「動物記」作品紹介(4)
   動物の英雄たち


  この本におさめられた物語には、すべて多少の粉飾ふんしょくがほどこしてある。しかし、いずれも、実在した動物の英雄たちの、実際の生活経験をもとにしたものである。  

  アーネスト・トムソン・シートン


   動物記第4巻「動物の英雄たち」。なにがしかのトピックにより人々の記憶に残された、突出した個性ある生き物の記録。
 参照「シートン動物記4 動物の英雄たち」 藤原栄司訳、集英社、昭和47年3月25日発行。


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  ○裏町の野良のらネコ
  ○アルノー−ある伝書鳩の生涯
  ○バッドランドのビリー−勝利をえた狼
  ○少年とオオヤマネコ
  ○小さな軍馬−あるジャックウサギの物語
  ○スナップ−あるブルテリヤの話
  ○ウイニペグのオオカミ
  ○白いトナカイの伝説

  ○ホッキョクギツネの伝記


  裏町の野良のらネコ


  −本当のおいしさというものは、飢えやかわきに迫られた時、ミルクかんから盗んでこそ、味わえるものなのだ。−


 裏町で生まれたみなし子のネコの、放浪と出世。4部構成。

 生活−第一の時代… ニューヨークのうす汚れた裏町育ちの野良ネコ”にゃん子”に身寄りはいなかった。兄弟は生まれて間もなく雄ネコに食い殺され、母はうっかり波止場の船に乗り込み、どこかへ消えてしまった。それでにゃん子はひとりで生きることを覚え、えさをあさり、敵から逃げる術を学んだ。
 小鳥屋の裏庭に住み着いたにゃん子には、いつか仲間もでき、出産して子育てもしたが、子ネコらは小鳥屋に見つかった時、皆殺されてしまった。しかしにゃん子はネズミ対策から生かされ、やがて肥って見事な毛並みになったため、ネコを品評会に出品してひともうけをたくらむ小鳥屋の主人の元で飼われることになったのだった。

 生活−第二の時代… 小鳥屋の主人は、にゃん子を首尾よく美しい毛皮のネコに仕立て上げ、黒人の助手と組んでニセの血統書を作り「ロイヤル・アナロスタン」の偽名を与えて、上流階級のお歴々だけが集うネコの品評会に出品した。
 にゃん子は金箔を塗った檻の中でビロードのクッションに身を横たえ、いかにもつまらなそうにしていた。もちろん品評会一の逸品の評価を受けたことなど、知ったことではなかった。

 ロイヤル・アナロスタンことにゃん子は、出品者の主人には目のくらむような高額で金持ちに引き取られ、大きなお屋敷で暮らすことになった。そこではやたらとちやほやされたが、生まれつきの自由気ままな生活はなく、彼女はすきをついて逃げ出し、故郷の裏庭へ戻ってきた。
 しかし、小鳥屋と助手にとってにゃん子は、金を産む卵以外の何でもなかったので、彼女を捕えて屋敷へ送り返し、謝礼をせしめたのだった。

 夏になってお屋敷の人々は、80キロ離れた田舎の別荘へ避暑へ出かけ、にゃん子もバスケットの中で汽車や馬車に揺られて送られていった。ここでもにゃん子の気に入ったものは、下町の臭いのする台所の料理女と一本の潅木だけで、バラの香りに満たされた他の全てはがまんのならない代物だった。そこでにゃん子は、またしても機会をとらえて脱走を計り、不思議な方向感覚に導かれて、はるか彼方となった故郷へ歩き始めた。

 生活−第三の時代… 犬や子供に追われ、飢えに耐え、汽車という巨大な怪物に驚かされつつも、にゃん子は鉄道沿いに歩き、一歩々々故郷へ近づいていった。そしてついに辿り着いたところが、故郷の町はすっかり取り壊され、廃墟と化していた。鉄道橋をかける工事のためだった。
 それからしばらくして、にゃん子はあの鳥屋の助手に再会した。彼は新しく建ったビルのエレベーター・ボーイになっていて、飢えに悩まされるにゃん子に餌を分けてくれた。

 生活−第四の時代… 次第ににゃん子は黒人の助手に気を許すようになり、ただひとりの友達になった。そして黒人は、にゃん子に食事の手はずをつけてくれもした−自分の儲けを計算してのことながら。そして彼が気を利かしてネズミ捕りをにゃん子の手柄にしてくれたので、にゃん子の地位は安泰だった。
 いつかにゃん子はネコどもの貴族になり、丁重に扱われるようになった。しかし彼女の心は薄汚い裏町の野良ネコのままで、今日のたそがれもねぐらから抜け出し、裏町をうろついて、自由気ままな生活を謳歌するのだった。

 シートンに犬やオオカミを扱った作品は数多いながら、ネコのそれは少ないので、本作は貴重な存在だと思います。それでは…

 「にゃん子」。言うまでもなく、この名は雌のネコだということしか示しておらず、夏目金之助先生の描いた「我輩」と似たようなものである。ちゃんとした名のついた動物ばかりのシートンの作品では異例だが、人間と関わって生きながら、その価値基準に囚われない彼女の生き様が作品の趣旨なので、意図しての命名なのは言うまでもないだろう。「にゃん子」だからこそ、インチキの血統書や「ロイヤル・アナロスタン」の可笑しさが引き立とうというものだ。

 にゃん子のモデルは、シートンが少年時代に関わったネコである。少年シートンは”未開の西部展”という展覧会を企画し、その見世物に毛皮の色を塗り替えてヤマネコに仕立てた野良ネコを出品しようとして、見事に失敗した。野良は与えられた役目を嫌って、籠から逃げ出してしまったのだ。
 つまり、本作での道化じみたこすっからい小鳥屋−何と「顔が丸く平べったいうえに、目がひどく小さく、おまけにつりあがっていた」という理由で、”ジャップ”という徒名で呼ばれている−は、シートン自身というわけである。ついでに逃げられた野良の名は”オレンジ・ビリー”といったそうだが、この名はにゃん子に何度か子ネコを産ませた端役の雄ネコに与えられている。
 (資料:「シートン自叙伝」・藤原英司著「シートン動物記の世界」)

 作中、にゃん子は二度脱走を試み、二度目などは八十キロも離れた別荘から、見事帰郷を果たすが、ネコが不思議な方向感覚に導かれてかつて住んだ地へ戻ることは、例えば「昆虫記」のファーブルも経験している。方角を示す手がかりなど何もないはずなのに、成長した雄ネコは引っ越し先から遠い古巣へ戻ってしまうのだ。年老いて長旅のできなくなった雄は、家出こそしなかったが、元気をなくし、間もなく枯れるように死んでしまった。
 (資料:「完訳ファーブル昆虫記2」)

 内容そのものについては、あまりコメントする必要はない。裏町の汚くて危険の多い通りを何よりも愛したにゃん子のたくましさや、帰郷の道程のすっとする開放感など、見所は随所にある。
 愛玩動物に対する人間の愚かしさのくだりなど、今日でもクスッと笑えることだろう。

 にゃん子は、なでられたり抱かれたりするのをこばんだ。しかしこれは貴族的な性格が、やたらになれなれしくされるのをきらっているのだと解釈された。
 また家の中で飼われている小型の愛がん犬をよけて、夕食のテーブルの真中へかけのぼると、これにもそれ相応の説明がついた。つまり、本当は誤解なのだが、小犬のことを汚いと思い、汚いものにふれるのはいやだという根深い衝動から、そうするのだといわれた。
 さらににゃん子は、屋敷で飼われていたカナリヤを襲った。しかしこれも、ロイヤル・アナロスタンが、生まれ故郷の東洋で、横暴な例をいくつも見て育ったからだろうといわれた。
 またにゃん子がミルクのかんのふたをあけると、そのやりかたがいかにも貴族的だといって喝采かっさいをはくした。…(03.04.25記)



  アルノー−ある伝書鳩の生涯


  −「伝書鳩の心を買うことはできませんよ。…どんなことをしたって、あいつに、自分の生まれ育ったところを忘れさせることなどできません」−


 数々の飛行記録に輝き、望郷の念とともに空に散った伝書鳩”アルノー”の生涯の記録。

 その日私(注:シートン)は、若い伝書鳩の長距離飛翔競技の審判を任されていた。優秀な伝書鳩に不可欠なスピードと確実な帰巣能力を試すための競技であり、最優秀者を決める私の責任は重大だった。
 やがて鳩達は、白い雲のように群れをなして、一度に鳩舎へ押し寄せた。一番の鳩が、ひとつだけ空けてあった入口に飛び込んだ時、その鳩の飼主は夢中になって叫んだ。
 「アルノーだ! なんて可愛いやつだろう! 生まれてからたった三か月しかたっていないというのに、優勝したんだぜ」−
 ”アルノー”の足には、高級伝書鳩の証として銀の足環がはめられた。その番号は”2590C”だった。

 伝書鳩らの訓練は続けられ、普段は小柄で目立たないアルノーは、空では他の追随を許さないスピードを示して鳩舎へと舞い戻っていた。そして海上から帰巣する訓練のため船に乗せられた時、濃霧の中で漂流状態となった船から放され、海上340キロを4時間40分で翔破して救難メッセージを送り届ける大記録を樹立した。

 アルノーは、シカゴ−ニューヨーク間を飛ぶ伝書鳩の”年齢無差別懸賞レース”に参加した。ハンデをつけられて一番後から放されたにも関わらず、950キロを12時間で飛んでいた彼は間違いなく最先頭を飛んでいた。
 咽喉の渇きを覚えたアルノーは、眼下に鳩舎を見つけ、そこへ舞い降りた。ところがその鳩舎の主人は熱心な養鳩家で、足環から有名なアルノーの名を知り、雌鳩にアルノーの血を引く子を産ませようとして、彼を鳩舎に閉じ込めた。それから長い間、アルノーは見知らぬ地で囚われの身となって過ごしたのである。
 泥棒はアルノーが自分の雌鳩と交わったことを確かめてから、やっとアルノーを放してやった。彼は一瞬たりともためらわず、故郷のニューヨーク目指して舞い上がり、虚空へ消えた。
 レース中にアルノーが失踪を遂げてから、2年が過ぎていた。

 囚われの長い時間は、アルノーの飛翔能力、そして故郷を目指す力を奪うことはなかった。彼は激しい望郷の念に突き動かされ、力の限り大空を飛び続けた。途中彼に襲いかかったタカやハヤブサの爪は、白い矢となって翔けるアルノーの前に、むなしく空をつかんだ。
 しかし、低空を行くアルノーを鉄砲撃ちの散弾が狙い、弾丸は身体を貫いた。深手を負いながらアルノーは墜落せず、スピードを落とし、身を紅に染めて飛び続けた。
 懐かしい故郷を眼前にした瀕死のアルノーに、見る間にハヤブサの夫婦が迫っていった…

 そのハヤブサらが猟銃にかかって撃ち落とされたあと、巣から伝書鳩の足環が幾つか見つかった。そしてそのひとつの銀の環に、こう刻まれていた。
 ”アルノー 2590C”

 ”アルノー”がどのような血統を受け継いで生まれた鳩かは定かでありませんが、由緒正しいレース用の鳩の血であったことはまず間違いないので、それらについて説明しているページを紹介しておきます。「史実としてのピジョン・スポーツ」
 彼らは野生の種と違って、犬やネコのように品種改良によって生まれたのです。

 読みましょう、これは。何も言わずに。

 いきなり何だという感じだが、本作は「動物記」中「ロボ」「クラッグ」と並ぶ、筆者絶対のおすすめである。端的に明快で盛り上がる主題があり、一般性のある内容なのだ。
 一読すれば、本作の構成がいわゆる”航空もの”そのものであることに気付かれるだろう。背景となる空を飛ぶ者への無限の憧れはもちろん、擬人化されたアルノーの性格設計は、この種の創作の主人公の類型にぴたり合致する。内気で孤独を好み、故郷以上に愛するものは何もないにも関わらず、地上での暮らしは飛行の合間の休息のひとときであり、長く地上にとどまっていることはできない。すべての活力は飛ぶことに注ぎ込まれ、やがて危険との戦いの中で燃え尽きるようにして、短い生涯を閉じるのだ。
 本書のタイトルは「動物の英雄たち」だが、ただひとつのことに生命を燃やし尽くす、このアルノーほど純粋なヒーローは他に例がない。どんなに遠くからでも危険をかいくぐり、古巣へ戻らずにいられない伝書鳩の姿は、作家シートンの心を強く揺り動かしたのだろう。

 アルノーは今や自由の身となって、さえぎるもののない大空へかけあがった。幾多の名誉に輝く翼を打ちふって、激しい衝動につきあげられながら、青く澄み渡った空へ、高く大きく円を描いてのぼり続けた。それは青灰色にひらめく一筋の光のように見えた。光の輪はますます大きく輪を描きながら遠ざかり、ついには一点の燃える青い炎となって紺碧こんぺきの青空の中にとけこんでいった。
 アルノーは猛スピードで飛び続けた。目ざす先は、なつかしい我が家だ。あのなつかしい古巣と不貞な妻のもとへ、アルノーは今、ただ一筋に飛び続けているのだった。


 この時代、まだ「飛行機乗り」という人種は存在しなかったが、体重わずか数百グラムのアルノー達は、まさしく彼らのパイオニアだった。小説、映画、漫画、アニメ等で繰り返し描かれた、寂寥感をまとった勇敢な男達− そのさきがけとして空を翔ける者だったのだ。

 追記:
 なお、本作で描かれている伝書鳩についての諸々は、すべて実際に例のあることです。困難な洋上からの通信文輸送を成し遂げた鳩の存在。速報性により取引情報の伝達に利用されていたこと。千キロを越える距離を翔破する長距離レースを成立させる帰巣能力。しばしば銃弾、タカ、ハヤブサ等の犠牲となったこと…
 伝書鳩について、手に入り易く詳しい内容のある本として「伝書鳩−もうひとつのIT」(黒岩比佐子著、文春新書142、平成12年12月20日発行)があるので、興味を持たれた方は是非御一読を。そう遠くない昔に通信産業の花形だったこの生き物に対して、多くの感慨を持つことができると思います。(03.05.05記)


  バッドランドのビリー−勝利をえた狼


  −この世を生きぬいていくということは、なかなかきびしいものだ。たとい日々の戦いにおいて一万回勝ちぬいたとしても、一度負ければそれでいっさいが駄目になるのだ。−


 荒野を駆け、幾多の猟犬の追跡を退けたオオカミ”ビリー”。

 ”ビリー”は三匹の母親を持つオオカミだった。最初の産みの親、そして彼を拾い上げてくれた次の親ともども猟師に殺され、三匹目の親に育てられたのである。この継母は知恵のあるオオカミで、ビリーは彼女から同族との通信、狩り、そして罠から身を守る方法について、多くを学んで成長した。けれどもその継母さえも、熟練した罠師の手練には及ばずに命を落とし、それからはビリーはたった一匹で荒野を生きることになった。
 やがてビリーは、その嗅覚と用心深さで生き残って年輪を重ね、名だたる牛殺しのオオカミとして恐れられる存在にのし上がる。

 冬のある日、猟師らは大勢の猟犬を引き連れてオオカミ狩りを行い、リーダーのビリーに的を絞って追跡した。
 長時間のレースの末、疲れ切ったビリーは山の絶壁に追い詰められたが、狭い足場を逆に利用して一匹ずつ犬を迎え撃ち、あっという間にすべての犬を谷底へ叩き落としてしまう。猟師らはそれを呆然と見守る他なく、ビリーは勝利者として人間の面前から姿を消した。
 牧場は、オオカミによる被害を食い止めることができなかったのだ。


 昔は、誰でもオオカミを罠にかけたり毒殺したりすることができた。単純なオオカミはそういう方法でどんどん狩り倒され、やがて新しい時代がやってきた。頭のいいオオカミ種族がでてきたのだ。かれらは奸智にたけ、牧場主たちのあらゆる戦術をしりめに、しだいに数をふやしていったのである。


 本作の主なモチーフは、百年以上昔にアメリカの平原で展開された、オオカミらのサバイバルにある。
 シートンは言う。もともとアメリカでは、人間(白人のことで、先住民のアメリカ・インディアンはオオカミを尊重していた)とオオカミとの間に接点はなかった。だが人間が野牛が皆殺しにしたため、オオカミは牧牛を襲うようになり、それに伴いオオカミ狩りが始まったのだと。その過程で上記のように賢い者が生き残り、熟練した猟師との間に熾烈な知恵比べを展開するようになったというのである。「動物記」の代名詞、狼王ロボはまさに、こうした選ばれた狼の代表だったし、もちろん本作のビリーもそうだったわけだ。
 罠師の手口については「ロボ」作中でシートン自身が使った手が紹介されているが、本作でのそれも流石にと思わされる巧妙なものである。


 新米の罠師は、よく罠の真上に餌をおく。だが経験をつんだ罠師はそんなことはしない。腕のいい罠師というのは、むしろ餌を離し、罠から三メートルか六メートルのところにおく。つまり、餌に近づいたオオカミが、警戒して獲物のまわりをぐるぐるまわるあたりに罠をしかけるのである。
 熟練した罠師がいちばんよく使う手は、開けた場所に、三、四個の罠を円形に仕掛け、真中のあいたところに肉片をすこしばらまいておくのである。個々の罠は、人間の手の臭いや鉄の臭いを消すために煙でいぶし、土の中に埋めこむようにして完全に見えないようにしてしまう。
 時には餌を全然使わないこともある。罠を仕掛けたあと、近くに小さな綿くずとか、鳥の羽の束を投げておくのだ。オオカミはそれを見ると、好奇心にかられてそばへやってくる。そして恐るべき運命をはらんだ土の上をぐるぐるまわりはじめるのだ。
 さらに腕ききの罠師は、たえず罠のかけかたを変える。それは自分がつかう手をオオカミたちに覚えられないためなのだ。だからオオカミたちにとって、自分の身を守る方法はただひとつしかない。つまり、明けても暮れても、しじゅう神経をとがらせ、人間の臭いと思われるものはすべて警戒しつづけることだった。


 これを読んだ後で冒頭の引用”一万回勝ちぬいても、一度負ければ終わり”を思い返すと、荒野で追われる者に課せられた厳しさが胸に迫ってくるではないか。作中でシートンは追い詰められたビリーに同情しているし、その後猟犬らを皆殺しにした彼に憎しみを向けていないのも、それが念頭にあったのかもしれない。
 彼らと、打ちのめされてもまだチャンスがある場合がほとんどの人間とは、やはり全く異質な生活をしているのだ。(03.04.27記)


  少年とオオヤマネコ


  −するとテーブルの下から、ぎらぎら光る目がでてきた。同時に、暗がりの中に灰色の姿がぼうっと見えた。−


 病に倒れた一家を襲うオオヤマネコと、少年猟師の対決。
 シートンその人の少年期の実体験が、色濃く反映された作品。

 ソーバーン・アルダー少年は、町での生活で健康を害し、森の丸木小屋に住まう一家にお客として招かれていた。次第にそこの生活にも慣れ、生き物への尽きせぬ関心に導かれて森の中を歩き回るようになっていた。
 ある日、ソーバーン少年は森の中で、年老いたオオヤマネコに出会った。そいつは一家の雌鶏を盗んでいたが、ちょうど銃を持っていなかったソーバーンにはどうすることもできない。その後もそいつが子ジカの死体を運んでいるところや、小さな子ネコらにも出くわした。
 その年はヤマネコの餌になる生き物が激減し、彼女らは飢えて人家の傍へ出没するようになっていたのだ。

 それから丸木小屋を熱病が襲い、一家皆は床に臥した。昼は激しい悪寒、夜は高熱にさいなまれ、いつまで経っても快方に向かわない。そして不思議なことに、食料となる大事なニワトリは、いつの間にか随分減ってしまっていて、じきに最後の一羽までいなくなってしまった。
 絶望的な状況の中で、ソーバーンはオオヤマネコと再会する。ニワトリを獲り尽くした飢えた彼女は、動けない人間達を尻目に、小屋の中まで入り込んできたのだ。少年は最後の勇気でヤマネコに立ち向かい、藁のベッドの下に潜り込んだ彼女を、魚突きの槍で突き刺して追い払うのだった。

 ようやく小屋の人々が回復したのち、ソーバーンらは森の中で、オオヤマネコ一家の死骸を見つけた。彼女に二匹の子ネコが寄り添うようにして倒れ、母親の横腹には、折れた槍の穂先が残っていた。

 オオヤマネコの写真。ぴんと立った耳、鋭い目、切り落としたような短い尻尾、長い四肢などの特徴は、シートンの挿絵にも余すところなく表現されている。もちろん、普段は人間を襲うようなことはないが…

 ソーバーン少年の体験は、ほとんどシートン自身のそれそのものである。彼は高校生の頃、猛勉強で身体を壊してしまい、丸木小屋の一家で暮らしたことがあった。そこで熱病に襲われたこと、枕元までやってきたオオヤマネコ、弱り切った身体をおしての対決… それらの思い出は全て、晩年に執筆された自伝に収められている。

 本作も子供時代に読んで、あとあとまで印象に残った作品だ。その理由のひとつは恐らく、人間とヤマネコの双方が飢え、病にさらされた、ぎりぎりの状態が醸し出す緊迫感にあるのだろう。高熱での夢うつつの中、小屋に忍び入ってきたヤマネコの姿など、まるで恐怖小説のようだ。


 彼はもう一度、目をあけた。ソーバーンは声をだそうとした。だが声はかすれて、がらがらという、うがいみたいな音をたてただけだった。
 薄暗がりの中で、毛におおわれた大きな黒い頭がゆれ、ぎらぎらと光る目の下から、空気の臭いを嗅ぐ鼻息の音が聞こえた。…そいつは音もなく小屋の中を横切り、やがて一番下の丸太のところにある穴から、滑るように外へ出ていった。


 森の散策や質素な食事など、前半に描かれる牧歌的な丸木小屋での生活との対比が、うまく効いている。
 自分達を餓死寸前にまで追い込んだヤマネコについて、餌不足を理由に弁護をしてやったシートンの彼らへの眼差しも見過ごせない。獰猛な野獣だった彼女が、母親として子ネコとともに死んでいる結末は、動物の二面性の簡潔な表現で見事だ。
 子供の頃印象に残り、今なお忘れていない作品には、ちゃんと相応の理由があるものである。(03.04.29記)


  小さな軍馬−あるジャックウサギの物語


  −「あれを見ろ! まるでちっこい軍馬みてえじゃないか」
 下品な顔つきをしたアイルランド人の馬丁ばていが、大声で叫んだ。この時以来、そのジャックウサギは”小さな軍馬”と呼ばれることになった。−


 捕えられ、犬とのレースで大活躍し”軍馬”と呼ばれたジャックウサギの物語。

 ある年の夏、大規模なウサギ狩りが行われた。タカやフクロウを殺した者に奨励金を出すという法律のため、ウサギが猛烈な勢いで増え、土地を丸坊主にしてしまったからだ。
 ウサギ達は狩り立てられ、ほとんどが殺されたが、足が速く気の利いた連中がわずか五百匹ほど助けられ、町に運ばれた。犬のレースの相手にするためである。
 その中で抜きん出たスピード、くっきりとした白黒の毛皮で一際目立つ一匹がいた。彼は”軍馬”の名をたてまつられ、レースの開催前から評判になった。

 大会開催後の”軍馬”の走力は見事なもので、駿足をもって鳴るグレイハウンド達でさえも、全く寄せ付けることなく振り切ってしまった。他のウサギ達が次々に殺されていく中で、毅然として己の生命を守り通す姿に、ウサギ係のアイルランド人ミッキー・ドーは愛情やある種の尊敬を抱くようになり、”軍馬”は自由になる権利を自分でかちとったのだから、放してやるべきだとレース場の支配人に掛け合った。
 支配人との間で、十三回レースを勝ち抜いたならば自由にする合意がなされ、その後も”軍馬”の勝利は続いた。”軍馬”の耳には、完走するごとに切符切りのパンチで星形の穴が空けられ、遂に左耳に六つ、右耳に七つ、計十三の穴がうがたれる日が来た。

 しかし支配人は解放を渋り、”軍馬”は改めて最後の一回を走らせられることになった。
 レース前に怪我を負っていた”軍馬”は、いつもと違って犬に追い詰められ、遂にミッキーの腕の中へ逃げ込んだ。再開されたレースでは卑怯にも新たな犬が加えて放され、しかも勝負がつかずに”軍馬”が射殺されて終わりになるはずが、弾が犬の方に当たるなど、会場は混乱に陥った。そのどさくさに紛れて、ミッキーは”軍馬”を連れて逃げ出し、汽車でウサギの住んでいた平原へ行って、そこで”軍馬”を自由にしてやったのだった。
 「そうとも。もう一度十三の星を解放してやるのは、おいらアイルランド人なのさ」

 本編の主人公、ジャックウサギ。ぴんと立った大きな耳に驚かされる。これだけ長く幅広い耳なら、左右に打ち抜かれた星をずらり並べていたといっても、おかしく聞こえないだろう。
 その駿足については、ここの順位によれば動物種中総合九位、64km/時という記録があるらしい。グレイハウンドの記録も大体似たようなものだから、これはいいライバルだと言える。もっとも、より長距離を走る場合は、明らかに犬の側に軍配が上がるだろう。
 シートンが「自然の力と人間の知恵とが一体になってつくりだした、驚くべき血と肉から成る疾走機械」と評し「筋ばった足、くねくねした首、長い顎をつけた爬虫類を思わせる頭、落ちつきのない神経質な黄色い目」と描写したグレイハウンドの写真はこれ。狩りの疾走の時以外は非常に温和だそうで、シートンも同様のことを「ティトー−りこうになったコヨーテの話」で書いている。

 本作の構成は「クラッグ」「タラク山の熊王」などと同様、有名になった個体についての事実の脚色と、その種の動物の観察及び想像にもとづく描写から成る。あらすじ紹介では省略しているが、囚われる前の”軍馬”は町の畑に出没して、日々犬どもとの追いかけっこに明け暮れていた。書き出しは「ジャックウサギの”軍馬”は、町にいる犬をほとんど知っていた」
 もちろんこの部分はシートンの創作だが、読者を知力体力共に優れた”軍馬”のキャラクターに馴染ませ、ジャックウサギという生き物に親しませるためには、是非とも必要な部分だ。−垣根の穴や灌漑用水の溝を使った追っ手の引き離しや、牛が犬を憎んでいることを利用して犬を追い散らす方法。通常は薄い灰色の保護色、走り出すと目に鮮やかな黒と白のまだら模様の指示色となる体色の妙。逃げる際に周期的に高く跳ねて周囲を見渡す”偵察跳ね”等々−。

 後半のレースの展開については、あらすじに書いたとおりだが、最終レースのどよめきに満ちた混乱と、解放の場面の静寂な星空の対比の鮮やかさは、本作を子供時代に読んだ時から強い印象を受けていた。今回読み直してみても、それは変わることはない。
 ”十三の星の解放、自由”が、合衆国の独立のパロディであることは言うまでもないだろう。ただこの独立の喜びは、お祭り騒ぎをともなわず、ひっそりと静かに祝われる。個人的には、この方が好きだ。(03.05.10記)


  スナップ−あるブルテリヤの話


  −わたしはその犬をスナップと呼ぶことにきめた。略さないで言えば、ジンジャースナップである。ジンジャースナップとは、しょうが入りのかりかりしたクッキーのことであるが、この犬は勢力がありあまったように(ジンジャー)ぱくっと(スナップ)噛みつくからだった。−


 ”恐れ”を知らずに生まれ、短い生を駆け抜けた子犬、スナップ。

 万聖節の宵ハロウィン祭の日に「素晴らしい子犬、大事に扱え」と言って親友ジャックから贈られた子犬は、相手が誰であろうと見境なしに吠えかかり、噛みつく恐れ知らずだった。しかしわたしには忍耐と知恵があったので、彼を決して刺激せず、食事を与えずに飢えたところへ手ずから餌をやるという方法で、見事に彼を手なずけた。名前はその性質からおのずから「スナップ」に決まった。

 わたしは鉄条網の取引を行っていて、牧場主達はその顧客だった。そこでは依然としてオオカミらが牧場に損害をもたらしていたので、彼らはしばしばオオカミ狩りを組織し、そのための猟犬を飼っていた。
 それらは素晴らしい犬揃いだったが、成果は芳しくなかった。というのも、犬どもはコヨーテならいざ知らず、オオカミに対しては面と向かいたくなかったからである。そこで居合わせたわたしはスナップを思い出し、彼は喜び勇んでオオカミ狩りの一頭に加えられることになったのだった。

 初陣でスナップは、期待した通りの働きぶりを見せた。他の犬どもがオオカミを囲んで吠えているところを、一番遅れて追いつきながら、いの一番にオオカミの咽喉へ飛びかかったのである。その後は図体でははるかに大きい犬どもがオオカミを引き裂き、あっさりと決着はついたのだった。ただこの時、スナップは噛み傷を負い、馬に乗せられて牧場へ戻った。

 翌日のハロウィンの日に、再びオオカミ狩りが行われた。怪我をしたスナップは牧場に置いていかれたものの、あとからわたし達の後をついてきた。
 オオカミを追い詰めた犬達は、昨日と同じように、現場へ駆けつけるまでは闘志に燃えていたものの、強大な敵を眼前に見るとすくんでしまい、取り囲んで吠えるだけだった。そこへスナップが追いつき、ためらいなくオオカミの顔を目掛けて襲いかかる。そこでようやく犬達も勢いを得、戦いは終わり− 後にはオオカミと、スナップが倒れていた。深手を負ったスナップは、わたしの腕の中で息を引き取った。
 スナップは英雄として丁重に葬られ、牧場主はその場でつぶやいた−「たしかに勇気のかたまりだったんだな。勇気がなくちゃ、とても牛など飼えるものじゃねえんだ」

 本作には「ビリー−りっぱになった犬」との共通点が多く見られる。主人公がブルテリアの子犬であること、そして他の犬達より体格にも速力にも劣っていながら、最も要となる「勇気」を受け持つ存在となったことがそれだ。ただ、ビリーとスナップの性質は明瞭に異なっているし、お話の結末も明暗がくっきりしているので、読後感は似ていない。

 狩りで猟犬に犠牲が出るのは、戦争で兵士が戦死するようなもので、やむを得ないものだ(少なくとも作中の描かれ方はそうである)。犬の朗らかで陽性の気質が前面に出た「ビリー」でも、直にクマとやり合う戦闘犬のポストはしばしば空きが生じ、新メンバーが追加されるという描写があった。
 最後の牧場主の台詞は、そうしたことと常に向き合う立場について、自らに言い聞かせる体のものだったのだろう。(03.05.11記)


  ウイニペグのオオカミ


  −空地の真中に陣取ったオオカミは、わたしにはまるでライオンのように見えた。オオカミはただ一頭、決然たる態度で、おちついて空地の真中に立ちはだかっていた。たてがみを逆立て、四肢をふんばり、四方へゆだんなく目を配って、どこからでもかかってこいといわんばかりの態勢で身構えていた。−


 若き日のシートンが一瞬だけすれ違ったオオカミの、不思議な生涯。

 わたし(注:シートン)は1882年の3月半ば、ミネソタ州セント・ポールからカナダのウイニペグへ向かう汽車に乗っていた。通常なら24時間でウイニペグに到着するはずの汽車は、猛吹雪のために前進を阻まれ、行きつ止まりつしながら2週間を費やした。
 到着間際になって、汽車は雪に邪魔されず通常の速度を出し、ウイニペグの郊外を走っていた。その時わたしは小さな空地に、はっとするような光景を見出した。
 大小の犬が群がり取り囲むなか、大きなオオカミが仁王立ちになっていた。数を頼りに飛びかかる犬達を足元にも寄せ付けず、身軽にかわしては噛み返し、一歩も退かない構えだった。
 全ては一瞬で通り過ぎたが、わたしはその時、どんなにか汽車を止めたいと思ったことか。汽車から飛び降りて、そいつを助けてやりたかったのだ。
 それから数日のちに、それが「ウイニペグのオオカミ」として一部の人々に恐れられていた存在だったことを、わたしは知ることになったのだった。

 ウイニペグのオオカミは、子供時代に猟で親兄弟を皆殺しにされ、最後の子を殺すとよくないことが起こるという迷信のせいで助けられた。そして酒場の鎖につながれ、町の犬をけしかけられて、酔客どものなぐさみものにされながら成長していった。
 オオカミは犬とアルコールの匂いを心底憎んで育ち、唯一気を許したのは酒場の主人の息子だけだった。そしてこの子供が病気で亡くなって間もなく、オオカミは隙を見て逃げ出し、野生へ戻っていった。

 彼は町の近くから離れず、ことあるごとに犬どもに戦いを挑み、その牙にかけるという奇妙な生活を送り、町の人々の恐怖の的になった。猟師の罠や毒の餌の危険にも通じ、決して捕えられなかった。
 けれども、このオオカミは決して子供を襲うことはなかったという。

 彼が野生に戻って2年後、大規模なオオカミ狩りが行われ、数十頭の犬が動員された。オオカミは最後まで犬達に屈しなかったが、遂に銃弾を受けて倒され、その生涯を終えた。
 その後毎年、クリスマス・イブに教会が鐘を鳴らすと、教会の墓地から無気味ながらもの悲しい響きを帯びたオオカミの咆哮が聞こえてくると、墓守達は言う。その墓地には、あのオオカミが唯一慕った子供が眠っているのだった。

 冒頭に引用したオオカミの姿は、ほぼそっくりそのままがシートンの晩年に執筆された自伝にも記されている。つまり、この部分は物語的な創作を含まない、事実そのままの光景ということだ。この時シートンは弱冠21歳の若さで、画家、そして博物学者の卵として、野心に燃えていた頃である。
 この一瞬に過ぎ去った光景の衝撃こそが、ずっとのちになってシートンに本作を書かせたのだった。だから本作の核はどこでもない、雪原のライオンの如きオオカミと犬達の対峙の冒頭の描写だろう。オオカミの最期もまた、全く同じ光景を用いて描かれたのだから。

 あの「ロボ」が動物記の代表作とされているのは、少しも偶然ではない。シートンにとって、オオカミは生涯尽きせぬ関心と愛情を注ぐことになった特別な生き物で、「昆虫記」ファーブルにとっての狩人蜂、フンコロガシのような存在なのだ。次巻「歴史に残る動物たち」は、丸ごと一冊がオオカミについてのエピソード集と言っていいほどである。
 博物学者としてのシートンの作品「シートン動物誌」(原題「狩猟動物の生活」)のオオカミの項目中に、彼はこう書く−「人間に天才や英雄がいるように、オオカミのなかにもとびぬけた才能をもつ個体がいる。そのようなオオカミに私はいつも強くひきつけられ、そのくらしぶりを知りたくなり、そして、なんとしてでも記録にとどめたくなるのだった」
 「ロボ」本巻収録の「バッドランドのビリー」そしてこの「ウイニペグのオオカミ」これらは全て、シートンのこうした欲求から生まれた作品である。(03.05.16記)


  白いトナカイの伝説


  −ずっと北部のほうへ行くと、この森林線と雪線は、いちじるしく高度をさげ、森林線が海面の高さと同じになる。そして一面にひろがる木のない土地が出現する。…そしてこの地帯はすべてトナカイゴケにおおわれ、トナカイの故郷となっているのである。−


 ノルウェーの国難を救ったという、雪のように白いトナカイ”ストルバック”の伝説。

 冬の間群れを率いていたトナカイのリーダーは、今や仲間と別れ、独りになった。そして安全なところへ行き− それから一時間の後には、彼女の足元に小さな赤ん坊が横たわっていた。他のトナカイの子達と違って、雪のように白い子だった。
 ふたたびトナカイ達が群れをなした時、雌は皆赤ん坊を連れていた。白いトナカイの子は子供達の中でも最も賢く勇敢で、一際目立つ成長を見せていた。

 三年後、白いトナカイはソリをつけられ、引くよう馴らされた。御者の爺さんは穏やかに動物を馴らす人で、それを受け入れてからは、白いトナカイはすばらしい働きぶりを示し、負け知らずのスピードを誇示するようになった。爺さんはいつか彼のことを”ストルバック”と名付け、爺さんとストルバックの名はノルウェー国内に知れ渡った。

 当時、ノルウェー国内ではスウェーデンとの連合を破棄させるべく、策動する一派があった。その首謀者は身の安全を確保するため、同志達から宣誓書を差し出させ、彼らの生殺与奪の権を握っていた。

 この男が弁舌巧みに支持者を拡大している時、爺さんは彼の真意を見抜いて署名せず、また次の集会にそれを伝えて陰謀を阻止しようとした。一刻も早く集会の場まで駆けつける必要があったが、ソリを引くストルバックは爺さんの期待に応え、男より先回りして目的地に着いた。
 首謀者は失敗を悟ると、地位と権力を利用して爺さんからストルバックを借り受け、次の目的地へ走った。懐中にはノルウェー、同志達の運命を左右できる宣誓書を携えていた。
 彼は先を急ぐあまり、猛烈にストルバックを鞭で殴り、怒れるストルバックは御者の制御を失わせるほどのスピードで走った。やがてソリは道を外れて雪の岩山へと駆け上がっていき、ストルバックと陰謀家の姿は吹雪の中に消えた。

 陰謀は事なきを得、白いトナカイと首謀者の行方は、誰にも知られなかった。
 だが今でも、吹雪が森に荒れ狂う時には、時折白く巨大なトナカイが、ソリを引いて駆け抜けていくのだと、岩山近くに住む人々は言う。

 サンタクロースのソリ引きとして、誰でも知っているトナカイ。北の国々では移動手段であり、乳や肉が食料となる、人間にとってなくてはならない生き物だったし、今もそうだろう。
 だから本作のようなファンタジーの形で、彼らが歴史の片隅に残っていても、不思議ではないのかもしれない。

 本作の特徴は、冒頭と後半とで雰囲気ががらりと変わることだろう。「舞台」と題して北の氷河とツンドラの地方の様相を描く冒頭は、温度が下がるごとに植物が乏しくなり、コケと地衣類、カバとヤナギの木だけが生きる高原を、確かな筆致で淡々と描写する。終盤ではうって変わって、吹雪の中を駆け抜けるストルバックの姿を、荒々しく幻想的に描き出す。


 いたるところにごろつく岩は薄紫色を呈している。だが、それもすべてが薄紫一色というわけではない。灰緑色の地衣類がまとわりつき、あるものはひだ飾りをまとったように見え、またあるものは、オレンジ色のあばた、、、のようになっている。また、なかには、いくつかホクロのような斑点となって苔がついているものもあった。
 こういう岩は、太陽の熱を吸収してたくわえることができる。したがって岩の周囲には、植物の小さな群落ができていた。これらの植物はいずれも生育するのに熱が必要であり、岩が熱をたくわえてくれなければ、そんな高度では、とても育つことのできないものばかりだった。



 トナカイは目を血走らせ、気ちがいのように鼻息を吹きながら、でこぼこの登り坂を駆けあがり、吹雪ふぶきの吹き荒れるフォイフェルドの山へのぼりはじめた。…
 猛スピードで、雪の岩山を越えていくストルバックの姿は、さながら吹雪のくる前の大風が粉雪の渦を舞いたてるように見えた。また同時にそれは岩山の上の巨人たちの肩を巻き、ひざをめぐって吹き荒れるすさまじいつむじ風の渦のようにも見えた。…
 ストルバックがその日、山へ駆けあがっていくところを見た者は誰もいなかった。しかし、つのにつかまって踊ってうたった小人はそれを知っていた。


 科学的な態度と幻想。学者と物語作家。シートンの両面が、対照的な形で表現された作品。(03.05.20記)


  ホッキョクギツネの伝記


  −カタグは、その時こう思った。
  ”もし尻ごみしていれば、空腹のために死んでしまう。だが、もしでかけて行けば、勝ちとれるかもしれない”
 カタグは起きあがった。そして丘をくだりはじめた。サイコロはふられたのだ。−


 極地の環境を生き抜く、ホッキョクギツネのつがいの生涯。三部構成。

 第一部 オーラクの恋

 五月の初め、極地の遅い春がオーラク山へやってきた。生命の気配に溢れた大地に太陽が沈み、宵の闇が迫る中、長く尾を引く獣の鳴き声が聞こえてくる。雄のホッキョクギツネ、カタグの恋の歌なのだ。
 カタグは歌を歌い続け、あちこちの岩や石に自分の印を残していった。そして七日目に遂に雌のキツネと、カタグと同じように彼女に恋してやってきた雄に出会った。雄ギツネ二匹は互いに深手を負わないようにしてぶつかり合い、三度ともカタグが勝ちを収め、決着はついた。
 カタグと雌キツネのリアグは番いとなり、共同で巣穴を掘り、子を育てた。ライチョウの母の知略にはまんまとだまされたものの、餌に恵まれたオーラク島での生活は豊かなもので、子供達は鳥の雛や小動物、魚などを食べ、大きく成長していった。

 第二部 狩りの冒険

 カタグは、様々な狩りの方法に通じていた。自ら獲物に忍び寄るだけでなく、トウゾクカモメが魚をくわえて降りたところを襲って横取りする方法や、シロクマの食事が終わるのを辛抱強く待って屑肉を手に入れることなどだ。
 今や子供たちは自ら狩りをし、家族の絆は切れた。寒い季節が訪れ、キツネ達の毛皮が真白になる頃、彼らは散り散りになり、単独で行動するようになる。ある者達は抗い難い衝動に引きずられて南へ向かったが、カタグとリアグはオーラク山にとどまった。それでも、もう彼らも番いではなく、各々の力で飢えと戦っていたのだった。

 第三部 陽気なやもめ

 カタグは以前土中に埋めた保存食料を食べ尽くし、何日もものを口にしない日々が続いていた。そして海辺へ出た時、すばらしい食物の匂いに出くわした。カタグは無論知らなかったが、それは海岸に横付けした船と立てられた小屋から漂う、アザラシ肉の匂いだった。
 オオカミのように大きな犬達が何頭もいるのを見ても、飢えにさいなまれるカタグはひるまない。何とか吊るされた肉まで忍び寄ったが、そこで犬達に取り囲まれ、孤軍奮闘も空しく八つ裂きにされてしまうのだった。飢えにめげず、陽気な楽天主義をつらぬいたカタグの生涯は、こうして終わりを告げた。

 再び訪れた春の日々の中、カタグを求めてさまようリアグの姿があった。彼女は遂にカタグを見つけることはできず、その一年は独りぼっちで過ごした。
 次に巡ってきた春に、リアグは別の雄ギツネに出会った。寂しさに耐えられなくなっていた彼女は、彼を拒まずに受け入れ、彼女は再びオーラク山のもとで家庭の幸せを築くことができたのだった。

 ホッキョクギツネ。どうです、この真白な毛並み。すばらしいでしょう。
 体つきはキツネのイメージに比べて、少し丸っこいですね。寒さへの適応のためだそうですが。

 あらすじを紹介してはみたものの、やはり具体的に動物の存在感を示す細部の描写こそが作品の要なので、これだけでは全然面白さが伝わらないな、とため息をつきたくなる。
 シートンの作品は、動物の行動や心を人間の視点から解釈している、つまり擬人化していると言われることも多いが、しかし目的としているのは、飽くまでも動物そのものの描写である。オオカミはオオカミとして、キツネはキツネとして描かれているからこそ、動物文学の名を冠されているのだ。それが可能なのは、シートンが優れた博物学者で、かつ隅々を見落とすことのない画家でもあったからに他ならない。
 序盤のカタグとライバルの雄との決闘の場面ひとつを取っても、きちんと対象を見ていなければ描けないだろうという気配が、節々に感じられる。


 カタグとライバルのキツネは、互いに近づきあった。そのゆっくりした近づきかたは、たしかに威厳を示しあうためにちがいない。だがそれは、どうやらお互いにだいぶ用心をしているからのように見えた。
 五歩ほどへだてたところで二頭はとまってにらみあった。それからお互いに輪を描いてぐるぐるまわった。そうやって風がもたらすニュースを両方で調べあったのである。
 やがて二頭は、顔と顔をつきあわせた。両方とも、いつでも戦える用意がととのったのだ。しかし、どちらも戦いをはじめる気はなかった。カタグと相手のキツネは、胸の鼓動が十回かそれ以上打つあいだ、じっと立ったまま、身じろぎもしなかった。


 本作の場合、北極圏に生息する彼らに、シートンが直に接したわけではない。果敢にアザラシ肉を求めてやってきて、あえない最期を遂げたホッキョクギツネの話に着想を得、目撃者の見聞や北米のキツネの生態記録等を核にして描いたのだろう。(03.05.21記)

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 次巻「歴史に残る動物たち」へ。  




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