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InterBook紙背人の書斎
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第四節 近世奥州街道(奥州道中、奥道中)2 吉岡街道・吉岡宿・吉岡城
◯高田
高田御所
 後述するように、「正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位)]第三の皇子継仁親王[1279-1280]国司に任ぜられ、奥州黒川郡高田御所に住す
 徳治元[1306]年親王帰らるゝ趣を伝ふれども吉田村高田には現に其の遺跡を発見すること能はず
 一説に曰く鶴巣城は蓋し古の御所ならんかと」(『黒川郡誌』)。
 「〔松坂〕定政は勢州松坂の人正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位]第三皇子継仁親王[1279-1280]奥州の国司任ぜらるゝに従ひ奥州黒川郡高田御所に住す正和二[1313]年郡を南北に分ちて鈴木成時と之を守らしむ定政三十三邑を受く徳治元[1307]年成時親王に随て還り定政独り留る元亨二[1322]年六月十九日没す年五十七歳
 定政の子定衡嗣ぐ国司北畠顕家高田に至り親王の事を諮ひ具足及び刀を賞賜す又定衡の宅に臨み絵百匹綿二百屯馬一匹を賜ふ
 後数世大膳定隆に至り享禄三[1530]年自ら京に赴き奏するに天下大に擾〔みだ〕るゝを以てす後奈良天皇[1526-57]右衛門督尹実をして高田に赴かしむ此に至りて松坂その他の諸邑を領す」(『黒川郡誌』)。
 ♪日はまだ高田で舞野かや♪(「黒川願人節」)

◯吉岡
 高田からほどなく、今日の黒川郡の中心地吉岡(ヨソオガ、上の原、今村)に至る(「吉岡街道」)宮床街道、根白石街道。
吉岡東官衙遺跡・一里塚遺跡
 「大和町吉岡〔東〕二丁目に『吉岡東官衙遺跡公園』があります。この公園を『吉岡東官衙遺跡』としているようです。この公園周辺には広大な史跡があり『〔古代東山道〕一里塚遺跡』と呼ばれています。」(HP「ふるさと石巻 ひろしの散歩道」
 既述の鳥屋八幡古墳と並び郡内二県指定史跡の第二である「本遺跡は大和町吉岡に所在し、東に延びる低丘陵の南斜面に立地する。遺跡全体は約20haに及ぶ広大な面積であり、旧石器時代から江戸時代にかけての遺構・遺物が発見されているが、主体を成すのは奈良・平安時代の黒川郡衙の一部と推定される区域である。
 奈良・平安時代の遺構群(中略)のうち(3)遺跡東部地区では、材木塀が東西58m、南北54m以上の方形に巡り、南辺と東辺には棟門跡が検出された。塀の内には中央の空閑地を取り囲むように倉庫群が規則的に配置されている。これらは国衙や郡衙など官衙の形態に共通する特徴をもち、炭化米が出土していることから正倉院と考えられる。」(宮城県HP
上の原・今村・吉岡 既述のとおり、「元和二(1616)年仙台藩の公族飯坂〔吉岡伊達〕氏の居城〔吉岡城〕となりしより土民結集して一郡の駅市となる即ち吉岡と稱へらるゝは大日本地名辞書に見江たり往古は此地を稱して上の原〔、今村〕と云ひたりとぞ」(『黒川郡誌』)。
吉岡伊達氏
 既述の通り、1611年から下草古城に拠っていた伊達宗清は、「元和元年(1615年)に吉岡要害の築城にかかり、翌年に吉岡要害〔吉岡城〕に移って」(Wikipedia「伊達宗清(飯坂)」)、吉岡伊達氏となった。
 「それから二十年ばかり経った寛永十一年(一六三四)七月二十二日、前年あたりから病んでいた風眼が悪化し、わずか三十五歳の若さで暁天の露と消えるのであった。
 飯坂の局はじめ家臣団の悲しみは如何ばかりであったろうか。(中略)飯坂の局も又、同年の閏七月十七日、宗清におくれること数十日、まるで後を追うようにして多彩な生涯を閉じている。行年六十六歳。
 現在も大和町吉岡天皇寺には、宗清、飯坂の局はじめ殉死の士の墓が残っている。
 宗清には嗣子がなかったため、その後、飯坂氏の姉が嫁いだ桑折政長の一族、定長という者を養子に迎え入れたが、これ又名跡に恵まれなかった。次に政宗の正嫡、忠宗の子宗章を迎え、胆沢郡前沢に移封されたが、これは十六歳で夭逝し、実が稔らなかった。まことに不幸の連続であった。止むなく原田甲斐宗輔の次男輔俊を迎え入れたが、これまた寛文事件[1671]に連座し、切腹の憂き目に会〔遇〕っている。このような次々と発生するアクシデントのため寛文十一[1671]年飯坂〔・吉岡伊達〕家はついに断絶となった。」(『政宗に睨まれた二人の老将』)
伊達宗清母子の碑 伊達宗清母子の碑は「吉岡町天皇寺境内にあり共に五輪塔にして一は宗清の碑高さ一丈三寸寛永十一[1634]年十月二日の建つる所其正面に空岩長印大禅定門寛永十一[1634]甲戌年十月二日向て左側面に藤原朝臣伊達河内守宗清公為菩提右側面には家中奉供養者と刻せり碑の両側には殉死の五輪等七基あり塚上に杉樅の樹各一本あり杉は周り九尺三寸樅は周り一丈三寸伝へ曰ふ河内守卒去の時四本を植江たりしが唯二本のみ成長せしものなりと云ふ(中略)
 又是より去ること西北四十間飯坂局の碑あり寛永十一[1634]年閏七月十七日と刻せり」(『黒川郡誌』)。
吉岡城(伊達氏旧城・隅櫓跡)
 吉岡城
は「元和二(1616)年伊達政宗の三男宗清の城く所吉岡町旧城内にあり大手の蹟尚観るべく一の丸二の丸の旧観窺ふを得べし宗清寛永十一(1634)年死去爾後廃頽に帰せり」(『黒川郡誌』)。
 「はっきり隅櫓〔すみやぐら〕跡とわかる地形を二ヶ所呈している。(中略)吉岡城の絵図が残されておらず、東西の隅櫓からのみ往時を偲ぶことができる。」(『まろろば百選 』)
 下草・本町に替わって吉岡が黒川郡の中心地となり、今日まで続く隆盛を誇るようになったのは、実にこの伊達宗清による1616年「遷都」と、続く1623年伊達政宗による近世奥州街道(奥道中、奥州道中)「吉岡宿」開鑿以来のことである。それ以前は、「今村」なる一寒村に過ぎなかったのである。後述の蒜袋を鎌倉、下草を京都室町とすれば、吉岡は黒川郡の江戸・東京にあたることになろう。
下草から移転した社寺
 以下に、下草から吉岡に移転した9社寺を枚挙する。
蓮台山九品寺(くほんじ) 「吉岡町字志田町
  浄土宗 名越派
 本山 京都東山 花項園知恩院大谷寺
 本寺 岩城国磐前郡山崎村 梅福山専稱寺
 本尊 阿弥陀如来
 由緒 創立年月詳ならず元本郡下草にありたりしを慶長三[1598]年七月〔宗清の吉岡移転に先立って〕此地に移し本誉龍安和尚を以て中興開山となす」(『黒川郡誌』)。
  「2003年(平成15年) 先人の功績に感謝する大和町の有志らが、後世に伝えようと〔『国恩記』を著した栄洲瑞芝が住持を務めていた龍泉院ではなく〕九品寺(吉岡)に、国恩記顕彰碑(写真)を建立した。」(Wikipedia「吉岡宿」)
下草山安楽院 「吉岡町下町東裏
  新義真言宗
 由緒 黒川郡宮床村飯峰山信楽寺の末寺なれども其開山及び創立年代を詳にすること能はずにして下草村にありたりしを元和二[1616]年伊達河内守宗清吉岡に移転したるにより当寺もまた茲に移れるものなり(中略)安永[1772-80]書上に見ゆれども以後伝らず明治七[1874]年吉岡弁財山吉祥寺に合併す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十五番
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十五番 同〔吉岡〕安樂院 あんらくやくせいのふねにのりぬれは しんによのうみになみ風もなし♪
香積山天皇寺 「吉岡町字天皇寺
  臨済宗 妙心寺派
 本山 京都花園 正方山妙心寺
 本尊 正観世音菩薩
 由緒 創立年代不詳紀伊国由良港興国寺開山(中略)を開山となす元伊達郡飯坂にあり伊達念西公の第四子常陸四郎為家飯坂に館すその子彦四郎家政当寺を建立して父君為家を弔ふ即ち天皇寺殿常陸四郎為家大居士となす家政の孫伊賀守政信始〔初〕めて飯坂氏を稱す政信十一代の孫右京太夫宗康に至り男子なし女飯坂局貞山公〔政宗〕の側室となり第三子河内守宗清を生む公に請うて飯坂家を嗣かしむ宗清慶長八[1603]年飯坂村より宮城県松森に移り同十六[1611]年同地より黒川郡下草村に移住元和二[1616]年又同地より吉岡に移転す故に宗清天王〔皇〕寺を茲地に移す(中略)[1634]宗清寿三十五にして卒す之を天皇寺殿空巌長印大禅定門と諡〔おくりな〕す即ち中興開基なり殉死七人之を左右に葬れり境内又飯坂局の墓あり(中略)
 末寺として小林寺満願寺玉泉寺〔鳥屋の我が家菩提寺〕あり小林寺は明治三十二年十一月二日三重県三重郡保々村字小牧に移転し玉泉寺は妙心寺直末となり〔既述の通り、現在は長谷川先生家僧籍喪失のため天王寺に復す〕満願寺は退転せり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十番
  ♪道を急げば入合の 天皇寺の暮れの鐘♪(「黒川願人節」)
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十番 吉岡天皇寺 あまてらすわかおほきみのみちあらん 限りはのりのにはもさかえん♪
吉岡八幡神社 「吉岡字町裏
 祭神 応神天皇
 配祀 大歳神 事代主神 保食神 釜神
 由緒 元伊達家の支族飯坂家の氏神にして岩代国信夫郡飯坂に在たりしを伊達河内守宗清飯坂氏を嗣ぐに及び養母飯坂局と共に宮城郡松森に奉じ慶長十六[1611]年此地より更に黒川郡下草村に移転す元和二[1616]年宗清の吉岡城に移るや仝四[1618]年春神社を奉還し以て黒川郡惣鎮守と為す(中略)祭典の時は特に警固を附す但木氏の茲地を領するや崇敬厚く(中略)斉宗黒川鎮守八幡宮と自筆の額を奉納し(中略)慶邦旗一旒を納む明治[1872]五年村社に列す
 境内に神社一社あり
  春日神社(中略)
  合祀の神社年月日左のごとし(中略)
   天神社 吉岡町字前小路  明治四十一[1908]年十二月廿一日指命
   祭神 菅原道真
   由緒 (中略)社殿は文化年間[1804-18]名匠音羽忠内の作にして仙台の豪商恵比須屋治右衛門の建立寄進にかかる」(『黒川郡誌』)。
 「昭和28[1953]年3月21日石の間造りの神社建築様式をよく具備している点が高く評価され、本殿一棟が宮城県重要文化財に指定された。
 昭和62[1987]年8月13日落雷により本殿、拝殿とも焼失しているが、その後再建された。
 どんと祭(裸参り)輪くぐり(無病息災)、流鏑馬島田飴(良縁)等の祭りが行われている。(中略)
 楼門は但木氏の記録に『明和元年(1764)9月随身門建立 棟梁北目大崎音羽忠内』と伝える。(中略)
 芭蕉の碑『藤の実は俳諧にせん花のあと』がある。」(『まろろば百選 』)
 18世紀から19世紀にかけて、「北目大崎(別所)の名匠音羽忠内棟梁」が居た!
白旗山八幡寺阿弥陀院 「吉岡町字町裏
  真言宗 智積院派
 本尊不動明王
 由緒 (中略)元信夫郡飯坂宗康氏神八幡宮の別当たり飯坂家の松森下草を経て当地に移るや共に従て八幡宮に奉供せり明治維新に至るまで八幡宮の別当に補せらる開山は雲元法印となす其創立年代を詳にすること能はずと雖ども慶快法印を以て中興開山となす明治十三[1880]年全焼以来再興せず仝二十一[1888]年十一月二十一日廃寺となる」(『黒川郡誌』)。
稲荷神社 「伊達家の支族飯坂家の氏神にして信夫郡飯坂にありしを飯坂局別当南蔵院長久をして神体を奉持し来りて宮城郡松森村に祀らしめ同地より下草及び吉岡に移転するも亦従て斉〔いつ〕く所なり初め熊野堂付近の原島と云ふ所に南蔵院の邸宅を賜ひ其内に奉斉したりしを後現今の地に移したるものなり」(『黒川郡誌』)。
不動山金剛院南蔵院 「吉岡今村初片横丁
 本尊 不動明王 長一尺慈覚大師〔円仁〕の作なりと云ふ明治七[1874]年火災の際焼失せり
 由緒 奥州信夫郡飯坂に在り開院年代不詳藤蔵坊を以て中興となす慶長十五[1610]年死去世々飯坂家鎮守稲荷明神の別当たり南蔵院長久は飯坂局に従ひ宮城郡松森より黒川郡下草村に移住元和二[1616]年更に吉岡に転居明神に奉供し熊野堂付近に居りしを安永年間[1772-80]現今の地に移転せり河内守宗清命して熊野神社及吉田村愛宕神社の別当たらしむ明治維新により復職して神宮〔官〕となる」(『黒川郡誌』)。
水晶山不動寺龍善院 「又宝正坊 吉岡町にあり
 本尊 不動明王
 由緒 仙台良覚院の末寺にして本山派なり三宝院玉水を以て開山となす玉水は延宝元[1673]年示寂元下草村にありしを宗清当地移転に際し随従せり安永[1772-80]以後廃寺となる」(『黒川郡誌』)。
宝珠山龍泉院 「吉岡町字志田町
  曹洞宗 明峰派
 本寺 宮城郡七北田村 龍門山洞雲寺
 本尊 釈迦如来
 由緒 創立年代を詳にするこた能はずと雖も柏翁淳岱和尚の開山にして和尚は文安四[1447]年示寂元下草村にありしを寛永五[1628]年七月第四世雪山全積和尚村民に謀り之を此地に移したり
 因に記す下草村元寺地は黒川坂の辺なりと言ふ末寺石原村の富有山東泉院」(『黒川郡誌』)。
 1773年、後述する国恩記』を著した栄洲瑞芝が住持を務めていたのは、本寺である。
その他の社寺
 次にその他の、下草からの移転ではない社寺を掲げる。
天龍山中興寺 「吉岡町字石神沢
  曹洞宗 明峰派
 本寺 宮城郡七北田村 洞雲寺
 本尊 聖観世音菩薩
 由緒 応永二[1395]乙亥年四月開山初覚玄補の創立にして玄補は同二十[1413]年示寂元黒川郡志戸田村にありたりしを元和二[1616]年第八世葉山全益に至り現今の地所に移転せり其末寺七共に第七世異岸文秀和尚の開山なり即ち左の如し(中略)
  黒川郡富谷村 松沢山湯船寺    同郡富ヶ谷村 富谷山観蔵寺
  同村     瑠璃山熊谷寺    同郡大瓜村  大瓜山正覚寺
  同郡三ノ関村 独尊山威徳寺    同郡吉田村  種沢山宗源院
  同郡明石村  円通山雲高庵(中略)
 境内に孝婦仁の墓あり又保田光則撰文の孝婦碑を存す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十四番
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十四番 吉岡中興寺 ちうこうのむねをいたくはとやかくに ねんりよのおこるみなもとをみよ♪
観音堂〔熊野堂〕 「吉岡町字神沢に在り
 本尊 得大勢至菩薩
 由緒 天祥〔龍〕山中興寺十世徳照長栄和尚之を創立せりと其年月を詳にすること能はず〔黒川〕三十三観音〔一番〕を安置せり」(『黒川郡誌』)。
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌一番 吉岡熊野堂 みくまのをこゝにうつしてよしをかや みやまおもてはふだらくににて♪
熊野神社 「吉岡町字熊野堂に在り
  祭神 熊野檬樟日命
 由緒 天文[1532-55]の初紀州熊野神社より之を勧請すと古老の口碑に伝ふ元と古熊野堂田中と稱する所にありたりしを此地に遷宮したるものにして当地代々領主の厚く尊崇する所社料を奉納し祭典には特に警衛を附せられたり明治[1872]五年三月村社に列す」(『黒川郡誌』)。
福泉山教楽寺 「吉岡町字町裏
  浄土真宗 大谷派
 本山 山城国愛宕郡下京常葉町 本願寺
 本寺 仙台市新寺小路 北原山正楽寺
 本尊 阿弥陀如来
 由緒 元和五[1619]年本寺に〔二〕世明愛上人の弟祐信の開基にして元中町北宿東裏にありたりしを中頃現在の地に移転せり堂宇は元禄年中[1688-1704]の建設にかゝれり」(『黒川郡誌』)。
鬼子母神堂 「吉岡町下町裏に在り
 本尊 鬼子母神
 由緒 但木直竹継室富田氏鬼子母神を尊信し館下囲大友音人屋敷北隅に一堂を建つ明治七[1874]年之を早坂利右衛門に与ふ利右衛門之を屋敷内に移し歳事祀らなす
不動堂 吉岡町字志田町裏に在り
 本尊 不動尊
 由緒 仙台八幡堂中山不動を勧請すと伝ふれども年代不祥なり永く龍善院の管する所となる天保八年天皇寺諦巌和尚更に不動尊を奉安す維新後天皇寺の保管となる」(『黒川郡誌』)。
弁財山寿福寺吉祥院 吉岡字町裏
  真言宗 智積院派
 本尊 弘法大師
 由緒 飯峰山信楽寺の末寺なれども其開山及創立年代を詳にすること能はず明治三十五[1902]年九月十七日廃寺となる(中略)
東宝山宝憧院   真言宗
 由緒 黒川郡吉岡にあり宮床村飯峰山信楽寺の末寺なれども開山及年代等不祥なり現今教楽寺の東畑地は其寺跡なりしと云ふ伝へ曰ふ伊達宗清の祈願所なりと何時の頃より頽廃せしか安永書上にも亦久しく無住なる由記録あり
権現山霊巌院八王寺   真言宗
 由緒 宮床村飯峰山信楽寺の末寺にして吉岡今村に在り伊達宗清の祈願所たり創立年代及開山等を知ること能はず安永の頃は万了法印智伝なる由伝ふれども以後頽廃に帰せり当時黒川郡役所の南隣地は其寺跡なり
南明院 吉岡町
  当山派
 由緒 南明院永順開院年代不祥なり延宝六[1678]年当所に移転本山は山城国醍醐山にして本寺は志田郡古川寺なり
 明治維新後還俗して森氏を冒せり」(『黒川郡誌』)。
吉岡宿・吉岡一里塚
 1623年内ヶ崎織部が伊達政宗の命を受けて富谷宿を開鑿、同じく吉岡(下草)伊達宗清が「元和〔元(1615年)〕の昔沢埋め 山平げて築きたる」(土井晩翠作詞・吉岡小学校校歌吉岡宿と結び、国分町─七北田─富谷─吉岡宿の新たな近世奥州街道(奥州道中、奥道中)が開通した。ほぼ今日の国道4号線に沿っており、沿道東「上道下」辺には、道路工事により移転された「吉岡一里塚」が整備されている。
 ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)
奥山氏
 「奥山氏姓は藤原其先は目々澤丹後常清相馬の一家なり伊達稙宗公其勇武を聞き相馬氏に請て臣となさんと欲す未だ果さず常清病て死す 其子常基晴宗公に仕ふ天文中[1532-1555]田禄を下長井庄に賜ふ 其子兼清に至り奥山氏を稱す 常基の二男大学常良年甫て十五政宗公に仕へ大阪の役に従ふ元和二[1616]年二月宗家の兄兼清病て死す其子兼義尚幼なり公常良に命じ其爵禄を襲かしむ兼義既に長す常良新に二千五百石を賜ひ別に家を立つ後加俸三千五百石に至る柴田郡村田邑に住す 子常辰通稱は長十郎又勘解由後ち大学と改む承応三[1654]年三月奉行職となる」(『黒川郡誌』)。
奥山大学常辰
 「寛文二[1662]年に至り奥山常辰〔つねとき〕地を本郡〔吉岡〕に賜」(『黒川郡誌』)う。
 奥山大学常辰は「元和2年(1616年)、仙台藩重臣・奥山常良の二男として生まれる。
 慶安2年(1649年)8月に父・常良が死去すると、長兄の定親は母方の飯田(はんだ)氏を継いでいたため、常辰が家督を相続した。承応3年(1654年)に奉行職(他藩の家老に相当)に就任。万治3年(1660年)の一門・重臣14名の連署による伊達綱宗の隠居願に署名している。」(Wikipedia「奥山常辰」)
 「寛文中伊達宗勝原田甲斐専ら国事を摂し驕恣にして往々国政を誤るものあるを憤り柳川侯立花宗茂に就て訴ふる所あり幕府乃ち按検して悉く其弊を革めしむ是より先雄山〔綱宗〕公の致仕を請ふや宗茂里見重勝をして伊達の重臣に謂はしめて曰く公隠居を請はゝ采地或は其半を減せられん諸士猶服従するや否やと衆大に驚き敢て口を開くものなし独り常辰奮て曰く公の致仕は家禄を全うせんが為なり而して今や斯の如し臣等は唯城門を枕として社稷と友に斃れんのみと辞色甚た励し又茂庭定元書を常辰に贈りて公隠居の後其嗣の誰たるへきを問ふ常辰勃然書を擲て曰く亀千代君のあるあり何そ其他を問はんやと議遂に決し亀千代繦褓を以て嗣立す肯山〔綱村〕公是れなり」(『黒川郡誌』)。
 1660年「綱宗の隠居をうけてわずか2歳で嫡男の亀千代(のちの綱村)が第4代藩主になると、常辰は柳河藩主立花忠茂(綱宗の義兄)の後押しを受けて仙台藩政を主導して集権的政策を推し進め、同じく奉行職にあった茂庭定元と激しく対立した。またこの当時、幼少の亀千代の後見役として一門から伊達宗勝(亀千代の大叔父)と田村宗良(亀千代の伯父)が大名に取り立てられていたが、常辰は宗勝の一関藩も宗良の岩沼藩も共に仙台藩62万石からの内分による知行であるから、あくまでも仙台本藩の統制に服すべきであるという姿勢を崩さなかった。」(Wikipedia「奥山常辰」)
 「寛文二[1662]年黒川郡吉岡に住す」(『黒川郡誌』)。「しかし、自身の所領である柴田郡村田を岩沼藩領として提供するための代替地として、政宗の三男・宗清が寛永11年(1634年)に死去して以来蔵入地であった黒川郡吉岡を選び、さらに知行高を6,000石へ加増したことが契機となって常辰排斥運動が起こる。新田開発が頭打ちとなりつつあった中、常辰が肥沃な吉岡を蔵入地から私領に組み込んだことで、藩内に渦巻いていた常辰への不満が一気に爆発し、小姓頭の里見重勝が常辰弾劾の火蓋を切ると、一門の伊達宗重や後見役の宗勝・宗良もこの運動に同調したため、立花も常辰を庇いきれなくなり、寛文3年(1663年)7月に常辰は辞職に追い込まれた。以後常辰が藩政の中枢に関与することは無くなり、8年後[1671]の酒井邸での刃傷沙汰(寛文事件)に至るまで仙台藩政は宗勝主導の体制が続くことになる。
常辰室大越茂世女
 延宝2年(1674年)3月、嫡男・常定に家督を譲って隠居する。この時所領6,000石の内から二男・芳賀頼久に400石、三男・横尾景益に300石を分知し、さらに自身の隠居料として1,800石を割いた。ただし隠居料は延宝4年(1676年)7月に廃止し、常定に1,500石を戻して残り300石を頼久に分知している。
 綱村による修史事業が始まると、藩祖・政宗に直に仕えた古老である常辰は、各種史料の検分作業への参加を命じられた。晩年の政宗に近侍した木村可親が遺した『木村宇右衛門覚書』には、常辰が内容を検分した際に附帯意見を記した付箋がつけられている。また貞享2年(1685年)の末には古内重直に宛てて万治年間以来の様々な出来事について記した覚書を送っており、これによって伊達騒動の当事者の一人であった常辰の言い分を知ることができる。
 元禄2年(1689年)1月23日死去。享年74。
 父:奥山常良
 母:飯田重親の娘
  正室:大越茂世の娘
   奥山常定 - 長男
   芳賀頼久 - 二男。芳賀伊兵衛養子
   三分一所景益 - 三男。はじめ横尾氏を再興、のち〔桃生郡深谷領主長江氏一族、浅井村三分一所城主〕三分一所辰景養子。」(Wikipedia「奥山常辰」)
 常辰の岳父にあたる上記大越茂世は、既述の我が曾祖母の実家”北目の殿様”大越氏の祖先である。
  「常辰資性剛直にして常に人の能くし難き所ヲ為し上下の畏憚する所となる(中略)黒川郡吉田村保福寺に葬る常辰の子常定子常有其子良風故あり宝暦七[1757]年正月十一日禄三分の二を収め加美郡小野田邑に移さる」(『黒川郡誌』)。
吉岡古館
 吉岡古館は「寛文年間[1661-72]奥山常辰の築く所にして吉岡町の西方〔古館〕にあり東西百二十間南北百間繞らすに壕を以てす
 奥山良風宝暦七[1757]年加美郡小野田村に移るや但木顕行大原より此地に来り代り居るを以て維新に至れり」(『黒川郡誌』)。
 「一説に、〔伊達〕宗清が下草城より一時居住ののち、吉岡城を造営して取り移ったとも伝える。吉岡城新築ののちは、ここは物見(櫓)として使用されたとも言う。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
天祥山保福寺
 吉岡城下の西郊だが、隣村なる「吉田村吉田字一ノ坂にあり
    臨済宗  松島瑞巌寺末
 本尊 釈迦如来
 由緒 寛文五[1665]年八月創立勅謐大機円応禅師を開山となす同七[1667]年二月十五日入寺吉岡館主奥山常辰の開基なり同氏累代の位牌を蔵む天保十一[1840]年三月十三日焼失只山門のみ残れり今に存す現今の堂宇は其後の建立に係れるものなり境内に奥山氏の墳墓あり常良に殉するもの三人側に葬る」(『黒川郡誌』)。
 「山門は奥山氏創立当初からのもので薬医門と称され、県下でも極めてすぐれたものである。」(『まろろば百選 』)
但木氏
 「次いで宝暦6年[1756]宿老の但木顕行が」(『角川日本地名大辞典』角川書店)「治を吉岡に置きたるも單に吉岡吉田の一部に過ぎず」(『黒川郡誌』)。
 「但木氏は本姓橘氏、遠祖は伊賀守重信〔顕行〕に発し、下野国足利郡但木に8,000石を領し郷名を氏とした。重信〔顕行〕は伊達家初代・伊達朝宗に仕えたなど諸説があり、家歴は極めて古い。」(Wikipedia「但木土佐」)
但木氏略系
顕行伊賀守(中略)
 友重駿河守
 行久宮内少輔
 朝行左馬助 保山〔晴宗〕公に仕へ大永[1521-1528]中最上に仕ふ
 成重右馬允 性山〔輝宗〕公に仕へ再び相馬と戦ふ公賞書を賜ふ
 重久下野守 足軽奉行となる奉職五十八年源通院殿と号す
 久重惣右衛門 号由旬院母は笹町伊賀の女
 重信伊賀 号稱揚院殿中間奉行納戸奉行出入司若老を経て元禄八[1695]年二月国老となる仝[1695]年六月十九日百五十貫文(千五百石)を賜ふ仝十五[1702]年五月二十七日没す年六十二母は熊田源右衛門女隋応院と号す
 重矩志摩 号真法院殿正徳元[1711]年国老となる下野女は橋本某の女
      元禄十五[1702]年閏八月十五日磐井郡大原邑に所替元文三[1738]年三月三十日没す
 顕行 土佐号柏林院殿母は遠山帯刀の女宝暦六[1756]年奉行となる
    宝暦八[1758]年七月(中略)東山邑より黒川郡今村吉岡に采地を替へらる仝八[1758]年七月十七日没す
 長行 土佐号(中略)
 明行(中略)
 弘行 (中略)涌谷館主伊達村常の二男 明行女善信院に配す善信院子なし没す 後小野邑主富田氏に娶る
 成行 土佐初房五郎 主馬 七峯樵夫と号す年国老となり明治二[1869]年五月十九日没す文久三[1863]年五月十五日千八百石を賜ふ
 房旱 荘三郎志摩左近 号芳旱又耕雲母は亘理石見の女
 乙橘 房旱嗣子即ち当代なり」(『黒川郡誌』)。
 「政宗時代に入り慶長から慶安年間まで58年間にわたり職を奉じた但木重久が有名であるが、その弟・惣右衛門久清〔久重〕が分家した家が但木土佐の家系である。正統の系は重久から行久へと続き、召出家として繁栄する。土佐の系となる別系は久清〔久重〕を祖とし、世臣となる新しい系で、久清〔久重〕の子但木重信は元禄7年(1694年)に若老永代着座に列し、同8年(1695年)に奉行職に栄進して1,500石を領した。
 土佐の死後、子孫は幕府から藩が鷹狩場として与えられた現在の埼玉県久喜市鷲宮地区に多くが移住し、現在に至る。その中には検事総長を務めた但木敬一がいる。その他にも元日野自動車取締役など埼玉県久喜市の「但木」姓は土佐の末裔である。」(Wikipedia「但木土佐」)
但木重信
 「但木重信伊賀と稱す その遠祖は藩の始祖伊達朝宗に事へて忠節を致す步卒長より擢られて出納を司り国用を総ぶ元禄元[1688]年幕府日光廟を修む肯山公綱村命を奉じて工事を視る重信をして会計を掌らしむ三[1690]年功を竣〔お〕ふ進んて参政となり長沼下野遠山帯刀佐藤木工と同僚たり八[1695]年藩宰となり藩政を与り聞く食禄一千五百石九[1696]年十二月宿老となる遠藤内匠遠塚近江津田民部四宿老と稱す
 重信厳毅然篤実酒色を近けず自ら奉ずるに専ら節倹を主とす故に家道殷富となり少時より屡々江府に往来す未だ嘗て茶肆酒楼に入らず時人其謹敕〔ちょく〕を稱す綱村公古内重直の言を用ひ大に仏法を信ず従はざるものは罰あり衆皆畏怖す重信肯て曲従せず重直数々之を陥れんとすれども其隙を得ず
 十一[1698]年十月二日満勝〔政依〕公五百年遠忌に丁〔あた〕る重信に命して斎会を東福寺に修せしむ公に代りて香を括る十四[1701]年正月致仕子重矩嗣く十五[1702]年五年〔月〕二十七日没す寿六十二」(『黒川郡誌』)。
但木土佐成行
 但木土佐成行は「幕末の危機にあたり奉行に挙げられて藩政を執行し、軍事を総官した。土佐は前奉行・芝多民部の放漫財政の後始末をする為、倹約令を出し文久2年(1862年)10月には10万石の分限で表高62万石の仙台藩を運営することを宣言し、緊縮財政を断行。殖産興業政策により藩財政の立て直しを図る。
 土佐は、佐幕開国の保守主義を主張し、尊攘派と対立した。藩財政が破産同様となっていて、尊攘派が主張するような藩主自らが上洛して中央で活動できる状態でないことを土佐は知っていた。そして幕府の政権奉還の時には病の主君・伊達慶邦に代わり会議に与った。」(Wikipedia「但木土佐」)
 「仙台藩の老臣但木成行は其国老に挙げらるるや首として開国主義を採り洋学を奨励し兵制を改革し洋式風帆船を造り寒風沢の築港を企画し又殖産興業を盛にして国力を養はざる可からずとなし鉱業を拡張し陶器を製し製塩法を改良し柴海苔業を本吉郡に開き洋式手引機織器械及び大小施條銃砲の製造を始めたる等実に本邦に於ける嚆矢となす其他養蚕に製茶に凡そ奨励至らざる所なし
 時に鎖国攘夷論の盛なるに当り成行を目するに売国奴を以てする者あり為に危害に遇ふこと数次慶応三[1867]年幕府政権を朝廷に奉還す朝廷大に諸侯を会して大政を議せんとす藩主亦上洛を命ぜらるるも病て行くことは果さず成行代はりて京師に行き其議に与る薩長の議論往々将軍に不利なること多し幕臣憤慨将に決する所あらんとす十二月十日閣老某成行を二条城に召して将軍道を大阪に取り海路東帰の意を示す成行事端を啓かんことを憂へ大に其挙の不可なる事を諭して曰く方今諸外国我が国情を環視して其隙を窺へり是れ干戈を動すへきの秋にあらず山内容堂又其議を賛す閣老聴かず遂に伏見鳥羽の役あり
 四[1881]年正月朝廷仙台藩に命するに討会の師を以てす成行帰国復命藩主に説て曰く今や干戈を邦内に動すべからず会藩をして罪を謝せしめんと玉虫左太夫若生文十郎を使として米沢及び会津に行き説くに前議を以てす毛利氏の闕下を犯して謝罪せし例に倣はんことを勧むれども会藩躊躇未だ決せず偶々奥羽鎮撫師の一行〔仙台藩隊長大越文五郎〕既に松島湾に着し尋て上陸討会の師を促すこと益々厳なり藩主即ち兵を出して国境に屯す先鋒の諸軍開戦互に死傷あり会藩遂に仙台及び米沢藩に依り哀を請ふ九条総督之を許さんとすれども参謀世良修造等聴かず成行坂英力をして上書を携へて海路京師に赴かしむ已に江戸に至れば当路薩長人にして上書の容易に達し難きを察し太田盛をして代て京師に赴かしむ又書を外国公使に送て一書の趣旨を朝廷に奏聞せんことを求む
 偶々修造の大山格之助に送れる密書を得たり其意に曰く会藩の降伏は許すべからず事を裁可を受くるに託し遷延兵備を怠らしめ大軍一挙奥羽を掃蕩するに若かずと我兵大に怒り直に修造を斬り〔大越文五郎首実検〕大に奥羽に徇〔とな〕ひ同盟の軍を起し白河相馬越後諸道に向て兵を進む既にして三春相馬米沢諸西軍に降り我が兵気沮喪す 藩主遂に遠藤文七郎の議を容れ成行を斥けて降を約す」(『黒川郡誌』)。
 「朝廷から仙台藩に会津討伐の挙兵を命ぜられた時、土佐は会津に謝罪させようとしたが果たせず、奥州鎮撫総督が東下して会津討伐を促したので、やむなく仙台藩は兵を動かした。やがて会津は降伏となり、藩主は総督・九条道孝の前に出て会津のために弁訴したが、下参謀・世良修蔵らはこれを許さぬばかりか、のちに奥羽一円を掃蕩する陰謀が世良の密書により発覚する。仙台藩強硬派はこれに激怒し、世良を捕縛して処刑し、同日、白河城を攻略。また、九条総督と醍醐参謀を捕らえて仙台城下に軟禁した。奥羽越列藩同盟を起こし、新政府軍に対して白河、相馬、越後諸道で徹底抗戦したが、秋田藩が同盟から離反した事が致命的となり、まもなく三春、相馬、米沢諸藩も新政府軍に降り、仙台藩も撤兵した。藩主は遠藤允信らの議を受け入れて降伏。
 藩論一変して叛乱の責任者の土佐は縛につき、東京に拘禁される。明治2年(1869年)5月19日、叛逆首謀の罪で、土佐は坂時秀〔英力〕と共に麻布仙台屋敷において斬刑に処された。享年53。」(Wikipedia「但木土佐」)
 「是に於て成行明白に所思を陳して憚る所なし且曰ふ寡君罪なし只成行の一廬に出づと翌年五月に至り叛逆の首謀を以て目せられ死に処せらる成行従容として和歌一首を賦して死に就けり
  雲水の行衛はいつこ武蔵野のたゝ吹く風にまかせたらなん
 時に明治二[1869]年五月十九日高輪東禅寺に葬り表して七峰樵夫之墓と曰ふ
 初め捕吏の邸に至らんとするに先ち或人遁れて厄を免れんことを勧む成行色を正して曰く予にして遁逃せば主公を如何にせん予明に兵を起したる所以を答へ一死以て君恩に報ずべきなり唯捕吏の至るを待つのみと豈に之を概世憂国の士と謂はずして何ぞ」(『黒川郡誌』)。
 「又〔保福寺に〕但木成行招魂碑あり」(『黒川郡誌』)。
 「また当〔保福〕寺には但木土佐が書きしるした辞世の扇子が所蔵されている。
 本堂玄関は但木土佐邸玄関を移築したもの。」(『まろろば百選 』)
但木良次
 「但木良次は黒川郡吉岡の人弘化元[1844]年二月十二日を以て生る文左衛門の長子なり文左衛門は実に吉岡館主但木弘行の子別に家を立つ良次幼にして聡明学を好み沈着にして気略あり木村義平佐藤大作等に学び後大槻磐渓の門に入る叔父但木成行其才を愛し常に侍せしむ出行之を携ふ後出てゝ江戸に至り居ること数歳孜々〔しし〕として怠らず学成る時恰も幕末に際し仙台藩亦戊辰の役あり国老成行難に殉す時に明治二[1869]年五月十九日臨終に際し良次を召し後事を嘱す良次遺言を持して帰国し百方盡力興復の途を講ず
 五六[12・13]年の頃仙台に出て木製活版印刷業を起し県庁諸布達類の出版に従事す又須田平左衛門等と謀り新聞社を創立し東北新報を刊行せり新報其名稱を更ふること数回社長となる是れ実に本県に於ける新聞事業の嚆矢たりしなり
 十三[1880]年十一月擢〔ぬきんで〕られて黒川加美郡長に任せられ吉岡に赴任す十六[1883]年十月五日宗家の家名再興を許さるゝや其の橘姓を改めて但木に復せり(中略)廿二[1889]年十一月廿六日非職となり出てゝ旧仙台藩主伊達家の家扶心得となり尋て家扶となり家令心得となる居ること六年偶々郡制実施に際し本郡は加美郡と分離するに方り良次又黒川郡長に任ぜらる時に明治廿七[1894]年四月一日なり(中略)卅七[1904]年休職となり卅八[1905]年六月十四日願に依り本官に免ぜらる其職に任るや前後二十有一年画策施設其の宜しきを得治績大いに見るべきものあり郡民洽〔あまね〕く其徳を慕ふ(中略)
 仙築軽便鉄道の計画に方り主として之に盡力せしも不幸にして不認可となる是れに於て仙台軌道株式会社を計画す其の認可となるや監査役に挙げられる然れども其の竣工を見ずして没せるは真に憾となす所なり大正三[1914]年三月十日時に年七十八遠田郡涌谷館主亘理氏に娶る名は千保子良行家を承く 」(『黒川郡誌』)。
『国恩記』
 「『国恩記』とは、江戸時代後期、今村吉岡町に行われた救済事業のおこり・組織・運営・実態およびこれにかかわる諸資料をまとめた本のことである。吉岡町所在の宝珠山龍泉院前住持栄洲瑞芝(ずいし)なる者の著すところで、安永癸巳(二年=一七七三)三月日の自序がある。(中略)
 正編五巻の前に、同じ安永癸巳年の『吉駅国恩記序』次に栄洲瑞芝の『国恩記自序』を置き、凡例・年考と続いて、本文に入っている。
 本文の末尾には、このことに関係した藩庁役職者・題国恩記後・文庫入記並附言・起請文・覚等のたぐいが、関係史料ないし付記として追加され、最後に『国恩再興記』つまり第二次扶助基金始末記が続編として収録されている。(中略)
 これを『国恩記』と名づけたのは、(中略)国恩にうるおって生を安んじたものであり、この国恩はのちのちまでも記録にとどめ伝えねばならぬ、という趣旨に出たものであった。(中略)
 まず、この本は、上下二重の文庫に納められた。(中略)箱ふくさともに七重にして保管することにしたのであった。」(『大和町史』)
仙台叢書解題
 「國恩記六巻は、黒川郡吉岡下中・上三町の民戸救助の為め、有志者九人合議し、義捐金一千両を醵出し、之を藩府に納付し、其利金を乞ひ受け、各戸に毎年配分して、其目的を達成したる顛末を、同町なる寶珠山龍泉院住持、栄洲瑞芝といへる沙門の、編集したる正篇五卷へ、之に関係する起請文、又は國恩再興記等を合せ、続篇一卷となし、正篇六巻とはなしたるものなり。
 抑此美挙の起りは、龍泉院瑞芝の卷首にもいへるが如く、菅原屋篤平治穀田屋十三郎二人の篤志者が、茶話の序に、町民共生計困難に陥り、家内相續なり難きが為め、禿(つぶ)れ家などありて、驛役なる傳馬・歩夫を勤むる者も減少する有様なれば、何とかして之を救ひ得させたし。
 如何思はるヽやとの相談の末、大肝入千坂仲内方に至り此事を相談したるに、之を賛成したるのみならず進で之に加入し、肝入〔遠藤〔浅野屋〕〕幾右衛門も亦之に加入した。
 是よりして、〔遠藤〔浅野屋〕周右衛門〔二代目甚内〕・〔遠藤〕壽内〔高平(穀田屋)〕十兵衛〔高平(穀田屋)〕善八〔早坂屋〕新四郎等之に加はりたれば、連中九人となりし故、愈其九人醵出高、代六千貫文を相納むべきに付、右の年利下付の願書を藩府に差出したるに、如何なる故にや、右出願の儀は吟味相成難くとの事にて願書却下になり、一頓挫を来したれども、連中金鐡の精神は之が為めに屈撓すべくもあらず、重て再度の出願に及びたるが、此度は願意は採納になりたれども、代にては取扱上不都合なれば、金にて千両の高に納付すべしとの下知ありしに由り、願意は達成したれども、六千貫文の代錢に尚四百貫文を補足せざれば千両の金とならざるを以て、其補足錢の醵出の途に窮し、再び頓挫の悲境に陥りたれば、連中は又々非常の遣り繰り算段をなしつつ日を経る間に、錢相場下落の憂目に遇ひ、泣面に蜂の悲運到来したれども聊も挫折せず他借して之を補填し、金千両を取り纏め之を上納し、ここに至って始て安堵の思をなし、胸撫で卸し、年来の宿志成就したるを悦び合へり。
 斯くして、年々利子金九十六両下げ渡さるヽこととなり、直に三町へそれぞれ配分したれば、皆九人の辛勞を感謝すると共に、國恩の有り難きを感戴したり。又九人の者は、奇特の行為なりとて、遠藤周右衛門は特に金三両三歩、他の八人は各金二両二歩づヽの賞賜ありたるが、九人は之を私せず、少分づヽなれども町内へ配分せしは、美徳の上の美徳にして、錦上に花を飾るものといふべし。
 斯くして其利金下付の恩恵に浴するもの三十餘年、享和年代[1801-1804]に至り藩財用方の吏員更迭し、従来の下付法を改め、利金を廢し元金済し崩しの法と變じ、利金下付額だけを元金より下げ渡さるヽことヽなり、文化十一[1814]年に至 り、 元金拂渡し済みとなりし故、吉岡三町暗夜に燈を失へる思をなせり。左あれば九人の志士仁人が、明和・安永以来、苦辛設立の良法も、享和に小頓挫をなし、文化に大頓挫をなし、最早挽回す可らざるの勢とはなれるなり。
 然るに吉岡邑主地頭という但木山城弘行〔土佐成行の父〕、深く此良法の廢絶することを憂ひ、家老・町役等に申付良法再興の方法を審議せしめたる末、但木氏より二百五十両を下げ渡し之が基金となし、町内より二百五十両を加へ金五百両となし、明和の先例に 準じ、再び藩に出願せしめたり。此時先願九人の者前後凋落したりと見え、再度の願に與かりしは、只新四郎早坂氏一人なるが如し。蓋吉岡町の為めに、天は一老を遺したる乎。此再願に一遺老早坂新四郎あり。如何ばかり力となりしやは、想像に難からざるなり。
 既にして藩廷は、其願を受領するのみならず、右納付の金五百の基金へ、藩にて五倍を以て金五百両を附加して千両となし、五年目よりは、明和・安永の舊に復し、年々金百両づヽ下付すべしとの恩命に接し、愁雲一時に開け天日を仰ぐの慶運を迎ひたり。是天與の福音を記したるものは、國恩再興記にして、末卷に収めたるもの即ち是なり。
 鳴呼一進一退一喜一憂、人事の常なき此の如しと、信なるかな言や。此良法は自治の意義に適ひたるものにして、今日に於て學べき所あるを信ずるを以て、之を後世に書き遺されたる龍泉瑞芝の功亦多とすべし。抑此人は何人ぞや。只其寺名を知るのみにして、其他を知る可らず。これを遺憾とす。
 前には彼の篤志の九人ありて、其良法を立て、後には此篤志の人ありて、其顛末を記す。吉岡何ぞ善人多きや。只原本不明の文字少からず。不本意ながら、空白を存するのみ。是亦遺憾とする所なりとす。讀者諸彦冀くは之を諒せられんことを。
 因みに曰く、先願連中にて、第一の篤志者菅原篤平治は、其名の如く篤行ある人にて、製茶五種を九絛卿へ献じたるに、 卿深く其志と其茶味とを嘉みせられ、左の國風を詠じて、之に答謝せらる。其詞書並に國風に曰く、みちのくに仙臺なる、吉岡町といふ處にすむ、茶師菅原何某より、雲花五種をくりしを、賞翫のあまりに、
 春風のかほりもこヽに千世かけて花の浪こす末の松山
其方、家製之茶、献上申候所、九絛殿御賞翫之餘、御詠歌被染御筆被下候。且被為之歌中詞銘五種之名、春風、かほり、千世、花の浪、末の松山、永久可傳家者也。
 明和三[1766]年戊十一月      櫛田左近将監 宇郷主殿 信濃路丹波守 朝山内蔵権頭
 菅原屋篤平治殿
右は〔仙台〕叢書第三巻、封内土産考に載する所 。今摘録して以て参考に供すといふ。」 (『仙台叢書第十一巻「國恩記」解題』仙台叢書刊行会,1926)
”吉岡義侠伝”
 「仙台封内の所在駅官用に供するものを伝馬仕者といふ毎戸其責を負担す官労金を給す然れども邑主のある所は之を供せず黒川郡吉岡は藩の宿老但木氏の采邑なり一駅僅に百余戸終歳徒労得る所なきを以て窮困年に甚し 遠藤〔浅野屋〕甚内〔後述する小説及びこれを原作とする映画は穀田屋十三郎実父としているが、史実ではなく創作のようである〕といふもの之を憂へ救ふ所あらんと欲し日々銭を積む志未成らずして死す一子周右衛門〔二代目甚内〕に遺命して曰く我駅内の窮を救はんと欲し銭を積むこと年あり今不幸にして将に地に入らんとす其志を達すること能はざるを憾む汝吾が意を体し必ず此事を遂げよと
 笠原〔菅原屋〕篤平治高平重三郎〔穀田屋十三郎〕も又凪〔つと〕に此志あり而して篤平治〔十三郎〕の子〔養子〕某〔音右衛門〔伊達吉村が「享保12年(1727年)に仙台領産の銅を使用することを条件に、幕府の許可を得て銅銭(寛永通宝)を石巻で鋳造し」(Wikipedia「伊達吉村)た〕石巻鋳銭場の使丁となる偶々鋳銭財用給せず其主管を以て父篤平治〔十三郎〕に就き金三百両を仮らんと請ふ篤平治等以為〔おもえら〕く此請を諾して以て他日救貧の用に供せんと之を周右衛門に謀る議能く合へり乃ち鋳銭場主管に答て曰く他日金三百両を用することあり若し之を仮るを許さば則ち今の請ふ所を諾せんと主管之を約し券を附して証となす篤平治則ち金を出す
 是に於て篤平治等策を建て曰く金八百両を官に納れ年々其息を獲て駅に分与せば永く窮乏の患なきに至らる今已に鋳銭場と三百両の約あり余五百両は有力者の義捐を募らんと欲すと先自二十貫文を出す 周右衛門之を聞き大に悦んで曰く是亡父の志なりと因て貯銭一千貫文を出し且相与に日夜奔走して百方有志を勧誘す然れども未その数に盈たず 周右衛門大に憤発して曰く吾家貲〔かし〕を傾けて素志を達せんと篤平治曰く厚意感ずべしと雖も子は一郷の周望家たり今一挙貲を傾くは可なり他日緩急あらば市内の者給を誰に仰がん子暫らく之を止めよ周右衛門曰く是亡父の志をなすなり子復言ふなかれと
 而して市内有志の者篤平治の至誠を感じ〔大肝入〕千坂仲内 穀田屋〔高平〕善八 早坂〔屋〕新四郎 遠藤寿内 遠藤〔浅野屋〕周右衛門 〔肝入〕遠藤〔浅野屋〕幾右衛門 高平〔穀田屋〕十兵衛等その資を拠出し遂に其額七百両に達す故に他に仮ることなくして既に原資を得」(『黒川郡誌』)。
「慎か条掟書」
 「なお、千坂仲内の考えで願主仲間と申し合わせて、次の如き『慎か条掟書』を制定した。
 喧嘩口論、公事出入がましき儀仕らざる儀、兼て面々慎むべき事に候え共、尚此度の志願成就いたさざるうちは、右体の儀仕らざる様堅く慎み、諸事堪忍を加え、商事等につき、遠郡などへ相越し候儀も差控え、且つ志願御下知此れなき内は、世間へ対し此一巻一向に咄す申すまじき事
 一 志願の仕法等、他へ堅く申すまじき事
 一 往来の節は勿論、庶人へ対し、却て不礼がましき儀之なき様律儀に仕り、大願成就相成候わば、猶子孫へも其の訳伝え置き、振廻御町寄合等に相出で候共、上座等致さざる様心懸け、志願相満ち候とも、此儀を鼻に当て、重高の振廻致さざる様堅く慎み、勿論御公儀仰せ出され候御法度は、面々兼て相守るべき儀に候えども、賭の諸勝負等は慰にも堅く仕るまじき事
 一 御下知之なき内、連中の内、自然落命を致し候ては、互に気の毒な事に候。死生は遁れがたき事に候えば、兼て心懸け、些少の引風等にも早速治療を加え、猶更、鹿山川狩等、都て危き場所並びに相撲芝居、惣て人多く群衆致し候所へは、罷出申さざる様、面々心懸け申すべき事。右の外、委細の儀は、面々持前の儀、改て相談に及ばず。自分自身、随分心懸け慎み申すべき事
     大肝煎
 明和七[1770]年十月     千坂仲内
   願主連中」(『大和町史』)
 「乃ち状を具して代官橋本権右衛門に請ふ権右衛門是を出納司萱場木工に白す以て〓〓利を得るの計となし之を却く権右衛門因て木工に面して駅民窮困の状及び篤平治等忠信の意を陳し且つ曰く周右衛門の如き老母妻孥に至るまで衣物を売りて其資を供するに至る其誠意懇倒至らざるなしと木工固より賢明の有司なり之を聞きて嘆賞措かず乃ち命して其請ふ所を許す既にして官議する所あり諭すに金一千両を納むべきを以てす
 篤平治等九人相議し官諭の如くせんとす然れども従来募る所のもの僅に七百両あるのみ之に於て篤平治等鋳銭場の約を思ひ之を果さんとす篤平治重三郎忠内自ら石巻に赴き金を仮るの任に当る篤平治衆に謂て曰く事已に成る唯金を納むるの一事あるのみ然るに鋳銭場に約してより茲に六年の久しきを経たり若し主管言を左右に托して違ふが如きあらば則ち如何せんと仲内笑て其腹を指す衆其意を曉り皆曰く一死あるのみと乃ち相与に後事を処理し猶一書を裁し事情を具し死後官に聞かせんとなすなり
 而して将に石巻に発せんとするや会仲内病に臥す奮然病を扶けて起つ衆之を止む仲内已むを得ず二人に誓ひて曰く子等若し死せば乃ち吾豈に独生きんやと 篤平治重三郎既に石巻に到り主管に面して前約を陳ず語辞痛切肺腑より出づ主管則金を附して曰く何そ前言を食まんやと衆皆欣躍遂に一千両を官に納る 是に於いて多年の宿望始めて達し一郷為に蘇息するを得たり時に明和九[1772]年なり」(『黒川郡誌』)。
『国恩再興記』
 「こうして、篤平次ら九人の願主仲間の計画にもとずく吉岡の救済事業は、その後、約三〇年間続けられ、住民に多大な恩恵を与えることになった。しかし、享和期[1801-1804]の出入司の更迭にともなって下付法が大きく改められた。従来の利息下付から、元金済〔な〕し崩しの法に一変してしまったのである。そして文化十一年(一八一四)には、その元金も払渡し済みとなって、この大事業も終息を告げることになってしまったのである。救済事業の廃絶は、住民をして大いに悲嘆させた。吉岡三町はまさに『暗夜に燈を失』なったような状態となったのである。
 この救済事業の廃絶を憂いた吉岡の領主但木山城弘行〔土佐成行の父〕は、家老や村役人らに命じて、この事業の再興方法を検討させた。その結果、吉岡宿では、天保十年(一八三九)になってようやく二五〇両を調達し、明和の先例に準じてふたたび藩に出願したところ、藩ではその願を採納したばかりでなく、かえって藩主斉邦から二五〇両の足し金が加えられて、救済基金は五〇〇両となった。(中略)藩では、この末五か年間、五〇〇両を基金として倍金を加え、元利合せて一〇〇〇両の高とした。こうして六年目の弘化二年(一八四五)からは、明和・安永の旧に復し、年一割の利息金一〇〇両ずつが毎年の暮にふたたび下賜されることになった。ここにいたって吉岡宿は『愁雲一時に開け、天日を仰ぐの慶運を迎』えることになった。こうして文化十一年(一八一四)にいったん廃絶された救済事業も、藩主の仁惠と吉岡領主の仁心とによって、幕末に再興されることになったのである。その後、この救済事業がどのようになったかは、まったく知るすべもないが、思うに、藩政の解体と同時に廃絶されたものと考えてよいであろう。」(『大和町史』)
栄洲瑞芝
 「『国恩記』の著者、栄洲瑞芝という人がどういう人だったのかは、仙台叢書の解題にもあるように、まったく不明である。しかし、この善意の結晶たる 『国恩記』の著者である、という一点において、十分後世まで残る名をとどめたものと言ってよい。(中略)
 その文章は達意。千載の美挙はこの僧侶の大願行によって、仙台藩民生史料中の大文章としてながく残ることになったのである。
 著者のこの本に対する打ち込みようは、ほとんど根本教典に対する信仰に近いものがあった。(中略)
 九人の人たちもりっぱだったが、これを顕彰し、後世長く伝えようとするこの栄洲瑞芝の心がけもまたりっぱであった。村のため町のため、これは永久に伝えられねばならぬと遺言されているのでる。今はくすしくも町長浅野氏のもとにその遺言どおりに保存されているのである。」(『大和町史』)
 「これは、江戸時代にともされた人間善意の美しい灯の記録である。わが大和町吉岡の地に、このように『その身を忘れて人を思うの仁心』が『古今の美談』を花ひらくにいたったことは、仙台叢書の編者もいうごとく、『吉岡何ぞ善人多きや』の感が深い。(中略)
 天下のお膝元の、半官半民的な組織としてならともかく、わが吉岡町のものは、地方の小宿駅町において純粋に下からの救済運動として始められたものである。(中略)
 これはまったく、吉岡の篤志家の善意と熱意が引きだしたところの自治体救済制度である。長い大和町史のうえでも、もっとも美しいページを飾ったものとして、特筆大書されなければならないのである。」(『大和町史』)
修身図鑑
 「この絵〔菅原屋篤平治等村民ノ為ニ儲金ヲ議ル圖〕は、明治時代に小学校の終身という授業用の地域教材として三好清篤氏が作った掛図『脩身圖鑿(修身図鑑)』の1枚で、(中略)吉岡の町民救済事業の一場面を描いたものです。事業実現に尽力した菅原篤平治、高平(穀田屋)十三郎、千坂仲内の3名が相談している場面です。
 この教材の解説書には、救済事業の実現について、先人の言葉「精神一到 何事不成」に当たる例であると説明しています。」(「吉岡宿本陣案内所」展示板)
国恩記顕彰碑
 総じて、地元では 『国恩記』はまったく忘れ去られていた。かくいう私にしても、在郷時 『国恩記』のことなど見たことも聞いたこともなかった。成人して入手した『大和町史』が大きく一章を割いて称揚している「国恩記の世界」で初めて知ったが、あいにく経済学に疎い私には、当時その歴史的社会的意義がよくわからなかった。
 「九品寺老僧の二幡俊雄さん(99)によると、国恩記は明治時代に修身の授業で教えられていたこともあり、昭和10年代に顕彰碑建立の機運が高まったが、戦争で立ち消えになったという。時の経過とともに国恩記を知る人は少なくなった。
 二幡さんはずっと気に掛けていたところ、〔2013より〕十数年前に篤平治の墓守を代々勤めてきた地元男性の呼び掛けで、顕彰碑建立活動が再燃したという。」(河北新報夕刊編集部「までぇに 街今」,2013.12.6) 
 「2003年(平成15年) 先人の功績に感謝する大和町の有志らが、後世に伝えようと〔栄洲瑞芝ゆかりの龍泉院ではなく、〕九品寺(吉岡)〔の菅原屋篤平治夫妻墓隣〕に、国恩記顕彰碑を建立した。
小説『無私の日本人』「穀田屋十三郎」
 2012年(平成24年) 歴史家磯田道史によって『無私の日本人』〔文芸春秋〕という江戸時代を生きた3人の人物の評伝で、そのうちの1人としての穀田屋十三郎を通して吉岡宿が紹介された。」(Wikipedia「吉岡宿」)
 大衡に吉田川を流すなど他郷人特有の粗雑さはさて置き、主人公穀田屋十三郎を浅野屋甚内の実長子/周右衛門の兄としたのもなお創作の許容範囲としても、参考書籍に新潟県の『大和町史』を挙げるなど、笑うだけでは済まされない単純ミスなどはいただけない。特に見過ごせないのは、尠くとも単行本初版「あとがき」では原著者栄洲瑞芝に言及だにせず、多年関連史料の収集に当たられ2001.7.1『國恩記覚』を著して伝承に努められた吉田勝吉翁(「あとがき」の末尾でようやく氏名が挙げらている)や、きっかけとなった手紙の「老人」(氏名さえ記されれていない!)三橋正穎氏(元大和町議)等諸先人への敬意を欠き、あたかも万事独力で発掘したかの如く振舞い得々としている不遜な筆致である(文庫版や関連文では徐々に修正しているようだが)。そもそもの『国恩記』「慎か条掟書」にもとり、”無私の日本人”の著者にふさわしからぬ、学究にあるまじき執筆態度と言わざるを得ない。いかに「小説」とはいえ、どうにもいただけない。
 「大和町というのは、今回[2013.1]の私の最も感じたいところでありました。 (中略)しかし、大和町役場に寄ってこの事を尋ねても、案内係の人は穀田十三郎や国恩記、吉岡宿の事等々の話をしてもさっぱり通じず。他の部に問い合わせてくれてもサッパリ分からない。(中略) 現地に行った感激と、この役場の対応との両極端な出来事が、私としても大いに刺激を受けました。(中略)
  立派な建物となっている大和町役場に行ってみたところ、案内係の方に伺ってみても国恩記のことはおろか、過去にそんな史実があったことすら知らない様子。他のカウンターの方へ聞いてくれるも、そこでもちんぷんかんぷん・・。 事前にネット上で大和町の議会議事録等をチェックしてみると、ちゃんとその史実にたいする答弁もあったり、町の広報誌で町長みずからがそのエピソードに触れたりしているものの、地元の方々は意外と知らないものであります。」(岩見沢市議「平野義文Official Web Site」
 悲しいかな、後述する利府勿来関に於ける利府町関係者とまったく同列の対応である。
英訳『Unsung Heroes of Old Japan』
 
2017.3.27、「『無私の日本人』 (磯田道史著・文藝春秋刊) の英語版『Unsung Heroes of Old Japan』(アンサン〔グ〕・ヒーローズ・オブ・オールド・ジャパン/ジュリエット・ウィンターズ・カーペンター訳)が出版されました。これは出版文化産業振興財団によって、より深い日本への理解を促すため、日本の優れた本を英語に訳して世界に発信する事業として行われました。また、この本は海外の公共図書館などへ贈られました。(中略)
 私たちの町の先人の遺した知の財産が世界で役立つことが期待されます。」(『広報たいわ2017.9月号』大和町)
映画/DVD『殿、利息でござる!』
 
2016.5.7、小説『無私の日本人』を原作とした、中村義洋監督の映画『殿、利息でござる!』が、県内7カ所の映画館で先行公開、続いて14日からは全国公開された。
 監督/脚本:中村義洋 出演:阿部サダヲ、瑛太、妻夫木聡、竹内結子、きたろう、千葉雄大(多賀城市出身)、西村雅彦、羽生結弦、草笛光子、山崎努ほか 製作:「殿、利息でござる!」製作委員会 松竹創業120周年・東日本放送開局40周年記念作品
 「吉岡宿を訪れる観光客をもてなそうと、大和町としては初めての観光案内所「吉岡宿本陣案内所」が〔5月〕7日、開設された。(中略)大和町で映画関連のさまざまな商品が開発、販売され、売り切れる人気グッズも現れた。(中略) 羽生〔結弦〕人気で売り切れも」(「大崎タイムス」)。
 2016.10.5、DVD『殿、利息でござる!』が松竹より発売された。
 なお、小説も映画も穀田屋十三郎を主人公にしているいるが、それは表現手法であり、”吉岡義侠伝”(『黒川郡誌』)の主役はあくまで菅原屋篤平治であり、影の主役は浅野屋甚内である。それゆえ、顕彰碑も篤平治夫妻墓の脇に建立されているのである。
八幡原公園
 八幡原公園は「吉岡町裏なる古来八幡原と稱せる地所を経営せるものにして此所は維新前宮床伊達家の野場なり〔伊達〕宗房の嗣〔伊達〕村興植うるに嵐山の桜高雄の楓を以てし広く公衆遊覧の地となす明治初年茲地に吉田〔吉岡〕小学校を建つ四十三[1910]年七月十五日公園地となせり春陽桜花繚乱青松に和して美観窮なし秋日霜葉の紅花よりも美なり惜い哉古木年に衰へ枯るるものあり又此周囲吉野桜を植え近年に至り一層其美を加ふるに至れり
吉岡八景
 因に記す昔時佳人吉岡八景を擬せるものあり曰く
  八幡原の糸桜 権現堂の紅葉 高田の落厂〔雁〕 柴崎の夜雨 天皇寺の晩鐘 西原の夕照 七森の暮雪 古館の秋月」(『黒川郡誌』)
吉岡町
 「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之が実施をなし(中略)是に於て地方自治の機関完成するに至れり(中略)
  吉岡町 従来の今村を改めて之を稱す」(『黒川郡誌』)。
土井晩翠作詞・吉岡小学校校歌
 吉岡小学校校歌 作詞 土井林吉(晩翠) 作曲 大槻貞一(HP「大和町」
 (一)元和の昔 沢埋め 山平げて 築きたる 郷に明治の 大御代に 基を置きし 学びの舎 育ちし子弟 幾千か
 (二)七つの森の 峯高く 吉田の水の 末遠く 眺めゆかしき 朝夕の 窓に教えの 数々を 受けつつ励む 嬉しさよ
 (三)川の流れも 滴より 山の高きも 塵に因る 細き功を 集め得て 月日と共に 積まん時 すぐれし業ぞ 成りぬべき
 (四)旭の邦の 名のほまれ 邦の光を 身にうけて 心を琢き 身を鍛ひ 育ちて やがて世に尽くす 務めを 友よ忘れざれ

  ♪国分の町よりここへ七北田よ 富谷茶のんで味は吉岡♪(「奥道中歌」)
  ♪町で繁盛吉岡や 次には富谷の新町か♪(「黒川願人節」)

 (次の奥田以北は、中世・近世奥州街道に同じ)


(続く)


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