風水fengshuiによる玄関、部屋、色のインテリアを考えよう

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風水カレンダーについて考える

 

風水で使うカレンダーはどれがよいのか?

 

私たちが、自分の「命卦」を調べる時に使うカレンダーは、風水本によって違うことがあります。そこで、どれを基準にしたらよいか迷います。私は1月生まれなので、その年の起点が違うと、「命卦」が違ってきて吉凶方位が逆になったりします。特に八宅派で判断する場合は、この出生年を調べることは最も大事はことですから、これはかなり問題です。

ただ、日本でこの「命卦」を使って風水判断する方法(八宅派)を具体的に紹介している本は限られています。これをまねて風水本に載せている著名な占い師も出てきましたが、その内容は貧弱なものです。(ある程度、具体的な説明がなされているのは鮑 黎明氏の書籍、監訳 王敏氏の「風水の活用術」ぐらいしかないのではないでしょうか)

このことについては今まで、あまり深く考えずに、知るスベもないだろうと半分あきらめ気味でいましたが、掲示板にて質問の書き込みをしてくださった方から刺激を受け、私なりに調べてみようと思いました。海外サイトでは、風水公開討論会があることを知り、探ってみるとそこにも同じような疑問を持っている方の書き込みがありました。その内容については、最新海外レポートで紹介予定です。

まず、日本で出版されている風水本を調べてみると、年の起点の基準は二通りあるようです。


●立春(2月4日、5日)
例えば1960年1月30日生まれの人は、1959年となります。
 

●小寒(1月5日、6日)+++++これは鮑 黎明の著作だけしかみられませんでした。
例えば1960年1月30日生まれの人は、1960年となります。
 

●海外では、日本の旧暦(太陰太陽暦)を使っているのがあります。
例えば1960年1月30日生まれの人は、旧暦では1959年となります。

実際に「暦」についていろいろ調べてみると、私のレベルではその解釈や歴史的考察は複雑でかつ難解でした。ネットを通して情報収集したページはかなりの数量になりまりました、その中でほんの一部ですが重要と思われる点や参考になる内容、おもしろいネタを取り上げてみました。皆さんも興味があったらぜひ暦について調べて見てください。

 


風水で使うカレンダーは?

 

風水探偵団は、旧暦【太陰太陽暦】を使うことにしました。

1950  2/17

1951 2/6

1952 1/27

1953 2/14

1954 2/3

1955  1/24

1956 2/12

1957 1/31 

1958 2/18

1959 2/8

1960 1/28

1961 2/15

1962 2/5

1963 1/25

1964 2/13

1965 2/2

1966 1/21 

1967 2/9 

1968 1/30

1969 2/17

1970 2/6

1970 2/6

1971 1/27

1972 2/15

1973 2/3

1974 1/23

1975 2/11

1976 1/31

1977 2/18

1978 2/7

1979 1/28

1980 2/16

1981 2/5

1982 1/25

1983 2/13

1984 2/2

1985 2/20

1986 2/9

1987 1/29

1988 2/17

1989 2/6

1990 1/27

1991 2/15

1992 2/4

1993 1/23

1994 2/10

1995 1/31

1996 2/19

1997 2/7

1998 1/28

1999 2/16

2000 2/5

2001 1/24

2002 2/12

2003 2/1

2004 1/22

2005 2/9

2006 1/29

2007 2/18

2008 2/7

2009 1/26

2010 2/14

2011 2/3

 

 

その理由は

 

●風水羅盤や古典書などで使われる「六十干支」の基準としたのは、陰暦であること

●立春は旧暦で用いられていた24節気の一つであり、24節気は冬至、春分、夏至、秋分を基準とした、あくまで季節を正確に知るために取り入れられた太陽暦であること。

●小寒については、鮑 黎明氏が「20年ほど前に恩師による独創的な起点説を発表し、総計20万人のデータを集計して、帰納的に結論づけた。」とありますが、風水の長い歴史を考慮すれば、ほんの数十年のデータではどうか?、またそのデータの根拠や集計内容が今ひとつはっきりせず不明であること

●人の誕生から死に至るまで様々な影響を与える「月」をベースに考えられた「陰暦」は、地球全体、自然界のリズムと調和していること。

●日本では、絶対にお目にかかれないと思われる玄空派、飛星派のハウツー本である洋書(A Master Course in FENG-SHUI)があります。この著者であるEVA WONG氏は、非常に信頼の高い風水マスターと思われます。著作では伝統的な風水古典書から多数引用しており、その説明では太陰太陽暦を使った風水分析をしていること

 

*ここにあげた理由は、あくまで風水探偵団の独自解釈ですので、くれぐれもご了解を。

 

 

注意

 

他の占術では、例えば四柱推命などは太陽暦を採用してつくられた占術で、月の運行を基準にした太陰暦とは別ものの概念です。ですから、他の占星術においては暦の使い方は様々あるようなので、あくまで風水に限定した考えです。


「六十干支の用法の変遷」
島田 光男(芸術新聞社刊・雑誌『墨』平成12年1・2月号に掲載)
http://www.h3.dion.ne.jp/~shimd/sub2.htm

は じ め に
 書道の作品に落款を入れる時、「庚辰春日」などと六十干支<ろくじっかんし>を用いて「年」を表示する方法は、今日の日本の書道界でもよく使われている。しかしこの六十干支は、もとは「年」ではなく「日」を表示するものであったことは案外知られていない。

 「甲<こう>、乙<おつ>、丙<へい>……」という十干<じっかん>と「子<し>、丑、<ちゅう>寅<いん>……」という十二支を組み合わせた六十干支は、殷・周の時代には「日」だけを表示していたが、やがて漢代に至って「日」と「年」の両方を表示するようになった。さらに近年に至っては「日」を表示することが忘れられ、六十干支といえば「年」だけを表示するかのように思われるようになったのである。

 

「日」を表示する六十干支の歴史

 

■六十干支とは

 「十干」とは中国に古くからあった《1から10までを数える序数》であったらしい。殷(紀元前15~11世紀)の時代の神話では天には10個の太陽があり、それが毎日一つずつ昇って来るのだと考えられていた。また殷の王はその10個の太陽の子孫であるとされ、王が死ぬと10の太陽の中の一つの名を諡<おくりな>として贈られたことが殷の金文にうかがえる。

 次に「十二支」とは分野や方向を表す言葉であったらしい。後に西方の十二禽獣説話と結び付いて「ネズミ、ウシ、トラ……」と動物名でも呼ばれるようになった。しかし、これはあくまで覚えやすくするための便法であり、子丑寅などの字にネズミ・ウシ・トラという意味や音があるわけではない。

 この十干と十二支を組み合わせて1から60までの序数をあらわすようにしたのが「六十干支」である。

■さて、殷の甲骨文にはこの六十干支の記録がたくさん残されている。殷代には、前に述べたように10個の太陽が順番に昇って来ると考えられていたので、「日」は十干の名前で呼ばれ、10日間の最後の癸<き>の日には、次の10日間の吉凶を甲骨を焼いて定期的に占っていた。これを卜旬<ぼくじゅん>という。

 殷の政治は何事も占卜<せんぼく>によって決めていたので、定期的な卜旬の他にも随時に頻繁に占卜がなされており、その内容を記録した甲骨片はおよそ15万片も発掘されている。

 占卜は殷の王がみずから執りおこなうもので、その神秘性と権威を高めるためにも、六十干支という複雑な組み合わせ方法によって日を数えたのであろうか。

 甲骨文の一般的な年月日の書き方は、例えば図3のに見るように文章の冒頭に「癸亥」と六十干支で「日」を書く。月を書く場合は文章の末尾に「九月」と数字で書き、「年」は書かない。

 殷代の文字の記録としては、甲骨文の他に青銅器に残された金文があるが、金文の年月日の基本的な書き方は甲骨文と同じで、図4の例のように文章の冒頭に「甲子」と六十干支で「日」を書き、文末近くに「十月又二(十二月)」と数字で「月」を書く。さらに「年」を書く場合は文章の末尾に「隹<これ>(惟)王<おうの>廿祀<にじゅうし>」などと王の即位後の年数を数字で書く。

■周の金文

 このように殷の人々は太陽をもとにして日を数えていたので、その意味で殷の暦は太陽暦ともいうことができる。これに対して殷を倒した周(西周、紀元前11~8世紀)の人々の世界観は殷とは対照的であった。10個の太陽という神話や占卜は否定され、合理的な陰陽の数理によって世界が把握されていった。また暦も、月の満ち欠けによって日を数える太陰暦の考え方が大勢となっていった。

 そのため周の金文を見ると図5の例の「隹<これ>九年 正月既死覇<きしは>  庚辰」というように、六十干支による日の表示の前に「初吉<しょきち>、既生覇<きせいは> 、既望、既死覇」という月象を表す言葉が入るようになった。これは、月の満ち欠けの周期(約29.5日)を4つの週に分け、新月から始まる第1週目を初吉、第2週目を既生覇、満月(望)を過ぎた第3週目を既望、第4週目を既死覇と呼ぶ。

 さらに殷の甲骨文では文の末尾に書かれていた「月」の表示が、文の冒頭に移されたのも太陰暦的な年月日の表示法へと変化してきたあらわれといえるだろう(なお、「年」は文末に「王の何年」と表記するものが多いが、この例のように文頭に書く例も出てきた)。

■前漢の朔と数字の併記

 やがて前漢(紀元前3世紀~紀元後1世紀)になると、図6の敦煌の木簡(紀元前137年)のように「永和二年 五月 戊申朔<さく> 廿九日丙子」と「朔」の日付を付記し、さらに数字の日付けも併記するようになった。朔とは新月の日のことで、これは「永和二年 五月、戊申の日が朔である月の、二十九日目の丙子の日」という意味である。

 ところで、太陰暦では新月の日をもってその月の1日<ついたち>とするのだが、月の満ち欠けの周期は約29.5日のため、新月にまたがる前後のどちらの日を「1日」に決定するかは簡単ではない。月が完全に隠れて新月となる時刻を正確に予測できる天体観測の高度な技術と、またそうして決めた暦を全国に統一的に布告できる「権力」が成立していなければできないことであり、前漢の時代にその二つの条件が整ったのである。

 なお、この表示法の簡略版として、「五鳳三年 七月 八日」(紀元前五五年)というように、六十干支による日の表示を省略してしまい、現代の年月日表示と全く同様に数字だけで年月日を表示する様式も、漢代にはすでに登場している。

 ところで太陰暦では、30日間の「大の月」と29日間の「小の月」は年毎に変化し、また閏月が時々挿入されるために1年間の日数は一定ではない。そのため、例えばある年の1月1日とその前年の1月1日との間は一体何日間あったのかを簡単に計算することはできない。しかし、この60日周期の六十干支表示を利用すれば、その間の日数が簡単に計算でき、たいへん便利なのである。

 さらに、この六十干支による日の表示は、殷代以来、今日に至るまで四千年もの間、1日の狂いもなく正確に数えられ続けている。そのため中国・日本・朝鮮など東南アジアの諸国においては、時代や国によって暦法が違っても、この干支の記載によって共通の日付を推定することができる。このため天文学などでは第一級の資料とされているのである。


東京大学出版 『中国科学技術史』より

 

 

甲骨文の暦法>藪内清編『中国の科学』中央公論社

 

■こよみを造る上にもこの二十四節気は利用されます。立春を旧暦正月という言い方がされますが、それはいわば理想的な場合を言っています。正月の決め方は、(一月とは呼びません)1朔望中雨水をふくむ月を正月とします。起点を冬至に置いて約15日づつの動きですから雨水が真ん中にくれば立春が元日となって啓蟄の手前までが正月となって理想的です。
殷では日を記す方法は厳密に決められていましたが、月や年を区切りの単位としようという意識が薄いので、こちらはあいまいな存在でした。たとえば「辛丑」は必ず何月に含まれる、とか月の初めは「甲子」から始まる、とかいう明確な決まり事がないわけです。これによって、学者たちの間で様々な議論がなされることになります。

■ひと月の日数が、29日であるのか、30日か、それとももっと多いのか、それによって「辛丑」の日が何月に所属するかが決まってきます。月が毎月同じ日数であったのか、それとも、ばらばらであったのか、はたまた規則的に大の月と小の月をあてはめていたのか、それもわかっていなければなりません。

■「甲骨文では年・月を示すのに一(月名のばあいは正月)、二などの順序数が用いられたが、日付けはもっぱら六十干支で示された。一年はふつう十二ヶ月であり、時に閏月(じゅんげつ)を年末に置いて、それを十三月と呼んだ。また、一ヶ月は三〇日の大月と二九日の小月とから成っている。要するに殷代の暦法は、中国の長い歴史を通じて行われた太陰太陽暦で、ただ完成の域に達していなかった。」

■商代には、夏の天干紀日法を一歩進めて、干支紀日法を使用した。すなわち、甲・乙・丙・丁・・・・・・の10天干(十干)と、子・丑・寅・卯・・・・・・の12地支(十二支)を配合して、甲子・乙丑・丙寅・丁卯・・・・・・などの60の干支(六十干支)を作り、それを用いて日付を記し、60日周期の紀日法を完成した。武乙時の牛の肩甲骨には、完全な60干支が刻まれており、2ヵ月を合計した60日が、当時の日暦であった可能性が高い。ある甲骨卜辞は、2ヵ月を59日と数える必要があるが、そうした2ヵ月は必ず30日と29日に分けねばならない。すなわち、商代(殷代)に大月(30日)と小月(29日)の区別が存在したことも確かである。

■甲骨卜辞には1年の12月名のほか、“十三月”という記載も多く残っている。このことは当時、大小月や連大月(大の月を続けること)を用いて朔望【さくぼう】(新月の日と満月の日)を調節し、置閏法【ちじゅんほう】を用いて朔望月と回帰年(太陽年)の長さを調節したことを示している。これはまさに太陰太陽暦(陰陽暦)の最大の特徴に他ならない。

太陰太陽暦は中国において数千年来用いられ、中国特有の暦日制度の体系を形成した。商代の置閏法は一般には、閏月を年末に置いた(歳終置閏法)。上述の“十三月”がそれである。商代晩期には歳中置閏法が出現したと考える研究者もいるが、その点については現在のところ定説はない。

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