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姓氏家系総索引



第七部 黒川郡の近世




黒川郡三拾三所(三十三観音)巡禮御詠歌
   ♪一番 吉岡熊野堂     みくまのをこゝにうつしてよしをかやみやまおもてはふだらくににて
    二番 吉田村行澤     くわうだいのじひにうるはぬものぞなきおしなめざわのむしもうろこも
    三番 宮床村幻樹軒    あるかなきよのこのもとのかりすまひいろかにこめてゝこゝろとむなよ
    四番 宮床村松巌寺    まついわをてらたてそめしおしえにはたいしたいひは極楽のたね
    五番 宮床信樂寺     まこと願ふ人しあらはやゑとゑんりなにへたつらんおなしはつ〔ち〕すは
    六番 宮床なには     よしあしをすてゝこゝろにおかされはなにはにつけてことのはもなし
    七番 吉田たちわ     たちわかれめくりあふよのざた〔さだ〕めなきよのなからひはゆめうつゝにて
    八番 吉田の八志田    くもりなきこゝろのそらにすむ月はやしたのみつにかけうつるなり
    九番 吉田升澤      さかなきにそれとしんによのなみたゝはつひにまよひのみかさ升澤
    十番 大瓜竹の森     うきふしにこゝろとむなよ竹のもの〔り〕葉ことゝゝにおくつゆのみそ
   十一番 大瓜五輪屋敷    しき空とさとれはなにかよの中に五りん五たいのおとつれもなし
   十二番 大瓜正覺寺     正覺をとりたかはてな圓通のかとひらくるは滋眼視衆生
   十三番 同またらがい    もろゝゝをまたらならすにあまねくもすくはてなにかほかへもらさし
   十四番 吉岡中興寺     ちうこうのむねをいたくはとやかくにねんりよのおこるみなもとをみよ
   十五番 同安樂院      あんらくやくせいのふねにのりぬれはしんによのうみになみ風もなし
   十六番 大衡古館      涼しさは家宅を出てゝ知られけるとし古館の月をなかめて
   十七番 同昌源寺      結縁に今こそめくりあふひらやみのりをしたふ人のやさしさ
   十八番 駒場雲泉寺     みちしわにあたるこまやはおちこちのはかまてすくふ慈悲の正観
   十九番 奥田の中里     ほんぶんのおくのでんちのうねゝゝにぼたいのたねをおろせ中里
   二十番 吉岡天皇寺     あまてらすわかおほきみのみちあらん限りはのりのにはもさかえん
  二十一番 報恩寺       よしあしをもらさてすくふぐわんなれはあゆみをはこふ報恩の寺
  二十二番 三ヶ内出ばり屋敷  こゝろにはくもりなけれはおのつからやみちをてらすゆみはりの月
  二十三番 大松澤下ノ町観音寺 佛縁にあふまつ澤やのりの道たゝ一筋にたのむ慈眼を
  二十四番 大平一ツ山     ふるさとにかへりてよもをなかむればいつくもおなし一ツ山さと
  二十五番 太田のうき橋    もろともにゆめのうきはしわたれとも願はおなしはすのうてなよ
  二十六番 鳥屋村玉泉寺    おのつからきよきこゝろにすむ月はたまはいつみのかけうつるなり
  二十七番 富谷湯船寺     くわくとふもふけはいつみとそのままに唯はてしなきみちとしるへし
  二十八番 同觀藏寺      くわんすれはうきよのほかになにもなしけそうせかいもみたの浄土も
  二十九番 同きよ水      かせなくはなみよるへしやたに川にわたれはすゝしきよ水の月
   三十番 一ノ關長樂寺    煩悩のくもはれてゆく一ノ關まして眞如の月をなかめて
  三十一番 二ノ關の袋     くにゝゝのせきもゆたかにいとたけのはやしもたへぬ川なみのおと
  三十二番 本町[下草]の黒川坂  つゆしもや草の枕もいとひなくみのりをしたふ黒川のさか
  三十三番 檜和田觀音     けちゑんのねかふ功徳のありかたやひわたのさくらみるにつけても
  三十四番 舞野放光院     おんがくのしらへなけれと舞野村くわんきり〔い〕やしのおほせあふけは
       同         いまゝてはおやとたのみしおゆつりをまひのゝにはにぬきてをさむる♪(作者不詳/『黒川郡誌』より)


観音菩薩
 「観音菩薩は、仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩または観自在菩薩ともいう。救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的には『観音さま』とも呼ばれる。
 サンスクリットのアヴァロキテシュヴァラを、玄奘は『見下ろす』と『自在者』の合成語と解釈し『観自在』と訳した。鳩摩羅什訳では『観世音』であったが、玄奘は『古く光世音、観世音、観世音自在などと漢訳しているのは、全てあやまりである』といっている。(中略)
 観音菩薩という呼び名は、一般的には観世音菩薩の略号と解釈されている。また、唐代に、『世』の文字が二代皇帝太宗李世民の名(諱)の一部であったため、避諱の原則により、唐代は『世』の文字は使用できなくなった。そのため、『観音菩薩』となり、唐滅亡後も、この名称が定着したという説もある。
 日本語の『カンノン』は『観音』の呉音読みであり、連声によって『オン』が『ノン』になったものである。
 『観音経』などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。また、『般若心経』の冒頭に登場する菩薩でもあり、般若の智慧の象徴ともなっている。浄土教では『観無量寿経』の説くところにより阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共に安置されることも多い。観音菩薩は大慈大悲を本誓とする。中国では六朝時代から霊験記(『観世音応験記』)が遺され、日本では飛鳥時代から造像例があり、現世利益と結びつけられて、時代・地域を問わず広く信仰されている。
 観音の在す住処・浄土は、ポータラカ(Potalaka、補陀落)といい、『華厳経』には、南インドの摩頼矩咤国の補怛落迦であると説かれる。(中略)
 ダライ・ラマは、観音菩薩(千手千眼十一面観音)の化身とされている。居城であるラサのポタラ宮の名は、観音の浄土である、ポータラカ(Potalaka、補陀落)に因む。(中略)
 観世音菩薩は、本来男性であったと考えられる。(中略)しかしながら、中国では『慈母観音』などという言葉から示されるように、俗に女性と見る向きが多い。(中略)

三十三観音
 観音が世を救済するに、広く衆生の機根(性格や仏の教えを聞ける器)に応じて、種々の形体を現じる。これを観音の普門示現(ふもんじげん)という。法華経「観世音菩薩普門品第二十五」(観音経)には、観世音菩薩はあまねく衆生を救うために相手に応じて『仏身』『声聞(しょうもん)身』『梵王身』など、33の姿に変身すると説かれている。(中略)西国三十三所観音霊場、三十三間堂などに見られる「33」という数字はここに由来する。なお「三十三観音」とは、この法華経の所説に基づき、中国及び近世の日本において信仰されるようになったものであって、法華経の中にこれら33種の観音の名称が登場するわけではない。
 この普門示現の考え方から、六観音、七観音、十五尊観音、三十三観音など多様多種な別身を派生するに至った。
 このため、観音像には基本となる聖観音(しょうかんのん)の他、密教の教義により作られた十一面観音、千手観音など、変化(へんげ)観音と呼ばれる様々な形の像がある。阿弥陀如来の脇侍としての観音と異なり、独尊として信仰される観音菩薩は、現世利益的な信仰が強い。そのため、あらゆる人を救い、人々のあらゆる願いをかなえるという観点から、多面多臂の超人間的な姿に表されることが多い。 その元となったのが三十三応現身像と言われている。 応現身とは相手に応じて様々な姿に変わることをいう。(中略)
 真言系では聖観音、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝〔じゅんでい〕観音を六観音と称し、天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。」(Wikipedia「観音菩薩」

菩薩
 「菩薩(ぼさつ、梵名ボーディ・サットヴァ(梵: bodhisattva) の音写、巴: bodhisatta)は、仏教において、一般的には、悟り(菩提, bodhi)を求める衆生(薩〓〔土に垂, sattva)を意味する。菩提薩〓〔土に垂〕とも音写される。
 梵名ボーディ・サットヴァのbodhiとは漢訳『菩提』であり、sattvaとは『生きている者』の意味で衆生や有情と意訳された。菩薩という用語が仏教成立以前から存在したか否かについての定説はないが、仏教で初めて菩薩という用語が用いられたのは釈迦の前世譚(ジャータカ)であり、釈迦が前世で辿りついた境地の意味だったとする説が有力である。(中略)
 初期から、悟りを開く前の修行時代の仏陀のことを菩薩と呼んでいた。さらに釈迦の前生物語である本生話(ジャータカ)では、釈迦の前生の姿も菩薩と呼んでいる。
 この菩薩の代表として創造されたのが、次に成仏すると伝えられる弥勒菩薩である。弥勒菩薩は56億7千万年の修行を経て、この世に弥勒仏として現れるとされる。後に阿弥陀仏となった法蔵菩薩などもこの代表的事例である。
 すでに悟りを得ているにもかかわらず、成仏を否定した菩薩も創造された。これは仏陀自身の活動に制約があると考えられたためで、いわば仏陀の手足となって活動する者を菩薩と呼ぶ。
この代表者が、釈迦三尊の文殊菩薩と普賢菩薩である。彼らは、釈迦のはたらきを象徴するたけでなく、はたらきそのものとして活動するのである。他にも、観世音菩薩、勢至菩薩なども、自らの成仏とはかかわりなく、活動を続ける菩薩である。(中略)
 中国では、インドの有様が詳細に伝わったわけではないので、ことに初期大乗仏教の学僧たちを菩薩と尊称した。龍樹菩薩、世親菩薩などとするのがこれである。(中略)
 日本では、仏教の教えそのものの象徴である如来とともに、身近な現世利益・救済信仰の対象として菩薩が尊崇の対象とされてきた。日本で広く信仰される主な菩薩としては、母性的なイメージが投影される観音菩薩、はるか未来で人々を救う弥勒菩薩、女人成仏を説く法華経に登場し女性に篤く信仰されてきた普賢菩薩、知恵を司る文殊菩薩、子供を救うとされ、道端にたたずみ最も庶民の身近にある地蔵菩薩などがある。北極星を神格化した妙見菩薩は、名称に菩薩とあるが厳密には天部である。
 また、神仏習合の一段階として、日本の神も人間と同様に罪業から逃れ自らも悟りをひらくことを望んでいるという思想が生まれた。
 それに基づき、仏道に入った日本の神の号として菩薩号が用いられた。八幡大菩薩が代表的である。(中略)
 高僧の称号として「菩薩」の名が朝廷より下されることがあった。例えば行基菩薩、興正菩薩(叡尊)などである。
 日本仏教では、自らの幸福だけでなく、社会の人々と共に幸福になろうとする大乗仏教徒のことを菩薩というとする説も唱えられている。」(Wikipedia「菩薩」



第一章 藩政時代の黒川郡



奥州仕置
 「天正一八年(一五九〇)八月、豊臣秀吉の奥州仕置によって、小田原へ参陣しなかった葛西・大崎両氏の所領は没収され、その跡に秀吉の直臣木村吉清が入部した。この仕置によって伊達政宗には伊達・信夫・および安積郡の一部(以上現福島)と、刈田・伊具・柴田・亘理・名取・黒川の諸郡、長世保(現松山町・鹿島台町など)・深谷保(現桃生郡南部)および米沢方面の領有が認められた。
 この地域で伊達氏の支配に服さない〔1588大崎合戦〕のが、黒川郡主黒川晴氏と桃生郡深谷の領主長江晴清〔勝景〕の両名で、政宗は直ちに米沢に拘禁し(貞山公治家記録)、所領を没収した。

葛西大崎一揆
 同年の九月中旬─下旬にかけて郡内各地で太閤検地が実施された。この時の検地帳は、現大和町の鳥屋・舞野、現大衡村の東大平(おおひら)・西大平(大衡)・奥田・駒場・大森の分が確認されている。
 太閤検地が行われ、奥州仕置を終えた豊臣勢が引き揚げた直後の同年一〇月に、木村吉清父子の悪政、検地や刀狩の強行に反対する葛西大崎一揆が起こった。政宗と蒲生氏郷に一揆鎮圧の命が下ったが、政宗は一揆を教唆扇動した疑いで、伊達・信夫・田村・安達(現福島県)・長井・(現山形県)・刈田の本領を没収され、葛西大崎一二郡が新給されて、政宗は米沢〔~会津若松〕から岩手沢(現岩出山町)に移った。」(『日本歴史地名大系』)


第一節 地方知行制
地方知行制
 慶長八[1603]年、政宗は完成した仙台城に入城し、「家臣たちにはそれぞれ封建的給与が支給された。これには知行地・切米・扶持方の三形態があり、のちに蔵米もあつたが、仙台藩では徳川時代を通じて知行地の支給が基本的なものであつた。
 知行地を支給された家臣は主として平士以上の上級武士で『給人』あるいは『地頭』とよばれ、知行地は『給所』あるいは『給地』とよばれた。給人が知行地を有し、農民から直接年貢・夫役を徴収することを近世では『地方知行』〔ぢかたちぎょう〕とよんでいる。地方知行は本来中世的な領主の存在形態で、徳川時代初期には幕府をはじめどこの藩でもなお行われたが、他では慶安年代〔1648~51〕から次第に廃止されて切米・扶持方・蔵米による奉禄制に転換した。(中略)
 仙台藩の場合は、明治維新に至るまで家臣たちの地方知行制が変質しながらなお行われ、むしろ後期には武士階級の財政難から武士の農村居住がますます多くなつて、現象的には地方知行制が一層普遍化したことが大きな特色で、仙台藩の後進性を示しているといわなければならない。しかも仙台藩の地方知行制では、他の諸藩と異なり、近世的な石高制をとらず、中世に行われた貫高の名称を最後まで踏襲し、知行高はすべて貫文高によつて表示された。そして外部に対しては、一貫文は十石の高に換算して発表された。(中略)
 『古来の家柄』の者が『自分下中〔家中〕』を沢山もち、『皆もつて手作』して生活しているから、田地をはなれては生活できなくなり、『国中の騒動』になる、よつて知行召上は不可能であるというのでる。(中略)
 思うに、秀吉によつて政宗の領土が大きく削減されたにもかかわらず、伊達氏が依然として多数の家臣団を抱え、しかも新領土の葛西・大崎地方には荒蕪地が多かつたところから、彼等に知行地の不足分を『野谷地』として与え、これを開墾させなければならなかつた歴史的事情によるものである。
 こうして仙台藩には地方知行制が最後までみられたが、これは、勿論中世の地頭領主制とは質的に全く異なるものであつた。(中略)
 地方知行領主権はかなりに制限されたものであつたが、さらに門閥地頭と下層給与人との知行権の内容には大きな差があつた。」(『宮城縣史』)

蔵入地と給所
 「仙台藩の広大な耕地は、領有形態から区分すると、蔵入地給所(給地・給人前ともいう)の二つに大別される。蔵入地は藩主伊達氏の直轄地で、その年貢はすべて藩庫に収納され、伊達家財政の基礎になつている。給所は伊達家臣団に宛行われた知行地で、その年貢は直接給人(地頭ともいう)に収納され、その軍事的経済的基盤となつたものである。
 仙台藩領における蔵入地と給地の比率については、初期は明らかではないが、中期の享保三年(一七一八)には総高十万七百六十八貫〔 100万 768石〕のうち、蔵入地は三万六千四百十八貫〔36万4180石〕余で三六%、残りは給所で六四%を占め、幕末に至つて蔵入地の比率が三八%と、やや高くなつている。(中略)
 一村内における蔵入地・給所の存在形態をみると、大身の士の一円拝領の村を除いて、一般的には村内では蔵入地と給地が入り組んで存在し、また給所は数人の給人によつて分割知行されることが多い。(中略)
 初期においては一人の百姓の本地は、通例蔵入地になるか、さもなければ一人の給人の知行に属したようである。この場合、百姓は蔵入百姓になるか、給人百姓になるかであつた。(中略)
 次にどんな百姓の本地が蔵入地になつたかというと、初期においては由緒ある百姓、あるいは伊達家に特別な功労のある百姓の本地は一般に蔵入地に編入された。蔵入地百姓になることは一つの恩恵だつたようである。(中略)
 給所は、大身の知行取の場合は、おおむね一円的に存在するが、中小知行取の場合は領内各地に分散している。分散的に給所を与えた理由は、おそらく受給した給所による利・不利益を平均して知行割の公平を期するためであつたろうと考えられる。(中略)
 次に注目すべきことは、仙台藩では、藩政初期伊達氏が家臣たちに知行地(給所)を給与する場合、家臣数が多かつたために従来の耕地だけでは間に合わなかつたので、新田開発に便宜な『谷地』(低湿地)をそのまま分与し、そこを開発させて知行高にするという方策をとつた。こうして開発された新田は、五年間は『荒野』とされ、それを過ぎると検地を受けて目録通りの知行高を給与され、残部はすべて蔵入地に編入された。(中略)
 このような野谷地給与による知行宛行形式は初期に一般的であるが、中期以降はほとんどみられなくなつた。徳川時代を通じて仙台藩に特長的な地方知行制の淵源は、一つはここに存するのである。」(『宮城縣史』)

四公六民
 「仙台藩初期の段階では、領主の土地の農民およびその生産物はおしなべて領主のものであるという理念が支配的であり、この意味において生産高も年貢高も一本のもので、これを表示するのが貫文制なのである。このような理念は明治維新まで存続したが、慶安二年(一六五三)税制改革があつて、(中略)貫文制は一貫文=十石の制とみなされ、石高制と同様に、生産高の意味に主として考えられるようになつた。(中略)
 享保八年(一七二三)四月二十九日、仙台藩貫文制につき幕府よりの問合わせに答えて、仙台藩では『仙台領ノ田地百文ハ他国地高一石ナリ、(中略)仙台領田地一貫文ノ中税ハ四石三斗ナリ』と述べている。
 すなわち田地一貫文は十石の生産高であり、その年貢は『中税』にして四石三斗(貢租率約四公六民)だつたことを示している。(中略)
 同じ一貫文でも上々田の場合は五段八畆二十五歩、下々畑の場合は十町歩となる。したがつて、貫文高の少ないことが必ずしも耕地面積の少ないことを意味しない。高一貫文の田は五等平均して八段三畆二十歩、畑は四町八畆十歩となる。このように田に比して畑の位付けがきわめて低いことは、領主の関心が専ら田租にあり、農民は米よりも畑から生産される麦・大豆等におもな生活資料を得て、米は原則として年貢として上納し、余剰米は販売するものだつたことを示している。」(『宮城縣史』)

軍役
 「家臣団にはそれぞれ知行高に応じて軍役が課された。(中略)
 一般に外様大名の軍役は、幕府の場合よりも過大であつたことが指摘されている。外様大名の中でも伊達氏の場合はとくに多かつたようで、『仙台叢書』所収『秘蔵録』によると、享保十二年(一七二七)の軍役体系は(中略)知行高二万三千石から三十石に至るまで三十四段階に区分され、その負担はほぼ均等化されている。百石未満の侍は馬を持たず、槍一本持参、百石以上が馬上役を勤める。百石の侍の軍役負担は若党一人・鎗一本・鎗持一人・馬一疋・口取一人で、内者(家中)計三人、主従計四人である。このように戦時には百石以上が馬上役であるが、平常、国もとでは百五十石以上が馬上役とされた。」(『宮城縣史』)
 二百五十石以上になると、若党二人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計七人、主従計八人になる。
 三百石以上では、鉄砲一挺一人・得道具持一人・若党三人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計九人、主従計十人
 四百石以上になると、鉄砲一挺一人・得道具持一人・若党四人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計十一人、主従計十二人となり、
 さらに、五百石以上になると、鉄砲二挺二人・得道具持一人・若党五人・鎗一人・草履取一人・具足持一人・馬一疋口取二人で内者計十三人、主従計十四人となる。
「三十石以下および徒小姓以下の小身者は、内者を率いることができなかつた。」(『宮城縣史』)
「このような重い軍役を果すために、平士以上の家臣団およびその家中は、平生その知行地内において多くの家中を養わねばならなかつた。しかもこれらの伊達氏の家臣団およびその家中は総計三万四千名の多数に及んだから、どうしても藩士の地方知行が避け得られず、陪臣の多くは百姓同様の農耕生活を営まねばならなかつたのである。」(『宮城縣史』)


第二節 伊達家臣団の構成と職制
  「伊達氏は、前述の如く鎌倉時代以来の豪族であり、また日本屈指の大名でもあるので、家臣の数はきわめて多い。(中略)伊達氏の膨大な家臣団は大別して門閥・平士・組士・卒の四等級に区分され、組士以上は士分であるが、卒は一般に士分とみなされず『凡下』〔ぼんげ〕とよばれた。
<門閥>
 門閥は、(中略)さらに一門・一家・準一家・一族・宿老・着座・太刀上・召出の八等級に分ち、各等級のうちにおいてまたその序列が定められた。」(『宮城縣史』)
内分分知大名
 大越氏の宗家で猪狩/澤田氏とも縁の深い一関田村氏は、「幕府から特別に大名格〔内分分知大名〕に列せられ」(『宮城縣史』)て、一門の上に君臨していた。
 一関田村氏(大名)  廃絶/一関伊達家、岩沼田村家(→一関田村氏)、中津山伊達家(→川崎伊達家)

一門
 澤田氏の宗家角田石川氏は一門の筆頭を占め、大越甲斐守ゆかりで猪狩氏にも近い岩谷堂伊達(岩城)氏が六席を占め、七席を地元宮床伊達氏が占めている。
 筆頭/角田石川氏 二席/亘理伊達氏 三席/水沢伊達氏 四席/涌谷伊達氏 五席/白石氏〔登米伊達氏〕 六席/岩谷堂伊達氏 七席/宮床伊達氏 八席/岩出山伊達家 九席/川崎伊達氏 十席/真坂白河氏 十一席/前沢三沢氏(1675年昇格)  その他/当別伊達家
 廃絶/村田伊達家、岩ヶ崎伊達家、吉岡伊達家、伊達右京家(吉村の三男伊達村風)

一家
 一家には、片倉小十郎景綱の片倉氏ほか十七氏が列せられた。
 鮎貝家、秋保家、柴田家、小梁川家、塩森家、坂元大條家、三春家、泉田家、村田家、黒木家、高清水石母田家、瀬上家、中村家、長尾石川家、中目家、亘理家、鶯沢梁川家、片倉家
 廃絶/黒川家、米岡白石家、飯坂家、藤田家、桑折家

準一家 準一家には、かつて伊達氏と対抗した葦名氏・葛西氏等の名が見える。
 猪苗代家、天童家、松前家、葦名家、高泉氏、上遠野家、保土原家、福原家
 廃絶/猪苗代縫殿家、八幡家、大塚家、北郷家、葛西家、本宮家

一族
 大立目家、金ヶ崎大町家、大塚家、大内家、西大條家、小原家、西大立目家、上口内中島家、宮内家、金山中島家、松山茂庭家、下衣川遠藤家、小斎佐藤家、畠中家、片平家、下郡山家、沼辺家、中野大町家、高城家、大松沢家、桜目石母田家、坂家
 廃絶/白岩家、大窪家、下飯坂家、田手家、成田家、石田家

宿老
 「他の諸藩でいえば家老に相当する」(『宮城縣史』)宿老三氏の一は、吉岡但木氏千五百石である。
 川口遠藤家、但木家、後藤家
 廃絶/屋代家、牧野家、原田家、富塚家、津田家

着座
 着座の一は吉岡→小野田奥山氏六千→千六百六十六石である。
 只野家、尾山大條家、藤沢奥山家、善岡/小野田奥山家、岩沼古内家、宮崎古内家、高野家、伊東家、佐々家、小野富田家、長沼家、布施家、黒沢家、芝多家、松岡家、大松沢石田家、古田家、松本家、和田家、氏家家、戸田家、和久家、笠原家、新田大町家、真山家、高屋家(医師)、猪苗代謙道家(連歌師)、錦織家(医師)、良覚院(修験)
 廃絶/ 山岡家、鈴木家、古田家、古内造酒祐家、文字茂庭家、遠山家、小野三分一所家、大松沢川島家

太刀上
 藤沢家、坪沼梁川家、平渡茂庭家、下真山白河家
 一族より降格/国分家、増田家、上郡山家、飯田家、鳥屋ケ崎砂金家

召出
 一番座/岡村(極楽院)、鮎貝、秋保、秋保、塩森、大條、村田、石母田、石母田、亘理、上郡山、西大條、宮内、遠藤、佐藤、畠中、下郡山、沼辺、〔砂金沢?〕砂金、大町、高城、高城、大松沢、石母田、但木、桑島、田村、中村、日野、遠藤、湯目、後藤、横尾、小野、堀越、茂庭、秋保
 二番座/猪苗代、葛西、上遠野、保土原、金上、清水、大波、塩、白津、真田、桑島、大浪、長沼、橋本、青木、青木、南、加藤、田中、大和田、五十嵐、松林、大波、今泉、大島、北、上野、沼辺、本多、佐藤、中山、木幡、山家、中地、大河内、太田、武田、古内、浅井、田辺、早川、熊谷、鈴木、椙原、布施、木村、山岸、安田、石田、小島、荒井(Wikipedia「仙台藩家臣」より)

<平士>
 平士は「大番士ともいい大番組の侍で、大番組というのは伊達家軍事力の主力をなす騎兵軍団である。平時は仙台城の警衛や領内の治安維持に当り、また藩政を執行する諸役人に任ぜられた。(中略)大番士は十番の組に編成され、(中略)大番組の頭を大番頭といい、各番は三百六十人の番士によつて編成され、合計三千六百人になるが、実数は幕末において三千四百四十一人である。
 彼等はその家格により城内において詰所を区別され、召出・虎之間番士・中之間番士・次之間番士・広間番士と称され、また総称して『詰所以上』ともよばれた。
 以上、伊達家臣を総計すれば、幕末において九、八七八人となる。(中略)
 伊達家の直臣・陪臣(中略)両者を総計すれば、幕末において約三万三千八百余人となり、諸藩随一の兵力を有したわけである。ちなみに幕府の総兵力は、徳川中期において約七万人である。仙台藩ではかくの如く侍の数が多く、しかも全領域にわたつて侍が配置されいるという事実は、およそ他の諸藩にみられない特色であつて、仙台藩のきわめて濃厚な軍事的性格を示している。」(『宮城縣史』)

<職制>
仙台藩の職制組織概要
 「藩の政治組織は所謂「御役列」なるものによりて見るべし其の順序は左の如し
▲御奉行〔執政(家老)〕▲御宿老(家老)▲若年寄〔参政〕▲御旗本奉行▲大番頭(以上大番頭格乗輿
▲江戸番頭▲出入司▲御小姓組番頭▲御小姓頭▲御申次▲法眼▲法橋▲御鎗奉行(以上番頭格
▲御徒小姓頭▲脇番頭▲御鷹匠頭▲御奥年寄▲御城番▲御町奉行▲御祭祀奉行▲御近習目附▲御不断組頭▲御給主組頭▲御名懸組頭▲御旗元足軽頭▲公儀使▲御郡奉行▲御近習▲御目付使番▲御番医師▲江戸番組頭▲御物置〆役▲御小姓組与頭▲並御武頭▲御繰合方吟味役▲御勘定奉行▲御兵具奉行▲京都御留守居▲龍ヶ崎奉行▲御姫様方御附人▲御二丸御留守居▲相去御足軽頭▲評定所御役人▲袖ヶ崎御屋敷役▲養賢堂学頭添役▲養賢堂御目付▲御証文預主立(以上詰所以上
▲御刀番▲御納戸判形役▲御小納戸▲御手水番▲奥御小姓▲児御小姓▲御年男▲御子供▲御座敷番▲御小姓▲同見習▲奥御右筆▲御記録御右筆主立▲御記録御右筆▲並御右筆▲江戸番馬上▲御薬込▲定御供▲御刀奉行▲御勘定所吟味役▲御広敷番頭▲奥方目附▲袖ヶ崎御作事本〆▲御二ノ丸御留守居添役▲御中奥目付▲御奉行手前頭立物出▲堂形指南役▲御乱舞太夫▲諸吟味役▲郡村〆役(御刀奉行より御目見え所あり)▲御徒目付▲大番組▲御徒小姓組▲御同朋頭▲御茶道組頭▲御同朋▲御茶道(此外組士凡下列あり略す)
 而して軍事に於ては御奉行以下夫れ夫れ人数等の定めあり、大番組なるもの一番より十番迄ありて大番組頭各大番組を引率す(藩の平士は皆番組に入る、其の相対の定限は三千六百人、一組は凡そ三百六十人なりき、(以下略)。」(『仙台戊辰史』)

仙台藩の職制
      仙台藩の職制(行政機関)
                      ┌小姓組番頭─小姓頭─小姓組頭─奥表小姓組
                      │番頭格待遇ノ輩
                      │鷹匠頭、不断、給主、名懸組頭─同上組士
                      │旗元足軽頭─旗本足軽
                ┌若年寄七人┤目付─徒目付─小人
                │〔参政〕 │着座医師─惣医師其他稼業人
                │     │武頭─足軽頭─足軽
                │     │徒士頭─徒士組
                │     │兵具奉行─横目─役人─諸職人
                │     └養賢堂学頭添役─養賢堂目付
   ┌文武一般行政担任奉行六人┤評定役(町奉行の半面司法部)評定所役人(記録役凡四人、留付凡十人)
   │            │大番頭十人、脇番頭十人、帳役
   │            │大番頭格待遇ノ輩(養賢堂学頭等)
   │            │町奉行二人(町奉行の半面民政部)物書(三人)検断─肝煎
   │            │祭祀奉行一人又は二人(社寺方小姓組)
 奉行┤            │屋敷奉行一人
〔執政(家老)〕        └御証文預主立五人
   │                  ┌郡奉行南方、北方、中奥、奥ノ四人─横目、穀改、代官、村定役人
   │                  │勘定奉行─吟味役─横目─頭取
   │                  │知行割奉行(勘定奉行兼務)
   └財用取切奉行一人─出入司五人────┤金奉行(金山方、鉄山方共郡奉行兼務)
            (内一人金穀取切) │山林奉行(郡奉行兼務)、横目─役人─塩役人
                      │塗師、鍛冶、荒物、紙等役人
                      │作事奉行─元締─横目─役人
                      └納戸元締─横目─役人」(『仙台市史』明治四十一[1908]年刊)


第三節 近世黒川郡の邑主
吉岡(下草)伊達氏
 「慶長九年(一六〇四)、政宗の三男で飯坂氏を継いだ〔伊達〕河内守宗清に黒川郡が与えられ、同一六[1611]年下草に入ったが、元和二年(一六一六)に吉岡に移った〔吉岡伊達氏〕。宗清は寛永一一年(一六三四)子のないまま病没し、吉岡館は廃城となり、所領は伊達氏の蔵入地となった。」(『日本歴史地名大系』)
 「是に於いて本郡所領の者なく黒木某藩命を以て郡治監督となれり」(『黒川郡誌』)。

宮床伊達氏
 「萬治三[1660]年〔仙台藩第2代藩主伊達忠宗の八男で、第5代藩主伊達吉村の実父〕伊達宗房采地を本郡に賜ひ宮床村に居舘を占めたるも〔宮床伊達氏〕亦在方一部に介するに止る」(『黒川郡誌』)。
奥山氏
 「その後吉岡館には、寛文二年(一六六二)に寛文事件で知られる宿老奥山大学常辰柴田郡村田(現村田町)から移封〔六千石〕され、」(『日本歴史地名大系』)
但木氏
 「次いで宝暦6[1756]年宿老の但木顕行が治を吉岡に置きたるも單に吉岡吉田の一部に過ぎず」(『黒川郡誌』)、 「善政をしき、幕末維新期には但木土佐が国家老として藩政の中枢で活躍した。」(『日本歴史地名大系』)
 「宝暦七[1757]年に奥山氏に替わって吉岡館の館主となった但木氏家は仙台藩三宿老の家柄で、幕末維新期には首席家老として藩政をとりしきった。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の実権者として内外の問題を処理したが、戦いに敗れ、仙台藩は降伏して二八万石に削減された。但木土佐はその全責任を負い、明治二年(一八六九)五月九日、反逆主謀の罪によって、坂英力〔塩釜・坂病院の祖〕とともに東京麻布の仙台藩邸で処刑された。辞世は
  『雲水の行衛はいづこむさし野をたゞ吹風にまかせたらなん 七峰樵夫』
であった。」(『日本歴史地名大系』)
 「なおこの間、慶安四年(一六五一)には二代藩主忠宗の子宗規に、加美郡大(おお)村(現色麻町)・黒川郡大衡村野谷地一〇〇町歩が与えられた。」(『日本歴史地名大系』)

中小領主
 「其他地頭なるもの各所に散在する状態となり本郡全部を統轄するものなし」(『黒川郡誌』)。
 「北目大崎の上郡山氏〔、我が澤田氏の主君・猪狩氏、同親族大越氏〕、檜和田の佐々布氏、松坂の松坂氏、三ヶ内の西方氏など多数の家臣が〔現大和〕町内各所に所領を与えられている。前代から続いて当〔大和〕町域に所領を持ったのは、松坂氏と宮床の鴇田氏(初期のみ)〔並びに大松沢氏〕である。」(『角川日本地名大辞典』)
(以降は「第六章第一節 近・現代の黒川郡」参照)




第二章 黒川郡の邑主と給所(給地、領地)


第一節 黒川郡の邑主(給人、領主)

 「正保[1645-1648]郷帳によると、郡内の総村高は田二千六八七貫九八六文〔約二万六八八〇石〕・畑七二五貫五三七文〔約七二五五石〕・新田三一一貫二七六文〔約三一一三石〕である。『封内風土記』では、総耕地面積は田二千八六二町五反余・畑一千八六二町九反余。戸口は一千七一五・一万八一三人で、馬二千四五四疋。郡内に在所をもつ家中総数は、八四四三人、馬四八七頭である。」(『日本歴史地名大系』)
 「領主地頭の各時代に於ける其領域石高貫高を記せば
 文明年間[1469-86]より天正時代[-1590]に至る黒川氏本郡一円を領し三万〔八千〕石
 後慶長元和より寛永年間に至る伊達河内守本郡一円を領せり
 伊達氏没後は本郡を領せるものなく所謂地頭各地に拠れり今その五百石以上のものを挙ぐれば左の如し
     御一門
 八百七貫百三文(八千七十一石三升) 伊達肥前     在所宮床     従御城五里五町
     代々御宿老
 千五百石              但木土佐     在所吉岡     従御城七里
     御一族
 六十一貫百五十三文〔約六一〇石〕  大松沢掃部介   在所大松沢    従御城八里
     着座
 百六十貫〔一六〇〇石〕       石田采女     在所大松沢
 六十貫〔六〇〇石〕         戸田与三郎    在所大衡村
     代々御召出並ニ大番士
 五十貫〔五〇〇石〕         上郡山七五郎   在所北目大崎村
〔五〇〇石              猪狩長作     在所北目大崎村
 二五〇石(一時着座五〇〇石、    大越文五郎    在所北目大崎村〕
      幕末時五八〇石 参政)
 千三百石              太田新六郎    在所中村
 千石                渋川助太夫    在所山崎村
 九百石               大河内源太夫   在所大松沢村
 六十七貫四百三十六文〔約六七〇石〕 佐々布八郎左衛門 在所桧和田村
 六五貫八百五十七文〔約六五〇石〕  松坂左膳     在所松坂村
 六十一貫二十六文〔約六一〇石〕   小梁川兵馬    在所駒場村
 五十貫五百二十六文〔約五〇〇石〕  清水仲兵衛    在所川内村
 六十貫〔六〇〇石〕         大松沢倫五郎   在所大松沢
 五百石               大和田筑後    在所富谷村
 五百石               内馬場蔵人    在所明石村
 五千石にて奥山大学寛文二[1662]年吉岡に住す宝暦七[1757]年食禄三分の二を収め加美郡小野田村に移さる
 千石にて川島宗泰大松沢に居る罪あり安永元[1772]年其家亡ぶ
」(『黒川郡誌』)。
 「『宝暦[1751-1764]職鑑』によると、伊達肥前は、家格一門で侍屋敷一〇七・寺屋敷四・足軽屋敷九六。(中略)大松沢中務は、家格は一族で侍屋敷九・足軽屋敷一八。(中略)大河内源太夫は、侍屋敷一三・足軽屋敷三三。(中略)但木土佐は宿老格で侍屋敷二〇二・寺屋敷二・足軽屋敷五〇。(中略)太田治郎平は、侍屋敷二三・足軽屋敷三三とある。」(『日本歴史地名大系』)


第二節 鶴巣旧村の邑主(給人、領主)
 「東北歴史資料館の斉藤悦雄氏の作成になる(中略)『仙台藩給人〔知行主〕の一覧表』によれば、当地〔大和町〕に在郷屋敷〔田宅〕をもった仙台藩給人」のうち、のちの鶴巣旧8村分は、
「鳥屋村   後藤(一六〇石) 〔白石
 北目大崎村 斑目 (一〇八石) 八谷(一〇〇石) 大越(二五〇石〔一時五〇〇石 着座、幕末時五八〇石 参政〕) 猪狩(五〇〇石) 良覚院(二六〇石 着座)(伊達) 〔上郡山(五〇〇石 太刀上) 宮床伊達(八〇〇〇石 一門)〕
 下草村   平渡(一二〇石)
 大平村   黒田(三一八石) 江馬(一〇〇石) 本田(一四〇石) 日野(三〇〇石)
 幕柳村   ?
 太田村   桜井(一五〇石) 小沢(三〇一石)
〔山田村   片寄〕

 小鶴沢村  ?」(『大和町史』)である。
 上記のように、北目大崎村は「宮床伊達氏・上郡山・斑目・八谷大越猪狩良覚院などの知行地とな」(『日本歴史地名大系』)った。


第三節 在郷屋敷と家中
地頭所拝領(給所)
 「いわゆる四十八館の領主以下給人侍は地方知行を行つていたが、その知行権の内容は、大身から小身にいたるまで一様ではなく、知行権にはもとより強弱の差があつた。四十八館の領主層は、領内各地に割拠しておおむね一円的な所領(知行地)をもち、それを自己の家中にさらに給地として分与し、封建的受給関係が末端まで及んだ。(中略)
 下層給人の場合は、在地で農民を直接支配することはほとんどなく、その知行権は単なる法定年貢徴収権にすぎなかつた。(中略)
 延宝〔1673~80〕以降(中略)大身領主層の地方知行権が次第に変質して、少身給人なみに単なる徴税権だけのものになる傾向があつた。」(『宮城縣史』)

在郷屋敷/家中屋敷
 「諸侍の在郷屋敷については寛文四年(一六六四)次の通り定められた。
 諸侍衆在郷屋敷高下御定(中略)
 一百貫文〔1000石〕より五拾貫文〔 500石〕迄
  上納ニ而ハ五拾間六拾間、野原ニ而ハ七拾間八拾間
  下中〔家中〕屋敷五軒、右同断〔一軒ニ付二十間廿五間野積リ、本地野原共ニ〕
  一五拾貫文〔 500石〕より弐拾貫文〔 200石〕迄
  上納ニ而ハ四拾間五拾間、野原ニ而ハ五拾間六拾間
  下中〔家中〕屋敷吟味之上申シ付ケラル可ク候事(中略)
 すなわち、侍の在郷屋敷は知行高に応じて大小の差を設け(中略)た。
 中期以降、都市居住武士階級の財政難がようやく深刻になると、農村に居住することを望む者が多くなつてきた(中略)。仙台藩において所・在所・在郷の数が幕末になるにつれて多くなつてきたことは、主として経済上の理由にもとづくものと考えられ、現象的にはいわゆる侍の地方知行がいよいよ普遍化する結果をもたらした。」(『宮城縣史』)

家中・又家中

 「大身の家臣の給所はさらにその家中に知行として分与された。給所がさらに二次的所に細分化されていくのである。(中略)
 大身の士でなくとも、伊達家の軍役制度では〔猪狩氏等〕三貫文〔30石〕以上の給人たちは、いずれもその知行高に応じて多かれ少なかれ自己の〔澤田氏等〕家中をもち(最低一人)、それぞれ土地を分与していた。これらの家中の中には、さられこれに従う又家中を有する者もあつた。(中略)いわゆる又家中は家中といつても身分は勿論士分ではなく、譜代の従者であつた。」(『宮城縣史』)

旦方(ダンポ)
 「だんぽう〔旦方〕(中略)(3)ダンポといって刀をさしている人をいうこともある。(中略)ダンポ契約は武士達の契約講である。配下のものより役頭のことを旦方といい、又家々にても家来〔家中〕の長を旦方といい、又いとき〔け〕なきものは自分の腰のものを旦方という。一つの言葉にて三つの名となる(やくたい草)」(「仙臺郷土研究復刊第16巻第1号(通巻242号) 〔特集〕仙台藩歴史用語辞典」仙台郷土研究会)。
 仙台藩の地方知行制下も、所拝領の給人(地頭、直臣)は大身の者ほど城下侍屋敷に常住した。大身の家の「家老」並みの家中(陪臣)の長(澤田家もそうだが)は「旦方(ダンポ、御用人)」と称し、その多くが主君に代わって在郷屋敷に陣取り、領地経営の実務を差配して君臨し、郡方(こうりかた)の日常行政万端を取り仕切る、村落の実質的支配者・階級(サムライの端くれ、士分の末端)だった(我々の中学時代までは、あだ名「◯◯(個人名)ダンポ」として使われて、まだその片鱗が残っていた)。」(『黒川郡誌』)

奉公人前(家中前・下中前)
 「給所の耕地は一般に『奉公人前』(家中前・下中前ともいう)と『百姓前』とから成り立つていた。奉公人前というのは給人の家中が検地帳において竿答え(耕地の名請人として検地帳に登録されること)した耕地をいい、百姓前は給人の百姓が竿答した耕地である。(中略)
 奉公人前は、給人家中の手作地さらに名請地をさし、家中の軍事的経済的基礎となつたもので、原則的には年貢・課役を負担するものではなく、この点において百姓前と厳然たる区別があつた。(中略)
 奉公人前の存在は仙台藩の土地制度においてきわめて特徴的であるが、その成因については、戦国以来の給人手作地がそのまま徳川時代まで持ち越したものもあつたであろうが、そのほかに、すでに述べたような初期の給所宛行形式の一たる野谷地支給がその主要な契機となつたものと考えられる。すなわち、慶長・元和以来、家臣団の野谷地拝領-開墾が盛行し、その際給人の家中がそれぞれ土地を割り当てられて開墾し、それを自己の知行高として給された。その後彼等はそこに土着して農耕に従事し、主人より知行の形式でもらつた土地を検地の際に竿答したのである。(中略)
 奉公人前は、原則としては、千石以下の給所では七%、千石以上の給所では十五%だけを許されたが、実例についてみると、(中略)これより多いのが一般である。(中略)
 奉公人前は、このように手作にせよ請作にせよ、いずれにしても給人の奉公人(家中〔陪臣〕)が検地帳で竿答した耕地をいうが、この場合、奉公人あるいは家中は必ずしも士分とは限らない。(中略)
 すなわち、百姓の二、三男あるいは傍系家族が給人の奉公人および足軽になることが多く、同時に彼等の新屋敷がいわゆる除屋敷となつて、年貢・課役を免除されたことを示している。また百姓身分のまま給人の家中になるものがあつた。(中略)氏をもたず単に名のみを称する家中には、このような『百姓家中』が多かつたであろう。かかる家中百姓の耕地も奉公人前とよばれたであろうが、純粋の奉公人前と異なつて低率な年貢および諸役を課されたようである。このような家中百姓成立の契機としては、初期の給人による野谷地開墾の際の労働力として設定されたものであろう。
 ところで奉公人前は、現実的には必ずしも〔澤田氏等〕家中みずからが耕作するとはかぎらなかつた。」(『宮城縣史』)

百姓前
 「奉公人前が給人家族の手作地で軍事的経済的基盤をなしたのに対して、百姓前は領主(伊達家あるいは地頭・給人)の最も基本的な経済的基礎となつたもので、(中略)いろいろな諸制限が加えられた。
 一本百姓のもつ百姓前は、初期にはおおむね蔵入地に属するか、あるいは一給人に属するかのいずれかであつて、いずれにしても領主の支配力が強く及んだが、中期以降になると、一百姓の持高は蔵入地および数人の給人に分割知行されるようになつたことはきわめて顕著である。(中略)
 このように、一百姓の本地あるいは新田が一給人の支配から数人の給人の支配にかわれば、それだけ各給人の土地支配力が薄弱となるわけであり、逆にいえば、百姓の土地に対する権利が次第に強くなつたことを示す。こうして給人は単なる徴税権者にすぎなくなり、百姓の事実上の土地所有が進行することになつた。このことは同時に、給人と百姓との封建関係の変質としてきわめて注目すべき現象である。」(『宮城縣史』)
 「仙台藩では幕末まで給人の地方知行が実施されたために、百姓の年貢・小役・夫役は蔵入地と給地と別個に徴収され、他藩のように藩が村を単位として一括徴収するということはなかつた。
 まず蔵入地の年貢・小役は代官からの割付によつて村肝煎が百姓より徴収する。(中略)
 給地の収納規定もすべて蔵入地に準じ、給人が規定に従つて年貢・小役の割付を行い、その徴収事務は、藩政初期は給人の下代が給地に出張してこれに当つたが、中期以降は知行地の百姓の中から有力な者を『地肝煎』に任じてこれに代らせた。」(『宮城縣史』)




第三章 蔵入地と町場


 「藩政時代に於ける黒川郡の行政状態は各種の事情を異にし極めて複雑なるものにして現今の殆ど予想外のものに属せり即ち本部〔郡〕には但木氏を始として各所に所拝領地頭〔給人〕あり又各村には仙台藩の直轄に属せるものあり是等の地頭と雖も其知行所は其の住居する村及び其の隣地に於いて一円に与へられしものにあらずして各村或は藩内各郡各地に跨がるもの珍しからず(中略)是等村内には藩の直轄なる地所あり即ち御蔵入〔蔵入地〕と稱するものなり其他又他人知行の個所もあり故に郡内各村の行政も亦自ら其趣を異にせざるを得ざるは当然の事実なり
 而して今村内吉岡町の如きは此外町場たるの故を以て一種特別の事情を有するが為又特殊の支配に属せざるべからざるの状態にあり 次に大松沢村の如く一ケ村三地頭の有する土地にして 又町場なるもの同じ町場と雖とも富谷村新町の如く藩庁直轄に属するものあり 以上の事実に依り行政実際の状況を概言すれば自ら一驚を喫せざるべし〔べからず〕」(『黒川郡誌』)。


第一節 蔵入地
郡奉行・代官
 「而して大肝入の上に郡奉行〔こうりぶぎょう)といふものありて之れを統督す(中略)藩内を分ちて南北奥中奥の四部となし(中略)即ち四人の郡司あり本郡は中奥の部分に属せしものなり 郡奉行の下に代官と稱し郡奉行の命を以て郡内直接の監督に任ずるものあり古来之を御代官様と稱し何処に於ても甚だ之を尊敬したり(中略)郡奉行及代官は共に藩士を以て之を選任す(中略)之を稱して御郡方役人〔おこうりがたやくにん)と云ふ」(『黒川郡誌』)。
納税
 「本郡において穀納収入の場所としては富谷代官所吉岡蔵場にして大谷郷は宮城郡高城本郷代官所に納めたりしなり然れども維新前にありては四日市場蔵場又は三本木蔵場に納めたりしこともあり是れ藩庁直轄の田地につき述べたるものなるも其他地頭に納入のものは各其館内備付の倉庫に運搬したるなり
 此他人足小役等の賦課あり(中略)是等の負担は普通農民としては尋常ならざるものなり加之〔しかのみならず〕町場居住の農民は伝馬徒夫と稱し公事について昼夜間断なく士人の通行貨物穀類の運搬に使役せられ(中略)吉岡宿の如きは其繁に堪江兼ね全家逃走したるもの陸続明治初年に至るまで空屋敷の多かりしを見るに至れり是等伝馬の役に当りたるものは吉岡富谷大松沢の駅場にして中村は駅場にあらざれども伝馬使役者に服したりなりし
 当時の制度としては仙台藩に於ては単に自藩に対する納税の義務あれども幕府に対しては何等納税の義務を有せざるなり然れども莫大の費用を要する場合に於ては御手伝と稱し各藩に之れが割当をなしたるものなり(中略)此の御手伝と稱する名義は幕府のみに限られたるものにあらず一定の制限外に多額の費用を要する場合は藩に於ても御手伝の名稱を以て藩内各郡村に対し賦課したること亦稀ならす」(『黒川郡誌』)。

御百姓・組頭・肝入・大肝入
 「士人は農工商と全然其趣を異にし主君に事へて文武の事に従ふを以て家世碌を受け農工商等の業を営むを得ず又従って貢租の義務を有せず然れども其禄極めて少なきもの其知行地に就き農業を営むことを許さると雖とも是素より特殊の例なり 農工商は本郡に於いては農を以て本業となし工商を以て副業とせるものにして商業家又工業者と雖ども御百姓某と云ふを本分となす故に皆貢租を納むべき義務を有するものなり
 各村農民に封して貢租を取立て諸般の事務取扱に従ふものを肝入と云ふ其下に組頭あり又肝入の上には大肝入あり郡内一名なるを常とす即ち肝入は現今の村長の如く組頭は恰も区長に似たり而して大肝入は郡長に当たれり(中略)又特に世襲を重んずる習慣なるを以て其家肝入の職を勤め得るものあらば代々之を任用し(中略)故に何代肝入某何代直続の家格なりと稱し以て之を誇となすは恰相当の事実なりとす(中略)肝入大肝入は郡内居住の農民中適材あり且つ相当の資産を有する者の中より選任せしなり」(『黒川郡誌』)。

黒川郡大肝入
 「黒川郡は北方郡奉行の管轄下にあり、加美郡と一つの代官区をなし、黒川郡吉岡〔富谷代官所吉岡蔵場〕加美郡中新田代官所が置かれた。また大谷郷一一ヶ村は、宮城郡高城郷・桃生郡宮戸浜と一つの代官区をなし、代官所は高城にあった。各代官所には大肝入が置かれた。」(『日本歴史地名大系』)
 「黒川郡は総数四十九ケ村其内東部に属する羽生山崎味明不来内川内土橋鶉崎成田中村粕川大松沢の十一ヶ村を稱して大谷郷と稱し宮城郡の数村と合して一区域をなし宮城郡高城本郷に郡司代官所ありて之を統轄し又此部に属する大肝入は大谷郷をも支配せるなり故に黒川郡三十八ヶ村は自ら大谷郷と全く其管轄権を異にし一郡にして二区域となり居れるなり単に黒川郡大肝入と云ふ時は西部三十八ヶ村の支配に任ぜしものなり」(『黒川郡誌』)。
 「西部三十八ヶ村に於ける大肝入の歴代を悉く明にすること能はざれども大体に於て之を知ることを得左に之を挙ぐ
 内ヶ崎作右衛門 内ヶ崎新三郎 高橋善八郎 千坂半左衛門 千坂仲内 渡辺良七 遠藤〔浅野屋〕周右衛門 高橋藤作 渡辺作十郎 遠藤〔浅野屋〕周右衛門 浅野寿家治」(『黒川郡誌』)
 「明治三(1870)年に至り大谷郷の名稱を廃して黒川郡一圓を合併し富谷村新町に代官所を設けて之を管轄せしむ而して維新後に至り郡行政に移れり」(『黒川郡誌』)。「其成田村は之を東成田村となす西成田村は之を小野目成田村と稱したりしを之と同時に西成田村と稱する至れり」(『黒川郡誌』)。

五人組
 「藩政時代にありては政令簡易を尚び別に精密なる法文を備ふる如きことなく(中略)其第一階級なるものは即ち五人組にして其組織甚だ強固なり即ち五戸相合して一伍をなす其方法は一に連帯することにあり伍長は其中心人物となり何事によらず一致団結して共に其責任を負ふ故に規約には共に署名捺印し組頭は之に連署しもっとも神聖なるものなりとせり」(『黒川郡誌』)。

第二節 町場
検断・地肝入
 「又町場に於いては駅伝と稱する一種特殊の公務に服すべき義務を有せり而して直接之を取扱ふものを検断と稱す(中略)検断は大肝入の直隷にして其指揮監督を受く(中略)右の外吉岡の如く所拝領の地頭ある処に於ては(中略)之を稱して地肝入と云ふ是等肝入は地肝入を兼ね又更に検断をも兼ぬることあり 検断の役所は之を役前と云ふ留付と稱する役ありて検断を補く又其役場に掲示場を設けて諸布達を掲示す之を稱して札場と云ふ
町役人・町同心
 而して町場又は〔地頭〕但木家の下町たるを以て此方面に於て同家の役人即ち町役人と稱する役目の取扱を受け町役人には士分のものを以て之に任ず
 其下に町同心と稱する卒族より選任せられたるものありて常に其実際の状況を臨検す」(『黒川郡誌』)







第八部 黒川郡の近代と鶴巣村の立村




鶴巣音頭
 ♪(一)ハァー おらが鶴巣はよ 豊かな村さ
     七つ森から吹くそよ風に 耕地千畳見渡す限り サテ
     金波銀波の穂波がゆれて ゆれる穂波に朝日が映えるよ
  (二)ハァー おらが鶴巣はよ 正しい村さ
     昔名高い黒川公の 音に聞こえた黒川城下 サテ
     北目大崎軒並続き 村にそびゆる火の見の櫓よ
  (三)ハァー おらが鶴巣はよ 楽しい村さ
     向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ
     厚い人情のなさけがしみて 星が流れる流れに浮いてよ
  (四)ハァー おらが鶴巣はよ 明るい村さ
     夏も涼しい北国育ち 遠く船形雪いただいて サテ
     今日も通るよ県道筋を 松島行きの流線バスがよ♪(原千秋作詞/佐々木章作曲、1953年鶴巣青年団制定)


鶴巣節(三池炭坑節替歌) 千坂一郎作詞(2000年)/〔 〕内澤田 諭補筆
 ♪(一)あなたは一体全体 どこの人〔どこから北目〕 ヨイヨイ 髪は黒川 膚(はだ)鶴巣 太田福ホッペだが 気は大平 おへそ下草 別所大崎 サノヨイヨイ
  (二)鳥屋かく砂金沢 あったけど ヨイヨイ 俺の浮気は まだ山田 アンタのお裾を 幕柳 手に手を取って 小鶴沢 サノヨイヨイ
 〔(三)石ノ沢風 清水谷(すずのや)に ヨイヨイ 七ツ森立ち 西川や 黒川坂なを 鶴巣館(つるすだて) お薬師様まで 仁王様 サノヨイヨイ〕♪

 ここに採り上げた『鶴巣節』は、私の鶴小3~4年担任の恩師・千坂一郎先生(私の父の同期の親友)からの書簡の中に書かれていたもので、一部を不肖私が補筆したものである。


第一章 鶴巣村・黒川郡制の成立ち


第一節 近・現代黒川郡の概史

 「明治四[1881]年仙台県に属したが、同五[1882]年に宮城県となる。同二二[1889]年、町村制施行により吉岡町・大衡村・落合村・大谷村・鶴巣村・宮床村・吉田村・粕川村・富谷村・大松沢村の一町九ヵ村となる。昭和八年(一九三三)富谷村が鶴巣村のうち白旗(しらはた。竹林川左岸堰下橋(セギンタバス)下流の南北に細長い地)を編入。同二九[1954]年大谷・大松沢・粕川の東部三ヵ村が合併して大郷村。同三〇[1955]年吉岡・宮床・吉田・落合・鶴巣の一町四ヵ村が合併して大和町。同三四[1959]年大郷村は町政を施行。同三八[1963]年富谷村が町政を施行。
 明治一七[1984]年吉岡から昌源寺坂へ越えていた奥州街道が、西方へ迂回する現国道四号に付替えとなる。
 大正一二年(一九二三)に有志によって仙台─吉岡間に軽便鉄道〔キドッコ〕が開かれ、昭和三[1928]年には陸羽東線中新田駅(現在西古川駅)まで開通した。しかし戦後まもなくバスに押されて、同二十五[1950]年豪雨による路線破壊を機に廃止となった。
 同五八[1983]年には東北新幹線が東部を南北に縦断し、中央部にも同五一[1976]年南北に東北自動車道が通り、大和インターチェンジによって仙台地区との距離が短縮された。」(『日本歴史地名大系』)

仙台藩/仙台県
 「明治元[1868]年十二月藩主伊達慶邦版籍奉還を許され仙台藩を置かる 次で四[1871]年七月に至り廃藩置県となり仙台県と改む 此間本郡も亦常に其治下に属せり 然れども郡行政に至りては其組織尚其制を改めず因襲以て其旧に従ふ 大肝入肝入組頭等又従来の名稱を襲用したりしが
 三[1870]年に至り肝入を里長と改め後村長と稱し各一人を置く 組頭は之を百姓代と改む 又五人組の制を用ひ伍長を置くこと元の如し 又大肝入を改めて郡長となす浅野寿家治之に任ず従来の大肝入なり

仙台県第四大区
 明治五[1872]年郡村の区画制定せられ本郡は第四大区に属す 更に之を分ちて十二小区となす 是に於て各村或は連合し或は独立したるものあり
 村長を改めて二等戸長を置くこと各一名 百姓代之を改めて村扱と稱す 又郡長を改めて一等戸長となす 副として二等戸長二名を置く
 左に其一班を挙ぐべし 其区務所を吉岡駅旧本陣千葉庄左衛門宅に置く
 第四大区 黒川郡一円
  一等戸長 浅野寿家治
   副戸長 二等戸長 畑谷直蔵  二等戸長千坂利四郎
  第一小区 富谷 今泉 大童 三ノ関 下草
   
五ヶ村 二等戸長 細川平三郎   副戸長 加藤保蔵 渡辺勘三郎
  第二小区 穀田 成田 明石 石積 大亀 山田 太田 幕柳 小鶴沢
   
九ヶ村 二等戸長 内ヶ崎直治   副戸長 安藤亀吉 小島勇吉
  第三小区 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 志戸田(中略)
  第四小区 今村 高田 舞野 蒜袋(中略)
  第五小区 桧和田 北目大崎 鳥屋 大平〔現今の「鶴巣」を構成する8村は、当初第一・二・五の三小区に分かれていた。〕
   四ヶ村 二等戸長 千坂藤右衛門  副戸長 佐々木久四郎 高橋運治(中略)
  第六小区 土橋 鶉崎 成田 中村 川内(中略)
  第七小区 羽生 山崎 味明 不来内(中略)
  第八小区 粕川(中略)
  第九小区 大松沢 上下(中略)
  第十小区 相川 報恩寺 三ヶ内 石原 松坂 大森 駒場(中略)
  第十〔一〕小区 大衡 奧田 大瓜(中略)
  第十二小区 吉田(中略)

仙台県第三大区(黒川加美合郡)
 然るに明治七[1874]年四月に至り更に大小区画の合併行はれ 黒川加美両郡を合して第三大区となし 更に之を分ちて十四小区となす其黒川郡に属するもの七小区なり(中略)而して当時の大区詰所を吉岡駅旧本陣に置くこと元の如し
 第三大区 黒川加美二郡合併
  区長 横山盛季  福 千坂利四郎
  小一区 富谷 穀田 西成田 明石 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 鳥羽〔屋〕 今泉 大童
     合十三ヶ村 戸長 細川平三郎  副 佐々木文四郎
  小二区 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 志戸田 下草
     合七ヶ村  戸長 高橋運治   副 浅野角右衛門
  小三区 北目大崎 大平 桧和田 相川 松坂 報恩寺 三ヶ内
     合七ヶ村  戸長 千坂雄五郎  副 不祥
  小四区 土橋 鶉崎 東成田 中村 川内 羽生 味明 山崎 不来内(中略)
  小五区 粕川 石原 大松沢 大森(中略)
  小六区 今村 舞野 高田 吉田(中略)
  小七区 大衡 大瓜 奧田 蒜袋 駒場(中略)

宮城県第二大区
 当時戸長役場は戸長宅を以て之に充当し別に詰所を設けざりしなり
 而して明治八[1875]年十一月仙台県を改めて宮城県となし 明治九(1876)年十一月に至り県の分合に伴ひ更に大小区画の変更を生じたるに際し宮城県を五大区に分てり 而して本郡は仙台及び宮城名取黒川の三郡に共に第二大区に属し公務所を宮城県庁構内に置く(中略)
 本郡は之を十五十六十七の三小区に分ち十五区十七区の区務所は吉岡駅に設く(中略)
 副を改めて戸長代理と稱す 其下に筆生一名を置く
  小十五區 宮床 小野 一ノ関 二ノ関 三ノ関 下草 高田 志戸田 富谷 穀田 明石 成田 大童 石積 大亀 山田 小鶴沢 太田 幕柳 今泉 鳥羽〔屋〕 北目大崎 大平
   戸長 千坂利四郎 小十七区の戸長をも兼務  千坂雄五郎 千坂利四郎退職後戸長となる(中略)〔この第二大区・三小区制で、現今の「鶴巣」を構成する8村が初めて同一区に顔を並べた〕
  小十七區 吉田 今村 大衡 大瓜 駒場 奧田 大森 蒜袋 松坂 相川 舞野 桧和田(中略)
  小十六區 報恩寺 三ヶ内 石原 大松沢 粕川 土橋 鶉崎 中村 成田 川内 味明(中略)
 戸長の外各村には村扱更に其下に村扱補なるものを新設し以て事務の取扱を敏ならしむることに努められたるなり

北目大崎大平土橋鶉崎村/一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村/幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村(黒川加美郡役所)
 次ぎて仝十一[1878]年三月に至り再び黒川加美郡を合し黒川加美郡役所を吉岡駅元の区務所跡に置き
 従来の区長を改めて郡長と云ふ 大立目克譛郡長心得として就任す之を本郡初代の郡長となす
 十一月行政の便宜に依り其各部落或は合併し或は分離し其変革一ならず 従来の村名を存用し以て何村戸長と稱するに至る
 即ち左の如し〔全15村〕
  富谷小野村(中略)
  宮床村(中略)
  北目大崎大平土橋鶉崎村      戸長 高橋運治
  高田舞野蒜袋奧田村(中略)
  桧和田相川村(中略)
  三ヶ内報恩寺松坂大森駒場村(中略)
  吉田村(中略)
  大衡大瓜村(中略)
  今村(中略)
  一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草村  戸長 早坂忠四郎
  幕柳鳥屋太田山田小鶴沢東成田村  戸長 今野栄八 〔ここで、「鶴巣」8村は再び三分裂した。〕
  今泉大童大亀明石西成田穀田石積村(中略)
  羽生中村〔村〕(中略)
  川内山崎味明不来内村(中略)
  大松沢粕川石原村(中略)

北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕/鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕/東成田今泉幕柳大童村/富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕
 明治十四[1881]年四月更に区域の変更ありたれども一小部分の併合に止まりしなり左に其一班を挙ぐべし〔全13村〕
  北目大崎大平土橋鶉崎桧和田〔村〕         戸長 高橋運治─千坂雄五郎
  舞野高田相川蒜袋奧田〔村〕(中略)
  鳥〔屋〕太田山田小鶴沢大亀明石石積西成田〔村〕  戸長 佐々木久四郎
  東成田今泉幕柳大童村               戸長 白石利章─遠藤源之助
  富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸下草〔村〕     戸長 佐々木久四郎
  吉田〔村〕(中略)
  今村(中略)
  宮床小野〔村〕(中略)
  駒場大森松坂報恩寺三ヶ内〔村〕(中略)
  大衡大瓜〔村〕(中略)
  粕川石原羽生〔村〕(中略)
  大松沢村(中略)
  川内山崎味明不来内〔村〕(中略)
 当時の村長は之を公選となす而して其詰所を稱して戸長役場と云ふ 従来の戸長自宅における執務は一切之を廃止せらるる

今泉外十二ヶ村/富谷外六ヶ村
 仝十七[1884]年に至り官選戸長となり其行政区画も亦一変せり 左に之を揚ぐ〔全9村〕
  宮床小野を合して宮床一ヶ村(中略)
  今泉大童西成田明石石積山田小鶴沢太田幕柳鳥屋北目大崎大亀大平を合して今泉外十二ヶ村  戸長 青砥七之助(中略)〔現今の「鶴巣」を構成する8村の内、下草を除く7村が同一区に入った〕
  今村(中略)
  吉田村(中略)
  富谷穀田一ノ関二ノ関三ノ関志戸田下草を合して富谷外六ヶ村戸長 橋本顕徳(中略)
  相川舞野高田蒜袋松坂三ヶ内桧和田報恩寺を合して相川外七ヶ村(中略)
  羽生山崎味明不来内土橋鶉崎川内東成田中村を合して中村外八ヶ村(中略)
  大松沢粕川石原を合して大松沢外二ヶ村(中略)
  大衡大瓜奧田駒場大森を合して大衡外四ヶ村(中略)


第二節 鶴巣村の成立(一町九ヶ村)
 明治二十一[1888]年四月市町村制を発布せられ 翌[1889]年四月一日を以て之が実施をなし 町村長助役を公選し収入役は之を町村長の推薦となしたり 是に於て地方自治の機関完成するに至れり 其区画及び歴代の町村長左の如し〔一町九ヶ村〕
  吉岡町 従来の今村を改めて之を稱す 役場所在地町裏
   町長 吉田潤吉 畑谷嘉兵衛 奥野七次郎 阿部忠藏 奥野七次郎 小幡榮之助 吉田勝治 吉田潤平
  大衡村 従来の大衡大瓜奥田大森駒場の五村を合併して之を稱す 役場所在地大衡
   村長 菅野英吉 工藤利四郎 早坂運之丞 鈴木政吉 須藤捨吉
  吉田村 従来の吉田高田の二ヶ村を合して之を稱す 役場所在地吉田
   村長 佐藤勘吉 伊藤彌太夫 堀籠半兵衛
   職務管掌黒川郡書記 文屋元藏 伊藤彌三郎
  宮床村 従来の宮床小野二ヶ村を合して之を稱す 役場所在地宮床
   村長 赤坂一學 伊達宗廣 渡邊學而 青木源七郎
  富谷村 従来の富谷一ノ関二ノ関三ノ関志戸田西成田穀田石積大童今泉明石を合併して之を稱す 役場所在地富谷
   村長 山本良盛 佐々木久四郎 内ヶ崎儀左衛門 安藤林左衛門 奈良坂權六 高平久吉
  落合村 従来の舞野蒜袋相川桧和田報恩寺三ヶ内松坂の七ヶ村を合併して之を稱す 役場所在地相川
   村長 松坂幸藏 佐藤惣三郎 相澤榮五郎 櫻井叉藏 安海長吉 文屋元藏 高平京吉
  鶴巣村 従来の山田小鶴沢太田鳥屋幕柳北目大崎大平下草今〔八ヶ〕村を合併して之を稱す 役場所在地北目大崎
   村長 千坂雄五郎 石川寿得治 平渡高良 鶴田直次 千坂雄五郎 平渡高良 石川寿得治 小沢秀永
  大松澤〔村〕 従来の大松澤一ヶ村 役場所在地上町
   村長 高橋仲之 千坂萬五郎 石川勘治 伊藤俊長 平井慶藏 宮澤實周 千葉直人 石川勘治
  大谷村 従来の羽生山崎味明不来内川内土橋鶉崎東成田中村の八〔九〕ヶ村を合併して之を稱す 役場所在地粕川村粕川〔中村?〕
   村長 岡好典 櫻井重雄 岡好典 菊地廣信 櫻井忠右衛門 櫻井重雄
  粕川村 従来の粕川石原の二ヶ村を併合して之を稱す 役場所在地粕川
   村長 伊藤秀治 赤間新藏 後藤保治 芳賀昌治 伊藤直次郎 後藤榮治郎 伊藤直次郎 櫻井民治」(『黒川郡誌』)
 叙上の、維新以来20余年間の、先進的ではあるがまさに複雑怪奇/スッタモンダとしか言い様のない紆余曲折(薩長藩閥政策の然らしむるところ)を経て、ようやくにして今日につながる「鶴巣村」が誕生し、ここに我が「鶴巣」のくくり、領域、概念が定まった訳である。
 なお、新生「一町九ヶ村」のほとんどが旧中心町村名を冠する中、「鶴巣」と「落合」の2村のみは、まったく新しく村名を興して発足するに至った。

宜しくつるのす村と云ふべきなり
 地政学上これを要するに、一貫して連合していた吉田川本流域歴史文化圏「駅家〔うまや〕郷」西川域の北目大崎、大平両村を中核として、これに西川・小西川流域歴史文化圏「南迫」の鳥屋及び幕柳、太田、山田、小鶴沢(南四区)を接ぎ合わせ、締めにいかにも唐突に、歴史・文化的に西川圏の中核(富谷)に近縁で、竹林・宮床川流域歴史文化圏「新田〔にうた〕郷」の入口(一二三ノ関・志戸田)を扼する、本流圏竹林・宮床川域の下草を接ぎ併せて、三川歴史文化圏の狭間に政治的に産み落とされた、きわめて人工的なモザイク状の構図と解せよう。
 なにはともあれ、一二三ノ関・志戸田・富谷域の歴史的中心、鶴巣館・下草の破調の会盟あってこその「鶴巣村」の誕生であり、少なくとも仮に下草の合同なかりせば、この地に旧「鶴巣村(ツルノス村)」の誇らしき呼称が生まれることはなかったのである。
 「町村制実施に際し北目大崎外七ヶ村を合併して鶴巣(ツルノス)村と稱したり。蓋し観蹟聞老誌に載する鶴巣城より取れるなり。
  世俗つるす村と呼ぶは誤なり。宜しくつるのす村と云ふべきなり」(『黒川郡誌』)
と、早くも1924[大正13]年『黒川郡誌』編纂者は警鐘を発している。
 が、豈(あに)図らんや、今どき由緒正しく”ツルノス村”と呼ぶ者は、絶えて無い!立村約130年を経て幾ばくかの歴史と伝統を持つに至った今日としては、それなりに定着してしまった、と言わざるを得まい!


第三節 郡制
 「郡制(ぐんせい、明治32[1899]年3月16日法律第65号)は、日本における府県と町村との間に位置する郡を地方自治体として定めた制度であり、また、その制度を規定した法律。明治期から大正期にかけて実施された。最初の法律は、1890年(明治23年)5月17日に公布され(明治23[1890]年5月17日法律第36号)、後に全部改正された。
 1878年(明治11年)7月22日に制定された郡区町村編制法により、それまでの大区小区制が廃止されたことで復活した旧来の郡は、同法により行政区画として扱われ、郡役所郡長(官選)が置かれた。この郡に、府県で処理するには小さく、町村で処理するには大きい事務を処理させるため、両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を付与したのが法律としての『郡制』である。
 自治団体としての郡には理事機関として郡長が、議決機関として郡会郡参事会が設けられ、郡会議員は3分の2が各町村議会の互選、残りの3分の1が所有している土地の地価が1万円以上の大地主の互選とされ(法改正後は直接選挙による選出に変更)、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員(名誉職)により構成された。郡は内務大臣・府県知事の監督下にあり、郡長は独自の課税権を持たないなど、同法下での郡はあくまでも国・府県の出先機関として町村の戸長を通じて中央の行政命令を下達する機関に過ぎなかった。また、郡制施行と同時に計画されていた郡の分置廃合への反対が強かったため、全国で郡制が施行されたのは1899年(明治32年)3月16日に郡制が全部改正(明治32年3月16日法律第65号)されてからであった。
 しかし、郡制の存在は行政の煩雑化をもたらすだけで自治団体の実績に乏しいとして、(中略)1921年(大正10年)4月12日に「郡制廃止ニ関スル法律案」が可決された。これによって1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、郡長および郡役所は残務処理のため1926年(大正15年)7月1日まで存置された。この制度の廃止以後、郡は単なる地理的名称として残ることとなった。
 なお、戦時中の1942年(昭和15年)には、内務省告示によって、北海道以外の全ての府県に、府県の出先機関として地方事務所が設置され、原則これを郡を単位にして設置したため、郡制ではないが事実上郡役所が復活した形となっており、2015年現在も日本の各地には減少傾向ながらも郡制の名残が見受けられる。」(Wikipedia「郡制」

黒川郡役所/郡長
 「明治二十三[1890]年五月郡制の発布あり 仝廿七[1894]年四月を以て黒川郡は加美郡と分離し吉岡町に黒川郡役所を置き本郡を統括せり 時の黒川加美郡長大立目謙吾は加美郡長となり但木良次出でゝ黒川郡長となる
 明治十一[1878]年より大正十一[1922]年に至る郡長の歴左の如し
郡長心得郡書記 大立目克譛(中略)
郡長 高木惟矩(中略)
   橘良次(但木と改姓す) 明治十三[1870]年十一月六日任官仝廿二[1889]年十一月二十六日非職
   竹内寿貞(中略)
   大童信太夫 明治廿四[1891]年七月三日任官仝廿五[1892]年十一月四日宮城郡長に転任
   大音〔立目〕謙吾(中略)
   但木良次 明治廿七[1894]年四月一日任官仝卅七[1904]年十二月廿三日休職
   武市郎(中略) 安藤房太郎(中略) 伊藤近春(中略) 石崎寅吉(中略) 松木親則(中略) 森田専七郎(中略) 谷口喜藤太(中略) 佐藤真平(中略)

郡会
 明治廿七[1894]年四月に至り町村選挙の郡会議員地主会選挙の郡会議員を選挙し仝年五月十五日始〔初〕めて黒川郡会を開く(中略)
 大正十三[1924]年三月卅一日限を以て郡制廃止となる
 今当初よりの郡会議員を挙ぐれば左の如し(中略)
 明治二七[1894]年四月        鶴巣村 郡参事会員 平渡高良(中略)
 明治三十[1897]年四月        鶴巣村 参事会員  鶴田直次(中略)
 明治卅二[1899]年九月卅日      鶴巣村       千坂雄五郎
 仝                 鶴巣村 参事会員  平渡高良(中略)
 明治卅六[1903]年九月卅日      鶴巣村       佐藤養吉
 仝                 鶴巣村 参事会員  千坂雄五郎(中略)
 明治四十[1907]年九月三十日     鶴巣村 参事会員  高橋久治
 仝                 鶴巣村       石川寿得治(中略)
 明治四十四[1911]年九月卅日     鶴巣村       高橋久作
 仝                 鶴巣村       沼田重次郎(中略)
 大正四[1915]年九月卅日       鶴巣村       郷古善四郎(中略)
 大正五[1916]年四月二日(補欠)   鶴巣村       熊谷常治(中略)
 大正十一[1915]年四月        鶴巣村 参事会員  熊谷常吉
 仝九月一日死亡           仝         千坂忠之助(中略)
 大正十一[1915]年十一月廿日(補欠) 鶴巣村 参事会員  鶴田癸巳


第四節 村会・県会・国会
 是より先明治十二[1879]年を以て村会を開きたり各村其議員数を異にすと雖ども大抵は十名多くは十五名にして議長は其議員中より互選を以て之を定むることとなしたり(中略)仝十七[1884]年に至り官選戸長制度に伴ひ村会の議員数も減ぜられて五名となり議長は戸長を以て之に充て村会の権限も大に縮小せられたり
 かくて明治二十二[1889]年市町村の実施に伴ひ町村会の権限定められ本郡各町村議員数は十二名にして其議長は村長を以て之に充当す(中略)大正二[1913]年の改正を経て(中略)而して町村会は円満に継続せられ以て今日に至れり
 明治十二[1879]年始〔初〕めて宮城県会を開く(中略)本郡選出の議員を挙ぐれば左の如し(中略)
  千坂利四郎 千坂雄五郎(中略)
 明治二十三[1890]年国会開設せらるるや衆議院議員選挙区域は本県を分ちて六区となす而して黒川加美志田玉造遠田の五郡を合して第三区に属せり(中略)仝三十五(1902)年(中略)大選挙区となり本県一円を以て一区域となす 大正八[1919]年(中略)亦小選挙区となり黒川加美志田遠田の四郡を合して第四区となす 然れども今や時勢の推移に伴ひ普通選挙の高揚を見るに至れり」(『黒川郡誌』)

歴代鶴巣村長
 因みに、改めて『大和町史』から歴代鶴巣村長を書き留めると、
 初代 千坂雄五郎  〔大平上〕 明治22(1889).4-23(1890).9.26(同期千坂雄悦君の高祖父)
 二代 石川寿得治  〔北 目〕   23(1890).9.25-38(1905).10.27
 三代 平渡高良   〔下 草〕   38(1905).12.1-38(1905).12.7
 四代 鶴田直次   〔大平中〕   39(1906).1.15-39(1906).10.10
 五代 千坂雄五郎  〔大平上〕   39(1906).10.15-43(1910).10.10(同期千坂雄悦君の高祖父)
 六代 平渡高良   〔下 草)   43(1910).10.26-大正02(1913).2.24
 七代 石川寿得治  〔北 目〕 大正2(1913).4.3-10(1921).3.30
 八代 小沢秀永   〔大平下〕   10(1921).4.14-昭和4(1929).4.10
 九代 郷古善四郎  〔鳥 屋〕 昭和4(1929).4.16-7(1932).12.3
 十代 高橋久左衛門 〔下 草〕   7(1932).12.7-11(1936).12.6(同期・故高橋広志君の伯父)
十一代 鶴田癸巳   〔大平中〕   11(1936).12.7-21(1946).11.25
十二代 高橋多利治  〔下 草〕   21(1946).12.10-22(1947).4.5(同期高橋洋一君の祖父)
十三代 佐藤彦太郎  〔山 田〕   22(1947).4.6-30(1955).4.19
 これによって当時の鶴巣村政界地図を俯瞰すると、重心はやはり下草、次いで大平にあり、今日の中心部落大崎をはじめ砂金沢、幕柳、太田、小鶴沢は歴代村長を輩出していない。

五町村段階合併
 1953年10月「町村合併促進法施行後、黒川郡内では、全町村によって構成された黒川郡地方町村合併促進協議会を設立して、町村合併に関する調査研究を進めていた。この間、吉岡町・落合村・吉田村・大衡村の四町村、宮床村・富谷村・鶴巣村の三村ならびに粕川村・大谷村・大松沢村の三村を、それぞれブロックとする県合併試案が発表された。(中略)
 昭和二十九[1954]年七月、まず大郷村が発足した。残った七町村のうち、吉岡・吉田・宮床・落合・鶴巣の五町村は、県案の二ッブロックを合した大規模合併を提唱するにいたった。これに対して、富谷村は、県案による富谷・鶴巣・宮床の三村合併を主張して譲らなかった。また、大衡村は、時期尚早ないし独立可能の理由で、合併に賛意を表しなかった。
 吉岡町他四ヶ村は、議会議員の選挙を間近に控え、これ以上合併の遅延することを好まなかった。そこで、やむを得ず、合併後二町村が参加することを期待して、昭和三十年(一九五五)三月十四日、関係町村いっせいに町村合併の議決を了し、段階合併として新発足することになったのである。」(『黒川郡誌』)




第二章 鶴巣小学校/中学校・黒川郡教育の成立ち



第一節 維新前の教育一班

寺子屋
 「維新前に於ける教育の不完全なりしは独本郡のみに止まらず先ず本郡状況の一班を述ぶれば藩士医者修験僧侶等の読書筆蹟を能する者村内近隣の子弟を教育したるものにして世俗之を稱して寺子屋といふ而してその教ふる所は所謂読み書きにして算道は別に教師ありて之を教授せり蓋し本藩にありては武士にして算道を善くするものは却て之を軽蔑するの悪習ありしなり習字は其最も力を注ぎたる所にしで〔て〕其手本は則ち教師の直筆を用ひ多くは読み書き共同の教科書たりしなり 農工商家の子弟は自然士家の子弟と其教科書を異にせるの観あり前者にありては米豆状農家手習状近道子宝実語教童子教無覚悟状商家往来百姓往来梶原状腰越状楠状北条記庭訓往来日本国尽にして又特別に千字文を教ふるものあり後者は大学中庸論語孟子小学易詩経書経礼記春秋史記左伝近思録文選女子は女大学女庭訓女中庸等を常とす又武士の子弟は進で藩校養賢堂に入学したるもの少からず其設備たるや板の間に呉座を敷き子弟各机を列べ文庫箱を備へ所謂家庭的のものたりしなり(中略)
 而して子弟の情誼甚親密にして教師を尊崇すること単に子弟に止らず父兄も亦尊崇大だ至れり教師は実に郷党の木鐸を以て目せられ苟も子弟の退学したるものに於ても時節に訪問して謝意を表し又同門相謀りて其徳を頌する等至らざる所なし今所々に筆塚の存するもの其一端をうかがうべきなり(中略)

郷学
 宮床村は素と伊達氏の一門にして其祖宗房文学を好み和歌を善くし其子村興又文武に熟達し深く教育に志せり家臣又文学兵法に通じたるもの少からず赤坂景通の如き其著す書目一流の宗たるを失はず又当時君臣雅会を催して詩歌を作りしもの今尚存せり然れども其教育に関する氏名の伝はらざりしは甚だ恨となす所なり 後島津玄通兄弟の如き服部南郭と友とし好し天保の頃に至り渡辺養斉木村五郎左衛門等専ら子弟を教育せしが宗賢特に意を文教に用ひ松井梅屋父子香味竹窓を聘し儒臣君ケ袋貞吉宍戸広吉等に命して私学を興し以て子弟を教養せしむ
 吉岡に於いても杉浦助右衛門あり後但木土佐大に見る所あり大槻磐渓を聘し又梅津月橋佐藤大作父子等を招き子弟の教育に勉めたり又畑谷太右衛門伊藤兵治其他諸寺の僧侶等之に従ひ隣里来り学ぶ者多し
 西成田には藩士鈴木国蔵大瓜村にては菅野辰定等父子世々郷党子弟の教育に尽力せり又北目大崎にては八谷〔蜂谷〕雄右衛門〔鶴巣中学校初代校長蜂谷善右衛門の祖先だろう〕及大善院吉田村には早坂長松あり大松沢村には飯淵某世々これに当る大谷郷にては味明村に久保弁之助沢口源太夫菊地忠羽生村に熊耳半三郎稲葉三右衛門等あり以て近隣子弟を教育せり」(『黒川郡誌』)。

君ヶ袋貞太郎
 「君ヶ袋貞太郎 宮床村の人天保十三[1842]年三月を以て生る父〔上記〕貞吉仙台藩の一門伊達宗賢の儒臣たり安政四[1858]年七月仙台藩学川内小学所に入り四書五経の句読を修め又兼ぬて藩士浅井七十郎に就き甲州流兵学を学ぶ万延元[1860]年藩学養賢堂学頭大槻格次の塾に寓居し養賢堂に於て経義を講習し永〔文〕久三[1863]年九月退学慶応元[1865]年二月旧主宗弘文学の相手役となり兼ねて家塾を開き郷閭〔りょ〕の子弟を集め読書習字を教授す
 明治五[1882]年帰農廃役六[1883]年八月宮床小学校創立に際し門生を小学校に移し家塾を閉ず七[1884]年十月仮教師拝命八[1885]年七月第七大学区宮城県伝習学校に入り仝年十月下等小学校師範学校科卒業十一月小学校一等権訓導拝命宮床小学校在勤十[1887]年一月再び伝習学校に入学偶々西南の役起る仝年三月警視局四等巡査心得拝命従軍す乱平ぎ帰郷警視局総裁より賞金下賜十月一等権訓導拝命宮床小学校在勤仝十一[1888]年七月宮城師範学校に入り十二[1889]年七月卒業附属小学校教員を経て十月宮床小学校訓導に任ず十三[1890]年宮城県教育会委員となり十五[1892]年十月高等小学校師範科卒業証書附与十六[1893]年二月宮床小学校兼三等訓導に任ぜらる仝年十一月教育上勤労不斟廉を以て四等賞として康熙字典併に硯箱を文部省より下賜せられ宮床小学校も亦三等賞を受く十八[1895]年八月二等訓導に進み廿[1897]年四月宮床尋常小学校校長兼訓導に任ぜられ爾後勤続三十四[1901]年十月卅一日病て以て依願退職となる
 先生郷閭の教育に貢献したること前後通して実に三十五年勲績洵〔まこと〕に大なり所謂郷先生以て社に祀るべし明治卅六[1903]年十一月九日病没す享年六十有二」(『黒川郡誌』)。

支倉清成
 既述のとおり、「〔支倉〕常長9世の支倉清成は、仙台藩士であり、明治維新で禄を失い、生活の糧を得るため、仙台から現大郷町川内安戸に住み、寺子屋を営み松島や仙台方面から幅広く子弟教育し、「支倉先生」と敬称され、本人は仙台に戻らず、地元の女性と暮らし養子を迎え、安戸にて生涯を閉じられました。」(桂蔵寺WS「川内支倉氏と支倉常信について」

第二節 鶴巣小学校(山田分教場)・黒川郡小学校の成立ち
 「明治五[1872]年七月太政官学制を頒布し全国を分ちて七大学区となし更に宮城県を三中学区二百三十一小学区に分ち人口六百を以て一小学区となしたりしが 本郡は第一中学区に編入せられ毎小学区各一小学校を設立することゝなりたり
 左に教育状況を編年体に記述すべし

北目大崎小学校(一本木小学校・小鶴沢小学校)/富谷小学校/西成田小学校
 明治六[1873]年宮床 富谷 西成田 北目大崎 中村 山崎 粕川 大松沢 大衡 相川 今村〔吉岡〕吉田の各村に各一小学校〔宮床小学校、富谷小学校[富谷・今泉・大童・三ノ関・下草]、西成田小学校[穀田・成田・明石・石積・大亀・山田・太田・幕柳・小鶴沢]、〔第一中学区四十五番〕北目大崎小学校[桧和田・北目大崎・鳥屋・大平]、中村小学校、山崎小学校、粕川小学校、大松沢小学校、大衡小学校、相川小学校、今村小学校吉田小学校〕を創設し 小野村及宮床村字難波に宮床小学校の〔小野支校、難波〕支校を置く 仮教師を置き多くは寺院〔大崎山智光院〕を以て校舎に充当し 読書習字算術の三教科目を授く
 仝七[1874]年味明村川内村に各山崎小学校の〔味明支校、川内〕支校 舞野村に吉岡小学校の〔舞野〕支校 大瓜村に大衡小学校の〔大瓜〕支校 松坂村に松坂小学校 報恩寺村に報恩寺小学校を設く」(『黒川郡誌』)
「仝八[1875]年八月新築」(『黒川郡誌』)
「仝九[1876]年中村小学校を廃止して鶉崎小学校を設く
 仝十一[1878]年鶉崎小学校を廃し 大平村に一本木小学校〔大平〕 中村に中村小学校 小鶴沢村に小鶴沢小学校〔幕柳・鳥屋・太田・山田・小鶴沢・東成田〕 羽生村に羽生小学校をを設け 吉田村嘉大神に吉田小学校の〔嘉大神〕支校 大衡村字針に大衡小学校の〔針〕支校を置く
 仝十二[1879]年新に教育令を発布し小学区の制を廃せらる 此年三の関小学校〔一ノ関・二ノ関・三ノ関・志戸田・下草〕を置く
 仝十三[1880]年教育令を改正して正科略科の二科となす 是に於て読書問答書取算術習字体操図画簿記法等を課す
 今泉村に今泉小学校〔東成田・今泉・幕柳・大童〕を設け 舞野支校を舞野小学校とし 高田奧田に〔高田支校、奧田〕支校を置く
 仝十四[1881]年報恩寺小学校を新築し 松坂小学校を廃す 一本木小学校を北目大崎小学校の〔一本木〕支校となす
 仝十五[1882]年奧田支校を大衡小学校に属せしむ 五月教則の変更あり初等中等高等に分つ」(『黒川郡誌』)
「明治16[1883]年 ●一本木支校一本木初等小学校となる(大和町立鶴巣小学校創立百二十周年記念事業実行委員会「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」1993)
「仝十七[1884]年(八月)学校の資格を定められ吉岡小学校を高等科とし其他は中等科とす
 是に於て初等科には修身読方作文習字算術の初歩唱歌体操 中等科には初等科の続きに地理歴史図画博物物理の初歩を加へ女児の為には裁縫を加へ 高等科には中等科の続きに化学生理幾何経済の初歩加え特に女児の為には経済に更ふるに家事経済の初歩を加へたり
 仝十八[1885]年学区を拡張して本郡を吉岡北目大崎の両学区に分ち吉岡小学校の外に北目大崎小学校に高等科を置きたるも仝年八年〔月〕北目大崎学区を廃して吉岡学区に併合し其高等科を廃止せり
 仝十九[1886]年山崎小学校を羽生村に移転して之を羽生小学校と稱し 更に味明川内の〔味明支校、川内〕支校を存置す
 四月小学令を改められ高等尋常の二種となし其終業年限を各四ヶ年となし土地の状況により温〔補〕習科を置くことを得るに至る
 此年北目大崎小学校に属する一本木支校〔初等小学校〕廃せられ 今泉小学校を北目大崎小学校の分校〔今泉分教場〕となす

北目大崎尋常小学校
 仝二十[1887]年一月指定せられて吉岡小学校は高等尋常併置となり其他は悉く尋常科〔北目大崎尋常小学校〕となる
 是に於て尋常小学校にては修身読方作文習字算術体操を授け土地の状況により図画唱歌の一科苦〔若〕くは二科を加へ 高等科にては修身読方作文習字算術地理歴史理科図画唱歌裁縫(女児)を授け土地の状況により特に英語を課したり
 此年三ノ関小学校を廃して富谷小学校の分校〔三ノ関分教場〕となす
 仝二十二[1889]年報恩寺小学校を改めて落合小学校となし 相川舞野両小学校を廃して其〔相川分教場舞野〕分教場となし 大森小学校を廃して大衡小学校の〔大森〕分教場とし 三ノ関分教場を廃す

鶴巣村立鶴巣小学校/太田・山田分教場
 此年町村制実施〔鶴巣村立鶴巣小学校〕に伴ひ今泉は富谷村に属せしを以て鶴巣村太田に太田分教場〔山田・太田・小鶴沢〕を設けたりしが
 廿五[1892]年に至り仝仮校舎たる慈雲寺焼失の為山田区に移転したに依り〔普門院を仮校舎にし、〕山田分教場と稱す 同時に今泉分教場廃止となる
 仝二十三[1890]年新に小学校令を発布せられ小学校を尋常小学校高等小学校の二とし更に補習科を置くことを得(中略)
 仝年六月十三日吉岡尋常小学校に御真影を下賜せられ 仝十一月十三日各校に教育勅語謄本を下賜せらる

鶴巣尋常小学校(下草・大平分教場)
 仝廿五[1892]年四月小学校令実施 吉岡小学校は尋常高等を併置し其他は尋常小学校〔鶴巣尋常小学校〕となる
 七月舞野相川の二分教場各独立して〔舞野尋常小学校、相川〕尋常小学校となる
 尋常小学校に於て修身読書作文習字算術体操及び裁縫(女児)図画唱歌を授け 高等小学校に於ては修身読書作文習字日本地理日本歴史外国地理理科図画唱歌体操裁縫(女児)を授けたり
 此年十二月二十四日各尋常小学校は復〔複〕写御真影を拝戴す」(『黒川郡誌』)
「明治28[1895]年 ●新校舎を北目大崎字岸に選定、新築移転」(『飛鶴』)
 これより前下草分教場並びに大平分教場を設けていたが、
「仝二十九[1896]年九月二十四日下草大平両分教場廃止

鶴巣尋常高等小学校
 並に高等科併置認可〔鶴巣尋常高等小学校〕」(『黒川郡誌』)、「●旧校舎消失」(『飛鶴』)
「仝三十[1897]年三月羽生中村両小学校廃止 大谷尋常高等小学校を設け 川内〔分教場、〕中村〔分教場、〕味明分教場を置く」(『黒川郡誌』)
「仝三十[1897]年八月山田分教場新築」(『飛鶴』)
「仝卅三[1900]年八月小学校令の改正あり 尋いて四十[1907]年三月一部改正となり尋常小学校の修業年限を六ヶ年に延長せり
 仝卅四[1901]年一月大森分教場は独立して〔大森〕尋常小学校となる
 仝四十一[1908]年九月舞野落合の二尋常小学校を廃して落合尋常高等小学校の分教場〔舞野分教場、報恩寺分教場〕となす 落合尋常高等小学校は相川尋常高等小学校の改稱なり」(『黒川郡誌』)
「明治42[1909]年 ●校舎増築」(『飛鶴』)
「仝四十四[1911]年吉岡女子実業補習学校を設置す
 大正[1913]二年吉田富谷落合粕川各小学校に実業補習学校を附置す
 仝〔大正〕四[1915]年十月廿七日各尋常高等小学校御真影を拝戴す
 同六[1917]年三月吉田尋常高等小学校に升沢分教場を設置す
 仝七[1918]年四月大衡尋常小学校に高等科を設置す
 仝七[1918]年四月宮床鶴巣〔鶴巣農業補修学校〕西成田の各小学校に農業補修学校を附設す
 同十[1921]年四月粕川尋常小学校に高等科を設置す
 大正十[1921]年鶴巣尋常高等小学校校舎一棟増築〔母の話では、近隣の児童からは、俗に”障子学校”と囃し立てられていた由である〕
 同十一[1922]年三月大衡農業補習学校を設置す」(『黒川郡誌』)
「大正11[1922]年 ●鶴田癸巳氏の寄附により奉安殿落成」(『飛鶴』)
「同十二[1923]年二月西成田尋常小学校に高等科を併置す」(『黒川郡誌』)
「大正13[1924]年 ●当校に電灯を取り付ける
 大正14[1925]年 ●校庭拡張
 昭和元[1926]年 ●青年訓練所開所式 ●入所式を行う
 昭和5[1930]年 ●新校舎竣工、移転式 ●校門建設
 昭和6[1931]年 ●国旗掲揚塔設置
 昭和7[1932]年 ●山田分教場舎落成
 昭和11[1936]年 ●二宮尊徳銅〔石〕像を設置
 昭和12[1937]年 ●大久保山を開墾、実習田〔畑?〕とする
 昭和13[1938]年 ●青年訓練所が鶴巣尋常高等小学校青年学校と改称

鶴巣国民学校
 昭和16[1941]年 ●国民学校と改称〔鶴巣国民学校〕
 昭和20[1945]年 ●護仙部隊通信隊本部として教室を貸与
 昭和21[1946]年 ●奉安殿を撤去
鶴巣村立鶴巣小学校
 昭和22[1947]年 ●〔鶴巣村立〕鶴巣小学校と改称
 昭和23[1948]年 ●父母教師会結成
大和町立鶴巣小学校
 昭和30[1955]年 ●町村合併により大和町立鶴巣小学校と改称
 昭和31[1956]年 ●現在地に移転〔曳き家移設〕 ●山田分校増築
 昭和33[1958]年 ●校歌制定
 昭和36[1961]年 ●校旗制定 ●プール完成 ●特殊学級認可
 昭和37[1962]年 ●山田分校簡易プール設置
 昭和38[1963]年 ●創立九十周年記念事業を行う
 昭和42[1967]年 ●給食共同調理場設置
 昭和48[1973]年 ●創立百周年記念事業を行う
 昭和49[1974]年 ●屋内体育館完成
 昭和50[1975]年 ●校木「しだれやなぎ」を制定
 昭和53[1978]年 ●新校舎落成 ●山田分校閉校
 平成5[1993]年 ●創立百二十周年記念事業を行う」(『飛鶴』)


第三節 沿革の大要及び及び校長・教員
 現今郡内に於て尋常小学校一 尋常高等小学校十一 分教場十三あり
 之を要するに学制発布以来学齢を調査し就学を奨励し特に学区制度施行の時に際しては生徒用机腰掛を始め教科書教具に至るまで一切之を官給となせるも女子の就学は之を男子に比すれば著しく少数なるを免れず是れ独り本郡のみに限れるにあらざるべしと雖ども誠に遺憾とする所なり(中略)
 本郡は地勢一方に僻在し加ふるに汽車の通過するなく従て通学の不便を免れず又郡民生活の豊富なるもの少く学資の供給豊ならざるを以て小学校より進んで中学校及其他中学程度の学校に入学するもの尠し況んや大学に進むものをや故に専門及び各種高等程度の学校卒業者の少きは又怪しむに足らざるなり
 而して学区制度時代より現今に至る迄の監督機関として初は学区取締を設く後学務委員となる後又督業を置く督業廃止学事係書記を置く明治二十八[1895]郡視学を設け現今に至る年(中略)
 左に大正十一[1922]年五月一日現在を以て各小学校につき沿革の大要及び校長の歴代を掲ぐ(中略)

鶴巣尋常高等小学校
 明治六[1873]年五月創立〔第一中学区〕四十五番北目大崎小学校と稱す
 仝八[1875]年八月新築 仝二十八[1895]年移転新築
 仝二十九[1896]年九月二十四日下草大平両分教場廃止並に高等科併置認可 仝三十[1897]年八月山田分教場新築
 仝四十二[1909]年十一月校舎一棟
 大正十[1921]年校舎一棟増築
 校長更迭左の如し
 日野丹吾 八谷影貞 横田貢 安久津成清 横田貢 志賀時熙 佐藤文之進 小野寺元貞 黒川勝三郎 阿部金一郎 佐藤文之進 八巻文彌 上野常三郎 〔堀籠與四郎〕 郷家勝三郎 玉城直彦 片平賢三郎 遠藤信太郎 田村庄吉」(『黒川郡誌』) 「田副軍治 武澤喬 青砥庄七 菅井燿七 米澤泰規 長田省耕 針生健治 蜂谷善助 佐々木仁圭 濱尾勲」(「創立百二十周年記念誌『飛鶴』」)

山田分教場(山田分校)
 「明治二十二[1889]年太田区慈雲寺に太田分教場設置 仝二十五[1892]年火災に罹りたるを以て山田区に移転校舎を設け普門院を仮校舎にし、〕山田分教場と改稱す 仝三十[1897]年八月新築せり」(『黒川郡誌』)。
「昭和7[1932]年 ●山田分教場舎落成
 昭和31[1956]年 ●山田分校増築
 昭和33[1958]年 ●山田分校簡易プール設置
 昭和53[1978]年 ●〔本校〕新校舎落成 ●山田分校閉校」(『飛鶴』)

代用教員
 「代用教員とは、戦前の小学校等に存在していた、教員資格を持たない教員のことである。 学制発布以来、小学校の教員は本来、師範学校で養成することとされていたが、師範学校卒業者数が十分でなかった他、それ以外の免許取得者を含め、戦前の学校現場では有資格者を十分確保できず、無資格者で代用することが多かった。こうした中で、1900年(明治33年)の小学校令改正において、従来授業生・雇教員などと呼ばれていた無資格教員による代用を正面から規定し、これ以降「代用教員」は法令の根拠のある教員区分となった。
 一般的には1900年以前の授業生・雇教員等についても、代用教員と呼ばれることがある他、小学校が国民学校に改められた1941年(昭和16年)以降、代用教員は「助教」となったが、これらの時期を含め、幅広く「代用教員」と呼ばれる。一方、 中等教育学校においても無資格教員が存在していたが、これらは代用教員とは呼ばれない。代用教員は1900年以降、戦前を通じて、全国の小学校教員の1 - 2割を占めていた。特に農村地域においては、師範学校卒業生が就職することが少なかった他、小規模の町村にとって小学校運営は財政的負担が大きかったことから、給料を抑えられる代用教員に依存していた面もある。
 代用教員の多くは旧制中学校・高等女学校、場合によっては高等小学校卒業者であり、上級学校に進学するための学資を得るために一時的に代用教員となった者もいるが、一旦代用教員になった上で、在職中に小学校教員検定を経て正規の教員免許を持つ教員になった者も多い。こうした検定による免許取得は、師範学校による養成と比肩する免許取得方法であった。初等教員総数のうち、師範学校卒業生は最も多い時期でも半数程度とされていることから、残る教員は代用教員か代用教員出身で検定により免許を取得した者である。
 1949年(昭和24年)に制定された教育職員免許法において、小学校等の教員は免許状を有する者でなければならないと定められたため、代用教員の存在根拠が失われたが、新制中学校成立に伴う小中学校有資格教員不足を背景に、従前の代用教員には臨時免許状が付与され、助教諭の身分が与えられた。一方で、新制大学教育学部において正規免許を持つ教員が安定的に養成されるまでの間、新制高校卒業生に対しても臨時免許状が付与され、小中学校教員(助教諭)として採用された。こうした臨時免許状が付与された現職の教員(助教諭)については、1950年(昭和25年)度から1961年(昭和36年)までの計画的な現職教育により、上位の免許状が付与され、正規の免許状を有する教員(教諭)となった。」(Wikipedia「代用教員」

郷土の教員
 当時村落の識字・知識階級は、士分の他はもっぱら神官・僧侶等であり、初期の学校教育はしぜん彼らに担われることになった。
 既に江戸時代に、上述のとおり、「北目大崎にては八谷〔蜂谷〕雄右衛門大善院(中略)等あり以て近隣子弟を教育せり」(『黒川郡誌』)。この八谷〔蜂谷〕雄右衛門の子孫が、戦後鶴巣中学校初代校長に就任した、北目の蜂谷善右衛門だろう。
 また、これも既述のとおり、当山派修験大宝院は「創立年代不詳善行院正永を以て開院となす
 爾後歴代明治維新に至り復職して〔黒川神社〕神官となり日野氏を冒す」(『黒川郡誌』)。「其時代の神官は本村祀官〔上記〕日野丹吾奉職中にして」(『黒川郡誌』)、「明治六[1873]年五月創立四十五番北目大崎〔鶴巣〕小学校」(『黒川郡誌』)初代校長を兼務した。下って、おそらくは孫にあたる日野薫宮司は私の母らの恩師であり、(あいにく鶴巣には勤務しなかったが、)嫡男日野敬一氏をはじめ児孫も多く教員を務めるなど、日野氏は鶴巣生え抜きの、典型的な神職・教育一家といえよう。
 戦後我々が教育を受けた頃でも、既述のとおり大崎智光院住職未亡人佐藤みやこ先生、鳥屋玉泉寺住職子息(玄二氏、教員)夫人長谷川孝先生(大平中出身、同期千葉裕子さん叔母)、三ノ関威徳寺住職児玉泰雄先生や落合相川明星院住職新谷昌也先生、
 さらには下述する中学校でも、鳥屋八幡神職藤倉龍海先生、北目玉昌寺住職千葉寛道先生(事務官)、大郷町粕川槽川寺住職三田村宏道先生、落合法恩寺姫宮神社神職竹澤辰男先生など目白押しであった。
 寺社関係者以外では、鳥屋の大友ひさゑ先生、大平上の千坂一郎先生・千葉八郎先生、大平中の浜尾勲教頭・鶴田武彦先生、大平下の鴇田隆夫教頭などが鶴巣出身の大先輩たちで、
 他に八島はぎの先生(北目・同期旧姓八島克子さんの義叔母)、笹川清敏先生(別所・澤田氏出自父の長男、私の父の従弟)、
 さらには本田昌子・栄子先生姉妹(吉岡)、堀籠重敏教頭(吉田)、瀬戸勇先生(大衡村)、佐藤譲吉先生・小林次郎先生・山田旭先生(大郷町)など多士済々である。

佐藤みやこ先生 小1~2は、”ミヤコシンシ”こと大崎のお寺の佐藤みやこ先生にご担任いただいた。師範学校出の熱心な先生で、入学時はかろうじてひらがなで名前が書けるだけだった野生児に、根気よく、熱心に「読み書き計算」を教えていただき、今日につながる学問・知性への扉を開いていただいたことは、感謝して余りある。
 「成績袋」と称して毎学年末テストや作文、図画をまとめて提出するのが決まりで、おかげで記録物を保存するという良い習慣ができ、何にも増して、幼時のなつかしい作品・記録の数々が今に残っていることが奇跡的にうれしい。
 生涯管理職に就くことなく、山田分校にも勤務されるなど、平教員で通されたと聞く。ごくごくたまにお訪ねすると、鳴かず飛ばずで期待外れの愛弟子を、昔ながらに鼓舞激励いただいたものである。

千坂一郎先生 「”イヅロシンシ”こと千坂一郎先生は大平上出身の大先輩で、私の父と鶴巣尋常高等小学校同級生(誕生日1日違いの親友だった)である。先生もまた師範学校出チャキチャキの熱血漢で、やんちゃな小3~4年を担任していただき、計り知れない薫陶を受けた。私の生涯に決定的な影響を及ぼされた、最も尊敬する「真の教師」である。
 徹底した合理主義者で、国語ローマ字化が持論だった。自らの一意専心なりふりかまわず、一心不乱ひたすら己の信ずる道を行く孤高の生きざま通して、因習や俗論、権威にとらわれず、万事自分の頭で考え行動し、物事の外象に惑わされずまっすぐに事象の核心をえぐり出し、総じて「曇りなき眼で真実を観る」よう、未だ幼い「鉄」を「熱いうちに打ち」鍛え上げ、身内奥深く刷り込んでいただいた。
 反面、郷土の先輩として地元の歴史や地政・文化・伝説の類を熱心に伝承され、俗界を離れた高遠な芸術・文化、遠大な歴史と無限の宇宙、人の目には見えない世界を指し示していただいた。
 毎年冬の「学芸会」では、地元風に脚色したこだわりのオリジナル劇が評判で、3年は『レ・ミゼラブル』のジャベール刑事役、4年は放送劇をアレンジした『三太の涙』(今も台本を持っている!)の三太役(花荻先生役は、6年の安藤冨美子先輩だった)を割り当てられ、その真に迫った演出指導が今も強く印象に残っている。
 古希になんなんとする今日改めて思い起こすと、先生の魂がいかに深く私を揺り動かし、独特の言行がどんなに深く私を薫陶し、私の北極星として今日まで導いてくれたかを、痛いほど思い知らされる。一介の田夫澤田亥兵衛は私の生父であり、伯父澤田金太郎は私の祖父代わりの名付け親であり、恩師千坂一郎先生は私の真の「精神的父」である。
 権威・権力・権益に媚びず、己の信念を貫徹して、生涯平教員で通され、晩年は未発達児童の教育にたずさわられたと聞く。卒業後はたまの書信のやりとりだけで、遺憾ながら生前お会いすることは稀だったが、たまに偶然お会いした時は相変わらずの意気軒昂で、いかにも嬉しげに喜んでいただいたことが忘れられない。
 こうして見ると、私の小学校の担任4先生は、奇しくも全員鶴巣出身あるいは在住またはゆかりの方々だったことに改めて思い知らされるとともに、特に初等教育最初の4年間に優れた郷土の先生に恵まれた僥倖は、まことに得難いことであった。

鶴巣小学校校歌
鶴巣小学校校歌  山本 正作詞/熊田為宏作曲
 ♪(一)輝くひとみ すこやかに 船形山に 雲映えて 鶴巣の郷の 朝ぼらけ 生命幸ある この郷の 空に明るい 雲は飛ぶ
  (二)たわまぬ力 いそしみに のび行く生命 たくましく 夢ゆたかなる 山や川 学びの道の 行き帰り みのりゆたかな 風そよぐ
  (三)若草香る 西川の 水清らなる 岸近く 学ぶ六年の 春と秋 七つの森の 空高く ひろいはるかな 夢を呼ぶ♪

 この校歌は、たしか私が小6の1958(昭和33)年に初めて作られたと記憶しているが、当初の歌詞はやや現行とは異なっていて、
 ♪(一)輝くひとみ すこやかに のび行く生命 たくましく 夢ゆたかなる 山や川 学びの道の 行き帰り みのりゆたかな 風そよぐ♪
のみだったと記憶している。固有名詞などは一切なく、後代に郷土の山川名を織り込んで改作されたものと思われる。


第四節 鶴巣中学校の創立と閉校
小学校共用校舎開校
 1947.4.5 6 ・3制実施による改造工事完了(小学校脇に)
   4.18 鶴巣村立鶴巣中学校開校 教員9名〔創立当初ほど、鶴巣・黒川郡出身・由縁者が多かった。〕 生徒249名
 蜂谷善右衛門 校長  1947-48,1956-58〔北目〕
 浜尾 勲   教頭  1947-55〔鶴巣大平中、同期故浜尾利彦君の父、後鶴巣小学校長〕
 佐藤みやこ  教諭  1947〔鶴巣大崎、智光院、佐藤徳芳博士母、48年以降小学校教諭〕
 鴇田隆夫   教諭  1947-48〔鶴巣大平下、同期旧姓鴇田保子さん父、後小学校教頭〕
 大友ひさゑ  指導員 1945-47〔鶴巣鳥屋、48年以降小学校勤務〕
 安藤 盛   業務員 1947-49〔北目、早坂きくゑ先生父、後小学校勤務〕
 安藤きくみ  業務員 1947-67〔北目、早坂きくゑ先生母〕
 「昭和22[1947]年4月、新学制実施により六・三制が始まりました。今まで小学校高等科2年で卒業していたのが、中学校3年までとなりました。その年の1年間は、高等2年卒業した人で、農学校に入った人は、そのまま農学校に在学、家事に従事したい人は、そのまま家で働き、あとの人たちは、中学3年生でした。中学3年に入らない人たちを、校長先生たちが『中学3年生に上げてください。』と勧めて歩いたのですが、『農家の長男だから。』と言って、3年生に上がらず、家事に従事した人もありました。(中略)
 その当時、中学校の教室は、小学校2階の南側5教室と、元、青年学校の割烹教室を中学3年女の教室とし、南昇降口を職員室に改造して使いました〔我々が入学した1953年も、校舎は南北一直線に東面していた。小3/4の1955/56年頃、校舎丸ごと引っ張る「曳き家」で現在の南面の場所に90°移動し、一時は桜の木の枝に黒板をかけた「青空教室」だった。〕。(中略)2階の3教室を講堂として使用しなければならなかったので、2階の4教室は、とても大変でした。」(大友ひさゑ「鶴巣中学校となった頃」『つるす』)
1948.3.31 鶴巣青年学校廃校となる
 鶴田武彦   教諭  1948-51,1970-79〔鶴巣大平中、鶴田癸巳村長長男〕
 藤倉龍海   教諭  1948-55〔鶴巣鳥屋、鳥屋八幡神職〕
 佐藤譲吉   教諭  1949-59、〔ジョウギヅシンシ〕落合相川〕
 千葉寛道   主事  1950-56,1958-64〔カンドシンシ、鶴巣北目、玉昌寺住職〕
1950.9.25 油絵一額寄贈 河北展河北賞受賞作品「暖日」 鹿又勘治氏(小鶴沢)〔鹿又勘太郎氏弟。誰もが目にする、階段校舎玄関ホール東壁に掲げられていた。〕
1951.7.12 鶴巣村父母教師会中学校独立校舎請願
 笹川清敏   教諭  1952-67〔落合相川、父は鶴巣別所澤田氏出身(私の大叔父)、母は相川出身〕
 加藤孝一   教諭  1952-60〔落合相川に山荘を営む〕
1952.7.23 駐留軍ブルドーザーにより校地整備開始
  11.16 鶴巣中学校校舎上棟式
 「当時は中学校校舎の建設期にあり、通学路整備などの作業に動員されたものである。山地の整備が難事であり、仙台に当時駐留していた米軍に整地への協力要請のため、校長先生に同行させられたことが記憶に残っている。昭和28[1953]年4月から新校舎で授業が始まったわけで、小生等が小学校同居校舎での最後の卒業生である。ただし、卒業式だけは新校舎で行われた。(中略)
 懐かしい個性豊かな先生方の中で、藤倉先生は特別な存在であった。情熱のほとばしりが、時には厳しい怒りになり、平手で殴られる生徒が3メートル程飛ばされることもあった。この怒りには思いやりと親しみがあり、その効果は抜群であった。
 先生には、卒業後も、逝去されるまで親しく教えをたまわった。先生退職後間もない頃、先生ご夫妻をヨーロッパに案内する機会に恵まれた。ライン川沿いを長時間走る列車からの景色を愛でながら味わった先生好みの美酒の味と、ボン市庁舎前の庭園でご夫妻がリラックして行った真向法の体操などが忘れられない。」(6期佐藤徳芳「思い出すままに」鶴巣中学校編集発行「閉校記念誌『鶴中』」,2007)

階段校舎
 千葉八郎   教諭  1953-60〔ハヅロシンシ、鶴巣大平上百目木出身、江田島海軍兵学校卒業、「チバハチロー」の筆名で「河北川柳」の常連だった。〕
1953.5.15 鶴巣中学校校舎落成式
   6.28 鶴巣中学校校歌寄贈 鶴巣中学校父母教師会
 「先輩の佐々木周行さん〔大平上、同期佐々木工君の兄〕が短距離で、熊本国体に出場し、又〔上記〕現在の東北大教授の先輩〔6期佐藤徳芳〕など優秀な人材が数多く鶴中の誇りでした。」(7期門間武彦「半世紀を振り返って」『つるす』)
1955.4.20 町村合併により大和町立鶴巣中学校と校名変更〔当時小3で、日の丸を振って、学校から各部落まで行進したものである。〕
 三田村宏道  教諭  1956-69〔大郷町粕川槽川寺住職〕
 「あの板廊下をバタバタ…と高い足音で歩いていた音楽の永井先生、(中略)野バラの名曲を時折美声で聞かせてくれた譲吉先生、腹をポンポンと叩いて『今日は月給日だぞ、ビールも飲めるぞ!』と冗談混ざりでいつもにこにこしていた加藤孝一先生、ニワトリや馬をさらりと絵にした笹川先生、プロレスごっこが好きだった英語の小松先生、鉄棒が得意だった寛道先生、そして当時教頭先生だった『日吉丸』の浜尾先生、教科書を離れての歴史の時間等教室に入るやみんなでアンコールしたものである。(中略)吉岡在住の八郎先生等兄貴のようなおやじのような存在で今考えると人生岐路の第一の節目を作ってくれた様な気がしてならない。」(10期遠藤勝彦「あの名水は何処に」『つるす』)
1958.6.28 屋体落成式〔当時小6で、かまぼこ型の建設の様子がよく見えた。〕
 本田栄子   教諭  1959-63〔吉岡出身、父は当時大和町教育長、長姉昌子先生は鶴巣小学校に勤務するなど教育一家〕
 瀬戸 勇   教諭  1960-63〔大衡村出身〕
 小林次郎   教諭  1960-69〔大郷町中村〕
1960.10.5 女子制服制度
 堀籠重敏   教頭  1961-65〔吉田?〕
 竹澤辰男   教諭  1961-73〔落合法恩寺姫宮神社神職〕
 山田 旭   教諭  1961-63〔大郷町出身〕
1968.11  完全給食実施
 「私は加藤健二先生が14年間鶴巣中学校に勤務されましたのを、ひそかに目標にしていました。
 当時は二関和枝先生、菊池みつ子先生、細谷正信先生らが10年間勤務されました。なぜ各先生方がこのように長期間勤めたのか。簡単に申しますと鶴巣中学校はたいへん居心地がよく、働きがいがあったということです。」(1978-88在職堀籠美子「11年間」『つるす』)
1987.9.8 校舎建築用地造成工事着工

大窪山校舎と閉校
  1989.3.9 校舎・体育館引き渡し式
   4.22 旧校舎とのお別れ式
   5.30 新校舎・体育館落成式・落成祝賀会
1992.10.30 ブレザー型奨励服決定
2007.3.11 鶴中60年ありがとう~感謝の会~ 閉校記念碑除幕式・懇親会
   3.25 大和町閉校式
   3.31 大和町立鶴巣中学校閉校
(『つるす』、『鶴中』より)

鶴巣中学校校歌(扇畑忠雄作詞/福井文彦作曲)
 (一)真澄の空に雪映ゆる 船形山の朝ぼらけ  風と光のいさぎよく 学びの日々を営みて  仰ぐ希望の永久なるしるし おおらかに吾らは立たん
 (二)せせらぎ冴えて西川の 流るる岸辺さ緑に  朝と夕のかぐわしく いそしむ日々を楽しみて  深きまことの永久なるしるし 清らかに吾らは生きん
 (三)高きに登り見はるかす 鶴巣の里の静けさに  夢と憩の安らけく 努むる日々をいたわりて  愛の心の永久なるしるし すこやかに吾ら歩まん


第五節 一般・高等教育
農業補修学校
 「実業補修学校の一班を述ふれは吉岡女子補修学校の明治四十四(1911)年創立を初とし大正二(1913)年農業科の実業補修学校大正七(1918)年義務教育同様の実業補修学校開設せられたりしが大正十一(1922)年に至り(中略)郡内十ヶ村中八校の設あり 大正十一年五月一日現在を以て其概要を記すべし(中略)
鶴巣農業補修学校
 大正七(1918)年四月創立鶴巣尋常高等小学校に附設鶴巣村立実業補修学校と稱せり大正十一(1922)年四月学則変更鶴巣村農業補修学校と改稱し仝年四月山田分教場を設置す
 生徒 男子五十八名 女子二十七名 計八十五名」(『黒川郡誌』)。

宮城県黒川農学校
 「吉岡町柴崎に在り 明治三十二(1899)年(中略)修業年限本科二ヶ年別科六ヶ月(中略)とし宮城県立黒川農学校と稱し本校を吉岡町(字下町)に分校を粕川村に設置し明治三十四(1901)年一月二十六日創立同四月廿二日開校 三十六(1903)年修業年限を三ヶ年に延長三十九(1906)年分校廃止同四十三(1910)年校舎新築落成同年三月現校地に移転す
 大正十二(1923)年度より郡制廃止の告示出つるや(中略)四月一日より県移管となる

黒川郡教育会
 明治二十三[1890]年黒川加美二郡合併時代に於て教育会を組織し宮城県教育会中央部に属し黒川加美郡教育会と稱せり(中略)廿七[1894]年黒川加美両郡の分離せしより教育会も亦従て分離し黒川郡教育会と稱するに至る(中略)本会事業の主なるものは(中略)黒川郡誌を編纂したるが如き其他枚挙に遑あらず
 大正十二[1923]年一月従来の組織を変更して各町村に教育会を創設し連合教育会を設立するに至れり

 1923(大正3)年の郡制廃止にあたり、1924(大正13)年、貴重な記念碑的大著『宮城縣黑川郡誌 全』を編纂刊行し、後世に残した。
吉岡町図書館
 大正六[1917]年の創立に係り畑谷辰之助中山為治などの尽力により町内の寄付金を得て大童信太夫蔵書を譲受け之を町に寄付し吉岡町図書館と稱せり大正九[1920]年黒川郡立図書館の設立成るや図書一切を挙げて同館に寄付したりしが仝十二[1923]年郡制廃止に際し郡立図書館の蔵書を再び吉岡町図書館に寄付せらるゝに至れり」(『黒川郡誌』)。

付節 「鶴巣音頭」
鶴巣音頭(原千秋作詞/佐々木章作曲、1953年鶴巣青年団制定)
 (一)ハァー おらが鶴巣はよ 豊かな村さ 七つ森から吹くそよ風に 耕地千畳見渡す限り サテ  金波銀波の穂波がゆれて ゆれる穂波に朝日が映えるよ
 (二)ハァー おらが鶴巣はよ 正しい村さ 昔名高い黒川公の 音に聞こえた黒川城下 サテ 北目大崎軒並続き 村にそびゆる火の見の櫓よ
 (三)ハァー おらが鶴巣はよ 楽しい村さ 向かい下草こちらは大崎 仲を取り持つ黒川橋にゃ サテ 厚い人情のなさけがしみて 星が流れる流れに浮いてよ
 (四)ハァー おらが鶴巣はよ 明るい村さ 夏も涼しい北国育ち 遠く船形雪いただいて サテ 今日も通るよ県道筋を 松島行きの流線バスがよ

 「当時青年団長だった熊谷市雄氏の著書『百姓 国会を耕す』によれば、(中略)郷土鶴巣に新風を吹き込み、戦争で荒廃した人心に少しでも夢や希望をもってもらおうという願いをこめてつくられたのが「鶴巣音頭」でした。昭和28(1953)年に熊谷市雄氏を中心とした青年団のかたがたが下草から大平下まで鶴巣地区全体を歌いこんだ音頭づくりのため、鶴巣地区内で映画会などのイベントを企画し、当時のお金で1万5千円ほどの収益を得たということです。その金額は当時の制作費として、必ずしも十分とはいえなかったようですが、郷土鶴巣の復興にかける熊谷市雄氏等が原千秋・佐々木章の両氏に直談判で依頼したところ、その心意気に共感した両氏が「鶴巣音頭」の制作を引き受けたということでした。
 その後、「鶴巣音頭」に踊りの振り付けがなされ、歌とともに地域のかたがたに愛され、長く引き継がれることになったのです。最初に踊りの振り付けがされたのは、昭和30年代だといわれています。」(高橋裕子(教頭、平成15~18年度在職)「おわりに~鶴巣音頭の歴史再考」『鶴巣中学校閉校記念誌 鶴中』大和町立鶴巣中学校)
 なお、作詞者の原千秋は、宮床出身の閨秀歌人原阿佐緒の長男で、俳優原保美の兄であり、当時大映で映画監督などをしていた(蛇足だが、私が生まれた澤田本家旧宅の母屋は、宮床なる原阿佐緒の「蚕室(かいこべや)」を曵いてきたものだと聞いている)。



(続く)


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