奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌─「幻の勿来関」と黒川郡の古街道(2)-2
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第二節 別所街道(鳥屋街道)・"お薬師様"黒川袖振薬師・黒川・黒川橋
 大平、清水谷から松田橋を渡り鳥屋に至った東山道は、宇頭山を越え、別所から下草を経て舞野へと、「別所街道」〜「下草街道」をたどる。
◯鳥屋(とや)
 さて、鳥屋はまことに古い集落で、鶴巣の母なる「西川(ヌスカワ)」に面して「別所丘陵」東斜面に開けた絶好の地形に恵まれ、古墳時代後期に造られた、郡内に二つしかない県指定史跡の最初の一つ「鳥屋八幡古墳」と、「鳥屋窯跡」等がある。
 「南からの西川と東南からの鹿川(小鶴沢川〔小西川〕)がここで合流し、北流して吉田川氾濫原の黒川耕土に出る。(中略)地内に古代遺蹟の多いことから 黒川郡内の要地と思われる。中世は黒川郡南迫の東辺に位置し、鎌倉末期まで北条得宗領、戦国期の十五世紀後半頃から黒川氏の所領となって十六世紀末まで支 配したとみられる(大和町史)。」(『日本歴史地名大系』)
鳥屋八幡古墳
 
鳥屋と別所を隔てる宇頭(うとう)山62.4m の「高さ約50mの丘陵尾根上に築造されたもので、現在2基が確認されている。径14〜18m、高さ3m前後の円墳である。昭和41・42(1966・ 67)年に調査が行われ内容が明らかになっている。内部主体はいずれも横穴式石室で、(中略)出土遺物は土師器・須恵器・現珀玉・金銅製品などであり、古墳時代後期の築造と考えられる。」(宮城県HP)
鳥屋窯跡
 「鳥屋高塚古墳群のある段丘の西側(中略)の南傾斜面に(中略)設置せられたものと見られる。(中略)
 形式上は、(中略)地上式天井架構の平窯跡と称すべきものである。さらに注意すべきは、(中略)各種の須恵器が生産品として発掘せられている点である。」(『大和町史』)
宇頭坂・宇頭山
 鶴巣最大の交通難所・天神山(テンズンヤマ) の天険を横目にみて、いずれも同期の旧姓遠藤照美さん・旧姓阿部きよ江さん実家辺から、旧姓佐藤喜巳雄君・旧姓遠藤啓子さん実家辺にかけた「宇頭〔うとう〕坂を過ぎ〔て直進し〕別所に入」るこのなつかしい山道は、今にして思えば、幼時母や妹らと黒川沿いに黒川橋を渡り、宮田(みやだ。下に述べるように、鳥屋八幡の社田に由来しよう)の旧墓地を経てようよう宇頭山の峠を越えて、今や我が亡妻の安らかに眠る祖宗墳墓の地、菩提寺・玉泉寺(トヤノオデラ、小5担任長谷川孝先生旧宅)まで墓参に通った、思い出のしみ込んだ道である。そしてこの細道こそは、時代に取り残されかろうじて現代に遺った、希有な古代東山道(奥大道)そのものだったのだ!
鳥屋庄
 「天正十九[1591]年(十八年か)九月十六日の黒川之内鳥屋庄検地帳(伊達家文書)によれば、記載範囲名は『とや・ 宮田・まちた・まちの下』等二十七ヵ所あり、(中略)名請人に帰農の武士名を思わせるものが多くみえる。鳥屋庄の表題は庄名ではなく、一般地名呼称かとの説もある(大和町史)。
 慶長九年(一六〇四)から寛永十一年(一六三四)まで〔吉岡〕伊達宗清の知行。のち後藤・白石氏などの知行地となる(伊達世臣家譜)。」(『日本歴史地名大系』)
天神館(天神城)
 天神館(天神城)は、「黒川郡大和町北目大崎字天神山〔/鳥屋宇頭山〕(旧鶴巣村)(中略)
 高さ五〇米の雑木山。東側が最も高く、東端の部は今は土取場をのぞむ断崖となる。城郭は山岳部一帯に構えられ、ここよりの四周の眺望はまことに絶佳、視野をさまたげるものは何もない。
 城郭は稜線上の東寄りに見られ、東西八〇米、南北二十米ほどの細長い平場が本丸となった所らしく、西北面一帯には土塁、その外周には北、西、南三面ともに空壕がくまなくめぐる。東面はきびしい断崖に終る。
 本丸を包み込む形に一〜二段の壇も見られる。また本丸の東端には古墳らしい土の堆積が見られ、まわりには周湟らしい窪みが確認される。しかし、惜しむらくは盗掘された気配がある。
 大手口は東南部の角の部についていたようで、土塁の並びなどから推定できる。
 一方、西側へ回ると更に山の背を包み込む形にはしる空壕の連なりが見られた。往古の遺構かどうか断定できないが、注意すべきであろう。
 『仙台領古城書上』に『天神城』として、東西三十四間、南北十四間。一段下がり、東南引き回し、長さ七十九間、横二十間の地形あり。西一間山続き、幅二間の堀切あり──と、その要害振りを伝えている。
 館主不明。」(『仙台領内古城・館 第三巻』)
 大崎・鳥屋にまたがる天神山(テンズンヤマ)で、別所丘陵が鋭く西川にせり出した天険の懸崖、交通難所(自転車通学の”心臓破りの坂”)、峠の鳥屋・同期辺見宏君実家裏山にあたる。が、西は黒川沿いに別所境岩堰(イワジギ)の同期藤倉靖君実家(通称松根油(ショコイ))前まで、大崎分はご多聞に漏れぬ山砂採取で城跡もろとも丸ごと山が無くなってしまった!
 まったく、我々の世代はいったい何を遺したのだろう?
法宝山玉泉寺
 「鶴巣村鳥屋字井戸田にあり
    臨済宗 妙心寺派
 本尊 観世音  本山 山城国西京妙心寺
 由緒 創立年代不詳開山は特賜夢窓心宗普済猷仏統大円国師なり境内〔の池泉〕に弁天堂あり又曰く何時の頃にか吉岡香積山天王〔皇〕寺の末寺たりしを妙心寺の直末となれりと〔今は長谷川先生の夫君が僧籍に入らず移転して無住となり、天皇寺の末寺に復している〕」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十六番札所
 次に述べるように、我が澤田家を始めとする別所猪狩系三家の菩提寺である。

 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十六番鳥屋村玉泉寺 おのつからきよきこゝろにすむ月は たまはいつみのかけうつるなり♪
鳥屋八幡神社
 鳥屋八幡神社は、社殿の構え及び鳥屋の歴史、地政学に鑑みて相当の由緒を持つはずだが、『黒川郡誌』始め文献上の記録がほとんどない。
 「主祭神 誉田別尊 例祭日 春例祭4月15日、秋例祭9月15日(中略) 由緒 不詳。明治5(1872)年村社に列す。」(HP「宮城県神社庁」)
 「村鎮守は天ケ沢の八幡神社で、同所に神明宮も祀られ、別当はいずれも町田屋敷の羽黒派修験長円坊がつとめた。」(『日本歴史地名大系』)
 なお、後述する黒川神社の神輿は、神仏分離後、荒れ神輿の元祖である鳥屋八幡神社から分祀されたものだと聞いている。
長円坊
 「寺跡鶴巣村鳥屋町田
  羽黒派
 本山 羽州羽黒山華蔵院
 由緒 権大僧都一丈院春光の開基なれども其年代を詳にすること能はず鳥屋八幡社の別当たり後退転して伝はらず」(『黒川郡誌』)。
明治鳥屋村の変遷
 明治維新後鳥屋村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、後述するように、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡鳥屋村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡鳥屋村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第五小区鳥屋村
  第五小区 桧和田 北目大崎 鳥屋 大平
   四ヶ村 二等戸長 千坂藤右衛門  副戸長 佐々木久四郎 高橋運治
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区鳥屋村
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區鳥屋村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
鳥屋村管掌小学校の変遷
 後述するように、「明治六(1873)年(中略) 北目大崎(中略)村に(中略)小学校〔北目大崎小学校、桧和田・北目大崎・鳥屋・大平〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院〔大崎山智光院〕を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝八[1875]年八月新築
 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが〔、鳥屋はこれに属せず鶴巣小学校本校管轄となる。〕(『黒川郡誌』)
鳥屋の藁筵
 「藁細工は農家一般の副業にして自家の用一切を弁じ来りしも物産として他に移出するものは鶴巣村鳥屋の藁筵なりとす毎戸是を製造し広く販路を開き北海道方面まで移出し居れり」(『黒川郡誌』)。
 ♪砂金の沢を横に見て 北目大崎鳥屋とかや♪(「黒川願人節」)
 ♪鳥屋かく砂金沢 あったけど ヨイヨイ♪(「鶴巣節」)

◯別所(スサキ〔洲崎?〕)
 古代黒川郡東山道(奥大道)は「鳥屋の宇頭坂を過ぎ〔、宇頭山を越えて〕別所に入り」(『下草郷土誌』)、宮田の旧墓地を経て黒川橋に至り、黒川を越えて”お薬師様”黒川袖振薬師門前に達する(別所道、別所街道)。
 さて、 別所は 私の生まれ在所で、これまたまことに古い集落である。今日では文字通りのどかな山里の隠れ部落に過ぎないが、往古は鳥屋と駅家郷・下草を結ぶ古代官道・東 山道(奥大道)の要衝であり、古代から近世に至る一千有年の永きにわたり”お薬師様”の門前町として栄えた、「北目」ひいては「北目大崎」の中心地であっ た。
勝負沢遺跡
 1976年、別所西南部の勝負沢を縦貫する東北自動車道を建設に際して、北陵に縄文中期の勝負沢遺跡が発掘され、出土した多数の巨大な縄文土器などは、『大和町史』等に数多く掲載された。
 当時たまたま帰郷していて発掘現場を通りがかったのだが、いまだ若く今日ほどの関心もなかったので、ついつい素通りしてしまった。今となっては、返す返すも残念なことである。
 それからしばらくして初めて多賀城の東北歴史博物館を訪れると、思いもかけず、ちょうどこれらの縄文土器の巨大な現物が(ともに『大和町史』に大きく取り上げられている「御所館八谷館模型」などとともに)華々しく展示されているのを目のあたりにするに及び、改めて大きな驚きと感慨にとらわれた。
日光山遺跡・日光山西小塚
 また、『全国遺跡地図宮城県』(文化庁文化財保護部,1978)に、黒川を挟んだ勝負沢遺跡の北対岸、東北道日光山の辺にも、
 「日光山遺跡 墳 墓・祭祀跡 北目大崎日光山」
 「日光山西小塚 塚 北目大崎日光山」
と記録されている遺跡があった。これらはおそらく上記勝負沢遺跡と一体のもので、開発によって共に破壊されたのだろう。
”エゾ穴”別所横穴古墳群
 ”お薬師様”黒川神社境内東古池のやや東の山裾に、「別所横穴古墳群」・俗称”エゾ穴”がある。
 「平安初期にまで及ぶ古墳時代末期の葬制を示すもので、遺品が簡素な実用品に限られていることから、在地下級官人の家族墓と考えられている(大和町 史)。」(『角川日本地名大辞典』角川書店)「横穴墓は五基、鉄製の鑿をもって開削したと認められ、ほぼ等大の墓室で前庭部を共有している(同書〔大和町 史〕)。」(『日本歴史地名大系』)
 父らの世代迄はエゾ穴の存在も周知のことだったが、私らのこどものころには既に忘れられ去られていた!
 地政学上一般に松島丘陵の北斜面に位置する鶴巣域にあって、唯一日光山丘陵南斜面に位置する(部分的には大崎、石の沢、太田、小鶴沢の一部と共に)「別所沢」は、たおやかな「別所丘陵」の胎内に深くまどろんで名物の”船形下ろし”も届かず、むせ返る緑の豊かな山野に鳥獣を狩り、おだやかな「黒川」の ほとりに漁(すなど)りし、南斜面のまばゆい陽光に日がな一日日なたぼっこしているような、深く外界から隠された別世界であり、古代人にとってもさぞか し住み良い理想郷、文字どおりの桃源郷であったろう。そこに暮らした古代人とは、あるいは、エゾ穴の俗称どおり、アイヌ民族だったかもしれな い………
照節沢エゾ穴
 なお、照節沢(ショセッツァ)」・北目谷津(ヤヅ)境尾根の南斜面中腹にも、「照節沢エゾ穴」がある。前面には我が澤田家の主君猪狩氏の氏神が祀られており、少年時代同期相澤力君らと探検したものだ。
別所三角田南窯跡
 「黒川橋」の南をえぐる樅の木沢(モノギザ)山中には、「鳥屋〔正しくは別所〕三角田南窯跡」(三角田は別所の字)がある。
 上述の鳥屋窯跡の 宇頭山反対斜面、「標高約六〇メートルの丘陵南斜面に立地。須恵器を生産した窯跡で、これまでに調査された二基は、ともに廃水施設をもつ地下式無階無段の 窖〔あなぐら、こう〕窯であり、焼成部・燃焼部・焚口・前庭部・灰原よりなる。焚口から焼成部奥壁までの長さは、一号窯で約三・五メートル、二号窯では約 四・八メートル。遺物には坏〔つき〕・坏蓋・壷・甕などがある。窯の構造や遺物などから八世紀前半に営まれたものと考えられる。」(『日本歴史地名大 系』)
別所遺跡
 なお、上記『全国遺跡地図宮城県』には、縄文晩期の「別所遺跡 散布地 北目大崎別所三角田囲」の記述もあるが、どこに該当するのか不明である。
 ちなみに、「三角田囲」は、我が家と黒川の間にあった三角形の水田(冬場には”かまくら”を作って遊んだものだ)に由来すると思われる。「三角田北」は我が家1軒を含む黒川以北の狭い囲で、「三角田南」は十石原中米誠一宅1軒を含む黒川以南の途轍もなく広大な囲である。
 東の家から音羽久(同期旧姓音羽美枝子さん旧)宅までは「照節沢囲」、旧カミの家から音羽武彦宅までは「日光山囲」で、以上で集落の囲は全てである。
黒川
 「別所の沢中央を流れる小川を黒川と称し、黒川に架せるを黒川橋と称えたり。現在は中米長蔵氏宅の六丁程前方の様にうかがはる。」(『下草郷土誌』) このこともまた、こども時代はもちろん、近年までまったく知らずにいた!
 「黒川(クホガワ)」は別所沢の母なる川で、圃場整備前は沢の中央を貫流して”お薬師様”門前を流れていた。一見ありふれた小川に過ぎないが、黒川橋、黒川坂の謂われに鑑れば、実は「黒川郡」名発祥の元となった(説もある)由緒ある名流だった(、かもしれない)!「黒川」のほとりに生まれ育ちながら、ついぞ我々の世代までは伝わらなかった、ゆかしい故事である。
 高森山・具足沢を源流とし、三角田の我が家辺りまでおおむね別所沢北陵寄り、岩堰までは沢の中央を、岩堰で北陵の断崖を洗って、以降再び沢中央をゆるや かに蛇行し、身洗い沼で西川に注いだ。三六沢辺りまでは用水の体裁で、以降小川らしくなる。三六沢の合流点、”須崎”の我が家前、岩堰に計3つの堰があっ た。
 フナッコ、ドンジョ、ビラッコ(タナゴ)、鰻、ナマズ、カヌ、カツカ(ヨシノボリ)、キグバヅ、クギ(ウグイ?)、オイカワ、雷魚など数知れず泳ぎまわ り、思い思いお気に入りの淵々は格好の釣り場だった。メダガ、エビ、アメンボ、水スマス、ゲンゴロ、タガメ、ビッキ、ケンコ(貝)………、”ド”カゲ、エ ンカギ(堰掻き?)、掴み獲り、網スグイ、野火つけ………。トンボが羽を休め、チョウマ(蝶)やスガリ(蜂)が蜜を吸い、ツバメが飛び交い、夏の夜は満天 の天の川の下ホダルが群舞して………。
 ”土手のスカンポ(イタドリ)”、野蒜、モヅクサ(餅草、ヨモギ)、野イヅゴなどの山野草が生い茂り、タンポポ、アザミ、ムラサギツユクサ、ミツパ(クローバー)、ツクシ(ツグス)や名も知らぬ野の花々が咲き乱れて………、真実子どもの天国だった!。
  ♪土手のスカンポ ジャワ更紗 昼は蛍が 寝んねする♪
  ♪夕焼け小焼けの 赤トンボ 負われて見たのは いつの日か♪
  ♪うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川♪
 余談になるが、土手のスカンポはよく食べたが、後年東京ではツクシも食べると知り、驚かされた(ツクシなんて、せいぜいウサギの餌だろう!)。
 現在珍重されているフギノドやタラッポ(タラノ芽)も宝庫だったが、在郷時は食用の知識こそあれついぞ食料の範疇には入らず、実際に食したのは上京後のことである。足しげく通って摘んでいたのはもっぱら他郷の都会人で、総じて農民は自然と闘い、畑のものにこだわって、かえって野生への偏見が抜き難かっ た。
黒川橋(橋本)
 黒川橋(クホガワバス)は、樅の木沢辺に架かる巨大な石板の三枚橋で、周辺一帯は特別に「橋本(ハスモド)」と 呼ばれている。欄干のない裸橋でこれといった特徴はないがなんとなく風情があり、子どもらのかっこうの遊び場だった。分厚い石碑のような板石は、重たく実った稲束を満載した馬車が通ってもビクともしなかった。鬱蒼と草むす淵のほとりには庚申塚など数基の古碑や道祖神が立ち並び、いかにも”境の結界”の風情が漂っていた。
 さもあらん、実はこれこそは、古代官道東山道が黒川郡のへその緒・黒川をまたぐ、古代黒川郡随一の名橋「黒川橋」であり、「橋本」とは正しくは「黒川橋本」の謂だったのだから!
 ああ、子供時代その上で無心に戯れたあの橋本の石橋こそは、実は、原阿佐緒の長男千秋によって「鶴巣音頭」にも謳い込まれた、音に聞こえた天下の名橋「幻の黒川橋」だったのだ!
  ♪向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ 厚い人情のなさけがしみて 星が流れる流れに浮いてよ♪
 ゆかしい「黒川橋」の名こそ絶えてしまったが、黒川橋を偲ばせる「橋本」の地名だけは辛くも記憶されて、その並々ならぬ由緒を今に伝えている。近年の圃場整備前までは現存したが、どうやらかの名橋は無造作に、圃場の下(おそらくは旧川床)に埋められてしまったようだ。かえすがえす、残念至極である!
 惜しむらく、基なる「黒川」の謂われは枯れ果てたり。況(いわ)んや、「黒川橋」を架ける術をや!
 我々の世代はいったい何を遺すのだろう?
”お薬師様”
 さて、別所と言えば、なんと言っても”お薬師様(オヤグッサマ)”である。学童時は伝統的に、鶴巣館と並ぶ小学一年生の遠足先でもあった。
 毎年四月八日(花祭り)の春祭り(オマヅリ)には、北目の同期佐藤今朝治君実家裏の「大窪山(オゴボヤマ)」の沢及び大崎の旧利府街道別所沢入口並びにお薬師様門前の三ケ所の「旗置(ハダオグ)」に長大な祭礼幟を掲げて別所全体に結界を張り、近郷近在にいやあらたかな霊験を鳴り響かせていた(幼時我が家(本家)の座敷をぶち抜いて、我が母らの恩師でもあった日野薫宮司が大幟に大筆で大書していた光景を、鮮やかに記憶している)。
 隔年で北目部落は伝統の「北目神楽(オガグラ)」(同期安藤章悦君らが継承)を奉納し、大崎部落が厳かに担ぐ「荒れ神輿(オミゴッサマ)」(同期高橋春男君らが継承)が"下がる"(中学時代には「子ども神輿」も下がった)のが習わしである。
 参道には祭りの屋台が列をなし、黒川郡一円からの参拝客がひきもきらず、たいへんな賑わいだった。今も昔も、別所集落は丸ごと、黒川郡内随一の名刹”オヤグッサマの門前町”なのである。
 夏休みになれば、神社本殿の回廊で”子供学校”を開き、セミ捕り(シミトリ)、カブトムス・クハガダ・トンボ・チョウマ(蝶)など様々な虫捕り(ムストリ)………。”ベゴ”(蟻地獄)捕り、粘土遊び、チャンバラ、………。
 冬休みには雪合戦、雪だるま、裏山の急坂を無茶な橇滑り(ソリハスリ)などなどなど、春夏秋冬一年中、”オヤグッサマ”に子どもたちの元気な姿が絶えることはなかった。
北目山別所寺黒川薬師
 ”お薬師様”こと「北目山別所寺黒川薬師ノ御事」(『黒川郡誌』)
 「多賀城〔大野〕東人の臣太野〔大野〕三郎左衛門兼則七代の孫黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則 仁和年間(885-889)智澄〔證〕大師〔円珍〕の作にかゝれる薬師の像を当所に祭れるを以って嚆矢となす
袖振薬師
 永承年間(1046-1052)〔東山道ゆかりの名歌勿来桜の故事で名高い、武門の総帥・清和源氏棟梁〕源義家東征に際し尊崇して袖振薬師と稱せり
東方の薬師
 〔黒川郡の戦国大名にして歴史上第一の人物〕黒川晴氏黒川郡を領するに及び特にこれを崇敬して東方の薬師と稱す
 寛文年間[1661-71]より仙台城主伊達肯山公綱村の崇敬ありしを始として藩主の常に尊崇する所なり(中略)
第一号古文書写
 第一号古文書写
 陸奥国舞ノ黒川郡北目山別所寺黒川薬師ノ御事(中略)
 黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(中略)老母是有り北目之スサキ〔洲崎?〕大崎裏西タテ〔館〕と号置候所に 元応〔慶〕五[881]年辛丑年老母死然可則為母の寺を立薬師造進
 然人王〔皇〕五十八代光孝天皇御宇仁和元[885]年甲巳〔乙巳〕四月十六日事初 同八月ヂシャウ太子〔智證大師〕此国御下向赴可則奉願薬師を御作也 但ヂシャウ〔智證〕の御作は右の御目少下り御長け三尺二寸と曰 其時別所寺へ御筆のミャウデン〔銘伝?〕御経納被下〔くだされ〕今別当所持候か
 其後七十一代御〔後〕冷泉院御宇永承五[1050]年辛寅 藤原ノ道長郷〔卿〕 八幡太郎義家御下向の赴袖フリの薬師と崇給也(中略)
 其後八十九代後嵯峨天皇御宇承久[1219-21]報恩寺行海と申出家勧進にて薬師造進(中略) 其後者〔は〕村勧進にて造進也と曰
 右仁和二[886]年より寛永元[1624]年迄七百二十六年なり
     元禄六[1693]年四月吉祥日  山王別当
黒川袖振薬師如来(第二号古文書写)
 第二号〔古文書写〕
 幕府時代旧藩主神仏の御崇敬あり 左の諸社諸堂は奥州陸奥国舞の黒川郡北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来と稱し奉り(中略) 伊達政宗公の御子孫亀千代〔綱村〕公寛文十一[1671]年辛亥四月八日(中略) 元禄十六[1703]年四月八日(中略)綱村(中略) 享保十六[1731]年七月二十二日(中略)吉村公(中略)崇敬あり
 嘉永五[1852]年四月八日(中略)慶邦公御開扉に付仁王堂一宇屋根替し(中略)
 幕府藩主時代に於て寛文十一[1671]年より嘉永五[1852]年壬子年迄百九十三年間(中略)崇敬ありて本堂造修被下 其後村内寄付にて修繕致し候」(『黒川郡誌』)。
「別所」の由来
 永い間、我が生まれ故郷の通称地名「別所」の由来は不明だったが、上記の通り、
 1)黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(中略)老母是有り 北目之スサキ〔洲崎?地形上、たしかに黒川の洲に面した別所丘陵の「崎」(陸の岬)であり、その突端にあるのが我が家である〕大崎裏西タテ〔館〕と号置候所に
 2)元応〔慶〕五[881]年辛丑年老母死
 3)然可則為母の寺〔北目山別所寺〕を立 薬師造進 仁和元[885]年甲巳〔乙巳〕四月十六日事初
 4)同八月ヂシャウ太子〔智證大師〕此国御下向赴 可則奉願薬師〔袖フリの薬師〕を御作也
 「西館」とは、「本館・本所」である「三ヶ内城」(東館)に対する「別館・別所」の謂いで、今日で言えば「別邸」「別荘」「別院」といったほどの意味合いで、「別所寺」創建に際しその命名に援用されたものであろう。
 ところが、「北目山別所寺」は、智證大師が彫り、源義家が名付けた本尊袖振薬師の愛称”お薬師様”を以って通称されるようになり、ついにはもっぱら代称されるに至って、本称「別所寺」は次第に忘れ去られ(別所寺転じて黒川神社となった現代も、事情は同じである)、辛うじて在所集落の通称「別所」にその名を留めた経緯が明らかである!
薬師如来
薬師如来、あるいは薬師瑠璃光如来は、大乗仏教における如来の一尊。薬師(瑠璃光)仏、薬師(瑠璃光)王、大医王仏とも称する。(中略)
 薬師如来は東方浄瑠璃世界瑠璃光浄土と も称される)の教主で、菩薩の時に12の大願を発し、この世門における衆生の疾病を治癒して寿命を延べ、災禍を消去し、衣食などを満足せしめ、かつ仏行を 行じては無上菩提の妙果を証らしめんと誓い仏と成ったと説かれる。瑠璃光を以て衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏とし て、如来には珍しく現世利益信仰を集める。(中略)
 伝統的に皇室と結びつきが強かった天台宗(台密)では、薬師如来が東方浄瑠璃世界の教主であることから、東の国の帝たる天皇と結び付けられもした。」(wikipedia「薬師如来」
 「浄土とは、(中略)煩悩に汚染されている衆生が住む穢土と対比される語である。阿弥陀如来の西方極楽浄土、薬師如来の東方浄瑠璃浄土などの種々の浄土があるとされる。浄土の語は大乗仏教における宗教的理想郷を指す言葉としても広く用いられたが、平安後期以降に浄土教が広まるにつれて、浄土は主として阿弥陀如来の西方極楽浄土を指すようになった。」(wikipedia「浄土」
 「単独像として祀られる場合と、日光菩薩・月光菩薩を脇侍とした薬師三尊像として安置される場合がある。また、眷属として十二神将像をともに安置することが多い。(中略)
 薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。
 国分寺のほとんどは現在は薬師如来を本尊としている。(中略)
 江戸時代に初代将軍徳川家康が神格化されて神君と呼ばれるようになった。当時徳川将軍家のブレーンであった天海大僧正などの働きもあり、朝廷より徳川家康に「東照大権現」の神号が下され、天台宗系の山王一実神道によって日光東照宮に祭祀された。この東照権現信仰では薬師如来を本地とした。
 また、徳川家康は生母於大の方が鳳来寺(愛知県新城市)の本尊の薬師如来に祈願して誕生したと言われ、家康は薬師如来が人間界に現れたものとも言われる。」(wikipedia「薬師如来」
如来
如来とは、仏教において、真理(如)に随って来た、真如より現れ出た者、すなわち仏陀のこと。(中略)
 原語は梵: ?????(tath?gata、タターガタ)であり、多陀阿伽陀(ただあかど)などと音写し、如来や如去と訳す。この上なき尊い者という意味で無上上ともいわれる。
 如来の意味は、そのパーリ語・サンスクリットなどの原語から解釈したものや、「如来」・「如去」という漢訳語から再解釈したものなど多岐に渡るため、一概に決定説を挙げることはできない。
 如来には10の別名があり、如来の十号または十号と呼ばれる。(中略)
 仏教学者の中村元によれば、『タターガタ』(tath?gata)とは本来、『そのように行きし者』『あのように立派な行いをした人』という語義であり、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で『修行完成者』つまり『悟りを開き、真理に達した者』を意味する語であって、『如来』という漢訳表現には『人々を救うためにかくのごとく来たりし者』という後世の大乗仏教的な見解がひそんでいて、初期仏教における語義とは乖離があるという。(中略)
 代表的な如来である釈迦如来大日如来阿弥陀如来、薬師如来のことを四如来という。」(wikipedia「如来」
大野東人

大野東人(おおののあずまびと)は奈良時代の武人。(中略)
 養老4年(720年)に発生した蝦夷の反乱(征夷将軍・多治比縣守により鎮圧)後、まもなく[同724]蝦夷開拓の本拠として多賀柵〔多賀城〕を築く〔多賀城碑〕。(中略)
 神亀元年(724年)(中略)3月に海道の蝦夷が反乱を起こして、陸奥大掾・佐伯児屋麻呂を殺害する。この反乱を鎮圧するために4月に持節大将軍・藤原宇合以下の遠征軍が派遣され、11月に帰還しているが、東人は副将軍格で従軍したらしく、翌神亀2年(725年)軍功に対する叙勲位が行われた際、従三位・勲二等の宇合に次いで、東人は従四位下・勳四等を授けられている。天平元年(729年)陸奥鎮守将軍に 任じられていた東人は、鎮兵の功績に対する叙位を奏上して許され、功績第一等の者30名への二階昇進などの叙位が行われた。天平3年(730年)従四位上 に叙せられる。その後も蝦夷の開拓を進め、天平5年(733年)にはそれまで最上川河口付近(現在の庄内地方)にあった出羽柵を雄物川河口付近(現在の秋田市付近)に移している。
 天平9年(737年)正月に陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請した。これに応じて兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、2月に関東6カ国の騎兵1000騎を率いて多賀柵へ到着した。3月1日に東人は精鋭の騎兵196騎、鎮兵499人、陸奥国兵5000人、帰順した夷狄249人を率いて色麻柵(現在の宮城県加美郡加美町城生か)から遠征に出発、奥羽山脈を横断し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した。3月11日には東人は多賀柵に戻り、連絡通路開通について大使・藤原麻呂に報告を行っている。
 天平11年(739年)陸奥国按察使兼鎮守府将軍に大養徳守を兼ねていたが、参議に任じられ公卿に列す。(中略)
 天平13年(741年)藤原広嗣の乱を鎮圧した勲功により従四位上から三階昇進して従三位に叙せられる。同年聖武天皇が恭仁京に遷都した際、旧都平城京の留守役に任じられる。天平14年(742年)11月2日薨去。最終官位は参議従三位。」(wikipedia「大野東人」
智証大師円珍
 「円珍は、平安時代の天台宗の僧。天台寺門宗の宗祖。諡号(しごう)は智証大師(智證大師、ちしょうだいし)。入唐〔にっとう〕八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。
 弘仁5年(814年)讃岐国(香川県)金倉郷に誕生。多度郡弘田郷の豪族・佐伯一門のひとり。俗姓は和気。字は遠塵。空海(弘法大師)の甥(もしくは姪の息子)にあたる。生誕地は善通寺から4kmほどのところ。幼少から経典になじみ、15歳(数え年、以下同)で比叡山に登り義真に師事、12年間の籠山行に入る。
 承和12年(845年)役行者の後を慕い、大峯山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与する。承和13年(846年)延暦寺の学頭となる。仁寿3年(853年)新羅商人の船で入唐、途中で暴風に遭って台湾に漂着した。
 天安2年(858年)唐商人の船で帰国。帰国後しばらく金倉寺に住み、寺の整備を行っていた模様。その後、比叡山の山王院に住し、貞観10年(868年)延暦寺第5代座主となり、園城寺(三井寺)を賜り、伝法灌頂の道場とした。後に、比叡山を山門派が占拠したため、園城寺は寺門派の拠点となる。
 寛平3年(891年)入寂、享年78歳。三井寺には、円珍が感得したとされる『黄不動』『新羅明神像』等の美術品の他、円珍の手による文書が他数残されており、日本美術史上も注目される。
 著作は90を数え、円珍の教えを知る著作である『法華論記』『授決集』の他、自身の書いた入唐旅行記の『行歴抄』など著名である。『智証大師全集』全3巻がある。『行歴抄』では、円載との確執が描写されている。
 円珍は、園城寺では宗祖として尊崇され、同寺には国宝の彫像をはじめ、多くの円珍像が伝わる。同寺唐院大師堂には『中尊大師』『御骨大師』と称する2体の智証大師像があり、いずれも国宝に指定されている。いずれの像も頭頂が尖り、頭部の輪郭が卵型を呈する独特の風貌に特徴がある。(これを「霊蓋」〔レイガイ〕という。左道密教〔『無上瑜伽タントラ』〕では未来を予知できる能力を備えるとされ、非常に崇められた。反面、その験力を得ようと切り取られることもあったため、入唐時に諭され非常に警戒された。」(wikipedia「円珍」
八幡太郎源義家
源義家は、(中略)源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれる。幼名は不動丸、または源太丸。七歳の春に、山城国の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。(中略)
 鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父・頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、天喜5年(1057年)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。その後出羽国の清原氏の応援を得て頼義は安倍氏を破った。(中略)
 永保3年(1083年)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役が始まる。(中略)
 寛治元年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡清原家衡を破り、12月、それを報告する『国解』の中で『わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて』と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、『私戦』としたため恩賞はなく、かつ翌寛治2年(1088年)正月には陸奥守を罷免される。(中略)
 嘉承元年(1106年)には別の息子の源義国(足利氏の祖)が、叔父で義家・義綱の弟・源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で義家に義国を召し進ぜよとの命が下される。義国と争っていた義光、平重幹等にも捕縛命令が出る中で義家は同年7月15日に68歳で没する。翌日、藤原宗忠は日記『中右記』に『武威天下に満つ、誠に是れ大将軍に足る者なり』と追悼する。死後は三男の源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。
 天仁2年(1109年)、義忠が郎党の平成幹に暗殺される事件が発生。犯人は義綱と子の源義明とされ義親の子(義忠の弟とも)・源為義が義綱一族を追討、義綱は佐渡島へ流され義明は殺害された(天承2年(1132年)に義綱も追討を受け自殺)。家督は為義が継いだが、義光・義国や義忠の遺児・河内経国、為義の子・源義朝などは関東へ下り勢力を蓄え、曾孫で義朝の子・源頼朝が鎌倉幕府を築く元となる。(中略)
 後三年の役が私戦とされて恩賞が出なかったため、義家は河内石川荘の自分の私財を投じて部下の将士に報奨を与え、武家の棟梁としての信望を高めたといわれる。ただし平安時代末期の『奥州後三年記』にはその記述はない。後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に南北朝時代の末に、義家の子孫である足利幕府の正統性をうたう為に書かれた『源威集』にある『諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰ハ此故也』からの派生。(中略)
 和歌
  吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな
 勅撰和歌集の一つである『千載和歌集』に収録されており、詞書に『陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる』とある。
 唱歌『八幡太郎』 1912年の『尋常小学唱歌』に発出
  1.駒のひづめも匂ふまで、 『道もせに散る山櫻かな。』
    しばしながめて、『吹く風を 勿來の關と思へども』
    かひなき名やとほほ笑みて、 ゆるく打たせしやさしさよ。
  2.落ちゆく敵をよびとめて、 『衣のたては綻びにけり。』
    敵は見かへり、 『年を經し 絲のみだれの苦しさに』
    つけたることのめでたきに、 めでてゆるししやさしさよ。
」(wikipedia「源義家」
鎮守神
 「鎮守神は、特定の建造物や一定区域の土地を守護するために祀られた神である。現在では、氏神、産土神〔うぶすながみ〕と同一視されることも多い。鎮守神を祀る社を鎮守社という。
 中国の伽藍神に起源を持つといわれる。日本の寺院においても、仏教が伝わり、神仏習合が進む中で、寺院守護のための神祇が祀られるようになり、のちに寺院以外の建造物や一定の区域の土地にも鎮守神を祀るようになった。
 現在では、鎮守神はその土地に住む神(地主神)だと考えられることが多いが、元をたどれば、鎮守神は、地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神である。(中略)
 しかし、時代とともに鎮守神の本来の意味は忘れられ、地主神との混同が起こり、両者は習合する結果となった。こうした鎮守神は、寺院・邸宅・荘園・城郭などに祀られ、村落においても祀られるようになった。
 村落に神が鎮守神として祀られるようになったことについては、ある村落とその周辺を治める豪族との対立関係の中で、豪族が祀る一族神としての氏神の霊威に対抗する形で、村落に鎮守として神社を祀るようになったことが一因として考えられる。
鎮守寺黒川袖振薬師如来
 仏教寺院に付属して建立された神社を鎮守社と呼んだ。対義語(神社を主体とする)は神宮寺と呼ばれる。またある施設の鎮守が仏教寺院である場合を鎮守寺と称することがある。」(wikipedia「鎮守神」
 藩政時代初期には、お薬師様は「北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来」(第二号古文書写)を標榜し、既にりっぱな「鎮守寺」になっており、付属の「鎮守社」等を従える一大伽藍を形成していた。
鎮守社山王神社
 上記第一号古文書写は、「元禄六[1693]年四月吉祥日 山王別当」により書写されている。
 「天台宗が全国に広がる過程で、山王権現も各地に勧請され、多くは天台宗の寺院の鎮守神とされた。」(wikipedia「山王信仰」
 「鎮守寺」北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来の「鎮守社」として、「山王神社」が付属し、別当が置かれていたのである。
 私の記憶でも、黒川神社の賽銭箱には、たしかに「山王日枝神社」と刻まれていた。
山王信仰(山王神道)
 「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を指したものである。 日吉神社・日枝神社あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社より勧請を受けた神社で、大山咋神と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社ある。
 神仏習合期には『山王権現』『日吉山王』とも称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。(中略)
 比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、大山咋神・大物主神は地主神として天台宗・延暦寺の守護神とされた。延暦寺を開いた最澄は寺の周囲に結界を定め、その地主神を比叡山の『諸山王』として比叡社に祀った。(中略)延暦寺ではこの両神を『山王』と称した。なお、最澄にとって比叡山の『山王』とは、山岳信仰に基づく、アニミズム的な形態に近い信仰対象であった。
 最澄にとって、『山王』とは山の地主神を仏教的に表現したものであるといわれる。最澄が著したと思われる文書には、神名ではなくほとんど『山王』が使われており、あえて『神』とは呼ばなかった点に、仏教徒としての配慮がうかがわれるという。このような、最澄による『山王』の扱いが、後に、神仏習合 の『山王神道』の成立を導いていったともされる。(中略)
両所三聖 その後、天台宗の第5代座主であり、夢で様々な啓示を受けたという伝承が残されている円珍が、円珍に夢で入唐を勧めたとされる『山王明神』を、自身の坊に祀るようになった。このため、それまでは最澄の創建として、千手堂または千手院と呼ばれていた円珍の坊が、山王院と呼ばれるようになった。このように、山王明神の信仰は、円珍が個人的に祀ったことから始まった。
 こうして、〔最澄の〕大比叡神(東塔)・〔2代座主円澄の〕小比叡神(西塔)・比叡山王(山王明神)の「両所三聖」が 成立した。なお、円珍にとっては、『両所三聖』の中でも山王(山王明神)は別格で、『両所二聖』を超える存在、つまり、大比叡神・小比叡神を含んだ『比叡 山』そのものを象徴しており、最澄が祀った諸山王をひとつにまとめた、非常に大きな信仰対象であったといわれる。(中略)
地主三聖 延暦寺の第18代座主であり、比叡山中興の祖とされる良源は、(中略)聖真子(しょうしんし)を信仰するようになった。(中略)『聖真子』の名は法華経により、正統な仏法の後継者を意味するもので、神名であると同時に法号であり、日本古来の神々の系譜から切り離された独自のものとされるなど、神仏習合の最たるかたちを示しているとされる。
 ここに、良源の思惑により、大比叡神(東塔)・小比叡神(西塔)・聖真子(横川)の『地主三聖』が成立した。
 だが、円珍によって定められた『両所三聖』を信仰していた僧たちは、良源に導かれて成立した『地主三聖』の信仰に反発することとなった。良源は『地主三聖』の信仰に反対する僧たちを僧籍から除名するなどし、後の山門・寺門分裂への流れを生み出していくこととなる。
山王三聖 良源により『地主三聖』の信仰が定着するにつれ、『地主三聖』は徐々に『山王三聖』と呼ばれるようになっていった。なお、『地主山王』と呼ばれた時期もあった。(中略) 特に、正暦4年(993年)の叡山分裂以降、『山王三聖』の語は定着していったとされる。(中略)
 なお、円珍が個人的に祀った『山王(山王明神)』とは、円珍が実際に夢でお告げを受けたということから、確かに『実在』すると信じられた神を指したものであるが、良源の場合、『山王』の語には確かに実在するという重みはなく、ただ『地主三聖』の総称に過ぎず、抽象的な概念にとどまっていたとされる。
 天台宗が全国に広がる過程で、山王信仰に基づいて日吉社も全国に勧請・創建された。日吉(ひよし)神社・日枝(ひえ)神社、あるいは山王神社などという 社名の神社は、日本全国に約3,800社ある。これにともない、日吉・日枝・比恵・山王・坂本などという地名が各地でみられる。
 山王三聖には、本地仏として、大宮(大比叡神、東塔)に釈迦如来、二宮(小比叡神、西塔)に薬師如来、聖真子(横川)に阿弥陀如来が、それぞれ定められた。これらの本地仏が定着したのは、浄土教の影響により八幡神(聖真子と同一とされる)の本地仏が釈迦から阿弥陀に変わった11世紀以降と推定される。(中略)本地仏の制定は、日吉大社における、本格的な神仏習合の始まりであるともいわれる。
 やがて八王子(本地千手観音)、客人(本地十一面観音)、十禅師(本地地蔵菩醍)、三宮(本地普賢菩醍)を加えて山王七社(上七社)となすなど、総本山の威容を整え始めた。そして本地垂迹説によってさらに数を増し中七社、下七社を加えて『山王二十一社』と称した。
山王神道 山王信仰は、『山王神道』とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の垂迹であるとされ、『山』の字も『王』の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説 いた。また天台密教は、鎮護国家、増益延命、息災といった具体的な霊験を加持祈祷によって実現するという体系(使命)を持ち、山王にも『現世利益』を実現する霊威と呪力を高める性格を与えたようである。
 中世に比叡山の僧兵が強訴のために担ぎ出した神輿は日吉大社のものである。
 元亀2年(1571年)、織田信長の比叡山焼き討ちにより、日吉大社も灰燼に帰した。現在見られる建造物は、安土桃山時代以降に再建されたものである。
 なお江戸で『三大祭』として賑わったのは、山王祭、神田祭、深川祭であるが、この山王祭とは、徳川家康が江戸に移封された際に、同地にあった日吉社を城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としたことに始まる。この社の由来は、太田道灌が江戸城築城にあたり、文明10年(1478年)に川越の無量寿寺(現在の喜多院) の鎮守である日吉社を勧請したのにはじまるとされる。無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立したとされる。ち なみに、この江戸の日吉社に日枝(ひえ)神社と名称が付けられたのは、慶応4年(明治元年)6月11日以降のことである。(神仏分離)
 天台宗が全国に広がる過程で、山王権現も各地に勧請され、多くは天台宗の寺院の鎮守神とされた。明治の神仏分離の際に、仏教色を廃し寺院とは別れた。
 社名については、『日吉』と書いて『ひえ』と読むもの、『日吉』と書いて『ひよし』と読むもの、『日枝』と書いて『ひえ』と読むものがある。」(wikipedia「山王信仰」
別当・別当寺
 鎮守社の対概念(対義語)をなす「別当寺(べっとうじ)とは、専ら神仏習合が行われていた江戸時代以前に、神社を管理するために置かれた寺のこと。神前読経など神社の祭祀を仏式で行い、その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。神宮寺神護寺宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義。(中略)
 別当とは、すなわち『別に当たる』であり、本来の意味は、『別に本職にあるものが他の職をも兼務する』という意味であり、『寺務を司る官職』である。
 別当寺は、本地垂迹説により、神社の祭神が仏の権現であるとされた神仏習合の時代に、『神社はすなわち寺である』とされ、神社の境内に僧坊が置かれて渾然一体となっていた。神仏習合の時代から明治維新に至るまでは、神社で最も権力があったのは別当であり、宮司はその下に置かれた。
 別当寺が置かれた背景には、戸籍制度が始まる以前の日本では、寺院の檀家帳が戸籍の役割を果たしたり、寺社領を保有し、通行手形を発行するなど寺院の権勢が今よりも強かったことがあげられる。一つの村に別当寺が置かれると、別当寺が、村内の他のいくつかの神社をも管理した。神仏にかかわらず、一つの宗教施設、信仰のよりどころとして一体のものとして保護したのである。(中略)
 明治時代の神仏分離令により、神道と仏教は別個の物となり、両者が渾然とした別当寺はなくなっていった。」(wikipedia「別当寺」
村鎮守功徳山八聖寺別所薬師堂
 江戸時代も中期の18世紀になると、「『安永風土記』[1774]では村鎮守功徳山八聖寺別所薬師堂」(『日本歴史地名大系』)とある。
 八聖寺(はっしょうじ)の名号は、「八聖道」に由来すると思われる。「八正道(はっ しょうどう)は、仏教において涅槃に至るための8つの実践徳目である正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のこと。八聖道(八聖道分)、八 支正道、もしくは八聖道支ともいう。この『道』が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の道であるから『聖道』と言う。八正道は釈迦が最初の説法において説いたとされる。四諦のうちでは道諦にあ たり、釈迦の説いた中道の具体的内容ともされる。」(wikipedia「八正道」
 別所薬師堂は三間四面で、三尺二寸(97cm)の本尊、一尺八寸(55cm)の十二神将、六尺八寸(208cm)の増長作の仁王像があると、『風土記御用書出』に記されている。」(『まろろば百選 』)
 当時「別所」が集落地名として定着していた様子も見て取れる。
羽黒派明喰坊
 当時の薬師堂は、「別所の〔鎮守社・〕羽黒派修験明喰〔みょうくい〕坊が別当をつとめていた」(『日本歴史地名大系』)が、下記のとおり、安永間もない頃明喰坊は別所薬師堂を退転した。
当山派大宝院
 同じ「『安永風土記』[1774]に記される社は、(中略)いずれも〔当時大崎・北目を直結する通称”八幡山”の峠にあった鎮守社〕当山派修験大宝院〔神職日野氏〕が別当をつとめていた」(『日本歴史地名大系』)ところ、明喰坊の別所薬師堂退転後は、下記のとおり、この当山派大宝院(日野氏)が鎮守社別当を襲ったのである。
両部神道
 上述のとおり、本をたどれば天台宗─山王神道─本山派修験の流れを汲む村鎮守功徳山八聖寺別所薬師堂ではあったが、いつの頃からか羽黒派修験明喰坊が別当となり、安永間もない頃には退転してしまった。その跡を襲った当山派修験大宝院(日野氏)の依拠する「両部神道とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基づく神仏習合思想である。両部習合神道ともいう。
 密教では、宇宙は大日如来の顕現であるとされる。それは大日如来を中心にした金剛界曼陀羅胎蔵曼陀羅の儀規として表現されている。この金剛界と胎蔵界の両部の曼陀羅に描かれた仏菩薩を本地とし、日本の神々をその垂迹として解釈した。
 両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王であり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日 如来であり、尸〔し〕棄大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる 伊勢神宮を形成しているとした(二宮一光説)。両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目した命名である。
 また、日本書紀の三神に、仏教の如来の三身をあてはめ、国常立尊が法身、国狭槌尊が報身、豊斟渟尊が応身であるとし、この三神が合一して、密教の本尊である大日如来となるともした。
 また古事記の天神七代は過去七仏に等しく、また北斗七星の各星を表しているとされた。またイザナギ・イザナミ、諏訪神社の上社・下社、なども両部曼陀羅になぞらえられた。(中略)
 平安時代後期には、神道を理論的に説明する教説として僧侶による仏家の神道理論が成立した。当時の仏教界の主流であった密教二宗のうち、天台宗の教えを取り入れたのが山王神道、真言宗の教えを取り入れたのが両部神道である。
 両派とも大祓詞の解説や、記紀神話などに登場する神や神社の祭神の説明が、当時の仏教界の主流だった密教の教義を用いてなされている。
 いずれも、最澄・空海などに選者を仮託する神道書によっており、各神社の秘伝として伝授され、また一部は、修験道などを介して民間にも知られていった。これらは鎌倉時代に理論化され、後世多くの神道説を生み出していった。
 これらの神道書のうち、後世に最も大きな影響を与えたのが、醍醐天皇が神泉苑に出現した龍女から受けた秘伝と称する『麗気記』である。この書は、伊勢神宮に関する真言密教に基づいた深秘説を集成しており、南北朝期以降、『日本書紀』と並ぶ中世神道の最も重要な聖典と見なされるようになった。
 両部神道はのちの神道説の展開に大きな影響をあたえ、中世には習合神道説の主流となって、御流神道三輪神道などの多くの分流が生じた。
 しかし、鎌倉時代末期から南北朝時代になると、僧侶による神道説に対する反動から、逆に、神こそが本地であり仏は仮の姿であるとする神本仏迹説をとなえる伊勢神道吉田神道が現れ、江戸時代には神道の主流派の教義となっていく。
 そして、明治時代、明治元年の神仏分離によって,両部神道は壊滅的な打撃を受け、神道教義の主流派の地位を失った。」(wikipedia「両部神道」
北目大崎鎮守黒川薬師(袖振薬師)
 「明治維新後は陸前国黒川郡北目大崎鎮守黒川薬師袖振薬師と稱し置き 神仏両部にて
 明治二[1869]年に仏は御廃しと相成り両部は成難き御趣意に基づき神仏の区分被相定
 本村の鎮守〔寺〕神仏両部に候へば」(『黒川郡誌』)
黒川神社
「鶴巣村北目大崎字日光山
 祭神 少彦名命
 由緒 (中略)明治五[1872]年村社に列せらる。(中略)
 明治三[1870]年庚子四月以て其時代の神官は本村祀官〔大宝院〕日野丹吾奉職中にして
 其頃は仙台青葉が宮城県庁と云ふ時代にて其筋の社寺係りに
 神仏両部なれば本堂祭神は少彦名命の外は神合祀の堂に候へば此儀宮城県庁に伺出候へば
 御係より仏取除き祭神少彦名命黒川神社(クホガワズンジャ)と稱可き認可相成」(『黒川郡誌』)る。
少彦名命
スクナビコナスクナヒコナとも。表記は少名毘古那須久那美迦微少彦名少日子根など。)は、(中略)  『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。
 スクナビコナは、大国主の国造りに際し、天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って波の彼方より来訪した。
 『古事記』によれば、スクナビコナは大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神〔大国主〕の命によって国造りに参加した。『日本書紀』にもこれと同様の記述がある。スクナビコナが登場するのは、『記』・『紀』以外では『上記(ウエツフミ)』である。
 スクナビコナはオホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神である。その一方で、スクナビコナは悪童的な性格を有するという記述がある(『日本書紀』八段一書六)。スクナビコナはのちに常世国へと渡り去る。
 スクナビコナの名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とある。あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説がある。また、この神が必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。
 スクナビコナは、国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。
 酒造に関しては、酒は古来薬の一つとされ、スクナビコナが酒造りの技術を広めたことと、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神であるといえる。
 石に関しては、記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。(中略)
 コロボックルをテーマにした児童文学シリーズを書いた佐藤さとるは、その第一作である『だれも知らない小さな国』において、スクナビコナとコロポックルとが同じ種族ではないかという推測を主人公に語らせている。(中略)
 水の旅人 侍KIDS - 少彦名をメインキャラクターとした映画。」(wikipedia「スクナビコナ」
「『小さな子』のモチーフは、日本においては日本神話のスクナヒコナ(少・大地男神、スク=少・ナ=大地・ヒコ=男神・ナ=接尾辞)がその源流と考えられる。 スクナヒコナは『日本霊異記』の道場法師、『天神縁起』の菅原道真を媒介し中世の『小男の草子』、近世の『御伽草子』の一寸法師にまでつながっていく。」(wikipedia「一寸法師」
村社黒川神社
「其後古来歴に応じ明治五[1872]年村社に列せられ
 明治四十[1907]年より神饌幣帛料供進 明治四十二[1909]年維持方法確立以て現今に及ぶ
 但し明治四十一[1907]年宮殿改築す」(『黒川郡誌』)。
”オヤグッサマ”の変遷
 かえりみれば、”オヤグッサマ”(お薬師様)
 北目山別所寺黒川薬師(報恩寺可則)
 袖振薬師(源義家)
 東方の薬師
(黒川晴氏)
 北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来
(伊達氏)
 山王神社
 村鎮守功徳山八聖寺別所薬師堂
 羽黒派修験明喰坊
 当山派修験大宝院
 北目大崎鎮守黒川薬師(袖振薬師)
 黒川神社
 村社黒川神社

と歴史の荒波に翻弄されて有為転変を重ね、今日に至った次第である。
 幼時蝉捕り(シミトリ)、橇滑り(ソリハスリ)などで渉猟した、神社裏手の鎮守の森には古い墓石が埋もれており、鳥居前には今なお中米勇一家の墓所が 残っているので、たしかに昔は修験寺=鎮守寺だったのだ。その証拠に、今なお黒川神社のオマヅリは、夏祭り・秋祭りならぬ「春祭り」、それも4月8日の 「花祭り」なのである!
”お仁王様”
 現在、境内の仁王堂に安置されている"お仁王様"(オヌオウサマ)仁王(金剛力士)の像は大同年間(806-810)〔別所寺に先立つことになるが?〕の建立にして増長の作なりと云ふ」(『黒川郡誌』)。上述のとおり、「六尺八寸(208cm)の増長作の仁王像があると、『風土記御用書出』に記されている。(中略) 二体ともヒノキの寄せ木造りで」(『まろろば百選 』)ある。
 「金剛力士は、仏教の護法善神(守護神)である天部の一つ。サンスクリットでは『ヴァジュラダラ』と言い、『金剛杵(しょ、仏敵を退散させる武器)を持 つもの』を意味する。開口の阿形像と、口を結んだ吽形像の2体を一対として、寺院の表門などに安置することが多い。一般には仁王(二王)の名で親しまれている。
 日本では寺院の入口の門の左右に仁王像が立っているのをしばしば見かける。像容は上半身裸形で、筋骨隆々とし、阿形像は怒りの表情を顕わにし、吽形像は 怒りを内に秘めた表情に表すものが多い。こうした造形は、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神としての性格を表している。
 仁王像は安置される場所柄、風雨の害を蒙りやすく、中世以前の古像で、良い状態で残っているものはあまり多くない。」(wikipedia「金剛力士」
 これについて「『宮城縣史13美術 建築』,1980」所収佐々久「仏像彫刻」は、「黒川神社の仁王像は徳川時代の作とみられるが、県内の仁王像に古いものは少ない」としているが、案の定 「昭和59[1984]年から修復が行われ、解体の過程で『永享4[1433]年8月4日」の日付を記した銘が見つかっている。」(『まろろば百選 』)
 さらに、これには後日談がある。上記日野丹吾の末裔で、上記日野薫宮司の嫡男で、亡き我が長兄の同期生(弔辞も上げていただいた)・先輩日野敬一宮司の黒高時代、たまたま佐々氏が講演に訪れて「坊主は正直だが、神主は嘘をつく」などと暴言を吐き、いたく傷つけられてしばらくは立ち直れないほどだった。近年になって訂正の電話を申し入れた時は、既に氏の死後だった。後に述べる◯佐々久監修『利府町誌』でも示すように、どうも佐々氏の論考には、専門外ながら、信用しがたい論点が多すぎると言わざるを得ない。
 閑話休題。「大和町では子どもが股の間をくぐるとハシカが早く治るという言い伝えがあり親しまれてきました。」(『まろろば百選 』)往時は乳呑み子から悪童連まで堂前列をなして、幼な子などは泣きながらあるいは半泣きで、おそるおそる霊験あらたかな「股くぐり」をしたものである。
 2011年11月仙台市博物館「仏のかたち人のすがた」展に、「金剛力士像」として初めて出品・展示されて、大好評を博したことは記憶に新しい。
十二神将像
 現在、仁王堂内には、「六尺八寸(208cm)の増長作の仁王像」(『まろろば百選 』)の背後に、「一尺八寸(55cm)の十二神将」(『まろろば百選 』)像が共に安置されている。
 「十二神将は、仏教の信仰・造像の対象である天部の神々で、また護法善神である。十二夜叉大将、十二神明王ともいい、薬師如来および薬師経を信仰する者を守護するとされる十二体の武神である。(中略)元々は夜叉つまり悪魔であったが、仏と仏法の真理に降伏し善神となって仏と信者を守護する。
 十二神将は、薬師如来の十二の大願に応じて、それぞれが昼夜の十二の時、十二の月、または十二の方角を守るという。そのため十二支が配当される。また、 十二神将にはそれぞれ本地(化身前の本来の姿)の如来・菩薩・明王がある。 各神将がそれぞれ7千、総計8万4千の眷属夜叉を率い、それは人間の持つ煩悩の数に対応しているという。(中略)
 宮毘羅大将 (金毘羅童子、宮比羅) くびら こんぴら 弥勒菩薩 亥
 伐折羅大将 (金剛力士) ばさら 勢至菩薩 戌
 迷企羅大将 めきら 阿弥陀如来 酉 寅 巳 辰
 安底羅大将 あんちら あんていら 観音菩薩 申
 ??羅大将 (風天) あにら 如意輪観音 未
 珊底羅大将 さんちら さんていら 虚空蔵菩薩 午
 因達羅大将 (帝釈天) いんだら 地蔵菩薩 巳
 波夷羅大将 はいら 文殊菩薩 辰
 摩虎羅大将 (摩?羅伽) まこら 大威徳明王 卯
 真達羅大将 (緊那羅) しんだら 普賢菩薩 寅
 招杜羅大将 しょうとら 大日如来 丑
 毘羯羅大将 びから びぎゃら 釈迦如来 子」(wikipedia「十二神将」
千年の秘仏・秘像
 仁王像にしても、袖振薬師その他にしても、総じてはなはだ宣伝不足というべきだろう。ようやくパンフレットやWEBページの広報が始まりつつある中にも、かんじんの大和町のウェブサイト(ホームページ)でさえ、まったく言及すらしていないのが実情である。
 考えてみれば、実に1200年以上もの長い間草深い片田舎に似つかわぬ袖振薬師や見事な仁王像を守り通ししてきたことは、真に奇跡的なことである。近年美術・学術専門家の調査が入り、遅くとも奥州藤原文化を花咲かせた平泉の諸寺社と同時代以前の、非常に価値の高いものであることが実証されたという。
 御本尊の袖振薬師にしても、上記日野敬一宮司によれば、さすがに廃仏棄釈で馬鹿正直に破壊などはせず奥深く秘蔵し通し、60年に一度「丙寅(ひのえとら)」の年、最近年は1986(昭和61)年に「御開帳」もしてきた由である(そんな 事実はまったく知らなかった!)。近年氏子・里民の要望にこたえて開帳周期を30年に短縮することとし、咋2017年4月、変則的に一年遅れで御開帳したばかりであるという。
 好き哉、きわめて好き哉!
  ♪七ツ森立ち 西川で  黒川坂なを 鶴巣館  お薬師様まで 仁王様 サノヨイヨイ♪(「鶴巣節」)
  ♪黒川神社の仁王さん お子さん悪魔祓えと拝みます♪(「黒川願人節」)
神楽殿
 さて、仁王堂の南、手水舎の向かいには常設の神楽殿があり、祭礼には目玉の「北目神楽」の他に、「股旅物」「マドロス物」などさまざまな演し物も奉納され、参拝客の人気の的であった。近年まで存続していたようだが、今はない。
御堂の西
 境内の西一帯は今日なお御堂の西(オドノヌス)と呼ばれており、往時は西はマサスケ沢、北は裏山の日光山南麓、東は売場から照節沢境まで全てオヤグッサマ境内で、七堂伽藍が立ち並んでいたものと思われる。
 子供のころ、本家の畑辺りの畦には桑(クハ)の木が遺っていて、低木によじ登り口周りを真っ青にして、甘い桑の実(クハゴ)をほおばったものである。
  ♪山の畑の 桑の実を 小籠に摘んだは 幻か♪
”油池”
 本・拝殿東の境内に、”古池や かわず跳び込む 水の音”の風情に満ちた、神さびた池がある。この池の淀んだ水面には、昔から「原油」らしきものが浮かんでいた。
売場
 ”油池”東の”エゾ穴”の南一帯は我が家(本家)の畑で、今も「売場」と呼ばれており、往時のお札売り場や寺社務所の跡と思われる。中央にはいかにもそれらしい古井戸なども残っていて、当時の”オヤグッサマ”のにぎわいを今に偲ばせている。
 1955年に我が家が分家する際、伯父金太郎は最初ここを念頭に置いていたが、神社参道の影になり日当たりが悪いと父が難色を示し、結局今の”原っこ”の地に落ち着いた経緯がある。
石鳥居まわり
 売場の南は”オヤグッサマ”参道の入口で、私の少年時はまだ圃場整備前で現状とは異なり、石鳥居(同期従兄佐藤重信君と私の祖父は往時の運送業”馬車挽き(バシャシギ)”で、この鳥居の石材を運んだという)は入口で直角に曲がって、東面していた。
 さまざまな記念碑が立ち並ぶ石鳥居まわりは、自ずから広場をなして子供たちの格好の遊び場となり、野球(自然、現門間家敷地の畑に侵入し、当時別所最高齢だった”ミノバンツァン”によく怒られたものだ)、陸上競技、縄跳び、本艦獲り、参道脇から採れる良質の天然粘土遊びなどに日なが興じた。
 また、今は道路と化した現鳥居前にわずかに片鱗が遺っている小丘には、サイカチ〔サイガズ〕の 木が自生していて、子どものおもちゃ代わりだった。サイカチは「サポニンを多く含むため古くから洗剤として使われている。莢(さや)を水につけて手で揉む と、ぬめりと泡が出るので、かつてはこれを石鹸の代わりに利用した。石鹸が簡単に手に入るようになっても、石鹸のアルカリで傷む絹の着物の洗濯などに利用 されていたようである(煮出して使う)。(中略)
 豆はおはじきなど子供の玩具としても利用される。」(wikipedia「サイカチ」
馬浸場
 鳥居前広場は馬浸場(まひたしば、マシテバ)に 連続しており、農耕に疲れた牛馬が憩い、川魚の宝庫で”クッキ”などおびただしい小魚が群れ跳び、童子供(ワラスコドモ)が日がな魚釣り(サガナツリ)、 水浴び(ミズアブリ)、氷滑り(スガハスリ)、下駄スケート(ゲダスケート)等に狂じた、鳥居周りの空間と併せた格好の遊び場だった。
大原(馬場跡)
 馬浸場の上流南方、勝負沢・曲松間の「大原(原崎)」台地〔我が家の畑もある〕は、馬浸場と一体をなして、おそらくは黒川氏の広大な「馬場」「牧」だったと思料され、その人工的な遺構を見事に留めている。
 我が家の畑に隣接する、入り口付近の斜面からは良質の「研き砂」が採れ、鍋釜の研磨に重宝されていた。入り口左の用水に沿って好物のハシバミ(ハスパミ)が群生しており、田植えどきには実入りが待ち遠しかったものだ。
 野ウサギが多数生息しており、見よう見まねで罠を仕掛けてはみたものの、残念ながら1羽も掛からなかったほろ苦い思い出などもある。
  ♪うさぎ追いし かの山 小鮒釣りし かの川♪
 台地の奥には食糧増産期に他郷人が更に開墾した「開田」があり、馬場出入口には携帯電話会社NTTdocomoの電波塔が我が物顔にそそり立っているありさまで、昔の光今いずこ?。
 上述のとおり、大原の上流には「勝負沢(ショウブザ)」、次いで「具足沢(グソグザ)」があり、さらに下って大崎の黒川終点・西川本流との合流点にはおどろおどろしくも「身洗い沼(ミアレヌマ)」、さらに樵橋(キコリバス)を渡った古代初期東山道筋の大平には「勝負沼(長沼)」、「軍陣ヶ森」というものものしい地名が続き、中でも軍陣ヶ森は「源義家安部貞任征討に方り陣取の跡なりと」(『黒川郡誌』)も伝えられている。

”別所・大崎の殿様”猪狩氏
 
「慶長元[1596]年、〔磐城国楢葉郡〕浅見川村(今日の双葉郡広野町、福島第一原発事故被災地)高倉山城主、〔磐城氏重臣〕猪狩下野守〔親之〕、伊達家へ随仕(中略)、信夫郡へ去」(吉田東伍『大日本地名辞書』富山房)る。
〔楢葉猪狩氏〕          〔仙台猪狩氏〕
 大和守─紀伊守源十郎─紀伊守守之─下野守親之─下野盛満─彌惣兵衛持滿=木工右衛門信滿─長作定滿=長作時之─┐
┌─────────────────────────────────────────────────────┘
│     ┌彌惣兵衛将之─木工右衛門隆之
└─長作富之┴助五郎康之─=木工右衛門隆之─杢右衛門規─隆明─隆─純一
 「守之カ子下野守親之、〔1602年〕岩城封ヲ移ス〔磐城国替〕之日、貞山〔政宗〕公片倉(備中〔小十郎〕景綱)鈴木(和泉元信)兩家ヲ以テ、命シテ〔家臣澤田氏も ろともに〕當〔伊達〕家ニ來ル」(『伊達世臣家譜』宝文堂)。「貞山〔政宗〕様(中略)猪狩下野〔親之〕処へ仰せ下され候は、岩城落着之段聞こし召され 候。兼〔予〕て御意下し置かれ候儀に御座候間御当地〔仙台領〕へ罷り越す可き旨仰せ下され有難く存じ奉り、慶長八[1603]年に御当地亘理迄罷り越し候 処、貞山様〔京都〕伏見に御座成られ御留守之儀に候間、」(佐々久監修『仙台藩家臣録』歴史図書社)「是ヲ以テ姑ク糊口ノ資ト爲シ、四百石〔後五〇〇石〕 之田ヲ北目大崎(黒川郡)〔・〕新里(膽澤郡)〔岩手県胆沢郡胆沢町若柳新里〕兩邑ニ於テ給」(『伊達世臣家譜』)「さる由〔、〕同[1603]年八月茂庭石見申し渡され、同極〔十二〕月亘理より伊沢〔胆沢〕迄御伝馬拾五疋借し下さる之旨、右石見申し渡し候。」(『仙台藩家臣録』)
 後述するように、 北目大崎村の村高は、「『安永風土記』[1774]によれば田畑合計 189貫〔1890石〕余、この内(中略)給地 173貫〔1730石〕余」(『角川日本地名大辞典』)だったので、約三割に相当する知行高となる。新里村等他郡村分も含まれているので一概には言えない が、当然別所沢一円は全て猪狩氏の領地だったと思われ、大崎の大部も猪狩領だったと推測される。
猪狩氏旦方(ダンポ)澤田氏
 「磐城国替/伊達家出仕」による猪狩氏の北目大崎入部に伴い、「猪狩氏家老」格たる股肱の忠臣澤田氏は、いよいよ「猪狩家旦方(だんぽう、ダンポ)」として照節沢の猪狩家在郷屋敷に乗り込んだ。
[仙台猪狩氏家中(ダンポ)]
〔黒川澤田氏(宗家)〕         〔黒川澤田本家〕 [佐々重番頭]
 九十九亮長─新右衛門?─源太郎〔宗〕重─源太清重─一 馬─金 吾(金五郎)
                              ├───┬ゆ ゑ [鶴巣農協組合長]
                             ┌まつゑ │├───┬金太郎─── 力 ─ 智 ─充 博
                 <三春田村氏一族>   [旅順市長]辰五郎 〔黒川澤田分家〕
                 〔仙台大越氏〕文五郎佑之┴文 平 (早坂氏)├亥兵衛──┬ 元 ─裕 子─航 丞
                       [仙台藩参政]    │    │     [本稿筆者]
                                  │    │     └ 諭
                                  │    [仙台高等技芸学校長]
                                  │    └てる子〔目黒氏〕
                                  〔笹川氏〕[鶴中教諭]
                                  └養太郎──清 敏
 後述するように、当時旦方(ダンポ)は大身の家なら「家老」に相当し、主君に代わり在郷屋敷に陣取って君臨、郡方(こおりかた)の日常行政万端を取り仕切り領地経営の実務を差配する、村落の実質的支配者・階級(士分の末端、サムライの端くれ)だった。
九十九亮長 現在判明している最古の澤田旦方(ダンポ)は、江戸時代中期・18世紀「而時明和九[1772]年三月吉日 臣 澤田九十九〔つくも〕源亮長 承之写者也」署名古文書「先祖書并諸事写留帳」(「仙台猪狩家文書」(猪狩隆氏所蔵))を猪狩家に遺した、澤田九十九源亮長(1710ごろ-1780ごろ?)である。
新右衛門? もと黒川橋(橋本)にあり、今は樅の木沢の丘にほとんど朽ち果て、哀れ倒壊して半ば土中に埋もれてしまっている古碑群の一つに庚申塚がある。「澤田新右衛門」の名が刻まれており、九十九亮長の嫡子と思料しておく。
源太郎宗〓〔重〕 九十九亮長の孫で、上記新右衛門の嫡子と思われる澤田源太郎源宗〓〔重〕(1770ごろ-1799)は(その妻ともども)、1799年遺児源太2歳を残して急逝し、澤田旦方(ダンポ)家は一旦中絶した。
源太清重 1815年ごろ源太は成人に達し、元服して澤田源太源清重(1798-1873)と名乗り、父源太郎の衣鉢を継いで猪狩家ダンポに復した。
一馬 源太の嫡男・一馬(はしめ)(1832-1896)は大酒呑みで鳴らし、近郷近在に「一馬ダンポ」の勇名を轟かせていたが、その晩年に明治維新に際会し、「最後のダンポ」となった。
金吾(金五郎) 一馬の嫡男・金吾(金五郎)(1854-1921)は14歳で明治維新に遭遇、戊辰戦争のドサクサで、谷津峠を挟んた山向こう・仙台藩参政(若年寄)大越文五郎(580石)の”お姫様”まつゑ(1856-1926)を娶る巡り合わせとなった。図らずも、自身清和源氏奥州石川氏一門ながら、旧磐城氏重臣/”別所・大崎の殿様”仙台猪狩氏の家老格”ダンポ”となっていた黒川澤田氏は、加うるに旧田村一族/”北目の殿様”仙台大越氏の縁戚に連なることになり、ここに岩城以来因縁の三氏は運命的に結びつけられたのである。
 むべなるかな、この時にして既に、二人の曾孫である筆者もまた、今日生物学的文脈に於て『澤田氏の歴た道 奥州黒川澤田家譜』を、社会的文脈に於て本『奥州黒川郡賦=黒川>鶴巣>別所望郷讃歌』を共にものするべく、早くも予定されていたのだと、逃れられない運命を感じずにはいられない!
 さて、維新で主家もろともに禄を失った金吾は、仙台猪狩氏ダンポから、仙台味噌の現在最古の老舗・佐々重の番頭に転進した。金吾まつゑ夫妻は基本的に「仙台の人」で、仙台に常住して地元鶴巣にはほとんど目立った事績を残さなかった。
ゆゑ辰五郎 他方別所の留守本宅は長女ゆゑ(1876〜1956)が姉家督となり、落合松坂の篤農家早坂家から辰五郎(1868〜1931)を婿養子にとって夫婦に預けられた。かくては「舎弟」となった長男養太郎は仙台笹川家(笹川旅館)の婿養子となり、その嫡男が笹川清敏先生である。
 辰五郎・ゆゑの代から澤田家は帰農し、仙台なる先代金吾・まつゑ夫妻とは独立採算で、専ら農業に従事することになった。しかし家計は厳しく、その上頑固一徹だけが取り柄の婿養子とてうだつも上がらず、とかく部落ではないがしろにされがちだった。
澤田金太郎
 ゆゑ・辰五郎の嫡子が金太郎(1895-1961) 、我が伯父(父の長兄)である。最後のダンポとして有名を轟かせた「一馬ダンポ」の後、先先代金吾・まつゑ─先代辰五郎・ゆゑと2代、地元鶴巣では存在感の乏しい当主が続いたのを遺憾とし、若くしてクーデタを起こして「家長」となり、一気に気を吐いて再び存在感を取り戻したのが、金太郎の代だった。
 「1901(明治34)年いまだ学齢前の金太郎は、終生の良きライバルだった東の家(シガスヌイ)の中米長蔵ら1年年長の新入生にくっついて、当時珍しくなかった『お客様』として勝手に通学し始めた。おおらかなもので、今日でいういわゆる『飛び級』だが、その成績があまりに優秀で年長の正規生徒を凌ぐほどだったので、翌1902(明治35)年そのまま小学2年生に進級、以降正式な同級生として公認され、順次進級・進学していった。(中略)
 『高等第二學年 澤田金太郎 第七學級々長ヲ命ズ 明治四十一[1908]年四月一日 鶴巣尋常高等小學校』(黒川澤田本家六代力所蔵)」(澤田諭『澤田氏の歴た道』)
 我々は牛馬と共に暮らした最後の世代で、いわゆる「伯楽(バグロー)」文化華やかなりし頃の名残りが、まだ色濃く残っていた。伯父澤田金太郎と我が父亥兵衛もまた産馬業に力を入れ、戦前戦中期は軍馬の肥育に努めた。金太郎は名伯楽の誉れ高く(金太郎の指揮の下実際の飼育にあたっていたのは、弟・我が父亥兵衛だった)、「1931(昭和6)年2月、農林大臣の表彰を受けた。
 『奨勵金授與證 宮城縣 澤田金太郎 右者所有ノ種馬 牝 石花號 優良ニシテ畜産改良ニ功績アリト認ム仍テ畜産奨勵規則第十一條ニ依リ奨勵金五拾圓ヲ 授與ス 昭和六[1931]年二月二十七日 農林大臣從三位勲二等町田忠治(印)』(黒川澤田本家六代力所蔵)(中略)
 1940(昭和15)年4月、宮城県産馬組合大松沢区鶴巣世話役となり、1947(昭和22)年まで同職にあった。(中略)
 〔戦後は農耕馬の飼育に努め、〕1947(昭和22)年4月、金太郎は農業会専務理事に就任したが、まもなく同会は解散した。(中略)1948(昭和23)年、黒川郡東部畜産農協が発足し、理事に選ばれた。翌1949(昭和24)年、民生児童委員を兼職した。(中略)1951(昭和26)年、鶴巣農業協同組合理事を経て、同年組合長に就任し、1960(昭和35)年5月まで三期九年間その任にあった。その間、(中略)黒川郡農業協同組合長会会長も務め〔、酪農にも力を入れ〕た。(中略)1957(昭和32)年、多年の功績により宮城県知事の表彰を受けた。
 『表彰状 黒川郡大和町 澤田金太郎殿 多年畜産振興に寄与した功績顕著であるここに記念品を贈り表彰する 昭和三十二[1957]年十一月三日 宮城県知事大沼康』(黒川澤田本家六代力所蔵)(中略)
 鶴巣農協組合長を辞したのち、同[1960]年金太郎は鶴巣酪農協同組合を結成して組合長に就任した。この間大和町農業委員も兼務していた。(中略)翌1961 (昭和35) 年6月(中略)うちつづく激務がたたり大和町吉岡・黒川病院で亡くなった。行年67歳」(澤田諭『澤田氏の歴た道』)。
 金太郎の嫡男が(私の従兄)、力の嫡子が当代(さかし)である。
 金太郎の弟亥兵衛(1911-2004)は実家に残って家業を補助・代行した後、1955年初めて別所沢内に分家独立した。すなわち我が父であり、私も小3まで本家に同居した。
 他方中米長蔵の嫡男敏夫氏、嫡孫当代潔氏とは、奇しくも3代続く同期で、かくては別所照節沢に400年並び立つ、下の家(シタヌイ)澤田家と東の家(シガスヌイ)中米家の良きライバル関係は、100年を超えて3世紀にまたがる伝説となり、21世紀の今日に及んでいる。
猪狩系三家
 猪狩・澤田氏の北目大崎入部以前の別所沢には、まず照節沢に「上(ウエ)の家(ウエヌイ)沢田家」及び「下(スモ)の家(スモヌイ)音羽家」の、次いで日光山に「上(カミ)の家(カミヌイ)音羽家」及び中米勇一家(「西の家?」。以前同家の特大の位牌を考究した郷土史家の論文を見つけて、届けたことがある)、計4家のそれぞれ祖先が土着していたものと推測され、やや遅れて照節沢に「東の家(シガスヌイ)中米家」の祖先が越後乃至羽前から移住して来たと伝承されている。
 そこに、1603年「磐城国替」により遠々猪狩家に付き従ってきた家中、我が「下(シタ)の家(シタヌイ)澤田家」が主家と共に入部し、「旦方(ダンポ)」(家中の長)として猪狩家在郷屋敷に陣取り、ウエの家沢田家、シモの家音羽家を又家中として「猪狩系三家」を構成し、領地経営の事にあたった。
猪狩家在郷屋敷
 猪狩家在郷屋敷は、 今日上下両澤田家の境界をなしている古道(幼いに頃はもう使われてはいなかったものの、まだ形跡を残していたが、今はほとんど潰れてしまった)を入口とし て、西と北の山腹の三ヵ所に氏神三神を祀った広壮な台地(谷津の峠南斜面/照節沢北斜面)に、南面して造営されていた。今日その跡地は上下両澤田家の畑地 および山林と化しているが、池跡等も偲ばれて当時の屋敷構えの跡をよく遺し、門の左右に「猪狩系三家」を従えた佇まいは、「猪狩家五百石在郷屋敷」の風格を今に雄弁に伝えている。
 明治維新で在郷屋敷は閉鎖され、猪狩家旧領の一部は旧猪狩系三家に分与されて、その古文書の一部は今も澤田本家に遺っている。
別所三姓
 爾来四百有余年、黒川郡内でも特異な「澤田・音羽・中米」「別所三姓」(苗字を見ただけで別所人とわかり、当時はほぼ毎年各姓から一人以上学童を輩出したものだ)が、岩堰のわずかな隘路を除いて外界からほぼ隔絶され、まさしく桃源郷然とした別所沢の空間に蕃居し(宮沢家は東の家中米家系、門間家は中米勇一家系と、共に女系から見做し得、中米勝男家は大崎に分籍した)、およそ他に比類ない村落の歴史を刻んで来たのである。
 因みに、澤田氏は「磐城国替者(外来者)」で、清和源氏奥州石川氏流。発祥の地磐城国石川郡澤田郷(現在の福島県石川郡石川町)、ひいてはその故地河内国志紀郡澤田郷(現在の大阪府藤井寺市澤田)に由来する。
 音羽氏は「在来者」で、後述する明治新姓であるが、
1)後述するように、色麻の加美郡音羽山清水寺に由来する可能性があり、
2)これも後述するように、18世紀から19世紀にかけて吉岡八幡神社楼門等を手がけた名匠・「棟梁北目大崎音羽忠内」の子孫であるか、あるいは明治になってその姓を冒したものと思われる。
 中米氏もまた「在来者」で、同じく明治新姓だが、その由来は不明である。
磐城大明神宮
 別所の内でも猪狩系三家以外にはほとんど知られていないが、磐城大明神宮は照節沢堤の北山腹にある鄙には稀な神さびた古社で、「国替え」の際に澤田氏が背負った笈に安置して磐城から営々遷座したと伝わる、猪狩氏の氏神「磐城大明神」等氏神三神の主神である。往時は鳥居、参道(石段)を供えたなかなかの構えで、猪狩家退去後澤田家では第一に尊崇し続け、猪狩系三家で共に祀っていた。今日では朽ち果てて、見る影もない。
 幼時父に連れられた”元朝参り(ガンチョウメエリ)”ではまっ先に参拝し、次いで澤田本家納屋裏、谷津峠山腹(既述の照節沢エゾ穴がある)の他の二神の祠に参って、その後でようやく黒川神社など別所沢の諸神に詣でたものである。
宮田旧墓地
 黒川橋のやや下流、宮田(みやだ。鳥屋八幡の社田に由来すると思われる)の沢口、東山道(奥大道)順路に、江戸時代の古い墓地がある。この宮田旧墓地は、1603年「国替え」で入部した”別所・大崎の殿様”猪狩氏五 百石に、磐城からつき従って来た股肱の家中我が澤田氏(シタの家、シタヌイ)と、当地で新たに又家中となったウエの家(ウエヌイ)沢田氏及びシモの家(ス モヌイ)音羽氏の、いわゆる「猪狩系三家」の旧墓地である。中でも澤田氏の墓碑は膨大なものだったが、残念ながら1997年ごろに改葬され、鳥屋玉泉寺に 合葬されて消滅した。
 「国替え」当初から、宗派の関係で敢えて(当時属していた北目の菩提寺・曹洞宗無著派金剛山玉昌寺ではなく)隣村鳥屋の臨済宗妙心寺派法宝山玉泉寺を菩提寺にしたと思われるが、墓地は宇頭山手前の東山道(奥大道)筋、手近な宮田(道中の宮田堤は、少年時代格好の釣り場だった)に置いたのである。
 庶 民が墓碑を建てるようになったのは江戸時代に入ってからといわれ、当初は菩提寺と墓地は必ずしも一体ではなかったようで、手近な黒川神社の鳥居前にも、中 米諸家の中ではおそらく最も古いと思われる中米勇一家の旧墓地がある。その他オヤグッサマ裏山にも、当然ながら、前述功徳山八聖寺等の墓地があったのであ る。
別所の宗門
 
因みに、別所の宗門は、
 1)「在来者」の(同期旧姓音羽美枝子さん等)カミの家系音羽家と(同期中米徳治君等)中米家は、順当に北目の「金剛山玉昌寺」(中学校主事千葉寛道先生が住職)だが、
 2)「国替者」我がシタの家澤田家と、「在来者」だが「猪狩系三家」に加わったウエの家沢田家及びシモの家系音羽家は、わざわざ宗門の異なる隣村鳥屋の臨済宗妙心寺派法宝山玉泉寺(小5担任長谷川先生宅)と別れ、
 3)肝心の「大崎山智光院」(小1担任佐藤みやこ先生宅。小学低学年の頃、毎朝通学途次自家製牛乳を届けたものだ)の檀家は一軒もない(宮沢家は大崎出自)。
”北目之スサキ”
 
このことは、
 1)今日別所は大崎の枝部落で行政上大崎に属しているが、本来は北目に属していたろうこと、
 2)ウエの家沢田家、シモの家音羽家、カミの家音羽家、中米勇一家、東の家中米家の5家は古くから別所に土着していた「在来者」であったこと、
 3)我が澤田家(シタの家)は、1603年「磐城国替」で主家猪狩家に付き従って来た股肱の家中で、「国替者(外来者)」であったこと、
 4)土着のウエの家沢田家及びシモの家音羽家は、後に猪狩家の又家中(猪狩系三家)となったこと
の歴史的表現に外ならない。
 上述のとおり、「別所」は「北目山別所寺」の山号から明確に「北目之スサキ〔洲崎?〕」であり、そこはその名も「大崎」裏にあたることは明白である。
 つまり、往時別所沢の東端から西に概ね大窪山での東南半は「大崎」と呼ばれ、余の別所丘陵は西の下草境日光山隘路から遠く高森山まで広く「北目」と称され、そのうち”お薬師様”を中心とする岩関までの今日の別所部分は「北目之『スサキ〔洲崎?〕』」と呼ばれていた。
 別所と北目は尾根を挿んで指呼の間にあり、今日でも峠越えの山道が、東は大窪山越えから西は日光山越えの東山道(奥大道)まで、少なくとも6本はある。我が父の幼いころは、もっぱらこれらの山越えで山向こう・北目の腕白連中と遊んだものだ、と話していた。
出羽三山碑
 「慶應三[1867]丁卯」年「二月拾八日」、下草・北目村境の辻(北目分)に「出羽三山碑」が建立された。
 当該石碑の建立者は、「甚太郎、善〓、石川周助、澤田一馬〔は しめ、シタの家、私の高祖父〕、沢田恒三郎〔ウエの家〕、徳治、忠左衛門、豊治、浦山久〓、周吉」の10名であった。そのうち当時苗字(名字)を有(公 称)していたのは、石川氏、澤田氏(シタの家)、沢田氏(ウエの家)、浦山氏の四家のみであったことが知られる(ここでは、「澤田本家(シタの家)」は 「澤」旧字、「沢田別家(ウエの家)」は「沢」略字と使い分けられていた)。
 石川氏は北目(父が幼時よく使いに出されたと語っていた)、浦山氏(同期転校生・奇しくも同旧姓沢田淳子さんの母方実家)は大崎に現存し、徳治は東の家中米家の祖先〔末裔の同期中米徳治君と同名〕である。
 1976(昭和51)年東北自動車道開通に際して日光山の峠旧道(北目分)に移され、さらに現在は高速道路西の個人宅(北目分)に移されている。
明治新姓(国民皆姓)
 「名字(苗字)は、家(家系、家族)の名のこと。法律上はと呼ばれ(民法750条、790条など)、一般にはともいう。
 名字は、元々、『名字(なあざな)』と呼ばれ、中国から日本に入ってきた『字(あざな)』の一種であったと思われる。公卿などは早くから邸宅のある地名を称号としていたが、これが公家・武家における名字として発展していった。近世以降、「苗字」と書くようになったが、戦後は当用漢字で「苗」の読みに「ミョウ」が加えられなかったため再び「名字」と書くのが一般になった。(中略)
 名字(苗字)は、姓(本姓)と違って天皇から下賜される公的なものではなく、近代まで誰でも自由に名乗る事が出来た。家人も自分の住む土地を名字として名乗ったり、ある者は恩賞として主人から名字を賜ったりもした。
 江戸時代には幕府の政策で、武士、公家以外では、原則として名字(苗字)を名乗ることが許されなかった。これをもって『江戸時代の庶民には名字が無かっ た』という具合に語られることがある。だが庶民といえども血縁共同体としての家があり、それを表す名もある。また先祖が武家で後に平民になった場合に先祖 伝来の名字が受け継がれる場合もあった。ただそれを名字として公的な場で名乗ることはできなかった。そうした私称の名字は寺の過去帳や農村の古文書などで 確認することができる。また商人がしばしば屋号をそのような私称として使った。
 明治政府も幕府同様、当初は名字を許可制にする政策を行っていた。幕府否定のため幕府により〔特別に〕認められていた農民町人の苗字を禁止し(中略)、 政府功績者に苗字帯刀を認めることもあった。(中略)明治3年(1870年)になると(中略)名字政策は転換された。9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字〔(氏、姓)〕を持つことになった〔「明治新姓」〕。」(Wikipedia「名字」)ここに至って初めて、晴れて「国民皆姓」となったのである。
 慣習として常用していた多くのものはそのまま名乗り続けたろうし、旧来の「屋号」を流用するもの、旧邑主の姓を拝用するもの、あげくは困り果てて神主や住職につけてもらうもの等々、悲喜こもごもであった。
別所七沢
 吉田川の支流竹林川と西川に挟まれ高森山を主峰とする別所丘陵は、北目大崎の主要な水源地帯で、丘陵東部に発達した別所沢は多くの枝沢を派生して「別所八沢」を形成し、それぞれが大小の堤を育んで、いわば”沢の沢””堤の沢”ともいうべき景観を呈しており、面積では優に北目大崎の半分を越えている。
 西端の黒川(クホガワ)源流から反時計回りに、1)具足沢(グソグザ)、2)勝負沢(ショウブザ)、3)曲松(マガリマヅ)、4)三六沢(サブログザ)、5)樅の木沢(モノギザ)、6)宮田(みやだ)、7)照節沢(ショセッツァ)、付けたり)マサスケ沢の大小7つで、 それぞれあまたの「堤(ツヅミ、貯水池)」を育んで別所沢を潤している。
具足沢・ゴルフ場
 具足沢(グソグザ)は正確には枝沢ではなく、別所沢本沢の源流部である。大堤(オオヅヅミ)大崎堤(オオサギツヅミ)な ど4つの堤(ツヅミ)があった。この内別所沢最大の大堤は北目の堤で、日光山峠の鞍部を越えて宮ノ沢から吉田川本流域の「北目沖(チタメオギ)」に通水し ている。春先に結氷が溶けて轟音を発する現象があり、岸辺では”水切り(イスキリ)”に興じ、大量に散乱する「木石(キイス、燧石(ひうちいし)」は子どもの格好のおもちゃだった。
 音に聞こえた山野草や鳥獣の宝庫で、往年は多くの猟師(テッポブヅ)や山菜採りで賑わった。我が家の田んぼがあり、農作業の手伝いがてら周辺の山野を遊び回った。
 1963年、具足沢から西は富谷、三ノ関にかけた山林一帯に、「富谷カントリークラブ/富谷パブリックコース」が建設された(そして我が実家の家族が勤務し、生計を立てている) 。
 次いで1990年、今度は具足沢北部の我が田んぼのほぼ半分が、我が家のを含む2つの堤と共に、西は下草鶴巣館まで拡がる「杜の都ゴルフ倶楽部」の地下に埋没した。結果として両ゴルフ場は隙間なく隣り合い、かくては具足沢は”ゴルフ場の沢”となった。
高森山
 あまつさえ、それまで細々つながっていた東山道の枝道、別所〜富谷を結ぶ旧道(中学の遠足で道に迷い””遭難”しかけた)も破壊・分断されて消滅し、大堤もろともに立入禁止となった。
 のみならず、別所丘陵最高峰にして黒川の源流・高森山(タガモリヤマ、74.7m)もまた、里人の立ち入れぬ山となってしまった。毎年お盆が近づくと、山のない砂金沢の同期の従兄・故佐藤重信君と連れ立って、桔梗、アザミ、山百合や名もない花々の”盆花採り”に精を出したものだったが……
 はたまた、昔の光今いずこ?。
 なお、富谷境の高森山山頂に、後述する「高森山殉職碑」がある。
勝負沢・鶴巣パーキングエリア
 上述のとおり、勝負沢(ショウブザ)には勝負沢遺跡があり、古くから開けた土地である。別所沢で最も深い沢で、3つの堤があり、特に最深奥の堤は景観が秀逸である。”カッコンバナ(カキツバタ?)”が自生していた。
 勝負沢と西は富谷の奈良木沢(蝶の触角のような、とても深く切れ込んだ沢である)の間はわずか150mほどしか離れておらず、我が水田の北ヨセ(寄せ)の「仏沢(ホドゲザ)」というイレッコ(小さな沢)から今日の東北道沿いに穀田に至る、東山道の枝道(山道)が通じていた。我が母は幼時、実家の砂金沢から祖父の実家穀田まで、この道を通っていた。
 ご多聞に漏れぬ山野草の宝庫で、特にアケビや栗などの山の実が豊富で、妹たちと大きな袋に入りきれないほど採った思い出の地である。
 1976年12月9日、勝負沢を縦貫して東北自動車道泉IC - 古川IC間が開通し、沢のほとんどが道路及び関連施設の地下に埋没した。かろうじて残った我が家のわずかな水田も耕作放棄されて、勝負沢一帯はまったく”高速道路の沢”と化した。
 我が家及び本家の水田跡に「鶴巣パーキングエリア上り」が建設され、ために我が家の堤1つも消滅した。現在PAの裏口になっている辺りは、農作業の合間に家族で”タバゴ”や昼餐を遣った、なつかしい小丘だった。
 勝負沢北陵・具足沢境には、「鶴巣パーキングエリア下り」が建設された。ここからは間近に、我が家をはじめ別所集落西部が望める。
曲松
 曲松(マガリマヅ)は集落西端の十石原(ズッコグバラ)・大原間の沢で、堤が1つあり、今は入口部を除いてほとんど耕作放棄されている。
 大原馬場跡馬浸馬の間にあり、往時は廃用した馬匹を屠殺する特別な場所だったようで、子どもの頃白骨が転がっているのを見つけて驚いたことがある。
十石原
 十石原(ズッコグバラ)は 曲松・三六沢間の台地で、三角田南囲唯一の中米誠一宅の屋号代わりになっており、いずれ10石を産した所以のものだろう。屋敷地は広大で、一時4、5軒居 住していたこともある。建屋南の畑から小高い山にかけては腕白連の運動場の態で、頂上からは日光山越しに吉岡の街並みが垣間見え、火事などあると登って偵 察したものである。我が家の方角からは、ちょうど頂上付近に遠く映える仙台の町灯りを、あの山の向こうは仙台、そのまた向こうは東京などと素朴に眺めて、 想像をたくましくしていた。
三六沢
 三六沢(サブログザ)は十石原の下流の沢で、サブロク18石を産する故の命名か?堤は3つある。
終戦直前旧軍の部隊が小学校に泊まり込み、この沢(と東隣の樅の木沢)に防空壕様のけっこう大きな岩室を2つ掘ったが、終戦で未完成に終わったようだ。「護仙部隊通信隊」がらみの軍事施設のようだが、真相は今もって闇に包まれている。
 「終戦直前には第142師団(護仙部隊)の陸軍兵が、日和山や渡波地区に布陣し、『本土決戦』に備えて、防空壕や地下壕を掘っていた。」(fb「永遠の南浜、門脇」)
 「昭和20[1945]年 ●護仙部隊通信隊本部として〔小学校〕教室を貸与」(大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993)
   本家の水田があり、代掻きなど手伝った。入口部は今も耕作されているようである。
樅の木沢
 樅の木沢(モノギザ)は三六沢の下流の沢で、上述のとおり、宇頭山を挟んだ鳥屋窯跡と並ぶ別所三角田南窯跡があり、早くから開けていた。小堤が2つある。
 後述するように、「藩有林の樅沢〔樅の木沢〕新松御林寛文6[1666]年の取立て。」(『角川日本地名大辞典』)
 ここにも上記の謎の岩室があり、いつも不思議に思って見ていたものだが、三六沢共々現場に行ったことはない。
 既述黒川橋の淵にあった趣きのある古碑群は、圃場整備後は南方樅の木沢入口の小丘に移されている。
 後述するように、「正月(中略)十四日 ちやせごあき〔明け〕の方よりちやせごにまゐった)〔家々を回り、”あぎの方からちゃせごに来すた”と唱えて、お菓子などをもらった。幼少時夜隊伍を組んで、樅木沢の大崎の同期旧姓高橋一子さん親戚の疎開者宅に行った強烈な記憶がある。土着の日本版ハロウィンであり、ぜひ復活させたい風習である。〕」
 少年期、木刀をたばさんで自宅前の黒川のほとりを辿り、黒川橋を渡って、前記古碑群が移された小丘に至る道のりは、我がお気に入りの散歩コースだった。
 現在東西の丘陵部には、本沢の数倍はありそうな広大な「開田」が拡がっているが、在郷時は典型的な里山でキジや狐などが生息し、たまに猟師が入り込むぐらいだった。ここも食糧増産期に他郷の人が開墾したと聞くが、既に耕作放棄も始まっているようである。
宮田
 宮田(みやだ)は樅の木沢の下流の比較的浅い沢で、堤は1つ。「宇頭坂を過ぎ〔て直進し〕別所に入」(『下草郷土誌』)った東山道が抜ける要衝である。
 「天正十九[1591]年(十八年か)九月十六日の黒川之内鳥屋庄検地帳(伊達家文書)によれば、記載範囲名は『とや・ 宮田・まちた・まちの下』等二十七ヵ所あり」(『日本歴史地名大系』)、古来鳥屋との縁が深かった。宮田旧墓地が置かれたことは既に述べたが、我が家にとっては、菩提寺法宝山玉泉寺に至る墓参や野辺送りの道筋だった。
 堤には菖蒲が自生し、端午の節句には屋根に飾ったり、菖蒲湯を楽しんだ。魚が豊富に生息し、里にほど近い地の利もあり絶好の釣り場で、私もよく釣り糸を垂れた。いわゆる”胴抜き(ドウヌギ)”で集落の男たちが総出で堤を干すと、大鯉などがおびただしく網にかかり、毎年大漁だった。
沢蟹
 宮田の東、同期藤倉靖君実家前辺りの窪地に小さな沢があり(大崎分だが、宮田との絡みでここに述べる)、沢蟹(サワガヌ)が生息していて、ヤロッコドモの良き遊び相手で、私も時折り捕まえては本家敷地裏の崖に放しりしたものだ。後年上京して居酒屋のメニューにサワガニの素揚げを発見して、一驚した。東京人はなんて野蛮なんだろう!子どもの友達のサワガニを食べるなんて、考えられなかった。
 数十年前カニ穴を探そうと様子を伺ってみたが、あたりはまったく山野と化していて、沢の所在さえ定かでなかった。
  沢蟹をここだ〔幾許〕袂に入れもちて 耳によせきくいきのさやぎを 阿佐緒(生家第二歌碑,1961)
岩堰
 岩堰(イワジギ)は、黒川が最も北寄りに流れ、大窪山南突端の断崖を洗う所に設けられた堰で、別所と大崎の境をなしている。堰から上流はもちろんとびきりの釣り場で、堰下の川床は固い岩盤層が長く露出していて、小魚を漁るには格好の場所だった。
 別所はまさに子宮のような地形で、我々はぬくぬくとその安全な胎内にまどろみ育まれたと、常々私は譬えており、その子宮口に位置するのが岩堰である。岩 堰周辺の沢幅はわずかに南北30-40mほどしかない隘路で、別所沢を深く外界から閉ざしていた。集落から東はただ岩堰が見えるのみで、大崎方面からも別 所を見ることは叶わなかった。
 近年はだいぶ様子が変わり、既述のとおりの山砂採取で、天神館(天神城)跡もろともに、天神山(宇頭山)北部の大崎分が破壊されて、県道から西方わずかに望めるようになり、沢の奥からも大平方面が見通せるようになった。
岩堰隧道・コウモリ
 岩堰の北端から東の松根油後ろまで、切り立つ断崖を穿って手掘りの「岩堰隧道(ずいどう)」が開削され、大崎集落方面に農業用水を供給していた。いったいいつ頃掘られたものか、40-50mはあったろうが、詳細不明である。
 隧道内は真っ暗で、内部にはコウモリが生息していた。集落の男の子は、肝試しと冒険心から必ず一度は、ロウソクを片手に水を漕いでコウモリを捕まえ、勇気を奮って通り抜けたものである。
 今や、圃場整備の後ち岩堰と共に用済みとなり、閉鎖されてしまったようである。
”松根油”
 岩堰から東に岩堰隧道を抜けた、同期藤倉靖君実家(以前は遠藤進君という同期の疎開生宅だった。大崎分だが、岩堰との絡みでここに述べる)は、通称”ショコイ”と屋号並みに呼ばれていた。これは、実は「松根油」の謂である。
 「松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。松根テレビン油と 呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空ガソリンの原料としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。 松根油はよく樹液や樹脂(松やに)あるいはそれらからの抽出物と混同されるが、別物である。特に樹液は木部を流れる水および師部を流れる糖などを含む水溶 液であり、松根油とは全く関係ない。松根油はテレビン油の一種である。上質なテレビン油は松やにを水蒸気蒸留して得るが、松根油は製法が異なり、マツの伐 根を直接乾溜して得るものである。戦前は専門の松根油製造業者も存在し、塗料原料や選鉱剤などに利用されていた。昭和10年頃の生産量は6,000キロ リットルほどであった。」(wikipedia「松根油
 いずれ、松根油製造業者の工場があったのだろうが、詳細不明である。
海貝の化石
 岩堰の真上にあたる大窪山南尾根の小頂に断崖があり、海貝の化石が 露出していた。これは太古はこの辺りも海で、地殻変動で隆起して陸地となった証しである。いかにも鋭利な石器の製作に適しそうな岩石などもみられ、相澤君 と探索を重ねたたものだ。ここも数十年前に再訪してみたが、くだんの断崖自体が自然崩落してしまったようで、片鱗を確かめるすべもなかった。
 また、この辺りの山一帯は栗の宝庫で、学校帰りの道草はもちろんのこと、特に台風の後などはおもしろいほど拾えた。
大窪山
 別所から東を見ると、正面の岩堰の左に立ちはだかるのが大窪山(オゴボヤマ)で、西斜面の山畑(同期旧姓八嶋克子さん実家の所有という)がよく見えた。雪の冬などはここを通って近道して、中学に通学したものだ。のちに述べるスズの水がある「大窪」の深く切れ込んだ沢が西を限り、東は初代階段校舎(1953-89、現鶴巣防災センター)のあった峠までが大窪山で、山頂一帯は学校農園になっていた。道草を食いながらちゃっかりサツマイモを失敬したりしたものだが、そこに建てられたのが2代目大窪山校舎(1989-2007、現鶴巣教育ふれあいセンター)である。
 建設工事用道路はそのまま供用され、北目への抜け道になっている。さもその代償でもあるかのように、伝統の大窪のオヤグッサマ参詣路が、別所側で封鎖されて行き止まりになり、今や杉林と化している。
照節沢
 オヤグッサマを別所の脳髄とすれば、照節沢は心臓部である。東の家から西は音羽久家までが照節沢(ショセッツァ)囲で、別所の東半分を占め、堤が1つある。
 照節沢北陵は豊かな水脈を誇り、照節沢エゾ穴の昔から人々が住み着いていることは、既に述べた。江戸期には猪狩氏・澤田氏が磐城から入部し、猪狩家在郷屋敷を営んだことも既に述べたとおりである。猪狩氏の氏神・磐城大明神宮も鎮座している。
 明治以前から猪狩家在郷屋敷を中心に、猪狩系三家及び独特の別所三姓の下(シタ)の家澤田家、上(ウエ)の家沢田家、下(シモ)の家音羽家、東の家中米家の4家が蟠踞し、連綿今日に至るまで代を重ねているばかりでなく、さらに別所沢内外に係累を増やし続けている。
 照節沢には山道が発達し、尾根筋や峠を介してオヤグッサマや日光山金剛山玉昌寺、谷津、大越家在郷屋敷、大窪、大窪山などあらゆる方角に四通八達する、当時の徒歩交通の要衝だった。
 幼い頃3人の妹たちと母の先頭に立ち、本家から山道を登って谷津の峠を越えればもう北目で、目指す砂金沢の母実家は1キロに満たない目と鼻の先に見え、直線最短コースの里帰りだった。
照節沢堤のモリアオガエル
 照節沢堤に、貴重なモリアオガエルが生息している。モリアオガエルは「山地で多く見られ、非繁殖期はおもに森林に生息するが、繁殖期の4月から7月にかけては生息地付近の湖沼や水田、湿地に集まる。(中略)
 モリアオガエルの生活史の特性は、特に産卵生態によって特徴付けられる。カエルは水中に産卵するものがほとんどだが、モリアオガエルは水面上にせり出し た木の枝や草の上、地上などに粘液を泡立てて作る泡で包まれた卵塊を産みつける。泡の塊の中に産卵する習性は多くのアオガエル科のカエルで共通している が、モリアオガエルは産卵場所が目立つ樹上であることもあり、日本本土産のアオガエル科のカエルでは他に泡状の卵塊を形成する種が地中産卵性で小型のシュレーゲルアオガエルしかいないこともあって特に目立った存在となっている。(中略)一方で、 環境省のレッドリストには指定されていない。(中略)
 福島県双葉郡川内村平伏沼(へぶすぬま)の繁殖地(中略)が国指定の天然記念物と指定されている他、各自治体レベルでの天然記念物指定は数多い。」(wikipedia「モリアオガエル
 かたや川内村には、「神城趾/川内村大字下川内字館の下にあり、一名を東館と云ふ。屹立小山をなす。天明〔正〕年間〔1573-92〕岩城家の臣猪狩下野守〔親之〕の居趾なりといふ。草木叢生して僅かに其跡を存するのみ。」(『双葉郡誌』児童新聞社)
 こなた照節沢堤放水路の谷津を挟んだ向かいには、「磐城国替」に際し猪狩下野守家臣澤田氏がはるばる負ってきた磐城大明神宮が鎮座しており、まことに奇縁としか言いようがない。
 照節沢は北目運動場辺・同期安藤忠男君宅に抜ける近道で、昔はよく利用されていた(私もしばしば通った)ので、モリアオガエルの生息は子どもの頃からよ く知っていた。だが、それを改めて希少な「モリアオガエル」と認識したのは、長じてかなり後のことである。地元でも、別所以外ではほとんど知られていない だろう。
 現在堤を通る山道はまったく人跡途絶えて元の野となり山となり、今は足の踏み入れようもない。が、しかし、これはモリアオガエルにとっては幸いだったろ う。里人から忘れ去られ、野放しの自然に守られて、今もなおひっそりと、野生の命の糸を紡いでいることを祈る。
照節沢湧水群
 上述のとおり、照節沢北陵から尾根を跨いで北目谷津・大窪山にかけた一帯は、豊富な地下水脈に恵まれている。これが、エゾ穴の太古から人々が住みつき、江戸期には猪狩氏や大越氏が田宅を置いた大きな理由であろう。これらは、いわば「照節沢湧水群」とでも称すべき地勢である。
 かつて本家の池(今はだいぶ小さくなったが)には鯉が悠々と泳ぎ回り、アヒルがいたるところに産卵し、のどかなものだった。先年運よくオヤグッサマの” オミゴッサマ”巡行に際会した時は、昔の約束どおりに勇躍池の中に雪崩れ込み見せ場を作ってくれた。とにかく神輿は川や池、果ては堤が大好きなのである! わずかに片鱗を遺す、貴重な猪狩家在郷屋敷の池跡なども、偲ばれる。
 今日でも特にウエの家の見事な湧水池は変わらぬ豊富な水量を誇っており(厳冬期の垂氷(タロヒ、氷柱)は壮観である)、シモの家にも池と大井戸があり、 東の家裏には豊富な湧水を引いた複数の水槽があった。この水脈がさらに東に伸びたのが、後述する大窪山の池及び「スズの水」であろう。
原っこ
 1955年、”北目之スサキ(洲崎)”の突端・三角田南囲に別所で唯一、我が家が分家するまでは、そこは”原っこ”と 呼ばれて、子供たちの遊び場になっていた。岩だらけの固い岩盤で石ころがゴロゴロしており、耕作に適さなかったので、長い間雑草の生えるまま放置されてい たようである。チャンバラや隠れんぼにはまさにうってつけのロケーションで、南は堀や堰にも面し、日がな一日遊び疲れるまで、子供たちに愛されていた。
マサスケ沢
 マサスケ沢は音羽武彦家の西の小さい沢で、堤が1つある。これといった逸話のない目立たない沢で、立ち入ったこともなく、この沢にも「マサスケ沢」と言うりっぱな名前があったことを、最近まで知らなかったほどである。
 堤の東の山上に、とある建設会社の資材置き場ができている。
日光山
 日光山(ヌッコウザン)は、
 1)広義には、照節沢や北目分を含んだ、オヤグッサマの裏山全体の山名、
 2)中義には、旧カミの家から西は音羽武彦家までの字名「日光山」囲で、東の照節沢囲と別所の集落を二分する。
 3)狭義には、今日東北道が貫通している日光山峠あたりの通称で、通常「日光山」と言えばこれである。
 上述のとおり、南対する勝負沢遺跡と一帯の日光山遺跡・日光山西小塚が発掘され、東山道の要衝であることは言うまでもない。
 現在峠付近の個人宅庭先(北目分)に、幕末の出羽三山碑が移設されていることも既に述べた。
 既述のとおり、別所沢最大の堤・具足沢の大堤は北目のもので、貯水は日光山峠の鞍部を洗って宮ノ沢堤に注ぎ、北目沖の水田を潤している。
 現在大崎の小学校裏に移転している”製板屋”「高橋製材所」が、用水の橋を渡った西の北目分にあった(北目分)。我が家の旧居建設の際も、自家の山の用材をここで製板した。
 1976東北自動車道が横断した際、東西両側に側道が設けられた。東側道の東に、創価学会の「妙徳墓園」が建設されている。

◯北目大崎(チタメオオサギ)
 さて、実は「別所、北目、大崎、砂金沢」はいずれも俗称で、今日は住居表示上長々と、例えば「宮城県黒川郡大和町鶴巣北目大崎字照節沢34番地」などと 表記し、行政上は「大崎区第一班」である。ここで公式に「大字」として援用され(、しかしながら実際生活上はほとんど死語と化し)ている、江戸期の旧「北 目大崎村」域は、往古は「北目村」と「大崎村」がそれぞれ独立・並存していた、と思われる。その内「別所」は、今日とは異なって「北目村」に属し、「大崎 村」には「砂金沢」が属していた。
 1)上述のとおり、「黒川郡北目山別所寺黒川薬師ノ御事(中略)
 黒川郡三ヶ内城主報恩寺可則(中略)老母是有り北目之スサキ〔洲崎?〕大崎裏西タテ〔館〕と号置候所に元応〔慶〕五[881]年辛丑年老母死然可則為母の寺を立薬師造進」(『黒川郡誌』)。
 2)下に述べるように、「〔1606年〜〕数年の後〔大越源兵衛〕二男十左衛門〔茂世〕政宗公于仕え、以て黒川郡北目村に領地を有し、而来住みて卒す。」(「大越家系勤功巻」)
 3)下に述べるように、「寛永元[1624]年の〔砂金沢の邑主〕上郡山内匠頭宛伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によると北目村大崎村など三ヶ所の永荒五町は五ヵ年荒野とし、開墾後は検地を行い、その開発状況によって辛労分を与えるとある。」(『日本歴史地名大系』)
 4)下に述べるように、「大崎山智光院 (中略)延宝三[1675]年二月(中略)の開山なり」(『黒川郡誌』)。
 5)「大崎 又北目大崎といひ、今、下草、大平、〔鳥屋、〕幕柳、〔太田、山田、〕小鶴沢等と相合せて、鶴巣村と改む。」(『大日本地名辞書』)
 すなわち、「北目大崎村」は、「江戸期〜明治22[1889]年の村名」(『角川日本地名大辞典』)である。その正確な時期と由縁は不明だが、ある時期、何らかの理由で(それは永遠の謎である)「北目村(別所)」と「大崎村(砂金沢)」は統合され、新たに単一の「北目大崎村」が成立した、ものと思われる。
 もちろん中には、上述のとおり「猪狩下野〔親之〕処へ(中略)、慶長八[1603]年」(『仙台藩家臣録』)「是ヲ以テ姑ク糊口ノ資ト爲シ、四百石〔後五〇〇石〕之田ヲ北目大崎(中略)邑ニ於テ給」(『伊達世臣家譜』)さる、といような例外も見えるが、これらはさだめて後代の「刷り込み」と見て然るべきだろう。
北目大崎の沿革
 その「北目大崎」域は「古墳の多い鳥屋地区に接し、当地にも北目大崎古墳〔大崎〕や別所横穴古墳群などがあり、さらに縄文中期の勝負沢遺跡や同晩期の別所遺跡〔三角田囲、散布地 〕などがある。(中略)
 また付近の〔北目〕寺東A・B両遺跡から土師器・須恵器などが出土しており、ふるくから開けた地であったみられる。鎌倉末期までは北条得宗領、戦国期の 十五世紀後半から黒川氏の領地となり、天正(一五七三ー九二)まで続いた(大和町史)。」(『日本歴史地名大系』)
 「中世には館〔北目大崎館〕も築かれ、その遺構も残っているが、詳細不明。」(『角川日本地名大辞典』)
 「慶長九年(一六〇四)から寛永十一年(一六三四)まで伊達宗清の知行。のち宮床伊達氏・〔砂金沢の領主〕上郡山斑目八谷・〔北目の領主、澤田氏の縁戚〕大越・〔別所・大崎の領主、澤田氏の主家〕猪狩・〔修験の〕良覚院などの知行地となる(伊達世臣家譜)。(中略)
 また北目地内に船着場として新町を設け、開発人たちの伝馬宿送が許可されている。」(『日本歴史地名大系』)
修験道と北目大崎村の立村
 小生つらつら案ずるに、そもそも「役行者の後を慕い、(中略)修験道の発展に寄与」(wikipedia「円珍」)した天台寺門宗宗祖・智証大師円珍の薬師如来像を本尊とする北目山別所寺は、その創建当初から神仏習合の色濃い天台修験寺であった。
 下って江戸時代には、仙台藩修験の元締「総触頭」として藩内全領に睨みをきかせていた本山派(天台系、山王神道)「良覚院(二六〇石 着座)(伊達)」(『大和町史』)が、北目大崎村に領地を知行されて在郷屋敷を置き、そのお膝元となっていた。さらに、吉岡の水晶山不動寺龍善院は「仙台良覚院の末寺にして本山派なり(中略)元下草村にありしを〔伊達〕宗清当地移転に際し随従せり」(『黒川郡誌』)。なお、隣村の鳥屋にも、羽黒派の長円坊があった。
 なお、ここに言う「触頭(ふれがしら)とは、江戸時代に江戸幕府や藩の寺社奉行の下で各宗派ごとに任命された特定の寺院のこと。本山及びその他寺院との上申下達などの連絡を行い、地域内の寺院の統制を行った。
 室町幕府に僧録が設置され、諸国においても大名が類似の組織をおいて支配下の寺院の統制を行ったのが由来である。寛永13年(1635年)に江戸幕府が寺社奉行を設置すると、各宗派は江戸もしくはその周辺に触頭寺院を設置した。浄土宗では増上寺、浄土真宗では浅草本願寺・築地本願寺、曹洞宗では関三刹〔大中寺 、總寧寺 、 龍穏寺〕が触頭寺院に相当し、幕藩体制における寺院・僧侶統制の一端を担った。」(wikipedia「触頭」
 かくては”オヤグッサマ”は俄然修験道の牙城と化し、藩政時代初期には既に「北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来」(第二号古文書写)と称し、つまりは明快に「鎮守寺」を標榜していた。当然ながら付属の「鎮守社」を従えて一大伽藍を形成し、当時一世を風靡し隆盛をきわめていた修験山伏が、別当となって跋扈した。
 「元禄六[1693]年四月吉祥日 山王別当」(『黒川郡誌』)が、北目山別所寺黒川薬師第一号古文書写を書写しており、鎮守社として「山王神社」が付属し、別当が置かれていたことが明白である。
 次いで「『安永風土記』[1774]では村鎮守〔寺〕功徳山八聖寺別所薬師堂とあり 別所の羽黒派修験明喰坊が別当をつとめていた。」(『日本歴史地名大系』)
 やがて、同じ「『安永風土記』[1774]に記される〔北目大崎の〕社は、岸の熊野宮・稲荷宮、中屋敷の神明宮、宮の沢の新山権現、二分一(にぶいち)の天神宮(中略)で、いずれも〔大崎・北目を結ぶ八幡峠にあった鎮守社・〕当山派修験〔(真言系、両部神道)〕大宝院が別当をつとめていた」(『日本歴史地名大系』)ところ、下って「明治三[1870]年庚子四月以て其時代の〔別所薬師堂〕神官は本村祀官〔大宝院〕日野丹吾奉職中にして」(『黒川郡誌』)とあるので、別所薬師堂別当もまた、おそらく安永[1772-1781]間もなく鎮守社当山派大宝院に交代していた。
 このように、当地では山岳修験道が急速に勢力を伸ばして神仏両部修験寺の巣窟と化し、近世藩政の始まる頃には既に「鎮守寺」”オヤグッサマ”として北 目・大崎両村の住民を強力に支配し、あまつさえ勢いに任せて両村を「合併」させてしまい、今日に敷衍する「北目大崎村」を立村させた、のではなかろうか、と愚考する。
檀那寺の建立
 他方では、江戸幕府「檀家制度」下、宗門改執行機関たる檀那寺(牌寺、菩提寺)として、おそらくは「鎮守寺」北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来の、鎮守社山王神社別当「山王別当」の強い影響下に、
 1)北目村には曹洞宗無著派金剛山玉昌寺が、「宮城郡天台宗松島寺の末寺にして観昌寺と稱し大同年間[806-810]創立せり 其後廃寺無住たりしを 慶長十四[1609]年加美郡羽貫沢村(今の宮崎村)洞雲寺十二世玉江〓〔門構えに言、ぎん〕浦和尚再興して曹洞宗に改め」(『黒川郡誌』)、
 2)東隣の大崎村には、「延宝三[1675]年二月本寺〔仙台北山輪王寺〕十四世松巌春長和尚〔「太田山慈雲寺に同じ〕」(『黒川郡誌』)によって、同じ曹洞宗ながら太源派の大崎山智光院が建立された。
檀家制度
 「檀家とは檀越(だんおつ)の家という意味である。檀越と は梵語のダーナパティ(danapati)の音写であり、寺や僧を援助する庇護者の意味である。(中略)檀家という言葉自体は鎌倉時代には既に存在していたが、現在の意味合いになるのは荘園制の崩壊によって寺院の社会基盤が変化してからである。そして江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度〔寺檀制度〕檀家制度の始まりである。
 檀家は特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せ、布施を払う。この布施を梵語のダーナの音写で檀那(だんな)と呼び、檀家(檀越)が所属する寺院を檀那寺という。(中略)しかし、寺請制度に端を発する檀家制度においては、寺院の権限は強く、檀家は寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が存在していた。寺院側は、常時の参詣や、年忌・命日法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山上納金などの名目で経済的負担を檀家に強いた。今日における彼岸の墓参りや盆の法事は、檀家制度によって確立したといえる。
 本末制度や他の幕府宗教政策もあって、寺院は社会的基盤を強固な物にすることに成功したが、一方で仏教の世俗化が進んだ。寺請の主体となった末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむようになり、仏教信仰は形骸化していく。檀家を持たない寺院〔祈祷寺〕は現世利益を標榜することで信徒と布施を集めるようになり、檀家を持つ寺〔回向寺〕もまた祖先崇拝といった側面を強くしていった。いずれにせよ、このような寺院の強権的な立場、民間信仰(祖霊信仰)とのより強い混合、また堕落は制度ができた当時から批判があり、それらは明治の廃仏毀釈に繋がっていくことになる。
 現在では、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度は残っている。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りは日本に根付いており、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を自身の家の檀那寺に委託する例は多い。(中略)
 檀家は一方的な負担を強いられることになったが、先祖の供養といった祖先崇拝の側面を強く持つことで、檀家制度は受け入れられていった。日本において、 死後一定の段階経るとホトケになる(ご先祖様=ホトケ様)という元来の仏教にないことがあるのは、その代表例である。檀那寺に墓を作るということも半ば義 務化されていたが、一般庶民でも墓に石塔を立てる習慣ができたのはこの頃である。(中略)
 寺請制度は、1871年に氏子調に引き継がれて廃止されたが、檀家制度は依然存在している。」(wikipedia「檀家制度」
北目大崎の由来
 
さて、村落の名称としてははなはだ異色な(さながら昨今のインタチェンジ名を先取りしたような)「北目大崎村」の由来については、上来さまざまな説がまことしやかに唱えられてきた。例えば、「北目は北方への監視所の意で、大崎は室町期の奥州探題だった大崎氏がこの地に拠ったためとされている(宮城県地名考)が、これは逆に『大崎北目』で大崎に備える北目の意味であろう。」(『角川日本地名大辞典』)
 しかしながら、当時の仙台藩では今日の想像を絶して隆盛を極めていた神仏両部「修験道」別当の強大な力の他には、説得力を有する妥当な淵源は考えられない。歴史的文脈に照らして虚心坦懐に考察すれば、真相はかくの如く単純なものだった、のではなかろうか。
 因みに本稿の執筆・推敲・編集を重ねながら、もとより史学は専門外(ほとんど二次資料・三次資料に拠り、とても史学論文とは言えないことは自覚している)であるが、「歴史」を考究するにあたってもまた、「現在」の視点でがんじがらめにされている「固定観念」を打破して、文字どおり「白紙」の状態でひたすらに「想像力」を養い、対象が身近で古ければ古いほどなおさら想像をたくましくすることがいかに肝要であるかを、しばしば痛感させらたことを告白しておく。
 古の別所オヤグッサマ、小鶴沢長根街道の賑わい、然り。下草、蒜袋、宮床の殷賑、然り。対照的な富谷、吉岡、大崎の閑古、然り………修験道の隆昌も、思いがけず目から鱗を落とされた、その大きな一つであった。
北目大崎村
 爾来1889(明治22)年の「鶴巣村」発足まで約200年近く、一貫して「北目大崎村」一村の大村であり続けた。
 しかしながら古代においては、東山道(奥大道)・中世奥州街道の順路であった別所を除けば、今日の北目・大崎・砂金沢域はおおむね官道を外れており、他に見るべきめぼ しい遺跡・史跡も見当たらない。あまつさえ、鳥屋との南境には天険の交通難所「天神山」の断崖絶壁がそばだち、下草との西堺には「日かげ沼」が口を開け、「昔は相当に大きな沼らしかった。七ツ森から吹きおろし風を真っ向に受けて、冬は里人等も大崎方面への往来には難儀な場所である。凍死したものも五指を屈する程である。俚話に
          下草のなァ 日蔭沼のすがの(氷の方言)割れ いつとけて流れるやァ」(『下草郷土誌』)。
 桧和田との北境は吉田川に遮られ、大平との西境は小西川に隔てられて四境がほぼ隔絶し、徒歩及び駄馬による峠・尾根旧道の最短路を基本とした当時の交通事情からすれば、領域こそ広かれ実は辺境地域で、長い間取り残された「辺鄙連合」の感すらあったといえよう。
 北目大崎村 江戸期〜明治22[1889]年の村名。黒川郡のうち。『安永風土記』[1774]によれば田畑合計 189貫〔1890石〕余、この内蔵入地15貫〔 150石〕余(2貫〔20石〕余は茶畑)・給地 173貫〔1730石〕余。村内には一門の宮床伊達氏や家格太刀上の上郡山氏のほか、斑目・八谷・大越・猪狩諸氏の知行地があり、このほか、仙台の修験良覚院の給所もあった。人頭43・家数49・男女合計 352・馬95。藩有林の樅沢〔樅の木沢〕新松御林寛文6[1666]年の取立て。が 多く、具足沢〔(グソグザ)、大堤〕・金堀沢〔?〕・宮田沢〔宮田(ミヤダ)〕・(中略)勝負沢〔(ショウブザ)〕・具足沢新〔(大崎堤)・曲り松〔(マ ガリマヅ)〕・三六沢〔(サブログザ)〕・樅の木沢〔(モノギザ)〕・照節沢〔(ショセッツァ)・マサスケ沢〕堤など(中略)があり、ほかに岩堰〔(イワ ジギ)〕があった。」(『角川日本地名大辞典』)
 「『安永風土記』[1774]に記される社は、岸の熊野宮・稲荷宮、中屋敷の神明宮、宮の沢の新山権現、二分一(にぶいち)の天神宮(中略)で、いずれも〔八幡山峠の〕当山派修験大宝院が別当をつとめた。」(『日本歴史地名大系』)「ほかに〔照節沢の猪狩氏氏神磐城大明神宮、〕修験寺として大宝院(当山派)・〔別所の〕明喰坊(羽黒派)の2院がある。(中略)
 『天保〔1830〜43〕郷帳』の村高 1,904石余。」(『角川日本地名大辞典』)
 後述するように、「北目大崎にては八谷雄右衛門大善院(中略)等あり以 て近隣子弟を教育せり」。(『黒川郡誌』)
修験山伏「飛行隊」の戊辰戦争
「是に於て梁川方面の列藩勢は大に勢力を恢復して、進みて二本松を突かんとしたるに、(中略)翌〔1868年8月〕十七日(中略)仙藩〔下述する”北目の殿様”〕大越文五郎之を統べ、二本松に向って進撃す、本道の先鋒は山形上の山にて、仙藩の飛行隊、聚義隊之に続けり、進みて二本松に至るや、西軍胸壁に據りて突然一斉に射撃せし為、先鋒は脆くも頽くずれ立ち、直ちに退却を開始せし為、飛行隊は敵の囲む所となりて苦戦し、隊長梅村信太夫以下死傷頗る多く、遂に利あらずして退却、根子町を固めたり」(藤原相之助『奥羽戊辰戦争と仙台藩』柏書房)。
「因みに飛行隊は封内の修験者〔山伏〕を以て組織せしものにて、良覚院菅野諦真の配下たり」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)。
 上述のとおり、良覚院は伊達家の流れを汲む二百六十石・着座の家柄で、同じ北目大崎村に領地を有していた”北目の殿様””北目の殿様”大越文五郎とは、浅からぬ因縁にあったと思われる。
明治維新と修験道の落日
 「奥羽越列藩同盟の盟主だった仙台藩は、戊辰戦争の敗北によって大幅な減封処分を受け、1871年(明治4年)の廃藩置県により消滅してしまう。藩の財政的裏付けがなくなった上に、1872年(明治5年)の太政官布達により修験道は廃止され(修験禁止令)、良覚院は廃寺となり、当寺〔花京院〕も時を同じくして廃寺とな」(Wikipedia「花京院」)った。
 当山派大宝院もまた、上述のとおり、「明治維新後は〔本尊を〕陸前国黒川郡北目大崎鎮守黒川薬師に袖振薬師と稱し置き神仏両部にて(中略)明治三[1870]年庚子四月以て其時代の神官は本村祀官〔大宝院〕日野丹吾奉職中にして(中略)仏取除き祭神少彦名命黒川神社と稱可き認可相成」(『黒川郡誌』)った。
 「維新後に至り是等真言宗〔当山派〕は全部復職して神官となり専ら神社に奉仕することゝなりたれども 何となく従来遵奉し来れる真言の宗味を脱却すること能はざるの観あり」(『黒川郡誌』)。
氏子調
 「明治政府は、明治4年7月4日(1871年8月19日)に太政官布告第三二二号『大小神社氏子取調』を発布し、氏子調〔氏子調規則、郷社氏子制〕を開始する。氏子調は同法令によって郷社とされた神社の氏子となることを義務付けるもので、宗教政策の側面と同時に、戸籍や身分証明の側面を持つ。これは、先史の寺請制度の後継制度と言え、寺請制度は同年9月に廃止されている。簡単に言えば、それまで寺請制度によって仏教寺院の檀家となることを義務付けられていたのが、神道の制度に置き換わったということである。
 しかし、明治6年(1873年)5月29日、太政官布告第一八〇号にてわずか2年で廃止された。
 宗教政策としては、キリスト教禁止(邪宗門厳禁)や神道復興の側面を持つが、内政としては戸籍制度の補完、行政単位の区分けという側面も持つ。
 神社・神道を利用した制度ではあるが、発給決定権など権限は戸長に集中しており、神官は単に守礼記入と統計処理を行うだけであった。」(wikipedia「氏子調」
明治北目大崎村の変遷と鶴巣村の立村
 明治維新後北目大崎村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、後述するように、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡北目大崎村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡北目大崎村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第五小区北目大崎村
  第五小区 桧和田 北目大崎 鳥屋 大平
   四ヶ村 二等戸長 千坂藤右衛門  副戸長 佐々木久四郎 高橋運治
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小三区北目大崎村
  小三区 北目大崎 大平 桧和田 相川 松坂 報恩寺 三ヶ内
     合七ヶ村  戸長 千坂雄五郎  副 不祥
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區北目大崎村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)北目大崎大平土橋鶉崎村      戸長 高橋運治
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕        戸長 高橋運治─千坂雄五郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし(中略)
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
第一中学区四十五番北目大崎小学校
 後述するように、「明治六(1873)年(中略)富谷〔富谷・今泉・大童・三ノ関・下草西成田〔穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢
 北目大崎北目大崎小学校、桧和田・北目大崎・鳥屋・大平
 中村 山崎 粕川 大松沢 大衡 相川 今村 吉田の各村に各一小学校を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院〔大崎山智光院〕を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)、
 「五月創立 〔第一中学区〕四十五番北目大崎小学校と稱す」(『黒川郡誌』)。「校長更迭左の如し 日野丹吾」(『黒川郡誌』)。
 仝八[1875]年八月新築
 仝十一(1878)年大平村に一本木小学校〔大平〕(中略) 小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕(中略)を設け
 仝十二(1879)年三の関小学校〔一ノ関・二ノ関・三ノ関・志戸田・下草〕を置く
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十四(1881)年一本木小学校を北目大崎小学校の支校〔一本木支校〕となす
 仝十八(1885)年学区を拡張して本郡を吉岡北目大崎の両学区に分ち吉岡小学校の外に北目大崎小学校に高等科を置きたるも 仝年八年〔月〕北目大崎学区を廃して吉岡学区に併合し其高等科を廃止せり
 仝十九(1886)年北目大崎小学校に属する一本木支校廃せられ 今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十(1887)年三ノ関小学校を廃して富谷小学校の分校〔三ノ関分教場〕となす
 仝二十二[1889]年三ノ関分教場を廃す
鶴巣小学校
 此年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ今泉は富谷村に属せしを以て鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕 〔及び下草分教場並びに大平分教場〕を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる
 仝廿五[1892]年四月小学校令実施 吉岡小学校は尋常高等を併置し其他は尋常小学校〔鶴巣尋常小学校〕となる
 仝二十八[1895]年移転新築
 仝二十九[1896]年九月二十四日下草大平両分教場廃止 並に高等科併置認可〔鶴巣尋常高等小学校
 仝三十[1897]年八月山田分教場新築
 四十[1907]年三月一部改正となり尋常小学校の修業年限を六ヶ年に延長せり
 仝四十二[1909]年十一月校舎一棟
 大正十(1921)年校舎一棟増築〔母の話では、俗に"障子学校"と呼ばれていた由である〕(『黒川郡誌』)
鶴巣村北目大崎
 「北目大崎  明治22[1889]年〜昭和30[1955]年の鶴巣村の大字名。昭和30[1955]年からは現行の大和町鶴巣の通称地名となる。鶴巣村の中心地とし て、村役場や学校・農業会・農協などが置かれた。明治22[1889]年合併時の戸数は87戸(黒川郡誌)、『安永風土記』[1774]の段階〔49〕か ら倍増に近い。」(『角川日本地名大辞典』)
 鶴巣村立村以降も「北目大崎」は「大字」として公式に残存し、4集落の正統な住居表示の「大字」は、全て「北目大崎」単一である。「旧北目大崎」の亡霊 はしつこく居残ったが、その実体と意義はほとんど失われている。今や、北目・大崎・砂金沢・別所の旧北目大崎4集落は、黒川神社の氏子活動など部分的連合 はあれ、4集落すべてのみで1つにまとまる機会や組織はまったくない。
 因みに、明治初期の「北目大崎村」時代の住所は、例えば「黒川郡北目大崎村47番地(私の曽祖母の戸籍上実家早坂家)」などと表記されていた。 1889年「鶴巣村」が成立すると、例えば「黒川郡鶴巣村北目大崎4番地(澤田本家)」などと表記され、「北目大崎」は「字」として残った。やがて、例え ば「宮城県黒川郡鶴巣村北目大崎字照節沢34番地(澤田本家)」などと表記されて、「北目大崎」は「大字」に替わり、今日に至った。
北目・大崎(別所)・砂金沢三区体制
 交通手段が車馬・自転車・自動車・鉄道に転換して平地に新道が開かれるにつれ、旧「北目大崎村」の箍(たが、タンガ)は次第に外れて、有名無実化していった。
 1)「明治二十[1887]年吉岡より宮城郡松島に至る道路を改修せり即ち吉岡より舞野北目大崎なる砂子〔金〕沢を経土橋鶉崎を経中村を過ぎ川内なる田 府瀬〔田布施〕にかゝり松島村初原に出づ(中略)之を稱して吉岡街道〔松島街道〕と云ふ」(『黒川郡誌』)。加えて砂金沢は利府街道の始点〔志引〕となって新交通体系の要衝として栄え始め、やがて黒川神社の氏子を離脱するなど独立性を高めて、ついには大崎の枝部落を脱して本部落となった。
 2)明治22(1889)年今日の大崎に役場が置かれて新生「鶴巣村」の中心集落となり、諸機関・施設が集中して徐々に市街化した。
 3)かたわら、旧来の北目、別所の位置が相対的に低下し、別所は新たな平地交通に対応して大崎との関係が深まり、北目に代わってこんどは大崎の枝部落化して、
 4)最終的に、現今の「北目、大崎(別所)、砂金沢の三区体制」に再編成された。
 今日、「北目」・「大崎(別所)」・「砂金沢」・は、「大和町鶴巣(学区)」の行政区として実際上公的に通用しているが、それはあくまで正式名称ではなく、厳密には単なる「通称地名」に過ぎない。
 今やたがは完全に外れ、 似た事情にある「大平三区」や、やや趣の異なる「南三区」の例と異なり、”北目大崎三区”と呼ばれることはない。
当の旧「北目大崎」域住民にはその意識も記憶もほとんどなく、時折りかえって他郷人の間に遺っている場合が見られる有様である。
 ♪鳥屋かく砂金沢 あったけど ヨイヨイ♪(「鶴巣節」)
 ♪砂金の沢を横に見て 北目大崎鳥屋とかや♪(「黒川願人節」)
 北目大崎軒並続き 村にそびゆる火の見の櫓よ/
  向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ♪(「鶴巣音頭」)

◯北目(チタメ)
 上述のとおり、、往古黒川氏の統治時代までは、「北目村」と「大崎村」は、鎮守寺”お薬師様(オヤグッサマ、別所薬師堂)”こそ共に護持していたが、互いに独立・並存しており、「別所」はその内、今日とは異なり「北目村」に属し、他方「大崎村」には枝村の「砂金沢」が属していた。
金剛山玉昌寺
 「鶴巣村北目大崎字寺東にあり
  曹洞宗 無著派
 本尊 十一面観世音  本山 加美郡宮崎村洞雲寺
 由緒 宮城郡天台宗松島寺の末寺にして観昌寺と稱し大同年間[806-810]創立せり其後廃寺無住たりしを慶長十四[1609]年加美郡羽貫沢村(今の宮崎村)洞雲寺十二世玉江〓〔門構えに言、ぎん〕浦和尚再興して曹洞宗に改め爾後伝えて今日に至る」(『黒川郡誌』)。
”北目の殿様”大越氏
 田村郡大越城主・田村一族大越甲斐守が弟大越源兵衛は、「初め〔1589年11月27日〕兄甲斐守一同に大越を除き、」岩城氏に仕えた。〔1602年〕岩城滅亡するに及ひて」、「伊達〔信夫〕郡鞠子村〔福島市丸子 〕に住す。」(中略)「数年の後〔1605年〕二男十左衛門〔茂世〕政宗公于〔に〕 仕え、以て〔1605〜15年の間に〕黒川郡北目村に領地を有し、而来住みて卒す。法諱は大越〔おおごえ〕」(「大越家系勤功巻」大越家十三代当主茂隆氏所蔵)。なお、後の吉岡領主で寛文事件の大立者・宿老奥山大学常辰は、「正室:大越茂世の娘」(Wikipedia「奥山常辰」)とある。
〔仙台大越氏〕┌奥山大学室                  ┌まつゑ〔澤田金吾妻〕
 源兵衛─茂世=茂貞─茂辰─茂邦─茂慶─茂門─茂善─茂庸─佑之┴文平─茂文─茂隆─麻里子
    (十左衛門)                  (文五郎、茂高)
 歴史的にたいへん貴重な、1704年付けの「知行宛行書」が大越家に残っている。
 「黒川郡北目大崎村之内所々并セ都合五拾貫文〔500石〕(目録別紙ニ立ツ)全テ領納ス可キ者也 仍如件
     寳永元[1704]年六月日 (伊達氏朱印)
                      大越内膳〔茂辰〕との〔殿〕」(大越茂隆氏所蔵)
 「其ノ裔虎間番士ト爲リ、今二百五十石〔一時着座五〇〇石、幕末時は参政五八〇石〕之祿ヲ保ツ、(中略)其ノ家甞テ田宅〔在郷屋敷〕ヲ黒川郡北目大崎邑〔北目谷津〕ニ於テ置ク、治〔府〕ヲ去ル六里許リ」(『伊達世臣家譜』)。
 この「大越源兵衛某ヲ以テ祖ト爲」(『伊達世臣家譜』)し、「黒川郡北目村に領地を有し」(「大越家系勤功巻」)た”北目の殿様”大越氏は、即ち我が曽祖母まつゑの実家である。
仙台藩参政大越文五郎
 まつゑの父(すなわち我が外高祖父)大越文五郎佑之は幕末維新期に五八〇石を食み、仙台藩参政(若年寄)として戊辰戦争を戦った。上述のとおり、「『安永〔1772〜80〕風土記』によれば(中略)〔北目大崎村〕給地 173貫〔1730石〕余」(『角川日本地名大辞典』)の約三分の一に相当する知行高でる。
 武運拙く、1869年4月「大越文五郎は斬罪、首を獄門にかけてしかるべしというのであったが、百方請うて牢前切腹となった。大越は早く逃走して免れた。」(『奥羽戊辰戦争と仙台藩』)
 「志士。初名は佑之進〔諱は佑之〕、洋式兵法を学び出色の譽あり、七職を兼ねて、裁断宜しきを得、慶邦公名を文五郎と賜ふ、明治元[1868]年正月三好監物に従ひて京師に至り、〔奥羽鎮撫使仙台藩隊長として〕鎮撫使と共に帰藩し、醍醐〔忠敬〕世良〔修蔵〕等の信用あり、世良を説きて会津降伏に尽力せしが、世良殺さるゝに及び、長嘆して曰く伊達氏の恩を受ること三百年、寧ろ朝議に背くも伊達氏と存亡を共にせんと、出入司を以て軍事参謀を兼ね、尋て若年寄〔参政〕に進む、同年八月一日〔修験者の〕飛行隊、登米隊、聚義隊を率ゐて仙台を発す、伊達筑前〔登米伊達邦教〕之を門前に擁し、三小隊を附して曰く、此行藩の存亡繋れり、卿之を〓〔日に助、務〕めよと、進みて福島に至り、金穀を市民に賑給して大に人心を得たり、依て台場を八丁目に築き、軍務局を大安寺に開きて諸藩と応接す、仙台藩帰順に及び名をと賜ひ、帰順係を命ぜらる、総督府会計平坂信八郎を涌谷の獄より出して自家に扶養し、或は澤為量を古川に迎へて之を国分町米川重治の家に館せしめ、木梨精一郎、桂太郎等と応接する等百方周旋する所あり、然れども反対党の怨む所となり、一網打尽に斬に処せられんとす、乃ち脱藩して僅に死を免かる、是に於て家跡を没収せられしが明治三[1870]年東京藩邸に自首せし為め寛典を以て罪を赦さる、後ち魯人ニコライに従ひて深く西教〔ロシア正教〕に帰依し、 ニコライが東京駿河台に聖堂〔ニコライ堂〕を建築するに当り、推されて其の会計を督し、爾後引続き同教会の会計監督たり、其の〔長女まつゑは、谷津峠を挟んだ山向こう照節沢”別所・大崎の殿様”猪狩氏在郷屋敷の旧ダンポ嫡男・澤田金吾に嫁ぎ、〕長子弘毅は獄に死し、次男文平は〔1904〜05年〕日露役に通訳として従軍し、後ち旅順市長たり、文五郎大正五〔1916〕年十月十二日没す、享年八十五、東京染井共同墓地に葬る。」(菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会)
 なお、父が「脱走の罪により家跡没収」(『仙台戊辰史』)となった我が曽祖母は、戸籍上「北目大崎村47番地早坂與惣治・りき次女、早坂惣治妹」となっている。早坂氏は大越氏の在郷家中”旦方(ダンポ)”と推測されるが、当地に現存しない。
出羽三山碑
 日光山の「出羽三山碑」については、関連上既に「◯別所」の項で詳述したので、そちらを参照されたい。
スズの水
 「〔大窪山の〕実習地でみんなが汗して作業終えてのあの喉の乾きを潤してくれたあの名水(地域の人はスズ〔清水?〕の水と いい医者の薬調合にも使われたと云う)を忘れることは出来ない。そのスズの水を求めてわざわざ北目側の山道を下り、いつも涼しげな音をたてて湧き出たあの 自然のドリンク剤?を飲んで学校に戻ったものである。」(10期遠藤勝彦(同期章君の長兄)「あの名水は何処に」鶴巣中学校・鶴巣中学校同窓会編集発行 「創立50周年記念誌『つるす』」,1997)
 特に雪の冬などは、別所からよく見える大窪山の山畑(同期旧姓八嶋克子さん実家の所有という)を近道して通学したものだが、在郷中はもちろん最近2016年まで、それより北上して北目に抜けたことはなく、この泉や前述した池のことはまったく知らなかった。
 ♪あなたは一体全体 どこの人〔どこから北目〕 ヨイヨイ♪(「鶴巣節」)

◯大崎(オオサギ)
 古の「大崎村(砂金沢)」、今日の「大和町鶴巣大崎区(別所)」は、別所を除いておおむね古代東山道(奥大道)、中世奥州街道から外れており、他に見るべきめぼしい遺跡・史跡もなく、領域こそ広かれ、実は長い間四境の隔絶された辺境地域であったろう。大崎が今日のように地域の中心になったのは、ようやく「明治二十[1887]年吉岡より宮城郡松島に至る道路を改修せり(中略)之を稱して吉岡街道〔松島街道〕と云ふ」(『黒川郡誌』)。加えて砂金沢が利府街道(県道3号塩釜吉岡線)の始点〔志引〕となって新交通体系の要衝として栄え始め、
 「明治22[1889]年〔の鶴巣立村によって、〕(中略)鶴巣村の中心地として、村役場や学校・農業会・農協などが置かれ」(『角川日本地名大辞典』)てからのことである。
”大崎・別所の殿様”猪狩氏
 猪狩氏については、既に◯別所/”別所・大崎の殿様”猪狩氏で述べたので、参照されたい。
大崎山智光院
 「鶴巣村北目大崎字岸にあり
  曹洞宗 太源派
 本尊 釈迦如来  本寺 仙台北山輪王寺
 由緒 延宝三[1675]年二月本寺十四世松巌春長和尚〔太田山慈雲寺に同じ〕の開山なり」(『黒川郡誌』)。
 北目の金剛山玉昌寺とは、同じ(鶴巣では少数派の)曹洞宗であるにもかかわらず、宗派・来歴がまったく異なる。
当山派修験大宝院
 当山派修験大宝院は、大崎・北目を結ぶ八幡峠にあった。
 「寺跡鶴巣村北目大崎に在り
  当山派
 本寺 志田郡古川古川寺
 由緒 創立年代不詳 善行院正永を以て開院となす
 爾後歴代 明治維新に至り復職して〔黒川神社〕神官となり〔、1875(明治8)年神僧職等も「国民皆姓」となったので、大平の邑主〕日野氏を冒す」(『黒川郡誌』)。
 上述のとおり、「『安永風土記』[1774]に記される社は、岸の熊野宮・稲荷宮、中屋敷の神明宮、宮の沢の新山権現、二分一(にぶいち)の天神宮(中略)で、いずれも当山派修験大宝院〔日野氏〕が別当をつとめていた。」(『日本歴史地名大系』)
 "お薬師様"功徳山八聖寺別所薬師堂の別当は、「明治三[1870]年庚子四月以て其時代の神官は本村祀官〔大宝院〕日野丹吾奉職中にして」(『黒川郡誌』)、安永間もなく、羽黒派明喰坊から当山派大宝院(大宝院日野氏)に交代していた。
大宝院日野氏(神職日野氏)
 上のとおり、「明治三[1870]年庚子四月以て其時代の神官は本村祀官〔大宝院〕日野丹吾奉職中にして(中略)仏取除き祭神少彦名命黒川神社と稱可き認可相成 其後古来歴に応じ明治五[1872]年村社に列せられ」(『黒川郡誌』)た。
 上述のとおり、大宝院日野丹吾は1873(明治6)年初代北目大崎(鶴巣)小学校長を務め、1875(明治8)年神僧職等も「国民皆姓」となったので、大平の邑主〕日野氏を冒」(『黒川郡誌』)し、大宝院日野氏(神職日野氏)となった。孫にあたる薫宮司も我が母らの恩師で、さらに嫡男で黒川神社兼大平深山社神職・上述の敬一氏も(あいにく鶴巣で 教鞭を執ることはなかったが)教員を務めるなど一族の多くも教職に就いており、いわば生え抜きの神職・教育一家と言えよう。
熊谷市雄代議士
 熊谷市雄氏
は、 「宮城県黒川郡大和町〔鶴巣北目大崎(大崎)〕出身。大和町鶴巣農業協同組合の組合長を務めるとともに、宮城県農業協同組合長会の会長を兼任した。また、宮城県農業協同組合政治連盟の会長や全国農業者農政運動組織協議会の副会長なども務めた。その後、衆議院議員を2期務め、第2次森改造内閣(中央省庁再編 後)にて環境大臣政務官に就任し、第1次小泉第1次改造内閣では農林水産大臣政務官に就任した。
 1928年に生まれ、宮城県にて育った。生家〔「中岸」〕は農家である。幼いころに母を亡くし、以来、三兄弟の長男として一家を支えた。宮城県黒川農学校に て農学を修得し、卒業後は農業に従事した。また、青年団や農業協同組合の青年部の結成に携わるなど、地元での社会活動にも積極的に取り組んだ。1965年 から1970年にかけては、大和町公民館の館長を務めている。その際、最寄の公民館が遠過ぎて利用できない地域の住民のために「移動公民館」を考案し、のちにこの取り組みが評価され文部大臣賞を受賞している。
 1960年、30代にして大和町鶴巣農業協同組合の理事に就任した。1990年には大和町鶴巣農業協同組合の組合長に就任し、以来、1996年まで組合長として同組合の舵取りを担った。また、1995年には、宮城県農業協同組合長会の会長に就くとともに、宮城県農業協同組合政治連盟の会長も兼任することとなった。こちらの役職も、双方とも1996年まで務めた。また、1995年には、宮城県農業協同組合政治連盟の上位団体にあたる全国農業者農政運動組織協議会にて、副会長に就任している。1998年まで副会長を務め、それ以降は全国農業者農政運動組織協議会の常任顧問として活動している。
 1996年、第41回衆議院議員総選挙にて自由民主党から比例東北ブロックに立候補し、初当選を果たした。2000年には、第42回衆議院議員総選挙にて比例東北ブロックに立候補し、2度目の当選を果たした。翌年、中央省庁再編にともない第2次森改造内閣(中央省庁再編後)が成立し、熊谷は新設された役職である環境大臣政務官に就任した。(中略)
 2002年、内閣改造にともない成立した第1次小泉第1次改造内閣にて、農林水産大臣政務官に就任した。(中略)
 2003年の第43回衆議院議員総選挙には立候補せず、政界を引退した。
 農業協同組合の出身であることから、農政に明るい。『第一次産業の振興に全力を傾注してきました。党の検討部会は皆勤です』と語るなど、農業を含む第一 次産業の発展に力を注いだ。また、自由民主党の政務調査会では、農林部会の副部会長や部会長代理を務めたが、そのほかにも、環境部会の副部会長や国防部会の副部会長も務めており、環境や安全保障といった分野にも取り組んだ。
 自身の信条として『百術不如一誠』、人生哲学として『誠実一路』を挙げている。また、趣味や特技としては、ハーモニカの演奏や自然薯掘りなどを挙げており、特に自然薯の収穫については『自然薯掘りは名人技』と語っている。
 妻とは幼馴染であり、『他人にはこの生き様が“かたぶつ”に映る。そんな私でも、人を恋する心は持ち合わせている。妻〔「岸の家」高橋氏かつ子〕とは生まれた時から地続きで、幼なじみを超えた恋心を抱いていたようだ。そんな思い出が山ほどある』と語っている。」(Wikipedia「熊谷市雄」
 中学時代、若き日のスライド交りの「アメリカ帰朝報告講演」を、赤い屋根の蒲鉾型屋体(屋内体操場、体育館)で拝聴した。
佐藤徳芳博士・教授
 大崎(別所を除く)及び砂金沢の大半の菩提寺・上記大崎山智光院住職佐藤徳芳(のりよし)氏は、我が鶴巣小学校1・2年1組担任の恩師・佐藤みやこ先生のご長男で、鶴巣中学校第6回(1952昭和27年度)卒業の先輩であるが、現職の僧侶である前に、実は郷土が生んだ世界的科学者(プラズマ・核融合工学)である。
「《プロフィール》
 1938年2月生まれ。〔仙台二高〜〕東北大学工学部電気工学科卒業後、同大学大学院工学研究科博士課程修了、工学博士。同大学教授を経て現在名誉教授。
 2007年 7月にチェコ共和国プラバ〔ハ〕で開催された第23回電離気体現象国際会議において、世界で5人目となるフォンエンゲル賞(von Engel Prize)を受賞。」(2013.6.8 「異普奇会」講演)
 「 講演テーマ:『次世代エネルギー源に関する課題』
          東北大学大学院工学研究科電気・通信工学専攻 佐藤徳芳教授
 プラズマは環境と関係している。今日は核融合と関連したエネルギー問題として考えて見る。我々の環境を少し大きいところ、磁気圏・宇宙空間で考える。タイムスケールと空間スケールを大きくする。地球磁場は双極子型磁場である。太陽風(太陽が放出する、主として陽子と電子から成るプラズマ流)というプラズマの流れがやってきて地球にあたり、太陽風による地球磁場が変形し磁気圏が形成されている。太陽から、電磁波、太陽宇宙線、高速陽子、太陽風が降り注ぐ。
 スピードの遅いのが太陽風である。太陽風と磁気圏が相合〔互〕作用してできる〔の〕が、オーロラ(極光)である。オーロラの電子の加速機構は未解明であ る。地球と太陽のインタラクションでできている発電機だがしくみはわからない。
 太陽エネルギーのもとは水素の燃焼、熱核融合反応である。水素が燃えて減りHeになる。生存期間150億年のうち、今は約50億年で、調子がよい時期である。制御熱核融合とは一言でいえば太陽をつくれないかという事である。
 人類にとって最も基本的な課題は、食料、環境、エネルギーである。膨大なエネルギーの単位Qを導入する。近い将来:全世界で1Q/年消費する。資源の埋蔵量は、石炭+石油+天然ガス=100Q。他のエネルギー源はない。原子力に頼らざるをえない。
 熱中性子炉は3Q、高速増殖炉は500Qである。海水中のU,Thは7× 10?Q位に相当する。1Q/年として70万年である。しかし、放射性廃棄物が問題。
 核融合反応は原子核間の衝突である。核融合反応の例:重水素(D)と三重水素(T)が核融合してヘリウム(He)と中性子(n)に変わり、エネルギー17.6MeVを放出する。
 核融合炉はD-T反応である。Dは海水中、TはLiから人工生成する。Li資源は2000Q, 海水中のLiは4×10?Qもある。1Q/年として4千万年である。D-D反応では海水中の0.015%がDであり、4×10?Qである。1Q/年として40億年である。D3He反応を考えると、3Heは月面、木星、土星に豊富に存在する。
 核融合の方式としては磁場閉じ込め方式と慣性閉じ込め方式がある。磁場閉じ込め方式には、環状型のトカマク、ステラレータ、開放端型のミラー、カスプがある。慣性閉じ込め方式には、レーザー、イオンビームがある。
 トカマクは、最も良い結果がでている。2次でプラズマ,1次に電流を流して、できた磁場で閉じ込める。長い期間かかり、T−T反応を実現した。
 自己点火条件を実現する炉が重要だが金がかかり過ぎる。小振りなのをどこかに作ろう、とイータ熱核融合炉を日本に誘致する話が持ち上がっている。5000億円,周辺入れると、5,6倍かかる。那珂、青森県の六ヶ所、苫小牧が誘致の名乗りをあげている。国では、カナダ、仏。カナダと仏は原子力に神経質でない。日本はどうか。
 次世代エネルギー問題がますます重要になっている。産業・社会構造が変わらねばならない。先進国がこのままでも、中国、インドが先進国並になると、エネ ルギー消費量が増える。各国が生活スタイルも変わらねばならない。この問題に対して「原爆の論理」が出て来る可能性がある。持った国は権利がある、それ以 外の国はダメよ、という論理。これが原因で紛争や戦争になるかもしれない。
 科学技術より大事なものは何か。もっと大事なものがある。今エネルギーを使ってない人が使っても大丈夫なように、全体で総使用を減らすこと。とても厳しい話であるが。」(2001.2.9「第12回『産官学フォーラム』報告」東北大学電気・通信・電子・情報同窓会)
 「特筆すべき事項としては、佐藤徳芳東北大学名誉教授がフォン・エンゲル賞(von Engel Prize)を受賞されたことである。この賞はプラズマ・放電の研究において多くの先駆的業績をあげたフォン・エンゲル(Hans von Engel)教授(当時オックスフォード大学)を記念して1998年に創設されたものである。隔年に開催されるプラズマ・放電分野で最も古く、大きな会議である本国際会議において、顕著な貢献をした研究者に授与される。ベルギー、ドイツ、イギリス、アメリカに次いで、日本は5番目の受賞である。佐藤名誉教授が、プラズマ物理研究の黎明期に行った“プラズマ中イオン音波の励起と安定性に関する実験的研究”の先見性とその後の発展への寄与が評価された結果である。
 7月19日午前に授賞記念式典、引き続いて”Some Basic Plasma Experiments Extended in Plasma Applications(プラズマ応用において展開された幾つかの基礎的プラズマ実験)“と題した記念講演が行われた。40年以上にわたるプラズマの基礎研究の歩みと近年における応用研究に関するユーモアあふれる講演は大変好評であった。」(2007.7.16-20 「第28回電離気体現象国際会議」
電子工学専攻 畠山研究室  本研究室は平成9年(1997年)12月に八田吉典先生、 佐藤徳芳先生が歴代の教授を務められた伝統ある研究室を引き継ぐ格好でスタートし、現在は畠山力三教授、金子俊郎准教授、加藤俊顕助教、事務補佐員1名の職員と、外国人特別研究員1名、博士後期課程2名、博士前期課程 9名、学部4年生5名、研究生1名で構成されています。
 本研究室の源は、昭和3年から八田吉典教授が担当された電子工学科気体電子工学講座でありまして、昭和54年に佐藤徳芳教授が本講座を担当されてからは、プ ラズマの非線形現象および自己組織化現象の研究や次世代の材料・デバイス作製プロセスに必要とされる大面積プラズマの生成手法等を確立し、このプラズマプロセスを新素材として注目されたフラーレン膜の作製に適用する等、プラズマの基礎的特性の解明とその応用に関する研究を展開してきました。本講座は、平成6[1994]年に電子工学専攻・物性工学講座・プラズマ基礎工学分野に振り替えられ、現在に至っております。」(「東北大学電気・通信・電子・情報同窓会便り第38号『研究室便り』
 ♪向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ♪(「鶴巣音頭」)

◯砂金沢(いさござわ、イサゴザ)
 往古「北目村」、「大崎村」は分立・並存し、我が母の実家「砂金沢」は「大崎村」の「出村・枝村」で、一方「別所」は今日とは異なり「北目村」に属していた。
砂金沢の宗門
 さて、砂金沢の宗門はと見てみると、
 1)我が母実家(従兄・同期佐藤重信・龍美君・旧姓敏子さん実家等)佐藤家系統、(旧姓桜井ふみ子さん実家等)桜井家系統等の多数派は大崎山智光院檀家だが、
 2)(同期遠藤章君等)遠藤家系統、(旧姓門間綾子さん実家等)門間家系統等は吉岡の福泉山教楽寺(遠藤章君の祖先の墓には「黒川棟梁」と刻まれているという。自身も大工である同期佐々木工君によると、砂金沢は昔から名工の輩出地として近隣に聞こえていた)
と二分されれているようである。このことから、砂金沢は本来大崎の「出村(枝村)」で、明治以降新たに吉岡方面から移住者があったことが推察される。
”砂金沢の殿様”上郡山氏
 砂金沢に在郷屋敷を設けた領主は上郡山(かみこおりやま)氏で、その在郷”旦方(ダンポ)”遠藤氏だったと思われる。
 後述するように、「〔吉岡〕伊達氏没後は本郡を領せるものなく所謂地頭各地に拠れり 今その五百石以上のものを挙ぐれば左の如し(中略)
     代々御召出並ニ大番士
 五十貫〔五〇〇石〕         上郡山七五郎   在所北目大崎村〔砂金沢〕」(『黒川郡誌』)
 「上郡山景爲 武将。民部太夫と稱す、初め大友氏を稱し、羽州置賜郡長井荘小国上郡山城に住す、輝宗公に仕へて御一族の班に列す、養子内匠常爲、政宗公仙台に移る時、田千石を栗原郡宮沢村に賜ふ、其の子内匠高爲子なし、弟を養うて嗣となす、之を九右衛門重常と謂ふ(別に傳あり)、重常の子九右衛門景常、父の碌一千三百石を襲ふ、子傳三郎守爲、其子七三郎爲常子なし、山路孫九郎重貞二男靭負爲道を嗣となす、其子多聞爲倫夭死す、是に於て一族を貶して大〔太〕刀上となし、更に三百石を賜ふ、其後軍之進爲巳、進爲倫、運蔵爲康、千賀之助某相継ぎ、三十貫文〔三〇〇石〕を食む。」(菊田定郷『仙台人名大辞書』仙台人名大辞書刊行会)。
 上述のとおり、「寛永元[1624]年の上郡山内匠頭〔常為〕宛伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によると北目村・大崎村など三ヶ所の永荒五町は五ヵ年荒野とし、開墾後は検地を行い、その開発状況によって辛労分を与えるとある。」(『日本歴史地名大系』)
 「上郡山丹宮(タミヤ) 藩士。諱は爲輔、晩に無我居士と稱す、吏務の傍ら詩書に親しむ、明治四[1871]年九月二日歿す、享年六十七、仙臺北山町輪王寺に葬る。」(菊田定郷『仙台人名大辞書』)この丹宮の家中遠藤亀太郎に、黒川澤田氏から七代源太清重の姉紀よのが嫁いでいる。
本部落砂金沢
 明治維新後、上郡山氏の氏神”お太子様(オダイスサマ)”(聖徳太子)をそのまま譲り受け集落の鎮守として祀り、黒川神社の氏子からは離脱した。
 「明治二十[1887]年吉岡より宮城郡松島に至る道路を改修せり即ち吉岡より舞野北目大崎なる砂子〔金〕沢を経土橋鶉崎を経中村を過ぎ川内なる田府瀬〔田布施〕にかゝり松島村初原に出づ(中略)之を稱して吉岡街道〔松島街道〕と云ふ」(『黒川郡誌』)。
 こうして砂金沢は利府街道の始点〔志引〕となって新交通体系の要衝として栄え始め、次第にその独立性を高めてついには大崎の枝部落を脱し、晴れて本部落「大和町鶴巣砂金沢区」となった。
 ♪鳥屋かく砂金沢 あったけど ヨイヨイ♪(「鶴巣節」)
 ♪砂金の沢を横に見て 北目大崎鳥屋とかや♪(「黒川願人節」)



(続く)


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