万葉の花考-すみれ(菫)-
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スミレケマルバスミレ

1.山振やまぶきの 咲きたる野辺のべの つぼ菫
 山振之   咲有野邊乃   都保須美礼
          この春の雨に 盛りなりけり
             此春之雨尓   盛奈里鶏利

巻8 1444 高田女王

2.茅花ちばな抜く 浅茅あさじが原の  つぼ菫
   茅花拔   淺茅之原乃  都保須美礼
          今盛りなり わが恋ふらくは
             今盛有     吾戀苦波

巻8 1449 田村大嬢

 万葉集で"すみれ"を読み込んだ歌は四首(うち一種は長歌)だけで、かなり少ない部類に入る。すみれの仲間はいずれも美しいことは間違いないが、小さく野原では他の草本に埋もれて人目につきにくいこともその理由の一つとして挙げられよう。しかし、上に挙げた二首の歌はいずれも花としてのすみれの持ち味を存分に引き出して歌われた秀歌であり、敢えて小さな草花を読み込んで大きく作者の心中を吐露するあたりは万葉人の鋭い自然観を伺い知ることができる。
 高田たかだの女王じょおうの歌の意味は、やまぶきの咲いている野のつぼすみれは、この春雨に濡れて盛んに咲いていることよと比較的単純な内容だが、ヤマブキの黄色とつぼすみれの淡い紫色という微妙な色彩感の情景にやさしい春の雨を取り合わせたとりわけ美しい歌で、まさに日本画の情景そのものである。田村大嬢の歌もつぼすみれを読み込んでいるが、私があなたを恋い慕うことは、浅茅が原のつぼすみれのようなもので、今が盛りです、恋しくて仕方がありませんと、こちらは切ない女心を詠っている。わが国は世界でも稀に見る野生すみれ(Viola sp.)の宝庫で、世界に分布する400種のうち、何と50種がこの狭い国土で住み分けている。その中にはツボスミレ(V. verecunda)という名のすみれが実際に存在し、平地や丘陵、山地の湿った草地や林内にもっとも普通に見られる。ならば上記の歌で詠われたつぼすみれと今日われわれが目にするツボスミレと同じであろうか。実はツボスミレの他にもつぼすみれの名をもつものが数種ある。例えばタチツボスミレ(Viola grypoceras)、ナガバタチツボスミレ(V. ovato-oblong)、ニオイタチツボスミレ(V. obtusa)があり、いずれも葉などの細かい形態を観察しなければ素人眼には区別は難しい。これらつぼすみれの仲間に共通する特徴はいずれも茎が長く伸長して30センチほどになり、また花の色は淡い紫色である。これに対していわゆるスミレ(V. mandshurica)は花の色は濃い紫色で株立ちの茎葉は伸長せず、せいぜい10センチ程度である。おそらく、上記の二首で詠まれたたちつぼすみれはスミレとその近縁種を除く種の総称であろう。高田女王の歌ではスミレの濃い紫色は合わず、また田村大嬢の切ない女心を対比させるには花が相対的に小さくひょろりと伸びたたちつぼすみれの姿でなければ相応しくないのである。

3.春の野に 菫摘みにと 来し吾ぞ
   春野爾  須美禮採爾等  來師吾曾
           野を懐かしみ 一夜宿にける
             野乎奈都可之美  一夜宿二來

巻8 1424 山部赤人

 この歌は山部やまべの赤人あかひとの残した万葉歌の中でもっともよく知られたものの一つであろう。現代風に訳せば、春の野にすみれを摘もうと思ってきた私は、野が懐かしいので、帰りかねてつい一晩寝て過ごしてしまったということになろうか、自然派詩人としての赤人の心をもっとも如実に表している作として名高い。ここで詠まれているすみれはスミレであろう。如何にも少女趣味的である花摘みには相対的に花が大きく、花色も濃い紫色で豪華なこの花の方が相応しい。前述のたちつぼすみれではあまりに貧相過ぎる。しかし、考えれば考えるほど、花摘みに「何故すみれなのか?」と疑問が残る。早春であれば他に相応しい花はたくさんあるはずだし、それにすみれは摘んだらすぐに萎れてしまう。恋人や愛する妻子に贈るには決して相応しいものではない。また、花を摘む行動自体が楽しみだとしても摘んだ花をどうするのであろうか。そのまま捨てるのであれば自然派歌人として如何にも淋しい遊びではなかろうか。
 斎藤茂吉は著書『万葉の秀歌』(岩波書店 2001年)の中で”本来菫を摘むというのは、可憐な花を愛するためではなく、その他の若草と共に食用として摘んだものである”と述べ、一方で”野菜として菫を聯(連)想せずに、第一には可憐な花の咲きつづく野を聯(連)想すべきであり、云々”と主張している。古代にはすみれは食用にしたことは確かなようであるが、食料としてそれほど重要な存在だったとはとても思えない。筆者は赤人のすみれ摘みは「薬草狩り」ではなかったかと考えている。現在ではすみれを薬用とすることはほとんど聞かないが、万葉時代には有り得ない話ではないと考える。邦産すみれ類の含有成分については未詳であるが、中国産のすみれにはルチンというフラボノイドが含まれるという報告があり、化学分類学(近縁の種は類似の成分相をもつという仮定にたって化学成分を基盤として分類を行う学問分野)的見地からすれば邦産すみれ類に含まれていても不思議ではない。ルチンは毛細血管収縮作用があり止血薬として使われたことがあり、また高血圧にも効果があるともいわれる。山部赤人は本名ではなく、あだ名ではないかという説もある。すなわち、赤ら顔をしていたから赤人だというのである。とすれば、血小板が少なく出血が止まりにくいとか、高血圧などの疾患を患っていたのではないかとも推察できる。この仮定にたてば赤人が春の野ですみれ摘みをしたのは自らの病を治すための薬草採集ということになり、そのためにはたくさん採集しなければならなかったであろう。「一夜宿にける」も何となく理解できるのである。すみれはあくがほとんどないので、古代では七草粥のようにして食したのではないかと思われ、今日でいうところの医食同源そのものだったにちがいない。この場合では、すみれは必ずしもスミレである必要はないが、人里に生えるすみれとして形態のよく似るノジスミレ(V. yedoensis)やコスミレ(V. japonica)などを含めたものであろう。赤人のこの歌は、斎藤茂吉の述べるように表面的には「すみれの咲きほこる美しい野原を連想する」のが正しいかもしれないが、一方で自分の健康を維持するため必至ですみれを摘む姿を想像することも決して非叙情的ではないと筆者は思うが如何であろうか。
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