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北の錦旗
(東京都立大学卒業論文『マルクス物神論の研究』序章)


澤田 諭


 「戊辰〔1868年 (慶応 4) 〕正月三日慶喜ハ會津、桑名ノ二藩兵ヲ先鋒トシテ大阪ヲ發シ伏見鳥羽ノ兩道ヨリ進ム、總勢殆ト一万人、而シテ在京ノ兵ハ薩長土藝ヲ合セテ三千ニ過ギズ、薩長は伏見鳥羽ニ陳〔陣〕シテ徳川勢ノ來ルヲ待チ尾越ハ洛中ニアリテ動カズ、既ニシテ徳川氏前軍ノ使者伏見ニ到リ關ヲ開カンコトヲ請フ、薩ノ伊知地正治長ノ山田市之丞等曰ク朝廷ニ請ヒ、旨ヲ得テ開クベシ請フ、暫ク待タレヨト、是ニ於テ會桑ノ軍ハ關外ニアリテ命ノ至ルヲ待チシニ長ノ參謀大村益次郎急ニ令ヲ發シテ會桑ヲ砲撃セシニゾ徳川軍モ亦勢ヒ之ニ應ジテ戦闘ヲ開始スルノ已ムナキニ至レリ、此時迄依違決セザリシ土佐藩ハ薩長ニ屬シ彦根藩 (伊井氏) モ亦飜ヘリテ薩長ニ與シタルヲ以テ徳川軍ハ利ヲ失ヒテ退ゾキタルガ、翌四日薩長は奏請シテ仁和寺宮ヲ奉ジ錦旗ヲ擁シテ進ミシカバ、徳川氏ノ爲ニ山崎關門ヲ守リシ津藩 (藤堂氏) ノ如キモ薩長ニ属シテ徳川軍ヲ逆襲シタル爲六日ニ至リテ徳川軍ハ全ク敗亡シ慶喜ハ大阪ヨリ松平肥後守、松平越中守、板倉伊賀守等ヲ随ヘ軍艦回陽ニ駕シテ江戸ニ去レリ、(中略)徳川氏ガ大兵ヲ率ヰテ入洛セントシタル擧動ハ穩カナラザルモ先ヅ兵端ヲ開キシハ薩長ニアリ、而シテ錦旗ヲ掲ゲ王師タルコトヲ表セシハ第二日ニアリシヲ以テ徳川氏ヲ朝敵トシテ天下ノ兵ヲ動カスノ不可ナルヲ論ズル者多カリシ」(注1)。過ぐる1864(元治 1)年、「長州人や諸藩の勤皇家が蛤御門で宮闕に対し発砲した事実など忘れて、錦旗に発砲した会津は逆臣だとしたわけである。その錦旗が、実は自分たちが作り出したもので、以前は無かったものであった」(注2)のである。
 幕政時代には、天皇その人ならびに公家供は、民衆にとってはまったくなきに等しい存在であった。その忘れられた「朝廷」の存在を、瑞穂の国の津々浦々の民草に再び思い起こさせる手段として、にわかづくりに薩長「官軍」の「作り出」したものこそ、この「錦の御旗」にほかならない。『広辞苑』(岩波書店)によれば、「鎌倉時代ごろから、朝敵討伐の際、官軍の標章として用いられ」てきた由ではあるが、一般に「錦旗」といえば端的に明治官軍の「錦旗」を指し、それ以前の「錦旗」が連想されることはまずないのであるから、大佛がこれを、「自分たちが作り出したもので、以前は無かった」と形容しても、あながちまちがいとばかりも言えないだろう。今日、「(比喩的に)他に対しての自己の行為・主張などを権威づける」(『広辞苑』)一般名詞としてひろく人口に膾炙しているのも、この歴史的事実を踏まえてのことなのであるから。
 徳川三百年の間その威力をほしいままにしてきた「葵の御紋」は、いまや不死鳥のごとく復活した「錦旗」の威光の前にまったくその色を失い、徳川累代の諸大名さえ、その前にはいつくばってしまった。ここにおいて、「葵の御紋」から「錦の御旗」へと、時代のシンボルが交代したのである。


 一方、1862(文久 2)年、勅書により薩長土加に伍して「豊太閤の故典に依り、沿海の大藩五国をして五大老と称し、国政を諮り決」する方策の一に挙げられながらも、いまだ新政府に対するその後背を決し得ずにいた東北の雄藩・仙台藩では、
 「戊辰正月元日小姓頭坂本大炊ハ京師探索トシテ上京ヲ命ゼラレ、豫テ京師ノ事情ヲ熟知セル一條十郎モ亦特ニ随従ヲ命ゼラレ急行出發セルガ此時未ダ京師ニ激變ノ生ズベキコトヲ知ル由モナク、兩人ハ旅次時事ヲ論ジテ頻リニ意見ヲ鬪ハシツヽ道程ヲ急ゲリ、元來大炊ハ西洋砲術ヲ江川太郎左衛門ニ學ビ、激烈ナル開國助幕論ヲ唱エ十郎ハ屡次江府及ビ京畿ノ間ニ出没シテ天下ノ志士ト意見ヲ上下セシコトゝテ今日ノ時勢、理想的ノ開國助幕論ハ到底行ハルベクモアラズ、天下ノ勢ヲ制セントスレバ先ヅ其ノ勢ヒノ赴ク所ヲ察シテ方向ヲ決セザルベカラズト論ジテ議未ダ決セズ、旅次忽チニシテ正月三日ノ變ヲ聞キ、兩人愕然タリ、進ミテ東海道ニ入レバ會津桑名ノ敗兵陸續東下スルニ逢フ、是ニ於テカ大炊曰く時事斯ノ如クンバ我ガ所見モ亦變ゼザルヲ得ズト、大炊ガ極端ナル助幕論ヨリ一變シテ所謂勤王黨トナリシ動機ハ實ニ茲ニアリトイフ」(注3)。
 かくて大炊一行は、砲煙いまださめやらぬ京都へと入った。当時京都には、先年末から藩執政・但木土佐らが滞在し、各方面への周旋に努めていたが、おりから
 「同廿日太政官代ヨリノ召喚アリテ但木出頭セシニ、左ノ達シアリ
仙 臺 中 将
會津容保今度徳川慶喜ノ反謀ニ與シ錦旗ニ砲發シ大逆無道可被發征伐軍候間其藩一手ヲ以テ本城襲撃速ニ可奏追討之功旨御沙汰候事 正月
是ニ於テ(中略)愈々御沙汰ヲ蒙リタル以上ハ夫レ々々ノ準備モアル爲、但木、遠藤、大童、坂本、一條等相會シテ先ヅ錦旗を請ハザルベカラズト決シ、遠藤小三郎ハ議定役所ニ出頭シテ錦旗ノ下附ヲ求メシニ、朝廷ニモ有合ナキ故、其ノ藩ニテ作ルベシトノコトナリケレバ、坂本大炊憤然トシテ曰ク、朝廷ヨリ下附サルレバコソ錦旗モ神聖ナレ、藩ニテ勝手ニ作ラバ何ノ値ヒカアラン、代金ハ藩ヨリ上納シテモ可ナリ飽マデ旗ヲ以テ下附サレンコトヲ請ハザルベカラズト、是ニ於テ但木ハ一條十郎ヲシテ此事ヲ周旋セシム蓋シ一條ガ豫テ木戸孝允等ト昵懇ナルヲ知レバナリ、翌早朝一條ハ坂本等ト共ニ木戸ヲ訪フ此時木戸ハ感冒ノ爲褥中ニアリシガ談直チニ決シ朝廷ヨリ下附サルベキコトトナレリ」(注4)。ともかくもこれで、「お馬に揺られてひらひらする」「朝敵征伐せよとの錦の御旗」が、めでたく仙台藩に「下附」されることになった。もっとも、費用はどうやら自前持ちのようではあったのだが………。
 さてこの間、国元「仙臺ニテハ一門連署の趣意ニ基ツキ、兵ヲ京師に出スコトトナリ、(中略)三好監物を西上セシムルニ決し(中略)監物ハ精兵ヲ率ヰ(中略)二月二日入京」し、「大番組頭大越文五郎三好ニ従ヒ京ニ上ル」。「此時既ニ討會ノ命ヲ奉ジ錦旗ヲ授ケラルベキコトトナリ居リシヲ以テ但木トモ會談ノ上、同十七日御所ニ出頭シ錦旗及ビ日月旗ヲ奉戴シ坂本大炊及ビ富田小五郎ヲシテ之ヲ奉ジテ歸國セシメ、討會ノ軍務ニ關シテ薩長諸藩ト打合セ、尚参與其他ノ人々ノ意見ヲモ聞キ周旋スル所アリタリ」(注5)。
 この時仙台藩に「下附」された「錦旗」は「二旗を一組とし、長さ一丈一尺五寸、幅二尺二寸、地質赤地緞子、地紋牡丹唐草宝づくし、上部に金箔菊花紋章 (直径一尺二寸五分) の形態である。監物以下は勤王派と自己を信じたのはこのときである。形式に規定されたともいい得る。十九日坂本大炊はこの錦旗を奉じ仙台に出立した。旗は唐櫃に納め供の者に担がせたが江戸を過ぐる際には、旗を白布に包み肌に巻き駕籠で去った。白河以北は細心の注意を払った」(注6)。さしもの「錦旗」も、江戸ではまだまだこのありさまであった。
 この「坂本大炊は実直な人物で、錦旗を擁して帰る大任を引受たのに感激し、その後は、熱心な会津討伐の議論の主唱者となった。物が人の心を一変させたのである。それ以前の坂本は、江川太郎左衛門に砲術を習い、開明的教育を受け開国論と共に佐幕的傾向が強い人柄だった。小姓頭の地位もあり、穏健な意見の持ち主であるが、錦旗を得てからは、性格は一変して」(注7)しまった。一枚の「布切れ」が、直情径行な大炊の赤心を完全に捕らえてしまったのである。
 「坂本は同月廿九日着仙登城シテ錦旗ヲ納」(注8)めた。


 「時ニ奥羽鎭撫使ノ一行ハ薩長筑及ビ仙臺ヨリ護衛兵各百人宛ヲ出サシメ三月一日ヲ以テ出發下向スベキ旨ノ命アリ、三好ハ其ノ率ヰタル兵ヲ大越文五郎ヲシテ指揮セシメ、自分ハ総督府ニ先タチ、急行シテ仙臺ニ歸ラントスル(中略)然ルニ京都ニテハ總督府ノ振發ヲ急ギタレド三月一日ノ豫定ハ同二日トナリ、大越文五郎ノ率フル兵ハ宮城丸ニ乗ジテ同月十日大阪ヲ發シ十三日江戸着、十七日寒風沢着總督府及ビ薩長筑ノ護衛兵ハ同十一日大阪出帆、十九日松島ニ着シタリ」(注9)。
 「ところで「錦旗を擁して西軍が江戸城に入ったのは、この年四月十一日である。これより早く三月末に、奥羽鎮撫総督のひきいる西軍の部隊が、江戸より遙か遠く後方の仙台領に上陸していた。江戸の占領もまだ確保されていないのに、奇妙に手回しのよいことだが、これは実は無知と間違いから起こった派兵なのである。(中略)まだ西日本の諸藩の如く朝廷の支配に服したとは言えず、抵抗の機運さえある東日本の鎮撫に向かうものとして、雑役の人数を除き実戦兵力が仙台兵を加算しても五百名に足りなかったのは、仙台藩に異心があったら、一度に揉み潰されてしまう程度の兵力で、これが強引に錦旗を掲げて三月十一日に大阪を出帆した。無計画の冒険だとも見られる」(注10) 仕儀であったのである。
 かくて「〔四月〕二日総督府ヨリ左ノ如ク達セラル
                              仙 臺 中 将
其藩大越文五郎儀京師出陣ノ刻ヨリ諸事遂心配御用相勤候ニ付、今般奥羽征討中其藩軍事参謀役ヲ以テ總督府ヘ相誥〔詰〕指揮ヲ受精々盡力致様可申付事
(中略)右ノ命令ニヨリ文五郎ハ軍事参謀ニ(中略)命ゼラレタルガ、藩論の沸騰甚ダシキ爲(中略)亦病ト稱シ引籠リ總督府ノ召ニ應ゼズ」(注11) 。
 「扨監物ト〔総督府下参謀〕世良大山等ト斯ク親密ナルト共ニ世良、大山等ノ爲ニ侮辱セラレ其ノ凌虐ヲ憤ルモノハ監物ヲモ憎ムニ至リ、(中略)四月三日監察一同ヨリ左ノ申立アリ
 此度鎭撫使下向ニ付世上風唱ノ趣左ニ奉申上候
  但木土佐、三好監物、坂本大炊、(他眞田喜平太、大越文五郎)
 右三人ノ輩同腹示合鎭撫使下参謀等ヘ内通御国事ノ機密ヲ通ジ(中略)四月四日ニ至リ監物及ビ坂本大炊(小姓頭)ハ退職ヲ命ゼラレタリ」(注12)。
 「是ニ於イテ世良参謀等大ニ怒リ總督府ヲ盛岡ニ轉スベシトテ檄ヲ驛路ニ傳エ人馬ヲ聚メントス、奉行以下駭キテ止ムレトモ肯カズ、六日坂英力、公ノ書ヲ携エ文五郎宅ニ至リ懇諭セシニ文五郎曰ク討會奉命ノ藩論ヲ確定セズンバ転陣ヲ止ムベカラズト、依テ更ニ討議ノ上藩論ノ決定ヲ誓ヒ文五郎ヲ起サシメタルハ四月九日の夜ニシテ文五郎ノ總督府ニ到ルヤ参謀等相議シテ轉陣ノ準備ヲ撤シタリ」(注13)。
 かくていよいよ四月十一日には、藩主伊達慶邦の出陣となった。それは「錦旗が二流見られただけで、他は一切、重々しく御定式どおりなのはよいが、目を奪うばかりの大名行列だったとしても、近代の戦場へ向う軍隊とは見えない」(注14)体たらくのものであった。


 かくするうちに、「鎮撫軍」にたいする「東軍」の怨嗟の声はしだいに、とかく横暴をきわめることの多かった総督府下参謀・長州人世良修蔵の一身へと集中していった。
 「西南日本の人間と東北の人間とでは、性質上どうしても折合いの出来ぬ点があるところへ、官軍を鼻にかけて、薩長人は奥州人を奴隷視した。錦旗も、その支配の道具であった。」(注15)
 おりから「仙台の大隊長佐藤宮内は、(中略)偶然会津の隊長木村熊之進に会見して、肝胆相照らすに至り、閏四月八日」(注16)「白河ヨリ白石ニ歸ルヤ、先ヅ總督府附仙臺参謀大越文五郎ニ謂テ曰ク、會津藩ニテハ世良修蔵ヲ誅スルノ意嚮アリ、世良ヲ誅スルハ奥羽ノ平和ヲ計ルニ於テ最モ必要ナル故、會津ノ希望ヲ達セシメテハ如何但シ此事執政ノ命令ヲ請ヒテ後決セザルベカラズト、文五郎亦之ヲ然リトシ共ニ但木土佐ニ面シテ陳述セシニ土佐曰ク卿等之ヲ計レト」(注17)。
 このころ、羽州に進発する南部隊を督軍するよう世良に忠言された総督府参謀・醍醐少将は、閏四月十日「用意してあった錦旗を授け、諸隊長を集めて宴を賜った。果たして世良が見たとおり、諸隊長は、錦旗と盛宴に感激して、初めて命令に服し、北方へ進軍することに決った」のであった。「田舎の奴等は、何か知らず公卿の言うことを有難がってその言う事を肯く」(注18)ものだという世良の忠告が、てきめんに効果をあらわしたのであった。
 やがて閏四月十二日には奥羽列藩の白石同盟が成立し、十五日には列藩の決議が会津藩に通知された。
 「会津軍の白河攻撃は閏四月二十日を期すべく、白河城中世良の居所を知らすべき目印(大越文五郎所持の上紅下白の旗)をも打合せ、薩長人を一人も討洩さぬためには、仙台から十八扈従組、小人組、町兵小竹今助の隊などを福島から白河までの要所に配置したのである」(注19)。この文五郎の「目印」は、錦旗に呪縛されてしまった大炊に比して、なんという好対照をなしていることであろう。
 他方この動きを懸念した坂本らは、閏四月十六日藩公慶邦に建言し、その命をうけて世良の説得方にあたることになった。
 翌十七日、「此ノ行坂本大炊ハ白河ニ於テ佐藤宮内ト大越文五郎トニ面シテ告テ曰ク、世良を誅スルコトハ一先ヅ控エヨ、是レ眞田參政ノ命ナリト、宮内愕然タリ、以爲ク機密已ニ洩ル、復タ爲スベカラズト、蓋シ大炊ハ當時ノ所謂勤王派ニシテ、文五郎等ノ派ト相容レザル者ナリケレバナリ、文五郎遂ニ白石ニ歸ル」(注20)。これはロマン主義者・坂本と現実主義者・大越の、決定的な別れの時であった。
 そしてついに閏四月十九日夜、福島・金沢屋に芸妓と同宿中の世良の寝込みを、仙台藩の瀬上主膳等が襲って重傷を負わせて、翌二十日未明には、とうとうその首をはねてしまった。「世良ト勝見トノ首級ハ(中略)ニ渡シ大越文五郎ハ之ニ左ノ届書ヲ添ヘテ白石の本營ヘ送レリ
 首級一ツ、世良修蔵年三十四(實名不詳)、同一ツ、勝見善太郎(年實名不詳)
  右今朝於福嶋斬首候事
  戊辰五〔閏四〕月廿日見届               大 越 文 五 郎」(注21)
 この事件を契機として、奥羽戊辰戦争はいよいよぬきさしならぬ段階へと突入していったのである。


 東西両軍は全面的な戦争状態に入った。坂本大炊は白河口の戦闘に参戦していた。「五月朔日の拂暁(中略)仙藩ノ佐藤宮内、坂本大炊、今村鷲之助等ハ白河城西會津門通リヨリ横合ヘ繰出シ(中略)戦ハズシテ退クハ本意ニアラザルヲ以テ大炊ハ(中略)一齋ニ射撃セシム西兵響に應ジテ僵ルヽモノ數ヲ知ラズ、而モ西軍屈セズ田圃ノ間ニ出没シテ迫リ来ル、(中略)戦況ヲ有利ニ恢復スルコト難キヲ見テ大炊ハ兵六七人ヲ率ヰ奮進シテ阿武隈川ヲ渡リ西方ヘ行ク數丁、銃丸ノ爲其ノ頭ヲ貫通サレテ倒ル従者之ヲ鷲之助ニ報ズ、鷲之助單身阿武隈川ヲ越エテ大炊ノ倒レタル場所ニ至リ見ルニ未ダ死セズ、佐藤直之助ト共ニ介抱シテ退カントシタルモ弾丸雨ノ如クニシテ起立スル能ハズ、暫ク大炊ノ傍ラニ臥シテ機会ヲ伺ヒ従者ヲ招ギ、大炊ヲ抱エテ田ノ中ヲ匍匐シテ川ヘ飛込ミ遙カニ本天神ノ山麓ニ出デ大炊ヲ其ノ附属ノモノニ渡セシガ此時大炊ハ已ニ落命セリ」(注22)。一代の熱血漢・坂本大炊は、奥羽戊辰戦争の緒戦に壮烈な戦死を遂げ、その四十五歳の若い命を散華させたのである。
 「サカモト・タカナカ【坂本隆中】志士。小字八郎後ち平右衛門また大炊と改む、食禄三百五十石、大番組にして志田郡坂元〔本〕村(三本木町)に住す、容貌魁偉躯幹長大にして寡言沈毅、喜怒色に顕れず、江戸番馬上となりて江戸に在勤し、藤森弘庵、川股縫殿に就いて經史洋兵を講ず、監察出入司小姓頭の要職に補し政事に参與す(中略)既にして修蔵殺さる、隆中歎息して曰く吾事了れり、我の錦旗を奉じて歸れるは我藩をして王師に勤王たらしめん爲なり、今や此の如し、我唯死して王師に謝し、併せて累代の主君に報ぜんのみと、五月一日天明西軍と戦ひ、遂に飛丸の爲に斃る、行年四十五、遺骸を志田郡坂本村天性寺に葬る。(碑文)」(注23)
 坂本とは屈折した関係にあった「大越ハ坂本大炊ノ人物ヲ口ニ□□□□□揚シ居レリ。ソノ参〔白〕河ニ於テ故ラ□□□シタル心事ヲ壮烈ヲ極ム云々ト」(注24)。


 大炊の憤死後、大越文五郎もまた本道口等各地を転戦して赫々たる武勲をあげたのであるが、しょせん歴史の流れに逆らうことはできなかった。
 九月十五日、仙台藩は明治政府に降伏し、仙台藩を盟主とする奥羽越列藩同盟・「北部政府」(注25)はついに瓦解した。藩内には陰謀と粛清の嵐が吹きまくり、「召捕られたものは禁錮され脱走したものは姓名を変じ姿を変えて潜伏するなど惨憺たる状態」(注26)となった。
 やがて「参政大越仲〔文五郎〕」(注27)は「十二月ニ至リ職ヲ免セラル(或ハイフ醍醐少將ノ諷スル所アリシニ由ルト)〔明治〕二年四月斬首ノ員中ニアリ捕吏ノ至ラントスル時脱藩セシ爲メ家跡ヲ没収サレシガ明治三年東京藩邸ニ自首セシ爲同四年左ノ申渡ヲ受ク
                         仙臺舊藩士 大 越  仲
其方儀戊辰之年伊達家軍事參謀ニテ醍醐少将並世良修蔵ニ附属シ白河ヘ出陣候後議論ヲ變シ修蔵ヲ暗殺シ候非常ノ手段有之義ヲ心得居乍ラ曾テ正義ヲ以諌止候義モ無之遂ニ反覆ノ國論ニ従事候ノミナラズ久我大納言殿東下ノ節ニ至リ脱走候儀ハ甚敷心得違ノ致方ニ付不届トイヘドモ順逆ヲ謬候始末先非悔悟自主候ニ付御寛典ヲ以テ罪被指免候事(明治四年)
                              仙 臺 県 廳」(注28)
 「オーゴエ・ナカ【大越仲】志士。初名佑之進、洋式兵法を學び出色の譽れあり、七職を兼ねて裁斷宜しきを得、慶邦公名を文五郎と賜う、(中略)世良殺さるゝに及び、長歎して曰く伊達氏の恩を受ること三百年、寧ろ朝議に背くとも伊達氏と存亡を共にせんと、出入司を以て軍事参謀を兼ね、尋て若年寄に進む、仙臺藩帰順に及び名を仲と賜ひ、帰順係を命ぜらる(中略)後ち魯人ニコライに従ひて深く西教に帰依し、ニコライが東京駿河臺に聖堂を建築するに當り、推されて其の會計を督し、爾後引續き同教会の會計監督たり、其の長子弘毅は獄に死し、次男文平は日露役に通譯として従軍し、後ち旅順市長たり、文五郎大正五〔1916〕年十月十二日没す、享年八十五、東京染井共同墓地に葬る。」(注29)
 文五郎は大炊より約七歳の年少であったが、大炊の戦死後さらに彼の年令四十五歳をも越える四十八年を生き延び、奥羽戊辰戦争史の生き証人として、「東北の戊辰史に一つの定説をつくった大著(中略)明治十四〔1911〕年刊行の藤原相之助『仙台〔臺〕戊辰史』」(注30)等に数々の貴重な証言を提供したのである。


 近代日本の夜明けを告げる明治維新の激動の渦に巻きこまれた仙台藩の二人の志士、坂本大炊と大越文五郎。ともに若くしてその才能を嘱望され、ともに争乱の地京都に上り、ともに奥羽鎮撫総督府に深くかかわり、ためにともに藩内の讒謗の的となり、また互いに深く畏敬し合ってもいたと思われるこの二人。しかしその生涯はまことに対照的なものであった。この二人の生涯を別けたものこそは、「錦旗」、「錦旗」に対する二人の志士の認識と対応の相違ではなかったろうか?
 一方の坂本大炊は、錦旗の物神的魔力の虜となってしまい、仙台藩における錦旗の権化とも化した。しかし、こと志と異なり錦旗に弓を弾かざるを得ぬ仕儀にいたると、明治政府と果敢に戦って壮烈な戦死を遂げ、戦場の露と消えた。大炊は偉大なロマンチストであった。
 他方大越文五郎は、軍事参謀として総督府にもっとも近かったにもかかわらず、恭しく錦旗を奉ったりするようなことは絶えてなかった。彼の行動は終始合理主義、現実主義に徹していた。彼は──たとえ無意識にではあれ──直覚的に錦旗の物神性を見抜いていたのではなかったろうか?世良誅伐の目印の「大越文五郎所持の上紅下白の旗」は、そのかっこうの証拠ではなかろうか?この旗はけっして「物神Fetisch 」ではない。それは、人間の「道具」としての単なる「目印」──つまりは「物質」である。
 大炊とはちがって文五郎は、戊辰戦争敗北後その戦後処理にあたり、捕吏の手が迫るとたちまち脱藩逃亡した。薩長藩閥政府の支配下、奥羽越諸藩の旧「朝敵」・旧「賊軍」たちは、真に茨の道を歩んだ。「近代東北の後進性」は、その淵源をすべてここに発しており、文五郎とて決してその例外ではなかったのである(注31)。
 心身の内外に癒すことのできない深傷を負った文五郎は、のち深くロシア正教に帰依して、師ニコライを助けて「ニコライ堂」の建設に尽力した。文五郎の憂愁をやさしく包みこんで、ニコライ堂は、いまもなお東京・御茶の水に、その変わらぬたたずまいを見せている。


 「錦旗」は、藩閥政府の領袖たちにとっては、あきらかに「支配の道具」であった。支配者たちが、彼らの支配のためにそれを「作り出した」のである。彼らにとっては、それはまぎれもない「物質」であった。しかしそれを彼らは、神聖不可侵の「聖上」の「御威光」を体現した、まさしく「物神」として、「臣民」に「下附」したのである。
 「お上」の「御威光」を「物」としてその「赤子」に伝える「物神」は、「錦旗」で最後ではなかった。「日の丸」「君が代」が「錦旗」の分身として登場した。そしてついには「御真影」が出現し、この国の西東で笑うに笑えぬ悲喜劇の数々を生んだのであった。今日でさえ──もはや「御真影」と呼ばれることはないとはいえ──天皇皇后「両陛下」の写真を各家庭に飾る習慣は、皮肉なことに「逆賊」の子孫の地であるはずのこの東北に特に根強く、残っているし、「国旗」・「国歌」はなお現代の問題なのである。
 他方「人類の本史」を生きているはずの「社会主義諸国」においても、「鎌とハンマー」あるいは「赤旗」、あるいは「党」(実質的には党官僚機構とノーメンクラツーラ)、ついには「国家」そのものさえもが、残念ながら「赤い物神」となり下がってしまっているのではないだろうか?。
 「天の下」はあいかわらず「八百万の」「物神」たちに「しろしめ」られ、世界は「物神性」に満ちみちていると言えるのではないだろうか。


 アンリ・ルフェーブル Henri Lefevreは、その『日常生活批判』で、つぎのように述べている。
 「今日ようやく疎外の理論が提起する問題の複雑性がほの見えてきたところなのである。こうした問題の種類は様々である。歴史的には、マルクス主義の形成におけるこの概念の役割がいかなるものであったか、マルクスが(その青年時代の著作において)この概念をヘーゲルおよびフォイエルバッハからどのように継承し、変化せしめたか、またいかなる意味で、そして何時、等々といったことを探究しなければならない。したがって原典においてこの変化を跡づけることが望ましいが、それには青年時代の著作、特に有名な一八四四年の『草稿』の厳密な研究が必要とされる。理論的には、疎外の哲学的な概念が、マルクスの科学的政治的著作、特に『資本論』ではどのようなものになっているかを突きとめ、物神性という経済理論が、疎外の哲学的理論を客観的(科学的)な面で真に継承したものかどうかを知らなければならない」(注32)と。

10
 ”Versetzen wir uns nun von Bungoroos finstrer Insel in die lichte europaische Neuzeit. 我々はいまや、文五郎の暗い島から、ヨーロッパの明るい近代へと移ろう。”(注33)
 そこでは──ルフェーブルも説くように──時あたかも明治維新の前年・1867年、カール・マルクス Karl Marx(1818-1883) が、「その生涯の四十年を傾注した主著」(K1,Anmerkung 1, S.843) 『資本論』”Das Kapital”第一巻を世に問い、「商品の物神性とその秘密」"Den Fetischcharakter der Ware und sein Geheimnis" (K1, S.85) をその俎上に乗せて、哲学史上著名な、独創的な「物神論」を展開していたのである。
 およそ「物神性」の問題を学問的に考察しようとする者は、なにをおいてもまず、このマルクスの物神論の研究にとり組まざるをえないだろう。"歴史的には、マルクス哲学の形成において物神概念の役割がいかなるものであったのか、マルクスが(その青年時代の諸著作において)この概念をどのように継承し、変化せしめたか、またいかなる意味で、そしていつ等々といったことを探究しなければならない。したがって、原典においてこの変化を跡づけることが望ましい。理論的には、この概念がマルクスの主著『資本論』ではどのようなものになっているかをつきとめ、彼の全哲学、経済学「批判」においていったいいかなる位置をしめているのか、を知らなければならない。"
 本論稿は──ルフェーブルとはいささかその関心を異にして──マルクスにおける「物神」概念の導入からその成立、熟成、展開、発展、完成にいたる一連の過程を「原典において」「跡づけ」、彼の哲学および経済学「批判」において「物神論」のもつ意義を考察することをその課題とするものである。



(注1)藤原相之助『復刻仙臺戊辰史』, 柏書房, 1968,S.248,249,250.
(注2)大佛次郎『天皇の世紀』16, 朝日新聞社, 1978, S.128.
(注3)『仙臺戊辰史』, S.254.
(注4)同上書, S.259,260.
(注5)同上書, S.262.
(注6)山田野理夫『東北戦争』,教育社,1986, S.28.
(注7)『天皇の世紀』, S.133,134.
(注8)『仙臺戊辰史』, S.261.
(注9)同上書, S.270,271.
(注10)『天皇の世紀』, S.123,124.
(注11)『仙臺戊辰史』, S.351.
(注12)同上書, S.347,348.
(注13)同上書,S.351.
(注14)『天皇の世紀』,S.152,153.
(注15)同上書,S.205,206.
(注16)藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』, 柏書房,1981, S.137.
(注17)『仙臺戊辰史』, S.436.
(注18)『天皇の世紀』,S.205.
(注19)『奥羽戊辰戦争と仙台藩』,S.137.
(注20)『仙臺戊辰史』, S.438.
(注21)同上書,S.458.
(注22)同上書,S.494,496,497.
(注23)菊田定郷『仙臺人名大辭書』,仙臺人名大辭書刊行會,1933, S.423.
(注24)『仙臺戊辰史』, S.438.
(注25)高橋富雄『宮城県の歴史』, 山川出版社,1977, S.209.
(注26)『奥羽戊辰戦争と仙台藩』,S.216.
(注27)『仙臺戊辰史』, S.958.
(注28)同上書, S.960.
(注29)『仙臺人名大辭書』,S.177.
(注30)『宮城県の歴史』,S.213.
(注31)大越文五郎の長女まつゑは、13歳で父の脱藩逃亡・家跡没収のうきめにあい、明治政府の探索の目を逃れて、旧臣下にかくまわれ旧領地内を転々としたのち、1874(明治 7)年18歳でようやく、大越氏とその在郷屋敷を隣り合っていた猪狩氏の家中澤田一馬の嫡子・澤田金吾(金五郎)に嫁した。この金五郎・まつゑは私の曾祖父母である。したがって、大越文五郎は私の外高祖父にあたる。
(注32)H.ルフェーブル(奥山秀美・松原雅典訳)『日常生活批判』1,現代思潮社,1969年 S.6,7
(注33)Versetzen wir uns von Robinsons lichter Insel in das finstre europaische Mittelalter. (K1, S.91)





北の錦旗(東京都立大学卒業論文『マルクス物神論の研究』序章)
1990.3.31 初版発行
2010.3.15 Web版初版発行
著 者 澤田 諭
発行者 澤田 諭
発行所 InterBook絶版の森
所在地 150-0012 東京都渋谷区広尾5-7-3-614
電 話 080-5465-1048

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