タイトル

川越市

《 大塚新田囃子連 》

山車前

山車の曳行(左写真)と市街地での居囃子(右写真):平成15年撮影
町内曳き 居囃子

大塚新田囃子連の乗る山車:平成17年撮影
山車前 山車後

源頼朝の人形:平成17年撮影
人形 人形アップ

囃子の流派は王蔵流。 発足は詳しくは不明だが、現在の 山車 の原型となる屋台が明治10年頃の 作であるので、この頃には囃子連があったと推定されている。明治初期に 同市中台から分かれた囃子だともいわれるが、中台のものとは違いがあると いう。太鼓類は浅草の宮本卯之助商店から買い入れている。

 山車は先述したが原型となった屋台が明治10年頃の作で作者は同市 大袋新田の宮沢敬次郎氏の手による。これは近年の改修時に囃子台下の 枠組み(台輪)正面の框の裏に記銘がされていたことによる。 彫刻は貫井豊之助。地元のお大尽、7軒でお金を出して作られたもの とされ、7軒で部材を分散して保存していたという。その内、一軒で 火災があり、その家で保存していた部材が焼けてしまったという話も 伝わっている。その後、明治28年には源頼朝の人形が乗せられ、 山車となった。

 唐破風付きの屋根を持つ鉾型の山車で二重鉾。 四つ車。平成9年の曳きまわし時に部材が緩んできたため、平成10年に 大改修をしているが、屋根や台車、車輪などは昔のままだという。改修に あたったのは、野田五町、旭町三丁目を製作し、連雀町の山車の製作にも 関わった高山栄次氏。この時、残った古い部材を利用し、地元の高野氏 の手により平成11年頃トラックに載せる屋台も作られた。 子供たちが多いので重宝しているという。

 山車の曳き回しは2年に一度 だが、地元を引き回したのは昭和23年頃までで国道16号が出来たこと もあり、曳き回しは一時中断された。この頃、川越市内の宮下町へ 山車ごと囃子連が出向き川越まつりに参加したこともあったという。
 昭和25年から56年までは市内の脇田町に山車ごと出向き、川越まつり で演奏を行った。脇田町は昔は広く、今のロジャースの辺りまで 曳きまわしを行ったのだという。その際、西武線の踏切を越えなければ ならず、踏み切り手前で車輪を外し、背の低い台車に乗せ換え、上の高欄を 外して踏切を越えたという。当時は西部線が30分に1本くらいしかなかった ためできた芸当であった。当然越えてからまた車輪と高欄を組みなおして 曳きまわしが続けられたのだ。今ではとても無理な話である。
 10月13日から出向き、その日から演奏を行ったので3日は演奏を した。夜は脇田町で宿を用意してくれていたが、山車の見張り役を 置かねばならず、囃子連の若手が山車で寝泊りをしたものだと伺えた。 いろいろ川越まつりではしきたりがあり、それに添って曳行も行われたと いう。八幡様前ではミヤショウデンを演奏すると決まっていたり、 他町の会所には山車を向け、それまで演奏していた曲とは違う曲に 変えたりといろいろあったという。また脇田町へ行くようになってから 山車の車輪に鉄輪を嵌めた。鉄輪ナシでは車輪が傷むため、 当時脇田町在住の横溝氏に鉄輪を入れてもらった。 その鉄輪は現在もそのまま使われている。
 その内、脇田町で山車を作ったため 山車は持っていかなくなったが脇田町に囃子の伝授を行っていたため、 その後、数年は脇田町の山車に乗り込んで一緒に演奏を行った。 独り立ちしても大丈夫と太鼓判を押してからは乗っていないという。
 それからは地元の曳き回しのみとなったという。曳きまわしは関越道より 市内側で、国道16号を越えない地区内で行われる。

 演奏される、曲目は カゾエウタ、コモリウタ、インバ、カマクラゼメ、カマクラ、ミヤショウデン、ハヤ( ヤタイ)、シチョウメ、ヌキサシがある。宵山では子供中心で 近隣の地区からも人が集まるという。子供たちの育成に力を入れている のがヒシヒシと伝わってきた。曳きまわしでも2つの組に分けて 曳行が行われるという。

会所開きの模様(左写真)、子供達の為に設えたトラック屋台:平成17年撮影
会所開き トラック

灯りの灯った山車の上での演奏と、高欄を下げた山車:平成17年撮影
山車 山車

トラック屋台と山車。:平成17年撮影
トラック 山車
(平成17年取材時)
2007.10.19up

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