InterBook絶版七つ森に戻る 目次に戻る 前のページに戻る
InterBook紙背人の書斎
ページの最後へ進む
次のページへ進む

第三節 下草街道(舞野街道、大衡街道、色麻街道)・黒川駅家郷・黒川坂本町宿・鶴巣館
 さて、東山道は、(当時は北目分の)別所具足沢から(今日東北自動車道が縦断する)日光山(ヌッコウザン)の峠を越え、(今日の)北目の西端をかすめて「下草の東南に位置せる俗称樅の木山の南を経て黒川坂にかかる。(中略)そこを昔の道路〔下草道、下草街道(大衡街道、色麻街道)〕は下草の部落に入りて北に向かひ、舞野〔メイノ〕に入り、吉岡の東端現在天理教布教所の東側を過ぎて大衡(中略)〔を経〕、北に向かった様子が判然としている。そこで、当時は下草を本町の宿〔もとまちのしゅく〕と称えたらしい。下草には、今尚『宿尻り〔しゅくじり〕』、中小路裏小路横町などの地名が残っている。」(『下草郷土誌』)

◯下草(本町・黒川町)
 下草(スモクサ)は今日でこそのどかな一集落に過ぎないが、その本を正せば古代東山道(奥大道)の「駅家郷」、中・近世奥州街道を通じた「本町の宿」、由緒正しい黒川氏・鶴巣館(鶴巣城、鶴楯城)の城下町、誇り高き中世黒川”郡都”であった。今日の吉岡を江戸・東京、後述の蒜袋を鎌倉に比すれば、下草は黒川郡の京都室町と呼んでもいいだろう。
 明治9(1876)年地元別所生まれで”家付き娘「姉家督」・婿取り(ために「舎弟」となり仙台・笹川旅館に婿入りした長弟の嫡男が、鶴中の恩師・笹川清敏先生である)”の我が祖母は、常々下草を指して「本町(モドマヅ)」と呼び慣わしていた。
黒川駅家郷
 既述のとおり、「黒川駅は、駅家郷〔うまやごう〕の地内に所在したと推定され、舞野か下草の地に比定される。」(『日本歴史地名大系』)
 「黒川郡主の黒川氏が、はじめ落合の御所館に、ついで下草の鶴巣館によったという中世の歴史には、黒川郡における古代史からのある種の系譜が考えられてよいであろう。下草の地が黒川町クホガワマヅ〕とよばれるのは、黒川氏の館下の意味からであったにしても、黒川氏がここにより、このような館下町が形成されるにいたる背後には、古代以来の一つの中核的な村落形成の重みが考えられて良い。鶴巣の北部、落合の南部の吉田川流域段丘平野は、こうして、郡衙のあった東部〔白川郷〕に対して、もうひとつの生活の中心をその西よりに開いていたところだったのである。それが古代史上の駅家郷をうけたものであること、それゆえにこの中世黒川町の範域あたりで古代駅家跡を考えることは、当らずといえども遠からず、ということになるのである。」(『大和町史』)
高田御所一・二・三ノ関
 後述するように、「正応四[1291]年十月亀山天皇[1260-1274在位)]第三の皇子継仁親王[1279-1280]国司に任ぜられ、奥州黒川郡高田御所に住す徳治元[1306]年親王帰らるゝ趣を伝ふれども吉田村高田には現に其の遺跡を発見すること能はず一説に曰く鶴巣城は蓋し古の御所ならんかと
 一之関(イヅノシギ)二之関(ヌノシギ)三之関(サンノシギ)等村名の存する起源は往古関所のありし所より出てしにあらざるか又当御所と何等関係の存するものあらんか書して疑を存す」(『黒川郡誌』)。
黒川景氏
 後述するように、落合村蒜袋御所舘に拠っていた黒川氏中興の祖「黒川景氏は、(中略)伊達氏庶流・飯坂清宗の子として生まれる。
 急速に勢力を拡大していた伊達稙宗によって、黒川氏第5代当主・黒川氏矩の養嗣子として送り込まれる。景氏入嗣の時期は確定出来ないが、永正16年(1519年)に上洛して嫡男・稙国に将軍・足利義稙より偏諱を賜っていることから、この年までには養嗣子となっていたと考えられる。
 氏矩は享禄2年(1529年)に死去する。当主となった景氏は、新たに〔下草に〕鶴楯城〔鶴巣館〕を築いて、従来の〔蒜袋〕御所館から移った。」(Wikipedia「黒川景氏」
 この、いわば”遷都”を地政学的に見れば、大松沢丘陵南麓に構えられた御所館が大崎・斯波一門の前衛として南の国分・留守さらには伊達氏を睨む備えのに対し、新たに吉田川・舞野を越えて対岸の松島丘陵北麓に移された鶴巣館は、逆に伊達氏一門として北の大崎・葛西氏に対する構えと看て取れよう。
 「天文5年(1536年)に発生した大崎氏の内乱では、稙宗の命を受けて反乱軍の拠点・古川城の攻撃に参加し、内乱鎮圧後に救援の代償として稙宗の子・義宣を大崎氏に入嗣させる際には、大崎家中の鎮撫を任せられた。天文11年(1542年)に発生した天文の乱では稙宗方に与して、大崎義宣と共に名取郡・柴田郡に出兵したものの、乱は晴宗方の勝利に終わった。黒川氏からは黒川藤八郎という者が晴宗方についていたが、景氏は大崎義宣・葛西晴清らのように当主の地位を失うことはなかった。
 天文21年(1552年)4月15日死去。享年69。嫡男・稙国が家督を相続した。」(Wikipedia「黒川景氏」
黒川晴氏
 「黒川 〔安芸守〕晴氏は、(中略)月舟斎と号す。黒川景氏の孫。
 大永3年(1523年)、陸奥黒川氏第7代当主・黒川稙国の子として生まれる。将軍・足利義晴より偏諱を拝領して晴氏と名乗り、永禄11年(1568年)に兄の第8代当主・稙家が死去すると家督を相続して黒川氏第9代当主となった。
 黒川氏は斯波一門・最上氏の分家にあたり、奥州探題大崎氏(最上氏の本家)に属していたが、16世紀初期には伊達稙宗の勢力伸長に伴って伊達一門の飯坂家から養子を迎えており(第6代当主・景氏。晴氏の祖父)、加えて稙宗が大崎氏を実質的に従属させたことで、晴氏の代には黒川氏は半ば独立した地位を保ちつつも、大崎・伊達氏に両属する状態にあった。晴氏は娘を伊達晴宗の三男・留守政景に嫁がせ、また男子がいなかったため、義兄大崎義直の子・義康を養嗣子とし、義康の正室には晴宗の弟・亘理元宗の娘を迎えた。これらの縁組は、当時の黒川氏が置かれていた状況をよく反映している。
 晴氏は智勇兼備の将として名高く、伊達氏の傘下にあって活躍した。ところが天正12年(1584年)に家督を相続した伊達政宗が、父・輝宗の外交方針を破棄して上杉景勝と結んだために最上義光と対立を深めたことで、伊達・斯波双方の一門につながる晴氏の立場は極めて微妙なものとなっていった。天正16年(1588年)2月に政宗が大崎義隆(義康実兄・義光義兄)を攻めるに及び、婿・政景の援軍として〔叔父八森定直の〕桑折城に入っていた晴氏は遂に伊達氏からの離反を決め、中新田城攻略に失敗した伊達軍を強襲して撃破した(大崎合戦)。」(Wikipedia「黒川晴氏」
大崎合戦
 「豊臣秀吉の九州平定後間もなく、その大崎氏内部で、当主・義隆の寵童同士による争いが家中の内紛へと発展。大崎氏重臣・岩手沢城主氏家吉継が、政宗に援軍の派遣を要請した。天正16年(1588年)(中略)2月2日、泉田重光率いる伊達軍先陣は中新田城に攻め寄せるが、城を囲む低湿地帯と折からの大雪によって身動きが取れなくなり、撤退を余儀なくされた。これを好機と捉えた大崎軍は城から打って出て伊達軍を撃破した。さらに、伊達方から大崎方へと転じた留守政景の岳父・鶴楯城主黒川晴氏が、中新田城を攻める伊達勢の後方〔叔父八森定直の桑折城〕から襲いかかった。挟み撃ちにされた伊達勢は潰走して新沼城へと撤収したが、追撃してきた大崎勢に城を包囲されてしまう。23日、新沼城に閉じ込められた留守政景は、黒川晴氏による斡旋を受けて、泉田重光・長江勝景(〔月鑑斎、〕葛西晴信相馬義胤からみた義兄)を人質として提出する代わりに城の囲みを解くことを条件に和議を結び、政景は29日に新沼城を出て敗残兵を収容しながら後退した。」(Wikipedia「大崎合戦」
葛西大崎一揆
 「天正18年(1590年)7月26日、葛西晴信・大崎義隆の両名は小田原に参陣しなかったことを理由に秀吉に領地を没収され、葛西・大崎両氏の旧領13郡には新たに木村吉清が封じられた。(中略)10月16日、岩手沢城で旧城主・氏家吉継の家来が領民と共に蜂起して城を占拠したのを皮切りに、一揆は領内全土へと拡大する。(中略)
 帰京の途にあった浅野長吉は、滞在していた白河城でこの知らせを受けると二本松城へと引き返し、蒲生氏郷と伊達政宗に木村親子の救出を命じた。10月26日に氏郷と政宗は伊達領の黒川郡下草城にて会談し、11月16日より共同で一揆鎮圧にあたることで合意した。(中略)
 明けて天正19年(1591年)1月(中略)10日には相馬領に〔石田〕三成が到着し、政宗に対して秀吉からの上洛命令を伝え、氏郷・木村親子らを伴って帰京した。2月4日、上洛した政宗に(中略)改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次・徳川家康にも出陣を命じた。(中略)
 木村領の葛西・大崎13郡は政宗に与えられることになった(中略)。9月23日、秀吉から葛西・大崎13郡の検地と城砦改修とを命じられていた家康は、仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。政宗は岩手沢城を岩出山城と改名し、慶長6年(1601年)に青葉城を築いて移るまで居城とした。」(Wikipedia「葛西大崎一揆」
 黒川氏は小なりと言えども三万余石のれっきとした「戦国大名」で、中でも九代晴氏は大崎合戦で常勝伊達軍を唯一一敗地にまみれさせた黒川郡の英雄であり、その活躍は名著「紫桃正隆著『政宗に睨まれた二人の老将』宝文堂」に活写されている。惜しむらく、2007年地方史の優良版元「宝文堂」の廃業で絶版になってしまったが、いやしくも「下草・鶴巣・黒川」にゆかりのある方は、図書館等でぜひご一読されたい!
鶴巣館(鶴楯城、鶴巣城)
 
鶴楯城〔鶴巣館、鶴巣城〕は鶴巣村下草にあり本丸長さ三十間横二十五間二の丸長四十五間横二十八間西の丸横廿六間身二十八間東の丸長三十八間横二十二間東西に塹壕幅四間長四百二十九間を有す廊あり長さ各二百九十三間横十五間なりと云ふ黒川郡の領主黒川安芸守の居城なり天正十八[1590]年に至り伊達政宗の攻落す所となる」(『黒川郡誌』)。
 
「黒川郡が誇る代表的山城であるので、綿密なる探訪を願って止まない。
 その勇姿が国道筋からは美しく望まれるし、北麓の登り口には案内標柱も立っている。
 高さ約八十米。南北に伸びる一山の稜線上がすべて城郭となる。そのスケール、偉容、遺構ともに抜群の、名実ともに黒川郡内随一の名城である。
 総規模は東西二〇〇米、南北三〇〇米にも達する連郭式中世山城の典型でもあった。
 本丸は城郭のうちの最南端の高所に見られる東西五〇米、南北一〇〇米の楕円形削平地がそうであり、今は全山が深い杉林に包まれる。遺構としては、まず南端にある二条の大空壕が目につく。巾一〇米もある空壕が東西にはしり、奥山と城郭部を完全に分断する姿は壮観である。
 東、西両面には数段の壇が積まれるが、東のものは特に大ぶりにできている。また、本丸の西側の縁一帯には延々と土塁や腰曲輪がまわり、一層防塁が強化されるのも一つの特長。(中略)
 本丸の北面には同様、東西にはしる巨壕を置き、郭は二の丸に移る。
 二の丸は、東西、南北ともに八〇米の方形平場で、西への展望に勝れ、今は下は芝生、まわりには桜が植えられ、公園風に造成されている。
 二の丸から北に一段下がり、再び削平地が展ける。この東西八〇米、南北六〇米ほどの杉林の中の平地が三の丸あとであろう。三の丸の東、北、西の三面はきびしい断崖となり、東の中腹部は「東の丸」へと続く。
 三の丸の北面、及び、「東の丸」のとりつき部には大空壕あとが見られる。
 「東の丸」の面積は、東西七〇米、南北一〇〇米もあり、仲々の広さである。
 本城の北東面は三の丸、東の丸の線を以って終る。
 順序が不動となったが、本丸の西南部(二重堀の外側)にも独立形の曲輪がとりつく。
 ここは「東の丸」に対し「西の丸」と称された所なのであろう。
 大手門あとは本丸と二の丸の間、東面の杉林の中に推定でき、ここを起点としてとりついた登降路(電光形に交叉する壇)あとも確認できる。(中略)
 下草村『風土記』には
 ──鶴楯城山上よりは、東は樹木茂り相見通し御座なく候えども、南は刈田嶽、並に宮城野の山々まで、西は賀美郡あらかみ〔荒神〕山等、国分屏風嶽、吾妻ケ嶽、二口越御境通りまで、北は栗原郡一迫の山々、玉造郡花渕山、賀美郡薬莱山まで見渡し申し候事──云々と、その優れた眺望を謳っている。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「館の名のおこりは、ここに生えていた松の老木に雌雄の白鶴が舞い下りて巣を作ったからだ、と言い伝えている。実測面からすれば、鶴が羽を広げて舞いとんでいる形から、といえそうである。東に向かって開かれた鶴翼の配置をもつ。この方面は、比較的ゆるやかな傾斜である。これに対して、西方、南方は内堀を設けて防備を厚くする。とくに北方は、急な崖で、吉田川、宮床〔竹林〕川方面に面する形である。(中略)
 この館跡の北部裾の部分は、現在の下草部落の街村になるが、その畑地や宅地の区画には、土塁、空壕の遺構が見られるので、家臣団集住の遺構とも見られる。」(『大和町史』)
  ♪昔名高い黒川公の 音に聞こえた黒川城下/向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ♪(「鶴巣音頭」)
黒川氏の滅亡
 1590年、「黒川氏は豊臣秀吉による小田原征伐で参陣命令を無視したために、奥州仕置において改易され、旧黒川領は政宗の支配下に帰することとなった。政宗は旧年の報復のために晴氏を殺そうとしたが、〔女婿留守〕政景の嘆願もあって助命され、晴氏は政景の保護下にて余生を過ごした。」(Wikipedia「黒川氏」)「慶長4年(1599年)7月5日死去。享年77。没年には慶長14年(1609年)説もある。」(Wikipedia「黒川晴氏」
 「晴氏の後継・〔大崎義直の子〕義康はのちに政宗に仕え、一家の家格に列して〔黒川氏ゆかりの根白石田中村小倉郷に〕150石を知行したが、寛永3年(1626年)に義康の子・季氏(としうじ)が死去して〔根白石城に葬られ、〕無嗣断絶となった。」(Wikipedia「黒川氏」
「鶴の首」伝説
 「天正十八(1590)年の春まだ浅く、政宗は黒川氏の居城鶴巣城を十重二十重に囲み、蟻の這い出るすきもあたへずに攻めた。城は堅固、城兵善く戦い、さすがの政宗も攻めあぐんで居った。政宗は、間諜をして城の様子を探らしめた。その頃城下はずれに一人の糸繰りをしてる老婆が居ったところが、そこへ百姓風の男がやって来て、この城は政宗公も落し兼る様子だがここの殿様は余程豪い方ですネ、と婆さんに話し懸けた。婆さんは糸車の手を休めて、殿様も豪いがこの城は鶴を犧(いけに)へにして造った城で、しかも鶴の舞い上る形をしている。だから、どんな戦上手な大将でも攻むるにはむづかしい。普通の攻め方では、恐らく何年経っても落城致しますまい。ただ、一箇所の急所がある。それは、鶴の首を切断すれば落城は疑いなしと語った。聴いた男は、心中こおどりして喜んだ。すかさずその急所はどの方角にあたってるかと尋ねると、婆さんは城の東南方が鶴の首であると教へた。数日ならずして、たちまち落城した。そして、黒川氏は政宗の軍門に降った。
 その城の機密を洩した婆さんは、直ちに殺された。婆さんに話を聴いた男は、政宗の放った間諜であったことは言ふまでもない。殺された婆さんは、その辺りに葬られた。〔これもまた、敬愛する郷土の大先輩・父の同期の親友・恩師千坂一郎先生などから度々聞かされた、”つるのす村で最も有名な故事・伝説”である。〕
ぼうふり田
 それから何十年か後、ある富谷村の農夫が、婆さんの葬った附近一帯は平な草原なので、田に開拓した。ところが、その人の家族はほど無く一家族得体の知れぬ熱病にかかり、死に絶えた。そして何回繰返し繰返しその後開拓すれば、やったものの家族は必ず先と仝様な病気にかかり死滅したと言ふことで、誰言ふとなく婆さんの怨念でぼうになるのでぼふり田と名づけて、其の後誰人も開拓したものがない。それは今尚ぼーふり田と里人は称して、草原のままで現存してる。方形で、約二〇〇坪位の面積がある。
 明治の中頃、誰人かが東南隅にある塚に供養燈が建立されてる。其の位置は、下草より富谷村三之関を経て国道に連結する里道の沿線で、その辺一帯を婆々の沢と言ふ。この地名の残れる説に、二説ある。その婆さんを葬ったからその地名があるのと、又一説は黒川氏の調練場、所謂馬場なるものがあったからだとも伝へられて居る。その調練場らしきところは現在十嶋山と言い、沢の中央頃にあり北方は丘陵で、南面は平坦で、約三千坪位の面積がある。現下草須藤氏の所有で、山林になっている。昔馬場のあったところだから馬場の沢と言ふのである、との説である。尚、馬場のあつたと思われるところを十嶋山と言うのは、伊達家の藩士十嶋某の居敷跡であったとのこと。明治の中頃迄は居宅があった、と故老が話して居る。(中略)
鶴首の沢
 鶴巣城は鶴の舞い上る形をなしてるとか、その首の部分にあたってる本丸から東南に続く丘陵地で、城の弱〔搦〕め手にあたって居ったらしい。先に伝説で述べた如く、伊達政宗が城兵の退路をしゃ〔遮〕断した様に考察される。最高二丈位の堀割が、今尚残ってる。里人称して、鶴首と言ふ。(中略)」(『下草郷土誌』)
  ♪城で名高い下草よ 鶴巣の館を見上ぐれば♪(「黒川願人節」)

飯坂氏
 「飯坂氏は伊達氏初代伊達朝宗の四男・為家を祖とし、為家の曾孫・政信が飯坂に居を構えて飯坂氏を称したのが始まりである。」(Wikipedia「飯坂宗康」
 「イーザカマサノブ【飯坂政信】 名家。伊賀守と称す、伊達家第一世朝宗公の四子伊達為家の孫小太郎宗政の子、為家以来信夫郡飯坂城主たるを以て政信に至りて始めて飯坂氏を稱す、政信の子俊信、子式部大輔信近、子家房(一に重近)幼字小次郎、薩摩守また和泉守と稱す、子重朝また幼字小次郎、尾張守と稱す、子主馬宗家、子但馬守重豊、子伊賀守重信、子但馬守重定、子右近太夫宗定、子右近太夫宗康、晴宗、輝宗兩公に仕へ、一家に列せらる、大正〔天正〕十六[1588]年九月二日歿す、飯坂天王〔天皇〕寺に葬る、其妻は桑折播磨宗茂の女、慶長十七[1612]年四月二十二日歿す、宗康子なし、政宗公子宗清君家督となる。」(『仙臺人名大辭書』)
 「飯坂氏は伊達氏の庶流であり、一家の家格を有する名門であったが、寛文11年(1671年)の伊達騒動の際に当主切腹のうえ御家断絶となっており、その詳細を伝える史料は散逸して実態が明らかでない部分が多い。伊達晴宗の代には、黒川氏から養子に入った飯坂氏定〔宗定?〕(黒川晴氏の叔父)が継いでいたが、氏定は養父との折り合いが悪く、出奔して越後の上杉謙信の下に去ってしまった。〔寛文11年(1671年)の伊達騒動により飯坂家が断絶した後に著された『飯坂盛衰記』には、黒川式部(氏定)が宗康の娘[飯坂の局]を娶って婿養子に入る約束があったが、宗康が約束を反故にして娘を主君伊達政宗の側室として献上してしまったため、怒った式部は越後へ出奔し、この事を恨んだ甥の黒川晴氏が大崎合戦で伊達軍を裏切ったのだとしている。〕
飯坂宗康
 〔飯坂〕宗康の父・宗定が氏定と同一人物か、あるいは別人かは確定できないが、年代から見て氏定の出奔後に宗康が家督を相続していることは確かである。
 天正4年(1576年)8月2日、伊達輝宗は伊具郡における相馬盛胤との決戦を前にして、参陣した配下の諸将から起請文を取っているが、その十三番備の項に(中略)宗康の名が見える。
 〔飯坂〕宗康は天正12年(1584年)に家督を継いだ伊達政宗からも重用され、二女が政宗の側室に迎えられている(飯坂の局)。天正13年11月(1586年1月)の人取橋の戦いでは、政宗の本陣がある観音堂山近くに布陣。本陣に攻め寄せる敵軍に突入して力戦し、政宗の退却を助けた。天正16年(1588年)の郡山合戦では、小手森城攻めに参加したのち窪田城の防衛にあたり、翌天正17年(1589年)に岩城常隆が田村郡攻略のため出兵した際には、大條宗直らと共に田村宗顕への援軍として派遣され、田村領の警固にあたっていたが、同年秋に病に罹り、9月2日に死去。天正3年(1575年)に自らが再興した天王〔皇〕寺に葬られた。
飯坂の局
 宗康には男子がおらず、飯坂家は一時断絶したが、慶長9年(1604年)に飯坂の局が政宗の三男〔(宇和島伊達藩祖秀宗同腹弟)〕・権八郎を養子に迎え(権八郎を飯坂の局の実子とする説もある)、飯坂家を再興した。権八郎は伊達姓を拝領して伊達宗清と名乗り、黒川郡下草城主(のち吉岡城を築いて移る)となって38,000石を領した(吉岡伊達氏)。」(Wikipedia「飯坂宗康」
下草伊達宗清
 「慶長九年(一六〇四)(中略)権八郎君は飯坂家に入り、黒川郡下草の、もと黒川氏の居館(鶴楯城)の一郭、西館〔西の丸〕に壮大な館を造営し、七ツ森が見えるこの風光明媚な丘の上で手厚く養育されていた。」(『政宗に睨まれた二人の老将』)
 「新造の方が生母で飯坂の局が養母とする説(『飯坂盛衰記』『竜華山史』)、飯坂の局が生母とする説(『寛政重修諸家譜』)などがあり、大河ドラマ『独眼竜政宗』では後者を採用している。」(Wikipedia「伊達宗清(飯坂)」
 同「慶長九年(一六〇四)の伊達宗清領知黒印状(伊達家文書)によると、当村内『祢つミや〔鼠谷〕』などの功田が左斉才蔵に与えられている。」(『日本歴史地名大系』)
 「それから六年の歳月が流れ、[1610]権八郎は十一歳となる。この年に元服して名を飯坂河内守宗清と改め、黒川地方三万〔八千〕石の城主となるのであった。」(『政宗に睨まれた二人の老将』)
  「後に伊達姓を賜り伊達河内守宗清と称した。」(Wikipedia「伊達宗清(飯坂)」)即ち、ここに、歴史上ごく短期間ではあるが、「下草伊達氏」とでも称すべきものが成立していたのである。
 「慶長十六[1611]年には鶴楯城の丘を降り、今の下草の集落の北三百メートルの地点あたり、竹花川〔竹林川〕のほとりに『下草城』─一名下草古城─という平城を構えて栄耀栄華を極める」(『政宗に睨まれた二人の老将』)。
 「元和元年(1615年)に吉岡要害の築城にかかり、翌年に吉岡要害〔吉岡城に移った〔吉岡伊達氏〕。(Wikipedia「伊達宗清(飯坂)」
 「当村はのち平渡氏などの知行地となる。(中略)伊達宗清居城以前からのものとみられる黒川坂・浦〔裏〕小路・岡前・十文字・本町などの小名があり、家中などの集住地を思わせる。」(『日本歴史地名大系』)
下草古城
 「伊達河内守の下草居館は、古城〔下草城、下草古城〕と称へ部落の西北隅にあり、平地の城である。現在は鰐ヶ渕囲の大部分が城跡で、畑田で、今尚城の内城の前城の後外壕内壕町屋敷等々の地名が冠せられて居る。ことに城の内には池のありし部分が現在田になって居り、誰でもが当時の俤を容易にうかがい知ることが出来る。竹林川は源を宮床村に発し、下草に流れ、河内守居城たりしところ弯曲に自然の堀をめぐらして、落合村で吉田川と合する。平地と雖(いえど)も、要害堅固であつたこともうなずけらるる。」(『下草郷土誌』)
「下草」の由来
 「下草の地名の起これる因は、河内守時代なりと思考される。(中略)下草山安楽院の山号によりて、誰人もうなづける訳である。」(『下草郷土誌』)
 後述するように、下草山安楽院は、九世紀の建立と伝わる宮床の古刹飯峰山信楽寺の末寺で、1616年「下草村」の名を当地に残して宗清とともに吉岡に移るも、1874年弁財山吉祥寺に合併されて今はない。
黒川町
 「『富谷村風土記書上』によると、黒川氏の没落後、その家老だったといわれている渡辺氏・内ヵ崎氏〔・若生氏〕は富谷に居住し、〔内ヵ崎氏は〕そこに『新町〔スンマヅ〕』を形成した。この名称は旧城下であった『黒川坂本町〔くろかわざかもとまち〕』に対してつけられたものであった、という。また吉岡の旧名『今村』も、同じく城下町『坂本〔本町、誤植でなければ地元知らずの初歩的誤解!〕』に対する新町という意味であったという。(菊池勝之助・『宮城県知名考』)この下草の地は、かつて『黒川町』と呼ばれたこともあるという。(中略)
 それだけではない。この鶴楯城をとり巻くような形で、多くの遺跡も分布しているのである。(中略)伊達宗清の入部とともに移動してきたものもあるが、それ以前から下草にあったという由緒をもつものも多い。(中略)下草にはかなり大きい町場が形成されていたことがわかるであろう。」(『大和町史』)
黒川郡鎮守八幡宮
 「黒川郡鎮守八幡宮は、住古奥州信夫の領主飯坂右近大夫宗康氏の氏神である。後宮城郡国分松森に御遷宮、(中略)[1590]黒川氏滅亡するに及んで元和年中[1615-24]伊達政宗の三男伊達河内守宗清信仰し、[1616]宗清吉岡城に移るや下草より吉岡に遷宮〔吉岡八幡神社〕された。(中略)
 明治十五[1882]年頃迄は、下草より御遷宮になったゆえ祭典の御輿渡御の奉仕者は下草より〓〔加冠に車、輦?〕輿致したところ、其の後下草よりは奉仕せず、下草「下」を頭字にする吉岡町下町の人達に依って奉仕されてること、現在に至る。(中略)
 下草の部落には〔八幡宮遷座の途次吉田川を越えた地点に〕八幡越戸〔八幡越へ〕と称する地名が現存する。
  現在の下草八幡社は御神体吉岡に在し、あみだ〔阿弥陀〕如来主で、八幡社は名称のみとなった訳である。」(『下草郷土誌』)
下草八幡神社
 「鶴巣村下草字迫に在り
 祭神 応神天皇
 由緒 其年月詳ならずと雖も黒川安芸守之を勧請すと古老の古碑に伝ふ伊達河内守宗清此地に来るや氏神八幡社を奉じて之を祭りたりしを元和二[1616]年吉岡城に移るや更に之を同地に遷宮す安永年中[1772-80]には社殿鳥居等もなかりしを其後社殿を造営せり明治五[1872]年二月村社に列す」(『黒川郡誌』)。
抜け村(吉岡に移転した社寺)
 当時下草にあって殷賑を極めていたが、宗清と共に吉岡に移った寺社は、次の9社寺の多きに上る。
 蓮台山九品寺下草山安楽院香積山天皇寺吉岡八幡神社白旗山八幡寺阿弥陀院稲荷神社不動山金剛院南蔵院水晶山不動寺龍善院宝珠山龍泉院
 これだけでもう、往時の下草の規模の壮大さを推し測るに十分過ぎるだろう。
  1616年の宗清退居と共に下草の寺社は総退去で下草は無寺社となり、一時は廃墟同然、文字通りもぬけの殻の「抜け村」と成り果てた。かくては、今日に至るまで、下草集落は隣村三ノ関の独尊山威徳寺を菩提寺としている始末である。
日かげ沼( シカゲヌマ)
 「部落の東端北目区との境界近くで、里道の沿線にある。今はその原形を認むることが出来ないが、昔は相当に大きな沼らしかった。七ツ森から吹きおろし風を真っ向に受けて、冬は里人等も大崎方面への往来には難儀な場所である。凍死したものも五指を屈する程である。俚謡に
    下草のなァ日蔭沼のすがの(氷の方言)割れ
      いつとけて流れるやァ
(中略)
樅の木山(モミノギヤマ)
 やはり下草の東端にある、小高い森がそれである。自然木の樅の木が、次から次へとうっそうと繁っている。頂上には雷神の祠があって、旧六月二十五日が祭典である。旱抜〔魃〕があると必ず、里人は樅の木山に登って、雨乞いをする場所である。往古は国道〔東山道(奥大道)〕が、樅の木山の南すそを東より西へ通ったそうだ。今尚割山になって、そのおもかげを忍〔偲〕ぶことが出来る。」(中略)
遠下の観音様(トオスタノカンノンサマ)
 下草の東端に、北目の境に近い所に、御観音様がある。此の辺一帯は、観音堂囲である。
 毎年旧四月十九日が祭典日で、黒川坂の氏神と称している(現高橋武氏の家を昔から遠下とも言い、又黒川坂とも言ってる)。勧請年月を詳〔つまびらか〕にすることは出来ないが、元平渡家の氏神だったものを、黒川坂の何代目かの人が替って氏神にしたと伝へられている。観音様は、金仏の一寸八分の神体なりしとか。明治の中頃、盗難にかかり紛失した由。曾て遠下の〔高橋〕廣右エ門〔同期・故高橋広君の祖父〕と言う爺さんが刈田郡鎌先に入湯中、白石町の骨董屋の店に盗まれた観音像がかざられて居るのを買求めて、元のお堂に安置したと伝へられている。
 其の後再び盗難にかかり、石像に現在はなっている。黒川郡三十三所順〔巡〕礼の、第三十二番になっている。
 その御詠歌は
     つゆ下や草の枕もいとひなく
        みのりをしたふ黒川のさか

 こんもりと茂れる松杉にかこまれ静かに々安置され、梢には昔からのことどもを秘めていることだろう。」(『下草郷土誌』)
 『全国遺跡地図宮城県』に、「観音堂小塚群 塚」の記述がある。
黒川坂(クホガワザガ)
 もとより「黒川坂」は鶴巣館・黒川氏と不可分の下草のシンボルであり、黒川郡きっての由緒を誇る名坂である。
 「黒川坂は現在佐藤多利蔵氏宅前より高橋武氏宅の西北に六、七丁向ったなだらかな坂を称した様に考察される。故に高橋武氏宅を黒川坂と言っている。(中略)
 先きにも述べた如く、樅の木山から西へ来た国道〔東山道(奥大道)〕が北進して又西に向ったところになだらかな坂道五、六丁、それが黒川坂であり、伊達河内守時代その附近に寺があったらしい。吉岡に現存する竜泉院が、それであったと伝へている。」(『下草郷土誌』)
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十二番 本町(下草)の黒川坂 つゆしもや草の枕もいとひなく みのりをしたふ黒川のさか♪
かま堀
 「下草の殆ど中央で、北に沿って道路の沿線にある用水路がそれである。昔は「ほたる」がよくとんで、里人等の夕涼みに一段と趣をそへたところであると古老が語っている。今はその名残りをとどめ、夏になると二つあるいは三つとびかはしているのが見受ける。
宿尻( シュグズリ)
 往古本町の宿と称へたときの名残である。ここは鶴巣城下のお下町で、仲小路の東端になって、農道が十字路をなして居る一帯を言ふ。昔は好く子供の遊び場所で、暮になると「たこあげ」をしたところである。今は共同作業場、農業倉庫、ポンプ置場、火の見やぐら、耕地整理記念碑などが建てられている。ここが丁度用水路の幹線で、春から秋にかけて馬や牛の運動を兼ねて行水させる場所なので、先ず下草の一番にぎやかなところであると共に、馬ひて場として親しまれて居る。
供養石(クヨシギ)
 下草の西端で富谷村三関と境してる、北は吉岡に通ずる里道、南は富谷村方面に行く三又路に湯殿山、月山、羽黒山、馬〓〔頭?〕神、山神、黄金山神社等々の石碑が建ってる処で、昔から供養石として知られていると同時に、里人等の信仰も篤い場所なのである〔現在は、神社の境内に移転している由〕。
供養山(クヨヤマ)
 下草の中央で南面せる雑木林の丘陵地帯で、昔は寺跡であったらしい、今尚石碑が散見している
下草契約講
 後述するように、「旧仙台藩の当時にありては封内の農村を通して契約講なるものあり 蓋し農民をして郷閭〔りょ(さと)〕慶弔を共にし隣保相済〔すく〕はしむるの目的に出てたるもにして(中略)全部各村此設あらざるなく又相当の歴史を有せり就中旧記書類の現存し今尚継続歴然あるものあり」(『黒川郡誌』)。
 「下草契約講の本質及歴史的性格に就てと、変遷に依る在り方を記述する。下草の契約は其の記録によれば元禄八[1695]年大神宮講物覚帳大神宮契約覚帳(元禄八[1695]年乙亥(いつがい)十一月十三日)〕に記してある通り古い歴史的存在として宮城県下においても屈指のものであることは、民俗学の泰斗東北大学助教授田村薫先生の研究発表に依りて明かにされている。(中略)
 明治中期迄に殆ど時代毎に取捨をなして中期以後昭和二十一年迄に総ての機構は部落の総元締めであつたことは事実である。昭和二十一年以降は、終戦と共に急激な変化に遭遇して、契約講は創立年代にさかのぼり、葬儀其の他屋根替えなどの仕事となり、行政部落の生産に関する一切のことは農業共同組合に移行したのである。創立以来二百六十年有余の道程であった。(中略)
大神宮契約覚帳
 元禄八[1695]年大神宮講物覚帳に依ればこの記録が下草契約講の始まりであることが立證される。当時の原文を記すと次の通りである。
 一、人頭 貮拾五人=当時の人名記載を略す
 誓約仕り候事
 一、寄合之事、二月 八月 十月 壱ヶ年に三度の事
 一、寄合座にて喧嘩仕る甚数人人数に仕らざる事
 一、病死のせつ若者老人によらず代二十分づゝ相出し申可事
 一、病死の節 穴掘二人 かつぎ人二人 町使二人 小走花籠二人
 一、葬礼のせつ一人も不参なく相出懸け申可候事、もし出合仕らざるものは人数に仕らざる事
 一、料理之事
 一、大汁に味噌汁二合 一、あい物 一、なます 一、二汁は有合せ 一、丸肴三種 
 一、椀膳の事 振舞之上「たんか」仕り損し申候へば当人にて辨済申可候事、若し品もなく損ずるか、あるひは行衛なくうせたなら座本あひて者は寄合の吟味にかけて辨済申可く事。
  皿類も右同断、右亡失は掟の通り何も連判之上挨拶申候若し違背仕者あらば講の重立の衆へ一札を入れお詫を仕るべきこと、右帳面に記す 掟ての如件〔くだんの如し〕。
 一、椀 三十五人前  一、膳も同断  一、皿 三十五人前
 享保十四[1729]年九月二十七日 元禄年中[1688-1704]よりの古帳を相改む。
 以上が創立当代の掟であり又講員の数であった。その後明治の初期迄に幾度か加除訂正を加えられて居るが原文の記載は右の帳面に記載されているので略す。」(『下草郷土誌』)
 「寛保2[1742]、4、6、9年、明和7[1770]年、天明3[1783]年、寛政2[1790]、4、6、9年と、明治から現在に至る記録、契約覚帳が保存されており、貴重な資料である。
 この覚帳は、契約講が地域の生活習慣の基本規則としてどれ程重要な役割を果たしていたかを物語るものである。そして、今なお地域の生活に大きな影響を及ぼし、伝統として受け継がれていることを解き明かす証でもある。」( まほろばまちづくり協議会企画編集発行『大和町まろろば百選 〜未来への伝言〜 第三刊《七ツ森編》』,2007)
明治下草村の変遷と鶴巣村の立村
 明治維新後下草村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、後述するように、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡下草村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡下草村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第一小区下草村
  第一小区 富谷 今泉 大童 三ノ関 下草
   五ヶ村 二等戸長 細川平三郎   副戸長 加藤保蔵 渡辺勘三郎
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小二区下草村
  小二区 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 志戸田 下草
     合七ヶ村  戸長 高橋運治   副 浅野角右衛門
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區下草村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村  戸長 早坂忠四郎
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕     戸長 佐々木久四郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡富谷外六ヶ村
  富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草を合して富谷外六ヶ村               戸長 橋本顕徳(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし(中略)
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
 「町村制実施に際し北目大崎外七ヶ村を合併して鶴巣(ツルノス)村と稱したり。蓋し観蹟聞老誌に載する鶴巣城より取れるなり。世俗つるす村と呼ぶは誤なり。宜しくつるのす村と云ふべきなり」(『黒川郡誌』)。
下草分教場
 後述するように、「明治六(1873)年(中略)富谷(中略)村に(中略)小学校〔富谷小学校、富谷・今泉・大童・三ノ関・下草〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝十二(1879)年三の関小学校〔一ノ関・二ノ関・三ノ関・志戸田・下草〕を置く
 仝二十(1887)年三ノ関小学校を廃して富谷小学校の分校〔三ノ関分教場〕となす
 仝二十二[1889]年三ノ関分教場を廃す
 此年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ(中略) 〔下草分教場大平分教場〕を設けたりしが
 仝二十九[1896]年九月二十四日下草大平両分教場廃止(『黒川郡誌』)
鶴の権現及遊園地
 「昭和三(1928)年の春下草の佐藤某女病気のため医療を受けたが捗々(はかばか)しからず、法華信者に祈祷を依頼した処、黒川家落城の折戦死城兵の霊魂があらわれ、吾々無縁の霊を慰めて貰いたいとのお告があった由。そこで佐藤某女は高橋もり氏及び高橋栄吉氏に諮り、小祠を建立した。昭和五(1930))年に高橋栄吉氏は、里人に相談をなして部落にてお祭りすることに協議が成立し、部落の淨財に依りお宮を新築した。従来十二月八日と二月八日の二回に権現講と称する講を一回に改め、毎年九月八日を祭典日と定めた。お宮のある敷地は高橋多利治の所有地にして、仝氏が無期間無賃貸の契約なる由。この処は城の本丸の北端らしい。更に、神苑を兼ねた遊園地が設置された。此の土地は平渡家の所有地なるも、区有地と交換條件にて承諾を求め、この遊園地の作業は部落の奉仕、更に下草青年親友会が東屋を建築寄贈、青年団は桜樹の植栽奉仕にて、旧城跡は面目を一新すると共に、下草部落の唯一の遊園地が誕生した。あづま家に立って西は七峯に対し、奥羽山脈の主峰大舟形山は雲表にそびえ、薬来山は富士に似た姿を見せ、陸羽街道と吉田川、竹林川の流れは白布を三又に交流し、平野は遠く牡鹿方面に及ぶ眺望は、四季に依り変化をなし、実に好い眺めである。最近小中学校の遠足〔我々の世代の最初の小1遠足は、「鶴巣館」と決まっていた〕あるいは風流人の杖をひくもの多くなって来た。黒川家及び家臣の霊よ、幾百の星霜を経たと雖(いえど)も、以て冥すべきであろう。」(『下草郷土誌』)
若生毅『下草郷土誌』
 さて、巻頭から取り上げ、上来長々と引用してきた『下草郷土誌』を編纂した若生毅(つよし)氏は、「黒川三家老」若生一族の末裔と思われる、「元宮城県農会技師」(『下草郷土誌』)である(同期の母方従兄・佐藤重信君と私の祖父も穀田の若生氏の出だが、今は離村している)。
 「大胆にも私は 下草の尤も誇りとする契約講の沿革を編纂し、おこがましくも之を永世に伝え残さんとすることに致した。素よりこの種の調査研究は専門的なもので 浅学且つ非才の私は到底其の器でないことを自覚して居ったが 自分もこうした研究は元来好きなので 現在迄筺底に奥深く納り年二度だけ閲かれる所謂契約箱の古い文献と記録を唯一の頼みとし 更に故老の記憶を聴考し 之れを基礎として研究調査進めて郷土の誇りを伝へんとしてペンをとつたのである。
 さて私は この郷土である下草は祖先から私に至るまで幾多の恩恵を受け 住みよい安楽なところとして生育し過ごして来た。私個人もしばらく郷土を離れて居り 懐しい郷土の姿を屡々強く振り返つて見た。昭和二十二[1947]年四月より職務を退き郷土に帰り ようやく社会、家庭的にも煩しさがなくなり、名実共に隠居となつた。家祖本来の農業にも補助役として働く真似をする様になり 郷土の実情に親しく再び相見へ得て 尚一層の温かさを増して来た。
 本[1949]年晩秋のある朝現契約講講頭高橋多利治氏私宅を訪れそのお話の内に こうした時勢にはなつたが契約の本来の精神と部落の先輩が幾多の難関を突破し、辛酸を嘗めて住み好い郷土を造るために最善の努力を傾注された限りなき幾多の功績を讃へ 新しい下草を建設するための参考資料となる契約の始りと郷土の沿革を知らしめたいと言ふ尤も遠大なお考えを洩らされ 私非常に敬服すると共に共鳴を致した。郷土の事情を明かにし郷土の歴史を正しく認識することに依つて 愛郷心の発露が自然と個々の胸中にもえ出ずるものと考へたのであつた。契約講の記録は時の推移に従つてその趣きを異にしてるが 契約そのものも根本理念は終始一貫してる。(中略)部落行政の申し合せと言つた様なものを細大漏さず記したものが保存されては居るが これを整理をなし、一目誰でもが瞭然とする一巻に収めることが主眼で、これに各年代国家及び県下村内部落の主要な事なども織り混て編纂することにした。
 唯私の最も心苦しく思ふことは この杜撰な研究調査が動〔やや〕もすれば部落の人達を惑わす 後世を誤ることがあつてはといふことで。細心の注意払ふてペンをとつてきたつもりである。幸ひにも此の記録は余り部落以外には公表するものでなく、郷土の生立ちを好く認識し 反面には郷土研究の資料ともなり 愛郷精神の作与ともなり得れば幸いとするところである。
 冀(こいねがわ)くは 郷土のみなさん未熟な私の真意を了され 忌憚なき批判と指導助言を賜りたい。
 編纂にあたり激励と参考助言をいただきし 時の講頭高橋多利治氏、高橋栄吉、若生新治両氏並に部落有志各位に深甚な謝意を表して序言とする。
  昭和二十四[1949]年晩秋
                   編者  若生 毅  誌す」(『下草郷土誌』「序」)
『下草郷土誌』の人々
 発行者高橋多利治氏は、これまた同期の高橋洋一君の祖父で、旧鶴巣村第十二代(1946-1947、最後の前)村長、俗称”タリンツァン”として音に聞こえていた。
 さらに、我が鶴小時代の児玉泰雄先生が、下草・三ノ関の菩提寺「威徳禅寺住職」として序文を寄せ、裏表紙絵に鶴巣館山遠望を描いている(相澤君によると、児玉先生の弟児玉泰隆画伯ははしなくも利府在住の著名な画家で、「富谷新町八景」「仙台軌道路線三十三之図」始め、”軌道っ子”(軽便鉄道)など県内各地の風景画を描いて好評を博している)。
 表紙絵とカットには"N.A.Yoshi"のサインがあり、どうやら当時下草に住んでいた鶴小赤間良勝先生の手になるものらしい。
 「支那事変及大東亜戦争参加者(中略)
   陸軍歩兵大佐 赤間良弼 原籍仙台市同心町の人、昭和二十(1945)年下草に移住した人
          赤間良勝 赤間良弼氏長男にして東北大学教育学部卒業後、黒川大谷小学校在勤〔、後鶴巣小学校勤務〕」(『下草郷土誌』)
 なるほど、当時洒落たベレー帽など乙に冠り鄙には稀に垢抜けたハイカラな先生、だったはずだ(奇しくも赤間・児玉両先生に引率されて夏休みにスケッチに行った七ヶ浜・吉田浜の景色が忘れられず、後年はからずも「鳥屋の宇頭坂」辺りが実家で七ヶ浜在住の同期伊藤喜巳雄君(旧姓佐藤)と再訪したものだ)!
『新訂版下草郷土誌』/『WEB版下草郷土誌
 相澤力君は、中世黒川"郡都"「本町の宿」の末裔として、独力で『下草郷土誌』の復刻に取り組み、私も意気に感じて微力ながら協力せんと、コピーを送ってもらい早速熟読した。だが、結果としては、遺憾ながらなんの力にもなれずに終わってしまった。
 相澤家総動員の奮闘努力が実を結んでついに『下草郷土誌(新訂版)』は完成し、2013年11月23日、めでたく下草契約講から発行された。
 続いて私もまた、享年98歳でついに大往生を遂げた老母を故郷の黒川病院で最期の看とりの最中、相澤君からデジタルデータの提供を受け、下草契約講の許可も得て、翌2014年2月6日、とりあえず本ウェブサイト(ホームページ)に『下草郷土誌(WEB版)』をアップロードした。
 『新訂版』は地元契約講員限定80部の非売品で、残念ながら一般には入手不可能なので、ぜひともこちらの『WEB版』をご一読いただきたい。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十二番 本町[下草]の黒川坂  つゆしもや草の枕もいとひなく みのりをしたふ黒川のさか♪
  ♪昔名高い黒川公の 音に聞こえた黒川城下/向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ♪(「鶴巣音頭」)
  ♪下草のなァお構へ屋敷の白藤はやァ あみださんの八汐に色とられたやァ♪
  ♪下草のなァ日蔭沼のすがの(氷の方言)割れ いつとけて流れるやァ♪

◯舞野
 おそらくは前述の八幡越戸〔八幡越へ〕のあたりで吉田川を渡ると、そこは舞野(まいの、メーノ)である。
舞野観音堂
「落合舞野に在り
 伝へ曰ふ〔坂上〕田村〔麿〕将軍東夷征討に方り此地に大蛇あり人を害す将軍伐て之を平げ観音法楽の舞を張る故に稱して舞野村と名く堂は大同三[808]年の建立にして奥州七處観音堂の一なり本尊は滋覚大師〔円仁〕の作なりと云ふ文明年間[1469-86]に至り堂宇焼失什宝悉く烏有に帰す爾後二回の火災に遇ふと雖も本尊のみは幸にして其難を免れたり堂宇現に三間四面三十三年に一回の開帳あり
  観音堂縁起
 黒川郡舞野村観世音菩薩は滋覚大師〔円仁〕の御作にて坂上田村丸〔麿〕の御建立の霊場なり。人皇五十一代平城天皇の御宇[806-809]、田村〔麿〕将軍宣旨を蒙り、鈴か御前とかたらひ東へ発向し当国所々の悪鬼を平らげ給ふ、該当所は東〔あずま〕海道なりし。其近境に淀ヶ淵といふ大沼あり、其沼には大蛇すんで往来の人民をとりくらひ陸路通路絶えてなかりし時、右将軍其悪蛇を平らげ給ひて後、境の草原にして観音法楽の舞をなし給ふによつて、今に至るまで其処を舞台野と名つく。舞台の舞の字を取り舞野村と今の代まで申すなり。其後将軍上洛して後、くらはれし人民菩提の為大蛇もせすゑ〔世末?〕に一仏成道の縁ならしめんため大蛇の骨を埋め、其処に観音菩〔提〕薩?〔土に垂〕(ぼだいさった=菩薩)の尊像を造立し給ふ。惣じて奥州にして凶徒たやし給ふ地にして、七ケ所の観音造立し給ふ。当山はその一にして、大同三[808]年の御建立なり。然るに文明年中[1469-86]御堂並に宝物什器等と共に焼失して御仏斗(ばかり)別当出す凡年暦九百年余なり観音薩?〔土に垂〕の仏力広久無量をもつて無量山、光明輝くを以て放光院と号し、万代不易天台一山霊場也
    三月 日  無量山放光院」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音三十四番
観音菩薩
観音菩薩は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩または観自在菩薩ともいう。救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的には『観音さま』とも呼ばれる。
 サンスクリットのアヴァロキテシュヴァラを、玄奘は『見下ろす』と『自在者』の合成語と解釈し『観自在』と訳した。鳩摩羅什訳では『観世音』であったが、玄奘は『古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである』といっている。(中略)
 観音菩薩という呼び名は、一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。また、唐代に、『世』の文字が二代皇帝太宗李世民の名(諱)の一部であったため、避諱の原則により、唐代は『世』の文字は使用できなくなった。そのため、『観音菩薩』となり、唐滅亡後も、この名称が定着したという説もある。
 日本語の『カンノン』は『観音』の呉音読みであり、連声によって『オン』が『ノン』になったものである。
 『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(『観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。
 観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、『華厳経』には、南インドの摩頼矩咤国の補怛落迦であると説かれる。(中略)
 ダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。(中略)
 観世音菩薩は、本来男性であったと考えられる。(中略)しかしながら、中国では『慈母観音』などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。(中略)
 観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて『仏身』『声聞(しょうもん)身』『梵王身』など、33の姿に変身すると説かれている。(中略)
 西国三十三所観音霊場三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。
 この普門示現の考え方から、六観音七観音十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。
 このため、観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた、十一面観音千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。 その元となったのが三十三応現身像と言われている。 応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう。(中略)
 真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音如意輪観音准胝〔じゅんでい〕観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。」(Wikipedia「観音菩薩」
菩薩
菩薩(ぼさつ、梵名ボーディ・サットヴァ(梵: ??????????, bodhisattva) の音写、巴: bodhisatta)は、仏教において、一般的には、悟り(菩提, bodhi)を求める衆生(薩?, sattva)を意味する。菩提薩?〔土に垂、ぼだいさった〕とも音写される。
 梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳『菩提』であり、sattvaとは『生きている者』の意味で衆生有情と意訳された。菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは釈迦の前世譚(ジャータカ)であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である。(中略)
 初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいた。さらに釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいる。
 この菩薩の代表として創造されたのが、次に成仏すると伝えられる弥勒菩薩である。弥勒菩薩は56億7千万年の修行を経て、この世に弥勒仏として現れるとされる。後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例である。
 すでに悟りを得ているにもかかわらず、成仏を否定した菩薩も創造された。これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。
  この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩普賢菩薩である。彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。(中略)
 日本では、仏教の教えそのものの象徴である如来とともに、身近な現世利益・救済信仰の対象として菩薩が尊崇の対象とされてきた。日本で広く信仰される主な菩薩としては、母性的なイメージが投影される観音菩薩、はるか未来で人々を救う弥勒菩薩、女人成仏を説く法華経に登場し女性に篤く信仰されてきた普賢菩薩、知恵を司る文殊菩薩、子供を救うとされ、道端にたたずみ最も庶民の身近にある地蔵菩薩などがある。北極星を神格化した妙見菩薩は、名称に菩薩とあるが厳密には天部である。
 また、神仏習合の一段階として、日本の神も人間と同様に罪業から逃れ自らも悟りをひらくことを望んでいるという思想が生まれた。
 それに基づき、仏道に入った日本の神の号として菩薩号が用いられた。八幡大菩薩が代表的である。」(Wikipedia「菩薩」
坂上田村麻呂
 坂上田村麻呂(田村麿)は、「天平宝字2年(758年)に坂上苅田麻呂の次男または三男として生まれた。田村麻呂は近衛府に勤仕した。
 田村麻呂が若年の頃から陸奥国では蝦夷との戦争が激化しており(蝦夷征討)、延暦8年(789年)には紀古佐美の率いる官軍が阿弖流為〔アテルイ〕の率いる蝦夷軍に大敗した。田村麻呂はその次の征討軍の準備に加わり、延暦11年(792年)に大伴弟麻呂を補佐する征東副使に任じられ、翌延暦12年(793年)に軍を進発させた。この戦役については『類聚国史』に『征東副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す』とだけあり、田村麻呂は4人の副使(副将軍)の1人ながら中心的な役割を果たしたとされる。
 延暦15年(796年)には陸奥按察使陸奥守鎮守将軍を兼任して戦争を指揮する官職を全て合わせ、加えて翌延暦16年(797年)には桓武天皇により征夷大将軍に任じられた。延暦20年(801年)に遠征に出て成功を収め、夷賊(蝦夷)の討伏を報じた。
 いったん帰京してから翌21年(802年)、確保した地域に胆沢城を築くため陸奥に戻り、そこで阿弖流為と盤具公母礼〔いわぐのきみもれ〕ら500余人の降伏を容れた。田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、2人を処刑した。延暦22年(803年)には志波城を造った。
 延暦23年(804年)に再び征夷大将軍に任命され、3度目の遠征を期した。しかし、藤原緒嗣が『軍事と造作が民の負担になっている』と論じ、桓武天皇がこの意見を認めたため、征夷は中止になった(徳政相論)。田村麻呂は活躍の機会を失ったが、本来は臨時職である征夷大将軍の称号をこの後も身に帯び続けた。
 戦功によって昇進し、延暦24年(805年)には参議に列し、翌年の大同元年(806年)に中納言、弘仁元年(810年)に大納言になった。この間、大同2年(807年)には右近衛大将に任じられた。また、田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられ、史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には大同元[808]年に即位した平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。
 大同4年(809年)に平城天皇が弟の嵯峨天皇へ譲位した後に2人が対立した際、田村麻呂は平城上皇によって平城遷都のための造宮使に任じられた。しかし翌大同5年(弘仁に改元)に発生した薬子の変では嵯峨天皇側に付き、子の広野は近江国の関を封鎖するために派遣され、田村麻呂は美濃道を通って上皇を邀撃する任を与えられた。この時上皇側と疑われ身柄を拘束されていた元同僚の文室綿麻呂を伴うことを願い、許された。
 平城京から出発した上皇は東国に出て兵を募る予定だったが、嵯峨天皇側の迅速な対応により大和国添上郡越田村で進路を遮られたことを知り、平城京に戻って出家した。上皇の側近の藤原仲成・薬子兄妹も天皇側に処刑、または自殺したことにより対立は天皇の勝利に終わった。
 変から翌年の弘仁2年(811年)1月17日に田村麻呂は外孫の葛井親王(平城上皇と嵯峨天皇の異母弟で桓武天皇と娘の春子所生の皇子)の射芸を見物、3日後の20日に中納言藤原葛野麻呂や参議菅野真道らと共に、前年暮より入京していた渤海国の使者を朝集院に招き宴を張る任に当たったという。これが現存資料のうち、田村麻呂生前の公的記録として最後とされる。
 同年5月23日、54歳で病死した。嵯峨天皇は死を悼み『事を視ざること一日』と喪に服し、一日政務をとらず田村麻呂の業績をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。同日、葬儀が営まれ山城国宇治郡来栖村に葬られた。その際に勅があり『甲冑・兵仗・剣・鉾・弓箭・糠・塩を調へ備へて、合葬せしめ、城の東に向けひつぎを立つ』ように死後も平安京を守護するように埋葬されたという。墓所は現在は京都市山科区の西野山古墓と推定されている。(中略)
 『田邑麻呂伝記』には『大将軍は身の丈5尺8寸(約176cm)、胸の厚さ1尺2寸(36cm)の堂々とした姿である。目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸を繋いだように光っている。体は重い時は201斤、軽いときには64斤。行動は機に応じて機敏であった。怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった』という。 『田村麻呂薨伝』には『赤ら顔で黄金の髭のある容貌で、人には負けない力を持ち、将帥の力量があった』という。 御剣『坂上宝剣』、大刀『騒速〔そはや〕』、大刀『黒漆剣』など様々な大刀を常に佩刀していたという。また、騒速は大嶽丸や悪事の高丸を討伐したという逸話も残っている。
 『公卿補任』には『毘沙門の化身、来りてわが国を守ると云々』とあり生前には毘沙門天の化身と評判が立っていた。
 平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真武の坂上田村麻呂は文武のシンボル的存在とされた。第一高等学校では生徒訓育を目的に、倫理講堂正面に文人の代表として道真の、武人の代表として田村麻呂の肖像画が掲げられていた。
 司馬遼太郎は、田村麻呂をその統率力と徳望の高さにおいて『日本史が最初に出した名将』と評している。
 坂上氏は渡来人である阿知使主〔あちのおみ〕の子孫を自称し、田村麻呂の祖父の犬養や父の苅田麻呂もそれぞれ武をもって知られた。『田邑麻呂伝記』には「大納言坂上大宿禰田邑麻呂者、出自前漢高祖皇帝、廿八代至後漢光武皇帝、十九代孫考霊皇帝、十三代阿智王」とあり劉邦の流れを組むと記述される。
 子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産み、血筋は清和源氏とその分流へ受け継がれていった。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は『坂上氏系図』にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。 陸奥田村郡を支配していた戦国大名の田村氏〔/大越氏〕は田村麻呂を祖とし、その子孫が代々田村郡(元は安積郡の一部)を領してきたとされる。(中略)
  『将軍塚』 ‐ 桓武天皇が王城鎮護として平安京の北、東、西の方角にあたる山に、田村麻呂を模したとされる土でできた将軍像を埋めた塚を作ったという。現存する将軍塚は華頂山(現在は青蓮院飛地境内である将軍塚大日堂)のみである。また、都に異変の時には鳴動するという。
田村麻呂伝説
 後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍〔伊達氏鼻祖藤原山蔭の同母兄弟藤原時長の子〕藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま、説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王大嶽丸のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、能『田村』、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。
 田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県、宮城県、福島県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地(青森県など)にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県長野市若穂地区の清水寺(せいすいじ)には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。」(Wikipedia「坂上田村麻呂」
滋覚大師円仁
円仁(えんにん、延暦13年(794年) - 貞観6年1月14日(864年2月24日))は、第3代天台座主として、天台宗を完成させた。死後に、天皇から慈覚大師の名を贈られた。入唐八家(最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡)の一人。下野国の生まれで出自は壬生氏。(中略)
 早くから仏教に心を寄せ、9歳で大慈寺に入って修行を始める。大慈寺の師・広智は鑑真の直弟子道忠の弟子であるが、道忠は早くから最澄の理解者であって、多くの弟子を最澄に師事させている。(中略)
 15歳のとき、唐より最澄が帰国して比叡山延暦寺を開いたと聞くとすぐに比叡山に向かい、最澄に師事する。奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に立ち向かう師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛される。最澄が止観(法華経の注釈書)を学ばせた弟子10人のうち、師の代講を任せられるようになったのは円仁ひとりであった。
 814年(弘仁5年)、言試(国家試験)に合格、翌年得度(出家)する(21歳)。816年(弘仁7年)、三戒壇の一つ東大寺で具足戒(小乗250戒)を受ける(23歳)。この年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。817年(弘仁8年)3月6日、大乗戒を教授師として諸弟子に授けるとともに自らも大乗戒を受ける。
 性は円満にして温雅、眉の太い人であったと言われる。浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。
 836年(承和2年)、1回目の渡航失敗、翌837年(承和3年)、2回目の渡航を試みたが失敗した。838年(承和5年)6月13日、博多津を出港。『入唐求法巡礼行記』をこの日から記し始める。(中略)
 新羅商人金珍の貿易船に便乗して帰国する。(中略)博多津に到着し、鴻臚館に入った(『行記』847年(承和14年)9月19日条)。日本政府は円仁を無事連れ帰ってきた金珍ら新羅商人に十分に報酬を報いるように太政官符を発し、ここで9年6ヶ月に及んだ日記『入唐求法巡礼行記』(全4巻)の筆を擱いている(『行記』847年(承和14年)12月14日条)。54歳。
 この9年6ヶ月に及ぶ求法の旅の間、書き綴った日記が『入唐求法巡礼行記』で、これは日本人による最初の本格的旅行記であり、時の皇帝、武宗による仏教弾圧である会昌の廃仏の様子を生々しく伝えるものとして歴史資料としても高く評価されている(エドウィン・ライシャワーの研究により欧米でも知られるようになる)。巡礼行記によると円仁は一日約40kmを徒歩で移動していたという。
 目黒不動として知られる瀧泉寺や、山形市にある立石寺、松島の瑞巌寺を開いたと言われる。慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ(岩舟町観光協会HP)。このほか北海道にも存在する。
 後に円仁派は山門派と称された。(〔黒川袖振薬師の〕円珍派は寺門派、両者は長期にわたり対立関係になった)。」(Wikipedia「円仁」
「舞ノ黒川郡」
 既述のとおり、黒川神社「第一号 古文書写  陸奥国舞ノ黒川郡北目山別所寺黒川薬師」(『黒川郡誌』)、「第二号〔古文書写〕(中略)奥州陸奥国舞の黒川郡北目大崎鎮守黒川袖振薬師如来」(『黒川郡誌』)と、今日の地政からするといささか奇異な記述がある。単なる誤記かとも思われるが、あるいは黒川郡の駅家郷を舞野に比定する説を想起させ、少なくとも一時期黒川駅を「舞野黒川」駅とも称していた可能性を思わせる。
 いずれにしても、太古以来古代黒川郡東山道の不動の枢軸をなす「鳥屋宇頭坂─別所黒川(黒川橋)─下草黒川町─舞野黒川」ルートの密接・一体の関係を、如実に示す一例と言えよう。
佐藤忠良
 既述の西成田支倉常長メモリアルパークに建つ支倉常長立体像の製作者「佐藤忠良〔ちゅうりょう〕は明治45(1912)年に宮城県の北部の農村、黒川郡落合村舞野(現在の大和町)で生まれた。父は黒川農学校(現在の黒川高校)教師として赴任し、母は舞野で近所の子女に裁縫を教えていた。
 忠良は佐藤家の長男で4年後に弟の忠行が生まれている。弟が誕生して間もなく父が病気を患い、療養のため一家は父の生家〔吉岡〕に移るが、忠良が6歳のときに父が亡くなり、分家の嫁の立場で寡婦となった母は翌年、幼い兄弟を連れて宮城県から夕張に移住した実家を頼って北海道に渡った。忠良は夕張の小学校に入学し少年期を炭鉱の町で過ごしている。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」
 「新制作協会彫刻部創立会員。生き生きとした女性像などをブロンズや木彫で表現した。福音館書店版の絵本『おおきなかぶ』の挿絵なども手がけた。桑沢洋子の親友でもあり、教育者として東京造形大学において創立より多数の後進の教育に携わった。女優の佐藤オリヱは娘。(中略)
 1934年、東京美術学校彫刻科入学。(中略) 1939年、美校卒業後、同期の舟越保武らと共に新制作派協会彫刻部の創設に参加する。 1945年から1948年までシベリア抑留に遭う。(中略) 1966年、東京造形大学創立と共に教授に就任。(中略) 1981年、フランス国立ロダン美術館で個展。 1986年、東京造形大学名誉教授。(中略) 1990年、宮城県美術館内に佐藤忠良記念館設立。(中略) 2011年3月30日、老衰のため東京都杉並区の自宅で死去。98歳没。
 生前、日本芸術院会員に推薦され、文化功労者や文化勲章の候補にも選ばれたが、本人は『職人に勲章はいらない』と語り、これら国家の賞を全て辞退した。」(Wikipedia「佐藤忠良」
 蛇足だが、私が”紙背人”として主宰している絶版文庫ウェブサイト「InterBook絶版七つの森」でも縁があって、たまたま2009.10.02、「斎藤利雄 橋のある風景 冬芽新集4 冬芽書房、新書判、108p. 1950初版、(中略)さしえ佐藤忠良』を扱っている。
  ♪日はまだ高田で舞野かや♪(「黒川願人節」)
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌三十四番舞野放光院 おんがくのしらへなけれと舞野村 くわんきり〔い〕やしのおほせあふけは
                       同 いまゝてはおやとたのみしおゆつりを まひのゝにはにぬきてをさむる♪


◯大衡(おおひら、オッシャ)
 舞野を出ると、ほどなく今日の黒川郡の中心地「吉岡(ヨソオガ、上の原、今村)の東端現在天理教布教所の東側を過ぎ」(『下草郷土誌』)て、大衡に出た。
大衡堡村(亀岡)遺跡
 
「最近、大衡村亀岡・大童・五反田地区において、周囲に土塁を巡らし、広範に土師器・須恵器の分布を見る遺跡が知られた。(中略)
 東側には、大衡川〔埋川〕および国道四号線を跨いで、大衡城跡(中略)が近接している。(中略)
 これは、〔吉田川〕南岸の村落形成よりは、一まわり遅れて成立したといえる。(中略)土塁などをめぐらす堡村の形態をとっているのは、色麻柵までの間、孤立した奥郡入口の村だったからだろうと思う。」(『大和町史』)
古館
 古館は「大衡村大衡古館に在り其年代及館主を審にすること能はず現今は壊敗旧観なし」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音十六番
 ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十六番 大衡古館 涼しさは家宅を出てゝ知られける とし古館の月をなかめて♪
大衡館
 大衡館(城)は「大衡村大衡字塩波〔浪〕にあり越路館と称す本丸東西卅四間南北十八間二の郭横十二間長百二間三の郭東西二十五間南北三十二間北の丸横二十五間長六十五間黒川氏の臣大衡治部大輔氏胤〔黒川晴氏の弟〕之に居る本丸の北に又一址あり東西二十五間南北十二間氏胤の父〔景氏〕茲に老す」(『黒川郡誌』)。
 「大衡城〔館〕は黒川下総守景氏の次子である大衡治部大輔宗氏が天文13年(1544)に築城した。
 天正18[1590]年、大衡城主黒川〔大衡〕治部〔大輔〕氏胤の代に主家である大崎氏が豊臣秀吉の奥羽仕置において所領を没収され滅亡し、大衡城も廃城となった。
 −白米伝説−
 葛西大崎一揆[1590]の際、一揆勢がこの城に立て篭もったために伊達政宗がこれを攻めた。
 遠目にはこの城に滝が見えて近寄り難かったのだが、滝に雀が群がってくるのが見え、この滝が実は白米であった事が分かりついに攻め落とされたという。(中略)
 現在は本丸跡に天守を模したような建造物が建っている。」(HP「東北城館魂」
大童信太夫
 大童信太夫は「幕末仙台藩の重臣で、定府の城使公議使及び出入司(勘定奉行)。維新後は福澤諭吉の斡旋で官吏に転じた。宮城県「仙台文庫」創設者の一人。変名は黒川剛、名は安賢(やすかた)。
 第十三代伊達家・伊達慶邦に仕えた仙台藩の大番士で石高は280石。戊辰戦争では京都でも宮廷交渉を担った実力者である。
 大童は幕末の仙台藩の藩政改革の主導者で、洋式教練を足軽に授けたり、中津藩の江戸藩邸に居を構えていた幕府翻訳方の福沢諭吉と親しく往来して外国の事情を学び、福澤が渡航する際には資金面で援助するなど非常に懇意となり、福沢も奥羽越列藩同盟のために『兵士懐中便覧』や『雷銃操法』などを仙台藩に蔵版してゆく。そのうちに藩士を横浜に派遣して英仏の学問を学ばせようと思い立ち、高橋是清と鈴木六之助(後の日銀出納局長)等を選出して藩士を学ばせていった。
 額兵隊星恂太郎らを通じて、アメリカの南北戦争の資料を集めて戊辰戦争に備え、仙台藩の主戦派の代表格となる。戦争が始まると、江戸にあって但木土佐を助けて幕府との交渉や戦備確保に努め、次いで青葉城の軍事局に、遠田郡休塚領主松本要人・登米郡西郡領主大内筑後・柴田郡村田領主片平大丞ら但木派の奉行を中心に、玉虫左太夫・星恂太郎・松倉恂や会津藩参謀の小野権之丞、永岡敬次郎、南摩八之丞、中沢帯刀らと共に詰め、戦略を練った。
 敗戦後、官軍から奉行の和田織部・郡奉行若生文十郎の3名と共に戦争の首謀者と目されて責任を追及され、明治3年10月17日に赦免。薩長政府から斬首による処刑が決まっていたが、福沢諭吉の政府への奔走により命を助けられた。
 維新後は松倉恂、熱海貞爾らと共に慶應義塾に出入りしながら内務省翻訳官から大蔵省、文部省、警視庁などに出仕。〔牡鹿・黒川・〕宮城郡の郡長などを歴任した。明治26年(1893年)3月に、旧仙台藩士の松倉恂大槻文彦・岩淵廉・横澤浄・但木良次・作並清亮の7名で私立図書館「仙台文庫」を創立した。」(Wikipedia「大童信太夫」
 「大童信太夫様も〔宮床の〕隣村大衡〔大童〕の出身でございます。」(『緑の故里七つ森を語る』)
 後述するように、「大正六[1917]年(中略)大童信太夫蔵書を譲受け之を町に寄付し吉岡町図書館と稱せり(『黒川郡誌』)。

◯大瓜(おおり)
大福寺
 「寺跡大衡村大瓜字大福寺
 由緒 開山及び創立年代を詳にすること能はず蓋し日蓮宗なりしと云ふ何の頃よりか廃絶して今は宅地となる
 元境内に一の古碑存す後醍醐天皇嘉暦二[1327]年の建立にして南無妙法蓮華経華の題目を刻せり」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音?
石蔵山宝積寺
 「大衡村大瓜字沼田にあり
    曹洞宗 通幻派
 本尊 釈迦牟尼如来
 由緒 宝徳三[1451]年二月遠田郡田尻村東渓寺の僧月曳正半和尚を開山となす」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音?
南田山黄金寺
 「寺跡 大衡村大瓜字下大瓜
  曹洞宗 道曳派
 本尊 十一回〔面〕観世音菩薩  本寺 宮城郡根白石村満興寺
 由緒 寛文三[1663]年僧英吟創立後五世之を継伝し爾後無住となる吉岡中興寺之を兼攝す」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音?
四反田一里塚
 「加美郡方面に通するものは今村より大瓜字四反田一里塚辺より北方なる旧街道を通じたるものにして伊達政宗朝鮮征伐に際し岩手〔出〕山城を出発せし時も亦此道路によりしこと明なり」(『黒川郡誌』)。
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十番 大瓜竹の森 うきふしにこゝろとむなよ竹のもの〔り〕 葉ことゝゝにおくつゆのみそ♪
  
♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十一番 大瓜五輪屋敷 しき空とさとれはなにかよの中に 五りん五たいのおとつれもなし♪
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十二番 大瓜正覺寺 正覺をとりたかはてな圓通の かとひらくるは滋眼視衆生♪
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌十三番 同またらがい もろゝゝをまたらならすにあまねくも すくはてなにかほかへもらさし♪

◯加美郡
色麻〔しかま、スカマ〕
 大衡を出た古代東山道(奥大道)は、既述のとおり「ほぼ現在の羽後街道に一致し、王城寺原の丘陵を抜けて加美郡に入り、鳴瀬川を越えたところで、〔一説に〕中新田町城生にあった色麻柵に出た。」(『大和町史』)
 「色麻の歴史は古く「続日本紀」の天平9年(737)の記述に「色麻柵……」とあることから、奈良時代前期にはすでに軍事、交通の要衝として重要な役割を果たしてきたと推測されている。これに先立つ時期に播磨の飾磨〔しかま〕(兵庫県姫路市)から移住した一族がその出身地の地名にちなんで命名したと考えられている。
色麻柵
 奈良時代には、中央の完全な支配下に入ったが、北方のエミシに対する軍事上の要衝、出羽の国への交通の要衝として「色麻の柵」が設置された。やがて中央政府によって「色麻郡」として建郡され、色麻柵は開拓、防備の中心地となった。(中略)
 陸奥と出羽を結ぶ直道の確保の任にあたったのが、当時、多賀城に常駐し、両国を監察する最高位按察使の職にあった将軍大野東人(おおのあずまひと)だった。
 大野東人は、天平9年(737)2月、多賀城を出発し、色麻柵を拠点とし、騎兵196人と約6000人の兵を色麻に集結させた。そして、3月に出羽国を目指して奥羽山脈を越えて、1日で出羽国の大室駅に達したと伝えられる。
 柵跡は〔諸説あるが〕、愛宕山北方と河童川との間の地域であるが、現在は田園地帯となっており、柵跡を見ることはできない。」(HP「みちのく悠々漂雲の記」
清水寺
 
「色麻町の北西部に清水〔きよみず〕という地区があります。その中心地に「清水寺」(きよみずでら)があります。京都の清水寺と同じ呼び名です。関係の深いお寺です。
 この寺は征夷大将軍「坂上田村麻呂」に関係があります。 寺に伝わる「加美郡音羽山清水寺略縁記」〔澤田、中米と共に私の生まれ在所に固有な「別所三姓」の一音羽は明治新姓だが、この寺に由来する可能性がある〕には次のような記述があります。
 この音羽山清水寺の御本尊は(中略)、田村麻呂は甲冑やもとどりの中に納めてきたが、諸願が成就した後本寺に安置したものである。守り本尊は千手観世音菩薩と毘沙門天である。その節七宝銘塔を造営し両尊に鬼の歯を添えて奉り御上洛(京都に上り)の後、京都音羽山清水寺の良弁僧都〔東大寺開山〕を相下らせて開山させたのである。
(その2) かっぱの神社である「おかっぱ様」や伊達神社もやはり「坂上田村麻呂」と深い関係がある神社です。」(色麻町HP「色麻での坂上田村麻呂の足跡」
伊達神社
 伊達神社
(いだてじんじゃ)は、宮城県加美郡色麻町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。
 鳴瀬川の支流・花川の左岸にある円墳「御山古墳」の上に鎮座する。(中略)
 年代は明らかでないが、延暦年間(782年-806年)に坂上田村麻呂の東征の折に勧請されたという。一説には、この地にやってきた播磨国飾磨〔しかま〕郡付近に住んでいた人々が、飾磨郡伊達の射楯兵主神社から射楯大神(五十孟神)を勧請したともいう。(中略)
 伊達氏が陸奥守となると、伊達氏に憚り、社名を祭神のうちの一柱である経津主神を祀る香取神宮にちなみ「香取社」に変えた。明治5年になり「伊達神社」へと名を戻した。(Wikipedia「伊達神社」)
”おかっぱ様”磯良神社
 「町内の一の関地区にある磯良(いそら)神社は、「おかっぱ様」と呼ばれ(中略)、全国でもただ一つ、木彫りの河童(かっぱ)が御神体として、祭られております。
 神社の縁起書によりますと、創建は今から約 1200 年前の延暦 22 年(803年)、征夷大将軍であった坂上田村麻呂の勧請によって建てられたと伝えています。
 東右衛門という男が、田村麻呂東征の際、水先案内を努め、河童(かっぱ)のような泳ぎで、激流の川(河童川)を泳ぎ、数々の功績を立てたと伝えています。
 この功績により、東右衛門は将軍田村麻呂から、「川童(かっぱ)」の姓と土地を与えられ、さらに彼の没後、かっぱ(河童)明神の祠を建てて、その功績を祭ったとも云われています。
 以来この神社の宮司は、代々「川童(かっぱ)」という姓を名のり、それは今でも変わることなく受け継がれています。
 また、境内には河童が好むという、片方だけに葉がついている「片葉の葦」が生い茂り、裏手には河童川(かっぱがわ)が静かに流れ、当時の雰囲気をいまだに保ちながら、田園地帯の自然の中にとけ込んでいます。」(色麻町HP「おかっぱ様」

 以降、「駅路はここで、北にまっすぐに進んで玉造柵に出るものと、西に折れて賀美〔加美〕郡衙を経て、出羽国最上郡玉野駅に向かうものとの二つに分かれたのである。」(『大和町史』)以降「熟蝦夷(にぎえびす)」の「黒川以北十郡(牡鹿・小田・新田・長岡・志太・玉造・冨田・色麻・賀美・黒川)」(『続日本紀』)を貫通し、「麁蝦夷(あらえびす)」の巣窟「奥六郡(胆沢・江刺・和賀・紫波・稗貫・岩手)」(『続日本紀』)に達して、遂には最果ての「都加留(つがる)」の辺土へと到達する。

第四節 後期東山道(長根街道、小鶴沢街道、太田街道)・小鶴沢長根街道一里塚
 「黒川郡の往古の官道〔東山道〕は、〔多賀城を発し〕利府の地より〔勿来の関を越え、〕嶺路〔長根街道〕経て小鶴沢、〔山田をかすめて〕太田」(『仙台郷土研究5-4』)に出ていた。
 既述のとおり、当初の東山道は、勿来関を通り抜けた後、
 1)前期東山道(東路) 板谷街道を東成田、鶉崎・中村の白川郷へ向かい、大平、鳥屋に通じたが、開発の進展と共に次第に西に移動して、
 2)中期東山道(中路) 古代中期に長根街道柳沢街道が開削されて、板谷街道と結び、支路が本路となり本路が支路となって、
 3)後期東山道(西路) 古代後期には、長根街道、小鶴沢、太田、幕柳、鳥屋、別所を経て下草・舞野の駅家郷を結ぶ最終線に落ち着いたのではないだろうか。
◯宮城郡
 具体的には、
 1)今日の惣の関ダム西端から勿来川支流の淵あるいは尾根沿いを北西に、利府ゴルフ倶楽部南辺を進み青山団地を横切り、しらかし台団地間の尾根で長根街道に出たか、または、
 2)多賀城洞ノ口─菅谷(伊豆佐比売神社(いずさひめじんじゃ)、同期掘越(旧姓大友)つめ子さんの夫君・幸一さんが詳しい"田村麿と悪玉姫・千熊丸伝説"の九門長者屋敷)─森郷内ノ目─沢乙大道─沢乙深山─深山坂(万歳坂)を経て長根街道に出、
 北上して、いよいよ宮城郡から黒川郡小鶴沢に入った、のではなかろうか?
 なお、沢乙砂押川に沿う中世後期奥州街道(山田街道)を襲う、今日の「利府街道(県道3号塩釜吉岡線)」は「大正三[1914]年(中略)郡道の改修成」(『黒川郡誌』)った近代の新道で、既述のとおり、モータリゼーションの到来まで、長根街道は利府への近道として現役であり続けたのである。
沢乙
"Shizuka Arakawa Memorial Road"
 ”言うに事欠いて、いくらなんでも"Shizuka Arakawa Memorial Road"はねえだろ!”と、思わず口走り、罵ってしまった。"その前に、ここは先ず『古代東山道』じゃねえのか!!"。Street Viewで「荒川静香メモリアル・ロード」の看板を目にした時のことである。能天気に「荒川静香さんが少女時代にトップスケーターを目指しながら歩いた道です。皆さんも静香さんが見た四季折々の風景を楽しんで見ませんか。 利府町」と、とくとくと書き、無知と無恥を世界にさらけ出している。
 いやいや、後にも詳しく述べることになるが、利府町の時代音痴、歴史認識の不毛、歴史感覚の荒唐無稽も、ここに極まれり!である。が、それにしてもここまで凄まじいとは!もはや手の施しようがなく、正気の沙汰でない。お手挙げ、噴飯もの、開いた口がふさがらない、とはこのことである。
 荒川静香もけっこうだが、それを言う前にまずここは、奇跡的に郡境を跨いで南北延々3km余も遺った、貴重・希少な文化遺産「古代東山道」遺構ではないのか?

◯小鶴沢(おつるさわ、オヅルサ・ウヅッサ)
 「小鶴沢はもと小鶴沢村と称し、独立した一つの村であった。七北田丘陵上に立地する山村で、周囲は山に囲まれ、東西南北に走る沢すじに狭いわずかな平坦地のある地である。
 昔、多賀国府から利府を経て、黒川郡を横断し、奥郡(加美郡)への道として、又中世のいわゆる東〔あずま〕街道に近く、古くから利府方面や、大谷郷とのつながりのある交通上重要な地域であった。
 小鶴沢の地名については諸論があるが、鶴巣下草の鶴巣館との関連、あるいは仙台市小鶴との関係など、いずれにしてもこの地は、鎌倉期に見える地名である。」(鹿又勘太郎『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』2006)
長根街道一里塚
 長根街道は宮城・黒川郡境の峠を越えてやや尾根筋を辿ると、いよいよ本論稿の要石である「長根街道一里塚」にさしかかる。
 長根街道は小鶴沢南部、現今の利府街道から東二つ目の長根沢の西尾根筋を通る「旧村道で長根街道の道筋に一里塚がある。この道は、多賀城の陸奥国府より利府を経て、
 〔1)後期東山道(西路)〕小鶴沢を通り〔太田、幕柳、鳥屋、別所、下草、を経て舞野に至り、〕
 〔2)中期東山道(中路)〕一部は柳沢の柳沢街道を東成田へ、
 〔3)〕そして中村、鶉崎〔、板谷の板谷街道前期東山道(東路)〕に通じた街道である。(中略)
 この一里塚の他に、利府森郷〔利府自動車学校近辺に「一里塚」の地名が遺る〕と〔柳沢街道〕東成田西光寺にもある。
 長根街道の道筋には、休場(やすば)、一杯清水ジャガ崎ザワザワなどの地名が残っている。」(『まろろば百選 』)
 「小鶴沢の一里塚は長根街道、利府方面から右に大きな塚があり松の大木があったが、平成初年代に松喰虫によって枯れ伐倒された。
 また、道路左側にも塚があるが右側の塚ほどの大きさはない。」(鹿又勘太郎『ふるさと綺談』2012)
 後述するように、「この長根街道は〔「頼朝の行った道」であり、近世〕奥州街道ができるまで南部(岩手県)に行く南部道(南部海道)として使われたとみられます。」(『蝦夷と「なこその関」』)
 因みに、同期門間哲夫・英雄両君実家の字もまた「関場」といい、これも東山道(奥大道)由来の地名と推測される。
をつるさハ山・小鶴河
 「正安元年(一二九九)九月二十八日付留守家政譲状(余目文書)によると、嫡孫家明に与える『村おか山』の北境に『をつるさハ山やす松とのあいた』とあり、さらに同二][1300]年五月二十一日付留守家政譲状(留守文書)には新たに開墾された『新居打越』分は、『小鶴河』を境として、沼の南を家政の知行とするとある。『村おか山』は利府本郷・利府森郷一帯の山地をさすと思われる。」(『日本歴史地名大系』)
小鶴沢館
 「伝承によれば天正(一五七三─九二)末年まで小鶴沢城に黒川氏の家臣郷右近氏がいたという(大和町史)。」(『日本歴史地名大系』)「昭和四十一(1966)年、国庫助成補助事業の一つとして、宮城県教育委員会は県内遺跡の調査を実施した。この調査は、土地に精通した教育関係者の臨地調査をもとにしている(中略)
  小鶴沢館跡   鶴巣小鶴沢字田町沢六九」(『大和町史』)
 「小鶴沢城址は古記録にはないが、利府城址と、大田郷右近館や小谷城の中間にあり、黒川氏の隠し城ともいわれている。
 館あとの範囲は東西320m、南北80m、東側には三段からなる段築あと、北側には堀切があり、丘陵頂上には、土塁状の盛土が南北に連続しいる。
 城主は不明だが、黒川氏の一族だったと思われ、天正19[1591]年伊達氏による黒川氏攻略には徹底して抗戦落城したものと思われる。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
 現在、田町沢一帯の地上及び城山の地下を新幹線が貫通している。
擂鉢山
 当時伊達軍による皆殺しの場となった「戦場内に擂鉢山といって擂鉢のような山がある。その所有者を探して。ごく内密に所有者に対し、命は助けてやるからと、命と引き替えに承諾する。
 伊達軍は黒川の戦死者や一般民まで、死者をこの擂鉢山に埋めたといわれているが今でもこの場所に行くと何かしら寂しさを感じるという。
 また、この物語については地区内では語らないが、隣郡の人々に語り継がれている。従って、この地区は無住となり後に山賊の住む土地になったという。」(『ふるさと綺談』
白翁瀧不動明王
 東成田へ抜ける柳沢街道南方の「大沢にあり、小笹山白翁瀧不動明王という。由緒は不明であるが、ご神体不動明王像の制作年代から推測しても、また、杉の巨木からしても数百年を経ていると思われる。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
白翁瀧
 「お堂の脇に小さな瀧〔白翁瀧〔しらおがたき〕(小西川源流)〕があり、流れる水は細い糸のようですが、どんな日照りの年も涸れたことはない。また、この水で目を洗うと治るといわれ、地区外の人からもお参りが絶えない。その瀧の下には50cm足らずの石の不動明王像が水にうたれるようにひっそりと立っている。」(『まろろば百選』)「瀧下の水神不動明王像は、文政9[1826]年3月28日とある。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
 長根街道一里塚と同じく2014.6.10、私も初めて訪れたが、山深く隠れ、清冽で幽玄の気漂う、まことにすばらしい秘境である。我が故郷にこんな深山幽谷があったとは!子供たちの遠足や家族のピクニックにうってつけだろう。
 惜しむらくは、あろうことか滝の上流一帯、参道と境内に踵(きびす)を接して、小鶴沢の象徴である亀山山頂の喉元まで、集落東部の山地全体が、「県環境公社小鶴沢処分場」に"開発"され、せっかく祖先が数百年営々守り続けて来た悠久の清流を、永遠に台なしにしてしまったことである!
 我々の世代は、いったい何を遺すのだろう?
洞屋場遺跡
 「『全国遺跡地図宮城県』文化庁文化財保護部,1978」に、「堂〔洞〕屋場遺跡 製鉄跡 小鶴沢上の沢」の記述がある。
 洞屋場は、「字寺前地内にある。昔砂鉄の精錬所といわれる。
 桶の沢の砂をもって精錬され、刀、鉄砲など製造された場所であり、明治の初期まで鍛冶屋が居たといわれる。
 この辺から、多くの鉄滓(製鉄のあとに出るもの)が見られたが、今は水田化して、その跡は見えない。町の史跡となっている。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
大平山盛国寺(じょうこくじ)
 「鶴巣村小鶴沢寺前にあり
  臨済宗 妙心寺派
 本尊 地蔵尊  本寺 松島瑞巌寺
 由緒 万治元[1658]年八月創立瑞岩〔巌〕寺五十七世勅諡大悲円満国師の開山にして仝年十月五日入寺なり」(『黒川郡誌』)。
 「万治元[1658]年八月、松島瑞巌寺九十九世雲居禅師が、明暦年間[1655-1658]未曾有の不作となり、餓死する者が多く村が荒廃したものを憂い、村の復興と繁栄を祈願し開山したものである。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
盛国寺の比翼ヒバ
 「盛国寺の比翼ヒバ」は、「万治元[1658]年3〔8〕月、地域の飢餓と〔からの〕復興を願い、部落の菩提寺〕太平山盛国寺が創建され、その時の記念として植えられたものと思われる。
 この木は胸高4.8m・樹高17mあり、特徴としては樹冠の広がりと共に上方に数十本の枝がのびている。」(『まろろば百選』)。「樹齢三百年を越すと思われる桧の大木(中略)町の名木百選にもなっている。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
隠れキリシタン”五反田長者”
 既述の東成田の支倉家中伊藤嘉兵衛「の子孫が〔小鶴沢の〕五反田長者と云われる。伊藤家は常に叺〔かます〕にお金をしまいこんでいたという。然し、何代か後に一夜にして滅びたと語り伝えられている。この伊藤家は『遠くから眺めると丁度、家屋敷がお城のように見えた』と私〔鹿又勘太郎氏〕の祖父の話であった。
 私はこの話を聞いて一夜にして滅びたと云う事に疑念を持っていた。伊藤家の墓は五反田屋敷より北へ百五十メートルの所に代々の墓石があり、また、墓には地蔵像が三体もあるところからして、何か曰くありと感じていた。
 小鶴沢地区内ではヒイラギの木のある家が何軒かあり、このヒイラギは昔から魔よけの木としていたが、隠れキリシタン信仰者の目印であったのではないかとも思われる。
 これが隠れキリシタンであったことを証明することがある。それは小鶴沢菩提寺盛国寺に桧の大木がある。〔上記〕比翼ヒバという。この大木に私が寺総代になった時、この大木の根元に地区民の協力を得て土を盛って、根元の蔦を伐っていたところ、カチンと当たるものがあり、掘り起こしてみると丸い石が出てきた。直径四十センチ位、表面は丸く中央が凹み、中は丸くなっていた。これは調べてみると、この石は隠れキリシタン信仰の印のものとわかった。それは今もこの大木の下に置いてある。
 従って、小鶴沢は隠れキリシタン信仰の部落であったことがわかる。そう考えてくると五反田長者も隠れキリシタンの信者であり、そのことが幕府の知るところとなり、一家は皆、誅殺されたのではないかと思われる。」(『ふるさと綺談』)
経塚
 「五反田長者屋敷より南(中略)入の沢囲の入り口左面(中略)に塚があった。この塚について東北大学の伊藤教授が、嘗て、鳥屋神社の裏の鳥屋古墳調査にあたられた時、小鶴沢のこの塚を調査依頼したところ、快く引き受けてくだされ調査してもらった結果、この塚は古墳ではないが経塚であるとのことであった。
 考えてみるに、何故ここに経塚があることを思ってみるに、これは五反田長者の伊藤家が隠れキリシタンの廉により死刑になることを察知して此処にその経文なりあるいは宝物なども埋め、塚にしたものではないかとも思われる。
 折しも伊藤家と支倉家とは切っても切れない仲であり、支倉六右エ門を慕ってキリシタン入信することは優に考えられることであると同時に、小鶴沢地区の中にも支倉六右エ門の仁徳を慕って入信し、知識を取り入れたとも思われる。
 従って、隠れキリシタン入信者がいても不思議ではない。また、特に製鉄の技術なども会得したと思われる。小鶴沢には洞屋場なる地区があるが、これは製鉄の場所として町の史跡になって」(『ふるさと綺談』)いる。
社祠
 「『安永風土記』[1774]では(中略)村鎮守南亀ヶ森の明神社のほか北亀ヶ森に明神社、神明山に神明宮〔社〕、稲苅山に稲苅明神宮が記される。」(『日本歴史地名大系』)
南亀山・北亀山明神社
 「かつて、南亀山明神南亀山に、北亀山明神北亀山に鎮座したが、昭和の世になり、大沢、白翁瀧不動明王境内に合祀したものである。古くから地区の守護神として、参詣されている。
神明社
 関場地内にある。由緒は不詳昔より部落の鎮守神として祀られている。旧村社。祭りは旧3月29日であったが、今は特に日取りない。
庚申供養碑
 鹿野前地区内に庚申供養己待供養碑馬頭観世音がある。いずれも文化[180-1818]、文政[1818-1831]年間の碑である。
お稲荷様
 関場地区内に鎮座。由緒は不明。祭神は稲倉魂命。
お観音様
 この観音様のある宮田地区は、昔大谷の支配者太田氏の所有であったものを、(中略)後に門間喜代寿氏が開田のため譲り受けたものであり、この観音様は同家の所有地内にある。
 一時期婦人有志による観音講など参詣者も多かった。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
明治小鶴沢村の変遷
 後述するように、明治維新後小鶴沢村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡小鶴沢村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡小鶴沢村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第二小区小鶴沢村
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢
   九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治   副戸長 安藤亀吉 小島勇吉
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区小鶴沢村
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區小鶴沢村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
小鶴沢小学校
 後述するように、「明治六(1873)(中略)西成田(中略)村に(中略)小学校〔西成田小学校、穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て
 鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる
 仝三十[1897]山田分教場新築(『黒川郡誌』)
東北新幹線
 「昭和48[1973]年7月、東京より青森までの高速による新幹線工事の構想のもと、当地区の通過による工事が、鹿島建設や、若築建設の工事現場となり、昭和50[1975]年開業となる。
宮城県環境事業公社
 昭和50[1975]年頃、大昭和製紙株式会社が小鶴沢地域の大型開発計画のもとに当地区に進出し、土地の買取に乗り出し地権者も買取に応じ、大沢柳沢囲、約200ヘクタールが買収されたが、大昭和製紙株式会社は大沢地内約120ヘクタールを宮城県産業廃棄物処理公社に転買され、公社は昭和53[1978]年〔宮城県〕環境事業公社として、大和町と公害防止協定を結び宮城県の産業廃棄物の最終処理にあたっている。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
鹿又勘太郎翁
 鹿又勘太郎翁は、郷土の歴史・文物に愛情と造詣の深い集落一の長老で、後に続く我々の世代の良き理解者である(なお、後に述べる画家鹿又勘治氏は、翁の弟である)。門間哲夫君の在郷時、同期太田の故郷右近初雄君や、翁の嫡子で1学年後輩の剛嗣君らと「つくし会」なる青年組織を立ち上げた際も、翁は数少ない理解者だった。
 2006『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』、2012『ふるさと綺談』、2012『黒川郡三十三所巡礼御詠歌』など数点の著作をものされ、その他既述の「古道を探る」などの論考を各紙誌に寄稿されている。巻頭に採り上げた『大和町まほろば百選』にも、当時80歳の高齢を押して企画編集者に名を連ねておられる。思えば私が長根街道一里塚に巡り会えたのも、奇しくもその一文のおかげだった訳で、浅からぬ因縁である。
 2016.6.16、その一月ほど前に嫡子剛嗣君から電話があり、嫡孫賢一君が私の本ウェブサイトをご家族に紹介された縁で、初めてお会いでき、親しくお話を伺えた。すこぶるお元気で、記憶の確かさには目を見はらされた。壮年時には林業に情熱を傾けられ、黒川森林組合組合長等を歴任された。
 集落のシンボル「亀山」に因む「亀芳」の雅号で書をよくされ(宮城県芸術協会(書道部)会員)、上記『黒川郡三十三所巡礼御詠歌』は自書作品である(弟の鹿又勘治氏も書家で、宮城県の「表彰状」を筆耕しているという)。今なお「般若心経」写経を日課にされ、今や数千点に及んでおり、さらには下記の「般若心経碑」も建立された。
 夫人もクロッキーなどをよくされ、対話中の私のポートレートなどをご披露いただいた。剛嗣君は私の一年後輩で、樹木に一家言を持たれ、造園業を営んでおられる。独立されている賢一君とはお会いできなかったが、祖父上を深く敬愛され、陰ながら種々お助けしている様子が見て取れる。鄙には稀な、自然のふところに溶け込み、風雅を愛する麗しいご家族である。
 既述のとおり、「余談・・小生〔柴修也氏〕の父方の祖父は大和町の小鶴沢〔鹿又家〕で生まれた。母方の祖父は大郷町の板谷の残間家に生まれた。両家は山一つ離れた場所で生活をしていた。」(ブログ「おおさと歴史探訪会」
般若心経碑
 「盛国寺境内に般若心経碑がある。この地区の鹿又勘太郎が、写経により、有縁無縁霊位の供養と、平和繁栄を祈願し、自ら浄書して建立したものである。」(『大和町小鶴沢 ふるさとのすがた』)
  ♪大童(おおわら)よりて幕柳 そろそろ太田に小鶴沢♪(「黒川願人節」)
  ♪手に手を取って 小鶴沢 サノヨイヨイ♪(千坂一郎作詞/澤田 諭補筆「鶴巣節」)

◯太田(オオダ)
遠仙道(東山道、太田街道)
 郡境を「西に向かった〔長根街〕道はほどなく北上して現在は小鶴沢集落があるところを通り、さらに北進した先で奥大道に合流したと思われます。
 一方、板谷道を通って黒川郡に入った奥大道は大郷町東成田と大和町小鶴沢の村境にそって西に進み、遠仙道(東山道の転化した字か)という地名が残る太田あたりで長根街道と合流したと考えられます。」(『蝦夷と「なこその関」』)
 奇しくも、同期・高橋重幸君宅の字がまさしくこの「遠仙道」であり、実は古代以来の歴史の道・東山道(太田街道)の名残りだったのだ!
 一方中世奥州街道は、 はじめ国分氏松森城(鶴ヶ城)下「宮城郡松森より発して富谷村大亀を経て本〔鶴巣〕村山田太田」(『下草郷土誌』)に出、のち留守氏の利府城下「宮城郡利府の地より沢乙を経て山田、太田(中略)に出」(『黒川郡誌』)、古代・中世両官道(並びに今日の利府街道)は、山田の北端・太田境で重なった。
 「南から小鶴沢川が川原田川〔小西川〕となって開析谷を伴って北流する。(中略)黒川郡南迫七ヵ村の一。鎌倉期は北条徳宗領、戦国期に入り留守氏・相馬氏の領有となり、十六世紀半ば頃から黒川氏の支配となったと考えられる(大和町史)。」(『日本歴史地名大系』)
小谷城館(小谷館)
 「小谷館(こやだて、小谷城館)は富谷〔鶴巣〕村太田に在り長四十一間横三十九間四方繞すに塹壕を以てす幅三間長さ百七十間天正の頃江右近〔郷右近〕可斎の居りし所なり」(『黒川郡誌』)。
 利府「街道沿いに建つ郷右近等氏屋敷の裏山(西)が小谷城館のあとだと言う。
 高さ約二〇米の丘に構えられた、平山城形式のものと推察される。
 丘の東南面は、今は広々とした段々の水田地に造成され、遺構はなにもなく、わずかに壇の重なりに昔の面影が偲ばれるのみ。
 頂上部は杉林となり、その一隅に神社が祭祀され、そのうしろ、西側には南北にはしる窪地(空壕の跡?)も認められる。しかし城館の範囲はどこまでなのか、正確には識別しにくい。」 (紫桃正隆『仙台領内古城・館 第三巻』宝文堂)
郷右近館(ゴウコンダデ、小屋城)
 郷右近館(山の名前であると共に館の名前)は「小屋館〔小屋城〕とも言ふ。鶴巣村字太田砂子沢にあり、黒川氏の家臣江右近〔郷右近〕可斎の居館なりと伝ふ。」(『下草郷土誌』)
 「大和町の東南端、大郷町分の石倉山愛宕山に接する境界稜線上に、里人が「郷右近館」と称する標高一五九、三米[158.7m]の三角点が見え、頂上部にそびえる松の巨木が目印となる。(中略)高さ約一〇〇米の頂上部には、東西一二〇米、南北一八〇米の平場あり、東、北、西三面はきびしい断崖をのぞみ、南は空壕を経て奥山へと連なる見事な山城の形を見せる。
 往古は物見として重用されたらしく、ここよりの西方の展望の美はまさに筆舌に尽くし難いものがある。」 (『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「小屋館の江右近〔郷右近〕可斎という人も詳細を知りえない〔同じく同期・故郷右近初雄君(二人で発行したガリ版刷りの「鶴小新聞」を今も大事に取ってあり、忘れられない)との関係が推測される〕。(中略)
 黒川晴氏は、その没落に際して、〔女婿〕留守政景の身命をなげうっての庇護を受け、そのお陰で余生を全うすることができた。こういう関係から、〔前述のとおり、〕黒川氏の家臣のかなりの者が、留守氏の家臣として召抱えられることになる。郷右近氏は、その居城が留守氏の領域〔利府〕とすぐ隣りあう所にある。日ごろからいろいろな交渉もあったであろうから、いち早く留守氏家中としての転身をはかったのであろう。」(『大和町史』)
”八幡太郎蹄石”
 この郷右近館には、いずれご多聞に漏れずの口だろうが、清和源氏の棟梁”八幡太郎(源義家)蹄石”がある、という幼な心をワクワクさせた伝説も微笑ましく思い出されて、夢はいやおうなく膨らまされる。
 既述のとおり、”別所のお薬師様”北目山別所寺の本尊・智証大師円珍作の薬師如来像を、「永承年間(1046-1052)源義家東征に際し尊崇して袖振薬師と稱せり」(『黒川郡誌』)の故事にも照らし合わせれば、まんざら根拠のないホラ噺とばかりは片づけられまい。
 「滅多なことで通らない谷あいの道、目立つ山容でもない、しかも『首から下』を剥ぎ取られ哀れな姿になっている。良質な山砂の山〔産〕地として利府、大郷〔、大和〕、富谷はいたるところ同様の有様だ。
 古い歴史をもつこの山も時代の波に呑み込まれ里の人も登ることはないという。山頂はすごいヤブ。
 古い登山路や古い作業道があり、送電線巡視路もあるが、登山コース3本は、すべて身丈を蔽う草道でとても登山には使えない。掘削中の縁を登るしかないようだ。
 所要時間=比高130m 登り:40分 下り:30分(中略)
 ※山名は地元でも「山」はつけない。
 ※山頂に丸い穴あきの岩〔八幡太郎蹄石である!〕がある。径18cmぐらい。なかはかなりの広さ。うっかり手をいれないこと、マムシが入ってることも・・・。」(HP「みやぎ里山文庫」)
”傷だらけの山河”
 小鶴沢館に続き、鶴巣の大切な宝の一つである伝説の郷右近館もまた、無惨な姿でそのはらわたをさらけ出している。どうも当地の山砂は最良の建設資材として重宝らしく、小鶴沢から山田、太田、幕柳、石ノ沢、清水谷、大平中・下、大崎天神山にかけた丘陵一帯は軒並み山砂が採取され、俯瞰すると、いたるところあばたよろしく”傷だらけの山河”をさらしている。特に小鶴沢、太田、幕柳、石ノ沢、大平中・下は深刻で、山が全くあるいは半分以上消えてしまっている有様である。”蟻の目線”の路上からは「寄せ」に隠れて見えにくいが、”鳥の目線”の航空写真で見ると想像を絶する痛々しさだ。これを見てしまうと、たとえ疑似自然であっても一応緑は保っているゴルフ場の方が、はるかに益し(まし)とさえ思えてくる。
 ”国栄えて山河滅ぶ” いったい、我々の世代は後世に何を遺そうというのだろうか?
 「慶長九年(一六〇四)伊達宗清の知行。寛永十六年(一六三九)以後桜井・小沢氏などの知行地となった(伊達世臣家譜)。(中略)野合に神明社が記される。」(『日本歴史地名大系』)
太田山慈雲寺”太田の浮橋”
 「鶴巣村太田字屋敷下に在り
  曹洞宗 太源派
 本尊 延命地蔵尊  本寺 仙台北山金峰山輪王寺
 由緒 延宝二[1674]年七月十七日〔大崎・知恩院に同じ〕仙台輪王寺十四世松巌春長和尚之を開創すと云ふ」(『黒川郡誌』)。黒川三十三観音二十五番
  ♪黒川郡三十三所巡礼御詠歌二十五番太田のうき橋 もろともにゆめのうきはしわたれとも 願はおなしはすのうてなよ♪
 ”太田の浮橋”とは、そも何ぞや?高橋重幸君に問うてもみたが、皆目雲をつかむような話ぶりだった。いずれ慈雲寺の庭園に由来するはずだが、明治「廿五(1892)年(中略)慈雲寺焼失の為」(『黒川郡誌』)、詳細は歴史の闇の中に杳(よう)として埋もれたままである。
太田天神社
 「鶴巣村太田川原田にあり
 祭神 菅原道真
 由緒 勧請年月を詳にせず明治五[1872]年一月村社に列す
    境内に神明社あり幕柳八幡社外六社を合祀す其神社及年月左の如し
  幕柳字広畑村社八幡神社(中略)
  幕柳字砂子田無格社愛宕神社(中略)
  幕柳石ノ沢無格社熊野神社(中略)
  幕柳字宇津野無格社神明社(中略)
  小鶴沢字堰場村社神明社(中略)
  小鶴沢字上ノ沢無格社南亀稲荷神社(中略)
  山田字土井下村社神明社」(『黒川郡誌』)
明治太田村の変遷
 後述するように、明治維新後 太田村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡太田村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡太田村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第二小区太田村
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢
   九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治   副戸長 安藤亀吉 小島勇吉
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区太田村
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區太田村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
太田分教場
 後述するように、「明治六(1873)(中略)西成田(中略)村に(中略)小学校〔西成田小学校、穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て
 鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる
 仝三十[1897]山田分教場新築(『黒川郡誌』)
  ♪太田福ホッペだが 気は大平♪(「鶴巣節」)
  ♪大童(おおわら)よりて幕柳 そろそろ太田に小鶴沢(「黒川願人節」)

◯幕柳(マグヤナギ)
 その先の幕柳は、「伝へ云ふ此地〔義家の玄孫(やしゃご)〕源頼朝〔藤原〕泰衡征伐に際し柳二〔に〕幕を張りたりしにより村名の起因となれりと」(『黒川郡誌』)。
小関(コジギ)
 同期旧姓千葉福子さんの妹ゆう子さんによると、姉妹実家の屋号は「小関」で、分家で同じく同期千葉隆君実家旧宅との間を北に500mほど、幕柳八幡神社と同期千葉和夫君実家の間を抜けて今日の利府街道に合流する古道が遺り、同家はその「関守」だったいう。なるほど、「小関前」の字をはさんで南に一直線で、上記太田高橋重幸君宅の遠仙道(東山道)に通じ、おそらくどちらも東山道(奥大道)の旧蹟に相違なかろう。
勢興山井隠寺(じょういんじ)
 「鶴巣村幕柳字十王沢に在り
  臨済宗 妙心寺派
 本尊 釈迦仏  本山 松島瑞巌寺
 由緒 延慶二[1309]年本郡落合村報恩寺一世智覚道海禅師を開山となす」(『黒川郡誌』)。
井隠寺釈迦如来
 部落の菩提寺・井隠寺の釈迦如来立像は、「その作風から13世紀末ないし14世紀初頭頃の製作と見られ、その時期は伝承にいう井隠寺開創時期と一致する。
 像 高/129.0cm(四尺二寸六分) 髪際高/122.5cm(四尺四分) 光背は後代の作(中略)
 唐僧桑田道海が将来した仏像で、県内では仙台龍王寺の仏像など数少ない。常には施錠してある。」(『まろろば百選』)
佐和館
 「東南から鹿川(小鶴沢川〔小西川〕)が開析谷を広げながら西北方で西川に合流する。(中略)黒川郡南迫七ヵ村の一。鎌倉期は北条徳宗領、十六世紀後半頃から天正[1573-93]末年まで黒川氏領であったと考えられる(大和町史)。」(『日本歴史地名大系』)
 「佐和館は鶴巣村幕柳にあり縦五十間横四十間文禄年中[1592-1596]跡部将監拠れる所なり伝へ云ふ」(『黒川郡誌』)。「他の城主のほとんどが、天正年中(1573-1592)にその館から追われているのに、この跡部氏は、その後まで居城を許されている。あるいは、伊達氏と比較的近い関係にあったのかもしれない。」(『大和町史』)
 幕柳「集落の入口に立ちふさがる独立形の山が見える。
 これが佐和城のあとであった。奥部(北面)に大山孝夫氏の屋敷があるから、そこを訪ねて詳細を聞くとよい。
 高さ三十米の独立形の雑木山である。昔は、東、北、西〔北、東、南〕三面が深い山に囲まれ、脚下は湿地帯(水濠)により包み込まれた、湾内に佇む島さながらの特異の山城であったと想像される。
 山頂には東西、南北八〇米ほどの方形平場があり、そこが本丸となる。西〔北〕側には北、西、南〔東、北、西〕三面を包み込む形に大きな壕がはしる。これが大きな特徴。(中略)
 南〔西〕面一段下に平場(曲輪)が続き、東南〔南西〕の一帯には大手門あとも推定できる。
 東西〔南北〕両面は一帯にきびしい断崖となるが、北〔東〕は往古は奥山へと続いていたものか、ここに人工的に切断されたような窪地あとがのこり、今は水田や貯水地として利用されている。
 又、佐和城をとり巻く東、北、西〔北、東、南〕三面の山の頂上部には、それぞれ物見あとらしい所が見られ、往古の要害振りが推定できる。(中略)
 一説に、戦国末期に大崎〔黒川〕家臣、内ヶ崎氏がここに住んだともいう。」(『仙台領内古城・館 第三巻』)
 「鶴巣城主黒川晴氏の老職内ヶ崎筑後といふものあり幕柳邑に住す(中略)元和四11618]年伊達政宗富谷町を置く 筑後を召して検断に任す改名織部と稱す」(『黒川郡誌』)。ここ幕柳の地から、富谷新町の開鑿に乗り出したわけである。
 佐和館もまた、ご多聞に漏れぬ石ノ沢の山砂採取で、今や風前の灯のありさまである。
「慶長九年(一六〇四)から寛永十一年(一六三四)まで伊達宗清の知行。(中略)三ヵ村入合の石堰を以て潤す。馬場崎の村鎮守神明社(内宮・外宮とも)、石ノ沢の熊野権現宮・山神宮、北ノ内の八幡宮、明ぶたの愛宕宮が記される。」(『日本歴史地名大系』)
明治幕柳村の変遷
 後述するように、明治維新後幕柳村は、先進的ではあるが朝令暮改の薩長藩閥政策に翻弄されるままに、複雑怪奇な有為転変を重ねた。
 1)明治元[1868]年 仙台藩黒川郡幕柳村
 2)明治四[1871]年 仙台県黒川郡幕柳村
 3)明治五[1872]年 仙台県第四大区第二小区幕柳村
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢
   九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治   副戸長 安藤亀吉 小島勇吉
 4)明治七[1874]年 仙台県第三大区(黒川加美合郡)小一区幕柳村
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
 5)明治八[1875]年 宮城県第二大区(宮城名取黒川三郡)小十五區幕柳村
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる
 6)明治十一[1878]年 宮城県黒川郡(黒川加美合郡)幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八
 7)明治十四[1881]年 宮城県黒川郡東成田今泉幕柳大童村               戸長 白石利章─遠藤源之助
 8)明治十七[1884]年 宮城県黒川郡今泉外十二ヶ村
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(『黒川郡誌』)
 ようやくにして、「明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之〔一町九ヶ村〕が実施をなし
  鶴巣〔ツルノス〕村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎」(『黒川郡誌』)。 
幕柳村管掌小学校の変遷
 後述するように、「明治六(1873)(中略)西成田(中略)村に(中略)小学校〔西成田小学校、穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢〕を創設し(中略)仮教師を置き多くは寺院を以て校舎に充当し」(『黒川郡誌』)た。
 仝十一(1878)年小鶴沢村に小鶴沢小学校幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕を設け
 仝十三(1880)年今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け
 仝十九(1886)年今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす
 仝二十二[1889]年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ 今泉は富谷村に属せしを以て鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが(『黒川郡誌』)、幕柳はこれに属せず鶴巣小学校本校管轄となる。
  ♪大童(おおわら)よりて幕柳 そろそろ太田に小鶴沢♪(「黒川願人節」)
  ♪アンタのお裾を 幕柳♪(「鶴巣節」)
鳥屋以北は、東山道に同じ)



(続く)


InterBook絶版七つ森に戻る 目次に戻る 前のページに戻る ページのトップに戻る
InterBook紙背人の書斎
次のページへ進む
141129独立開設、150104改訂、150129改訂、150203改訂、150328改訂、151121改訂、151212改訂、151221改訂、151225改訂、160910改訂