校。試験の始まる前に〔、〕理科の試験を返された。97点で予想より7点の+である。さて、一時間目の社会は85点、美術は80点、選択も80点で、今日の合計は 245点。3日間の予想の合計は、 715点という点数。これをどうoverするかだ。でも予想点からみると 800点は、一寸無理な様な気がする。
 三校時目の選択の時間、ぼくはカンニングをさせたようなものだ。それは津田君だ。おれは馬鹿だった。これからは絶対にそんな事はやめよう。
 この前の日曜日当〔辺〕りからなくなったバスケットシューズ、まだ出て来ない。今日先生に相談してみた。


 1961. 7.14 金曜日 晴れ
 三時間目、音楽の試験を返された。83点、予想より3点の+。国語96点で、11点のプラス。英語は88点、8点のプラスで、理科を交えて4科目の合計は 364点、平均91点。
 放課後、明星中と練習試合をした。最初は、17対6で勝ち、二回戦は20対8で勝った。二回目の試合は、二年生や補欠で3クォーターまでして、最後のクォーターだけ選手がやったためである。女子も大差で勝った。ぼくは〔、〕今日の試合はシュートがよく入った。自信をつける事ができた。


 1961. 7.15 土曜日 晴れ
 何校時目かの休み時間に〔、〕保健の答案を返された。割に予想していたよりも良い点で、42点であった。12点のプラスである。放課後、理科の宿題を書いて来なかったので〔、〕職員室前に20分かん立っていた。それから数学の答案を先生にもらいにいった。75点だった。やっぱり悪かった。極簡単なところで〔、〕まちがっている。初めて5点の減点だ。数学は〔、〕どうもぼく(に)は不得手らしい。
 放課後、バスケットボール。先パイの千葉和弘君、佐藤助雄君が来てくれた。
 明日は7月の模擬試験だ。 500点目指してがんばらなくては、本当にどうにもしようがないが、とにかくがんばらなくちゃあ。
 今度 500点を越せなかったら〔、〕もう絶望だぞ。
 今日社会も返された。92点、7点のプラス。これで、 6.5科目の合計は 573点、平均は約 88.15。この分でいくと〔、〕793.35位になるかもしれない。しかしその分は、美術で万〔挽〕回してくれるだろう。体育もよいかもしれない。問題は職業である。800点になるにはあと 227点、平均90.4取らねばならない。とれるかどうか。聞く所によると美術は95点なそうだが、もしそうだとすると 132点とればいゝわけ( 1.5科目)。平均88点、職業88・体育44とれば大丈夫なことになるのだが。


 1961. 7.16 日曜日 快晴
 今日は九時から、みちのく学習会の第二回模擬試験受験のため、日曜日ながら登校した。今度の試験は第一回目の試験と平均すれば同じ位のむずかしさであるし、自分の実力も変わらないので、おそらく点数も同じ位であろう。
 試験終了後、先ぱいの千葉和弘君、佐藤助夫君達に指導されて、バスケットボールの練習をした。


 1961. 7.17 月曜日 曇りのち小雨
 今日残りの 2.5科目の答案を返された。体育50点、10点の+。美術95の15点のプラス、職業92点で22点のプラスで、九科目合計 810点ジャスト、平均90点調〔丁〕度。でもこれに数学で3点、英語で3点の計6点の+になるらしいので、 816点になるかもしれない。保健体育は合わせて92点である。
 七校時目、中体連大会参加選手のソウコウ会が屋体であった。私は、篭球部代表としてあいさつを述べた。今日から教室の当番である。
 放課後バスケットボール。今日は試合用のボールを二つ、新しい奴を下した。佐藤助夫君が来てくれた。ぼくのバスケットシューズ、とうとうみつからなかった。それで山田屋で新しい奴を 650円で買った。先の奴は先生が、青年団や高山に交渉して〔、〕何とかしてくれるそうだ。丹治ゆみ先生に感謝せねばならない。
 自分はキャプテンである。しっかりしなくては。


 1961. 7.18 火曜日 曇り
 放課後、バスケットボール。明日の試合に備えて〔、〕無理を仕過ぎたかもしれない。
 今日開催されるはずの中学校体育連盟体育大会は、一日延期された。明日は強ごう吉岡中との対戦だ。がんばらなくては。
 今夜は勉強を休んでゆっくり寝よう。


 1961. 7.19 水曜日 曇り
 朝、我々篭球部は、全軍一団となって、吉岡に向った。途中、黒川高のところで、こゝで止まったものかそれとも岡中にいったものかと迷った。間もなく瀬戸先生が来て、一緒に岡中に行く事になった。途中、三浦商店で、サポーターパンツ 250円也を買った。やがて、岡中の控室に入ってしばらくすごした後、どうにも心細くなって、みんなで黒川高の体育館にもどって練習をした。やがて〔、〕入場式を終わって女子も帰ってきた。優勝杯の返かんは〔、〕女子がやってくれたそうだ。
 やがて、女子の第一試合が始まった。その試合は明星中が勝ち、続いて鶴中対岡中の試合になった。みんなこの前の練習試合の面目をはらそうと、一生懸命だ。試合は前半、接戦しながらも岡中の優勢で進められていった。ハーフタイムの時は、ぼくもみんなも、点数は負けていたが、この試合は必ず勝てると思った。そして、24対19、ついに我チームは岡中をくだしたのでした。その時の気持といったら、なんとも言えないものでした。天にも登ったような気持でした。みんな喜びに満ちた顔を汗と涙でクシャクシャにしながら、勝利の喜びに打ちひたっていました。そして、早川亀一君のお母さんに黒高の購買部に連れていかれて、色々ごちそうになりました。それから女子の対岡中戦が始まった。それもなんと23対xで鶴中の勝ちとなった。女子は最後には、三年生一人に一年生が4人になってしまった。よくやったと思う。これで我チームはどちらも優勝候補No.1といわれた、吉岡中を敗〔破〕ったわけだ。
 しかし、ぼくらはそこで安心しすぎてしまった。次の準決勝は明星中学校との対戦だった。明星中は、練習試合でも勝ったし実力も岡中とは比較にならない程無いので、ぼくらは安心して、真剣を失ってかかってしまった。ハーフタイムになったころ、初めて、これではだめだと思ったが、その時は、前試合の疲れと、その試合の疲れで身体は言う事をきかなくなっていた。みんな疲れて真青な顔をしている。
 そこで2クォーター休ませてもらって、第4クォーターに出た。しかしとうとう20対12で敗れてしまった。審判が無理だったのである。40分おいて2試合するという事は〔、〕中学生には無理な事だし、規則にも反しているはずだ。明星は不戦勝だから、全然つかれなかったのだ。でも敗れた事は事実である。毎日汗水流して練習した結果、吉岡中に勝つ事が出来たのだ。せめて、それを喜ばなくては。
 とうとう〔、〕ぼくらは優勝できなかった。無念だ。この上は〔、〕来年にそなえて後はいの育成につとめよう。
 試合終了後、すぐ帰途についた。途中、巌叔父さんの家で〔、〕みんなで休んだ。それから学校に行って、家に帰った。


 1961. 7.20 木曜日 晴れ
 朝八時過ぎ、黒高に女子の決勝の様子をみにいった。ぼくが行った時は〔、〕調〔丁〕度試合が開始されんとしているところだった。接戦の末〔、〕我がチームは、ついに優勝した。それから、岡中に行って野球を観戦。しかし延長11回の末、4:3で鶴中は準決勝で敗れてしまった。全ては終わった。優勝したのは〔、〕篭球の女子だけである。それで、三浦でソフトクリームを3つ(60円) 、スイカ、ジュース等を飲食して、帰校。それから教室で、相沢力、遠藤信喜、郷右近初雄と、歌って楽しくすごした。
 とうとう屋体に行って、千坂公夫、門間正治、文屋政次、佐藤重信達もまじえて、熱狂的な歌の会が始まった。歌っているとテープはとぶし、新聞紙で作った小さな紙きれが雪の様にとぶ。新聞紙の花束が贈られる。みんな、わざと黄色い声を出す。いや、大変なさわぎでした。これで、口惜しさも忘れてしまった。
 それから下におりて、小嶋君達と氷水を食べた。後みんなで、小学校のプールをみにいった。九割程度工事は進んでおり、もう貯水していた。
 たまりかねて、とうとう千葉哲司君が泳ぎ出した。彼がこのプールで一番最初に泳いだ人である。
 帰宅後、風呂たき、馬屋そうじ。今日は中体連の疲れを今晩の内にとる様に、休んで明日からの勉強にそなえよう。


 1961. 7.21 金曜日 晴れ
 朝、二日間の疲れのためか〔、〕遅刻。それでも〔、〕当番はした。一時間目は自習授業。40分短縮授業の4時間。放課後、二年生を集めてクラブ活動。
 朝礼の際、中体連の賞状の授与式があった。
 佐藤助夫君が来て、女子に練習をさせていったので、ぼくらは八幡神社の所で遊んだ。
 その時、相沢力・遠藤章・高橋重幸君と、八幡堂の下に〔、〕自分のそれぞれの悩み等を書いて埋めた。卒業後何年かして〔、〕これを開くことになる。
 又、遠藤章君に、ぼくは男同士の約束をして、彼にとっては重大なことを聞いた。彼の好きなのは、一年生の小松千代実という女性なそうだ。この事は決して、誰にもいうまい。それから、ぼくの人は誰だと聞いたら、誰も解からんといった。解らんはずだ、ぼくにはそんなものはいないんだから。(つぼは〔、〕忘れずにほろう)


 1961. 7.22 土曜日 快晴
 朝、又々遅刻。どうも、朝眠くて仕方がない。中体連で優勝できなかったら、何だか、大きな顔をして、バスケットコートで、とび回ることができなくなった。なんとなく、他人のクラブの様な気がする。あるいは、クラブにとっては〔、〕自分達は他人になったのかもしれない。そんな寂しさをまぎらわすために、ぼく達は、先ぱいの助夫君、丹治先生、それに優勝した女子の選手に八つ当たりをした。そして、先ぱいを〔、〕「助ダンポ」という嫌なあだ名で呼んだりした。先生にもまるで冷たくした。
 これでいゝのだろうか。試合に負けたからといって、いつまでも、そんな事をしていて、はたしていゝのだろうか〔、〕考え直さねばならん。
 明日は女子が、地区大会に出場するために、塩釜に行くというのに、誰も応援にいってはくれない。先生があれ程頼んでも、ぼくはうんといわなかった。
 ぼくは大いに反省する。


 1961. 7.23 日曜日 晴れ
 久し振りの休日なので、朝はゆっくり、ねんごろに寝ていた。十時近く起き出して、まず朝食をつっこみ、又、床に入った。やがて寝巻きのままで起き出して〔、〕黒川神社まで、ハーモニカを腰に散歩にいった。せみの鳴く声がとてもきれいだった。
 しばらくして家に帰って、大便の用をたして、作業場で母が、わら打ち器械が故障して困っていたので、その修理が始まった。やっとなおったと思って、モーターのスイッチを入れたら、最初〔の〕内は快調で直ったと思ったが、しばらくすると又、車輪が時々空回りし始めた。とうとう直らなかった。
 今朝の三時十五分、天皇の第一皇女・輝の宮がなくなったそうだ。
 午後、家の中でゴロゴロ。妹達が千羽鶴を折っている。 150〜 160位できたらしい。


 1961. 7.24 月曜日 快晴
 昨日の試合は、女子は塩釜三中と対戦したそうだ。とうてい彼達の及ぶ所では無い。三・四時間目職業は、学校農園の草取り。その時、千葉隆と津田晃哉が、けんかを始めた。なぐり合いまでにはならなかったが、そうとう激しかった。
 どうも〔、〕彼らは腹が合わないらしい。どちらかというと、ぼくは、千葉隆の方を支持する。


 1961. 7.25 火曜日 快晴
 今日〔、〕鶴中新聞第一号が完成したそうだ。この新聞に関して、ぼくは、全然何一つ協力しなかった。この前新聞委員になってやるといったのに、全く責任を感じる。
 今後〔、〕新聞作成のために全力をつくそう。
 通信表を渡された(母を通じて)。全5だった。二学期も続けよう。


 1961. 7.26 水曜日 快晴
 今日は、朝から全く雲一つない日本晴にめぐまれ、絶好の陸上競技大会日よりであった。朝遅く、バスで行くつもりで、大崎まで徒歩で出たら、千葉和夫君と出会い、自転車にのっけてもらっていった。八巻自転車店で、彼が空気を入れる内にぼくは、自分の自転車、修理に出してあった自転車をみた。もう一日待ってくれという事だった。
 気の毒に思った自転車店主が、通りがかった泉田材木店の車に、乗せてくれた。和夫君も乗った。三浦商店のところで下車、吉岡中学校に急いだ。まだ競技は始まらず、人も八分位だった。やがて鶴中のテントが山田屋の車で積まれて来て、テント張りとなった。テントを張り終って、高橋重幸、郷右近初雄とテントを離れて西側の桜の木の下で、観戦する事になった。昼食を忘れていったので、昼どきになると重チャンと町を一周して〔、〕腹ごしらえをした。それから又吉岡中に行った。その内に、重とも郷右近とも別れてしまった。

 三種競技で〔、〕高橋定夫君が千数十点で優勝した。外、2000m・中居善弘第二位、中米徳治第五位、走り巾跳・千葉哲司二位、高跳・千坂公夫三位などの成績で、男子は総合で第三位、女子は五位になった。男子の優勝は明星中、二位は落合中。
 今年大会十周年を記念して一年生だけの競技が数種目行われたが、それがなかったならば、鶴中は落合中を 0.5の差で破って準優勝していたそうだ。
 帰りは三浦のところから、テントをつんだ山田屋の車にのって帰校。自転車屋に行ってみたら、自転車は完成していた。それにのって、斉藤屋で氷水一杯。水谷でも一ぱい〔、〕重信君におも〔ご〕られた。それにしても鶴巣は、こんな小さな学校でよくやったと思う。


 1961. 7.27 木曜日 快晴
 今日で第一学期は終りである。一学期、健闘の末〔、〕ついに一年ぶりに全5をとることが出来た。それも 797、 813という点数のおかげであろう。
 思えば、この一学期中にあった主な出来事は、先ず入学式から始まり、農繁休業、連日の試験と注射、そして金太郎伯父の悲しい最後〔期〕、中体連大会、そして明日からの夏季休業につきる。
 朝、自転車で登校。体そう、屋体で終業式、並〔びに〕昨日の大会の伝達式。その後部落生徒会、HR、そうじ。そして屋体で夏季休業中のクラブについて打合せ、次に船形登山についての打合せ会が三年一組の教室で。後〔、〕下校。下校後〔、〕机のそうじ。夏季休業に当って先ず第一に要求されるのは、入試勉強である。この夏休みのすごし方に、非常に大切な意義がある。
 夕飯は御ちそうだった。大変うまく、大皿で三3ばい食べた。
 明日から夏季休業である。明日からの生活は、中学生活最後の夏休みである。最も有意義にすごそう。船形登山もあるし、その他の楽しいプランもある。


 1961. 7.28 金曜日 快晴
 今日から夏休みという訳で朝は、ゆっくり。ところが補習のある事に気付き、急いで起き出し朝食。補習は8時20分からである。本家の智が〔、〕二・三日前覚え立ての子供自転車に乗ってさっそうとやってきたのはよかったが、家の前でスッテンコロリン。智は今小学二年である。
 学校に着いてから、10分位してすぐ補講が始まった。一校時と二校時目は職業である。40分授業の二時間ぶっ通しであるから、結局1時間20分授業になる。
 二校時目の数学は、合同で元音楽室の一年三組の広い教室でやった。補習が終ったら、親友の相沢力君と八幡神社の所で昼食の弁当を食った。おかずは、なすづけと梅干しである。それでも〔、〕山で食うのは結こううまかった。食後高橋重幸、遠藤章・信喜、郷右近初雄達と、二年生、一年にバスケットボールを指導した。バスケット部員は毎日学校に来る様に、言っておいたのである。バスケットボールを終わって帰宅途中、千坂商店でキャンデーを一本買っていると、本家のきぬゑ〔ゐ義〕伯母と出合〔会〕った。そして、水谷魚店で氷を二杯御ちそうになった。
 家に帰ってから、机を整理した。整理というよりも大掃除だ。机は全部運び、ていねいに全面をふき、裏までふいた。本は全部出して、はたきをかけ、あたりはきれいにふいた。机をちゃんとしたら、なんだか気持がよくなって勉強を始めた。数学だった。夕方、母が風呂水を取りかえてくれ、妹達がくんでくれたので、ぼくは風呂たきをした。馬屋の掃除、馬にえさをやったりして、夕食になった。夕食後、すぐ寝た。


 1961. 7.29 土曜日 快晴
 今朝は寝過ぎてしまった。大体起きたのが7時30分近くだったのである。それで、妹達はまだ起きず、父も母も朝草刈りからもどらず、〔元〕兄はもうとっくに働きに出ていた。家で起きていたのは〔、〕義姉だけである。兄は、25〜26日前から〔、〕大衡の国道のホソウ工事に出ている。朝は、滅法早いのである。しばらく、父母の帰りを待ったが、来そうにもないので、一人で朝食をとり始めた。食い終わるころ、父母は上がってきた。弁当をつめてもらって、あわてて自転車に乗って、登校したのは、8時を回っていた。あわてて学校についた時には、もうとおに授業は始まっていた。しばらく、ためらったが、やがて、静かに入っていった。小林先生の理科だった。一・二時間目の授業はすぐ終り、三・四校時目はまた数学(三田村)である。今度はB組の教室で、普通どおりした。
 補習終了後屋体で、二年生の練習に来るのを待っていた。と、千坂志津子と一年の小嶋律子、馬場隋〔郁〕子が来た。その中の馬場隋〔郁〕子、相沢力と遠藤信喜との間の三角関係にある。そこで、かの二人は勢い付き、とうとう、バスケット部の連中で水かけが始まった。その二人の外に遠藤章、佐藤重信もいた。やがて、それで足りなくなって、又この前の様に、ステージで歌を歌い始めた。紙くずがとび始めた。ぼくも一曲「さすらい」を歌った。その間中、彼女達は笑ってばかりいた。やがて、二年の千葉政弘と千坂寛が来たので、ぼくと相沢力だけ、4人で練習した。後の連中はみな帰った。女生徒も帰った。力君は少し寂しそうだっだ。それで〔、〕彼はバスケットにすっかり熱が入らなかったようだ。それでも一時間半位練習して、帰った。小学校のプールに行ってみたら、大崎の奴達、山田勝一、高橋春男、熊谷信一達が泳いでいた。女性では高橋一子、音羽美恵〔枝〕子らが泳いでいた。小林先生がついていた。氷水を食べたいところをがまんして、自転車で踏んで、天神山に行って、新しくできた関を見に行った。前の位置よりはずっと川下にできており、ずっと小型である。
 家に帰って服を取りかえブラリ。それから、昨日と今日の日記を書いている。さっき六時のサイレンが鳴った。家の人はみな田に行っているので、これから働かなくてはならない。午後、ブラリしている時に、カブト虫、死んだカブト虫をアルコールづけにした。ただ、アルコールの中に入れただけである。どうなるか。それでは、一まず休んで仕事だ。さあ働こう、早く、太陽が沈まないうちに……… 日ぐらしの声がきれいだ。
 今は30日の朝である。昨日はあれから風呂をたき、馬屋の掃除をし、それでも時間があったので、自転車を大掃除していたら、父母、義姉、兄も帰ってきた。それから、母と二人で中米長蔵さん宅に、ムシロをつけて行った。家の坂を登り切った所で、ぼくが向きをかえて、後ろ向きに押していこうとしたら、ムシロがくずれた。母がかん高い声で何か言ったので、ぼくはすぐサンペーをこかして逃げてきた。
 夜は勉強せず


 1961. 7.30 日曜日 晴れ
 朝〔、〕遅刻寸前入校。やがて、一校時目・英語。三校時目は国語。四校時目は小林先生の理科。補習終了、すぐ社会のテキストを職員室までもらいにいった。その後、二年一組の教室で、船形登山の打合せ会。ぼくら、5名程、リュックサックを渡された。又、今朝教科書代として持ってきた 200円、三田村先生が居ないために、やる事ができず、笹川先生に登山費としてやった。その後、重信君とがけの上で弁当を食べた。とてもうまかった。弁当を食っているころ、ぼつぼつ、みんな集まり出して、音楽室で会合〔先輩との交歓会〕が始まった。ぼくが、そこで得たものは〔、〕ある一種の自信と、経済的に、非常に大変だという事だ。交歓会が終わって、テレビで、全国高校野球大会東北予選の決勝、宮城県同士の東北高校対育英高校の熱戦の模様を観戦した。結局、東北高校が勝ち〔、〕東北代表になったらしい。その後、斉藤屋で氷水を食べ帰宅、風呂たき、馬屋の掃除、夕食、そして入浴。


 1961. 7.31 月曜日 晴れ
 今日も相変わらず暑い。登校途中八巻自転車店に、自転車のブレーキ修善〔繕〕をたのんで、そこから学校まで佐藤龍美君、薛義興君と歩いて、登った。教室には女の子だけ居て、あの女もいたので、一人で、八幡神社の所に行った。静かだった。誰もいなかった。
 ふと気がついて下の校舎にもどったら、もう出席を取っていた。伊藤先生の理科。三・四校時は、社会で瀬戸先生の歴史。それから弁当を食べずに、坂を下り自転車屋にいった。まだ、直っていなかったが、歩いて来るのは嫌なので〔、〕自転車は持ってきた。家で昼飯を食べて、母と一緒に水泳パンツを探したが、なかった。それで、四時ころまで昼寝していた。夕方、風呂をたき終ったら、父が干し草をリヤカーにいっぱい積んできたので、それを、馬屋の二階に上げ方をした。といっても、それには三重の手がかかる。まず二階のワラを下ろして、そこに乾燥草を積み、下ろしたワラを作業場の二階に積み入れるからである。途中から、兄が帰ってきて手伝った。それから遅い夕食、入浴。


1961年8月(15歳・中3)

 1961. 8.1 火曜日 曇りのち小雨
 今日は一・二年の出校日で、勿論、ぼくらも補習で登校である。着いた時は、もう始まっていたが、Bクラスの方は丹治先生がまだみえなかったので自習だった。みんながあまりうるさいので、校長先生が入ってきた。校長が出ていった後、丹治先生が息を切らして走ってきた。補習が終わると、登山のための健康診断を受けに、診療所に行った。
 帰宅後リュックサックに、明日の登山に必要なものをつめ込んだ。明日に備えて夜は眠った。


 1961. 8.2 水曜日 曇り
 今日は船形登山の第一日目。学校から升沢分校までのコースを自転車で走破するのである。朝7時30分一寸過ぎ、学校を出発。下草を回って志戸田の国道に出て、右に曲がって吉岡に出た。吉岡の裏通りを通って本田栄子先生の家の前で休けい。途中ぼくは、後に釜を乗せていたため、それといっしょに積んであった、にぎり飯が二つオッコチてしまった。でも、もう二つあるからよかった。本田栄子先生の家を出発して、農協を通って、自衛隊の横を通って吉田に向かった。
 吉田の支役所で一休み、水を補給したりした。調〔丁〕度調子がよく升沢の船形荘に行く自動車があったので、それに荷物をのっけてもらった。にぎり飯だけを持って、今晩の宿泊地升澤へと向った。女子の方は〔、〕早朝六時半ごろのバスで、沢渡まで行き、それから途>中で自動車に会い、のっけられて、升沢についたそうだ。
 バスの終点沢渡で、瀬戸先生の祖母の実家という家で20分ほど休けいして〔、〕又出発した。この家は、数年前火事にあったそうだ。さて、沢渡までは自転車が利くが、こゝからはもう歩いた方がずうっと楽なのである。自転車はもうひっぱり通し、疲れて疲れてもう本当に帰りたくなった。それでも、どうにかこうにか坂を登り終えて、そこからはずっと下り坂である。自転車のブレーキもかけず、急な坂を升沢めざして下りていった。誠にそう快だった。しばらく行くとパーマ屋があって、道が2つに別れていて、そこを店の人に聞いて右に曲がってまた坂を下ったら〔、〕橋があった。この辺までは、先ぱいの岡部武君と3年の千葉哲司君と一緒だった。が〔、〕橋を渡り終えてまた登り坂にかかったころ、ぼくは、すっかりグロッキーになってしまって、升沢分校についた時には、ぼくは2人より10分も遅れて、三番乗りした。11時40分だった。実に四時間。普通五内し〔乃至〕は六時間といわれているコースを〔、〕4時間で走破したのである。女子は〔、〕もうとうについていた。それから、しばらく休けい。冷たい水を飲んで、教室に寝転んだ。それから船形荘まで荷物をとりにいった。その時も〔、〕ビリの人はまだ来なかった。4番目の人は、ぼくより又15〜20分遅れて来た。3時ごろ食事の支度にかかった。ぼくは燃料班である。ところが〔、〕分校の人が分校のたき木〔薪〕を使って下さいといったので、ぼくらは、山に行ってたき木〔薪〕を拾わずにす>んだ。
 その前に、近くの川に行って、汗を流して来た。とても冷たかった。やがて楽しい夕食。野菜のカンヅメ等をあけて食った。食器を洗ってから、明日の分の飯をたいた。校庭の西側に穴を掘って〔、〕かまどを作ってたいた。すいじ班の人は、にぎり飯にぎりである。 100近くにぎったろう。さて〔、〕その夜は、テントに泊まった。千葉東君、相沢力君、後から岡部君も入ってきて4人になった。東君が光る夜光の木を見つけてきたので、それをいじりながら寝た。蚊とり線香はむせる程つけた。


 1961. 8.3 木曜日 曇り
 早朝、一時起床して荷物を持ってテントを出、一時40分、分校を出発した。黙々と一時間程歩き続けて、登山口にたどりついた。そこの、土工小屋で休けい。腹が減ったので〔、〕にぎり飯を食べた。水を補給し、氷砂糖を口にふくんで、船形山に入った。急な坂を登り続けて、空がすっかり明るんだ四時三十分ごろ、三光宮についた。一面雲の海であった。ずっと遠くに〔、〕泉ヶ岳だけポツンとみえた。右手には船形山〔頂〕がみえていた。三峰山、蛇ヶ岳も見えた。そこで一時間休けいして、朝食をとりながら御来光を待った。やがて東の空から朝日が登〔昇〕った。すでに登〔昇〕っていたのだが、雲間にかくれてみえなかったのだ。そこで清水信一君が、荷物の包まれている風呂しきづつみをがけ下におっことしてしまった。
 そこから又歩き続けて〔、〕水飲み場についた。そこの水は最高に冷たかった。そこから又歩いて、石のゴロゴロしているところをとび石づたいに、進んだ。中には、はう様にして登らなければならない所もあった。そんなこんなして、ぼくと相沢力は、群を抜いてどんどんと頂上めざして登った。頂上近くは平〔ら〕で、路地の中を歩いている様だった。そして、時に壱千九百六拾壱年・昭和参拾六年八月参日午前七時二十七分二十秒、私と彼は同時に頂上を征服した。その感激は、いまだかつて味わった事がないものであった。そこで一時間休けい。ぼくは頂上の三角点わきに書き物をして、かんづめかんに入れて埋めて来た。いつか登ったらほってみよう。
 下りは別なコースを下りて、蛇ヶ岳に向った。つゆにぬれている所をかき分けていったので〔、〕ズボンはびしょぬれである。2〜3時間歩いて草原についた時、千葉裕子がねんざした。それで笹川先生と、ぼくと力、東、門間正治、佐藤重信の5人は、千葉裕子をおぶっている笹川先生について歩いた。草原に来る前に池があって、そこでズックは真っ黒になった。草原を過ぎてからの道路は〔、〕又悪い。道路ではなくて、水の流れる所で大きな岩がゴロゴロしているので、大変時間がかかった。そこはかめ石沢といったと思う。かめ石沢を過ぎて〔、〕平らな所に出た。そこから、千葉は歩き始めた。重信と正治は、大丈夫だということを連絡に先に走った。あゝそれから、彼女の兄の千葉洋一君も一緒に歩いていた。
 そんなこんなで皆よりは随分遅れて、登山口についた。そこでは、瀬戸先生と山田旭先生が、居眠りをしながら待っていた。そこで一寸休んだ。足のつま先が非常に痛かった。そこから、学校まで千葉裕子と笹川先生は、そこで木材のつみ下しをしていた、トラックに乗せてもらう事にして、ぼくらだけ先に来た。夕食はソーセージの入ったカレーライス。夜、大郷町のある団体が、校庭でキャンプファイヤーをした。


 1961. 8.4 金曜日 曇り
 朝〔、〕升沢分校の教室にて起床。直ちに洗面をすませ、まん画等を読みしている内に朝食が出来上ったので〔、〕それを食って腹ごしらえをして、御世話になった分校をきれいにそうじした。分校では〔、〕今日は授業があった様だ。さて、一切を終えて、なつかしき分校を後にした。
 ところが、ぼくの自転車がパンクしてしまった。今までは先頭を走っていたのに、次々と追い越されてしまった。最後に修理用具を持った千葉洋一君が来た。そして、中居もパンクした。ぼくと中居だけ残って雨の中で、パンクの修善〔繕〕にかかった。中居のはそうとう大きくさけたのでとうとう直らなかった。さて、ぼくのはというと、ぼくのも実際成功しなかった。でも半分は、奇跡〔蹟〕的に成功した。というのは、パンクを直しているうちに瀬戸先生が心配してもどってきてくれたので瀬〔、〕戸先生に空気入れを持ってもらって、空気が抜け切るまでフルスピードで走った。一度目はものの3分もたたぬうちにガタカタになってしまった。これではやり切れないと思って、とにかく又入れて、行ける所まで行こうというので空気を入れるとすぐ、自転車にとびのって、最高のスピードで坂を下りた。と、きせき〔奇蹟〕か、今度は、そろそろ抜けるころだなと思って後輪を見たら〔、〕まだパン々としていた。そして、沢渡までついても抜けなかった。そこでしばらく休んでいると、中居と一緒に、笹川・瀬戸・山田先生も帰って来た。女子はぼくらがつくと間もなく、バスでたった。そこで先生方はビール。ぼくと中居はサイダーを飲まされた。
 そこから中居は、瀬戸先生のカブ号に乗せられて、中居の自転車は笹川先生が引っぱって、沢渡を出発した。途中で空気が抜けてしまったので、又空気を入れた。それでどうにか吉田まで行き、自転車店で修理した。2〜3分で直り〔、〕50円取られた。そこから、吉岡目指して走った。やっと、大和タクシーの所に来た。2〜3人の生徒と本田・丹治先生がいた。そこで、パンと牛乳を渡されて、すぐ、学校に向〔か〕った。学校で大便の用を足し、帰宅。目黒紘一君(高3)が訪れていた。それから、夕方まで紘一君の御相手をした。黒川神社に行ったり、川のふちを散歩したり。彼は何か困り事が起きて、家の人に黙って来たらしい。
 夜は、何一つ仕事をせず〔、〕すぐ夕食。今日は〔、〕もちである。勝彦ちゃんも来て〔、〕食べた。ぼくは、その後すぐ寝た。
                 第四巻 終了


 1961. 8.5 土曜日 曇り
 今日は全校招集日。紘一君と一緒に登校、校門まで登って、彼は帰った。ぼくはそのま
ま登校。調〔丁〕度ベルが鳴り、皆はその合図で屋体を目指した。ぼくもすぐ屋体に入った。そこで朝礼が行われた。見てみると出席者はぼくのクラスでは1/3程度である。朝礼が終ってから大掃除。人数が少ないので苦労した。ぼくと高橋春男、遠藤信喜、佐藤重信の4人は校庭の掃除に当〔充〕てられた。4人で一生懸命やったので、大部きれいになった。それから校庭で、中体連陸上競技大会県大会に出場する選手のそうこう式を行った。ぼくらは、一番遅くまで当番したので、その会に遅れた。そうこう会も終って、一たん教室に入って、学校からのPTA役員の手紙を頼まれた。
 すぐ学校を降りて、一度斉藤屋に入った。龍美君にアイスクリーム、3個御ちそうになったので、ぼくは桃とアイスクリームをおごった。それから、小学校に行って、プールで泳いでいる子供達をみていた時、どこか見た事のない様な奴がぼく達の前に止まった。よくよくみたら、それは、六年のときから学院中に入った、山田の千葉政治だった。頭には流行のカンカン帽をかむり、足だをはき、マンボズボンに、アロファ〔ハ〕シャツといういでたちで、自転車にのっている。かさはいゝし〔、〕一寸とみて、どうしても中学三年とは思えない。そして〔ハ〕何かぼくらを馬鹿にした様な口を利く。これで元の同級生か〔ハ〕といゝたい位だ。ぼくは腹が立ったので〔ハ〕何も言わなかった。間もなく〔、〕彼は去っていった。彼は、誰かさんの話によると〔、〕学院中で一番だそうだ。何くそ〔、〕負けてはいられないぞ。いかに仙台の中学校に入ったからといって、昔の同級生にあんな態度がとれたものだろうか。
 学院中がどうした、キリスト教の学校なんていうから最上品な学校と思えば、畜生、学院中の奴達なんかに負けてはいられんぞ。こうなったら鶴中のNo.1の名誉にかけても、学院中のNo.1だという千葉政治を倒してみせるぞ。ナアニ〔、〕六年生の時は、彼達はぼくよりもずっと低かったよ。
 夕方、紘チャンを乗せていった勝彦ちゃんが帰ってきた。その話によるとこうだ。
 紘一君は、一年生の時からずっと月射〔謝〕を払わず、このごろ停学処分にされたというのである。学校でいくら請求しても返さない〔払わない〕というのである。そこで、困った紘一君は、どうにもしようがなくなって本家に来たのだそうだ。そこで家と本家で、〔我が家と〕半分づつ、 12000円の月しゃを払ってやったのだそうだ。それも、照〔てる〕子叔母や喜一〔義〕叔父には内緒で〔、〕である。叔母達は、月しゃを払った事を知らないでいるのである。そして、学校からは、まだまだ払わないことにして〔、〕相変わらずつつく事にしたそうだ。本当に〔、〕照〔てる〕子叔母はどうしたのだろう、紘一君をこんなにも悲しませて。本当にだ落してしまったのだろうか。それにしても紘一君や、寿美子君がかわいそうだ。あんないゝ人達なのに。寿美子君は、毎朝飯たきだそうだ。飯も〔、〕何を食っている事やら。
 紘一君は偉いと思う。そんな生活の中でも一つもぐれずに、まともに生きている。私は、彼を尊敬しなければならない。彼達は〔、〕幼い時の裕福なくらしにくらべ、どんなに苦労している事だろう。


 1961. 8.6 日曜日 小雨
 日本時間の今日午後三時、ソヴィエットは、人間宇宙般〔船〕ウォストーク(東方)二号を打ち上げる事に成功した。同船上には、ゲルマン・ステパノビッチ・チトーフ少佐(26才) が乗り込んでおり、地球を十七周し降下の予定の様である。降下時間は日本時間明日4時過ぎと見られる。
 この宇宙船は地球の一周に、88分を要しこれに17周をかけると、約25時間の間を飛ぶことになる。先のガガーリン少佐の時は、一周だけで一時間余の飛行だったが、今度のは一日を飛ぶのであるから大きな進歩である。チトーフ少佐の通信によると、気分は良好、睡眠もとれるという事である。この次〔、〕はきっと二人乗りの宇宙船が打ち上げられる事でしょう。
 それから、今日は、16年目の広島原爆記念日に当っている。この日にソヴィエットが、宇宙船の打ち上げに成功した事は、何か意義がある様に思われる。これをきっかけに〔、〕東西関係が軟和してくれればいいのだが。
 又今日から、仙台の七夕が始まったが、雨にたたられてあいにくの様だ。


 1961. 8.7 月曜日 曇り
 午前中、最初勉強したが〔、〕あきてすぐ寝転び、これではいけぬと思うて、又勉強を始めた。そんなこんなしている内〔、〕昼になり昼食。昼食後〔、〕新聞が来たのでそれを読んだ。それには昨日の宇宙船の事が、トップ記事の所にデカデカと書いてあった。この新聞は、記念になるから取っておこう。しばらくして、亜炭が届いた。今度のは板炭である、よく燃えるだろう。やがて風呂の水をくみ、風呂たき。仙台の七夕は今日も雨にたた〔ら〕れたが、午後からは人出が増したとのこと。


 1961. 8.8 火曜日 快晴
 今日から、又補習が始まった。朝、ベーリー早く行った。誰も来ていなかったので、八幡神社の所に行ってハーモニカを吹いていた。やがて補習が始まった。四時間の補習終了後八幡神社の所に行って、相沢力、佐藤龍美と3人で、弁当を食った。
 補習中、松川事件の差しもどし裁判の判決が〔、〕全員無罪になったという事だ。それでも〔、〕十二年前の真実はなぞの様な気がする。でも〔、〕無罪でいゝんだ。死刑になるか無罪になるか、これ程むづかしい裁判はないだろう。とにかく、これで世紀の裁判と言われ、た松川事件も、事実上、ピリオドを打つ事になるだろう。


 1961. 8.9 水曜日 快晴
 今日も昨日に続いて補習。昨日は早すぎたので〔、〕今日はゆっくり。それでも始業までに十分時間があった。一時間目・二時間目と理科(小林)。三・四校時は社会の地理で、堀ゴメ教頭。
 補習が終わって〔、〕今日は弁当を食べずに帰宅。しかし、まだ誰も家にはいなかった。一人で弁当を食っていると、妹達が水浴から帰って来、しばらくして父母、義姉ももどって来た。そして昼食。ぼくは、一ぜん程食べた。昼食後、昨日本家に遊びに来た、大衡の従姉とし江〔トシエ〕さんの子供正(小5)が、智、豊彦と三人で遊びに来たので、彼達と自転車でそこら中かけ回った。夕方、家に引き上げて、少し勉強、仕事、就寝。


 1961. 8.10 木曜日 快晴
 今日も補習があった。それで朝ぎりぎりに登校。が、先生はまだ来なかった。20〜30分して、丹治教諭が教室に入って来て、美術の授業が始まった。先生の都合で30分程して終り、3・4時間目は国語(竹沢)。昼、宿直室に入り込んで、千葉和夫、遠藤章達と、テレビジョン〔を〕観ながら、弁当を食った。食後、何かの先生方の会議があるそうだから、急いで帰宅した。工作品を作り始めた。


 1961. 8.11 金曜日 快晴
 数学の時間は〔、〕校長だった。3・4時間目は教頭の社会(地理)。今日は、校長と教頭に連続して教授されたことになる。補習が終って弁当を食わずに、帰宅。弁当は〔、〕家に帰ってから妹達(小春、小秋)に食べてもらった。やがて、父母、義姉が、田から帰って来る。今の仕事、乾草造りである。それから、大衡の須藤正等と遊んだ。夕食後に、兄が時計の皮〔バンド〕をかえて来たのをみた。兄は、鎖の奴を買っていらなくなった皮〔バンド〕、これも誰が直したか、兄貴ゆずりの時計につけた。そして又ぼくがかける事になった。


 1961. 8.12 土曜日 快晴
 今日も又補習があるので〔、〕登校。一時間目に10分程遅れたかもしれない。授業は、伊藤太郎先生の理科。三・四時間目は山田旭先生の社会(地理)。四時間目が終った時、思いがけない人が教室に入って来た。それはぼく達が一年の時御世話になった越智輝喜教諭(福島県会津若松市湊中学校)だった。先生は1年半程前転校されたのだ。それ以後、先生は結婚し、故郷の湊中学で、教だんに立っていたのである。彼は非常に愉快な先生であった。明るかった。それだけに、怒る時は素直に本気になって怒った。その事から、彼が真面目であったという事がうかがえる。30分程、思い出話や雑談を語って、解散した。
 又、今日は、卒業生といっても2〜3年前の人達の同級会があるらしい。解散後、宿直室で10分程〔、〕重幸君とテレビをみた。帰宅後、昼食、それから鶴巣〔立体〕地図の作製にかかった。昨々日から始めて、昨晩ではりつけが終り、今日は着色を終えた。後は道路、河川、部落等の記入と入れものだけである。これで〔、〕八分通り出来たと言えるだろう。着色が終ってから、智、豊彦、正と大つつみに行って遊んだ。水は大部なくなっていた。大つつみから帰って、室の中で遊び、乱雑になっていた机を整理して〔、〕今日記を書いている。音が聞こえる、時々、音羽清光さんの家の子牛の鳴き声が聞こえる。一央〔応〕やめる。又食後書く、少し考える事がある。


 1961. 8.13 日曜日 快晴
 午後から、工作を始めた。例の鶴巣全図である。今日は道路をつけた。道路を何にしようかと迷った末、白色にしたら思ったより、うまくいった。この道路の色がこの地図の生命である。遠くから見ると、テープでもはった様に浮きたってみえる。
 熱心を〔が〕余って、皆が寝静まった十時ごろまで続け、道路を全部終えた。
 その他、特になし。

 1961. 8.14 月曜日 快晴
 朝起きてみたら、眼が痛い。鏡をみると〔、〕小さなイボが出来ていた。いわゆる「馬鹿」なるものである。なぜこんなもの出たたんだろう、初めてである。ぼくが「馬鹿」になったからかな。そういわれても、心にひびくものがある。それにしても、随分痛いものだな。


 1961. 8.15 火曜日 快晴
 朝から地図の作製にかかった。川を入れ、湖沼、集落、寺社、各役所、海抜などを入れていると〔、〕昼になった。午後又続けて、全て終って大きな紙にはりつける番になって、ノリがないので、急いで、大崎に買いに行く事にし、本家に手伝いに行っている母の所へ、金をもらいに行ったがもらえず、自費で買う事にし、智と豊彦を連れて、大崎に向った。
 午前中に、時〔とき〕子さん(30才位、野村の叔〔伯〕母の長女、仙台、主人大工)が、二人の子供重信君と宏君を連れて、野村の叔〔伯〕母と共に家によった。そして、私は〔、〕仁王をみせろというので、案内してやったり、メダカを取ってやったりした。
 さて〔、〕話はもどって大崎に行く途中、富谷の秀〔修〕一(小5)に会った。とにかく一度自転車(智)にのっけて、大崎まで行った。そして、アイスクリームを10円づつ、皆で40円。5円の買物をするのに40円取られた。でも〔、〕たまにはいゝでしょう。
 家に帰って、一寸遊んだ。その時、タクシーが来て〔、〕金蔵叔〔伯〕父、湯村叔〔伯〕母、志賀叔〔伯〕母、とき〔時〕子さん、重信・宏君を乗せて行った。すぐ家に帰って、工作を完成させた。
 上出来だった。夜父にみせたらほめてくれた。


 1961. 8.16 水曜日 快晴
 眼の「馬鹿」は増々成長し、最早眼がふさがりかけようとしている。とても痛い。
 午前中ゴロリゴロリ、妹達が七夕にちなんで、台所を千羽鶴で飾りつけるのをみていた。その内、どういう訳か自分が床をふく事になって、板の間ふきが始まった。それでも、ずい分美しくしたつもりだ。午後やっと妹達の飾りつけは終り、ぼくは昼寝に入った。後から、夕方近くに、外の家といっても〔、〕上の家の七夕飾りを見てきた。小さくて、美しかった。


 1961. 8.17 水曜日 快晴
 午前十時ころ、黒川神社に絵を書きに行った。神社を真正面に書いたのではどうも平凡すぎて具合が悪い。それで、向って右側の方向から、神社の玄関を書いた。大体いゝかもしれない。昼引き上げて来て、義姉と二人だけで昼食を取り、午後又出掛けようとしたが、急に雷が鳴り出し雨が降りそうなので、一たん用具を全部家に持ち帰った。
 が〔、〕雨は全然といってもいゝ程降らず、又出かけて製〔制〕作にかかった。うす暗くなるまでに大体の形を書き終り、屋根の部分を少しぬるまでになった。どうも成功する様である。ぼくにとっては〔、〕今までにない大作が出来上がる様だ。


 1961. 8.18 金曜日 快晴
 今日から〔、〕又補習が始まった。保健体育、数学。どちらも山田先生に教わった。補習が終るとすぐ帰宅。そして、昼食。昼食後、画架をかついで神社に向った。昨日の続きを塗り、大体、1/3まで終った。夕方、図画を終えてから、一切仕事をせず、勉強した。夕食後、蚊帳の中に寝転んで〔、〕ふと考えた。おれは初めて空しさというものを味わった。何もかもが、ぼくに関する何もかもが、うまくない事ばかり。7月の中旬にたてた計画も、数学も美術も進んだのは20頁程度。もう社会、理科と保体の分に入っているというのに、ずるずるとなまけてしまった。そればかりではない。何もかもがだ。おまえは、口先だけの、人間になってしまったのか。
 御前は、うぬぼれてはいないか。おまえは自分というものについて、うぬぼれてはいないか。自分自身を、他人にではなく、自分にうぬぼれてはいないか。考えてみると、おまえは何も〔か〕うぬぼもれるものがある〔の〕か。お前の一番気にしている事は、人相の悪い事だろう。それに加えて顔一面のニキビ、みっともないのも無理はない。それに〔、〕忘れろといっている女を、口には出さないが、日記にはかかないが〔、〕忘れられないでいるではないか。模擬試験だって、 406点や7点しかとれないではないか。それで周囲の人達から秀才だの何だのといわれて〔、〕うぬぼれているのか。
 小学校のころは、正義感に燃えた、熱々たる、真面目な明るい少年だったではないか。いや、中学校に入ってつい先程までは〔、〕そうだったじゃあないか………
 あゝ〔、〕おれは勉強の苦しみというものを初めて味わった。勉強するという事は、思ったよりつらく苦しい事だ。こうなったのも、みんな自分のなまなけのせいである。自分の犯した罪は、自分で罪ほろぼしをしなければならないだろう。仕方がない、それは、当然の事〔で〕あり、楽あれば苦ありである。苦あれば楽あり、栄冠涙あり等という様に、いかなる偉人でも〔、〕おれの苦しみの千倍もの苦しみを味わったのかもしれない。とにかく、自分は、なまけた事の罪ほろぼしに、今までの倍の苦労をしなければならない。そして〔、〕一日も早く予定に追いつかねばならない。
 それに、おれは何も他人に劣等感を持つ必要はないのだ。15才の青二才のくせに〔、〕女等とはちゃんちゃらおかしいぞ。そんな事はきれいさっぱり〔、〕何とかけりをつけろ。
 そして、日常の生活に、いくら反抗期といっても、もう少し真面目さがほしい。とにかく勉強しろ。自分のために………
 (この日、音羽圧〔充〕男さんの二男・哲也君生れる)


 1961. 8.19 土曜日 晴れ
 登校したころには〔、〕もうとうに1校時目が始まっていた。本田栄子先生の英語だった。3・4校時は、瀬戸教諭の歴史。補習が終って〔、〕校庭で遠藤章とキャッチボールをした。正午下校。斉藤屋で氷一杯、アイスクリーム一個。家に帰って昼食。妹(静枝、小秋)達は砂金沢に泊って、七夕の日からまだ帰らん。3時ころ、ぼつぼつ勉強。夕食までぎっしりやった。夕食中、テレビのセールスマンが訪れた。彼は、11時まで熱弁していったが〔、〕とうとう親父は首を縦にふらなかった。
 ぼくは、もしかしたら買うんじゃないかという期待で勉強もできず、そのやりとりをじっと聞いていた。所せん、私の家等の及ぶ所ではないのかもしれない。テレビなどを買うには、もう少しの年月がいりそうだ。そうおもったから〔、〕ぼくはだまっていた。現金で 58000円を 45000円にまけるというので、父は大部乗気の様だったが、母が真向から比〔否〕定した。父も母も買いたいのはやまやまだろうが。百姓等というものは〔、〕裕福な様で貧乏なものである。全くテレビも買えないとは………


 1961. 8.20 日曜日 晴れ
 今日の補習は〔、〕保健体育(山田先生)と音楽(本田章子)である。放課後、今日は男性の掃除に当たっているので、掃除をしようとして居残っていたら、残ったのは、何と藤倉靖君丈であった。畜生と思い〔、〕彼と二人で当番を始めた。女の奴達も、昨日は録に掃除しなかったと見えて、教室の中は荒れ放題である。奴達は、先生の気嫌〔機嫌〕ばっかしとって、口はうまくて、こんな事は早張〔さっぱり〕だ。これが女というものだ。男の奴達も、又録な奴は居ない。
 途中から、石川八重子が手伝ってくれたが、ぼくらは意地になって彼女の援助をこばんだので、しばらくして彼女は去った。間も無く、校庭でキャッチボールをしていた千葉和夫と遠藤章が手伝って来〔呉〕れた。といっても、これは彼達の当然の義務なのだが。掃除をしない奴達よりは程度がいゝ。
 掃除が終ってから、宿直室で、高校野球決勝の様子を半分見て、靖君を乗せて帰宅。夜本家の力さんが、会計をしに来てお茶飲みをした。


 1961. 8.21 月曜日 晴れ
 今日は社会(教頭)、数学(校長)の二科目。数学の時間は、特に校長に痛めつけられた。夜、前夜と同じく、又力さんが訪れた。今日は大掃除という事で、教室の廊下に並べられてあった古机を片付けてから、外掃除をした。


 1961. 8.22 火曜日 曇り
 朝、とうもろこしをほおばっていると、従兄の重信君が来た。今日は、今朝吉祖父の基〔墓〕石を建立する日で、父はかねてから手伝いに頼まれていたのであり、重信君は、午後から建てる事にしたので午後来て欲しいと云ゝに来たのだが、どうやら彼は〔、〕上野屋当た〔辺〕りですれ違いになったらしい。
 ぼくは、彼と二人で、山にほうき作りに行く事にし(宿題)、さっそうと出かけて、沢に入ったが、ほうき竹は全然見当たらず、しばらくして雨も降り出し〔、〕ぬれねづ〔、〕みになって帰って来た。それから、母、きぬい〔ゐ義〕伯母達とお茶を飲み、彼・重信君と将旗〔棋〕をした。
 午後、少し将旗〔棋〕等してから、風呂の水を汲み変〔替〕えた。又、将旗〔棋〕をして、夜、ナイターを聞いた。


 1961. 8.23 水曜日 曇り
 朝食後重信君と二人で、高森山方面に、盆花を取りに行った。最初、大づつみの中を通って道路に出て、そこに、それまで取った花をかくしおいて、高森山頂へのゆるやかな坂道を〔、〕花を探しながら出かけた。頂上まで行って、しばらく、そう快な景色をちょう望してから、又山を下りた。途中で山に入って、ほうき竹を切った。
 家に帰ってから、路地の花を取った。重信君の取った野草は彼の家に、ぼくの取ったのは本家に、それぞれ持っていった。本家では、 100円をもらった。(叔〔義伯〕母)
 昼まで、本家の友子(幼少)と遊び、帰宅。


 1961. 8.24 木曜日 快晴
 午前、放りっぱなしにしておいた「村社」の図画を書いた。正午ころでやめた。午後、首に出た出来物が痛むので〔、〕寝ていた。少し妹達と将旗〔棋〕等した。


 1961. 8.25 金曜日 晴れ
 午前、夏休みの図画が完成した。のべ3日位かかったかな。ぼくとしては、一番の大作だった。後の方、少し嫌になってなまけてしまった所もある。
 でも〔、〕私にとっては改新〔会心〕の作だった。これを機会に、最々いゝものを書きたいと思う。
 図画を書き終った時、本家の叔〔義伯〕母が訪ねて来た。今日は盆であるから、婦人会で戦死者に線香を上げに「靖国の家」を回るのだそうだ。母も一緒に行くのだそうだ。
 叔〔義伯〕母と母が出ていってから、私は習字を書き始めた。題は「絹の道」「義経」の二題。どちらもなんの意味がある事ではない。最後に、私の手形を習字紙に押したが、うまくゆかなかった。正午過ぎ、母は帰って来、妹と二人で砂金沢に行く事になった。
 私と元兄は、吉岡に映画を観に行く事になり、自転車で行った。中央劇場で、洋画「大荒原」と現代劇「恋とのれん」だった。洋画の方は、南北戦争直後の御話。「恋とのれん」は、郷土仙台や松嶋の風景も出て来た、きれいな〔、〕清い〔、〕清純な映画だった。
 映画を終って、そのまま帰宅。夜野菜サラダだったが、酢が強くてひどかった。


 1961. 8.26 土曜日 晴れ
 朝食後、仕度をして、古い方の自転車で砂金沢まで行った。今日は、砂金沢で法事があるので、母は昨日から手伝いに来ている。そこで、母と会って、金等をもらい、行こうとしたが、どうも、普通の病気では無いし、一人では恥ずかしいといっては、男らしくないかもしれないが、とにかく、そんな気持になって、母に願って、同行してもらう事になった。
 巌伯父の所から、バスに乗り〔、〕終点で下りて、一央〔応〕黒川病院に向った。途中、相沢一郎君(下草)と会った。が、しばらくして、彼はもどって来た。彼の言うには病院は休みだという。それでもとにかく、行ってみる事にして、病院に着いたが、やっぱり休みだった。
 でも母は、知人への見舞いをかねて来たのでとりあえず、その方に御見舞いをするつもりで中に入った。が、その人はとうとうみつからなかった。その間、ぼくは級友の鼻の手術をしている千坂公夫君を〔、〕言葉だけで見舞っていた。
 やがて母もあきらめ、病院を出て、今度は私の治療のために、山崎医院に行った。5〜6人先客がいた。やがて、私の番になり、診察室に入って行った。院長は、いかにもやさしそうな、ゆかいそうな、感じのいゝ人だった。首の所の出来物や、あごの吹出物を治療し、ビキニに薬をぬって、最後に、しりにペニシリン(60万)を打たれ、飲み薬を二日分もらった。
 顔や首にバンソウコウをベッタリはられたので手ぬぐいでかくす様にして、バス停留所でバスを待っていた。12時03分の利府回りのバスで、砂金沢で降り、巌叔父の家で冷菓を食べて〔、〕帰宅。夕食後、飲薬を飲んだ。


 1961. 8.27 日曜日 晴れ
 今日は3回目の模擬試験の行われる日なので、学校に行ったが、受験者が予定の半分程度なので延期することにし、校舎内外の清掃を行って下校。下校後、ぼくと千葉和夫(幕柳)は吉岡に行く事になって、自転車で一緒に校門を出た。目的は、千坂公夫君の見舞とぼくの診療である。北目の道を通り、「3m道路」を曲って砂金沢に出た。そこで、しびきを回って来た泉田八男君(中)、千葉哲司君(大平中)と会って4人となり、さらに佐藤龍美君を加えて5人となって、今度は目的を映画に変えて〔、〕吉岡向った。今日は〔、〕「こまどり姉妹ショー」のある日である。会場の吉岡小学校講堂に行ってみたら、まだ随分早いのにそうとうな入りだった。そこから上町に出て、中央劇場の広告を見たが余り良さそうでもないので、吉岡に行ってみる事にした。
 途中、これも吉岡劇場に行こうとしていた、カブ号の瀬戸先生(3の2)に出合〔会〕った。映画は、「私はうそは申しません」という現代喜劇と「ろくでなし野郎」という、現代劇。後者は、キャバレーのストリップの場面が良く出て来て、そんな所は悪いえいきょうを及ぼした。
 映画鑑償〔賞〕を終って〔、〕三浦商店で、ソフトクリーム(30円、20円)、チューインガム(10円)。映画と交えて 100円調〔丁〕度。鶴巣に来てから〔、〕斉藤屋で氷水一杯。


 1961. 8.28 月曜日 晴れ
 長かった、嫌〔いや〕短かった夏休みも昨日で終り、今日からいよいよ、第二学期である。気を新たにして、朝の準備をした。今日の授業の用意、補習の用意、図画、習字、工作等の夏休みの作品、それにほうきを自転車に乗っけて登校。が〔、〕一番大切な教育通信表を忘れた。うっかりしていた。通信表を忘れたのは、小学校以来初めての様に思う。学校で、ぼくの工作は何だろうと、みんな好気〔奇〕の目を寄せたが、そんな事をされるとそこがぼくの性分で、かえってみせたくなくなってかくしておいた。それも、相沢力君が、いたずらして、取り出したので、ついに公開となった。でも、それでもぼくは、よろこんでみせなかった。
 私はどんな偉い事をしても、他人に誇るのが嫌いである。そういう所がぼくのいゝ所であると思う。又〔、〕他人からみれば変人とみられる種になるのかもしれない。
 屋体で朝礼兼始業式をした後教室でHR。ぼくらは屋体の幕張。
 今日の映画の主催は、小学校PTAである。題は、「風と雲とトリデ」「悪の華」の二題。どちらも、うすくてはっきりしなかった。中が、明るかったからかもしれぬ。前者は時代劇。戦国時代、3人の若物〔者〕を中心に、武田と徳川の戦を背景にした物語。最後には、3人とも愛する女性のもとに行く。八郎というのは武田の姫君と、といってもすでにその時は、姫は殺されていたのだが、その姫の所に行って、傷ついた体を横たえてはてた。この二人が一番の悲劇だった。
 また、三蔵という若者は、山族〔賊〕の娘首領の元に、そして、残りの一人の若物〔者〕は、愛する八郎をあきらめた女、美しい美雪の元に行った。その三人の最後の場面が印象的だった。画面が明るければ〔、〕もう少しよい映画だったろう。
 後者の「悪の華」は、全くの成人向きの映画。ストリップショーや、キャバレーの風景、男女の露骨な営み等が生々しく、画面にでて来る。
 青少年向きの映画としては、感心できない映画である。
 映画が一終った後、男女で大掃除。


 1961. 8.29 火曜日 晴れ
 今日は授業を4時間して、5・6・7・8時間目まで4時間模擬試験をした。模擬試験の後、掃除ということ事だが、はてこれが、休み前の事だから、よく解らない。だれかが女の当番だと言ったので、男の連中は女だ女だという。すると女の連中は、ガンとして当番をしようとしない。それどころか、さっさと帰ってしまった奴もいる。男は、誰も帰りはしなかったと思う。ぼくは、これではいかん思って職員室に行って日誌を見て来た。みた所が、日誌の最後にかかれた所には〔、〕男が掃除したと書いてあった。ところがうっかりしていた、それは22日の日誌だったのである。そこを石川八重子につかれて、計画は失敗に終った。22日は土曜日であるから、24日の月曜日から弐拾七日の木曜日までの4日間は女子がした事になる。それで、ぼくは完全に負けたと思ったので、靖君と二人で当番を始めた。面白くない気持を晴らすために、机を思いっ切り後に押してやった。すると今までしないといってがん張っていた女性の内、意地を張ってか、門間綾子と川島節子が〔、〕やはり興ふんした様子で床をふき始めた。そんな状態で意地を張り合っていたので、結局、ぼくらは、おまえらがやるんならやれといって、少々怒って教室を出、校庭でブラリブラリしていた。でも〔、〕それから又新しい事に気がついた。実はぼくらは夏休みに入っても、8月の1日まで5日間、学校に来ているのである。その間29日までは女子が当番した事になり、30日から1日の3日間は男子がやった事になる。さらに8日からは、1日づつ男女交代〔替〕という事で男から始めたので男子は4日間したことになる。これでアリバイは成り立つのだ。後から考えれば〔、〕これは完全に女子の当番である事が解ったので〔、〕教室に行ってみもしなかった。
 3・4時間目〔、〕図画で公明選挙のポスターを書かされたが〔、〕書かなかった。
 今日も通信表を忘れた。


 1961. 8.30 水曜日 晴れ
 一校時目、二学期早々の大失敗である。それで、一時間クラス全員に説教。というのは、こうだ。一時間目が始まっても、理科の小林先生は仲々来ない。ぼくは変だなとは思ったものの〔、〕別に気にかけてはいなかった。そして、夏休みの作品を集めて、職員室に行ってみると、かの先生は机に向って何かをやっている。ぼくは用事があって来れないのかなと思って、そのまま立ち去った。
 それからしばらくして〔、〕怒った顔をした小林先生が入って来た。それでも〔、〕ぼくにはピンと来なかった。先生は〔、〕今日の日直は誰だといった、が誰も解らなかった。私の責任である。それから遠々〔延々〕と説教が続き、昨日の教室掃除の事に話は変わった。ぼくは、昨日の様子を一央〔応〕説明した。先生もどうやら納得がいったらしい。どうもこんな時は、男というものは不利な立場にある。女子はいかにもりっぱそうにみえて実は、男子よりもやる気がない奴が多いと見る。口は二人前である。
 四時間で、普通授業を切り上げ、5・6・7時間と模擬試験。
 模擬試験が終って、すぐ下校の仕〔支〕度にとりかかった。自転車で急ぎ帰って、家で本家の智(小2)と図画を書いた。彼は、私の見る目では〔、〕絵に関しては天才的な所がある。ぼくは〔、〕実はポスター(課題・公明選挙について)を書いたのだ。夜までかかって、書き上げ、就寝。今日から掛けフトンをかけて眠る。


 1961. 8.31 木曜日 快晴
 帰宅して、昨日、一昨日に行われた模試の点数をつけてみた。その結果出たのが 391点という点数である。ついに 400点を割ってしまった。 391点で、どこの高校に入れよう。391点という点数が出た途端〔、〕思わずぼくは、ぼう然として、数秒の間夢中にいた。がすぐ気を取り直し〔、〕再び計算した。どこも間違ってはいなかった。明らかに〔、〕私は 400点を割ったのである。 650点満点で 391点とは、何と貧しい点数であろう。自分ながら情ない。
 誰が悪いのでもない、おまえが悪いのだ。おまえ自身の心がくさっているのだ、なんていうもんではない。おまえは、恥ずかしくないのか。誰を憎む事もない、おまえをにくめ。全ての面でだ………
 おまえはずい分高マンな、うぬぼれ男だな。おまえの様なうぬぼれ屋は二人と居ないだろう。なんだ、その点数は。恥を知れ、恥を!
 おれは、このごろ、少し不良少年になろうかと思った〔て〕いた。それは、そうならなければ肩身がせまくなる思いをするからである。
 絶対に不良になってはだめだぞ。不良に成る等という事は、不良になって天下を我者〔物〕にしよう等という事は、ケチなずるい考えだ。自分は、あくまで、正義感の燃える熱血児でなければならないのだ。いつかおも〔まえ〕は、日本一の中学生になろうと思った。かの有名な豊臣秀吉公は、足軽の時代に、織田信長の草り取りをしていた時代に、やっぱり「おれは、日本一のぞうり取りになろう」と思ったそうだ。彼も〔、〕私と同じく百姓の息子であった。
 おまえは、もう立ち直らなければならない。おまえは、今ルネッサンス期に当たっている。昔の自分に返れ。昔の素朴な人物になるのだ。今なら、まだ大丈夫だ。
 この世に生命を受けたならば、この世のためになるための下積みをしているのである。それだからこそ、一生懸命、必死になってやらねばならない。紙〔神〕のおぼしめしを無にしてはならないのだ。私は、宮城県立仙台第一高等学校に入らねばならない。その下積みを私は、今しているのだ。そのための準備は、今〔未〕だ0である。
 私は〔、〕今日の日に当たって〔、〕すっかりと改心しよう。
 今日からの私は、きっと真面目で正義感に燃えた、利口な、頭の回る、強い、親考〔孝〕行な、勉強家な、真面目に仕事をやる、恥を知る、実行力のある、理屈を言わない素直な明るい、又反面、静かな、落ち着いた、模はん的な、日本一の中学生になるだろう。まあ、今日からの、今からのぼくをみていてくれたまえ。
 私は、毎晩勉強を欠かさないだろう。私は、最高の人間を目ざして進むのである。そして、今の私にとって重大な事は、自分の青春である。最早、川島は、私に取〔と〕って最も重大な人物の一人になっている。好きなのは仕方がない、それを素直に認めなければならない。今までの様に無理をして否定〔すること〕は、却って、苦しむのである。しかし、それも、明るく、健康なという線にそって、しなければならない。
 あゝ〔、〕なんだか気持が晴々として来た。私は自分を信じる。明日からの自分を信じる……
 今日は授業3時間。その内二時間目は、65分授業で〔、〕郡内の中学2・3年生が一斉に数学のテストをやった。私も勿論受けた。問題は至極簡単なのであるが、時間が、余り問題数が多いので、足りなかった。
 3校時が終ってから弁当を食い、午後は屋体で演芸会を鑑賞した。加賀徳子、領〔嶺〕岸敏子などの有名人も出演したが、誠にあっけないものであった。
 帰宅は、靖君と一緒に山道を来た。途中「はしばみ」等を食いながら山を下った。今年初めて栗を食べた。家で、智と少しボールで遊んだ。


1961年9月(15歳・中3)

 1961. 9.1 金曜日 晴れ
 一校時目道徳の時間、小林教諭多賀城方面に出張のため、自習。「私の希望」という題の作文を書かせられた。五時間目が終り、六校時目は自習だというので、私と泉田八男君、津田晃哉君の3人は、鼻の手術のため黒川病院に入院している級友・千坂公夫君の御見舞いに〔、〕級友の出し合った 500円を持って出発する事にした。小林教諭が不在なので、二組担任の瀬戸教諭から、 500円借り受けて、校門をでた。最初富田商店で、ジュース( 100円)、生菓子( 200円)を買って、吉岡に向〔か〕った。吉岡の商店街は、あいにく休みで、山崎医院の近くの相沢という店で、ブドー( 100円)、トマト( 100円)〔を〕買った。22号室に入ると、彼が一人居た。しばらくしても、彼の母は見えず、彼が探しに出かけた。数分の後、彼の母が現れた。そこで級友の意思を伝えると共に〔、〕見舞品を渡した。それから、一時間程、話をして帰途についた。同じ部屋に、同級の菊地義二君が居たが、話もせずに、帰ってしまった。彼は随分太った。
 途中、津田君が、時計店に寄って、針を入れてもらったのをみていた。下町の十字路を下って、家がと切れた所に来て、吉岡の店から受領証をもらわない事に気付き、私と泉田君は、又もと来た道をもどった。津田君は、そこの橋の所の時計屋で、カバーガラスを色ガラスに取りかえてもらっていた。相沢商店から受領証をもらって、今度は本当に帰途についた。途中、舞野と相川入口の中間の辺で、どうしたわけか〔、〕ふざけている内に脇の堀に転落してしまった。そして片方のズボンを〔、〕下の方ぬらしてしまった。ズボンはホコリだらけ。学校に帰って、カバンを持ち、帰宅。


 1961. 9.2 土曜日 快晴
 朝、登校するとすぐ、小林先生に、昨日の事を報告し、受領証を渡しました。そして、言われた事は、そんな事とは関係の無い事で、昨日の六校時目、ふざけた人を名前を書いて先生に持って来なさいという事でした。私は、昨日の六時間目、私は居なかった事を伝えた、が誰かに聞いて書いて来なさいという事だった。
 でも、ぼくは、そんな事を書くのは嫌なので、靖君に頼んだ。靖君は石川に頼んだらしい。一校時終了後、その者達は職員室に行ったが〔、〕余りしぼられもせず皆、安心したらしい。今日の補習は3時間。補習の合間に、補習が終ってから、バスケットボールをした。夜、庭を全部はいた。


 1961. 9.3 日曜日 快晴
 今日は日曜日。例によって例のごとく、朝はゆっくり最後に元気良く起き出して〔、〕急いで着服、洗面、食事等を済ませてから、テーブルを引っぱり出して涼しい所で、東京の修兄と先輩音羽光雄君に手紙を書く事にしたが、気持がまとまらず結局フラリ、外に出てしまった。川では〔、〕魚取りが盛んであった。徳治君達が、十国〔石〕原の橋の下で「イン〔エン(堰)〕カキ」をしていた。その上の方で〔、〕清光さんと圧〔充〕男さん達が魚をとっていた。彼達は、後でみせられたら、かなり大きなナマズを取った。そうこうする内にすぐ昼になって〔、〕昼食
 午後、今度は本当に手紙を書き始めた。先輩光雄君に、遠々〔延々〕6枚に達する手紙を書いてやった。高森山のゴルフ場建設や、その他の事。それを〔、〕大崎に用事のあった静枝に頼んでやった。手紙の中には、4つ葉のクローバーのおし葉を入れ、フウトウにもシールがわりにのりではってやった。夕方、風呂水を取りかえた。


 1961. 9.4 月曜日 快晴
 三・四校時、職業の時間、学校農園の草刈り、掘り返し。六校時目体育は、屋体で、町内小中学校体育祭の時に行う中学生体操並佐渡おけさを、これも教えられたばっかりで全然解らない。今日から教室当番である。補習はせずに、掃除。屋体でバスケットボールをせずに、保健室で遠藤章のつき合いをしながら、楽しい話(?)をした。彼は今日もカゼ気味なのである。


 1961. 9.5 火曜日 快晴
 今日〔、〕温度計は34°という数字まで上がり、気象台始まって以来の九月の最高気温であるという。授業中でも〔、〕うだる様な暑さである。授業の内容も〔、〕チンプンカンプン。3・4校時目、補習は一時間で切上げ、それから教室掃除。後1の3の教室で、英語暗唱の初レッスンを受けた。一時間程やり、帰宅。夕食後、沢田正さんの家に行って、プレーヤーを借りて、レコードをかけて練習した。
 朝、美術の図画用具を忘れたので、靖君と2人でもどって取りに行った。


 1961. 9.6 水曜日 晴れ
 今日から〔、〕朝の体操の時間は全員トレーニングズボンをはく事になっていた。が〔、〕ぼくのトレーニングズボンはずっと前こわれてしまって、そのままなので、はいて来なかった。あれは、もう、はけないのだそうだ。そんな訳で、ぼくはトレパンをはかないで校庭に出た。このごろは、毎日運動会の練習を朝やるのである。
 男子は、中学生体操。第一回が無事にすんだ。やがて小林先生が来た。と、一番前に居たぼくから一発やられた。後、黒ズボンの奴達四・五人やられたらしい。
 ぼくは、ふんがいした。どうして無いものをはけようかと。やがて、男子の練習が終った。次は女子の踊りである。ぼくは、そんなものは見る気がしないの〔、〕で反対側をみて石をぶっつけ合って、一人で遊んでいた。と、そこに校長が来た。なぜ、見ていないといって、しぼられた。私はますますふんがい(?)した。
 そして〔、〕一校時目が始まった。しかも、小林先生の理科だった。ぼくは、終始、だまっているつもりだった。が〔、〕安〔案〕の定、説教が始まった。と、聞いている内に私はだんだん小林先生のいう事が解って来た。実は、ぼくの方に手ぬかりがあったのである。朝に、一度「トレーニングパンツを持って来ませんでした。」と言えばいゝものを、非強〔卑怯〕にも、言わなかった事が悪かったのだ。


 1961. 9.7 木曜日 晴れ
 朝に運動会の練習をして、一時間をつぶした。今日も、やっぱりトレーニングパンツはないので、又、先生におこられるのも嫌なので、二年の野球部の佐藤陸〔睦〕郎からユニホームを借りて〔、〕校庭に出た。
 七校時目にも校庭で練習があった。その後、3の1の教室で生徒代議員会。運動会についでだった。


 1961. 9.8 金曜日 晴れ
 あゝ、愉快だ。本当に愉快な程、おれという奴は、とんまだ。まるでまん画である。本当に、ヴォッとして間の抜けている奴だよ、おれは。
 というのは、こうである。ぼくは、このごろ、目が痛くて仕方が無い。どうやら〔、〕はやり眼らしい。それで、眼薬ともう一つビアンでもと思って、吉岡に自転車を踏んだ。時は、もう運動会の練習をしていたために、五時近くだった。
 途中で巌叔父さんの店に寄って、カバンを頼んで行った。そして、又、踏んで、吉岡に向〔か〕った。さて、吉岡に行って、米城十字堂薬局で薬を買おうと思って、ポケットに手をやったらば〔、〕はっと思った。そして、しまったと思った。金は筆入れの中に入れてあったのだ。筆入れは、巌伯〔叔〕父さんの店に頼んできた、カバンの中にあるのである。その時は、まだ店の外にいたからよかったものの、買ってしまったのでは、とんだ恥をかいてしまうところだった。その時には、どうしようかと思ったが、下町で本家の伯父〔義伯母〕さんを見たのを思い出して、伯母さんに借りようと思って、伯母さんの居たはき物屋にもどってみたが、もう、叔〔伯〕母は居なかった。やむなく、ぼくは、空しく帰ったのである……… というのが、私の失敗なのである。


 1961. 9.9 土曜日 曇り
 今日、朝は運動会の練習はせずに、40分の短縮授業で4時間して、余りの時間で運動会の練習をした。今日は入場行進と佐渡おけさを。こゝで私が痛感した事は、自分は余りにも小さすぎるという事だった。私は合計で後から50人中の15〜16番目である。大きい奴達とは、ほとんど違わないのだが、順位をつけるとこんなにも違って来るのである。3・4校時をかけて、診療所に行って、眼を治療してもらった。洗顔して、眼帯をかけられた。金を憎にく〔生憎〕、黒の学生ズボンに入れて、トレーニングパンツをはいて来たので、こゝでも、失敗してしまった。明後日、健康保健〔険〕と一緒に、金を持って来る事にした。


 1961. 9.10 日曜日 晴れのち雨
 今日は日曜日。朝はゆっくりと〔、〕足を延〔伸〕ばして寝ていた。八時、床を起き出して、一人で朝食。後の音羽清光さんの家では〔、〕法事が行われるそうであるので、母は、手伝いに行って居なかった。食後、妹達と一寸ふざけて、学校に行かねばならぬのを思い出し、自転車で暑いけれどもつめえりの学制服を着て登校。
 学校には、合唱大会に出場する生徒が練習に来ていた。コンクールは明後日である。数分テレビを見てから、英語を練習するのは、この分では午後からでもいゝなと思って、吉岡に、一昨日買いそこねた薬を買いに行った。
 まず山崎医院に行って健康〔保険証〕を返してもらって、出ようとしたら、オートバイに乗っている、勝彦さんに会った。それから、まだまだ速〔早〕いので、映画でもと思って、中央劇場に行ってみたら、安〔案〕の定、私の好奇の眼を見はらせる様な映画が出ていた。大好きな中村錦之助の出演する「宮本武蔵」と洋画「決闘ナントカの丘」というのだった。どちらも、いゝ映画だった。洋画もよかった。ぼくは、洋画も好きな様だ。


 1961. 9.11 月曜日 晴れ
 3・4時間目、職業の時間に、中居達と一緒に診療所に行った。私は、健康保健〔険証〕と金を忘れて来たので、友達(中居義広、木皿誠、安藤章悦)を誘って、家までもどってから、診療所に行って診療を受けた。昨々日と合わせて85円取られた。五・六校時は、体育。運動会の〔、〕3年生がやる分の練習をやった。当番は今日から休み。


 1961. 9.12 火曜日 ?
 昨日、7時20分まで、英語の練習をするから、登校する様に言われたので、急いで登校したが、時計が少々居眠りしていて、7時30分ころについた。でも、先生は、来ている様子もないので、校庭で皆に交じってソフトボールを始めた。その内に、7時50分になって、当番の時間になったので、ぼくらは教室に入った。
 二・三時間目、美術。授業は短縮授業で7時間を終ってから、校庭で、団体競技の練習。それが終って英語の練習。そのころ、今日、吉岡小で開かれていた全国合唱コンクール・地区予選に出場した〔て〕いた面々が帰って来た。幸い、優秀校に選ばれ、県大会に行く事になった。参加校は、八校で、その内、多賀城中、吉岡中、明星中、鶴巣中四校が選ばれたそうだ。八校の内の四校で〔、〕案外楽だった様だ。県大会は、10月だそうだ。


 1961. 9.13 水曜日 晴れ
 今日は弁当一つ。自転車の後にそれをくくりつけて、登校。しばらくして、はちまきを忘れた事を思い出し〔、〕家にもどるのも嫌なので上野屋で、一本8円也を買った。
 すぐに、練習は始まった。入場行進の時は〔、〕私は校旗持ちである。佐藤龍美も校旗。やがて、急速にプログラムは進み、午後一時三十分ころ、終った。その間中審判にもなっているし、三年生は出る種目が多いので〔、〕休むひまもなかった。クラブ対抗リレーは三位。部落対抗で大崎・砂金沢組は、女子が一位になった。
 練習が終ってから、校庭の掃除。その後屋体で英語の練習。今日初めて全部暗記する事ができた。大会は明々後日である。県大会までも行ける様に〔、〕がんばらなくては。私の番は〔、〕9番だそうだ。参加選手は28名程だそうだ。がんばるぞ。本気になってやって、きっと群〔郡〕代表になってみせる。帰宅してから、金をもらって、散髪に出かけた。


 1961. 9.14 木曜日 晴れ
 朝礼の時に〔、〕皆の前で英語の暗唱をさせられた。先ず先に〔、〕一昨日の大会で優秀チームになった音楽部の人達がそれを一曲披ろうした後、私達の出番である。一番最初に千葉裕子が、次に私、最後に文屋みよ子の順に発表した。意外にも私の胸は高まり、顔面は紅潮した。それは、誰でもないある一人の人のためである。大会の会場である大衡中学校では〔、〕大丈夫だと思う。先ず〔、〕自信をつける事だ。それらに、一時間を費して、二・三校時は英語・国語の普通授業。四・五校時目は運動会の練習・準備だが、私は英語の練習を屋体でしなければならなかった。その後、昼食。
 昼食後、校庭で明日の運動会の準備。私は〔、〕まず最初に校庭の要所々に炭俵と杭を利用したゴミ捨て場作りをし、それから、高橋重幸、千坂公夫、千葉隆、千葉文義達と八巻自転車店にリヤカーを引っぱっていって、パンクを直してもらう様頼んできた。それから、今度は、校庭の南側のがけの段を作った所を観ラン席にするために、階段造りをした。それから、相沢力、門間正治、佐藤龍美、郷右近初雄達と鶴巣小学校に行って、入場門にするためのくいを2本借りて来た。中学校に帰って〔、〕それを穴に埋めて紅白の布をまいた。それから、唐ぐわを洗って、倉庫にしまって、徒歩で帰宅。納屋で仕事をしているトタン屋さん(金子金兵衛さん)の仕事を見ていた。
 父と、母は、今日、十二指腸虫駆除の薬を飲みに、公民館に行き、体がフラフラするので半日程入院していた。皆、薬をのんだひとは青い顔をして、よたついていた。


 1961. 9.15 金曜日 ?
 朝は、小雨もようで運動会の有無が心配されたが、六時高らかに花火の音が、大会有りの報を告げた。運動の服そうをして、登校。やがて、客もぼつぼつ来始めて、開会式が行われた。すぐに演技が始まり、まず、ぼく達は三番の「馬はつらいね」に出た。ぼくの出だ種目は、「馬はつらいね」「ボートレース」「中学生体操」「佐渡おけさ」等々。
 ぼくが実際に審判をつとめたのは始めの方だけで、後はPTAの人達にまかせっ放しである。むしろ、中ごろには、いつのまにか、準備係に変更していた。
 最後には、疲れたし、嫌になったので、ずるくなって、腰をかけてしまった。それに雨も降って来たので〔、〕教室に入っていた。昼食は、母達の所に行って食べすぐ、教室に入った
 どうも〔、〕鶴巣の運動会には雨はつきものの様である。
 しかし、今日、どうも不快な事があった。まだ昼前の事であった。誰かが、「けんかだ」といったので、ぼくも急いで皆についていった。場所は、ぼくらの3の1の教室だった。驚いた事に〔、〕そこに居たのは、明星中学校の生徒であった。二人居た。一人は、すくだまって、頭をかかえ、一人は、只立っていた。
 事情はこうである。この二人の明星中の生徒、今日、授業をさぼって、兄貴分の不良(大人)と一緒に鶴巣の運動会にやって来たのである。その目的は何であったとしても全く、話に成らない奴達である。奴達は、3の1の教室に下た〔駄〕で入り込み、そこに、たまたま居合わせた遠藤一夫(中3)を侮じょくしたので、彼が逆上して、奴達を、メチャメチャにしてしまったのである。二人はすぐ、かけつけた小林先生に、職員室に連れこんだ〔まれた〕。そこで、どんな言い分け〔訳〕をしたのか解らないが、とにかく、奴達は完全に悪い。自業自得である。しかし、その後が問題である。奴達は、そんな事はまん〔慢〕性になってしまって、一コウ〔向〕に応えた様子もない。奴達は兄貴分の奴達と、手分けして、仇討ちをするため、遠藤一夫をさがし回った。やがて、彼は見つけられた。彼を連れて行こうとしたのは〔、〕鶴巣出身の定義という、ぼくの知っている人なそうだ。でも、それは、すぐ三田村先生に連れて行かれて、何か言われたそうだ。その後も〔、〕奴達は彼の後をうろうろしていた。その時の彼の心境は〔、〕どんなものであったろう。いたたまれなくなって、誰か駐在所の岡本ジュン査を連れて来たらしい。間もなく、二人の明星中生は、駐在所に補導され、兄貴分の一人も注意されたらしい。ぼく達が帰るころになっても、奴達は帰らなかった。遠藤一夫は、とうに岡本巡査に連れられて家に帰っている。大人達は、七時ころまで斉藤屋にいたそうだ。聞く所によると〔、〕千葉哲司君達が追いかけられたそうだ。


 1961. 9.16 土曜日 曇りときどき雨(台風18号)
 午前七時三十六分、利府経由吉岡行きに乗って、吉岡に向〔か〕った。吉岡は道路校時のため国道を通って、中町に出た。なべ屋という所・終点で降りて、そこで古川行きのバスを待った。間もなく、本田栄子先生が来た。本田先生はバスに乗らずに残り、私と千葉裕子、文屋みよ子、丹治先生はバスに乗った。10分程乗って、大衡中学校に着いた。この辺はもうすっかり補〔舗〕そうされて、バスは超スピードで走る。
 午前十時、大会が開催された。一番最初に千葉裕子がやった。そして9番・私の前までやって休憩。ほっと一息ついて、私はだんに立った。やっぱり、上った。ぼっとなってしまった。最初は夢中だった、が、終りの方では落ち着きを取りもどした。が、中ごろで、ヒョンな所でつまづいた。これが点数に大きくひびいた。ぼくの次に宮床中の浅野修一君がやった。ぼくは〔、〕すごくうまいと思った。でも早い事は早いが、調子に変わりはなく、単語一つ一つが明解に発音されていなかった。でも〔、〕ぼくは浅野君がNo.1で、No.2はもしやぼくかもしれない、と思っていた。ぼくとしては、最早No.1は考えなかった。でも結果は以〔意〕外にも、何の印象の残らなかった富谷中の女生徒がNo.1になり、No.2は〔、〕これも同様の吉田の女性と〔生徒〕である。それにぼくがNo.3。不思議な事に〔、〕浅野君はbest10に入らなかった。この大会で一番納得が行かない妙な気持になったのは〔、〕この浅野君だろう。彼は自分でも一番になるだろうと思っていたろうし、外の人達も、皆、素直にこれを認めていた。でも私には、その意味が解るような気がする。彼は宮床中の生徒会長である。大会の中〔半〕ばごろから〔、〕ものすごい強い風が吹き出した。屋体のまわりの、松の木の枝はあちこちで、メキメキと音をたてゝいる。ガラス窓のこわれる音も、たえなかった。昼休みに、誰か私の肩をたたいたと思ったら、それは須藤善〔喜〕雄だった。(中1)
 帰りはあいにくバスが無ないというので、タクシーで帰った。ナベ屋の所で降りて、そこから三浦の所まで歩いた近くの、そば屋で一杯食って、から、澤田屋へ入って、みやげに羊かん 100円也を買った。学校には瀬戸、笹川、平、本田(章)先生等が居た。生徒は誰もいない。夜は、一晩中、風が荒れていた。


 1961. 9.17 日曜日 快晴
 台風一過、今朝は昨日の嵐は夢の様な、平和な日和である。幸いにして、雨量は少なく、水害は無く、トタンが飛ばされた事を風害と言えば言えない事もないが、まあまあという所だ。家の被害というと、何も無いらしい。家では、2・3日前から、トタン屋さんを頼んで(金子金兵衛さん)、台所とかまやと、それに、納屋ののきの屋根をトタンにしている。その他、つけもの屋、くい小屋もするらしい。
 さて、今日は模擬試験が行われる予定だったの〔、〕で登校して見た。途中で今日開かれるはずの少年相もうの通知をしなかった事に気づき、もどって、これをつげた。
 それから、学校に行くと、被害は最大であった。自転車小屋は見事にひっくり返されて宮沢さん宅の方に転倒していたし、贈られたばかりの、鉄骨製の指き台は、上の板が風でとばされて、ガラス戸はずい分こわれていた。
 試験は、参加者不足という事で中止。これで二回目である。それで、しばらく学校に居た。外の人達は、第3回目の模擬試験の結果を渡された。私は昨日持っていった。私の点は 397だった。予想していたのは 391だったが、加減されて、この点数になったものだ。今度は最〔もっと〕がん張らなくては。家に帰ったら、祖母が来ていた。 100円を祖母からもらい、午後になって大崎に出かけた。
 第一回の少年相もう大会である。私のしこ名は、沢田風。地位は西大関である。私の取りくんだ相手は、横綱の春錦(高橋春男)、張出横綱山田川(山田勝一)、大関徳登(中米徳治)だが、私は小結以降〔上〕、ただ一人の全勝だった。本家の智(小2)も〔、〕君錦というしこ名で出場、3戦全勝した。かくて、試合は西軍の大勝利となった。個人戦は不平等な試合で、藤倉君が優勝した。5人抜きはとび入りの、千葉哲司君がやりとげた。


 1961. 9.18 月曜日 快晴
 校庭で朝礼があった際に、一昨日の英語暗唱大会の賞状伝達式があった。私は団体賞と個人賞を受けた。
 六校時終了後、模擬試験を2時間した。最初は理科、七校時は社会。模擬試験終了後、掃除(職員室)。昼休み、千葉文義に10円貸した。私は、単語カードを2個、20円で買った。


 1961. 9.19 火曜日 快晴
 私は失望した。あいつも、やっぱり普通の女だった。嫌、それよりか〔、〕今では下品に見えて来た。せっかくのめぐまれた顔立ちも〔、〕あれでは台無しである。
 一時は高〔領〕嶺の花とも仰いだものだが、今となっては普通の女と変わらない女になって来ている。私は、とうとう、彼女の本性を見せつけられた様な気がする。今となっては〔、〕何もかもが嫌な事に感じ取られる。かつては上品そうに聞こえた笑い声も今では、下劣な業とらしい嫌な笑い声に聞こえる。そして、前に私の心を引かせた、静かさ、優美さ、神秘さ等というものは、あとかたもなくなっている。あいつもだ落したもんだ。そして、私もだ落した。奴は津田晃哉といゝ仲の様だ。あいつら二人なら〔、〕お似合いだろう。馬鹿な奴達は馬鹿な奴達どうしで、結構やればいゝさ。ぼくには、ぼくの歩む道があるさ。その内、最〔もっと〕いゝ人を見つけてみせるさ。
 それにしても不思議なのは、何にも増して人間の心である。あんなにも夢中になった女を、今は何の悔いもなく、捨てる事が出来るのであるから。やっぱり、初恋は破れるものなりだ。初恋よ、川島節子よ、さようならだ………ア・ハハ………
 今からは〔、〕あいつに対して何の恥ずかしがる事もないのだ。ぼくは〔、〕あいつを嫌いになったんだ。誰が来たって、大手を振って、知らんふりをして歩け。なんの〔、〕あんな奴。よくもあんな気持の悪い奴に惣〔惚〕れたと〔、〕今更思う。それにしても〔、〕あいつは、かわいそうな人だ。まるで〔、〕自分がクラス一の女性だと思っている。まだまだいゝ人がいるのに。
 七・八・九校時模擬試験。英語の試験の時に、山田勝一が、ヒョンな声を出してぼく達のクラスに来たので、小林先生に後でしぼられていた。津田晃哉と高橋春男が日月ボールをしていたので、これもしぼられていた。定夫君もやられていた。力君は今、将来について悩んでいる。力になってあげようと思う。


1961. 9.20 水曜日 晴れ
 今日、最終の2科目の模擬試験があった。これで全部終ったわけである。
 掃除は補習前にやったので、せず、帰宅。靖君と一緒に帰った。アイスクリームを2個買って、二人で食いながら〔、〕二人乗りしてきた。
 今日、屋根の工事が完成した。杉皮の時とは見違える様に〔、〕りっぱになった。トタンは日の光に映えて、キラリ光っている。
 夕方風呂たき。今日から稲刈りが始まった。兄も、土工を休んで、働いている。今年は、ぼくの入学の年であるから、米が沢山とれるといゝな。


 1961. 9.21 木曜日 曇り
  376点。これが、今度の4回目の模擬試験の点数だ。第一回以来〔、〕下がりっ放しである。なんという事だろう。 407、 406、 397、 376とガタガタ下りである。 自分は馬鹿なのではないのだ。それは授業をして、納得のいかないものはないからだ。こんな点数なのに、夜はズル気をこかしている。8月21日の決心を忘れたのか。あの決意は決して守られているとは言えない。
 もう一度読み直してみろ………
 そうだやっぱりおれは、日本一の中学生にならねばならぬ。こんなことではだめだ。
 父は今、目の中に出来た出来物が痛んで〔、〕朝から寝込んでいる。
 医者に行けといったのだが、そこが、がん固な彼の事であるから、言う事をきかない。そんな事は最も馬鹿らしい事だ。とにかく、早く医者に見せねば、もう耳の穴がふさがってしまいそうだ。


 1961. 9.22 金曜日 晴れ
 昼休みの時間である。遊んでいたら、先生に呼び出された。何の事か皆目解らず、とに角、職員室に行ってみた。行ってみると、話の内容はすぐ解った。
 それは、私の将来にとって極めて重要な事であった。
 日本育英会の奨学金の借り入れの事だった。私は実の所希望しなかったのだが、とに角、応募してみる事にした。今はまだ、不自由でもないが、ぼくから後は、年令差の少ない妹達が4人居るのである。ぼくが高校3年になる時、静枝は高1になるはずであるし、静枝が高3になったとすれば、私はうまく行けば大学の2年生という事になるのである。それにつけ加えて、小秋が高校一年になるはずである。小春は、その時中学の一である。2年すれば高校に上がるのである。
 この様に〔、〕多い時は高校以上の学校へ3人もやらなければならないという親の気持は〔、〕どんなであろう。責めて、ぼくだけでも、親に余り迷惑をかけたくない。でも何としても、大学を卒業しなければならないのだ。
 学校に通いながら、土・日曜日にはアルバイトもするつもりである。従兄の紘一君を見習いたまえ。彼は〔、〕あわれな程に苦労している。そして彼は、私にある意味の自信をつけてくれた。私の将来は、私一人が切り開〔拓〕いていくべきものである。幸い、自分はある程度の才能にめぐまれている。武器は、これ一つである。これに磨きをかけて、成功の道を開かなければならないのだ。人一倍苦労すれば又、人一倍の楽しさが、いつか来るであろう。私は、それを願う。栄冠涙あり。苦あれば楽あり。
 それにしても、金が無いという事は、みじめな事である。しかし、そこに本当に人間味のある生活とは、そんな人達の間で行われていると思う。
 よし、おれは、世の中のあらゆる人達に苦しみを一つに集めた様な苦しみを味わうんだ
 夜、東京の修兄に手紙を書いた。それは、上の様な事である。父にも相談して、この事を了承してもらった。
 12時過ぎまで起きて、勉強にふけった。


 1961. 9.23 土曜日 ?
 朝、昨夜のつかれか、ぐっすり寝過ぎてしまい、大部遅く起き出して朝食を取った。それから雑誌、新聞等に読みふけっていた。父が田から上って来て、きぬい〔ゐ義〕伯母さんの義弟が交通事故で死んだ事を伝えた。それでおくやみを持って〔、〕本家の叔〔伯〕母さんの所に頼みに行った。伯母は10時?分のバスで、出かけたらしい。
 本家の叔〔伯〕母が居なくなったので、母が、墓参りに行く事になって、小春と2人ででかけた。ぼくは、それから勝負沢で、稲刈りをしている父、兄、義姉に弁当を運んでいった。
 間もなく昼になり、1時半ころに、帰って来た母達と昼食を共にした。
 午後、自転車で少し散歩して、家に帰って、又本等読んでいると、富谷の従姉ひとしさんの子供である、修一(小5)と直子(小2)が訪ねて来た。一緒に智、豊彦、友子も来たので〔、〕遊んだ。本家には、勝彦さんと〔、〕そのいわゆるガールフレンドである優〔裕〕子さんという人が来ているが、私は、まだ見たことがない。夕方〔、〕重夫叔父が来た。東京の親類で〔、〕何か起こったらしい。夜は、8時半ころ思い切って寝た。


 1961. 9.24 日曜日 曇り
  午前〔、〕退屈忍〔凌〕ぎに、野郎供〔共〕を探して歩いたがどこにも居ないので、中米長蔵宅に行ってテレビを見せてもらった。音羽美恵〔枝〕子も居た。それに、宮沢次郎(小3)も居た。
 昼〔、〕家に帰って昼食。昼食後〔、〕すぐ風呂水を取りかえた。それから〔、〕机に向って勉強を始めた。ぼくは〔、〕勉強の方法として〔、〕嫌記憶術として、カード式を選んだ。4〜5日前買って来たカードに〔、〕美術80枚、理科25枚、保健体育5枚書き上げた。これは、大部能率が上るものとみている。
 夕方これをやめて、風呂たき、馬屋掃除、そして夕食。
 夕食後、続きの勉強を少しして、奨学金の事について話し合った。結果、今度は、月千円位ならもらわなくてもいゝし、受けても何の意味もなく〔、〕本人が後で苦労するだけだという事になり、借り入れない事にした。でも私は高3になったら、静枝も入るので受けようと思う。


 1961. 9.25 月曜日 雨
 〓〓〓〓について
 彼とは、小学校時代から縁が深い。そもそも私と彼とは小学の4年ごろから、大変仲が良くなった。でも今考えてみればけっしていゝ友達ではなかった。
 小学校の四年ごろに私は、少年探偵団というのを作った事がある。しかも〔、〕それは一種の不良団体である。その団長たるものは〔、〕私であった。その当時〔、〕私はボスであった。グループの者は皆仲がよく気もあったので、会はうまく運営されていった。会う場所は、小学校の古い倉庫の中〔、〕又は組合倉庫の影〔陰〕と、人の居ない所に決まっていた。
 だが、このグループにもやがて破滅が来た。その破滅の口火を切ったのは〓〓だった。こうして、仲間は次々と別れて最後には、2つのグループに別れた形となった。一方は私を中心とするグループで、今一方は〓〓を中心とするグループである。そして、この二つのグループの決戦の時がついに来た。そして、この二つのグループは、今でもはっきりとおぼえている〔、〕あの八巻輪業の後の空地の所で〔、〕向い合ったのである。やがて戦闘が開始された。しかし〔、〕結果はどうともつかなかったらしい。それを境として、この2つのグループも消えていった。こんな事を平気でしていた〔、〕私である。しかし、時の4年2組の担任である千坂一郎教諭によって、私の精神は、真〔心〕底からたたき直された。それ以来〔、〕私はそんなものとは、一切、縁を切ってしまった。こうして〔、〕私のボス生活は終ったのである。もしあのボス生活があれから続いていたらと考えると、自分のおろかだった事が身にしみ又、恩師千坂教諭に対する感謝の念でいっぱいになるのである。
 そのころから、私は作り変えられていった。やがて、4年も終り、5年になった時には、もうしっかりと私は出来上っていた。私は、第一に、正しい落ちつきのある、頭のよく切れる子になっていた。私の今まで15才までの内で、このころが一番りっぱな時であったと思う。正に神様であると〔、〕自分は思った。今の自分よりは〔、〕はるかにりっぱであったと思う。

 やがて5年も平穏の内に終り、最終学年の6年になった。この時の教諭が、早坂きくゑ教諭であった。そして、この人が私に与えた影響は〔、〕非常に大きかった。4年来それでも、私と山田との仲は決して良くはならなかった。かえって悪化した程である。この早坂教諭というのは、どんなにか私がにくかったらしい。そのむごい仕打ちに、まだ6年であった小さな私は〔、〕どんなにか苦しんだ事だろう。自分は何もしないのに、毎日悪口又悪口である。
 とうとう私は、その仕打ちにがまんが出来なくなって父に一切の事情を話し〔、〕学校へ行きたくないと言い出した。父も私の話を聞いてすっかりふんがいして、そんな学校へ行く必要が無いといった。それで、私は、机に向って一人で勉強していた事をはっきりと覚えている。しかし、元々、純真な私である。無断で学校を休んだという、罪にたえきれなくなって、昼ごろ、学校に出ていった。調〔丁〕度昼休みであった。ストーブのまわりに〔、〕先生と生徒級友達が集まっていた。私は〔、〕ここまで来るのに何度ためらった事か。それでも〔、〕思い切って教室に入ったのである。級友は私の入った事に誰一人として気付かないで、みな寒さを嫌がって、ストーブに集まっていた。私も寒かった。それで、そのままストーブに寄っているみんなの後に行った。しばらく知らぬふりをして先生の話を聞いていたが、思わずかーっと頭に来た。
 何という先生だろう。自分の罪を恥じもしないで、その〓〓から、私の悪口を聞いている。〓〓は先生の気兼〔機嫌〕取りであったから、得意そうにありもしない事をまくし立てている。そして、これから私の家に行って来るという事である。
 私はいたたまれなくなって、「歯医者に行って〔、〕今帰って来ました。おひまを願います」と口から出まかせを言って、寒い外に〔、〕肩に古くさいカバンを背負って跳び出していった。先生や、外の級友、〓〓達は、あっ気に取られていた。おそらく〔、〕私はどうしていゝかわからなかったのだろう。そんな風であるから、6年生は私の最も嫌な時である。成〔積〕績も〔、〕いくら勉強しても上げてくれなかった。〓〓の点数はきっと良かったであろう。又、そのころの〓〓〓君も。二人は先生のお気に入りであるから。
 私は〔、〕早坂教諭を憎む。幼かった私をあんなにまで苦しめた早坂を………
 やがて〔、〕私は中学校に入った。しかし〔、〕あの苦しかった小学校6年時代にも私の正義感は増々燃えたぎって、本当にりっぱな少年になっていた。そして、苦しみのために多少無口な少年になっていた。担任は加藤教諭であった。そして、この人は、この無口な私に明るさを取りもどしてくれた。だがこのころから、少しづつ、くずれ始めている面もあった。それは二年の中ごろまで続いた。しかしそれも変わった。千葉八郎教諭によって直された。それは、先生への理由もない反抗という事であった。中学二年を終るときは、もう元の私に返っていた。が、このころ、私の思春期が始まった。そして、そのまま3年生になった。私の思春の気持は直〔尚〕々発達し〔、〕それと供〔共〕に、不良化の原因になるものも何度か私を襲った。しかし、それを防いでくれたのは、現在の小林教諭なのである。そして、今思春はついに度を越し〔、〕恋は破れた。
 そして〔、〕今私は、小学校5年生時代の中2時代の自分に返〔帰〕るために〔、〕今も努力しているのである。
 こうして考えてみると〔、〕私は全ての小学校からの担任教諭から何かを求めとっている。
 佐藤都〔みや〕子教諭は私に、かしこさを与えてくれた。ついで千坂教諭は、ボスから私を救い出し、正義の道を教えてくれた。やがて〔、〕長谷川教諭は私に真面目さを与えてくれた。中学校に入り、加藤教諭は、私に明るさを取りもどしてくれた。千葉八郎教諭は私から反抗期を取り去ってくれたし、小林教諭は、私を悪の誘いから守ってくれた。そして、これからも進学等について何かを私に与えてくれるだろう。
 ただ一人、早坂教諭は、私に苦しみを与えてくれた。私は先生をにくむ。今でこそ簡単に苦しみと言う事が出来ようが、幼かった自分の苦しみは、口ではいゝつくせない。私は、憎む。しかし、つとめてよく解釈しようとすれば、先生は私に苦しみに打ち勝つ事を教えたのかもしれない。しかし、そんな影はみじんも見えなかった。
 さて問題の〓〓であるが彼は、この間に、どんな道を踏んで来たであろう。
 彼は中学に入って、1・2・3とも私と組は一緒にならない。私も彼を何とも思わなかった。そして〔、〕彼は〓〓〓〓君、〓〓〓〓君達と歩く様になった。彼達がどんな存在かは〔、〕言わずと知れた事である。やがて、彼はけがをした。それ以来、私は彼が少しおかしいと思っている。前には、グれてはいたけれども〔、〕その中に一人の人間というものが確かに存在していた。しかし〔、〕それからというのは、まるでフラフラ、骨の無い人間の様である。
 そして、今日、私は 333番斉藤屋で、彼とあった。そして、5〜6年振りに話らしい話をした。そして私は、少し彼を見直した。彼は思っていたよりも、勉強に目ざめていたのである。彼は私に〔、〕その事について、色々聞いた。そして〔、〕彼の希望も語った。
 これで何年かぶりで、私と彼の心の中から、冷たいものが流れ去った様な気分である。
 夜、嫌〔いや〕、夕方、油揚げを一枚かって〔、〕食った。


 1961. 9.26 火曜日 雨
 今日も雨のために、マラソン大会は中止である。3・4校時美術の時間、自分が今考えている感情を絵に書き現〔表〕わしなさいと言われた。私は、黒一色で「空しさ」と言うのを書いた。私の今の気持は本当に全てが空しさである。


 1961. 9.27 水曜日 雨
 今日は日直だった(津田晃哉と)。体育の時間に西川橋まで走らせられた。


 1961. 9.28 木曜日 晴れ
 四校時まで普通通り授業を実行し、午後一時より、十月の駅伝大会に備えてのマラソン大会があった。この結果によって選手を決定する訳である。
 私は、百九位であった。人数は百六拾何人である。とに角〔、〕私は本気では無かった。コースは学校〜北目〜日光山〜別所〜大崎で5Km。日光山まで行く内に〔、〕何度歩いた事か、たるんでいる証拠である。それまでは、一番後だった。走るぞという気持を起こしたのは、ぼくの家の一寸前からであった。そこから力走して、50人程追い越した訳である。しかし〔、〕最〔もっと〕たるんでいる連中が居た。それは去年の駅伝の選手である。みんな〔、〕ぼくより遅れたのが随分多い。35番内は7人である。後は一年、二年。
 一位は中居善弘、二位中米徳治、三位曽根芳春、四位安藤勝(1年)、抜いて7位中米寿夫〔寿男〕(2)、8位中米新吾(2)という具合。
 女子も走ったが(3Km)、一位は中居すみ子(1)であった。徳治君の妹(中米きみゑ〔きみえ〕)は8〜9番、ふみゑ〔富美江〕は16番だかである。
 中居兄妹といゝ、中米兄妹といゝ〔、〕やはり血は争えないものである。
 夕方までかかって新しい席の案を作って〔、〕先生に提出して承認してもらった。明日から並ぶ様に、黒板に図を書いていった。


 1961. 9.29 金曜日 晴れ
 三校時目に音楽があった。その時〔、〕千葉隆からあけびを一つもらった、山の宝である。実は、これは今年の初物である。うまかった。
 今日から新しい席順になった。これを取りかえた原因は〔、〕私にあった。それは川島達から、離れるためである。あいつは〔、〕本当にあいそがつきた。
 夜、学校に勉強に来た。宿直は伊藤太郎教諭。数学をした。それから、使丁・衛生室に泊った。夜は全然眠られず〔、〕真夜中〔、〕外を歩いた。


 1961. 9.30 土曜日 晴れ
 昨晩来(、)学校に泊り〔、〕今日の午前になって、30分程眠っただけで、一睡もしない。5時ころ起き出して、保健室を片づけて、家に帰った。やがて朝食。皆は、田に出かけ、妹達は学校に行った。私はどうしようもない眠気に襲われて、ふとんに入って眠ってしまった。知らぬ間に眠りに眠ってしまい、目をさまして時計を見た。十時四十五分。でも最初はピンと来なかった。十時四十五分といえばもう、十一時十五分前なのである。学校の授業は何時間目かと見ると、驚くなかれ三校時目がもう少しで終るのである。あわててカバンを準備し愛用の、古自転車で登校。着いた時は、調〔丁〕度休み時間だったらしい。
 そこで出会った泉田八男君と一緒に〔、〕学校に入った。もう〔、〕授業は始まっていた。理科の授業だった。とに角小林先生には、言いづらいので、「理由は後で」と言って、席について授業を受けた。
 四校時目の授業が終ってから、第二期の学級役員の選挙があった。私は委員長、藤倉君が副委員長に決定し、女子の副委員長は、音羽美恵〔枝〕子と石川八重子がせり合い、結果は14・15で音羽が敗れた。私は音羽を書いた。音羽は目立たないけれども〔、〕いゝやつだ。
 やがて昼食。そして、補習三時間。補習が終ってから、先生に遅刻理由を報告に行った。先生は最初きつい顔をしておられたが、だんだん笑って〔、〕〔、〕私を許してくれた。
 藤倉君と一緒に帰宅。風呂をたき、馬屋を掃除していると、働き手達が、帰って来た。やがて楽しい夕食。で私は母に、「母が寝る時に起こしてくれ」といって、風呂に入って寝てしまった。でも〔、〕母は私を起こしてくれなかった。


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