「連合への提言」2005年度入選論文

新・共同体主義を掲げて
市場原理万能主義への言論闘争を!
金田 義朗
目  次
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経団連は「人間の顔≠した資本主義をめざす-」と

『連合』は「人間の心≠持った資本主義であれ」と・・・
2. 日本には優秀な「隠しエンジン」と
頼もしい「安全・安心装置」があった・・・

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3. なぜ日本だけが抜きん出た経済成長をとげたのか?
他に無く、我に有るもの-『共同体志向性』
4. 職場で自然に生まれる「共同体意識」
それを支える丸がかえ′^雇用システム
5. 内側から発生する勤勉エネルギー
全国を風靡した職場の小集団活動
6. 我が国労働組合運動の歴史的転換
「生産性向上運動」への参加路線へ!
7. 経営者よ、あの「共同体的誓約」を思い出せ!
「生産性協力」と「雇用と労働条件」の相互努力の-
8. 外国の目がみつけた三種の神器
しかし日本人は、全く無関心だった!
9. 二千年の稲作文化が生んだ精神構造
「イエ型共同体」と「ムラ型共同体」の組み合わせ
10. 「荒ぶる野生」となった現代資本主義
市場原理万能の犠牲になっていく労働者たち
11. 『新・共同体主義』を掲げて言論闘争を!
非人間的な市場原理万能主義は退場せよ!と・・
12. ストができなくても、口喧嘩≠ヘできる!
大山鳴動≠ェ地殻変動を引き起こす!
1.  人間の顔≠ニ人間のこころ≠ニ・・
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 日本経団連の奥田会長は就任のあいさつで「人間の顔≠した資本主義をめざす-」との抱負を語った。
 「連合」の笹森会長はこれに対して、「人間のこころ≠持った資本主義であってほしい!」とのメッセージを発信した。
 まさに的を射抜いた鋭い矢文(やぶみ)であった。
 あのメッセージには働くもの幾千万のリストラの恨みや暮らしの祈りが込められていたのだ。しかし、あちらは矢文一筋でびりびり動きも見せるような陣構えではない。もし、何ほどかでもの矢疵の痛みが残ったならばせめての救いである。

 「日本の資本主義よ、どうか人間のこころ≠取り戻してほしい」と切実に願う。
 働かねば暮らしていけない労働者から仕事を取り上げるリストラを押し進めて心も痛めぬ風潮がいつまで続くのか?世の中は、「強者の支配・収奪」と「弱者の屈従・隷属」とが広がるばかりだろう。
 それはもはや荒ぶる野生≠フ世界であって、人間のこころ≠ェ住める処ではない。これは決して空論ではない。数年来のリストラ旋風の中にさえ、私たちはその片鱗を見、幻影を見てきたものだ!。
 苦しく長い時代を乗り超えて、ようやく豊かな今日を築いてきた私たちが、どうしてそんな道を歩まねばならないか?

 願わくば、我が社会'の指導階層をもって任じている経営サイドの人士が「非人間的な市場原理万能主義」の迷妄から解放され、我が国土着の優れた「共同体原理」を再評価し、ビルトイン(組み込み)して人間のこころ≠持つ日本型経済社会の構築に向かわれることを強く強く期待している。
 と同時に、私たち自らもその進路を切り開く役割を担おう!
 労働組合のなすべきことは山ほどあるが、それに取り組み、押し進める運動力ははなはだ不如意である。しかし、それを悔やんだり、言い訳にするのは無責任であり、卑怯ですらある。その乏しい力を一点に集中させれば、その役割を果たすことのできる道があるのだ!小論はその切なる願いと期待をこめて以下提言する。

2.  「隠しエンジン」と「安全・安心装置」

 この場合の人間のこころ≠ニは、第一に「なによりも人間を大切に考える-」ことだろう。そして、例えば「助け合い」とか、「支えあい」とかのニュアンスでさまざまな言葉で表現されている。
 私たちの社会のなかにはそういう精神を、根元に組み込んでいる共同生活集団がある。それを『共同体』と呼ぶ。、
 そのメンバーは、意識するしないにかかわらず、また内実が封建家父長的であるか、近代民主的であるかにかかわらず、「共に生き、友に栄える」という目標を共有する。
 この「共同体体制」の広範な普及こそが、日本発展の力柱≠ったと強調したいのである。
 その理由の第一は、 この「共同体原理」が我が国経済の優秀な隠しエンジン≠ナあったことであり、
 その第二は、その原理でつくる「共同体体制」が労働者にとって実に頼もしい「安全・安心装置」であったことである。

 ただ前もって了解いただかねばならないことがある。
 ここでいう「共同体」の意味は、かつてマルクスが唯物史観による歴史分析で論じた「共同体」論や、有名なテンニースがヨーロッパ・モデルをゲゼルシャフト・ゲマインシャフトとに分けて呼んだ「共同体」論ではない。
 また、1970年代にアメリカを中心に、行き過ぎた個人主義・自由主義を批判して哲学者たちの間で興ったコミュニティニズムという「共同体」論でもない。
 ここで以下に語る「共同体」とは、あくまでも我が日本民族が長い歴史と伝統のなかで、自ら作り上げてきた思想であり、日々の生活のなかで生きて働き続けてきたルール、システムのことである。
 ここて゜は、そのなかで特に「生産」「労働」「仕事」に関わる部分にふれていく。

3. 他に無く、我に有るもの-『共同体指向性』

 アジアの地図を開いて見て欲しい。
 同じアジアとい近代化後発地域の国々のなかで、日本の経済だけが突出したような発展をとげたのはなぜだろうか?
 一人当たりのGDPの数値を比べるだけでよい。世界で先進国といわれるアメリカやヨーロッパの国々と肩を並べているのはわが日本だけなのだ。奢って言うのでは決してない。この事実-富裕層だけではなく、庶民のレベルまで行き届いた今日の経済的豊かさが、どんな理由で日本にだけ実現したのか?を考えて欲しいのだ。そして、その要因がわかれば、それを今後とも守り、育てていくことを大切に考えねばならないのである。

 いくつもの要因が言われている。そのなかで最も重要なものを選ぶのには「彼らには無く、我らには有る」ものを見ればいい。すると真っ先に気がつくのは、私たち日本人が伝統的に持っている「共同体指向性」である。これは私たちの潜在意識の底にしっかりと根をおろしたものであり、人間を無意識のうちに動かしている力である。
 では「共同体指向性」は、どう経済的強さに発展するのか?
 すなわち- どこの国や社会であっても「経済価値創出の基礎拠点」は個々の企業-つまり人々の働く場である。私たち日本人は、この「働く場」に伝統的な「共同体原理」を自然に組み込み、たくまずして旺盛な生産力が発生する仕組みを造って来た。これが社会の隅々まで広がり、繰り返され、集積され、必然的に巨大な経済国家に育った-と考えられるのである。

4.「共同体」を支える丸がかえ′^雇用システム

 日本の企業で働いた者なら誰でも次のような体験をしたに違いない。
 企業の正規の構成員となった労働者は、そこを自然に「我が共同体」と意識する。「共同体」のメンバーは身内同士であり、「関わりは契約の範囲だけ-」という他人同士ではない。身内同士だから組織と個人、個人と個人の関係は私的な分野にまで及ぶのである。
 「共同体」の枠のウチとヨソは峻別され、価値観や感情を共有し、固有の秩序やルールを受け入れ、義理とか人情とかがなにより大切にされる一家意識≠持つに到るのである。
 (この点、最近増えてきたパートや派遣社員などのいわゆる非正規労働者の場合は、いかに勤続が長くても上記のように帰属意識が定まらず、不安定に揺れ動いている)

 この「企業共同体」を実質的に形成したのが、我が国特有の雇用慣行や労働条件であった。
 暗黙の約束である「終身雇用」と呼ばれる長期安定雇用(「出向」という、これまた日本的な広義の雇用保障も含めて)。
 「年功序列賃金」と呼ばれた生活保障の意味が大きい給料。季節的異常出費保障のボーナス。老後支援の「退職金」や「企業年金」。「世帯手当」など生計対応型の給与。
 「レクリェーションや医療支援から持ち家支援にまで及ぶ多彩多様な企業内の厚生・福利システム」などと、まさに生活丸がかえ∞人生丸がかえ%Iな労働条件、雇用システムがあり、企業内を「共同体」的組織にしてきたのだった。

 また「強い平等意識」があって、内部の配分もアメリカのような極端であからさまな格差を避ける習性があり、共同体らしい一体感を醸成した。
 こういった「気配りの仕組み」の総合が、働くものには心理面でも実際面でも「身内・仲間にくるまれた安全・安心」の装置となってきた。
 労働者は身体ひとつを元手に扶養家族を抱えて生きるのである。「現在の安心・将来の安全」を保障してもらえるほどありがたいものはないのだ。 こういう労働者を「個の埋没」とか、「企業隷属」とか、なかには「社畜(家畜)」とまで批判する声はあったが、今になってみれば、少なくとも近年流行の市場原理万能主義のリストラや成果主義と比べ、はるかに人間のこころ%Iであったと思える。
5. 内側から発生する勤勉エネルギー

 働くものの側でも「共同体」型の働き方やモラルを造った。
 自らを企業の価値観に同化し、「会社は自分、自分は会社」と一体意識を持ち、滅私奉公的に働くのが当然とされた。
 (ただし筆者は、この点については無条件に肯定はできない)。
 また、「共同体」内部で「良き働き手」と認められるのは最高の自己実現である。
 こんな集団基準に引っぱられて勤勉エネルギーを発揮するのだ。
 日本の企業で働いていた中国人のひとりが、
 「日本人は監督者がいなくても真面目に働くので驚いた!」
と語ったが(つまり中国では監督者がいないと真面目に働かないのが普通だという)、日本の労働者の仕事のしぶりは、企業という「共同体」への帰属意識が生んだ内発性の勤勉エネルギーなのである。

 こんなふうに、「人間のこころ≠フ内側から湧いてくる勤勉エネルギー」は、ビジネス的な契約に義務づけられた場合と違って、モチベーションが与えられれば能動的なエネルギーに転化するのである。
 例えば昭和40年代、全国を風靡した職場改善・品質向上の「QCサークル」など小集団活動では、末端現場のパートの主婦労働者までが意欲的積極的に参加したものだった。
 これらは「KAIZEN」という世界語を生んで、海外にまで知られた。
 この勤勉さは、時として暗いマイナス面を伴い(例えば、「不払い残業」などのような違法を承知の労務管理が行われるとかの)、全面的に肯定はできないが、こと生産にのみ関して見れば、この高いモチベーションがあってこそ、我が国の「生産性向上運動」が世界に先駆けて開花し、経済成長を牽引できたのである。

6.労働組合の路線転換−「生産性向上運動」へ参加

 日本の労働組合も「共同体原理」を基礎にしており、諸外国と比べると実に個性的である。
 企業の内と外の区分は厳しく、どんなに規模が小さくても労働組合はまず企業単位に組織される。「会社の内部はウチ、外部はヨソ。ウチは身内でヨソは他人。団結するのもまずウチの者同士で−」となる企業別意識は、戦前の労働組合の草分け時代から今日まで一貫して強固であり、ときにはこれがヨコ連帯を妨げて上部団体の悩みのタネになる。
 よく知らない人は「企業別組合をやめて、外国のような産業別の組合に改革したら−」などと簡単にいうが、もともと伝統的文化が基礎にあって成り立っているものなのだから、まず出来ない相談である。
 この代わりに日本の場合は、企業別労働組合の長所を伸ばし、欠点をカバーする精妙な役割を担って産業別連合体があるのだ。

 企業別組合がベースになっている労働運動の功罪もさまざまだが、昭和40年代を中心に、日本の労働組合がなだれを打つように「生産性向上運動」に参加していった路線転換は注目される歴史的出来事である。
 戦前から戦後のはじめ−労働運動の立ち上がりの時代、我が国でも労働組合陣営と資本・経営者陣営は互いに反目しあう敵対関係にあり、激しい労働争議もしばしば起こっていた。
 ところが昭和30年代になって、「生産性向上運動」という労使協力が前提となる新しい産業運動が登場してきた。
 つまり、労使は敵同士ではなくパートナー同士に−という産業運動である。
 それまで欧米の労働運動に学んだセオリーどうりに、「資本・経営側は労働者を搾取・収奪する敵陣営である」としていた労働組合は、この「労使協力による新産業運動」へ参加するか?しないか?をめぐって激しい議論が起こった。
 しかしここでも日本人に共通する「共同体指向性」は強く作用した。
 紆余曲折の結果、「生産性向上の成果を労働者・企業・消費者や社会へ三配分して社会全体を豊かにする」という理念が選択された。
 これは明らかに共生・共栄をめざす「共同体」構築路線である。
 「元のパイを大きくすれば、多くの分配ができる」という「パイ理論」でも正当性が強調された。
 「労使は全面対決!」ではなく、「生産性向上では協力しあい、成果の分配では対立する!」という「二面性労使関係」が新しい考え方だとしてアピールもされた。
 こうして我が国の「生産性向上運動」はなだれのように広がった。
7.経営者よ!あの「共同体的誓約」を思い出せ!
 ここで特に次の事情を留意しておいてほしい。
 まず、この「生産性向上運動」は、労働組合と経営者の「共同体的誓約」ともいえる約束の成立によってスタートできたことである。
 すなわち、「労働組合は生産性向上に協力する」「経営側は労働者の雇用確保と労働条件改善に努める」とした誓約である。
  生産性向上運動の実際面では、当然に新技術や新システムの導入があり、それに対応して現場では労働者の仕事の変更や職場の配置転換、新技術への積極的取り組みが必要になる。
 実は、それらの対応の問題は、それ以前の労使関係下では、常に反目や対立のタネになり、ごたごたもめるもとになり勝ちであった。もし労働組合がそれまでの思想的立場や対立感情に固執して、路線転換をしなかったらどうだったろうか? 

 労働者の配置転換や職種変更が必要になるたびに、労働組合が「労働者の既得権を侵害するな!」「労働強化絶対反対!」と叫ぶ反対運動や抵抗闘争に遭遇していたら生産性向上運動なんて全く前に進まなかっただろう。
 しかし、当時の労働組合運動の本流は生産性向上運動の理念を選び、労使間で「共に生き、共に栄える共同体的誓約」を交わし、歴史的な路線転換にふみきったのである。
 今日では、経営側の非情なリストラ路線によって、すでに見る影もなくなった労使関係であるが、あの共同体的誓約は必ずいつか再現を期されるべき約束なのである。、

8.外国の目が見つけた三種の神器
 かくて日本経済はフル回転し、世界の奇跡といわれる経済発展をとげた。寺島実郎氏によれば、戦後の50年間に年平均5%強の実質経済成長を果たしたレコードは世界でいまだ破られていないそうだ。
 その日本の経済成長の実態を調査するために、OECD(経済協力開発機構)が1973年に調査チームを日本に派遣した。
 帰国後、彼らが発表した調査報告書で、「日本のいちじるしい経済成長の秘密は『終身雇用・年功序列賃金・企業別労働組合』である」と分析されていて、以来それが「日本経済の三種の神器=vとして広く知られるようになったのである。
 国際的な第三者の目でさえも、生産の場の「「共同体主義」体制が「労働者には安心・安全装置」となり、職場で「旺盛な隠しエンジン」となって、日本の経済パワーを生み出していることを理解したのである。

 もとより我々の「共同体主義」体制も欠陥が多い。
 企業のへいの中では、労働組合への弾圧や妨害は絶えないし、労働者の勤勉さにつけこんだ不法行為(不払い残業などはその最たるもの)や、理不尽な人間抑圧・人権侵害の事実も頻発している。身内意識を悪用した企業犯罪もあとをたたない。
 一部だが社会正義のカンバンを掲げた労働組合さえもモラル喪失の醜態を見せている。「共同体主義」の長所であり、同時に欠点でもある「人間への甘さ」ゆえである。
 しかし、それらのマイナス点を相殺しても、「共同体主義」の功績は文句なしに大きい。
 
 どうか60年を振り返って考えてほしい。
 あの敗戦の日に、国中が焼け野原で、皆が飢え、周辺の国々から劣等国と言われ、精神年齢12歳と見下げられた日本人が、わずか十数年で一億人の衣食住に不自由のない生活を得、二十数年で世界のトップの経済大国の座をしめたのである。世界の経済発展の相場≠ニ比べれば、いかに抜きん出た成功であったか?
 しかし、大きな問題が残った!
 肝心の日本人が「共同体主義」の大切さを理解せず、無知・無関心に近いことである。 気づかないものがどうして守られようか?
 いま私たちは「民族の至宝」ともいうべき「共同体システム」を容赦なく剥ぎ取られつつある。そして失いつつあるものの大切さ≠ノまだ気がついていないのだ!

9. 「イエ共同体」と「ムラ共同体」

 以下は私の仮説である。
 日本人のユニークな「共同体指向性」は、我が国の長い「水稲農耕労働」が生んだものだと思う。今日まで引き継いでいる労働に関連する慣行は、労働の歴史のなかで生まれてきたに違いないからだ。
  日本人は「米つくり農耕」で二千年余も生きてきたが、その労働生活は世界の農耕史のなかでも際立って個性的であり、それが現代にまで大きな影響を残しているのだと考えるのである。
 
 もともと熱帯性植物である水稲を温帯地方の日本で栽培する農耕は、風雨日照気温の影響を敏感に受けるので、細やかな気配りや行き届いた世話、熟達した技術や蓄積した経験知識の上に、濃密度な集約労働が必要なのだ。
 しかも一年一回の収穫で一年間食っていかねばならないし(台湾以南では年に2〜3回栽培し収穫できる)、常に不作凶作を心配しつつ、目まぐるしく移り変わる季節に追いかけられながら働く農民の暮らしは、現代人の想像を超える厳しいものであった。

 この厳しさが日本人を鍛えた。
 忠実で勤勉、結束力の強さ、こまやかな気配りをする集約労働、精密で蓄積された知識や技術、几帳面な計画性、密集村落型の人間関係、倹約・貯蓄性向の高さなどは緊張度の高い二千年の労働生活で鍛え上げられたパーソナリティなのである。

 そのなかで日本人は暮らしていくために欠かすことのできない二種類の「共同体」を育ててきた。
 ひとつは、強い権能を持つ「家長」を頂点に、家族・身内が結束して「生産と労働と生活」を遂行していくタテ型の「イエ共同体」-
 もうひとつは、高い権威を持った「長老(おさ)」を中心に「イエ」同士の利害調節や協同課題に取り組むヨコ型の「ムラ共同体」である。
 この「権威の長老のムラ共同体」と「権能の家長のイエ共同体」の組み合わせによって水稲農耕社会はほぼ完結されるのである。

 この二つの「共同体」がさまざまな知恵を蓄積し、私たちのDNAに組み込まれ、今日の工業社会に引き継がれている。
 すなわち、企業や労働組合は「イエ型共同体」の組織原理で成り立ち、組合の産別組織やナショナルセンター、業界団体は「ムラ型共同体」のそれをひきついだと見える。そして、それが偶然に近代工業に絶妙にマッチし、経済パワーとなって花開いたのだと思う。 

 お隣りの韓国とくらべると大変に興味深いことに気がつく。
 個性の強い日本の労働組合の組織や活動、労働条件や労使慣行などがよく似通っているのは韓国だけであるが、この韓国だけが日本と同じ自然条件下で同じ水稲農耕の歴史を体験してきており、かつ日本と共にアジアでもっとも早く経済成長をとげた民族なのである。この類似性は先に述べた仮説の信憑性を立証しているかのようだ。
 ともあれ、私たちは何ら自覚せず、育てる努力もせず、ただ先人から「共同体指向性」という有りがたい伝統を受け継いできた。それが今日の近代工業時代に遭遇して優れた経済パワーを発生し、大きな富を生み出し、私たちがそれを享受してきたなどということは全く「歴史の偶然、民族の幸運」なのである。その幸運に気がつかずにいた迂闊さのために、今度はそのウラ目が出てきたようだ。

10. 「荒ぶる野生」にかえった現代資本主義

 経済には「荒ぶる野生」がひそんでいた。
 先人たちは、それが利益を追って狂うときの獰猛さを知って恐れ、深く閉じ込めて封印し、世に出さなかった。
 経済は「経世済民-世のため、人のため尽くす」という道義の大枠のなかに置かれた。その枠をはみ出して、貪欲に利を追うものは「道義に背く者」として指弾を受けた。
 しかし、まだ歴史の浅いアメリカ経済には、そんな奥行きのある文化は育っていない。あるのは自由でオープンな競争こそが公正であり、勝者は生き残り,敗者は落ちて消える-という猛々しさだけである。それらしい理屈は云い立てるが、その本質は「荒ぶる野生」そのものであり、それ以上のものではない。

 「野生」は地の果てまで獲物を追う。
 彼らはグローバリズムの波をつくり、「市場原理万能主義」を持って日本に上陸した。そして、その吼え声に応えた日本経済の「野生」も封印を破って野づらに出てきたのである。
 「野生」は獲物の群れの弱い個所を狙って襲う。今日まで「共同体体制」に甘えて、それに支えられている自分を守る意思も力も忘れた労働者階層がまず犠牲になった。
 10年前、「緊急避難の処置」という受け入れざるを得ない名目で始まったリストラが、今日になってみると、実は、労働者に優しい「共同体体制」を、非情な「市場原理万能主義」で削り落として来た彼らの新労務戦略は、こんな風に映るのである。

 平成11年、小渕内閣は「経済戦略会議」が出した日本経済再生への政策答申を国家の政策として決定した。
 アメリカ型市場主義に傾倒した人たちの作文は、美辞麗句の羅列だが、その実像が何であったか?その後の彼らの行跡が如実に物語っている。
 
 なかに「雇用流動化を促進し」という聞きなれない言葉があった。実にあれこそが「リストラ人減らし天下御免!」の許可証だったのだ。
 まず扶養義務を背負った働き盛りの年代が狙い打ちされ、失業者はまたたくまに増えて300万人を超えた。
 その年の暮れ、失業者で雇用保険の生活手当をもらえたのは100万人であり、あとの200万人は雇用保険の給付も切れ、職にもありつけない悲惨な正月を迎えたのである。 

 以来、このパターンは毎年続いて7年になる。
 そして毎年3万人の自殺者が出るようになった。その増え方は失業率に比例しており、交通事故の死者数の3.5倍である。いずれも日本の歴史で初めての体験である。
 豊穣の国日本で起こってはならぬ悲劇だが、例のリストラ御免!≠フ政策に関った彼らから、その政策の犠牲を悼む一片のメッセージも出ない。自殺したのが「3万頭のアザラシ」なら哀れんで手を差し伸べただろう。しかし自殺したのは哀れな元サラリーマンである。「荒ぶる野生」の彼らの目には仕留めた獲物≠ノ見えるのかもしれない。
 封印を破って闇から甦えり、狩場を彷徨する「野生iに戻った経済」というもののおぞましさに慄然とするのである。

 定期昇給の廃止、終身雇用の空洞化、労基法や派遣法の改悪、退職金の401K化、会社分割法、裁量労働法、成果主義賃金、不払い残業、非正規労働者の激増、そしてサラリーマンの労働時間を無制限にする「ホワイトカラー・エクゼンプション」の法制化計画-と、経営サイドからつぎつぎと打ち出してくる労務戦略は、すべて人間のコストはぎりぎりまで引き下げ、労働力を極限まで引き出すためのものである。
 長年かけて積み重ねてきた「共同体システム」はズタズタに削り落とされ、働くものの「安全・安心装置」は限りなく縮小していく。これとタイムラグをおいて、これとセットの「経済の隠しエンジン」も出力ダウンしていくだろう。これは私たちが衰亡へ辿る道ではないだろうか?

 私たちは今いちど立ち止まって考えようではないか!
 この「荒ぶる野生」の、我が国における横行跋扈は一過性のものなのだろうか?やがて市場原理万能主義者の彼らも元の正気を取り戻し、この体験を奇貨として、新しい感覚の「共生・共栄の共同体型経済社会」に回帰しようとするのか?
 それとも、いま進行しつつある階層分裂社会に入り込み、きしみと軋轢で自らも周囲も傷まみれにしながら、抗争とカオスの時代に進むのか?を。

11. 新・共同体主義を掲げて言論闘争を!

 さて、小論の提言は「新しい共同体主義を掲げて市場原理万能主義との言論闘争を!」である。
 「新しい共同体主義-」としたのは二つの意味がある。
 一つ目は「正しく認識された共同体主義」という意味である。
 私たちは民族の英知である「共同体主義」から多くのものを与えられながら、それが何であるか-も理解せず、有り難いとも思わず、まして大切に守っていこう!などと考えもしなかった。その無知・無防備のために、市場原理万能主義者たちの「グローバリズムだ!」「世界の流れだ」「!国際競争力だ」などというプロパガンダに一も二もなく引き回され、共同体体制の「土留めの杭」一本一本を引き抜かれながら、指一本の抵抗もせず、気がついたら貴重な資産の半分も取り上げられ、いまも引き剥がされつつある。
 私たちはこの体験を機に、「共同体主義」の正しい認識を持とう!
 そして「頼りになる安心・安全装置」と「優秀な隠しエンジン」を取り戻し、守り抜く意思を持とう-という意味である。

 ふたつ目は「新しい時代課題を担う「共同体主義」という意味で、私は次のとおり、基本的な四つの課題を取り上げたい。
 
 その第一「アメリカ型市場原理万能主義に日本から退場を求める」ことである。
 「社会は『共に生き、共に栄えようとする共同体主義』がいちばん良いのだ!」という伝統的理念を持つ日本には、アメリカ型の市場原理万能、競争万能の浅薄な考え方は不要、有害である。
 必要ならば「共同体原理」に時代的修正を加えればいい。
 企業にせよ、国家にせよ、内部には自らにいちばん合ったシステムによって旺盛な創出力と団結力を保ち、それによって外の世界のグローバルな潮流に伍していくのがいちばん良いのである。アメリカ発のグローバルだからと、日本の内も外もアメリカ式を真似るなどと愚かなことをするべきではない。

 その課題の第二は、経営サイド人士-企業経営者、経営者団体の指導者やブレーン、その系列の有識者やジャーナリストの諸氏に、
 「日本社会全体の『指導階層』としての自覚を迫る」ことである。
 2006年時点、日本の代表的企業は軒並みに史上最高の利益を上げたというが、その代償にリストラ戦略によって三分の一に及ぶ非正規労働者の大群が生まれた。低賃金と雇用不安のために結婚もできず、家庭を持つこともできない新貧窮民層の出現は、豊かな日本にはあってはならない大矛盾である。これが社会の進歩といえるのか?
 経済は社会の重要な基礎部分を占めている。その指導階層である経営サイドの人士は、その影響力からも「経済の分野」だけでなく、日本社会全体の「指導階層」であることの自覚に立つことを迫っていかねばならない。

 課題の第三は、「ワークシェアリング実現」を不退転の運動目標に据えることである。
 途上国の工業化が急速に進み、世界の近代的工業製品の生産人口は20年で12億人から25億人に増えたという。生産能力の世界的過剰傾向は次第に明らかになってきた。就業機会の減少はさけられず、昨今、世界各地で起こっている失業無職の怒れる若者≠フ暴走は来る時代を暗示している。いまや「ワークシェアリングの実現」と「産業社会の安定」は天秤にかけられている。
 少ない仕事を分かち合うのは「共生・共栄の共同体精神」そのものである。実現至難の課題だからこそ、労働組合でなければ出来ないシンボル的運動として位置づけ、不退転の決意を示し続けていかなければならない。

 第四は、非正規労働者の労働運動への連帯支援である。
 低コスト人件費の旨味を知った雇用側は「非正規労働者雇用」の労務戦略を容易に手放さないだろう。私たちがこれを放置しては正社員だけのエゴ運動≠ニ批判され、社会的な存在意義を問われる。
 それならば、労働陣営は総力を挙げて「非正規労働者の雇用市場」のど真ん中に労働運動の旗を押し立てなければならない。
 
 地域に拠点を創り、個人加盟で組織せざるを得ないこの運動は、まさに「草の根・・・」そのものである。困難ははかり知れない。どうしても支える力が必要だ。そこで労働運動の先行組織ー「連合」、「産別」、「既存の労働組合」の支援・連帯運動である。

 地域社会から視線を集め、経営サイドを圧倒し、散らばっているパートや派遣社員の労働者をふるい立たせるような「連帯支援」の体制ー人的・財政的・政治的な支援の体制づくりを「連帯義務」として普及させねばならない。そして、それが結局は自分たちの労働組合や労働運動の地位を強化していくことになるのである。

12. 大山鳴動が地殻変動を呼び起こす!

 いま、労働組合運動が「成すべきこと」は山ほどある。
 しかし、力は乏しく、「成し得ること」は多くはない。
 それらの中で、ここで提言している「新共同体主義を掲げて言論闘争を!」の運動は私たちの持っている力で成し得る、そして大きな前進に結びつく唯一といいうるものだと確信する。
 まず、不完全ながら、ここに記述してきた試案を叩き台にし、さらに衆知を集めて「市場原理万能の労務戦略を指弾し、共同体主義ビルトインを主張するアピール」を成案し、それを労働組合の各級のあらゆるメディアを動員してルートに乗せ、組織内外に発信して討議への参加を呼びかける。日本の労働運動第一級の規模の言論戦に仕立て上げるのである。
 大切なのは、運動の先頭には「連合」中央トップが火の玉のように燃えて立ち、経営陣に向かって堂々と公開議論を仕掛けることだ。
 これは「ムラ共同体の長老(おさ)」の務め
である。

項目bクリック

 アピールはある種の宣言的なものになるが、大切なことは現場の組合員や第一線の職場リーダーのハートに届くような感覚で作られねばならない。「たしかにオレたちのことだ!」と感じ、「連合」のやる気本気元気がビンビンと伝わっていくこと、つまり「大衆運動的アプローチ」は絶対に欠かせない戦術である。
 経営サイドからであれ、組織内部からであれ、異論反論が返ってくればチャンスである。真剣白刃の堂々たる論議論争を展開すればいい。そしてその中身を職場の組合員はもとより、広く社会に向けて公開すればよい。そこから新しい切り口が広がると確信する。

 いま、経営サイドがどんなに非情な労務戦略で押してきても、現在の組織実態では実力行使で抵抗するなどは難しいだろう。
 しかし、実力闘争か出来なくても言論戦ならできるはずだ。
  ストライキができないのなら口げんか≠やればいい!
 日本の津々浦々までとどろき渡るような大喧嘩をやることだ!。
 労働者が聞き耳たてて注目するような痛快な喧嘩をやることだ。
 大山鳴動してねずね一匹も出なくてもいい。大山鳴動するだけで必ず地殻変動≠ェ起こり、土石流が流れ出す。歴史はそうやって作られていくのだ!。
                                   (終わり) 

筆者略歴 金田 義朗(かなだ よしろう) 昭和9年・兵庫県生れ 出身は
      播州織物産地の中小企業労働運動(11年)  ゼンセン同盟本部 
      教育局(12年)  同中央教育センター(18年) 平成6年より「ユニ 
     オン教育専科」講師活動 本「ネット言論活動」の『労働組合運動 
     復権のための提言のひろば』主宰。岡山県在住。