タイトル

飯能市

《 双柳囃子連保存会 》
飯能まつり

双柳の山車(屋台):(写真左:平成17年撮影、写真右:平成15年撮影)
山車(屋台)前 山車(屋台)後ろ

双柳の底抜け屋台:平成16年撮影
底抜け屋台前 底抜け屋台後ろ

双柳の荷茶屋(写真左:平成16年撮影)と囃子台の彫刻(写真右:平成15年撮影)
荷茶屋 囃子台の彫刻

双柳の昔話に因んだ彫刻。楽屋脇に付けられている。:平成17年撮影
双柳に因んだ彫刻 彫刻取り付け位置

囃子の流派は神田囃子大橋流。
正確な始まりは不詳だが天保11年の記述のある太鼓があった。が、当時の
記録はなく、どのようなものであったか(神事のためのものであったか、囃子
などの芸能を行ったものであるか)は不明といわれる。囃子として始まりは、
定かではないが明治25年頃に始まったとされる。最初に入間市新久より伝承。
一時中断時期があった後、入間市仏子より伝授されたといわれる(仏子からの伝授
時期は昭和25年との資料もあったが、一丁目への伝授時期が大正7年であるので、
資料の明治と昭和の表記ミスか?一時中断後に仏子という点を考慮すると昭和25年
は戦後となるので戦時中に一時中断し、戦後に仏子から習い直したとも言えるが
詳細は不明)。新久は仏子の師匠にあたり、流派は同じ隠岐流となる。しかし、
双柳は大橋流を名乗っており、どのような流れで名称の違う流派となったか仏子でも
双柳でも不明とのこと。同じようなことは飯能市下畑でもいえ、新久から下畑へ
伝承されたが下畑では大橋流を名乗っている。但し、曲を聞けば分かるが、隠岐流、
大橋流ともに非常に似通っている。隠岐流の方が玉(バチ)数が少なく大橋流の方が
多いという違いから隠岐流をベースにアレンジしたのが大橋流というのが大方の
見解らしい。また、同じ大橋流でも伝承経路に違いからか、仏子を経由した双柳、
一丁目と(一丁目には双柳から伝授したので同じ囃子となる。一丁目の詳細を参照。)、
下畑を経由した二丁目、三丁目では、囃子に違いが見られる。この件は一丁目の
詳細にも記したが細部で違いが見られ、まずは、曲の名称。「屋台」という曲の中の、
「ジ」という曲が双柳、二丁目ともにあるのだが、くくり方が違う。双柳での「ジ」とは
同じフレーズを繰り返す部分と、サビにあたる、聴き所の部分が終わるまでで、一曲と
するのであるが、二丁目では「ジ」とは同じフレーズを繰り返す部分のみを指し、
その後のサビにあたる部分は「キザミ」と呼ばれ、別の名称が与えられている。表記も
双柳では「司」と書いて「ジ」と読み、二丁目では「地」と表記される( 別表参照 )。
この辺は聴いている側には分からない違いであるのだが、聴いていて違いが分るのが、
「中切」という曲(「屋台」という曲の中の一曲であり、二丁目ではナカイリと呼ばれる)
で、よく聴き比べないと分りづらいかも知れないが、大きく異なっている。また長老から
「ミヤショウデン」という曲は双柳で作ったといわれたというが、「ミヤショウデン」
は二丁目、三丁目にもあるという。資料を見ると新久には「ミヤショウデン」があったが
仏子にはなかった。そのため双柳には伝わらなかったのであろうか。ジゴトを見る限り
新久の「ミヤショウデン」と双柳の「ミヤショウデン」とは、かなり違って見える。
どちらかというと二丁目の「ミヤショウデン」に近いように見える。(あくまでジゴト
での話であるが。)「新ばやし」は双柳、一丁目しかないことから、この曲は双柳で
作られたものであろうとの事。対して二丁目、三丁目にあって双柳、一丁目にない曲も
ある。「岡崎」という曲(これも「屋台」の中の一曲)がそれで、「新ばやし」が「中切」
(二、三丁目のナカイリ)の前に演奏されるのに対して「岡崎」は「ナカイリ」の途中に
挿入される。ともに曲の頭でスピードが落ちるという共通点があることから双柳では
二丁目、三丁目にあって双柳になかった「岡崎」の代わりに「新ばやし」を作ったのでは
ないかとの推測をされていた。なるほど、「新ばやし」が双柳で作られたのであれば
「新ばやし」に入る時の笛の旋律が若狭流の「ニンバ」から「屋台」に変わる時の笛の
旋律と似ているのも、若狭流の多い飯能なら納得がいく。また双柳に残されている
ジゴトは保存会を立ち上げてからのものでそれ以前はなかったらしい。保存会は
昭和49年の飯能市の郷土芸能保存会の発足と同時に双柳囃子連という名称から
囃子連を保存する会、双柳囃子連保存会と改称され現在に至っている。

山車は屋台型の山車と底抜け屋台があり、山車(屋台)は白木作りで腰幕がなく腰板を
持つ梶付きの四つ車、底抜け屋台は飯能では珍しく前面に御簾が掛けられ屋根が
アサガオ型ではなく唐破風なのが特徴。小太鼓が一つなのも、飯能では珍しい。
底抜けに関しては入間市方面(新久、仏子、野田等)の影響が強いようだ。底抜け屋台の
製作年は初代が明治頃の作。現在のものは2代目で昭和35年の作。製作は地元の大工、
鈴木正作氏。 前輪部分 には、車輪を照らすよう電球が付けられているが、夜間の曳行時、
明かりもなく、真っ暗な場所もあるので、路面の凹凸が見辛いため、穴などに車輪が
取られないよう、取り付けてあるという。また、この双柳では他所の底抜けの曳行時には
みられない(聞くことの出来ない?)特徴がある。飯能の底抜けは各家々を回り、花を
頂いた家に向かって底抜けを向け(門付け)、シャギリを演奏し、その家の邪気を祓い、
招福を願う。この時、飯能市では双柳のみがシャギリの演奏前に花返しの御礼の口上を
述べるのが習わしとなっている。この口上を述べる口上師と呼ばれる方が3名居り、
道中、花を頂くと、「東西東西。御当所、○○様より、若い衆のやぐら内(ウチ)へと、
御樽いっか(一荷?)、御樽いっかを下しおかれ、まずは花の御礼、花の御礼、そのため口上!」
というように口上を述べ(口上を述べる方により、言い回しは変化する)、シャギリが
演奏される。この口上師の方は囃子連ではなく、双曳会という、山車の曳行を執り行う会の
方であるという。是非、御一聴頂きたい。山車(屋台)は現在のものは2代目であり、
初代は大正元年、地元大工鈴木源蔵氏の作。当初は置き屋台で車輪はなかったとされる。
車輪がついたのは大正5〜6年頃といわれる。この山車(屋台)の屋根は当時、市松模様の
油障子が敷かれたものであったが、その後トタンのような板を6〜8枚合わせた屋根になって
いたという。地元の夏祭りで曳きまわされていたが、飯能まつりには曳いていかず、
飯能まつりでは櫓を組んで、その上での居囃子で参加していたという。その後、若衆が
熱心に囃子に取り組むようになり、新しい山車を作ろうという気運が高まり、寄付を募って
新しい山車を作ることとなったという。寄付も集まり、その新調された2代目の山車(屋台)は、
平成2年の春に製作が開始され平成3年の6月12日に完成した。7月の大祭から早速、
曳き回しが行われた。(2代目完成にあたり、初代の山車は所沢市林の林囃子連に譲渡されたと
いう。)この新山車(屋台)の完成を機に、飯能まつりへの山車(屋台)を曳いての参加も
始まった。製作にあたったのは富山県井波町の宮大工、山崎健一氏。彫刻は西村一雪氏。
製作に際し、両氏を飯能に招き、参考になる山車を見てもらったという。川越の元町一丁目、
秩父夜祭の鉾、地元飯能の宮本町を見学した。富山の方では山車に梶が付いていないので
宮本町の山車の梶を参考にしたといわれる。囃子台の柱の彫刻も宮本町を参考にしているが
子供が引っかかってケガをしないよう、また彫刻が欠けたりしないようにと、彫りを浅く
抑えた造りになっている。 木鼻 と呼ばれる部分には獅子と獏が配され、 脇障子 には
松竹梅。囃子台天井にも天井彫刻と、随所に彫刻が施され彫刻がないところを探す方が
難しいほどだ。製作が行われた富山県井波町は彫刻の町と呼ばれ、「井波彫刻」として
有名。特に欄間彫刻には強いのだという。なるほど通常、人目に触れる外側に彫刻が
施されるが楽屋側となる内側には彫刻は施されず平らな木の面のままである。ところが
この山車(屋台)は人目に触れない 楽屋側の欄間 にも彫刻が施されているのだ。欄間への
職人のこだわりが垣間見える。この山車(屋台)製作は、町単位ではなく一個人としての
職人に注文したため、井波町も町として埼玉から山車の注文が来たとアピールされることも
なかったという。しかし地元新聞にはとりあげられ、井波町で行われる彫刻祭りでは
建造途中ながらも、この双柳の山車(屋台)が展示されたという。井波町と飯能市との
交流にはいたらなかったのは残念だが建造途中ながらも双柳の山車(屋台)が彫刻祭りで
展示されたことで地元井波町の人たちに埼玉から山車の注文が来たという事実は伝わっ
たことであろう。さて疑問となるのが、何故、遠く富山県の井波町に注文したのであろ
うか?という点であるが、双柳の山車建設委員の方が自宅の欄間の製作をこの富山県
井波町に頼んだことがキッカケとなったという。そのことが縁となり山車(屋台)建造を
依頼するに至ったとの事だ。また依頼の際、龍や獅子、松竹梅など他所にも見られる彫刻
だけでなく双柳らしい彫刻も。ということになり、「双柳」という地名の由来となった、
地元のお寺の柳の大木の下に二匹の狐が並んで座っていた(双は2匹の狐を表している
という。)という昔話の場面を 彫刻に再現したもの を作ることになった。しかし、
あらかた発注が終わっており彫刻を取り付ける場所がない。そこで苦肉の策で楽屋の
両脇に付けられたのだという。因みに、この双柳が出来たのは西暦810年とされ、
西暦2010年が1200年目にあたるので大祭を行う予定という。現在、幟を立てて
いないが、これを機に幟の復活を!という思いがあるという。昔は上宿、中宿、下宿と
分かれており各宿ごとに幟を立てていたとされ、現在でも 中宿の幟 は現存しており、
大正時代のものであるという。神社の幟の受け(幟を立てる柱を地面で受け止める部分)も
現存しており、珍しいことに木製で祭礼ごとに境内に穴をあけ、地中に、この受けを
埋めて幟を立てたという(このような方式は同市、下畑でも聞くことができた。昔は
割と多かったのかもしれない)。さて、話を山車(屋台)のほうに戻そう。当初、鉾型の
山車をとも考えたが祭りの時期に雨が降ることが多いので後ろまで屋根のある屋台型のほうが
都合がいいとのことで屋台型となったという。取材時も小雨模様であったが、山車車庫より
出されていた。また廻り舞台にもしたかったが、夏祭りで曳き回しを行う大山街道が
道路の中央が盛り上がったカマボコ型をしており、廻り舞台にして舞台を横に向けた時に
倒れてしまったり、廻り舞台のスキマに指を挟んだりと事故が懸念されるとの配慮により
断念されたとの事であった。曳き回しといえば車輪には鉄輪が外れるのを防止するための
鋲が打たれていなかったのでお聞きしたところ、今のところ問題ないとの事。特殊な
二重鉄輪 の効果によるものなのであろうか。ただ、この二重鉄輪。後輪はいいのだが、
前輪は二重の為か、はたまた前輪の取り付け位置の為かは分からないが梶を取るのが
非常に重いとの事。重量もかなりのものであるし、横方向への幅もかなりあるので、
その一つ一つが要因となっているのかもしれない。この梶も当初は大きく切ると車台部分に
車輪が当たってしまい、傷つけてしまうので高さを継ぎ足して高くし、車台に当たらない
ように修正が加えられたという。( 写真 でみえる黒い部分がその継ぎ足した部分。当然、
後輪の方も継ぎ足して高さを揃えてある。)この前輪の上の車台裏側に作者の銘が
記されていたことも付記しておく。さて富山県で作られた、この山車(屋台)。どうやって
埼玉まで持って来たのか気になるところであるが、全部はバラさず、車台より上の部分は
組んだまま外し、油圧で車高の変化するトレーラーに載せ(屋根上の 鬼板 は外した)、陸路で
運搬したという。大変な作業であったと思われる。苦労の末、運ばれた山車(屋台)を
仕舞っておくには車庫が必須。この車庫にも大きな特徴が見られる。車庫の外壁一面に
祭りの様子が描かれているのである。これは絵心のある当時の囃子連の会長さんが
壁画用塗料で壁に直接描かれたものだそうだ。山車(屋台)が仕舞われていても、
あたかも山車(屋台)が曳きだされているかのような錯覚さえ覚えるほど生き生きと
描かれている。前面のシャッターは電動で開閉する最新のものだ。この山車(屋台)が
出来た当初は観音開きの扉であったが、扉を支える部分が重みに負けて危険な状態と
なったため、現在の電動シャッターとなった。山車の曳行時にお供として曳かれる荷茶屋は
山車完成と同時の平成3年に、地元の方から寄付された物という。殿様の乗る籠のような
形状をしており、地元では「御籠」と呼ばれている。飯能市の南高麗の大工が製作に
あたったという。双柳囃子連保存会の方は、今思えば、いい時に山車(屋台)を
作ることができたと、感慨深げであった。(平成17年取材時点)
2005.4.12up

飯能まつりに参加する囃子連の情報は↓飯能祭り連合会のHP(コチラ)から
飯祭連

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