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「毎日が金曜日」http://www2.odn.ne.jp/fridays/
編集:太田拓、更新:2011年12月30日

(8)「白熱教室」と翻訳の力

1.名訳が浮かばない時

英文の意味は正しく理解できているが、ぴったり来る訳が浮かばない時があります。パソコンの画面をじっと睨みつけてみても、一向に納得できる日本語が浮かばない。意味はこれでいいんだが、どうもわかりにくい日本語だな、と呟きながら、辞書を調べたりして別の言葉を探したりするが、一向にうまい訳に到達できず、いらいらした状態が続きます。
ところが、そういうときに外に出て、遠くの景色や荒れ放題の庭木をぼんやり眺めていると不思議といい言葉が浮かんでくる。そして、その言葉をきっかけにして、名訳、とまでは言わないが、自分が納得できる訳に行き着くことを何度も経験しました。
最初は、単なるリフレッシュ (気分転換) のせいで、良い言葉が浮かんだのだろうと考えていたのですが、そういうことが度重なるうちに、単なる偶然や気分転換のせいとは思えなくなってきました。

これは翻訳だけに限りません。こういう自由形態の駄文を書いているときにもしばしば経験します。
また川沿いの道を自転車で走っている時にもいい言葉が浮かんだりします。自転車を止めて水面をじっと眺めているときよりも、走りながら、後に飛んでいく景色を、見るともなく見ているようなときにいい言葉が浮かぶことが多いようです。こういう一種の自然現象のようなことを何度も経験していくうちに、この現象にはきちんとしたメカニズムがあるのではないかと考えるようになりました。そして次のようなメカニズムに到達しました

つまり、人間の脳内には「言葉を紡ぎだす回路」があり、目から入ってくる視覚情報が強すぎると、視覚情報の方に神経が集中する結果、その「言葉を紡ぎだす回路」の機能が制約され、あるいは機能停止に陥るのではないか、ということです。
だから、遠くの景色を見るとはなしに見る程度の状態において、視覚情報を弱めてやって、脳内の特殊回路を活性化させ言葉が自由に浮かぶ状況にすると、いい言葉がフッと浮かぶのではないでしょうか。
これは、太陽光を直接見るようなことをすると、一瞬当たりが見えなくなることがありますが、現象としてはそれと似ています。

2.「白熱教室」と翻訳の力

「ハーバード白熱教室」に続いて国内の大学での白熱教室が NHK で放送されています。 最近、偶然にこれを見たのですが、ハーバードとの違いにやや驚きました。
マイケル サンデス教授の説得力のある講義と学生たちの活発な議論を初めて見た時は、さすがは世界のトップクラスの大学だな、と感心しました。ところが最近見た国内版では、仮に A 大学としておきますが、A 大学の白熱教室の議論はさほど活発ではなく、白熱と呼ぶにはやや苦しい内容でした。
教授の講義の内容はそれなりに面白いテーマだったようですが、学生たちはやや下向き勝ちで、できれば「当たりたくない」ような印象でした。
A 大学は国内で1流とは言いにくい大学のため、ある程度はやむを得ない面もあります。また、そもそも日本人はアメリカ人にような「ディベート」の訓練を受けていませんから、ハーバードのようにいかないのは無理もありません。

両者の大きな違いは教授や学生たちの話し方にあるようです。
サンデス教授は、淀みのない言葉で理路整然と講義し、次々と学生たちに質問を浴びせます。学生たちも教授に負けじと鋭い回答を返します。
一方、A 大学の教授は「ええー」とか「あのねー」とかが多く、とても流暢な話し方とは言えません。この点の違いでハーバード大学と A 大学の白熱教室の印象が違ってきたのだろうと思います。

ここで、ハーバードの方はサンデス教授の口から発せられた生の英語を聞いているのではないことに注意する必要があります。サンデス教授の英語は日本語に翻訳され、話すことのプロである声優の声を介して視聴者に届いています。
一方、A 大学の方は、教授や学生の生の声がそのまま放送されています。学会の講演なら、予め原稿を用意して淀みなく説明することはできます。しかし、通常の大学の講義では、講義の内容をすべて原稿として用意しておくことはできません。映画のように台本を用意しておいて、それにしたがって講義を進めることはできません。したがって、よほど卓越した人でない限り、清書された文章を読むようには講義できません。
つまり、多少実力の違いはあるとしても、サンデス教授の講義内容は翻訳者によって理路整然とした日本文に変換され、そして声優が代読することで美しい日本語として視聴者に伝わっているわけです。一方、A 大学の講義内容は、説明内容を「理路整然とした日本語に変換」し、「美しい日本語として視聴者に届ける」プロセスを踏んでいません。これがハーバード大学と A 大学の白熱教室の印象の違いになって現れた、ということでしょう。

このように考えると、翻訳の力が、決して小さくないことがわかります。また、日本語を日本語に変換する作業が職業として成立しそうな気がします。なお、この話のやや極端な例が松本清張の短編「通訳」にでています。 (以下次号)



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