―― 1998年5月2日 於 三省堂書店東京本店 ――
PM 2:50 当日はあいにくの小雨模様。JRお茶の水駅で降り、駿河台下の三省堂まで、小脇にかかえた『朝霧』が濡れないよう、ゆっくりと歩く。PM 3:00 三省堂書店に到着。さっそく会場となる1Fロビーに行く。長机が2つ置かれているだけで、他に準備らしいものはまだない。定刻の午後4時まではまだ1時間あるのだ。にもかからわず、すでに10人ほどがうろうろと、北村先生の到着を待ちわびている。整理券をすでに持っているから、あわてる必要はない。2Fの喫茶室に行き、時間をつぶすことにする。
PM 3:30 アイスカフェオレを飲みながら、文庫本を読んでいると、奥の席にいた花束をかかえた女性4人グループが、勘定を済ませて出ていく。どうやら彼女ら、熱烈な北村薫ファンらしい。どれ、こちらもそろそろ行くとするか。
PM 3:40 会場におりていくと、長机には筆記用具が置かれ、そばに『朝霧』も山積みされている。そして背後には金屏風。準備は整ったようだ。店員が「右手の通路にお並びくださーい」とハンドマイクで連呼している。行ってみると、曲がりくねった小汚い非常用通路に、すでに100人近い列だ。最後尾に並ぶと、会場はまるで見えない。事前に整理券を手にしてても、どうやらなんのメリットもなかったようだ。いまこの場で『朝霧』を購入した人たちが、続々と列に加わってくる。説明アナウンスによるとこれは、「北村先生のご厚意により」特別に当日券を用意したとのことだ。
PM 3:45 並んでいる人たちの男女の比率は半々ほどで、年齢は20代前半の学生風が多い。そのほとんどが、立ったままで『朝霧』を黙々と読んでいる。異様な雰囲気である。新興宗教団体北村派の信者の集い、といった感じだ。当ホームページのお客さんはこの中にいるのかな?..そんなことを考えながら、じっと待つ。
PM 3:55 列がようやく動き出した。北村先生が着座されたのだろう。しかしここからでは、会場の様子がまったくわからない。
PM 4:18 やっと順番がまわってきた。4人ずつが、北村先生のおん前に出、サインをもらう。結局このときまで先生の姿は拝ませてもらえなかった。誤解している人がいるかも知れないが、かつては性別不明の覆面作家であった北村先生、その正体は「中年のオジサン」である(うちの近くのI書店では、いまだに先生の著作は女性作家コーナーに並べられている)。さて、初めて目に見る北村先生は、淡いグリーンのゴルフシャツに、麻のサファリジャケットといういでたち。清潔な髪をサラッと七三に分け、整髪料はつけていない模様。やや痩せ型で、柔和な雰囲気。やさしい笑顔を浮かべ、一目でひとに好印象を与える、そんな感じの人であった。
(注:わたしは服装の名称には詳しくないため、表記に誤りがあるかも知れない。)PM 4:19 きゃしゃな手に似ず、先生は一画づつ、力強くマジックペンをふるう。まずは日付、次いでゆっくりと「北」、「村」、...そして「薫」の最後の一画(点4つ)を書こうとしたところでペン先が紙にひっかかり、その部分だけが二度書きになった(下の写真をよく見ると、最後の一画の直前に小さい点があること、おわかりになるだろう)。
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サインを終えた本は、隣にすわった助手役の店員に渡され、吸い取り紙をあてた上で表紙が閉じられる。その作業に目をとられていると、「ありがとうございます」と小さな声がした。え?と見ると、先生がわたしに向かって、深々と頭を下げているのである。予想していなかったそのへりくだった態度に驚かされ、こちらがお礼を言うのを忘れてしまうところだった。
PM 4:30 「読者がいちばん大切だ」など、言葉でいうのは簡単だ。だが、北村先生の真摯な行いは、決してそのような表面だけのものとは思えなかった。それが何よりも嬉しかった。ひとりひとりに丁寧に頭を下げる北村先生の姿を思い出しながら、少し幸せな気分で、帰りは地下鉄神保町駅まで歩いた。