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第三部 田村郡大越村





 大越氏についてはすでにたびたび言及したが、もちろんこの中世の段階においては、いまだ澤田氏との直接的関係にはなかった。しかし、今日澤田氏に流れ込んでいる多くの血のなかで、その先を中世に至るまで「確実に」たどれるのは、ひとり大越氏を措いて他にはないそこで、叙述の便宜上、ここで大越氏のことをまとめて叙述することにしたい。




第一章 大越氏



第一節 坂上姓田村氏
「大越(初メ田村ト称ス)、姓ハ坂上サカノウエ 、其ノ先ヲ知ラス」(『伊達世臣家譜』所収「大越家譜」)。
「大越家伝  姓坂上〔・〕氏田村
 旧田村一家にして田村(中略)之旗下に属し、田村之領大越村を領し上大越の城〔鳴神城〕に居り、因て大越を以て氏とす。田村二番の大家」(「大越家系勤功巻」)。


坂上田村麻呂の末裔
「『寛政重修諸家譜』によれば、〔大越氏の本姓〕田村氏の祖は坂上田村麻呂となって
いる」(『福島県史』)。
 そもそも「大越」の地は、「延暦年間(七八二~八〇六)坂上田村麻呂が、勅命を奉じ、大滝根山麓に住む大嶽丸悪露王追討のため、本〔大越〕町駒ヶ鼻から、一軍大声をあげて攻め登り、賊を破ったと伝えられ、以来『大聲』といわれて来た。それが『聲』が『越』に変わって、大越と呼ばれるようになったといわれている。
 天正年間(一五七三~一五九二)、大越紀伊守〔顕光〕の居城『鳴神城』を中心とする城下町であったが、農村としての集落が形成され、三春藩の領地として支配を受けて来た。」(『福島大百科事典』)「大越氏は、田村の一家にて、天正中、紀伊守〔顕光〕あり、〔伊達〕成実
しげざね日記に見ゆるごとし。大越より常葉ときわ 、船引へかけて、田野頗る平夷豊美なり、亦山間の沃土と謂ふべし」(『大日本地名辞書』)。

田村一家大越氏
「南北朝期に南朝方として活躍した庄司田村氏は、14世紀ごろに没落、これに代わって平姓田村氏が15世紀に台頭し、16世紀初頭には三春を本拠とする〔三春田村氏〕。当地には鳴神城を築き、田村東方の要害として大越紀伊守顕光(橋本信貫)を配したという。」(『角川日本地名大辞典』)
 すなわち、大越氏は坂上田村麻呂の末裔と称している戦国大名「田村一家」で、「初メ田村ト称」していたが、「田村之領大越村〔福島県田村市〕を領し、上大越の城〔鳴神城〕に居り、因て大越を以て氏と」した、「田村二番の大家」(「大越家系勤功巻」)であった。


第二節 大越氏
「旧田村一家にして、」「田村之領大越村を領し上大越の城〔鳴神城〕に居り、因て大越を以て氏とす。田村二番の大家」(「大越家系勤功巻」)。

大越氏祖右近太夫常光
 『伊達世臣家譜』は、「大越(初メ田村ト称ス)、姓ハ坂上、其ノ先ヲ知ラス」とし、紀伊守顕光の義弟甲斐守を「田村甲斐守某」としている。
 「大越家系勤功巻」は、「姓坂上〔・〕氏田村」としている。
「一般の田村氏の系図は輝定(輝顕)以降はほぼ信頼できるようになっており、(中略>)輝定のところで合致する。」(『古代氏族系譜集成』)
「田村庄司重顯〔持顕〕舎弟右近太夫常光(大越氏祖)父刑部太夫滿顯〔輝顕の孫〕田村家ヲ嫡子重顯〔持顕〕于
譲リ而大越ノ塁ニ於テ移居ス、乗真齋ト号ス、常光父隠居領遺跡ヲ相継ス、故ニ大越氏ヲ称ス、

大越山城守常光
 常光六世之孫
  大越右京 山城守
 ◯常光─────────────────────────────────────────┐
   天文十二(1543)年癸卯四月田村安藝守隆顯伊東但馬守佑継与接戦之時安積郡ニ於テ戦死   │
┌────────────────────────────────────────────┘


大越摂津守利顕
│    大越左衛門 摂津守
└─利顯─────────────────────────────────────────┐
     法名圓嚴涼光                                  │
   大越・菅谷・鹿股・廣瀬・片平村ヲ領ス、家臣白石・新田・秋元             │
┌────────────────────────────────────────────┘
│    大越兵部太輔 紀伊
└─顯光─────────────────────────────────────────┐
     母掛田右京太夫義宗女                              │」(『衆臣家譜 巻十』相馬宗家所蔵)
 すなわち大越氏の祖は右近太夫常光である。常光は父田村満顕が嫡男重顕〔持顕〕に家督を譲り隠居後共に大越城に移り住み、そのまま父の隠居領遺跡を相続して「大越氏」を称し、その祖となった。父満顕は、田村輝定(輝顕)の孫である。
 2014年3月16日、はしなくも本家譜をご覧いただいた、福島県中通り在住で下記「広瀬城主大越孫七郎」の末裔と思しき、その名も奇しくも「大越あきみつ」氏より親しくメールをいただき、思いがけず大越氏発祥の詳細が上のとおり判明する僥倖に際会した。
 『奥相茶話記』に、「大越摂津守・同子息紀伊守〔顕光〕」とある。

     
第三節 大越一族
大越一族とその居館
「『田母神
たもがみ氏旧記』(『仙道田村荘史』)には、末尾に『天正十五[1587]年三月、各血判』と記して、一門以下の田村家中六十数名の名が連ねられている。〔のちに述べるように、〕前[1586]年十月の清顕の死後、家中の衆が誓書をもって結束を固めたものであろうか。(中略)家中が相馬・伊達のいずれをも三春に引き入れることをせず、独自の政治路線をめざすことを決定した際の誓約連判かともみられる(注記は後筆であろう。◯印を付した注記は『仙道田村荘史』著者が施したものであろう)。この文書についてはなお検討を要するが、天正期田村家中の大要をうかがうに足りよう。これによって東方・南方・西方・北方の各要害とその館主、さらには宿老・奉行などを知ることができる。
 田母神氏旧記
御一門中御家門方
 広瀬居館   大越孫七郎   (中略)  大越居館   大越紀伊守 ◯顕光
        同源左衛門                一男左近 相馬に住す
 (中略)                        二男若狭 秋田に住す
北方要害
 常葉居館   大越八郎左衛門
        弟彦右衛門 相馬と合戦の節百目木
どうめぎにて討死
        一男三之丞 米沢に死す」(『三春町史』)
 また、「〔常葉〕甲斐守が田村清顕に離反して岩城に走ったのち、常葉城は大越紀伊守・石沢修理亮の居城とな」(『角川日本地名大辞典』)った。
 さらに、『奥相茶話記』には「大越甲斐〔紀伊守顕光の義弟〕が居城舟引」と、『磐城史料』には「下大越の館主〔大越〕備前守」との記述が見られる。


東方与力五十騎
「『田村家臣録』〔片倉文書〕には田村家中の宿郎(四人)・城主(二十人)・弓足軽大将(九人)・鉄砲大将(十六人)・近習(三十五人)、計七十人の面々が記されているが、このうちで大越紀伊は『東方与力五十騎』を従えている。」(『三春町史』)
「『田村氏宿老外連名』〔表紙〕
 (中略)
   一門一家東西南北御一字被下クダサレ衆
 (中略)
 東方与力五十騎      (中略)    東方与力五十騎      (中略)
一大越紀伊守 大越城主          一大越孫七郎 広瀬城主
(中略)
   鉄砲大将
一大越新五郎 足軽五十人」(『三春町史』)


大越城(鳴神城)
「田村家中の地頭たちが構えた城館は、下って慶安二(一六四九)年の『三春領古城絵図』によれば四八を数える。三春五万石領の戦国期における郷村数をおよそ一〇〇とすれば、二カ村に平均一つの城が存在したことになる。次に『元和八(一六二二)年老人覚書』にみえる田村領の城館を掲げよう。(中略)
 大越城〔城主大越紀伊は田村に逆心し、政宗の攻撃を受け二、三年籠城後、ついに岩城に逃れ、岩城で切腹した〕。」(『三春町史』)
 同「三春領古城絵図」には、
「上大越村/城主大越紀伊守 根廻七百四十間 高三十弐間 城上水なし
 下大越村/城主同紀伊守  根廻り三百間  高サ十間  城上水なし かさ山有」とある。
「ところで、〔のちに述べるように、〕天正十六[1588]年伊達成実が大越を攻撃した際のことを『伊達治家記録』は、『町・寺マデ焼払ハル、敵町構ヲ引退キテ二・三ノ曲輪ヲ堅ク守ル、因テ攻ムベキ術ナシ云々』と記している。大越城が本丸をはじめ二の丸(二の曲輪)・三の丸を備えたことが知られ、また城ふもとのいわゆる根小屋町をも合わせて総体として要害の構えを成したことは、『町構え』の語から明らかである。」(『三春町史』)


第四節 大越紀伊守顕光

「    大越兵部太輔 紀伊
└─顯光─────────────────────────────────────────┐
     母掛田右京太夫義宗女                              │」(『衆臣家譜 巻十』相馬宗家所蔵)
 紀伊守顕光の生母は掛田右京太夫義宗女であり、相馬義胤の生母(掛田御前)も同じく掛田右京太夫義宗女なので、顕光は「相馬義胤公の為には従弟」(「大越家系勤功巻」)である。
 『貞山〔伊達政宗〕公治家記録』にも、「田村ノ一家大越紀伊ハ相馬殿義胤ノ従兄弟」、「大越紀伊ハ(中略)義胤ノ従兄弟」と記されている。


田村二番の大家にして相馬義胤公の為には従弟也
「田村大膳太夫清顕公之旗下に属し、田村之領大越村を領し上大越の城〔鳴神城〕に居り、」「田村二番の大家にして、相馬義胤公の為には従弟也。」(「大越家系勤功巻」)
「田村系譜」の隆顕の項には、「田村籏下館主一族」の一として「大越館主・大越紀伊」の名があげられている。
「田村の一家大越紀伊は相馬殿義胤の従兄弟にして、田村歴々の大身なり、此者大越城に住す、(中略)田村一の大身は梅雪斎〔顕基〕嫡子右馬〔頭〕清通なり」とある。
 さらに、同閏五月十二日の条には、「梅雪〔顕基〕嫡子田村右馬〔頭清通〕は田村一番の大身、大越紀伊〔顕光〕は二番の大身にして、皆義胤の従兄弟なり」とある。
 いずれも、「大越家系勤功巻」の「田村二番の大家にして、相馬義胤公の為には従弟也」の記述を裏づけている。


伊達へも縁類・岩城家同姓之親・橋本信貫
「大越摂津守・同紀伊守是は伊達へも縁類也」(『奥相茶話記』)。
 田村隆顕の嫡子清顕の正室は相馬義胤の叔母で、伊達政宗の正室愛姫を生んでいる。つまり義胤をはさんで、顕光は母方の従兄弟、愛姫は父方の従兄妹にあたり、政宗とも義理の従兄弟にあたるわけである。
 また、『三春町史』は、「顕光〔は〕(中略)石川氏に親近した士であろう。」と推測している。
 さらに、顕光の義弟「甲斐守与ト岩城家ハ同姓之親有ル也」(『伊達世臣家譜』「大越家譜」)。甲斐守とその姉・紀伊守室の生母は岩城氏の出であり、「〔岩城左京大夫〕常隆の乳母」(『桾拾集』)であった。
 なお、既述のごとく、大越顕光は時に「橋本信貫」と別称されており、特に義弟甲斐守は、多くの場合「橋本甲斐守」とされている。
 これから述べるように、紀伊守の好敵手である橋本刑部顕徳を祖とする「橋本家譜」(『伊達世臣家譜』)には、「橋本姓橘」とある。橘氏は、すでに述べたように、猪狩氏の類族橘諸兄に発しており、猪狩氏もまた自らの本姓を橘氏としている。
 これを要するに、田村氏第二の支族大越氏は、田村宗家を始めとして、石川・相馬・岩城・伊達・橋本等の諸氏と、きわめて密接な関係にあったのである。


「常葉光貞・大越顕光連署起請文」
 既述のとおり、顕光の祖父山城守常光が、「天文十二(1543)年癸卯四月田村安藝守隆顯伊東但馬守佑継与
接戦之時安積郡ニ於テ戦死」(『衆臣家譜 巻十』)した。
 翌「天文十三[1544]年七月、田村家中の常葉光貞と大越顕光は、石川稙光〔・晴光〕父子との和睦に努力することを石川方に対して誓約した。」(『三春町史』)
「常葉光貞・大越顕光連署起請文(角田石川文書)
 以前自リ当方江御懇切之筋目相捨テス、殊ニ此般御刷
はらい之儀、末代ニ於テ御心指ニ存候、此上ニ於テ者ハ 〔石川〕稙光〔・晴光〕御父子・〔田村〕隆顕〔・清顕〕父子無二ニ仰セ合サレ候様ニ、御取成シ貴所之有ル可ク御前ニ候、又当方ニ至テ者、我々両人涯分取成申ス可ク候、尚御当方以テ何事御座候共、両人談合致シ候而、涯分御奉公申ス可ク候、此旨偽候者ソフラハハ、八幡大菩薩・摩利支尊天・大元明王各御罰ヲ蒙ル可キ者也
    天文十三[1544]年甲辰七月三日            常葉貞光(花押)
                              大越顕光(花押)
        泉左衛門尉殿 参ル」(『三春町史』)
「光貞・顕光ともにその実名の光から考えて、石川氏に親近した士であろう。いずれにせよ、〔伊達〕晴宗方の石川氏と〔伊達〕稙宗方の田村氏との和解について、両氏に両属関係的な傾向にある常葉・大越が一定の役割を果たしたことがうかがわれる。」(『三春町史』)
 『三春町史』の執筆者が大越顕光を、「石川氏に親近した士」で、石川・田村「両氏に両属関係的な傾向にある」としていることは、特に興味のあることである。この石川氏とは、もちろん、澤田氏の本姓「清和源氏石川氏」に他ならないのである。
 なお、この起請文は、現在宮城県立図書館に所蔵されており、450年前の大越顕光の筆跡と貴重な花押が今に残されている。
「しかし十四[1545]年一月の岩城重隆の書状には、常葉と大越がひそかに晴宗・重隆方に通じようとしている様子が記されている(『伊達正当世次考』)。」(『三春町史』)

     
第五節 紀伊守顕光歴戦奮闘す
大越紀伊守信貫等大剛の覚へ有る者供
「角
かくて文禄〔天正〕二[1574]年の事かとよ、田村庄小平村の城主小平大膳亮朝鎮逆心して籠城しければ、〔田村〕隆顕〔・清顕〕父子是をきき、我れ足元より出でたる謀叛人をば世上への見こらしに葉を枯し根を絶てとて、父子馬を出され、(中略)常葉伊賀守清重・橋本刑部小輔貞綱〔顕徳〕・田村宮内大輔顕貞〔顕康〕・(中略)大越紀伊守信貫〔顕光〕・田村右馬頭清忠〔清通〕・田村右衛門大夫隆信〔清康〕(中略)等を始めとして田村の親族、大剛の覚へ有る者供、人数引き連れて助け来り、荒手を入れ替へもみ立てければ、小平大膳が兵供(中略)大半討れて、今は結城の城に引き籠もり、戦ふべくとも見えざり」(『奥陽仙道表鑑』)。

橋本紀伊守信貫七百余人にて籠城し/猪狩氏との対峙
 1576〔天正4〕年、「〔田村〕清顕安積郡へ出馬し、会津〔蘆名〕方・須賀川〔二階堂〕方の小城主供を片端より攻め伏せて、片平村〔郡山市〕迄其の道五里が間を切り取り我が有とせられければ、(中略)此の間に岩城左京大夫常隆兵を起し、竹貫三河守・同但馬守・猪狩中務小輔〔親満〕・同下野守〔親之〕・三坂〔越〕前守等先陣にて、上移〔船引町〕の城を攻め落とさんと小野郷へ押し寄せる。此の城には田村宮内大夫顕貞〔顕康〕五百余人にて籠もりけるが、小勢なれば覚束なしとて、小野新町の城主田村右衛門清忠〔清康〕、小野六郷の兵七百余人を催して顕貞〔顕康〕へ加勢す。又大越の城には橋本紀伊守信貫〔顕光〕七百余人にて籠城し、鹿股彦四郎を大将として三百余騎、其の外三本木十郎左衛門尉(中略)以下の城持共、皆田村方として東西南北に入り乱れて、合戦相止む事ぞなき」(『奥陽仙道表鑑』)。
 すでに岩城氏の章で述べたように、猪狩下野守親之は仙台猪狩氏の初代である。 岩城常隆の田村領攻めは、この1576年ころから1589年ごろまで、十余年にわたって執拗に繰り返された。その度に、大越・猪狩両氏は、時の情勢により敵となりまた味方となって、戦陣に赴いた。


「伊達と結んではなりませぬ。」/愛姫の伊達氏入嫁
 さて、このころ「田村清顕に、ふと一つの望みをめぐむ噂が耳に入って来た。
 伊達家の嫡子、藤次郎政宗が、嫁をさがしているという噂であった。(中略)『これこれ、内匠、大事な相談がある。重臣たちを集めてくれぬか』
『実は、伊達のお伜が、嫁さがしをしているそうなが、人物はどうあろうかの』
 すると、話を察して大越紀伊顕光がまっ先に手を振った。
 『伊達と結んではなりませぬ。ご当家はやはり、相馬か芦名と結ぶべきでござりまする』
 その言い方が、あまりに手きびしかったので、清顕はムッとした。
『紀伊、こなた耳があるのか』
『はて、あるゆえご返事申し上げましたが』
『わしは、どこと結ぼうかなどと申したか? わしは、伊達のお伜とは、どのような人物かと訊ねたのだ』
『人物などは存じませぬ。風采あがらぬ片眼の由。そもそも、幼にして片眼を失うような者は、これ不運の前兆………』
『黙らっしゃい! 人物を知らねばそれでよい。梅雪、こなた噂は聞いておらぬか』(中略)
 田村清顕は決して軽率な男ではない。(中略)
 彼は反対している大越紀伊と、一族の田村梅雪を睨むようにして、
『これで決まった!』
 と、大声で膝を叩いた。
『めご〔愛姫〕の婿は、伊達の伜でなければならぬ!』  とたんに橋本刑部顕徳が両手を突いて、
『眼が出まいて、お芽出度う存じまする』
 とっさに、反対者の口を封じた。
 言い出したらきかいない清顕の心を察してのことに違いない。」(山岡壮八『伊達政宗』講談社)
 かくて「天正七[1579]年冬、清顕は息女愛姫
めごひめを米沢城主伊達輝宗の嫡子政宗のもとに入嫁させた。」(『福島県史』)

紀伊守信貫以下の一類都合二千余騎
 天正十[1582]「年七月中旬のころ、『岩瀬〔二階堂〕の臣(中略)三千計りにて、田村の庄へ出張し、耕作を荒らし、乱刈りして田畑の中を押し通し』、守山城〔郡山市〕へ向かって攻め寄せたが、田村勢は御殿河原から退きながらも宿尻でこれを支え、守山城から『常葉讃岐守・橋本刑部少輔〔顕徳〕・浅川右馬介・大越甲斐守・同修理亮』が馳付けて、二階堂軍を撃退したという(『仙道表鑑』)。」(『三春町史』)
 天正十二[1584]年「大内備前守〔定綱〕は、(中略)千騎計りにて、稲沢村〔白沢村〕の内滑津と云ふ所迄出陣す。田村勢是をききて、大越の城主橋本紀伊守〔顕光〕(中略)等を先として千余騎計りの兵供滑津へ掛け合ひ、一戦す〔滑川合戦〕、(中略)
 十石畑より滑川の合戦まで、都合四度迄田村方〔大内方に〕討ち負けしが、安からぬ事哉と清顕大いに怒りて、天正十二[1584]年八月自分馬を出し、四本松〔岩代町〕の内千石森と云ふ処迄出陣有り、新城を構えらる。相従ふ人々には舎弟善九郎友顕〔氏顕〕同く右衛門佐常顕・中津川小次郎新顕を初〔始〕めとし、弾正入道月斎〔顕頼・顕康〕父子・小野入道梅雪斎〔顕基・清通〕父子・小野右衛門大夫隆信〔清康〕・常葉伊賀守清重・橋本刑部少輔貞綱〔顕徳〕同く紀伊守信貫〔顕光〕以下の一類都合二千余騎にて、千石森の東西広野に、駒の駆り場を前に残して南北に分れて陣を取る。」(『奥陽仙道表鑑』)
「大内備前守数度の軍に戦ひ勝ち田村方敗北するよし近国に隠れなければ、〔すでに岩城氏の章で述べたように、〕岩城平の城主岩城左京大夫常隆此の折を得て馬を出し、〔翌〕九月十三日〔小野〕新町の内赤沼と云ふ所へ押寄せ、吉鳥屋と云ふ山上に陣を取り給ふ。(中略)偖
さて田村方小野右衛門大夫隆信〔清康〕・右馬頭清忠〔清通〕・大越紀伊守信貫〔顕光〕が手の者共駆り合い赤沼にて一戦す。(中略)
 同十月、常隆三千余騎にて小野の城へ取り掛かり、谷津作
やつさく村に陣をとりて小野の城を攻めける。(中略)相馬長門守義胤岩城の留守を窺ふ由、猪狩中務大夫〔親満〕飛脚を以て早々帰陣有るべき旨告げしかば、常隆新町をば打ち捨て岩城へ帰陣せらる。」(『奥陽仙道表鑑』)

「ごもっともな仰せ。」
 同天正十二[1584]年「十月〔一日〕、〔田村〕清顕の女婿〔伊達〕政宗が父輝宗にかわって伊達の家督を相続した。」(『福島県史』)
 同「十月初旬、〔伊達政宗の〕家督相続の祝いの客が、続々と米沢の地へやって来だすと、父の輝宗は上気したように喜んでこれらの人々の賀詞を受ける。(中略)
 そこで政宗は例の『臍曲り』ぶりを発揮して一人一人の度胆を抜いた。
 田村家からやってきた大越顕光には、愛姫はまだ孕まぬ、不都合ではないかと苦情を言った。
『孕まぬ牝馬などは、いかに見てくれがようても役に立たんぞ。さっそく替馬をよこすがよい。すぐに孕む奴をな』
 盃を与えたあとで喚くように言った。実直な大越顕光は眼を白黒させながら平伏した。
『ごもっともな仰せ。さっそく、家中の娘どもの中から選りすぐって送り届けますれば、何とぞ主人〔清顕〕にはご内密に』
 主人の田村清顕が悲しがるからという心遣いであった。」(山岡壮八『伊達政宗』)





第二章 相馬党大越氏



 「〔1586年10月〕清顕公卒玉ひし後、密に相馬へ契て謀ることあり。」(「大越家系勤功巻」)


第一節 大越摂津守・紀伊守相馬へ思寄たり
高倉(本宮)合戦
「天正十三(一五八五)年九月下旬、〔大内氏の〕塩松〔四本松〕(東安達)地方は伊達領に編入された。その翌月の十月八日政宗の父輝宗は、〔二本松畠山氏により〕非業の最期をとげた。その子女を相互に縁組みした畠山義継と大内定綱は、政治的に緊密な関係にあった。塩松大内を滅亡させた伊達の鉾先が二本松畠山に向けられるのは必然である。(中略)
 輝宗の初七日が済むや否や、十一月五日政宗は二本松城攻撃を開始する。幼主国王丸〔義綱〕を擁して危機に瀕する畠山家を擁護すべく佐竹義重以下蘆名・岩城・石川・白川の連合軍が北上するのを迎えて、十一月十七日には本宮観音堂・人取橋付近で伊達軍は死闘を展開し、義重らの軍を退けた。伊達方の戦死一、〇〇〇人、佐竹方連合軍の死傷は二、〇〇〇にのぼったという〔本宮(高倉)合戦〕。
 翌天正十四[1586]年にかけて幾度かの猛攻撃を受けた二本松城は、七月十六日ついに開城となった。相馬義胤の調停のもとに、国王丸は本丸に火をかけて会津に走ったのである。政宗は塩松宮森城に白石宗実を、二本松城に片倉景綱(のち九月に大森城主伊達成実と交代する)を置き、八月上旬満一年ぶりに米沢に納馬した。石川弾正には小手森城が与えられた(『伊達治家記録』)。」(『三春町史』)


大越摂津守・同紀伊守等相馬へ思寄たり
 天正十四[1586]年十月九日「嗣子を残さずに世を去った清顕死後の田村家の選択は、相馬・伊達のいずれかに従うことであった。相馬の当主義胤は三十九歳、父盛胤も五十八歳で存命している。これに対して、前[1585]年に父を失った政宗はまだ二十歳であった(いずれも数え年)。
 『奥相茶話記』は次のように述べている。かつて清顕夫妻以下は、将来田村のことを政宗に託す考えであったが」(『三春町史』)、「政宗御妻〔愛姫〕と最愛に御座らず、不和にして、籠舎の如くにて置参らせらる。其故は片倉小十郎〔景綱〕妹〔姉〕は政宗の御乳母也、彼か讒言とも申又別に仔細も有けるとかや」(『奥相茶話記』)とのことを「知ってのちは考えを変えた。
 清顕後室相馬氏をはじめ田村梅雪〔斎顕基〕・子息右馬頭〔清通〕・同右衛門〔清康〕・大越摂津守〔利顕〕・同子息紀伊守〔顕光〕・石川摂津守・同子息弾正その他侍二十騎ばかりは相馬家に属すべきであると主張した。門沢左衛門・石沢修理・田村月斎〔顕頼〕らは、清顕の遺志といい、政宗の威勢といい、伊達家に従うべきであると主張した。鹿山兵部・〔月斎の子〕田村宮内〔顕康〕・橋本刑部〔顕徳〕らは政宗の威に恐れて、伊達に従うべしとの意見をもった。このような意見を持つ衆の談合の結果、清顕の弟氏顕の子孫七郎(宗顕)を立てるべく、相馬・伊達の意見をうかがうということであった。この点について両家と文書による連絡がとられた。
 しかし後室の政宗に対する憤りは深く、老臣一同に向かって悲泣したので、一同は相馬を頼むことに評議した。」(『三春町史』)
「田村梅雪〔顕基〕・同子息右馬頭〔清通〕・同甲斐、大越摂津守〔利顕〕・同紀伊守〔顕光〕是は伊達へも類縁也、石川摂津守・同弾正是は梅雪婿清顕〔清康〕の姪婿也、各一同して相馬へ思寄たり。其の上、相馬は義あり道正しき主将なれば頼母敷
たのもしく御座とて斯くの如き也。」(『奥相茶話記』)

第二節 大越氏相馬氏へ契る
田村家中相馬党・伊達党に二分
「相馬方の立場で書かれた『奥相茶話記』(寛文七<一六七八>年相馬藩士中津朝睡編)が、右のような内容となるのは当然である。以下、この過程を『伊達治家記録』によってたどることとする。伊達氏の日記その他古文書、および『政宗記』(『成実記』)を素材として編まれた『治家記録』(元禄十六〈一七〇三〉年)は、田村と相馬との交渉については不明な点はあるが、少なくとも伊達と田村の関係については、ほぼ事実を伝えているとみてよい。
 天正十四[1586]年十月の清顕死後、後室は田村宮内顕頼入道月斎・同右馬顕基入道梅雪斎・同右衛門清康・橋本刑部顕徳の四人と相談し、すべて政宗の意を得て政務を執行した。政宗に男子が誕生したらこれを田村の家嗣とすべしとの清顕の言に従って、孫の出生までは後室が伊達家をたよって田村家を保つことに議定したのである。
 天正十五[1587]年三月七日、これよりさき田村後室は政宗夫妻の不和を聞き及び恨みに思った。これにより家中は月斎・刑部方(伊達派)と梅雪・右衛門方(相馬派)に二分されたが、表面はまとまって伊達家に奉公してきた。ところが今度、何故であろうか一家・一族・長臣の連署をもって、田村の事はひとえに伊達家の御下知に任せ奉る旨を言上してきた。そこで今七日、伊達〔伊藤〕肥前重信を三春に派遣し、田村家中に対し『御本望ニ思サル』旨の書を与えた。同年四~五月のころ、政宗は岩城・相馬両家の講和をはかり、田村家中にその取りもちを行わせた。」(『三春町史』)


大越紀伊顕光等内々相馬に心を通じ
「同[1587]年六月十日、これよりさき宮森城主白石宗実から田村家中が二分し、とくに『イ』が相馬に通じているとの風聞があったのでこれから人質を取るべきか、との書状に対し、この日政宗は、内通の実不実に拘らず証人(人質)のことは適当であるから、本人自身米沢に参上するなり、弟を差し来させるかいずれかにせよと申し遣した旨を宗実に返書した。『イ』は石川弾正である。 七月二十日、橋本刑部顕徳が一昨日米沢に参上、政宗に御目見仰せ付けられ、今日餐を賜わった。顕徳が内密に言上した件は、田村梅雪斎〔顕基〕・同右衛門清康・同右馬顕〔頭〕清通・大越紀伊顕光らが内々相馬に心を通じ、家中が一致せぬので、御使者を派遣して一家一族中に『御下知』を加えられたい、ということであった。しかし、二十二日には田村清通から政宗あての返書があり、また八月二十四日二本松城主伊達成実あて書状で、政宗は田村清通・大越顕光その他の輩とは最前から『別シテ申通』じているから『不断、入魂肝要』であると申し送っている。また同日、宮森城主白石宗実あてには、橋本顕徳の申し出の件に触れて、顕徳と間悪しき者が多いのに彼の指図をもって田村に使者を派遣するのは好ましくない。あるいは来月上旬にでも三春に出かけることにでもなれば、万端直談することとしよう、と述べている。政宗の慎重な態度がうかがわれる。」(『三春町史』)


紀伊ヲ相抱ル事無用
 十一月「◯廿九日甲寅、白石右衛門(宗実)ニ御返書ヲ賜フ、(中略)田村ノ一家大越紀伊ハ相馬殿義胤ノ従兄弟ニシテ、田村歴々ノ大身ナリ、此ノ者大越城ニ住ス、梅雪斎カ党ニシテ相馬ニ申通シ、内々取リ繕フ、此ノ外相馬ノ旧臣、田村ニ仕ヘテ城ヲ持タル者四五人アリ、何レモ心ヲ相馬ニ通ス、田村一ノ大身ハ梅雪斎嫡子右馬〔頭〕清通ナリ、右馬・紀伊相馬ニ固ク申合セリ、因テ(田村)月斎・(橋本)刑部ヨリ、紀伊相馬ニ申合セ逆心歴然ナリ、相抱トラ〔捕〕度タク存スル由、右衛門〔宗実〕ニ申談ス、此ノ越〔趣〕右衛門ヨリ即チ言上ス、〔政宗〕公聞召サレ、紀伊ヲ相抱〔捕〕ル事無用ノ由仰付ラル、」(『伊達治家記録』)


若シ図ラス紀伊ヲ相抱ルニ於テハ田村ノ凶事トナルヘシ
 十二月「◯中旬、藤五郎〔成実〕殿ヨリ遠藤駿河ヲ遣サル、即チ御内用仰含メラル、大越紀伊ヲ相抱〔捕〕ヘタキ由月斎・刑部方ヨリ言上シ、無用ノ由仰セラルトイヘトモ、若モシ図ラス相抱〔捕〕ルニ於テハ、田村ノ凶事トナルヘシ、又月斎方相募ル事モ如何ナリ、兎角田村ノ義ハ車ノ両輪ノ如ク治ラルヘシト思召サル、然レハ紀伊ハ藤五郎ヲ以テ奉公振リ申上ル間、油断ナキ様ニ告知セラレ然ルヘシトナリ、(中略)
 〔天正十六[1588]年三月三日、〕大越紀伊顕光・田村右馬清通ヨリ使者来ル、(中略)
 〔六日〕◯白石右衛門〔宗実〕ニ御書ヲ賜フ、(中略)大越紀伊(顕光)・田村右馬(清通)同前ニ使者ヲ進上ス、御懇切ニ挨拶シ給ヒテ相返サル、(田村)月斎一統ノ面々ヲ除キ、彼輩ニイカテカ入魂有ルヘキ哉、田村洞中波風起ラサル様ニト念願シ玉ヒ、諸事御塩味アリ、其許ソコモト取違ヒ毛頭有ルヘカラス」(『伊達治家記録』)。
「以上の動きをみれば、家中の分裂を策したのが相馬義胤あるいは伊達政宗ではなく、分裂はほかならぬ田村家中の勢力抗争に起因することがほぼ明らかであろう。
 なお、天正十五[1587]年のものかとみられる十一月一日付けの伊達政宗覚書写には、全七項目のうちに、「一太〔大〕越之事、一小野之事」が見えているが、その内容は明らかではない。」(『三春町史』)

第三節 相馬党の挙兵
仙道の石川同流弾正の挙兵
 さて「亦此の事、石川摂津守・同息弾正・〔小野〕梅雪〔顕基〕・右衛門〔清康〕・大>越紀伊守〔顕光〕抔
など相馬へ心を寄申すと人々顕しては其心見えざりしに、政宗をも恐れず、〔石川〕弾正、相馬方の験しるしを見せける。天正十六[1588]年四月八日手切をし、十三〔十五〕日弾正、四本松〔塩松〕内に白石若狭〔宗実〕とて伊達衆の知行所、西と云ふ所へ手切草を入たり。是より相馬の方、人は知たり」(『奥相茶話記』)。
 さっそく「宮森城主白石宗実が駆け付け、弾正方の首二〇ほどを取って撃退した(『伊達治家記録』・『政宗記』)。弾正の手切れは、来るべきものが来たにすぎなかったが、それはあたかもかつての塩松領主大内〔備前〕定綱とその弟片平〔大和〕親綱が、政宗に帰参した直後に当たっている。定綱兄弟の服属は、古くから定綱と対立した弾正が交戦に踏み切る契機となったかとも思われる。いずれにせよ、弾正と伊達方との交戦は、相馬と伊達の交戦にほかならなかった」(『三春町史』)。


四本松石川氏と大内氏
 ときに「此の〔大内〕備前〔定綱〕は、昔の公方の麁
〔疎〕流〔石橋棟義〕を石川の先祖申し下し、四本松に居館し給ひし時、(中略)召し連れとり給へる者の後裔也。(中略)
 又石川は、往古〔1051~62年〕伊予守源頼義子息義家、阿〔安〕部の貞任・宗任征伐の時、相具して下り給ふ大和源氏頼親の苗裔源有光の後孫也。仙道の石川同流也。石川も四本松〔石橋氏〕の旗下と成て崇敬す。
 其の頃、四本松大蔵頭久義〔石橋尚義(義久)〕は不器の将成〔也〕とて、家中一味して久義〔尚義〕を追放す、是より〔大内〕備前四本松を押領する也。故に石川摂津守、大内が下知を受けず、大内も石川を強者と思けり。石川一人大内を不快に存る故に、常々は武威を争ひ(中略)止む時なし。
 去れども〔四本松〕石川は微力、叶ひ難き故に、田村の助力を借る為に旗下と成りし也。(中略)大内も身上危く思て伊達の旗下と成れり。而るに天文年中〔1542年〕、伊達稙宗・晴宗不和の事出来て家中区々成りし故に、伊達を退て、後田村に旗下と成れり。(中略)然るに、〔大内〕備前弟助右衛門が仲間と田村宮内〔顕康〕が仲間と喧嘩を仕たり。(中略)〔大内〕備前兄弟(中略)田村と離退して会津〔蘆名氏〕の旗下に成し也。
 其の頃石川摂津守、〔相馬〕義胤へ折々申されるは、〔大内〕備前(中略)末々田村の怨敵と成る可し、田村と一味して備前を討果たし給へ(中略)と也。義胤仰せらるは、(中略)清顕より頼み玉はば、別義也。(中略)清顕よも申給はじとて、御承引なし。箇様の事どもを聞て、田村の家中、義胤賞罰正しき主将なりと思しとなり。」(『奥相茶話記』)
 この石川摂津守・弾正父子が「仙道の石川同流」で、四本松〔塩松〕石橋氏を経て田村氏の麾下に入っていたということは、さきに澤田氏の猪狩・岩城氏臣従の傍証として援用したところである。反伊達の急先鋒四本松石川氏は、大越氏の盟友として、ともに相馬氏を頼むことになったのである。


第四節 相馬義胤三春入城を企つ
紀伊守兄弟三人相馬へ志侍り登城致す可し
「同[1588]年四月末つ方にや、曳地伊賀と申す侍を御使にて、〔田村〕清顕の後室より〔その実兄相馬〕盛胤へ仰せ遣はされけるは、私への見舞と有て、御供二~三騎にて三春の城へ御出有る可し、万の苦労も御前へ聞せ参らせて、心をも慰め侍んと也。(中略)扨
さて伊賀をば翌日田村へ帰し給へり。即日盛胤、御供二騎にて小高へ御出馬、義胤御密談有けれども、知る人なしと云へり。事過て後、二人私語しは、盛胤御供二~三騎にて後室へ御見舞い迚とて三春城へ入り給ひ、左も有んに於ては、梅雪〔顕頼〕父子三人、紀伊守〔顕光〕兄弟三人〔甲斐守、源兵衛〕、石川弾正父子、大倉〔蔵〕の田村彦七〔郎顕俊〕御目見迚、 此の相馬へ志侍り、登城致す可し。(中略)
 同〔五〕月の始め、大越紀伊守方より義胤へ申し送しは、石川弾正相馬方に侍ること顕然たりに依て、此宗〔政宗〕、弾正を退治せんとて米沢を御出馬也。一両日中田村へ発向せらるべし、加勢有て弾正を見続玉はんと申来る。此の書札、残して今に有り。」(『奥相茶話記』)


紀伊守大越城に籠る
「五月十五日米沢を発した政宗は同夜信夫郡大森城に着き、二十一日安達郡築館(東和町)に着陣した。すでに五月二日には伊達・刈田などに陣触れの使者が立てられていた。弾正手切れ後、早速の月斎・刑部からの出馬要請に対して、政宗はかねて緊張関係にある最上義光
よしあきの〔山形〕最上境に対する顧慮から容易に動かなかったが、いま出馬に踏み切ったのである」(『三春町史』)。
 政宗出馬の報に接した相馬義胤は、「此の度弾正を見続ずんば、政宗を恐て日来の盟約を空しくするに成る可く、四方への聞へも恥ずか敷く、弾正と共に家を滅すとも是非無し」、「此の度は政宗と極運の勝負有る可しとて、相馬の惣人数を引率し玉」(『奥相茶話記』)ひ、「同じ二十一日百目木
どうめぎ城に出馬、築山(月山)にいた石川弾正は小手森城に移った」(『三春町史』)。「小手森は、先[1586]年四本松を政宗の手に入れし時、弾正に加増として賜りし所なり」(『奥陽仙道表鑑』)。
「亦紀伊守は、手前の者上下六百にて大越の城に籠」(『奥相茶話記』)った。
「二十二日、政宗は小手森城に向かい、三ノ構まで矢入れをし、麦作を刈り棄てた。しかし、以後は連日の梅雨のために両軍の行動はほとんどなく、五月末のころ政宗はいったん大森に帰った。
 月斎方からの出馬催促を受けながら、政宗は閏五月十一日は安積郡高倉まで出馬、あたりの地形を見回り、深夜大森に帰っている。佐竹・蘆名などの人数が安積表に出張するとの報に接したためである。伊達方の虚を突いて、相馬義胤が三春入城をはかったのはその翌十二日であった。」(『三春町史』)


大越紀伊守逆心歴然タリ
 閏五月十二日「◯亥刻〔午後十時〕、白石右衛門〔宗実〕方ヨリ使者宇津川能登早馬ニテ参上シ、田村依リ註進ノ趣委曲言上ス、(中略)相馬殿田村ヲ乗取ラントセラレシ事、清顕卒去シ玉フ以来ハ後室其家ヲ保タル、後室ハ義胤ノ伯母ナレハ、梅雪斎(田村顕基)・右衛門(田村清康)等内々相馬殿ニ心ヲ通ス、殊ニ梅雪斎嫡子田村右馬〔頭清通〕ハ田村一番ノ大身、大越紀伊〔顕光〕ハ二番ノ大身ニシテ、皆義胤ノ従兄弟ナリ、彼等両人相馬ヘ別シテ相通ス、其外ノ輩ヲモ相語ラヒ、与クミスル者多シ、去年中月斎〔顕頼〕・刑部〔顕徳〕方ヨリ〔政宗〕公ヘ折々言上スル旨アリ、殊ニ」(『伊達治家記録』)「大越紀伊守は、早や己が山城に引き籠もりて、何事も大越備前守と云ふ者を名代として勤めさせ、田村へは出仕せず」(『奥陽仙道表鑑』)、「逆心歴然タレハ相抱〔捕〕ヘ度キ旨、白石右衛門〔宗実〕マテ内々申達ストイヘトモ〔政宗〕公思召ノ義有テ紀伊ヲ抱〔捕〕ユル事無用ノ由仰付ラレ、且ツ伊達藤五郎〔成実〕殿ヘ紀伊ハ兼日其方ヲ以テ奉公振リ申上クレハ、内々紀伊油断セサル様ニ告知セラレ然ル可クノ旨仰遣ハサル、」(『伊達治家記録』)


成実ヨリ出仕無用ノ由告知セラル
「藤五郎〔成実〕殿家士ニ内崎右馬ト云フ者有リ、大越紀伊ニ兼テ懇志ナリ、曾テ紀伊方ヨリ其親族〔下大越城代〕大越備前ヲ、幾度モ(内崎)右馬所ヘ使トシ差遣ス、彼者ヲ呼寄セ、先ツ田村ノ様子ヲ尋テ腹蔵ナク物語セハ、仰ノ趣申断ルヘシト藤五郎(成実)殿思慮セラレ、右馬ニ命シ備前ヲ呼来リ対面シテ、田村ノ様子尋問ハレケルニ、隠密シ一切語ラス、因テ大切ノ事ヲ直ニ云ヒ聞セン事気遣ニ存セラレ、右馬ヲシテ其様子ヲ語ラシム、
 備前帰リテ紀伊ニ告ク、其ヨリ紀伊ハ三春ニ出仕ヲ止テ大越城ニ引籠ル、此故ニ田村四人ノ宿老ヨリ紀伊所ヘ使ヲ遣シ、何様ノ義ヲ以テ出仕セサルヤ、存分アラハ有リノ儘ニ申ス可クノ由云ヒ遣ス、始ハ何角ト挨拶シケレトモ、頻リニ子細ヲ尋問ハレ、後ニハ(伊達藤五郎)成実ヨリ三春ニ出仕セハ相抱〔捕〕ヘラルヘキ間、出仕無用ノ由告知セラル、此故ニ罷リ出スト返答ス、」(『伊達治家記録』)


備前聞違ナルヘキ
「因テ四人方ヨリ藤五郎〔成実〕殿ヘ使ヲ以テ、何様ノ義ヲ承リ紀伊出仕無用ノ由内意申通セラルヤ承タキ旨申遣ス、藤五郎殿返答ニハ、我等左様ノ事申ス可キ義ニ非ス、田村御洞何角ト六箇敷キ間、何様ニモ鎮メラル様ニトハ存念アリ、箇様ノ事知セ申ス可キ義ニアラスト申越サル、
 又四人ヨリ紀伊所ヘ、其方挨拶ノ通り成実ヘ承ル所ニ、毛頭左様ノ義ハ申サレザルノ由返答ナリ、然ル間早々出デ然ル可クノ由申遣ス、〔紀伊〕内崎右馬ヲ以テ成実ヨリ告知セラル事必定タルノ由申スニ付テ、重テ藤五郎〔成実〕殿ヘ其段申来ル、藤五郎殿挨拶ニハ、内崎右馬ニ相尋ル所ニ、右馬申スニハ、我等事紀伊ニ久ク懇切ナリ、然ルニ世上ニ於テ紀伊心替リノ様ニ申唱フ、左様ノ思慮モ有ラハ三春ヘノ出仕無用ナリ、出仕セラレハ生害ニ遭ルゝ歟、又抱〔捕〕ヘラル義モ計リ難シト我等異見〔意見〕ス、成実ヨリ申サルゝトハ申談セス、備前聞違ナルヘキノ由申スノ旨云ヒ遣サル、」(『伊達治家記録』)


大越備前・内崎右馬の対決
「四人方ヨリ左様ナラハ右馬ト備前ヲ相出シ対決セサセ然ルヘシト藤五郎殿ヘ申遣ス、備前ヲ出サレハ右馬ヲモ差越スヘシト返答セラレ、既ニ今年三月始メニ至テ、鬼生田オニュウダト云フ所ニ備前罷リ出タル由申来ル、藤五郎殿田村ヨリ検使アリヤト尋ネラル、検使ハ参ラスト答フ、検使無クンハ右馬ヲ出サル間敷ト申サル、因テ備前空ク帰ル、
 其後藤五郎殿ヨリ田村ヘ使ヲ以テ、此間右馬ヲ出スヘシトイヘトモ、検使ヲ添ラレサル由承ルニ就テ差出サス、重テ備前ニ検使ヲ添ヘテ相出サレ然ル可キ由申越サル、四人ノ輩悦テ、検使両人備前ニ相添ヘ、鬼生田ヘ差遣ス、藤五郎殿ヨリ右馬ヲモ出サル、備前、貴殿〔右馬〕ヲ以テ成実御断リニハ三春ニ出仕致ス間敷キ由御知セ有リシト申ス、右馬申スニハ、御存分違タルニ於テハ御出仕無用ノ由我等ノ異〔意〕見ニ申タル所ニ、御出仕ナキ事ハ逆心ノ御企ト相見ヘタリ、唯今ニモ御存分違ハサルニ於テハ、三春ヘ御出仕アルヘシ、三春ニ於テ御相違ハ有ル間敷キト申ス、兎角問答ストイヘトモ、互ニ決セスシテ双方ヘ立帰ル、」(『伊達治家記録』)
「箇様ノ事共アリテ、連々ユルユル田村ノ家中静ナラス」(『伊達治家記録』)。
「あらためて衆中で相談した際、常磐伊賀が進み出て、”清顕公存命の時、御名代は政宗公に渡された。今さら思慮に及ばぬであろう。しかし、おのおの考え次第であろう”と述べたため、ことは落着した。しかし、表向きは伊達につきながらも、内々は田村家中の大半が相馬に心を通じるに至った。義胤の三春入城の企ては、このような情況のなかで行われたのであった(『治家記録』)。」(『三春町史』)


大越紀伊守信貫の兵共深谷に隠れ
「これよりさき、政宗は大森、義胤は百目木に在馬するという状況のもとで、田村家中では、〔伊達・相馬〕双方の家臣は何事があっても三春へは入れないようにという取り決めがなされた。それは月斎〔顕頼〕・〔橋本〕刑部〔顕徳〕から梅雪〔斎顕基〕・右衛門〔清康〕に申し談じたうえで行われた決定であった。にもかかわらず閏五月十一日、相馬老臣の新館山城・中村助右衛門が三春に来て町屋に一泊した。両使が差し遣わされたのは、明日義胤が見回のようにして三春に来て、城を乗っ取る企てであろうと、人々は風説した。翌日両使は登城し、奥方〔相馬氏〕に伺候し酒を賜った」(『三春町史』)。
 すでに「宵より大越紀伊守信貫の兵共七~八百人、弓鉄砲鳥銃を持ち、義胤の下知次第田村の城に真〔直〕ぐに攻め入らんと約束して、城より東にあたりし林の内、深谷に隠れ居」(『奥陽仙道表鑑』)た。
「切り死にを覚悟に登城した橋本〔刑部〕顕徳は、梅雪斎〔顕基〕に向かい、”すでに義胤は城の下まで押し掛けている。また昨夜から大越紀伊の人数は城の東林の谷に七~八百挺の鉄砲・弓・鑓を伏せこめている。伊達・相馬両家の臣をも入れぬと申し合わせているのに、義胤を入れらるべきか”と問いつめたのに対し、義胤引き入れの約束をしていた梅雪斎も、顕徳に即座に討ち果たされるのを恐れて、『相入レ間敷』の由答えた。」(『三春町史』)


大越が人数も過半討れて立足もなく敗北せり
「そこで顕徳は、三春城中に集結した者に武装させ、義胤の入城阻止を命じた。義胤は城の『半腹』まで登った時に弓・鉄砲を浴びせられ、乗馬の平頭に鉄砲玉が当たったので、馬を乗り返して東の小口(虎口)に回ったが、ここでも弓・鉄砲を射掛けられ、ことに地形が悪いために城に乗り入るべきすべもないありさまとなった。あとには相馬の馬上二百騎と弓・鉄砲があったが遅参して役に立たず」(『三春町史』)、「刑部〔顕徳〕は田村の城を持ち堅め、田村宮内大輔〔顕康〕は、兵を乱して逃れ行く敏〔敵〕を追ひ詰めて打〔討〕ちにける。大越紀伊守が隠し置きたる兵共百人悉く現れて戦ひけるを、田村宮内大輔物ともせず押詰め切って落せば、大越が人数も相馬が人数も互に過半討れて、立足もなく敗北せり。
 義胤危難を逃れて早々田村を引き払ひて和田村へ掛り、筑山指して引き入る。大越紀伊守路次に出会ふて、暫らく御立ち寄り御休み候得と申しけれ共、耳にも入れざる躰にて、希有にして引き取られける。新館山城守・中村助〔右〕衛門は、城中に入りけるや刑部が義胤を防ぐ躰を見て、早速に馳せ行き逃るを、田村の兵共鳥銃にて討ち留めんと追かけるに、刑部小輔〔顕徳〕是を制して、長追ひ詮なし、城中を堅固に持ちこたへてこそ然るべしとて討せず」(『奥陽仙道表鑑』)。


大越甲斐守が妻子を人質に取り玉ひ
「御一代に無き折角の御難儀也。大越紀伊守が小舅甲斐守(後味竜〔未了〕と云り)義胤へ申すは、月斎・刑部が、屋敷へ押寄せて妻子を人質に取り玉ひ、左有ば心易く城を渡し侍んと也。義胤宣
のたまふは、如何に詮方無ればとて、男も無き家に入て女童を取べきや、敵強く打出ば腹を切べしと仰られ、扨さて漸々にして引き除き玉ひて、其の日は〔大越甲斐が居城〕船曳〔引〕迄退陣なり。
 義胤辛じて舟引に遁れ給ふ。舟引は浅間の小城にして大軍拒
ふせき難く、前後左右は敵盈みちて、退き給ふに道なし。(中略)
 鹿山兵部秀季御供申し舟引を出給ふ。(中略)常葉を歴て(中略)夫より中山〔に〕着し給ふ。(中略)前途は〔相馬〕御領近ければ目出度く御着城候ふべし。(中略)夫より義胤は岩城領上河内と云所より、(中略)五十間社の嶮難を越て富岡に出、百死一生の難を免れ給いけり。」(『奥相茶話記』)


第五節 相馬党の敗北
大越甲斐が居城舟引の戦い
「大越甲斐が居城舟引には、(中略)総て四百余人、命を軽する事一介の塵に斉
ひとしふす。憐れ速に政宗寄せ給へかし、自余の働を万人の目に晒し、佳名を後世に流さんと、拳を握り歯を嚼かみて並び居たる有さま、左も稀なるべし。
 同〔閏〕五月十六日、軍の評定事終り、大越が重臣の人質を取りて城中に押し籠む。斯かる所に、案の如く政宗押し寄て、一時移さず追ひ落さんと励しける。城中の者どもは鉄砲を打ち懸け矢を放て、寄せ手立ち噪
さわき、切て出、鑓を取て突き合い、欧うち合ふ。身を敵陣の的に委ね、勇を万人の中に争ふ。敵陣にも、片倉小十郎〔景綱〕・国井新左衛門入れ替り挑み、戦いければ、暫く息を休めんと城中に引き退く。
 爰
ここに黒色の小旗を差し、逸物の馬に乗て軍中馳せ繞めぐり、城際近く依〔寄〕て城中を窺ひ見、馳せ出馳せ返り、東西南北に目を賦くばる武者あり、是如何さま政宗にて御座さん。見れば従者一騎もなし、されども尋常の騎兵に同じからず、是政宗軍中に身を忍び給ひしなるべし、只百騎をうたんより此の一騎を討て本望を達せんぞ、若し此の武者近く馳よらば一度に突て出給ひ、敵群り塞くと云とも余すな、先ず門を閉て音するなと、枚ばいを銜くわへむか如し。
 かゝる所に彼の武者又一騎進み出、遙かに城中を窺ふ。若武者とも是を見て、すわ政宗ぞと大音に呼で門を開せ、四~五人乗て出る。(中略)周章
あわてたる者どもかなとて続て追て出ければ、敵此の由を見て、彼の武者を数百の中に打ち囲て引き退く。味方力を失い、声々に呼び掛け、 悪口し罵れども、聞きも入らず。旗を紋あや、いつくともなく立かくれ、見へざりける。政宗、凱歌を挙て引退く。大越が者ども打て掛る。政宗取て返し暫く相戦いしが、大越散々に敗軍し逃げち〔散〕りければ、政宗舟引を捨て、本陣小浜の宮社〔宮杜(宮森)〕に着陣なりと聞へける。
 同〔閏五月〕十八日の夜、稲妻峰を焼か如く、雷電谷に轟き、黒雲堆
かさんて雨は屋宇に流れ、前後を知らず、誰か左右を分たん。此の時月山・大倉・石沢・百目木に存りける面々相議して云ふ、義胤は引き退き給ふ、城中に留て空く一命を捨てんより、如し かず雷雨に紛れて出で長く義胤に仕へ奉らん、と忍び出たり。」(『奥相茶話記』)

石川弾正の敗走と相馬勢力の大敗
 これよりさき、「相馬義胤が三春城討ち入りを企てながら失敗した翌日に当たる天正十六(一五八八)年閏五月十三日、伊達政宗は白石宗実の宮森城に着陣した。十五日、信夫・伊達の人数に田村家中をも参加させて、政宗は築山城を攻め、作毛をすべて刈り取った。十六日、旗本以下の軍勢を動員し小手森城を陥落させて、宮森城に引き揚げた。(中略)
 十七日、政宗は参上した田村月斎をも従えて、田村領の大蔵城(船引町)を攻めた。(中略)城主田村彦七郎顕俊(田村右衛門清康の弟)は築山に出陣して相馬方を援け、義胤の三春乗り入れにも従軍した人物で、田村家中でもとくに反伊達の行動が明白であった。猛攻を受けた顕俊は、(中略)月斎を介して赦免を願ったので、政宗はこれをゆるし、召し出すべき旨を伝えて、日暮れに及び宮森に帰城した。総勢は西城に野陣した。
 翌十八日、(中略)政宗は顕俊を先手として石沢城(船引町)に向かい、近辺の在家を焼き、作毛をすべて刈り捨てた。(中略)この時、築山に火の手が見えるとの報に接し、おりからの大雷雨のなかを物見の使者を出したところ、築山城中は一人残らず退却した旨が報告された。続いて、石沢城・百目木城も撤兵したことが判明したので、政宗は馬を出して百目木に入城した。石川弾正は築山から相馬に走ったという(『伊達治家記録』)。(中略)
 翌十九日、『義胤ヲ執籠メラルヘキ由評議有テ』政宗以下が船引城に向けて出馬した時、『相馬殿ハ院主学頭ヲ先立ラレ、鉄砲道具ヲモ捨置キ、赤裸ノ体ニ成テ逃走』の由注進があった。(中略)
 まさに勝敗は決したのである。」(『三春町史』)


第六節 大越城の戦い
紀伊一人籠リ居ル彼ノ城ヲ攻取リ玉ヘ
「しかし、田村領東部の大越には大越紀伊顕光が籠城して、反伊達の旗を掲げていた。」(『三春町史』)
「〔閏五月〕二十八日、このころ常磐伊賀に金熨
のし付の太刀を賜る。これよりさき伊賀は田村の衆議を伊達方にまとめるに功のあったのを賞したのである。この日、伊賀は大越城に向けて軍事行動をし、頭立つ者五人を討ち取って」(『三春町史』)、「其内、首一級献」(『伊達治家記録』)じた。
「二十八日に続いて二十九日にも」(『三春町史』)、「田村右衛門清康大越ヘ草調議シ、首一討捕リ献上ス。(中略)
 ◯六月己未小朔日癸未、一家一族ノ輩召寄セラレ御談合アリ、(中略)伊達藤五郎(成実)殿召シニ依テ本宮ヨリ参上、即チ大越ヘ御働キノ御名代仰付ラル、田村月斎(顕頼)・田村梅雪斎(顕基)・田村右衛門〔清康〕・橋本刑部〔顕徳〕等日頃片倉小十郎(景綱)・伊藤肥前(重信)・原田旧拙斎ヲ以テ、大越紀伊〔顕光〕最前ヨリ三春ニ出仕セス、今度田村ノ輩逆心ノ始メナリ、紀伊一人籠リ居ル彼ノ城ヲ攻取リ玉フ様ニ願ヒ奉ルノ旨言上ス、因テ大越カ兼日ノ振舞ヲモ具ツブサニ聞セラレ、口惜ク思召サル、然レトモ一働キ計リニテハ落城セサルモ計リ難シ、殊ニ佐竹義重安積表ヘ近日出馬ノ由聞ヘアリ、若シ大越ニ御手間ヲ取リ玉ヘル内ニ義重出張アラハ、彼城ヲ巻解シ玉ハンモ如何ナリ、傍カタガタ以テ働キ玉フ間敷由仰出サル、然ルニ亦申上クルハ、御一働キ成シ賜ハルヘシ、若シ又佐竹殿出陣必定タルニ於テハ、御近陣ナトハ入ラサル御事ニ存スルノ由申スニ就テ、然ラハ御名代ヲ以テ働セラルヘキ由仰ラレ、今日藤五郎殿ヲ召テ右ノ趣委曲仰含メラル、(中略)
 御物語畢テ、藤五郎殿大越ヘ働キ用意ノ為メニ即チ本宮へ馳還ラル、
 ◯二日甲申、鹿股某大越ヘ草調議シ、首一討捕リ献上ス、(中略)
〔三日〕◯伊達藤五郎(成実)殿大越ヘ御働キノ御名代仰付ラルニ付テ饗膳ヲ賜フ、(中略)畢オハリテ成実〔大越甲斐が居城〕船引ヘ出陣セラル、」(『伊達治家記録』)「此の城大越に一味するにより、成実之を攻めれども叶ひ難く、寄せ手の勢引き上る。」(『奥陽仙道表鑑』)


大越一族の骨肉の戦い
 六月「◯四日丙戌、雨降、 一家・一族・宿老中〔大越甲斐が居城〕船引ヘ出陣、大越大炊・同安房・常葉勘解由ニ、其の身共加世義カセギニ付テ、大越ノ地今度御手裡ニ入ラハ、各近年知行ノ通リ并ニ御加恩アルヘキ旨連名ノ御証文ヲ下シ賜フ、
 三人ハ大越紀伊親族・家士ト見ヘタリ、様子知ラス、
 ◯五日丁亥ヒノトイ、微雨、 伊達藤五郎殿大越ヘ働カレ、町・寺マテ焼払ハル、敵町構ヲ引退テ二三ノ曲輪クルワヲ堅ク守ル、因テ攻ムヘキ術ナシ、故ニ引揚ケラル、〔政宗〕公潜ニ御出、様子御覧アリ、小野・鹿股ノ輩、大越加勢トシテ東ヨリ相働ク、身〔味〕方〔成実〕人数北ヨリ打揚クルニ出合テ相戦ヒ、頻リニ鉄砲ヲ撃懸ケタリ、身方〔成実〕総勢取テ返シ、敵勢ヲ押切テ二ノ曲輪マテ追込ミ、方々ヘ逃ケ散ル者ヲ追懸ケ、首二十余討取リ、指物等分捕リス、時ニ御旗ヲ張セラレ、勝鬨ヲ揚テ、御人数ヲ引揚ケラル、(中略)
 〔七日〕◯大越源三郎大越ヘ草ヲ出シ、首一討捕リ献上ス、」(『伊達治家記録』)
 大越一族の一部は、相馬方の族長紀伊守に反して田村=伊達方につき、熾烈な骨肉の戦いを展開していたのである。


義胤大越紀伊が居城に加勢の士を置れける
「天正16[1588]年〔六月上旬、大越〕顕光は相馬勢を大越城に入れ、早稲川館を衝いて〔、〕常葉城を攻めようとする相馬義胤を援護した(奥相茶話記)。」(『角川日本地名大辞典』)
「義胤(中略)又田村領大越紀伊が居城に加勢の士を置れけるが、日久しければ其の労を思し召し、木幡出羽・嫡子因幡に中郷の騎兵を副へて差し越さる。天正十六[1588]年六月上旬に、木幡父子七百余人を引て、岩城の領を歴
て和佐〔早稲〕川に掛り、大越が陣屋を張り大越の通路を妨ぐ。
 木幡父子兼て聞て、日暮の後嶮難を越て大越に着す。大越紀伊出で対面し、木幡出羽に向て云けるは、倩
つらつら世上を窺ひ侍るに、果散々々はかばかしき戦もなく空く日を送ると云ども、田村の地は誰か領ぞや、愚案を廻すに、 〔木幡出羽・因幡〕両将交替の砌みぎりを幸也と存ず、 両将の人数二千に近し、騎馬二百に近し、四面に恐るゝ敵なし、先づ和佐〔早稲〕川の陣所を打ち破り給へかし、さあらば政宗も出陣あるべし、義胤も近く控え給ふ、是両将の働に依て、相馬・伊達の勝劣を顕し給ふ所也と云へり。此の義然る可しと、一同和佐〔早稲〕川に打て出づ。(中略)
 〔早稲川〕城中の者ども右往左往に走り散ければ、凱歌を挙て大越の本陣に退きけるに、討ち取りし首三十二とぞ聞えける。(中略)
 木幡出羽大越に日を送りければ、亦門馬紀伊、北郷の五十余人騎兵を増し、七十四余騎を率し大越の城に入る。」 (『奥相茶話記』)


第七節 郡山合戦と大越氏
郡山合戦の勃発
「天正十六[1588]年六月から七月にかけて、安積郡の郡山・窪田〔久保田〕をめぐって、佐竹・蘆名の兵と伊達政宗の軍が対じを続けた。いわゆる郡山合戦がこれである。」(『いわき市史』)
 六月「十一日、〔白石〕宗実・〔浜田伊豆〕景隆・〔片倉小十郎〕景綱らからそれぞれ飛脚が届いた。佐竹義重・蘆名義弘が同陣で安積表に出張、岩城常隆からも五〇〇騎の加勢が出されたとの報告であった。(中略)
 十二日政宗は宮森城を出馬、本宮の山に陣を取り、十四日本宮表に陣を移した。四、〇〇〇という佐竹勢に対して、伊達方は相馬・大崎・最上との境に配置した人数を動かせないために、六〇〇という劣勢でこれに対した。郡山城とその北の窪田(久保田)が伊達方の前線であった。(『三春町史』)


浅川勢大越紀伊ヲ射落トシ
 この間も、大越城をめぐる戦いは熾烈をきわめており、伊達軍の兵力を大きく殺
いだ。また、顕光は相馬氏と敵対する岩城軍をもくぎづけにして、郡山合戦への岩城常隆の参戦を断念させた。大越氏は、郡山合戦のキャスティングボートを握っていたのである。
 六月十七日「◯浅川ヘ大越ヨリ働キ出タリシヲ、浅川ノ輩出合ヒ大越紀伊ヲ射落トシ、従者三人討捕リ、其首ヲ献上ス、紀伊ハ稍スコシク引退クト云々、(中略)
〔廿六日〕◯常磐ヨリ大越ヘ草調議ス、折節大越ヨリモ草調議シ、互ニ出合ヒ相戦ヒ、両人討捕ルノ旨注進シ、其馬ヲ献ス、(中略)
 ◯小野・鹿股ヨリ大越ヘ草調議シ、外除垣根ニ於テ敵ヲ討取リ、首一献上ス、
 小野・鹿股ノ輩、先日ハ大越ニ加勢シ、今又此働キニ及フ事昨〔如何〕様ノ品有リシニヤ知ラス、」(『伊達治家記録』)


岩城常隆・石川昭光の調停
「七月四日には、この〔郡山〕合戦一番の激闘が交えられた。(中略)
 しかし翌五日、かねて岩城常隆から調停役として佐竹・蘆名方と伊達方にそれぞれ派遣されていた白土摂津隆通と志賀甘釣
ちょう斎・同右衛門が互いに連絡のうえ、両軍に対し、まずもって弓・鉄砲を放つことを止めるようにと要請した。その結果、弓・鉄砲は止め、双方とも取出(砦)城除垣番だけを置くこととした。こののち八日、〔既述のごとく、〕政宗は岩城家臣猪狩紀伊〔守守之〕あてに“五日も合戦の予定であったところが、常隆使者からの要請があり、取り止めることになったのは不本意である。”と述べている(『伊達治家記録』)」(『三春町史』)。
 同「〔七月九日〕◯田村右衛門清康ニ御書ヲ賜フ、来札披見シ給フ、昨四日〔相馬〕義胤常葉ヘ調議ニ及ハル、即チ其許ソコモトヨリ相助ラルトイヘトモ程遠キ故ニ指義〔仕儀〕ナキ歟、此上義胤大越ヘ打入ラルヘキノ由ナリヤ、其段計リ難ク思召サル、」(『伊達治家記録』)
「七月十四日、田村隆顕後室が政宗の郡山陣にあてた消息は、田村家中の相馬派が、郡山合戦の時期にもなお、義胤の三春入馬を企図しているが、政宗が近くに在陣しているために実現できずにいること、田村家中の面々の心は計りがたいから、くれぐれも工夫・談合を重ねられるべきであることなどを述べている。相馬勢との小ぜり合いは、郡山合戦の期間にも断続していた」(『三春町史』)のである。
〔十三日〕◯鹿股ヨリ首一級献ス、大越ヨリ働キ来リシヲ討捕ル、(中略)
〔十七日〕◯福原ヨリ大越ト相馬トノ通路ヘ草調議シ、二人討捕リ献上ス、」(『伊達治家記録』)


郡山合戦と大越氏
「七月十六日、岩城常隆および石川昭光の調停によって佐竹・蘆名と伊達との講和が成立し、双方は互いに神水を交換して、和睦を誓約した。(中略)十八日、双方の名代が対面し、二十一日陣払いが行われた。約四十日に及んだ郡山合戦はここに終結し、政宗は宮森城に帰還した。
 同じころ、これよりさき天正十五[1587]年以来緊張関係にあった最上義光・〔黒川郡鶴楯城主〕黒川左馬頭〔安芸守〕晴氏との間も、同日平和に帰した。政宗母保春院の講和への挺身ののち、義光が保春院を介して政宗に講和を申し入れたためである。」(『三春町史』)
「去る〔天正〕十三[1585]年の本宮〔高倉〕合戦で佐竹にしたがって伊達と戦った岩城が、今度の合戦で佐竹と行動を共にしなかったのは何故であろうか。(中略)『御骨肉ノ間ニシテ取合ノ義、兎角御笑止』というのが常隆の理由であった。しかしそれは表面上の言い方であろう。その実は、〔上述のごとく、〕岩城領に近い大越の城主大越紀伊守顕光が、相馬義胤に通じて常隆に敵対する形となっていたためである。かつて本宮合戦でともに佐竹・蘆名方として出兵した岩城と相馬は、今また敵対関係にもどっていたのである。二年前の天正十四[1586]年常隆の宿敵であった田村清顕が死去した。報に接した常隆は『清顕遠行之由、(中略)祝着之至ニ候』と三坂越前守に便りしたが、清顕夫人相馬氏の甥相馬義胤はその田村家をうかがい、相馬・岩城は新しい緊張関係を加えるに至った。伊達もまた天正十二[1584]年の講和にもかかわらず、相馬との間に緊張が続き、清顕死後の田村家をめぐって義胤と政宗の緊張の度は強まっていた。当面、大越への対処において、常隆と政宗は共通の利害関係にあったのである。」(『いわき市史』)


大越通路ノ義猪狩紀伊ニ相任セラル
「この事実は、天正十六[1588]年六月二十二日に政宗が岩城家臣猪狩紀伊〔守守之〕に宛てた〔既述の〕返書に記した、つぎのような趣旨によって明らかである。
 (中略)相馬手刷ハラヒノ義、委細紙面ニ顕シ、御喜悦斜ナラス思召サル、其趣小野ヨリモ条々断リ有リ、弥イヨイヨ大越口の義方々相談ニ及ハルヘシ、爰許ココモト佐竹・会津〔蘆名〕ト御対陣ニ付テ、大越ノ義手延ヒノ様ニ有ル歟、併ラ此表落居程有ル可カラス、御備ニ於テハ心安カルヘシ、此節大越通路ノ義、小野・常葉ヘ内意アリテ慥タシカニ止ムヘキ事、畢竟相任セラル、如何様御手遣ヒヲ以テ相馬口ノ義諸事逼塞ニ及ハルヘキノ旨著サル、小野ハ城主田村右馬〔頭〕清通、常葉ハ城主常葉伊賀ナリ、(『伊達治家記録』)
 すなわち、〔猪狩紀伊の主君〕岩城常隆は小野城主田村清通および常葉城主常葉伊賀と共に大越紀伊と戦い、さらには相馬義胤を牽制していたのである。(中略)
 郡山合戦の進行中、政宗と常隆との間には連絡が保たれ」(『いわき市史』)ていたのである。





第三章 岩城党大越氏



「其の後〔1588年8月15日〕、故有りて岩城常隆公に属せす」(「大越家系勤功巻」)。


第一節 大越氏岩城氏に属す
宗顕田村家名代となる
「郡山合戦の終結によって事態は一変した。陣払いの翌〔1588年7月〕二十二日、田村孫七郎・田村月斎〔顕頼〕・田村梅雪斎〔顕基〕・橋本刑部〔顕徳〕・熱海内膳らが宮森に参上。二十三日、月斎・梅雪斎・右衛門〔清康〕・刑部が参上、”先般相馬義胤が三春乗っ取りをはかったのは、畢竟は清顕後室〔相馬氏〕が三春に在城し、これと内々連絡を保ったためである。したがって、後室に隠居を勧告され、政宗に男子が誕生するまでは田村家の名代としてだれかを仰付けらるべきである”旨を言上した。これに対して政宗は、〔清顕の甥〕田村孫七郎を名代とする意思を伝え、また清顕後室を船引に移し、右衛門は船引城から退去すべきことが決定された。(中略)この後、田村家の四人衆(梅雪斎以下)が御礼に参上、孫七郎への一字拝領を願い、その結果、孫七郎は宗顕と称することになった。」(『三春町史』)


田村譜代新参三十八人三春を去りて小野に退く
 八月三日「◯磐城殿ヨリ大越紀伊顕光事ニ付テ注進アリ。」(『伊達治家記録』)これは、大越氏の岩城氏接近の兆候である。
 同「八月三日、田村後室が船引城に隠居し、孫七郎宗顕が三春本城に入った。四日の夜、田村右馬顕基入道梅雪斎・同右衛門清康以下、田村譜代・新参ともに三八人が一斉に三春を去って、田村右馬清通の居城小野に退いた。月斎〔顕頼〕・〔橋本〕刑部〔顕徳〕が、“相馬義胤の三春乗っ取りの企図は、新参の輩が申し合わせ、譜代の輩も過半同調したためである。田村新参の大部分は相馬譜代の者であるから、これらを追放すれば田村は将来とも安泰であろう”という趣旨を言上したのを聞いた政宗が、〔片倉〕景綱・原田旧拙斎に命じて月斎・梅雪斎・右衛門・刑部に浪人=新参者を追放させようとしたところが、かねて梅雪・右衛門とともに相馬家に奉公しようと覚悟していたかれらは、こうして三春を退いたのである。」(『三春町史』)


政宗の三春入城
「〔八月〕五日、政宗は宮森城を立って三春城に入った。片倉景綱が途中まで迎えに出、月斎〔顕頼〕とその子宮内〔顕康〕、橋本刑部〔顕徳〕以下田村家中は三春の町口まで出て政宗を迎えた。田村の諸士は三春城の座敷において政宗に謁見し、その後政宗は御東に出、亘理元宗・留守政景・伊達成実・国分盛重を相伴として食膳についた。「御東」は三春城内の東館、隆顕後室伊達氏の居館であろう。(中略)夜、『万端御仕置ノ儀』が命じられた。田村家の今後のあり方が決定されたのである。
 磐城大館城主岩城常隆(父親隆は輝宗の兄)・石川三蘆城主石川昭光(輝宗の弟)および白河城主白川義親とはこのころ、比較的緊密に連絡がとられるようになっていた(『天正日記』・『伊達治家記録』)。政宗は孤立情況をようやく脱却しかけたのである。」(『三春町史』)


大越紀伊守等相馬をば捨てゝ岩城へおもむく
「さて、政宗の三春滞在は以後九月中旬まで、四十日余りに及んだ。(中略)
〔八月〕八日、談合があり、小野攻め、すなわち梅雪斎〔顕基〕・右衛門〔清康〕退治は来る十六日と命令され、岩城に使者が立つ。」(『三春町史』)
 十五日、「大越紀伊在所を引き退くと云々。」(『伊達治家記録』)
 この日、1588年8月15日、大越氏はその「在所を引き退」いてついに相馬党を離れ、事実上「岩城党大越氏」となったのである。
 そして、同「八月末のころ」(『いわき市史』)、「梅雪斎父子・右衛門大夫・大越紀伊守等は、始めは相馬を頼みけるが、如何思案しけん、相馬をば捨てゝ岩城へおもむき常隆を頼みければ、常隆別して入魂あり、抱え置きける。
 偖
さて〔九月三日岩城氏が、〕若松紀伊守と云ふ者を使節として田村へ申されけるは、今度梅雪斎父子・右衛門大夫・大越紀伊守等我等を頼み来り候、彼等元来清顕の親類に候へば、万事厚免有て田村へ召し返され候へかしと申し越されたけれども、伊達の家老共一円にきゝ入れず、左様に返事せしめ使者をばかへしける。」(『奥陽仙道表鑑』)

政宗米沢に納馬す
 九月「七日、先日岩城から使者による申し越しの、梅雪・右衛門〔・紀伊〕らの事につき、今日宿老たちが談合した結果による返事が政宗に報告された。すなわち、新参の輩の相馬内通は歴然であり、いずれも切腹申しつけらるべきところであったが、先年田村の合戦に清顕に奉公した者であるので、一命を助けて追放とした。しかるに、梅雪・右衛門が新参の輩を引き連れて小野に立ち退いたことを、政宗はきわめて口惜しく考えていられるので、岩城からの意思を政宗に披露することは遠慮である、というものである。(中略)
 十六日、政宗は『田村ノ御仕置』もこれまでの間に逐次進められ、小野・大越境の門沢・栗出には田村家中を少々警固にこめ置くべきことも仰付け、万事は完了したので、明日三春を立ち米沢に入馬する旨を宣言。田村孫七郎〔宗顕〕から具足と御酒が献上され、政宗は孫七郎に鷹を与えた。御東へ御暇乞いのため御出。
 以上で、政宗の三春滞在は終わった。田村家中および三春の人々にとっては、始まって以来の激動の四十日間であった。孫七郎宗顕を名代に立て、田村領は伊達の属領に編入され終わったのである。八〔九〕月十七日、政宗は三春を立ち大森城に泊まり、満五ヵ月ぶりに米沢城に帰還する。」(『三春町史』)


猪狩・澤田・大越氏の因縁
 1586年10月の田村清顕死去以来、大越紀伊守顕光は、他の田村家中相馬党の動揺を尻目>に、一貫して従弟相馬義胤に与してきた。 しかし、1588年8月15日、紀伊守は大越城を退去し、決然岩城方の旗標を明らかにした。同月末には、田村梅雪斎顕基以下の相馬党もまた、大挙して岩城氏の下に走った。ここにおいて、一時のちに見るような田村=伊達方復帰の密謀はあったが、「故有りて岩城に属す」(「大越家系勤功巻」)「岩城党大越氏」の時代が始まった。
 大越氏は、奇しくも猪狩氏ひいては澤田氏と同じ岩城家中となり、ここに初めて三氏の運命が一つに結び合わされた。  以来およそ四百年間、猪狩・澤田・大越三氏は、あたかも見えざる運命の糸に操られるかのように、いよいよもって因縁浅からぬ関係に入りこんでいくのである。


第二節 大越紀伊進退ノ義
磐城殿小野・大越ヲ内々相抱ヘラルゝ心アリ
「天正十六(一五八八)年〔八月〕の伊達政宗の『仕置』によって、田村家中と田村はひとまず政治的な安定をみた。三春と米沢との連絡はにわかに緊密となり、頻繁に田村家中が参上し、双方の使者が往復するようになった。(中略)
 田村家中は名代として田村孫三郎宗季〔顕〕が据えられ、田村月斎〔顕頼〕・橋本刑部〔顕徳〕らが政治の運営に当たったが、これについては大森城主片倉景綱と宮森城主白石宗実が政宗の指示のもとに大きく関与したとみられ、景綱・宗実は随時三春に滞在した。
 しかし他方、小野城主田村梅雪斎〔顕基〕・大越城主大越紀伊〔顕光〕らは岩城を頼みとし、岩城はまた田村領侵攻をうかがう情況が存在した。」(『三春町史』)
「〔九月晦日〕世間ヨリ彼地ニ不断目ヲ付ケラルトハ、磐城殿ヨリ小野・大越ヲ内々相抱ヘラルゝ心アリト見エタリ、」(『伊達治家記録』)
「十月五日には、常隆からの飛脚が米沢に到着している。しかし、そのころにはすでに、岩城は伊達を離れて相馬と結ぶ姿勢を取り始めたとみられる。伊達による田村家中支配の実現が、岩城と相馬を近づけたのであった。(中略)
 ただし天正十六[1588]年の末までは、岩城と伊達との間は表面上平和が保たれた。(『いわき市史』)


紀伊在所ヘ先々返置カル
「〔十一月十四日〕大越紀伊在所日ヲ追ヒ六箇敷キ義共アルニ付テ、紀伊在所ヘ先々返置カルノ由ナリ、言語道断驚入ラサル、縦タトヒ如何様ノ義出来シュッタイセシムルトモ、此方ヘ御届ケニ及ハレスシテ、当座ニモ相返サル事ハ、公内〔公私〕然ルヘカラス、以前ノ如クニ早々其洞中ホコラノウチヘ引越サルヘキ義肝要ノ至ニ思召サル、彼在所ヘ自然田村洞中ヨリ横合非分ノ取扱ヒアラハ、御当口ヘ明白ニ相聞ユヘシ、然ラハ涯分其御閉目ニ及ハルヘキ所ニ、今般ノ義覚外ノ至ナリ、世上取成シノ如ク成行ク事御嘆カハ敷く思サル、(中略)
 ◯廿三日壬申、(片倉)小十郎ニ御書ヲ賜フ、 磐城ニ在留書状差上クルニ因テナリ、書中再三御披見、其意ヲ得玉フ、大越紀伊(顕光)進退ノ義、其身(小十郎)所ヘ種々理リノ旨有ル歟、一味中ヨリ段々磐城ヘ閉目アリトモ、御一和ノ節(岩城家臣)志賀甘釣チョウ斎父子内存モ有リシナリ、然ル処ニ御当方御存分一途モ相立ラレス、前々ノ如ク所領以下相違ナキ様ノ御底意更ニ御覚悟ノ外ナリ、併シカシナカラ総和以来小野ノ義、三春御在馬ノ砌(岩城家臣)若松紀伊ヲ以テ仰聞ラレタル間、条々御不足ヲ抛ナケウチ給ヒシニ、今般大越進退ニ付テ兎角ノ義仰払ハルトキハ、跡々御不足ヲ以テ岩城ヘノ御首尾立置キ給ヒシ事共無躰ノ様ニモ有レハ、今度モ常隆御異見〔意見〕ニ任セラルヘキ御覚悟ニテナリ、斯クノ如ク重々御不足ノ上、一段ノ始末相調ル事肝要ニ思サル、
 彼一義不調ニ於テハ大義ナリトイヘトモ、年中其許ニ在留在テモ、是非共御自筆ヲ以テ仰聞ラレシ旨一廉ノ様ニ塩味尤モナリ、紀伊身上時宜ニ於テハ公内共ニ常隆御意見ニ任セラル外ハ非ス、併ラ田村ノ輩ヘ御理リノ為メナレハ、其身帰路ノ後、翌日ニ其許ソコモトヨリ別シテ使者越サルゝ事肝要ニ思召サル、田村ニ於テハ定テ各合点有間敷マジキ歟、兎角ニ常隆使者御当口ヘ立越サル様ニ然ルヘシ、扠々御内々ハ大越進退御意見ニ任セラルヘキト思召サル、其志ヲ以テ彼一義侘言専一ナルヘシ、返々如何様ニモ申シ、彼始末相調フ様ニ塩味尤モナリ、(中略)
 彼一義トハ何様ノ事ニヤ知ラス、且又小野ノ義御不足ヲ抛チ玉ヒシトハ常隆ヨリ御侘ヒニ就テ、田村梅雪斎(顕基)以下ノ輩御退治ニ及ヒ玉ハサルトノ事ニヤ、様子知ラス、」(『伊達治家記録』)


第三節 伊達氏大越氏召出しを計策す
大越紀伊ヲ召出サレ御再乱アルヘシ
 十二月「◯廿九日戊申、◯小野・大越ヨリ三春境ヘ事アルノ由田村ヨリ注進アリ(委クハシクハ伝ハラス)、
 ◯此月始メ〔片倉〕小十郎磐城ヨリ罷帰ル時、居城大森ニ宿ス、時ニ〔二本松城主〕藤五郎(伊達成実)殿参ラレ、小十郎ニ対面シ、磐城ノ様子ヲ尋問ハル、小野・大越御意ニ背キ磐城ヲ頼入ル故ニ、磐城上下ノ心底皆田村ヲ取ラント念望ス、来年ハ磐城殿必ス敵ト成リ玉フヘキ由小十郎申談ス、藤五郎殿聞カレ、御手延ヒニシテ、磐城ヨリ事切ニ及ハレハ、田村ヨリ此春相馬ニ申合セタル者共、行末ノ身上ヲ大切ニ存シ、又磐城ニ奉公スヘシ、然ラハ田村ヲ抱ヘ玉フ事ハ成リ難カルヘシ、去ル〔1588〕年〔4月〕大内備前(定綱)御奉公ノ節、〔その弟〕片平大和(親綱)奉公致ス可キ由申合ストイヘトモ相違セリ、今ニ至テハ大和モ後悔タルヘシ、大越紀伊(顕光)ヲ召出サレ、大和ニモ仰合セラレ、此方ヨリ御再乱ニ於テハ、縦タトヒ磐城殿敵ニ成リ玉ヘルトモ、御弓箭成サレ能アルヘシト申サル、小十郎別ナル挨拶モナシ、藤五郎殿ハ二本松ニ帰ラレ、小十郎ハ米沢ニ参上ス、其後〔小十郎〕右ノ越〔趣〕キ密ニ〔政宗ニ〕言上ス、〔政宗〕公尤モノ由思サレ、大越紀伊ヲ召出サレ、御再乱アルヘシ、早々片平大和所ニ申通セラルヘキ由仰付ラル、」(『伊達治家記録』)
 天正十七[1589]年正月「◯十六日甲子、片倉小十郎景綱田村ヨリ書状ヲ捧テ注進ス、旧臘〔十二月〕廿九日小野・大越ヨリ三春境ヘ事アルノ由田村ヨリ注進ニ就テ、御心許ナク思サレ、(片倉)小十郎ニ仰セテ、栗出・鹿股辺ノ要害等見分〔検分〕シ、警固以下万事相計ヒ、且又磐城ノ様躰ヲモ聞繕フヘシ、第一ハ旧冬伊達藤五郎殿成実内々申サル旨アルニ就テ、大越紀伊顕光ヲ召出サレ、片平大和親綱ヲ語ラヒ、会津・岩城等ヘ御再乱ノ御企テアリ、大越紀伊ヲ召出サルヘキ計策ヲモ致スヘシト命セラレ、先日田村ヘ差遣サルニ因テナリ、即チ御返書ヲ賜フ、其趣、(中略)五ニ大越ノ事、何様ニモ計策シ引出シ然ル可キ哉。」(『伊達治家記録』)


大越ナリトモ先々懸落サハ
 正月「◯廿四日壬申ミズノエサル、〔片倉〕小十郎〔景綱〕ニ御書ヲ賜フ、小野・大越ノ義、田村ノ輩ニ談合セシムルノ由然ルヘシ、様躰委クハシク聞召シ届ケラレ、先々抛チ無ク思サル、併ラ磐城ノ底意聞届ケ玉ハスシテ小野・大越ニ手切アラハ、当方ノ御扱ヒ磐城ニ於テ不首尾ニ沙汰アルヘシ、少シク延引ストモ先以テ相抱ヘ然ルヘシ、聊爾リョウジ(カリソメ)ニ事切セハ慥カニ磐城ニ於テハ此方ヘ怨事取立ラレ、小野ヲ介抱セラルヘキ間、先以テ控ヘラル、(中略)
 ◯廿九日丁丑、小十郎ニ御書ヲ賜フ、(中略)大越ノ事何様ニモ田村ノ輩ノ扱ヒヲ以テ懸取ルヘキ擬作モ有ラハ、左様ニモ苦シカルマシキ歟、兎角小野・大越手堅ク有ラハ、末々少々岩城抱ヘノ分ニ属スヘキ歟、大越ナリトモ先々懸落サハ、岩城ニテ下々マテノ頼ミモ有ルマシキ歟、扨サテ小野ハカリナルニ於テハ、磐城ノ執扱ヒモ精ヲ入ラルヘキヤ、(中略)
 〔二月廿一日〕磐城殿ヨリ志賀式部使者トシテ、小野・大越ノ義調策ニ及ハル、因テ大越紀伊進退ノ義、不足ヲ抛チ玉ヒテ御挨拶ニ及ハルト云々、(中略)大越進退ノ義何様ノ御挨拶アリシヤ、」(『伊達治家記録』)


大越事モ少々事切ノ分ニ有ル歟
 同じ「二月二十一日付けで岩城氏にあてた書付では、
『一 数度申シ尽クセシ如ク、小野ニ牢人衆今于
到り格護之事、
 一 三春之地ニ於テ、〔小野〕新町無事以来、何方ヘモ計策縺レ有ル間布ジキ之由、神>血以テ相定メ、其後小野重罪之事、』『小野江佐〔竹〕・会〔津〕自リ度々内通之事、』をあげて、梅雪斎〔顕基〕が神血による誓約を破り、相馬牢人衆を召し抱えたり、佐竹・蘆名と内通していることを非難している。」(『三春町史』)
 三月「◯七日甲寅、田村ノ家臣、磐城境・相馬境ニ住スル輩(氏名ヲ闕ク)ニ御書ヲ賜フ、其趣、大越事モ近来ニ於テ少々事切ノ分ニ有ル歟、是非無キ次第ナリ」(『伊達治家記録』)


第四節 岩城常隆の田村攻め
小野田原谷城の戦い
 「他方『会津四家合考』(寛文二〈一六六二〉年向井吉重編)は、〔既述のごとく、〕天正十七[1589]年三月十日、小野の田原谷城(小野町田原井)が岩城常隆の軍に奪われたと記している。その経緯は、政宗が岩城麾下の竹貫三河守に内通を勧めたところ、三河守がこれを常隆に告げたことから、岩城勢の小野攻めとなった。三月九日、田原谷城辺の在家を焼き払い、十日早朝から城を攻めて陥落させ、さらに田村右馬頭の〔小野〕新町の城に押し寄せようと支度した。この由を聞いた政宗は四月一日米沢を立って大森に向かった、というものである。」(『三春町史』)
 この「田原谷の戦い」および猪狩一族の奮戦にについては、すでに猪狩氏および岩城氏の章で詳説したのでここでは繰り返さないが、「政宗出馬の日(正しくは四月二十二日)などからみて、なお検討の余地もあろう。」(『三春町史』)


常隆鹿股城を陥落す
 三月「二十一日、〔伊達〕成実・〔白石〕宗実に鹿股・栗出の通路確保のため取出(砦)を、安積口の佐竹・蘆名との関係が無事であるうちに、早く整えるよう、伊達郡の輩にも命じ、〔片倉〕景綱にも田村出張を命じた旨を伝え」た(『三春町史』)。
「東に相馬・岩城を、西に佐竹・蘆名を、さらに北に最上・大崎を敵とする政宗の苦労がうかがわれるとともに、田村領が伊達勢力にとって重要な意義をもつことも知られよう。」(『三春町史』)
 二十六日「小野・大越ノ義ニ付テ磐城ヨリ断リノ旨アリ、」(『伊達治家記録』)
「四月十五日、ついに岩城常隆は小野口に出馬した。(中略)小野城主梅雪斎〔顕基〕がすでに常隆を頼っていた以上、岩城軍の攻撃目標は小野と大越の中間の鹿股
かんまた(神俣)であった。」(『いわき市史』)
「この報に接した政宗は、刈田に陣触れの使を派遣した。(中略)二月下旬米沢での落馬によって、政宗の行動予定は変更を余儀無くされたのである。
 しかし、四月十六日、最上義光の裏をかいて、政宗は大崎義隆と講和し、大崎領を伊達の軍事指揮下に収めた。北の脅威は大きく減じた。政宗は岩城・相馬・佐竹・蘆名との合戦をより有利に進めることが可能となったのである。
 四月十八日現在では、岩城常隆はまだ小野に出馬していなかった。(中略)
 しかし、二十日には岩城の兵が鹿股に迫り、伊達からの鉄砲衆を鹿股に入れることを断念せざるを得なくなったばかりか、鹿股城自体を放棄せざるを得ない状態となった。」(『三春町史』)
 ついに、「二十一日に鹿股城が陥落した。常隆の近陣による攻撃を受けた城主鹿股〔久四郎〕および加勢の福原孤月斎らは六、七日にわたって城を保ったがついに降伏、城を明け渡して三春に退いた。天正十[1582]年頃以来の常隆の田村領攻〔め〕は、ひとまず成功したのである。」「政宗の大森着馬は二十三日である。」(『いわき市史』)
「小野と大越の間に位置する鹿股の失陥によって、大越以東は完全に反田村勢力の手に落ちた」(『いわき市史』)。


第五節 大越の異変

「天正十七[1589]年夏〔4月〕、伝を以て田村月齋〔顕頼〕・宮内少輔〔顕康〕父子に申し依て云く、不慮の義を以て田村を背くと雖、氏代々田村親戚之事と云ひ、岩城を反し御奉公致す可く之間、政宗公に従ひ、御赦免を蒙り度き旨也。因て白石若狭〔宗実〕・伊達安房成実取料
はからひ之処、〔同月〕紀伊守一苗の小舅甲斐守、此の旨を以て常隆公へ訴ふ。茲に於て、紀伊守に尋ぬ可きこと有るを以て岩城に来たらして之を殺す。」(「大越家系勤功巻」)

代々田村親族ノ事ナレハ
「〔四月廿九日〕◯今度磐城殿常隆小野在馬ノ中、大起〔越〕紀伊(顕光)、磐城ニ奉公ストイヘトモ、末々磐城ヨリ小野・大越ノ抱ヘハ成リ難カルヘシ、当〔伊達〕家ニ奉公仕スシテハ身上大切ナリト思案ス、時ニ三春ニ本田孫兵衛ト云者アリ、其子本田孫市郎ト云者ハ紀伊ニ近ク奉公ス、此筋ヲ以テ田村月斎(顕頼)・同子宮内(顕康)方ヘ申通スルハ、不慮ノ儀ヲ以テ田村ヲ背キヌ、然レトモ代々田村親族ノ事ナレハ、〔政宗〕公ニ御侘ヒアリテ、御免許ヲ蒙ラン事ヲ頼ミ申ス、
 依テ〔四月十七日?〕宮内方ヨリ白石右衛門(宗実)所ヘ状ヲ以テ、少用ノ義アリ、藤五郎〔成実〕殿貴殿〔宗実〕ニ対談セント欲ス、中途マテ出会ヒ賜ルヘシト申来ル、右衛
門其状ヲ藤五郎殿ヘ遣シ、斯クノ如ク申来ルニ付テ、出会フ日取リノ義ハ其許ヘ申合セ、追テ申越スヘキ由返答セシ間、早々白岩〔郡山市白岩町〕ヘ罷出ラレ然ル可クト申遣ス、藤五郎殿モ意〔異〕義ナク、〔四月十九日?〕終ニ両人白岩ヘ打越ヘ参会セラル、」(『伊達治家記録』)

磐城ヨリノ警固ノ輩ヲ討果シ奉公仕ル
 「宮内〔顕康〕申談スルハ、大越方ヨリ〔本田〕孫兵衛ヲ以テ〔、政宗〕公召出サルヘキニ於テハ、当時磐城ヨリ大越警固トシテ車某・竜子山右衛門二頭打越ヘテ在陣ス、門沢ヨリ大越山続キナレハ、門沢ノ人数ヲ直ニ本城ニ引入レ、未明ニ町ニ押懸ケ、彼二頭ヲ討果シ、奉公ニ罷リ出ヘシ、元ノ如ク采地ヲモ賜ル様ニト申遣セリ、然レトモ紀伊ハ、我等親子(月斎・宮内)ノ首ヲネラヒ、相馬ニ奉公セシ者ナレハ合点ナシトイヘトモ、此段御耳ニ達セサル義モ如何ニ存シ、各マテ物語スト云フ、
 (白石)右衛門聞テ、左様ノ義ハ目出度事ナリ、首ヲネラヒタル程ノ人、却テ貴方ヲ頼ムハ大ナル誉レナリ、早々米沢ヘ申上ケラレ然ル可シト挨拶ス、宮内〔顕康〕ハ大越カ非業ヲ挙テ、箇様ノ者ノ事ヲ米沢ヘ取持申上ル義、迷惑ナリト云フトイヘトモ、(伊達)藤五郎殿・(白石)右衛門両人頻リニ催促セラル、宮内左アラハ両人ヨリ米沢ヘ申上ラレヨト申ス、因テ青木不休斎ヲ使トシテ、右ノ趣白岩ヨリ言上ス、〔政宗〕公仰セニハ、初ヨリ大越事ハ相馬ニ申通シ、田村ノ者共ヲ引付タルモ、彼者一人ノ所為ナリ、至テ口惜ク思召サル、然レトモ左様ノ義宮内申シ次クと云ヒ、且ツ磐城ヨリノ警固ノ輩ヲ討果シ、奉公仕ルヘキ由申上レハ、罪ヲ宥メラレ、前々ヨリノ領地ハ充行ハルヘキ由御意有テ、御判物ヲ不休斎ニ渡シ遣サル、
 両人方ヨリ不休斎ヲ以テ宮内所ヘ遣シ、宮内即チ孫兵衛ニ渡ス、孫兵衛門沢ヘ罷越シ、大越ヘ人を遣シ、子孫市郎ヲ呼シニ、磐城ヨリ大越城ニ番ヲ附置タレハ、孫市郎出会フ事叶ハス、故ニ御判物ヲ紀伊ニ渡ス事アタハス、」(『伊達治家記録』)


磐城へ押送し切腹を命ず
「紀伊が妻は大越甲斐が妹〔姉?〕也。此の婦嫉妬深し。其の比〔頃〕本田孫兵衛〔孫市郎〕と云ふ者あり。閨愛鮮奸の名ありけるに大越紀伊心を通ずと沙汰しければ、妻嫉心を抱き相窺ふ。此の時紀伊、常隆に敵せんと伊達が徒〔宮内〕に消息す。紀伊如何したりけん、此の翰を落せり。妻是を拾ひ、本田氏が閨愛の文ならんと悦て兄〔弟?〕の大越甲斐に送る。甲斐是を見れば、岩城常隆が領を犯さんとする書なり」(『奥相茶話記』)。
「此の甲斐守、元来紀伊守と仲よからず、今主君に対して逆心を企る、是に与
くみすべき様なしとて」(『奥陽仙道表鑑』)、「誑たぶらかして其の書を假り、馳て常隆に呈す。常隆大に怒り、北郷刑部に命じ、信貫〔紀伊守顕光〕を謀らしむ、信貫〔顕光〕未だ之を知る〔ら〕ざるなり。刑部命を受け直に大越に行き、信貫〔顕光〕を拉し来る、常隆大に刑部の神速を賞す。信貫〔顕光〕は磐城へ押送し、切腹を命ず。又橋本〔大越〕甲斐守の忠訴を賞し、大越城の主将たらしむ。常隆既に小野、大越を略定す」(『磐城史料』)。
「禍は婦人の口より生ずと云るも、 理りなり。」(『奥相茶話記』)
「甲斐ハ紀伊〔顕光〕カ一家ノ臣ニシテ、妻ノ弟ナリ、其筋目ヲ違ヘ、己カ身ヲ立ンタメ主人ノ密謀ヲ常隆ヘ披露スト云々(此等ノ事、日知ラス)、
 成実記録ニハ宮内〔顕康〕ヨリ(伊達)藤五郎〔成実〕殿・(白石)右衛門〔宗実〕方ヘ申シ通セシハ四月七日ニシテ、両人ト宮内白岩ニ於テ出会ハ四月九日トス、然レトモ紀伊カ当〔伊達〕家ニ奉公ヲ存シ寄シハ、常隆小野在馬ノ中ナリ、常隆小野ニ出馬ハ四月十五日ナリ、然ル時ハ宮内ヨリ両人ニ申通セシ日并ニ白岩出会ノ日モ十五日以後ハ見エタリ、但シ十七日ヲ誤テ七日トシ、十九日ヲ誤テ九日ト伝写シタル歟、」(『伊達治家記録』)


田村一家大越氏の終幕
「旧田村一家にして田村大膳太夫清顕公之旗下に属し、田村之領大越村を領し上大越の城〔鳴神城〕に居り、因て大越を以て氏と」し、「田村二番の大家にして、相馬義胤公の為には従弟」(「大越家系勤功巻」)である、大越氏の嫡宗大越紀伊守顕光(橋本信貫)は、宗家田村・伊達・相馬・岩城・石川等の南奥戦国大名諸氏の間に伍して、戦国争乱の激浪に翻弄される運命にあった。
 1586年10月9日「清顕公卒し玉ひし後、密に相馬へ契りて謀ることあり。其の後〔1588年8月15日〕、故有りて岩城常隆公に属せす所に、天正十七[1589]年夏〔4月〕、伝を以て田村月齋〔顕頼〕・宮内少輔〔顕康〕父子に申し依て云く、不慮の義を以て田村を背くと雖、氏代々田村親戚之事と云ひ、岩城を反し御奉公致す可く之間、政宗公に従ひ御赦免を蒙り度き旨也。因て白石若狭〔宗実〕・伊達安房成実取料
はからひ之処、〔同月〕紀伊守一苗の小舅甲斐守、此の旨を以て常隆公へ訴ふ。茲に於て、紀伊守に尋ぬ可きこと有るを以て岩城に来たらして之を殺」(「大越家系勤功巻」)した。
 1589年4月、「田村一家大越氏」は、惣領紀伊守顕光の切腹によってその幕を閉じたのである。





第四章 岩城家臣大越氏とその終焉



 1589年4月、「紀伊守一苗の小舅甲斐守、」「紀伊守謀叛之旨を申すに因て、紀伊守所領居城ともに直に之を得て、岩城に仕ふ。」(「大越家系勤功巻」)


第一節 岩城家臣大越甲斐守
紀伊守所領居城を得て岩城に仕ふ
 1589年4月、甲斐守は「紀伊守〔顕光〕謀叛之旨を申すに因て、紀伊守所領居城ともに直に之を得て、岩城に仕」(「大越家系勤功巻」)えた。長い「田村一家大越氏」の時代は名実ともに終わり、「岩城家臣大越氏」の時代が始まったのである。
「〔岩城〕常隆の乳母子に橋本〔大越〕甲斐守と云う者あり」(『桾拾集』)。すなわち、「甲斐守与ト岩城家ハ同姓之親有ル也」(『伊達世臣家譜』)。
「甲斐ハ紀伊カ一家ノ臣ニシテ、妻ノ弟ナリ」(『伊達治家記録』)。
 大越甲斐守は、自身己が女を大越宗家棟梁顕光の正室に送り込むほどに有力な大越一族であろう父大越氏と、常隆の乳母で常隆に親近な生母岩城氏の間に生まれたものであろう。顕光とは義兄弟であり、常隆とは「乳兄弟」になる訳で、甲斐守と岩城氏はもともと深い因縁の下にあったのである。
 しかしながら、すでに岩城氏および猪狩氏の章で詳説したごとく、これ以後の岩城氏の歩んだ道は困難に満ちたものであった。岩城家臣大越氏の命運もまた、もはや風前の灯のごとくだったのである。


麿上原の戦い
「岩城常隆の田村領侵攻は、北からする相馬義胤、南西からの佐竹義重・蘆名義広との三方からする田村攻めの共同策戦に外ならなかった。これに対して五月下旬政宗は義胤を牽制すべく相馬領北境を攻めて新地・駒ヶ嶺の二城を奪い、大森に馬を返した直後、本宮から猪苗代に出馬した。急をきいて会津にもどった蘆名義広は、六月五日磐梯山麓の麿上原
すりかみはらに政宗と対陣したが大敗し、のち常陸に走った。
 『奥羽永慶軍記』によれば、政宗の相馬攻めの直後、相馬・岩城・佐竹は再び田村攻撃を進め、大平(郡山市)を攻める佐竹、岩井沢(都路村)を攻める相馬氏に対し、岩城勢は門沢(船引町)を攻めた。常隆は小野に在陣し、竹貫三河守重元(中略)以下三〇〇〇が、五月二十七日から門沢城に弓・鉄砲を射掛けた。(中略)守勢は(中略)一〇〇〇人が応戦したが、火矢によって町廓を焼かれ、城の外構えを破られて、(中略)二〇余騎は討たれ、(中略)三春に退却した。田村衆は城主以下四〇〇人が討たれたが、岩城勢も一〇〇余人を失ったという。(中略)
 六月十一日政宗は蘆名氏の本城黒川(会津若松市)に入城した。当時佐竹義重は須賀川、常隆は小野に在陣し、田村領への攻撃を続けていた(『伊達治家記録』)。」(『いわき市史』)


梅雪斎・右馬頭・右衛門の始末
「七月三日、常隆は田村領下枝(郡山市田村町)を攻めたが、引き揚げるところを伊達・田村勢に不意打ちされ、田村右衛門清康以下一〇四人が討ち取られた。常隆は下枝の敗軍を最後に岩城に帰還した(『伊達治家記録』)。」(『いわき市史』)
 一方、「田村梅雪斎〔顕基・右馬頭清通〕父子を赦免して小野を与えるようにと言うのが〔須賀川二階堂家中の伊達派〕箭部下野・浜尾駿河らが伊達に内応する条件の一つであった。これに対して政宗は、『月斎〔顕頼〕、何様ニ佗言ノ品アリトモ不通ニ仰せ払ハルベシ、時宜ニ於テハ心安カルベシ』と返書した。田村家中両巨頭たる梅雪斎と月斎の対立は深刻であり、月斎は梅雪赦免復帰に強い反対の意を表明したが、政宗は二階堂服属のために、これを押さえたのである。
 二階堂後室伊達氏(盛義室)は晴宗の娘、政宗の伯母であったが、政宗の『和順』の要求をついに受容しなかった。〔十月〕二十六日、須賀川城落城。鎌倉以来の名門二階堂家は、ここに滅亡した」(『三春町史』)。
「この合戦によって、佐竹勢は田村領攻めの基地を失った。これと呼応する形にあった常隆にとっても、敗戦の痛手は大きかった。」(『いわき市史』)
「十一月四日、石河大和守昭光も政宗と誓詞を交換して服属した。」(『三春町史』)


1589年11月27日大越氏大越を去る
「十一月二十七日のころ、常隆と政宗の和睦が成立した。この日、大越の地が政宗によって田村宮内大夫顕康に与えられていることは、常隆がまず大越を伊達・田村方に返却したことを意味する。十二月一日のころまでに常隆は小野をも返却したとみられる。『伊達治家記録』はこの和睦について、十二月一日条で次のように記している。
(中略)殊ニ田村ノ内小野・大越ハ最前、当〔伊達〕家ヲ背キ磐城殿ニ奉公セシヲ今度田村ニ復シ付ラレ、速カニ調ヘリ」(『いわき市史』)。
 1589年11月27日、大越氏はついに、自らの氏号「大越」の由来した父祖伝来の地を去った。紀伊守顕光の後をうけた、岩城家臣大越甲斐守の大越知行は、1589年4月末~11月末の間のわずか7ヶ月で終わりを告げた訳である。 以後の、岩城における甲斐守の知行は不明である。


それからの大越
「天正18年(1590)豊臣秀吉の奥羽仕置にも、田村郡は伊達領と認められたが、」しかし、田村顕康の大越知行も長くは続かなかった。
 翌[1591]年、伊達氏は陸前国岩出山に国替えになり、「田村郡は会津城主蒲生氏郷の支配下となった。文禄3(1594)年の蒲生高目録によれば現在の上大越・下大越が一括されて大越村とよばれており、その村高は 2,558石余であった。
 寛永4(1627)年加藤明利が三春に入封して三春藩が成立し、大越村は三春藩領となった。正保元(1644)年松下重綱が死去すると三春藩は収公されて幕府領となったが、翌2[1645]年秋田氏が三春に入封するに及んで再び三春藩が成立し、その領として幕末に至った。秋田氏入封の翌正保3[1646]年大越村は上大越・下大越の2か村に分離され、村高は上大越村 1,353石余、下大越村 834石余であった。」(『角川日本地名大辞典』)


第二節 大越氏の北上
 大越甲斐守は、1589年11月27日「大越の居城を除き、」1602年「岩城滅亡するにおよひて」「入道して未了と号し、武州浅草辺に住す。〔同1602年〕岩城〔貞隆〕殿亦御流落之後、浅草に来たり、甲斐一所に居玉ふ。大越は旧岩城親戚之好み有るを以て也。而して未了終に浅艸〔草〕に於て卒す、行年不詳。」(「大越家系勤功巻」)

政宗・常隆の小田原参陣と常隆の客死
「天正十八[1590]年二月十四日の政宗書状によれば、常隆は政宗出馬の節は即刻応援の兵をだす由であるとのことが記されている。当時の伊達氏の敵は相馬と佐竹であるが、常隆は因縁深い佐竹と敵対してでも伊達に従うという意思を表明していたことになる。(中略)〔1589年11月の〕講和以後の岩城と伊達は、相馬を共通の敵としてその友好を維持していた。」(『いわき市史』)。
「天正十八[1590]年三月一日の秀吉の小田原出陣は、北条征討とあわせて関東奥羽の諸家に小田原参陣=臣従を直接に迫るものにほかならなかった。三月五日、政宗は常陸佐竹への出馬延引のことを決定し、幾つかの故障を経たのち五月九日黒川城を出発、六月五日小田原に参着した。」(『三春町史』)
「常隆が小田原に向けて岩城を出発したのは、(中略)五月二十日以後のころであった。(中略)常隆は出陣前から病を得ており、遅参もそのためということになる。(中略)六月二十三日三坂越前守が伊達家中の青木不休斎に宛てた書状には、“常隆も参陣した。一両日前に関東から帰った者の話では、政宗公もようやく関白殿に面謁の由である。常隆も参陣まもなく面謁できる由である云々”とある(『伊達治家記録』)。政宗が秀吉に謁見したのは六月九日であるから、常隆が秀吉に謁見したのは十日以後となる。
 七月五日後北条氏が降伏して、小田原は落城した。その半月後、常隆は相模国星谷
ほしがや(神奈川県座間市)で客死した。」(『いわき市史』)

甲斐守入道して未了と号し武州浅草辺に住す>
 すでに岩城氏の章で詳説したごとく、「常隆には〔遺腹〕男子があった。長次郎政隆がそれである。しかし政隆は退けられ、佐竹義重の三男能化丸
のうげまる(貞隆)八歳が常陸から入嗣した。」(『いわき市史』)
「天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥羽仕置によって岩城氏は大名としての存続を許された。」(『角川日本地名大辞典』)
 1596年には、既述のごとく、過ぐる1588年8月以来ともに岩城氏旗下の同僚となっていた猪狩下野守の一族および家中澤田氏が、一足早く楢葉郡浅見川村の領地を後にし、 「伊達氏に随仕」して「信夫郡へと去」(『大日本地名辞書』)った。
「慶長5年(1600)関ヶ原の戦に、佐竹〔岩城〕貞隆は兄〔佐竹〕義宣とともに徳川家康の軍勢催促に応じなかったため、戦後〔1602年〕岩城領〔12万石〕はすべて没収された」(『角川日本地名大辞典』)。「佐竹義宣は、常陸国(茨城県)の旧領五十四万石を没収されて僻遠の地秋田に移され」(『東北の歴史』)、同1602年、貞隆は「武州江戸エ下リ、浅草ニ住居」(「亀田岩城家譜」)した。 この間甲斐守は、1602年「岩城滅亡するに及ひて」、「入道して未了と号し、武州浅草辺に住す。〔同1602年〕岩城〔貞隆〕殿亦御流落之後、浅草に来たり、甲斐一所に居玉ふ。大越は旧岩城親戚之好み有るを以て也」(「大越家系勤功巻」)。
 1589年4月の甲斐守の岩城臣従から数えて12年、1588年8月15日紀伊守の実質的な岩城臣属から数えれば13年、「岩城家臣大越氏」は、ついにその幕を閉じた。しかのみならず、大越氏は父祖以来の南奥の故地をも永遠に去ったのである。


相馬大越氏と秋田大越氏
 さて、1589年4月非業の最期を遂げた大越紀伊守顕光には、既述の『田母神氏旧記』によると、二子があった。その「一男左近」は、おそらくは父顕光の従兄相馬義胤を頼り、「相馬に住」した。この左近が大越氏の嫡流である。その命脈は相馬の地に伝えられ、「徳川時代、中村相馬藩の用人に此の氏〔大越氏〕あり。」(『姓氏家系大辞典』)
 顕光の「二男若狭」は「秋田に住す」。秋田佐竹氏あるいは亀田岩城氏を頼ったものであろう。この系統は、秋田に根を下ろすことになった。
 なお、一説に「紀伊守長子右近は右近館に、次子左近は追館に(中略)據りしなど傳ふ。」(『姓氏家系大辞典』)


千石秋田大越氏と五百石秋田大越氏
 一方、江戸浅草に仮寓していた岩城氏最後の領主貞隆は、その翌1602年「三百人、御扶持下シ置カレ、」(「亀田岩城家譜」)「兄義宣のもと秋田に移り増田1万石を与えられた」(『角川日本地名大辞典』) 。以後の貞隆の事蹟および亀田岩城氏については、すでに岩城氏の章で述べたとおりである。
 しかるところ、「岩城〔貞隆〕殿浅草に居玉ふ中、〔1602年徳川〕家康公召出し玉ひて、羽州庄内地〔増田?〕に於て一万石を賜ふ。此に於て、入道未了〔甲斐守〕二人の男子を以て庄内へ遣す。岩城殿より〔実兄・秋田〕佐竹義宣公へ御頼みを以て、兄大越因幡に千石を賜ひ、弟甚右衛門に五百石を与へ、共に大越を稱す。子孫今猶佐竹の家臣にして、代々之に仕ふ」(「大越家系勤功巻」)。
 すなわち秋田大越氏二家の誕生である。この二家と、同じく「秋田に住」したさきの大越若狭との関連如何は不明である。


源兵衛/仙台大越氏祖
 ときに、「甲斐守ハ即チ源兵衛カ兄也」(『伊達世臣家譜』)。 源兵衛は、兄甲斐守同様、父大越氏と「〔岩城〕常隆の乳母」なる母岩城氏の子であろう。
「初め〔1589年11月27日〕兄甲斐守一同に大越を除き、」おそらくは甲斐守同様に岩城氏に仕えた。1602年「岩城滅亡するに及ひて」、「伊達〔信夫 〕郡鞠子村〔福島市丸子
まりこ〕に住す。  数年の後〔1606年〕二男十左衛門〔茂世〕政宗公于仕え、以て〔1606~15年の間に〕黒川郡北目〔大崎〕村に領地を有し、而来住みて卒す。法諱ほうきは大越。」(「大越家系勤功巻」)
 この「大越源兵衛某ヲ以テ祖ト為」(『伊達世臣家譜』)し、1606年以後に「黒川郡北目〔大崎〕村に領地を有し」た大越氏が、すなわち後代澤田氏と縁を結ぶことなる「仙台大越氏」である。
 かくして、やがて仙台大越氏の祖となる大越源兵衛とその一族もまた、一足先に「慶長元[1596]年(中略)伊達氏に随仕」(『大日本地名辞書』)して楢葉郡浅見川村を旅立ち、「慶長八[1603]年(中略)四百石ノ田ヲ北目大崎(黒川郡)(中略)ニ於テ給サ」(『伊達世臣家譜』)れた猪狩氏および澤田氏の後を追って、一路仙台めざして北上した。
 その他「大越家系勤功巻」には、おそらく源兵衛・甲斐守の兄弟と思われる「善右衛門」の系統が記されている。
 大越一族の諸氏は、それぞれの縁故を頼り、相馬・秋田・仙台等中・北奥の各地に、新天地を求めて転進していったのである。


第三節 甲斐守の忠節
常隆公妾婦みごもりになり給ふ
 さて、岩城氏の章ですでに述べたように、岩城「常隆公御逝去は、実に天正十八庚寅年七月二十二日(一五九〇)なり。常隆公は未だ御子続なかりしに、一女御寵愛ありける妾婦の今年初めて、みごもりになり給えけれども未だ男女の分ちを知らず。一族内外の人々は暗夜に燈を消したるが上、双明の珠を失せしが如く、此れ彼れと取沙汰おびただしかりける。就中
なかんずく、白土摂津守といえる家老、能化丸のうげまる 殿を以て磐城の家の家婿とするも、この能化丸殿は、佐竹義重公の第三(実は第四)の御子息なり。然あるに義重公と常隆公とは御一門なりける故に、摂津守使を佐竹に遣し、能化丸殿を乞い求めて磐城の御家相続せしとなり。
 能化丸殿相続の後は、岩城忠次郎貞隆と申し奉るなり。此の年御歳ようやく八歳に成らせ給うとなり。此の故に佐竹義重公を御後見に頼み置き万事指引きを頼まれしとなり。夫より後に庚子の年(一六〇〇)に佐竹の家と岩城の家の両家は、羽州へ移り給うとなり。」(『桾拾集』)


常隆の乳母子橋本甲斐守世に立てまほしく思い
「扠
てまた常隆公の彼の孕えい婦、其の間に男子を産みけるを、兎角して育てたりける。時に白土を始め皆々存ずるは、此の人、俗体あらんは、ことむずかしき種なるべしとて、 未だ若年のうち藤沢〔神奈川県藤沢市〕の道場へ遣わして薙髪させしめ、 名を隆道りゅうどうと申されける。
 其の頃、常隆の乳母子に橋本〔大越〕甲斐守と云う者あり。如何にしても主君なき跡の御形見なれば彼の隆道を世に立てまほしく思いけれども、時の勢い叶いようとも思わねば、邪
よこしまに仕損じては却て、隆道のためならずと徒いたずらに心を尽せども、同心の人もあらざれば空しく年月を送りしが、〔1600年〕思いがけなき庚子の乱〔関が原の戦〕出来、〔1602年〕佐竹、岩城の両家共に羽州へ移されける故に、橋本〔大越〕も心の外なる主人の粟を喰んよりはとて、 貞隆公へ暇を乞いて流浪の身となり、今は世の中に憚ることなしとて、藤沢へ至り、隆道へ対面し、橋本〔大越〕申しけるは、
 御父君卒去の後、御跡続は御出生後
おくれ給う事なれば今に及ばざることにて御座あれども、御父君の形見にて有りければ、領地の内、片すみなりとも宛行あてがい、 亡君の御種と一家中も敬いて先君への寸忠と仕るべき処、〔白土〕摂津を始め聊いささか左様の心底なければ、某それがし一人無念の涙を押え、 折を窺い居り候へども、願を遂ぐべき時節もなかりけるおりふし、 今度の変国を幸いに貞隆に暇を乞い馳せ登りしなり。」(『桾拾集』)

主従打ち連れ仙台へ下る
「つたなき御運は是非に及ばず、如何にもして御形容計りも御父君の御跡を続がせ奉りたき拙者が寸志。一度環俗ましますべしと頻りに進めければ、隆道申さるるは、一旦出家徳道〔得度〕の身となり、亡夫の菩提を弔い奉る身の今、環俗せんこと本意ならねど、一家中の者共一同に父君の事をば思い出すものとてもなき中に、汝一人其の志を立つることの固きを思えば、一度在家に立ちかえり、父君の家名計りも相続せば、其の方が忠も自然とたち、父への寸孝にもなるべきやとて、
 則ち環俗して名を岩城常太郎隆道
たかみちと改められけれども、家名を起こさん便りもなければ、如何わせんと主従案じ煩い居たりけるが、伊達政宗は、父常隆の甥〔従兄弟〕にて隆道も従弟〔従姪じゅうてつ〕なれば、此の子細を悉く申して彼の人を頼みしかば、よもや策略はあるまじとて、〔1607年〕主従打ち連れ仙台へ下りしとなり。
 此の常太郎隆道の終りを尋ぬるに、何れにも其の終りを記せるを見ず。故に其の末を筆せざるのみ。」(『桾拾集』)


希代の忠臣甲斐守と一門岩谷堂伊達氏
 この常太郎隆道〔長次郎政隆〕が、「政宗公に仕へて、子孫江刺郡岩谷堂〔現岩手県江刺市〕の邑主」(『仙台人名大辞書)となった、岩城政隆改め伊達一門岩谷堂伊達氏祖政隆その人であることは、岩城氏の章で述べたとおりである。
 『桾拾集』の記述の大要は、さきの『奥陽仙道表鑑』のそれとほとんど一致している。>ただ『桾拾集』では、甲斐守を「常隆の乳母子」としている点が特徴的である。「甲斐守
与ト岩城家ハ同姓之親有ル也。」という『伊達世臣家譜』の叙述は、この謂であろう。すなわち、甲斐守は父大越氏と、常隆に親近な母岩城氏の子であろう。この生母は常隆の乳母で、甲斐守と岩城常隆は「乳兄弟」ということになる。甲斐守の常隆への徹底した忠誠ぶりは、ここにその理由が求められよう。
 『伊達治家記録』は「甲斐ハ紀伊カ一家ノ臣ニシテ妻ノ弟ナリ、其筋目ヲ違ヘ、己カ身ヲ立ンタメ主人ノ密謀ヲ常隆ヘ披露スト云々」としている。伊達氏の立場からは止むを得ない捉え方であろう。しかしこの『桾拾集』および『奥陽仙道表鑑』は、甲斐守を「希代の忠臣」として記述している。
 いずれにしても、入道未了・大越甲斐守は、謎に満ちた人物である。その最期もまた、既述のごとく、謎に包まれたままである。
「而して未了〔甲斐守〕終に浅艸〔草〕に於て卒す、行年不詳。」(「大越家系勤功巻」)



(続く)


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