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越生町

《 上町囃子連 》

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上町の山車:平成17年撮影
山車前 山車後ろ

豊嶋左衛門尉経泰の人形(左写真)、上町囃子連の演奏(右写真):平成17年撮影
人形 演奏

囃子の流派は神田大橋流。
昭和12年に越生町本町より伝授。それ以前の昭和5,6年頃は現鳩山町熊井の囃子連に 依頼し、演奏してもらっていたとされるが、頼んで来てもらうには費用がかかるので、地元で 囃子を行うことになったという。伝授は越生神社で行われ、練習は越辺川の川っぺり(川辺)の 家の軒下や、裏の不動様で、10人くらい横に並んで、竹を叩き、練習したという。習ったのは 小学生が多く、3,4人しか大人はいなかったという。
 上町には大正8年に、
東京の谷中初音町1丁目と上三崎町より購入した山車 があり、 夏の天王様で曳き回しが行われていた。この山車は、 明治19年に購入先の谷中初音町1丁目と上三崎町両地区の山車として製作された山車で、電線 などの影響で曳きまわしが困難になり、上町に売却されたといわれる山車で、二重高欄、欄間 仕立ての囃子台、最上部に 古川長延の手による豊島左衛門尉経泰の人形 現在は 四つ車だが、購入当初は 三つ車 で鉄輪も嵌められていなかったとされる。前輪は、そんなに 出張ってなかったような気がするということから川越などで見られる三つ車のように囃子台より 前方に長く伸びた轅に前輪が付くタイプではなく、囃子台の真下に前輪が付いている、同町、 黒岩の山車に近いタイプであったか。この三つ車には梶がついていたが、当時、道路は舗装されて おらず、梶を左右に取られ、曳き回しには苦労したようだ。この山車も昭和の初めから昭和10年 まで曳き出されなかったという。ただし昭和御大典(昭和3年)のときには曳き出されたとされ、 祝賀に参加し、祭りに華を添えたようだ。しかし、三つ車のため、安定が悪く、しかも砂利道で 梶を取られ、危険だったため、昭和3年8月に車台より下を地元の大工が改造し、現在の四つ車に なったという。 (この頃と思われる古写真はコチラ)
 戦中は余裕が無く、囃子は中断。戦後初の祭りとなったのは、昭和25年 7月24,25日に行われた、越生線電化記念のお祭りで越生町6町内全部の山車が曳き出された。 全部同時に曳き出されたのは、このお祭りが初であったという。いつ頃かは分からないが昔は、 3町内づつ分けて、山車を出すグループ、余興をやるグループに分かれていたという(上町、 本町、河原町と仲町、黒岩、新宿というグループ分けであったという。)ので、全町内が山車を 出すことはなかったようだ。
 また、祭り初日となる24日に神輿が担がれるのだが、昔の神輿は 今とは違い、暴れ神輿で、担ぎ方も神田祭りのように、みっちりではなく、担ぎ手同士の間には 隙間があった。暴れ神輿なもので、家の塀を壊すこともあったという。高橋(橋の名前)近くの 越辺川に神輿ごと入っていってしまうほど暴れたといわれる。時間も長く、夜の11時頃まで 担いでいたという。ただ、25日に山車を出す町内は、明日がある(朝6時には山車を出す)ので 早く帰りたかったが、他の町内はずっと担ぎ続けて、なかなか終わらなかったと当時を知る方は 語る。翌朝、早朝4,5時にはアサギリ(朝囃子)が行われた。これは現在も行われており、朝、 町内に囃子を響かせている。2日目のこの日は山車の巡行となり、山車が出会うとヒッカワセが 行われた。ヒッカワセは、どちらか勝つまでやったとされ、囃子手の交代はせず、疲れて叩けなく なったり、相手の囃子に引き込まれたら負けとなったとのことだ。「越生の囃子は喧嘩囃子と呼ばれる」 所以である。
 夏の祭礼以外に他地区で演奏したこともあり、 昭和27年には上野松坂屋で催された埼玉芸能コンクール に越生町の各町内が選抜されて出場し。上町からもメンバーが参加、演奏した。 この時、松坂屋の一階ホールには、秩父夜祭の鉾が天井に届かんばかりに飾られていたという。
 戦後の復興も進んだ、昭和30〜40年頃には山車を曳きだす事がなくなり、居囃子になってしまった。 越生町の祭り自体が衰退してきた頃といわれる。危機感を抱いた囃子連では、後継者を育成するため、 昭和45,6年に子供をアイスでつって囃子の後継者育成に努めた。この事が現在に繋がったのだといわれる。
 昭和53年には万度が町内の籠屋さんで新調された。地元の方によると、「かご屋というのは、
江戸フェス
平成16年、江戸フェスティバル展示
屋号のようなもの、「かごやんち」と呼び慣らしていました。竹細工の名職人。何かの折に、 竹細工で万灯をつくり、上町に寄贈してくれたのだと憶えています。その技術の関係で、「わざ」の 博物館と呼ばれている岩槻の民俗文化センターと親しく、使用に耐えなくなっ豊島左衛門尉の人形と 幕一式を一時預けることになったのです。」とのこと。購入当時から幕は純毛で岩の模様が 入っていたという。昔は迫り出しが傷んでいたので、人形は山車に乗せっぱなしで上下させることは なかったとのことであるが、その迫り出しの傷みがいよいよ激しくなり、人形を乗せなくなった のだという。その人形も 昭和63年に岩槻、「清法人形店」の浅見法男氏により修復 され、この年より 山車に乗せるようになったという。迫り出しは、取り払われていたので同町、仲町の山車を手掛けた 長谷竹松氏の意見も参考に 迫り出し を取り付けた。この人形は平成16年に東京で行われた 「江戸フェスティバル」に出展 、東京駅前の丸ビルに展示され(右写真)、好評を得た。
 平成15年には騒音の 問題から発電機からバッテリーに変えたが、他町より暗く、翌年から低騒音型の発電機に変えている。 平成17年は当番町にあたり、 地元に残されていた幟を立てた。 幟杭など当然残っていなかったので、 橋の欄干に特殊な金具で取り付けた。この年には太鼓の新調も行われ、蛇の目の入った太鼓となった。 祭礼後の平成17年8月には、上町に譲られる前に曳かれていた東京谷中の諏方神社例祭にて上町の 山車人形が展示された。諏方神社が、豊島左衛門尉経泰によって創建後、800年目にあたるための 記念行事として行われ、里帰りを果たしたのだ。豊島左衛門尉経泰ご当人も喜ばれたことであろう。 近年、山車の正面につけられていた「はやしれん」の提灯を外し、高張り提灯を竹竿に吊るすなどの 変更が行われた。これにより、古写真にある昔の姿に近い形になった。囃子も平成になってから、 同流派である、飯能の囃子の影響を受け、変化している。越生町には伝わらなかった曲「オカザキ」などが 導入されたのも、その一例。また、本町から新囃子(大橋流)を習う前には旧囃子(若狭流)をやって いたとされることから、一時期、町内に残るジゴトを元に旧囃子を復活させたことがあったが、 演奏できるメンバーが限られており、現在は行っていない。

越生神社の方に向かい、祝詞を上げる(左写真)。:平成17年撮影、
ひっかわせの様子(右写真):平成15年撮影、
祝詞 ひっかわせ

上町囃子連の演奏。:平成18年撮影、
演奏 演奏

下の左写真は、平成の始め頃の写真。後部楽屋と、それを巡る高欄の間には
スペースがあるのでここには子供達が、よく乗り込んでいた。用が無いのは
降りろと怒られたようだが、子供達も何とか太鼓を叩かせてもらおうと、囃子手を
うちわで煽ってあげたり、鉦を叩いたり、役目を見つけて乗り込んだという。
たまに「叩くか?」とバチを渡されることがあるのだというから、子供達も
必死であったという。個人的には小さな子供達が、このスペースに乗っているのは、
微笑ましくて、好きなシーン。右の写真はお孫さんと、おじいさんの共演。
3世代に渡って、いっしょに楽しめるのが祭りの醍醐味。:平成17年撮影
山車後ろ 3世代

2006.11.18up

※地元研究家、K氏には、多大な御協力、御指導頂きました。
御礼申し上げます。

※写真(画像)の無断使用、転載等禁止。

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