タイトル

《 飯能市編 》

飯能市

飯能市の大きな祭りは、やはり11月に行われる「飯能まつり」でしょう。
2日間行われる祭りの内、1日目は底抜け屋台の曳行が中心でギオン囃子と
呼ばれる囃子が演奏されます。威勢のいい太鼓に小気味いい合いの手が入り
祭りは最高潮に達します。2日目は山車の曳行が中心となり屋台囃子が演奏
されます。ギオン囃子には踊りはありませんでしたが屋台囃子には踊りが付き
一層、華やかになります。飯能の特長とも言える外道の舞いも見逃せません。
各所で曳っかわせが行われるだけでなく山車を並べて展示し間近で見ることが
できる「山車総覧」などが行われます。

「1日目の底抜け屋台」(写真左)・「2日目の山車」(写真右)
底抜け屋台 山車

飯能まつりに参加する囃子連の情報は↓飯能祭り連合会のHP(コチラ)から
飯祭連

飯能市の囃子連

※表記順は数字優先のアイウエオ順です。
※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

《 一丁目囃子保存会 》
一丁目
イッチョウメハヤシホゾンカイ
囃子の流派は神田囃子大橋流。
大正7年、一丁目囃子保存会を結成し、同市双柳より伝承。
戦時中は中断したが昭和21年には復活。山車(屋台)2台
(1台は小若屋台)と底抜け屋台を所有している。山車(屋台)は
大正9年に製作。小若屋台と底抜け屋台は昭和25年の製作。
平成13年には封印されていた廻り舞台が復活している。
詳細はこちら。

《 二丁目親和会 》
ニチョウメシンワカイ
二丁目
囃子の流派は神田囃子大橋流。
大正10年、同市下畑より伝承。昭和5年頃に越生町本町、
昭和43年頃に川越市西小仙波へも囃子を伝授。大橋流の普及に
努めた。戦時中は中断したが戦後に復活。現在に至る。山車(屋台)は
明治4年に砂川村(現立川市)五番組で作られた八王子型人形山車を
大正9年に購入。永く盛留より上の部分は廃されていたが、この度、
文化庁の復原事業により、山車の修復と同時に盛留を復活。平成24年の祭礼で
お披露目された。平成25年、失われていた山車人形を新調。
購入した砂川五番組の現地聞き取りから人形を「神功皇后」とした。
製作は岩槻の川崎人形。飯能まつりでは要所要所で人形を乗せる。
第一期工事は田中光明氏第二期以降は施工は轄r木社寺が担当。
底抜け屋台は昭和25年の製作。
詳細はこちら。

《 三丁目共鳴会 》
サンチョウメキョウメイカイ
三丁目
囃子の流派は神田囃子大橋流。
明治中頃、同市下畑より伝承。戦時中の中断を経て昭和21年に復活。
山車(屋台)は大正4年に製作。当時は加藤清正の人形を乗せた鉾型の
山車であった(八王子型人形山車という説もあり)とされる。
昭和になってから人形がダメになってしまい、現在の屋台型の山車へ
改造されたという。底抜け屋台は平成15年に新調。

《 石倉囃子連(石原獅子囃子保存会)》
イシクラハヤシレン
石倉
ここでは便宜上、石倉囃子連としたが特に屋台囃子の方の名称はないという。
流派は不明だが江戸囃子だという。明治7年頃に八王子の方から青梅を経て
伝わったらしい。山車(屋台)は昭和51年頃に地元大工の作。
地元、日枝神社の祭礼で山車(屋台)を曳き回し、演奏されているとの事。
カッコ内の石原獅子囃子保存会は、獅子舞の時の名称で、石倉の「石」と
後述の原市場の「原」をとって「石原」となっているとのこと。
獅子舞は合同であるが、囃子は各々別々におこなっているようだ。

《 岩沢祭友会 》
イワサワサイユウカイ
岩沢
囃子の流派は神田流馬流。
平成元年に子供みこしを始めたのを期に、
平成4年に入間市野田の諸井師匠より伝授され、会を発足。
写真は飯能市落合白髭神社春祭りでの演奏。
この落合、地元岩沢を含む加治地区の祭礼などで
演奏しているとのこと。

《 岩淵囃子連 》
イワブチハヤシレン
岩淵
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
一時途絶えたが昭和54年、岩淵囃子連を再結成し、同市宮本町より伝承。
山車(屋台)は再結成にともない地元有志の製作であったが
平成10年頃に解体されてしまったとのこと。
以前は4月29日の地元八幡神社の祭礼で演奏されていたが、
今は演奏されておらず、11月の飯能祭りで演奏されている。

《 加治囃子連 》
カジハヤシレン
加治
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
平成18年10月に結成。同市原町、中山より伝授される。
小学生を中心に子供8名、大人4名で構成される。地元に囃子連が
なかったため、代表者の方が1人で子供達を集めてはじめた。
平成18年に同市中山より昭和49年製作の底抜け屋台を譲渡され、
地元、ゆずり葉まつりや、飯能まつりのパレードで曳き出され、活躍
している。練習は月一回、第3日曜日の午後1:30〜3:30まで
加治東公民館で行われている。
※現在、地区を問わずメンバーを募集しているので、興味のある方は
下記アドレスまでお問い合わせください。
加治メール

《 上畑囃子連 》
カミハタハヤシレン
上畑
囃子の流派は神田囃子大橋流。
明治25年頃、入間市新久より伝承。昭和36年に中断するも
昭和46年頃復活したといわれる。山車(屋台)は、明治25年頃に
製作された鉾型山車を元に大正4年に屋台型の山車に改造。さらに
地元大工の手により平成5年に車輪など足回りの部分のみ使い新調された。

《 河原町親水会 》
カワラマチシンスイカイ
河原町
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
明治2年頃、同市原町より伝承とされるが詳細は不明。(入間市金子から
という説もあり)昭和23年には同市柳原へ囃子を伝授した。山車は、
明治37年に静岡浅間神社祭礼で曳行されていた江戸型人形山車を
静岡市から購入。製作は明治30年頃に東京浅草の山車屋、浪花屋七郎兵衛で
一本柱高欄を持つ貴重な山車。二重鉾で四つ車。人形は素戔鳴尊(スサノオノ
ミコト)。底抜け屋台は昭和42年の作のものを譲渡し、平成27年に新調。
詳細はこちら。

《 坂石町分囃子保存会 》
サカイシマチブンハヤシホゾンカイ
坂石町分
囃子の流派は神田囃子大橋流。
大正2年に町分囃子連が結成され、同市下畑より伝承。
山車(屋台)は、以前からあった山車を昭和3年に屋台に改造。
子供用の山車(屋台)もあったが現在は使用されていない。

《 下畑囃子保存会 》
シモハタハヤシホゾンカイ
下畑
囃子の流派は神田囃子大橋流。
江戸時代末期から明治初期頃、入間市新久より伝承。
その後、同市二丁目、三丁目、坂石町分、岩淵、毛呂山町長瀬などに
囃子を伝授し、大橋流を広めた。山車(屋台)は、大正11年に
製作された屋台を平成元年に改修。以前は二重高欄の鉾型山車で
浦島太郎の人形を乗せていたとされる。

《 直竹囃子保存会 》
ナオタケハヤシホゾンカイ
直竹
囃子の流派は囃子神田若狭流。
伝承の正確な年度は不詳だが江戸時代末期から明治初期頃、
同市間野より伝承されたという説と川越市近郊から伝わったと
いう説があり詳細は不明。以前は神田大橋流源流を名乗っていた。
山車(屋台)は、地元大工の手により製作。製作年は明治9年
という説もあるが、地元の方の話では明治15年の八坂神社を
作ったときに作られたものだとのことだった。
詳細はこちら。

《 中藤囃子連 》
ナカトウハヤシレン
中藤
囃子の流派は江戸囃子ということのみで流派は不詳。
昭和54年に囃子連を結成後、昭和56年に同市石原より伝承。
だが事情により伝授途中で終了してしまい、肝心の「屋台」という曲が半分ほどしか
伝授されていないという。その後、飯能市一丁目から移ってきた若衆により
神田大橋流の屋台が伝授され、「屋台」のみ神田大橋流となった。
特殊芸能として足踊りも行われている。狭山市笹井の足踊りを参考に独自に
アレンジし演じているといわれる。底抜け屋台は、昭和59年に製作。

《 中山囃子保存会 》
中山
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
昭和45年の再結成後、昭和50年に同市原町より伝承。
以前は昭和30年頃の発足とされ、昭和42年まで続き
一時解散。再結成後、平成8年頃に同市平松へ囃子を伝授した。
飯能まつりへは居囃子で参加していたが昭和53年に地元大工組合の製作により、
山車(屋台)が完成し、この年より山車(屋台)を曳いての参加となった。
底抜け屋台は平成18年に新調。先代は昭和49年の製作。
詳細はこちら。

《 双柳囃子連保存会 》
ナミヤナギハヤシレンホゾンカイ
双柳
囃子の流派は神田囃子大橋流。
明治25年頃に結成といわれ、入間市新久より伝授。
年代は不詳だが一時中断し、再開後に入間市仏子より伝承。
山車(屋台)は、それまであった大正元年製作の山車(屋台)を
所沢市林区へ譲渡し、平成3年に富山県の宮大工の手により新調。
底抜け屋台は昭和35年の製作といわれる。
詳細はこちら。

《 原市場倶楽部(石原獅子囃子保存会)》
ハライチバクラブ
原市場
囃子の流派は神田囃子ということのみで流派は不詳。
南高麗の方(現飯能市)の直竹より伝わったようだとのこと。
戦前には、すでに囃子があったらしい。戦時中は中断していたが戦後に再開した。
山車(屋台)は現在の形のものは2代目で平成13年頃の作。
カッコ内の石原獅子囃子保存会は、獅子舞の時の名称で、前述の石倉の
「石」と原市場の「原」をとって「石原」となっているとのこと。
獅子舞は合同であるが、囃子は各々別々におこなっているようだ。
詳細はこちら。

《 原町囃子連 》
ハラマチハヤシレン
原町
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
明治2年、川越市新宿町より伝承。その後、同市河原町、本郷、前田、中山と
越生町黒岩、入間市南峰、入間市新光へ囃子を伝授。若狭流を広めた。
山車は、明治15年の製作で入母屋作りの屋根を持つ鉾型山車で人形を配する。
人形は神武天皇で三代目原舟月作。こちらは明治24年の作という。平成23年に
市指定有形民俗文化財に指定された。平成17年の東京都千代田区で行われた
天下祭りで人形の展示、平成19年には山車の巡行が行われた。
底抜け屋台は3代目で昭和56年の製作。

《 平松囃子保存会 》
ヒラマツハヤシホゾンカイ
平松
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
長く途絶えていたが平成5年に復活後、平成7年頃、同市中山より
伝授された。中断前は同じ若狭流の同市原町から習ったとされる。
更に前には入間市野田より囃子を伝授されたというが詳細は不明。
底抜け屋台は同市宮本町より平成8年ころに譲渡されたという。

《 本郷囃子連 》
ホンゴウハヤシレン
本郷
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
明治25年頃、囃子連を結成。同市原町より伝承。
山車は、明治中期頃、東京都砂川村から購入したが老朽化により解体。
その後、大正4年南高麗村下畑から山車を購入する。その山車も昭和30年、
老朽化と囃子連の衰退に伴い、解体された。昭和54年になり囃子連が復活。
昭和56年に原町より譲渡された底抜け屋台を改修し曳行を続けていた。
平成19年、市内、細田建設より山車を寄贈され、約50年ぶりに山車を保有する
事となった。唐破風付きの屋根を持つ山車(屋台)で4つ車。前輪に梶が付く。

《 前田囃子保存会 》
マエタハヤシホゾンカイ
前田
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
昭和6年頃、同市原町より伝承。戦時中は中断されたが昭和21年に復活。
復活後、昭和47年頃に狭山市下諏訪に囃子を伝授。平成9年頃には日高市原宿囃子連に
囃子を伝授。山車は、昭和22年の製作で川越市笠幡より山車彫刻を購入し組み込んでいる。
山車最上部には諫鼓鳥を配する鉾型山車で、多重鉾とも呼べる多段構造の鉾をもつ、
他にはない鉾形状となっている。底抜け屋台は昭和55年の作。
詳細はこちら。

《 間野囃子連 》
マノハヤシレン
間野
囃子の流派は江戸囃子ということのみで流派は不詳。
明治の初め、東京神田の師匠に師事といわれ。その後、
独自に手を加え、今に伝わっている。
山車は、明治の初め、地元大工の製作。
写真は春祭りのものでトラックに太鼓を載せ
獅子が各家庭をまわる。現在では囃子方の不足で
テープでお囃子を流している。
詳細はこちら。

《 宮本町囃子連 》
ミヤモトチョウハヤシレン
宮本町
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
大正頃は同市本郷より屋台とともに囃子連に来てもらい、祭りに参加。
昭和3年、囃子連結成し、同市本郷より伝承。昭和54年には同市岩淵へ
囃子を伝授。山車(屋台)は、屋台型の山車で廻り舞台を擁する。
製作は大正14年。以前は砂川村(現立川市)から購入の山車があったが
傷みがひどく日高市上鹿山へ譲ったという。底抜け屋台は平成8年頃の作。

《 柳原囃子保存会 》
ヤナギワラハヤシホゾンカイ
柳原
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
昭和15年、リヤカーに太鼓を載せ町内を曳き回したのが始まりとされる。
昭和21年には南高麗の畑から太鼓を借りて底抜け屋台を仕立て祭りに
参加。翌年の昭和22年、同市河原町より伝承。翌年、囃子連を結成。
山車(屋台)も昭和22年に1年かけて製作。何度かの改修で姿を変えてきたが、
平成24年に囃子台以下の車台を一新。全周を巡っていなかった高欄を巡らし、
廻り舞台とした。同時に腰幕を廃し、前後に木鼻を採用した。施工は轄r木社寺。
平成26年に前輪を大きく新調。底抜け屋台は平成2年の作。
詳細はこちら。

個人所有の山車

《 元禄弥の山車(個人製作の山車) 》
元禄弥の山車
飯能市内在住の方が自主制作した山車。全くの素人の方が研究を重ね、江戸型山車を
製作。平成23年に人形以外の部分がほぼ完成し、飯能まつりに参加した。
組み立て分解が容易なように設計され、他地区への出張も可能に。平成24年には
池袋へ山車を分解して持っていき、池袋で曳き回しも行った。その際、製作中の鐘馗人形を
神社の御祭神に合わせ、日本武尊に変更し山車に乗せた。写真はそのときの様子。
お祭りのない地区にお祭りをという理念の下に、その中心となる物として山車が必要と考え、
山車を作り上げてしまったのだという。二重鉾、三つ車、欄間仕立ての囃子台を持つ。
飯能まつりでは1本柱万度型山車に仕立て、個人所有の山車人形を乗せて曳き廻された。
ある程度バリエーションを持たせることが出来るようになっている。

=番外=

《 お囃子探検隊(飯能青年会議所) 》
お囃子探検隊
飯能市内でお囃子をやりたいが、囃子連が無い地区の人を対象に平成18年
8月に参加者を募集し、11月の飯能まつりを目標に9月から練習を開始。
青年会議所に在籍している二丁目親和会の方が指導にあたった。伝授された
のは大橋流の囃子ではなく、祇園囃子が伝授されたという。飯能まつりでは
10時からのパレードで加治小所有の底抜けを借り受け、飯能市市長に底抜けを
曳いてもらい、パレードの先頭を務めた。曳き手には姉妹都市のブレア市の方々も
加わり、囃し方(曳き手のみの子も含め)20名、扇子振り(太鼓を叩く
には早い、小さい子達がメイン)20名でパレードに参加。その後はお祭り広場
にて会場にいた人たちにも叩いてもらうため、広場で居囃子が行われた。

《 加治っ子囃し(飯能市立加治小学校) 》
加治っ子
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
平成14年から、柳原囃子保存会より伝授。飯能市立加治小学校の教育の
一環として囃子を行っている。囃子には5年生が取り組んでおり、演目は
今のところ「ニンバ」のみである。底抜け屋台も所有しており、平成14年に
地元の方の製作で寄付され、外での演奏時に使用されている。

《 てんつく会(飯能市役所囃子保存会)》
囃子の流派は小田原囃子若狭流。
市役所の職員によって構成されている囃子連。飯能市の各町内で囃子を
やっている職員を中心に囃子好きな職員が集まり平成10年に結成された。
ボランティアで保育所を廻ったり、式典などで演奏を行っているという。

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