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奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌
「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)
利府勿来関と東山道黒川郡>鶴巣
小鶴沢長根街道一里塚/別所黒川袖振薬師(黒川・黒川橋)/下草黒川駅家郷(黒川坂本町宿・鶴巣館)







澤田 諭編著






目  次

第一章 「幻の勿来関」と東山道鶴巣小鶴沢長根街道一里塚
第一節 「幻の勿来関」
◯「勿来『駅』」
◯「勿来『町』」
◯利府=勿来関
第二節 鶴巣小鶴沢「長根街道一里塚」と黒川郡東山道(奥大道)
◯小鶴沢「長根街道一里塚」
一里塚長根街道一里塚五月雨の秘境街道一里塚「古道を探る」
◯『黒川郡誌』「北目山別所寺黒川薬師古文書写」
◯『下草郷土誌』
◯『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌』
◯黒川郡東山道(奥大道)
前期東山道(東路)中期東山道(中路)後期東山道(西路)古代東山道(奥大道)
◯中世奥州街道
中世前期奥州街道中世後期奥州街道
◯近世奥州街道
第三節 利府=勿来関
◯観光地「勿来の関」
勿来の関公園
◯名古曽(勿来)関跡
◯「黒川以北」

第二章 黒川郡の地政
第一節 黒川郡の地政の要諦
◯山岳
◯水系
◯人文

第二節 黒川郡の山岳
◯陸前丘陵
◯松島丘陵(黒川丘陵)
◯船形山
校歌の船形山
◯北泉ヶ岳(キタイズミガダゲ)
吉田川源流
◯七ツ森
七ツ森
朝比奈三郎伝説朝比奈切通し歌の七ツ森小学校校歌の七ツ森中学・高校校歌の七ツ森
第三節 黒川郡の水系
◯吉田川水系
吉田川桑沼品井沼吉田川支流
◯鳴瀬川水系
荒川(花川)
第四節 黒川郡の概史
郡名及區劃郡村名ノ起原東北に及ぼせる波動の歴史
◯黒川郡のあけぼの
石器時代縄文時代弥生時代古墳時代
◯黒川郡の古代
黒川郡の建郡、黒川以北十郡・田村麿伝説白川郷・駅家郷・新田郷
◯黒川郡の中世
八幡太郎・鎌倉殿伝説奥州合戦奥州総奉行陸奥国留守職留守氏国分氏南北朝争乱大谷保陸奥将軍府奥州総大将奥州管領奥州探題黒川氏

第三章 黒川郡東山道(奥大道)
鶴巣音頭歌枕の東山道東山道奥大道
第一節 板谷街道(東成田街道、鶉崎街道、大平街道)・白川郷
◯宮城郡
多賀城”壺の碑”多賀城碑利府勿来関歌枕
◯板谷
板谷街道休み松板谷道板谷氏板谷齋兵衛大蛇退治黒川口説御山守残間家『御山守残間家文書』
◯東成田
柳沢街道西光寺一里塚和久宗是「梅安清公禅定門」支倉常長支倉常長の墓仙台北山の墓はニセ物伊藤嘉兵衛/伊藤家「支倉常長の歌」支倉常長メモリアルパーク世界の支倉常長立体像
◯鶉崎
関屋の清水
◯土橋
◯大平
軍陣ヶ森泉館(越路館)大平氏八津入館日野氏多聞寺観音堂深山神社当来山龍華院勝負沼(長沼)明治大平村の変遷千坂雄五郎一本木小学校→一本木支校→大平分教場
◯石ノ沢
◯清水谷
半福寺清水谷長者伝説
第二節 別所街道(鳥屋街道)・”お薬師様”黒川袖振薬師・黒川・黒川橋
◯鳥屋
鳥屋八幡古墳鳥屋窯跡宇頭坂・宇頭山鳥屋庄天神館(天神城)法宝山玉泉寺鳥屋八幡神社長円坊明治鳥屋村の変遷鳥屋村管掌小学校の変遷鳥屋の藁筵
◯別所(スサキ)
勝負沢遺跡日光山遺跡・日光山西小塚”エゾ穴”別所横穴古墳群照節沢エゾ穴別所三角田南窯跡別所遺跡黒川黒川橋(橋本)”お薬師様”北目山別所寺黒川薬師袖振薬師東方の薬師第一号古文書写北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来(第二号古文書写)「別所」の由来薬師如来如来大野東人智証大師円珍八幡太郎源義家鎮守神鎮守寺黒川袖振薬師如来鎮守社山王神社山王信仰(山王神道)別当・別当寺村鎮守功徳山八聖寺別所薬師堂羽黒派明喰坊当山派大宝院両部神道北目大崎鎮守黒川薬師(袖振薬師)黒川神社少彦名命村社黒川神社”オヤグッサマ”の変遷”お仁王様”十二神将像千年の秘仏・秘像神楽殿御堂の西”油池”売場石鳥居まわり馬浸場大原(馬場跡)”別所・大崎の殿様”猪狩氏猪狩氏旦方(ダンポ)澤田氏澤田金太郎猪狩系三家猪狩家在郷屋敷別所三姓磐城大明神宮宮田旧墓地別所の宗門”北目之スサキ”出羽三山碑明治新姓(国民皆姓)別所七沢具足沢・ゴルフ場高森山勝負沢・鶴巣パーキングエリア曲松十石原三六沢樅の木沢宮田沢蟹岩堰岩堰隧道・コウモリ”松根油”海貝の化石大窪山照節沢照節沢堤のモリアオガエル照節沢湧水群原っこマサスケ沢日光山
◯北目大崎
北目大崎の沿革修験道と北目大崎村の立村檀那寺の建立檀家制度北目大崎の由来北目大崎村修験山伏「飛行隊」の戊辰戦争明治維新と修験道の落日氏子調明治北目大崎村の変遷と鶴巣村の立村第一中学区四十五番北目大崎小学校鶴巣小学校鶴巣村北目大崎北目・大崎(別所)・砂金沢三区体制
◯北目
金剛山玉昌寺”北目の殿様”大越氏仙台藩参政大越文五郎出羽三山碑スズの水
◯大崎
”大崎・別所の殿様”猪狩氏大崎山智光院当山派修験大宝院大宝院日野氏(神職日野氏)熊谷市雄代議士佐藤徳芳博士・教授
◯砂金沢
砂金沢の宗門”砂金沢の殿様”上郡山氏本部落砂金沢
第三節 下草街道(舞野街道、大衡街道、色麻街道)・黒川駅家郷・黒川坂本町宿・鶴巣館
◯下草(本町)
黒川駅家郷高田御所/一・二・三ノ関黒川景氏黒川晴氏大崎合戦葛西大崎一揆鶴巣館(鶴楯城、鶴巣城)黒川氏の滅亡「鶴の首」伝説ぼうふり田鶴首の沢飯坂氏飯坂宗康飯坂の局下草伊達宗清下草古城「下草」の由来黒川町黒川郡鎮守八幡宮下草八幡神社抜け村(吉岡に移転した社寺)日かげ沼樅の木山遠下の観音様黒川坂かま堀宿尻供養石供養山下草契約講大神宮契約覚帳明治下草村の変遷と鶴巣村の立村下草分教場鶴の権現若生毅『下草郷土誌』『下草郷土誌』の人々『新訂版下草郷土誌』/『WEB版下草郷土誌』
◯舞野
舞野観音堂観音菩薩菩薩坂上田村麻呂田村麻呂伝説滋覚大師円仁「舞ノ黒川郡」佐藤忠良
◯大衡
大衡堡村(亀岡)遺跡古館大衡館大童信太夫
◯大瓜
大福寺石蔵山宝積寺南田山黄金寺四反田一里塚
◯加美郡
色麻柵清水寺伊達神社”おかっぱ様”磯良神社、中新田
第四節 後期東山道(長根街道、小鶴沢街道、太田街道)・小鶴沢長根街道一里塚
◯宮城郡
沢乙"Shizuka Arakawa Memorial Road"
◯小鶴沢
長根街道一里塚をつるさハ山・小鶴河小鶴沢館擂鉢山白翁瀧不動明王白翁瀧洞屋場遺跡大平山盛国寺盛国寺の比翼ヒバ隠れキリシタン”五反田長者”経塚社祠南亀山・北亀山明神社神明社庚申供養碑お稲荷様お観音様明治小鶴沢村の変遷小鶴沢小学校東北新幹線宮城県環境事業公社鹿又勘太郎翁般若心経碑
◯太田
遠仙道(東山道、太田街道)小谷城館郷右近館”八幡太郎蹄石””傷だらけの山河”太田山慈雲寺”太田の浮橋”太田天神社明治太田村の変遷太田分教場
◯幕柳
小関勢興山井隠寺井隠寺釈迦如来佐和館明治幕柳村の変遷幕柳村管掌小学校の変遷
鳥屋以北は、東山道に同じ)
第五節 中山道(宮床街道、根白石街道)・新田郷・田手岡(宮床城)
◯中山道
仙台城の秘密退路
◯宮城郡
根白石、朴沢
◯宮床
国見崎深山滝深山の人参鶴峰八幡神社(宮中八幡)飯峰山信楽寺恒貞親王鴇田氏鴇田周如宇和館三木山松巌寺田手氏田手氏/宮床伊達氏系図宮床伊達氏初代宗房二代村房(吉村)寛文事件異聞三代村興四代村茂五代村嘉六代村烈七代村義八代宗規九代/十一代宗賢十代邦孚和田織部為泰十二代宗広十三代賢孝伊達松園(万治郎)十五代きん十六代洋司・宮子田手岡大義山覚照寺幻樹軒観音西河山龍巌寺新田八幡神社千手観音堂地蔵堂(六地蔵)七ツ森薬師堂大森薬師堂旧宮床伊達家住宅宮床宝蔵辻室大根七ツ森蕷薯山田鉱泉民謡『お立ち酒』発祥の地原氏(塩屋)原幸松・しげ佐藤寅松(青牛)原阿佐緒原千秋原保美
◯難波
滝の原無想の滝滝の原鉱泉あばかじか蛇石七ツ森湖畔公園
◯二ノ関
金銅山高泉寺鹿ノ湯

第四章 中世・近世奥州街道
◯奥道中歌
第一節 中世奥州街道(松森街道、大亀街道、山田街道、駒場街道、三本木街道)
◯宮城郡
松森、 岩切
◯石積
◯大亀
鹿島天足別神社亀石鹿島天足別神社のアカガシ大亀山森林公園展望台
◯山田
「山田城」普門院明治山田村の変遷山田分教場(山田分校)
 (太田〜舞野は東山道に同じ)
◯奥田
宝峰山昌源寺奥田一里塚腰館
◯駒場
戸口一里塚
須岐神社神生山雲泉寺小屋城
◯大森
◯志田郡
三本木
古川
第二節 中世後期奥州街道(沢乙街道)
◯宮城郡
沢乙
第三節 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)1 富谷街道・富谷宿
◯宮城郡
国分町、七北田
◯熊谷
瑠璃山熊谷寺大清水
◯富谷(新町)
松沢山湯船寺熊野神社(富谷)本陣内ヶ崎氏脇本陣気仙屋代官松、富谷小学校、富谷公園高森山殉職碑、富谷インター、富谷隕石
◯三ノ関
ぼうふり田独尊山威徳寺、三ノ関分教場
◯志戸田
行神社馳取城片葉草志戸田用水隧道千坂半左衛門
第四節 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)2 吉岡街道・吉岡宿 ・吉岡城
◯高田
高田御所
◯吉岡(今村)
吉岡東官衙遺跡・一里塚遺跡上の原・今村・吉岡吉岡伊達氏伊達宗清母子の碑吉岡城下草から移転した社寺蓮台山九品寺下草山安楽院香積山天皇寺吉岡八幡神社白旗山八幡寺阿弥陀院稲荷神社不動山金剛院南蔵院水晶山不動寺龍善院宝珠山龍泉院)、その他の社寺天龍山中興寺観音堂熊野神社福泉山教楽寺鬼子母神堂不動堂弁財山寿福寺吉祥院東宝山宝憧院権現山霊巌院八王寺南明院)、吉岡宿・吉岡一里塚奥山氏奥山大学常辰常辰室大越茂世女吉岡古館天祥山保福寺但木氏但木氏略系但木重信但木土佐成行但木良次『国恩記』仙台叢書解題”吉岡義侠伝”「慎か条掟書」『国恩再興記』栄洲瑞芝修身図鑑国恩記顕彰碑小説『無私の日本人』「穀田屋十三郎」英訳『Unsung Heroes of Old Japan』映画/DVD『殿、利息でござる!』八幡原公園吉岡八景吉岡町土井晩翠作詞・吉岡小学校校歌
 (次の奥田以北は、中世・近世奥州街道に同じ)

第五章 脇街道
◯支倉常長の歌
第一節 沢渡街道(吉田街道)
◯升沢(・種沢)・嘉太神
三光ノ宮割れ山滝岩魚升沢稲船形山神社梵天ばやい種沢山崇源院風早峠の水
◯吉田
万能滝乱飛滝平軍滝石神山精神社石神岩石神山精神社境内の杉永仁の碑(行沢観音堂)麓館入生田の古杉医王山妙覚院沢渡の榧の木沢渡のまるこ杉玉の井(玉ヶ池)玉ヶ池の古碑石獲菖蒲巻拍あいぬねぎ台ケ森鉱泉鎌房四十八滝四十八滝鉱泉立輪観音堂立岩
第二節 相川街道・蒜袋御所館
◯桧和田
桧和田八幡宮桧和田八幡宮境内の銀杏檜和田観音堂
◯蒜袋
黒川氏発祥の地斯波氏黒川氏御所舘八坂神社天王杉八谷館
◯相川
八谷古城落合村
◯松坂
松坂氏松坂定政松坂定信松坂幸蔵紫神社蓬沢溜池の鰍、仙台北部中核工業団地
◯報恩寺
法宝山報恩寺黒川景氏の碑窟薬師磨崖仏(波打薬師)姫宮神社姫宮境内の杉
◯三ヶ内
三ヶ内城主報恩寺可則出ばり屋敷観音
第三節 大松沢街道・大窪城
◯粕川
諏訪古墳下り松(垂松)
◯石原
富有山東泉院
◯大松沢
大松沢貝塚箭楯神社八幡館大松沢氏大松沢時実大松沢元実大松沢衡実大窪城青田山観音寺
◯志田郡
鹿島台、松山
第四節 大谷街道(中村街道、高城街道、松島街道)・大谷保(郷)
◯宮城郡
松島、高城
◯大谷保(郷
◯川内
川内支倉氏桂蔵寺川内鉱泉
◯中村
東光寺
◯味明
◯羽生
築館城
◯山崎
渋川助太夫『日新録』
◯不来内
第五節 幕柳街道(今泉街道)
◯穀田
建石
◯大童
◯今泉
今泉神楽、今泉小学校
第六節 西成田街道(明石街道)
◯明石
◯西成田
西成田小学校
第七節 小野街道(大沢街道、野村街道)
◯宮城郡
大沢、野村
◯小野
神明社
◯一ノ関
浄光山長楽寺

第六章 近世の黒川郡
◯黒川郡三拾三所巡禮御詠歌
第一節 藩政時代の黒川郡
◯黒川郡近世の夜明け
奥州仕置葛西大崎一揆
◯吉岡伊達氏
◯宮床伊達氏
◯奥山氏〜但木氏

第二節 藩政時代の行政
◯黒川郡の邑主
◯鶴巣旧村の邑主
◯地頭所拝領・蔵入・町場
◯旦方(ダンポ)
◯御百姓・組頭・肝入・大肝入・郡奉行・代官
◯検断・地肝入・町役人・町同心・五人組
◯黒川郡大肝入
◯納税

第七章 近代黒川郡と鶴巣村の立村
◯鶴巣節
第一節 鶴巣村・黒川郡制の成立ち
◯近・現代黒川郡の概史
◯仙台藩/仙台県
◯仙台県第四大区
◯仙台県第三大区(黒川加美合郡)
◯宮城県第二大区(宮城名取黒川)
◯北目大崎大平土橋鶉崎村/一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村/幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村(黒川加美郡役所)
◯北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕/鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕/東成田今泉幕柳大童村/富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕
◯今泉外十二ヶ村/富谷外六ヶ村
◯鶴巣村の成立(一町九ヶ村)
◯宜しくつるのす村と云ふべきなり
◯郡制
◯黒川郡役所/郡長
◯郡会
◯村会・県会・国会
◯歴代鶴巣村長

◯五町村段階合併
第二節 鶴巣小学校(中学校)・黒川郡教育の成立ち
◯維新前の教育一班
寺子屋郷学君ヶ袋貞太郎支倉清成
◯鶴巣小学校(山田分教場)・黒川郡小学校の成立ち
北目大崎小学校(一本木小学校・小鶴沢小学校)/富谷小学校/西成田小学校北目大崎尋常小学校鶴巣村立鶴巣小学校/太田・山田教場鶴巣尋常小学校(下草・大平分教場)鶴巣尋常高等小学校鶴巣国民学校鶴巣村立鶴巣小学校大和町立鶴巣小学校
◯沿革の大要及び校長・教員
鶴巣尋常高等小学校鶴巣国民学校山田分教場(山田分校)代用教員郷土の教員佐藤みやこ先生千坂一郎先生鶴巣小学校校歌
◯鶴巣中学校の創立と閉校
小学校共用校舎開校階段校舎大窪山校舎と閉校鶴巣中学校校歌
◯農業補修学校
鶴巣農業補修学校
◯宮城県黒川農学校
◯黒川郡教育会
◯図書館
吉岡町図書館

付節 「鶴巣音頭」
◯鶴巣音頭

第八章 藩政由来の民俗
◯黒川願人節
第一節 民生
◯交通
◯道路
明治国道・県道本木榮八大正郡道大正県道
◯橋梁
◯兵事
在郷軍人分会
◯警察
維新前の警察
警察署
◯消防
◯信用組合
◯金融機関
頼母子講銀行
◯契約講
◯若者契約講
◯青年会
◯青年団
第二節 文化・風習
◯宗教
維新前に於ける仏教の勢力

◯神仏習合
神仏混淆大乗密教熊野信仰怨霊信仰本地垂迹説神本仏迹説天道思想
◯修験道
本山派総触頭良覚院当山派大先達古川寺羽黒派蜂子皇子三山詣修験道の落日
◯神道
郡内神社の総覧古神道(原始神道) 伯家神道(白川伯王家)伊勢神道(度会神道)吉田神道(唯一神道)儒家神道(神儒一致思想)復古神道(平田派国学/平田神道)国家神道(神社神道)皇室と神道神社本庁(神道事務局)教派神道(神道十三派)
◯講
◯口寄・神下し
◯風俗習慣
維新前に於ける風俗習慣の一班演芸(獅子舞田植踊神楽)、どっぴき麦搗
◯鉱泉

◯年中行事の一班

◯住民の階級
住民一般に於ける諸階級

第三節 農林・畜産業
◯獣魚
ぎんぎょ
◯産物
◯農政
蔬菜
◯養蚕

◯漆業

◯果実

巴旦杏梨林檎葡萄
◯茶業

富谷茶
吉岡茶
◯副業
木羽竹細工氷豆腐藁細工
◯凶歉
◯治水
用水品井沼排水工事
◯産馬業
◯林政
藩政時代の林政維新後の林政製炭丸太角材他
第四節 商工鉱業
◯醸造業
酒造
濁醪醤油
◯食品:菓子類氷豆腐油屋
◯木櫛他
◯鍛治
◯商業
町場米取引海産物煙草荒物小間物類織物類灯油
◯鉱業
鉄山燧石鶏冠石亜炭川瓢

第九章 勿来関
第一節 「幻の勿来関」論争
◯佐々久監修『利府町誌』
◯勿来関論争
◯黒沢賢一『伝説のふるさとを訪ねて』
◯菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』
第二節 勿来関

引用文献





第一章 「幻の勿来関」と東山道鶴巣小鶴沢長根街道一里塚


第一節 「幻の勿来関」
 志学の頃からこの方、「勿来関(なこそのせき)」は磐城国と思い込みつゆ疑わなかったが、どうもそれは俗説で、ほとんど眉唾乃至はこじつけに近いものらしい。そもそも、古来岩城にはかんじんの「勿来」の地名がまったくないという事実が、いかにも語呂が合い過ぎるが、”致命”的である。
 その嚆矢はようやく明治も後期の30(1897)年”後智恵”で創ら(捏造さ)れた常磐線「勿来『駅』」で、町村合併でいわゆる「勿来『町』」が創られたのはさらに下った大正末の14(1925)年だったということを近年知るに及び、目から鱗が落ちた。
◯「勿来『駅』」
 ゆくりなくも、2014年4月30日、菅原伸一氏により、画期的な好著『蝦夷と「なこその関」』が、無明舎出版より刊行された。
 はなから先取りになってしまうが、当の磐城に「『勿来』と 書く地名はいつごろからあったのかというと、字の印象からは古代より存在していたように感じられますが、『勿来』という地名が初めて世に出てきたのは実は大正時代になてからなのです。(中略)
 当時の日本鉄道(明治二十九=一九〇六年国有鉄道に)が明治三十(1897)年二月二十五日に、今のいわき市平まで磐城線(後の常磐線)を開通させましたが、(中略)『文学と歴史とロマンの里勿来関一歩二歩散歩』(蛭田耕一著)に次のように記されています(要旨抜粋)。
  明治三十(1897)年晩秋、関田の二人の青年が、水戸鉄道管理局に常磐線開通にともない関田にできた停車場名を『勿来』にしてもらいたいと請願にきました。ところがそのあと、県境の茨城県関本村の代表が同じく関本にできた停車場名を『勿来』にして欲しいと請願にきたものの、一足違いで『勿来』の駅名が福島県の関田に許可決定されていたのです。これに激昂した関本の代表は、その晩関田に殴り込みをかけ駅名の撤回をせまりましたが、関田の若者たちは妥協しなかったのです。(中略)
 関名は関の所在地の地名を冠しますが、『勿来関』があったとされる土地には『なこそ』という地名(含小字)はありませんでした。」(菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版,2014)
◯「勿来『町』」
 「明治二十二(1889)年の市町村制施行で福島県の七村(九面・関田・四沢・窪田・酒井・白米・大高の各村)が合併して窪田村をつくりましたが、その村が大正十四(1952)年五月一日の市町村制で『勿来町』となりました。このとき初めて『勿来』という地名が誕生したのですが、勿来町は昭和三十(1955)年に植田町・錦町・山田村・川部村と合併して『勿来市』となり、さらに昭和四十一(1966)年に平市ほか三市四町五ヵ村と合併して、いわき市勿来町となりました。」(『蝦夷と「なこその関」』)
 「このように『勿来』という駅ができるとそれが町名になり、さらに関名も『勿来関』と書かれるようになったのですが、近代の著名な歌人や作家までもが『勿来関』跡を訪れるようになり、ますます『勿来関』が古来からあった関と思われて、世に知られることになります。」(『蝦夷と「なこその関」』)
◯利府=勿来関
 「勿来関」の所在地は未だ学問的に同定されていないが、少なくともいわき市の「勿来関跡」でないことは確定されている。
 代わって現在その最も有力な候補地に比定されているのが、はしなくも我々になじみ深い南の隣郷「利府」なのである!
 「陸奥国府・多賀城や松島丘陵の軍事的な意味合い、19世紀ごろの江戸時代の絵図『陸奥名所図会』などを根拠に、奥大道名古曽川(なこそがわ。現在は『勿来川』と書く。砂押川水系)が交わる宮城県宮城郡利府町森郷〔もりごう〕字名古曽に比定する説もある。
 周囲は[1999]惣の関ダムが建設されたため地形が大きく変わり、現在は『なこその関』の説明看板と江戸時代に建立された『勿来神社』の碑、および、利府街道沿いに『勿来の関跡』の誘導看板が設置されているのみである。なお、『勿来神社』の碑から約4km南に多賀城政庁跡がある。また、約700m北東に『北宮神社』があり、これは陸奥府中の北端を示す『北宮』だったとされる。」(Wikipedia「勿来関」

第二節 鶴巣小鶴沢「長根街道一里塚」と黒川郡東山道(奥大道)
 2012年夏、亡妻に先立たれて18年、向こう3年弱の病いもようやく癒え始めて、8年ぶりに帰郷した。共に鶴巣小・中学校同期の相澤力・芙美子君夫妻に歓待され、「『大和町まろろば百選 〜未来への伝言〜 第1刊史跡・名跡編』まほろばまちづくり協議会企画編集発行,2002」なる地元の小冊子を紹介された。早速購入してパラパラめくっていると、ゆくりなくも、その中の「長根街道の一里塚」という一文に、思わず釘付けになった。
◯小鶴沢「長根街道一里塚」
 同書によれば、大和町鶴巣小鶴沢(おつるさわ)南部の小西川(小鶴沢川)支流域、今日の利府街道から東に二つ目の長根沢西尾根筋を通る「旧村道で長根街道の道筋に一里塚がある。この道は、多賀城の陸奥国府より利府を経て、小鶴沢を通り一部は柳沢街道東成田〔ひがしなんだ〕へ、そして〔「板谷街道」と合流して〕中村、鶉崎に通じた街道である」(『まろろば百選 』)という。
 この長根街道は古代官道「(後期)東山道(奥大道)」の黒川郡起点に相違なく、この小鶴沢「長根街道一里塚」は非常に古いものである可能性がある。
一里塚
 一里塚は「平安時代末期に、奥州藤原氏が白河の関から陸奥湾までの道に里程標を立てたのが最初と言われている。(中略)
 一里塚が全国的に整備されるようになったのは江戸時代である。(中略)
 一里塚の上には榎などの木が植えられ、木陰で旅人が休息を取れるように配慮されていた。また、植えられた樹木は築いた塚の崩壊を根で防ぐ役割も持つ。
 一里塚の本来の姿は街道の両側に対で設置されるものである。ただし現存する一里塚の多くは道の片側にのみ存在している事が多い。街道を挟んで一対で現存する一里塚には国の史跡に指定されているものもある。また、都道府県や市町村の史跡に指定されている一里塚や、未指定であっても地域住民の崇敬の対象として守られている塚やその跡地も多い。」(Wikipedia「一里塚」
長根街道一里塚
 帰京後早速、我が母校鶴小・中学校の首都圏同期会”東京ありんこブラク”会員で同部落出身の門間哲夫・英雄両君に質すと、この道は少年時英雄君が自家焼きの炭(薪炭)を利府(や中村)へ馬車で運び、哲夫君は蹄鉄を打ちに利府へと馬を引いた山道で、当時は今の「道珍坊温泉」辺へ抜ける近道だったという。早速"Google Map/Earth"で検索してみると、たしかに長根街道の尾根伝いに郡境の峠を越え、断続する東北新幹線トンネルのほぼ真上のしらかし台・青山両団地境界稜線を県道3号・町道270号交差点ENEOS辺まで、古道が歴然としている。その先の道は途切れて程なく新幹線露出部の谷・貯水地等を経て道珍坊温泉で利府の里に出ると、東方山稜上の館山はもう、黒川郡に縁の深い留守氏利府城跡で、その東北方鷹戸屋山の向こうは「惣の関ダム」である。
 今日遺っているのはほぼ南北に道珍坊温泉辺に至るルートのみで、他は残念ながら開発で破壊されてしまっているが、別に惣の関方面に抜ける山道(古道)も見受けられるので、案ずるに往時の東山道(奥大道)本道は、一時期(古代後期)この西路を「勿来関」に直通していたのではないだろうか?
五月雨の秘境街道一里塚
 2年後の2014.6.10、鶴巣小・中学校同期会「蟻の子会」直後の梅雨寒の朝、そぼ降る霧雨の中持参したビニール傘を杖代わりに、月後の腰椎手術を控えた心許ない足どりで"ウンザニ〔ウザニ(田下駄)〕履いて"草露を漕ぎ、下半身ずぶ濡れになりながら初めて長根街道を南下し、もう諦めて引き返そうとした矢先ようやく念願の「一里塚」に辿り着き(県道から郡境迄の半分程か)、全山さんざめく鶯、時鳥、郭公の群声に溺れ、濡れそぼる新緑の密林にむせかえりながら、私はただ一人、しばし"百代の過客と行き交う年"に想いを馳せた。
  夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと 芭蕉(『奥のほそ道』)
 齢「従心」に近づいた今日まで、鄙びた鶴巣の中でも(別所同様)県道から離れた行き止まりの山里と見なされ勝ちで、実際私も中学を卒業するまで足を向けたことすらなかった小鶴沢に、よもや「一里塚」があろうなどとは夢にも思わなかった。実は山奥どころか、別所共々、多賀城を発して勿来関を擁する古代 メインストリートが貫通する、黒川郡のみならず「黒川以北一十郡」「黒川以北の奥郡」全体の玄関口だったのである。
「古道を探る」
 さらに2年後、『広報たいわ』2016.3月号に、上記『まろろば百選 』企画編集者の一人である、地元小鶴沢の古老・大先達鹿又勘太郎氏(当時94歳)が、「古道を探る」と題して、寄稿している。
 「私の住む小鶴沢地区には利府町に通じる長根街道という古道があり、一里塚が残っています。地名として『休場(やすば)』 があり、先人が休んだ場所とも思われます。この利府町と鶴巣地区の接する地域は、具体的な道筋に定説はありませんが、古代に国府・多賀城から黒川郡を経て北上する主要道路があったところと考えら れています。そして、坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かう時や源頼朝が平泉の藤原氏追討に向かう時に利用した道筋とも考えられ、北の『幕柳』という地名は、頼朝が柳の木に幕を張って休んだことに由来しているものと伝えられています。これらのことから、長根街道と一里塚は、先人の歴史を物語る教育的価値があるのではないかと思われますので、大切に守り伝えていきたいものです。」
◯『黒川郡誌』「北目山別所寺黒川袖振薬師古文書写」
 1894(明治27)-1923(大正3)年、明治・大正にかけた29年間存続した郡制の廃止にあたり、1924(大正13)年黒川郡教育会によって、記念碑的な『宮城縣川郡誌 全』が編纂刊行された。本書は、真正面から「黒川郡」を採り挙げた稀有な書で、当時の歴史的に絶妙な時期に、黒川郡一円を網羅して一元的に総括した、まことに時処位を得た優れた記念碑的大著である。
 この『黒川郡誌』に、まことにまことに貴重な「北目山別所寺黒川薬師古文書写」が、奇跡的に収録されている(永い間謎だった、我が生まれ故郷の通称地名「別所」の由来も、これにてみごとに氷解した!)。
 「陸奥国舞ノ黒川郡北目山別所寺黒川薬師ノ御事(中略)
 黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(中略)老母是有り北目之スサキ〔洲崎?〕大崎裏西タテ〔館〕と号置候所に 元応〔慶〕五[881]年辛丑年老母死然可則為母の寺を立薬師造進 然人王〔皇〕五十八代光孝天皇御宇仁和元[885]年甲巳〔乙巳〕四月十六日事初 同八月ヂシャウ太子〔智證大師〕此国御下向赴可則奉願薬師を御作也(中略)
 其後七十一代御〔後〕冷泉院御宇永承五[1050]年辛寅 藤原ノ道長郷〔卿〕八幡太郎義家御下向の赴 袖フリの薬師と崇給也(中略)
    元禄六[1693]年四月吉祥日  山王別当」(黒川郡教育会編纂『(復刻)黒川郡誌』名著出版,(1924,)1972)。
◯『下草郷土誌』
 「長根街道一里塚」との出会いにやや遅れて、奇しくもこれまた相澤君が機縁で、もう一つの「再会」が重なった。
 たまたま相澤力君が、隣家で同じ小・中同期の故高橋広志君実家の兄昭雄氏(我が従兄・澤田本家当主澤田力の妻きよしの実弟。妻つよ子さんは同期千葉哲治君の姉)宅で、同氏所持の『下草郷土誌』を示された。初見していたく感動した相澤君は、すぐさま本書の復刻を志し、私にも全文をコピーして送ってくれた。
  『下草郷土誌』は、1951(昭和26)年下草の先輩若生毅氏によって著され、下草契約講から刊行された、「B5判ガリ版(謄写版)刷り148ページ」のまことに貴重な記録である。
 「郷土下草は如何に枢要の土地であったかも想像される訳で陸羽街道は宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本村山田太田幕柳鳥屋宇頭坂を過ぎ別所に入り下草の東南に位置する俗称樅の木山の南を経て黒川坂にかかる別所の沢中央を東に流れる小川を黒川と称し、黒川に架せるを黒川橋と言う。現在は中米長蔵氏宅の六丁程前方の様である、黒川坂は現在佐藤多利蔵氏居宅前より高橋武氏宅の西北に六、七丁向ったなだらかな坂を称した様に考察される。故に高橋武氏宅を黒川坂と言っている。そこで昔の道路は下草の部落に入って北に向い舞野に入り吉岡の東端現在天理教布教所の東側を過ぎて大衡村昌源寺に至り北に向った様子が判然としている。そこで当時は下草を本町の宿と称えたらしい。下草には今尚「宿尻り」仲小路、裏小路、横町などの地名が残っている。其の後黒川家沒落と同時に伊達政宗は黒川の郡鎮として伊達河内守宗清を下草に舘せしめた。」(若生毅編纂『下草郷土誌』下草契約講発行,1951 )
 この本は私にとっても、少年時代に(当時から「郷土史研究」のような部活もしていて、ノートを今も大事に保管している)、たしか母校鶴巣小学校校長室のりっぱな書棚にうやうやしく鎮座しているのを目ざとく見つけて、子供ごころになんとかして読んでみたいものだと羨望した思い出がある。今にして思えば、当時未だ刊行間もなかった訳で、爾来今日まで心中密かに探し求めていたが、奇しくも今般ようよう60年ぶりに、永年の望みが意外な形で叶えられる僥倖に巡り合えたのである。
◯『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌』
 共にまったくの”知らぬが仏”だった先の「幻の勿来関」と、小鶴沢「長根街道一里塚」の新知見は、奇跡的な「北目山別所寺黒川薬師古文書写」と、宿願の『下草郷土誌』との再会を触媒に我が身内で激しく化学反応し、『黒川郡誌』『蝦夷と「なこその関」』を経糸緯糸として、あたかも眠れる蚕が繭を紡ぎ出すかのごとくに、自ずから壮大な”歴史街道ロマン”
 『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌 「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(フルケド)
  利府勿来関と東山道黒川郡>鶴巣 小鶴沢長根街道一里塚/別所黒川袖振薬師(黒川・黒川橋)/下草黒川駅家郷(黒川坂本町宿・鶴巣館)』
の一大絵巻を織りなし始めた。
◯黒川郡東山道(奥大道)
 後述するように、「室町時代の『留守家旧記』(『余目文書』)にあるもので、応永年間(1394-1428年)の記事に『朔の上(私注:大崎氏六代目持詮)様、宮城へ駆賜ふ。府中山、板谷とをりて、大木をきりふさぐといえども事ともせず。そうの関へ御出張候間、留守殿おそれたてまつり陣を引退賜う』とあり、(中略)
 この記事から辺郡の黒川郡大崎地方から宮城郡に来るのに国府中山の板谷を通り『そうの関』に至ったことがわかりますが、このルートは古代の東山道で平安時代には奥大道と呼ばれた道と考えられます。」(『蝦夷と「なこその関」』)
前期東山道(東路)
 当初の東山道は、板谷街道(東成田街道、鶉崎街道、中村街道)東成田、鶉崎、中村・白川郷へと、最も開発の早かった東路を北上し、やがて西に折れて土橋、大平(おおだいら)(大平街道)を経て、清水谷(すずのや)/石ノ沢から鳥屋〔とや〕/幕柳に出た(前期東山道)ものと思われるが、
中期東山道(中路)
 古代中期に長根街道と共に中路柳沢街道が開削されて、板谷街道と結ばれ(中期東山道)、
後期東山道(西路)
 古代も下って後期になると、「黒川郡の往古の官道〔後期東山道〕は、〔多賀城を発し、〕利府の地より〔勿来の関を越えてから、西寄りに移って西路)〕嶺路〔長根街道〕経て小鶴沢、〔山田をかすめて〕太田〔郷右近館〕」(『仙台郷土研究5-4』仙台郷土研究会)、次いで前期東山道と同じく「幕柳〔、〕鳥屋〔に出た
古代東山道(奥大道)
 以降は古代の全期間を通して、鳥屋の〕宇頭坂〔うとうざか〕を過ぎ〔、天険の難所天神山を避け直進して宇頭山越えて〕別所に入り〔黒川橋を渡って黒川を越え”お薬師様”黒川袖振薬師に参り、日光山の峠を越えて北目の西端にかかり〕、下草〔しもくさ〕の東南に位置せる俗称樅の木山〔観音堂〕の南を経て黒川坂にかかる。(中略)そこを昔の道路は〔黒川駅家郷/鶴巣館下町〕下草の部落に入りて北に向かひ、舞野〔まいの〕に入り〔舞野観音堂を拝し〕、吉岡〔今村〕の東端現在天理教布教所の東側を過ぎ〔た。〕(中略)そこで当時は下草を本町の宿〔もとまちのしゅく〕と称えたらしい。」(若生毅編纂『下草郷土誌』下草契約講発行,1951)
 東山道(奥大道)「駅路が吉田川を越えたのは、舞野あたりから吉田・麓あたりまでの間においてであった。それは(中略)ほぼ現在の羽後街道に一致し、」(高橋富雄監修『大和町史』宮城県大和町,1975年)「今村〔吉岡)より大瓜字四反田一里塚」(黒川郡教育会編纂『黒川郡誌』名著出版)を経て、「王城寺原の丘陵を抜けて、(中略)色麻柵〔しかまのき)に出た。駅路はここで、北にまっすぐに進んで玉造柵に出るものと、西に折れて賀美〔加美〕郡衙を経て、出羽国最上郡玉野駅に向かうものとの二つに分かれたのである。」(『大和町史』)
 以降「熟蝦夷(にぎえびす)」の「黒川以北十郡」を貫通し、「麁蝦夷(あらえびす)」の巣窟「奥六郡」に達して、遂には最果ての「都加留(つがる)」の辺土へと到達する。
◯中世奥州街道
中世前期奥州街道
 次いで、中世奥州街道は、はじめ国分氏松森城(鶴ヶ城)下「宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本〔鶴巣〕村山田太田」(『下草郷土誌』)に出ていた(中世前期奥州街道)が、
中世後期奥州街道
 のちには再び留守氏の利府城下「宮城郡利府の地より沢乙を経て山田、太田、幕柳、鳥屋、北目大崎〔(別所)、下草〕等の各村を過ぎり舞野村に出で(中世後期奥州街道)今村〔吉岡、以降は次の近世奥州街道と同一ルートを辿り〕大衡を経志田郡伊賀に出でしものならん」(『黒川郡誌』)。
◯近世奥州街道(奥州道中、奥道中)
 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)は、1601(慶長6)年伊達氏の仙台開府による「国分町」「七北田」宿開基及び富谷新町の内ヶ崎氏関ノ川の若生氏・熊谷の渡辺氏と共に「黒川三家老」と並び称された)による1623(元和九)年「富谷宿」開鑿〔かいさく〕後、大きく西に転じてほぼ今日の国道4号ルートに移動し、同じく吉岡(下草)伊達宗清が「元和〔元(1615年)〕の昔沢埋め 山平げて築きたる」(土井晩翠作詞・吉岡小学校校歌吉岡宿を経た後は、(おそらくは中世奥州街道も)今日の国道4号筋から大きく東に逸れて「大衡村〔奥田〕昌源寺に至り、〔現今の第二仙台北部中核工業団地を縦断して〕北に向かった様子が判然としている。」(『下草郷土誌』)永らく大松沢丘陵山中に埋もれていたが、2008年工業団地造成で発掘調査後破壊された「奥田一里塚」から、「戸口一里塚」駒場を経て、ほぼ今日の東北自動車道沿いに伊賀三本木を経て古川へと至る。(高倉淳 HP「大衡村の奥州街道」
 ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)

第三節 利府=勿来関
◯観光地「勿来の関」
「江戸時代初期に現在の福島県いわき市勿来町関田字関山に『なこその関』を見立てるようになったため、観光地化した。江戸時代に関田村を領していた磐城平藩は、17世紀に桜の植樹をするなど、関跡に見立てた整備事業をたびたび行っている。
 1889年(明治22年)4月1日、旧磐城平藩の関田村、および、旧棚倉藩の窪田村・四沢村・白米村・九面村・酒井村・大高村が合併して窪田村となった。
 1897年(明治30年)2月25日に日本鉄道海岸線(現・JR常磐線)に『勿来駅』が開設されると、その駅名にならって1925年(大正14年)5月1日には石城郡窪田村が町制を施行する際に改称して勿来町になり、『勿来』という地名が初めて生まれた。1927年(昭和2年)には福島民友新聞社が『勿来関趾』の碑を建立した。
勿来の関公園
 1951年(昭和26年)、福島県立自然公園としての指定。
 1960年(昭和35年)、風致公園として都市計画決定がなされる。
 1986年(昭和61年) - 1988年(昭和63年)、遊歩道、詩歌の小径、駐車場等の整備が行われる。
 1988年(昭和63年)、いわき市勿来関文学歴史館(観光施設)が開館。
 2001年(平成13年)、いわき市勿来関文学歴史館(観光施設)が供用再開。はじめて学芸員を配置し小規模な企画展を開催。歌枕『なこその関』を紹介。
 2007年(平成19年)、いわき市勿来の関公園吹風殿(公園施設)が開館。平安貴族の邸宅風の建物と庭園。休憩所やイベント会場として多目的に活用される。
 現在は桜の名所としても知られる。」(Wikipedia「勿来関」
◯名古曽(勿来)関跡
 岩城の勿来にひきかえ、利府の「関所があったと伝えられる場所のすぐそばには『勿来川』が流れていて、そこにある山は『勿来山』と呼ばれ、勿来桜が咲いていたと江戸時代の名勝旧蹟誌にある。『名古曽(勿来)』の地名は、江戸時代だけでなく、それ以前の古文書にも記述があり、(中略)また、付近には今も『惣の関』という地名が残っている〔。〕(中略)
 こうしたことから、地元では、源義家が詠んだ『吹く風を勿来の関と思えども道もせに散る山桜かな』の歌も、[1083-87]後三年の役の際に、国府だけがそのまま残されていた多賀城から、かつて関所が置かれていたこの場所を通って北へ向う途中、あるいはその帰り道に詠んだものだと伝えられてきた。
 勿来の関は、そこを過ぎれば深い山へと入っていく、そのすぐ手前の山裾にある。今では後方に[1999]「惣の関ダム」ができ、また、周辺の道路も整備されて、勿来の関があったと伝えられる場所には、小さな祠が建てられ、その中に『山神の碑』『勿来曽神社の碑』。そして古道の名残が、かすかに残っている」(黒沢賢一「伝説のふるさとを訪ねて」2008.5.23「いわき民報」)。
 1999年の「惣の関ダム」開発により、かけがえない「名古曽(勿来)関跡」は周辺の地形もろともに大きく変形し、遺憾ながらダム湖底に埋没・破壊されてしまった可能性すらある。
 しかしながら、今なお利府の里を貫流するとこしえに母なる「勿来(名古曽)川」には「勿来橋」が架かり、父なる「名古曽山」が”民のかまど”を見守り、春先には源義家ゆかりの「勿来桜」が咲き乱れて、粗末な祠ながらも「勿来曽神社(碑)」まで鎮座し、有志による「勿来の関跡」の案内標識も設置されているという。恥ずかしながら、寡聞にして近時まで、皆目これらの事実を知らなかった。
◯「黒川以北」
 試みに東日本の衛星地図をひろげると、箱根八里を越えて関東平野から仙台・七北田平野に至るまでは、山道(仙道、東山道)および海道(東海道、浜街道)を通じておおむね平地が連続している。そのつきあたり・阿武隈水系の北端に、船形・泉連峰から松島湾の諸島まで東西一直線に、陸前丘陵の首魁松島丘陵が自然の関門をなして走り、その南麓に「遠の朝廷(とおのみかど)」多賀城がある。鶴巣・黒川郡は、松島丘陵をはさんだ北麓の、ちょうど利府・多賀城の対極に位置し、北上水系の最南端・吉田川を軸として、大松沢丘陵との間に黒川耕土を育んでいる。
 これを要するに、古来松島丘陵は、阿武隈水系七北田川、砂押川・名古曽川に終わる南奥「大和=文明」と北上水系吉田川・鳴瀬川に始まる北奥「蝦夷=自然」の分水嶺・自然と文化の障壁をなしており、黒川郡は、古代史術語「黒川以北(川北)」が如実に示すとおり、ちょうどそこから北奥・北上水系「蝦夷=自然」が始まる地点に位置している。(澤田諭編著『澤田氏の歴た道 奥州黒川澤田家譜』InterBook紙背人の書斎)
 地政学上も、南面に国府多賀城を擁し、北の後背を自然の長城「松島丘陵」に扼されて、王朝の文明と自然の素朴を分かち、「黒川以北」の「奥郡」に蕃居する「俘囚」「蝦夷(えみし)」に備える大和朝廷の”な来そ・来る勿れ”の関門としていかにもふさわしい、まさに絶好の”境の要害”の地といえよう。



第二章 黒川郡の地政


第一節 黒川郡の地政の要諦
 宮城「県のほぼ中央部。西端にある船形連峰の根元から東へ末広がりに広がるような形をなす。連峰の一つ北泉ヶ岳(一二五三・一メートル)に源を発する吉田川が郡のほぼ中央を東流し途中郡内の山沢の水のすべてを集めて、東端から展開していた品井沼(現在は干拓されている)に注いでいた。(大塚徳郎・竹内利美監修『日本歴史地名大系4 宮城県の地名』平凡社)
 黒川郡の地政学上の要諦は、
◯山岳
奥羽山脈
船形山系:船形山(御所山)1500.1m、前船形山1312.2m、蛇(じゃ)ヶ岳1400m、三峰山(坊主岳)1417.5m、千本松山1145m、花染山1018.2m
泉ヶ岳山系:北泉ヶ岳1253.0m、(南)泉ヶ岳1175m、大倉山933.8m、黒森857m、高倉山854.5m、蘭(あららぎ)山760.6m、難波森527.5m、赤崩山620.6m、大畑山563.2m、長者館山410m、長倉山(永倉山、高山)497.5m、小屋森山385.7m、堂庭(どうば)山251.7m
七ツ森(七巍峰):笹倉山(大森、大森山)506.1m・松倉山290.7m・撫倉山359m・大倉山326.6m・蜂倉山289m・鎌倉山313m・遂(とが)倉山307.3m、たがら森(たんがら森)232m
陸前丘陵
松島丘陵(黒川丘陵):大亀山122m、鍋山130.6m、高森山105.7m、鷹戸屋山138m、名古曽山108.78m、亀山131.1m、番ケ森209.8m、段山173m、尾鹿ノ森山108m、郷右近館158.7m、愛宕山141m、石倉山129.6m
別所丘陵:(別所)高森山74.7m、宇頭山62.4m、天神山、日光山、大窪山、八幡山
大松沢丘陵:達居(たっこ)森262.1m、女達居(めたっこ)山(大瓜富士)207m、陣ケ森90.3m、高寺山139.4m、大日向山86m
◯水系
吉田川水系:吉田川
南川(荻ヶ倉川)・難波川、竹林川・宮床川、善川、西川・小西川・黒川、滑川、味明川(山崎川)、鶴田川(高城川)
桑沼、品井沼 万能三滝、乱飛滝、滝の原、鎌房四十八滝
鳴瀬川水系:荒川(花川)
◯人文
黒川耕土、吉田川段丘、王城寺原、升沢盆地
東山道(奥大道):長根街道、柳沢街道、板谷街道、中山道 奥州街道(奥道中、奥州道中)、羽後街道、吉岡街道(松島街道)
御所館、八谷館、鶴巣館(鶴楯城)、一之関・二之関・三之関 下草古城、吉岡城・吉岡古館、宮床城(田手岡)、大窪城
白河郷、駅家郷、新田郷、大谷郷(保) 本町宿(下草)、吉岡宿、富谷宿
である。

第二節 黒川郡の山岳
陸前丘陵
 「陸前丘陵とは、宮城県部分の奥羽山脈の東部に、奥羽山脈と並走して幅10-30kmで続くなだらかな丘陵地の総称。
 陸前丘陵は南北に細長く横たわっているが、標高100m以下の部分が多く、また、河川の侵食等によってつくられた平野部が断続的にあるため、縮尺が小さい地図では仙台湾から奥羽山脈に至るまで、宮城県内陸部は全て「仙台平野」と記載される例が多い。そのため、一般の宮城県民は、定義以前に「陸前丘陵」という名称を聞いたことさえない者が多く、「陸前丘陵」は学術用語として使用される例が多い。
構成する主な丘陵
 仙北平野にある丘陵 築館丘陵、篦岳丘陵、旭山丘陵
 仙北平野と仙南平野を分ける丘陵 松島丘陵(広義)、大松沢丘陵、松島丘陵(狭義。西側の黒川郡域を黒川丘陵、東の宮城郡域を松島丘陵と細分する場合もある)、七北田丘陵、台原段丘
 仙台市都心部の西にある丘陵 青葉山丘陵−蕃山丘陵
 仙台より南にある丘陵 高館丘陵−愛島丘陵
 「仙北丘陵」という言葉もあるが、仙北平野にある丘陵を指す場合と、仙台市都心部より北にある丘陵を指す場合とがある。」(Wikipedia「陸前丘陵」)
◯松島丘陵(黒川丘陵)
 「まず黒川丘陵〔松島丘陵〕についてであるが、これは南北一九キロ、東西三十キロメートル以上の台地である。七北田川側が、仙台方面から見て、絶壁性をなし、反対に吉田川方面が、ゆるい傾斜をなし、あまたの開析谷を作っている。すなわち、北側に傾くところの地形ということになる。このことは、加美・志田丘陵〔大松沢丘陵〕についてもいい得るところである。すなわち、吉田川北岸は、絶壁性をなしているのに、北部の隣村、大衡村および東北部の三本木町側はゆるい傾斜面をなして、鳴瀬川にかたむき、そこに数多くの開析谷を作り、丘陵を形成しているのが認められるのである。
 これは地殻変動と密接に関連するものといわれている。広瀬川・名取川などは、両側に段丘が、ほぼ平均して形成せられているのに対して、七北田川・吉田川・鳴瀬川の場合には、主として、南岸に、多くの段丘が見られるのである。学名で、王城寺原段丘・吉田川段丘・七北田川段丘等と呼ばれているものは、このようにして、おもに、それぞれ鳴瀬川南岸・吉田川南岸・七北田川南岸に発達している段丘のことである。」(『大和町史』)
 「一般的な定義では、北を吉田川、北東を鳴瀬川、東を松島湾、南を七北田川に囲まれた丘陵地が松島丘陵とされる(以下、この定義を括弧書きの『松島丘陵』で表す)。奥羽山脈から連なる舌状台地であるため、西端は定義されない。この『松島丘陵』を東西に分割し、東側の宮城郡部分のみを松島丘陵とし、西側の黒川郡部分は黒川丘陵とする場合もある(富谷町部分を富谷丘陵とも言う)。(中略)
 広義では、『松島丘陵』と平行に東西に横たわる舌状台地である、北の大松沢丘陵(吉田川の北側)や、南の七北田丘陵(七北田川の南側)を含める(以下、この定義を松島丘陵(広義)で表す)。仙北丘陵地帯とも言う。まれに、鳴瀬川の東側で南北に細くある旭山丘陵をも含める場合もある。(中略)
 松島丘陵(広義)のほとんどが標高200m未満の低い台地であるため、一般の地図では周囲の沖積平野と同一色となり、仙台平野(広義)に含まれてしまっている。しかし、現実には仙台平野(広義)を南北に分割し、様々な面で境界となる重要な地形である。
 また、松島丘陵(広義)は地盤が安定しているため、想定される宮城県沖地震では、周囲の沖積平野と比べて震度が小さいと予想されており、東北地方の交通の要衝である仙台都市圏への進出を目指す機械工業の工業用地〔仙台北部中核工業団地、第二仙台北部中核工業団地〕として注目される要因となっている。(中略)
 松島丘陵(広義)により、単語のアクセントにおいて、北の東京式アクセント地域と南の無アクセント地区とに分かれる。松島丘陵(広義)自体のアクセントは、両者の混在、あるいは遷移地域となっている。」(Wikipedia「松島丘陵」
◯船形山(フナガダヤマ、御所山)
 「船形山(1500m)は宮城県側で呼ぶ名である。北東側から山頂を向いたとき、緩い傾斜を急な崖が縁取るのが浮かぶ舟のように見えることから名付けられたとか、東から見たとき山頂が船底をひっくり返したような形をしていることから名付けられたとか言われる。一方、山形県側では御所山と呼ばれており、こちらは北西麓の尾花沢に伝わる伝説に由来する。その話では、承久の乱(1221)で佐渡島に流刑になり、佐渡島で没したと伝えられている順徳天皇が、実は佐渡島から脱出して尾花沢まで落ち延び、隠れ住んだ。山の名は天皇の居所、すなわち御所にちなむという。船形山を中心とする5つの峰(五所)が由来という説もある。(中略)
 仙台市青葉区と山形県尾花沢市との境には「仙台カゴ」、山形県尾花沢市と東根市との境には「最上カゴ」と呼ばれる1200m級の峯が存在する。カゴとは加護を意味し、修験道の道場であった。」(Whikipedia「船形山」
 「因に記す明治二十三(1890)年八月調製の官林地図には郡界西方は山形県北村山郡に接し宝森外三十一ヶ銘官林と稱し大船形山神社境内は升沢囲一〇九番一反六畝十一歩とあり 而して加美郡との境界は花染山より大船形山へ見通しなりしを明治三十六(1903)年国有林郡界踏査の結果花染山より蛇ヶ岳に見通となり三峰山外二十三ヶ銘国有林と改稱せらるゝに至れり」(『黒川郡誌』)。この結果、現在船形山頂は加美郡色麻町及び山形県尾花沢市に属し、黒川郡は山形県と接していない。
校歌の船形山
 ♪輝くひとみ すこやかに  船形山に 雪映えて♪(「鶴巣小学校校歌」)
 ♪穂波ゆたかな ふるさとの 空だかがやく 雲がとぶ 船形山の いただきを♪(「落合小学校校歌」)
 ♪白い雲飛ぶ 青い空 船形山に 照る朝日♪(「西成田小学校校歌」)
 ♪遥かなみねの しげりたつ 船形山の 白い雲♪(「吉田小学校校歌」)
 ♪真澄の空に 雪映ゆる 船形山の 朝ぼらけ♪(「鶴巣中学校校歌」)
 ♪ 朝日に映える 船形は 緑と風に 満ちあふる♪(「大和中学校校歌」)
◯北泉ヶ岳(キタイズミガダゲ)
 「泉カ岳火山群も船形火山群に含まれる。北泉カ岳・泉カ岳(南泉カ岳(1172m))・大倉山(九三三・九メートル)・蘭〔あららぎ〕山(七六〇メートル)などから成る。大倉山・北泉カ岳・泉カ岳は、連続して火口壁を作り、臼状の形態をあらわす。」(『大和町史』)
吉田川源流
 黒川郡の母なる川は吉田川であることは衆目の一致するところであるが、多く父なる山として謳われている船形山についてはやや事情が異なる。たしかに船形山系の主峰ではあるが、強いていえば、謂わば“祖父なる山”とでもいうべきであろう。実は吉田川の源流は北泉ヶ岳で、嘉太神へと流れており、黒川郡の父なる山は「北泉ヶ岳」(1252.1m)である。その証拠に、吉田川中・下流からはるかに西方奥羽山系を望見すると、黒川耕土の真西正面に鎮座するのは北泉ヶ岳で、標高も(南)泉ヶ岳より高く、連山の主峰である。因みに、行政上北泉ヶ岳東・北麓は黒川郡大和町吉田に属し、(南)泉ヶ岳は仙台市泉区に属している。

◯七ツ森(ナナヅモリ、七巍峰)
七ツ森
 黒川郡のシンボルとしてあまりにも有名な七ツ森は、南から笹倉山(大森、大森山)506.1m・松倉山290.7m・撫倉山359m・大倉山326.6m・蜂倉山289m・鎌倉山313m・遂倉山307.3m(・つけたり、たがら森232m)から成り、「東北十八景二十五勝」の一に選定されている。
 「現在は笹倉山を含めて七ツ森と呼んでいるが、かつては笹倉山は含めず、(中略)たがら森(仙台弁ではたんがら森)を含めた7山を七ツ森としていた。
 ある時期に、たがら森以外の各山の薬師如来が笹倉山に合祀された。その後、標高の低いたがら森は七ツ森から外され、替わって笹倉山が新たに七ツ森に加わり、現在に至っている。」(Whikipedia「七ツ森」
 因みに、せっかくの七ツ森だが、実は東正面にあたる吉田川流路の角度からは七つの全てを見ることができない。南の大森から数えて五番目の蜂倉が四番目の大倉の影に隠れてしまい、ほとんど見えないからである。多くの人々は、つけたりのたがら森を入れて七つと誤算しているのが実情であろう。
朝比奈三郎伝説
 七ツ森に吉田川・品井沼を配した伝説の巨人朝比奈三郎(今は大和町公認のゆるキャラ” アサヒナサブロー”)は黒川郡ではあまりにも有名な伝説で、今日もなお広く人口に膾炙(かいしゃ)しているが、その裏面で、主人公が実在の人物・朝比奈三郎義秀であることは、ほとんど知られていない。
 「朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。父は和田義盛、母は不詳(後述を参照)。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。
 父義盛が北条氏打倒を企てて起こした和田合戦で、もっともめざましく奮戦した武将。『吾妻鏡』はこの合戦での義秀の活躍を詳細に記述している。(中略)
 義秀の大力の話は『曽我物語』にもあり、また鎌倉の朝比奈切通しは義秀が一夜で切り開いたものという伝説もある。(中略)
 宮城県黒川郡大和町に伝わる「朝比奈三郎伝説」〔民話「七つ森」 〕の三郎と同一人物とされる。(中略)
 実在の義秀本人に直接由来するものではなく間接的に派生することであるが、大和町ではこの伝説上の朝比奈三郎に由来する物標や名称が多数見られる。(中略)
 義秀は大力の勇者であったため、『平家物語』などの軍記物語で活躍した大力の女武者巴御前の子と伝わる。『源平盛衰記』などでは木曾義仲の敗死後、捕虜になった巴御前を義盛が望み、義秀が生まれたことになっている。もっとも、義秀の生年(『吾妻鏡』に1213年の和田合戦の時点で38歳とある)が義仲の滅亡以前であることから、この話は創作である。」(Whikipedia「朝比奈義秀」
朝比奈切通し 「朝比奈切通し(あさひなきりどおし)は鎌倉七口のひとつで、朝夷奈切通しとも呼ばれる。1241年(仁治2年)4月から鎌倉幕府執権、北条泰時が命じて作らせた切通しである。現在は、鎌倉市十二所から横浜市金沢区朝比奈町を結ぶ遊歩道となっている。(中略)
 伝説では、朝比奈三郎義秀(和田義盛の三男)が一夜にして切り開いたことから朝比奈の名前が付くといわれている。」(Whikipedia「朝比奈切通し」)「鎌倉街道 朝夷奈切通ウォーキング/ハイキング<動画>」で見ることができるが、七ツ森同様実にすばらしい遊歩道で、健康を回復した暁には私もぜひ歩いてみたいと思っている。
歌の七ツ森
♪山の名を問へは日あしも七つもり 宿とらはやと急く旅人 読人しらす
  人ならははらからなれや 並み立てる七ツ森てふ山のすかたは 保田光則
  なツ森かよし小よしれ立てるりの谷間のそう郷かな 澤田 諭♪
 ♪黒川の七ツ森は 扨ても見よい森かな かすみかゝりきりかゝり 扨ても見よい森かな♪
(「奥州黒川郡宮城郡惣鎮守古代一の宮鶴峰三社大明神鶴ケ峰山御田遊記」)(中略)
 ♪せんだいくろかわの七つ森 さてもみよい森かな♪(「黒川七つ森田植歌」)(中略)
 ♪七つ森を右に見て 虚空蔵菩薩に願いかけ♪(「黒川願人節」)(中略)
 ♪ハァー おらが鶴巣はよ 豊かな村さ
  七つ森から吹くそよ風に 耕地千畳見渡す限り サテ
  金波銀波の穂波がゆれて ゆれる穂波に朝日が映えるよ♪
(原千秋作詞/佐々木章作曲「鶴巣音頭」)」(「東北二十五勝”七ツ森”詩歌・歌謡集」
小学校校歌の七ツ森
 鶴巣小学校校歌(山本 正作詞/熊田為宏作曲)
  ♪(三)若草香る 西川の 水清らなる 岸近く 学ぶ六年の 春と秋 七つの森の 空高く ひろいはるかな 夢を呼ぶ♪
 落合小学校校歌(橋浦兵一作詞/佐藤長助作曲)
  ♪(一)ひかりはるかな 七つ森 朝だみどりの 風がふく 若木が丘の まなびやに のぞみさやかな 鐘がなる われら 落合小学生
 大郷小学校校歌(笠松洋子作詞/内藤淳一作曲)
  ♪(一)七つの森に 見守られ 大地の恵み 豊かなり みんな仲良く 支え合い 手を取り合って 進もうよ 丈夫なからだと 優しい心 確かな足跡 築こうよ 緑あふれる学舎は ああ 大郷小学校♪
  旧富谷小学校校歌
  ♪(一)みちのくの原  ほど遠からぬ 黒川の 西に聳ゆる 七つの峰の 立ち上がる 大森山を 仰ぎつつ たゆまず倦むまず 務めばや いやさかいやさか 富谷校♪
 富谷小学校校歌(扇畑忠雄作詞/海鋒義美作曲)
  ♪(一)北風に 向かって行こう 雲白く 土平らかに 七つ森 静かに光る みちのくの ゆたかな国よ 学んで高く 心を育て 未来に進む 若いのぞみ♪
 吉岡小学校校歌土井林吉(晩翠)作詞/大槻貞一作曲)
  ♪(二)七つの森の 峯高く 吉田の水の 末遠く 眺がめゆかしき 朝夕の 窓に教えの 数々を 受けつつ励む 嬉しさよ♪
 宮床小学校校歌(小倉 博作詞/海鋒義美作曲)
  ♪(一)峰たちならぶ 七ッ森 まぢかくあおぎ 広き野を しめて年ふる 宮床の 教えの泉 わくところ わがまなびやに 光あり♪
 小野小学校校歌(氏家政好作詞/三浦節夫作曲)
  ♪(一)緑連なる ふるさとの 若葉が萌える 七ツ森 強く生きよと 呼んでいる 友よみんなと 手を取って 未来(あす)を夢見て 未来(あす)を夢見て さあ燃えよう♪
 吉田小学校校歌(扇畑忠雄作詞/福井文彦作曲)
  ♪(一)みどりの風の ふきかよう 明るい空の 七つ森 深い理想と すなおなこころ この学び舎に 励みましょう 若葉のように あたらしく♪
中学・高校校歌の七ツ森
 落合中学校校歌(山本 正作詞/海鋒義美作曲)
  ♪(一)我が住む里は 落合の 西に秀麗 七つ森 若木が丘の 気は澄みて 聳ゆるいらか 学校に 伸びゆく生命 学ぶ幸♪
 吉岡中学校校歌(扇畑忠雄作詞/福井文彦作曲)
  ♪(三)真日の下 影あたらしく 七つ森 つらなるところ 幸多き 吉岡の里 誇るべし 理想に向う 強き歩み 明るき心 力合せて 励まん吾ら♪
 宮床中学校校歌(扇畑忠雄作詞/佐藤長助作曲)
  ♪(一) 光りみなぎる 朝の空 寄り合う峯も あざやかに とこしえに立つ 七つ森 わが学び舎の しるしなり ここに育ちて 雄々しく生きん 吾らは向う 高き理想に♪
 大和中学校校歌(大和中学校作詞/内藤淳一作曲)
  ♪(二) 協和し連なる 七つ森 山々一つ 自立せり まほろばの地を 踏みしめて 歩み集いし 友が皆 力を奮いて 磨き合う 励む我らに 理想あれ♪
 黒川高等学校校歌(扇畑忠雄作詞/福井文彦作曲)
  ♪(一)さやかに晴るる 山幾重 稜線永遠の しずもりに つどいて三年 朝夕の やさしきすがた 七つ森 ここに学びて 春秋の 生命かぐわし われらが生命♪

第三節 黒川郡の水系
◯吉田川水系
吉田川(ヨスダガワ)
 北泉ヶ岳北麓の「桑沼、小凹地から火口瀬が流出し、志田野川の侵食谷となって北東に流れ下り、(中略)吉田川の上流となる。」(『大和町史』)
桑沼
 「吉田村北泉岳の中腹にあり長三百間幅百五十間余水清冽にして四周皆火山岩より成る蓋し往古の噴火口なり(中略)
品井沼
 郡の東部に品井沼と稱するものあり則ち地勢陥凹自ら水を湛へたるものにして東西一里十八町南北一里三十四間周囲五里二十四町宮城志田黒川の三郡に連る然れども明治四十二年排水工事の完成せしより本郡に属する部は悟く開墾して田地となれり」(『黒川郡誌』)。
吉田川支流
 吉田川の支流は、上流から南川(荻ヶ倉川)・その支流難波川竹林川(タゲバヤスガワ)・その支流宮床川(ミヤドコガワ))、善川(ジンガワ)西川(ヌスカワ)滑川味明川(ミヤゲガワ、山崎川)、鶴田川(ツルダガワ、現在は希少な「吉田川サイフォン(伏越管渠)」で立体交差し、品井沼干拓史上名高い「潜穴」で松島町に入って高城川(タガギガワ)と名をかえ、松島湾に注ぐ)等である。
 黒川郡の母なる川を吉田川とすれば、鶴巣(及び富谷)の母なる川は吉田川の支流(子川)西川及び竹林川であろう。
 ♪せせらぎ冴えて西川の 流るる岸辺さ緑に♪(鶴巣中学校校歌)
 ♪若草香る西川の 水清らなる岸近く♪(鶴巣小学校校歌)
 さらに、西川の主な支流(孫川)は、上流から明石川(アガイスガワ)、沼田川(ヌマダガワ)、小西川(コヌスカワ黒川(クホガワ)である。
◯鳴瀬川水系
荒川(花川)
 なお、黒川郡最高峰三峰山(坊主山、1417.5m)を源流とし、名高い「三光ノ宮(サンコノミヤ)」の南崖・北丸松保沢を駈け下って船形山登山口・升沢盆地(鶴中恒例の夏休み船形登山のベース・キャンプ・吉田小学校升沢分校があった)を形成する荒川は、加美郡に入って花川と名を変え、色麻町四竃で鳴瀬川〔ナルシガワ〕に合流する。この鳴瀬川支流 に、普請奉行前田善左衛門によって開削された金洗(かなあらい)堰と荒川堰がある。金洗堰は寛永七[1629]年から五年(中略)をかけて完成。金洗堰は王城寺村に堰口をもち、大村、大衡村、大瓜村の用水〔沓掛川〕となる。」(『日本歴史地名大系』)
 1)沓掛川は鳴瀬川水系を離れて埋川に合流して、大衡村塩浪で、
 2)また別の沓掛川分流は王城寺原演習場を縦断して、大衡村大瓜で、
共に善川に合流する。善川は落合上桧和田で吉田川に合流し、吉田川はやがて上記品井沼に流れ入って鳴瀬川に合流する、鳴瀬川最大の支流である。つまり、両水系は合流の前に既に一つに繋がっている。吉田・鳴瀬両水系は文字通り一体以上の水系なのであり、吉田川にとって鳴瀬川は母なる川であると共に、黒川郡にとっては“祖母なる川”と言ってもよいのである。
 なお、現在吉田川は松島町貝殻塚辺で鳴瀬川に合流しているが、過去の品井沼氾濫の原因だった水位差による鳴瀬川から吉田川への逆流を防ぐため、「合流」後も両川は数キロにわたって独立・並流しており、実際に合流して単一河川となるのは、ようやく河口から約500m手前になってからである。
 この「升沢盆地には、式内社、〔吉田麓の〕石神山精神社奥の院と称し、地元の信仰を集めている神社〔船形山神社?〕があったりして、主として、黒川郡管内の人々によって崇敬せられていることなどから、やはり古くから、黒川管内だったといってよいであろう。」(『大和町史』)

第四節 黒川郡の概史
郡名及區劃
 「別所の沢中央を流れる小川を黒川と称し、黒川に架せるを黒川橋と称えたり。現在は中米長蔵氏宅の六丁程前方の様にうかがはる。」(『下草郷土誌』)後に詳述するように、我が生まれ在所鶴巣北目大崎の別所沢を貫流する「黒川」が、「黒川橋」、「黒川坂」の謂われに鑑て、実は「黒川郡」名発祥の地であった可能性がきわめて高い。
 「黒川は久呂加波〔くろかは〕と訓す其出所を詳にせず
 往古は新田〔にうた〕郷 駅家〔うまや〕郷 白川郷の三郡に分てるが如し
 白河或は粕川の誤伝ならんか今其孰か信なるを知らずと雖も郡の東部大谷粕川大松沢の地方なるべく
 駅家郷とは郡の中部にして今の鶴巣落合其他付近の地方ならん落合村の中舞野の地に現今宿と稱する所あり
 新田郷とは郡の西部の大名にして今の富谷以西の地方なるべし此地方新田の名稱今尚存せり(中略)
 郡を分て四十九ヶ村となす其内更に十一ヶ村を分合して大谷〔おおや〕郷〔保〕と稱せり(中略)
 然れども宝暦五[1755]年の調によれば大谷拾壱ヶ村とありて荻生村を加うと見えたれども其石高の記載を欠きたり而して大松沢をば之を大谷郷より除き大谷十ヶ村(中略)とあり 明治三[1870]年に至り大谷郷を廃して単に黒川郡と稱し其成田村は之を東成田〔シガスナンダ〕村となす 西成田村は之を小野目成田村と稱したりしを之と同時に西成田(ヌスナンダ)村と稱するに至れり。(中略)
郡村名ノ起原
 郡名の因りて起る所を審〔つまびらか〕にすること能はずと雖も 村名の起因とも稱すべきもの其伝説なきにあらず左に之を述べんとす
宮床村 仝地もと難波〔なにわ〕と稱したりしを飯峰山信楽寺〔しんぎょうじ〕の開くるに当り宮方〔仁和寺宮〕の下向ありしより宮床と稱したりとぞ蓋し宮方の永住せるを以てなり仝寺域内に古墳あり宮様御院と稱す今尚ほ現存せり
富谷村 往古当村熊谷字宮の沢に宮十社ありしを以て此の地方をトミヤと稱し文字にも十宮と書きたりしが後之を富谷と書き改めたりと云ふ十社の内日吉神社のみ残りしが明治四十一(1908)年熊野神社に合祀せり
 熊野神社も亦この十社の内にて熊谷にありしが富谷に遷したるものなりと云ふ宮の沢には十宮建立の跡今尚存せり
志戸田村 四斗田より出でたり仝地字森下に三坪程の小き田あり昔此の田より米四斗を得たればとて此の田を四斗田と稱し来り今となりても此田には肥料を入れず極めて清浄に作り毎年田植の節は白弊を供へ又神社神輿の下りて此所を通る時は塩を撒き浄め此田より得たる米は他に用ひずして神社に供ふるものとす志戸田と改稱したるは何年頃よりなるかを知る由なけれども四斗田屋敷と稱する所は今尚存せりとぞ以上安永風土記にみえたり
穀田村 (中略)同地清水の道側田の畔に往古より石ありて米湧き出でたれば此地方を穀田と稱せりとぞ安永風土記[1774]にみえたり
舞野村 田村〔麿〕将軍東征の頃同地にに淀ヶ淵といふ大沼あり、其沼に大蛇棲み往来の人を取り食ふにより将軍其悪蛇を平げ後草原にて観音法楽の舞をなしたり故に其処を舞台野と名つく後舞台の舞の字を取りて舞野村と稱へたる趣観音縁起書に見えたり
幕柳村 右大将源頼朝〔藤原〕泰衡追討に際し同地の柳の木に幕を張りて軍を留めたるにより幕柳と稱したる由に伝ふ
駒場村 同〔頼朝〕将軍須岐神社境内に駒を留めて軍を稿ひたるにより以後此地を駒場村と稱へたる趣なり
吉岡 元和〔げんな〕二[1616]年仙台藩の公族飯坂氏の居城となりしより土民結集して一郡の駅市となる即ち吉岡と稱へらるゝは大日本地名辞書に見江たり往古は此地を稱して上の原〔、今村〕と云ひたりとぞ
松坂村 正応四[1291]年十月五位侍従松坂大膳定政継仁親王[1279-1280]に供奉し黒川郡高田の御所に至る生国勢州松坂の紫明神を此地に勧請すとあれば村名蓋し是より起りしものならん
鶴巣村 町村制実施に際し北目大崎他七ヶ村を合併して鶴巣(ツルノス)村と稱したり蓋し観蹟聞老誌に載する鶴巣城より取れるなり 世俗つるす村と呼ぶは誤なり宜しくつるのす村と云ふべきなり
落合村 町村制実施に際し相川外六ヶ村を合して之を落合村と稱せり蓋し当地方は諸川の合流するより起り又落合と呼びし一地方もありしなり相川の地名も亦合川即ち諸川の合いたるより出でたるものなるべし」(『黒川郡誌』)。
東北に及ぼせる波動の歴史
 「蓋〔けだ〕し東北は其の歴史に於ても地勢の関係に於ても始終受動的にて、北畠氏の延元[1356-1361]の一挙を除くの外、常に中央政権の大波動に制せられて其の勢力を洗ひ去られたり(中略)
 往古より屡次〔るじ〕奥羽に加はり来れる大波動を一括して戊辰事変のそれと比較して先づ大体の形勢を観する時は左のごとし
  第一波動 京師より起り来りて陸中胆沢附近、羽後能代(淳城)附近に終る 其間殆と八百年(但し之は王化の異種族に及べるにて後世の政争波動とは趣を異にす)
  第二波動 関東を根拠として京師に奉仕せる中央武家の勢力によりて、陸中厨川羽後金沢に及ぶ
  第三波動 鎌倉に於ける武家政府の権勢によりて陸羽の殆と全部に及ぶ
  第四波動 多賀より発して再度京師に及びしも終に逆〔さかし〕まに制せらる
  第五波動 大阪に発して未だ到らざるに均衡して息む
  第六波動 薩長より発して京師に大旋渦を作り転じて陸羽に達す
 概観し来れば第一波動は単に〔坂上田村麻呂等の〕王家建国の事業を補ひ固めたるに過ぎずして其の結果は異種族〔大墓公阿弖流爲(たものきみあてるい、アテルイ)、盤具公母礼(いわぐのきみもれ、モレ)等蝦夷(えみし)〕を鎮撫するに止まり、統一後の奥羽とは何らの関係なきも、
 第二波動以後は概子〔おおむね〕武家の権力争ひと政見の移動に基づく争闘として見るを得べし、而して此に看過すべからざるは 皇室に対する至誠の終始一貫せること是なり、
 前九年の役の如き史家之を純然たる叛逆とすれど、〔安倍〕頼時貢賦を怠るの罪を謝して毫〔ごう〕も抗争せざりしは、事苟〔いやしく〕も王家に関するが為にあらずや、然るに其の事の全く解たる後、〔源〕頼義の〔安倍〕貞任に対する措置に関して問題を生じ遂に両家の間に戦争となりたるもの、後三年の役においては朝廷もまた之を私闘と認めて断然論功行賞の奏請を斥けたる程なり、安倍氏清原氏に尊王の誠意なかりしと断ずるは甚だ謂れなし
 次に頼朝の〔藤原〕泰衡に於ける順逆を以て論ずれば頼朝の非行なること蔽ふべからず 泰衡一旦宣旨を畏み亡父〔藤原秀衡〕の遺念を顧念するの遑〔いとま〕なくして〔源〕義経を戮し次で又 宣旨によりて其の愛弟をも戮したるは其の 宣旨の仮令頼朝の強請により已むを得ずして発せられしものなるにもせよ 王命を遵奉すべき臣子の分を恪守せしものといふべし 然るに頼朝は尚之を以て足れりとせず勅裁を経ずして天下の大兵を動かし国司兼将軍の職にある泰衡を討伐せしは朝廷を無視したる不臣の挙動と云わざるべからず、若し夫れ北畠伊達氏等が奥羽の兵を率ヰ 王家の為に盡くしたる苦衷に至りては天日と光を争うものあり
 而して天正[1573-1593]以後の奥羽殊に伊達氏の尊王事蹟は最も著名なりとす
 奥羽史を観るもの、先づ此の大義一貫の事実に着目するを要す、成敗の結果によりて順逆を論じ、政見の争いを武力に決したる蹟に見て、敗者を目するに賊を以てするが如きは眼孔豆の如きものゝみ」(藤原相之助『復刻 仙台戊辰史』柏書房,(1910,)1968)
◯黒川郡のあけぼの
 「本〔黒川〕郡(クホガワグン)は聖武天皇紀[724-749]に於いて始〔初〕めて國史に其名稱を現はせり、即ち天平十四[742]年春正月己巳〔きし〕陸奥の奏言に、黒川郡以北十一郡雨赤雪二寸云々とありしより」(『黒川郡誌』)。
石器時代 最古期の「遺跡は船形連峰から東に延びる大松沢・富谷〔松島〕の丘陵上と、丘陵間を貫流する吉田川およびその支流によって開析された東西に細長い沖積地に面する段丘上や、南と北から掌状に延びる丘陵上に散在する。吉田川上流北岸丘陵上の大和町中峯C遺跡は、前期旧石器遺跡であることが明らかにされた〔2000年の旧石器捏造事件後も引き続き、宮城県により旧石器時代として取り扱われている〕。
 また後期旧石器時代の遺跡が〔は〕、吉田川支流の竹林川の上流の大和町の小野、長原、長原上、磯ヶ沢など五遺跡、富谷町の鳥屋又、熊野など五遺跡、大衡村の五遺跡が発見されている。
縄文時代
 縄文時代の遺跡には、吉田川下流の北岸、かつて品井沼に面した大郷町の大松沢貝殻塚遺跡があり、シジミを中心とした縄文中期の環状貝塚である。その東約1キロ、鹿島台町 大迫にも同じシジミ主体の石竹貝塚があって、周辺の環境とその変化を示している。大松沢貝殻貝塚には貝塚に関連した手長明神の伝説をもつ手長明神社がある。大衡村上深沢遺跡からは、二十一棟の中期末の竪穴住居跡が発見されて、縄文集落の構成と変遷を明らかにした。大和町鶴巣〔別所〕勝負沢遺跡でも中期の遺物が多量に発見されている。
弥生時代
 弥生時代の遺跡の発見は少ない。現在三遺跡のみで、大郷町深谷(しんや)遺跡から石包丁、富谷町日吉神社前遺跡からアメリカ式石鏃が発見されている。」(『日本歴史地名大系』)
 「傳へ日ふ景行天皇(71-130)の皇子日本武尊東征して日高見國に至り給ふや、今の大龜の地を經過し給ひたりと同地は古昔の嶺傳に通行せし当時の通路たりしならん」(『黒川郡誌』)。
 ♪西は成田か今泉 石を積んだる大亀や♪(「黒川願人節」)
古墳時代
 「古墳は郡東部の吉田川南岸丘陵上沿いに集中する。桃生郡鳴瀬町の上下堤古墳群や大郷町の明神古墳群・防(ぼう)ヶ沢古墳群など埴輪を伴った古墳の延長線上に、黒川郡の古墳文化の中心となる埴輪をもった大郷町粕川の諏訪古墳・山中古墳など中期古墳が続く。その西方二キロの大郷町鶉崎には、十数基の円墳群である鶉崎古墳群がある。その中心の大小寺古墳は直径が二十五メートルあり、木棺直葬の埋葬施設がみられ、時期も諏訪古墳よりやや新しいと考えられている。
 大和町鶴巣の鳥屋八幡神社裏山には、横穴式石室をもつ鳥屋八幡古墳があって、造営年代は八世紀に下ると推定されている。これら高塚古墳群も、東方松島町の藤ノ巻・蝦(えぞ)穴横穴古墳群と連続しており、鶴巣の別所横穴古墳群へと展開している。吉田川北岸の鹿島台町には装飾横穴の大迫横穴古墳群がある。
 こうした傾向からみて、大郷町粕川を中心に六世紀中頃から族長支配が展開され、七世紀には鶉崎地区の古墳群へと継承され、以後律令支配に組込まれていく様子が推測される。」(『日本歴史地名大系』)
◯黒川郡の古代
黒川郡の建郡
 「黒川郡およびこれにグループされる十郡の成立は、その間に若干の遅速があるとしても、大体は天平五柵〔多賀・色麻・玉造・新田・牡鹿〕の成立にうながされて相前後して成立した、といってよかろう。そのうち黒川郡はやや早く神亀(724-729)初年ごろ、他の遅いものも天平二(730)年以前、という推定を下して誤りないと思われるのである。(中略)
 大郷町中村・〔鶉崎〕住吉・鶉崎等を含む東成田地域一円がその古代黒川郡衙のあった地域ではなかったかと推定せられるのである。」(『大和町史』)
 前述のとおり、「『続日本紀』天平十四[742]年正月二三日条に『黒川郡以北十一郡、雨赤雪平地二寸』とある『十一郡』は『一十郡』の誤りで、いわゆる『奥十郡』のことである。奥十郡の南端の郡であった黒川郡は、天平[729-749]初年には創建されたとみられる。
 同書宝亀元年(七七〇)四月一日条に『陸奥国黒川・賀美等一十郡俘囚』が『本是王民、而為夷所略、遂成賎隷、今既殺敵帰降』という理由で、『調庸の民』すなわち王民に再帰することを願って許されている。また同書延暦八年(七八九)八月三〇日条にも『賊と居を接す』という理由で、田租免除の期限延長を願出て許されている十郡も黒川郡以北の『奥十郡』で、特別の地域として扱われている。大同五年(八一〇)三月二三日付太政官符(類聚三代格)の『応に陸奥国浮浪人調庸、土人に准じて狭布を輸すべき事』に『但し黒川以北奥郡浮浪人、元来差料の限にあらず』とあり、浮浪人の調庸について『奥十郡』は免除されている特別の区域となっている。
 『続日本紀』神護景雲三年(七六九)三月十三日条に『黒川郡人外従六位靭大伴部弟虫等八人に靭大伴連を賜姓したとある。『日本後紀』延暦一六[797]年正月一三日条に『黒河郡人外少初位上大伴部真守』に大伴部行方連を賜姓したとある。『続日本後紀』承和八年(八四一)三月二日条に『黒川郡大領外従六位下勲八等靭伴連黒成』が、国司の推挙によって外従五位下を借授されたとあり、同書一〇[843]年一一月一五日条には、この黒成が公勤を賞されて従五位下を授けられたとある。これらによって、黒川郡の郡司の家が靭大伴連の姓をもっていたことを示し、この郡の有力者が靭大伴部か大伴部系の家であったことになる。」(『日本歴史地名大系』)
黒川以北十郡・田村麿伝説
 「古代多賀城以北の地は『奥郡』と呼ばれた。ここには多くの城柵が築かれ、蝦夷経営の最前線と考えられた。その入口が黒川郡で、多賀城以南と奥郡を分ける関門であり、『黒川以北一十郡』〔牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・冨田・色麻・賀美・黒川〕とか『黒川以北の奥郡』という書き方をされる。」(『角川日本地名大辞典 4宮城県』角川書店)「栗原郡・桃生郡・遠田郡の三郡は黒川以北十郡に含まれていませんでした。(菅原伸一『蝦夷と「なこその関」』無明舎出版)
 「坂上田村麿が征東の命令を受くるや又本郡を経過せしものの如く平城天皇大同三(808)年には将軍舞野観音を勧請せり」(『黒川郡誌』)。
 「この頃中央に知られた神社は、『延喜式』 神名帳に黒川郡四座とあり、『須岐神社・石神山精神社・鹿島天足別神社・行神社』である。須岐神社は大衡村駒場にあり、農耕に関係する神とされている。石神山精神社は『続日本紀』延暦九[790]年一一月二五日条に官社とされたと記された神社で、大和町吉田にある。鹿島天足別神社は貞観八年(八六六)正月二〇日付太政官符(類聚三代格)に、常陸国鹿島神宮(現茨城県鹿島郡鹿島町)の苗裔神として『黒河郡一前』とある神社がこれにあたるとされており、富谷町大亀にある。行神社は、須岐神社が農耕の神であるのに対して軍事の神とされ、両者を合せて考えるべき神とみられ、富谷町志戸田にある。」(『日本歴史地名大系』)
白川郷・駅家郷・新田郷
「古代の黒川郡の郷村として『和名抄』は、新田・白川・駅家をあげている。この三郷の比地として、白川郷を郡の東部より、駅家〔うまや〕郷を中央部、新田〔にうた〕郷を西部よりとするのは、『大日本地名辞書』〔後述するように〕『黒川郡誌』とも同じである(中略)。
 黒川郡が東部から開け、吉田川本支流をさかのぼるかたちで、郡の西部、北部へも発展した、ということである。(中略)
 『延喜式」[905]によれば、多賀城を発した駅路〔古代前期東山道〕は栖谷〔すみや、菅谷〕─黒川─色麻─玉造と北上した。(中略)西、亀山(一七五〔一三一〕メートル)、東、番が森(二一一メートル)の鞍部〔板谷峠〕に向かって宮城=黒川郡境を越え、黒川郡に入ったのである。そして今日でも中村の地名を残すあたりを中心に郡の中核をなしていた郡衙所在地にはいったのである。駅路はそこからはすぐ北上せずに、吉田川南岸ぞいに、しばらくは西進したのである。」(『大和町史』)
 「郡衙の所在地は、大衡村の善川流域にある亀岡遺跡と大郷町鶉崎〕大小寺地区〔「鶉崎(黒川郡最初の郡衙が置かれたところ)」(『蝦夷と「なこその関」』)〕に求められている。いずれも官衙的性格をもつ遺物が発見されており、特定できない。
 なお、大衡村から大和町ならびに北部色麻町にかけて古窯跡が分布しており、これらからの製品は律令期の官衙・寺院などに供給されたと考えられている。古窯跡はこのほか大和町の鶴巣鳥屋・鳥屋〔別所〕三角田南や大衡村にも確認されている。」(『日本歴史地名大系』)
 「黒川駅は、駅家郷の地内に所在したと推定され、舞野か下草の地に比定される。」(『日本歴史地名大系』)
 「黒川郡主の黒川氏が、はじめ落合の御所館に、ついで下草の鶴巣館によったという中世の歴史には、黒川郡における古代史からのある種の系譜が考えられてよいであろう。(中略)それが古代史上の駅家郷をうけたものであること、それゆえにこの中世黒川町の範域あたりで古代駅家跡を考えることは、当らずといえども遠からず、ということになるのである。」(『大和町史』)

◯黒川郡の中世
八幡太郎・鎌倉殿伝説
「後冷泉天皇の御代(1054-68)安部頼時東北に據り以て朝廷に貢せざるや本郡も亦其配下に属し源〔頼義・八幡太郎〕義家父子の征討を蒙りたりし事明なり 後藤原秀衝陸奥鎭守府將軍に拜せられるゝや亦其隷する所となる 秀衝の子泰衝に至り源頼朝〔鎌倉殿〕の征討あり即ち書に曰はく後鳥羽帝文治五(1189)年己酉〔きゆう〕八月十四日頼朝多賀自〔より〕黒川郡經〔をへ〕之〔ここ〕玉造郡と 泰衝の滅後は頼朝の治下〔奥州惣奉行、陸奥留守職〕に属し千葉東〔とうノ〕六郎大夫〔胤頼〕に賜ふ 幾〔いくばく〕もなく〔郡郷新地頭、〕北條氏の手中に歸し、〔奥州総大将、奥州管領(吉良・畠山・石塔・斯波(大崎)四管領)、〕陸奥〔奥州〕探題の配下に属す」(『黒川郡誌』)。
奥州合戦
「文治五年(一一八九)の奥州合戦の際、源頼朝の幕府軍は藤原泰衡を討つため、多賀国府より『黒河』を経て玉造郡に赴いた(『吾妻鏡』同年八月一四日条)。同書の翌建久元年(一一九〇)一〇月五日条にみえる源頼朝下文に『宮城・名取・柴田・黒河・志太・遠田・深田(谷)・長世・大谷・竹城是也』とあり、黒川郡と大谷などに国司厩佃(国司の馬屋を維持するための直轄田)が置かれており、『郡郷新地頭』に国務・国事の任務遂行を命じている。なお大谷は国衙領大谷保で、郡東部の大郷町一帯の地域。またこの下文は〔陸奥留守職〕伊沢(留守)家景の要請にもとづいて交付されており、かつ『留守家景可問先例於在庁也』とあるので、家景は在庁の協力のもと新地頭などの統括にあたったことがわかる。
 黒川郡地頭は『奥相秘艦』に、奥州合戦の軍功により『千葉東六郎大夫黒川郡』とあり、千葉介常胤の六男東頼胤が補任されたことになっている。
 その後は北条氏に黒川郡地頭職が掌握された。大和町宮床にあった信楽(しんぎょう)寺や鳥屋〔清水谷〕にあったという半福寺とその近くの清水谷には、北条時頼の廻国伝説が伝えられている。」(『日本歴史地名大系』)
奥州総奉行
奥州総奉行、奥州惣奉行とは、文治5[1189]年9月22日、源頼朝が文治五年奥州合戦の戦後処理のために任じた臨時職。守護相当の職制と考えられるが不明な点も多い。奥州合戦に功のあった下総国の住人葛西清重が任じられた。北条時政によって文筆能力を買われ、その推挙によって御家人となった京都出身の伊沢家景もしばしば『奥州総奉行』のひとりと見なされる。(中略)
 〔大河〕兼任の乱[1189]以前の葛西氏の地位を明確に『奥州惣奉行』と記した史料は存在せず、可能性としては、伊沢・葛西両氏がならびたつ段階になってはじめて両者の通称として『奥州惣奉行』なる概念が発生したとも考えられ、また、葛西氏の子孫が先祖の名誉を誇って主張するようになったのではないかとも推測される。
 いずれにせよ、葛西氏は平泉の、伊沢(留守)氏は多賀城にあった既存権力のかかわりから現地支配を進めていったものと考えられる。平泉と多賀城の両所は、特に鎌倉時代初期の奥州にあってきわめて重要な役割を果たしたのである。」(Whikipedia「奥州総奉行」
陸奥国留守職留守氏
「国司のいない国衙は、留守所と呼ばれ、(中略)在庁官人はこれらの部署に所属して実務に従事していた。」(Whikipedia「在庁官人」
「文治6年(1190年)3月には吏僚的な御家人である伊沢家景陸奥国留守職が任命され、宮城郡多賀国府(宮城県多賀城市)へ赴任して奥州に住し、(中略)前[1189]年12月に出羽国北部(秋田県地方)で起こり、鎮定に3か月を要した大河兼任の乱では陸奥国留守所の長官(本留守・新留守)がともに大河兼任に与力したため、この機会に留守職交替をおこなったものでもあった。家景の、この留守職任命も奥州総奉行任命と見なされることがある。(中略)家景は『鎌倉殿』の意のままに陸奥国衙を統制して国務全般をとりしきる権限があたえられた。家景はまた、建久年間(1190年-1198年)より宮城郡岩切(仙台市)に岩切城を築き、(中略)」(Whikipedia「奥州総奉行」)「家景の子・家元以降留守氏を称す。子孫は代々岩切城を拠点に活動したが、陸奥国内の大半が北条氏の所領となると留守職は次第に形骸化していく。 南北朝時代においては、当初は南朝方として活動し、元弘3年(1333年)9月北畠顕家より陸奥諸郡の奉行に任ぜられたが、建武3年(1336年)1月に顕家が義良親王を奉じて霊山へ移ると、他の奥州諸勢力と同様に北朝方に転じた。観応2年(1351年)に観応の擾乱が勃発すると、留守家冬は足利尊氏方につき、岩切城に畠山高国を迎え入れて足利直義方の吉良貞家と戦うが、岩切城は陥落する。この敗戦によって留守氏は壊滅的打撃を被り、吉良方に加勢した国分氏に所領の多くを切り取られてしまった。これ以降、両者は宮城郡の支配権をめぐり長きにわたって争うことになる。
 のちに奥州探題大崎氏の介入を受けた留守詮家が切腹に追い込まれると伊達氏に救援を請うが、その代償として伊達氏から次々と養子を送り込まれ (14代郡宗・16代景宗・18代政景)、16世紀前半までには、次第に伊達氏の傘下へと組み込まれていった。
 天正18年(1590年)、第18代の留守政景は小田原征伐に参陣しなかったことから、奥州仕置によって留守氏は本領を没収され、以後は甥の伊達政宗に仕えた。
 文禄2年(1593年)、磐井郡二桜城主となっていた政景は、伊達姓を与えられ一門の家格に列した。この後、政景の家系は一関城主・金ケ崎城主を経て、寛永6年(1629年)政景の子・宗利が胆沢郡水沢城主となり、以降幕末まで同地を治めたことから、同氏は水沢伊達氏と呼ばれる。」(Whikipedia「留守氏」
国分氏
 東北一の歓楽街「国分町」に名を遺す「国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族である。(中略)江戸時代の系図によれば国分胤通が鎌倉時代に宮城郡国分荘を領したのが初めだが、長沼氏の僧が婿に入って創始したとの伝えもあり、正確なところは不明である。南北朝時代に現れる国分氏は藤原姓で、国分寺郷を領し、戦国時代には近隣の土豪を従えて宮城郡南部から名取郡まで勢力を伸ばした。居城としては千代城(仙台城の前身)、小泉城(若林城の前身または近接地)、松森城が伝えられる。北で留守氏と対抗し、南で伊達氏に面して和戦があった。(中略)
 国分胤通が陸奥国の国分荘を得たことを記すもっとも古い史料は元禄16年(1703年)成立の『伊達正統世次考』である。陸奥国の国分氏に関する系図はこれと同じく、平氏の流れをくむ千葉介常胤の五男、国分胤通が奥州藤原氏討滅時の戦功により宮城郡国分荘を賜ったことを起源とするといい、『封内風土記』など地誌類の記述も同じである。(中略)
 観応元年(1350年)から翌2年(1351年)の岩切城合戦で吉良貞家に味方して、勝利した。『奥州余目記録』は、敗れた畠山国氏についた留守殿が負け大将の味方で分限を下げたと述べるとともに、別のところで、国分は勝ち大将の味方を致し威勢を増したと記す。(中略)
 戦国時代に国分氏は近隣の小さな武士を服属させて、現在の仙台市都心部と周辺から、北は松森、山村(以上現在の仙台市泉区)、西は芋沢、愛子、熊ヶ根、作並(青葉区西部の旧宮城町地区)まで、宮城郡南部を支配した。その一族・家臣には、郷六氏(森田氏)、八乙女氏、北目氏、南目氏、朴沢氏、鶴谷氏、松森氏、秋保氏、粟野氏、古内氏、坂本氏、白石氏、堀江氏があったという。
 (中略)留守氏は、国分氏に奪われた領土の奪還のために大崎氏の力を借りるべく、大崎の当主持詮の弟直兼を招いて居城岩切城を明け渡した。直兼は留守氏のためには働かず、かえって国分氏の婿になって宮城郡から名取郡に及ぶ自己の勢力を築こうとした。不満を抱いた留守氏は持詮に訴えて直兼を追放した。
 伊達氏の記録によれば、国分盛行伊達成宗と応仁元年(1467年)から文明4年(1472年)までの間に3度戦ってようやく和睦した。(中略)伊達氏で天文の乱(1542年 - 1548年)が起きると、国分宗綱は稙宗側につき、晴宗についた留守景政と天文11年(1542年)11月に松森で戦った。ここまでの国分氏は、伊達氏の強い影響下にあったものの、家臣ではなかった。
 天正5年(1577年)に、国分氏は伊達晴宗の子、輝宗の弟にあたる伊達政重を「代官」に迎えた。(中略)後に政重は国分盛重と名乗り、国分氏家臣団を率いる伊達氏の武将となった。盛重を迎えたのは家臣の堀江掃部允であったが、天正15年(1587年)に堀江伊勢守(同一人物説もある)が2度にわたって反乱を起こした。最初は留守政景の援助で鎮めたが、再度の反抗で伊達政宗は堀江の肩を持ち、盛重を討とうとした。盛重は謝罪して許されたが、政宗の居城である米沢に留められ、国分領に政宗の支配が直接及ぶようになった。
 天正18年(1590年)までに、留守政景も国分盛重も実質的に伊達政宗の武将になっており、その年に政宗が豊臣秀吉に降伏すると同時に主君を通じて間接的に秀吉に服属したはずであった。しかし秀吉は奥州仕置で留守氏だけを独立した大名とみなし、不服従を理由に取り潰した。国分氏は伊達氏の家臣とみなされたおかげで存続したが、慶長元年(1596年)に盛重が出奔して佐竹氏に身を寄せたため、大名としての国分氏は滅んだ。国分の家臣は伊達氏直属になり、慶長5年(1600年)には国分衆として一部隊をなし、最上氏への援軍に加えられた。彼らの一部は江戸時代にも国分氏に仕えていた頃の伝統を引き継ぎ、白山神社の祭礼に奉仕した。旧臣の中には、百姓になって土着したもの、町人になって新しく作られた仙台の城下町に移り住んだものもあった。 盛重の実の男子は3人あり、うち2人は僧になってそれぞれ実永、覚順房宥実と名乗った。1人は伊達氏の家臣古内氏の養子に入り、古内重広として近世初期の仙台藩政を支えた。
 盛重とその養子からなる子孫は伊達氏を名乗って代々佐竹〔義宣の母は盛重の姉〕氏に仕え、秋田伊達氏となった。(中略)
 また、「三百藩家臣人名事典」では国分姓を嫡子以外の男子に伝えたとある。」(Whikipedia「国分氏」
南北朝争乱
「鎌倉幕府滅亡ののち、郡内の北条氏関係の所領は元寇没収地に指定されて、ことごとく没収された。
 建武三年(一三三六)十一月九日の高師直直奉書(諸家系図)に『陸奥国黒河郡内南迫山実顕、北迫渋谷平四郎・児玉小太郎・同次郎五郎末跡地頭職』とあり、北条氏一門および得宗領被官人らのもっていた地頭職は没収され、三浦氏に宛行われている。南迫は吉田川支流西川流域の迫で、北迫は同じく支流の鶴田川流域の迫をさし、渋谷氏らはこれら地域に村地頭職をもっていたのであろう。
 建武二[1335]年三月二五日付〔鎮守府将軍〕北畠顕家袖判下文(相馬岡田文書)によると、相馬五郎胤康が『当郡新田村相馬弥五郎行胤跡』を与えらえれている。新田村は大和町宮床付近をさす。胤康はのちに足利方に属して顕家軍と戦い戦死している。
 翌三[1336]年九月二〇日付足利尊氏下文(宝翰類聚)によると、三浦貞連の遺族に黒川郡南迫・北迫の地頭職が与えらえれている。
 感応元年(一三五〇)五月日の〔奥州留守職〕留守家任申状では、北畠顕家方に属していた留守家任が足利方に寝返って、〔奥州総大将〕斯波家長より『黒川郡南迫内〔北条〕時村女子跡』を預け置かれた。文和三年(一三五四)には〔奥州管領〕石塔義憲より『黒河郡南迫』が兵粮料所として相馬頼胤に預け置かれている(同年六月一日『石塔義憲預ケ状』相馬文書)。
大谷保(郷)
 一方、大谷保の地頭については、承元二年(一二〇八)四月一三日の菅原某譲状に『大谷保内みやけの村』とあり、以後永仁三年(一二九五)三月一五日付菅原幸信譲状までの大谷保三宅村(現大郷町味明)地頭職をめぐる九通の田代文書中の手継文書によって、菅原姓伊佐氏が代々相伝していたことが知られる。しかし、地頭職が幸信の代に田代顕綱に渡って以降は不明である。」(『日本歴史地名大系』)
陸奥将軍府
陸奥将軍府とは、1333年(北朝の元弘3年)に後醍醐天皇が京都で開始した建武の新政における地方統治機関である。廷臣の北畠親房北畠顕家親子が、義良親王(後の後村上天皇)を奉じて陸奥国の国府・多賀城に下り、東北地方(陸奥・出羽の2国)および北関東(の3ヶ国)を管轄。建武政権の統治機構を指す。(中略)
 1333年、後醍醐天皇の倒幕運動に応じた足利尊氏新田義貞らの活躍で鎌倉幕府は滅亡し、京都で建武の新政が開始される。足利尊氏は6月に鎮守府将軍に任命、奥州の北条氏旧領の地頭職などが与えられ、奥州における足利氏の勢力が強化された。
 同年10月、親房の子の北畠顕家が陸奥守鎮守大将軍に任命され、後醍醐天皇の皇子である義良親王を陸奥太守として推戴して陸奥国国府の多賀城へ出立した。(中略)
 北畠顕家に与えられた権限は非常に強く、後醍醐天皇に一元化されていた恩賞充行の権限も陸奥国については顕家に一任され、天皇が宛行する例外は他ならぬ顕家自身と顕家と同じく建武政権の重鎮であった白河結城氏の結城宗広のみとされた。また、顕家は陸奥守として国宣を発給し、政所、侍所、引付衆をはじめ公卿や在地の武将からなる式評定衆を置いて、鎌倉幕府の職制を模した小幕府としての支配基盤を築いた。
 奥州の有力地頭である南部政長や、結城宗広、伊達行朝らの勢力を糾合し、1335年に顕家が鎮守府将軍を兼ねると軍事権も強化され、足利氏の代官たる斯波氏と競合していった。
 12月、足利直義が相模守に任命され、成良親王を奉じて鎌倉へ赴き、鎌倉将軍府が成立する。鎌倉将軍府は建武政権の一機関としての性格を持ちながらも、新政から距離を置いていた尊氏にとって、関東における足利氏の勢力基盤を敷く大義名分となり、さらに1334年11月には、尊氏の政敵であった護良親王が失脚して鎌倉に幽閉され、尊氏の地位が優位となる。
 7月、信濃国で北条氏の残党が蜂起して、鎌倉を奪還する中先代の乱が起こると、尊氏は救援に向かった後に鎌倉に留まり、帰京を拒否する。足利勢が追討に派遣された新田義貞らを撃破して京都へ進軍すると、顕家は義良親王とともに陸奥を出立し、鎌倉で斯波家長を討ち、義貞と連携して足利勢を駆逐し、1336年3月には陸奥へ帰還する。
 1337年(延元2年)、足利方の攻勢により国府を霊山〔りょうぜん〕(福島県相馬市および伊達市)に移転。その後も9月に武蔵国児玉郡浅見山に出兵するなど、足利方との一進一退が続く。
 尊氏は九州落ちした後に東上し、持明院統の光厳上皇を治天に擁立すると、後醍醐天皇は吉野に逃れ、これに対抗した(南朝・吉野朝廷)。顕家は南朝の武将として各地に転戦し、1338年5月に戦死する。このため、同年閏7月に弟の北畠顕信が陸奥介兼鎮守府将軍に任じられて父の親房・結城宗広とともに伊勢国大湊から海路陸奥を目指すが、途中で暴風雨に遭遇して伊勢国に引き返すことになる(父・親房は常陸国にたどり着く)。顕信は再度陸奥行きを志し、1340年6月に陸奥に入国することに成功する。1343年、父の親房が関城・大宝城〔茨城県筑西市・下妻市〕の戦いに敗れて吉野に逃れた後も、顕信は陸奥に留まり、北朝が1345年に設置した奥州管領と争う。だが、1347年には霊山などを北朝方に奪われて苦境に陥る。その後、観応の擾乱に乗じて再起を図るが、1353年5月に最後の拠点であった宇津峰城が陥落すると事実上崩壊した。
 親王太守と北畠顕家の威望によって陸奥将軍府は奥羽における南朝方の柱として機能したが、1338年(延元3年)の顕家の戦死後は振わなくなり、幕府方の奥州管領・奥州探題として送り込まれた吉良氏、石堂氏、畠山氏、石橋氏、斯波氏らによって指揮された足利方の勢力によってに圧倒され、多賀国府も追われることとなり、奥州将軍府はその実を失ってしまった。」(Whikipedia「陸奥将軍府」
奥州総大将
奥州総大将とは、南北朝時代における幕府の地方官制である。守護に代わって設置された。
 元弘3年、建武政権は陸奥国司に北畠顕家を、出羽国司兼秋田城介に葉室光顕を任命する。建武2年(1335年)には北畠顕家が鎮守府将軍も兼務し、義良親王(後村上天皇)を奉じて陸奥国府に陸奥将軍府と呼ばれる支配機関を創設した。
 しかし、建武2年(1335年)の中先代の乱を契機に足利尊氏は建武政権に反旗を翻し、建武政権は瓦解した。尊氏は奥羽の足利氏所領を管理していた斯波家長を奥州総大将に任命し、陸奥国と出羽国の軍事指揮権を与えた。尊氏は上洛するが、子の義詮を残す。斯波家長は義詮を補佐するため執事も兼任することとなった。
 北畠顕家の陸奥将軍府は、有力武士に各郡の郡奉行として守護並みの権限を与えるなどの政策を採り、奥州の武士から広範な支持を取り付けた。そのため、斯波家長の奥羽に対する支配は遅々として進まず、延元2年/建武4年(1338年)には鎌倉で顕家率いる奥州軍に敗れて戦死してしまう。
 同年、石塔義房が専任の奥州総大将として奥州に派遣される。義房は、陸奥将軍府から二階堂氏などの実務官僚を引き抜いたり、郡検断職として既得権限を公認するなどして次々と有力武士を味方に引き入れ、国府を奪還する。」(Whikipedia「奥州総大将」
奥州管領
「貞和6年(1345年)畠山国氏吉良貞家奥州管領に任命され、奥州総大将は廃止された。当時幕府内は観応の擾乱前夜で、畠山国氏は尊氏・師直派で、吉良貞家は直義派であった。二人の共同統治で軍事と民政などの分掌は行われなかった。(中略)
 観応2年(1351年)、前年尊氏派と直義派の武力衝突で勃発した観応の擾乱が奥州まで飛火し、吉良貞家は畠山国氏が篭る岩切城を攻め、敗れた国氏とその父高国・弟直泰は自害したが、国氏の子二本松国詮は二本松に移り奥州管領として執務をしている。その子孫はそのまま二本松に土着した(二本松氏)。
 畠山国氏の敗死により、尊氏派の諸氏は失脚した。また、その混乱に付け込み、南朝の北畠顕信が国府を攻撃して奪取した。吉良貞家は反撃して国府を奪回するも、文和2年(1353年)に死亡する。子の吉良満家が奥州管領職を世襲した。そこに先の奥州総大将石塔義房の子義憲(義元)が奥州管領を自称し、活動を開始した。また、斯波家兼も奥州管領に任命されて下向する。これにより、同時に奥州管領を称する吉良満家・二本松〔畠山〕国詮・石塔義憲・斯波〔大崎〕家兼の4人が並立することとなった(四管領時代)。さらに吉良満家の弟、吉良治家を討つために〔塩松〕石橋棟義も下向〔奥州総大将〕し、血みどろの抗争を繰り広げることになる。その抗争の中、次第に斯波家兼が優位に立ち、その他の3氏は逼塞していった。」(Whikipedia「奥州管領」
奥州探題
「元中9年(1392年)、室町幕府3代将軍足利義満は鎌倉公方足利氏満と和解し、陸奥、出羽両国が鎌倉府の管国に加えられ、奥州管領職は廃止された。陸奥、出羽の国人も鎌倉府への伺候を義務付けられる。
 応永6年(1399年)、鎌倉公方足利満兼満貞満直の二人の弟を稲村御所篠川御所として下向させた。しかし、この頃から将軍と鎌倉公方の関係はかなり悪化しており、幕府は関東や奥州で鎌倉府時代と対立している有力国人を京都扶持衆として直臣化して鎌倉公方に対抗した。
 応永7年(1400年)には大崎詮持奥州探題に任命したという。以降大崎氏が世襲する。大崎氏は奥州管領などを務めた斯波氏の末裔であり、鎌倉府を牽制する意図があったとされる。
 しかし、もともと奥州では有力国人が各郡の軍勢催促、軍忠状証判・注進、使節遵行など守護並みに強い権限を持っている上に、南半は鎌倉府の分身である笹川・稲村御所に押さえられ、内にも伊達氏や蘆名氏などは京都扶持衆として幕府と直接結びつき、強力な支配は不可能であった。それらの有力国人は、自己が支配する各郡を領国化し、次第に戦国大名化する。それに対抗するために大崎氏も自己の直接支配領域を領国化し、一有力国人へと零落していった。
 大永11年(1514年)、伊達稙宗陸奥国守護職に任ぜられた。これにより、大崎氏が世襲する奥州探題制は無力化し事実上終焉する。その後伊達氏は大崎氏を武力で圧倒して支配下に置くようになる。
 戦国時代にも幕府の形式的な職として存在し弘治元年(1555年)には稙宗の子・伊達晴宗が奥州探題に任じられた。室町幕府滅亡後に当主となった伊達政宗(晴宗の孫)も奥州探題を自称した。天正18年(1590年)、政宗は豊臣政権に臣従して奥州探題の称号を返上し、一方、臣従を表明しなかった大崎氏は豊臣秀吉によって攻め滅ぼされた。これによって奥州探題制は名実ともに終焉した。
 また、斯波家兼の子斯波兼頼は正平年間(1346年 - 1369年)ごろに出羽国按察使として出羽に下向したという。後に羽州探題と呼ばれ、子孫は最上氏と称した。」(Whikipedia「奥州探題」)」
黒川氏
「中世後期の郡内領主は『余目記録』によると、大谷保は南北朝期に〔奥州探題〕大崎氏・〔奥州管領〕吉良氏を経て、一六世紀初め頃に〔奥州留守職〕留守氏と交替し、羽生(現大跡〔郷〕町)に留守氏を神主職とする塩竈神社領のあったことが知られるが、大谷保を除く大部分は戦国期の混乱を乗切った黒川氏の支配に属し、大谷保は留守氏・黒川氏・〔奥州惣奉行〕葛西氏・大崎氏などの勢力均衡地帯であったとみられる。
 黒川氏は『伊達正統世継考』に『黒川源氏未詳其出自、或曰鎌倉管領足利左兵衛督基氏卿之子孫也、或曰最上第二代右京大夫直家之三男、氏直始称黒川是也、世々領黒川郡因為氏』とある。室町期には総郡主職を把握したものの、奥州探題大崎氏と新興の伊達氏の間にあって勢力を伸長できず、ついに伊達氏に併合されてしまった。」(『日本歴史地名大系』)
 (以降は「第五章第一節 藩政時代の黒川郡」参照)




(続く)


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