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京都府の北部、由良川が日本海に向かって流れる丹後地方には、ふたつの元伊勢神社がある。 ひとつは日本三景の一つ、宮津市天橋立にある丹後一の宮、元伊勢籠(この)神社。もうひとつは隣の大江町にある元伊勢内宮(皇大神社)・外宮(豊受大神社)である。 ふたつの神社は距離的にも近く、直線距離にすると20キロほどだ。この地方を代表する山、大江山を挟んで、ちょうど対称となるような位置関係にある。 どちらも元伊勢と称しているが、地元では、どっちが本物でどっちが偽者か、というようなみっともない争いはせず、双方がともに元伊勢神社として併存してきた。 天皇家の神社である伊勢神宮が、三重県にある五十鈴川にたどり着く前には、アマテラスを祭る場所を求めて各地を転々として回った。その最初の地が「丹波(現丹後)の吉佐宮」と神社関係の古い文献にあり、それをもって「元伊勢」の由来としている。 ふたつの神社を比べると、社格というような点では、天橋立の籠神社の方が上であるようだ。延喜式にある官幣大社であるうえに、丹後一の宮であり、さらに古代丹波の国造家であった海部氏が、5世紀から現在まで82代にわたり代々宮司を務めている由緒ある神社である。 最近では、古代史の分野でも有名で、国宝の海部氏系図には卑弥呼と思われる名前が記されているなど、何かと豊富な話題を提供している。→関連ページ 一方、大江町の元伊勢は、社格では及ばないようだが、むしろ地元の人々からの崇敬が厚く、近隣の市町村から多くの参拝者を集めている。内宮と外宮それぞれ風格ある社である。 天橋立の籠神社が多少政治権力的な色彩があるのに比べ、大江町の元伊勢には、民間信仰のようなものがあったのかもしれない。 御神体になっている日室岳は、今も禁足地となっているが、典型的なピラミッド山で、十分な存在感がある。古木の生い繁る古さびた参道も、幽玄と霊気に満ちている。おそらく、太古の山岳信仰のようなものをルーツにしているのではないか、とも思えてくる。 ふたつの神社の祭神を比べると、次のようになっている。 天橋立 元伊勢籠神社 主祭神 彦火明命 相殿 豊受大神、天照大神、海神、天水分神 大江町 元伊勢内宮・皇大神社 天照大神 元伊勢外宮・豊受大神社 豊受大神 これを見て気づくのは、まず、天橋立の方には海神が祭られていること。海とのつながりが深いようだ。一方、大江町の方は、ピラミッド山を御神体にしているように、おそらく本来は山の神を祭っていたのではないだろうか。 ただし、双方ともに豊受大神を祭っているのは同じである。 この豊受大神という神さまは、記紀にも出てこないし、あまり正体がはっきりしない。しかし、豊作祈願の神さまで、農耕祖神とされている。伊勢の所伝では原初の神ともされているようだ。 この神さまを両方の神社で祭っているのは、やはり両社に共通する何かルーツがあるのかもしれない。 伊勢神宮の外宮に祭られているのは、この豊受大神である。大江町の元伊勢は、伊勢神宮とまったく同じように天照大神と豊受大神という祭神を、内宮と外宮でそれぞれ祭っているわけである。 こちらも元伊勢と称するゆえんで、豊受大神は、大江町の神社から伊勢に遷られたというのだが、このあたりがやや謎めいている。 自分の個人的な見方になるけれども、天橋立の籠神社は、大和朝廷に王権を簒奪された邪馬台国直系の氏族に連なる神社であるようだ。いわば、朝廷から見れば「目の上のたんこぶ」のような存在だ。そこを押さえておく必要から、大江町の元伊勢が朝廷によって造られたと考えることができるかもしれない。古くからの山の聖域を、アマテラスの神社にリメイクしたような恰好である。 あくまでも、ひとつの推理に過ぎないが、神社をめぐる考察は、なかなか面白いものだ。 隠さずにいえば、自分は、元伊勢と称する丹後のこのふたつの神社のわりと近いところで生まれ育った。籠神社のある丹後半島で生まれ5歳までを過ごし、5歳から10歳までは内宮さん外宮さんの大江町で過ごした。地元びいきと見られるのが嫌だったから、『古代出雲と大和朝廷の謎』を書いたときは、そのあたりには触れなかった。 ![]() 京都府北部大江町にある皇大神社(元伊勢内宮)の ご神体である日室岳(禁足地)。典型的なピラミッド山 ![]() 神社の創建は崇神天皇の時代と伝えるが たぶんその起源は大和朝廷に支配される以前の 太古の山岳信仰にまでさかのぼると思われる。 ![]() 古代においては、神は山の奥や海の彼方にいて 季節ごとに迎えるものだった。神社の神殿の中に 祭られるようになったのは、7〜8世紀ごろから。 東京奥多摩の御岳神社に登ってきた。 青梅線の御嶽駅から40分ほど歩き、そこからケーブルとリフトを乗り継いで展望台へ。さらにそこから30分歩いて御岳神社に着く。学生時代に一度来たことはあったが、こんなに遠かったかな、という気分。 休日とあって、多くの人が訪れていたが、みんな、フウフウ息を切らしながら登っている。最後の急な階段は、正直、厭になった。 神社は昔、山の上にあったのが、次第に麓に下りてきたといわれている。御岳神社はまだ原初の立地を留めている。なぜ、こんな山の上に神社があるのか。 天の神様に近づきたいという思いなのか。修行や修験のような意味合いがあるのか。 今でこそケーブルやリフトで登れるが、昔の人は全部歩いて登った。麓から神社までとなると、それだけで半日か、1日はかかる。大変な重労働だ。そこまでしても神社に詣でた人々の信仰心は、なかなか現代人には理解しにくい。 御岳神社の場合、主祭神は櫛真智命(くしまちのみこと)とあって、古代史の世界ではあまり聞きなれない神様だ。知恵や占いの神ということである。ほかに大国主命や少彦名命も祭神になっている。ということは、出雲系だ。(拙本にも書いたけれども、東日本には出雲系の神社がじつに多い。) 創建は1700年前の崇神天皇の時代と伝えている。だが、その起源は、もっと古い時代、たぶん縄文時代にさかのぼる原初の山岳信仰にまで行き着くのではないだろうか。 帰り道に振り返ると、神社の様子がよく見えた。なんと向かいにきれいな三角形をしたピラミッド型の山があり、それを仰ぎ見る位置に、神社は建っているのだ。すとんと腑に落ちたように、いっぺんに理解できた。 日本の神社は、そばにあるきれいな三角の山を御神体にしているケースが多い。ピラミッド山といわれたりする。だが、なぜピラミッドなのかが謎である。 ピラミッド信仰のようなもの、あるいは、ピラミッド型建造物は、じつは世界中にある。 日本のピラミッド山についても、研究家によってさまざまな意見が出されているが、確かなことはよくわからないようだ。 思うのだが、たぶん、世界の多くの民族には共通して、ピラミッドにたいする太古の記憶のようなものがあったのではないだろうか。そして、そのルーツには、エジプト文明誕生より遥か以前からエジプトの地に存在したピラミッドが、根本のシンボルとしてあったのではないか・・・・。そんなことを考えた。 ![]() 御岳神社とピラミッド山 今回は、拙著『古代出雲と大和朝廷の謎』について、紹介させていただこうと思うのですが、じつは、発売の前からみっともないミスが見つかって、がっくりしてしまいました。 内容には直接関係ないのですが、古代史の本としては、恥ずかしいことで、情けないです。 お気づきになった方、どうか笑って見逃してください。 この本のテーマは、数年前に出した『卑弥呼の謎 年輪の証言』のときから考えていたもので、邪馬台国や大和朝廷、古代出雲の関係を構造的に捉えようとしたものです。わりと短期間に、2ヶ月ほどで書いてしまいましたが、前作のときに300枚ほど下書きが作ってあったので、それがけっこう役に立ちました。 私としては、邪馬台国はどうやら出雲系で、天照系の大和朝廷との間に王朝の交代劇があったのではないかと考えていました。そこに、縄文文化ともつながる古代出雲文化圏のようなものを想定して、出雲系邪馬台国から天照系大和朝廷へという構図を描いたものです。 ほかに、卑弥呼と思われる名前が記された国宝の「海部氏系図」のことや、ニギハヤヒという謎の存在についても、自分なりの見方を提出しておきました。これらは当ホームページの「邪馬台国と大和朝廷」のコーナーに、新ページとして掲げてありますので、気が向いたらご覧になってください。 文庫の書下ろしは初めてだったので、出来上がりについてはいろいろ至らないところがあるのですが、ともかく、長年のテーマをやっと形にできた、という思いはしています。 はたして古代史の謎の解明になったかどうか、手にとって見ていただければ幸いです。しかしなぁ、参りましたわ。 ![]() ”恥ずかしながら・・・” 日本の古代史の奥の方をまさぐっていったときに、どうしても突き当たってしまうのは、なぜ、きちんとした歴史書が書かれなかったのか、ということですね。 8世紀初めに編纂された「記紀」(『古事記』と『日本書紀』)が、日本では一番古い歴史書だけど、あまりにも政治的な潤色が強すぎて、しまいには本当に厭になってくる。 たとえば、邪馬台国や卑弥呼のことを「記紀」の編者たちは大変よく知っているけど、わざと隠している。巧妙な細工をして、つじつまを合わせようとしながら、でも、隠しきれずに、思いがけない所に尻尾が出ていたりする。 なぜこんなことをするのだろう、とずーっと考えていくと、意外な事実が浮かんでくる。大和朝廷は、すごく邪馬台国の存在を煙たがっているみたいだ。 日本では長い間、文字がなかったね。邪馬台国の時代にも、古墳が作られ始めた頃にも、まだ文字は普及していなかった。ごく一部の人たちだけが中国の漢字を学んで、読み書きができたらしい。 おそらくその頃は、文字で記録するよりも、口承で伝えるのが一般的だったんだろう。だから、きちんと歴史を記録するという意識が芽生えなかったらしい。中国では、すでに司馬遷の時代から歴史を記録して残すという意識があった。ギリシアにも「歴史の父」ヘロドトスがいた。日本には8世紀になっても、そういう人がいなかった。文字の文化が浅すぎたんだ。 「記紀」よりも前に書かれた歴史書も、本当は少しあったらしいけど、まったく伝わっていないというのも不自然だよね。「記紀」が完成したときに、焚書のようなことがあったんじゃないか、と疑りたくなってくる。 文字で書かれたことは記録として残り、たとえ嘘でも真実になるケースもある。その怖さも、利点も、1300年前の大和朝廷の官僚たちはよく知っていたようだ。頭はいいけど、どこか人間をバカにしているみたいに思えるよね。 その場の都合だけで、人間や歴史に対するもっと大きな責任を果たしていない、というわけだからね。 ![]() 書記の神 エジプトのトト神 今月、10日に亡くなった人類学者の埴原和郎(はにはらかずろう)さんは、「日本人の二重構造モデル」を提唱した人である。南方系の縄文人に、弥生時代以降にやってきた北方系の渡来人が混血して日本人は出来あがったとする説だ。基本的な考え方は、今では、おおむね各分野の研究者に受け入れられているが、縄文人、渡来系弥生人、それぞれのルーツについては多くの議論がある。 縄文人については、東南アジアの人々に一番近いという考え方がある一方、石器や、遺伝子レベルの研究では、モンゴルや北方アジアに近いという見方もある。渡来系弥生人についても同様で、そのルーツを中国南部とする説や、モンゴル周辺、黄河源流域など、いろいろだ。 縄文人にしろ、弥生人にしろ、ある地域にルーツを持つ、同一の集団だったというよりも、いろんな地域から来た人々が混在していたという考え方もある。 ただ、縄文人は基本的にどの地域の骨も大きな差がないのに比べ、弥生人は多少の地域差があるといわれている。日本人は思ったより複雑に、いろんな民族の血が混じり合っているのかもしれない。 ところで、現在、私が興味を持っている弥生時代末期、つまり邪馬台国時代については、在来の縄文人と弥生人の関係はどうだったのか。日本で水田稲作が始まるのは北部九州が最初で、紀元前4〜5世紀といわれている。そのときからが弥生時代である。 しかし、稲作自体についていえば、もっと早くから始まっており、熊本県や岡山県からは紀元前10世紀、あるいはそれより古い時代のプラントオパール、つまり稲の痕跡が見つかっている。これは水田稲作ではなく、陸稲だったのではないかと見られている。 そうなると、すでに縄文時代の後期から晩期にかけて稲は作られていたわけだ。邪馬台国より千年以上前である。面白いのは、日本列島の人口の推移だ。 国立民族学博物館の小山修三さんなどの研究によると、縄文時代には多いときで人口は20〜30万人ほど、縄文末期にはむしろ減って、8万人ほどだったとみられている。農業生産が安定してくる弥生時代には、その数が数十万人にまで増え、奈良時代末には800万人に達する。問題の邪馬台国時代はというと、100万人ほどだったらしい。 列島全体としてみると、現在より遥かに少ないが、当時、人口は爆発的に増え続けていた。そこに渡来人がどのくらい関与したかが問われている。弥生時代から古墳時代にかけての千年ほどの間に、毎年、千人程度の渡来人が来たという意見もあれば、毎年50人くらいで十分だという意見もある。稲作による人口増加比率をどう取るかで、見方が変わってくるわけだ。 とはいえ、私たち日本人のほぼすべてが、大なり小なり縄文人と弥生人の両方の血を受け継いでいる。気が遠くなるほど遥かな過去までご先祖様をたどっていけば、みんな奈良時代末の800万人に、さらには縄文末期の10万人足らずの人々にたどり着くわけである。 数年前に、拙著『卑弥呼の謎 年輪の証言』を書いて以来、邪馬台国と初期大和朝廷、そして、出雲の関係にずっと頭をひねっていた。なかでも、厄介なのが出雲の位置づけである。 邪馬台国については、私の中ではほぼ決着がついた感があり、大和を拠点とする邪馬台国から初期大和朝廷への移行には、何か重大なミステリーがあるとにらんでいる。しかし、出雲とは何かと考えると、たちまち霧がかかったような気がしてくる。 古代出雲の位置づけについては、現在でも、研究者の間で定まった見方がない。というよりも、どう考えてよいのか判断できない、というのが今なお実情のようだ。 先月、私は自分の目と足で出雲を回ってみたとき、少し形になってくるものがあった。 出雲に関して今まで、ずっと気になっていたことのひとつに、東日本の大きな神社はなぜ出雲系が多いのか、ということがあった。その答えらしきものが見えた気がした。 当初、私は次のように考えていたのだ。弥生時代の初めごろから、出雲の勢力が各地に進出し、列島には出雲を宗教的な故地とする出雲文化圏のようなものが存在していたのではないか―。 ところが、どうもそれだけではないように思える。出雲そのものは弥生時代の新しい勢力ではなく、もっと古い縄文文化をルーツにしているのではないか。そう考えてみると、何かがぱっと開けたように思えるのだ。 もっともっと人々の間に深く根を張った、縄文文化を土台とする宗教文化圏がかつて列島には存在し、いつしか出雲がその拠点となっていたのではないだろうか―。出雲地域は、大陸や朝鮮半島にも近く、黒潮が分かれて日本海に流れ込む場所、という条件を備えている。 いわば、縄文の最終形態といってもいい文化的シンボルが、出雲だったのではないだろうか。たぶん、共通の呪術的な宗教を基盤とする文化圏で、それが弥生時代から古墳時代にかけて、徐々に太陽信仰(天照大神)へと塗り替えられていく。 母体としての出雲と、新しい神権システムを打ち立てた大和朝廷、その中間に位置する邪馬台国・・・・。こんな構造を考えてみた。 もちろんこれは、まだアイデアにすぎないから、近く「邪馬台国と大和朝廷」の中で、もう少し整理して、考えてみたいと思います。 ![]() 出雲大社・神楽殿の巨大な注連縄 丹後から山陰、出雲と、ひとり旅を一週間ほどしていた。故郷の福知山も山陰の玄関口にあたるので、懐かしい同級生にも会ってきた。 なかなか盛りだくさんで、思い出の多い旅でした。 西日本の日本海側一帯は、古代史の重要な鍵を握る地域でもあります。今では裏日本という扱いで、どうしても太平洋岸に比べると、華やかさに欠けるきらいはあるのですが、古代においては、日本海側の方が中国や朝鮮半島とつながる表玄関でした。最近の考古学の重要な発見も、北近畿から山陰に集中している観があります。 そんな旅のなかから、ここでは出雲について。 じつは出雲を訪ねたのは今回が初めてで、期するところが多かったのだが、何はともあれ、出雲大社を見なければ、ということで、大社に参拝。境内に入ると、厳かな雰囲気にはさすがに霊験あらたかな気分になる。不思議と、じわじわ来るものがあって、写真を撮りながら、拝殿、本殿の周囲をぶらぶらと巡る。時間をかけてゆっくり歩くのだが、なぜか退屈ではない。この素朴な、懐かしいような気分は何なのだろう。彰古館で資料などを見せてもらってから、稲佐の浜に出てみる。神話の世界なんか、ふと考えてみるが、砂浜にゴミがあるのは残念だ。 また大社に戻ってきて、背後の山などを眺めていると、(少し大げさだが、)立ち去り難いような気持ちになってきた。神社を訪ねて、こんな気分になったのは初めてだ。 松本清張の「砂の器」では、東北弁に似た発音の出雲方言が残っているのは奥出雲のごく一部の地域となっているが、じつはそうでもないらしい。松江の酒場で地元の呑み助たちから聞いた話では、今の50歳以上の人なら、ほぼ出雲方言がわかるということだ。 どんな方言かというと、 「やまとなでしこ」と言うところが、「やまとなでスこ」となる。「いずも」というのも、地元の発音では「ンーずも」に近いそうだ。たしかに東北弁に似ている。 加茂岩倉遺跡、神庭荒神谷遺跡など、近年、物議をかもした有名な遺跡を回ると、なぜあれほど大量の銅鐸や銅剣が埋められていたのか、本当に不思議になる。このふたつの遺跡だけで、青銅器の分布地図が塗り換えられてしまったのである。どちらも相当な山の中にあるので、発見されたこと自体が奇跡と思えるほどだ。 ただ、地元の地図を開いてみると、このふたつの遺跡は、大黒山を挟むような位置関係にある。「大黒」は「大国」につながり、出雲の主神「大国主命」のこととも取れる。 東北弁に似た方言といい、遺跡や神社が山を意識した立地になっていることといい、古代出雲のルーツは、縄文文化を背景にしているのではないか、というような気がしてくる。 実際に、縄文時代の遺跡や遺物も出雲には多いのである。 |
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