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第五節 中山道(宮床街道、根白石街道)・新田郷・田手岡(宮床城)
 古来宮床川筋には山道が発達し、泉ヶ岳山麓の根白石・福岡・朴沢地方は黒川郡と特別に縁が深く、根白石城主白石氏と黒川氏は代々縁戚関係にあった。御所館/鶴巣館から見れば一・二・三ノ関は明らかに中山道・根白石を睨む構えで、後に白石氏がその配下に下った、中世・戦国時代の好敵手国分氏の松森方面に備える布陣といえよう。
 「一之関(イヅノシギ)二之関(ヌノシギ)三之関(サンノシギ)等村名の存する起源は往古関所のありし所より出てしにあらざるか又当〔高田〕御所と何等関係の存するものあらんか書して疑を存す」(『黒川郡誌』)。
 「一ノ関には堂屋城(成田外記)、二ノ関には門前城(二関紀伊)等の古館があり、(中略)〔三ノ関は鶴巣館直下の搦め手にあたり、館下町本町の地続きで、〕古刹があって、いずれも古い歴史をもった土地であると推測される。(中略)
 この一ノ関、二ノ関、三ノ関は、吉田川の支流である竹林川と宮床川の中流に位置し、その下流地域にかつて条里制を敷いたと考えられている田園が広がっている。そして、早くから堰、つまり関を設けて下流田園に灌漑用水を導いた水源になっていたと思われる。それを裏づけるように、現在も一ノ関、二ノ関、三ノ関にはそれぞれの流れを止める堰があり、下流の土地に配水している。地名の関は、この灌漑用の堰から生まれたものと〔も〕いえよう。」(富谷町誌編さん委員会『新訂富谷町誌』富谷町)
◯中山道
 「元和 9 〔1623〕年(中略)以前の〔古代・中世〕道中は、北山─荒巻─丸田沢─長命─野村(元七北田)─朴沢─根白石〔根白石─朴沢〕─宮床─黒川〔下草〕と山根(中略)を辿っていたのです。在来の中山道古街道・野村道〔宮床街道、根白石街道〕ともいい、また秀衡街道〔奥大道〕の名が今に残る)」(仙台市民図書館編『要説宮城の郷土史』宝文堂)である。
 1993年、ほぼこれに沿い、一関市~白石市間が県内最新の国道457号線に指定された。
仙台城の秘密退路
 本藩仙台城の「北と東は広瀬川に、南はその川に口を開く辰の口峡谷に面し、その孰れもが断崖で聳え立っている。西の一方丈はそのまゝ丘陵地が続いているが近づき難い起伏と樹林が拡がり攻めるに難く守るに易い山城と言われていた。
 (中略)万一に備えて城方では予め西方に裏門を開け秘密の退路を用意してあった、と口碑は伝える。退路は、城の西方に延びる辰の口峡谷沿いに広瀬川上流右岸の郷六に達したろうという。この峡谷の『辰の口』実は『立ち退き口』であったのだ。城から郷六迄直線距離で約六粁、そこには郷六屋敷という一と構えがありそれがまた小城塞の態をなしていたというのだ。
 この郷六は前記陸羽街道から遥か西に位し広瀬川の谿谷に沿い作並街道を唯一の交通路とする隠れ里だ。こゝから間道で真北一〇粁の根の白石朴沢え、も一つやまを越せばもう宮床なのだ。築城家の深謀遠慮は計り知れないものがある。こゝ迄辿ってくると宮床に近親を配して城を構えさせた仙台伊達家の意中に、この退路保護という意図が像してあった、とも推察されるのだが──。」(黒崎茗斗(幹男)『緑の故里七つ森を語る』七つ森観光協会,1973)
◯宮城郡
根白石

朴沢

◯宮床
 「もと難波〔なにわ〕と稱したりしを飯峰山信楽寺〔しんぎょうじ〕の開くるに当り宮方〔仁和寺宮〕の下向ありしより宮床と稱したりとぞ蓋し宮方の永住せるを以てなり」(『黒川郡誌』)。
 下記信楽寺の守護神である「宮中八幡〔鶴峰八幡〕の鎮座する山田の里は現在広く宮床の地名で呼ばれているが古くこの辺り一帯は難波と呼ばれていた所だ。それが信楽寺の建立を機会に遥々平安の京から某〔仁和寺〕の宮様の下向があり、永住遊ばしたので以来その附近を宮床と改称した、と言う言伝えがあるのだね。現在でも大森山の北側には難波の地名、河川名が残っている。現在の難波地区を含めこの宮床一帯が広く難波と呼ばれていたことは首肯できるのだ。(中略) 尚現在の難波地区は当八幡から相当距離を距てゝはいるものゝ当社の氏子の存在が多く遠距離にも拘らず今も、物日には大勢の参詣者が集る、と土地の古老は話している。」(『緑の故里七つ森を語る』)
国見崎
 「宮床村宮床なる笹倉山(大森)の東南角に位せる黒岩崖上に在り眺望甚広闊誠に是れ活けるぱのらまなり
  其北方に位置せる銚子口も亦眺望に富む」(『黒川郡誌』)。
深山滝
 「宮床川の支流岩本川深山滝あり愛宕山下奇岩に架す高からずと雖も亦賞すべし」(『黒川郡誌』)。
深山の人参
 宮床村深山に産する薬草〔深山の人参〕あり明治三十八[1905]年の凶作に際し富谷の人内ヶ崎某窮民救済の策として之を採掘せしめたりと云ふ」(『黒川郡誌』)。
鶴峰八幡神社(宮中八幡)
 「宮床村宮床字赤坂に在り
  祭神  応神天皇 玉依姫 神功皇后
 由緒 勧請年月を詳にすること能はずと雖も奥羽観蹟聞老志〔誌〕によれば推古天皇六[559]年に勧請する所なりと宝永元[1673]年伊達吉村社殿を装飾し祭田を寄付したり維新に至り祭田没収せらる明治[1872]五年四月村社に列す(中略)
 当社に奥州黒川郡宮城郡惣鎮守古代一の宮鶴峰三社大明神鶴ケ峰山御田遊記と稱する写本あり(中略)
 一、黒川の七ツ森は 扨ても見よい森かな
 一、かすみかゝりきりかゝり 扨ても見よい森かな(中略)
 元和七[1621]年二月十日仙台城主伊達政宗公黒川の七ツ森山追の是有節は鶴峰三社別当宮本坊に日和の祈祷を申付られ候」(『黒川郡誌』)。
飯峰山信楽寺
 「寺跡宮床村宮床字信楽寺(しんぎょうじ)
 本山 京都五百仏山智積院
  真言宗 智積院派
 由緒 淳和帝[786-840]の勅願所天台の祖慈覚大師〔円仁、794-864〕の草創にして七堂伽藍ありしが光孝天皇の御代[884-887]回禄〔火災〕に罹る仁和寺宮〔恒貞親王、825-884〕其事を奏聞し七堂伽藍を再興す 其仁王は後円融天皇承和〔貞和〕二[1346]年造る所なり
 其後貞山公政宗寺領七貫文の地を賜ひ吉田升沢権現の別当となす公自書する所の証状あり
 往時宮方の所在地となりしを以て村名の宮床と稱せしとぞ
 明治七[1874]年山火延焼し今は荒廃に属せり
 末寺左の如し
   黒川郡今村 下草山観音寺安楽院」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音五番札所
 「寺域内に古墳あり宮様御院と稱す今尚ほ現存せり」(『黒川郡誌』)。
 「昭和44・45年に発掘調査が行われ、(中略)史料の検討からは南北朝時代(1376年)頃と考えられます。」(『まろろば百選 』)
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌五番 宮床信樂寺 まこと願ふ人しあらはやゑとゑんり なにへたつらんおなしはつ〔ち〕すは♪
恒貞親王
恒貞親王(天長2年(825年) - 元慶8年9月20日(884年10月12日))は、平安時代前期の皇族。淳和天皇の第二皇子。仁明天皇の皇太子(のち廃される)。品位は三品。異称は亭子親王。法名は恒寂。
 異母兄・恒世親王の薨去後、淳和天皇の後継者と目された。天長10年(833年)従兄にあたる仁明天皇の即位に際し、嵯峨上皇の意向により立太子。承和5年(838年)紫宸殿において元服するが、天皇に拝謁する際に礼儀を備えており、紫宸殿を降りて拝舞する様子も雅やかで麗しかったという。その後、淳和上皇や恒貞親王は権力闘争に巻き込まれる事を憂慮して度々皇太子の辞退を申し入れたものの、嵯峨上皇や仁明天皇に慰留されてしまう。しかし承和9年(842年)嵯峨上皇の崩御後まもなく発生した承和の変により、皇太子を廃された。
 嘉祥2年(849年)三品に叙せられるが、まもなく出家して恒寂と号した。真如法親王から灌頂を受け、嵯峨大覚寺の初祖となった。仏道に深く帰依して常に精進持戒したという。元慶8年(884年)陽成天皇が実質的に廃位されると皇位継承問題が生じ、その際に即位を要請されたがこれを拒絶している。己の最期を悟ると、衣服を浄め仏前に香華を備え、西方に向かって結跏趺坐の姿勢を取って入寂したと伝えられている。
 性格はゆったりとして優雅であり、姿形が美しかったという。」(Wikipedia「恒貞親王」
鴇田氏
 「源頼信の孫満実信州井上荘に任す由て井上を以て氏と為す満実子なし弟光平嗣ぐ井上荘鴇田郷に生る是より鴇田氏を稱す光平十一世の孫従六位の下若狭守実清永享十一[1439]年三月信州太守村上満信と戦て克たす奥州黒川郡に至り斯波宮内太夫〔黒川〕氏直の家臣となり宮床吉田両邑を領し宮床村宇和館に住す実清八世の孫宮内少輔某子源兵衛某菅谷の役に戦死す源兵衛の次男信濃国近天正十九[1591]年貞山公の時太刀及び馬を献ず後五十石を賜ひ始て伊達家に仕ふ其子を周如となす」(『黒川郡誌』)。
 後述するように、「多数の家臣が〔現大和〕町内各所に所領を与えられている(中略)〔が、〕前代から続いて当町域に所領を持ったのは、松坂氏と宮床の鴇田氏(初期のみ)〔並びに大松沢氏〕である。」(『角川日本地名大辞典』)
鴇田周如
 「伊達藩二代藩主忠宗の側近で、二千石を領して着座に列した」(『まろろば百選 』)。
 「鴇田周如〔かねゆき〕初め文蔵と稱す後駿河と改む(中略) 周如奥山常辰と相知る常辰世子(義山〔忠宗〕公)に傅たり事に由て周如に出仕を励む周如大崎氏の忘後隠れて農に帰す 周如強ひて出て仕ふ常辰薦めて出納〔出入司〕を掌らしむ是時に当り諸司拡張を事とし藩計足らず公数々周如に旨あり改革せしむ曰く機猶早しと 寛永十八[1641]年若林府庫火あり租税版籍悉く烏有に帰す乃ち西上幕府に請ひ田畝を大量す国計因て優なり」(『黒川郡誌』)。
宇和館(鴇田館)
 
「宮床村宮床字長倉にあり今の松巌寺の地にして正親町〔おおぎまち〕天皇天正年中[1573-93]黒川氏の家臣鴇田信濃国種の居りし所なり黒川氏滅亡後伊達氏に属したりと云ふ其旧臣の農に帰せるもの今尚存せり〔同期旧姓鴇田保子さん実家(父鶴小鴇田隆夫教頭鴇田氏と、何らか関係があろう〕」(『黒川郡誌』)。
三木山松巌寺
 「宮床村宮床字戸崎に在り
  臨済宗 妙心寺派
 本尊 観世音  本寺 松島瑞巌寺
 由緒 昔時伊達家の臣鴇田駿河宮床村の地頭たりしが正保年間[1645-48]故ありて領地没収微録〔禄〕を与へられ志田郡へ転居す而してその臣は農に帰せり承応三[1654]年右帰農浅野与惣左衛門等伊達家に請ひ一寺を建立し永く旧主の霊を祀り且村内農家一統の牌所となせり其頃山内に奇岩ありて三株の怪松鼎植其形状恰も松島群島の一に彷佛たるを以て瑞巌寺に擬して三木山松巌寺と号せしと云ふ開山は松島瑞巌寺雲居和尚なり天明二[1782]年地震の為に奇岩崩れて今些の岩石を残せり
 境内鴇田氏の墳墓あり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音四番
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌四番 宮床村松巌寺 まついわをてらたてそめしおしえには たいしたいひは極楽のたね♪
田手氏
 「奥州合戦での軍功により陸奥国伊達郡などを与えられた伊達氏初代当主伊達朝宗の六男・実綱が、伊達郡伊達崎(だんざき)に拠って伊達崎氏を名乗ったが、のちに伊達宗家と紛らわしいので、田手氏を名乗るようになったという。寛政4年(1792年)成立の『伊達世臣家譜』では『実綱より三郎実烈に至るまで、世数詳らかならず』としており、伊達崎から田手へ名乗りを改めた時期も確認できない。
 一方で大正13年(1924年)の『宮城県黒川郡誌』には『一門宮床邑主伊達氏略系』として
伊達崎実綱-実烈-小山朝政-朝良-長村-時長-朝光-宗朝-田手宗長-宗頼-宗行-宗政-宗光
と、実綱から宗光に至るまで14代と記しているが、伊達崎実烈を小山政光に相当させ、小山朝政を朝宗の曾孫とするなど、その内容は著しく整合性を欠いている。
 田手氏の活動が史料上から明確になるのは戦国時代に入ってからで、伊達稙宗が永正15年(1512年)10月4日に田手侍者丸(実烈)に、大永5年(1525年)11月11日に田手石見大方(実烈母か)に対して買地安堵状を発給しており、これらの安堵状からは田手氏が伊具郡内の在地中小武士の土地を買得して吸収し、所領を拡げていたことがうかがえる。
 天文11年(1542年)に勃発した天文の乱で、実烈は伊達晴宗方に属して戦い、戦後の論功行賞において伊具荘惣成敗に任ぜられたので、角田城を築いて本拠を伊具郡へと移したが、実烈の跡を継いだ子の宗光は、永禄7年(1564年)に晴宗の跡を継いだ伊達輝宗と対立し、相馬氏と通じて反抗したため角田城を逐われた。しかし、宗光の子・宗時は父に同調せず輝宗への忠誠を表明していたため、輝宗は宗時に所領の相続を認め、田手氏への処分も家格を一家から一族へ降格させるのみに止めた。田手氏は宗時の子・宗実の代の天正19年(1591年)に伊達政宗が岩出山城へ転封された際に、角田から柴田郡小泉へと移された。」(Wikipedia「田手氏」
田手氏/宮床伊達氏系図
 〔藤原北家〕                      <御堂流>             〔近衛家〕
  房前┬真楯─内麻呂─冬嗣─良房=基経─忠平─師輔─兼家─道長─頼通─師実─師通─忠実─忠通─基実─基通─家実─兼経─基平─家基─経平─基嗣─道嗣
    <魚名流>                       〔中村氏〕       〔伊達氏〕
    └魚名─鷲取──藤嗣─高房─山蔭─中正┬安親─為盛─定任─実宗─季孝─家周─光隆─朝宗┬宗村─義広─政依─宗綱─基宗─行宗─宗遠─政宗───┐
                       └時姫〔藤原兼家室/道長母〕       (常陸入道念西)    〔飯坂氏〕       (大膳大夫)│
                                               ├為家─◯◯─宗政─政信               │
                                               〔伊達崎氏〕                     │
                                               └実綱…………………………(不詳)………………………┐│
┌………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………┘│
:┌────────────────────────────────────────────────────────────────────────┘
:│                                         〔仙台伊達氏〕                 (宮床伊達村房)
:└氏宗────持宗────成宗────尚宗────稙宗────晴宗────輝宗────政宗───┬忠宗────綱宗────綱村───=吉村────┐
:                                                │├────┬宗房〔田手氏〕           │
:                                                ││    └宗章〔吉岡伊達氏〕         │
:                                                │慶雲院(竜ヶ崎山戸土佐女たけ)         │
:                                                〔吉岡伊達氏〕(宗長) 〔前沢飯坂氏〕      │
:                                                └宗清───=定長───=宗章───=輔俊    │
:                                                〔飯坂氏〕(桑折重長男)(忠宗九男)(原田甲斐  │
:                                                       於松(片倉景長女)     次男) │
:                                                       │    ┌村房〔伊達宗家吉村〕  │
:                                                       ├────┴村興          │
:                                                〔村田伊達氏〕│     ├──────────┐│
:                                               ┌=宗高   〔宮床伊達氏〕三沢宗直(初子弟)女 ││
:                                               │(伊達忠宗┌=宗房(伊達忠宗八男)       ││
:                                               │  七男)│ ├                ││
:                  〔田手氏〕                        │     ├─法林院              ││
└………………(不詳)………………………石見────実烈────宗光────宗時────宗実──┴─高実──┴─貞実               ││
     ┌───────────────────────────────────────────────────────────────────┘│
     │┌───────────────────────────────────────────────────────────────────┘
     ││                              (一関田村村資四男)
     │└┬宗村────重村────斉村───┬周宗───=斉宗───=斉義──┬=斉邦───=慶邦───┬宗基────=邦宗─興宗─貞宗─泰宗
     │ 〔登米伊達氏〕           └斉宗              │(登米伊達宗充長男)  └邦宗
     │ └村良───┬村幸───=宗充────斉邦〔伊達宗家〕        └─慶邦
     │       〔一関田村氏〕                      〔猪狩氏〕杢右衛門規────隆明
     │┌─村胤   ├村資────斉義〔伊達宗家〕                             ├─────隆
     ││ ├    └宗充                 (金華山神職)     〔横山氏〕有五  ┌─◯◯
     ││ 孝姫(久我通名女)                〔奥見氏〕◯◯          ├───┼─悌二
     │├─隆韶〔亀田岩城氏〕                     ├─────◯◯────みね  └─洋司〔宮床伊達氏〕
     └┴─村茂〔片倉村信〕   (川崎伊達村敏男)         ┌ヒサ
        ├─────村嘉───=村烈   ┌村義         │遠藤勘解由女
        岩谷堂伊達村望女    ├────┴宗規         │├─────宗広
                   ┌女子    ├─────宗賢───┼邦孚
〔岩出山伊達氏〕村緝───┬村通───┼村則   ┌女子         │├────┬賢孝
             │     └喜与   │          ┌─はまじ  │├───┬=◯◯
             └理代姫   ├────┴村任        ││├    │さと  │ ├───┬=洋司(横山有五六男)
              ├─────村文              ││吉田栄樹 │    └=きん  │ ├────┬久
 〔角田石川氏〕村満────村俊                    │└為泰   │          └─宮子   └ゆかり
                                    │(織部)  ├孝(峻)〔中島信成(七十七銀行初代頭取)室〕
                                    │      │遠藤信道(対馬)
                                    │      │├─────真剣〔原氏〕
                         〔原氏〕       │      ├縁(延)
                          広寛───┬巳代治 │      └万次郎(松園)
                               │ちよじ │           ┌=真剣
                               │├───┴─忠見        │ 小原要逸
                               │(塩屋)  ├────┬幸松  │ ├─────千秋───┬香澄
                               〔原分家〕 ┌きわ   │├───┴─阿佐緒        └香織
                               └幸力   │    ┌─しげ    │├
                                ├    │    │└みき    │石原純
                               ┌エツ   │    │ ├     ├─────保美
                          〔佐藤氏〕┴◯◯───┴◯◯────寅松    庄子勇   ├─────夏郎
         〔遠藤氏〕甚内────周右衛門──◯◯────◯◯────弥兵衛 │(青牛)   中川一政──桃子
         (浅野屋)                        ├───┼─甚助────甚内
                                      つね  └─甚四郎

宮床伊達氏
 「慶長18年(1613年)、政宗は七男・宗高を宗実の養嗣子として送り込み、田手氏の名跡を譲渡させた。宗高は伊達姓の名乗りを許され、柴田郡村田城にて30,000石を拝領する(村田伊達氏)。この時、宗実ら元々の田手氏は小泉氏を称することになったが、宗高は寛永3年(1626年)に20歳の若さで急逝して村田伊達氏が断絶したため、宗実の子・高実が田手氏に復したのをはじめ、分家も再び田手氏を称するようになった。
 慶安元年(1648年)に高実が死去すると、田手氏の家督は実子の貞実ではなく、伊達忠宗の八男・宗房が高実の娘婿となって継いだが、万治2年(1659年)8月28日に貞実が元服すると、宗房は貞実に田手氏の名跡を譲り、自らは兄・伊達綱宗から伊達姓を拝領して別家を興した(宮床伊達氏)。
 貞実は寛文5年(1665年)6月16日に跡取りを残さず死去し、宗房と正室・田手氏との間にも子が生まれなかったため(宗房の子は二人共に継室・片倉氏が産んだ子である)、ここに田手氏宗家は断絶した。なお、田手氏の分家(『伊達世臣家譜』では「田手家の族臣」と記される。宗家との分岐点は不詳)は、村田伊達氏の断絶後に仙台本藩の直臣に編入された田手実次(112石)・田手実元(106石)らの家系が存続している。」(Wikipedia「田手氏」
初代宗房
 「萬治三[1660]年伊達宗房采地を本郡に賜ひ宮床村に居舘を占めたるも亦在方一部に介するに止る」(『黒川郡誌』)。
 「仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の八男で第5代藩主・伊達吉村の実父。仙台藩一門第七席・宮床伊達氏初代当主。
 正保3年(1646年)8月5日、仙台藩第2代藩主・伊達忠宗の八男として生まれる。幼名は卯之助。
 慶安2年(1649年)、前年に死去した一族・田手高実の婿養子に迎えられて田手氏を継ぎ、江刺郡上口内領主となる。万治2年(1659年)8月28日、高実の実子・貞実の元服に合わせて田手氏の名跡を貞実に譲る。別家を興すことになった宗房には伊達姓が与えられ、一門の家格に列して磐井郡大原に知行替えとなった。翌万治3年(1660年)に黒川郡宮床に所領を拝領すると、寛文6年(1666年)には同地に居館を構え、宗房の子孫は柴田郡川崎城に居館を移した一時期を除き、幕末に至るまで宮床を本拠とした。このため宗房の家系を宮床伊達氏と称する。
 寛文7年(1667年)6月2日、正室・法林院が死去する。」(Wikipedia「伊達宗房)「事もあろうにお姑様に毒殺されたというのです。(中略)お姑様は小笹様〔仙台藩の飛地常陸龍ヶ崎の大番士山戸土佐の女たけ。忠宗の側室〕と申されました。土地の古老が申しますには、宗房様がお腰入れ間もない法林院様をお連れなされて仙台城に上られたときのことゝ申します。お城の大奥方、忠宗様の御正室〔振姫(池田輝政の娘。徳川秀忠の養女)〕でしょう、お附きの腰元衆を従えてお玄関迄お出迎え遊ばしたそうでございます。その折お傍には、宗房様の御生母小笹様も附いておられたのだそうです。(中略)大奥方が『若奥様にお草履を上げなさい』と傍に控えていた小笹様にお命じになったのだそうです。その頃の御正室と御側室の間には 権識の上でそれだけの開きがあって宛〔さなが〕ら腰元衆を動かすように側室様を扱っていたのだと申します。小笹様はお言附けに従て法林院様の前に膝まづき型通りお草履を上げたのだそうですが、この事が根にあって隔てができ、追々それが憎しみに迄昂じていったのだと申しております。」(『緑の故里七つ森を語る』)
 「宗房と法林院の間には子供がおらず、義弟・貞実も寛文5年(1665年)6月16日に跡継ぎを残さず死去しており、このため田手氏宗家の血統は断絶してしまった。延宝4年(1676年)6月25日、片倉景長の娘・まつ〔(於松)、その付侍として宮床に入ったのが、私の伯母の嫁ぎ先湯村家である〕を後妻に貰い受ける。まつとの間には男子二人が生まれた。
 貞享3年(1686年)1月13日死去。享年41。長男・助三郎(村房)が家督を相続した。この助三郎がのちの仙台藩5代藩主・伊達吉村である。」(Wikipedia「伊達宗房
二代村房(吉村)
 二代伊達村房(吉村)は「延宝8年(1680年)6月28日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房(仙台藩第2代藩主伊達忠宗の八男)の嫡男として、陸奥国東磐井郡大原村(現岩手県一関市大東町大原)に生まれ、同村八幡寺にて教育を受ける。幼名は助三郎。
 貞享3年(1686年)1月13日、父の死により家督を相続。元禄3年(1690年)12月、元服し、従兄で藩主の伊達綱村から偏諱を賜り村房(むらふさ)と名乗る。元禄6年(1693年)の一門による藩主・伊達綱村への諫言書提出には年少のため名を連ねていない。
 元禄8年(1695年)3月、一関藩主田村建顕の養嗣子に迎えられることになると、一家・小梁川氏を継いでいた弟の宗辰(伊達村興)を呼び戻して宮床伊達氏の家督を譲り、村房は一門上座の家格を与えられて5月には江戸の一関藩邸に入ったが、正式に養子縁組を幕府に届出る前に、跡取りのいなかった仙台本藩の綱村の養嗣子に迎えられることになった。また、田辺希賢が侍講となる。
 元禄9年(1696年)11月に藩主家の慣例により将軍・徳川綱吉から偏諱を賜って吉村に改名し、元禄15年(1702年)4月26日には久我通名の娘・冬姫と結婚した(冬姫は通名の弟・通誠の養女として嫁ぐ)。元禄16年(1703年)に養父・綱村が隠居に追い込まれると、家督を継いで第5代仙台藩主となった。(中略)
 享保12年(1727年)に仙台領産の銅を使用することを条件に、幕府の許可を得て銅銭(寛永通宝)を石巻で鋳造し、それを領内で流通させることで利潤を得た。また、買米仕法を再編強化し、農民から余剰米を強制的に供出させ江戸に廻漕して換金した。18世紀初めから中頃にかけての江戸市中に出回った米のほとんどが、仙台産〔本石米〕であったと言われているほどである。享保17年(1732年)、西国で享保の大飢饉が発生すると、この年奥州は豊作であったため、大量の米を江戸に送って売りさばき50万両を超える収益を上げた。このため藩財政は一気に好転し、ようやく単年度での黒字を実現できるようになった。(中略)
 寛保3年(1743年)7月、四男・久村(宗村)に家督を譲って隠居し、袖ヶ崎の下屋敷に移った。宝暦元年12月24日(1752年2月8日)死去。享年72。」(Wikipedia「伊達吉村
 「仙台藩で初の一門出身で賜姓伊達氏出身の藩主であり、歴代仙台藩主中、最長在職の藩主。就任時点で破綻状態にあった仙台藩の財政を建て直したことから、仙台藩「中興の英主」と呼ばれる。」(Wikipedia「伊達吉村
寛文事件異聞
 いわゆる伊達騒動の「亀千代〔綱村〕様毒害の陰謀が寛文八[1668]年といたしますと〔前述の〕法林院様の事件のあった寛文七[1667]年の翌年のことで、ここで奇しくも、連続して二つの毒害事件が起ったことになります。(中略)
 この亀千代様毒害未遂事件に就きましては地元にも異説がございまして宮床なぞでも、あれは未遂ではなく、事実その時幼君は亡くなられたのだ、(中略)側近の忠臣たちの計らいで極秘の内にお身替わりを立て危機一髪の間にお家安泰を繫ぎとめたのだ、という説が根強くなされているのでございます。現に仙台木の下の薬師堂脇にある准胝〔ち〕観音堂はその亡くなられた亀千代様を密かに葬られた所だという言伝えさえあるのでございます。(中略)
 これはずっと後の事、吉村様が亡くなられました後、諡(おくりな)申し上げたご法名が続燈院殿獅山元活大居士というのでございます。続燈の二字に、消えかけた家系の灯火を繋ぎ止めた、という意が読み取れ何かこの辺の消息を物語っているかのように思えるのですが如何でしょうか。(中略)
 この〔村房(吉村)の〕ご養子縁組のいきさつには特に『父殿宗房様の御命令により』という申し添えが態々と伝えられております。(中略)
 不思議な事に宮床伊達家の系図では二代目として次の村興様を挙げて村房様を飛ばしております。これは村房様が家督御相続の当初から、追って御本家相続の事が判っていた為、態と二代目様と申上げることを控えたのかとも想像いたしますのですが如何でしょうか。」(『緑の故里七つ森を語る』)
三代村興
 「天和3年(1683年)9月7日、宮床伊達氏初代当主・伊達宗房の二男として生まれる。幼名は亥之助。
 元禄4年(1691年)、前年に当主・小梁川宗英が跡取りを残さず死去したため無嗣断絶の危機にあった一家の小梁川氏を継ぎ小梁川宗辰と名乗ったが、元禄8年(1695年)3月に宮床伊達氏を継いでいた兄の村房が一関藩主田村建顕の養嗣子として迎えられることになると、兄に代わって宮床伊達氏を継ぐことになった。そのため、宗辰は小梁川氏の家督を村田宗門の子・宗永に譲って実家に戻り、5月22日に宮床伊達氏第3代当主となって伊達村興と名を改めた。
 元禄15年(1702年)、柴田郡川崎要害を領していた一族・砂金氏の断絶にともない、村興に川崎要害が与えられることになり、享保7年(1722年)の一門・川崎伊達氏創設にともなう知行替えまでの20年間、居館を宮床館から川崎要害に移した(川崎領は磐井郡大原と遠田郡蕪栗の替地で、宮床はこの間も引き続き村興の所領であった)。ただし、村興は翌元禄16年(1703年)に第5代藩主になった兄・吉村より補佐のため定府を命じられて仙台城下に詰めており、川崎要害に居ることはほとんど無かった。
 享保16年(1731年)3月、嫡男・村胤〔室久我通名女孝姫〕が急逝すると、白石城主片倉氏を継いでいた村信を呼び戻し、直ちに家督を譲って隠居した(村信は家督相続にともない伊達村茂に改名)。
 明和3年(1766年)8月3日死去。享年84。」(Wikipedia「伊達村興
四代村茂
 「正徳6年(1716年)4月7日、宮床伊達氏第3代当主・伊達村興の子として生まれる。幼名は喜世之助。
享保5年(1720年)に跡取りのいなかった白石城主片倉村休が危篤状態に陥ると、伯父である藩主・伊達吉村の命によって村休の末期養子となり片倉氏第6代当主となる。ただし喜世之助は幼少のため、古内義長が後見人となって家政を総監し、片倉領には目付が派遣されて統治にあたった。
 享保8年(1723年)3月21日、元服し、吉村より偏諱を賜って片倉小十郎村信と名乗る。ところが、享保16年(1731年)3月に宮床伊達氏を継ぐはずであった兄の村胤が急死すると、吉村は村信に村興の跡目を継ぐよう命じたため、村信は一族・遠藤定利(第3代片倉景長の三男)に片倉家の家督を譲った。
 同月、実家に戻った村信は村興から家督を譲られて宮床伊達氏第4代当主となり、伊達助三郎村茂と名を改めた。
 寛延2年(1749年)8月5日死去。享年34。嫡男・村嘉が家督を相続した。」(Wikipedia「伊達村茂」
五代村嘉
 「延享2年(1745年)10月28日一門宮床邑主伊達村茂の子として仙台に生まれる。寛延2年(1749年)9月16日父村茂が死去し、27日に家督を相続し宮床邑主となる。宝暦3年(1753年)4月藩主伊達宗村に初めて拝謁する。7月藩主宗村の面前で元服、一文字拝領し「村嘉」と名乗る。子が無く実弟の村頼を養子とするも早世。明和8年(1771年)一門伊達村敏の子大四郎(村烈)を養子とする。
 安永4年(1776年)12月12日死去。享年28。家督は養子の村烈が相続した。」(Wikipedia「伊達村嘉」
六代村烈(むらあきら)
 「寛延元年(1748年)4月18日、川崎伊達氏第2代当主伊達村敏の子として柴田郡川崎館に生まれる。幼名は大四郎。
 明和8年(1771年)4月18日、宮床伊達氏第5代当主・伊達村嘉の養子となる。
 寛政8年(1796年)7月6日、死去。享年49。」(Wikipedia「伊達村烈」
七代村義
 「安永6年(1777年)3月8日、宮床伊達氏第6代当主・伊達村烈の長男として宮床館に生まれる。幼名は助三郎。藩主伊達斉村の偏諱を受け近江村義と名乗る。
 享和元年(1801年)7月3日、死去。享年25。家督は実弟大四郎(宗規)が養子となって相続した。」(Wikipedia「伊達村義」
八代宗規(むねのり)
 「安永8年(1779年)3月11日、宮床伊達氏第7代当主・伊達村烈の次男として宮床館に生まれる。幼名は大四郎。
 享和元年(1801年)8月28日、兄・村義の死去により家督相続し宮床邑主となる。仙台藩主伊達周宗から偏諱を賜って宗規と名乗る。文化10年(1813年)宮床の所領において、商売を行う下町が無く、日用品の購買に不自由するとの理由で、荒物小物一戸五十集、八百屋一戸、酒一戸〔原氏〕の商売の許可を本藩に求め許可される。文政元年(1818年)11月28日、隠居して家督を嫡男宗賢に譲る。
 天保15年(1844年)7月19日、死去。享年66。」(Wikipedia「伊達宗規」
九代/十一代宗賢(むねやす)
 「家世々仙台藩の一門にして黒川郡宮床の館主たり食禄八千石(実は八百七貫百三文)文化元[1802]年拾月十日生通稱勝三郎又六郎宗規の長子なり母は石川大和村文の女文政元[1818]年家蹟を継く」(『黒川郡誌』)。
 「安政元[1854]年外事急にして国内多難の時に当り、藩命を帯びて京師に至り、各藩の動静を偵諜して、名望一時に高し」(『仙台人名大辞書』)。
 「宗賢夙〔つと〕に海防の切なるを憂へ館邸に於て大砲を鋳造し真船忠蔵を聘し士卒の新式砲術の操練を行ふ藩主伊達慶邦に上書して海防の策を建議す偶々幕府外艦の戦術に鑑み大藩に命じて大砲の鋳造及西洋砲術練習をなさしむ慶邦乃ち宗賢を召して意を示す宗賢曰く臣海防の切なるを憂ふること久し窃に大砲を造りて之を操練す頃日大に其技に熟せり希はくは台覧に供せん請ふ幸に之を視よと安政二[1855]年三月十八日仙台城東杉山台に於て麾下の士卒を率ゐ大砲三十六門の銃砲隊を操練す慶邦臨観甚だ之を嘆賞す乃ち命して大砲を鋳造し以て本藩に納めしむ宗賢館邸に於て工を督し五拇臼砲及び六封度〔ポンド?〕葛農〔カノン?〕砲等廿四門を納む是に於てか本藩又西洋砲術の練習漸く行はる同四[1855]年四月八日仙台城北講武所に於て西洋銃砲隊の操練をなす藩主就て是を観る大に其技の熟練を賞す
 是より先き南部境より岩城に至るまで其海岸を測量し砲台の建築を計画す又甥遠藤信充〔充信〕(贈従四位)及び妹婿の中島虎之助(贈正五位)等と共に勤皇の大義を唱導し藩主に建議するに朝廷を尊崇し聖慮を安し奉るべきを以てす安政四[1857]年八月十三日更に建議して国事を諭す其要に曰く方今天下多難の秋に際しては須らく勤皇の大義を重し一に天朝を尊崇して聖慮を安し奉り専ら忠勤を励むべし而して外寇の防御は一日も其備を怠るべからず三席の下宜く海防奉行の要職を置き選挙法を以て後方に登用すべく海岸には砲台を築き以て防御を厳にすへしと測量図面及び計画方案等を具進せり藩奉行高泉筑後大町因幡若老白石直江等邸に着き以て其詳細を尋ぬ慶邦其費の甚大なるを恐れ遂に是を納れず且つ旨を諭して老せしむ故を以て九月九日家を男邦孚に譲る
 後其身隠居に在りと雖ども屢々書を慶邦に上りて尊王の大義海防の急務及藩政の改革を諭す文久二[1862]年六月十四日遂に命下り慶邦に謁す此時京師不穏之に因り評議数日に及ぶ宗賢固く勤王の大義を陳ぶ慶邦意大に決する所あり
 此[1862]年九月十六日邦孚没するを以て宗賢再び家を承く
 仝三[1863]年命を被り藩政取締となり仙台邸に居る時に九州西国形勢益々穏ならず京師騒擾甚し故に伝奏衆を派し勅命を伝へ速に慶邦の上京を促す慶邦偶々病に伏し勅を奉すること能はず宗賢をして代りて参内せしむ仝三[1863]年九月四日仙台を発し十月一日京都に着し妙心寺塔頭蟠桃院に属す即日摂政近衛二条鷹司三公及び伝奏飛鳥井野々宮両郷〔卿〕に参殿して着京の申ふ仝二日近衛公に参し天機を奉伺し金三萬両を献す仝五日侍従に拝す衣冠参内伝奏衆に謁し帰国の由を奏上し十一月一日京地を発して帰国の途に就く偶々使者松平友三郎幕命を以て仙台に赴く宗賢謂く吾勅書を奉して帰る若し幕吏の先する所とならんか藩論之れが為に動揺し勤王の気勢を損ふに至らんと昼夜兼行途槻木に至り之を超ゆるを得たり廿三日仙台城に着す直に勅書を慶邦に伝達し委曲反命す慶邦大に之を悦び腰刀を与へ以て其功を賞す宗賢又謂らく外国交易は天下趨勢の免るへからざる所なり此秋に至り船舶なくんば曷〔焉〕んぞ国家の利益を計るを得んやと三浦乾也を介し家臣鈴木琢磨を横浜に遣し英国より汽船を購ふことを約せり
 偶々病を発し慶応二年七月三日歿り年六十三賢燈院殿秀山仁信大居士と法諡す
 宗賢深く文教を興し松井梅屋父子香味竹窓等を聘し又儒臣君ヶ袋貞吉貞太郎父〕宍戸広吉等に命じて私学を興し以て子弟を教育せしめ殖産興業を企画し或は蚕事を努め自ら茶園を興し漆樹を栽する等蓋し其一端なり 」(『黒川郡誌』)。「漢詩の名人として、『島津の三郎(島津久光)、伊達の六郎』と言われる程、朝廷にも名の知られた存在であったと言う。気性は廉直であったと伝わる。」(Wikipedia「伊達宗賢」
十代邦孚(くにたか)
 「文政12年1月12日(1829年2月15日) - 文久2年9月16日(1862年11月7日)(中略)
 父は伊達宗賢。正室は遠藤勘解由の娘。子は伊達宗広。幼名卯之助。通称は式部。字は子華。号は薫園。
 文政12年(1829年)1月12日、仙台藩一門宮床邑主伊達宗賢の子として宮床に生まれる。安政4年(1858[7]年)9月9日、父宗賢の隠居により家督と知行8000石を相続し宮床邑主となる。文久2年(1862年)9月16日死去。享年34。法号廣雲院元山維良。葬地は宮床覚照寺。家督は父宗賢が再家督の後、宗広が相続した。
 父宗賢と同じく勤皇家であり、詩作に優れた教養人でもあった。著作に『村居百絶』『詠物百律』がある。」(Wikipedia「伊達邦孚」
和田織部為泰
 和田織部は仙台藩二番着座格にして宮城郡蒲生の邑主なり食禄千六百石諱は為泰字は直恒豹堂と号す一門黒川郡宮床の邑主伊達六郎の二男なり歳十三にして和田家を相続す時に養家に武器の備なく(中略)邸内に道場を設け家臣をして文武の道を講ぜしむ(中略)頼母子の法を設け抽選を以て太刀を求めしむ
 慶応四[1868]年参謀として登米勢を率ゐ出戦す又海岸に砲台を築き防備を厳にす後執政〔仙台藩最後の家老〕に累遷し大いに尽す所あり時に藩論一変して降を約するの後額兵隊の脱走を企つるや鎮撫として石巻に出張し隊中脱走を欲せざる者九十余名を受取り福田町雲洞院に招集せしむ
織部性果断事に臨んで卓励風発気力人を圧するを以て増田暦治等の讒する所となり遂に斥けられ尋て死に処せらる時に明治二[1869]年四月十四日にして享年三十八歳其辞世の歌に曰く
  君の為め荷ふ命はおしまねど
    こゝろにかゝる国の行末
」(『黒川郡誌』)
十二代宗広
 「安政5年(1858年)6月23日、宮床伊達氏第10代当主・伊達邦孚の子として生まれる。文久2年(1862年)9月に父・邦孚が死去した際、宗広は幼少を理由に即時の家督相続を認められず、隠居していた祖父の宗賢が家督を代行した。
 慶応4年(1868年)、戊辰戦争に敗れた仙台藩は減封され、宮床伊達氏は所領を失い家中も士族籍を得られなかったため、翌年に他の一門と共に北海道開拓を志願し、分領が割り当てられることになったが、現地調査の結果、同地の開拓は難しいと判断し、明治3年(1870年)11月27日、移住を諦めて家中全員を帰農させることにした。
 明治32年(1899年)、宮床村長に就任。昭和3年(1928年)12月8日死去。享年71。」(Wikipedia「伊達宗広」
 この宮床伊達氏”最後の殿様”は、年長の従兄湯村房雄によれば、「ババ、居だが?」とのたまって、玄関を通らず、必ず縁側から上がり込んだものだという。
十三代賢孝
 十代「邦孚と〔下述する原阿佐緒の大叔母、側室〕はまじの間に生まれた〔庶子〕長男賢孝〔やすたか〕は、現在宮床に住んでいる伊達氏の先代であるが、妻さととの間に子供がなく養女を迎えた。これが、現在、〔阿佐緒の〕分家原家の家屋管理、保存に尽力している〔十五代〕伊達きん〔阿佐緒の再従姉妹〕である。
 長女はのちと称し、明治に入って仙台の七十七銀行の初代頭取中島信成(宮城県伊具郡金山出身)に嫁した。
 次女ゑん(縁、延)は氏族、対馬遠藤信道(宮城県栗原郡川口出身)に嫁し、三子をもうけた。信道が神道家であったためであろう、三子は三種の神器に因んで、真鉄(まがね)、真玉(またま)、真剣(またち)と命名された。 信道(明示二一[1888]年三月没。享年六八歳)は江戸幕府時代、仙台藩の重鎮たる宿老の一人であったが、維新後、伊勢神官となった。 三男真剣は後、分家原家の養嗣子となった。
 又遠藤家からは四条派の画家遠藤速雄(慶応二[1866]年─大正四[1915]年)が出ている。因みに阿佐緒が後年日本画を学ぶに至ったのは、母の慫慂にもよるが、速雄に影響されるところがあり、直接指導も受けている。
伊達松園(万次郎)
 三男万次郎(文久元[1861]年一〇月─昭和二二[1947]年八月)は分家して石巻に住んだ。宮城師範学校を卒え、一時教鞭を取ったが、佐々木巴渓の門下で、号を松園と言い書家として活躍した。又歌人でもあった。松園は阿佐緒を我が娘のように可愛いがり、阿佐緒も幼い時分から度々石巻へ遊びに行き、書や短歌の手ほどきを受けたと言われる。」(小野勝美『原阿佐緒の生涯』古川書房,1975)
十五代きん
 賢孝の跡の十四代は、夫婦養子のきんの夫(名不詳)が嗣いだと思われ、その死後はきんが十五代を襲ったものであろう。
 伊達きん「刀自は当館最後の領主伊達宗広様の姪姫であられ、現にこの田手岡(館岡とも書き御殿山とも言う)の領有者でもある。」(『緑の故里七つ森を語る』)
また、上述のとおり、阿佐緒の故郷宮床における数少ない理解者にして、庇護者でもあった。
十六代洋司・宮子
 十代邦孚の姉ヒサが金華山黄金山神社神職奥見氏に嫁いでおり、横山氏に嫁いだその孫みねの六男洋司が、伊達きんの娘宮子を娶って養子に入り、宮床伊達氏十六代を継いだ。
 因みに、みねの長女◯◯は、猪狩氏に嫁いだ隆氏の御母堂で、つまり宮床伊達氏十六代洋司は、奇しくも我が澤田氏の旧主猪狩氏十五代当主隆氏の母方叔父にあたる。
 仙台藩志会会長の座を巡って、長い間会長を務めた高齢の岩出山伊達氏出身の伊達篤郎に引退を迫り”平成伊達騒動”とマスコミに揶揄されたが、2007年の篤郎死去を受けて会長に就任した。
 「2015年4月29日 伊達洋司先生(元宮城学院女子大学教授)がご逝去されました(満81歳).」(東北大学大学院農学研究科生物産業創生科学専攻食品機能健康科学講座HP「卒業生の最近の動向」
 「田手岡館跡1.2ヘクタールを寄贈
 【黒川支局】宮床伊達家16代当主で仙台藩志会元会長の伊達洋司さん(故人)の妻〔伊達きんの娘〕宮子さん(82=仙台市青葉区=らはこのほど、同家の江戸時代の拠点だった田手岡館(通称御殿山)の跡地約1・2㌶を大和町に寄贈した。町は宮床地区や宮床伊達家の意向を踏まえ、歴史的遺産の保全や地元住民の憩いの場として整備したい考え。」(「OSAKI WEB PRESS」2016.3.5)

田手岡(館岡、御殿山、宮床城)
 「宮床村宮床にあり万治三[1660]年春伊達宗房宮床村を賜ひ家臣御仮屋場に移住寛文六[1666]年八月新館成る宗房移りて茲に住す即ち今の田手岡なり享保元[1716]年八月三日結構を改め北表を南面とす二[1717]年二月竣功〔工〕明治維新廃藩と共に館第撤退後荒廃に帰す境内伊達吉村の褜塚あり」(『黒川郡誌』)。
 「〔1971年〕十二月二十四日、伊達きん子老刀自のご案内を受け田手岡館址を尋ねる。(中略)
  田手岡址は、宮床新小路聚落の東凡そ二〇〇米に位する。そこに通ずる道は現在新小路から岐れて二条ある。一は北寄りのそれで旧大手門の道筋、他はこれより南二〇〇米距たる旧桜馬場の道筋である。何れも街道から東方一直線に、館え向った旧侍屋敷の道筋だったろうが現在は、田の中を通る単なる里道になっている。
 大手門は前記北寄り道筋、街道からの分れ際にあったと思われる。勿論、城門の構築方式から考えて、街道から道を乙字形に屈折させて門を設けたに違いない。この門の内、大手筋を館に向いその道の尽きる所、大地の山裾に旧館、外郭のお濠があり僅か乍ら今にその痕跡を残している。道はそこから登り坂になり、右に、左に、さらにもう一度右えと屈折しやがて頂上に達する。老刀自は、こゝに幅七間、高さ五間の表門がございました、と指示してくれる。道の屈折の具合から見て、当然こゝは桝形の城門であったろうと想像する。
 頂上大地は展けてはいるが、一面萱薄の枯れ草が覆い被さり一見荒寥とした浅茅生だ。そのあい間、あい間に新たに植え込んだ苗木の杉がひ弱く混生するのが亦、尚一層こゝの蕭条とした感じを深めている。
 老刀自はその跡に立って、こゝがお玄関、こちらには百五十畳敷きの大広間、その向うに小書院、こちら北には二十五間長廊下、それを挟んでお目付詰所、お近習部屋やお上台所、その西にお座の間、更に奥には奥様お座の間若奥様お座の間お子様部屋がございました、と手にとるように示してくれるのであった。
 勿論殿舎の遺構は、礎石も含め何一つ残ってはいない。が、南寄旧庭園跡に、潅木の繁みに覆われて、心字池の窪みが不気味に口を開けているのと、所々に斧鉞を免れた老松老杉、それに枝振り見事な数株の桜樹が立ち残っているのとが何よりも雄弁に、ありし館の豪華さを物語ってくれる。」(『緑の故里七つ森を語る』)
大義山覚照寺
 「宮床村宮床字大椚にあり本山西京花園正法山妙心寺
    臨済宗 妙心寺派
 本尊 観世音
 由緒 寛文五[1665]年伊達家の一門伊達宗房生母の為に創立して慶雲寺と号す妙心寺再住鵬雲東搏和尚を以て開山とす宗房は伊達家の中興中納言政宗の孫にして綱村の叔父に当り吉村の実父たるを以て元禄十[1697]年中将綱村寺領三十石の地を寄付せり其後享保三[1718]年中将伊達吉村殿堂を造営し寺号を覚照寺と改む別に仏供米拾五石寄付ありしが明治二[1868]年悉皆奉還す今や殿堂頽廃して僅に庫裏を残すのみ宗房以後伊達氏累代の墳墓あり塔頭に清心庵あり」(『黒川郡誌』)。
幻樹軒観音
 「覚照寺本堂うしろ高台杜の中に二・七米四方、方形屋根の小堂がある。中に幻樹軒観音を安置する。像は丈い約二〇糎、金箔置きの坐像で左手に一茎の持蓮観音だ。」(『緑の故里七つ森を語る』)
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三番 宮床村幻樹軒 あるかなきよのこのもとのかりすまひ いろかにこめてゝこゝろとむなよ♪
西河山龍巌寺
 「宮床村宮床字長倉にあり
    曹洞宗 大源派
 本尊 釈迦如来  本寺 柴田郡村田西湖山龍島院
 由緒 寛永十八[1641}年田手肥前高実本国柴田郡小泉村祥光院を再興して寺号を龍岸寺と改め田手氏の牌所と定む開山は柴田郡村田号龍島院八世州山和尚なり高実没するに及て一女子あり伊達忠宗の九男宗房に配す宗房寛文[1666]六年当村へ移住の後龍岸寺を当村へ移し寺領四十石を寄付して田手氏の祖先を祀れり境内に高実の廟あり維新の際寺領奉還明治十三年殿宇を撤し現に庫裏のみを存せり」(『黒川郡誌』)。
新田八幡神社
 「宮床村宮床字仁田に在り
  祭神  応神天皇 神功皇后 玉依姫
 由緒 当社は元仙台城の北田手宗房邸内に在りしを延宝元[1673]年宗房采地宮床村新田に移祭して新田八幡社と稱し田手家の氏神となす元禄八[1695]年伊達綱村祭祀料として〓〔月偏に叟〕地若干を附す宗房の子村房〔吉村〕綱村の嗣となり父の志を継て又祭田若干を寄付す維新に至りて没収せらる明治[1872]五年四月村社に列せらる」(『黒川郡誌』)。
千手観音堂
 「宮床村宮床字難波にあり
 本尊 千手観音大士
 由緒 享保三[1718]年二月十六日伊達吉村生母心台常照尼老病頓〓〔病垂れに全〕報謝の為建立する所にして石仏座像長二尺黒川三十三観音の六番〔札所〕なり」(『黒川郡誌』)。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌六番 宮床なには よしあしをすてゝこゝろにおかされは なにはにつけてことのはもなし♪
地蔵堂(宮床六地蔵)
 「宮床村宮床字窪田にあり
 本尊 地蔵菩薩
 由緒 享保七[1722]年伊達吉村の生母片倉松子の建立する所本尊は石仏座像にして五尺九寸なり宮床六地蔵の一なり因に記す宮床村には往古より大〔六〕地蔵と稱し共に獅山公吉村の生母片倉氏の建つる所なり
   一、中野原  地蔵菩薩(窪田にあり)
   二、河原田  地蔵菩薩(河原田にあり)
   三、草野川  地蔵菩薩 石仏立像長五尺八寸
   四、難波北子 法性地蔵堂 石仏立像長三尺二寸
   五、難波竹下 水地蔵堂 石仏立像長三尺
   六、高屋敷  延命地蔵 石仏立像長一尺四寸五分」(『黒川郡誌』)。
七ツ森薬師堂
 「本尊 薬師如来
 由緒 宮床館主伊達氏の侍臣八巻景任父子宝暦十二[1751-63]年四月八日自ら之を背負ひ山頂に安置せり船形石仏立像なり祭日四月八日(旧暦)には七薬師がけと稱し是等七ツ森の薬師に悉く礼拝するもの多し七ツ森の中大森に建立せるもの現今は笹倉神社と改めたり
大森薬師堂
 「宮床村宮床笹倉〔山頂〕にあり
 本尊 薬師如来
 由緒 古来堂宇の設なく祭日なる四月八日には草茅を以て仮の小屋を作り別当栄法寺本尊を安置して之を祭り終れば直に火をかけ之を焼き払ひたるものなりしが後堂宇を建立するに至る維新に至り笹倉神社と改稱す」(『黒川郡誌』)。
旧宮床伊達家住宅
 
「明治維新後、仙台藩〔版〕籍奉還に伴いお館下がりとなった宮床伊達家十〔十一〕代宗広公が当屋敷に移り住み、以降、伊達家の所有となり伊達家の居宅として用いられてきた建物で、平成5[1993]年12月に伊達洋司氏から『宮床歴史の村整備事業』に活用するものとして寄付を受け、現在の位置に平成10[1998]年3月に完成した。」(『まろろば百選 』)
宮床宝蔵
 「伊達政宗公の孫にあたる宗房公依頼〔以来〕、宮床は伊達家の小城下町として続いてきました。また、宗房公の子吉村公は、仙台藩五代藩主となり、仙台藩の財政再建力を尽くし、『中興の名君』と謳われている。
 そうしたことから当地には、伊達家縁の品々が数多く残り、伊達文化が息づいています。宮床宝蔵では、それらの伝世品〔上記湯村家の系図もあり)の保存と展示を中心に、縄文文化に始まる宮床の歴史と生活を後世に伝えている。」(『まろろば百選 』)
辻室大根
 「宮床村宮床字辻室といふ所に畑地一段許あり土質亦粘土なり茲に作れる大根は悉く円形にして長蕪に類し其葉下垂せり煮て食すれば甘味にして賞すべし
七ツ森蕷薯
 仝村七ツ森に産する蕷薯〔よしょ〕にして質固く甘味強くとろろに用ひて最も佳なり藩政時代には辻室大根と共に仙台候に献納せしものなりと云ふ」(『黒川郡誌』)。
山田鉱泉
 「宮床村宮床字湯の沢  湯主 高橋熊蔵
 由緒 古来此の地を稱して湯の沢といふ近傍に八巻進と云ふ人あり農事の余暇を以て下駄打を副業となせり曾て旧臘〔昨12月〕工事中誤つて山刀にて左手の拇指以下四本の指を切る其傷甚し即ち謂へらく湯の沢の湯を以てせば必ず之を医するを得んと急遽人を遣はして汲み来らしめ温めて洗浄すること三四日にして治し又工事に就くことを得たり又ヨーマチス症及び脚気症を患ふる人茲に来りて仮浴場を造り入浴したものありしも皆全治せり是に於て此の鉱泉の効能著しきを思ひ明治十六年[1883]八島平吉と共に浴場を開き一般患者に便するに至れり」(『黒川郡誌』)。
 「山田の県道から岐約七〇〇米、湯の沢の鉱泉宿山田の湯がある。四方翠巒〔すいらん〕に囲まれた閑寂の地でこれ亦格好の休養の地だ。それに宮床山田中野等え近距離にあることが利点だ。」(『緑の故里七つ森を語る』)。
 幼時、義伯母と共に湯治したなつかしい思い出がある。
民謡『お立ち酒』発祥の地
 「『お立ち酒』とは、婚礼の披露宴の終りに出されたお酒のことです。
 嫁いだ嫁が、二度と実家へ戻ってくることがないようにと嫁方の人たちと花嫁が縁切りをする儀式で、 大きな茶碗に冷酒を注いで、客はそれを飲み干すと、その茶碗を地面へ叩きつけて帰ってしまうと言うものです。
 「お立ち酒」は「立振舞酒」と呼ばれ、酒を片手に、嫁方の客が唄うのです。」(「お立ち酒について」
 「ちなみに、『お立ち酒』は宮城県黒川郡大和町宮床の農村が発祥ですが、近隣の民謡とは唄い方、発声、曲調、歌詞が違うことから、江戸時代末に江戸の町で流行った俗曲(流行歌)が元になっているという説もあります。」(「民謡『お立ち酒』にでてくる『くくみ酒』とは 」
『お立ち酒』作者不詳
 (一)お前お立ちか お名残り惜しい 名ごり情けの くくみ酒
 (二)今日のめでたい 花嫁すがた 親も見とれて うれし泣き
 (三)目出度嬉しや 思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松
 (四)またも来るから 身を大切に 流行風邪など ひかぬよに
 「婚礼に欠かせない唄として全国的に愛唱されている民謡『お立ち酒は、大和町のシンボルである七ツ森の麓、宮床の地が発祥です。
 清くおおらかな、しかも優しさがにじみでるような、人の情けを感じる民謡であります。
 本町の誇りとしております、この民謡の普及と保存伝承を行うべく、毎年「お立ち酒全国大会」を開催しております。
 大会もすでに29回を経て、みちのく宮城大和の地へ、北は北海道、南は岡山から毎回150余名が参加されております。」(民謡「お立ち酒」発祥の地
原氏(塩屋)
 既述のとおり、八代宗規が「文化10年(1813年)宮床の所領において、商売を行う下町が無く、日用品の購買に不自由するとの理由で、荒物小物一戸五十集〔いさば〕、八百屋一戸、酒一戸の商売の許可を本藩に求め許可され」(Wikipedia「伊達宗規」)、「宮床村に原広寛あり邑主宮床一門伊達氏の御酒屋となる 銘酒を鬼懲と稱す 伝えて明治初年に至りて止む」(『黒川郡誌』)。
 明治になって閨秀歌人阿佐緒を輩出した「原氏は元、橘姓(紋所は梅鉢)を名のり、福島県相馬中村の出である。(中略)現在、戸籍から判明する原家の先祖は、原巳之治(生没年不詳)である。原家は元酒屋であり、四代目俊樹(明治三一[1898]年一〇月十八日─昭和九[1936]年一一月二一日)まで酒の製造販売を正業としていたが、俊樹が大酒豪であった為、ついに家運傾き、酒屋を廃業したと言われる。(中略)
 阿佐緒に繋がる原家とは、分家原家である。(中略)現在、戸籍から判明する先祖は、原幸力である。(中略)本家原家では巳代治の代に、幸力に分家させたものと解してよいように思われる。
 ところで、原幸力は妻ちよじとの間に忠見(天保一四[1843]年二月一〇日─明治三三[1900]年一〇月二二日)、はまじ(生没不詳)の一男一女をもうけている。
 〔既述のとおり、〕はまじ(浜路)は慶安〔安政〕年間[1855-1860]に(中略)伊達邦孚に側室として仕えた女性である。そして、邦孚との間に賢孝、孝、ゑん、亀松、万次郎の五子を生んでいる。(中略)
 はまじは[1862]邦孚没後、伊達家を去り、近隣の黒川郡吉田の神主吉田栄樹に嫁したが、分家原家が宮床近隣の素封家としてその名が知られるに至ったのは、畢竟、このはまじが伊達氏の嬪妾となり、次々に麗質才藻の子供達をもうけたことに因ると言わなければならない。そして又、分家原家と伊達氏との繋がりはこうして生ずるのである。
 分家原家は元、塩や麹を販売する商家であり、現在でもその呼び名が残っているように『塩屋』と号した。本家、分家とも原家が酒造に携わっていたことは偶然ではない。宮床には、伊達氏に因んで御殿山と呼ばれる山があり、当時その麓に伊達氏が開いた酒造所があった。俗に『鬼こらす』(鬼ころし)と呼ばれる度の極めて強い酒を製造していた。はまじが側室に上ることにより、伊達氏は、本家、分家両原家にそうした仕事の便宜をはかり、酒造をすすめたと伝えられている。
 ところで、分家原家は塩や麹の商いを正業とする一方、広大な田畑山地の私有地を有し、三つの米倉を構えていたと言う。それ故、生活は小作人からの年貢〔小作料〕によるところが大で、こうした殿様生活は阿佐緒の代まで続いた。全て嬪妾としてのはまじを抜きにしては素封家分家原家の存在は考えられないのである。」(『原阿佐緒の生涯』)
原幸松・しげ
 阿佐緒の「父幸松は慶応二[1866]年一一月一日、忠見きわ(嘉永元[1848]年一月一〇日─明治三〇[1897]年一二月二四日)の長男として生まれた。前述のように、幸松は進取の気性に富み、新奇のものを進んで吸収しただけあって、英語に親しみ、外人教師と親交をもつクリスチャンであり、又音楽の趣味をもつ芸術家肌の人物であった。
 明治二一[1888]年五月、二三歳の幸松は、黒川郡今村(現、大和町吉岡)の遠藤家より嫁しげを迎えた。しげは、明治元[1868]年四月二六日、遠藤弥兵衛つねの長女として生まれた。遠藤家は元『浅野屋』〔奇しくも、後述する『国恩記』の主役甚内・周右衛門父子の末裔であった!〕と号し、原家と同様酒の製造、販売を業をしており、今村きっての豪商であったと言われる。時代が時代ならば、主人弥兵衛(天保二[1832]年九月九日─明治三[1870]七年二月二六日)は土地の遊女屋一軒を一円紙幣で全て貼りめぐらし、世人を驚嘆させたと言う。しげはそうした富豪『浅野屋』の一人娘として育てられた。両親は約一五キロも離れた仙台からわざわざその道の師匠を迎えては、しげに花道、茶道、三味線、舞踊等の教養を身につけさせたと言われる。だが、ある時、自家より出火の禍事に出会い、一瞬にしてその家財の悉くを消失したのであった。その後の遠藤家は酢の商売に商いを替え、『酢屋』と称された。一人娘のしげが分家原家に嫁してきた時分は、遠藤家の家運も余程傾いていたらしく、しげの嫁帰はその再興を図るための身売りの意味合いがあったという俗説もある。
 ともあれ、こうした芸術家肌の父には寛大に、又才色兼備にして女丈夫型の母には厳格に育てられた。母しげの教育は徹底していたようで、あくまでも旧家原家の『おごさん』(お嬢さん)として、他人とは別格の人間という意識の下に阿佐緒は躾けられたと言う。それ故、阿佐緒は子供の時分から友人らしい友人を持たず、遊びに出ると言えば近くの叔母みき(明治元[1868]年六月六日─昭和四[1929]年十月二九日。幸松の妹)の所であったと言う。みきは子供がなかった為、非常に阿佐緒を可愛がり、阿佐緒もまた母に叱られては叔母のもとに走って行ったと伝えられる。(中略)
 阿佐緒はまた、宮床から九キロ離れた母しげの実家今村(現、吉岡)へもしばしば召使いに伴われて、人力車や馬車に揺られて遊びに行ったと言う。(中略)
 宮床においては、生家のすぐ裏を流れる宮床川へよく遊びに行ったらしく、
  沢蟹をここだ〔幾許〕袂に入れもちて 耳によせきく生きのさやぎを(『死を見つめて』)〔生家第二歌碑,1961.7〕
という歌を残している。(中略)
 明治三三[1900]年四月五日、父幸松は阿佐緒の小学校卒業の年を迎えながら、『この子のために全財産を使え』という言葉を残して世を去った。享年三五歳の若さであった。」(『原阿佐緒の生涯』)
佐藤寅松(青牛)
 「きわは前述のごとく、忠見の妻であり、佐藤家(宮床)から嫁している。佐藤家と原家の親戚関係は、幸力が妻ちよじの没後、佐藤エツを迎えた時から生ずる。『佐藤家系図』(佐藤よしを氏所蔵)によれば、始祖は近江の国の住人藤河九郎左エ門尉藤原直高であり、いつ頃のことか定かでないが、直高が『母家ノ姓字ヲ冒シテ佐藤ト称セシ』とある。(中略)
 『寅松おぢさん』とあるのは、佐藤家一二代目佐藤寅松(慶応二[1866]年六月二六日─昭和二〇[1945]年三月二七日)であり、前出の叔母みきの夫である。阿佐緒は『黒い絵の具』の中で寅松について次のように述べている。
 宗松(寅松)の家は貧しい百姓であったが、彼は近隣に稀な漢学の素養を持ってゐた。久和子(阿佐緒)の止むに止まれない芸術心を芽生えさせ、後に一人前の歌人として世間にたつまでにさせてくれたのは、この宗松のおかげであったと云ってもよいと久和子は常に思ってゐるのである。もとより彼が直接歌の指導をしてくれたわけではなかったが、彼の力づよい魂の生活が、久和子の意志の弱さを常に鞭〔打〕ちはげましてくれたのであった。宗松は昔から、隠君子などと仇名されてゐたが、そしてそれは村の或る人達には嘲笑的の意味で云われていたことかも知れなかったが、少なくとも久和子にとっては本当の意味での隠君子として彼を見ることができた。
 佐藤寅松は一介の農民でありながら、卜筅〔卜占〕や南画を能くし、又『青牛』と号して漢詩を作った。読書の範囲も広く、東海散士の『佳人之奇遇』ダンテの『神曲』『旧新約聖書』、それに『詩経』『蒙求』『史記評林』『左氏伝評林』『西廂記』『国史略』『日本外史』『碧巖録』等々、佐藤家に保存されている書籍を見ても数十種類に及ぶ。寅松は貧しさ故に、阿佐緒を唆しては本を買わせたというが、阿佐緒はあくまでもこの隠君子寅松を『たった一人の無上の理解者』(『黒い絵の具(二)』)として敬愛している。(中略)
 叙上のように、阿佐緒の文学開眼の多大な推進者は、石巻の叔父伊達松園と共に、この『孔のあいた股引をはいて、草を刈りながら、ダンテを話す』(『黒い絵の具(二)』)佐藤寅松であった。(中略)
 寅松は妻みき没後の昭和四[1929]年一〇月、仙台の輪王寺(曹洞宗)に入り、約一〇年間寺僧に漢字漢文を教えた。昭和二〇[1945]年三月二七日病没。享年七九歳。」(『原阿佐緒の生涯』)
  家毎にすももはな咲くみちのくの春べをこもり病みてひさしも 阿佐緒(大年寺山第一歌碑,1961.6)
 後述するように、「嘉永[1848-55]の頃館主伊達宗賢秋保村秋保外記より贈り来れる巴旦杏を家老職に分与したることありしに 佐藤丹下の妻キミ其の種子を植江置きたりしに発育して母樹となり之を近隣に分植せしめたるものにして宮床中一戸として此の果実を有せざるものなきに至る 仲春開花の時期満村一白言はん方なし」(『黒川郡誌』)。佐藤丹下は、はたして寅松の縁戚なるや否や?
原阿佐緒
 「本名原浅尾(はら あさお)。
 1888年(明治21年)6月1日、宮城県黒川郡宮床村(現在の同県同郡大和町大字宮床)に生まれる。宮城県立高等女学校(現在の宮城県宮城第一高等学校)を中途退学し、上京して日本女子美術学校(現在の東京都立忍岡高等学校)で日本画を学び、1909年(明治40年)、新詩社に入って与謝野晶子に師事、『スバル』に短歌を発表。『スバル』終刊後は『アララギ』に移り、今井邦子や三ヶ島葭子とともにアララギ女流の新鋭と見なされるようになる。
 美貌の持ち主であり若くからさまざまな恋愛問題を引き起こしてきた。小原要逸との間に一児(阿佐緒の長男・千秋)、画家庄子勇と結婚し一児(阿佐緒の次男・保美)をもうけるも離婚。1921年(大正12年)、物理学者で『アララギ』重鎮の歌人で、アインシュタインの相対性理論を日本に紹介したことでも知られる石原純との恋愛が問題となる。石原には妻子があったため『アララギ』を揺るがす大事件となり、島木赤彦斎藤茂吉は石原に離縁を説得したものの受け入れなかった。同年8月に石原は東北帝国大学を辞職。二人は同棲を続けた。この事件により阿佐緒は『アララギ』を事実上追放され、石原も『アララギ』を脱会した。また、阿佐緒を擁護した古泉千樫、三ヶ島葭子も『アララギ』を離れることになった。1924年(大正13年)に北原白秋、前田夕暮、釈迢空らによって歌誌『日光』が創刊されると、四人とも参加に至った。
 1929年(昭和4年)、大阪・梅田にバー「阿佐緒の家」を始める。1932年(昭和7年)、直木三十五の紹介で「大衆文芸映画社」に入社、阿佐緒が原作を書き女優として主演したサイレント映画『佳人よ何処へ』(監督福西譲治)が製作され、同年6月1日に新興キネマが配給して公開された。同作の公開に先行し、阿佐緒が作詞し古賀政男が作曲・編曲、淡谷のり子が歌った同名の主題歌、および関種子が歌った関連曲『あけみの唄』を、日本コロムビアが同年5月に発売している。1933年(昭和8年)、石原は妻子の許に帰り、阿佐緒はバーを転々として1943年(昭和18年)帰郷。歌壇には復帰しなかった。
 1969年(昭和44年)2月21日、神奈川県足柄下郡真鶴町で心不全により死去した。満80歳没。
 長男は映画監督の原千秋、次男は俳優の原保美で、保美は画家中川一政の長女・桃子と結婚した。」(Wikipedia「原阿佐緒
原千秋
 「1907年(明治40年)12月25日、東京府(現在の東京都)に生まれる。のちに歌人になる母の原阿佐緒は、千秋の出生当時、3年前の春に上京して入学した日本女子美術学校(旧制私立、現在の東京都立忍岡高等学校)日本画科に在学中の画学生であり、同校で知り合った英語教師の小原要逸と交際していたが、父・小原は妻子のある身の上であった。1908年(明治41年)4月、父母、母とともに東京で暮らしていた祖母しげとともに、母の郷里の宮城県黒川郡宮床村(現在の同県同郡大和町大字宮床)に移転、父母は婚姻を結ばず間もなく別離する。母は1914年(大正3年)2月、洋画家の庄子勇と結婚、翌1915年(大正4年)1月28日、千秋にとって異父弟であるのちの俳優・原保美が生まれるが、母は弟の保美とともに帰郷、当時満7歳の千秋は、母と再会し、保美とともに育つ。
 1919年(大正8年)、旧制中学校進学のため、仙台市内に転居、石原純と交際中に東京から戻ってきた母と暮らすことになる。
 1931年(昭和6年)に帝国キネマ演芸から改組した新興キネマが東京市板橋区東大泉町(現在の東京都練馬区東大泉)に東京撮影所(現在の東映東京撮影所)を開いた1935年(昭和10年)には、同撮影所に在籍し、同年6月26日に公開された清涼卓明監督のサイレント映画『暁の路』に『監督補』としてクレジットされている。1940年(昭和15年)には同撮影所において監督に昇進、山路ふみ子を主演とした映画『玄海灘』が同年6月6日に公開されている(満33歳)。
 1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合により同社が大日本映画製作(大映)に統合されてのちも、田中重雄監督に共同する形で『香港攻略 英國崩るゝの日』の演出に参加している。
 第二次世界大戦終結後は、新興キネマ東京撮影所の製作部長だった今村貞雄が、同じく同撮影所で監督だった関孝二とともに設立した製作会社ラジオ映画に監督として参加、『仔熊物語・野性のめざめ』(共同監督小倉泰美)、『花嫁蚤と戯むる』を監督する。1952年(昭和27年)には、東京プロダクションとニューカレントプロダクションが提携製作した『高原の悲歌』の製作者および監督として参加、同作の脚本を大都映画出身の外山凡平と共同で執筆して、同年3月14日、東映の配給によって公開された。このころ千秋は、映画製作における資金繰りに失敗し、裕福であった原家の財産のほとんどを失ったという。母・阿佐緒は、1954年(昭和29年)、実家を離れて、千秋の弟(阿佐緒の次男)である保美夫妻の住む神奈川県足柄下郡真鶴町に身を寄せることとなり、のちに阿佐緒の葬儀(1969年)も次男の保美が喪主となった。
 1957年(昭和32年)8月9日に公開されたドキュメンタリー映画『われ真珠湾上空にあり 電撃作戦11号』の構成を行った後は、15年のブランクを経て、1973年(昭和48年)、武智鉄二監督の『スキャンダル夫人』の製作者としてクレジットされた。以降の消息は知られていないが、1997年(平成9年)11月に発売された『週刊新潮』第42巻第44号の記事によれば、当時すでに『故人』であると記されている。『大系 黒澤明』第4巻の記述によれば、『原阿佐緒と画家である庄司勇』という書籍を上梓しているとあるが、国立国会図書館には所蔵されていない。
 千秋が育った母の生家は、現在原阿佐緒記念館として公開されている。」(Wikipedia「原千秋
 我々にとって忘れてならないのは、後述するように、1953年鶴巣青年団の依頼で♪向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ 昔名高い黒川公の 音に聞こえた黒川城下♪と謳い込んだ”鶴巣の国歌”鶴巣音頭を作詞したのが、他でもないこの千秋であることを、特筆大書しておく。
  ♪ハァー おらが鶴巣はよ 豊かな村さ
       七つ森から吹くそよ風に 耕地千畳見渡す限り サテ
       金波銀波の穂波がゆれて ゆれる穂波に朝日が映えるよ♪

原保美
 「1915年(大正4年)1月28日、東京府豊多摩郡内藤新宿町(現在の東京都新宿区新宿あるいは内藤町の地域)に生まれる。父は画家の庄子勇、母は歌人の原阿佐緒、異父兄は映画監督の原千秋である。甥に犬塚弘がいる。画家の中川一政は舅(妻の父)にあたり、義弟に映画監督の中川晴之助、姪(晴之助の娘)に女優の中川安奈がいる。
 出生直後に母・阿佐緒とともに、母の郷里である宮城県黒川郡宮床村(現在の同県同郡大和町大字宮床)に移転、父の顔も知らず、異父兄の千秋とともに母の実家で育つ。帝国高等学院を中途退学し、オペラ歌手の下八川圭祐の下でオペラ歌手を目指すが、俳優に転進、松竹大船撮影所に入社する。満23歳のとき、1938年(昭和13年)12月1日に公開された、松竹大船撮影所製作、松竹配給、島津保次郎監督による劇映画『日本人』に出演してデビューし、端整な顔立ちの二枚目俳優として活躍。戦後は美空ひばり主演の映画『悲しき口笛』などに出演する。
 1958年(昭和33年)から1966年(昭和41年)まで放映されたテレビドラマ『事件記者』(NHK)において、「長谷部記者」役を演じて人気を得る。1960年(昭和35年)、丹羽文雄原作のテレビドラマ『日日の背信』(昼ドラ、フジテレビ)で主演、「よろめきドラマ」と呼称され、大ヒットした。実相寺昭雄監督作品の常連で、劇場用映画『曼荼羅』、『哥』、『悪徳の栄え』、テレビ『ウルトラマン』、『レモンのような女』、『怪奇大作戦』などで組んでいる。
 1969年(昭和44年)2月21日、母の阿佐緒が死去するが、神奈川県足柄下郡真鶴町の自宅で母の面倒を見ていたのは保美の妻・桃子であり、葬儀の喪主は次男・保美が務めた。
 1997年(平成9年)11月19日、心不全により自宅で死去した。同年2月11日に放映されたドキュメンタリー『美貌ゆえに波瀾の生涯 歌人・原阿佐緒の恋』(テレビ朝日)が最後の仕事となった。満82歳没。」(Wikipedia「原保美」

◯難波
 上述のとおり、宮床の全体を「もと難波〔なにわ〕と稱したりしを飯峰山信楽寺〔しんぎょうじ〕の開くるに当り宮方〔仁和寺宮〕の下向ありしより宮床と稱したりとぞ蓋し宮方の永住せるを以てなり」(『黒川郡誌』)。
 七ツ森の山向こうののどかな”宮床の奥庭”、そこが難波(ナヌワ)である。蘭山(あららぎやま)に源を発する難波川のほとりに広がり、中山を越えて北を併流する南川が境をなして、右岸が宮床難波、左岸は旧吉田村と分ける。
滝の原無想の滝
 「吉田川の支流〔難波川(ナヌワガワ)〕宮床村宮床難波〔ナヌワ〕の地に滝の原と稱する所あり茲にあるものは高さ五十尺余水量多からずと雖も亦美観たり」(『黒川郡誌』)。
 「難波の西端、滝の原に無想の滝というのがあり傍に不動尊が祀られている。丈い〔せい〕三二糎の石仏座像で縁日は九月二十八日である。」(『緑の故里七つ森を語る』)
滝の原鉱泉 「宮床村宮床字滝の原  湯主 浅野運三郎
 滝の原不動尊御夢想の湯と稱し明治初年より開かれたるものにして交通不便の地なれども浴客絶江ず」(『黒川郡誌』)。
 「滝の渓流に臨み不動〔尊〕無想の湯と称する鉱泉〔ちどり荘〕がある。人里を遠く離れ湯宿に長閑に休息し静かに山菜を賞味できるのは幸せである。」(『緑の故里七つ森を語る』)
あばかじか
 吉田川の支流なる萩ヶ倉川〔南川〕及難波川に産する一種の〔カツカ〕なり長さ三四寸色黒くして口大味甚だ美なり藩政時代には仙台候に献納せしものなりといふ」(『黒川郡誌』)。
蛇石
 「土地の神楽歌に
  黒川一の七つ森  登って拝むは薬師さま 降りて拝むは難波川 その川上に蛇石とて……

と唄われておりますがこの里には、難波川のほとりに棲んでいた大蛇と、七つ森の主峰大森山頂上にいらっしゃる薬師さまの激闘の話が語り伝えられております。
 石は難波川の辺(ほと)り「蛇石(じゃいし)」にあり川岸から川中に向け突進、長さ約三・五米、上幅約一・二米、水面上厚約一・〇米の巨岩で大蛇が今しも川を横切り押渡ろうとする形で横たわっております。
   ◯
 むかしこの村の裏山、中山という所に大蛇が棲んでおりました。(中略)その荒れようが余りに酷くなりましたので村人たちも堪(こら)えかね、打ち揃って向うに聳える大森山の薬師さまにお縋りし、この荒ぶる大蛇をお鎮めくださるようお願い申し上げたのでございます。
 如来さまは快くご承諾下され、(中略)懇々諭されたのでございます。が妄執にとりつかれた大蛇にはそのお諭しも通じなかったものと見えます。(中略)如来さまを只一と呑みと躍りかゝるのでした。
 如来さまも今はこれ迄と決心なされ口に呪文を称え法力を以てさしもの大蛇を鎮圧なされたのでございます。(中略)
 翌朝四辺が静まりましたので村人達が戸外に出てみますと大蛇はそのまゝ石になってよこたわっているではありませんか。そして頭から段々辿って参りますと尾の先迄全部石になって遥か後の中山に迄達していたと申します。村人が一斉に如来さまの御法力を称えお礼申し上げたことは申すまでもありません。そしてそれからは大蛇の災いはなくなり村中安穏に暮らすことができるようになりましたのでございます。」(『緑の故里七つ森を語る』)
 また、地元の人形劇サークル「七つ森­座」の熱演する創作「人形劇『蛇石物語』動画」は、不覚にも涙なしには見られない力作である。
 現在、「蛇石せせらぎ公園」「蛇石せせらぎの森」として整備・保護されている。
七ツ森湖畔公園
 1987年、難波・南両川の合流域に「南川ダム」が建設され、周辺一帯が「七ツ森湖畔公園」として広範に整備されて、県民憩いの場となっている。
 「宮城県が吉田川の支流南川に建設した総貯蓄水量1千万トンの多目的ダム(南川ダム)によって出来たダム湖(七ツ森湖)の上流側の湖畔にある。立輪水辺公園〔吉田〕、蛇石せせらぎ公園、宮橋公園蛇石せせらぎの森?〕、四十八滝運動公園〔吉田〕の4つの公園の総称である。当公園には、約1000本の桜があり、シーズンには、多くの花見客でにぎわう。秋には芋煮会や紅葉狩りと四季を通じた憩いの場として利用されており、湖畔から船形連邦〔峰〕が望める。蛇石せせらぎ公園では、安全に川遊びが楽しめる。テニスコートのある運動公園はダムの北西側にある。」(Whikipedia「七ツ森湖畔公園」

◯二ノ関
金銅山高泉寺
 「寺跡 富谷村二ノ関寺前にあり
  曹洞宗
 本寺 仙台北山金剛峰山林王寺
 由緒 慶長年間[1596-1615]本寺十世住持鱗庵光全和尚を開山となす後屡々移転したるを以て世数住職等を詳にすること能はず後退転に帰す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音三十一番札所
鹿ノ湯
 「富谷村二ノ関字鹿の山  湯主 佐藤長蔵
 由緒 従来此の地を稱して鹿の山といふ元此の地に於て鹿狩をなしゝ時壱頭の鹿を射之を獲たり即ち検すれば正に是れ手負鹿なりその斃れし渓間に泉水湧出せり泉温にして尋常の水と異れり即ち是れ手負鹿の鉱泉に浴せるものなることを知る古より鹿の浴せる湯は効験あるものなりと伝ふれば此泉必ず病を治すべしと是れにより稱して鹿の湯と唱へたりしと云ふ明治二[1869]年熊谷長七始〔初〕めて仮浴場を開き(中略)命じて鹿の湯と云ふ」(『黒川郡誌』)。
 ♪七つの薬師に願かけて 沖を遥かに眺むれば
  一、二の関や三の関 過ぐればすぐに四斗田村♪(「黒川願人節」)
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十一番 二ノ關の袋 くにゝゝのせきもゆたかにいとたけの はやしもたへぬ川なみのおと♪



(続く)


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