《 川越市編 》
川越市で10月に行われる、「川越まつり」は、地元、氷川神社の祭礼で、平成17年には
国指定重要無形民族文化財に指定されています。大祭には30台近くの山車が曳き出されます。
見所は、山車と山車とが、すれ違う際に行われるヒッカワセや、市役所前の山車揃え、
一番街での上高欄、人形を一杯に迫り上げての巡行、揺れる提灯に囲まれた山車の
夜の巡行など、見所は、沢山あります。また、市街地以外でも山車の曳き回しや、
居囃子、神輿の巡行なども行われ、範囲は広域に渡ります。7月下旬の百万燈まつりも
盛況で、囃子屋台(底抜けの底が抜けていない屋台)や、小型の山車まで曳きまわされ、
子供達の活躍も多く見られます。囃子以外にも踊りや楽団などの行列も行われます。
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「川越まつり・市役所前」(写真左)と「百万燈まつり・ひっかわせ」(写真右):平成18年撮影
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川越市の囃子連
※表記順は数字優先のアイウエオ順です。
※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。
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《 葵囃子連(脇田町)》
アオイハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。以前は同市、大塚新田の囃子連に山車ごと来てもらい、
曳きまわしていた。後に自町内で囃子連をという気運が高まり、昭和49年に
大塚新田より囃子を伝授された。山車は昭和59年に横溝長寿氏、大浜文男氏の作。
人形は徳川家康で、岩槻の川崎人形が製作。二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を
持つ囃子台で廻り舞台を擁す。平成12年に彩色を施し、アトレ横にてお披露目を
行い、完成。平成19年の天下祭りに参加。江戸城城主の里帰りとなった。
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《 新宿町囃子保存会 》
アラジュクマチハヤシホゾンカイ
囃子の流派は堤崎流の流れであるが、一部の曲に古囃子である若狭流のものが
残っている。古囃子は嘉永6年菅間村(現川越市)より伝授されたらしい。
新宿町では古囃子で小田原囃子(江戸囃子神田)若狭流が演奏され、その後、
新囃子として堤崎流が伝わり(年代不詳)、現在に至ったのではないかとされる。
この新囃子は新宿町から同市、旭町三丁目へと伝承されている。また古囃子の
若狭流は飯能市原町や入間市高倉へ伝授され、さらに周辺各地へ伝えられ、
現在も演奏されている。山車は三つ車の単層鉾の山車で白木作り。昭和29年、
仲 鶴吉氏の作。以前は高澤町(現元町二丁目)の山車に乗っていたとされる。
平成19年に前輪を横溝木工所の手により新調。先代の銘「棒菊」が焼印されている。
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《 伊佐沼の囃子 》
イサヌマ
囃子の流派は上尾市堤崎から習ったとされる堤崎流。現在(平成15年時点)、
4月8日の諏訪神社祭礼は行われていたが、囃子は随分行われていないと
のこと。8月8日には盆踊りも行われるが、そこでも囃子は行われないらしい。
60歳になるという方から聞いた話では、自分たちの代には囃子が行われた
記憶はないとのこと。その方がお祖父さんから、その昔、伊佐沼で水がでて
(水害があり)お金に困り、囃子道具一式を南田島に売ったという話を聞いた
ことがあるとの事。聞いた話なので確かかどうか分からないが、とのことだった。
(後日、その話を南田島囃子連の方に聞いてみたところ、古い話なので
分からないとのこと。現在使用している太鼓は平成に新調された物との事。)
また、明治期には菅間(川越市)に囃子を伝授したともいわれる。
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《 石田囃子連 》
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《 今成囃子連 》
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《 今福囃子連 》
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《 鈿女会囃子連(大手町)》
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《 牛若囃子連(元町一丁目)》
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《 浦島囃子連(松江町二丁目)》
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《 榎会囃子連(新富町一丁目)》
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《 大塚新田囃子連 》
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《 鴨田囃子連 》
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《 菊元会(元町二丁目)》
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《 岸町囃子連(岸町二丁目)》
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《 北山田(網代)囃子保存会 》
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《 久下戸囃子保存会 》
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《 広栄町の囃子 》
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《 小中居はやし保存会 》
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《 小室囃子連 》
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《 幸町囃子会 》
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《 松龍会囃子連(松江町一丁目)》
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《 信亀会囃子連(旭町三丁目囃子保存会)》
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《 新富町二丁目囃子連 》
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《 菅間の囃子 》
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《 雀會(連雀町)》
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《 砂新田囃子連 》
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《 砂囃子保存会 》
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《 住吉囃子連(末広町)》
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《 千手会囃子連(古谷本郷囃子連) 》
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《 仙波囃子保存会 》
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《 竹生会(西小仙波)》
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《 月鉾囃子連(中原町)》
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《 寺尾囃子連 》
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《 天神囃子連(廓町)》
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《 通町囃子同好会 》
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《 豊田本囃子連 》
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《 中台囃子連 》
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《 並木囃子連 》
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《 府川囃子連 》
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《 福田囃子連 》
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《 藤間囃子保存会 》
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《 道真囃子連(菅原町)》
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《 南大塚囃子連 》
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《 南田島囃子連(足踊り保存会)》
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《 脇田新町 》
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山車を保有しているが、囃子連は他地区から招いている地区。
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《 喜多町(俵藤太秀郷の山車) 》
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《 鹿飼 》
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《 志多町(弁慶の山車) 》
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《 仲町(羅陵王の山車) 》
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《 野田五町(八幡太郎義家の山車)》
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《 宮下町(日本武尊の山車)》
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《 武蔵野自治会 》
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《 六軒町(三番叟の山車) 》
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山車、囃子連ともに他地区から招いて曳きまわしを行う地区。
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《 三久保町 》
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《 神明町 》
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《 南通町 》
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川越市保有の山車
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《 川越市(猩々の山車) 》
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《 川越市(踊り屋台) 》
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《 川越まつり会館(建造途中の山車) 》
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以前、山車、囃子連を他地区から招いて祭礼に参加した地区。
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《 郭町 》
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《 脇田本町 》
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以前、山車を保有していたが、囃子連があったかどうかは不明な地区。
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《 笠幡の山車 》
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個人で山車を保有。
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《 入倉工務店の山車 》
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番外
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《 川越市市役所の囃子連 》
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市内では、現在(平成18年時点)も、新造中の山車があるとの事。
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イシダハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。明治初期に川越市網代から伝授。
山車は二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台、廻り舞台を擁する。
明治30年(20年との説もある)の作で、作者は不明という。人形は源ョ光で、
現在(平成16年時点)の人形は3代目で2代目は同じ源ョ光だったが、初代は
猿田彦であったとのこと。現在の人形は磯貝勝之氏の作。現在も山車には手が加え
続けられており、年々進化を続けている。平成20年の春祭りでは、屋根の漆塗りが
囃子連の有志の手により施され、同年川越まつりでは、車輪が横溝木工所により新調。
同時に井桁台も改造された。その川越祭では三久保町の山車として石田囃子連が山車を
持参し参加している。平成14年に川越市歴史文化伝承山車の指定を受けている。
詳細はこちら。
イマナリハヤシレン
囃子の流派は小倉井流四行(シギョウ)新囃子。明治期に同市、久下戸より
伝授されたといわれる。戦時中の中断後、昭和23〜4年頃に先代より
習った。山車は川越市内の鍛冶町(現仲町と幸町)で天保年間に製作
されたものといわれ、明治10年に購入。二重鉾で一本柱高欄を持つ古い形の
山車で、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台。腰板ではなく、腰幕を
巡らす。人形は天鈿女命(アマノウズメノミコト)。こちらは明治22年の作と
される。昭和52年に火災により山車の一部を焼いてしまったが、地元の方々の
尽力で昭和60年に修復され、現在の姿となった。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
詳細はこちら。
イマフクハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。大正か昭和初期頃に福岡仙松という師匠より伝授。
神田囃子の流れを組み、比較的ゆっくりとした曲調の新囃子である。
山車(屋台)は製作年、製作者ともに不詳だが、江戸期の作とされる。
四つ車で屋台型、前輪に梶を持つ。川越祭りでは、六軒町の山車に乗り、
川越祭りに参加している。同市網代、石田、新富町二丁目、砂新田、
寺尾へ囃子を伝授。明治期には越生町へも出向き、囃子を行ったとされる。
県指定無形民俗文化財に指定されている。
ウズメカイハヤシレン
囃子の流派は堤崎流の流れで、同市、小中居より伝授。結成は昭和42年頃。
以前は、伝授元の小中居の囃子連が山車に乗っていた。山車は明治5年の作で
作者は都梁斎仲秀英。二重鉾で三つ車、欄間仕立ての囃子台を持ち、人形は、
天鈿女命(アマノウズメノミコト)。以前は鎮西八郎為朝であった。その人形と
山車は坂戸市一丁目、二丁目に譲られたとされ、現在は人形の首と弓のみが
現存し、夏の祭礼時には坂戸神社に飾られ、目にすることができる。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
ウシワカハヤシレン
囃子の流派は不詳。昭和45年、川島村(現川島町)飯島より伝授。
それ以前は伝授元である、川島村飯島の囃子連が山車に乗って演奏していた。
それは現在の山車が出来る前の居囃子の頃からとされる。(それより前は
川田谷(現桶川市)松原の囃子連との資料がある。)元の本町であったが、
明治26年の川越大火により山車、関羽と玄徳の人形ともに焼失。その後、
昭和34年に再建された。二重鉾、四つ車、唐破風付き屋根を持つ囃子台を持ち、廻り舞台。
製作は浦田文治氏。人形は牛若丸で、昭和44年に京都の井筒雅風の作。
平成17年には「牛若丸」の人形が天下祭に参加した。
詳細はこちら。
ウラシマハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。昭和45年に同市、南田島より伝授。
以前は大仙波の囃子連(現仙波囃子保存会)が山車に乗っていたとされる。
山車は明治26年の川越大火により人形、幕以外を焼失。その後、亀甲斎清秀
(小倉作兵衛)、小倉秀太郎父子の手により、大正4年に再建。二重鉾、
四つ車、唐破風付き屋根を持つ囃子台で、廻り舞台を擁す。人形は浦島太郎で、
文久2年、仲秀英の作と伝えられていたが、近年の修復で古川長延の作と判明。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
エノキカイハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。昭和48年に榎会を結成し、同市、連雀町より伝授。
これは町内に連雀町と縁のある方が在住していたことによる。以前は鶴ヶ島市
上広谷より山車(屋台)を借り、曳き回しを行っていたが、平成14年の
川越祭りからは、同市、今福の故石田律夫氏が製作していた山車を受け継ぎ、
曳き回しを開始。四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台で、廻り舞台を擁して
いた。受け継いだ時は製作途中の山車であったが、末広町の山車を作られた
浦田文治氏の弟子にあたる田中光明氏が引き継ぎ、年々、完成に近づいている
平成17年には上の鉾部分が完成していなかったが、同市、津田人形制作の
徳川家光の人形が乗せらた。平成18年に上鉾部分も完成、二重鉾となった。
平成19年、上高欄が塗られ、持ち送り彫刻、中高欄の彫刻が完成。
平成20年に下高欄羽目板彫刻が完成した。
オオツカシンデンハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。発足は詳しくは不明だが、現在の山車の原型となる屋台が
明治10年頃の作であるので、この頃には囃子連があったと推定されている。
明治初期に同市中台から分かれた囃子だともいわれるが、中台のものとは違いがある
という。明治初期に東京の高井戸より伝授されたとの説もある。菅原神社の春祭りでは、
南大塚囃子連と合同演奏が行われる。山車は原型となった屋台が明治10年頃の作で、
明治28年に源頼朝の人形が乗せられ山車となる。作者は大袋新田の宮沢敬次郎氏。二重鉾、
唐破風を持つ屋根を持つ囃子台で四つ車。以前は脇田町へ山車とともに囃子連が出向き、
脇田町の山車として川越祭りに参加していた。平成10年に山榮次氏の手により改修が行われた。
平成15年には川越市歴史文化伝承山車へ登録。平成19年に幕、人形の衣装の新調が行われた。
詳細はこちら。
カモダハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。平成13年頃に同市、府川より伝授。それ以前は阿弥陀寺流
の囃子であった。どこから伝授されたかは不明だが、一説には、阿弥陀寺流の囃子を
聞き覚えたもので、習ってはいないともいわれる。残念ながら笛のできる人が
いなくなり、10年くらいはテープで笛を流し太鼓を叩いていたが、府川から
堤崎流を習い、現在は堤崎流となった。資料によると明治初期には上尾市堤崎から
新囃子を習ったとあることから、堤崎流→阿弥陀寺流→堤崎流と、元に戻ったとも
考えられる。演奏は屋台で行ったが、現在はトラックの荷台に屋台を載せ、そこで
演奏しながら地区内を廻る。昭和30年頃には同市、郭町から依頼され、この屋台を
持って行き牛車の上に載せ、その上で鴨田囃子連が演奏、川越祭りに参加したことも
あったという。
キクモトカイ
囃子の流派は葛西囃子。昭和37年東京都江戸川区の菊岡家孝平(岩楯孝次郎氏)
より伝授。それ以前は同市、新宿の囃子連が嘉永年間より山車に乗って演奏していた。
山車は明治4年、仲秀英の作で、二重鉾、三つ車で欄間仕立ての囃子台を持つ。
人形は山王で御猿の面を有する。この山車以前に江戸から中古で購入した山車が
あったとされ、青梅の宮本町(現墨江町)に譲られたといわれる。現在、山車は
現存していないが、同じ青梅の千ヶ瀬の日枝神社に、御神体として御猿様の人形が
現存している。こちらの作者は原舟月とされる。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
キシマチハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。明治以前から囃子(古囃子)があったとされ、昭和25年に、
同市、中台から新囃子である王蔵流を伝授されたという。山車は二重鉾で四つ車、
唐破風付きの屋根を持つ囃子台を持ち、廻り舞台を擁す。人形は木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)で
岩槻の福田東久の作。山車は平成6年に角張工務店の作。それ以前は、昭和28年頃の
牛車のような車台に屋台を乗せた山車であったとされる。木花咲耶姫の物語に因んだ
彫刻が、下高欄羽目板部分に見ることができる。
キタヤマダ(アジロ)ハヤシホゾンカイ
囃子の流派は芝金杉流。明治33年頃(21年との説も)に同市、今福より伝授。
それ以前は古囃子をやっていた。習ったのは今の代の方の、先々代だという。
昭和22年には北山田囃子保存会を結成。山車(屋台)は明治初年頃の作とされ、
作者不詳。唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で四つ車。川越祭りでは宮下町の
山車に乗り、演奏している。それは昭和27年の市制30周年に宮下町の山車が
出来る前から続いているという。宮下町に縁のある方が地元に居り、囃子の依頼が
きたという。また、最近では宮下町の子供たちに囃子を教えているという。
詳細はこちら。
クゲコハヤシホゾンカイ
囃子の流派は小笠原流。浦和市田島から伝授。取材時(平成15年時点)、
3月14日の氷川神社祭礼は行われていなかったが、昔は神楽なども行われ、
祭は盛大であったらしい。秋祭りでは、トラックに櫓を組んで囃子を演奏しながら、
地区内を廻る。明治期に同市、今成に囃子を伝えたとされる。
コウエイチョウ
平成18年の川越祭りの直前に隣町である旭町三丁目の信亀会囃子連にお願いし、
伝授されたため、囃子の流派は堤崎流の流れといえる。子供数名がニンバを
習っただけで囃子連と呼べるほどの組織は、まだないようだ。
山車は、個人宅で観賞用として作られた小さな山車を譲り受け、曳き回せるように
改造した。人形が無く御幣を飾り、平成18年、町内を曳き回した。
平成22年には小さいながら神武天皇の人形を乗せ、町内を曳きまわした。
コナカイハヤシホゾンカイ
囃子の流派は不詳とされる。が、先代の演奏が収められたテープでの演奏を
聞くと堤崎流であったのでは…と推測されるが確証はない。伝承時期、経路
ともに不明だが、同市木ノ目、砂、鈿女会(大手町)へは、当地から囃子を
伝えた。以前は川越祭りで大手町の山車に乗っていたが、現在は地元の山車
(屋台)の上で居囃子を行っている。山車(屋台)は制作年代、作者ともに
不明。昔は底抜け屋台であったが、それを昭和10年に廻り舞台付きに改造。
作業には地元大工があたった。屋根は唐破風で、四つ車、前輪に梶が付く。
詳細はこちら。
コムロハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。昭和16〜20年頃に川越市中台より伝授。それ以前は
古囃子をやっていた。結成時期は不明であるが、江戸末期には囃子があったの
ではないかとのこと。川越祭りでは野田五町の山車に乗って演奏する。以前は、
三光町の山車に乗ったこともあったとされる。また、地元にも山車があり、昔は
地元の祭りで山車を曳きまわし、その上で演奏していたが、昭和27年の曳き
まわしを最後に曳きだされていない(部材は残されている)。近隣の今成の山車と
同じく、一本柱高欄の上に人形を立ち上げた鉾型の山車で四つ車であったらしい。
人形は磐余彦尊(イワレヒコノミコト=神武天皇)で、制作年代、作者とも不詳。
(写真は川越祭りにて野田五町の山車の上での演奏。)
詳細はこちら。
サイワイチョウハヤシカイ
囃子の流派は堤崎流。上尾市堤崎より伝授。昭和43年に習い始めたという。
以前は、この堤崎の囃子連が翁の山車に、南田島の囃子連が小狐丸の山車に乗り
演奏していた。山車は、このように2台保有し、翁の山車が明治3年に仲秀英の作、
小狐丸の山車が明治初年の原舟月の作とされる。双方ともに二重鉾、四つ車、
廻り舞台を擁する。唐破風付き屋根は翁の山車で、欄間仕立ての囃子台は小狐丸の山車。
2台がその年毎に交互に曳きだされる。市制記念等の大祭では2台が同時に曳きださ
れることもある。また、山車とは別に明治34年頃作の踊り屋台も保有している。
※左写真が翁の山車(旧南町)、右写真が小狐丸の山車(旧鍛冶町)。
共に昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
ショウリュウカイハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。同市、藤間より伝授され、昭和50年頃に結成された。
山車は昭和25年に製作を開始し、昭和26年に完成。当時は屋台型の山車で、
廻り舞台の四つ車、前輪に梶が付く。設計は地元大工の奥山竹三郎氏。製作に
あたったのは、清水登喜三氏、数野友次郎氏、岡部松二氏、吉川氏、金子氏、そして
設計者の奥山氏の6名。山榮次氏も欄干部分などに関わったという。屋台型の
最終的な完成は昭和30年とされる。その後、平成元年に二重鉾の山車に改造。
「龍の屋台」と呼ばれていた初代の流れを組み、各所に龍の彫刻が配される。
中高欄、左右の登り龍、降り龍は、昔の幟の提灯掛けに付けられていたとされ、
島村円哲の作といわれる。人形は龍神で作者は川崎阿具。人形に掛けられている
面は、能の「春日龍神」の「黒髭」で、横浜の能面師、岩崎久人の作。
平成10年、市指定有形民俗文化財の山車。
シンキカイハヤシレン
囃子の流派は堤崎流の流れを組む。昭和49年に囃子連を結成し川越市新宿
から伝授。新宿と同じく、古囃子である若狭流の曲も伝わっている。山車は
昭和49年に川島町角泉から唐破風付きの屋根を持つ山車(一本柱の鉾型だった)
を譲渡された。しかし、車輪が傷んでおり、使えなかったので牛車の車輪と交換し
曳き始めた。以来、少しづつ改造を加え20年以上かけて今日の二重鉾、
廻り舞台の山車となった。当初の山車の部材は、残っておらず、現在の山車は
まったくの新規の部材となっている。市内に曳き入れる為にガード下を潜れるよう
囃子台や腰板、桝組みの高さを調整、上高欄は中高欄内部にスッポリ収まるよう
設計されている。その分、上鉾の高さを高めにしてバランスさせているという。
木が乾燥し、落ち着いたら、彫刻が施される予定とのこと。作者は野田五町の
山車も手掛けた、山榮次氏。人形は松平信綱で、平成14年、岩槻の川崎人形作。
シントミチョウニチョウメハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。昭和52年に結成され、同市、今福より伝授。
当時は山車はなく、師匠である今福の山車(屋台)を借りてきて曳き回しを行っていた。
現在の山車は高橋邑吉氏の作。氏が本業の合間に趣味で作っていた廻り舞台付きの屋台を
平成8年に購入。屋根が前部と後部で、二段になっていた屋台であったという。平成9年に
二重鉾の山車に改造した。人形は鏡獅子で平成12年に岩槻の川崎勝久氏の作。
四つ車で唐破風付きの屋根を持つ囃子台。山車は隔年で曳き廻されるが、曳き回しのない
年も山車を飾り置いて、その上での居囃子のため、毎年、目にすることができる。
また、山車とは別に、昭和45年、浅草宮本太鼓店より購入の太鼓山車も所有している。
スガマ
囃子の流派は堤崎流。明治20〜30年頃に同市、南田島から伝授。
それ以前は古囃子で、若狭流(小田原囃子若狭流、江戸囃子神田若狭流)の囃子で
あったとされ、嘉永6年に同市、新宿の囃子連に若狭流の囃子を伝えたとされる。
その後、新囃子が伝わり、堤崎流の囃子となったようだ。以前は山車があったが、
同市、新宿へ譲渡された。その後、新調したかどうかは不明。
スズメカイ(レンジャクチョウ)
囃子の流派は堤崎流の流れで古谷本郷で手を加えられた囃子とされる。雀會の
発足は、昭和44年で、同市、古谷本郷より伝授される。山車は、昭和25年着工し、
昭和26年に白木のまま曳き回しを行った。昭和27年に漆塗りを施し、完成。
印藤順造氏の作。大工として数野友次郎氏、岡部松二氏、山榮次氏、数野岩雄氏が参加。
人形は大田道灌で西田光次氏の作。彫刻は磯貝勝之氏。二重鉾、四つ車、唐破風つきの
囃子台を持ち、廻り舞台。十年程前には東京の上野の祭りや、群馬県の沼田市で行われた
「日本祭り囃子フェスティバル」にも山車を持っていき、参加したという。平成17年、
漆の塗り替え。同年、江戸天下祭にも参加。ビルの谷間に囃子を轟かせた。平成19年には、
富山県井波 南部白雲木彫刻工房の手により下高欄後部腰羽目彫刻、車台腰板彫刻を新調。
また、ガラス張りの山車庫は、祭り以外の日でも、山車を見る事ができ、観光客の
目を楽しませている。平成14年に川越市歴史文化伝承山車に指定。
スナシンデンハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。明治初期頃に同市今福より伝授される。
山車は二重鉾、唐破風付きの囃子台で廻り舞台。前輪に梶がついている。
製作年は明治末期の作と昭和26年の作という2つの説があるが地元の方も
よく分からないとのこと。昭和25年に同市、久保町が砂新田の山車を借りて
川越まつりに参加した時の写真があることから、少なくとも昭和25年には
山車が存在していた事になる。また山車には昭和26年改造の墨書があることから
明治末期作の説の方が有力か。製作者は不詳だが、改造を担当されたのは長谷川億蔵氏。
人形は現在は「比売ノ神」(ヒミノカミ)で岩槻の光本の作。その前が「歓呼鳥」
(カンコドリ)であった。平成19年、数年ぶりに曳きまわしが行われた。
スナハヤシホゾンカイ
囃子の流派は芝金杉流。明治10年頃に同市、小中居より伝授。それ以前には、
古囃子をやっていたということから、江戸時代には囃子が伝わっていたようだ。
明治期には小中居の代わりで市内、大手町の山車に乗ったという。
戦時中は中断したが昭和36年頃に復活。この年は、神社の御神木だった杉の木を売って
社殿を新調した年でもある。同時に山車を新調した。山車は当時新発売だったトレーラー台車を
購入、その上に部材を組んで製作。製作にあたったのは地元大工斉木初造氏、喜久夫氏の2人で、
協力して2台の山車を完成させた。4つ車、単層鉾型の山車で唐破風付きの屋根を持つ。
これは2台とも共通で、祭礼では、2台で手分けして地元地区内を廻る。
地元では神楽殿、山車での演奏だが、川越まつりでは、掛け屋台の上で演奏する。
スミヨシハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。昭和55年に同市、藤間より伝授。
以前は藤間の囃子連が山車に乗り演奏していた。山車は二重鉾、
四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台で廻り舞台。製作は昭和25年から
開始され、昭和34年に完成。地元の浦田文治氏の作。彫刻師は斎藤高徳氏。
人形は高砂で京都の井筒雅風の作。また、山車庫の脇に
小窓が付いており、祭り以外でも山車の様子を垣間見れる。
センテカイハヤシレン (フルヤホンゴウハヤシレン)
囃子の流派は堤崎流。昭和初期頃に上尾市堤崎から伝授。
江戸時代頃には囃子があったようで、明治頃には古囃子をやっていたと
いわれる。昭和に入ってから新囃子の堤崎流が伝わったという。
山車(屋台)は、大正末か昭和初期頃の作。地元の大工の製作。
囃子座の前に踊り台があり、そこで踊り手が舞う形となっている。
昔は、川越祭りで連雀町の山車に乗って演奏したこともあった。
その連雀町には昭和30〜40年頃に囃子を伝えたという。
詳細はこちら。
センバハヤシホゾンカイ
囃子の流派は堤崎流。大宮市遊馬(あすま)より伝授。
伝承時期は不詳。前身は大仙波囃子連である。大仙波囃子連は昭和25〜
30年には上松江町(現在の松江町二丁目)の山車に乗っていたとされる。
山車は二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台を持ち、廻り舞台。前輪に
梶が付く。慶応3年作の底抜け屋台を元に改造を重ね、現在の形となった。
人形は仙波二郎安家で、友永詔三氏の作。NHKで放送されていた人形劇
「プリンプリン物語」の人形も氏が手掛けている。また、地元仙波小学校の
総合学習で小学生に囃子を教えているという。
チクブカイ
囃子の流派は神田大橋流。昭和43年頃に越生町本町より伝授。会の名称は
地元の「青年部竹の子会」の「竹」と越生の「生」を取って「竹生会」としたと
される。その後、越生町本町から本町の師匠である飯能市二丁目を紹介され、
主要な曲以外の未修得であった曲を伝授されたらしい。山車は二重鉾、四つ車で
唐破風付きの屋根を持つ囃子台に廻り舞台を擁す。前輪には梶が付いている。製作は
昭和32年、吉川為五郎氏。人形は素戔嗚尊で岩槻の清玉青木人形店。
平成18年に川越市歴史文化伝承山車の指定を受けた。
ツキホコハヤシレン
囃子の流派は山王囃子木ノ下流。昭和21年に行われた憲法発布記念の祭りで、
坂戸市横沼の囃子連を招き居囃子をおこなった。昭和23年に二重鉾の最上部に
京都の鉾のような月の飾りを立てた山車が作られ、横沼の囃子連が乗り、川越祭り
に参加した。山車の作者は関根平蔵で、四つ車、廻り舞台。その後、昭和47年に
師匠である横沼より囃子を伝授。昭和57年、現在の二重鉾に人形を乗せた形に
改造された。作業は関根平蔵氏の弟子、久佐保治氏。中高欄より上を改造し、唐破風付きの
屋根に改造したのだという。人形は河越太郎重頼で、岩槻の川崎人形の作。
平成14年に川越市歴史文化伝承山車の指定を受けている。
テラオハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。明治頃に同市、今福より伝授。その昔は久保町へ行って
演奏していた。その後、氷川神社での迎え囃子も行った。恐らく大正頃ではないかと
いう。昭和に入ってからは連雀町に招かれ、居囃子を行ったという。昭和御大典には
行っていたとされることから昭和初期頃から居囃子に出向いていたであろうとのこと。
昭和27年の山車曳きまわし開始時から昭和38年まで連雀町の山車に乗り、
川越祭りで演奏をしていた。地元の祭りでも明治頃には山車に乗り演奏していたが、
現在は神楽殿での演奏となっている。後継者育成のため、子供たちに囃子を伝授している。
テンジンハヤシレン
囃子の流派は芝金杉流。同市石田から移り住んだ方が中心となり平成22年に発足。
囃子連名は地元、三芳野神社の天神様に由来する。
トオリマチハヤシドウコウカイ
囃子の流派は山王囃子木ノ下流。平成15年より、川島町角泉より伝授を
受け始め、角泉の囃子連とともに山車に乗り、演奏しているという。それ以前は、
角泉の囃子連が山車に乗り演奏していた。それは昭和49年から続く(昭和57,
59年は越生町本町の囃子連が乗った)とされ、山車自体も、この角泉の囃子連と
通町とで共有しているという。昭和2年に東京で作られた山車を昭和46年に角泉と
共同で購入したという。二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台で、廻り舞台。
角泉の大工、猪鼻重一氏により当時より大きく改造された。人形は鐘馗で、
岩槻の福田東久氏の手により修復され、顔つきがかわり、髪の毛の色が
以前の黒から赤に変更され、赤鐘馗となった。
トヨダホンハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。明治改元と同時に同市、中台より伝授。それ以前は、
旧囃子をやっており、同市、今成と当時は同じ囃子であったという。戦中は
中断、終戦後、昭和23年に復活。また、昭和期には同市、野田町の山車に乗り、
川越まつりにて演奏を行ったとされる。地元にも、山車(屋台)があり、かつては、
祭礼で曳きまわされた。置き屋台に小さな車輪をつけたものであったが、現在では、
組み立てられることもなく、仕舞われたままである。そのため、祭礼では
社務所での居囃子となる。同市、野田町の子供に囃子を伝えたともいわれる。
ナカダイハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。江戸時代の文化文政の頃に江戸の高井戸から囃子を伝授。
明治になり、「王蔵金」という人を中台に招き、それまでの囃子に改良を加えて
完成したのが現在の「王蔵流」と言われる。川越祭りでは仲町の山車に乗り、
江戸時代には川越城主上覧の名誉を受けたため、「上覧囃子」とも呼ばれる。
昔、中台が志義町分(志義町の飛び地)であったことから山車に乗るようになった
とのこと。また地元にも山車(屋台)があり、夏祭りにて曳きまわされる。(写真)
明治10年以降の作で、昭和30年の改造で前輪に梶がついた。囃子は市内、
各囃子連にも伝授し、市内だけでなく狭山市や日高市などにも伝授したとされる。
県指定無形民俗文化財に指定されている。
ナミキハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。江戸時代に結成とされる。
山車(屋台)は明治3年の作で、唐破風付きの屋根をもつ四つ車。
フカワハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。明治初期頃、上尾市堤崎から伝授。
明治4,5年頃には多賀町(現幸町にあたる。多賀町の山車は焼失。現存せず。)
の山車に乗ったらしい。山車(屋台)があるのだが、昭和35年以降は
曳き回されていない。平成10年頃に飾り置きしたが、車輪の金具が
ダメになっていて曳き回す事はできなかったとの事。昭和33年からは
川越市志多町の山車に乗り、現在まで川越祭りで演奏している。平成15年に
東京で行われた、江戸開府400年記念に行われた天下祭りにも参加。
志多町の山車の上で、東京のビル街に堤崎流の囃子を響き渡らせた。
(写真は江戸開府400年記念に行われた天下祭りで志多町の山車の上での演奏。)
フクダハヤシレン
囃子の流派は山王囃子木ノ下流。明治期に新座町(現新座市)野火止より
伝授された囃子があったが、その後、川島町角泉より現在の木ノ下流の囃子が
伝わったとされる。
フジマハヤシホゾンカイ
囃子の流派は芝金杉流。明治初年、同市、寺尾より伝授。大正初期には
今福からも習ったとされる。川越祭りでは喜多町の山車に昭和43年より
乗っているという。末広町、松江町一丁目の山車にも乗ったといわれ、
その関係で、末広町と松江町一丁目に囃子を伝授した。地元にも山車が
あり、唐破風付きの屋根を持つ屋台型の山車で、四つ車、廻り舞台を擁す。製作は
明治後期から大正初期といわれ、地元大工の作。子供屋台もあり、こちらは
平成5年頃の作。地元の祭礼では神楽も行われ、舞が披露される。
ミチザネハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。平成15年4月頃から仙波囃子保存会より伝授。
仙波より移り住んだ方が菅原町に居住していたことから伝授の運びとなった。
川越祭りでの演奏は、以前から山車に乗ってもらっている南田島囃子連が
メインで演奏している。南田島の堤崎流とは大きな差はないとのこと。
山車の製作は新富町二丁目の山車と同じく、高橋邑吉氏(高橋工務店)で、
平成12年の作。二重鉾、唐破風つきの屋根を持つ囃子台で廻り舞台。前輪に
梶が付く。人形は菅原道真で、平成20年、岩槻の川崎勝久氏の作。
ミナミオオツカハヤシレン
囃子の流派は王蔵流。明治初期に東京の高井戸の師匠を招き伝授された。
その後、川越市中台より踊りなどを習い、現在に至っている。
所有の長持(道具箱)には明治28年と記載があるとのこと。
少なくとも明治28年には囃子が存在していたと想像される。
地元、菅原神社の祭礼では同じく氏子である大塚新田の囃子連と合同で
演奏しているとの事。取材したのは春の祭礼で神楽殿で演奏されていた。
(写真は川越祭りにて、川越市の山車の上での演奏。)
ミナミタジマハヤシレン
囃子の流派は堤崎流。結成は江戸末期。当時は古囃子で、明治20〜30年頃に
上尾市堤崎から新囃子を伝授される。また昭和47年には足踊り保存会も結成。
山車(屋台)は明治初期の作。四つ車、唐破風付きの屋根で廻り舞台。囃子台より
前に舞台がついている。前輪には梶が付いている。山車(屋台)が出ない年は
社殿での演奏となる。また川越祭には菅原町の山車に乗り演奏している。以前は
幸町の山車(小狐丸の山車)に乗り、演奏を行っていた。特徴である足踊りは、
明治初期に森田森之助が編み出したとされる。以来、改良を加え、現在では、
川越市指定無形民俗文化財に指定されている。
ワキタシンマチ
囃子は子供囃子連が演奏。山車は平成8年に地元入倉工務店で新調。
四つ車、屋台型の山車で前輪に舵が付く。
キタマチ
二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台で廻り舞台。明治30年7月の
製作で、作者は鶴雲斎亀作(小倉作兵衛)。彫刻師は中島正兼(直吉)氏。廻り舞台は
昭和5年に追加された。人形は俵藤太秀郷で、江戸時代に鼠屋五兵衛の作といわれる。
演奏は同市、藤間の囃子連が昭和43年より行っているとされる。昭和20年代が同市、
福田の囃子連で、それ以前が大宮市(現さいたま市)指扇であったとされる。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
シシカイ
山車(屋台だといわれる)は現存しているが、長い間、曳きだされていない。
演奏は同市、府川囃子連に依頼していたという。
シタマチ
安政3年、鼠屋五兵衛の作。当初は単層鉾だったとされ、人形は弁慶と童子が
2人の3人立て。後年、二重鉾に改造、現在では、四つ車、廻り舞台を擁し、
高欄仕立ての囃子台を持つ山車となった。この囃子台部分も明治初期に焼失し、
後年に出来たものとされる。演奏は府川囃子保存会が乗り込み、行っている。
それは昭和33年から続いている。また、平成15年には、東京で行われた、
江戸開府400年記念に行われた天下祭りにも参加。ビル街の中を曳きまわした。
平成19年に人形保護のためレプリカが製作され、同時に衣装を新調。旧衣装を
レプリカに着せ、山車の上に飾った。オリジナルは新調された衣装を着て会所に
飾り置きとなった。昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
ナカチョウ
文久2年に仲秀英の作。二重鉾、四つ車、唐破風付き屋根を持つ囃子台。彫刻は
島村俊豊の作。明治30年代に関根松五郎によって廻り舞台に改造された。
人形は羅陵王で有山長門正作の面をつける。明治以前には山車の他に踊り屋台が
あったが、明治初年に越生町仲町に譲渡された。その後、昭和28年頃に入間市
志茂町に譲渡され、現在でも曳き回されている。囃子方は同市、中台の囃子連で、
山車完成当初から乗り、演奏しているという。
昭和43年、県指定有形民俗文化財の山車。
ノダゴチョウ
平成2年に作られた山車で二重鉾、四つ車、唐破風つきの屋根を持つ囃子台で廻り舞台。
作者は山榮次氏。彫刻は豊田豊氏の作。人形は八幡太郎義家。山車製作当初乗っていた
人形は岩槻の星野人形店の作であったが、平成20年に熊谷の長野屋綱季氏の手により新調。
旧市街へ向かうには線路を越える必要があり、山車製作時には高さ制限がついた。
野田五町とは野田町一丁目、野田町二丁目、田町、東田町、上野田町の合同町名。
この山車が出来る以前から山車を借りてきて川越祭りに参加していたという。その
頃の囃子は豊田本の囃子連が担当していたが、現在の山車になってからは、野田町の
あった旧村名、田面沢村に同じく属していた同市、小室の囃子連が乗り演奏している。
囃子連の詳細は同市、小室囃子連の項を参照。
ミヤシタチョウ
昭和27年の市制30周年記念に作られた山車で、高柳一氏の作。当初、囃子台は
欄間仕立てであった。その後、改造が重ねられ、現在の二重鉾、四つ車、唐破風付きの
屋根を持つ囃子台で廻り舞台の山車となった。人形は日本武尊。初代は磯貝勝之氏の
作で、現在は京都の井筒人形店の作。この山車以前の戦後頃には、馬力(バリキ)と
呼ばれる、馬が引く荷車の上に櫓を組んだ屋台を曳き回していたという。囃子方の
北山田網代囃子連は、その頃から演奏をしていたという。最近では宮下町の子供たちに
囃子を教えているという。会所前の掛け屋台で「子供はやし」として演奏されている。
また、平成18年には、車輪が古くなってきたため、各車輪に1つずつ、万が一の
転倒防止のため、ウマ(つっかえ棒)が付けられた。このウマには小型の車輪も付ける
ことができるようになっており、方向を変えることの多い、町内曳きでは威力を発揮する。
囃子連の詳細は同市、北山田(網代)囃子保存会の項を参照。
平成18年に川越市歴史文化伝承山車の指定を受けた。
ムサシノジチカイ
砂新田地区内の南に位置する自治会で、昭和50年頃に、地元有志の
手作りで山車(屋台)を作成。屋台型の山車(屋台)で四つ車。前輪に舵がつく。
自動車の車台を利用し、製作されたという。演奏は、砂新田囃子保存会で、
川越祭りに併せ、地元、武蔵野地区内を曳き回す。
※写真は武蔵野自治会様所有の写真を御厚意により提供していただきました。
御協力ありがとうございました。
ロッケンマチ
旧十ヵ町以外では、初めて作られた山車で、二重鉾、三つ車、唐破風付きの囃子台で
廻り舞台。明治21年の憲法発布を記念して印藤吉五郎氏によって原型が作られた。
その後、明治35年に唐破風付きの屋根を持つ囃子台になり、昭和35年に廻り舞台へ改造され、
現在の形になった。人形は三番叟で黒三番の面を有す。作者は仲秀英。囃子は、
同市、今福の囃子連が山車製作当初より乗り込み、演奏している。
昭和43年、県指定有形文化財の山車。
サンクボチョウ
同市、石田より山車、囃子連を招いて昭和29年より川越祭りに参加している。
山車は二重鉾、四つ車、唐破風付きの屋根を持つ囃子台を持ち、廻り舞台を擁する。
明治30年(20年との説もある)の作で、作者は不明。人形は源ョ光。
囃子連、山車(屋台)の詳細は同市、石田囃子連の項を参照。
シンメイチョウ
坂戸市横沼より山車(屋台)、囃子連を招いて川越祭りに参加している。
昭和末期〜平成初期頃から続いているという。川越祭りに併せ、町内を曳きまわす。
山車(屋台)は大正頃の作。唐破風付き屋根、廻り舞台付きの屋台型で四つ車。
前輪に梶が付いている。当地へは、囃子台より上をバラしてトラックに積んで
運んでくるのだという。囃子連、山車(屋台)の詳細は坂戸市、横沼囃子連の項を参照。
ミナミトオリマチ
三芳町北永井より山車(屋台)、囃子連を招いて川越祭りに参加している。
平成4年から続いており、北永井から山車(屋台)をトラックに載せ、運んでくる
のだという。この山車(屋台)は昭和28年に製作されたもので、唐破風付き屋根を
持つ屋台型で四つ車。廻り舞台を擁す。南通町での曳き回しの時のみ、山車(屋台)の
上に万灯を立てるという。また、平成19年には新調中の山車の台車部分が完成。
北永井の山車(屋台)の廻り舞台から上を据え付け、お披露目された。製作は森工務店、
車輪製作は横溝木工所。 順次山車完成に向けて製作が続けられる。山車に乗る人形は
雅楽に由来する「納曽利(なそり)」の予定。納曽利の面は完成しており、中田彰輝氏の作。
また、南通町では太鼓山車を保有しており、こちらは昭和49年に浅草宮本太鼓店より
購入とされる。囃子連、山車(屋台)の詳細は三芳町、北永井囃子保存会の項を参照。
地元のデパート、丸広百貨店で製作され、平成2年3月に完成。新店舗で展示される
予定だった山車。展示されないまま仕舞われていたのを市制80周年を記念して、
川越市に寄付。川越市民の山車となった。二重鉾で四つ車、唐破風付きの屋根は後部鉾に
まで届き、川越では珍しい形状となっている。製作は秩父の荒木社寺設計事務所(坂本才一郎氏)。
人形は当初、太田道灌であったが、寄付された段階では猩々となった。猩々の人形は京都の
伊藤久重氏の作。以前の太田道灌は福田久重氏の作で、川越まつり会館で展示されている。
囃子は市内の囃子連が毎年交代で乗り、演奏を行う。
地元のデパート、丸広百貨店で上記の山車と共に平成2年3月に製作された
踊り屋台。山車と共に市制80周年を記念して、平成14年に川越市に寄付された。
唐破風付きの屋根を持つ四つ車の屋台型。製作は秩父の荒木社寺設計事務所
(坂本才一郎氏)。車輪は猩々の山車と同じ意匠となっている。以前、
川越春祭りで出されたが、川越まつりで出されたのは平成17年が初となる。
川越まつり会館の駐車場に飾り置かれ、舞踊などの所作が行われていた。
平成14年に同市、今福の宇津木氏より川越市に寄付された山車。
元川越市囃子連合会会長の方が新井工務店に依頼し製作。彫刻は北澤一京氏による。
クルワマチ
昭和26年、南田島から山車(屋台)ごと囃子連を招き、天神様で囃子が演奏された。
この時は、曳き回しは行われず、天神様での居囃子であったようだ。その後、
昭和30年頃、同市、鴨田より囃子連を山車(屋台)とともに招き、川越祭りで
曳き回しを行った。鴨田から山車(屋台)の囃子台より上の部分を持参し、
郭町のほうにあった、ゴムタイヤの牛車の上に囃子台を据え付け、曳き回した。
ゴムタイヤであったため、砂利道が普通であった当時の道では弾んでしまい、
曳き回しには難があったという。その後は山車の曳き回しは行われていない。
ワキタホンチョウ
昭和53,4年頃に三芳町北永井より、囃子連を山車(屋台)ごと招き、町内曳きを行った。
タイヤの空気圧を低くしても東上線のガードがくぐれず、この年は、町内曳きに留まった。
2年目は北永井のほうで山車(屋台)の屋根を低く改造。それでもギリギリくぐれず、鬼板を外し、
タイヤの空気圧を低くして、ようやくガードを通過。念願の旧市街地へ山車(屋台)を曳きいれた。
市役所、札の辻のほうまで曳き、地元町内まで距離があるため早めに町内へ引き返したと言う。
※写真は昭和54年の祭礼時。屋根が改造されているのが分かる。脇田本町自治会様所有の
写真を御厚意により提供していただきました。御協力ありがとうございました。
カサハタ
地元では、あまり知られていないが、明治頃に山車があったといわれる。
飯能市前田に、この笠幡の山車の一部を流用して作られた山車が現存しており
当時を偲ぶ事が出来る。笠幡の發智庄平様分家所有の山車とされ、諌鼓鳥を
配する鉾型の山車であったようだ。詳細は飯能市、前田囃子保存会の項を参照。
※写真は前田の山車の最上部に組み込まれている、笠幡の山車に乗っていた、
諌鼓鳥と高欄部分。その他、下高欄部分にも当時の彫刻が組み込まれている。
イリクラコウムテン
川越市脇田新町にある入倉工務店で個人的に購入された山車。
千葉県成田市の三和会所有の山車を2008年に購入。
欄間仕立ての囃子台の二重鉾、四つ車。前輪に梶が付く。人形は嵯峨天皇。
地元の祭りの際に何度か展示されていたが、平成22年に越生町新宿の鼓吹連が
演奏を担当し、店舗脇で居囃子が行われた。その際、地元脇田新町の
小若屋台との曳き合わせも実現した。
平成十四年の市制80周年の時に川越市に山車が寄付されたのを記念して
曳き回しが行われた際、市役所に勤務する、市内各囃子連のメンバーを
集め、結成された囃子連。集まった人の中で一番人数の多かった王蔵流に
統一。練習をし、本番に臨んだという。この時は「インバ」までで「ヤタイ」
までは演奏されなかったという。この時、一度きりの幻(?)の囃子連。
川越まつりに参加する山車は、これからも、増えていく傾向にある。