これらの物語の結末がすべて悲劇で終わっているということは、物語が真実を語ったものだという、何よりの証拠である。なぜなら野生動物の最後は常に悲劇的な終局を迎えるものだからである。
アーネスト・トムソン・シートン
「大晦日企画」ではたった三編で終わった「動物記」レビュー、というより作品紹介+個人的感想を、本格的に開始しようと思います。
それでは、まず第1作から。参照しているのは 「シートン動物記1 私が知っている野生動物」 藤原栄司訳、集英社、昭和46年12月25日発行。
○ロボ−コランポーの王様
○銀の星−あるカラスの物語
○ぎざ耳坊や−綿尾ウサギの物語
○ビンゴ−私の犬の話
○スプリングフィールドのキツネ
○だく足の
○ワリー−キツネ犬の話
○赤
○灰色グマの伝記
○サンドヒル雄ジカの足跡
−この広大な地域には、当時、専制的な力をふるっていた王がいた。それは一匹の年とった灰色狼だったのである。−
シートンの出世作で「動物記」の代名詞的な作品。日本で一般に知られた標題は「狼王ロボ」。
アメリカ合衆国西南部、ニューメキシコ州北部。多くの牛、馬、ヒツジなどが放牧される、丘と小川の大地。
川の名を取り、コランポーと呼ばれていたこの地の王は、一匹の灰色オオカミだった。土地の人びとは、力と知恵を併せ持ち、並み外れて強い集団を軍隊のように統率する彼に畏敬の念を込めて「王様ロボ」と呼んだ。
ロボとその群れは毎日のように牧場を襲い、牛やヒツジを殺した。
ロボは少し放れたところにある小高いところに腰をおろし、ブランカとほかの仲間が、目ぼしをつけた若い雌牛を群れから切り離そうとやっきになっている。…
そのうちにロボは、とうとう部下のやりかたにしびれをきらしたようだった。今まで座っていた小高いところからおりると、地底をゆるがすような咆哮 をあげて、牧牛の群れへまっすぐに突撃した。…
ロボは雌牛の首をくわえ、ありったけの力で急にうしろへ引いたので、雌牛はすぐさま地面にたたきつけられた。その力は相当なものだったにちがいない。なぜなら雌牛は頭を下に宙返りをしてひっくりかえったからである。…
ロボには高額の賞金がかけられ、オオカミ狩りの経験を持つシートンにも白羽の矢が立った。
しかしロボは悪魔のような狡知を発揮し、彼らをしとめんとする人間たちの試みを、罠であれ毒薬であれ、ことごとくしりぞける。
あらゆる術策は、尽きたかに見えた。
しかし、シートンは群れで唯一の雌オオカミ、そしてロボとつがいをなすブランカに目を付け、彼女を捕えて殺すことに成功する。彼女を失ったロボは悲しみに狂い、ついにそこへつけこんだシートンの罠にかけられてしまうのだった。
妻、自由、誇り。すべてをうばわれ、鎖につながれた王者は、明くる朝にひとり、息を引き取っていた。ロボは死んだブランカの隣りに運ばれ、名もないカウボーイの言葉に送られる。
「ほれ、お前はこいつのそばへきたがってたんだろう。これで、また、いっしょってわけだ」
最後の一節には、今でも心を震わされる。
作品に触れたばかりの小学生の頃は、語り手シートンを始めとする人間たちの位置付けは、英雄ロボに対する卑怯者、汚れ役のように思っていた。そうした趣旨の本作の読書感想文が、国語の教科書に載っているのを読んだこともある。割と一般的な感じ方だったのではないか。
歳を経た今は、そうは思わない。人間たちもまた、きびしい自然のすぐ傍に暮らし、己の生活のために力を尽くす存在に過ぎない。
ロボに手向けたカウボーイのひとことは、対等の存在として戦った者を悼む言葉なのだ。
追記:
ロボの偉丈夫ぶりは、作中で具体的に数字であらわされている。普通の狼の前足は、爪からかかとまで11p、大きなものでも12p。だがロボのそれは14pもあった。
肩までは90p、体重は実に68s、小さな熊並みの体格だ。しかも俊敏さは比べものにならない。
またロボの力が、体力と知恵に加え、並外れた嗅覚にあったことが強調されている。その嗅覚で罠の存在を嗅ぎ出し、用心深く地面を掘って、うずめられた罠、鎖、丸太をあばき出す手並みは、戦場の魔法使いである工兵が地雷という悪魔の卵を見つけ、解体する技をほうふつとさせる。
今なお地雷の災厄に脅かされる国々・地域において、ロボの能力はきわめて重宝されるものであるに違いない。カンボジアやアフガンの地で、地雷捜索犬として人道のため活躍する狼王の姿を思い浮かべてみた。
そして即座にやめた。
追記その2:
紀伊国屋書店刊「シートン動物誌2」オオカミの項目において、オオカミはメキシコ先住民の言葉で「Xoloitzcuintli」または「Lobo」と称する、と記されている(78ページ参照)。つまり「ロボ」は本来オオカミ一般を指す言葉なのだが、いつか一頭の際立った個体に対する固有名詞として使われるようになった、ということなのだろう。(03.05.16記)
−年老いた
銀の星 は、カラスの大群をひきいる大将で、カナダのトロント近くに本拠を構えていた。−
実在した「カラスの大将」と、その率いる群れの物語。ただし、個々のエピソードは複数の個体について起きたもので、それを銀の星一羽の物語として構成している。
われわれに身近な鳥で、カラスほど賢いものはいない。組織の力をこころえ、一羽々々がよく訓練された兵士として行動できるのだ。そして群れを率いるリーダーには、もっとも年長で賢く、力と勇気において抜きん出たものがなる。
「銀の星」は、カナダのトロント近く、キャッスル・フランクと呼ばれる丘を根拠地にしたカラスの一隊の指導者で、その群れは二百羽を数える。彼は二十年以上も、この渓谷付近に住みついていて、土地の人にもよく知られていた。その名の由来は、右の目とくちばしの間に、銀白色に光る部分があり、これが星のように見えたからだった。
カラスたちは、幾種類もの鳴き声の言葉を持っていて、互いに意思を伝えていた。その号令をくだすのは、言うまでもなくリーダーの銀の星である。目の前の状況に応じて命令を変え、群れを自分の手足のように行動させるさまは、まさしく一群の大将だった。
銀の星は聡明で、抜け目ないやつだった。毎年の子育ての時期には、町の誰にも悟られぬよう巣をいとなみ、小石や貝やらの宝物を山のように集めて楽しんでいた。下水溝にパンを落としてしまった時などは、すぐさま溝の向こう側へ飛んでいって待ち受け、流れてくるのを待って拾い上げるだけの機転を働かせることができた。
しかし賢いカラス、その中でもっとも優れた才能を持つ銀の星も、目が見えない夜の闇では普段の知恵と力を発揮できない。そして、ある夜銀の星はおそろしい敵ワシミミズクに襲われ、抵抗も空しく無惨な最期を遂げてしまうのだった。
終幕の悲劇を別にすれば、とても楽しい作品だ。シートンは銀の星のくだした号令に注意深く耳を澄ませ、それらの音を五線譜で表現している。彼らはただのステッキと、鉄砲の違いを見分けて、それに応じた警戒警報を出すことができたし、ふたつの信号を組み合わせて使うこともできたという。
銀の星はひよっこの若者ガラス相手に演説をぶち、群れはカラス学校を開いて子弟を教育する。やがて実践にうつり、彼らは父や母と同様に、総司令たる銀の星の号令にしたがって一糸乱れぬ隊列を組んでみせるようになる。これらは童話のように擬人化した描写のように思えるが、実際にシートンが見聞したところのものなのだ。われわれがよく知っている、毎日街中のゴミをあさる黒き翼たちにも、こうしたすぐれた知恵と組織能力が秘められているのかもしれないというのは、想像するだけでわくわくするではないか。(03.01.15記)
−そういう名前で呼ばれるようになったのは、その子ウサギの片方の耳が噛み裂かれてぎざぎざになっていたからだった。その傷は、生まれてはじめての冒険の時につけられ、生涯消えないものとなった。−
沼のほとりに住んでいた、ある綿尾ウサギの母子の物語。「動物記」では珍しい、動物自身がしゃべって展開する話となっているが、そのために彼らの習性を実際と変えてしまってはいない。
−「私はこの物語を進めていくにあたって、ウサギの言葉を勝手に、人語に翻訳するが、その中にはウサギが実際に言わなかったことは何ひとつないということを、よく覚えておいていただかなくてはならない。」−
綿尾ウサギのぎざ耳坊や、あるいはぎざ坊は、母親のモリーといっしょにオリファント沼のほとりの、荒れはてた
弱く敵の多いウサギとして、ぎざ坊の学ぶべきことは多かった。じっと身を伏せること、石のように動かず周囲にとけ込んでしまうこと、いつでも身を隠してくれる野バラの茂みと友達になること、地中の穴に隠れるのは必ずしもいい手ではないから、あらゆる手を尽くしたあとでしか使うべきでないことなど。
母モリーの教えを受け、そして自ら学び、聡明なぎざ坊はどんな危険からも身を守ることのできるだけの力を身につけ、日々の数知れない敵との追いかけっこに生き残っていくのだった。
あるとき、ぎざ坊とモリーの二匹だけで暮らしていた沼に、大きく力の強い余所者のウサギが現われ、住み着くようになった。母親以外の同族とともに暮らしたことのないぎざ坊は、彼に激しい敵意を抱いたが、余所者の腕力には歯が立たず、いつも追いかけまわされてばかりだった。
しかしぎざ坊の知恵は、この憎むべき同族の始末を猟犬にやらせることを思いつき、屈辱の時代のあと、余所者から沼地の権利を取り戻すことに成功する。
老いた母モリーは、ある吹雪の夜にキツネを振り切るため池へ飛び込み、力尽きて凍死した。
けれどもその血と知恵を受け継いだぎざ坊は、今もオリファント沼のほとりに住んでいる。どこからか迎えた伴侶と、子供たちとともに。
彼らの子孫は、これからもこの沼地の住人として、栄えてゆくことだろう。
一番最初に掲げたように、シートンは常々「野生動物の生涯は、常に悲劇的な結末を迎える」と書いていた。彼らは人間と違って、生存競争の最前線から身を引くすべを持たないから、やがて必ずや外敵や強い若者、それに病気に倒されてしまうわけである。たとえるなら、戦場の兵士やスポーツ選手が、年老いてなお引退を許されず、戦い続けることを強いられるようなもので、どうしても敗北と死とを避けることはできないのだ。
ウサギという一見無力で、どんな相手にも腕ずくではかなわない生き物が、知恵をもってこの運命に立ち向かうさまが、本作の主題だ。「音を立てずにじっとしていれば、そうたやすくは見つからない」という金言。追跡する猟犬をまくための、自分の臭いを消すあらゆる策略。本来かなわないはずの外敵に復讐する手立ては、人間が張り巡らした鉄条網を巧みに使うこと。何ともしたたかで痛快であり、主人公のウサギ親子を応援せずにいられなくなる作品である。
より突っ込んで読むなら、ここで描かれた習性や知恵について、現在の学問がどこまでフォローや修正を試みているか、調べてみるのも面白いだろうと思う。
そして、本作は主観を動物側に設定しているので、その視点は彼らとともに、沼の荒れ地の深いところへ入り込んでいく。画家の目をそなえた作家、シートンの自然のスケッチ。
明るい八月の陽ざしが、朝の沼地いっぱいに、あふれるように照り輝き、あらゆるものが、暖かい日の光に浸されているように思われた。池に生えている長いトウシンソウに、小さな茶色のヌマシトドがとまって、ゆらゆらと体をゆらしていた。そのスズメのような鳥の下には汚い水をたたえた池の面がひろがり、そこに青空とスズメの姿がさかさに映って、水面のアオウキグサと共にすばらしいモザイク模様をつくりだしていた。スズメの姿は、そのモザイク模様のちょうど真中にはまっていた。そのむこうにある岸辺には、金緑色のザゼンソウがすごい勢いで生い茂り、褐色の沼の草むらに、濃い影を投げかけていた。(03.01.19記)
−ビンゴの歌−
フランクリンのワン公が
牧場の木戸をとび越えた
そこでみんなが名をつけた
ちびすけビンゴ
ビ ン ゴ −
ちびすけビンゴと、みな言った
シートンが若い頃に飼っていた犬、ビンゴ。野性味あふれる生きざまをつらぬきながら、その心はいつまでも主人とともにあった、不思議な犬の物語。
1882年の冬、カナダはマニトーバの牧場に住んでいた私(注:シートン)は、牧場を襲ったオオカミに勇敢に立ち向かう、一頭のコリー犬に出会う。犬に惚れ込んだ私は飼主に持ちかけ、何とかその息子を譲ってもらうことになった。真っ黒で、口の周りは白い輪で縁取られていたこの子犬の名は、”フランクリンのワン公”の歌からもらった。”我らは、そのワン公を、ちび助ビンゴと名付けたり”。
成長したビンゴは元気一杯の犬で、私の言いつけは何でも、ばかばかしいほど律儀に守った。放牧している雌牛を牛小屋へ連れ戻すよう命令すると、猛烈な勢いで飛び出して行き、次第に言いつけがなくても勝手に雌牛を追いかけ回すようになるなど、はみ出した振る舞いも最初からだったが。
自由を愛するビンゴは、荒野をうろつき、オオカミのような暮らしをするようになった。死んだ馬の肉を食い、オオカミやコヨーテと戦い、しばしば同族の犬とのケンカに及んだ。近所の猟犬が無残に殺され、飼主に同情した私が犯人を捕らえるべく証拠調べをした挙句に、それがビンゴのしわざだと発覚したこともあった。
そんな無頼の生活を長年続けるビンゴを知り、また日常生活ではほとんど触れ合う機会もなくなりながら、私はいつまでも彼は自分の犬だと感じていた。そしてビンゴも、古い主人の私にしか心を許すことはなかった。
ある冬の日、私は人里離れた場所へオオカミの罠を仕掛けに行き、ミスをして自分が罠にはさまれてしまった。動けないままコヨーテに襲われ、絶体絶命となった私の元へ駆けつけたのは、ほかならぬビンゴだったのである。彼の働きで私は罠を外し、九死に一生を得た。呼ばれもしないのに、どうしてか私の危機を感じ取り、命を救ってくれたのだ。
やがて老いたビンゴは、死んだ馬の肉に仕掛けられた毒薬を食べてしまい、苦しみのうちに死んだ。最期まで私を慕っていたビンゴは、私がいるはずだった小屋の入口、彼が育った小屋の入口までやってきて、いなくなってしまった主人の助けを求めながら、息を引き取っていた。
コヨーテの雌と交わるなど自由気ままに生き、オオカミのような獰猛さを持つ一方、死ぬまでシートンとの絆を断つことなく、またどこかおかしみをたたえた主人公ビンゴのキャラクターが、とにかく魅力的な一編。筆者は犬を飼ったことはないが、小学生の頃本作を読んで以来、この不思議な犬のお話はずっと記憶に残り続けたものだ。
シートンが描いた、子犬のビンゴの絵がある。黒い毛皮のころころした体、口の周りの白い輪、真ん丸な目は、何とも言えない愛嬌をかもし出しているが、長じてアウトロー的に生きるようになっても、このユーモラスな感じは残っていたのではないだろうか。
そのほか、共通の場所に自分の臭いをすりこむことで意思疎通を図る犬やオオカミたちの習性や、人間と犬との関わりなどのエピソードが作品を彩る。
ビンゴが殺した猟犬のエピソードは、子供向けの訳(偕成社 白木茂訳)では「教育的配慮」がなされている。下手人がビンゴと知ったシートンは、何とか猟犬の飼主に頼み込んで、訴訟を取り下げてもらったことにしてあるのだ。ところが今回初めて読んだ本来のテキストでは、シートンは何食わぬ顔をして飼主を裏切り、証拠のもみ消しにかかったことが書かれている。−「つまり、老いた猟犬タンをめった打ちにしたのは、けっして許し難い罪などではなく、よく考えてみると、むしろそれはほめるべきことだともいえるという確信に達したのである」−
子供向け作品では仕方ないとも思えるが、正直笑い出してしまった。これだから子供時代の名作を新たに読み直す楽しみは止められない。
「心は私とともにありながら、あくる日はもう私のことなど、ふりむいてみようともしなかった。そして、ゴードンさんの息子がゴッファー狩りに行こうとさそうと、元気よく、ついていってしまうのだった」
自由きままで破天荒なビンゴのキャラクターは、どこか哀愁をただよわせてもいる。過剰な表現などはないが、シートンの思いが行間に染み込んでいるからだろう。「動物記」中でも、もっとも印象深い作品のひとつだと思う。(03.01.22記)
−だが、やはりその表情全体からうかがえるものは、まぎれもない母親としての誇りと愛情といったものだった。−
シートンが学生時代に出会った、あるキツネ一家の物語。「銀の星」同様、数匹の個体に起こったことをひとつのキャラクターに帰しているが、それぞれのエピソードは事実にもとづいている。
偕成社、白木茂訳では「エリンデールのキツネ」。
叔父の家から、次々に姿を消すニワトリたち。その手口から見て、私(注:シートン)はキツネのしわざに違いないと確信した。そして定期的にニワトリが盗まれる理由は、彼らが子育てにいそしんでいるからに違いなかった。
しばらくのち、私は近くのエリンデールの松林でキツネ一家の巣穴を発見し、キツネ夫婦、なかんずく母親の子育てぶりをとくと見せてもらえることになった。もちろん、巣穴の秘密を誰にも話さなかったのは言うまでもない。私にはキツネ一家の暮らしぶりの方が、ニワトリの運命より、ずっと興味を引かれることだったから。
ビクセンという名で呼ばれた母ギツネは、ほかの動物には残忍無情で、それと裏腹のように四匹の子供たちには深い愛を注ぎ込んでいた。えさとなるニワトリであれマーモットであれ、決して息の根を止めるところまで痛めつけず、かよわい子供たちが生け贄をいじめ抜く余地を残しておくのである。それは子ギツネたちが狩りを学ぶ前に必要な、準備体操のようなものだった。
やがて子供たちは母から狩りのやり方、生き残るための原理、いろいろな生き物の存在を学んでいく。そしてその中に、もっとも憎むべき存在、人間の臭いもあった。
これらの営みを見せてもらう間、私は真面目にキツネたちを捜索しているふりをしていたが、依然としてニワトリの被害に遭い続けた叔父は業を煮やし、自分でキツネ狩りに乗り出す。そして一家の長を射ち殺し、犬を使ってキツネ穴を見つけ、子供たちも一匹を残して皆殺してしまった。
ただ一匹となった子ギツネは鎖につながれ、母ビクセンは逃げ延びた。それからというもの、ビクセンは毎夜危険を冒して子の元を訪れ、乳とえさを与え、何とか鎖を断ち切ろうとするのだった。
けれどもある晩、彼女が与えたえさを食べた子ギツネは悶え苦しみ、息絶えてしまう。ビクセンは毒の存在を知りながら、もはや我が子を救い出す方法がないことを悟って、その命を絶つことで囚われの身から解放する道を選んだのだ。
そして私は、二度とビクセンの姿を見ることはなかった。エリンデールの森から、キツネたちは姿を消したのだった。
「ロボ」同様、終幕の悲劇が子供心に強い印象を刻んだ一編。
そして今なお、キツネという生き物への筆者のイメージは、大部分この作品からのものだ。
本作はキツネ一家の暮らしぶりを描いた前半、そして一家の悲劇的な運命を辿った後半に色分けできるが、いずれでも母ギツネのビクセンが一番大きな役を演じている。夫のスカーフェースもずる賢く、人間や猟犬を馬鹿にすることが楽しくてならないといったやつで「化かす」という言葉が相応しい個性の持ち主だが、妻の存在感には及ばない。
非情と愛情の対比がごく鮮明なビクセンは、おとぎ話の冷酷で美しい魔女を想像させる。鉄道の陸橋へ猟犬をおびき寄せ、列車に轢き殺させるくだりなどは、その冷静さと度胸とも相俟って、鬼気迫るものを感じずにおれない。シートンの言うところでは、ビクセンのみならずキツネたちは、鉄道の何たるかをちゃんと学んで、それをこうした形で利用するすべを知っていたのだそうだ。
一方でビクセンは、ただ一匹になった我が子を救い出そうと、あくまでも無駄な努力を続ける。どんなに彼女の愛が深く、また知恵があろうとも、一本の鉄鎖には敵いはしない。それを見せられた家の連中は、子ギツネを放してやろうとこそしないまでも、あえてビクセンに銃を向けようとはしなくなったという。
ビクセンの最後の行動に対するシートンの解釈には、異論があるに違いない。けれども作品に示されている彼女の家族への愛がまことのものである以上、それは大きな問題ではないだろう。そして観察を通して、彼女らに愛情を抱くようになっていた人の理解として、それは相応しいものだ。
なお、この作品でもシートンその人の挿絵は、大きな役割を果たしている。特に鋭く吊り上がり、残忍さを秘めたキツネたちの目は、文章だけでは伝わりにくい彼らの個性をよく描いていると思う。この目はかわいらしい子ギツネでも同じで、どんなに子ヒツジに似て無邪気そうでも、やはり親の血を引く者であることを物語っていたそうだ。
そして最後のページの一枚だけが、哀しみに満ちた目でこちらを見つめる。ビクセンのイメージだろう。(03.01.23記、03.01.27追記)
−黒いマスタングは、みごとな体躯と、墨のような黒いたてがみと尾をもち、緑色にかがやく目をしていた。−
「黒の野生馬にたりねえのは爪だけだ。あいつに鋭い爪をつけりゃ、ダニエルのライオンだって、かなうめえよ」−
平原の王者だった、生まれながらのだく足の
物語はほぼ完全に事実に取材しているが、終幕のみはシートンの創作だという。
野生の馬は、牧場主やカウボーイたちの目のかたきだった。人に馴れず使い道がないばかりか、飼い馬まで誘い出して野生化させてしまうからである。ことに黒い野生馬ときたら、その気性の激しさと人の受け付けなさで始末に負えない存在として、悪名をとどろかせていた。
その黒い野生馬の一頭が、カウボーイたちの間で評判になる。牧場から大勢の牝馬をうばっていったそいつは、生まれつきのだく足、つまり左右の前足と後ろ足を同時に踏み出すごくまれなやつで、草原をすばらしいスピードで駆けることができた。
無一文だが活力にあふれたカウボーイのジョーは、最初は賞金目当てから、そしていつか最高の馬への畏敬にも似た気持ちから、黒馬を生け捕りにすることにとりつかれる。彼はとぼしい金をはたいて馬と乗り手を集め、リレーで乗り継いで追跡する大レースを展開したが、数頭の馬を駄目にした凄絶な追い込みさえ、黒馬の並外れた脚力の前には無力だった。
一方もうひとりのハンター、ターキートラックじいさんことコックのベーツは、ジョーの失敗から黒馬を追いかけて捕らえようとする愚を悟る。彼はハレムの牝馬たちをうばわれた孤独こそが黒馬のつけいる隙だと見抜き、牝馬をおとりに使った罠を張って、ついに誰も触れられなかった黒馬をがんじがらめに縛り上げてしまった。
じいさんの焼印を押され、もはや野生馬でなくなった黒馬は、しかし服従をかたくなに拒んだ。そして最後に谷底へ身をおどらせ、その生命を終えたのだった。
ええと、ぼくらの世代で一番知られた黒馬と言えば、北の空に輝く七つ星の一族のおにいさん(子安武人氏の声で読むこと)が
尻に敷いておられた、でっかくて身重そうなあいつですよね。原作者も含めて、誰からも愛されなかったラスト付近で行方不明になっちゃって、それからどうなったんだろう、と気にしているのは筆者だけでしょうか。
わけのわからない前振りで失礼しました。
筆者は競馬に興味がないし、その他の機会もなかったので、直に馬という生き物が走る姿を見たことがない。だから正直なところ、左右の前足、後ろ足を同時に動かして駆ける「だく足」のめずらしさも、あくまでそのリズムを崩さない馬の足の速さもイメージしにくいのだが、作品での黒馬は疲れを知らず、決して追いすがることのできない存在として描かれている。複数の馬と乗り手に一日中追われ続けて、なお疾走する彼は、まさしく草原の覇者だ。
そしてこの覇者は美しい。物語の舞台はニューメキシコで、あの「ロボ」と黒馬は、同じ時代、そしてごく近い場所に生きていた。本作でシートンは端役として登場しているが、彼はその頃まさにロボの狡知に敗北を重ねつつ、あくなき挑戦を続けていたのである。
シートンが見た黒馬は「頭と尾を高く振りたて、鼻の穴を大きくふくらませて、すばらしい馬の完全な美を思わせる姿だった。その容姿は、今までに平原に放牧されたどんな動物よりも気高いものを感じさせた」−たとえ銃弾が届く距離にいようと、シートンにとって黒馬を射殺するなどは、到底できないことだった。
本作はシートンの作品類型では珍しくない、主人公の動物と人間が一対一の対決を繰り広げる筋書きだが、人間の側のキャラクターがふたり、そして対照的な性質の持ち主なのは注目すべき点だろう。精力的で、求道者のように最高の馬を求めるジョーと、しおれた狡猾な老人のベーツ。最後の勝利を得るのは後者で、しかも最初はカウボーイたちのコックとして、名前さえ紹介されない、影のごとき存在として登場する。このキャラクターの陰陽の対比のおかげで、最後まで物語は一本調子にならず、起伏あるものとして組み立てられているのだ。
終幕については、シートンの解説を聞こう。
「物語は死にかたについて一致しないことを除けば、すべて事実ありのままである。ある証人によれば、マスタングは初めて連れこまれた囲いの中で首を折ったという。そのことを知っているのはターキートラック爺さんだが、あいにく爺さんはすでに相談できないようなところにいる」−
そうしたわけで物語の中では、誇り高い黒馬はあくまで人間の手に触れ得ない存在として、その生命を全うしたのである。それは書き手と読者の両方にとって、相応しいと思えたことだろう。(03.01.31記)
−そういう犬は、ずる賢く大胆で、狼のように噛みつくことができる… そしてひどい仕打ちを受けたり、長い間逆境におかれると、人に可愛がられるようないい点をいくつも持ちながら、まことに恐ろしい裏切りまで、やってのけるのである。−
昼間は忠実な牧羊犬、そして夜は血に飢えた殺戮者。ふたつの性格をそなえた奇怪な犬、ワリーの物語。
この二面は、実際には二頭の犬の性格を合わせたものだが、いずれにせよ彼らは残忍な裏切り者だったという。
鋭敏で活動的、頑健な身体− すぐれた資質を持った雑種の「キツネ犬」ワリーは、イングランド北部に生まれ、牧羊犬として羊飼いのロビンじいさんに忠実に仕えていた。彼にとって、もっとも幸せな時代はこの頃だっただろう。
けれども愚か者で、目先の欲求しか頭にないロビンじいさんは、ささいな理由でワリーを捨て、二度と戻らなかった。あわれなワリーは丸二年間渡し場で主人を待ち続け、最後にかつてのロビンじいさんの友人で、その臭いを身につけていた男についていき、そこで再び牧羊犬となったのだった。
新しい家でも、ワリーは忠実で賢い番犬として、家人の信頼をかちえた。けれども彼の中には、かつての仕打ちがよびさました得体の知れない性質がひそんでおり、村人からは気味悪がられていた。
一方、村には残忍な古ギツネが出没し、毎晩のように大勢のヒツジたちが殺されていた。ただ一ヶ所、勇敢なワリーが見張る家の牧場だけが、一頭の犠牲も出さず、彼はますます全幅の信頼を得るようになった。
ある冬の夜、殺戮者の足跡を苦労して皆が追うと、それはワリーのいる牧場へと続いていた。その意味を確かめるため、家の娘がワリーのいる台所で寝てみることになった。
真夜中にワリーはそわそわし始め、寝たふりをする娘の前で器用に窓を開け、外へ出て行ってしまう。そして戻った時には、その身に返り血を浴び、目には狂気の光が浮かんでいた。
今や娘は、忠実な犬のもうひとつの顔を知った。彼女が大声でなじると、ワリーは音もなく跳び、咽喉を噛み裂こうと襲いかかった。だが間一髪で、飛び込んできた主人の斧に頭を砕かれ、不幸な生涯を閉じたのだった。
「動物記」の、おそらくは随一の異色作だろう。主人公の陰惨な性格と、暗然たる結末。他の作品も悲劇の終幕という点では同じだが、もちろん悲劇の内実がまるで違っている。
子供向けの偕成社の白木茂訳では、教育的配慮からワリーが殺そうとする相手が娘ではなく、最初にワリーがヒツジ殺しだと主張した男に改作されているが、筋書きそのものは同じである。最初に読んだ時には、どう受け止めていいのか戸惑ったものだった。
今は司馬遼太郎の一編、「人斬り以蔵」を思い出す。犬と呼ばれ、斬る相手には情容赦なく、反面その人斬りを命じる主人にはひたすら這いつくばって仕えた男、岡田以蔵のことだ。最後に主人を裏切る、その一点までもが共通している。
「不幸な男が生まれた」と、司馬氏は作品を書き出していた。同じようにワリーの物語にも「不幸な犬が生まれた」という一句が相応しいだろう。片や犬のような人間の、そして片や人間のような犬の物語だ。われわれが普段このような二面性を見出すのは、もちろん人間の上になのだから。
そしてシートンは解説して、このような犬の話を六つも聞いている、と書いている。そのうち一頭は、楽しみだけのために近所の犬を殺して歩き、死体は砂堀り場の穴の中に隠していた。
こうなるとますます、犬も人間のような性格を帯びた、複雑な生き物だと思わずにいられない。そしてこの一点において、やはりワリーの物語は、シートンの他の作品と血を同じくしている。光の当たる側面が、怨念や陰険さだという違いはありながら。(03.01.31記)
−その音は、谷間へころがりこみながら、にぶいこだまを呼び起こし、春の到来を喜ぶ赤襟さんのよろこびを、谷じゅうにひびき渡らせるのだった。−
外敵に容赦なく追われ、消え去っていったアメリカウズラ(ライチョウ)の家族の物語。
ウズラたちの生活を描く中に、無感動に動物の生命を奪う狩猟者たちへの怒りがにじみ出ている。
ドン渓谷で生まれたアメリカライチョウの赤
耐えしのいだ冬が終わり、南から戻ってきたカラスたちが春を告げると、赤襟さんは身体の芯からにじみでる欲求に突き動かされて、丸太の上で翼をふるわせ、太鼓のような音を谷中に打ち鳴らした。たった一羽で翼の太鼓を打ち続けるうち、彼は小さな雌のウズラと出会い、その孤独は癒された。
しばらくして、彼らつがいは卵を産み、赤襟さんは十羽の息子や娘の父親になった。だが幸せな日々は長くは続かず、妻は残忍な世捨て人の猟師に殺され、子供たちも冬の寒さと猟師の銃弾に次々に奪い取られていく。
ふたたびひとりぼっちになってしまった彼は、ある日猟師の仕掛けた罠にかかり、二日間宙吊りの苦痛にさいなまれた後、ミミズクに引き裂かれて生命を終えた。その鮮やかな襟羽が吹雪に吹き散らされてからは、もうこのドン渓谷にウズラたちは見られなくなり、赤襟さんが太鼓を打っていた丸太は、誰にも使われぬまま朽ち果てていったのだった。
本作のアメリカウズラは、むしろライチョウのような鳥らしい。その襟羽について、シートンはこう書いている。
「雌ウズラの襟羽は、やや緑色の輝きを帯びた黒で、雄のは、ずっと大きく、また雌より黒くて、鮮やかな濃い緑色の光沢をもっている。
ウズラには、時たま、ふつうの大きさより、ずっと大きなウズラが生まれることがある。そういうウズラの襟羽は大きいだけでなく、色も一段と冴えている。なにか独特の色を増すしかけによって、紫、緑、金色の混じった虹色にみえる濃い赤銅色の襟羽なのである」まさに赤襟さんこそ、この選ばれた者たちの一羽だった。
そして翼を打ち振り、空気を振動させて、太鼓のような音を打ち鳴らす。この行動をドラミングと呼ぶそうだ。
上でも書いたが、野鳥という無力な存在の生命を、面白半分で奪う狩猟者たちへの怒りは、この作品の重要なテーマだ。赤襟さんの兄弟、そして妻や子供たちを殺したカディじいさんは、ただ獲物を撃ち落とす快感のためだけに猟をし、禁猟期間さえ守らない人物として描かれており、シートンは彼に「鉄砲撃ちのけだもの」と激しい軽蔑の言葉を浴びせている。これは前述の「だく足の
もとより狼王ロボの退治を頼まれ、見事それを成し遂げたように、作者シートン自身すぐれたハンターだった。けれどもそれだけに、動物の生命を奪うことの意味について、深く考えるところのあった人だったのだ。この点は、本書「私が知っている野生動物」の最終章「サンドヒル雄ジカの足跡」において掘り下げられている。
もちろん物語は、最後の一羽まで根絶やしにされたウズラ一家の悲劇に尽きるものではない。動物の生活そのものがテーマとなっていない作品は、この書物には一編もない。
ウズラたちの一月は、餌や季節、そして彼らの状態の名前がつけられる。七月はイチゴの月、八月は羽替わりの月、九月は鉄砲撃ちの月、続いてクルミとフクロウの月、カシの実の月、旅の狂気の月、雪月、嵐月、飢え月、目ざめ月、ネコヤナギの月… というように。
月ごとに違う食べ物、そして違う敵。つねに敵に狙われ、犠牲を出しながら成長する。そして体力と知恵、幸運に恵まれて大人になれた雄は、内なる声にしたがって翼の太鼓を谷間に打ち鳴らし、生きるよろこびを他の動物や鳥たち、そして恋人に伝えるのだ。
彼らの悲劇を怒りと哀しみをもって描写したシートンは、赤襟さんの美しさや太鼓の勇壮さをたたえるにあたっても、筆をおしみはしなかった。
あと、カラスの王「銀の星」がほぼ同じ時代、同じ地域に生きていた者として、わずかながら出演しているのも、ちょっと嬉しいところ。(03.02.01記)
−ワーブはその陰気な日常の中で、ただひとつ大きな喜びを味わうものをもっていた。それは、とうていかなうもののない自分のすばらしい力に対する、輝かしい誇りだった。−
「子ども時代」「壮年時代」「老衰時代」の三部で構成される、ある灰色グマの生涯。
強いことだけが存在理由だった孤独な生き物を、情を込めて淡々と描く。
第一部 子ども時代… 灰色グマの子ワーブは、三匹の兄弟とともに、母親に守られて満ち足りた日々を送っていた。兄弟の中で一番大きく、力の強い子だった。
けれども平穏な日々は、銃を持つ人間との出会いによって、突然終わりを告げる。母親と兄弟たちは皆銃弾に殺され、たった一匹だけ生き残ったワーブは空腹と傷の痛みに耐えて、森の中をさまようのだった。守ってくれる者を失い、どんな相手からも悪意以外のものを受け取ることのなかったワーブには、あらゆるものを憎みつつ逃げ続け、ひっそりと暮らすほかに道は残されていなかった。
そんなワーブも齢を重ねるにつれ、次第に他の生き物からおそれられる存在になり始めていた。そして彼自身、その力をふるって外敵を打ち負かすことに、激しい喜びを感じるようになっていった。
第二部 壮年時代… ワーブの力はますます強くなり、また銃や罠についての経験も増して、森の王者となる。彼の生命をうばおうとした狩猟者たちは、逆に前足の一撃の餌食となり、人間さえもがその領分を認めて寄り付かなくなった。
ワーブには王者らしい寛容さなど、みじんもない。子グマ時代に庇護者を失い、悪意のみにさらされて育った半生は、そうした心のゆとりを持つことを不可能にしていた。自ら治める大地の美しさも、恋と性の陶酔さえも、決してワーブに訴えかけることはなく、生きるよろこびを感じることができるのは、目の前に現われる者を誰彼なく容赦なく叩き潰す、ただその時だけだった。
第三部 老衰時代… 年月は過ぎ、ワーブは老いた。依然として誰にも負けなかったが、かつて銃や罠に負わされた傷はうずき、身体の働きもにぶくなり始めていた。
そんなある日、ワーブの縄張りによそ者の灰色グマがやってくる。なりこそ小さかったが用心深く聡明な彼は、木の切り株を踏み台にして、実際の背丈よりはるかに高い位置に縄張りのしるしをつけていった。その上で決してワーブの前に姿を見せず、しっぽをつかまれないようにした。
ワーブは侵入者に激怒したが、つねに自分の背丈より高いところについているしるしと、正体がつかめない相手の影とは、次第に彼を追いつめていく。そして体力のおとろえもあいまって、とうとうワーブは敵を求めて争う気力を失い、王国が新参者に奪い取られていくのを、黙って見過ごすようになった。
リューマチに冒された身体をひきずり、新たな王者におびえて暮すほど落ちぶれたワーブは、いつか痛みから逃れるため、硫黄ガスを吐く死の谷の入口に立っていた。かつてならおぞけをふるって退いたはずのそこは、今や彼に平和と苦痛のない眠りをもたらしてくれる天国だった。
死の谷へ踏み込んだワーブは硫黄ガスを吸い込み、かつて母に抱かれて眠った日の安らぎを取り戻し、彼岸の世界へと旅立ったのだった。
いちめい「グリズリーベア」とも呼ばれる灰色グマは、地上最大の肉食獣のひとつだ。立ち上がると2m半、体重数百キロにもなり、前足のパンチは牡牛の頭蓋骨をも打ち砕く。第2巻の内容になるが、シートン自身この灰色グマの物語、そして主人公ワーブの個性において示したかったことは「肉体の力」である、と書いている。
ワーブの全盛時代の青年・壮年期、つまり第二部で描かれる彼の強さは、それほど強烈だ。ハンターたちを返り討ちにし、クロクマたちをふるえあがらせ、突きかかってくる牡牛を一撃で殴り殺す。同じように野生動物の覇者であるオオカミやピューマでさえ、ワーブに面と向かうものなどおらず、獲物を捨てて退散する。まさに彼はその縄張りにおいて、絶対の力を持つものだった。
そしてワーブの強さ、容赦ない残忍性は、彼の生い立ちそのものと結びついており、このキャラクター設計により「強さ」は単なる事実ではなく、ドラマの対象となっていく。
主人公の動物の視線で語る作品は「動物記」に珍しくないが、本編はおそらくその最右翼で、標題どおり「伝記」と呼ぶにふさわしい。幼年時代から死までをフォローしているだけでなく、ワーブの感情は描写の積み重ねに助けられて手に取るように伝わり、読者は力を振るう欲求に憑かれたこの孤独な生き物に、ごく自然に感情移入していく。愛される性質とはおよそ裏腹なのに、老いたワーブが新たな王者の知恵の前に追い立てられていく終幕では、彼に深いあわれみを感じないわけにはいかなくなるのだ。
普通なら、これだけ野生動物を「人」として描けば、違和感が出るのを避けられないはずだが、取材にもとづいて彼らの習性をきちんと描いていることが、ここでも作品を破綻から救っている。ワーブはクマに人間の個性を与えたキャラクターかもしれないが、それでもやはり一匹の灰色グマであり、おとぎ話のクマでは決してない。
同じように揺るぎない強さを誇った「ロボ」とは、陰と陽のように実に対照的な個性なので、この二編を比べて読んでみるのも面白いだろう。
本編中に、ちょっとほっとして読めるエピソードがふたつある。砂金を掘る抗夫たちとの出会い、そしてイエローストーン自然公園でのワーブがそれだ。特に前者は、人間と銃を憎悪していたはずのワーブが、抗夫たちに悪意を認めず、黙って立ち去ったというもので、彼の性格にもう一面を付け加えるものだろう。
抗夫たちもまた、シートンの取材対象から漏れてはいないので、少なくともこれに似た出来事が、実際に体験されていたのだろうと思われる。
「灰色グマの伝記」は、強い動物の物語だ。そしてそれ故にこそ「野生動物の生涯は、常に悲劇的な結末を迎える」という言葉が、もっとも胸に迫る作品となっている。終幕において、王者だった主人公が強さを失い、老醜をさらす過程が、容赦なく描かれるからだ。
では野生動物ならぬ、人間はどうなのだろう?(03.02.08記)
−シカに出会った時には、ああもしよう、こうもしようと考えながら追ってきた。ところが、そのような心の準備は、すべてなんの役にも立たなかった。ヤンは今、目前にシカを見て、すべてを忘れ、ただ驚きの念にうたれてシカを見つめるだけだった。−
狩猟者の青年と雄ジカの追いつ追われつを通して、狩猟欲と生あるものへの憧憬の葛藤を描く。
冒頭の献辞と内容から、著者シートンの自伝的な作品であることがうかがえる。
すぐれた狩人としての天分、頑健な身体と粘り強さ、機転をそなえた青年ヤンは、日々シカの足跡を追って冬のサンドヒル丘陵を探索していた。だが突然に目指す相手と出会ったとき、ヤンはその優しいまなざしの前に立ちすくみ、何もできない自分を見出すのだった。
その次の年も、ヤンは激しい狩猟欲に突き動かされ、オオカミの群れに襲われそうになったり、ひとりのインディアンと行動をともにしたりしながら、狩人としての経験を積んでいった。そしてついに因縁の雄ジカとの再会を果たしたが、内心の葛藤から震えが走り、やはり目的を果たすことはできなかった。
さらにのちの年の猟期に、東部の町に住んでいたヤンは仲間をひきつれて舞い戻り、三たび雄ジカに勝負を挑んだ。執拗な追跡で、彼らは雄ジカの連れの牝ジカを仕留めるのに成功したが、ヤンの心は殺戮の結果の空しさに沈むだけだった。
己の心に決着を付けるため、ヤンは仲間を帰してただひとり雪原に残り、雄ジカを追いつめる。三日の追跡の末、四日目に彼らは三たび、そして最後に対峙した。
幾度となく繰り返した、野獣の狩りの衝動と、生ある美しいものを讃える気持ちの葛藤は終わりを告げ、ヤンは銃を下ろして雄ジカに別れを告げるのだった。”僕は今こそ自分で聖杯を見つけたのだ。…もう二度とお前に会うことはあるまい。では、これで別れよう”
−これぞ我が生涯の最良の日々。これぞ黄金時代。−冒頭の献辞、そして本文中にも繰り返される言葉である。
激しい気性と頑健な肉体を備えた青年ヤンについては、仮に彼が筆者シートン自身の若い頃の自画像ではない、と言われたところで、信じる気にはなれない。身ひとつで原野を駆けるよろこび、獲物を追う総毛立つような高揚感、いざ標的を目の前にしたときのためらいや、同世代の仲間たちへの反感と軽蔑に至るまでに、筆を運ぶ者自身の強烈な共感、思い入れが染み込んでいる。
ゆえに、本作も「動物記」の異色作だと思う。主人公が雄ジカではなく、むしろヤン=シートンであり、彼が厳しく己を見つめ、己のほんとうに欲するものを探求する旅路を主題とした、人間主体の物語だという点において。
幾週間もの間雄ジカの足跡を辿って、ついに成果があがらなかった時のことでさえ、そこから多くを学んでいったヤン=シートンにとっては「輝かしい失敗」だったのだ。
本作の重要なモチーフとなっている、狩人として相手を狩り立てる欲望と、それを抑える心とは、相反するもののようで、実は相似た感情であるようにも思える。どちらも対象を激しく追い求める心という点では、同じものだからだ。
だからヤンが真摯に雄ジカを追えば追うほど、彼を目の前にした時の気持ちの震えも大きくなった。逆も然りで、雄ジカの生命にあふれた姿に魅せられればこそ、仕留めたいという欲望から逃れることはできなくなるのだった。
二度目にヤンが雄ジカに銃を向けた時の、一瞬の緊張にあふれた場面。
ヤンは熱い息を激しく吐きながら、今にも息がつまりそうだった。引き金にかけた自分の指をただ一回動かすだけなのに、その一回だけの動作に、とても一言では言いつくすことのできぬものが、すべてかかっていた。ヤンは力がぬけて、思わず鉄砲を下へおろし、雪の中に腹ばいになったまま震えだした。
しかしヤンはすぐに落ちつきをとりもどした。手のふるえはとまり、もう一度ゆっくり銃を持ちあげた。照星をぴったりと雄ジカに向けて、狙いをつけた。たかがシカ一頭ではないか−−そう思った時、雄ジカは急にくるりと向きを変えて、まともにヤンの方へ向いた。注意深そうな目と耳、それに鼻をまっすぐヤンのほうにむけて、じっと見つめた。
牝ジカを殺した晩、かがり火の前で失意にうずくまるヤン。
これが自分の目的だったのだろうか? これが本当の追跡だったのか? 心に孤高の理想を抱きしめ、何週間もの長い間、幾多の輝かしい失敗を重ねながら冬の野山に捜し求めたものは、このようなものだったのか? 輝くばかりの美しさに包まれた生き物を、死の苦しみにもだえさせ、あげくのはてに、このようなみにくい腐肉の塊りに変えることが、自分の本当の目的だったのだろうか。
ヤン=シートンがこうしたきびしい葛藤を経た人であれば「赤襟さん」で描いたように、無感動で面白半分に動物を殺すハンターたちに、怒りと軽蔑を隠さなかったのは当然だろう。
なお、第2巻「狩られるものの生活」の第1作「クラッグ」にて登場する猟師スコッティも、性格こそまったく違うものの、この種の葛藤を帯びたキャラクターだが、これについてはあとで触れることにする。
最後に、シカという生き物の、見事な跳躍について語ってもらおう。
二頭のシカはすぐに、遊び半分とびあがるようなやり方ではねあがりだした。二頭ともまるでヤンのことなど忘れてしまったようだった。二頭の跳躍はじつに身軽だった。小さなつま先で軽く雪の地面にふれるだけで、軽々と一気に二メートル半ちかくはねあがる。…二頭の跳躍には、やがて力がこもり、スピードを増し、ヤンがかつて聞いたことのある力強い跳躍をくりかえし始めた。二頭の姿はみるみる遠ざかっていった。…
ひととびごとに高くはねあがり、草木のない丘の稜線に沿ってはねとぶ時は、二頭の身体は優雅な弧を描いた。深いくぼ地を軽々と飛び越えていく時は、まるで翼のない鳥が空を飛ぶようにみえた。そしてそのような時、楯のような形の白い尻は鮮やかに空に浮かび、いつまでも中空にかかっているように見えた。(03.02.11記)
続いて第2巻「狩られるものの生活」へどうぞ。