イスラエルによるガザ侵略を許すな!
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12月27日、イスラエルがガザへの空爆を始めた。 2006年の選挙でのハマースの勝利、2007年ガザでのファタハ(ダハラーン)のクーデターの失敗、ハマースによるガザ支配。アッバス自治政府大統領によるハマースのヨルダン川西岸からの追い出し。こうしたことを受けて、帝国主義者は公然とパレスチナ「自治政府」を使嗾してハマースに対する抗議デモ等を組織して転覆を狙っていた。日本でもハマースに失望するガザ民衆というキャンペーンが張られもした。NAKBA60年記念が解放戦争の展望を失ったパレスナ民衆への晩鐘として語られた。 ところがである、ハマースは22日間の空爆そして地上戦に耐え、イスラエル軍のガザ市内突入を阻止した。ガザでは、ファタハも含めイスラエルの殺戮戦争に対峙して統一司令部が結成され、「我が身が失われてでも民衆を守る」という壮絶な決意のもとに侵略者との闘いが展開された。仮に1982年ベイルート脱出のような敗北主義が生まれていれば、サブラ・シャティーラ虐殺の二の舞いであり、デール・ヤシン虐殺の再現、つまり新たなNAKBAは必然であったろう。パレスチナ民衆の決然たる反撃は、イスラエルに2006年のレバノン・ヒズボラ攻撃での敗退と同様な危機を強制している。 イスラエルの今回のガザ攻撃は、ハマース政権誕生に象徴的なパレスチナ民衆の1948年のイスラエル建国の不当性までを問う解放へのあくなき意思を打ち砕くことを目的としていた。より本質的には、パレスチナ民衆の闘いを必然化させ、またそれと結合するイスラエル「国内」の労働者の階級闘争の高揚を生ぜずにはおかない世界大恐慌がイスラエルを捉えたことへの予防反革命であった。階級的な結合を排外主義的にアラブとユダヤの対立によってねじ曲げようというものであった。しかし、それは全世界的なイスラエル弾劾の闘いの大爆発、何よりもイスラエル国内のアラブとユダヤの分断を乗り越える労働者の闘いによって粉砕され、イスラエル解体の展望を生み出すものに転化した。 ヒロシマでの被爆者青年同盟の闘いは、まさしくそうした展望を切り開くものとして闘われ世界に発信された。12月30日のドーム前集会には多数のムスリム労働者・学生が被爆者・二世、日本の労働者と共に結集し、「イスラエルはホロコーストをやるな!」「ヒロシマはガザ虐殺を糾弾する」のコールが鳴り響いた。 1月11日パレスチナ民衆連帯を掲げたヒロシマで始めてのデモが闘われた。イスラエルの封鎖の中で経済的な貧困にあえぐパレスチナ民衆への虐殺行為は、絶対に許されないものとして、派遣切りによって殺される日本の青年労働者に我が事として心から受け止められた。「ガザも、派遣も、生きさせろ!」のデモコールは街頭からの新たな参加者を多数生むと同時に、参加したムスリム労働者に「日本でこれだけパレスチナのことを考えてくれる人がいて嬉しい」と感動的な交流を生んだ。 その後、1月15日、1月25日、2月7日とデモは連続的に闘い取られた。この闘いを通じて、我々被爆者・被爆二世は、アウシュビッツの犠牲者であるユダヤ人の安全のための国家建設というデタラメな論法がアメリカ帝国主義の戦後支配の攻撃であったことを確認し、被爆者解放運動は「被爆国だからこそ核武装の権利がある」などという小林よしのり等を先兵とする英霊化・翼賛化攻撃を許さず、今こそ日帝の独自の核武装攻撃を粉砕することを決意した。 同時に、イスラエル国家を建設を可能としたアメリカの体制としての力、それを社会的に支えたアメリカ労働運動AFL-CIOとイスラエル総労働同盟(労働シオニズム)の結託が崩れおちようとする階級的現実は、被爆者解放にとって要である核廃絶のチャンスを一気に引き寄せる世界革命のチャンスであり、ガザ侵略許すな!は被爆者解放の死活的闘いとして闘われた。 |